東海水産研究所と老朋友

東海水産研究所と老朋友

真道 重明

2003/02/15. 起筆
2005/07/24. 擱筆

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上海市軍工路300号の東海水産研究所正面玄関


内 容

1.まえがき
2.
東海水産研究所の歴史
3.
数次の訪問の想い出
   a
研究所との初めての出会い
   b
資源研究室の人々との討論形式の講義
   c
宿舎の想い出
   d
情報室や図書室での雑談
   e
浙江省台州地区への訪問
4.
友人の思いで
   a
繆聖賜さん
   b
趙伝因さん
   c
丁仁福さん
   d
鄭元甲さん
   e
その他の人々
5.
記念の印譜
6.
2002年の訪問

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1. まえがき

のホームページの「1957年の訪中記」や「上海水産大学92年の歩み」に書いたように、東海水産研究所は前身母体である上海水産学院から分離独立したのは、1958年で私が上海水産学院を初めて訪問した1957年の丁度翌年に当たる。私が研究所が独立した後に始めて訪れたのは中央政府の農牧漁業部の招請による1987年の9月5日から10月16日の40日間である。

その後数回同所から招かれて講義や討論会を目的に訪れたり、浙江省台州地区からの要請により講義に赴いた際にも、同研究所の計らいで台州地区の三門県、玉環県を視察したり、また、ある時は遠く遼寧省の瀋陽や烟台などにも足を伸ばしたりした。これらを通じて同所の人々の多くと知己になった私にとっては想い出の多い処である。

今では東海水産研究所は中国水産科学研究院の配下の黄海水産研究所や南海水産研究所と並んで我国とも関係の深い研究所の一つである。2002年に上海水産大学の校慶90年の祝賀に参加した時、すぐ隣りの東海水産研究所を訪れた。建物の外観は変わらないが内装は見違えるように美しくなり、近代的な新機器類も一新されていた。

今では東海水産研究所は日本から訪れる研究者も多いとは思うが、私の交友録の一つとして同所で知己となった人々、とりわけ資源研究室の方々や図書館、庶務課の友人について「想い出」を書いた。上海水産大学と共に私にとっては縁の深い研究所である。

 

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2. 東海水産研究所の歴史

海水産研究所が設立されたのは1958年10月、青島の黄海水産研究所、広州の南海水産研究所と並ぶ中国の三大海区(黄海・東シナ海・南シナ海)の水産研究を担当している総合的な研究機構の一つである。上海市の東北部に位置し、上海水産大学の隣りに在る。

設立時には「中国科学院上海水産研究所」と言う名称であったが、1963年に水産部(日本の省に当たる)の直接配下に置かれることとなり、「中華人民共和国 水産部 東海水産研究所」と名称が改められた。

その後、中央政府の機構改革に伴い、1982年10月から中国水産科学研究院の支配下に置かれ、公式名称は「中国水産科学研究院 東海水産研究所」となり現在に至っている。一般には略して「東水所」と呼ばれることが多い。

初代所長は朱元鼎(1958.10 〜 1966.10)、第二代所長は曹正之(1978.11 〜 1984.11)、、第三代所長は再び朱元鼎(1979.5 〜 1986.12)、第四代所長は黄錫昌(1984.11 〜 1990.5)、第五代所長は郭南麟(1990.5 〜 1992.6 所長代行、1990.5 〜 1992.6 〜 1994.2 所長)、第六代所長は陳雪忠(1997.11 〜)。

初代副所長は曹正之(1958.10 〜 1966.10)、第二代副所長は陶子実と黄錫昌(1978.11 〜 1984.11)、以后の各副所長は陳献吉(1979.7 〜 1984.11)、趙伝因(因は糸偏に因、1980.1 〜 1987.2)、徐亦績(1981.9 〜 1984.9)、王守倫(1987.2 〜 1992.6)、程炎宏(1987.2 〜 1997.11)、斉慶林(1992.6 〜 ?)、謝営梁(1997.11 〜)、樊強国(1997.11 〜)。

以上は1998年10月出版の 《前進発展的四十年−慶祝東海水産研究所成立四十周年》 帰従時・陸忠康 主編、p.274.による。

 

