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私の人生記(前編)

私の人生記(後編

仏印進駐の想い出

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

yamachu1

水産統計と漁業管理

私の人生記  (前編)

― 水産統計と漁業管理の道を歩いてー

山 本  忠

yamachu@tkb.att.ne.jp

(Online 版 編集責任 真道重明 2003/11/19.)



これは「はしがき」で述べられている通り、私(真道重明)の学校(水産講習所、現東京海洋大学)の先輩である山本 忠 (やまもと・ただし)氏が 「私の人生記」 、副題を 「水産統計と漁業管理の道を歩いて」 と題して、中学校の同窓会誌に纏められたものの再録である。同氏に請うて此処での再録に快諾を得た。
忘れ去られようとしている日本の漁業統計や漁業管理の既往の経緯についての話が数多く語られて居り、勅任官の徳久三種、お世話になった伊東正義、杉浦保吉、鈴木善幸、その他昔良く耳にした人々の名前が随所に出て来て、我々年配のOBの多くが往時を想い出す「よすが」となる。現役の方々は勿論のこと、とりわけ今の若い人々にとっては貴重な参考になると思う。


目 次

はしがき
1.
幼少期と小学生時代
2.
開成中学時代(昭和5−8年)
水産講習所の学生時代(昭和9−13年)
  (1)
まえがき
  (2)
蒼鷹丸乗船記 (昭和10年)
  (3)魚類分類学は水産学に役立つか?
  (4)
弁論部と鈴木善幸
  (5)
卒業式のこと
4.
戦前の農林省時代
  (1)
役人への道
  (2)
当時の農林省
  (3)
当時の水産局の構成
     1.
漁政課の仕事
     2.
海洋漁業課の仕事
     3.
水産課の仕事
  (4)
役人の位(クライ)と制度
  (5)
日本の漁業制度の変遷
  (6)
明治漁業法に基づく漁業制度の概要
  (7)
漁政課の沿岸漁業係は何をしていたか?
     1.
専用漁業権の免許期間の延長
     2.始めての出張
  (8)
沿岸漁業係りの想い出

   

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はしがき

昨年(2000年)の秋に昭十会(中学時代のクラス会)の月例会があるというので、久しぶりに出かけたところ級友の塙君から「山本は級友200人の中でも水産統計という大変に珍しい分野を手がけ、齢80にもなるのにまだその分野をやっているので、そのような話を書かないか」といわれたのが、本稿を書くキッカケとなった。他方、私自身も今までに、多数の文献や資料を書いてきているが、それらは断片的であるので、私の一生を見渡して総体として何をしてきたかを纏めておきたいと思っていたので、喜んで塙君の勧告をお受けすることとした。
以下、年代をおってまとめてみたい。


 

1. 幼少期と小学生時代

私は、大正7年2月1日、当時の小石川区大塚仲町で父山本祥吉の長男として生まれた。その後家族は池袋の堀ノ内に転居し、家が少し高台にあったために、晴れた日にはよく富士山が見えた。まだ、そのころは池袋は東京の郊外で、省線(今の国鉄)の山手線の外側を一寸と歩けば麦畑であった。

不幸なことに、大正10年12月に私の生母が私の次男を生んだ時に産褥熱のために、生まれたばかりの次男と共に死亡した。その頃は、まだ自動車がなかったので、二頭立ての馬車で野辺の葬送をしたことを今でも覚えている。ペニシリンといった抗生物質のない頃のことであった。その後、父は生母の次女と再婚し、継母は3人の妹を生んだが、私は継母の子どもと分け隔てなく育てられた。

大正12年9月1日の関東大震災の時は、火災を免れた池袋にいたので、夜となると市内の方向の空が真っ赤に輝き、多数の被災した人が家財を背負って避難してきたのを、ありありと覚えている。神戸の大震災につては、今でも時々新聞紙上で論議されるが、75年も前の関東大震災が話題になることは極めて稀となった。被害の規模からみれば、関東大震災は神戸の震災とくらべれば比較にならない程大きかったのだが。

早生まれで、池袋の時習小学校に入学したが、大正15年12月に父が水産講習所の在外研究生を命ぜられて New York のコロンビア大学に派遣されたこと等もあって、本籍の広島市に両親の祖父母が広島に住んでいたこともあって、小学校は東京と広島の間を4回も転校する羽目になり、最後は本郷の千駄木小学校で卒業した。さらに、広島が本籍であったこともあり、20歳代を軍務で広島で過ごしたので、広島はいまでも私の故郷である。

 

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2. 開成中学時代 (昭和5 - 8年)

(1)中学時代の回想

この当時の小学生の志望中学は、東京高等師範の付属中学か、たった九つしかない府立中学のどれかに合格することが月謝が安く、親に孝行することになっていた。住んでいた本郷からもっとも近い府立五中を受験したが、合格しなかった。府立に続く私立の有名中学は、開成と麻布であったので、家から近い開成中学を受験し、私の記憶に間違いなければ受験序列18番で合格した。

開成中学についての思い出は尽きないが、運動神経のあまり無い私にとって最も辛かったのは体操の「逆立ち」であった。比較的辛抱強いのが私の性格だったので、毎年春に行われる全校生徒参加の東京の巣鴨駅から埼玉県の大宮までのマラソン (通称 大宮マラソン) では、たしか3年生のときに18番で、メダルと三省堂の英和辞書をもらった。色々な先生の個性のある講義のなかで、「QP」という仇名の先生の英文法の講義は素晴らしく、後日の私のライフワークとなった国際的仕事に役立ち今でも感謝している。私が後日永年勤務した国連のFAOのようなところでは、いくら英語が上手にしゃべれても、やったことを英語で報告書にしなければ、実績にならない。その意味で、国際的な仕事に従事する場合は英作文の能力は極めて不可欠である。

話題は変わるが、開成時代の大変に変わった思い出を一つ述べておこう。たしか2年生のときの、動物学の森先生 (仇名ジェンジェン) の講義中に、ある生徒が「先生、夕べ私のお父さんとお母さんがかさなって何かやっていましたが、あれは何をしてたのですか?」と聞いた。すると、森先生は寸をすかさず、「それは、つるんでるのだよ」と答えた。あっという間の瞬間で、それ以上の森先生とその生徒とのヤリトリはなかった。本当なら、続いて「つるんでるとはどういう意味ですかと」いう質問があるべきであったと思ったのだが。森先生はその後暫くして急逝された。

私は、昭和9年に、開成中学の4年生で、当時の農林省水産講習所に入学した。にも係わらず、昭和10年卒業の昭十会の会員に入れて頂いているので、開成の同窓会やクラス会にでると何時でも肩身の狭い思いをしている。というのは、当時の開成中学は学年が代わる毎に、前年の全学生を通じた生徒の成績順に、翌年のクラスの生徒の組み替えをしていた。そのために、200人の級友のなかで、一度も同級生にならなかった方がかなりできてしまったのである。

ところで、農林省水産講習所入学については、裏話がある。実は、水産講習所を受験する前に、あまり自信は無かったのだが、第一高等学校を受験したのである。これは見事落第であった。これがバレて、後日、担任の板谷先生に無断で「一高」を志願したといって叱られた。水産講習所を受験したことについては、父がこの学校の卒業生であったために、「家のなかに沢山の水産関係の本や雑誌が転がっていたということ」以外に何ら特別の理由はなかった。試験問題が「一高」にくらべて遥かにやさしかったので、水産講習所に入ってしまったのである。このことが、私の一生の運命を大きく支配することになった。私にとっては「4」という数字は大変にラッキーな数字らしく、中学4年終了、水産講習所の入学試験の序列が4番、入学式の日が4月4日であった。

(2)私の中学時代の環境

父は、当時深川区越中島にあった農林省水産講習所の教授をしていたが、父の専門分野が東大農学部の農芸化学との交流が深かったこともあり、本郷の千駄木町に住んでいた。近所には江戸城を造営した大田道灌の後裔の大邸宅や、後日東京都知事になった東龍太郎の家、「我が輩は猫である」を書いた夏目漱石の旧宅、わが家の隣は、原子物理の泰斗仁科芳雄の愛弟子の杉浦義勝さんの家であった。

杉浦さんは本郷かご町にあった理科学研究所に勤務しておられた。終戦の直前には、理科学研究所には実験用の小型原子炉があったとされるが、その原子炉は戦後進駐軍に破壊されたと聞いている。杉浦さんは世界でも比を見ない優れた原子学者と評価されていたが、戦後数年にして他界された。戦争がもう少し続いていたら日本でも原子爆弾を製造していたかも知れない。非常に気さくな方で、私を可愛がってくれ、奥多摩の山歩き等に連れていってくれた。

私はこんな環境の中で育ったので、おぼろげながらも、何れは文科系よりも理科系に進もうと考えていた。父は明治末期の水産講習所の卒業生であったから、専門学校の卒業では、世の中に出た時に何かと出世が遅いということをよく知っていた筈なのだが、私の進学については何も指導してくれなかったのは今でも残念に思っている。

父はその終生の大半を「かつを節の味」の研究に没頭した。水産講習所の卒業生で東大から農学博士の学位をとった第1号であることを常に自慢していた。事ほどそれほど生粋の生化学者で自分の研究のことしか考えない人間であった。化学調味料の「味の素」はグルタミン酸ナトリウムという有機化学製品であったが、売り出しの当初は精製が十分でなかったためにメリケン粉のような粉であった。「味の素」会社からの依頼を受けて、「味の素」の結晶化に成功したのは父であった。その成果をみて「味の素」会社から高給で招請されたが、それを辞退した。父の指示で麹町三番町の鈴木「味の素」社長の大邸宅に何度か行かされたことを覚えている。

ことほどそれほど、父は金銭のことには無頓着で、自分の研究に没頭していた。戦前の農林省の高等官は、その現役時代に少なくも100坪程度の敷地と一戸建ての家を建築する資金の貸付制度があったにも係わらず、父は役人を退職するまで貸し家暮らしに終始した。そのために、戦後に戦災で住宅事情が極度に悪くなって、私どもの住む家に苦労することになった。このような父の性格は、父と私の専門分野は全く違ったが、私の一生のライフ・ワークに大きな影響を与えた。

 

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3. 水産講習所の学生時代(昭和9−13年)

(1) まえがき

私の在学中(1934−38)の水産講習所は、農林省の所管の4年制の専門学校で、漁労学科、製造学科、養殖学科の3学科で構成され、校舎は現在の江東区越中島にあった。漁労学科は近視の応募者を応募させなかった。父が製造学科の卒業であったので、特にこれという目的意識もなく養殖学科の学生となった。水産講習所は、戦後文部省の所管となり、現在は東京水産大学となっている。

当時の教育内容は、3学科を通じて語学、物理、化学、動物学などの基礎科目と、各学科に相応した専門科目に大別されていた。基礎科目の教育内容は、欧米からの流れを汲んでいたので一応体系をなしていたが、専門科目の教育内容は、現在のように水産科学が進歩していなかったので、実習を主体としており、科学的な内容のある水産学の講義は殆どなかった。また、教えられる内容も、現在のような国際交流の無かった時代であったから、日本の現況にとどまっていた。

上級生になるにしたがって、実習・見学旅行が増え、静岡県の吉田実習場、千葉県の小湊実験場、山梨県の大泉実習場などに行くときは、学生にも出張命令が出て、それ相当の出張旅費が支給された。多くの学生は、親にはこのことを内緒にして、出張実習があるといって余分の費用を親からもらっていたので、学生生活をゆたかにしたものである。ちなみに、私の父は私が水産講習所に入学する直前に、当時新設された農林省中央水産試験場(現在の水産庁中央水産研究所の前身)に配置転換されていたので、この制度を知らなかったようである。この学生に対す出張旅費制度は、私の前後の先輩、後輩に聞いたところでは、私の在学中の数年間であったようである。

(2) 思い出の1:蒼鷹丸乗船記 (昭和10年)

私の水産講習所在学中の最も大きな収穫は、2年生の夏休みを利用して、中央水産試験場の調査船 蒼鷹丸に乗せてもらい、北西太平洋とオホツク海を月余におよぶ航海をしたことであった。このアイデアは、私が20人の養殖学科同級生に「養殖学科の学生でも乗船実習があってもよいではないか」と提案したことに始まり、当時の養殖学科長をしていた中井信隆先生の支援で実現したものである。

国段階の水産教育機関である水産講習所の創設は明治中期で極めて古い。しかし、中央政府である農林省による国段階での水産の研究は昭和初期に水産講習所に試験部が創設され、それが昭和9年に農林省中央水産試験場として独立したことによって始まる。したがって、昭和10年は国レベルの水産研究の草創期であった。

当時中央水産試験場の海洋部主任技師は宇田道隆氏で、同氏の提唱による北太平洋一斉横断観測計画が進められていた。この観測計画は、日本列島の太平洋側沖合いを、赤道周辺からフィリッピン、台湾、沖縄列島に沿って北上する黒潮暖流と、カムチャッカ半島の東岸から千島列島に沿って南下する親潮寒流の日本列島沖合いにおける海況を調べようとする画期的な海洋調査であった。この調査の主な目的は、北上する黒潮暖流と南下する親潮寒流が相互にぶつかり合う海域に
「潮目」が発生し、その潮目の南北両側にそれぞれ暖流系と寒流系の魚群密度の高い好漁場が形成される。北太平洋一斉観測計画はこの「潮目」調査を主眼とし、それは宇田道隆先生のライフワークでもあった。

このような大規模の北太平洋一斉横断観測は中央水産試験場の試験船 蒼鷹丸のみでは不可能なので、太平洋側の各県の水産試験場の試験船を総動員して行う前代未聞の画期的な海洋調査であった。調査の綜合計画は中央水産試験場で作成され、各県の水産試験船は、親潮もしくは黒潮水塊の断面の水温や塩分の分布が分かるように観測ラインが与えられた。すなわち、茨城県以北の水産試験船はいずれもそれぞれの県から真東に、千葉、東京、神奈川の試験船はそれぞれの県から東南方向に、静岡より西の県の試験船はそれぞれの県から真南に観測ラインが与えられ、与えられた観測ラインにそって、一定間隔毎(たしか30マイル)に観測点が定められ、各県の試験船は定められた期日に一斉に出港し、各観測点で定められた水深(水面、20、50、100、200、300、500メートル)の水温と塩分測定のための採水、透明度の測定を行うように計画された。

中央水産試験場の試験船、蒼鷹丸は、各県の試験船の観測ラインを補完するように定められ、千葉県南端の野島崎から釧路の真南まで東進し、そこから釧路に向かって北上し、さらに釧路から真東に100マイルくらい東進し、そこから北西に千島列島の択捉(エトロフ)島の単冠湾(ヒトカップ湾)に進み、単冠湾からは再び真東に100マイルくらい東進し、そこから北西に千島の北端の占守島とカムチャッカ半島の南端との間の千島海峡に向かい、そこで1日間の潮流観測を実施し、幌筵(ホロムシロ)島の幌筵湾に入港、その後オホツク海を樺太の南端に向かって横断観測し、その後、択捉島と得撫(ウルップ)島との間の海峡から太平洋に出て釧路に入港するように計画されていた。

私の級友20名のすべては上記のような綜合観測計画の一環の中でいづれかの県の試験船に乗船し、私と級友 内田守雄君とは中央水試の蒼鷹丸に乗船することになった。正確な乗船期日を記憶していないが、我々の蒼鷹丸は昭和10年の7月下旬に東京の月島を出港し、館山湾で羅針盤の調整を行い、すでに述べたように、釧路、択捉島、幌筵島を経て再び釧路に帰港するまで略月余の航海を終えて釧路で下船し、北海道内を見学し、東京に帰ったのは8月の末であった。この航海は
私の一生で掛替えのない多くの貴重な経験を得た。

この航海で得た第一の知見は、「海が時化(シケ)であるか凪(ナギ)であるかは、その海域に存在する低気圧の有無に鋭敏に影響を受ける」という事であった。航行中の海域に低気圧が存在するときは当然その海域は時化ているが、たとえ航行している海域の天候はよくても、その海域に近いところに低気圧があると、その航行海域の海況は時化るということである。逆の言い方をすれば、天気がよくても、海が時化ていれば、その近くに低気圧が存在すると言う事になる。

低気圧が近づくと、日本の海岸では見られないような高波が発生する。波の山と山との幅が100M、200Mとなることは珍しくない。このような高波に遭遇すると船の長さが100メートルにも満たない蒼鷹丸は、波の山に乗り上げたかと思うと、瞬時に波底に下降することの連続となる。このような高波は、千葉県の館山湾を出て、北海道の釧路港に入港する前日まで殆ど毎日続いた。このような大揺れが数日続くと、体の平衡感覚が自然にそれに馴化するのか、釧路に上陸して道路を歩いた時に、道路があたかも船のように揺れるように感じた。私は比較的船酔いに強い方であ
ったが、同乗した内田君は船酔いのため釧路に到着するまで一度も食事をとることが出来なかった。

蒼鷹丸が釧路に近づくと、船の揺れは無くなったが、海は私の経験もしたことの無いような濃霧状態となり、甲板にでると1メートル先も見えない状態になった。他の船との衝突を避けるために、数秒おきにポーポーという霧笛を鳴らして航行するようになった。釧路港に近づくと釧路灯台の霧笛が物悲しく聞こえるようになった。このような濃霧は南からの暖かい風が冷たい寒流の上を吹くことのために発生する。釧路を出港してから、蒼鷹丸は太平洋をさらに北進し、海は比較的凪となった。釧路沖合程ではないが時々濃霧に遭遇した。

この航海では、海洋生物についての多くの知見を海という現実の場でみることができた。蒼鷹丸が釧路に向かって北上する航路上で予め定められた観測点に到達するごとに、すでに述べたような海洋観測がおこなわれ、私は出来るだけそのお手伝いをした。昼間の航行中は、しばしば鯨が親子で遊泳しているのを目視することができた。また、カジキマグロがあの大きな背鰭を水面に出して遊泳するのは誠に勇壮であり、まさに海の荒武者と感じた。蒼鷹丸の乗組員には、房州(千葉県)出身で突棒(ツキンボー)の経験者が多く、しばしば船の舳先に立って突棒でカジキを獲ろうとしたが、カジキの遊泳速度が蒼鷹丸のスピードより速いことと、カジキが急に遊泳方向を変えたとき、蒼鷹丸の転進が遅いために、一匹も捕獲できなかった。他方、航行中にマンボウにも度々遭遇した。この魚は図体の割合に鰭が小さいので、遊泳しているというよりも、水面近くを潮流に任せて浮遊しているので、船の航行を止めて、柄のついた手鍵で容易に漁獲できた。

試食してみようということで、一尾を調理したところ、胃袋の中はクラゲで一杯であり、腸には人間の回虫に似た回虫を多数見ることが出来た。食べているものがクラゲであることから、肉質もベラベラで味もスッパもないものであった。
釧路に向かって北上した航海中の最も大きな収穫は、サンマが産卵回遊のために親潮に乗って南下する実態を私の目で実見出来たことであった。夜間に海洋観測は観測点に到達すると、観測作業を容易にするために舷側から突出した棒に吊るした船の灯火が集魚灯となり、無数のサンマが舷側に集まり、北上するにしたがってその密度は増加した。観測のお手伝いをすると同時に、タモ網でサンマを掬い、新鮮なサンマを賞味することが出来た。釧路から、択捉島までの航海でも観測の都度サンマの南下を見る事ができ、サンマが北西太平洋を広汎にわたって夏から秋にかけて南下することが分かった。

