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FutatabiSakko

再び、「数罟不入夸池」について

真道 重明  2007/07/11

前に「数罟不入夸池」と題して孟子の梁惠王篇(上)の中にある句を世界最古の漁業資源管理に関する文献ではないか?と考え、その句を紹介した(2003年)。今回、三浦福助(筆名)さんからこの文書について興味のあるコメントを頂いた(2007年)。以下にそのコメントを紹介し、合わせて私見を述べた。なお、原文は短いので此処に重複を厭わず再録した。次いで三浦さんのコメントを、最後に私見を述べた。

目 次

数罟不入夸池 (真道の初回原文の再録)

古代中国の資源保護 (三浦福助氏の投稿文)

コメントに関する私見 (真道の私見その他)

 

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SUUKO

数罟不入夸池
 

(2003年5月 記)

真道 重明

 

の字は正しくはサンズイが付く。漢音は「コ」または「カ」で「−池」は「コチ」と読むらしい。罟は網の古字。

孟子の梁惠王篇(上)に「数罟不入夸池,魚鼈不可勝食也;斧斤以時入山林,材木不可勝用也.」という語句が見える。これは世界最古の漁業資源管理に関する文献ではないか?と思われる。問題は「数罟」の意味である。

学習研究社の「漢字源」を引いてみると、「数」は訓読では「かず・かぞえる・わずらわしい・しばしば」など。音読みでは、慣用音として「スウ」、一類として漢音では「スウ、現代音=shu(3声)」・呉音では「シュ、現代音=shu(3声と4声)」、二類には漢音と呉音いずれも「サク、現代音=shou(4声)がある。一類の意は「かず」・「しばしば」など、二類は「わずらわしい」・「細かい」の意味と言う。なお、「数罟、サクコ(目の細かい網)」という解説があった。

従って「池でサクコ(数罟、すなわち網目の細かい漁網)を使わなければ、魚や鼈は充足し供給不足になることは無く・・・云々」の意味となる。

もし、数罟を「漁網をスウコ、すなわち漁網をしばしば(多数回)池で使わなければ、魚や鼈は充足し供給不足になることは無く・・・云々」の意味となる。

前者は網目規制による資源管理の考え方であり、後者は漁獲努力量規制による資源管理の考え方となる。

もう30年も前のことであるが、私は中国ではどのように解釈しているのか知りたくて、老朋友である上海水産大学の王貽観教授に手紙で問い合わせたところ、早速返事があり「恐らく後者の意味であろうと解釈する人が多いようです。なお、夸池とはどのような池なのかは不明です」との内容であった。日本の中国古代史研究者の著書にもこの解釈を採っているのを読んだ記憶がある。

王貽観教授は戦前に中国から日本の水産講習所(現在の東京水産大学)に留学し、日本水産学会誌に外国人としては初めて論文、『瀬戸内海に於けるマダヒの Stock に関する一二の知見』と題する日本水産学会誌 6(4) p.175−178、1937(11)を発表した私の先輩である。

私は数罟に「目の細かい網」という解説があるところから、前者の意味であるという解釈を未だに捨てきれない。私は数罟に「目の細かい網」という解説があるところから、前者の意味であるという解釈を未だに捨てきれない。[前者の意味に解釈する例も日本と中国を問わず多数在ることが判明した]。

【蛇足】:漢語の「池」は天然の池、「塘」は人工の池という解説もある。「池塘」は宋の朱熹の偶成と題した詩にある「未覚池塘春草夢」(未ダ覚メズ池塘春草ノ夢)で年配の人は中学校の漢文で習ってよくご存じと思う。現在では天然池であるか人工池であるかを問わず、池の汎称として「池塘」と呼んでいるようだ。鼈(スッポン)は日本のものとは別種で普通の会話では甲魚と呼び高級な水産物として中国や東南アジアでは普遍的に食べられている。

KodaiChinSigenhogo

古代中国の資源保護

 

三浦福助

(2007/07/08)

(公開に当り真道が語句を若干編集した)

 

1 数罟の謎

 

(A) 罟は網の古字とされていますが、罟と網は違う物ではありませんか。当時、網という字があったのですから、何故違う字を使ったのでしょう。一つの仮説として、簗、筅の類を「罟」と呼び、われわれが網として知っているものを「網」と呼んだのではないか?と思います。

