産雑記の続き

   水 産 雑 記  

(その2)

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水産雑記の続きです。目次の項目が多くなったので(続き)としてページを分けました。水産雑記の最初のページはここをクリック

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真道 重明

目 次 (続き)

水産技術者 OB 会の紹介と案内 
水産動植物名検索データベースの紹介(3.7万件の学名・和名・英名の検索可能)
MCSとは? (漁業許可制度の問題、山本忠)  [寄稿]
21世紀の中国水産業の方向 (大きく変換をするその戦略)
メコン河の漁業調査活動 (MRC Mekong Fisheries Program)
乱獲という言葉の思い出 (林 繁一)[寄稿]
日本漁業の盛衰 (林 繁一)[寄稿]
南海水産研究所と費鴻年の想い出 (生涯向学心を持ち続けた人)
林紹文と林書顔の想い出 (FAOで活躍した人々)
世界水産総生産に占める中国の地位 (PDFです。巨大な中国の数値の問題)
Web 上に公開されている中国の水産統計 (PDFファイルを含みます)
途上国における水産統計の信憑性 (最も基本的な課題を忘れてはなら無い)
水産統計の宿命的な諸問題 (発展途上国の数値の信憑性を巡って)
CHANGI 号拿捕事件 (ビルマ海軍に拿捕された SEAFDEC 調査船の顛末)
両岸の水産学術交流 (PDFです。両岸は中国の大陸と台湾を指す)
「さしみ」と言う料理の海外進出」 (刺身は何故海外で流行るのか?)
タコの好きな日本人 (タコの似非?的かつ雑談的な食文化論)
カラチョウザメ (カラチョウザメの郵便切手や西海区水研の剥製標本)
漁業者が信頼できる資源量指数が欲しい (林 繁一)[寄稿]
ふぐのぼり (鯉のぼりではない「河豚のぼり」のはなし)
楊U会長(日中民間漁業協定締結時の代表「楊U氏」の想い出)
ASEAN 諸国の水産生産 (PDFファイルを含みます)
中国が水産分野で初めて開催した国際会議 (1983年無錫のNACA会議)
乱獲を考え直す (林 繁一) [寄稿]
出雲の鰻が大坂へ (酒井 亮介) [再録]
海外の諸情報の収集 (海外勤務から帰国して感じたこと)
木部崎修君との交友記 (苦労人で熱血漢だった同級生)
再び「数罟不入夸池」について (三浦福助氏のコメント、その他 )
江戸前の鯨 (三浦 福助) [寄稿] PDFファイルです
鵜飼いを理解 (三浦 福助) [寄稿] PDFファイルです

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南海水産研究所と

費鴻年の想い出

真道 重明

(2000年10月)

広州市にある南海水産研究所

真道 重明

2004/08/13

ご意見や質問は


まえがき
沿革と現況
費鴻年との出会い
むすび


 

まえがき

 

広東省の省都である広州市に在る南海水産研究所を私が始めて訪問したのは1983年に無錫で開催された NACA (Network of Aquacuture Centres in Aisia-Pacific) の会議にSEAFDEC代表として同僚の Dr. Kathleen Matics とバンコクから出席した帰路、私一人、1957年に上海水産学院でお会いして以来、親しくなった費鴻年に会う目的で広州市を訪れた時である。しかし下記のように、この研究所の前身であった研究室には1957年に訪れた可能性がある。

すなわち、広州市には上述の時点から26年前の1957年に中国漁業協会の邀請で訪中した際、北京や上海など各地を訪問した時の往路の9月と帰路の12月に広州市を訪れており、特に往路の9月には10日ばかり広州市に滞在して南海水産公司など水産関係の施設を見学した。その際に研究施設や多少本格的な標本室などを訪れた経験がある。

20数年前のことで私の記憶が定かではないが、恐らくそこは南海水産研究所が未だ広東省に所属していた広東省水産局の研究所(広東省人民政府水産管理実験所、すなわち、南海水産研究所の前身母体)では無かったか?と思われる。私のアルバムの写真のメモには「南海水産公司」とあるが、若し公司は記録の誤りで、上記の研究所(実験所)なら、その時が最初と言うことになる。今から約半世紀も前の話である。

その後1986年に中国科学院海洋研究所の邀請で中国各地を訪れた際、さらに1989年に World Bank/FAO Joint mission (世界銀行とFAOの合同調査団、広東省の漁業借款事前調査)の水産資源担当専門家として広東省の各漁業基地を訪れた際にも、連日のように同所を訪れ曹炳光所長(1935年生れ、1986−1993所長。海洋資源専門家)や張光育副所長(所長)と数回面談し、かつ目的だった「既に退職された費鴻年」とお会いして歓談することが出来た。

この時に同所からは貴重な資料や情報を沢山入手することが出来、同調査団の仕事に大いに役立った。また、費鴻年とは1957年の訪問時に上海水産学院でお眼に掛かって2ヵ月余に亘りいろいろ意見を交換し、その後も手紙を交換して互いに親しい間柄となっていた。同氏とは個人的な「交友の想い出」が多々ある。費鴻年は93歳の天寿を全うされ、今では故人となられたが往時を追憶してこの一文を書いた。

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沿革と現況

 

海水産研究所は1953年に広東省の広州市で公式に創設された。その時の名称は「広東省人民政府農林庁水産局水産研究所である。また、その前にも「広東省人民政府水産管理実験所」の名前が記録に在る。これらの名称から見て南海水産研究所は広東省政府の研究機関として発足したことが分かる。その後中央政府の所管する「部」(日本の省に当たる)に移管され、現在では黄海水産研究所、東海水産研究所などと共に中国水産科学研究院の配下に置かれている。

半世紀に亘る建設の経過を経て、南海水産研究所は南海区、すなわち、(北部湾 = トンキン湾)、海南島、西沙(パラセル)群島、中沙群島、南沙(スプラトリー)群島など広東省、海南省、広西壮族自治区の海域、言わば熱帯・亜熱帯の水産の基礎分野と応用分野の研究、水産の高水準の新しい技術研究および水産の重要な応用技術研究の社会公益的な、また、基礎的な国家クラスの科学研究機構となっている。

所内には、海洋漁業資源と漁撈技術研究室、水産養殖の各種類の資源と増養殖技術に関する研究室、栄養と食品工学の研究室、海洋漁業の生態環境と汚染の監視やコントロールの技術に関する研究室、漁業生物の病害防治研究室がある。

他機関と併設されたものとしては、農業部(省)との生態環境に関する重点開放実験室、広東省漁業生態環境重点実験室、農業部漁業環境及び水産物の品質に関する監督・検査・実験測定試験センター(広州市)、農業部南海区漁業病害防治センターなどがある。更に広東省の深セン市と海南省の三亜市には、それぞれ、野外実験基地が設けられている。

研究所が設立されて以来、研究プロジェクトは500件余、その内の238項は科学研究成果を挙げ多くの褒賞を得た。とりわけ「四大家魚人工繁殖」、「大珠母貝人工育苗と真珠の核の挿入技術」、「南海貽貝(ミドリイガイ)視察の体系的研究」、「広東省の島嶼水域の海洋生物および漁業資源調査」、「鯔魚人工繁殖と育苗技術研究」等々である。これらの科学技術の成果は,水産科学技術の促進と発展、および農漁村の経済発展に積極的な貢献をした。

現在(2004年)の職員数は345名、その内技術者は177名(研究員12名、副研究員35名を含む)である。1954年に作られた標本室には現在各種類の海洋生物標本が1万件、その内の新種は数10種、これらは華南地区における最大の標本庫である。(以上データは南海水産研究所のホームページにある情報を中国文から抄訳したものである)。

なお上に掲げた写真は最近のもので、広州市新港西路219号(現在は231号)にある同所は改築され建物も既往のものより格段に立派なものとなっている。

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費鴻年氏との出会い

 

費鴻年(1900年10月29日〜1993年5月12日)は浙江省海寧県の人である。江蘇農業学校を1916年に卒業し、中山大学、北京農業大学、江西大学、天津水産専科学校、武昌大学などで教職に着いた。1920年代に中山大学生物学系を創設、自ら運営に当たり、当時の中山大学院院長だった「魯迅」と親交があった。

また、中央政府の農業部参事、水産部の副総工程師、中国水産科学研究院の南海水産研究所副所長,《水産学報》副主編,および中国水産学会、中国魚類学会、中国生態学会などの学術関係の多くの組織の職務に携わっている。

1920年代以降、中国における最初の「海洋生物の科学視察調査」、最初の「黄河流域水産資源視察調査」および最初の「南海(南シナ海)底曳網魚類資源調査」の担当責任者であった。1970年代には新しい水産資源評価方法の「資源解析模型」の研究に先鞭を付けた。

著書に《動物生態学》、《生物学綱要》、《海洋学綱要》、《水産資源学》、《魚類学》など多くの論文や専門書がある。1991年には英国ケンブリッジ國際伝記センターが出版した「世界名人録」にその名が記載されている。

以上の諸記録から分かるように、費鴻年は近代20世紀における中国水産学術界の初期の重鎮であり、常に広い視野に立って、特に資源研究に強い関心を持って居られた数少ない中国の20世紀の初期開拓時代の水産学者の中でも優れた人の一人であると私は尊敬している。

始めての私との出会いは、このホームページの「1957年の訪中記」に述べたように、1957年の10月、上海水産学院の一室である。私が同校での約2ヵ月余の講義期間中、黄文豊・王貽観の両氏と共に、円卓を囲んで度々意見を交換した。体格の良いのは費鴻年と王貽観、痩せているのは黄文豊と私で、声が大きいのは費鴻年と黄文豊、ゆっくり喋るのは王貽観と私、とても対称的だったのを憶えている。中国語と日本語の混合会話であったが各氏は総て日本留学の経験があり、日本語には極めて堪能であった。この3名の中、費鴻年は57歳前後で一番年長者、私が35歳で最年小であった。

1983年の無錫で開催された NACA 会議(中国が水産分野で最初に開催した国際会議、Network of Aquacuture Centres in Aisia-Pacific)に出席後、バンコクへの帰路、費鴻年に再会したくて広州市に立ち寄り、南海水産研究所を訪問した。上海で会って以来26年振りである。80歳を超えて居られたが矍鑠として居られた。上海での私との出会いのことを良く憶えて居られ、歓談に時の過ぎるのを忘れた。広州市に立ち寄って良かったと思った。

この時驚いたのは同氏の口から流暢な日本語が聞けたことである。26年前の上海での会話は日本語と中国語の混合であったが、同氏の口からは一度も日本語は発せられなかった。私は同氏は日本語は聞き取れるが、喋るのは間違いを恐れて控えて居られたものとばかり思っていた。

さらに驚いたのは、私がバンコクのSEAFDECに帰任したら、同氏から謄写版刷りの近著が送られてきたことである。Beverton-Holt の等生産曲線に関するものであった。80歳を超えた高齢にも係わらず、また公職を引退されていたにも係わらず、その研究一筋の生きざまには頭が下がる思いであった。その封筒には「国家水産総局、南海水産研究所」の文字が印刷されていた。早速急いでお礼の返事を出したことを憶えている。

3年後の1986年に中国科学院の海洋研究所の邀請で中国各地を歴訪したとき、目的の科学院の南海海洋研究所を訪問、その足で南海水産研究所を訪れた。費鴻年は86歳になり、少し体が弱って人に助けられて車椅子で部屋に入り、普通の椅子に座り直されたが、頭は非常に確っかりして居られ、最近の学説の紹介やその応用としての網目規制に就いて今筆を進めていると言った話や、往時の上海での想い出などを語り合った。これが費鴻年にお会いした最後となった。

この時の会話は通訳無しの日本語で行われ、費鴻年の流暢な日本語に再び驚いた。1989年世界銀行の漁業発展借款問題の「FAO広東省調査団」に参加した時は、広州市の白天鵞飯店を拠点としていたので、同研究所には数回訪れたが、90歳の高齢の体調を考慮してお会いするのを遠慮し、「呉々もご自愛を」と曹炳光所長を通じて挨拶を伝えて貰った。その後、暫くして訃報に接した。生涯研究に邁進された費鴻年は中国の初期の水産研究者の多くが魚類分類学・養殖技術・漁撈技術などに携わるなかで、とりわけ特殊な「資源理論モデル」などの分野の啓蒙の大きな推進者の一人だった。今ではご冥福を祈るだけである。

むすび

 

今の日本の若い研究者は黒潮調査などを通じて南海水産研究所とは接触があるとは思うが、私に経験は同所の成立過程から1989年までである。もっとも、2002には上海水産大学の創立90周年祝賀の際、張光育所長とはお会いしたが…。

私の感じから言えば、日本はより近い水域を担当している青島の黄海水産研究所や上海の東海水産研究所との方が研究交流は盛んであるように思われる。東南アジアを担当する SEAFDEC 勤務や費鴻年氏などの個人的な事情から私は南海水産研究所への想いは強い。21世紀には益々交流が促進されることを願っている。この一文が何らかのお役に立てば幸いである。

ご意見や質問は

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林紹文と林書顔

の想い出

 

