住民投票を間近に控えた1999年8月26日、統合派の選挙キャンペーンが行われた。キャンペーンそのものは平和裏に終わったが、この日の午後、ディリ市の西部・ベコラ地区で、統合派民兵と独立派住民が衝突した。
キャンペーンが終了した午後3時ごろ、ベコラ地区で統合派民兵が独立派の家に放火したとの情報が流れ、内外の報道陣が現場へ駆けつけた。焼け落ちた家を前に、独立派住民達の怒りは頂点に達していた。
まもなく、統合派民兵数十人がピストルや自動小銃を発砲しながら、攻撃を始めた。独立派の活動家達は、これに投石で反撃。何度か前進と後退が繰り返されたが、結局、武力に勝る統合派が独立派の抵抗を蹴散らし、独立派側で取材をしていた報道陣も彼らと一緒に逃げなければならなかった。
私は、数人の独立派活動家と一緒に、両派が対峙していた道路の脇の用水路を超えて、対岸へと走った。幅20メートルほどの用水路は、今は乾季のため、水は枯れている。
対岸から道路を振り返ると、報道陣がいたあたりまで、民兵が到達していた。発砲する民兵を、立ち止まって望遠レンズで撮影していると、こちらへ向けてピストルを数発発砲してきた。そのため、さらに走り、林を抜けたところにある塀を越え、病院の中へ避難した。逃げ遅れたカメラマンが、民兵に銃を向けられているのが見えた。後で聞いた話では3人のジャーナリストが、撃たれて負傷したという。
しばらくすると、治安部隊のものと思われる銃声がバラバラと聞こえ始めた。再び塀を越えて戦闘現場へ引き返そうとしたところ、数人の独立派活動家らしき男たちに出会った。「こっちへ来てくれと」いう彼らに引っ張られるようにして、林の中から道路へと出た。
さっきまで交戦が行われていたあたりでは、数十人の治安部隊が展開していて、報道陣の姿は見えなくなっていた。私以外の報道陣は、治安部隊の後方に追いやられたようだ。治安部隊とは反対の方向へ200メートルほど歩くと、地面に血痕が残っていた。
「仲間が殺された」口々に叫ぶ男たちに引っ張られるように、ある民家へと案内された。そこでは、ちょうど後頭部を撃ち抜かれた独立派の青年の死体を家に運び込んでいるところだった。彼の母親は、泣き叫び半狂乱になっている。
その写真を撮り終えて、家の前の道路へ出てみると、黒いシャツを着た民兵らしき2人の男が血まみれで倒れていた。車の横に倒れている男はすでに絶命しているようだったが、もう一人はまだ手足を動かしてもがいていた。独立派を襲撃して返り討ちにあったようだ。
独立派の若者が一抱えはある石を持ち上げると、もがいている民兵の頭をめがけて投げつけた。さらにその石で、顔面を何度も強打し、最後に喉にナイフが突き立てられた。
だが、こうした独立派による反撃はあくまでも例外中の例外だ。投票結果の発表後に始まった民兵の攻撃では、多数の独立派の住民たちが一方的に殺害されている。9月6日現在、ディリ市内は統合派に支配され、武器を持った民兵が我が物顔で歩き回っている。彼らは、外国人ジャーナリストも標的にしていて、彼らが独立派を襲っている現場を取材することは不可能に近い。
東ティモールでは、1975年のインドネシアによる武力併合以来、20万人以上の人々が殺されたといわれている。昨年になってようやく国連が重い腰を上げ、住民投票で民意を問うという独立への道筋がつけられた。
だが、状況は武力併合された24年前に逆戻りしたといってもいい。多くの東ティモール人が、殺されている。24年前の誤った政治のつけを払わされるのは、いつの時代も名も無き民衆たちだ。(1999年9月、フライデー)

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