もとより、素人の思いつき、たいした根拠はありません。(1)同物異名水面では簗、筅類が使用されることが多い漁具で、鼈も獲れること。のこと。(2)内(て、連想を誘うこと、などですが、(3)にいたっては噴飯もの(近頃はコヒーを噴くとも言います)とは思います。しかし、甲骨文字にお詳しい真道さんであれば意を汲んで頂けるかも知れません。「池」と「塘」を区別するような水準であれば、意を汲んで「網」と「罟」を区別した筈だとも思いますが・・。

(B) 「私は数罟に「目の細かい網」という解説があるところから、前者の意味であるという解釈を未だに捨てきれない。」とありますが、日本国内でも、数罟は「目の細かい網」という解釈が一般的なようですから、落胆されることはないと思います。また、「数罟是細密的网子」という文があります。中国語は判りませんが、細目の網という意味ではないでしょうか。とすれば、中国でもそのような解釈が大勢ではないかと思います。

しかし、です。「罟は簗、筅の類」説は措くとして、罟はどのような物だったのでしょう。刺網、すくい網、追い込み網、投網などが想定できますが、そこまでの技術があったのか疑問です。対象魚に鼈が入っています。鼈を獲る漁法となると、池や川を干上げる「かいぼり」、釣りなどが考えられますが、網目の大きさは関係ないと思います。「”何を言っているのだ。漁獲物の総称だ。」ということはあるでしょうが、古代中国では網目は4寸までと決まっていたとの説もあります。すると、細目の網ということ自体が怪しくなるのです。すぐに結論が出ることではないのですが、ご参考になればと思います。

 

2 綱か網か?

 

釈迦、キリスト、マホメット、孔子といえば、それぞれ仏教、キリスト教、マホメット教、儒教の開祖として、世界の四大聖人であることは言うまでもありません。それぞれの方については古今東西論じ尽くされていますが、ふと、気が付いたことがあります。はなはだ恐れ多いことですが、この四聖人の中で、気晴らしの趣味を持っていたのは孔子だけではないかということです。

詳細は後日に譲り、今は省きますが、間違いないのではないかと思います。では、孔子の趣味、気晴らしはなんだったのでしょうか。その1つは釣りだったのです。論語の述而編に「子釣而不綱。弋不射宿」と記録があります。「子釣して綱せず。弋(よく)して宿(やどり)を射ず」と読んで、「孔子は釣りはしたが、綱はしなかった。飛ぶ鳥は射たが宿っている鳥を射ることは無かった」という意味だそうです。

勿論、儒学者諸先生の中には「これは楽しみのためにやったことではなくて、家の祭祀のために必要に魚鳥を得るためにやむを得ずした行為」という向きもあります。これは迷惑メールみたいなもので無視しましょう。

さて、ここでいう「綱」とは何でしょうか。3つほど解釈があります。(1)文字どおり、綱を使うもので「はえなわ」だとする説です。正統的な解釈で多数派です。(2)綱は恐らく網の誤りであろう、とする説で、古くからかなり根強く主張されており、「網を投げて一淵の魚族を取り尽くすような極端なことはせられなかった」と注釈が入ったりします。(3)綱と網の混合漁法で、流れを絶って漁をするものだとの説もあります。「綱は、大繩を以て網を屬け、流れを絶ちて漁する者なり。」との記載もありますが、具体的なことは判りません。私見としては(2)だろうと思っています。

それは、釣り針の供給の問題があるからです。当時、どのような釣り針を使ったのか、物は無いようです。しかし、太公望ならいざ知らず、釣り針が無くては釣は出来ません。古代中国といえば、名にしおう青銅の国、当然青銅製があったのではないかとも思い、実物も多少残っているようですが、市井、辺地にどの程度あったのか疑問です。海彦、山彦に見られるように大変貴重なものであったはずです。

それをかなり大量に使い、しかも相当量消耗するはえなわが一般に行われていたとは思えないのです。矢張り、ここは順当に「網」の間違えと読むほうがよいと思っています。この話は君子の在り方として行動規範を示しているのであって施策として資源管理を図るものではありません。しかし、修身斉家は儒教の理念ですから、当然、魚類の資源管理につながると受け取ることも出来ます。水産資源管理の始め、と強弁する気はまったくありませんが、源流の1つと思いますが如何でしょうか。