真道 重明

(1999年10月)


内 容

林紹文(1907−1990)
  
林紹文氏の経歴
  
私との出会いと交友

林書顔(1903−1974)
  
林書顔氏の経歴
  
東港(高雄郊外)での出会い


 

林紹文

林紹文氏の履歴

国山東省の青島にある黄海水産研究所の初代所長(中華人民共和国成立前の1947年1月から1949年4月まで)を勤め、FAOのフィールドの養殖専門家としてマレーシアやタイ国にあってオニテナガエビの人工養殖を初めて成功させたことで知られる「林紹文」氏の経歴は次の通りである。

林紹文(1907年.5月 - 1990年7月)。福建省の樟州 (樟は木偏では無く「さんずい」偏) の人,海洋生物学者。1924−1930年、北平燕京大学生物系及び同研究院で学ぶ(北平は北京の別称)。1930年厦門(アモイ)大学の講師に任ぜらる。1930−1933年、米国のカーネル大学(Cornell University)の生物学部で学び哲学博士号を取得。1933年厦門(アモイ)大学の副教授。1935年山東大学生物系教授、並びに兼系主任。1938−1940年,国立貴陽医学院生物形態学系教授及び系主任,なお山東省立貴陽科学館館長を併任。

1940年、香港海洋生物研究所技正、および香港大学生物系の客員講師。1941−1946年、軍政部戰時軍生人員訓練所生物形態系主任教官。1947年6月、中華民國國立中央水産試驗所所長。

1949−1973年、FAO技術専門家、並びにアジア極東地区養殖専門家。オニテナガエビの人工育苗と養殖技術に成功、その功績により1970にタイ国カセサート(農科)大学水産科学名誉博士号。1973年シンガポール大学理科名誉博士号。

1973−1974年、農復會漁業組技術顧問(台湾)。1974−1976年、米国ワシントン大学漁業学部客員教授。1974年−1986年、米国マイアミ大学海洋及び大気学部名誉教授。

1990年逝去。享年84歳。

1995年、青島市の中山公園西門外の百花苑の中に同市に縁の有った有名人20名の名前を彫りつけた雕塑が作られた。有名な作家「老舍」などと並んで林紹文の名前も刻まれている。

 

(以上は青島の黄海水研の記録、および同市の紹介HPの抄訳、以下は漁業文化史(台湾)の中の台湾早期漁業人物誌「林紹文」の項からの抄訳であり、逸話を交えた経歴がやや詳しく記述されているが、当然のこと乍ら上と共通する記事も多い点はご了承願いたい)

 

紹文は中華民國が成立した1911年の四年前の「1907年」の生まれてある。1940年に同氏は曾星奎博士の招きに応じて香港海洋生物研究所の技術職員となった。香港の水産試驗機構が設立されると,香港大學生物系の客員講師を兼務した。

日中戦争で香港が日本に占領されて間もなく香港大学は業務を停止し、林紹文は失業し家族は香港で一年近くの間貧困生活を余儀なくされた。研究の仕事に対する「志に窮する」ことは無かったとは言え、夫人と共に生活の為の収入は無く、戦乱から逃れるために蓄えも使い果たし、大人2人と子供4人が生きるには毎日平均5元の生活費を要する苦難の日々であったと言う。その間にも節約して内外の学術書を購入し、「物質上の空白を読書により精神的に補った」とのことで向学心は衰えることは無かったと言う。

その他、船舶のドックに生物標本の蒐集所を設立したりしたが、残念にも1941年8月の一次空襲で被爆し破壊された。捜索に来た日本軍の兵士は多くの日本語の蔵書、特に東京帝国大学の教授の著作を一目見て、返って敬服の念を抱き、林紹文宅は「学者の家」と呼び、その後二度と日本軍は同氏宅を騒がすことは無かったと言う。

1945年中国の農林部(省)部長の周貽春は「国立中央水産試験所」の設立を計画し、林紹文と劉廷蔚の両氏に設立準備を委託した。1947年にこの試験所は正式に成立し、林紹文は所長に任ぜられた。

1949年から1973年の期間、同氏は FAO (国連、食糧農業機関)の技術顧問としてアジア地区の漁業発展に貢献した。例えば、1950年代にはタイ国では「皇宮の魚」と迄称せられている呉郭魚(テラピア属の魚、詳しくは此処をクリック)は未だ普及して居らず、同氏のこの魚の紹介と移植に協力と貢献した。その功績によりタイ国王から名誉博士の称号を受けた。またシンガポール大統領からもシンガポール大学理科の名誉博士号を受けている。

1960、’62、’66 の各年には数次に亘ってFAOから米国の水産養殖研究所の規画案の特別顧問として派遣された。これは米国がFAOからの専門家援助を求めた最初のケースである。

FAOに勤務する前に中国で生物学の研究論文13篇を発表、FAO在職中には純学術論文27篇、会議報告などを除いた技術指導書数十篇を発表して居る。その内、最も知られているのはオニテナガエビに関する生物學、胚胎學、およびその繁養殖に関する一連の報告である。この蝦の種は元来マレーシアやタイ国が原産国であるが、今では欧州・アジア・米国・アフリカなどで養殖されるようになり、同氏は「淡水蝦養殖の父」と呼ばれている。

1973年にFAOを退職した後、台湾の農復會漁業チームの技術顧問となり、水産試験所のケ火土所長や台南分所の唐允安分所長ら各氏と共同で蝦苗養殖や飼育生態およびボラの人工繁殖の仕事に携わった。

1974年から1976年にかけて米国のワシントン大学の漁業および海洋の両学部の客員教授、同時にマイアミ大学の海洋と大気の両学部の名誉教授となり、この間に2冊の書籍を執筆している。またFAOの海洋食物と薬物の検討会議、FAO水産養殖技術会議などにも参加している。

嘗て東港の水産試験所で一緒に仕事をした水試の廖一久総所長や趙乃賢氏は林紹文氏を敬服し、趙乃賢氏はマレーシアのペナンで始めて研究を始めた時の課題が淡水蝦であったため、林紹文氏の数多い論文で啓発された追憶を語っている。また、林氏は蝦の水墨画も堪能で傑作がある。1990年他界。

 

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私との出会いと交友

 

紹文氏と私が始めて出会ったのは1966年6月、バンコクの Phra Atit Rd. にある Maliwan Mansion にあった FAOの地域事務所(現在のRAPA、すなわち FAO Regional Office for Asia and the Pacific)で定期的に開催されて居た IPFC Working Party on Trawling の第1回会合に同作業部会委員として出席した時である。当時は未だ今のような立派なビルは建設されて居らず、いわゆる古風な木造の Maliwan Mansion の2階の会議室で会議が行われていた。

同事務所には水産担当官として、統計担当の山本忠氏と養殖技術担当の林紹文氏の二人が居られた。林紹文氏は60歳、私は45歳の時である。第1日目の昼休みの休憩時に初対面の挨拶をした後、「時間的に間に合うようなら東京に電報を打ちたいのですが」という同氏に対する中国語の質問が私の最初に交わした言葉だったのを憶えている。

そのことに就いても非常に丁寧な対応をして頂き、始めは中国語の会話だったための親近感のせいか?とも思ったが、同氏は極めて人に対して面倒見の良い人柄であることを知った。その後一年置きに数回この作業部会は開かれたが、専門分野が異なるので、同氏と詳しい長話をするようなことは無かったが、毎回、山本氏と共にお世話になった。

親しく話をするようになったのは1973年の4月に私がSEAFDECに赴任し、同年に同氏がFAOを辞めてタイ国を離れるまでの数ヶ月間である。林紹文氏の家はバンコクの中心街 Phyathai Rd. にあり、ここは私がバンコクで最も長く過ごした住居から歩いて数分の同じ道筋にあった。度々お宅にお邪魔し、令夫人の江耀羣女史ともいろいろな話をした。お子さんは4人有った筈だが、既に成人され、または勉学中で皆米国に居住して居たように記憶する。したがって、アパートでは夫婦2人の生活だった。

令夫人の江耀羣女史の話では1933年に林氏と結婚、。湖北省黄梅県の人で金陵大学、北平(北京の別称)の燕京大学(現在の北京大学)理学院の生物系を卒業した才媛で、仲々活発な人だと見受けた。夫婦揃って生物学者だったから、仕事の上でも大いに林紹文氏を助けたことが多かったようである。

夫人の家系はクリスチャンであり、かつ両親は中国の古典にも詳しかったそうである。私が彼女から良く聞かされた言葉に「今の中国の若者は尺牘文(セキトクブン、中国語の書簡文、日本の候文に当たる)が書けない。白話文(会話文)で書いている。嘆かわしい」と言うのがある。

「日本でも同じですよ。尺牘文と同じく[候文]と言うのがあって若い人は書けないのです。むしろ言文一致と言って口語体の小説や書簡に賛成する人もあるのです」と言うと、「その風潮は分からない訳ではないが、私は保守的と言われるだろうが、中国古典語の良さを失いたくない」と仲々頑固な一面を覗かせていた。丸顔の賢婦人と思った。林氏は横で黙って笑いながらこの遣り取りを聞いて居た。口八丁手八丁ではないが、活発な夫人には、林氏も一目置いていたような気がする。

私は取り敢えずタイ語を知る必要があったので、林氏にある時「タイ語は中国語に似ているように思う。「中国語で書かれたタイ語の入門書は有りませんか?」と訪ねた。「タイ語で書かれた中国語入門書は有るが、逆の中国語で書かれたタイ語手引書は無いようです。貴方のように中国語ができるなら3ヵ月で日常会話はなんとかなりますよ」とのこと。語順や文章はとても良く似ている。

私の記憶に残る林氏の強烈な印象はSEAFDEC(東南亜漁業開発センター)がチュラロンコーン大学(Chullarongkorn University、タイ国の最高学府)のキャンパス内にある大講堂で1973年5月に開催された「東南アジア漁業技術会議」の同月26日の閉幕式典での同氏の特別講演である。東南アジア各国の水産の科学者に対し「先進国や国際機関に対し万事を依存する心を棄て、自力での科学技術発展に努力せよ」という趣旨であった。満場の拍手が起った。これは各国の人々から尊敬と信頼を得ていた同氏にして始めて言える言葉であり、普通に人が言えば、反発はあっても、拍手では迎えられなかったのではあるまいか?

この時、私は SEAFDEC 着任直後だったので、事務的な雑事やタイでの生活準備に忙殺されていたが、この会議での上記の講演が終わると万雷の拍手が起こった感動的な光景は今もこの眼に焼き付いている。

山本忠氏はその直後にインドネシアに転勤されることとなり、中華料理屋で開催された私的な送別会の席は林氏が手配されたように記憶している。出て来る料理の一つ一つに丁寧な説明があった。その中でも「白切鶏」の高級品を「酔鶏」と呼ぶと言う話などを憶えている。

同年、暫くして林紹文氏もFAOを定年退職することになり、私達日本人の有志が同氏の送別の宴を設けた。私が日本から持参していた「おぼろ昆布」を大変気に入った様子だったのを記憶している。同氏は多少体調が悪く台湾で治療する予定だった。タイ国の水産界では同氏がタイ国に留まることを薦める運動もあったと聞く。

バンコクを同氏が去るとき私に「運動しなさい。貴方は若くはないからこのセット位が丁度合っていると思う。私がチョット使ったが未だ新品同様です」といって、ゴルフのハーフセットを頂いた。私はゴルフなど全く知らないし、しようとも思っていなかったから、貰ったものが American Lady と言うブランドの高価な女性用のものだと人から教えられ、「貴方は若くはないからこのセット位が丁度合っている」と言う同氏の言葉の意味を理解した。同氏は私の痩身で非力な体格を見ての心使いであった。

同氏の淡水蝦の水墨画は相当なもので、落款のある立派なものを記念に貰った。後年になって「同氏の水墨画は有名なものだ」と言う記事を読んだことがある。私の一族には画家が多かったので、早く知っていれば色々話が出来たのにと思うと残念である。

1984年、私が SEAFDEC から帰国してから京都で養殖の国際会議が有り林氏は出席のため米国から来日、羽田に出迎えて久闊を叙した。これが生前の同氏を見た最後となった。中国からの招きで同氏は上海や青島を訪れたが、多分この時の会議の後に乗り継いでのことだったように思う。1949年祖国を離れた同氏の心境は察するに余りがある。同氏が上海や青島を訪れたことは、その後私が訪中した際にも中国の人々から聞いた。

1990年7月、米国の League City, Texas から Mrs. Jeanette C. Ling の名前で私宛の信書を受け取った。林氏夫人、江耀羣女史から中国語と英語で書かれた林紹文氏の同月19日離世の訃報であった。古典の素養のある同夫人のこと。立派な「挽詩」が記載されていた。「博士伝略」には「享寿八十有四」とあった。早速夫人に弔意を伝えた。

その4年後、1994年に夫人の江耀羣女史もこの世を去ったことを子供さんやお孫さんによる連名の英文と中国文で書かれた訃報が送られて来た。享年84歳。易経の「君子自強不息為祝」の句とヨハネ福音書3:16の「For God so loved the world that He gave His only son, that whoever believes in Him should not perish but have etemal life」の一節が書かれて居た。