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3. 数次の訪問の想い出

 

a 研究所との初めての出会い

私が東海水産研究所を初めて訪問したのは、「まえがき」で述べたように、1987年9月から10月に掛けての40余日間、中国農牧漁業部の招請による。初めて会った同所の職員は趙伝因(因の字は正しくは糸偏が着く)氏、同年2月まで同所の副所長を務めておられた人である。

同所が用意した宿舎に一泊して旅行の疲れを癒した翌朝のことであった。同氏は1957年秋に上海水産学院で2ヵ月余に亘り資源調査研究方法を講義した時、生憎出張中で私の話を聞く機会を逸したとのことで、私のことを良く知って居られた。

お会いしたのは、今でも良く憶えているが、上海市内の魯迅記念公園である。同所の庶務課の人と私が公園につくと、先方の道から手を挙げて此方に向かって来た人が趙伝因さんであった。言葉が北京語に近い北方訛りである。その事を言うと「私は1950年に山東省大学(在青島)の農学院(部)の水産系の最初の卒業で、1964年に黄海水産研究所から此処の東海水産研究所に転任して来たのです」とのこと。(山東省大学はその後済南に移転し、海洋・水産部門は青島に残り「青島海洋大学」と改名して独立、数年前に「中国海洋大学」と再度改名した。趙さんは同校の初代卒業生ということになる)。

早朝の魯迅記念公園から上海水産学院の隣りにある東海水産研究所に赴き、所長以下同所の幹部諸氏に表敬、所内の各施設を視察、滞在中の活動日程などの協議、午後からは各研究分野の責任者から業務内容の概要を聞き取った。職員の中には前年チョット立ち寄ったので顔見知りの人も多かった。

 

b 資源研究室の人々との討論形式の講義

訪問の最大の目的は同所の資源研究スタッフとの多面的な視野からの講義と討論である。受講者は学生ではなく、既に研究者として実績のある人達である。同様の機会は1987年だけでなく、その後上海水産学院(現大学)や浙江省台州地区から招請された途次など、上海市を訪れた際にも懐かしい2階の同じ部屋で懐かしい人々を前にして、何度か行なった。

資源研究室長は丁仁福さんで、趙伝因さんと共に何時も討論時には奥のソファーに座って司会役のような存在であった。その部屋は二階の中央にあり、人数も胡雅竹・朱啓琴の女性を含む15名前後であった。講義も教室形式ではなく座談形式に近く、自由な雰囲気で、私も黒板を背にして座った侭で話を進め、自由な雰囲気で討論した。

趙伝因さんの意向もあり、話の内容は資源だけでなく、初回の1978年の際は40日間と時間も充分あったから、資源に1週間、遠洋漁業、国際漁業、企業管理などに1週間、舟山列島視察に5日間、漁業資源研究者の人材育成問題、国際協力問題、國際共同研究、FAOやSEAFDECなどの私の経験などに1週間、と言った具合で、広い視野からの話題が討論の対象となった。

最後のとりまとめに数日を費やし、その後、10月に入ってからは青島経由で趙伝因さんと共に10日間に亘って、中国東北部の瀋陽や渤海遼東湾の北岸に位置する遼河の河口の「営口養殖場」などを視察したりした。

 

c 宿舎の想い出

東海水産研究所には構内にお客を泊める宿舎は無かった。私は最初の頃は当時海軍の将官の寮が一般人を泊めるホテルとして公開されていたので、そこを研究所が確保して呉れ、2週間ぐらい宿泊した。空調のある良い部屋であった。朝食は海軍の兵士と共にセルフサービスだった。3日に一回は紫菜(アサクサノリ)の湯(スープ)が出たが、これがとても美味しかった。接待員は女性が多かったが海軍関係者だったように思う。言葉や物腰がキビキビして居た。日本語は通じなかった。

土曜日や日曜日の夕刻には海軍兵士のための映画会があり、「面白いから見に行け」とのこと。驚いたのは洋画が多く、オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの演ずる「ローマの休日」などに人気があった。中国語に吹き替えてあった。まさか海軍の宿舎でこんな映画を見ようとは夢思わなかった。

此処には中国の技術援助項目(プロジェクト)による中東からの3名の舶用機関の研修生が来ていた。彼等は中国語は出来ないので研修は英語で行われていたようだ。あと1ヶ月で半年の研修を終わり帰国するという。「中国は初めてか?」と訊くと「そうだ」とのこと。「中国の印象は?」と訊ねると2人は「良かった」、1人は「まぁ、まぁ」との答えだったが、生活面では全く問題はなかったとのことだった。

