Suisanzakki3

   水 産 雑 記  

(その3)

(念のため「先ず更新ボタン」のクリックをお勧めします)

水産雑記の続き(その4)はここをクリックして下さい  

 

目 次

 

「海の幸」のホームページ (世界の水産を見る情報サービスのサイト紹介)
縄文時代の釣り針 (三浦福助)[寄稿] PDFファイルです。
中国の近代化の初期に設立された水産学校 (歴史的な記述)
集美大学と黄文豊さん (中国福建省にある水産海洋教育機関))
古き良き丸木船 (三浦福助)[寄稿] PDFファイル)
丸木船の恩恵 (三浦福助)[寄稿] PDFファイル)
く じ ら塚 (三浦福助)[寄稿] PDFファイル)
水産の専門馬鹿 (学際研究・産官学連携・専門分野の細分化の問題)
船首の飾り (三浦福助)[寄稿] PDFファイル)
世界の淡水魚介類生産量の問題 (人類にとり海洋生産より大切かも?)
和船の登場 (三浦福助)[寄稿] PDFファイル)
濫獲」か「乱獲」か? (有元さんの問題提起を巡って)
石不語 (三浦福助、石は語らず。古代日本の漁網考) [寄稿]
動的平衡 (Dynamic equilibrium 林繁一)[寄稿]
中国に於けるコンブ養殖の歴史 (1996年の書簡)
水産伝習所は何処に在ったか?(三浦福助)[寄稿]

 

水産雑記の続き(その4)はここをクリックして下さい  

 

ホームに戻る


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

UminosatuHP

海の幸のホームページの紹介

 

「海の幸」と題するホームページは以下にページの下崎・高杉・下条の3氏の管理者グループが述べているように「世界の水産を見る情報サービス」を目的として開設されています。此処にご案内いたします。 (真道重明 記)

 

「海の幸」は”世界の水産を見る情報サービス”として、国連のFAO資料、国際水産情報誌などを基に世界の水産事情を時代とともにお伝えしております.水産関係の方は勿論のこと、世界の水産、殊に日本の水産に愛着を持たれる方々のご利用を歓迎いたします.内容は、次のような構成となっております.

  ○ 水産随想・論考    ○ 統計にみる世界の水産  ○ 漁業資源
  ○ 革新的漁業技術    ○ 漁業事情・トピックス

 

ページを見るには下記の画像をクリックして下さい。

 

 

 

元に戻るにはメニューバーで戻ってください。

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る  ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ChinaSuisanngakkou

中国近代化のために

設立された水産学校

真道 重明

2007/08/06

ご感想やご意見はこちらへ

 

先に「日本に来た最初の水産留学生?」と題して一文を書いたが、水産出版社の頼春福氏からメールとサイトのURLを頂いた。上述の記事とも関連するので掲載の許可を求め快諾を得たので此処に日本文に訳して掲載した。

 

 

中国大陸で最も早期の水産学校は

1910年に天津で創設された

 

報道に依れば、水産教育は辛亥革命の前後に始められた。当時、適格者と目された中国の第一陣だった人々が、日本の東京に在った水産講習所を卒業し帰国した。彼等が最も早く水産教育事業を創設した先駆者である。

中華民国元年(1911年、辛亥革命の勃発した年)、沿海の七つの省は前後して水産教育機構を創設した。

直隷河北省は真っ先に天津に水産講習所を設立した。創設者であり同時に所長だったのは留日学生の孫鳳藻(子文)である。孫鳳藻は北洋大学を卒業し、曾て山東、直隷省の教育総庁長に任ぜられて居た。

此の講習所は勧業道に所属し、天津長芦山中学の跡地(河北黄緯路)で授業を開始した。そして水産学堂と改称し、漁撈・製造の二科を設け、高等小学の卒業生を募集し学習をさせた。

1919年5月14日、天津学生連合会は直隷水産学校で成立大会を挙行した。5月23日、同校の学生は学習を止め、積極的に五四運動に身を投じて参加した。

1912年(清朝の宣統帝二年)、総站東種植園(現在の北站水産前街41号)に転居した。1914年、教育部(日本の文部省)の命令で名称を「直隷省立甲種水産学校」と改め、学制を予科1年、本科3年とし、直隷省教育庁の管轄に改めた。

1926年、四二制に改め、前4年を初中班、後2年を高中水産班とした。1928年の秋一回業務を停止して居る。

1929年5月、省政府の議決により「河北省立水産専門学校」と名称を改め、予科と本科に分けた。同年11月、再び名称を「河北省立水産専科学校」と変更して居る。[台湾省立基隆水産高級職業学校の前校長だった胡暁伯は此の学校を卒業している]。

校長の張元弟は著名な水産教育家で、かねてから「南候(候朝海)北張」(南には候氏、北には張氏が居る)と讃えられた。讃えられた人としては此れとは別に「水産三傑」があり、上記の二氏の外に鄭恩授、劉綸が居る。

1931年8月、同校は《水産学報》を創刊し、水産界からは「鳳毛麟角、不可多睹」と賞賛された。此れはわが国における最も早い水産学術刊行物である。

1931年8月、予科を無くし、高中班を加えた。1933年から本科の募集を暫定的に停止し、高級職業学校を附設した。

抗日戦争期間は、同校は活動を停止した。1946年、同校は元の旧住所に復帰した。1952年、中央の教育部の決定に基づき同校は政府から手放された。一部の専門家や教授は青島、上海などに移り、その他の教職員は塘沽に移り、塘沽水産学校を新しく建設した。 (完)

 

 

なお、原文(中国繁体字)は日本常用漢字に置き換えた。下記の通り。

最早的水産講習所1910年在天津創設

據報導,水産教育始於辛亥革命前後,當時適値中國第一批在日本東京水産講習所畢業的學生回國,他們是最早開創水産教育事業的先駆者。民國元年沿海七省先後創設水産教育機構。直隸河北省,首先在天津設立水産講習所。創弁人及所長為留日學生孫鳳藻(子文),孫鳳藻畢業於北洋大學,曾任山東、直隸省教育廳長。該所隸屬於勸業道,借用天津長蘆中學舊址(河北黄緯路)開課,繼改為水産學堂,設漁撈、製造二科。招收高小畢業生入所學習。

1919年5月14日,天津學生聯合會在直隸水産學校内舉行成立大會。5月23日,該校學生舉行罷課,積極投身於五四運動。

1912年(清宣統二年),遷至總站東種植園(今北站東水産前街41號)。1914年,奉教育部令定名為直隸省立甲種水産學校;學制定為預科1年,本科3年,改隸省教育廳管轄。

1926年改行四二制,前4年為初中班,後2年為高中水産班。1928年秋曾一度停弁。

1929年5月,省政府議決改為河北省立水産專門學校,分預科、本科。同年11月,複改為河北省立水産專科學校(臺灣省立基隆水産高級職業學校前校長胡曉伯即畢業該校)。校長張元弟是著名水産教育家,素有“南侯(侯潮海)北張”之稱,被譽為“水産三傑”(別二傑為鄭恩授、劉綸)之一。1931年8月,該校創刊的《水産學報》,被水産界譽為“鳳毛麟角,不可多睹”,是我國最早的水産學術刊物。