 

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呉郭魚に関する注記

郭魚は台湾において業界一般の人々が「テラピア属の魚を指す汎称」として使われていたものと思われる。台湾の文献には良く散見される魚名である。中国大陸では「羅非魚」が使われている。Gen. Tilapia。

《拉漢世界魚類名典、Latin-Chinese Dictionary of Fishes Names》、伍漢霖 et al、1999.1028 pp. 台湾水産出版社、によればテラピア属に関しては大陸中文名として「羅非魚」が挙げられているが、台湾中文名は無い(p. 939)。

これから察するに、呉郭魚と言う名前は業界俗称では無いかと思われる。日本で刺身食として開発された寄生虫 Proof の T. nilotica を「イズミダイ」と呼んだのと同じように。なお、この当時 FAO はアフリカ原産のテラピアを途上国の動物蛋白源の増産目的で世界に普及させる政策を推進していた。

 

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林 書 顔

林書顔氏の経歴

 

業文化史(台湾)の中の台湾早期漁業人物誌の「林書顏」の項目によると、林書顏。広東省瓊山縣の人。1922年、燕京大學(今の北京大学の前身校)生物系を卒業。1929〜1931年、広東水産試験所技士。1931〜1934年、広東省農林局水産系。1934〜1936年、浙江水産試験場で技師兼水産生物系主任。1949〜1962年、FAOの中央アメリカ駐在漁業技師。1963〜1965年、米国のAubum 大学で水産養殖を専攻。1965〜1968年、台湾の農復会の高級技正に就任。1968〜1970年、農復會の顧問に就任。1974年、米国 New York で心臓疾患により死亡。…と記されている。

上記の人物誌にある林書顏伝記(和訳した)は下記の通りである。

書顏先生は中華民国が成立した9年前(1902年)に広東省瓊山県(現在の海南省)の人である。1922年に北京の燕京大学の生物系を卒業。1929年に陳同白氏が広東水産試驗場の場長の時、林書顏氏は技士職に就任、魚類学の研究を開始し、多くの著作が有る。1931年、陳同白氏が広東農林局水産系主任に就任と共に林書顔氏も農林局に転じ、魚類養殖の研究に従事した。

数回に亘り西江(珠江流域の諸河川)上流調査に赴き、ソウギョ・ハクレン・コクレン・アオウオなどの魚卵、環境、生態を調べ、採卵して孵化させて魚苗を観察し、コイ科魚類の卵が粘着卵であること、中国においてコイ科魚類の人工繁殖の研究の先鞭を付けた。

1934年、浙江省水産試験場は成立、陳同白氏が場長として轉任、林書顔氏は技師兼水産生物系主任に就任。この頃は黄魚(キグチとフーセイの汎称、真道、注記)やタチウオの回遊と分布を研究している。また長江(揚子江)上流のハクレンやソウギョの魚苗生産の研究にも従事した。林書顔氏は陳同白氏と十余年研究を共にした。(中略)

1949年、FAOの「中央アメリカ駐在漁業技術職員」となり、14年間に亘り中央アメリカ各国の水産養殖の発展に寄与し、関係者でその名を知らない者は無かった。1963年FAO退職後、休むことなく米国の Auburn 大學に赴き養殖池の施肥と水質問題を研究した。

1965年、台湾の農復会の招きにより漁業チームの高級技正となり、仕事の指揮を取った。1968年に技正を退職、顧問となった。1970年に顧問を辞し、米国のワシントンに居を定めた。1974年、アーカンソー州マーリン養魚場および州立養魚試験場の顧問となり、中国のいわゆる四大家魚(ソウギョ・ハクレン・コクレン・アオウオ)の米国における繁殖に従事した。

これらを繁殖させる目的は米国や南米各国に魚苗を供給することで、ダム・クリーク・湖沼・池塘などの中の有害水草を除くことであった。それまでの米国における四大家魚の移植には問題があったが、総て解決された。アーカンソー州の気候は中国の長江(揚子江)一帯と良く似ていると言っている。従ってソウギョを別にすれば四大家魚の移植は中国方式で容易であると言う。ソウギョだけはアーカンソー方式を開発し解決した。

1974年、米国ニューヨークのロックフェラー基金会で当時の台湾農復會漁業チームの責任者である闕壯狄氏と前任者の陳同白氏と水産養殖研究計畫を討議している最中、突然心臓発作を起こし、病院に運ばれたが不幸にも世を去った。

主な著作に、「黄花魚類誌」、「中国魚苗誌」、「香港食用魚類図誌」、「香港之養殖業」、「帯魚及鰻魚誌」などがある。水産界の大先輩であり今日の水産研究の基礎を作った先達者であった。

 

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東港(高雄郊外)での出会い

生時代の私の専攻は水産養殖であったが、中国の養殖に関心を持ち、夜は東京外国語学校で中国語を学んでいた。その当時中国の水産事情、とりわけ、どの様な研究者が居り、何を研究しているか?に興味を示す人はきわめて少なかった。一句一句、字引を苦労して引きながら、李士豪の「中国漁業史」を読んだりして居たが、談話会で「何か話せ」と言うので「林書顔」の黄花魚(キグチやフーセイを指す)の論文を紹介したことを憶えている。それは1942年の頃であった。これが私が同氏の名前を知った最初である。

60余年後の最近になって分かったことだが、林書顔氏のその論文は同氏が1930年代に浙江省水産試験場在勤中に書かれたものであることを知った。もっともその時には著者の経歴など少しは分かっていたのかも知れないが、60年以上も前のことであり、今は手元にメモも記録も残っていないので確かめようが無い。

1963年10月、オーストラリアのブリスベーンで開催された IPFC (インド太平洋漁業理事会、第13回総会)に日本国代表として出席した帰途、台湾政府の邀請により台湾各地を訪れた。訪問の目的は「政府の漁業生産統計と大学や研究機関が集計している資源生物測定のデータを整合させる問題の検討」であった。全く予期していなかったのだが、この時高雄市や東港(高雄市内より車で1時間弱の漁業基地)で数名の旧知に会うことが出来た。その一人が林書顔氏である。もっとも旧知と言っても林書顔氏の場合は単に学生時代に名前を知っていただけに過ぎないのだが…。

偶然にも同氏は長年勤務したFAOを退職する直前で、米国から台湾に一時来訪中だったのである。東港で数名の水産研究者に紹介されたが、その一人が林書顔氏だった。日本語が余りにも流暢なので日本人と思った人が一人居た。廖一久氏だった。同氏の名前は知っていたが、会ったのはこの時が始めてであった。私が FAO の IPFC 総会の帰途だったことや、学生時代に中国語の同氏の論文を読んだことなどを話すと、林書顔氏は日本人の私に親近感を憶えたのか、途端に急に旧知が再会したような会話になった。

「この台湾という所は中国の中では大変に変わった独特の習慣があります。例えば菜館(料理屋)では箸は紙の袋に入れてあり、一本の木の棒を客が手で二本に割って箸として使用することなどは本土では見たことがありません。私は中国は殆ど全国各地を訪れて居ますがこのような習慣のあるところは何処にもありません。料理屋に一団の客がやって来た時、各人が銘々別の料理を注文し、中国のように一つの皿の料理を皆が分け合って食べるのとは異なるシステムの店もあります。中国人にとっては実に不思議な習慣です」との林書顔氏の話。

私は「それは日本の習慣の影響ですよ。日本の植民地時代の遺物です。食事作法以外にも中国にない日本の習慣で台湾の人が便利と感じたものは習慣として沢山残っています」と答えたら、「あー、貴方は日本人でしたね。今回台湾に来て習慣の違いに驚き不思議に思っていたのです。私は日本に行ったことがありません。なる程、これで私の台湾に対する疑問の一つが解決しました」との返事。

国際機関に勤務し共に仕事をする時は皆が同じ仲間で、一々相手の国籍などを考えて会話することは、特殊な場合を除き、一般には先ず無い。そんなことを意識していては仕事はできない。同氏との会話は英語を主とし中国語を交えて話をしたような気がするがハッキリとは憶えてはいない。

「中国は殆ど全国各地を訪れて居ます」と言う同氏の言葉は本当で、海南島出身と言う、中国では寧ろ辺境だった土地から出て来て北京で大学を卒業、若い頃特に広東省に縁の深かった同氏は広西省(現在の広西壮族自治区)や雲南省奥地を始め殆ど中国全土を踏破した経験がある。台湾は出身地の海南島と地理的にも一見似ているので特に台湾の習慣に関心があったのかも知れない。

東港の養殖試験池が完成する直前の情況を視察していた時だったので、海岸の砂浜を二人話ながら歩いていると、プラスチックの小袋が波打ち際に多数打ち上げられていた。林書顔氏はそれを指差して「私はこれが嫌いです。将来にはきっと環境汚染問題を引き起こします」とも言われた。また日本の割り箸の習慣については「この習慣は木材資源の無駄遣いにはなりませんか?」とも言われた。

同氏は環境汚染問題が未だ世界出大きく取り上げられない当時から、既にこの問題を指摘して、将来を心配して居た人の一人であった。私が同氏と雑談を交わしたには僅か数日である。私的な雑談とは言え私の脳裏には今も明瞭に残っている。まさに人生の「一期一会」だったように想われてなら無い。

その後私が SEAFDEC に赴任した翌年の1974年、ローマのFAO本部から ”AQUACULTURIST DR.LIN PASSED AWAY” と言う簡単な文面の訃報電報が届いた。FAO に関係のあった LIN には林書顔と前項の林紹文の両氏がある。何方の Dr.LIN だろう?と言うことになりバンコクの FAO地域事務所に問い合わせたが事務所でも分からず問い合わせ中とのこと。その結果で林書顔氏であることが判明した。

余談:林書顔氏の経歴を調べている時、同氏が亡くなったのは上記のように「1974年、米国ニューヨークのロックフェラー基金会で当時の台湾農復會の漁業チームの責任者である闕壯狄氏とその前任者である陳同白氏との面談の最中であった」と言う記事に驚いた。この「闕壯狄」と言う人を良く知っていたからである。

闕壯狄氏は私が長崎の西海区水産研究所に勤務している時、台湾から陳金城氏と共に3週間位に亘って研究所の業務を視察に来た人で、長崎市内に在った本所や福岡・下関などの支所を案内した経験がある。1960年代の半ば頃では無かったか?と記憶する。(闕壯狄は漢音でケツ・ソウテキと読む)。

その数年後、オーストラリアの帰途、訪台した時台北で会って市内を巡りながら話をした。その後は音沙汰なくその侭になっていた。1995年頃だったと記憶するが、電話が自宅に突然掛かってきて「台湾のケツです」とのこと。30年振りだったが咄嗟に想い出して「ソウテキさんですか?」と問うた。「今東京に来ています。会いたい」との返事。早速「OK」と答え、その日の夕刻の時間と場所を決めた。

当方の都合で池袋駅、午後5時であったが、双方定刻に場所に着いていたが、同駅の地理が拡大改修工事で地下街が複雑となり双方が出会うのに40分掛かってしまった。「地階から上がってくる彼を見て一目で分かった。「や、や、久し振り。元気で何より」と二人は期せずして同じ言葉の挨拶を交わした。まさに「有朋自遠方来、不亦楽乎」である。

裏通りの飲み屋で昔の長崎での出会い、台北での話合いなどの昔語り、最近の様々なこと、夜遅くまで話は尽きなかった。当時は両岸(大陸と台湾)の関係は順調で、彼は北京にも数度訪れていると言うことであった。農複会に勤めて居るとのこと、大陸の話や林書顔氏の急死の話は出なかった。長崎で「盛り蕎麦」を食べ「日本人は何故こんな変な味の麺類を好むのか?と驚いた」と言ったような他愛のない話題も多かったが、楽しい一時を過ごした。今は恐らく公務からは退いて居ることだろう。

 

追記:闕壯狄さんと池袋で再会した10年ばかり後の2006年春、漁業セミナーに出席するため夫人と共に来日、同氏と懐旧談を楽しんだ。その時判明したのだが、上述の「林書顔氏がニューヨークでの急死に偶々立ち会ったのは、「陳同白氏と二人」ではなく、「闕さんと同夫人の二人」だったそうだ。上掲の記事は台湾の Web site に書かれて居たものを日本文に私が訳したものだが、「陳同白氏と二人」は誤りであるとのことであった。

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ChangiGouDAHO

CHANGI 号拿捕事件

 

真道 重明

(2004年10月)

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ビルマとミャンマー

の国の国名は同国の国内では昔から文語では「ミャンマー」、口語では「バマー」と呼んで来たらしい。隣国のタイの人々は今でも「バマー」に近い音で呼んでいる人が多い。しかし最近の同国内では口語の「バマー」は次第に廃れ、文語の「ミャンマー」が主流となっているらしい。
一方、対外的には英語の「Burma」(バーマ)が一般に使われていたが、1989年に今の軍事政権が対外的国名を「Myanmar」(ミャンマー)と決定したので国連でも、日本の外務省やマスコミでもこれに従っている。以下述べる事件は1984年に発生したので当時の日本の呼称である「ビルマ」を使った。映画の「ビルマの竪琴」と聞けば水島上等兵の姿を想い浮かべるが、「ミャンマーの竪琴」だとピンと来ない(笑)。今でも世界の英字紙の多くは「Burma」(バーマ)を使っている場合が多いように思う。

目  次

CHANGI 号の拿捕事件とは?
02夜半の緊急電話
031974年当時のビルマ 
04ホテルでの盗聴の危険
05不運な高雄基地の二艘曳底曳網漁船
06刑務所の門前で私服警官に拉致拘束される
07高等法院での裁判の開始
08「鶏の唐揚げ」と「ブラジャー」を探しに市内を奔走
09通訳に手間取った裁判
乗組員全員は釈放、船は没収と決定
11.全員無事にバンコクに到着、空港での慰労会
12.この事件で得た教訓
13.
垣間見た当時のラングーン市街光景

 

拿捕事件とは?