彼等は回教徒であり、食事や礼拝の戒律があるので対応は難しい筈である。しかし中国では新彊維吾爾自治区その他回教徒は国内にも多い。風俗習慣の違う回教圏の人々に対応する面では手慣れたものであると思った。

この海軍宿舎は東海水産研究所からやや遠かったので、2週間後には研究所に近い機械学院の中にある外賓宿舎に空きが出来たのでそこに移った。この外賓宿舎には米国などから講義に来訪している人々が5〜6名居り、英語が良く通じたので、食事時などの雑談を通して、お互いに直ぐ仲間同士となり、万事楽であった。

個室にはテレビは無かったが、受付カウンターの奥に大型テレビがあり、仲良しになった用務員の小父さんは私が中国電視台を見るのが好きなことを知ると「今夜8時から包公(日本の大岡越前に似た勧善懲悪物語)シリーズの番組や怪奇小説の聊斎志異シリーズの番組があるよ」と教えて呉れた。仲々親切な小父さんだったが、話している内に「私の父親は日本軍に殺された」ということを知った。「これは貴方と何の関係もない。気にすることはない」と彼は付け加えた。このような話を聞くとやはり複雑な心境になる。

 

情報室や図書室での雑談

情報室とは中国国内や外国の水産関係の情報を集めることを任務とする室であり、外国語の読み書きが堪能な人達で構成されている。中国の研究所では何処でも情報室を持っている。後述する繆聖賜さんは日本語に優れ、東水所の情報室の責任者として永年活躍されていたようである。

日本語で自由に会話できるので私は暇なときには良くこの部屋を訪れて雑談した。趙栄興さんは江蘇省無錫の人、上海外語学院を卒業、日本語とアラビヤ語を専攻。研究所に隣接した上海水産大学を訪れる機会が有るときも、昼食後に東水所の情報室には顔を出し、同氏とは「やぁー、久し振り」と言葉を交わした。趙栄興さんは中東に勤務した経験があり、イスラーム寺院でのお祈りの「歌声」など堂に入ったものだった。

彼が回教徒であるか否かは聞き漏らしたが、中国と回教の歴史は古く、現在2千万人の教徒がいるらしい。回教寺院(モスク、清真寺)も至る所にあり、「清真」と書いた食堂も多い。清真とはムスレームのことらしい。私がタイ国のバンコクで約8ヵ年住んでいた家の裏通りにはモスクがあり、毎朝お祈りの声を聴いていた。職場には回教徒の友人も多かった。その事を言うと彼は回教のことをいろいろ教えて呉れた。日本と違って中国では回教は身近な存在である。

趙栄興さんはその後リビアに派遣された中国海水養殖専門家チームに加わり、1996年からは《現代漁業信息》雑誌の副主任である。

 

東水所の図書室にも時々顔を出した。責任者の施鼎釣さんは以前からの知己であるが、私の拙い中国語での雑談である。北京大学の司書学科を出た人で、中国漁業史に詳しく、《中国水産文献索引》や《中国農業百科全書 水産巻》の編纂をした人である。

日本の生活物価や土地価格の話など他愛のない雑談が多かった。しかし、施鼎釣さんの専門は司書であり、関係分野の文献などを探す場合には、同氏に訊ねると即刻返事があり、実に有り難かった。中国の水産関係の人名など生き字引のようで、非常に記憶の良いのに感心した。中国漁業史に関する論文を多く発表している。

 

e 浙江省台州地区への訪問

1988年、東海水産研究所に1ヵ月講義のため再度招聘されたが、資源研究室は今年から海面増養殖の分野を吸収拡大されたのを機に、約1週間を浙江省三門湾の海面増養殖や海面捕獲漁業の生産現場視察のために費やした。なお、1993年には浙江省台州地区からの邀請があり、東水所の協力も得て、約1ヵ月この地区に滞在した。