択捉島の単冠湾に入港した時に見た湾内の水産資源はサンマとは別の意味で印象的だった。停泊した蒼鷹丸の周囲の海底は船のどちらをみても昆布の森であった。誰もこの昆布を採る人がいないのである。船員が船から釣りを試みたところ、ソイという魚とベニザケがとれた。択捉島の単冠湾周辺海域は日本で唯一つのベニザケの生息水域なのである。刺し身で食べようという船員もいたが、寄生虫の恐れがあるというので、照焼きにして賞味した。

官設駅逓所から馬を借りて、宇田先生以下の観測員と瀬石(アイヌ語で温泉の意)という温泉に行った。途中、前述のベニザケの溯上する湖をみることができた。ベニザケは産卵のために溯上した川の上流に湖がないと棲息しない。日本では、溯上先の川の上流に湖があるのはここだけである。

ここで、官設駅逓所について説明しておこう。北海道は、松前藩の名前で知られるように、幕府時代には北海道の玄関口の函館を中心とした地域しか開発されていなかった。官設駅逓所は明治政府が北海道の全域を開発するために創設した制度の一つである。道内には今のような鉄道もないときのころである。官設駅逓所は、旅人の宿を兼ね、郵便局を兼ね、旅人の旅行手段としての馬を貸すことを業務として、政府がつくった施設であるから官設という名が付けられている。北海道に鉄道網が拡大するにしたがって官設駅逓所は次第に消滅していったが、鉄道の無い国後島と択捉島には、我々が訪れた昭和10年でもまだ存在していたのである。
旅人が馬を借りるといっても、旅人は道を知らないので、旅人だけでは旅行できない。

その上、馬は大変賢い動物であるので、その馬に乗っている人がその馬が知らない人であると、自分の馬屋(ねぐら)に帰ろうとする習性がある。そこで、旅人が官設駅逓所から馬を借りると、駅逓所の馬係が旅人の馬の先頭にたって、目的地まで誘導してくれるようになっていた。それでも、旅人の乗った馬は自分のネグラに帰ろうとすることがしばしばおこる。そのときは、馬係に「オーイ」と怒鳴ると、馬係が引き返して、帰ろうとする馬をよびもどしてくれる。私はこのような経験を農林省水産局の出張で国後島にいったときも経験している。

話が脱線したが、この単冠湾が後日に、太平洋戦争の勃発時の日本海軍のハワイ攻撃の進撃基地となったとは夢にも思わなかった。因みに、単冠湾の湾奥の部落は官設駅逓所を中心として数戸の民家があるだけの寒村であった。これは、当時択捉島の中心が同島の北側の沙里にあったためであろう。

択捉島を出港して、次に停泊したのは占守島の北端とカムチャッカ半島の南端の間の千島海峡であった。蒼鷹丸は、この海峡の潮流の流れの方向と流速を調査するために海峡の中央部でやや占守島寄りに24時間投錨した。私は、この潮流観測よりも、始めてみる赤い国、ソ連領を見て興奮した。しかし、初めてみるカムチャッカ半島の南端は見渡すかぎり崖続きで人家らしきものは見られなかった。観測期間中に一回だけソ連の船舶が通過したが、何事もなかった。僅か24時間の停泊時間であったが、千島海峡の資源の豊富さに驚かされた。

潮流観測は、潮流計を船の舷側に垂下固定すれば、潮流計が潮流の方向と流速のすべてを記録してくれるので、殆ど何もする事が無い。乗組員は予め知っていたのか知らなかったのかを聞くことを忘れたが、予め用意してあったカニ篭と深海用の釣り具を船倉から出して漁獲を試みた。

カニ篭の内部に我々の食べのこしの屑をしかけて海底に降ろしたところ、30分もしない間に、カニ篭に溢れれように多量の花咲カニがかかり、これを何度か繰り返すうちにデッキはカニの山となった。これを沸騰した湯に浸けて食べたところ、美味いことこの上無しで、私の一生で、こんなにあの美味い花咲カニをタラフク食べた事はない。花咲カニは人によってはタラバカニ(King Crab)よりも美味いといわれている。

他方、乗組員の指導で深海一本釣りを試みたところ、これもこんなに釣れてよいかと思うほどスケトウダラが釣れた。適当な餌をつけた錘付きの釣り糸を海中に投下し、手触りで錘が海底に到達した事を知ったら、海底から10mくらい引き上げると殆ど間髪を入れずに鈍い魚の食いつく手触りがある。

ここで分かったことは、同じタラ類でもマダラは完全な底魚であるが、スケソウダラは中層魚であるということを、私の身を持って体験した。蒼鷹丸は24時間の潮流観測を終わって、占守島の南にある幌筵島の北端と占守島の南端の中間の幌筵湾に投錨した。ここでも、私の一生で得難いもう一つの水産資源についての体験をすることができた。

その第一は、蒼鷹丸の投錨した位置で舷側から海底を眺めると、海底の砂が見えない程にカレイがいることであった。この状態は、蒼鷹丸の左舷から見ても、右舷から見ても、また船の舳先からみても、艫(とも)からみても全く同じでであった。デッキから釣り糸をどっちに投げても、たちどころにカレイが勢いよく食いついてくるのである。投錨した湾の側に小さな小川があった。乗組員から、サケの溯上が見られるかもしれないと言われて、船から「ヤス」を借りてその川を上流に向かって歩いたところ、これまたサケの産卵溯上の盛期であったのか、サケが群をなして産卵溯上するのを実見することが出来た。この小川は上流に湖が無いので、多分シロザケであったと思われる。多分こんなことをしては違法であったかもしれないが、持参の「ヤ
ス」を一つの溯上群に向かって投げたところ、雌サケに命中して、サケの腹から見事に完熟した卵が流出たのをみることができた。

魚の話ではないが、投錨した幌筵湾の背後の丘に無数の朽ち果てた木の墓標があった。近かずいてみると、北千島はかなり前からサケの漁場で、夏場の間に本土から季節労働者が来て「塩サケ」を生産していたようである。その当時は、ビタミンBの欠乏により脚気になることがわかっていなかったので、多くの労働者がこの地で脚気で死亡したとのことであった。

この航海には、中央水試の宇田道隆さんがリーダーとして乗船されたことが動機で、海洋調査についての多くの実地に基づく薫陶を頂き、その縁で宇田先生が亡くなられるまで交友を深めることになった。当時の初代蒼鷹丸は、中央水試の調査船といても、わずか200トンという小型船で、時化のときに観測点に到達すると、船体は覆らんばかりに揺れるその中で、宇田先生は船酔いのために、口からゲロをだしながらも、歯を食いしばって観測を指導された。先生は「潮目」についての研究に一生を奉げられたといっても過言でなく、この航海を通じて凪の日も時化の日も目視で潮目を観測しておられた。

また、この航海では大型船(といっても200トン)の一般的な運行方法について船長、機関長、無線長、ボースンなどから習得することができ、船が一定のコースに乗ると、あの大きなホイールの操舵までさせてもらった。また、船長の最も重要な責任は、出港、入港、狭い海峡の通過にあたっての航行の安全を期することであることを知った。

 

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(2) 思い出の2 :魚類分類学は水産業に役にたつか?

養殖学科2年生の時に松原喜代松先生の魚類分類学の講義があった。先生の最初の講義で、「東京の築地魚市場で日常取引きされる魚の種類は約3000種ある。魚類はサメ・エイのような軟骨類とタイ・ヒラメのような硬骨類に分かれ、講義は軟骨類から始める」との御託宣と共に、軟骨魚類の講義から始まった。ところが、先生の講義はその年の12月になってもまだ軟骨類のサメの講義が終わらないので、硬骨類の講義は何時から始まるかでイライラしたのはクラスの中で私だけではなかった。

分類学は、新しい種(Species)を発見すると、その魚種の学名の最後にその魚種の発見者の名前が附記され、その魚種の学名は未来永劫に世界レベルで登録されることになっている。その意味で、世界の分類学者は新種の発見に興味をもっている。後日になって分かったことであるが、松原先生は、当時サメ類の分類では日本の泰斗になっておられ、それによって学位をとられ、その上水産講習所の助教授に新任されたばかりであった。我々のクラスは先生が講義をする最初のクラスであったのである。これらのことを考えると、先生は大変な張り切り方であったから、先生の講義が1学年を終わろうとしているのに、まだサメの講義が終わらなかったのは当然であったともいえよう。

それでなくても、分類学の講義は面白くない。分類学上の種の検索表があって、種Aと種Bとの違いを区別するのに、背鰭のスパイン(骨)が、Aは6本、Bは10本というがごとき講義の連続なのである。魚種ごとにその地理的分布や、産業的な重要性の講義が付加されていればまだ面白いが、松原先生の講義にはそれが無いのである。12月になって、私のクラスメートはスッカリ業(ゴウ)を煮やして、授業の始まる前にクラスを代表して私に「魚の分類学は水産業の発展にどう役立ちますか」を聞け、ということになった。勿論、私はこれを実行したのであるが、先生からは何らの回答もなかった。その時に先生は何ら顔色をかえることも無く何時ものように魚の分類学の講義を続けられた。

ところが、その年の学年末の松原先生の試験問題は、「魚の分類学は水産業の発展にどう役立つか」というタッタ一題だけであった。当時の筆記試験の多くは、参考書は何をもってきてもよいということであったので、私は幸いにある著名な学者の書いた「動物学」の参考書をもちこんでおり、その本の緒言のようなところに、ほぼそれに相応する説明があったので、それを略丸写しした。他のクラスメートがどう答えたかは聞かなかったが、試験の終わって、一同「ヤラレタ」と大変に苦笑いしたものである。

私が魚類の分類が水産業に重要な事を知ったのは戦争が終わって、日本が占領下におかれてからである。日本は第二次世界大戦に敗北し、日本の国土は連合軍で構成された占領軍司令部(GHQ)の管轄下に置かれた。連合軍といっても、アメリカが実質的な指導権を握っていたので、日本への占領政策はアメリカ流の政策に大きく影響された。アメリカでは、漁業の対象である魚は生物であるから再生産の可能な天然資源であるので、魚資源の大きさを減らないように適正に漁獲しようとする理念の強い国である。

魚は魚種別に再生産が行われているのであるから、漁獲される魚の魚種を明確に識別し、そのような魚種ごとに漁獲量の統計が必要である。このような意味で、魚の分類が重要なことが本当にわかった。魚の資源変動を測定するためには明確に識別された「種」ごとに行わなければ意味が無いからである。

その後、松原先生は京都大学の農学部に水産学科が設置されたときに、京都大学教授に栄転され、後日私が論文による学位の申請にあたり大変にお世話になった。運命は全く皮肉なものである。

 

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(3)思い出の3: 弁論部と鈴木善幸

自分のことを言うのは嫌だが、私は生まれた時から自分は熱血漢だとうぬぼれていた。水産講習所に入学後に弁論部というのがあるのを知って、柔道部の外に弁論部にも入った。そこには後日岩手県から立候補して代議士になり、最終的には総理大臣にまでなった鈴木善幸さんが私の2年先輩でいた。学校の教室の中で、3学科の学生が共通の講義を聴く大教室があって、月1回の割合で弁論大会をひらいていた。善幸さんは岩手県三陸沿岸の漁村出身であるため、弁論の演題はいつでも漁民問題か漁村問題であった。彼の弁論の始りは、演題の如何に係わらず、いつでも口癖のように「わが300万漁民は云々…」であったのを今でも覚えている。彼の演説は、漁村の現場で肌で感じた当時の漁民の貧しさと漁村の窮状を訴えた内容であった。

思えば、戦後総理大臣になった人の多くは学生時代に弁論部に所属した人が多い。卑近な例が、現在の総理大臣森喜朗は早稲田大学の弁論部に所属していたし、その前任者小淵恵三も同大学弁論部の出身である。善幸さんは水産講習所を卒業して、直ちに大日本水産会の会長の秘書になり、その後全国漁業協同組連合会の成立ともに同会に移り漁村運動に参画し、それが動機で代議士に立候補したのが縁で、最終的に総理大臣となった。
ところで、ここで論じたいのは、善幸さんの口癖の「300万漁民」である。水産講習所の弁論部で善幸さんが「300万漁民」と叫んでいた時は、「300万漁民」はずいぶんゴロのよい言葉だなぐらいにしか思っていなかった。ところが、戦後私が農林省で水産統計に特化するようになってから、漁業者数の統計にも触れるようにになった。1960年ころの漁業センサスによる全国の漁業者数はたしか60万人を超えていたが、それ以後の漁村における労働力の都市移動と漁業労働の省力化にともない漁業者数は毎年減少し、1998年の漁業センサスによれば全国の漁業者数は30万を割っている。

水産統計が整備したのは戦後であるから、戦前には漁業者数の統計はない。そのような水産統計の無い頃に善幸さんが300万漁民といっていたのは何を根拠にしていたのか、不思議でならない。いずれにしても、我々が水産講習所に在校中の1935年ころは農村・漁村に多くの潜在失業者がいたことは間違いないが、戦後の漁業者数の統計からみて、戦前に300万人もの漁業者がいたとは思えない。漁家の主婦、子どもを含めた総家族員数(漁業人口)であれば、当時は一世帯あたりの家族数も現在より遥かに多かったので、漁業人口は300万人くらいいたかもしれない。

 

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(4)思い出の4:卒業式のこと

当時、卒業式には漁労学科、製造学科および養殖学科のそれぞれの卒業生の中から成績優秀であった者に大日本水産会総裁賞として銀時計が授与され、それら3人の中の最優秀者が卒業生代表として答辞を読むことになっていた。卒業式の日が近づいて、突然に私に答辞を読むように指示された。私の記憶に間違えがなければ、大日本水産会の総裁は高松の宮殿下であった。銀時計の外に若干の賞金があったので、それは卒業式後の最後のクラス会の費用に寄進し、門前仲町の料亭で乾杯した。時は昭和13年3月で、日中事変が次第に深刻化しつつあったが、まだ世の中は平和時代の名残をとどめていた。

 

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4.戦前の農林省時代

戦前の水産講習所は、農林省所管の4年制の専門学校で、漁労学科、製造学科、養殖学科に分かれ、学生数はそれぞれ35人、30人、20人となっていた。卒業の時に各学科から一名あて、優等生が選ばれ、大日本水産会名誉総裁の高松の宮殿下から銀時計を貰った。私は、養殖学科の学生の一人として選ばれ、卒業式では全学生を代表して、答辞を読まされる羽目になった。このように言って、私がことほどそれ程成績が優秀であったことを言おうとしているのではない。当時の水産科学は常識に毛が生えた程度のもので、級友もそれ程までに勉強をしなかったためと言えよう。

(1)役人への道

卒業が近づくと、各学科の科長をしている主任教授は、卒業生の就職先を成績と人物に応じてよく面倒をみてくれた。漁労学科と製造学科の卒業生は、水産業界への就職が多く、養殖学科の卒業生の就職先は、水産関係の行政機関もしくは水産研究機関が多かった。私は、その当時の養殖学科長の中井信隆教授がなかなかのやり手で、水産講習所の卒業生を一人でも多く水産行政の中
枢である農林省の水産局に入れようとする基本方針に沿って、「お前は水産局を応募せよ」といわれて、水産局の面接試験を受けることになった。

このころの私の叔父の一人で、盛岡高等農林学校の畜産学科を卒業して、県庁に就職して散々に冷や飯を食った人がいた。この叔父が「忠さん!」、あなたは水産講習所に入ったのはしようがないが、何とかして、東大は受験させてくれないが、東京工業大学か、京都大学に行けと強く勧告してくれたので、東工大を受験した。級友の一人は合格したが、私は数学の受験成績がわるく合格できなかった。それは、開成中学の4年生で水産講習所に入学したので、5年生で習う数学の智識が欠けていたためである。私は、この時以来、私の一生を水産の中で過ごすことになった。

(2)当時の農林省

私が農林省に採用されたのは昭和13年4月であった。当時の農林省は今の千代田区大手町にあり、神田川に沿い、国鉄の神田駅から歩いて行くと、鎌倉橋を渡ったら、その右側にあった。木造総二階で、敷地全体に「曰」の字のように建てられたバラック庁舎で、大正12年の関東大震災直後に建てられ、築後15年も経っていたから、廊下を歩けばミシミシいう程になっていた。農林省は、その後、農林水産省と名前を変え、現在は千代田区霞ヶ関に8階建のビルを構えている。戦前の農林省のバラック庁舎の床面積は、現在の農水省の床面積の20%位であったから、当時の農林省は職員の数からみても極めて小さな省であったといえよう。

地方の水産行政も、当時の県庁は現在のように独立の水産課は殆ど無く、多くの県では商工水産課で行われていた。この理由は、農林水産業の行政は、かつては農商務省の所管であったためである。これは、日本が明治政府の創立とともに、鎖国による近代化の遅れを取り戻すために、多くの調査団をヨーロッパ諸国に派遣して、欧米諸国の行政組織を模倣したことによるものと思われる。その卑近な例は、主として英国民でつくられた米国の行政機構のなかで、水産行政は今でも「商務省」の所管となっている。農業は独立の農務省があるのにも係わらず…である。

農林省に入ったばかりのチンピラが、農林省全体の機構を知るよしもなかったが、今でも私の記憶に明確に残っていることは、農林省に馬政局というのがあって、その局長は陸軍大佐で、毎日従卒を従えて馬で通っていた。中国大陸の戦線が次第に拡大しつつある時代であったから、軍にたいする馬の供給を確保する必要に迫られていたことによるものであろう。

もう一つ、今でも記憶にのこっているのはバラック庁舎の一階に一隅に官房統計課という課があって、水産統計をふくむ部厚い「農林統計年報」を毎年刊行していた。この年報の水産統計をみると、たとえば熊本県でコンブが生産されたとする記録があった。こんな、常識的に誰がみても誤りと思われる「誤り」は、統計が市町村役場から県庁へ、県庁から農林省へ報告される過程で「内容審査」が行われていれば、簡単に除去された筈である。

こんな些細のミスがあると、他の数値はいくらよくても、「全部が駄目」といわれるようになる。こんなことから、水産局の中で、何か当てにならないことが発生すると、「これは丸で農林統計のようだ」という言葉がよく使われていた。私が戦後、不図としたことから水産統計を専攻するようになったのであるが、当時はそんなことになるとは夢にも思わなかった。

現在,当時の農林省の敷地には、日経新聞と経団連会館の立派なビルが建てられているので、当時の農林省を偲ぶ面影はない。ところが、橋梁というものは、震災や戦火に強いもので、当時の鎌倉橋は、橋脚は勿論、車道、歩道、それに手すりの欄間に至るまで当時の面影を完全に残している。今でも、時々この鎌倉橋を渡って全漁連に行く度に、当時を思い出す。なお、神田川に沿う石垣も当時とそのままである。現在では、この神田川のど真ん中を首都高速道路が走っている。

このバラック庁舎は昭和20年3月10日の米軍の東京大空襲により跡形も無く丸焼けとなった。農林省に入って一番に驚いたことは、トイレが二種類あることであった。それは高等官便所と一般便所であった。食堂についても、高等官食堂と、一般食堂とがあった。現在のような共済組合のようなものが理髪室を運営していて、ここだけは、位(クライ)による差別待遇がなく、毎月散髪に行く時はホットしたものである。

 

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(3)当時の水産局の構成

当時の水産局は、漁政課、海洋課、水産課と、私が軍に徴用される直前にできた漁船保険課の四課で構成されていた。水産局は、バラック庁舎の二階で、神田川に面した部屋全体を局長室と漁政課で、宮城側に面した2階に海洋課と水産課があった。以下、各課のあらましを簡単に紹介してみよう。