CHANGI 号というのは SEAFDEC (Southeast Asian Fisheries Development Center、東南アジア漁業開発センター)のシンガポールに在る MFRD (Marine Fisheries Research Department、調査部局)に所属していた調査船である。1974年4月8日、この船は調査航海中にビルマ(現ミャンマー)の海軍によって拿捕されラングーン(現ヤンゴン)に連行された。拿捕の理由は領海侵犯とスパイ活動の容疑である。日本人の船長以下、多国籍の全乗組員(総勢23名)は「規模東洋一を誇る」ラングーン市内のインセン刑務所に2ヵ月収容され、塗炭の苦しみを味わった。

結局ビルマの最高法廷での決定で乗組員は釈放されたが、船は没収される羽目になった。SEAFDEC 設立初期の大事件であった。本事件を巡る問題点はこのホームページに既に記載した(ここをクリック)、此処では救出活動に従事した30年前の記憶を想い出しながら、私の体験をエピソード風に綴って見た。

お断りして置くが、ミャンマー(ビルマ)は現在では加盟国として SEAFDEC とは友好関係にある。私は昔の悪夢のような嫌な「想い出」を何も今更引きずり出して云々し、「SEAFDEC との友好関係にあるミャンマーとの現状に水を差す意図」は毛頭ない。友好関係にあることは無論云うまでもなく大変結構なことである。ただ当時のシンガポール政府、SEAFDECやその配下にある MFRD にとっては職員・訓練生を塗炭の苦しみに追い込み、その上調査船を強奪された立場にあったから、理非は兎も角として、この事件は「ビルマに対しては憤懣遣る方無い」感情があった。それらの事実は事実として歴史に記憶されるべきだと思う。

その後、数年間は「洋上で CHANGI 号がビルマ海軍の水路部の調査船として巡航している船影を見掛けた」などの風説が「けしからぬ」というムードで数回話題になったりした。しかし一方では時間が経過するにつけ「過去は過去として恩讐は捨ててビルマとは友好を打ち立てようと言う考えも出始め、私が在任した後期の1980年頃には SEAFDEC の非加盟国ではあるが、SEAFDEC の主催する会議にビルマをオブザーバーとして招くこともあった。

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夜半の緊急電話

 

974年4月8日、バンコクの自宅で就寝していた私は夜半の電話に叩き起こされた。当時、私は SEAFDEC 事務局長の交代期の都合で不在中であり、私が同職の代行(Acting Secretary-General)の立場にあったのである。電話は事務局の Apiwat からで、MFRD から緊急情報が入電し、「Changi 号ビルマ海軍により拿捕、ヤンゴン(ラングーン)に拘束」との内容であった。早速、当時のマレーシアの理事会議長の Tengku Dato' Ubaidillah (マレーシア水産局長)に伝達を指示し、私は駐タイ国日本大使館に連絡、取り敢えずヤンゴン(ラングーン)にすぐ発てる旅装を調え、夜の明けるのを待ってバンコク市内の薬屋で大使館の医務官からの勧告に従いマラリヤ治療薬、その他の抗生物質などの薬品を持ち金を叩いて大量に買い込んだ。

タイ国では問題は無かったが、当時のビルマではマラリヤなどに罹患するものが多いとのことで、乗組員に支給するためであった。理事会議長の指示を待ち何時でもラングーンに飛ぶ待機態勢に入った。

しかし、私が「SEAFDEC事務局長代行」としてラングーンに赴き、ビルマ最高裁判所へ出席、救出活動に入ったのは1ヵ月後の5月9日である。このような緊急事態に際し「何故1ヵ月も遅れたのか?」についての事情は上述のこのホームページに記載した「苦渋に満ちたSEAFDECの創立」のなかの「Changi号のビルマ海軍による拿捕事件に詳しいので此処では省略する。一言で言えば設立初期のこの機関は危機管理体制の欠如もさる事乍ら、機関の組織・体制・運営などは今から思えば「信じられない」ような情況の下に在ったのである。

 

1974年当時のビルマ

 

ングーンの空港に降り立ったまでは良かったが、通関には厳しい制約があった。幸い日本大使館の計らいでビルマ人の大使館雇用者が出迎えてくれたので無事に通関出来たが、所持金は全額ビルマ通貨のキャットに強制的に両替させられ、帰国の出国時に手元にあるビルマ通貨を米ドルやタイ国通貨に戻される保障は無かった。滞在中の支出の詳細を記録し、認められた分については元の通貨に兌換されると掲示してある。場合によっては所持金を強奪され兼ねない。「これは大変な國に来てしまった」と思った。

通関の世話をしてくれた大使館の雇用ビルマ人に話したら「大丈夫ですよ。大使館から話しをして貰います」とのこと。彼はとても親切で確りした人物のように思われた。実に立派なイギリス英語を喋る。聞いてみたらオックスフォード大学を卒業したと言う。後で分かったことだが日本大使館に傭われている運転手や女性の文書整理係などは、植民地だった時代の宗主国である英国のケンブリッジやオックスフォードを出たものが多い。高等教育を受け海外留学をしたような知識階級は政府の監視が厳しいために就職が出来ず、各国の大使館などの雑用係として雇用される者が多いそうだ。

有能な企業者の華僑を追放し、途端に生産活動が低下し、GNPがガタ落ちして匙や石鹸などの日用雑貨もその大部分をタイ国から密輸しているとは聞いて居たが、「一体この国はどうなっているのだろう?」。スパイ嫌疑を掛けられた調査船の救出は、この調子では面倒なことになるのでは?と不安感に襲われた。

拿捕された CHANGI 号はソナーやレーダーを備えている。魚群探知機は勿論持って居る。高級船員で無くても望遠レンズ付きカメラを持つ者は多い。訓練生ですら中には持って居るものがいる。ビルマの社会常識では「漁業関係の調査船がソナーやレーダーを持つ筈が無い、望遠レンズ付きカメラなどと言う特殊な高級品を殆どの乗組員が所持するなんて考えられない。スパイ船と断定する以外に考えられない」と海軍当局は言っているらしい。

FAO統計によると、ビルマの漁業総生産量は1974年が43万トン、うち淡水生産は総生産の30%の13万トン、2002年には総生産は1974年の3陪に増え143万トン、うち淡水生産は総生産の29%に当る42万トンで、これまた1974年の3陪となっているが、これらの数値は極めて怪しい。現在の情況は知らないが、1974年当時、海面漁業に従事する漁船は小さな無動力の小型船、むしろ舟艇と言った方が良いものしか存在して居なかった(各国漁船の目視経験による)。

これでは43万トンの漁獲は無理である。当時のビルマの海面生産の収入は同国地先の豊富な魚群を目当てにした「タイ国やマレーシア、その他の国々の密猟漁船を拿捕し、漁獲物を没収すること、および船員・船体を母国に返還する賠償金の収入が大部分であったと考えられていた。当時マレーシアのペナン港には常時多数のタイ国籍の漁船が繋留されていたが、これらは「闇ルートを通じてタイの船主が賠償金を支払ってビルマから返還された船」であった。

漁業生産は、従って没収した漁獲物と賠償金を生産量に換算したものであると推測される。また、その比率は後者が主体を占めると考えられていた。現在でもそうだが、第一ビルマでは海産魚を食べる人は「生臭い」と言って伝統的に少なく、従って安価である。一方、淡水魚を好み海岸地帯の海面漁業に従事する漁業者は漁獲物を市場に出荷しても、家では魚と言えば淡水魚を食べる人々が多いと言う(2004年9月12日、NHKのラジオ、JOAKの現地報告)。

統計も海産魚は一括された1項目、淡水魚蝦は12項目に分類されている。このような訳でビルマの社会では当時の海洋漁船は微々たるもので、しかも小型の舟艇に近いものとの認識であったから、ディーゼル機関を駆動させる鋼鉄船の CHANGI 号などの漁業調査船が存在することを信ずることが出来なかったのでは無かろうか?まして、ソナーやレーダー、漁探機器など理解の範囲外だったような気がする。この推測は私の独断偏見であろうか?スパイ船と思い込んだのにはこのような背景が在ったのでは無かろうか?若しそうなら彼等の勘違いを説明し説得するのは容易ではないように思われた。

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ホテルでの盗聴の危険

 

宿泊するホテルは決められていた。ラングーン郊外の英領植民地時代からあると思われる立派な構内に大きな池のあるホテルである。CHANGI 号の所属する SEAFDEC の MFRD(調査部局)の部局長の Cheng Foo-yanさん (中国系シンガポール人、漢字では曹富仁)と同部局次長の水戸敏さんの二人は自分達の船のことでもあり、一足早く現地に向かっており、私は数日遅れてラングーンで合流した。だからホテルの手配が既に済まされていた。ちなみに CHANGI 号の船籍は「シンガポール共和国」である。言わばこの事件の直接の被害国である。(国際機関は国連と雖も船籍を取得することは出来ない。その船の常駐する港のある國を船籍国とすることになっている)。

英領植民地であったビルマの首都、ラングーンは立派な都市計画の下に美しく作られて居り、今では手入れが為されない侭スッカリ放置されて嘗ての景観は駄目になってはいたが、幾つかの建築物や公園などは昔の面影を忍ばせるものがあった。このホテルもそんな感じであった。恐らく往時は由緒のあるホテルだったのだろう。池の周りにはゴルフの練習場もあった。しかし我々は遊覧に来たのではない。刑務所に拘束されている多国籍の CHANGI 号乗組員の救出と言う重大任務があり、市街やホテルの景観などはどうでも良く、皆緊張してピリピリして居た。

このホテルを我々の拠点として行動計画を立て、関係方面に連絡を取ることになる。問題は我々の会話や連絡の盗聴である。盗聴されていると言う確証はない。しかし念には念を入れて慎重に行動しなければならない。居室では危険だと言うので鳩首凝議は天井の高い大広間の中央に椅子を寄せ合い小声で行った。果たして盗聴される危険が在ったとしてこの方法が盗聴回避の効果が在ったか否かは素人の私達には分からない。精一杯の知恵を絞った訳である。

駐ビルマ日本大使館や駐ビルマ・マレーシア大使館との連絡は電話、シンガポール原産局とは電報であった。勿論、暗号などは使うすべは知らない。シンガポールはビルマには大使館は無くビルマとの外交問題はマレーシアに委託していたので、電報に依った。

余談になるが Cheng Foo-yan MFRD部局長のシンガポール宛の打電原稿である。僅か20行足らずの内容であっても、書いては消し、書いては消し、推敲に30分以上を費やした。大体シンガポール政府から SEAFDEC に出向している彼の英語力は私など足元にも及ばない位優れている。字句の表現について幾つかの選択肢を私に示し「何れが良かろうか?」と言う。私など誤解されない限り何れでも良いと思うのだが、そう言うと彼は首を振って「彼奴はこんな電文を寄越した。もっと語数を減らした的確な表現で書ける筈だ」と上司から評定される。「電文一つで出世に影響する」との返事。

旧英領植民地だった国々は、シンガポールに限らず、マレーシアでも同じであり、英語が出来なければ役所では出世できない。独立を維持してきたタイ国の政府職員でも、旧英領植民地だった国々には及ばないが、課長補佐程度になると一応曲がりなりにも英会話はある程度出来る。Cheng Foo-yanさん のこの時の様子態度を目の当たりにして「なる程なー」と思ったことを想い出す。

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不運な高雄基地の二艘曳底曳網漁船

 

テルに投宿して数日も経たない或る日、予期しない日本人の訪問を受けた。日本の舶用エンジンの潤滑油を台湾に輸出している会社の社長さんであった。

「実は観光ビザで今ビルマに来て市内のホテルに居ます。実は得意先の台湾の高雄基地の底曳網漁船の団体から交渉してくれと頼まれて来たのです。高雄の二艘曳き底曳網漁船の12組が昨年からビルマに拿捕されて刑務所に拘束されています。台湾とビルマには外交関係がないので裁判に掛けることも弁護人を付けることも出来ないらしいのです。既に刑務所内で病死者も出始めているという噂です。どうしたら良いのでしょう?」と言う話である。