これらの経験から得た知見の技術的な問題はこのホームページの「自著文献リスト」の85,86、89に記録があるので、此処では触れない。三門湾を含む台州地区に行くには1988年当時は上海からの道路が未だ整備されて居らず、杭州湾を高速艇で渡ってから現地に着くまでは大変であった。特に1988年には大雨による洪水で道路が寸断されており、丸一日を要した。1993年には杭州湾口横切る高速艇と、後は自動車で全行程を半日余で行けるようになり、交通のインフラは急速に改善・発展していた。また、軍の黄石空港が民間機も利用可能となって、交通の便は全く問題は無くなった。

浙江省台州地区はこの地区の政治、経済、文化、交通の中心地である「台州市」、地理的に地区の中心にある「臨海市」、南部の「温嶺市」、最南端の「玉環県」、北部に位置する天台宗の発祥地で有名な「天台県」、東部沿海の三門湾に面する「三門県」、その他を擁する。古来日本人にとっては比叡山延暦寺を開いた最澄(伝教大師 )の留学先としての天台 は有名である。

台州地区水産局の責任者は孫漢梁さんで、山東省青島の中国科学院の海洋研究所の畏友である楊紀明さんと上海水産学院では同期だとのこと、そこで急に親しくなり、仕事の配慮や、休みの日には隣りの温州地区の雁蕩山の観光など、いろいろな便宜を計って頂いた。

台州地区に限らず、浙江省の沿海部一帯は海に面する所は水産、山里は果樹、山は石材が算出し、特に臨海地方は水産養殖の発展により、1987年当時には個人住宅も旧来の侭であったが、5年後の1993年には多くが新築の半洋式の新家屋に改築されており、急速な様変わりには驚いた。

1987年当時、私達の宿舎に宛てられた三門県の招待所では、来る日も来る日も朝飯はお粥と漬け物に中国対蝦(タイショウエビ、大正えび、Penaeus orientalis)、鋸縁青蟹(ノコギリガザミ、Scylla serata)ばかり、上海などの大都市では高級食材で贅沢の極みであるが、実は他に適当な「お菜」が無かったようだ。惜しいことに蝦や蟹の高級魚種を上海や寧波などに出荷するにも、道路などの物流インフラの整備が未だ不十分だった。

1993年当時も、養殖生産物の輸出は香港経由であり、自前の貿易チャンネルを持って居なかったが、現在はこれらの問題も解決されている。なお、タイショウエビは台州地区では未だ海水養殖の最大対象種で、私達が訪問中は伝染性病害の問題は予想もされていなかった。1993年の訪問を終わって日本に帰国した数日後、今回知り合った養殖場経営者から中国文の速達を受け取った。

「先生が帰国後、数日前に養殖中のコウライエビ(大正えび)全滅、一同仰天している。何が原因だろうか?ご教示願いたい」との内容にビックリした。早速調べて分かった情報を知らせた。これが中国海水養殖史上で最大の問題の一つである「コウライエビ病害発生を私が知った最初の瞬間である。ご承知のように現在では病害に強い「南美白対蝦」(Penaeus vannamei )の養殖に主力が移行している。 僅か数ヶ月で中国全土に猛威を振るうことになった直前に私は奇しくも現地から離れた訳である。

 

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4. 友人の思いで

a 繆聖賜さん

繆聖賜さんは広東省中山の人、1925年の生れであるから私の3歳年下である。夫人は雷宛華(宛の字には玉偏が着く)。1954年に上海水産学院の海洋漁業専業を卒業。若い頃に日本の関西で育ち、関西訛りの日本語は日本人と変わらないほど達者である。

初めてお会いしたのは1986年、青島の中国科学院の海洋研究所の劉瑞玉所長の招待で全国を歴訪した際、上海水産大学と東海水産研究所に顔を出した時、それ以来20年の付き合いである。同氏は東海水産研究所で長年に亘り情報室の顧問格の立場だったように記憶する。私が上海水産大学や東海水産研究所を訪れる度に、何時も空港まで出迎えて頂き、東水所・大学・遠洋漁業培訓センター・現地視察などの時には何時も非常にお世話になった。

暇なときには東水所や大学の近くにあるお宅にお邪魔して、奥さんの雷さんの手料理でヒラメの刺身などをご馳走になったりした。奥さんも広東出身だったように記憶しているが、長年の上海生活で、スッカリ上海人、いわゆる「広東上海人」である。長年の付き合いで、市内での買い物や色々な面でとても親切にして頂いた。逆に来日した際には此方がお世話をしたりした。

