贖罪

姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女を石打ちの刑にせよという者に対してイエスは、
あなた方のうち罪を犯したことのない人がまずこの女に石をなげなさい
と言って自分が一番先に石を置いた。
その後続いて石を置いたのは歳のいった者からだった。
そして、全ての人が石を置いた。
(ヨハネ福音(ふくいん)書)



 およそ世の中で、罪を犯したことがない人間はいません。法的なものに限らず、倫理的、道徳的、道義的、社会的な「罪」。

罪を犯したということは、加害者が被害者になんらかの損害を与えてしまったということ。
罪をつぐなうとは、加害者がその損害をできうる限り回復させるということ。



 でも本当は、罪を犯したときに損害を被るのは、被害者だけではないんです。
加害者本人も、目には見えない被害を負ってしまうんです。

それは、罪悪感とか良心の呵責(かしゃく)という名の、こころの傷。

 ひとに損害を与えてしまったり、傷つけてしまったりしたことになかなか気が付かないひとはいます。
けれども、気が付いた後でも平気だというひとはあまりいません。



 小さな罪なら小さな罪悪感ですむので、そんなに大変なことにはならないでしょう。でも大きな罪を犯してしまったり、小さな罪でも積み重なっていけば・・・・・・。

 罪悪感でくる日もくる日も自分を責め続け、ふさぎこんでしまう。もうどうしようもなくなって自暴自棄(じぼうじき)(おちい)る。関係のないひとに八つ当たりをして暴れたり、全ての物事に壁を作って閉じこもり、何事もなかったかのように平気なフリをする。責められると弱いから、攻撃は最大の防御とばかりに、攻撃される前に攻撃する。
自分が悪いことはよくわかっているから、そこに触れられると痛い。
でも、どうすればいいのかわからず、ただ自分を否定する。不安と焦りだけが加速していく中、自分が止められない・・・・・・。

良心の呵責を引きずることで、普通の生活ができなくなってしまう。
罪悪感に囚われたままになってしまうことで、全てを犠牲にしてしまう。
自分の幸せも、まわりの幸せも、被害者やそのまわりのひとの幸せも。



 「贖罪(しょくざい)」とは罪をつぐなうことです。
罪をつぐなうとは、罪を(ゆる)されること。
赦されるとは、罪悪感や良心の呵責から解放されること。
許しを与えるのは被害者やその家族ですが、赦しを与えるのは自分自身、自分の良心なんです。

 被害者に許しを請うたり、「罰」を受けることによって、自分がやってしまったことを自分で認め、自分自身がやってしまった自分を受け入れられるようにしていくこと。そうすることで、自分の中の罪悪感を少しずつ減らしていくこと、それが罪をつぐなうということです。

 加害者が罰を受けたからといって、被害者の損害が回復できるわけではありません。刑務所に入ったからといって、死んだひとが生き返ったりするわけないんです。それでも罪には必ず罰がセットになっているのは、罪を犯してしまったひとが赦され、罪悪感から解放されて日常に戻っていくために「罰」が必要だからなんです。



 法的な罪には法的な罰が用意されています。では道義的・社会的な罪の場合はどうするのでしょう。
罪とか罪悪感とかいうからなんだかとてもカタイ話に聞こえますが、要は
「悪いことしちゃったなぁ」という意識、
後悔の念のことです。日常生活で後悔をしてしまうようなことなんて、いくらでもあるでしょう。

 時間に遅れた、迷惑をかけてしまった、信頼を裏切ってしまった、友達の恋人を奪ってしまった・・・・・・、

 一般的にそれほど大きな罪ではない、あるいはそれが悪いことかどうかすら意見がわかれるようなこと。それでも、自分にとっては大きな ―少なくとも罪悪感を抱えてしまうほどの― 後悔。そんなとき、あらかじめ決められている罰なんてありません。そうすると、自分で自分を罰するしかない。

 また逆の立場でも、「なんでこんなことになってしまったんだろう」という気持ちが強くなりすぎてしまい、迷惑をかけられたのは自分が悪いからだ、裏切られた自分が悪い、奪われてしまった自分が悪いんだと自分を責め、自分を罰するようになるひともいます。



 多くのひとは、「罰」とは被害者が受けてしまった損害の代わりのもの、
ただ加害者がダメージを受ければいいんだと思っています。
罰を受けるひと自身もそう思い込んでいる。だから、ただ自分を否定し、とにかく自分にダメージを与えようとする。それが先ほどの、自暴自棄だったり、引きこもりだったりといった、落ち込んでいく自分を止められない状態です。それでは、行き着くところまで行ってしまえば、もう自傷行為や自殺をするしかありません。



 でも、そうじゃあないんです。



 贖罪とは自分と向き合い、自分で自分を受け入れていくことです。罰とは、罪悪感に囚われていた自分を解き放つためのものです。最終的に自分を赦すためのものなんだから、自分を受け入れられるようにしていくための罰でなければ意味がありません。ただ自己否定して自分をいじめても、「罰」にはならないんです。

 「そんなこと言われたって、どうすればいいのかわからない。」
多分、これが正直な感想でしょう。どうすればいいのかわかっていれば、自分をいじめることなんてなかったはずですものね。



 迷惑をかけてしまったひとに何かをしてあげることができるなら、それも1つの方法です。そうじゃない場合は、「奉仕」をすればいいんです。あなたが迷惑をかけてしまったひとは社会の一員なんですから、
社会に与えてしまった損害は社会にうめあわせをすればいいんです。

たとえば、
駐輪場の自転車を整頓(せいとん)する
近所に落ちているゴミを拾ってまわる
学校前の雪かきをする
公園の便所をキレイにする

 誰もがあまりやりたがらないこと、あなたには何の得にもならないこと、でもそこにいるひとたちが気持ちよくなるようなことを、何の見返りもなしに、行う。誰か他のひとではなく、自分のこころが「もういいよ、キミはもう充分やったよ」と言ってくれるまで。社会に返していくことで、社会が受け入れてくれるようになります。社会に受け入れてもらうことで、罪悪感から解放され、日常に帰っていけるようになります。



 そうやって自分自身がきちんと受け入れられるようになったとき、足踏みをやめてまた歩き始めることができるようになるでしょう。