1931年8月,取消預科,添加高中班。1933年取消高中班,改為高職水産科。1934年起本科暫停招生,附設高級職業學校。

抗日戰爭期間,該校停弁。1946年,該校在原址複校。1952年,根據中央教育部的決定,該校撤銷,部分專家教授調往青島、上海等地,其餘教職員遷至塘沽,新建塘沽水産學校。

 

 

筆者(真道重明)のコメント:

  • 上述の原典は「天津市河北区政務網」の Website に「直隷水産講習所」と題して公開されている(簡体字)。恐らく此れからの引用であろう。

  • 上記の原文にある「候潮海」は「候朝海」の誤記であると思われる。筆者は1957年に上海水産学院(現大学)で同氏に会い、同氏の自筆の署名を所持しているが、「朝」であり「潮」ではない。簡体字には双方の字があり簡略化して潮を朝とした筈はない。

 

候朝海 校長。 1957年に私が上海水産学院で講義した際、
候朝海先生は未だ当時ご健在であった。上の画は同氏から私
が頂いた絵葉書の表紙。その署名には「朝海」と記されて居る。

  • 1947年に「上海市立呉淞水産専科学校」の設立が上海市政府によって認可され、候朝海が校長となった。1948年に漁撈科・製造科・養殖科および航海科を設け、初等中学卒業生を募集する「5年制の学校」として再発足し、上海・厦門(アモイ)・広州・青島および台湾からの学生を募集した。同年末の学生数は119名に達したと言う。呉淞の校舎は破壊されて居り、校名は呉淞でも上海市内の数ヶ所を借りて分散して開講していた。此れが上海水産学院(現大学)の前身校であり、候氏の業績は同校に取り偉大である。これを讃えて伝記の編纂が進められていると聞く。関連事項

  • 孫鳳藻・張元弟・鄭恩授・劉綸の諸氏であるが、張元弟は水産講習所38回(昭和11年、1936)卒業、鄭恩授は北海道帝国大学付属水産専門部、漁撈科・第11期(大正9年、1930)卒業、劉綸北海道帝国大学付属水産専門部、製造科・第11期(大正9年、1930)卒業である(東京海洋大学、楽水会の倉島さんに依頼した2007年の調査結果)。

  • なお、孫鳳藻は東京の水産講習所卒業生名簿には見当たらない。日本の敗戦により名簿は戦後に多くの資料を基に復元されたが、その際に,留学生の場合には欠落が在ったと思われるので完全ではないこと、本人の氏名が筆名などの別称だった可能性があること、・・・などから考えて卒業生ではないと即断することも出来ない。なお、水産専門教育機関以外の学校に留学していた可能性もある。

  • 直隷または直隷省の文字が良く出て来るが、明朝から清朝に掛けて用いられた漁政区画で「皇帝の膝元の地区」の意味。現在の河北省と思えば良い。辛亥(しんがい)革命は、1911年日、清朝を倒して中華民国を打ち立てた革命。五・四運動はベルサイユ条約の結果を不満として、北京から全土に拡大した反日・反帝国主義運動。

  • 清朝の崩壊、アジア最初の共和国である「中華民国」の建国、五・四運動・・・と中国の社会体制は歴史的な大激動期にあった。その中に在って水産教育機構の建設が始まり、その最初のものが1910年に天津に創設された「直隷水産講習所」であることを知った。筆者は中国における最初の水産教育機構は江蘇省立水産学校(俗称は呉淞水産学校)ではないかと思っていたが、同校の創立は1912年、初代の校長は日本の農林省水産講習所で学んだ「張繆(繆の字は正しくは糸偏では無く金偏)」と言う人であった。候朝海は第二代校長である。

  • しかし、上述の記事によると、その2年前の1910年に天津に「直隷水産講習所」が留日学生の孫鳳藻によって創設されて居る。教育機構の名称も日本と同じ「講習所」を踏襲して居る。校名も激動の社会の中にあって次々と改名されているが、そのこと自体が社会体制の激動を物語っているように思う。中華人民共和国の成立(1949年)後、同校は政府の手を離れ閉校されたようだが、その経緯は分からない。所在地の地先が冬期には結氷する渤海湾に面し、黄海や東海ではなかったと云うことも考慮されたかも知れない。

  • 1931年8月に「水産学報」の刊行を始めたのは特記すべきであろう。(新浪BLOG)。今を去る80年の以前のことである。現在では校名を冠しない「水産学報」は上海水産大学で刊行されている全国誌を指す。

 

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る

ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

AMOY_Syubi

集美大学と黄文豊さん

 

真道 重明

2007/09/01

ご感想やご意見はこちらへ

 

建省の厦門(アモイ)に在る集美大学 (University)には水産学院(college)がある。その前身は厦門水産学院である。1972年、上海水産学院が文化大革命の煽りで一時的に(率直に云えば「いわゆる下放」され)、厦門集美学村に移り、廈門水産学院が設立された。1994年10月に集美学村はそれ迄にあった5ヵ所の高等教育機関を合併して集美大学を設立した。廈門水産学院もその中の一つである。その名称を「廈門大学水産学院」と呼んだ。

元々は集美出身の南洋(東南アジア)華僑である陳嘉庚が故郷の集美村に設立した師範学校、水産学校、航海学校、 商業学校、農林学校など十数種の学校の中の一つである。1927年頃の話であり、集美水産学校と呼ばれていたようだ。中国の水産の教育機関としては最も古い歴史を持つ学校の一つである。

 

文豊(1907-1989、豊の字は正しくは「さんずい・三点水」が付く)は筆者の母校である東京の当時越中島に在った農林省水産講習所(現東京海洋大学)の13年先輩であり、また、日本が中国とは国交未回復の1957年、私が日本政府の命令で訪中し上海水産学院(現大学)で数ヶ月講義したときの通訳を担当して貰った数名の通訳陣の一人でもある。その時の経緯は此処をクリック)。

始めて会ったのは今から50年前、10月、瀋陽(長春)の駅頭であった。ロイド眼鏡を掛け背広ネクタイ姿の黄文豊さんが駅に出迎えに来て居られた。東北(満州)は寒いから・・・と云うので北京を発つとき中国漁業協会は綿服(分厚い綿の入った中国式の服)を貸して呉れ、それを私は羽織っていた。新聞記者がやって来て綿服の私に向かって「日本から来た真道先生はあの人か? と黄文豊さんを指さす」と訊く。私秦荘中国語が出来たので「不是。他是黄文豊先生。我是真道」と答えた。記者は眼鏡と背広の方が日本から来た人間とテッキリ思ったらしい。

文化大革命の嵐のため私はその後黄文豊さんと再会する機会を失っていたが、私が勤務していたタイ国のバンコクで福建省の東南アジア水産事情視察団長として数名を引き連れバンコクに来訪、同氏は70歳ぐらいだったと思われるが、相変わらず極めて元気な顔に再開できた。その時の様子は既に書いた(此処をクリック)