 

3 余魚を棄つ

 

儒教が出てくれば道教も出ないと釣合いが取れません。孔子様は釣りをしたのですが、老子はどうでしょうか。老子については浅学にして知りませんが、荘子は釣りをした記載があります。准南子の斉俗訓編に「恵子、従者百乗にして以って孟渚を過ぎる。荘子、これを見てその余魚を棄つ」という記事があります。

書いてあることは「恵子が馬車百台ほどの家来を連れて、孟渚という所を通りました。これを見ていた荘子は余った魚を棄てたのです」ということです。「何だ、訳が判らん」とお思いでしょう。実は、恵子というのは荘子の古くからの友人で、梁に仕えて宰相となり富貴の身となりました。そして供回りを贅沢にしてのし歩き、たまたま孟渚という湖のそばを通りました。その湖では荘子が釣りをしていたのですが、その行列を見て、「魚篭に入れていた自分の必要以上の魚 (余魚) を湖に放してやった・・・」ということです。

足ることを知らず、更にその上にも益々多くを望む事を見て、その戒めとして、用いる以上の魚を放流したという話です。水産資望源管理と関係が薄いようなことですが、大切な根底を押さえた話だとも思います。われわれの魚を求める気持ちが乱獲につながるのかもしれません。私も聖賢の後を慕っ余て少は嗜みますが、いざ漁場に着くと1尾でも多く、との気持ちに衝き動かさ釣りを多れてしまいます。凡人の浅はかさで、どうしたら良い事やら判りません。

 

4 白小

 

杜甫は苦労の多い人生を送ったせいもあり、国を憂い、家族を憂い、わが身を憂い、「一生憂う」とまでいわれた詩人です。そして、なんと水産資源の減少についてまで憂いていたのです。杜甫の晩年55歳の時、偶々、売りに来たシラスのような魚を見て、「白小」という律詩を作っています。この詩も「解悶 12首」という連作の1つになっています。一読、意を尽くしていると思いますので、何も月並みな感想などは付けませんが、その詩を付記しました。真道さんのご感慨などをお漏らし頂ければ・・・と思います。

真道 記 : この漢詩に就いては次項に述べる。

 

Shindo'sKoments

コメントに関する私見

(2007/07/12)

真道 重明

(1) 三浦福助さんの博識と好奇心旺盛な探求意欲に敬服。いろいろと教えられる処が多かった。厚く御礼申し上げたい。なお、「罟」と「網」の漢字文字の件に就いて中国の幾つかの検索サイトを調べて見たが、数多くヒットしたが、「罟は網の古字で同義」とするものばかりだった。

なお、「网」は「網」の簡体字であるが、「网」は康煕字典にもあり、JIS第2水準にも採録されて居るレッキとした文字で、偶々簡体字の「網」と字面が同じもの。もっと言うならば「漢字簡化法案」(簡体字制定のために数次に亘って論議された法案)に於いて元来あった「网」を「網」の簡体字として採用したのではないかと思われる。

魚類や禽獣を捕獲する、いわゆる「網」であって、老子の「天網恢恢、疎而不失」(天網恢恢かいかい疎そにして漏らさず: 悪事は必ず天罰を受ける)の語句のように、法規制?の場合の「法の網」の意味にも用いられる。

刺網、すくい網、投網などに触れたものは殆ど無いが、例外化否か分からないが、台湾の宜蘭県に「牽罟」と呼ぶ小舟で魚群を追い込み、多数の浜にいる人々が協力して綱を引く地曳網の一種が記載されている。

(2) 「池」と「塘」.。池は天然の池、塘は人工の池と云う解釈が在るとことを冒頭の[蛇足]で述べたが、今回再び漢和辞典類と中国の幾つかの検索サイトの双方で調べ直してみた。

得られた結果は何れも殆ど同じで、「塘」には堤、土手など人工の施設の意味がある。しかし、「池と同義」すなわち湖沼より小規模の天然の「水溜まり」である「池」と同じ意味との説明もある。

なお、夸池の「夸」の字には「サンズイ、中国語の三点水」が付く。この字の本来の意味は、(a) 淀んだ、(b) 流れていない水体、(c) 汚れた、(d) 小さな水溝(クリーク)、とある。私の持って居る小型の漢和辞書数冊にはこの字は記載されていない。また、最近の中国検索サイトでは「数罟不入夸池,魚鼈不可勝食也」に関するファイルは多数出て来るが、「夸池」を「汚池」(簡体字)と表記したものが多く見付かった。

水の汚い池の意味にもとれるが、各文脈から見て、これは少しおかしい気もする。同声同音語である可能性があるので、慣行的に「代替字」としてとして扱った可能性がある。流れていない水体は「淀む」と同じことだと思う。夸池とは「池やクリーク」思えばよいのではなかろうか?