1. 漁政課の仕事

漁政課は、これらの課の中でも係りの数も職員数も最も大きく、人事予算係、沿岸漁業係、漁業協同組合係、漁業施設係、溯河漁業係、増殖係、それに課長直属の綜合企画係に分かれていた。水産局長室が、神田川に面して鎌倉橋(道路)よりにあり、それに続いて漁政課の各係が宮城方向に並んでいたので、その順序に説明してみよう。こうすることによって、漁政課の中の各係の重みがある程度分かって面白い。

人事予算係は、局長室のとなりにあった。その業務内容は説明を要しないであろう。沿岸漁業係の業務は、全国に3000以上もある漁業組合に漁業法に基づいて専用漁業権という権利を農林大臣の名前で免許する仕事で、係りは、三つのグループで構成されていた。(a) 現地に出張して漁業権の内容をきめるグループ(係長をふくめて約15人)、(b)それぞれの漁業権の漁場の位置を決める漁場図を作成するグループ(6人)、(c)大臣の決裁を受けて決まった漁業権証書を「筆書き」するととも、漁業権台帳に登録するグループ(4人)に分かれ、総人数は25人位であったから、当時の漁政課の中で最も大きな「係り」であった。

「係り」といっても、現在の農林水産省の機構からみれば、「課」並みの大きさであった。沿岸漁業係の主な業務は、漁業組合に免許した漁業権で決められた漁場内の各種の水産資源を綜合的かつ合理的に利用して漁業生産を最高度にあげることで、この仕事は@のグループの仕事であった。私が農林省に採用されたときには、私と、東大出と北大の函館高水産出の3人が、新規にこのグループに配属された。この係りの係長は野村貫一さん(東大、農学部水産学科卒)であった。

野村貫一さんの前任者は、杉浦保吉(水講卒)で、我々が水産講習所の在学中の所長であった。杉浦さんが転出したので、福井県の水産課長をしていた野村さん沿岸漁業係長に就任した。なお、野村さんは、終戦直前には新たにできた全国漁業組合連合会の会長をしていた。このような説明をしているのは、この当時の沿岸漁業係長というポストが如何に重要な地位であったかを説明したいためである。

漁業協同組合係は、昭和4年ころの日本の経済恐慌を反映して、農林省は「農山漁村更正運動」なる政策を実施していたので、その中核となるべき「漁業組合を経済活動を伴う漁業協同組合」に改組することを担当していた。この事業は、私が水産局に入った時点ではかなり進展していて、一部の漁業協同組合は現在のそれと殆ど変わらないほど立派な漁協があったが、他方隠岐のよう
な僻地に行くとまだ漁業組合のままのものもかなりあった。係長は職掌柄「木村さん」といって中央大学の法科を出た人であった。

綜合企画係は、漁政課のほぼ中央で、漁政課長席の真ん前にあり、三好さん(水産講習所卒)というかなり前に沿岸漁業の係長をしていた、水産局の生き字引のような方と、伊東正義さんという東大法科卒の事務官が向かい合って座り、その下に数人の係員がいて、課全体の決済書類はすべてこの係りを経由して課長、局長に回るようになっていた。当時、漁政課には、課長席は別として電話が二つしかなく、その一つが、沿岸漁業係の末席である私の席の後ろの柱にあったために、私はしばしば、「伊東さん! お電話です」と、伊東さんの呼び出し係りをする羽目になった。その伊東正義さんが、後日衆議院議員に立候補して当選し、大変に清廉潔白な人柄で一時は総理大臣に指名されかかったこともあるが、本人はこれを固く辞退した。

漁業施設係は、既述の「全国農山漁村更正運動」の政策に関連して、漁業協同組合に漁港、魚市場施設、製氷工場などの施設を建設するための補助金事業を担当していた。この係りの事業も、漁業組合の漁業協同組合への組織替えとともにかなり進行し、現在のような大きな漁港はなかったが、「船溜り」や競り(セリ)のための「魚市場施設」が出来ていた。係長は戸井田さん(水産講習所卒)であった。この人は、私の水産局在職中に軍の「司政官」に任命され、上海に赴任のため乗船していた船が、長崎県の五島列島沖で機雷に触れて沈没し、遺体が隠岐の島に漂着したという痛ましいことが発生した。

溯河漁業係は、主として北海道のサケ・マスの人工孵化事業を推進する業務を担当していた。係長は、たしか斉藤さん(函館高水卒)であった。増殖係は荒廃した沿岸の磯掃除や、砂浜の耕運による漁場の改良、種苗の放流事業を強化等により、沿岸の水産資源を増殖することを通じて、漁業生産を増加することを目的としていた。係長は、徳久三種(トクヒサ・ミグサ、水産講習所卒)という勅任技師で、増殖事業のための膨大な予算と、それを現地で実施するための本省から県庁に派遣する技師の人事を握っていたので、徳久天皇と呼ばれていた。

以上のような、当時の漁政課で行われていた業務は、現在の水産庁の業務に見事に受け継がれ、沿岸漁業係の業務は資源管理型漁業として、漁業協同組合係の業務は世界に類を見ない漁業協同組合組織として発展し、漁業施設係の業務は水産庁の漁港部に受け継がれ、これも世界に類を見ない全国の津々浦々の漁港組織として発展し、溯河漁業係の業務は北海道は勿論三陸沿岸にいたるサケ・マスの孵化放流事業として、増殖係りの事業は「栽培漁業」として発展し、現在に至っている。

 

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2.海洋漁業課の仕事

大正中期から昭和初期にかけての焼玉エンジン、それに続くジーゼル エンジンの開発は中型、大型漁船の造船を可能にし、それに伴い日本本土沖合いの中型機船底引き網(トロール)漁業、東シナ海、黄海における大型底引き網、トロール漁業、沖合、遠洋マグロ延縄(ハエナワ)漁業、さらにはオコーック海、ベーリング海の工船漁業等の資本漁業の発展の要因となった。さらに、昭和10年にノールウエイから購入した捕鯨母船団の導入は、従来からの近海捕鯨に加えて、日本の捕鯨業は南氷洋まで拡大した。

私が水産局に就職したころは、まだ戦争の初期であったために、海洋漁業課は日本の花形資本漁業を支える課として注目を浴びていた。これらの資本漁業の発展を放任すると、過当競争になるばかりか、水産資源が枯渇する恐れがあるので、漁業法のなかで許可漁業という制度を設け、海洋漁業課は上記のような資本漁業のそれぞれについて、漁場ごとに許可隻数、漁期、漁船の大きさ等を制限し、そのような枠内で漁業許可証を発行するとともに、許可条件に違反しないように、漁業の取り締まりを行っていた。ただし、マグロ延縄漁業については未だ発展過程にあったので自由漁業とされていた。

3.水産課の仕事

水産課は、加工水産物の改善と、当時の日本の輸出品の中で、生糸に次いで重要であった水産物の輸出事業を監督指導していた。当時の日本の輸出水産物の大半は、北洋で漁獲されたサケとタラバガニで、何れも缶詰に加工され、サケ缶は英国に、カニ缶は米国に輸出されていた。なお、マグロ缶詰も、アメリカのツナ サンドイッチの材料として日本の輸出水産物の花形であった。

タラバガニの缶詰は、戦前に「カニ工船」と言う小説で有名になった。私のような小説音痴でも好んで読んだものである。「カニ工船」は10隻余りのカニを漁獲するための独航船と共にカムチャーッカ半島の沖合、もしくはアラスカのブリストル湾の漁場に到達し、独航船が漁獲したカニを原料にして工船の船上でカニ缶を製造するのである。数ヶ月にわたって毎日のように、昼夜兼行でこの無味乾燥な仕事を繰り返すことは本当に過酷な仕事で、小説はこの哀話を画いたものであった。

サケ缶は、特にカラフトマスが、カムチャッカ半島の沿岸と北千島の沖合で、産卵のために自分の生まれた河に溯上する前に漁獲して、陸上で缶詰に製造されるものが多かった。私は、大東亜戦争の末期の1年半を小笠原群島の父島に駐屯して、不思議なことに、このカニ缶とサケ缶に大変にお世話になった。そのころは、これらの缶詰の輸出先がないので、大量に軍需食糧にまわされたのである。いくら美味い缶詰だといっても、毎日同じものを食わされたので、アングアングした。

 

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(4)役人の位(クライ)と 制度

あまり、水産の話ばかりしていると面白くないので、ここでは少し話題をかえてみよう。水産局に入って最も驚いたことは、学歴の相異による待遇の格差の甚だしいことであった。先ず、身近な私のような水産専攻の人事について述べてみよう。

当時、水産を専攻して農林省に採用される学校は、東大農学部水産学科、農林省水産講習所と北海道大学所属の函館高等水産学校の3校だけで、これらの内で、歴史的には農林省水産講習所が最も古かった。私が農林省に就職した年には、それぞれの学校から数名づつ採用された。東大農学部水産学科卒は「嘱託」として採用され月報75円、水産講習所卒と函館高等水産学校卒は「雇」として採用され、月俸は、それぞれ55円と50円であった。その差は、前者は4年制、後者は3年制の専門学校であることによるから、函館高等水産学校卒は一年経てば5円の昇給があるから、実質的に何の差もないが、問題は専門学校卒の東大卒に対するこの格差は一生かけても追いつきようがないことであった。

もっと格差があるのは、国立大学卒(大部分が東大の法学部卒)で高等文官の試験に合格して入省した人を、水産局の場合でみると、入省した時は東大の農学部卒と同様に嘱託(月俸75円)であるが、入省して2年の見習い期間が過ぎると、農林省とは全く関系のない東京市内の堀留警察署の署長に任命され、3年位すると農林省のしかるべきある課の筆頭課長補佐(主席事務官)として帰ってくるのが慣例となっていた。すなわち警察署の署長という管理職という経験をさせるのである。

文科系の私立大学卒の人も、何人か水産局に入っていたが、同じように事務官の肩書きを貰っていても、これはそんな訳にはいかない。水産局で、最も「位」の低い人は給仕さんで、給仕さんの大部分が夜学の私大に通って、卒業すると農林省に雇われることを目的としていた。水産局では、当時女性の職員は、漁船保険課のような経常事務のあるところを除いて、極めて稀であった。昼食のために、農林省の食堂に行くと、食事を給仕する人はすべて女性でホットしたものである。

なかには、この女性と仲よくなって結婚して人もいる。水産局は、水産を扱う局であるから、既述の三つの水産系の大学もしくは専門学校卒の職員が圧倒的多数を占めていた。これらの技術系職員の昇進過程は、入省したときは、既述のように雇いもしくは嘱託で、その上は「技手」、その上が「技師」、さらに極く一部は、「勅任技師」もしくは、技術系の課長ということになっていた。

技師は、机の上面の四辺の縁(フチ)の10cm幅は木部であるが、中央部の四角い広い部分は青色のフエルト張り、腰掛けは回転椅子で、肘掛けは水色の柔らかい布張りの椅子に座っていた。「技手」は、机の上面は板のままであるが、腰掛けは回転椅子、ただし、肘掛けは木製のままであった。嘱託と雇いの机の上面は「技手」と同じであるが、椅子は縦形の固定椅子となっていたから、外部から入ってきた人は、一見してその人がどの階級か分かるようになっていた。

通常、「雇」を3年くらいしてから「技手」に昇進し、「技手」を10年くらいすると「技師」に昇進していたようである。こんなアヤフヤな言い方をしているのは、私の場合はこんな道を踏む前に徴兵で、軍隊にとられたのでこの経験がないからである。

すでに述べたように、水産局の各課は幾つかの「係」に分かれているが、人事係、漁業協同組合係のような事務系の「係」を除く殆どすべての「係」の係長は技師であった。技師の中でも、既述の徳久技師は勅任技師であったので、「位」は課長よりも上位で、大変な「羽振り」を効かしていた。

水産局長は、当然のことながら高文合格の法律事務官であった。水産局の課長ポストのうち、漁政課長と海洋漁業課長は、高文合格の法律事務官、残りの水産課長と漁船保険課長のポストは水産講習所卒の技師で占められていた。これは、水産講習所が当時の水産系の学校の中で、最も古かったためであろう。

このような辞令の上での階級とは別に、宮中席次に相当する階級があった。「技手」は「判任官」、「技師」は通常「奏任官」であるが、古手の「技師」は「勅任官」に任命された。なお、「高等官」とは、「奏任官」と「勅任官」とをあわせた総称で、既述の法律事務官と技師とを共通にいうときにいっていた。このような役人の呼称から分かるように、当時の政府の職員は、現在のような国民に奉仕する公僕ではなく、すべて天皇陛下に使える役人であったのである。国民は、当時の政府もしくは役人を総称して「お上」といっていた。私の父も農林省の中央水産試験場の技師、すなわち高等官であったので、毎年新宿御苑で天皇主催の春の観桜会と秋の観菊会に招待され、母を同伴して誇り高く参加していた。

ところで、私は後日陸軍に徴用されてから分かったことであるが、下士官は「判任官」に相当し、少尉以上の将校はすべて「高等官」相当と見なされていた。私は幸いに甲種幹部候補生に合格し、少尉に任官した時に、折よく上京していて、新年の宮中記帳参賀の機会があり、あの二重橋を渡り宮城の内部に入ることができた。あの二重橋の上の方の橋を渡る時は、丸ビルなど一連のビルが眼下に見えて、天下をとったような気がした。今では、一般の人でも祭日には宮中参賀ができるようになったので、少しも珍しいことではなくなった。

 

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(5)日本の漁業制度の変遷

私が初めて水産局漁政課の沿岸漁業係に入ってしたのは漁業権免許の仕事であった。この制度はやや複雑であるので、先ず、徳川幕府時代以降の日本の漁業制度全体の変遷を説明しておこう。

漁業が対象とする漁業資源は一般に無主物で誰のものでもない。このような漁業資源を勝手に獲らせていると、資源が乱獲枯渇するか、漁業者間で紛争が起る。このようにならないようにするために政府が決めた法制度を漁業制度という。日本の漁業制度は、要約すると以下のような四段階を経て現在にいたっている。

徳川幕府時代 (鎖国時代):この時代には、幕府は沿海の村を、漁村と農村に分け、農村と決められた沿海の村では、農業の肥料にするために海草の採取のみを許した。漁村と決められた沿海の村には、大名が「お墨付き」と称する今でいう漁業権を与え、その代償として大名は漁業料(税)を徴収していた。このような、「お墨付き」の外に、大名は特別に功労のあった者にも、特定の水域の特定の魚種(例えば、千葉県鴨川の仁衛門島のアワビ)を漁獲することについての「お墨付き」を与えた。

維新後、明治漁業法が施行されるまで:徳川幕府が大政を天皇に奉還したことにより、幕府の「お墨付き」制度は失効した。明治政府は日本の長い鎖国による近代化の遅れを取り戻すために、漁業をふくめ、すべての分野の調査団を欧州諸国に派遣して、西欧の制度をモデルとして、それぞれの分野の制度を作った。

中央、地方の行政組織は勿論、日本の民法、刑法などはその典型とされている。ところが、漁業については、この第1回の調査団の派遣では、日本に当てはまる適当な漁業法令がみつからず、第2回目の調査団を派遣したが、これも失敗に終わった。その最大の理由は、日本では伝統的に漁業資源は漁業者のみに漁獲させる(Limited Entry)と言う制度(前浜制度)をとっていたが、欧州諸国では漁業資源は誰でも自由に漁獲してもよい(Free Entry)とする政策をとっていたために、西欧諸国には日本の漁業の実態に合うような漁業制度が無かったのである。

そのために、明治元年の大政の奉還後から明治34年の明治漁業法が成立するまでの35年間は、明治政府は若干の補足的漁業制度を設けたが、効果なく、日本の漁業秩序は大変な混乱期を迎えた。

明治漁業法(明治34年―昭和23年): かくて、明治34年に至って、かつてのの幕府時代の「お墨付き」に準じた漁業権制度にもとづく明治漁業法が成立し、沿岸漁業は沿岸漁家で組織して漁業組合に漁業権を免許するようになった。明治漁業法が成立した明治34年ころには沿岸漁業しかなかったが、明治40年ころからトロール漁業のような資本漁業が導入されたために、漁業権制度のほかに、漁業許可制度が漁業法に加えられた。このような理由で、日本の法律はすべて欧州諸国の法律に倣って作成されたが、漁業法のみは、完全に日本独創の法律となっている。

昭和漁業法(昭和24年 - 現在):日本は、敗戦により「民主国家」に生まれ変わった。その結果、明治漁業法では「漁業権は“お上”が漁民に与える権利」であったが、昭和漁業法では、漁民から選出された代表で構成される「漁業調整委員会」により漁業権の内容と漁場区域が決定され、漁業権は形式的に県知事の名前で免許するようにになった。このように漁場と漁業資源の利用を漁民の手に移したアイデアは、私が水産局漁政課の沿岸漁業係に所属した時の係長の野村貫一氏によるものであることを特記しておきたい。

なお、昭和漁業法の改正では、沖合、遠洋漁業のような資本漁業については、ほぼ明治漁業法と同様な漁業許可制度を踏襲した。

 

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(6)明治漁業法に基づく漁業制度の概要

私が、水産局に入った時は、明治漁業法が適用されていた時代である。大まかにいって、この当時の日本の漁業制度は次のようになっていた。

1. 沿岸漁業に対する漁業権制度

 1.1 農林大臣が免許する専用漁業権
 1.2 県知事が免許する特殊漁業権

2. 農林大臣が許可する漁業許可

上表でわかるように、漁業権は農林大臣が免許する専用漁業権と、県知事が免許する特殊漁業権(のり、かき、真珠などの養殖、定置網、無動力船による地引き網、船引き網に対する漁業権)に分かれていた。それでは、何故農林大臣は専用漁業権の免許を担当し、それ以外の特殊漁業権の免許は知事に委任したのであろうか?この疑問に答える資料はのこっていない。私の想像では、専用漁業権は、各漁業組合の管轄地域の沖合水域全体(前浜)に免許される権利であったのにたいして、特殊漁業権は専用漁業権の漁場の一部に限られて免許された漁業権であったからと言えよう。

中央官庁からみれば特殊漁業権は、いわば些末な漁業権と見なされ、せめて専用漁業権だけは、中央政府で把握しておこうという政策があったものと推定される。明治漁業法が制定された明治34年には、まだトロール漁業のような中央政府がコントロールしなければならない資本漁業は無かったのも、その理由の一つと考えられる。

したがって、水産局局漁政課の沿岸漁業係で担当したのは「専用漁業権」の免許に限られられていた。今になって考えると、同じ漁場の利用について、二つの異なる行政官庁が関与したことの整合性の無さが感ぜられる。

明治漁業法では、専用漁業権は、つぎのように分かれていた。

慣行専用漁業権、
地先専用漁業権

これらのうち、慣行専用漁業権は、徳川幕府時代に、大名が部落もしくは特定の個人に「お墨付き」と称して与えた権利の内容を、明治漁業法にもとづいてそのまま漁業権としてものである。これに対して、地先専用漁業権は、明治漁業法の施行後に地元の漁業組合が農林大臣に申請して免許された漁業権である。

明治漁業法の大きな特質は、1. 専用漁業権は原則として地元の漁民で組織した漁業組合に免許する。2. 漁業権は物権と見なし、土地に関する規定を準用する。3. 専用漁業権の免許期間は20年とし、それ以降は漁業組合の申請により更新する。ただし、慣行専用漁業権の内容についての変更不可であったが、地先専用漁業権の内容については、その後の漁業の進歩と変化に応じて、変更が可能とした。

 

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(7)漁政課の沿岸漁業係は何をしていたか?