どんなに小型の底曳網であったとしても集団操業の12組ともなれば、幾ら少なく見積もっても「百五十人」ぐらいの船員数である。為すことも無く打ち過ぎれば漁夫全員ただ死を待つしかない。大変な事態である。駐ビルマタイ国大使館の人から聴いた話では「半年前から台湾の漁夫120名が収容されており、其の内の十数名は病気で死亡している」とのことであった。

拿捕の事情は異なるが当方も目前に抱えている拘束者の釈放にどの様に対処したら良いのか、國際法規も知らず、裁判手続きにも素人である私達も関係国大使館の指導援助を受けて四苦八苦している有り様。この社長の質問に答える知識も助言も出来る筈は無い。NGOの國際人権擁護団体などに提訴することが出来るのかも知れないが、そんなものがあるらしいこと位しか知らない。申し訳ないがその社長さんには残念ながら引き取って貰うしか無かった。

後から聞いた噂ではこれらの台湾の漁夫は同じインセン刑務所に収容され続けた侭で、釈放の目途は付かず、栄養失調で病死する者の数は増える一方だと言うことだった。真偽の程は分からないが、この世の中には非道な話が多すぎる。不運と言うか不幸と言うか、領海侵犯の密猟であったにせよ、噂が真実なら本当に気の毒な話であった。

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刑務所の門前で私服警官に拉致拘束され

 

達3名は未だ刑務所に強制収容されている CHANGI 号の人達と話すことも顔を見ることも許可されていないので出来ない。「差し入れは検査の結果許される」ことが分かったので、早速彼等が「東洋一」と自称するインセン刑務所に赴いた。正面玄関の門扉の左右には銃に着剣した守衛が居る。なる程音に聞こえた大きな監獄である。

事前に連絡が入っていたのか、事情を話すとスンナリ中に入れて貰えた。面会は規則上出来ないが「差し入れ品」は検査して受け取る」と言う。携行した薬品類・スナック食品は受け取ってくれた。理由は分からないが「唐辛子」だけは拒否された。贅沢品だと言うのである。収容者の生活実態や病人の有無などは説明出来ないと言う。幾ら粘っても「NO」と言う一言の答えしか返ってこない。仕方なく「今日は先ず此処迄」と思って辞することにした。

外に出て証拠と記念を兼ねてインセン刑務所の正面玄関の写真を撮影した。カメラを構えたのは Cheng Foo-yanさん と私の2人だった。途端に短銃を持った私服の警官(軍人かも知れない)が何処からともなく現れてきて我々2人の腕を掴み再び刑務所の中に引きずり込まれた。ビルマ語で何か言ったが何を言っているのか、拘束される理由が分からない。

「入れ」と言われた部屋は刑務所長の勤務室だった。看守の一人、多分刑務所長の部屋に居たから看守長かも知れない。英語を喋る。「門前の警告掲示板を見たか?」と我々に尋ねた。「何やらビルマ語の「立て札」があるのは見たが、私達はビルマ語を解さないから何が書いてあったのか分からない」と答えた。「撮影禁止とチャント書いて在る。此処はビルマだ。ビルマ語が分からないと言うのは言い訳にはならぬ」とその看守は嘯いている。

刑務所長は傍らの椅子を2つ繋げて仰向けになり、理髪屋らしいものが石鹸の泡を所長の顔に塗りたくって髭剃りの最中で、一言も発せず沈黙を続けている。 「カメラの中のフィルムを此処で露光させ廃棄せよ」と言う。Cheng Foo-yanさん が途端に怒鳴り出した。ビルマ外務大臣に話をするから電話を繋げ」、「俺達は国際機関の代表者だ。撮影禁止なら何故英語でも表示しないのか?俺達はビルマ人ではない。ビルマ語が読めないのが過失になるのか?」。英語で捲し立てた。また、「外務大臣が不在なら海軍省でも良い。直ぐ電話を繋げ」。

元来、交渉事や喧嘩事が苦手で、こんな「べらんめー口調」の英語力を持ち合わせていない私は残念だがこの場は彼に任せてただ黙って成り行きを見守るしかない。「まあ、まあ、興奮しないで…」と今迄沈黙していた刑務所長はやおら座り直して、「お茶でも飲みませんか?」とこれ亦実に流暢なイギリス英語で喋り出した。どうもビルマの高級官吏はシンガポール同様英領植民地だったためか兎に角英語が旨い。

見ると傍らの机の上には魔法瓶代わりの「なかの熱湯が冷めないようにお茶の急須を綿入れの布で覆ったもの」が置いてある。タイ国でも時々見掛けたのと同じである。威張っていた看守は形勢が変わったのを察知してお茶を茶碗に淹れ始めた。「國際外交の慣例を無視した刑務所のやり方を大臣に控訴する」と言う Cheng Foo-yanさん の言葉が気になったようだ。「規則だからフィルムは破棄せよ」と言うことを所長は繰り返したが、我々は引き下がらなかった。「それなら電話を繋げ」と我々が言ったのを「こりゃ不味い」と心配したのか、押し問答の末、とうとう先方が折れた。

結局お茶は口にせず釈放と言うことになった。外に出たら水戸敏さんが待っていた。この間30分位だったろうか。どうなることかと気を揉んでいたそうだ。切っ掛けになった「撮影禁止」のビルマ語の立て札の写真を撮影しておきたかったが止めた。何も知らない私服にまた捕まるのは御免だ。それにしても散髪中だった刑務所長は「呑気なとうさん」のようだった。案外人の良い「おっさん」だったのかも知れない。

SEAFDEC 調査部局の水戸さんは部局次長の任期を終り、日本の元の職場である研究所に戻る準備中だった。生憎この事件が発生し、事件解決まで任期を臨時延長して処理に当たらざるを得ず、その意味では気の毒であった。事が事だけに止むを得ない仕儀ではあったが。

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高等法院での裁判の開始

 

上で拿捕された全乗組員はラングーン港に強制連行され、即刻上陸を命ぜられた。所持品を携行する時間も無く着の身着のままだったそうだ。地方裁判所の扱いだったが数日を経ずしてスパイ問題という重要案件だと言う訳で最高法院(the Supreme Court)の扱いに切り替えられたと言う。

最高法院での裁判が始まったのは拿捕されてから1ヵ月以上経過している。それ迄我々は面会も許可されず、意志疏通手段も無かったのである。裁判をするには弁護人を立てなければならない。軍事独裁体制の下で中立的立場の弁護人など居るのだろうか?しかしそんなことを考えても仕方がない。信用するしかない。

法廷は正面の奥に数名の裁判官が座り、中央に裁判省が居る。入って来た裁判官は皆大きな円筒型の短い筒を抱えている。何だろうと思って見ていたら中に入っていたのは裁判官の威厳を示す冠、すなわち帽子であった。円筒型の短い筒は丁度「西洋の夫人の幅広い鐔の帽子(ボンネット)を収めるケース」と同じものであった。席に着くと円筒型の箱を開けて中の帽子を恭しく冠る。その形には微かな記憶があった。

戦時中の1943年、東京で開催された「大東亜会議」にビルマ代表として民族の公式衣装で出席したウ・バ・マウ首相(国家主席)の冠っていたいたものに似ている。ただ布を頭を捲き耳の上で結んだだけの「あれ」である。勿論私は写真でしか見たことは無いが、当時の新聞紙に出て来るビルマの要人は皆この手の帽子を着けていたので憶えている。

次に裁判官と対峙した形の被告席、その手前に部屋を二分する厳重な柵があり、柵から手前は階段教室のようになった我々の傍聴席が在る。証言台や検察、弁護人らの位置がどうなっていたのか記憶がハッキリしない。被告席の乗組員は上陸時の衣服その侭であったが、船長の日本人一人だけは慌ただしい上陸時に制服と制帽を着用して居たのか、携行出来たのか、凜々しい姿であったのが印象に残っている。傍聴席の皆は「流石に船長だ」と賞賛の声がきこえていた。

CHANGI 号の乗組員の顔を見たのは第一回裁判のこの時が拿捕以来最初である。法廷内では被告との会話は許可されていない。弁護人の抗議で揉めた末、昼食の休憩時間に「会話や差し入れは黙認する」ことになった。

始めての会話で刑務所内の様子や生活情況、差し入れて欲しいもの、など色々な具体的実態が判明した。支給される食事はお粥に近い米飯、それも泥水で炊いたもので茶色だと言う。副食物は煮た野菜と蛋白質は一日に小魚一尾だけで常時空腹感がある。ただ一人の女性乗組員、シンガポール大学出身の浮遊生物調査担当者は独房にただ一人入れられているらしい。男は洗濯後裸の下着一枚でよいが、女性は着替えが無くては下着の洗濯も出来ない。等々である。

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「鶏の唐揚げ」と「ブラジャー」を探しに市内を奔走

 

廷後、翌日の法廷の昼休みに間に合うように私は早速ラングーン市内の食堂で皆が希望する「鶏の唐揚げ」を探しに出掛けた。当時華僑の経営する中華食堂は数えるほどしかない。やっと大きな店を探し当て、入手出来た。

困ったことに彼女が希望した着替えのうち「ブラジャー」は衣服店には無い。第一ブラジャーなど使用している女性はビルマ人には居ないらしい。困って日本大使館の職員に電話したら、誰も知らない。親切にも或る職員が奥さんに問い合わせて呉れた。奥さんが言うのには「確か何処其処の青空市場市場で一度見掛けたことがある」とのこと。

翌朝早くその場所を調べて言われた青空市場に駆け付けた。「在った!」、しかし、ゴワゴワした厚手の木綿製、ブラジャーとパンティがワンピースに繋がったもの(服飾の専門家はこれを何と呼ぶのだろうか)がたった2着あった。彼女の意向に添うものかどうか分からないが、洗濯できないよりましだろう。この際贅沢は言えない。それを買った。

ちなみに日本大使館の奥さん方はどうしているのだろう?後で聞くと日本大使館の職員は土日の休日を利用して月に一回交代で入れ替わりタイのバンコクに買い出しに行くのだそうだ。ラングーン(ヤンゴン)で手に入らない日常品はその時買い求めて来る定期便出張があるのだそうだ。

法廷の昼休みに早速手渡した。「鶏の唐揚げ」は空腹を満たす久し振りのご馳走に皆人目を憚らず貪り食っている様子を見て、私は軍隊の経験を想い出し涙が出そうだった。野戦では良くある光景である。しかし、これが仇になった。翌日全員が下痢をしたと言う。毎日お粥に近い少量の食事に慣れていた食生活の環境下に居た人達が一度に「鶏の唐揚げ」と「広東式糯米お握り」を詰め込んだので「お腹のリズム」が一挙に変わったのが原因であった。直ぐ翌日には治ったのは幸いであったが、気の毒で早く何とかして上げたい一心であった。本当はもう少し考えるべきであったが、そこまでは考えが及ばなかった。

「野戦では…」と言ったが、拘束されている乗組員は誰一人私達との会話中にも笑顔は無く、半ば精神虚脱状態のように見受けられた。唯一の例外は乗組員中ただ一人軍隊経験を持つ CHANGI 号の漁労長だった宮田忠一さんで、私的な話で恐縮だが、私の母校の一年先輩で漁撈科の出身である。海軍将校の経歴を持つ。船長は法的には船では警察権を持つ最高責任者であるが、漁船では漁労長は漁撈操業中は全責任を持つ司令官である。「やー、ご苦労さん。ご心配を頂きお世話を掛けます。今度は大失敗、大失策でしたよ」と笑って私に話しかけられた。流石に修羅場を経験した人だけあると感動した。余談になるが、事件後は私が次長職を兼務していた SEAFDEC の訓練部局(在バンコク)の訓練船 PAKNAM 号の漁労長を数年勤められ、活躍され訓練生からも慕われていたが、退職して長崎に帰国後、残念にも病気で亡くなられた。

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通訳に手間取った裁判

 

一回の裁判の時、CHANGI 号の乗組員は日本・タイ・マレーシア・シンガポール・フィリピンの5ヵ国の国籍を持つ者の混成である。ビルマの最高法院ではこれを考慮して最初各国語に対応する5名の通訳団を準備していた。すなわち、英語・日本語・タイ語・マレー語およびタガログ語である。国際会議でのサイマル通訳は経験があるが、裁判の通訳はどのような形で仕事に係わるのだろうか?