東水所や大学での講義の通訳は殆ど繆聖賜さんが引き受けて呉れた。標準語(普通語)は私も多少分かるのだが、同氏の翻訳語には所々私の理解できない言葉がある。後で「あれは何の意味ですか?広東語ですか?」と訊ねたことが度々あった。「いや、上海語ですよ、広東語なら上海人には通じない」と笑い乍らの答え。学校や公共の場では殆ど標準語(普通語)が使用されるが、聞き手の多くが上海人の場合、ツイ呉音系統に属する上海語が出るという。

一方、同氏と私の日本語の会話では「もういい加減に止めまひょうか?かめへん、かめへん」などと関西弁が飛び出す。最近貰った手紙では「現役定年後、請われて勤めて居た上海水産総公司の顧問役も、歳も歳だし、そろそろ辞退しようかと思っている」とあった。

 

b 趙伝因さん

趙伝因さん(因の字は正しくは糸偏が着く)のことは既に冒頭で少し述べたが、山東大学出身で青島の黄海水産研究所に在籍し、東海水産研究所の副所長も勤められた趙伝因さんとはいろいろな想い出がある。1987年に上海の魯迅記念公園で初めて会う以前から私のことは知っておられ、農牧漁業部(現、農業部)に申請して私を日本から招聘し、東海所で講義することの按排をされたのも同氏である。

気が合うと言うのか、私にとっては親しみやすい人柄で、上海で会った多くの人とは異なり、言葉も北京音に近かった。人間はどう言う訳か些細なことを憶えている。魯迅記念公園で初めて会ったときの雑談で「此処の上海の言葉は北京とは随分と違っている。「打頭」というから「頭を殴ること」かと思ったら「理髪」の意味だった。「それを知った時には大笑いした」と声を出してその時また大笑いされた。悠々迫らず大人の風格があった。

1950年代の初期から新中国の各時代の海洋や内水面の漁業資源の調査研究の多くのプロジェクトに係わり、中国水産学会や中国海洋湖沼学会の理事などを勤め、なかなかの論客で著書も非常に多い。1950年代から1990年代にかけての中国の海洋資源研究の中心的な存在であった。人柄は謹厳で仕事は一貫して精密だったと記されている。

記述のように、浙江省の三門湾や遼寧省の烟台、山東の視察に私と同行され、多くの意見交換をした。2001年に体調を損ね、一時健康をやや回復されたと聞いていたが、残念にも2002年の5月5日に逝去された。前記の繆聖賜さんからの信書によると、11日の告別式には繆聖賜さんが私に代わってお別れの礼拝して頂いた。

私の好きな唐詩にも造詣が深く、私が唐詩を好むことを知り、分厚い《唐詩鑑賞辞典》を頂いた。この分厚い辞典は東京の私の自宅の部屋の書棚にある。

c 丁仁福さん

丁仁福さんは1987年の東水所での資源研究室の主任である。上述の趙伝因さんとはまるで対称的な人柄で、コツコツと研究をやると言うより、むしろ、口八丁、手八丁、と言った所があるように見受けた。東海のカタクチイワシの資源の研究がある。

一時、東水所を離れ、アフリカ西岸のラス・パロマスの駐在官に出向していたと本人から聞いた。その後再び東水所に戻り、上海の新開地の浦東に新しい住宅団地に新宅を建てた直後、研究所の友人数名と招待されたことがある。

休日などは良く同氏から誘い出されて、市内見物などを度々した。なかなか話が面白い人である。「上海で一番流行っているラーメン屋に行こう」、行ってみたら小さな店ながら満員、出て来た麺は煮込んだタウナギをぶっ掛けた上海式の白い麺で、これが売り物らしい。旨かった。

 

d 鄭元甲さん

鄭元甲さんは福建省永春県の人、1939年生れ。1963年に厦門(アモイ)大学生物系を卒業。東水所切っての資源研究者である。とりわけ東海のウマズラハギ資源に関する一連の研究が有名。畏友の大滝英夫氏の和文訳がある。

言葉数は少ないが、何時も顔をに笑みを浮かべた温厚な人柄である。私が東水所を訪れる度ごとに歓迎会で席を共にした。中日漁業専門家会議などの中国代表団員などに参加されている。