同氏自身の生い立ちなどは良く知らなかったが、ごく最近になって中国の Web 検索サイトで幾つかの情報を知り得たので以下に記載した。既に故人となられたが、手を広く拡げて大きな声と大きな身振りで話をしていた同氏を懐かしく想い出す。

 

海を耕し人を育てた60年

水産専門家、黄文豊(1907〜1989)の記

(真道重明による抄訳)

下は集美水産学校の元校長、福建省水産研究所の元所長であった黄文豊(豊の字は正しくはサンズイが付く)の輝かしい記録である。黄文豊は福建省に1907年に生まれた。10歳の時、父親が北洋軍閥中国の辛亥革命後における袁世凱が指揮をとっていた軍による政権)に反対したため、その軍閥によって殺害され、彼は母親によって育てられた。

黄文豊がやや成長すると母は彼を勉学させるべく家から何回も送り出したが、しかし、彼は大変悪戯好きで、何時も中途で勉強を止め家に帰ったと云う。その後、当時福州で軍医をしていた兄が彼を福州の工芸伝習所に学徒として入学させた。

学徒は多くの労働を課せられ、さらに先生から訓斥を受けた結果、彼は遊びを貪り勉学から逃避して居たために、このような有り様になったと後悔し、自責の念に駆られたという。

その事があって後、彼は兄に向かってもう一度勉学の機械を与えてくれと頼み、良く勉強し決して勉学から逃避しないと誓った。勉強を続けてからは黄文豊は学習に精を出し、毎学期の試験の成績は良好であった。

1922年15歳の黄文豊は愛国華僑の陳嘉庚先生が創設した集美学校の水産科の入学試験し合格し進学した。1926年5月、黄文豊収集な成績で卒業、陳嘉庚先生の学費援助で日本に留学をし、人々の羨望する処となった。彼は強い勉学の意欲を持ち、将来に美しい夢を抱き、日本に外遊した。

黄文豊は日本の東京にある農林省水産講習所に入学、水産資源と海洋漁業を専攻した。東京に居ること3年 [真道注:同校の同窓会名簿では本科漁撈科32回生(1930年)とある。同校の当時の学制から判断し4ヶ年の誤記と思われる]、彼は学業に励み、海洋や水産の書物を殆ど読み尽くした。

また、実習にも励み、乗船してソ連領のオホーツク海の漁撈実習にも参加した。西太平洋の風波は時として非常に猛烈であった。文弱な黄文豊は何時も船酔いに悩まされ、目の眩みや吐き気に耐えた。半年の海上生活は彼を心身共に強くした。

船酔いや吐き気に耐えて西太平洋の海上実習を無事に終え教師から賞賛されたと云う。1930年4月、学校での卒業試験では50数名の同級生の内、黄文豊の名前は首位に掲示されて居た。

黄文豊が留学を終え帰国した時期はわが国の水産教育が始まり発展する時に当たっていた。1930年5月から浙江省立水産職業学校の招聘を受けた。彼は漁撈科の各科目を開講し、それらの教材を自分自身で編纂した。日本に於いて学んだ海洋捕獲漁業・水産資源と後悔に関する知識を中国の実態に合わせて、次々と《水産資源学》、《漁具学》、《海洋学》、《航海測器》などの教科書を書き常に再整理と改訂を怠らなかった。

また、理論と実際の結合を図り、実習を重視する自ら乗船して学生に船上の操作を指導したり、漁具模型を作らせたりし、実習報告を学生に書かせたりした。1934年、黄文豊は集美高級水産航海学校の漁撈科の卒業生を率いて台湾に赴き漁業調査を行なっている。

教科については新しく「栽培漁業」を開設し、日本の新しい増養殖の技術である栽培漁業、「捕る漁業から育てる漁業へ」の考え方を導入した。

(中略)

晩年の黄文豊は病を押して遠路の漁場調査に従事、福建省沿海の各県に関する報告書を作成した。1989年12月7日に逝去、享年83歳であった。彼は祖国の水産発展と教育に生涯を捧げた人と云えよう。

                                 (文責:楊瑞堂)

 

以上の内容を記した原典を書きに掲げて置く。

下記の中国の原文を見るには簡体字文字コードをDownload(無償)してある事が必要です。

中国文を見るには此処の魚の画をクリック  

 

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る

ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

SENMONBAKA

水産の専門馬鹿

 

学際研究・産官学連携・専門分野の細分化の進展

に伴い「木を見て山を見ず」の人達が多い現状を憂う

 

真道 重明

2007/09/01

ご感想やご意見はこちらへ

 

専門馬鹿は何処にでも居る。水産も例外ではない。専門馬鹿は専門分野だけに集中し他のことを知らない。しかし、専門馬鹿が居るからこそ、例えば研究の世界を例に取ると、研究馬鹿が居るからこそ研究が前進する。しかし、他のことを知らない者同士が議論し合っても堂々巡りするだけだ。専門分野の細分化ばかりが進み、「群盲象を評す」ではないが、全体像を見ようとしない。私なりの経験を述べた。

 

1973年に私はタイ国バンコク日本部のある SEAFDECThe SouthEast Fisheries Development Center 、東南アジア漁業開発センター)の事務局に派遣され、4年務めた初代の猪野俊さんの後を受け、第二代目の事務局次長 (Deputy Secretary-General )と当時は同居していた訓練部局(Training Department )の同部局次長( Deputy Chief )を1984年まで11年間に亘り兼務していた。日本は同組織の技術援助国であり、実際の部局運営上の技術面は派遣された日本人技術者(instructors)によって企画・推進されていた。

同部局の日本人技術者総数は11年の期間中、最大時で私を含め13名、その三分の一は「行政の管理部門からの技術者」、他の三分の一は「研究所・大学」から、残りの三分の一は会社からの技術者と云う構成であった。

それ迄、水産庁所属の水産研究所で調査研究一本槍で仕事をして来た私には、行政部門での実務経験も、漁業会社での実務経験も無かった。同じ水産だから彼等との集会や議論は良く行なわれていたが、実際に実務に従事すた経験は全く無かった。尤も派遣直前には所長を補佐して行政当局との交渉を担当する立場にあったから、行政分野の実態は多少は知っていた。

上記の SEAFDEC の部局では業務を企画するため、恒常的に夫々三分の一を占める職員を集めてプロジェクト立案会議を開き課題を纏めなければならなかった。会社から派遣されて来た人達の問題に対する発想・理解・推進方法などは、私のそれ迄の経験とは全く異なっていた。行政分野から派遣されて来た人達のそれらは、またそれとも違った考え方を持って居る。

「立場が違えば考え方も違う。そんなことは常識で当たり前だ」と云ってしまえばそれ迄だが、傍からは何とでも評論出来る。実際に席を連ねた同じ組織単位の中で、これを纏めるのは「群盲象を評す」に近い有り様で、極端に云いえば、至難に近い問題である。着任早々直面した典型的な具体例を示そう。