結論から言うとこれら通訳団は全く機能しなかった。第1に彼等は裁判の手続きのことを何も知らない(私もそうだが)。第2に漁業や海事関係の用語を殆ど知らない。観光客の案内程度の語学力である彼等では全く役に立たないばかりか、相互理解に混乱を起こし時間が長引くだけである。例えば「ソナーは何の目的に使うのか」と裁判長が船長に質問したとする。通訳は「ソナー」をどう訳してよいか分からないからビルマ語で裁判長に「ソナーと言うのは何ですか?」と尋ねているらしい。そこでビルマ海軍の技術者らしい人が裁判長に説明している…と思われる、……と言うのはこれらの会話はビルマ語だから私達には分からず、ことの成り行きから考えて「多分そうだろう」と勝手に憶測しているだけである。

裁判長も「これでは仕事にならない」と思ったのだろう。10分も経たない中に一時休廷を宣言し、彼等同士の協議に入った。傍聴席に居る人達の中でビルマ語を解するのはタイ国大使館が通訳のために傭っているシャン族の女性一人で、タイ国傍聴団の席に座っていた。シャン族はビルマ連邦を構成する大きな部族であるが、その言葉はいわゆる「タイ・ヤイ語族の一つ」でタイ国の標準語(タイ・ノイ)とルートは同じで言葉は極めて近いらしい。それ程若くはなかったが美人の彼女に聞くとケンブリッジ大学を出て居るという才媛で、ビルマ語や英語は勿論、タイ語に精通している。私は何時もタイ国傍聴団の席の隣りに座って彼女がビルマ語からタイ語に通訳する内容を聞いて居た。前節で述べた私の憶測も大体当たっていた。

裁判長はやがて開廷を宣言し、「通訳は英語だけとすることに決定」と言う。この決定は我々の理解でも妥当なものと思えた。SEAFDEC そのものも英語を基本の共通語として運営されているのだから。この裁判の問題は SEAFDEC と言う国際機関が何を目的として活動しているのか?についてビルマ側が殆ど何も知らなかったこと、CHANGI 号の装備を見てスパイ船であると頭から信じ込んでいるビルマ海軍の誤解を解くことにある。

裁判は討論会ではない。裁判長の被告に対する尋問の文言だけが英訳されるだけである。被告は英語で答弁する。裁判長は英語の尋問以外にビルマ語でビルマ側の関係者にいろいろ喋っているが、それらの発言は同時通訳で英訳される訳ではない。被告の代表者である船長の答弁が裁判長の尋問に正しく対応していない場合も多々あった。裁判長が「この被告が何を言っているのか理解できずただポカンと呆れる」場面もあった。裁判の呈をなしていない。

SEAFDEC 側が依頼した弁護人はどのような心情に在ったかは分からないが、法廷外では常時密接に話し合い、SEAFDEC が何であるか、調査部局は何を目的に活動しているか、CHANGI 号の設備はスパイ活動の為のものではないこと、などを繰り返し説明していたのでかなり正確に承知していた。何度も会っているうちに人情的にも理解し合える部分が多くなっていたように思う。

このような状況下では法廷内の問答よりも、弁護人と裁判所や検察側との裏での状況説明がことを解決するのに大きな役割を果たしたと私は思っている。法廷内の問答は儀式的な、裁判としての体裁を整える為のものだったような気がする。更に言えば、表面に直接は出て来ない日本大使館やタイ大使館の外交的援護がこの裁判の流れに一番有力な力であったように思われる。しかし、その辺になると我々の計り知ることのできる範囲外であった。

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乗組員全員は釈放、船は没収と決定

 

等法院での裁判の結果の「全員釈放」との目途が付く予想が得られたのは5月半ばである。洋上でビルマ海軍に強制連行され刑務所に拘束されてから約1ヵ月と半月目、私がラングーンに赴いた日から10日目である。日記によると事務局長代行の立場に在った私がバンコクに戻ったのは5月19日となっている。

その後、全員の釈放が正式に決り、乗組員一同が拘束時の私物や着衣の返還を受け、帰国準備を整えてラングーン空港を発って全員一緒の飛行機でタイのバンコクのドンムアン空港に戻って来たのはその2週間後ぐらい経ってからだと記憶する。

判決は「乗組員全員は釈放、船は没収」であった。兎に角人命は最も大切である。とりわけ、タイ・マレーシア・フィリピンの訓練生の無事は一番心配であった。調査員、高級・下級の船員全員も、精神的打撃は在っても、肉体的には栄養失調にもならず、帰還できたのは不幸中の幸いであった。

船の没収と言う決定については当方に色々な意見が在ったが、海図室から押収されたログブックにはその時より前の調査地点の詳しい記録があり、ビルマが一方的にではあっても宣言していた領海の境界線内の調査点も含まれていた。これに拘泥していたら何時釈放されるか見当も付かない。そのうち噂の台湾漁船のように病死者が出る可能性は充分考えられた。ここは先ず人命の確保を一刻も早く優先すべきだと判断した訳である。

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全員無事にバンコクに到着、空港での慰労会

 

行機が着くと SEAFDEC の事務局と訓練部局の主だったものがドンムアン空港に出迎えに赴き、階上の特別室を貸しきって帰還して来た総勢23名一同を慰労する会を開いた。元タイ国農林省水産局長で SEAFDEC 事務局の顧問をしていたトワンタイさんの発案であった。

各人は一刻も早く母国に帰還したがっていると思われるので、航空券の予約はそれぞれ済ませてあった。トワンタイさんの「ねぎらい」の短い言葉のあとお茶と軽食で労った。ラングーンの法廷内での「鶏の唐揚げ」で下痢した教訓も考慮したのと、一同の心理状態にも気を使った。2ヵ月の予期しない辛苦生活のショックから平常心に戻るのが容易ではないことは充分我々も良く分かっていた。お祝いやお祭りではない。豪華な食事はわざと出さなかった。

1時間そこそこのパーティだった。もちろん、新聞記者にも知らせなかった。何事だろうと空港内の人々は訝っていたかも知れない。

後で聴いた話だが、例の乗り組み調査員中唯一の女性のシンガポール人はシンガポール到着後に記者団に「インセンの悪夢」という表現の言葉を語り、シンガポール政府は大いにこの情報の公開と「悪夢、nightmare」の表現に気を揉んだそうである。一人だけで話し相手も無く独房に隔離されていたから、彼女の受けた心理的ストレスは人一倍強かったに相違ない。暫く入院して心理カウンセリングを受けていたそうである。

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この事件で得た教訓

 

頭にも述べたが、このホームページの「苦渋に満ちたSEAFDECの創立」のなかの「Changi号のビルマ海軍による拿捕事件」(ここをクリック)に書いたように「この事件の解決が何故こんなに長引いたか?の SEAFDEC の組織や運営上の問題点は繰り返しになるから省略する。

「運が悪かった。予測できない想定外の交通事故に遭ったようなものだ」と言う人もあろうが、私はそうは思わない。それは丁度時を同じくして発生したマレーシアのペナンを基地とするFAOの調査船 Cape Saint Marie 号の同じビルマ海軍による拿捕事件のFAOによる処理と対応の素速さを見れば一目瞭然である。

拿捕の報告がFAO本部に通報されるや否や、ローマのFAO本部は事件処理担当の幹部職員を現地に飛行機で急行させ、ビルマ政府と折衝し、僅か1週間後には保釈に漕ぎ着けている。CHANGI 号の場合、拿捕から最初の1ヵ月は救援に誰一人として現地に赴かず、刑務所で呻吟している乗組員を放置している。

SEAFDEC の最高意思決定機関の理事会議長もとうとう最後まで現地には赴いて居ない。なぜ1ヵ月も放置されたのかは、上記のホームページの別項に述べたので繰り返さないが、若し今、仮にこれと同様の事件が起こったと仮定したら、どの程度このようなケースに対応出来る危機管理体制が整備されて来ているのか?を頭の中で模擬実験して置くのも無駄ではないような気がする。基本的には理事会と加盟国政府の対処すべき問題ではあろうが…。

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垣間見た当時のラングーン市街光景

 

ングーン(ヤンゴン)に私達は観光に行ったのではないから、市街をゆっくり観光する暇など無かった。滞在中に都合で半日余暇が在ったので有名なシュエダゴオン・パゴダ(パゴダは仏塔の意味だが、これは寺院と言った方が良い)を見に行ったのが唯一の例外である。流石にこの国は古来から「硬玉・軟玉」の本場だけあって仏像は総て白玉で作られ、仏像の口には真っ赤な口紅が塗ってある。何とも生々しい。

並んだ多くの仏像は素晴らしい光景であるが、境内は土足厳禁で裸足でなければ見て廻れない。日に照らされて大理石のモザイクの床は美しいが焼けるように熱い。信者は足の裏が靴を履いたように厚いのか平気で歩いている。所々に幅の細い木の渡り板があったので、その上を歩いたが、見たいと思うところには行けない。これには参った。信者はなけなしの金をはたいて金箔を買い仏像に貼り付けて来世の幸福を祈っている。

市街の様子はホテルから毎日通った高等法院までの道筋の景色を車の窓越しに、また例の「ブラジャー」を買い求めに市内を駆け巡ったので少しは見ることが出来た。無暗と映画館が多い。看板の絵を見ると直ぐ分かるが、それらは殆どがインドの映画である。外に娯楽は余り無いのかも知れない。

ビルマ人の若者い男は殆どが痩身で、ロンジーとか言う巻スカートのような布を腰に捲いている。腰の辺りで折り畳み、それをキュッと締め付けて内側に挟み込むようにして着ている。暫く歩くと緩んで来るので立ち止まり、締め直す。走ったりすると100 m も走らないうちに緩むので締め直すために立ち止まる。何回も何回もこれを繰り返す。面倒で仕方がないと思うが、何故紐かベルトで固定しないのだろう。不思議だ。

タイ国の都会の男は家庭内では「カンケーン・チーン」(直訳すれば中国のズボンの意味)を良く着ている。これもキュッと締め付けて内側に挟み込むだけである。幅広くゆったりして「下脚に締め付け感」が無く緩やかで蒸し暑い気候には適しており、実に履き心地が気持ちよい。私も自宅では愛用していた。日本人でこれを着ていたのは私一人ぐらいだったようだ。ロンジー程ではないがこれも時々締め直す必要がある。私はベルトをしてズボンの上側を折ってベルトを覆い隠して見えないようにしていた。ほかの人を見ると私と同じようにして居る人が沢山居ることが分かった。ビルマの男は何故そうしないのだろう?

昔からの伝統を頑なに守って、改良する事を「伝統破り」として罪悪感を持ち、(これは言い過ぎかな?)不便を承知で平気なのだろうか?便利だ、便利だと「利便性ばかりを追求して結局は齷齪している」のも困るが、ビルマの人は全く異なった価値観の世界に居るのだろうか?(ズボン一つでそこまで言うのも言い過ぎかも知れないが)。

タイ国ではアブナーム(水浴)のあとには顔や身体にタルカム・パウダー(Talcum Powder、滑石の粉)に香りを付けた「ペーン」(粉の意味、メリケン粉もペーンと言う)をつける。涼しい爽快感がある。子供や若い女がこれを付けていると水浴後だと直ぐ分かる。直ぐに消えるが女にとっては一種のお化粧のような感じで艶めかしい。ビルマの女の場合はちょっと違う。黄色い粉を頬に三筋ばかりの横線を書いて付けている。指先で付けたように思える。これが浴後に付けるものかどうか知らない。化粧的な意味があるのだろうと思ったが、何だか刺青みたいで奇妙な感じである。尋ねる機会も無かったし30年も前の話だが、現在も多分そうしているのだろう。習慣とは言え、見慣れない私にとってはこれも変なものだった。

余談:話は変わるが最近の2003年12月初旬に東京両国のホテルで ASEAN-SEAFDEC の会議があった。久し振りで多くの旧友と会えた。その中に一人フィリピンからの出席者が居た。私を知っているらしく先方から話し掛けて来た。CHANGI 号が拿捕された時のフィリピンの訓練生だったという。まさかそう言う人に再会出来るなど思っても居なかった。

奇遇としか思えなかった。レセプションの大部屋の片方にある椅子に座って彼と二人暫し懐旧談に耽った。当時は若かったであろう彼も今では50歳は過ぎていたようだった。縁は異なものである。

(完)

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ChinaStatistics

Web 上に公開されている中国の水産統計

 

真道 重明

(2005年1月)

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国の水産統計は中華人民共和国農業部漁業局編制の分厚い「中国漁業統計年鑑」、これには水産に関する詳細な統計情報を記載してあり、最も基本となる統計書であると思われます。

私達が Web site 上で閲覧し得るものとしては、FAOの水産局の「世界水産統計」のデジタル版である Fishstat Plus のメイン・モジュールと各種のデータセットーを Download して一連の操作を行って閲覧し得るものがあることはご承知の通りであります。この世界統計は集計作業に2ヵ年を要しますので、2ヵ年遅れで1950年以降の各年の時系列データを無償で見ることが出来ます(英文)。詳しくはここをクリックして下さい。

また、これとは別に NOAA (National Oceanic Atomospheric Administration )[米国]のページに China Fishery Statistics があります。これには26項目の数表があり、中国の水産業の概要を知ることが出来ますが、時系列統計データは項目によって異なりますが、1974〜1980年から1992年までの数値しか記載されて居ません(英文)。(2005年1月現在)。

ところで「中国水産科学研究院」のホームページ「中国水産科技信息」の中の「漁業統計」には簡体字の中国語で書かれた10項目に亘る年時系列データを公開しています。文字コードは [GB 2312],[GB 18040],[HZ]などでエンコードされて居ますので、「文字化け」しないで正しく閲覧するには、例えば MS-WINDOWS の場合には、これらの[簡体字中国語]の文字セットを事前にインストールして置く必要があります。