 

e その他の人々

図書館の施鼎釣さんや情報室の趙栄興さんのことは既に上述した。林新濯さんは既に定年退職されて居たが、未だ東水所が設立されていなかった1957年に知り合った旧知である。太極拳の練習をしたいと言ったら「その靴では駄目だ。私のを貸そう」と布鞋(布製の中国靴)をわざわざ自宅から持参して貰ったりした。

王明彦さんは東京水産大学に留学の経験があり、日本語が出来た。同窓の誼で時々は研究室に雑談に訪れた。専門は漁具構成で同水研には立派な船型試験水槽があった。

庶務課の帰従時さんは親切で律儀な人である。仕事の上では関係はなかったが、何かあると良く面倒を見て呉れた、毎年正月になると年賀状が来る。

 

5. 記念の印譜

 

印譜(いんぷ)というものがある。広辞苑によれば「種々の印影を集めて編んだ本」とある。篆刻や落款などに興味のある人は知っているのだろうが、私はこれを東海水産研究所の人々から講義記念として貰うまでは印譜と言う言葉を知らなかった。考えて見れば私が小学生の終り頃から中学生の始め頃まで当時流行った「駅名のスタンプの蒐集」に凝ったことがある。東海道を鈍行列車に乗って短い停車時に走って駅舎に備えられた駅名印を急いで捺印して巡ったあの「スタンプ帳」は「印譜帳」と同じ、「捺印した判子の印影を集めたもの」である。

さすがは文字の國だけあって貰った印譜は私の講義に関係のあった方々の署名と印影と言う素晴らしい記念品となって今も大切に保存している。中国の人の印鑑は日本のように一般の人の場合、日本のような丸型や楕円は無く、殆どのものは角印であり、白文(文字が白抜き)あり、篆書、隷書、楷書など実に様々である。帳は幅10 cm、高さ5 cm、厚さ1 cmの扇形、19頁、表紙と裏表紙は黒地に金の雲形模様の布で装丁してある。貰ったものは頁を紐で綴じた帳面ではなく、一連の横長い紙を丁度屏風を折畳んだ蛇腹のようになって引っ張れば拡げられる。言わば「袖珍版印譜」である。

最初の頁の右端に縦書きで「真道重明先生、莅滬教学留念」。[莅滬は「上海に於て」の意味]。中央に横書きで、題して「誨人不倦」(古風に従い右から左へ書いてある)。左端に縦書きで「一九八八年十月、伝因題」と趙伝因(因の字は正しくは糸偏が着く)氏の自筆の書がある。誨人不倦の「誨」の字の意味が分からず、辞書で早速調べたら「教える」とあった。出典は「論語、述而第七」にある句である。「子曰。默而識之。學而不厭。誨人不倦。何有於我哉」。(子曰く、黙してこれを識(し)り、学んで厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。われにおいて何かあらんや。)に由来する。私に対する褒め言葉で恐縮の至りである。

以下にこの印譜に捺印署名された人々の氏名を羅列する。丁仁福、朱啓琴(女)、繆聖賜、趙伝因(因の字は正しくは糸偏が着く)、臧増嘉、顧晨曦、楊鳴山、鄒勝祥、載國果(果の字は正しくは木偏が着く)、桃佑宸、劉松、浦仲生、胡雅竹(女)、銭世勤、蜜崇道、周栄康の諸氏である。

ものは小さいが仲々雅味のあるこの記念品は私の宝物の一つである。今もガラス張りの書架の中に在る。

 

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6. 2002年の訪問

 

2002年の秋には上海水産大学の建学90周年記念行事があり、同学を訪れた。その際、同学の出身者で私の既知の友人であり、現在は中国水産科学研究院長の王衍亮さんも祝辞を述べるため北京から出席していた。東海水産研究所は同水産科学研究院の配下に属する。王さんの「東水所も施設が一新されているから、この際是非見学してくれ」との誘いもあり、私もその心算だったので、滞在期間の最後の頃であったが、大学祝典の行事日程にはなかったが、久し振りのような気がして東水所を訪れた。

王衍亮さんと初めて出会ったのは実は東水所である。1987年に講義で滞在中、北京の農牧漁業部から「王という人が出張で東水所を来訪中であり、出来たら私に会いたい」とのことを聞き、階下の応接室で会ったのが王衍亮さんであった。「目下日本語を勉強中である」とのことであった。その後東京水産大学に留学、後楽園の中国留学生会館で会ったり、練馬の自宅に見えたこともある仲である。