設立当初の訓練部局の実態は海面捕獲漁業に関する資源や漁具・漁法の調査研究・漁撈実習などを行なっており、正しくは「海洋漁業部局」と呼ぶべきものであった。(現在は資源調査部門は独立してマレーシアに在る)。加盟各国から招いた訓練生(その多くは各国の水産局の技術職員)に教えるには、先ず教科書ないし講義録を作る必要があった。それ迄は教官の私的ノートブックの講義用メモに基づき、講義や実習した内容を訓練生が各自自由にメモるだけであった。

最優先プロジェクトとして私は「教科書の編纂、校正、印刷、訓練生への配布」を提案した。大学・研究所系の教官は当然のこととして賛成したが、行政系や会社系の教官からは強い反論が出された。行政系の教官の人達からは、文書と云えば「稟議書ないし伺い書しか書いた経験が無い人達だ。「教科書文などを書いた経験はない、だからその任に堪えない」、「万一内容に不適切な部分が在れば他からの指摘に対する対応が大変だ」と主張する。

会社系の教官からは、「印刷・配布などはもっての外、組織内部の文書を公開するには慎重であるべきだ。下手をすれば他の同種組織を利するだけ、手の内を見せる事になる」と云うのが主な理由だった。他社との競合で生き残りを掛けている会社の技術者に取ってみれば、ツイその気持ちが出るのだろう。私や大学・研究所系の人達はそれらの反論理由にを聞いて、呆れて茫然とした。

彼等は仕事が増えることを嫌がるような人達では無い。本音でそう思っているのは発言の雰囲気で分かる。人は夫々従事してきた職場の空気に染められて来ており、「仕事とはそう言うものだ」という認識が頭に焼き着いて居る。呆然としながらも私は考え込んでしまった。

大学や研究所の人達は自分の業績を論文に纏めたり、説明文を書くことには確かに慣れている。行政出身の人達は許・認可や行政指導書という一言一句の表現に慎重を極める原案を作成して居り、教科書の作成などは初体験と云うことの億劫さは分かる。だが、教科書は行政命令書などとは別次元の問題だ。また、会社出身の人達が企業の戦略・戦術や先端技術が漏れるのに慎重なことは分かる。だが、教科書はそれらとは別次元の問題である。

勿論、他の分野の事を全く知らない、所謂、典型的な「専門馬鹿」も居るのだろうが、大多数の人は他の分野の人と話をしたり読んだりして知っている心算で居るのか普通の筈だ。ただ実際に直接携わった経験が無いだけである。実際に携わって見ると、知らないことだらけだと云う事を思い知る訳だ。水産研究所の中に居る資源生物学専攻の人は人は食品化学の人達が何をしているかは日常の会話を通して知っている。だが、本当に化学の研究の実際に触れたことは無い。専攻分野に跨るプロジェクトを実施するための「学際研究」の必要が云々されて長いが、理解し合えるには多大の時間が掛かる。

ましてや、同じ研究に関連していると云っても、企業と官庁、ないし大学と官庁とでは、その双方に身を置いて仕事をする経験を持った者でない限り、本当のところは仲々分からない。だから具体的な同じ問題に対しても、頭の中に「イメージ」するものは、同床異夢といってよい程、全体像では無くとも、或る面については実はかなり食い違っている。「産官学連携」の必要が云々されるにも拘わらず、結果は妥協の産物たる所以だろう。真面目に考えれば(不真面目に立ち向かう場合は此処では考えない。笑い)、この問題は「云うは易くして、行なうは難し」である事を痛感する。

上述の教科書編纂問題に直面したとき、率直に「自分はどうなのだろう」と私は我が身を省みた。そして、その時迄、傲慢にも私は「水産業」と云う人類の生産の営みを学校で習ったり、書物で読んだりして、一応は把握し理解している心算であった。しかし、会社出身の人達と「机を並べての議論」を通じて、水産物の生産・供銷・流通・利潤追求など、生産者の側に立つ人々が水産業を「どのように理解しているか?、彼等の知る水産業がどの様なものであるか?」に就いて私は殆ど無知である事を痛感した。彼等は彼等の経験を通して「彼等の世界を水産業の姿だと捉えている。そして「学者諸公は何か難しい理屈を捏ね回しているようだが、水産業の真の姿はそんなものでは無い」と内心思っている人が多いようだ。

一方、大学や研究所の人々は内心では金儲けに狂奔する生産者を誹り、生産者に追随し保身と出世に憂き身を窶す為政者側の人達を蔑視する。総ての人がそうでは無いにしても、そのような気持ちを持つ者が多い。お互いに宗派が異なる異教徒であるから話がすんなり纏まる筈はあろう筈が無い。

諄い話はこれ位にして話を元の教科書ないし講義録編纂の問題に戻そう。訓練生に「教科書を持たせる」ことは必須条件であると私は思う。私の経験では、日本の学校では受講生は一心不乱に先生の云うことを速記し黒板の画を写しとる。分厚い学生のノートブック。まるで速記競争をしているようだ。こんな教室の光景は日本独特ではないかと私は思う。

私の乏しい経験でも、外国での受講生は先生の話を聞きながら、必要と思われることや関心のある事だけをノートブックに取り、一言一句を漏らさず速記しようなどとはしない。速記より先生の云うことを理解することに努力を割く。他は教科書ないし講義録を読めばよいし、必要在れば後で質問すればよい。これが本来の姿だと思う。だから教科書ないし講義録(場合によってはそれらに替わる参考書)の存在は必須条件である。

話し合いを進めていく内に相互理解が深まり、企業先端技術ではなく基本技術を説明するものであり、稟議書の表現のような意味での慎重さは必要なく、年々改訂してゆくものであること、また章・節・項と云った大袈裟なテキストでは無く、各教官が持つ講義ノートブックのメモを英文の文章としたものであることが納得されるに及んで、編纂計画は合意され実行に移された。今から30余年以前の出来事であり、当時水産の国際協力では初めての試みであった。

以上クドクドと述べたが、私が云いたかったことは「こんな当たり前のことでも出身母体が違う者同士の話は右から左へと異論無くスンナリとは運ばない」と云う点である。また余談を云うなら「水産業」という言葉の意味するものが、出身母体が違う者では「かくも違うのか」と云うことを私は思い知らされたことである。

 


 

う一つ感ずることがある。官僚組織の肥大化について述べたパーキンソンの法則ではないが、研究や技術開発分野は最近では細分化が進み、研究室の数が増え、夫々の分野の専門馬鹿もそれに伴って増えている。そのこと自体は悪いことでは無かろう。仕事が進展するのに伴う自然の成り行きだ。大学などでの講座数も増え、名前を見ると、「一体どんなことをやっているのか、頭の古い私などには見当が付かない」ものも多い。

定年となり65歳〜70歳を超えた者が集まる同窓会やOB会では何時もこの話が話題になる。そして多くの人が、今の若い研究者達は専攻分野の「お宅」的存在に成っている人が多いように見える。そして自分が今「多岐に亘る水産研究の全体の中で、己の仕事は何処に立っているのか?」に就いては関心が余り無いように見える・・・と云う。つまり「木を見て山を見ず」の状態に陥っているというのだ。

「年寄り連中の愚痴」と一蹴されそうだが、「亀の甲より年の功」と云うこともある。「人類と水産業の将来」などと大上段に振り翳さ無くとも、「水産研究の今後の在り方」などは「木ばかりに気を取られて山を見ない」で居れば話が出来ない。それらは「木」(専攻分野)の問題ではなくて、「山」(他分野を網羅した全体像)の話だからである。

もっと人類社会の大局、すなわち「山」に焦点
を当てた論議があっても良いのではないか?