「文字化け」している場合には、画像部分は正しく表示されますが、他の文字の処は意味不明の漢字や記号の羅列となって読み取れません。簡体字の文字セットのインストール方法は、例えばインターネット・エクスプローラの場合はそのHELPやネットスケープ・ナビゲーターの場合はその解説をお読み下さい。

参考までに、この文字セットをインストールしていない人のために、上記の「漁業統計」のTOPの検索ページと最初の項目である「漁業生産基本情報」のページを、コードが組み込まれて表示される PDF ファイルで示して置きました。[簡体字中国語]がインストールされている場合には、PDF画面のように表示され、検索機能も使用できるようになります。なお操作には多少の中国語と中国語のパソコン用語の知識を必要としますが、大したことは在りません。難しいと思うことは全くありません。

現在公表されている項目は次の10件です。

1.  漁業生産の基本情況
2.  内陸(淡水)の水産物の生産量
3.  内陸(淡水)養殖の魚種別生産量
4.  海洋捕獲(捕撈)の魚種別生産量
5.  海洋捕獲(捕撈)の魚種別生産量(続き)
6.  海水養殖の魚種別生産量と各養殖面積
7.  海水養殖の魚種別生産量と各養殖面積(続き)
8.  遠洋漁業の魚種別生産量
9.  水産種苗の種類別生産量
10. 水産種苗の種類別生産量(続き)

これらのページの内容の統計年次は現在(2005年1月)では1996から2001年迄です。逐次追加されるものと思われます。FAOの世界水産統計には無い項目、例えば魚種別の内訳などの数値もあり、極めて有益な情報が得られます。今後ますます内容の充実と項目数の拡張が望まれます。

本件に関する質問やご意見、日本語訳などについては下記のメールでお問い合わせください。現在では多くの国々が自国の水産統計を Web 上に公開している趨勢にあります。各国間の相互理解のためにも、このような統計情報の公開の促進が今後はますます重要であると私は考えています。

 

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漁業者が信頼できる資源量指数が欲しい

 

林 繁一

2005年1月16日 [原稿 ZH05-01]

ご意見や質問は

 

漁業資源を効率良く利用する目的で漁獲を規制する努力が払われるようになってからどれだけの年月が流れたのでしょうか?その結果、秋田県沖のハタハタのように短い期間で成果が上がった例もあります。しかし大西洋のマダラでは漁業者の理解が得られずに、EC の苦闘が続いています。

私たちの周りでマスコミを賑わしているのはマイワシです。一世紀に二回くらいの間隔で豊凶を繰り返してきたことは知られていますが、現在が最低の水準にあるので国や大学の専門家は禁漁またはそれに近い漁獲量制限を主張しています。それに対して漁業者やその周辺の専門家は禁漁が果たして資源を回復させるかという疑問を呈しています。

マイワシに代わる大きな資源がないので、経営が成り立たないという事情もあるのです。前回のマイワシ不漁の際にはマサバとか、マアジといった代替資源があったのですが、今回、特に本州太平洋沿海ではマサバも減少しているので、漁獲量は僅かでも単価が上がったマイワシでも獲らなければ漁業を継続できないという事情があるようです。

東太平洋では10年余りの禁漁が効果がなかったという前世紀後半の経験もあります。こちらでは西側に遅れて1990年代後半からしばらくは資源が回復し、一時は我が国にも輸入されましたが、再び不漁となったようです。

新年(2005年)早々下田にある日本大学の施設でキンメダイの資源の話を聞く機会に恵まれました。研究者側からは資源が減少しているので、漁獲努力の縮小が求められました。それに対して漁協の青年部の方から操業のやり方が変化している実態が資源量指数に反映されていないのではないかという鋭い質問が出されました。

かって同じような質問をまぐろ延縄船の漁労長から出された経験があります。全長100海里にも及ぶ巨大な漁具を扱う漁労長は潮目などを見て、もっとも有効と判断される方向に縄を入れるそうです。しかし好漁場が形成され、漁船が集まってくると他の船の縄に邪魔にならないように投縄をする必要が生じ、結果として釣獲率、つまり CPUE が下がってしまうのだが、資源研究者の計算にはこの事情が反映されず、資源の減少を過大に評価しているのではないかという疑問でした。

延縄漁業については魚が多くて、一つの鈎に複数の個体が掛からないことによる偏りを計算した論文を読んだことはありましたが、漁船の蝟集による偏りを計算した例は知らなかったし、私にはそのような計算はできないと答える他なかったという恥ずかしい話です。

思い起こしてみると1960年代に大西洋に進出した我が国の延縄漁業の釣獲率が僅か数年で1/141にまで下がってしまい、乱獲が内外から懸念されました。しかし現実にキハダ資源に対する乱獲は起こっていなかったことは、本種の成長と成熟から計算して延縄漁業よりもはるかに適した年齢で漁獲できるまき網漁業の発達によって世界の漁獲量は1965年の20万トンから1975年には1000万トンにまで増加し、その後は安定したことによって証明されました。

資源量指数としての CPUE を補正する技術は、漁船の性能、魚の分布、漁獲対象の変遷などに対して次第に改善されてきましたが、決して十分とはいえません。計算機も発達し、理論も進んだ現在、漁業者が納得できる資源量指数の推定方法が開発できるはずだと期待しています。ついでながら北海のハドックが漁具を避ける行動学習があるという報告もあります (水産経営技術研究所・三会堂内・電話 03+3584−7639、各国の水産事情84,53 ページ)。

一時流行の兆しを見せた個体別の資源評価 IBP ( Individual based population gynamics )ではありませんが、生物の行動と漁業の生産活動の現実を解析する技術の開発を進めていただきたいものです。資源管理の効果をあげるには生産者である漁業者の信頼と実践とが不可欠なことを示す例は近年次々と報告されています。理論の展開を待ち望む次第です。

平成15年度水産白書,28〜29ページによると、休漁などによる漁獲圧力の削減等を計画的に行う資源回復計画の策定とその実施が推進されており、・・・(平成15年度には)7計画13魚種となりました。計画の中には休漁等の漁業者にとって経営に直接影響する厳しい内容も含まれ、関係者間の実施内容の調整も必要です。今後、さらに関係者間の「合意形成を促す取組」を拡大していくことが重要となっていると思います。

(完了)

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TojyoukokuToukei

途上国における水産統計の信憑性

 

− 最も基本的な課題「統計は何の為にあるのか」 −

 

真道 重明

(2005年1月)

ご意見や質問は

 

項(水産雑記 その2,目次の「世界水産統計に占める中国の地位」を指す)では FAOFishstat Plus に表示される中国の統計数字の問題についての所感を述べたが、これに類する問題は何も中国に限った問題では無い。中国はその生産量が巨大であるため世界総計に及ぼす影響が大きいから、各国の人々によって偶々俎上に載せられることが多いだけであって、私の経験した東南アジアや南アジアの多くの発展途上国の水産統計の実態についても、果たして「資源管理は勿論、いろいろな水産の実態分析に耐えられる」ものであろうか?」と言う疑念を抱かざるを得ないことが多い。

FAO(国際連合食糧操業機構)の世界水産統計は、「国連機関の一つである FAO」の公表しているものであるから「権威があり、従って信頼するに足る」情報と誤解されやすいが、各国が自国の集計編纂した統計数値を FAOが定めた統計基準に合わせて換算した値をFAO水産局に報告し、これをFAO が積み上げたものである。

各国の統計調査システムとは別に FAO FAO 独自の「中立的な自前の調査組織を持ちその組織によって調査した数値では無い(世界をカバーすることは莫大な経費を要し、その様な組織を作ることは空想に近い)、したがって、FAOの統計も元を糾せば「各国の統計が信頼するに足るものか否かに係わらず報告されて来た数値を積み上げるだけであるから、その信憑性も同様に問題を持つことは同じである。FAO は世界統計を編纂するに当たっては「共通した同じ基準」に則らなければならないから、同一基準に換算した各国からの数値の集計を実施している訳である。「権威あるFAOの公表した数字であるから正しい」と勘違いしてこれを盲信してはならない。

或る途上国の統計システムが不備であったり、政治的理由による「数値の改竄」の可能性があったり、予算も人員も不足していて充分な仕事ができないなどの事情から、ただ上辺の体裁だけ格好を付けて「お茶を濁して FAO に報告している」可能性は充分考えられる。しかし、具体的な途上国の国名を挙げてその信憑性を云々し批判することは「当該国の面子を傷つけることにもなる」ので、そう思っていても「実りの少ないただの言い争い」になることを恐れて皆が敢えて触れたがらないか、遠慮しているのだと私は勘繰っている。この種の発言者は「煙たがられて次回の国際会議から干される」こともある。

かれこれ40年も前の話だが、私が1966年に FAO/IPFC"Working Party on Trawling" にメンバーとして参加した。 IPFC (当時は「インド太平洋漁業理事会と訳されていた。1976年に名称の Council Commission と改称(印度太平洋漁業委員会)とした。さらに1993年に現在のAPFICに改められた)の中にこの作業班が設立された。設立の動機は国家間の漁場紛争の発生を回避するためだったと聞くが、「漁獲統計をより良いものにしよう」と云うことになり、Fishing log-book (漁獲成績報告書)システムを導入する話になった。理屈は結構であるが、漁夫の識字率が低いため、魚の絵を描くか?と云った案まで出た。この絵を描く案は「お流れ」になったが、私は実態を知って驚いた。この調子では正しい漁場位置など得られる筈は無い。

漁獲成績報告書のフォーマットに魚の絵を描く案を笑ってはいけない。識字率の実態が、今は改善されているとは思うが、当時はそうだったのだから。結局取り敢えず出来た漁獲成績報告書は、「理論的には立派」ではあっても、実際の用には立たないのである。21世紀の今でも「理論的には立派」ではあっても、実際の用には立たないと言う事情はあまり変わらない気がする。統計システムの理論では優れていても、実際の現地の実態実情が分かっていなければ現実の漁業の役には立たない。

この作業班の会合は数回に亘って隔年毎に行われ、最後に私が代表としてローマの本部に行き、3ヵ月を費やしてそれ迄の協議の結果を取り纏め、FAO水産局の技術報告書として刊行されたが、果たして我々の仕事が実際の統計の改善に貢献したかを考えると忸怩たるものがある。残されたものは「IPFC がそれだけの会合を開いて問題改善に努力をした」と云う実績?が記録として残っただけであったかも知れない。

私の幾つかの国の経験では、海浜の水揚地や漁港に統計調査員 (Enumerator) の駐在部屋(小屋)はあるが担当者が不在である場合がかなりある。尋ねてみると「昼食に行っている」と言うが、何時まで経っても帰ってこない。週に2〜3度やって来て漁夫の記録を書き写して帰る処も多い。勿論、漁夫との面接もしない。州や県政府の機構図は立派だが実際の現場はこの有り様である。漁夫(報告者)が漁獲量を2倍に報告しようが、3分の1に報告しようが、マグロをサメと申告しようが意の侭である。規定ではチェックする監督官があっても機能していない。

加えて違法操業、漁船の違法建造、沖での他国船への漁獲物の非合法な密売、その他、数え上げれば切りがない問題がある。監督官を配置し厳正なチェックをすれば良いだろうが、それには莫大な経費が必要であり、調査官は賄賂などで簡単に調査結果を改変する汚職構造もあるようだ。

生産量を見ていると毎年一定の比率で右肩上がりに増加している国がある。これは恐らく調査せずに、若しくは期限までにFAOへの報告が間に合わないために、「前年度の3%増し」と云った架空の数値を報告している疑いがある。旨く行っている陸上の製造業ならいざ知らず、程度の差こそ在れ漁撈生産には豊凶がある。判子で押したように数年にわたって3%増など有り得ない。

魚種別漁獲量に問題があっていろいろ調べた結果、魚種組成が或る年次までは変動して居たが、その翌年から組成が一定の値を示していることが分かった。良く調べてみるとその年次から遡って10年間の平均値を計算し、総漁獲量に得られた平均魚種組成率を掛けて魚種別の生産量としていることが分かった。永年の平均値だから「当たらずと雖も遠からず」だと係官は恬然と嘯いていた。数回会う中に仲良くなってから「実は予算削減で人手が足りず苦肉の策だ」とのこと。

予算削減の理由は電算機の導入で「人に代わって電算機が仕事をやって呉れるから人を減らされた」のだそうだ。電算機の導入は結構なことだが、「電算機を入れたから統計の精度が格段に向上した筈だ」と思っている上司が多くいるのはこの国に限ったことではない。結局「統計は何のためにあるのか?統計の現場はどうなって居るのか?」が上司には全く分かって居なかったのだろう。

これらは極端な例ではあるが、その背後には上記の途上国の漁業統計に対する予算の不足の問題がある場合が多いことを痛感した。その国の研究機関では「政府統計は信頼が置けないから、解析には使えない。私達は自分自身の手で統計を取って使っている」とのこと。偶々その研究所長は私の教え子だったこともあり、内幕の不満をいろいろ語って呉れた。彼等は仕事に費やす時間の半分をそれに宛てていた。しかも或る特定の場所の特定の魚種に限っての話である。