(3) 何れも古代中国における天然資源保護を述べた貴重な文言であると指摘している。王貽観教授の返書では数罟をスウコ(日本漢音)と発音し「しばしば網を入れる」意味に解釈する人が中国には多い」とのことであったが、Wiki (中国語 維基)などで多数の文献が読み易くなった昨今では、当時私も疑問を捨てきれなかったし、今回、三浦福助さんも指摘されている通り、この数罟は「サッコ」(日本漢音)と読み「網目の小さな網」の意味と解する人達が中国では寧ろ多いようである。

例えば、「數罟不入汚池、魚鼈不可勝食」とし、英文訳として:−
If fine-mesh nets are not used for fishing, there will always be fish and turtles for eating in abundance." を加えている。

もともと、私がこの問題に拘ったのは今では古典的文献となっているが、約半世紀前の当時は Beverton & Holt の資源理論模型が公表され、その分野の研究者は、寄ると触ると話題になった時代であったから、私もそれに触発されて居たからである。

すなわち、スウコだと漁獲努力量の制限、サッコだと幼稚魚の捕獲制限に係わる問題となるからである。私事で恐縮だが、先輩の同窓である王貽観教授が若し今もご存命であれば、その後も大いに論議を戦わせることが出来たと思うと残念である。清朝の遺臣の子息であった同氏は文化大革命の最中、上海水産大学の疎開先の厦門(アモイ)で亡くなった。

(4) 「綱か?網か?」の問題。私も三浦福助さんの「誤記」説が最も可能性が高いと思う。現在の簡体字では綱と網は字面が大きく異なるので誤記の可能性は低いかも知れないが、繁体字や日本の常用漢字ではこの二つの字は極めて似ている。間違える人が多いのも事実である。

なお、中国の 辞書の Website では「綱」には、日本語の「つな」の外に、要綱、項目、綱領、など多くの意味があるが、殆どのものは「網具を構成する部品の中、網具を支える主要な縄(繩)」との説明はあるが、「はえなわ(延縄)、または、のべなわ(延べ繩)」(中国語は延線釣)に触れたものは発見出来なかった。

(5) 余魚を棄つ。准南子の中に出て来る恵子と荘子の逸話は非常に興味深く拝読した。三浦氏の博覧強記に敬意を表したい。私の近い友人に釣り気違いが居たが、彼はその日の釣りが終わると収穫を総て河に戻し、偶に家に持ち帰っていた。彼(・・・と云っても当時未だ12〜13歳の子供だったが・・・)曰わく「釣る時の魚との駆け引きが面白い。それが釣りの醍醐味だ。釣れた魚を自分の所有だなどと思うか否かは別問題だ。欲を出す気は無い」。私は驚いて、その心境は「釣魚を楽しむ心根の極致だ」と思った。

彼も今では50歳を超えて専ら海釣りをしているらしいが、釣れたものは家族が喜ぶので必ず持ち帰っているとのこと。太公望や恵子でなくとも釣り人の中には希にこんな人が居るらしい。話が逸れてしまった。

「水産資望源管理と関係が薄いようなことですが、大切な根底を押さえた話だとも思います」と三浦氏は述べて居られるが、同感である。基本的な思想的背景を考えると資源管理の思想とも大いに繋がっているように私は思う。「貪らないこと」、すなわち、「際限なくほしがるのを止める」ことは資源管理の思想には、敢えて論ずる必要がない大前提だからだ。

大量生産に伴う無駄な大量消費と大量廃棄。人間の欲望には限度が無く、それを抑制するメカニズムを人類は持って居ないようだ。換言すれば「足るを知る」と云う言葉の存在意義にも通じる問題であり、「勿体ない」の言葉が叫ばれる昨今、一方では利益追究に憂き身をやつし、挙げ句の果てには戦争も欲望に繋がる問題であることは歴史の示すところだ。