私達が駆け出しの頃、未だ博物学者的な大先輩が生存して居られた。実に視野が広く博識であった。今このような人は居ない。また、英国のロストフで活躍していたラッセル(E.S. Russell)は彼の名著「The Overfishing Problem」と題する小冊子(The Cambridge Press)の中で、人類の水産活動を「Human Biology」の一つと位置付けて居る。私はその位置付けにはやや異論はあるが、彼の生物学者としの面目躍如たるものがあると私は思った。そして常に大局から事象を見ていた。

「生態系を破壊する水産業は消滅させる必要のある悪の産業だ」と云う非魚食民族の研究者も居る現在、私は自省も含め、もっと夫々の立場から反論を恐れず、「ものを云う時」だと思うのだが・・・?。欧米人の一部の人達の「言い放題」を黙って放置させて良いのか?鯨問題もそうだが、民衆レベルから世界に提言すべきだ。

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る

ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

RANKAKU

「濫獲」か「乱獲」か?

有元貴文氏の問題提起を巡って

真道 重明

2007/10/01

ご感想やご意見はこちらへ

 

本 文   追 補   来信コメント

Honbun_Rankaku

本 文

Overfishing という用語ですが,日本では「乱獲」と訳しています。本来は「濫獲」と表記すべきであったものを,日本の当用漢字に合わせて「乱」の字を用いたものと考えますが、これが「漁業悪視」の根源になってしまったのではないかと思われます・・・』。とのメールを有元貴文氏(東京海洋大学 海洋生物資源学科)から頂いた。同氏は続けて『「濫」であれば獲り過ぎをやめれば管理可能であるものを,「乱」を使ったために,漁業のやりかたそのものに問題があるとなってしまったのではないでしょうか?』と述べて居られる。不適切な漢字表記が概念の混乱を惹起し、一部の人達に「捕獲漁業管理に関する誤った理解を惹き起こしたのではないか?」との問題提起です。

「漁業悪視」と云うのは、多くの日本人にとっては俄には信じがたいかも知れませんが、最近10年の間に、漁業は悪という先入観に基づく論文が、Nature Science といった著名な雑誌に掲載されるようになって来ています。例えば:−

 http://kaiseki.ori.u-tokyo.ac.jp/~katukawa/blog/2007/01/faithbased_fisheries.html

(勝川俊雄 公式ウェブサイト)参照。「何を馬鹿げた・・・」と一笑に付すのは簡単でしょうが、何故このような議論が出て来るのかを考えることも大切だと私は思います。

現在の中国語の文章では Overfishing を表す言葉としては、専門技術用語としては「捕労過度」が使われ、これは恐らく Overfishing の訳語だと私(真道)は思って居ます。専門の水産資源の学術論文ではない一般向け文章では「濫獲」と云う用語が多く用いられるように思います。希には資源に関して「乱獲」も用いられる場合がありますが、乱獲と言う語は、例えば「乱而獲得」(無暗に出鱈目に、即ち何の規範も無い状態の下で「奪い取る」の意)などのように、一般用語として広く用いられることが多いようです。漁業資源に関して「乱獲」と云う言葉が用いられる場合もありますが、多くは学術論文の中で使われており、「恐らく日本語の学術文献中の乱獲と云う言葉を仮借した」のではなかろうか?と思われます。

有元貴文氏は友人との会話で「乱」の字は,Un-regulatedUn-controlled の印象が強いとの意見を持つ人が多いとも述べられている。広辞苑(第6版)には「乱」は「みだれる」、「秩序がない」としており、は「水が溢れること」、「度が過ぎること」と説明されて居ます。他の国語辞典でも大同小異で、「乱」は無秩序・無規範、「濫」は規範が存在し、規範の度が過ぎる、規範を超える、言い換えれば「法(のり)を超える意味に使われているようです。

私は E. S. Russell の「濫獲の問題」を Cambridge 大学 Press の許可を得て和訳し西海区水産研究所から1952年に出版した経験があります。当時は「乱獲」と云う言葉は無く、「濫獲」と書いていました。この拙い訳の冊子は、自分から言うのも烏滸がましい限りですが、各水研や大学からの引き合いが多く、瞬く間に出払ってしまうと言う時代でした。教科書などは全くなく、測定器具や集計法など、何ごとも暗中模索しながら調査計画を立てて居た時代でした。

なお、日本で「濫獲」という二文字熟語が何時から使い始められたかは定かではありません。江戸時代には沿岸漁業を営んでいる漁村では、取り分け貝類や海藻類については資源管理のための規制が散見されますから、かなり古くから使われていたのかも知れません。沖合魚類資源に関する研究は第二次世界大戦前に、今から考えると、その萌芽的な研究が田内森三郎氏や相川広秋氏などにより始められたことは衆知の通りですが、田内先生からは週に一度特別講義を受けました。しかし、上記両氏の内容は、私の記憶では漁況予測的な面が多く「濫獲」という言葉は殆ど耳にしなかったように思います。

敗戦後、占領下に置かれていた時、GHQ の天然資源局の強い示唆もあり、今で言う資源研究を推進する体制が進められましたが、それ以来「濫獲」という言葉が氾濫するようになったと記憶します。国語審議会などによる漢字表記の改正により「濫獲」が「乱獲」と表記されるケースが寧ろ多数派になりましたが、問題点も孕んでいます。

有元貴文氏の「漁業という人間活動」と題する一文を掲げて置きます。ご一読下さい。PDFファイルです。下記のURLをクリックして下さい。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/T_ARIMOTO1.pdf

漢字表記の問題だけで無く、此処で述べた諸事項に関連したご記憶や忌憚のないコメントをご遠慮なくお気軽にお寄せ下さること期待します。

なお、このホームページに寄稿された林繁一氏の Overfishing に関す論説があります。ご参考に一読を希望します。

「乱獲という言葉の思い出」 http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan4.htm#Overfishing
「乱獲を考え直す」 http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan4.htm#RANKAKU_Hayasi

この題目の冒頭に戻る 

ADDENDUM_Rankaku

濫獲問題に関する追補

(2008/11/08)

この項目を最初から読みたい人は:−

(1) 水産資源の濫獲問題については、上述の本文で触れましたように、その思想の萌芽は平沢さんに依ると日本では江戸時代には既にあったようで、具体的な資源保護に関する「取り決め」も存在していたようです。平沢 豊さんは江戸時代の古文書に興味を持ち調べておられましたが、私の知る限り公表に至らない侭、残念にも物故されました。