1.専用漁業権の免許期間の延長

明治漁業法では、専用漁業権は漁業組合に免許されることになっていたから、明治漁業法が明治34年に施行されても、地元の漁村では先ず漁業組合を新たに結成しなければならない。それにかなりの時間がかかったであろう。漁業組合ができても、専用漁業権には「慣行」と「地先」がるので、それぞれにについてどんな内容の漁業権を申請するかを詮議しなければならなかったであろう。

そんなことで、専用漁業権の農林省への申請には相当な時間がかかったであろう。その上、仮に専用漁業権の申請が農林省に提出されたとしても、専用漁業権の免許は、農林省の担当官が現地に行って「実査」してから免許するこになっていた。

とすれば、明治漁業法が施行されてから全国の3000以上もある津々浦々の漁業組合に本省から担当官がでかけて実査して専用漁業権を免許するのには、少なくも10年以上かかったのではないかと推察される。私が農林省に入った時には、明治漁業法が施行されてから37年も経過していたので、専用漁業権が初めて免許された頃の事情を知る人は誰もいなかった。

唯一の明確であったことは、専用漁業権の有効期間は20年であったから、明治漁業法が施行されて最初に免許された専用漁業権のすべては免許期間を超していた。慣行専用漁業権については、内容の変更は有り得ないので、申請のあったものは、実査することなく免許期間を延長していた。

それに対して、地先専用漁業権の内容変更については、実査が済むまでは、旧漁業権の内容をそのまま有効とするようにし、これを「未実査更新」といっていた。私が沿岸漁業係に入ったときは、このような免許の更新期を迎えた地先専用漁業権の申請書が山のように、本省係官の実査をまっていたようである。

日本の沿岸漁業の動力化は、昭和年代に入って急速に進んだので、地先専用漁業権の免許延長の申請は、専用漁業権の漁場を沖合に拡大すると共に、それに伴う回遊性の浮き魚を対象とする漁業種類を専用漁業権の内容とする申請が大部分であった。

このような回遊性の浮き魚を対象とする漁業は個々の漁業組合の沖合のみならず、近隣の漁業組合の沖合水域でも操業するので、関係する近隣の漁業組合との間での入漁協定があることを前提としなければ漁業権の内容の拡大ができない。したがって、地先専用漁業権の実査更新は、上記のような相互入会いのある水域の漁業組合をまとめて行われることになっていた。

2.初めての出張

水産局に入って1ヶ月もしたころに、待ちに待った出張命令が野村係長から出た。地先専用漁業権の実査更新は2名一組で、漁業の対象とする水産資源がほぼ同一、したがって漁法もほぼ同一な海域に対して通常3週間にわたって出張することになっていた。今回の場合は、3つの海区が選ばれたので、3組の実査班が編成された。

一組2名のうち、1名は主査で、実査の上で漁業権の内容を決めることを担当し、沿岸漁業係の技師か、技手がこれにあたり、他の1名は実査の結果専用漁業権の漁場が決まると、隣の専用漁業権との境界を決めるための基点を確定する役割を持っていた。後者は、通常沿岸漁業係の漁場図作成のグループから選ばれ、漁場図のうえで基点を決めるために「トランジット」という測量機具を携行することになっていた。

この出張では沿岸漁業係に新規採用者が3名いたので、この役割をすることになった。私の場合は、先輩の小林技師が主査で私がお供することになり、実査の海域は愛媛県の北部で広島県と山口県の県境に隣接した津和地島、怒和島、二神島、由利島といった瀬戸内海でも有数のマダイの漁場に行くことになった。

この愛媛県への出張の流れは、以下のようなもであった。県庁と関係組合の訪問:先ず愛媛県庁の水産課を訪問し、担当技師から現地の漁業の概要を聞くことから始まった。これに続いて、県庁の担当技師の案内で、関係するこれらの島にあるすべての漁業組合を訪問して、漁業の概要を調査した。

この時に、驚いたことはどの組合でも「農林省が御座らっしゃった」ということで、あたかも、我々を農林大臣が来たかの如く歓迎を受けたことであった。それもその筈である。最初に専用漁業権が設定された時は、少なくも20年以上も前のことであるから、現地の漁業関係者からみれば、我々の訪問は破格のことであった。迎えてくれた漁業者のなかの古老には、最初に来訪した農林省の担当官の名前を覚えている人もあった。

怒和島には二つの漁業組合があったので、どうせ似たようなものだから、訪問は一つだけにしようといったら、現地の漁業者に大変に怒られた。全部の漁業組合が、我々にきてもらいたいのである。地先専用漁業権の申請内容の精査:それぞれの漁業組合で詳細な調査をするよりも、一定の場所に順次各組合の関係者に来てもらった方が効率的であるということで、津和地島の田舎宿を拠点にして、各組合に順番に来て貰って詳細な調査をすることになった。

関係する漁業組合毎に、かわるがわるに漁業組合長と各漁業種類の代表に来てもらって、各漁業種類ごとそれに従事する漁船数、漁期、漁場の位置、操業方法などの詳細な調査が始まった。この仕事は主査の仕事で、一つの組合に少なくも丸1日、時としては、2日かかり全部が終わるのに10日位かかった。重要なことは、専用漁業権の漁場を拡大した場合に、どんな入会い漁業協定を漁業組合の間で締結させるかにあった。

このような津和地島の宿での調査の間に驚いたことは、丁度マダイの盛期でもあったことから、朝、昼、晩と多少調理の方法は違うがマダイの料理攻めにあったことであった。津和地島はマダイの特産地でもあったが、農業では香取線香に使う除虫菊の特産地でもあった。といっても、宿から見ると、多少サツマイモの畑もあったので、宿のおばさんに「タイの代わりにあのサツマイモを料理して下さい」と頼む始末であった。

入会漁業協定案の作成:すべての漁業組合の聞き取り精査が終わると、主査は入会漁業協定案の作成に入り、その案を各組合に提示して意見を求めることになる。この仕事を当時は「漁業調整」といっていた。戦後の昭和漁業法では、この仕事は漁業者から選ばれて委員で構成される「漁業調整委員会」がすることになっているが、この当時は本省から現地に出かけたお役人がしていたのである。

専用漁業権の漁場を決めるための「基点」の確定:専用漁業権には、漁業権の内容を記載した専用漁業権証書と、その漁業権が有効な正確な漁場図が添付されことになっていた。一つの海岸線にいくつもの漁業組合が並んでいる場合には、それぞれの組合の境界を明確に定めなければならない。その境界の位置を「基点」といっていた。

この基点調査は、主査のお供をしてきた我々チンピラの仕事であった。今回の愛媛県の調査では、カバーした海域の漁業組合は、大部分が島ごとに漁業組合があったので、それらの専用漁業権の漁場は、島を取り囲むように設定されるので、隣接する組合との境界(基点)を決めるという必要がなかった。ただし、怒和島のみは東西に二つの部落があって、それぞれに漁業組合があったので、島の南北にある岬に漁場の境界を決める基点を確定する必要があった。

すでに述べたように、主査のお供である私は、この基点を確定のために本省を出る時に、トランジットという土木測量用機具を携行していた。二つの漁業組合の間で境界の位置、すなわち基点が決まると、その基点の位置にトランジットを据えて、基点を中心にした遠景の中で将来不変であると思われる、山の頂上、山と山の重なった部分などの3点を選び、トランジットを覗いて方位測定をするとともに、それらの3点を手書きで画いて、本省に持ち帰り、記録に残すことになる。

通常、役場などにある地図をみると、図上では部落と部落の間の境界は明瞭に書いてあるが、このような岬の部分で実際問題としてどこで境界がどこで終わるかは必ずしも明確ではない。多くの場合に、このように境界は岬の突端で、そこは、岩礁(磯)地帯であることが多く、アワビやサザエなどの高価な磯モノの好漁場となっている。案の定、この上怒和と下怒和の境でも、この問題がでて漁業組合間での基点についての決定に至らなかったので、主査の提案により一応漁業権上での境界(基点)を決めて、その基点からそれぞれの組合方向に100mは、相互に入会いを許すということで決着した。先輩の話によれば、時によるとこの基点を決める時に、双方の組合員が大相撲をとることは稀ではないと聞かされていた。

漁業調整の打ち上げ会:以上のようにして、新しい地先専用漁業権の内容、漁業組合間の入会い協定の組合間の了解、基点の設定が終了すると、関係するすべての漁業組合の組合長と幹部が一堂に会して入漁協定の調印式をすることとなる。ここまで来ると、すべての「もめごと」は解決しているので、これはまさに関係する海域のすべての漁業組合の合同打ち上げ会である。調印式は、瞬くの間に終わり、この時ばかりは20年に一度しかない大行事ということで、組合の積立金が堂々と使えるというので、「飲めや、歌えやの大宴会」となった。

 

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(8)沿岸漁業係りの想い出

愛媛県への出張は、私の第1回の出張であったが、私が軍隊に入隊するまでに、同じような目的で、島根県の隠岐の島の「島後」(ドウゴと読む)と、北海道の根室支庁管内に出張する機会を与えられた。これらの出張で得た経験は、戦後の私の漁業権をベースにした漁業管理の研究に大変に役立った。それは、3週間から4週間にわたる出張期間の間で、同じ海区とはいえ色々な漁業を現地でその実態を見ることが出来たからである。

これらの出張の中で、特に思いでになるのは根室支庁管内の出張であった。今のように飛行機のない頃であったから、札幌まで行くのにも、途中で青函連絡船に乗らねばならなかった時代である。これは、まだよいとして、札幌から釧路まで行くのにも、十勝峠を越して汽車で一晩もかかった。釧路までは旅客列車であったが、釧路から根室まではお客が少ないので貨客混合列車になる。各駅停車で、駅毎に貨車を繋いだり、離したりするので甚だ時間がかかった。根室に着いてから、さらに国後島に行くことになった。国後島の南端に「泊」という模範漁業協同組合があり、帆立貝の缶詰製造を自営していたので、その空缶を山ほど積んだ漁協の運搬船に乗った。

泊には、昔の北海道開発時代にできた「官設駅逓所」がまだ残っていて、旅行者の宿泊、郵便局の役割、国後島内の旅行のための乗り物として馬を用意していた。泊漁業協同組合の調査を終えて、次ぎの目的地である「古釜布」(フルカマップと読む)まで生まれて2度目の馬旅行をした。古釜布からは特別に漁船をしたてて貰って色丹島に渡り捕鯨場を見て、さらにまた別の船を用意してもらい、歯舞群島を左舷に見つつ根室に帰ったのは、今でも思いでの種となっている。

沿岸漁業係の出張は3週間以上の長期出張であったから、思わぬ小遣い稼ぎともなった。私の身分は「「雇」でも2等旅費が出たが、実際には3等で旅行した。高等官の技師は一等旅費がでていたのではなかろうか。

農林省の近くの国鉄の神田駅の側には、今の「交通公社」があって、電話で切符を注文すると、乗車券は勿論、特急券、寝台券までも配達してくれた。すでに、3等寝台があったので、旅行はそれで快適だった。出張にでかける前には、出張旅費は概算払いで貰い、出張が終わると、出張精算請求書を提出すると、かなりの清算金が貰え、楽しみのひとつであった。当時、10円札は「いのしし」といって、大変な価値があり、仲間4人くらいと、当時「カフエー」という高級飲屋に行き、散々飲んで女給さんのチップを払っても、「いのしし」一枚でお釣が来るぐらいであった。

( 前編の終り )

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IndoChina

仏印進駐の思い出

山本 忠

( 昭和 54 年 記 )

yamachu@tkb.att.ne.jp

( Online版 編集  真道重明  2003/11/21 )


この戦記にある内容は一般に公開されたものには見当たらないものだそうである。その意味では貴重な記録であり、此処に採録した。

 

は昭和14年4月10日、桜花爛漫の西部第二部隊(広島市に所在し、広島師団歩兵第11連隊の留守部隊であった)に二等兵として入隊した。この部隊は歩兵聯隊であったが、私の身体が一般兵より少し大きかったこともあって、歩兵砲中隊に配属され、しかも歩兵砲の中でも一番図体の大きい聯隊砲の訓練を受けることになった。聯隊砲は明治41年に制定された四一式山砲で元来が山砲聯隊が使用したものである。口径15センチで砲身、揺架、車輪等をバラバラに分解して人力で搬送できることから歩兵砲の一つとして採用されたようである。形式は古いが非常に命中率のよい大砲であった。

当時、初年兵は3ヶ月の基礎訓練を留守部隊で受けた後、戦地の軍旗のある原隊に補充されていた。しかし、中学校以上の学校教育の中で「軍事教練」を受けた者は幹部候補生有資格者と見なされ、3ヶ月の基礎訓練の直後の幹部候補生の試験に合格すれば、留守部隊でさらに教育を受けて予備士官学校に派遣されるのが恒例であった。ところが、私の入隊した年には幹部候補生の試験を受けた者は、試験合格の有無を発表されることなく、一般の初年兵とともに南支、広西省に駐屯する広島師団歩兵第11連隊に補充されることになった。もっとも私自身は、然るべき筋を通して調べて貰ったところでは、130人の有資格者中で4番で合格していたことが分かっていた。

我々は宇品港から御用船に乗船し、豊後水道、東支那海、台湾海峡、海南島と雷州半島の間の海峡を通過し、広西省の蚊虫山に上陸した。この航海は多分10日ぐらいかかったと思うが、戦争末期のような米国潜水艦による魚雷攻撃の脅威もなく、後日読んだ火野葦平の「麦と兵隊」に出てくる御用船の生活と全く同じで、本当にノンビリした航海であった。蚊虫山に上陸後は、いわゆる南寧街道を一路南寧に向かって行軍(北上)を続けた。

この南寧街道は当時米国が中国の蒋介石軍に物資を供給するルートの一つで、広島の第五師団が南寧攻撃と同時に獲保した道路であった。当時第五師団はすでに仏印(現在のベトナム)国境に近い地域に転進していたので、南寧街道は兵站線として近衛師団の守備地区となっていた。舗装はしてなかったが幅8メートルくらいの立派な道路で、道路の片側に日本の鉄道聯隊による狭軌のレールが敷設されつつあった。ただし、この鉄道線路は中国軍が援蒋物資の輸送のために建設中のもであったかも知れない。

街道筋には、随所に中国の南画に出てくるような蛾々たる見事な山があり、行軍の苦しさを忘れさせるものがあった。ある山の山壁には、「財ある者は財を出せ、財無き物は人を出せ」という意味の蒋介石政府の標語が書かれていた。ところが、この時期は7月という雨季であり、蒋介石軍がしばしば出没するということで、夜行軍となることが多く、食事のお菜は冬顔を牛缶で味付けしたものばかりで、我々の多くは下痢に悩まされ、マラリアで落伍する者もあった。こんなことがあったかと思うと、我々の行軍の途中にたった一度であるが、慰安婦と布団を山ほど満載した陸軍の自動車部隊のトラックが通過して、みんなが歓声を上げたこともあった。

このような行軍を7日間続け、南寧の手前の呉孫墟(ゴソンキョ)という要衝に到着し、そこから左折西進して鎮南関(現在、友宜関と呼ばれている)に向かう道をさらに3日間行軍し、歩兵第11連隊の駐屯する南郷という部落に到着した。時はすでに8月15日で故国広島を出発してから約3周間以上を経過していた。

いうまでもなく私は聯隊砲中隊に配属されたが、誠に奇遇にも、その中隊長の堀江正夫大尉は、私の叔父の海軍少佐堀江隆介さんの親戚であった。このことは、到着翌日の点呼の時にわざわざ中隊長が「昨日到着した兵隊の中に山本は居るか」と私を呼んだので分かった。それから約一週間後に留守部隊で受験した幹部候補生試験の合格者発表があり、私は一等兵に昇進した。

一等兵になったといっても、少しも「ゴリヤク」(御利益)はなく、所属した分隊の三年兵、四年兵からは、こいつらは近い内に将校になるのだからということで、中隊長が私の親戚であることなどは全くお構いなしに、ひどくしごかれたものである。ただし、私が幹部候補生であるということもあって、我々の南郷到着と同時に始まった慰安所建設の使役にだけには駆りだされなかった。

それから約1ヶ月、多分9月14日であったと思うが、わが第11連隊の全員は南郷部落の中央広場に集合を命ぜられ、聯隊長から、「わが五師団は北部仏印(現在の北部ベトナム)に平和進駐を命ぜられ、ただいまから出発する。あの山の向こうは仏印だ。仏印入国に当たっては、日本軍の威厳を示すために新しい階級章つきの開襟シャツを支給するから、それを着よ。ただしこの開襟シャツは国境通過の直前に着替えよ」という命令をうけた。このことからみて、第5師団の北部進駐はかなり以前から決まっていたようである。なお、この時が、日本陸軍が将校も兵隊も階級章付の解襟シャツを着るようになった始まりである。

我々は、直ちに出発準備にとりかかり、何日分かの米、干パン、缶詰、手榴弾それに新品の開襟シャツの支給を受けて南郷を出発し、一路「鎮南関」に向かった。因みに、仏印とは仏領インドシナの略称で、当時フランスは現在のベトナム、カンボチア、ラオスの3国を植民地としていた。なお、以下、仏印軍という用語を使用するが、これは実質にはフランスから派遣されたフランス軍である。

南郷を出発して最初の2日間は鎮南関に向かう街道を歩いたので、昼夜兼行不眠不休の行軍であったとはいえ、それほどの苦痛はなかった。ところが、この時点で新たな師団長命令が入り、浜田の歩兵聯隊はこのまま街道筋を鎮南関を経由して、広島の第11連隊は鎮南関の南方の山道を経て仏印に入ることになった。

それから仏印国境に到着するまでの3日間は道なき道を山を越え谷を渡り、ある時は河の中をズブ濡れになって渡るなど、この世のものとは思えない難行軍の連続であった。わが聯隊砲中隊は砲を分解して馬に分載し、さらに弾薬も弾薬車からおろして数多くの馬に駄載し、小銃中隊の後尾を仏印国境に行軍を続けた。時はすでに9月中旬、雨季明けの時期であったが、小雨が降ったり止んだりの気候で、道無き道は泥沼と化し、一歩一歩が膝まで入るような行軍の連続であった。

南郷から携行した水筒の水は底をつき、小休止に当たっては道端の小川や田圃の泥水を手ですくって喉の渇き(カワキ)をいやした。そのうえ三度三度の食事も正常なものを食べていないから、私のみならず戦友の多くはシャーシャーくだしの下痢をしていた。なお、この時の泥水行軍は「道なき道を歩いた」と思っていたが、後日、堀江中隊長(当時の階級)に聞いたところでは、南部シナ(中国南部)から仏印国境に向かう細い道路があったと言うことである。

古年兵から「行軍でいかに疲労困憊しても絶対に落伍するな、そんな時は馬の尻尾(シッポ)に掴まって歩け」と言われていたので、遂には馬の尻尾に曳かれて歩くことも何度かあった。それやこれで「こんな難行軍なら、一層のこと死んだ方がよい」と何度も思ったり、それとも「一刻も早く戦闘が開始されれば休めるのだが」とも考えた。歩兵操典の一節に「戦闘は行軍なり」とあるが、この時ほどこの教訓が身に染みたことはなかった。