(6) 白小について。三浦氏のコメントで杜甫にこの五言律詩の在ることを知った。三浦氏にこの詩や関連事項に関する情報に感謝したい。問題は数罟の意味の解釈問題からは逸脱するが、魚類の乱獲を戒める示唆に触れた杜甫のこの詩に興味を掻き立てられた。調べている内に詩聖と称された大詩人の杜甫が「大の魚好き」だったことも知った。

「白小」の詩や白小と云う語に就いては日本や中国の Website に多く検出される。生物学を専攻した私には、この名前の魚が「学術的に何であるか?」が先ず気に掛かった。咄嗟に思い出したのは数回訪れた蘇州や無錫で食べた太湖の「銀魚」ではないか?と云うことであった。

結論から言うと詩の「白小」は「白小魚」とも云い「銀魚」ではないとある。白小に該当する魚は、現在では湖南省に最も多産し、四川省にも多いと云う。日本語も同様だが、漢字の固有名詞を同定、ないし比定する仕事は非常に面倒である。魚名も亦同じく漢字を追って行くのは将に盤根錯節と云うか実に面倒でややこしく、快刀乱麻を断つように「此れだ」と納得しうる場合に遭遇するのは寧ろ例外的である。

魚類の分類系統を論じた論文では最も厳密な拠り処となる「国際動物命名規約」に準拠した学名(ラテン名)が用いられるのは当然だが、分類学に限らず純学術論文では学名が必ず記載されるが、普通の読者を対象とする文章では魚名は近代の日本では片仮名、以前は平仮名や漢字が用いられた。中国では漢字だけで記述されるのは言う迄もないが、通称・俗称・異称・方言名などで書かれて居るのが普通である。

もっと云えば、「標準和名」もその存在意義に関する異論が多く、「使わない方がよい」と云う分類学者も多い。中国では「標準漢名」は無く、科学院の系統検索(書)や専門家の魚名索引(辞典)などに準拠している。同じ魚でも魚名は必ずしも一致しない場合が多くある。

日本語の場合を例に取れば、「白魚」と書いて「シラウオ」とも読めるし「シロウオ」とも読める。魚類学の泰斗であり江戸文学に精通して居られた内田恵太郎先生は「胸鰭」を普通に使われる「ムナビレ」と呼ばず、「ムネヒレ」と云って居られた。此れと同じで、理由は別として、「シラウオ」と呼んでも「シロウオ」と呼んでも、読み方が間違っている訳ではない。しかし、両者は異なった仲間の魚である。

多くの人達が知っているように、慣習として:「シラウオ」と呼べば Fam. Salangidae (シラウオ科)の数種のうち、S. microdon を指すのが一般的でである。また、「シロウオ」と呼べば Gen Leucopsarion  (Fam. Gobidae)、(シロウオ属、ハゼ科)の L. petersi が普通である。広辞苑などを見ると、紛らわしいと思ったためか、「シロウオ」は見出し語に【しろうお、素魚】を立てている。なお「素」には「白い」と云う意味がある。

杜甫の「白小」について「何の魚だろう?」という疑問は江戸時代から論じられて居たようだ。貝原益軒の「大和本草」にも杜子美(甫の字)の白小を「麪條魚」であるとしている。元来、「麪條」は中国語では「饂飩や蕎麦」のことを指し、面条(簡体字)、麺條などとも書く。白小を「麪條魚」であるとするのは中国の文献から見て誤りのようであり、「麪條魚」は太湖の銀魚の別称である。 

それでは中国ではどうであろうか?中国では「白小」と云う魚は何か?中国の幾つかのサイトを見ると、杜甫の白小の詩を解説して居るものの中に次の記述があった。

白小(白小魚)。「嫩小魚」または「條小魚」とも云う。太湖の銀魚ではない。白小魚は四川でも多く産するが、湖南に最も多産する・・・云々。「火焙嫩魚」(料理の名称)は「湖南省の名菜(名物料理)である」とも書かれている。杜甫は詩の中で小の魚の捕り過ぎを心配したが、現在では洞庭湖などの湖泊では資源保護のため禁漁措置が採られて居る。若し杜甫がそれを知ったら何と言うだろう・・・?