漁業統計に割り当てられる予算の削減による不足から、数値の信憑性は益々低下する話はその国ばかりではない。国家財政が逼迫すると水産統計などに皺寄せが先ず来る。困った話である。

統計の専門家ではない私が云うのも烏滸がましいが、統計 [STATISTICS] と云う言葉の語源は [STATIST、国家統制(主権)主義者] などと共に国家 [STATE] と係わりがあるらしい。歴史的には人口調査などから始まり、その目的は税金集めだったと云う記述がある。国家が公開するかしないかを含め、統計情報をどう扱うかは極めて政治的な考慮が働くように思われる。

科学的な観点からは「真実を知りたい」が、多国間の問題で自国の国益や商売の利益を考えると「真相は秘匿したい」、まるで性善説と性悪説の「鬩ぎ合い.」の側面があるような気がしてならない。冒頭で述べた IPFC "Working Party on Trawling" でも「正確な操業位置を…」を報告させようとしても、元々違反操業をして居るのなら、「私は他国の領海に入り規定違反をしました」と報告する馬鹿正直な者はあるまい。

以上、発展途上国の漁業統計について悲観論ばかり述べてきたように思われるかもしれないが、私は次のように考えている。

  1. 途上国の統計の信憑性は一般には低いとは思われるが、上述のような極端な例ばかりではない。実態を知った上で利用すればそれなりに役立つ情報は多々ある。FAO の世界統計もこの意味では貴重なものである。

  2. 私は統計調査は「生き物」であり、「教育や体系的なシステムによって育てる」努力が絶えず必要なものだと思っている。この努力を一度怠れば、「折角良い統計が得られる情況」が出来ても、また元の信憑性の低い状態のものに逆戻りする。

  3. 注意しなければならないのは、「何のために漁業の統計調査をするのか?と言う目的意識を明らかに理解し、持って居ること」だと思う。云うまでもなく水産業をより合理的に、かつ、安定して我々の社会生活に寄与するためである。統計のデータを集計し統計書を編纂すること、それらのための統計理論を研究すること、などは勿論大切であるが、それらは目的ではない。データをどう活用して産業に役立たせるかである。

  4. 「そんなことは云われなくても分かっている」と云う人もあろう。しかし統計の会議で理論ばかり論じ合って、実際の漁業生産の実態を知らないで「事が足りた」と思っている場合が多いのは何故だろう?

  5. 初代の日本水産学会長を永らく勤められた田内森三郎先生の次の言葉を想い出す。曰く「資源の実態を知るには幾つかの鎖の輪がある。資源理論はその輪の一つである。こればかり幾ら磨いて居ても駄目だ。操業の実態、漁夫の感覚など生産現場の把握なども鎖の輪である。これを軽視して磨くことをしなかったら資源の実態は分からない。それぞれの輪を併行して磨かなければならない」と云うものだった。

  6. 統計に関しても同じことが言えると私は思っている。同時に感じることは漁業統計に投じる予算や人員数が少な過ぎるのでは無いか?と言うことである。これは FAO についても言えるようだ。陸上の農業関係の統計と違い漁業統計は遥かに複雑である。

  7. 「科学的な分析に耐える統計がある地域は世界でも100年の歴史を持つ ICES の北大西洋海域、地中海、北太平洋ぐらいのもので、その他の地球上の海域は扱えない」と良く言われる。これらは何れも多くが先進国またはそれに準ずる国々によって構成されている國際委員会であって、生物学的データを含む詳しい統計が相互に交換されている。

  8. 途上国の生産は1980年代の中頃から先進国を抜いていて形勢は逆転した。21世紀に入った現在、世界では特に中国を抱える東アジアや東南アジアの水産生産が大きな地位を占める重要地域となった。途上国が主体の東南アジアの生産量の数値の信憑性に関心が集まるのは無理もない。私は憶測と言うか、多少現場を見た経験から、感覚的にではあるが一般に途上国のデータは過剰推定の疑いを払拭仕切れない。生産現場の実態を充分踏まえた上で、統計組織の改善を期待したい。

途上国の統計の信憑性などと題して置きながら、自分勝手な方向に、しかも脈絡を無視して話が進んだ。「不一・不備」とはこのことかも知れない。言いたいことは未だ未だ在るが、ここで筆を一応擱くことにする。

 

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FAO_NACA_1983

中国が水産分野で初めて開催した国際会議

 

真道 重明

(2006年04月)

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無錫の NACA 会議

中華人民共和国(1949年成立)が水産分野で初めて国際会議を開催したのは、1983年10月に江蘇省の無錫(Wu-Xi)での NACA Network of Aquaculture Centres in Asia-Pacific) の集会である。NACA と云うのは FAO の肝煎りで1980年代当初に養殖業の発展のため世界に数ヶ所設立されたアジア・太平洋地域版で、言わば「アジア太平洋養殖発展センター・ネットワーク」である。「センター」はフィリピンのパナイ島にある SEAFDEC の養殖部局内に設置された外、印度に一箇所および中国江蘇省の無錫の3箇所であった。

ちなみに、設立時の肝煎り役だったFAOは「日本が養殖技術、とりわけ海水養殖技術では世界では最高水準にあったから、センターの一つを日本に設けたい」意向であったが、日本は応じなかった。このような経緯があったせいか日本はこのプログラムには加盟していない。東南アジア諸国を始め米国・カナダなど多数の国の技術協力機関が参加したが、日本からの出席者はなかった。私は日本人ではあったが SEAFDEC 次長の立場であり、唯一の日本人であった。

私の知る限り中国にとっては水産に関する最初の国際会議である。建国後30年以上経過しているが、文化大革命時代の混乱期が終わり、ケ小平の経済改革開放政策に大転換が決まってから5年後ということになる。私にとっては1957年の訪中以来、文革の混乱で訪中出来なかったから、26年振りの再訪であった。

久し振りの中国

各国からの参加者にとって中国訪問は最初の経験であったが、私は建国後未だ10年を経過しない1957年の訪中経験があったので、開放政策後の中国がどうなっているか?を見たいという期待が胸中には強くあった。

会議開幕の二日前、外国からの各航空便による参加者は上海虹橋空港(現在の国際線は浦東空港、虹橋空港は国内線のみ)で合同し、主催国の中国が用意した大型長距離バス数台に便乗して無錫に向かった。汽車でも勿論行けるのだが、国際会議に出席する特別の賓客であることを考慮してバスにしたのだろう。虹橋空港をバスが出発したのは午後10時を少し過ぎていた。

真暗い闇の中をバスは無錫目掛けて幹線道路を走っていた。ポプラ並木だったと思うが、道路の灯火は当時は未だ無かった。窓越しに外を見るとポツリ・ポツリと背中に荷を背負った婦人が独り、または子供連れで歩いている。「オイ、女が独りで深夜の道を歩いて居るぞー」と一部の参加者は驚きの声を上げた。母国では治安の心配からあり得ない光景だった。

英語の出来る添乗員の女性が「中国の治安は極めて安全です。彼等は日中の暑さを避けて夜行して居るのです」と云った。「建国前には考えられなかったことです」と付け加えた。「あっ、彼処には子供連れが居る」と云う。皆車窓から外を見ていた。添乗員は少し誇らしげだった。

無錫のホテル

2時間ばかり走って夜中の12時過ぎに無錫のホテルに着いた。ロビーで部屋割りを告げられた。飛行機の機内や上海の空港内で食事を摂ってはいるが一同は多少疲て居るので「24時間バーはありますか?」と訊ねる者が多かった。「バーはありますが、改装中、午後10時閉店です。部屋を見たい人はご自由に。扉は施錠してありません」とのこと。

入ってみると各種の洋酒を並べた棚、スツール、など一応はバーの体裁になっていたが、ドライジン、カティサークなどの各種の洋酒は水を入れた空瓶で、つまり、飾り物であった。私が身を以て体験した感じから言うと経済開放政策の効果が現れ始めたのは翌年の1984年ごろからで、上海や青島などのホテルの経営が香港から経験者を招いて本格化したのは更に数年後である。1986年の無錫のホテルのバーがこのような状態だったのは無理もない。

朝食は大部屋のバンケット・ホールで摂った。6名程度が着席出来る円卓が数10卓設えられていた。希飯(白粥)とパン食の2つのコースがあり、一部の白人を除いて白粥のコースを毎朝食べた。東南アジア諸国からの参加者は朝食に「お粥」は珍しくはないから違和感はなかった。

昼食や主催者側の料亭での歓迎宴の時を除くと、夕食もこの部屋であった。メニューには太湖に接する土地柄、名物の「銀魚」(シロウオ、ハゼ科)があり、その掻き揚げ「銀魚炒蛋」は逸品であった。朝食の粥と共に「鹹蛋」(家鴨の卵の塩漬け)の外、小皿に入れた見たことのない不思議な漬物?があった。誰も知らない。そこで料理人に私が尋ねると紙に漢字で「佛塔菜、也称宝塔菜」(佛塔菜、また宝塔菜とも言う)と書いてくれた。

そう言えば豆粒大の佛塔のようにも見える。後年になって Web 検索している時偶然に分かったことだが、日本にもあり「チョロギ、草石蚕」という「シソ科の多年草で地下に生ずる巻貝に似た塊茎は食用とする」ものらしい。日本でもあまり知られては居ないようだが、俳句の季語にもなっている。

ホテル内の例のバーはビールだけが販売されて居たが、客を見掛けたことは無かった。無錫では西洋式ホテルの第一号だったのかも知れない。

会議の様子、その他

冒頭で述べたように、私の知る限り中国にとっては水産に関する最初の国際会議であった。従って北京の中央政府の農業部からも数名の責任者が来ており、接待にはかなり力を入れていた。

会議の内容は一種の「お祭り」で、各国代表の式辞と各々の国の養殖業の現状報告が披露され、特に学術的な専門の討論は無かった。開所式のお祝いに似た雰囲気の集会であった。その概要は下記にある。一列目に表示された画面を上にスクロールすればタイトルが見える。二列目は私の式辞。

http://www.fao.org/docrep/field/003/AC252E/AC252E00.htm#TOC

http://www.fao.org/docrep/field/003/AC252E/AC252E19.htm#anx9

しかし、私のほか数名を除くと、外国からの出席者の殆どは中華人民共和国が建国されてから初めての訪中であり、中国社会が動のようになっているかに就いて興味津々である。主催者側の中国も会期中特に機会を設けて無錫市や隣街の蘇州市の百貨店や庭園の見学が組まれていた。

また、会議終了後には希望者には北京・上海など中国各地の見学旅行が組まれており、殆どの参加者はこれに加わった。私とマレーシア代表団員の中国系の水産局員の二人だけは各地の見学旅行をキャンセルして、私は1957年に講義した上海水産学院(大学)やその時知り合った広州市の南海水産研究所長の費鴻年氏に会いたくて、別行動を取った。マレーシアの彼は上海の親戚を訪問したいと言って居た。

上海水産学院は突然の訪問であったが、副学長の王克忠氏が生憎の休日にも拘わらず私の来訪を待って居られ、文革中に学校は厦門(アモイ)に下放され辛酸を舐めたことなどを聞かされた。飛行機の時間の関係で僅か3時間に満たない訪問だったのは残念だった。

広東省広州市の南海水産研究所では久し振りで費鴻年氏に会え久闊を叙した。現在では既に故人になられたが、この時は未だ矍鑠として居られ往時の想い出などを語り合った。タイのバンコクに帰任して間もなく、航空便で同氏のガリ版の近著数冊が送られてきた。

蛇足:先日 米国人の友人から「偶然、中国の無錫の NACA 会議の開会式で私が喋ったステートメントが見付かった」旨の知らせがあった。勿論、私はその時の MEMO や紙片は処分して了って手元には持って居ない。懐かしいので内容を COPY したが、上記の URL を捜せば Annex IX にある。 Web とはこんな時には本当に有り難いものだ。

此処をクリックすると出ます ) Statement

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IzumoUnagi

出雲の鰻が大坂へ

 

(社)大阪市中央卸売市場 本場市場協会 資料室の酒井亮介氏のエッセイ。著者および発表誌(海洋政策研究財団のニューズレター、Ship & Ocean Newsletter)のご諒承を得てここに再録しました。

 

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著者の酒井 亮介さんは私達の國際漁業研究会(JIFRS)の会員であり、大阪の昔の魚市場「ざこば」などに関する面白いエッセイがあります。何時もレプリントを頂いている。今回の「出雲の鰻が大阪へ」もその一つ。小中学校を大阪で過ごした私にとっては、道頓堀などの橋の袂の屋台船式料亭「牡蛎船」などの語が出て来て懐かしい。

下記のURLをクリックすると同題名のエッセイが閲覧できます。

http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/142/a03.php

 

なお、ご承知かとは存じますが、海洋政策研究財団 (OPRF) のホームページは下記のURLをクリックして下さい。

 http://www.sof.or.jp

 

國際漁業研究会(JIFRS)のホームページは下記のURLをクリックして下さい。

http://www.jifrs.org/

 

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