中国ではどうだったか?ですが、孟子(紀元前300年弱)の梁惠王篇(上)に「数罟不入夸池,魚鼈不可勝食也」の句があり、私はこれが世界最古の資源保護の萌芽的な思想を述べた文献では無いかと思っています。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan5.htm#FutatabiSakko

勿論これらは長年の捕獲漁業や採捕漁業の経験の蓄積から導き出されたものであって現代の科学的な理論(仮設)に立脚した物ではありません。

(2) 近代の科学的な理論(仮設)に立脚した濫獲理論 (Fish population dynamics)はミコヤン工業大学の Baranov がバルト海の底魚個体群の変動を物理学的に説明した仮設から始まったと云われて居ます。ロシア語で書かれた彼の論文は北海の底魚類の資源を研究していた ICESInternational Council for the Exploration of the Seaコペンハーゲン、デンマーク)グループ(主として欧州各国の学者達)の眼に触れず、私の記憶に間違いがなければ、ICES グループの人達はそれ迄苦労して築き上げてきた年齢組成の変化などの濫獲理論が既に Baranov によって明解な数理モデルとして提出されているのに驚いたと云います。

ICES は主として生物学者から成り立っており、後にこれらの研究は物理学や数理的取り扱いに長けた人々が加わり、個体群の資源変動に関する各種の模型が欧米の人達によって研究されました。それらの内容には様々な考え方が在るにせよ、資源学の大きな潮流と云うか一連の系譜は現在の主流になっています。

(3) しかし、これらの資源モデルは漁獲量(生産量)・漁獲努力量(漁船数・曳網の回数や時間など)の統計数値が基礎的な要素になります。尤も統計に頼らず定量漁探によって直接水中の biomass を計る試みもなされては居ますが、未だ数歩を踏み出したと云って良い現状だと思います。日本を含む一部の経済的に発展した国々の水産統計は未だ良しとしても、大多数の途上国が公表している水産統計の数値の信憑性は非常に低いと思わざるを得ません。国際的な、また国内的な政治的理由によって数値が捏造されたり改竄されたりしているのが実態なのです。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan3.htm#TojyoukokuToukei

FAO などの世界水産統計やそのデジタル版の Fishstat Plus などの時系列データもFAO が独自に集計したものではなく、各参加国から提出された数値を積み重ねたものです。信憑性が極めて低いそれらのデータを使った論議は実態をどれほど表しているのか疑わしくなります。私自身もこの疑点の多いデータを使ってこのホームページにも幾つかの問題を論じています。自己撞着のようですが世界全体やアジア全体などの広域を論ずる場合にはこれ以外のデータが存在しないこと、疑わしいと云っても全く荒唐無稽とまでは云えず、疑わしいことを常に念頭に置いて「当たらずと雖も遠からず」を期待し、データが疑わしいことを前提として事に当たった訳です。

(4):自然科学に属する資源解析学と社会科学に属する経済学とでは人類の漁業活動の結果生じた問題については視座の違いから、同じ土俵で論じ得るものではありませんが、現実の漁業の状況を判断する際に両者夫々が「問題をどう視ているか?」に就いて理解するための相互間の議論は非常に重要だと思っています。

私が1960年代から70年代の初頭に掛けて東シナ海で操業している以西漁業の底魚資源を研究している頃ですから、随分と昔の話ですが、当時あった「水産研究会」の浅野長光さんの援助を受けて4〜5年間に亘り資源屋と経済屋との「話し合いの場」を設けたことがあります。

当初はお互いに言葉が通じないで困りました。例えば「漁獲努力量」という言葉一つを取っても、資源屋は「人間とは全く無縁の物理量」ときめて考えていますが、経済屋は「人間の努力した量」と考えるのです。互いに幼稚園からの出発でした。残念なことにこれら一連の話し合いの内容は学際研究の難しさを痛感しながら、記録として纏めることも無く、その侭になりましたが、半世紀を経た今日でも「これらの論議は極めて重要だ」と私は思うのですが、余り行われていないように思います。

(5):私が常々思っていることの一つは淡水域での水産生産です。上述の世界統計の問題とも係わっていますが、これらの統計数値は市場経済の仕組みの中の流通チャンネルに記録されたものだけを基礎としています。だが、淡水生産には自家消費が(取り分け世界の人口の大多数[8割]を占める発展途上にある貧困な地域では)流通のチャンネルに載らないものが大部分である。此れらは世界水産統計では無視され、算入され手配ないのです。

しかし世界の真実の淡水生産は海洋生産に匹敵するか、若しくは凌駕して居る可能性があるように思います。「証拠となる数値情報が無い」とか、あっても「定性的で定量的なものは殆ど無い・・・」と云う状況にあるので、この問題の議論は憶測の域を出ないようですし、従って検討する人も居ません。人類の食糧という立場から見ると、市場経済の視点だけから見える世界の水産生産だけを考えていたのでは大きな誤りを犯すように思う。若しかすると海面生産に匹敵するか上回るかも知れないのではないか? これを妄論として一蹴できるのだろうか?・・・と云うことです。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan7.htm#FreshwaterProduction

内水面の漁業(取り分け捕獲と採集)は「海洋を太宗とする」という固定観念に囚われているのではないか?産業革命による動力機関の出現が岸を遠く離れた大洋の魚類資源の大量捕獲が可能となり、漁業の企業化が進み生産品は流通のチャンネルに載った。内水面ではこれが無かった。莫大な人口の動物蛋白源として統計には拾い上げられない自家消費の実態をもっと調べるべきでは無いのでしょうか?

 

この題目の冒頭に戻る 

 

comments

各位からの Comments etc.

(敬称略)

 

楊 嘉麗: 中国語での「濫」と「乱」の字の意味ですが、私の個人的感覚を申し上げます。「乱」(luan 4声)は「秩序が無い」と云うイメージが強いと思います。日本語の「わがまま・我侭」や「出鱈目」などのように・・・。単語の例:紊乱、乱世、混乱など多くの言葉は日本語と同じ意味です。

一方、「濫」(lan 4声)は「無選択」、「溢れる」、「異常に(過度に)多い」などと云うイメージです。単語の例:濫伐、(職権の)濫用など日本語と同じ意味で使われる言葉が沢山在ります。IT 技術専門家、IT 企業経営,、女性。真道の問い合わせに対する返事、2008/10/02

 

渡邊 精一 水産伝習所教頭 松原新之助講述の「水産大意」(104頁、糸綴じ冊子、出版年は不明ですが,1889(明治22)年に水産伝習所が創立され,1897(明治30)年に水産講習所 伝習部長との履歴から,講習所になる寸前の教頭時代に,概論講義で使った教科書と考えます。(所在:東京海洋大学 久保伊津男先生蔵書)。同書89頁の「養殖編」の最初のところで,以下のように記されております。