南郷を出てから5日目、山道に入ってから3日目であったろうか、私の期待した戦闘が始まったのである。それは、中隊長命令で「あの丘の上に砲を据え」という号令を聞いた時である。私は弾薬搬送を命ぜられ、辛うじて弾薬を砲の近くに運び、その機を利用して前方を見たところ、遥か彼方の山の稜線上に約100米置きぐらいに幾つもの国民党(中華民国)の「青天白日旗」を望見し、初めて仏印国境に到着したことを知った。さらに山の稜線の手前斜面に幾つかの土で覆われたトーチカが機関銃掃射の火焔を吹いていた。間もなく、何発目かの聯隊砲の弾丸がトーチカに命中し、それと同時に歩兵が喚声を上げて陣地に突入し、戦闘はものの30分で終わった。

中国軍との戦闘が終わり、中隊が国境の中国側の小部落に入ったのは午後3時ぐらいであったろうか。中隊から割り当てられた中国民家の中庭に、幹の直径15センチ、高さ10メートルぐらいのザボンの木があり、枝もたわわにザボンがなっていた。梯子をかけて一つずつ実をもぐような気力がないので、古参兵が幹の根元から鋸でバッサリ切り倒し、我々はむさぼるようにザボンを食べた。その時のザボンの味は今でも忘れない。そのうえに「今夜12時を期して国境を通過して平和進駐する。それまでは十分に休眠をとれ。なお国境通過に当たって、もし仏印軍から抵抗があった場合は戦闘を開始せよ」という中隊長命令を受けた。よって簡単な夕食をすませ、仏印進駐用の開襟シャツに着替えたあと、11時半までむさぼるように熟睡した。

すでに述べてように、我々が南郷を出発する時に得た師団長命令は「仏印平和進駐」であった。とすれば、当夜12時を期した仏印進駐は、まず小銃中隊が国境を通過し、これにわが聯隊砲中隊が続くべきはずである。ところが聯隊砲中隊は、当夜の12時を期してまず仏印領に入る中国側の城門の入口に集結せよ、と命令されていたので、何事もなければ、我々は仏印領に向かって平和進駐するものと思っていた。

ところが、紛れもなく深夜12時を期して仏印領に入ろうしたところ、国境から約300メートルぐらい離れた仏印軍の城塞から機銃掃射のお見舞いを受けたのである。私の頭上を数発の機銃弾が「ヒュン ヒュン」飛んだが、幸運にも誰にも命中しなかった。我々は「仏印平和進駐」といわれていたのであるが、「仏印侵攻」になってしまったのである。聯隊砲中隊を最前線に置いたのは、平和進駐であるといっても、もしも仏印軍の城塞から抵抗があれば、まず聯隊砲でこれを制圧する必要があるという予測に基づいたものであったようである。

中国側城門から仏印軍城塞までは、中国側と打って変わって立派な道路があったので、我々はこれに沿って砲を進め、城塞の50メートルぐらい手前の畠の段差の内側に砲を据え、そこから黎明に至るまで城塞の厚さ10センチ位のコンクリートの城壁に向かってに数十発の弾丸を打込んで、小銃中隊の突撃進入のための大穴をこしらえ、小銃中隊は夜明けと共に「ワー」という喚声と共に城塞に進入した。それと同時にわが方が使用した手榴弾の炸裂する音が何回か聞えてこの戦闘は終了した。もっともこの時には仏印軍はすべて撤退していたようである。仏印軍のこの城塞があった部落は忘れもしないロクビンという町であった。

我々はロクビンからほぼ一日行軍して北部仏印の要衝ランソンに進駐し、もぬけの空になったフランス軍の兵舎に入った。そこでフランス軍が置き去りにした多数の武器や背嚢などの仕様とサイズが日本軍のそれた非常によく似ていることに驚いた。このことからみて、明治の御維新後の日本陸軍の創始はフランス軍をモデルとしたものと推察した。

ランソンに進駐後の10日ぐらいしてから、わが第五師団長中村明人中将は「日本軍の北部仏印進駐は平和進駐であったにも拘わらず、戦闘をした」という責任をとらされ、名古屋留守師団長に左遷された。これは大本営の大きな誤解で、少なくも、広島歩兵11聯隊からみれば、わが方から進んで戦闘したものはなかった。

私は一兵卒であったからよく分からないが、中村師団長は将兵から大変に信望の厚い人柄であったようで、離任に当たっても将兵の一人一人に挨拶をしたいとのことであったので、我々第五師団の全員がはランソン郊外のハイフォン(海防)に通ずる沿道に整列してお見送りした。中村師団長は我々が整列している前を馬を進められ、あたかも一人一人の兵に言われるように「ご苦労だった」、「ご苦労だった」と挙手の礼をされたことが今でも眼に残っている。

我々第五師団は北部仏印のランソン付近に約一ヶ月駐留した後に、汽車でハイフォンに出て、そこから御用船に乗船して上海に上陸した。これは多分10月末ではなかったかと記憶する。第五師団は上海に集結と同時に、長い間苦労を共にした馬を全部返納した。これは一体どうなることかと思っていたが、後日マレー半島作戦のため自転車部隊への編成替えの予備行動であったのである。

他方、北部仏印のランソンに駐留中に受験した第二次幹部候補生試験の結果が11月中旬に公表され、我が聯隊砲中隊からは私と他の4人の候補生は上海から宇品経由で熊本本予備士官学校に入校した。私は昭和15年7月同校を卒業したが、多分成績がよくなかったのか、広島の西部二部隊に転属を命ぜられ広島に帰った。その後は福山の下士官候補者隊の区隊長、広島師団乙種幹部候補生教育隊の副官等を経て、昭和19年6月には小笠原の父島守備隊に配転、最後はボツダム大尉として昭和20年12月広島の大竹に上陸、兵役解除になった。

一方、南支の南郷で奇遇の機を得た堀江正夫中隊長はその後陸軍大学に入学、終戦を Papua New Guinea で迎えたと聞いている。終戦後陸上自衛隊に復帰し、姫路師団長、陸上自衛隊総合募僚長等の要職を経て、現在は自衛隊を代表して真珠湾攻撃で有名になった源田実氏と共に参議院議員として活躍した。堀江正夫さんとは今でも交際を続けている。もっとも、堀江正夫さんの奥さんは「料理の大家」として旦那よりも有名である。ちなみに、真珠湾の奇襲で名をはせた源田実氏は広島県加計の出身で、私の家内の義兄の長男に当たる。「縁は誠に異なもの」である。

なお、私は昭和20年12月に農林省に復帰し、ふとしたことから日本の水産統計の改善の仕事に病み付きになり、昭和40年から15年間は国連 FAO 職員として開発途上国の水産統計改善に協力し、昭和55年4月からは日本大学経済学部教授として、水産経済学を教えることになった。

( 完 )

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山本人生2  yyamachu2

- わが人生に悔いなし-

世界の漁業と水産統計

私の人生記(後編) 

山本 忠

yamachu@tkb.att.ne.jp

(Online 版 編集責任 真道重明 2005/05/14.)


これは本ホームページの「水産雑記」の中の「水産統計と漁業管理」の後編である。私(真道重明)の母校(水産講習所、現東京海洋大学)の先輩である山本 忠 (やまもと・ただし)氏が 「わが人生に悔いなし」 、副題を 「水産統計と漁業管理の道を歩いて」 と題して、前編と同様の中学校の同窓会誌に纏められたものの再録である。この後編は当初から前編・後編と整理されて執筆されたものではないので、前編と多少は重複する部分があるが、殆ど続編ないし後編と呼んでよい内容である。


目 次 

はしがき
1.戦前の水産局時代:1938−1939
2.兵役:1940年−1945年
3.農林省水産局に復帰:1945年12月
4.農林省統計調査部に出向(1951−1962)
5.コロンボプラン専門家として、タイ水産局に勤務:1962年
6.FAO勤務:1964−1979
7.日本大学 経済学部 勤務:1980−1989
8.その他、私のした仕事


はしがき

この本の編者である塙五郎君に言わせれば、「山本」は、他の同級生とは全く違った人生を送っている。それに加えて、「水産統計に関する限り、世界の権威となっている」というのである。そこで、最初に私の経歴を要約しておこう。

  • 1934年:開成中学4年終了。

  • 同年:農林省水産講習所(現在の東京海洋大学)に入学。
    1938年:農林省水産局に採用され、沿岸漁業の漁業権免許業務に従事。

  • 1940年―1945年:兵役(終戦時 陸軍大尉)

  • 1945年12月:農林省水産局に復帰し、遠洋漁業の許可業務に従事。

  • 1946―1950年:自ら希望して農林省水産局福岡事務所に転勤し、東支那海のトロール漁業の漁場別統計と、標本調査法による沿岸漁業の漁業生産量標本試行調査に従事。

  • 1950―1962年:農林省の統計調査部に新設された水産統計課勤務し、日本の各種水産統計調査の創始に従事。この業績に対して、統計に関する大内兵衛賞を受賞。さらに、農林大臣賞を受領。農林省統計調査部に在勤中(1958)に国連のFellowshipにより、アジア、中近東、欧州諸国を視察。

  • 1962年:京都大学農学部より、論文制度による 農学博士の学位を取得。

  • 1963年:タイ水産局の水産統計調査を技術指導。

  • 1964―1979年:国連農業食糧機構(FAO)の水産統計専門家として採用され、主としてアジア諸国、西アフリカ沿岸諸国の水産統計改善を指導。

  • 1980−1989年:日本大学 経済学部 教授(水産経済)

  • 1982−2000年:国際漁業研究会 会長

  • 2000年以降:国際漁業研究会 名誉会長

  • 2004年:初めて日本で開催された“漁業経済に関する国際会議”の開催を主導的に指導。

1952年以降、FAO, SEAFDEC, 米国のNOAA, 国連海洋法学会、EU等の主催した漁業に関連する国際会議、セミナー、訓練センターに参加した回数は無数。

(参考事項:1999年10月30日:山本 勝子(愛妻)を胃癌のため失う。) 

長短を問わず海外に在勤した都市:
Bangkok, Rome, Jakarta, Dakar(Senegal)

長短を問わず訪問した国:東アジア諸国(3)、東南アジア諸国(9)、南アジア諸国(5)、大洋州諸国(2)、太平洋島嶼国(3)、中近東諸国(5)、東アフリカ諸国(4)、西アフリカ沿岸国(4)、西欧諸国(12)、北米(2)、中米(1)、南米(1)、合計51カ国。

以上を通覧して頂くと分かるように、開成中学時代の同級生の中で、こんな世渡りをした者は、他にいないであろう。私の生涯の中で、国家公務員(25年、その間軍務5年、海外勤務1年)、国連職員(?年)、そして日本大学の教授(9年)を、それぞれ相当期間勤めたので、これらの勤務先から三つの年金を貰っている。それ以外に定職ではないが、国際漁業研究会の会長を18年間 務めた。

1.戦前の水産局時代:1938−1939

私は開成中学の4年生の時に、水産講習所(当時は農林省所管の4年制専門学校。現在は文部省所管の東京海洋大学)を受験したところ、受験成績4番で合格し、同講習所の学業成績がよかったので、農林省水産局の職員に推薦された。私はこのことを大変に栄誉あること思っていたが、水産局に入ってみると、私の身分は「雇」月給55円で、同時に新規採用された東京大学、京都大学卒は「嘱託」月給75円と20円も違うことであった。私は、後日1965年にFAOに採用されるまで、この学歴差による差別待遇を悔やんだ。

しかしながら、水産局採用後は、同局漁政課の「沿岸漁業係り」に配置され、当時の漁業法に基づく漁業権を漁業組合に免許する仕事に従事し、この係りで得た経験は、今でも開発途上国の沿岸漁業の漁業管理の指導に役立っている。

例えば、茨城県の鹿島灘海域の漁業について、その沿岸には15の漁業組合があるとすると、それぞれの漁業組合の漁業者が漁獲している水産資源は、あるものはその組合の固有の資源であり、他の水産資源は隣接する各漁業組合の漁業者と共通に利用している。当時の「沿岸漁業係り」の仕事は、単に漁業権の免許するだけでは無く、このような異なる水産資源の利用の実態を十分に調査したうえで、それらの水産資源を乱獲にならないよう綜合的に、且つ最高度に利用するように、漁業組合間で協定を結ばせることであった。

業務内容は、上記のような目的であったので、経験のある先輩に同行して、関係するすべての漁業組合を訪問し、すべての水産資源の利用状態を精査するので、通常1回の出張は3−4週間に及んだ。

2.兵役:1940年―1945年

 比較的直接の上官から可愛がられたのか、熊本予備士官学校を卒業後は、私の原籍である広島留守師団の勤務が長かったが、最終的には1944年6月に動員命令を受け、横浜で乗船した輸送船が八丈島の南方で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、すべての武器、弾薬を喪失したので、硫黄島に行く事無く、父島守備隊で終戦を迎えた。私の所属が広島師団であったので、もし広島に残っていれば、原爆で死んでいたであろう。

3.農林省水産局に復帰:1945年12月

 (1)終戦による帰国

思ったよりも早く復員船が父島にきてくれたので、終戦の年(1945)の12月初めには、広島県大竹に上陸し、復員手続きを済ませ、故郷の広島市によった。汽車が広島市内に入ると、原爆のため、鉄道線路、橋、道路と大きなビルを除いて、焼け野が原であった。早速、広島市のやや郊外の牛田(爆心地から約4km)の叔父の家を訪れると、家は相当に壊れていたが、叔父叔母は健在、さらに家内の里も同じ町に疎開していて、家内も健在であることが分かった。

祖先の墓参り、親戚訪問のため広島市に数日滞在して、家内を連れて東京に帰った。私は陸軍の将校(高等官)であったために2等車に乗車していたが、岡山、大阪のような主要駅に停車するたびに駅員が入ってきて、「今から進駐軍がお乗りになりますから」といって、2等車の「スミ」においやられ、敗戦国の悲哀を感じた。東京に帰るまでに通過したすべての都市は、京都を除いて空襲により「焼け野が原」であった。両親は、戦前は本郷の千駄木町に住んでいたが、井の頭線の東松原に疎開していた。

(2)終戦なのか、敗戦なのか?

 日本は、中国大陸において、米国による蒋介石政権を援助するための援蒋ルートを遮断するための戦闘を長期にわたり続けていた。この時代を「日中戦争」と呼んでいる。その後、1941年12月8日のハワイとシンガポール奇襲攻撃を契機として始まったアジア諸国への侵攻を「大東亜戦争」と呼び、米国、英国のような大国を敵として戦争することになったが、結果的にはフィリッピンは奪回され、続いて沖縄本島は奪取され、広島、長崎に原子爆弾を投下され、1945年8月?日の昭和天皇の勅命により日本は連合軍に降服した。これを、「終戦」といっているが、これは「敗戦」であったのである。そして、日本は敗戦により、連合軍の占領下におかれ、1952年4月29日まで7年間独立を失った。

 (3)農林省水産局に復帰(戦前と戦後の相異)

農林省のすべての局は戦前は比較的皇居に近い大手町の2階建てのバラック庁舎にいたが、戦災で焼失し、私が復員した時は焼け残りのビルに分散し、水産局は日本橋の高島屋の3階と4階にいた。あの近代建築の高島屋もすべての冷暖房機能を失い、敗戦の年の冬は、寒い寒い冬を過ごした。

それ以上に惨めさを感じたことは、日本政府は存在していたが、その主要な政策は、すべて占領軍の総司令部(General Headquarter: GHQ)の指令もしくは許諾なくしては、実施できない状態にあったことである。
GHQは、日比谷交差点に近い「第一生命ビル」にあり、水産政策は丸ビルに近い「内外ビル」に、GHQの下部組織の一つとして設置されたNatural Resources Service(天然資源局:以下NRSと略称)の管轄下にあった。
GHQの一般占領政策は、日本の民主化であり、戦前の政府職員は天皇陛下に仕える官吏であったが、戦後は国民に奉仕する公僕となり、その名称は「公務員」となった。戦前には夢にも考えられなかった、政府職員に労働組合を結成することが許され、デモでは社会主義の歌である"インター“が歌われていたが、そのメロデーは、戦前の歩兵の歌、「万妥の桜は襟の色… …」と全く同じであるのに驚いた。

占領直後のNRSの日本にたいする漁業政策は、

  1. 日本列島を取り囲むように「マッカサー海域」が設置され、漁業の操業は、この水域内でのみで許可する。
  2. 漁船の新造は許可しない。という大変に厳しいものであった。

(4)敗戦後の水産局における私の仕事

私が帰国した時は、既に戦時中から開始されていたすべての私生活に必要な日用品は、日本人の主食である米を初めとして、衣類、塩、タバコにいたるまで、配給制度が継続されていた。政府が決めた配給量だけでは不足であるために、農村への「買出し」、不当に高価な「闇市」が新宿、新橋、上野などが横行していた。日本人の蛋白源である魚は政府の決めた「公定価額」で売ることになっていたが、そんな価額では到底買うことはできなかった。

これを見兼ねたNRSは、敗戦の年(1945)の12月の初めに、「九州と中国大陸との中間の東支那海で操業するトロール・底引き網漁業(以下“以西底引”と略称する)に限り、新船の建造を許す」というものであった。その理由は、

  1. 東支那海の底魚資源は戦時中に漁獲されなかったために著しく回復していた。特に、五島列島の野母岬沖のレンコ鯛の資源は驚くほど回復していた。
  2. 50トン以上のトロール・底引き網漁船で操業すれば、極めて効率的に大量の漁獲が可能である というのが、その理由であった。

私の水産局に復帰した時は、丁度このような特別許可があった時であったために、否応なしに、その担当係りの一員として配置された。
この係りの業務内容は、簡単にいえば、この“以西底引”の“許可証”を発行する係りであったが、このような大型漁船は大東亜戦争で徴用され喪失していたので、「新造船が竣工したら、その時点で許可をします」という“事前承認”という制度が設けられ、“事前承認”を得た者には、下記のような特典があたえられていた。

  1. “以西底引”に使用する漁船に限り、新船建造の許可が与えられること。
  2. 戦後新設された“復興金融公庫”から新船建造のための融資が得られること。
  3. 新船建造が完了し、海運局の運行許可と水産局の漁船登録が終わると、農林大臣の漁業許可証があたえられること。
  4. 配給統制下にあった燃油、漁網など優先的に購入ができること。

という仕組みになっていた。

このような有利な政策の恩恵にあずかろうとする申請者は多数を極め、敗戦の翌年(1946)は毎日午後5時の勤務が終わると、焼け跡に残った築地の料亭で接待を受け、家に帰って夕飯を食べたのは殆ど無かった。中には、新聞紙に包んで「海苔で御座います」といって現金5万円を家まで持ってきた申請者もいた。喉から手が出るほど欲しかったが即座に返した。

こんなことをしている間に、1946年の後半になって、東支那海の底魚資源は、将来東支那海を囲む日本、韓国、中国との間の漁業交渉で利用することになるから、以西漁業者から提出される「漁業成績報告書」を使用して「漁場別漁獲量統計」を作成するために、福岡に「水産局福岡事務所」を設置することが決まったので、私は即座これに応募した。

このことが、水産行政の骨幹である(@)沿岸漁業の漁業権免許、(A)資本漁業の漁業許可の経験を得ると共に、水産統計を私のLifeworkとする動機となったのである。

(4)水産局福岡事務所での仕事(1947-1952)