種(Species)を調べようと試みたが、持ち合わせた学術的な検索(書)や魚名辞典類には、白小・白小魚・嫩小魚・條小魚などの漢字名は見当たらない。残念だが今のところ手掛かりは無くお手上げ状態である。

私がこの詩を見て咄嗟に連想した「銀魚」は幸運にも Website に学名の記載された記事が見付かった。属名は Protosalanx で、大銀魚属とある。詳細は煩雑になるので省略するが、これを手掛かりとしてかなりのことが判明した。日本の「シラウオ科」に近い多くの属がある。

元来、中国の淡水魚は生産量も世界第一だが、種類も日本の数倍は在り、シラウオに近い魚類も非常に多く日本には棲息しないものも沢山ある。私が無錫や蘇州で食べた銀魚だがその属にも数種あるようだ。ハッキリしたのはハゼ科の「シロウオ」ではない点である。

白小、白小魚については残念ながら不詳としか云いようはない。しかし、「銀魚ではない」と所々に云っているが、私は直感的に「シロウオ」の類ではなく、大きく云って「シラウオ」の仲間のような気がする。多くの属があるから、違いが識別されるのだろうが・・・。

なお、中国では「シロウオ」は「彼氏白蝦虎魚」と呼ぶ(日漢水産詞匯、科学出版社、1991)。なお中国で「白魚」と呼ぶ魚はコイ科の成魚の重量が1Kg.に達する魚である。また、日本で云う「シラウオ」に相当する魚を白魚と表記したものもあった。

以上、くどくどと駄弁を弄したが、杜甫の「白小」と題する五言律詩を紹介する。

 

白小  杜甫 (712-770)

 

白小羣分命      天然二寸魚

細微霑水族      風俗當園蔬

入肆銀花乱      傾筐雪片虚

生成猶捨卵       盡取義何如

 

 

(真道 注;出典:中華経典文学網、CCVIEW.net、 原表記は簡体字による横書き、日本常用漢字に無い数個の文字は常用に置き換えた。書は有名な鈴木秀樹氏の作品である)。詩の和文の拙訳を下記した。

白小と云う小さな魚の仲間は天から与えられた大きさは二寸ほど小さな生き物ながら歴然とした水生動物の一つであるこの土地の風習では人は蔬菜のように食べて居る市場に入って来ると銀の花が咲き乱れたように美しい魚を入れた籠を傾けると雪片が溶けたように見える育てるにはその魚卵を捨てずに残して置くということだすっかり取り尽くすのは天の摂理に適うとは思えない

理科系で文学的センスの無い私でも詩聖と後の世から讃えられた杜甫の詩は旧制中学の漢文でも習ったし、それ以外にも多少は知っている。但し、この詩のあることは三浦氏の指摘で知った。

唐詩は特に好きで数冊は持って居るのだが・・・。上海で入手した分厚い「唐詩鑑賞辞典」にも杜甫の詩は李白と共に最も多数に掲げられているが、この「白小」と題する律詩は無い。

杜甫は湖南の生れだそうだが、この魚の名産地であり愛着があったようにも思う。一読して彼の憂愁の心とこの小魚に対する愛を感じる。「小さいとは云え歴(れっき)とした水族の一員だ」(細微霑水族)のくだりにそれが表れている。控えめな言い方だが、最後の「盡取義何如」はまさにこの小魚の濫獲を憂い、魚類資源保護の必要性を訴えている。

現在、中国では海産魚の乱獲に苦しんでいるが、内水面の淡水魚に関しては、各省政府や省以下のレベルの政府(役所)の水産局や水利局は資源保護のための禁漁期や禁漁区を設定している。

(7) 「罟」の文字について《説文解字》(中国文字学の基本的な古典、15巻。後漢の許慎撰。西暦100年頃に書かれた。良く「説文」と略称される)によると、罟は网(日本の常用漢字では「網」の古字、魚・鳥・獣などを捕獲する「あみ」のことと述べている。
なお、中華人民共和国の現在の標準文字である簡体字には「網」は無く「网」のみである。現代音では
wang 3 で「網」と同音同声 である。

 

関連項目「数罟不入夸池」についは此処をクリック

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