王さんの誘いだけでなく、滞在中に宿舎だった建物の階下に食堂があり、大学側と反対の道に面した側にガラス扉の立派な食堂の正面玄関が出来ていた。私がこの食堂で食事中にも東水所の人達が出入りしており、庶務の帰従時さんや王明彦さんと「やぁー」と声を掛け合い「東水所に何時立ち寄りますか?」などと訊ねられていた。この食堂は私には懐かしい所の一つである。

東水所の建物は懐かしい以前の侭であるが、一歩中に入ると内部はこの数年間に見違えるようにリフォームされて居た。旧式の男子トイレなどもステンレスのピカピカになっている。各部屋も電子機器が並んでおり、東海や太平洋の海水表面温度のカラー分布図などを表示したディスプレイなどが並び、面目は一新されていた。何度も講義や討論した2階の部屋は同じ所にあったが、仕事の配置は大きく換わっていた。

王衍亮さんや所長の案内で新装備の説明を受け、懐かしい多くの人々と挨拶できたのは嬉しかった。また、過去の度々の私の同所に対するお礼として記念品のお土産を頂き恐縮した。ただ残念だったのは、上海を離れる日、急遽丁仁福さんと王明彦さんが昼食に招待されたが、飛行機の出発時刻の関係で、食事もそこそこに切り上げ、ゆっくりと話し合う時間が無かったことである。私は歳も歳だがまた体調さえ許せば再訪したいものである。

 

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國際技術協力の問題

國際技術協力の問題

−技術専門家の立場から−

 

真道 重明

(1999年10月15日)

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1989年6月に某誌に請われて巻頭言「水産技術に関する日本の國際協力の問題」について記述した内容を、その後偶々読み返す機会があり、その後様変わりした世界や日本の社会情況などを踏まえ、その後に感じた諸々の問題点も含めて記述を追補ないし補完したものである。
以下述べることは、筆者の体験を通じて感じた、大袈裟な言い方をすれば、専門家の「人生や社会に関する価値観」と「その専門家が置かれている現実」との相克と言った「より根源的な事柄」も話題として取り上げた。何を今更「いい歳をして青二才的な理想論を…」と一蹴されるだろうが、敢えて書いた。


 

産業の発展が途上にある国に対する日本の援助や技術協力については多くの雑誌や単行本でも取り上げられています。その他にも多くの方々が直接または間接に意見を述べておられます。以前に「間違いだらけの国際技術協力」と題した本が出版されて話題になったこともありました。

この本は、途上国に対し水産に限らず各分野での国際技術協力や技術指導を、戦後になって日本の機関や国連を始めとするいろいろな国際機関が組織的に開始し始めた初期の頃、日本から派遣され、または、国際機関に就職し技術者として仕事の前線の勤務体験を持つ草分け的な人々の筆によるものです。

そこに繰り広げられた議論は、一口で言うと、「協力の事業を取り仕切る当局の立案責任者達に余りにも國際的な感覚が不足し、現地の実際の情況を知らない…」と言うものでした。そのため、「仕事が空転したり、努力をしても効果が上がらない」などの点が強調されていたように記憶しています。このような視点からの論議は、もちろん大切ですが、私は次に述べるような、もっと基本的(根源的)な問題があるように思いました。

それは国際協力は「途上国産業の育成」と言った「ヒューマニズムの精神に立脚してなされることは当然のことだ」とする考え方と、一方では「国際協力は援助国の国益と言う問題が背後にあり、受益者負担と言うか、Give and take が成り立っている形で行われているものだ」と云う理解の相克です。「どちらが正しいか?」と云った「二者択一」のこのような設問は、その設問自身が間違っており、どのプロジェクトにも両者の意図が並存しているのが現実の姿だとは思いますが、重点を何方に置くかのバランスはプロジェクトにより区々です。

途上国援助の場合、二国間協力と多国間協力では事情が大きく異なります。二国間の場合には「協力国側の国益」にストレスがより強く置かれ、多国間の場合には「途上国の産業育成」に重点がより重く置かれているようにも感じられますが必ずしもそうとは限らないようです。