この事務所の仕事は、@以西底引き網漁業の指導、監督と、A以西底引き網漁業の漁場別統計の作成であったが、わたしは後者を選んだ。

この事務所が開設されて数ヶ月もしないうちに、かつて水産局の漁政課長であり、水産局福岡事務所開設の創始者である塩見友之介氏の突然の来訪があり、「正確な米の生産量統計作成のために、農林省に「統計調査部」ができたが、近い将来には、この統計調査部で漁業生産量調査もするようになるから、私にそのための試行標本調査をするように」との内示があった。よって、私が水産局福岡事務所で従事した調査は、

  1. 東支那海で操業する以西底曳網漁業の「漁業成績報告書」の収集と、それに基ずく漁場別魚種別漁獲量統計の集計。
  2. 沿岸漁業漁獲量推定のための標本調査法の開発。

前者は、底曳網漁業の水揚げ港が下関、福岡、長崎に限られ、底曳網漁業の許可を受けて漁業者は、魚種別漁場別漁獲量を報告することを義務づけられていたので、統計調査の方法については何も問題はなかったが、当時はパソコンも無く、ソロバンによる手集計で大変だった。この調査の開始当時は、GHQが定めた日本漁船に許可し漁場(マッカーサー ライン)が東支那海の西半部(九州依り)に限られていたが、操業が許可されていない東支那海の東半分で操業した漁獲量を西半分と虚偽の漁場報告が多かったので、集計結果の利用価値が余りなかったが、占領が終結して、漁場制限が無くなってからは、この漁場別統計が正確になり、この統計を使用して学位論文を作成した人は10人以上にも達した。

後者(沿岸漁業の漁獲量標本調査)は、当時の九州大学理学部に数理統計学の泰斗である北川敏男教授がいて、私の勝手に考案した標本調査は「それは山本君、“二重抽出比推定”だよ」ということで、同先生から多くの推計学についての薫陶を受けることになった。北川先生のお蔭で、品質管理で有名な米国のDeming、農産物の生産量の標本調査の先駆けをしたインドのMaharanobisにも会う機会を得た。

また、この福岡事務所で得た経験を素材にして、後日「漁獲統計表調査法」という本を刊行したところ、「標本調査の方法を分かりやすく書いてある」というので、水産統計以外の人まで買ってくれて、その「原稿料」は私の貧しい家計の助けとなった。

他方、福岡事務所に在任中に、“所長にならないか" という内示あったが、これを受諾すると、当時始めたばかりの「沿岸漁業の漁獲量標本試行調査」出来なくなるので、この昇進を辞退した。このことは、後日の農林省内での私の昇進に大損をした。

4.農林省統計調査部に出向(1951−1962)

1951年以降 前後11年にわたる農林省統計調査部における私のした仕事は、私の人生の大きな土台となった。

(1)農林統計調査組織の拡大

敗戦直後の農林省の最も大きな課題は、「如何にして日本人の主食である米を増産するか、そして米の配給制度運営に必要な精度の高い米の生産量統計を求め、それに基づく農家から公平な米の供出量を決定するか」の課題に迫られていた。

この課題を解決するために農林省の官房に所属していた小さな「統計課」は、1948年に一挙に、「農林統計調査組織」(正確には農林省農業経済局統計調査部)が生まれた。この農林統計調査組織は、各県に農林省直轄の統計事務所とその出張所を開設し、職員の総数は最盛時には15,000人に達した。

この「農林統計組織」は、敗戦により職を失った海外からの引揚者の絶好の就職口となると共に、世界に比類のない統計組織となった。この「農林統計組織」は米の生産量の標本調査で始まったが、次第に調査内容を拡大し、1951年にはこの組織の中に「水産統計課」が新設された。

(2)水産統計課での仕事

私は福岡での経験があるので、水産統計課長と目されていたようであるが、既述のように福岡事務所の所長昇格を意識的に断ったので、同課の漁獲統計班長を担当した。もっとも、1951年に本省に水産統計課が出来た時の私の年齢は33歳で、課長昇格にはあまりに若く、結果的には旧満州の満鉄勤務の引揚者 北原恒造氏(東大農学部水産学科卒、39歳)という水産統計の「す」の経験もない人が水産統計課長になった。この人とは結果的、10年もお付き合いすることになったが、時として「俺は東大出だよ」と、おっしゃることが気になった。

「水産統計課」は、漁獲量統計調査班の他に、漁業センサスと漁業経済調査を担当する班に分かれていた。他方、占領軍司令部の水産を担当するNRSは、日本の漁業が過去の経緯からみて、水産資源を乱獲するであろうことを重視して、水産庁の傘下に新たに7つの「海区水産研究所」を新設することを勧告したこともあって、私の担当した漁獲統計班の成果はこれらの水産研究所の研究者に高く評価され、私自身もこのような自然科学系の仕事をしたいと思っていたので、この漁獲量調査そのものは大変に困難であったが、満足していた。

それに対して、漁業センサスと漁業経済調査は社会経済分野の統計調査であったので、これらの仲間と一緒に水産統計課の中で仕事をすることが出来たことは、私の知識を自然科学のみならず、社会科学にも広げることができて、私の人生にはかり知れない経験となった。

(3)私の英語

私は開成中学在学中から、英作文と英会話に興味を持っていた。そんなことで、戦争中も私の部下にハワイ生まれの二世がいたので、それとは英語で話すことにしていた。そのため、私が水産局福岡事務所に在任中に占領軍政府のNRSの部長(実質的には水産部長)のHerrington氏がしばしば福岡に来たが、私は何時も、東支那海の底曳網漁業の水揚げ状況の視察と漁場別統計の進行状況について同氏に直接英語で説明していた。

Herrington 氏は私の福岡におけるトロール、底引き網漁業の漁場別統計調査を大変に高く評価してくれていた。そんな理由で、彼がNRSを退任して帰国する時に東京駅前の工業倶楽部において盛大なFarewell partyを開催した。その時には私は既に水産庁を離れて統計調査部にいたにも関らず、私を招待してくれた。このPartyに参加してみたら、招待されたのは全部水産庁の課長クラス以上の幹部であった。水産庁のある課長が「山本君、君は課長でもないのにどうしてここに来ているのだ」と聞いてきたことを今でもよく覚えている。

私は、後日アメリカに行くことがあったので、彼と電話で話す機会があり、この話をしたところbecause I respected you"という答えがあった。

(4)私の初めての海外旅行:1952 Bangkok FAO 水産統計訓練センターに参加

私の海外旅行は、1952年4月29日に日本が漸く再独立をして2ヶ月もしないうちに発生した。1952年の5月初めに、国連の FAO (食糧農業機構)から6月の初めからタイのBangkokで、8週間の水産統計の訓練センターを開催するので、研修生を派遣されたい。ただし、東京からBangkokまでの往路のAir Ticketの代金は派遣国負担、帰路のAir Ticketと滞在費はFAOが負担するというものであった。

当時のことであるから、どうやってドルを確保するか、「渡航審議会」への渡航許可の申請、パスポート申請、タイ国への入国ビザーの申請、航空会社の選定(まだ日本のJALは無かった)、Air Ticketの購入、海外渡航用のトランクの購入等々、私の未経験なことばかりであった。海外旅行のAir Ticketを扱う日本の旅行会社も無く、JARDINというアメリカ系のAgentの勧告で、飛行機はオランダのKLM(アムステルダム行)で、羽田午後9時発、マニラ経由、バンコック行きに決めた。

この当時は、農林省の一職員が飛行機で外遊するなど夢にも考えられなかったので、水産統計課の課員50名の総員が農林省のバスを借り上げて、羽田空港に見送りにきてくれた。
というよりも、かれらは、私の見送りよりも、当時の羽田空港と飛行機が見たかったのではないかと思う。

当時の羽田のAir Terminal Buildingは縦横約10m平方の2階建ての小さいビルであった。搭乗した飛行機は双発のプロペラ機で中央廊下の左右に2席しかなく総座席数は150位で、今のようにFirst class,Business class,Economy class は無く、すべての客はFirst class扱いで、酒類は飲み放題だった。そのことを知らなかったので、すべて“No thank you"といってしまって大損をした。私の座席は廊下側で、窓がわのお客は正金銀行(後の東京銀行)の山崎さんでロンドンに支店を再開店に行く人で、飛行機の乗り方について色々と教えてくれた。

飛行機で1夜を明かし、マニラ空港に到着し、1時間の休憩で米軍のナマコ型休憩室に案内され、ヒリッピン人のBoyがCoca Colaをくれながら、私にAre you Japanese?と聞いてきたのにはビックリした。Bangkok空港に無事到着、飛行機のDoorから出ると途端にムッとする猛暑にびっくり、タラップを降りて、Terminal Buildingに歩いてゆくと、入り口にGround Hostessがいたので、What Shall I do?と聞いたら、聞かれたほうがビックリした。他国に入国するときは、Passportによる入国検査、携行荷物の税関検査があるということを知らなかったのである。
入国検査が終わると、タイ政府水産局の職員がJeepで迎えがきていて、空港から1時間もかかるBangkok市内の国営タイ鉄道の駅ビルのHotelに案内してくれた。

Bangkokの市内に近づくにしたがって驚いたことは、(@)すべての商店の看板がタイ語、英語と漢字で書いてあること、(A)歩いている人の3分の2が裸足であること、(B)出産年齢と思われる婦人の大部分がお腹が大きい(妊娠している)こと、(C)漢字で「産留」(お産婆さん)の看板が多いことであった。当時は、日本もそうであるが、世界的な人口の爆発期であったのである。商店の看板に漢字が書かれているということは、タイの商業は華僑に握られていることを意味していた。後日、FAOの専門家になって、東南アジア諸国を歴訪するようになって、東南アジア諸国の経済は極端にいえば華僑に握られているということを知った。

東南アジアに進出している華僑の出身地のすべては中国南部(台湾の対岸の福建省以南)で、それらの東南アジアへの移民は160年位前からで、それほど古くない。移民先の国の土地は原住民が所有しているので、華僑の唯一の収入を得る道は商業、それに次いで海洋資源は無主物であるので、海面漁業であった。東南アジア諸国のトロール、巾着網漁業のような資本漁業の経営者は殆どが、華僑である。

FAO主催でBangkokで開催された水産統計のコースの主任講師はインド中央政府農業省の統計研究所の所長のPanse博士で、講義の内容は標本理論と、それの基づく漁獲量推定標本調査の設計と、その実習であった。Panse博士の講義は、非常にキレイでユックリした明確な英語による講義であったが、私にとってはすべて習得済みの内容であった。

このコースの参加者は、東アジアからは、韓国、日本、中国(台湾)と香港、東南アジアからはフィリッピン、ベトナム、カンボチャ、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、南アジアからはインド、パキスタン、セイロン、ビルマと16カ国であったが、日本を除いては各国からの参加者は2名以上であった。

私にとっては、このコースの講義内容はすでに十分に習得済みであったが、日本以外の国からの参加者にとってみれば、標本調査理論で日常的に使用される 度数分布、標準偏差、標本抽出による誤差、推定値の精度などのTechnical termsが多数出てくるので、遂に私に夕食後に毎晩補講を頼まれ、当時の私の英語はつたないものであったが大変に好評であった。
とはいえ、私のこの訓練センターへの参加は、アジアの各国に多くの知己を得たので、後日の私のアジアでの活動に多大の裨益となった。FAOは、後日これと全く同種の訓練コースをインドのBombayで開催し、そのときは私も講師として招聘されたが、どちらのコースもアジア各国の水産統計の改善には役立っていない。その主な理由は:

@.米の収穫量調査のように、収穫期が年間の中でほぼ一定していれば、収穫期か終わればその年の調査は終了するが、漁業生産は周年継続する。

A.漁獲量標本調査は、漁獲物の水揚げ地を抽出し、標本水揚げ地については標本日を抽出し、さらに標本日の水揚げ漁船を抽出することになっているが、漁獲物の水揚げ時間は早朝、もしくは夕方が多く、それは通常の勤務時間外となる。

私は、このような標本調査の実態を、インドとエジプト(インドの専門家が指導)でも見たが、実際の調査は数理統計学者が設計したようには行われていない。同じ調査の毎日の繰り返しであるために、実際の調査をしないで、仮想数値を報告し、最終的には、調査員が退職してしまうからである。

(5)FAO Fellowshipに合格とその効果

私は統計調査部に在任中に「将来は何とかして外国で働きたい」という強い希望を持っていた。日本は、連合軍による占領が終わり、1952年に再独立したが、その後数年は国連から見れば「未開発国」と見なされていた。そのため、日本人はFAO(国連の専門機関の一つで農林水産業を担当)のFellowshipに応募する資格があったので、これに応募した。国連の規定で、応募者は 英語のReading, Writing, Speaking and Hearingのそれぞれについて相当の能力があることを証明する書類を提出することになっていた。そのため、農林省の英語試験を受け、次いで外務省の試験を受けた。

農林省の試験問題は、すべての農林水産業に関係した英語であったので無難に合格したが、外務省の英語テストの中で、Hearingの試験方法は、Dictationで、試験官が今日のテーマは“Cancer"ですといって、Cancerについてのある文章を読み上げ、「その内容を回答用紙に日本語で書け」という方法であった。私はこのCancerの意味が全く分からなかったので、Councilと思って、適当に答案を書いた。

外務省の英語Testの結果はそのままFAOに報告されたので、FAOから「山本はHearingの能力を磨いてもう一度応募するように」との回答があった。外務省の試験は三か月毎に行われるので、私は、仮病をつかって慶応病院の伊豆にある温泉病院に入院して、その間毎日「Japan Times」の社説を読んで一般英語の素養を磨いた。外務省の次のDictationのテーマは、「Malaysian Constitution:マレーシアの憲法」で、極めて容易に解答することができた。

その結果、FAOから6ヶ月間のFellowshipを貰い、インド、セイロン、エジプト、イタリー、フランス、デンマーク、ドイツ、英国を訪問することができた。私はすでに水産統計については相当に勉強していたので、その面での余り得るものがなかったが、それぞれの国の異なる文化に接することができたことが、後日に役立った。むしろ、訪問した国によっては、日本の漁業の講演をさせられた。

私は、このFAO Fellowshipを得たことが動機となり、加えて日本の水産行政の経験もあったので、後日の各種のFAOの主催する各種の作業部会の専門家、または訓練センターの教官に招待されるようになった。それらに参加する旅費はFAO負担であったので、農林省からの海外出張命令は「○○国に出張を命ず。ただし旅費は支給しない」というものであった。

それらのうちで、インドで開催された「水産統計訓練センター」は旅費以外に、かなりの謝礼がドルで支払われ、当時の為替レートは1ドルが360円であったので、その謝金の半分で小田急沿線の相模大野駅の近くの50坪ばかりの土地を買い、住宅金融公庫の融資で自分の家を持つことが出来た。残りの半分は、家内の主張で娘のためのピアノに当てた。

(6)思い出のジュネーブ会議:1968

私の多くの海外出張の中で、唯一の農林省の海外出張旅費で参加したのは、FAO農業統計部主催の「農業の社会勘定における西欧圏諸国と東欧圏諸国との比較」と言う会議であった。この会議は、農業が生み出す国民所得を推定するに当たって、資本主義国と共産主義国との間で、「何と何を農業が生み出す国民所得と見なすかについて、多少の相異があるので、それをどうするか」という会議であった。私は農業統計をやったことがない。しかも戦時中は共産主義の「共」だけ言っても、「特高警察」に取り押さえられる時代に育ったので、「共産主義」がどんな内容かも知っていなかった。農林省の統計調査部には、農業の社会勘定の専任担当官がいたが、当時の統計調査部長は、私の英語力を認め、私が指名されたのである。

そんなことで、「経済企画庁」の国民所得の担当官を訪ねたら、それは大変に興味ある課題だから是非行ってらっしゃいと激励された。結局、私の「俄か勉強」で分かったことは、資本主義も共産主義も「最終目標」は「すべての国民の収入、生活水準をよくする」ということで、何らの相異はないが、その政策目標を達成するための手段が違うということであった。

しかし、この会議に参加したことは、各種の国民所得の理論と計算方法、それらに基づく生産指数の計算方法などを知り、私の一生の中で本当によい勉強になった。

この会議は1968年に、スイスのジュネーブにある“Palais des Nations"で開催され、その建物の"素晴らしさ“と"荘厳さ”、さらに英仏語は勿論であるが、日、露語までもできる通訳がいたのにはビックリした。また、会議そのものの内容も”得る”ものが多々あった。“Palais des Nations"は仏語で、”世界民族の宮殿“を意味するものと思われ、戦前の「国際連盟」の本部があった建物であるが、現在は、その建物の一部は、WHO, ILO WTO等が利用し、また各種の国際会議の場となっている。

私にも日本の農業統計の組織とその統計の内容を話すために1時間を与えられたので英語で説明した。ソ連からの代表は“ソ連では全国民がStatisticianである”との説明をした。その理由は、「ソ連では中央計画経済政策をとっているから、経済の末端まで“ノルマ”が与えられているからである」と述べたのは今で印象に残っている。

(7)京都大学より農学博士の学位を取得

統計調査部在任中のもう一つの思い出は、京都大学農学部から論文による農学博士の学位を得たことである。私が水産研究所にいれば、研究の一環として論文が書けるが、統計調査部のような半ば行政機関にいたのでは、それはできないので、論文の作成はすべて自宅でしなければならなかった。
私は農林省の統計調査部に足掛け11年在任し、その期間に私と同年時に水産局に就職した連中は全部課長に就任したが、私は万年班長に終始した。その理由は、既に述べたように、統計調査部の創設の際に、戦前の日本殖民地から私より遥か年配者を多数採用していたからである。

5.コロンボプラン専門家として、タイ水産局に勤務:1962年

1960年の秋であったと思う。韓国で開催されたFAOのアジア地域の漁業会議(Indo-Pacific Fisheries Council:以下IPFCと略称)に参加したタイ水産局のDr. Debが、その帰途に突然私の勤務する農林省統計調査部に現れて、私に「タイの水産統計の改善を援助して欲しい」といってきた。どうして私を知ったのかと聞くと、彼が米国のワシントン大学(Seattle)在学中の教授から勧告されたというのである。というのは、既述の1952年にBangkok で開催された水産統計の研修センターの時に、参考資料として携行した私の英文の日本の漁獲量標本調査の報告書がFAOで印刷され、ワシントン大学にも配布されていたのである。

このことが動機で、私は現在のJICAの前身であるOTCA(海外技術協力機関)からコロンボプラン専門家として、課長待遇の身分でタイの水産局に1年間派遣された。タイに在任中に、2年おきに開催されるFAOのアジア地域の漁業会議(IPFC会議)がマレーシアのクアラルンプールで開催されたので、OTCAの許可を得て参加し、アジア諸国の水産統計の改善のためには、先ず「漁業センサス」をすることが必要であることを提案したところ、満場一致で可決勧告された。そのためにはFAOのBangkokにあるアジア地域事務局に「FAO Regional Fishery Statistician」のPostを設置すべきである」あるとの認識が、FAO本部は勿論、タイの水産局長、私の所属する農林省統計調査部長からも支持が得られた。後日私がFAOのBangkokにあるアジア地域事務局に勤務するようになったのは、これが動機であった。

他方、タイの水産局勤務中は、(@)タイの水産局の要請に応じて、1960年から急速に発展したトロール漁業の漁場別漁獲統計調査を指導し、(A)タイの統計局(NSO)には、1969年に初めて実施された漁業センサスについての技術協力をした。

当時、私は単身赴任をしていたので、日本の夏休みには家内を自費でBangkokに呼んだ。JALの往復Air Ticketを買ったので、往路はJALで来たが、帰りのJALが何かの理由でキャンセルになったので、帰途は“Air Franceに乗ったところ、Dinnerの一部に缶詰があったので、よほど美味いものが入っていると思って、お土産に家に持って帰って子供の前で開けたところ、中身は水(フランスのエビアン)だったという逸話が残った。