// 引用開始

人口未だ増殖せず人智未だ開けざるの時代に在りては水産物の需要少なきが故に其捕獲酷密ならず魚介の蕃殖を害すること少なかりしを以て天然の蕃殖に委し水産物の減耗を来すの恐なかりしが世の開明に従ひ水産物の需要頓に増加し酷漁濫獲漸く行はれ水族次第に減耗を来し河海湖沼の別なく到る所不漁を告ぐるに至り殊に河川の魚類を以て著しとす北海道の河川は古来有名なる鮭鱒の産地にして期節に至れば其河川俎上するもの実に夥しく・・・云々。

// 引用終わり

(東京海洋大学 2008/10/06)

有元 注:この時代に,濫獲の概念があり,「酷漁濫獲」の語があったというのは驚きです。但し,河川のサケマスで漁獲努力量が過大になっているから人工繁殖が必要とのことで,海洋漁業については漁撈編で扱っていますが,技術論だけが述べられ,資源の問題については説明がなく,まだ近代漁業技術が本格的に始まる前の良き時代であったのだろうと思います。

北海の資源状況の悪化から「濫獲の問題」が取り上げられたと考えておりましたが,日本で明治時代にすでに言及されていることで問題を改めて見直してお ります。(東京海洋大学 2008/10/06

 

上西俊雄: (言語学者、拡張ヘボン式ローマ字提唱者)。真道 記:漢字表記の問題である「濫獲」か「乱獲」か?について、畏友で言語問題で度々意見を頂いている上西俊雄氏(ハンドルネーム kmns)にコメントをお願いした。同氏の文章は理論的基盤に立ち旧仮名使い、漢字は正体字(旧字体)で書かれている。同氏のコメントは下記をご覧下さい(2008/10/10)

上西俊雄氏の「濫獲」か「乱獲」か?に関するコメントは下記のURLをクリックして下さい。pdf ファイルです。http://home.att.ne.jp/grape/shindo/overfish3.pdf

なお、html (htm) ファイルで見たい人はこちらをクリックして下さい。

真道 再記:理科系(自然科学系)や水産経済の分野の論議や論文ばかり目を通す機会の多い私達にとって、大手出版社で多年に亘り各種の辞書の編纂に従事されてきた上西俊雄氏の視点は非常に示唆に富み考えさせられるものがあると私は思っています

 

武内信能:「濫」は当用漢字、常用漢字として残っているので「濫獲」は今でもこれからも公的に使えます。「乱獲」は新聞が選んで使っている表記であり、元の「濫獲」のニュアンスが歪んだというご指摘は確かにそうだと思います。・・・以上は小生に身近な若い国文学専攻者が本項目を見て大変興味を示して呉れたコメントです。ご一報まで。2008/10/25

 

石原 元:乱獲か濫獲かの事ですが、漢字の意味によってこの語の意味が異なる事が理解できるとは言え、その事実があることは曲げられないと思います。すなわち、持続的でない漁業です。乱獲でも、濫獲でも、どう言いくるめても、持続的でない、環境と不調和な漁業であると思われます。今は強姦と言いますが、かつては乱暴とか、暴行とか言っていました。言葉によって事実を柔らかくすると言うのは、人を叱ったり、人を批判したりする時は良いでしょうが、科学の領域では意味がないように思います。

FAOでは乱獲は使用しないで、

Depleted
Recovering from depletion
Overexploited
Fully exploited
Moderately exploited
Under-exploited

と分けており、この内、上の3つが乱獲状態と言えるようです。よく言われるのは世界の水産資源の約75%が乱獲または満限利用の状態、残りの25%が通常利用か、もう少し利用できる状態、そういう言い方です。

川崎健氏の1998年のIIFET(ノルウエーのトロムソ)で行った講演What is overfishing?では、魚類のバイオマス変動様式をIA、IB、IIの3型に分けた上で乱獲を定義し直しています。バイオマス変動様式II型の魚類は環境変動の少ない環境で繁殖戦略を進化させてきており、バイオマス変動様式は密度依存型であって、これら魚類、例えばマグロ類に対する乱獲は、回復しない乱獲と定義しています。成長乱獲、加入乱獲とも違う、回復しない乱獲、回復する乱獲という定義を定めております。

魚類の繁殖様式によってこのように分ける方が実際の漁業活動と魚類のバイオマス変動に合っていると考えられます。またこれは、IUCNのレッドリスト基準にある個体群の10年または3世代の減少において、マイワシなどの浮魚資源が絶滅危惧種になってしまうという矛盾も回避しています。

以上、簡単ですが、コメント述べさせて頂きました。石原 元 2008/10/29).

 

林 繁一:[水産資源研究者OBの雑感]: ご指導を頂いている真道さまから、私にとって現役時代の最大関心事であったこの問題について意見を求められました。「水産研究100年記念集会」で、「20世紀初めに、大型トロール船が活躍していた欧米の伝統を持つ占領国の専門家が、敗戦後の日本の調査研究を非難していることに、多少の違和感を持った」と話したことがあります。もちろん日本の漁業による獲り過ぎ、特に1960年代から約30年にわたって世界の海で大規模な開発を続けたことに対する自省もありましたし、その反面発展途上にあったいくつかの国に漁業の有用性を示したという自負もありました。残念なことに地域の「おじさん」役を引き受けていまして、考えをまとめる余裕が得られなかったという言い訳もあります。それでも何時までも引き伸ばすのも申し訳なく、愚見をまとめてみました。

真道さんは、「濫獲」という言葉が敗戦後の漢字制限策により「乱獲」という用語に改められたために、軽い意味となってしまったという有本さんのご意見を紹介されました。あり得ることです。ただし1964年に刊行された旺文社の「漢和辞典」には、二つの言葉が併記されていますし、岩波書店の「広辞苑」でも同様です。このような混乱がなるべく早く収束するよう望んでいます。

僅かな体験で申しますと、水産研究所に採用された1949年からは「乱獲」は資源畑の私たちにとって中心となる課題でした。まずは国内の漁業政策を立てる上で、ついで海外漁場の開発のために、主要な水産資源がMSY水準を越えて漁獲されていないかを検討してきました。その過程でいくつかの種については変遷とか、漁業以外の要因の重要性が明らかになりました。その間には regime shift といった概念も定着しました。それにしても「乱獲」問題はこの国に水産資源の継続的な調査を確立してくれました。当初は主に国際対応のために、国連海洋法が発行した1996年以降は周辺海域の水産資源の管理のために、資源の調査研究が定常的な業務となりました。

時代の要求は水産資源の調査研究に関する多くの総述と、それから発展した教科書を生み出しました。その中心課題は「濫獲/乱獲」であり続けています。その間、一貫して漁獲量と資源量との関係が平衡モデルによって調べられてきました。現実の要請に応えるには人員と時間とが限られている行政研究機関としては当然の対応です。しかしそれだけで十分かという疑問が湧いてきます。そこで時間の制約を受けない引退した私にも密かな貢献ができるように思います。特に気に掛けて頂く必要はありませんが。

水産資源学の教科書を繙くと、体が小さく、商品価値が低い個体を獲ってしまう「経済的乱獲」、一つの発生集団またはcohort の生体量が十分に大きくならない段階で利用する「成長乱獲」、そして種の個体群の極端な減少、遂には産業的な絶滅に至る「再生産乱獲」という三つの段階が要領よく説明されています。一般的な概念を理解させるためにはそれで良いのですが、時として専門でない人に誤解を与えます。

一例は「しらす船曳き網漁業」です。一昔、二昔前には、スペインのしらすうなぎ漁を別とすれば、先進国では見かけないこの漁業を非難する知識人がおられました。川を遡る際に捕えるうなぎと違って、広い海面に分布しているかたくちいわしの稚魚おを岸から精々二、三海里の沿岸で利用している船曳き網漁業が乱獲問題を起こす可能性は現在では考えられません。逆にしらす時代の漁獲量は成長したかたくちいわしの資源量予測の目安になっているのです。なお漁獲量としては数分の一に過ぎないシラスの生産額はかたくちいわしの数倍になっているという事情、加えて生産に必要な労力、資材を考えに入れると「若い魚を獲るな」という発想が必ずしも成り立つとは限りません。豪州政府が昨日漸く SEA SHEFERD の捜査に踏み切ったという報道に安心感を憶えました。

一般的に高価な種がその存在を脅かされる再生産乱獲に陥りやすいと思われます。しかし生物学的技術の発展はその解決に役立つ段階に来ているようです。かつて真鯛とか、鮃といった高級魚は極端に減ったそうですが、それらの種苗生産技術の確立はこれらの種を増やしましたし、時には過剰な捕食者としての懸念さえ生じていると聞きました。種苗生産技術の発達が多くの種の維持に果たしている貢献は大きなものです。投餌養殖が水質に与える影響は必ずしも無視できません。

雑然とした事実の列挙に終わってしまいましたが、今後は化石燃料の問題、人間の労力の問題も含めて、皆様と共に考えてみたいものです。お力添えを頂ければ幸いです。(2009/02/22).

 

コメントが来次第、次々と追加します。

この題目の冒頭に戻る 

ご感想やご意見はこちらへ

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る

ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DynamicEquilibrium

動的平衡

寄稿

林 繁一

2009/06/20

著者へのご意見やご感想はどうぞ 

 

戦によって思いがけず、水産講習所、特に魚を始めとする生物資源を勉強することとなり、手当たり次第に本を読んだことがありました。その間、いろいろな概念を教えられたのですが、もっとも興味を惹かされた一つに Dynamic equilibrium があります。動的平衡と訳されていますが、生き物は個体としても、集団としても、常に変化しながら、しかも全体としては一つの形と機能とを維持していることをいうのだそうです。咽が渇けば満足するまで水を飲み、次第に水分を消費して、また・・・といった状態もその一つでしょうか。人生の終着駅に近づき、思い出すことが多くなりましたが、それなりの理由がありそうです。

今年は横浜開港100周年とか、新しい国造りを始めた日本政府は「広く会議を興し万機公論に決すべし」と決意したそうです。順調に国運が伸びるにしたがって、指導層には驕りが生まれたのでしょうか、老化なのでしょうか、天皇制を利用して言論を統制するようになり、無政府主義者、社会主義者、共産主義者、遂には自由主義者や基督教徒まで言動を制限されるようになったということを実感してきました。本来「亜細亜は一つ」のはずなのに、朝鮮を併合し、中国を侵略し、傀儡国家「満州国」を作り上げ、欧米の干渉を受けると国際連盟を脱退しました。それ以前の欧米列強の侵略を思えば、そして日清戦争に勝ってやっと不平等条約を撤廃できたことを考えれば、当時の指導層の行動を全面的に否定できないかもしれませんが、日本の社会から動的平衡の機能が次第に失われたことは大きな不幸でした。

あの戦争が起きる直前の日本では翼賛選挙が行われ、国論が統一されました。安倍前首相のお祖父さんに当る安倍寛といった戦争に反対した人は疎外されました。さらに反戦運動に身を投じた人々は酷寒の網走で獄に繋がれ、虐殺された方もおられました。あの反戦運動を深く考えていれば、300万人の国民の命が失われずに、そして父祖伝来の千島列島を強奪されずにすんだのにと想います。国を含めて集団の行動は広い意見を集めて決めるべきだという重大な例ですね。

さて最近とかく話題に上る北欧ですが、国会議員の数が多いという資料が手に入りました。国立国会図書館に保管されているそうですが、人口10万当り3〜4人ということです。民意が比較的政治に反映されてきた欧州諸国では一人を越しています。政策が右に左に揺れるのでしょうが、それによって世界の動きに身軽に反応してきたようにも見えます。対照的な米国では僅かに0.2人、いつぞや新聞の投書欄で「米国よりも日本の議員が多いのは不合理だ」という意見が載っていました。外国といえばアメリカしか思いつかない国のお話ですね。この人のお手本は民意を反映していない国だったのです。そこでは世界各地に軍隊を出し、市場経済万能の政策が採られ、ハリケーンで被災した人々の救援が蔑ろにされ、基幹産業と金融機関が破綻しました。それでも民主主義の伝統によってChangeを掲げる大統領を生み出しました。二代目のBush大統領に懲りて二代目のClinton を拒否したといわれました。

 

スウェーデン
3.83
フィンランド
3.79
ノルウェー
3.6
デンマーク
3.29
イギリス
2.28
イタリア
1.6
フランス
1.49
カナダ
1.25
ドイツ
0.81
韓国
0.62
日本
0.57
アメリカ合衆国
0.17

いくつかの自由主義国の10万人あたりの国会議員数

 

翻って日本ではどうでしょうか。世襲議員をやめると言い出したのは良いが、結局腰砕けに終わりました。私自身は世襲禁止は規則で決めるものではなく、選挙民が判断すべき問題なのですが。政治家にとって後援会とか、私設秘書といった業界を潰すことはできそうもありません。さらに非合理な発言は議員定数の削減です。森元首相がいみじくも漏らしてしまった「共産党が消えてくれれば良い」といったところとしか考えられません。議員定数を減らすことは多様な意見を抹殺して支配層に都合の良い政治を目指しているようです。天安門事件を記録から抹殺しようとしているお隣の中国に良く似ていますね。政治体制の変革には段階を経る必要があるという意見に賛成です。

景気の低迷に伴って人減らしが進んでいる、だから議員も定数を減らすという自民、民主両党の主張は明らかに詭弁です。削減するならまず「政党助成金」なるものから始める、いや止めて欲しいものです。私の税金が支持してもいない政党に渡されているのは窃盗にあっていることに等しいと感じます。企業献金も同じで、その金は価格の引き下げに使ってください。これは賄賂か、背任なのですから。本当に「身を削る」なら、世帯当り平均収入450万円の社会に相応しい歳費にするのが常識だし、特権的な利便を返上すべきです。

欧米を比較すると二大政党制とは特権の温存であり、生物社会の原則である動的平衡の破壊、そしてそれが生物社会そのものを破滅させると案じています。僅か15歳の少年時代に特別攻撃隊の志願を強制された世代からの最後の忠告です。

 

水産雑記(その2)に戻る  水産雑記(その3)に戻る  ホームに戻る

ご感想やご意見はこちらへ