FAOのBangkokにあるアジア地域事務局に勤務することが決まったので1963年の12月末には帰国した。タイ水産局の多くの幹部が“またすぐ会おうよ”といってBangkokの空港に見送ってくれた。

6.FAO勤務:1964−1979

私はFAOの停年(60歳)まで、FAOのアジア地域事務局に在勤して、アジア諸国の水産統計の改善を技術援助するつもりでいたが、結果的には (@)BangkokのFAOアジア地域事務局2年、(A)RomeのFAO本部勤務1年、(B)再びBangkokのFAOアジア地域事務局6年、(C)JakartaのFAOのIndonesia漁業技術援助Project 5年,(D)DakarのFAOの中東大西洋地域Project 1年と、1964−1979の15年間の間で5回転勤した。

(1)FAOアジア地域事務局勤務:1964−1966

私が初めて勤務することになったFAOアジア地域事務局の当時の名称はFAO Regional Office for Asia and The Far Eastであった。ここで注目すべきは“The Far EAST"という用語である。戦前の国際連盟にしても、戦後の国連にしても、欧米を中心として作った国際機関あるから、欧米からみれば日本、韓国、中国は"Far away”であるから、「Far East(極東)でよかろう」というのが語源のようである。我々東洋人からみれば随分失礼な用語である。これに気がついたのか、現在は「FAO Regional Office for Asia and the Pacific」(以下RAPAと略称)となっている。

RAPAの職員は、(@)Regional Representativeと Deputy R. R.、(A)Professional Staff(以下PSという。約35人)、(B)General Service(以下GSという。約45人)に分かれていた。

このように書くと、PSはRegional Representative の統轄下にあるように見えるが、そうはなっていない。PSの実務は、FAO本部が決めた二つの要素、すなわち(@) Terms of Reference(業務内容)と、(A)年間に使用可能な旅費枠(例えば5万ドル)が予め決められているので、個々のPSはそれらの二つの枠内で、各自の自由に決められるのである。日本のようにすべてを上司の決済を得る必要はなく、出張をふくめて一切の行動を自分で決めることができた。

日本の農林省のような出勤簿も無い。土曜日、日曜日は連休。タイの祭日は休み、それに加えて、日本の祭日のどれかを1回休むことが許されていた。私は、これまで、こんな快適な業務をしたことはなかった。

あえていえば、我々PSは、それぞれの業務内容に即応して、FAO本部にGod fatherと称する業務連絡担当官が決められていて、その担当官と密接に協議、報告するようになっていた。私のGod fatherには、FAO水産部経済課のDomehl Butler(英国人)で、私の業務内容を非常によく理解してくれたので、私のRAPAでの勤務はまさに快適そのものであった。

General Serviceの職員は殆どがタイ人で、各Professional staff 1人ごとの秘書兼タイピストと、RAPA全体の事務系の職員と公用車の運転手である。
私のFAOから与えられた職名は“FAO Regional Fisheries Statistician"(FAOアジア地域水産統計官)で、日本を含めてアジア、大洋州のすべての国に水産統計を指導することになっていたので、私は、日本の農林省統計調査部の水産統計課長となる機会を失したが、実質的にはアジア全体の水産統計部長になったような気分であった。

なお、私のようなPSとRAPAのRegional Representative との関係は、各PSがFAO本部ならびに加盟国へ送付する文書はすべてその「写し」を送付することになっていたので、我々の行動はすべて自動的に報告されるようになっていた。それ以外には、1週間に1回の割合で開催されるRAPAの定例会議(1時間程度)に参加して、FAO全体の動静、RAPAの一般事項などをきくことであった。

後日になって分かったことであるが、「上記のようなPSと上部管理者との間の業務の仕組みはFAOの本部でも、同じようになっている」ことが分かった。PSの階級は、P1からP5まで分かれており、その数が多いほど責任は重くなっていた。私の場合はP4に格付けされていた。繰り返しになるが、FAOの本部でも、組織図をみると、部長、課長、係り長のようになっているが、それぞれのPSは、すべて固有のTerms of Referenceを与えられ、その範囲内で自主的に自分の仕事内容を決めて実行するようになっている。それぞれの上司から「あれせよ。これせよ。」ということは無いのである。
このような仕組みは、当該のPSが、与えられてTerms of Referenceに適任でない人であると、関係の外部機関、FAO加盟国に大変に迷惑をかけることになる。

初めて、FAOの職員に任命された人には必ず1年の任期で採用され、その任期中の業績が悪いと、その任期終了と同時に、本人には無通告で「帰国手続き」がとられ、自動的に解任されるようになっている。

私の場合は、最初の1年終了と同時に「Program appointment」の通知を受け、FAO加盟国から私の職種に対する要請があるかぎり、FAOの停年までFAO在職が保障されたので、日本の農林省は休職扱いになっていたが、辞職願を提出して農林省を辞職した。

上記は、私の国連のFAOに勤務したことは、私と私の家族の生活ならびに私の将来について、以下のような多くの裨益を得た。

(@)国連の職員は“治外法権”の扱いを受けているので、支給される俸給は無税、輸入品はすべて無税、駐在国で法律違反をしても無罪ということになっていた。タイに在任中は、勿論国連の発行したLAISSEZ−PASSER(国際公用旅券)を持っていたが、それ以外にタイの警察が発行したタイ語の証明書を持っていたので、誤まって交通違反をしても処罰されることは無かった。

無税で自家用車を輸入できた時の家族の喜びは今でも忘れられない。当時の国家公務員の俸給では自家用車を持つことなど夢にもよらないことであった。それ以上に私の将来に裨益を受けたことは、Bangkokはアジアの中心地であったので、国連のアジア地域事務局(ECAFE)のみならず、国連の専門機関であるFAOを初めとし、UNESCO, ILO, WHOなどがBangkokにアジア地域事務局を設置しており、それらの地域事務局には何人かの日本人の職員がいたために、それらの方々との交流ができたことである。それらの大部分の方は東大卒、かつフールブライトで米国に留学した人で、私のように専門学校卒という人はいなかったが、FAOに勤務する限り、そのような学歴差罰は全く無かった。

Bangkok には戦前に英国が作ったという大変に気品の高い“Royal Bangkok Sport Club"があり、ゴルフ、テニス、水泳などのすべての施設があり、このクラブの会員に応募し、面接試験に合格すると、家族全員がこの施設を利用できた。私と家内は、ここで始めてゴルフを始め、家内は何度か優勝し、娘の一人はテニス気違いになった。

他方、Bangkokには、日本人の国連職員の夫人だけの“木曜会”というのがあって、毎週どこかのHotelで会合を開き、家内はそこでブリッジ等のゲームをして大いに優雅な生活を楽しんでいた。

Bangkokの最初のRAPA在任中に韓国、台湾、フィリッピン、ベトナムなどの水産統計の指導を行い私の仕事が軌道に乗り始めたところにFAO本部から、「World Food Program(世界食糧計画)の水産部門を手伝うためにFAO本部に約1年来て欲しい」との要請があったので、FAO本部への転任を承諾した。

ただし、この時に、アジア諸国の漁業生産量統計は、日本、韓国、台湾、マレーシアを除いては、実際に調査した生産量統計は無いので、私がFAO本部で何をするか、ほぼ分かっていた。

(2)FAOローマ本部の勤務:1966−1967

私はローマに着任して、先ず一番にFAO水産部の水産統計主任のGertenbach氏に会い、「一体私はFood Programに関連して何をするのですか」を聞いたところ、「あなたはアジア各国の水産統計を作るんだ。山本はアジア各国の漁業をみているので、それが出来るのは君しかいない」というという返事が返ってきた。それに対して、私は「私はStatisticianであって、Magicianではありませんよ」と答えたら大笑いになった。漁獲量統計がないのはアジア諸国のみではなく、アフリカ諸国も同様で、アフリカについては、すでに私のような別のFAO専門家が、すでに着任していた。
この世界食糧計画は、1965年を基準年次とし、1975年、1980年の漁業生産量(水産物供給量)を予測することを目的とし、水産部門の責任者はRobinson氏であったので、この人と相談しながら、適当に英文の報告書を作成してお茶をにごした。

しかし、私にとってのこのFAO本部での仕事は短期であったが、“Rome can not be built in a day." あるいは "Rome is the capital of Europe."の諺があるごとく、Romeは限りなく見物するものがあった。それどころか、Italyにはベニス、フィレンツエ、ナポリ等見物するところに事欠かなかった。都市の郊外は限りなく美しい。土曜、日曜の連休は勿論、時には10日間くらいの連休をとって、自動車で見物した。

イタリーには、北欧から来る人と,米国から来る人が多かった。北欧から来る人は「太陽を浴びに来た」と言い、アメリカ人は「ここが我々の祖先のいたところだ」と感慨深くローマを見物していた。イタリー北部のスイスの国境に近いコモ湖地域に行ったときは、桜の満開時期で、その美しさは今でも忘れられない。桜は、何も日本だけのものではないことを知った。

(3)再びFAO RAPA勤務:1967−1973

ローマのFAO本部の勤務を終わり、再びバンコックのFAO RAPAにおいて、1973年3月まで、アジア各国の水産統計の改善を続けた。

この間に訪問した国は、韓国、中国(台湾)フィリピン、ベトナム、カンボチア、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ビルマ、インド、東西パキスタン(現在のバングラデッシュ と パキスタン)、セイロン、ネパール、オーストラリア、ニュウジーランドと17カ国に及んだ。それらの国の中で、私の勧告で漁業センサスを実施した国は、韓国、中国(台湾)フィリピン、タイ、インドネシアであった。

そろそろ、漁獲量推定標本調査の指導を始めようとしていた1973年の始めに、FAO本部から、私のFAO Regional Fishery Statisticianのポストは無くなるので、インドネシアに転任するようにとの通知があった。私は当時「私の一生をFAOの定年までRAPAにおいてアジア諸国の水産統計の改善に尽くすつもりであった」ので、私にとってはこの通知は寝耳に水であった。
私自身のみならず、RAPAのRepresentativeもFAO本部に対して最善の努力をしてくれたが、効果なく、最終的には、私の待遇をP4からP5に格上げするからIndonesiaに赴任して欲しいということになった。

私のインドネシア赴任に当たっては、RAPAのRepresentative は異例な盛大なFarewell Partyを開催してくれた。他方、バンコクで国連勤務をした人が離任する時は、在任中のお世話になったという意味で、誰でも自費による“さよならParty”をするのが恒例となっていたが、私はそれをする気にならなかった。

(4)私のインドネシア勤務:1973−1978

はしがき 私の一生の中で、インドネシアの5年間の勤務は、仕事の上では同国の水産統計組織の発展のために充実した援助が出来て、その調査方法は今でも継続実施されていることを喜んでいる。ところが、同国の技術援助に対する受け入れ態度と毎日の日常生活では、前の任地であるタイとくらべものにならない困難に遭遇した。

インドネシアという国 インドネシアは東南アジア10カ国のなかで、国の面積でも、人口でも、また海面水域の広さでも最も大きい国である。東西の幅が広いので、Local timeが3つもある。人口は私が着任した1973年頃は1億5千万であったが、現在(2004)は2億4千万となっている。南北の幅も赤道にまたがって非常に広い。島の数は全国で3,000余といわれているが、主な島はジャワ、スマトラ、セレベス、カリマンタン(ボルネオ島の南半分)、モルッカ諸島、西イリアン(Papua New Guinea島の西半分)である。

ところが、人口の65%はジャワ島に住んでいる。ジャワ島の人口密度は世界一高く、他の島の人口密度は極度に低い。インドネシアでは、ジャワ島のみをInner Indonesiaと言い,それ以外のすべての地域をOuter Indonesia と言っている。この地域区分は明確な行政地域区分ではないが、ジャワ島の住民を満足させるような政治をすれば、政権は安定するという意味が含まれているようである。そのためか、水産総局の職員の出張先は圧倒的にジャワ島のどこかであった。

宗教は当初は仏教国であったといわれ、その実証は中部ジャワの仏教遺産「ボルブドール」にみられ、その後にヒンズー教国になり、現在は圧倒的な回教国となっているが、一部にキリスト教も見られる。ヒンズー教は、世界の楽園と言われるバリ島の南半分のみに存続しているが、政府も国民もそれを誇りとしているようである。

インドネシアは非常に長期にわたりオランダの殖民地であった。その期間は、日本の徳川幕府が長崎県の平戸と長崎に限ってオランダに門戸を開いていた時代とほぼ一致し、両国の歴史は、日本の女性がインドネシアに連れ去られた「ジャカルタお春の哀話」で有名である。

日本は、大東亜戦争の末期に2年余の間この国を占領した。インドネシアは、日本の敗戦と同時に独立を宣言したが、旧宗主国のオランダが再び植民地として奪回しようとして、数年間オランダ軍と戦闘し、最終的にはインドネシアが独立を勝ち得たことを「誇り」としている。インドネシアの初代大統領スカルの第3夫人デビは日本人であり、第2代大統領のスハルトは、日本が同国を占領中にインドネシア軍を創立するために、「大隊長教育」を受けたときの一人である。インドネシアは広大な国であるために、いくつかの地域ごとに異なる言語が使用されていたが、日本軍の統治中に現在のインドネシア語(Bahasa Indonesia)に統一されたといわれ、各種の行政、統計の収集を容易にしている。

独立直後は同国の石油資源が重視されたが、資源量は期待ほど大きくはないようである。鉄鋼資源は全くない。林業資源はSumatraとKalimantanに豊富にあったが、その伐採と輸出が進み、開発の限界にきている。長年にわたり、米の収穫量は国内需要に対して不足していたが、最近は、政府による灌漑事業の進展と肥料の増配により、自給自足の状態にある。茶、コーヒー、ゴムなどの企業的農業は輸出産業の一翼を担っている。

インドネシアの漁業とFAOの技術援助 インドネシアの海洋水産資源は、カツオ、マグロ、サワラ等の浮き魚類、底魚類、えび類など極めて豊富である。内水面漁獲漁業の生産も、カリマンタンとスマトラ島で相当な生産がある。養殖は、伝統的にMilk fishと鯉の生産が盛んであるが、最近はエビ養殖の生産が増えている。

私がインドネシアに駐在した1970年代は、漁船の動力化、豊富なカツオ、マグロ資源の国営漁業による開発、大型漁船の乗組員の養成、新漁業資源の開発などが政府の基本政策であったので、FAOは同国に下記の二つのProjectを供与していた。

  1. Fisheries Management and Development Project:(Jakartaの水産総局を根拠)
  2. .Fisheries Training Project:(中部ジャワ州の水産総局所属の漁船員養成所根拠)

前者はインドネシアの漁業の総合的発展の援助で、Project Manager, Fish Marketing Officer, Fishery economist, このProjectのために建造した調査船の船長、機関長、カツオ漁業専門家、沿岸漁業開発専門家、水産統計指導官等で構成されていた。 後者のProjectは同国の資本漁業の乗組員の養成であった。

私は前者のProjectに設けられたFishery Statisticianとして勤務した。当時の水産総局の局長はNizam海軍准将、次長はChipto海軍大佐で、それ以外の局員の大部分はボゴールの国立農科大学の水産学科卒であった。インドネシアは全国を34の州に分けているが、この当時は、それらの州知事の大部分は陸軍もしくは海軍の出身者であった。

私は、着任早々にインドネシアの水産統計を改善するには、まず漁業センサスをする必要があることを水産総局長に進言したところ、それは即座に受け入れられ、当然のことであるが、水産総局長は私と同道で中央統計局長(非軍人)に会いに行くと思っていたら、「某月某日に中央統計局長を水産総局に招待した」という知らせを受けた。統計局長を呼びつけたのである。
私は、この会議に同席したところ、水産総局長から中央統計局長に対する要請は「Java, Sumatra, Baliの3島の海面漁業と汽水養殖に限定して漁業センサスをして欲しい」。それに対する、中央統計局長の答えは、技術的質問、予算問題の意見交換もなく、即座に「Yes」であったのにはビックリした。私にとっては、これはあたかも軍命令のように見えた。

私は、FAOのRAPA在任中にインドネシアの統計局長には漁業センサスの必要性を勧告していたこともあり、統計局からみれば、漁業センサスの予算は用意してあったのかもしれない。

私のインドネシアの水産統計の指導内容を大別すると:

a) 漁業センサスの指導、その結果の集計と分析。
b) 漁業センサスの結果に基づく、毎年継続して行う漁業生産統計調査の設計と指導。

であった。

このように書けば大変に簡単にみえるが、漁業、養殖業の内容は大変に複雑である。調査項目の「漁獲量」だけをとってみても、それが魚種別に、且つ漁法別に分類してなければ、役に立たない。このような分類の作成については、インドネシア海洋漁業研究所の故Dr. Unarに大変な協力を得た。これに要した時間は、魚類、漁法別の用語の統一、定義、原図を完成するまでに2年かかった。丁度これらの準備作業が終わる頃に、FAO本部から我々のProject の進捗状況 を査察するための中間検査団の派遣があり、私の業績については最高の評価をしてくれた。

BangkokのRAPAに勤務していた時は、多数の国を掛け持ちで指導するので、一つの国に集中して指導することができない欠陥があったが、私のインドネシア勤務は同一国に集中して援助したので、それなりの成果を挙げることができた。他方、私の創案したインドネシアでの水産統計調査方法は、他のアジア開発途上国に適応可能な方法になっている。

私のインドネシア在任中に指導した調査は(@)漁業センサスの設計とその調査結果の集計分析、(A)漁業センサスの結果を利用した漁業、養殖業の生産量調査に分かれるが、前者の仕事がほぼ終了したころに、とんでもない飛び入り調査が必要になった。

インドネシアに赴任して2年目の終わりころに、何時ものように水産総局に出勤したところ、私の指導している水産統計課長が真剣な顔で頭を抱え込んでいた。“どうしたんだ”と聞くと、水産総局長のNizam准将から、「国会である代議士から水産総局は資本漁業の発展ばかりやっている。Javaの沿岸零細漁業者は収入が減り、家計に困っている」とのClaimが来たので、「それが本当かどうかを1ヶ月以内に調査をして結果を出せ」との命令があったというのである。

折よく、1ヶ月前に漁業センサスの調査が終わり、すべての漁家のリストができていたので、それを土台にして標本調査をすることにし、調査票の設計から、調査結果の集計と分析方法までのすべてを指導した。この飛び入り調査は、すべて計画どうりに進み、「Javaの漁家は別に特に困ってはいない」ということが分かった。この結果が判明した時には、Nizam准将は」罷免され、インドネシアの在日本大使館の駐在武官をしていたと言う海軍さんが水産総局長に就任していた。

他方、1974年に実施した漁業センサスの調査結果の分析は終了し、これに続く今後毎年継続実施する漁業・養殖業の生産量調査の準備が進んでいたので、1976年にはその準備のための予備全国会議を、1977年には調査を実施するために、各州の水産課長と水産統計課長を含めた全国会議をJakarta近郊のSukabumiにある水産総局の訓練センターで開催した。

インドネシア政府は、新しい庁舎ができた時とか、大きな国際会議を開催する時には、会場全体をバリのヒンズー教スタイルに飾りつけをする。このセンターは、それまでに打ち合わせ会議で何度も行ったところであるから、私にとって珍しくないところではなかったが、会場に到着してみたら、バリ スタイルの大変に立派な飾りつけがしてあるではないか。それのみか、会議の開会式には、水産総局の総局長以下すべての幹部、我々FAO ProjectのManager 以下すべての専門家、FAO Representative to Indonesiaまでも招待されていた。

これは、まさにインドネシア水産総局が、私の担当した水産統計の改善を重視し、かつ高い評価をしてくれた証左ということが出来よう。私のFAO在任15年間の中で、私の水産統計に対する技術援助について、これほどの誠意と感謝の意を表してくれた国は他には無かった。

上述のように、私のインドネシアでの仕事は、私自身極めて満足したものであったが、私と家内の日常の生活をタイとインドネシアとの間で比べると、雲泥の差があった。その最大のものは、住むための適当な家を見つけることが非常に困難であった。仮にそのような家が見つかっても、家賃の3年分を前払いしなければならなかった。BangkokからJakartaに転任する時に海送した家財道具は、宅配されるまでに、Jakarta港で散々盗まれていた。無税の自動車を入手したが、パークしている間に、何度もワイパーを盗まれた。自家用の電話はあったが、しばしば不通になり、その都度電話局の修理員に袖の下を払わねばならなかった。電気はあってもしばしば停電するので、金持ちの家は自家発電機をもっていた。冷蔵庫に保管してあった果物は、家内の留守中に、しばしば女中に食べられていた。

赴任後の最初の1年間はこのようなTroubleだらけであったが、どうやったらこれらのTroubleが避けられるか分かって、家内もJakartaの生活をenjoyするようになった。なお、このような実態は現在では大幅に改善されていることを付記しておきたい。

インドネシアの任期が終わって、セネガル(アフリカ大陸の大西洋岸の元フランス領) 転任することが決まった。インドネシアから見れば、気を失うくらい遠い国である。結局、ステレオ、テレビ、冷蔵庫などの家具を安値で水産総局の職員に売って、生活に必要な最小限の荷物を航空貨物で送った。

(5)セネガル勤務:1978−1979

JakartaからRomeに行き、FAO本部で黄熱病の予防注射とセネガル入国のビザをとって、セネガルの首都であるDakarに飛んだ。

当時DakarにはFAOの中東大西洋海域の漁業を対象とするProject(以下CECAFと略称)の事務局があり、アフリカ大陸の大西洋に面する北はもモロッコから南はザイールまでの21の沿岸国(Morocco, Mauritania, Senegal, Gambia, Guinea Bissau, Guinea, Sierra Leone, Liberia, Corte Bissau, Ghana, Togo, Nigeria, Cameroon,Benin, Zaire等)を担当していた。

これらの国はサハラ砂漠を、その西部と南部から取り囲むように存在しているので、これらの国の気候はサハラ砂漠の乾燥した空気と砂塵の影響を極度に受けている。何れの国もフランス若しくは英国が勝手に植民地としていた地域が、そのまま独立した国であるため、Niger河のデルタ上にあるNigeriaを除いて、国の面積、人口は一般に小さい。

私の在任期間は国連職員の定年が60歳であったので、在任1年足らずであったが、それなりにProjectに貢献するとともに、アジアと全く違うこの地域の漁業に触れることができた。

Project Managerは、英国のConsultant会社出身のEverett 氏(Fisheries Economist)が代理をしていて、私のある文献をみていて、私のタイの業績を知っていた。同氏は西アフリカ21カ国の一般ならびに漁業事情を体系的にまとめたよい報告書を作成していた。

それ以外にガーナ出身のMaikというFisheries Biologistが水産資源調査を担当し、Maikは当時日本のトロール漁業が開発したモロッコ、モリタニア沖のイカ、タコ資源の調査を担当していた。私は、Fishery Statisticianであるから、「独自にアフリカ西岸諸国の水産統計の体系をどのようにするか」を担当すると思っていたら、結果的にはこのMaikの必要とする水産統計を「極端にいえば拾って来い」という小間使いにされた。

このトロール漁業はモロッコ沖にあるスペイン領のカナリー群島のラスパルマス港を根拠に操業していた。Maikが私にいうのは、「ラスパルマス港に行くと、日本の国旗を掲げたトロール船もいるが、船は日本のトロール船のようだが、Korea, Morocco, Panamaの国旗を掲げたトロール船もいて、折角Spain政府が調査員を提供してくれたが、どうやって漁獲量調査をしてよいか分からないというのである。

私は、このProjectにJoinしたら、多分こんなことになるであろうと思い、日本のある水産会社の知り合いを通じて、ラスパルマス駐在の同社の支社長を紹介してもらっていたので、まだDakarの住む家も決まっていないので、家内と共にラスパルマスに飛び、同社の支社長にあったところ、Maikの疑問はたちどころに解消した。

当時、日本のトロール船は15年も使うと、居住設備が悪くなり、乗組員が集まらなくなるので、中古船として主として韓国の漁業会社に売却されていた。韓国、パナマ、モロッコの国旗を掲げているトロール船はすべて韓国の漁業会社の所属船で、それらの船は船籍の如何を問わず、いずれも実質的には、日本の何れかの漁業会社のラスパルマス支社(実質的には全部で5社?)に所属して稼動していることが分かった。

したがって、ラスパルマス根拠のすべてのトロール船の漁獲量は、日本の漁業会社のラスパルマス支社で分かるということである。このことが分かったので、私のセネガル勤務は、僅か1年足らずであったが、セネガル滞在中に「1978年のモロッコ、モリタニア沖のイカ、タコの詳細な漁場別漁獲量報告書」を作成することができた。

セネガル駐在中のもう一つの仕事は、ライベリアとナイジェリアにそれぞれ2回出張する機会を得た。その結果、(@)アフリカの大西洋沿岸諸国の大部分は旧宗主国の植民地がそのまま独立したので、同一民族がいくつかの国に分断されていること、(A)そのために沿岸漁民のカヌー漁業は国境意識は無く、隣国に自由に相互に入漁していること、(B)多くの国で旧宗主国の資本漁業が操業を許されていること、(C)殆どが回教国であること、(D)言語は旧宗主国の影響を受けて仏語もしくは英語であるが、仏語国が多いこと、(E)ナイジェリアのみはNiger河のデルタ上の国であるため人口が大きいが、それ以外の国の大部分は人口が極めて少ないことが分かった。
任地セネガルの首都ダカールはフランス語圏で、日常の生活には多少の不便もあったが、隣国数カ国を代表する日本国大使館、日本の漁業会社2社、商社1社があり、日常の買い物はスーパーマーケット、ゴルフ場もあってそれほど不便はしなかった。旧フランスの植民地であったこともあり、家内はレストランの食堂の料理の美味いこと、パンのおいしいこと、アフリカ人女性の着ている服は垢抜けしていることが、気に入った。

しかし、かのサワラ砂漠の西端に位置する国であるために、空気は物凄く乾燥していて、入浴後の濡れたタオルは15分でカラカルに乾燥した。1年中殆ど雨が降らないので空中に眼に見えない砂漠のホコリが浮遊しているために家内はしばしばひどい喘息を起こした。

なお、Dakarは(@)毎年パリを起点で行われる自動車のDakar Rallyの終着点として、また、(A)Dakar市の沖合いにあるGore島は、かつて多くのアフリカ人が奴隷として米本土に送られた基点であったことで、有名である。

(6)FAO離任と帰国:1979年の末

国連職員の定年は60歳で、私は1980年2月1日に満60歳になる。私はRetirement(定年退職)という言葉が嫌いであったので、インドネシアからセネガルに赴任する時から定年の前にResign(辞職)することを決めていたので、1979年の10月にはFAO本部に同年の11月30日付けでFAOをLeave したい旨を通知した。本部からは“山本は来年の2月1日まで在職できるよ”といってきたが、それを断り、11月30日付けでFAO本部で辞職できるようにした。その事前の10日間をLeave(休み)をとり、ローマのFAO本部に着く前にパリ、ブラッセル(EUの本部のあるところ)、アムステルダム(オランダの首府)を訪問した。その主な目的は、開成中学の同級生の加川隆明氏(EUに対する日本政府派遣の初代大使)に会うことと、オランダで家内の長い労苦に報いるためにダイヤモンドの指輪を買うためであった。

ヨーロッパ通の知人の水石巌さんの勧告で、どっちみち、ダカールからブラッセル行の航空便はパリ行きかしかないので、パリからブラッセル行は汽車の食事つきのFirst classとすることにした。不思議なもので、飛行機がパリに到着するや否や、家内の喘息は完全に回復した。アムステルダムでは、加川と彼の奥さん(有名なモデル)と何十年ぶりかに夕食をともにすることができた。

ローマのFAO本部では、身体検査その他のFAO退職手続きを済ませ、日本に帰る前にアメリカのマイアミの知人、ロスアンゼルスにいる二人の娘夫婦と孫に会い、さらに家内の好きなハワイで数日を過ごすことにして、先ずロンドンに飛び、マイアミ行きの飛行機に乗ることにした。

ロンドンに着いて、航空会社の準備したホテルに一泊し、翌日予定のマイアミ行きの便に間に合うように空港に行くと、“Fog(霧)のためにマイアミから飛行機が帰っていないので、明日もう一度きてくれ”というのでホテルに帰った。翌日、空港に行くと“また、霧で飛行機がない”とのこと。やむなく、空港から国際電話で日本にいる長女に電話したところ、“お父さん、今日 日本大学経済学部の竹内教授という先生から電話があって「今日の教授会で、お父さんが同学部の教授になることが決まったとの電話があったと」いうのである。

このような話は、故平澤豊氏(東京水産大学教授)の後押しで、黒沢一清氏(日本大学経済学部卒、水産研究会研究員を経て、国立東京工業大学教授)が動いてくれていると聞いていたが、私が日本に帰る前に決まるとは夢にも思わなかったことである。その後、予定のとうりマイアミ、ロサンゼルス、ホノルルによって、東京の寓居に到着したのは12月の下旬であった。

7.日本大学 経済学部 勤務:1980−1989

年が明けて、日大経済学部の学部長、教育委員長の竹内教授、教務課長などに挨拶に行ったところ、“山本先生は「開成」だそうですね、学位は「京都大学ですね」”といわれてビックリした。ことほど、それほど、現在の開成中学(開成学園)私の在学中よりも、東大進学率の高くなり、有名校になっていたのである。

私は日本大学の経済学部教授になるとは夢に思わなかったので、これは大変と思っていたが、私の農林省統計調査部在任中に農林統計を担当していた阿部喜三部先生(経済統計学担当)がおられたのでホットした。

私の講義内容は、水産経済学であったが、外書講読と水産経済のゼミを担当することになった。日本大学経済学部は1部(昼間)と2部(夜間)に分かれ、大学院もあったので、1週間には少なくも8コマを担当するようになった。他方、産業経営研究所の研究員を命ぜられ、時々その研究会に出席したり、研究誌にも投稿した。

経済学部の職員は@講師以上の教官グループと、A事務担当グループに分かれ、事務系は出勤簿があったが、教官は講義の日に講義室受付の帳簿にサインするだけであった。そのため、新学年の始まる前に教務課から配布されるアンケートで、講義ごとの希望日と講義希望時間を提出すると、殆どそのまま受け入れられるたので、5日間のWeekdaysのなかで毎週2日は大学に行かなくてもよい日がとれたので、週日に家内とゴルフに行くことができた。教官はすべて、電話付の研究室が与えられ、快適であった。

さて、私の教授の待遇はというと、山本先生は「教暦」もなければ、「研究暦」もないので、規則上では教授の最下級の俸給になるが、それでは気の毒なので、3号あげておきましたというのである。通常45才前後で教授になるので、私は教授になりたての俸給をもらうことになったのである。後日判明したことであるが、これは私学共通に協議して決めた俸給制度であって、「国連のすべての職員は国際的な政策に関与している」との仮定でこんな規定ができたことがわかった。これは、とんでもない話で、国連職員の大部分はそれぞれの分野の世界状勢の研究もしくは、途上国の指導教育をしているのである。

とは言え、私の大学からの年収はボーナスを含めて1000万円を超しており、FAO退職時のドルを円に換算したものと大差なかった。というのは、私が15年前にFAOに就職した時の俸給は、日本政府からの俸給の5倍になったが、それ以後の15年の間に国連職員の俸給のBase upは1回しかなかったが、日本では、毎年「総評」の要求に始まり、それに連動して、国家公務員のみならづ、私学教職員の俸給も毎年Base upがあったのである。

日本大学の教官は、毎年定額30万円の研究費が出るほか、国際会議の参加には出張旅費、3年に1回の割合で、総額100万円付、3ヶ月間の研究休暇(サバイバル)がとれたので、これらの制度を大いに利用した。また、日本大学農獣医学部の協力を得て、タイとインドネシアの研究者の論文博士を指導した。

日本大学の教授の定年は65歳であったが、健康であれば毎年の昇給はないが、満70歳になるまで定年延長が可能であったので、私は70歳になるまで9年間の教授生活をつとめた。70歳になったときに、80歳になるまでは「大学院の非常勤講師」をしていただけます」との誘いがあったが、私は辞退した。

8.その他、私のした仕事

(1)FAOの要請に答えて

私は、1979年にFAOを退職したが、その後も下記のようなFAOの事業で断続的にFAO の仕事をした。

  1. 国連海洋法の成立に伴う世界漁業会議:1985
  2. FAO編纂の世界の国別水産統計年報の再編:1992
    これは、FAO編纂の「水産統計年報」の内容を、漁獲漁業と養殖業とに分離することであった。
  3. FAO主催、日本政府支援の「責任ある漁業の行動規範」に関する京都会議:1995
  4. FAO編纂の養殖統計の改善:2002

(2)EU の要請に答えて:2001

2001年のある日、全国漁業共同組合連合会の渉外部長の佐藤正明氏から、「EU のある知人からEU 主催のMCS の会議に誰か日本から推薦して欲しいと頼まれたので、私に参加してくれないか。旅費は EU が出す」との電話があった。MCSとは、Monitoring, Control and Surveillanceの頭文字をとった略称で簡単にいえば“漁業をどのようにして Control するか”と解釈した方がよいであろう。事実、この会議の冒頭のEU漁業局長の開会演説でも、Control"という単語を数え切れない程に使った。

国連海洋法によれば、一般に水産資源が乱獲にならないようにするために、各国は自国の経済水域の水産資源について、独自に、魚種ごとに、操業時期、漁獲数量を決めている。ところが、EUの場合は、EU加盟国の地形からみてそれができないので、EU加盟国の国連海洋法でいう200海里経済水域をプールして、EU の200海里経済水域(EUはこれを EU Fish Pond といっている)を設定し、その中をいくつかの漁場区画に分け、漁場区画ごとに 魚種別漁獲量をきめて、その漁獲量をEU加盟国に過去の実績を土台にして、振り分けている。問題は、このようにしてEU 加盟国に割り当てた漁獲量を、関係国の漁船が守らないので、それを Control するにはどうしたらよいかが、このEU会議の問題点であった。

上記のような漁業管理の方法を Top down の方法といっている。このEU会議での私の Speech では、「日本では、政府が漁業者に漁業権もしくは漁業許可をあたえて、それに基づいて漁業者自らが漁業管理(Bottom up)をしているから、EU のような問題はない」ことを強調しておいた。私は、私の一生でEUの会議にまで参加できるとは夢にも思わなかった。当時EUの加盟国は15国、10の言語がEU の国際用語になっていたので、EUの国際会議場では、会場の両側に同時通訳官がギッシリ並んでいるのにはビックリした。私が英語で喋った内容は、9の言語に通訳されたのである。EU の職員の10%は、このような通訳官であるとのことであった。

(3)SEAFDECと共に

SEAFDECSoutheast Asian Fisheries Development Center の略)は、日本では「東南アジア水産開発センター」といい、日本の外務省が主導で1980年代の後半に設立されて地域国際漁業機関で、Bangkok に事務局を置き、漁業訓練、養殖、水産加工、水産資源研究の四つの専門部局を持っている。私は SEAFDEC の職員になったことはないが、設立前の2年間の準備期間に私はすでにBangkokFAOアジア地域事務局に勤務していたので、日本から来る Missions をお世話し、設立後もSEAFDEC の会議、セミナー、訓練コース等に参加、もしくはお手伝いしている。

(4)国際漁業研究会(JIFRS)の創設と、国際漁業経済学会(IIFET

国際漁業研究会は東京水産大学名誉教授故平沢豊氏の創意で1982年に創設された学会で、「日本の水産業は非常に国際化しつつあるにもかかわらず、日本の漁業経済学者は日本の国内のことしか研究していない」ということが発足の理由であった。

私は初代の会長を18年務めたが、現在は名誉会長をしている。偶然にもJIFRSの発足と同時の1982年に米国オレゴン州立大学において IIFETInternational Institute of Fisheries Economics and Trade = 国際漁業経済学会)が発足した。IIFET は1982年に、アラスカで第1回の国際会議を開催し、それ以降2年間隔で国を代えて開催され、私はその大部分の会議に参加している。

JIFRSは、発足以来 毎年3回程度研究誌を刊行するとともに、1年に1回の総合研究会を開催しているが、2005年までの17年間の間で、以下のような三つの大きな事業を実施した。

@.全国漁業協同組合連合会の協力により「漁業管理に関する国際セミナー」を水産庁の東海区水産研究所で開催(1991)世界の漁業管理についての主導的役割を果たしている海外の専門家を招聘し、特に日本の漁業者主導型の漁業管理 (CBFM) を紹介し、英文報告書を刊行した。

A.海外漁業協力財団の協力による単行本の編纂と刊行

  a. 世界の漁業管理、上巻、下巻:1994.(真道重明との共編).

  (注)世界の主な国の漁業管理を和文で紹介し、日本の海洋法成立に貢献した。

  b. 世界の漁業、3分冊:1998.(真道重明との共編).

  (注)日本政府がFAOに協力して "Code of Conduct for Responsible Fisheries"に関する京都会議の成果の全文を和訳、もしくは独立に解説した。

B.第12回 IIFET 国際漁業経済会議を日本の東京海洋大学で開催。(July 2004)。

 上記の三つの事業のうちで、Bで述べた第12回 IIFET 国際漁業経済会議は、参加国数51、参加者数500人を超え、日本で開催した水産関係の国際会議としては有史以来の大規模な国際会議となった。国際漁業研究会の会長松田恵明教授の努力と、私の私財1000万円の寄与、それが引き金となり、水産関係の諸団体からの寄付が得られた。

このような国際会議に必要な国際レベルでの宣伝については、Johannes H. Wilhelm 氏(秋田大学講師)が、懇切丁寧な英文の Portal site を作成してくれた。

通常、この国際会議は、4日間の間に各国からの参加者の個人研究の発表で終始するのであるが、今回は個人発表の他に、現在世界レベルで共通の課題についてのシンポ形式の Special Session を開催し、それぞれの課題の前半は有識者の解説と問題提起、後半は FloorOpen にしたところ、多数の参加者からの活発な発言があり、この Idea が、会議全体を盛り上げることになった。

なお、この国際会議を記念して、「山本賞」を創設し、途上国参加者4人に送呈した。会議の報告書は、会議の主要成果、全参加者の個人論文、各種行事の写真を含めて、IIFETの事務局長 Mrs. Ann Shriver の協力により、会議終了後、僅か3ヶ月で、一枚の CD Rom として関係者に配布することができた。また、この国際会議のために、天野祥子(山本の長女)と竹内節子(山本の三女)は国際会議場、Reception, Tea time, lunch, Dinner party 等の諸準備を万端なく勤めてくれた。

 

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