私達技術者は専門分野の技術的な問題をどう解決するかを考えるのに頭が一杯ですから、「国益云々」の問題は難しすぎるのかも知れません。考えたとしても極めて素朴かつ幼稚な水準にあるのは止むを得ません。多くの技術者は両者の狭間に立たされているが、敢えて触れないでいるように思われます。一口に「国益」と云っても、「何が真の国益か?」と云う問題一つを取り上げても、議論百出で結論は仲々収斂しません。

国際協力機関が公表する Newsletter や紹介宣伝文は調子の良いことばかり書かれて居ます。誰も自分たちのやっていることには問題がある、間違っているなどと外部に宣伝する馬鹿はありません。私も地域国際機関の事務局に居たときは、「関係国に成功例とその効果を強調し、その機関の存在意義を宣伝していました。各国の技術協力機関の広報誌も自分たちのやっている仕事が如何に効果があがっているかを力説し「あれは失敗でした」と云う筈はありません。

しかし、本当の処、まず3割が成功、3〜4割がまあまあ、残りは失敗と云うのが国連機関も含め世界の平均的評価では無いでしょうか?なお、何を以て成功、何を以て失敗と見るかは価値観の相違によっても異なります。被援助国の政府は成功と評価しても、そこの民衆は「迷惑至極だ」と感じている場合もあります。

被援助国は内心「これは期待外れだ」と思っても受益側ですから遠慮して沈黙し、余程ひどい場合以外はクレ−ムをつけないので、実情は外部者からは分かり難い場合が多いのです。被援助国が内心「期待外れ」と思う場合、その政府が思うのであって、その国の民衆が思うのではありません。

最近日本が経済大国となり、被援助国側の期待も膨れ上っていますが、事態の変化が余りにも急速だったために、一言で率直に云うと『情勢の変化に追い着けず、日本の国際援助や技術協力の戦略や体制その他の基本的なあり方に対する検討も煮詰まらないまま対応している』のが実情で大変な苦労だと思います。

国の外交当局としては国際政策の一環として問題を把えるのは当然ですし、関係産業官庁や業界は止むを得ず、善悪は別として『魚を獲らせて貰う見返り』と云う打算があります。派遣体制の改善、派遣母体と被派遣技術者との意識の差、国による価値観の相違に対する考え方、など限りなく問題はありますが、本当の意味での日本の国際化やグロ−バルな視点の確立と云った論議の中からこの問題に対する本当のあるべき姿も次第にハッキリして来るだろうと期待はしているのですが。

欧米諸国や国連機関などが問題にどう対処し、ある面で成功したのは何故か、また他の面で失敗した原因は何か?を分析することは国としてこの問題を考える際極めて有益ではないかと私は常々思いますが、今はこの問題には触れず、私のささやかな経験から強く感じた二つの点を挙げてみたいと思います。

私が海外に於ていろいろな立場で痛感したことの一つは、欧米諸国が相手国または対象地域に関する民度・宗教・国民性・生活習慣と言った一般的な事柄は云うに及ばず、問題の技術的分野の水準や情報を如何に沢山持っているかと云う点でした。しかも、現在または近い将来役立つだろうと云う物だけでなく、分かったこと、経験したことは何でも記録し出版されています。違った価値観に立脚した異文化を持つ多くの植民地と永年対応してきた経験から重要性を皮膚で感じ、その感覚が継承されているのかも知れません。英国が世界の大多数の国に置いている British Council などはその典型例です。

勿論彼等の情報の中には特殊な条件下でしか利用できず、一般化して適用できるものばかりではありません。また情報は利用の仕方によっては善にも悪にもなりますから、情報過剰はマイナス面をかえって増幅することもある訳ですし、また情報内容が自国の、または個人の独断や偏見に過ぎる場合もあり、議論のある処です。情報を多く持っているから援助や技術協力が成功するとは限りませんが、その重要性は論をまちません。勿論情報が正しく利用された時の話ですが。

米国がかつて援助や協力に多くの経費と努力を費やし情報も沢山持ちながら相手国から内心では嫌われていた例が沢山あります。自分たちの方法がベストだと過信し、相手国の心理を無視し無暗に押しつけたからです。このような状況の下では技術的にも成功する筈はありません。しかし情報が如何に大切かは現地では誰もが痛感します。率直に云って日本の持つこの分野での海外の情報量はそのような議論をする余地の無いほど欧米に較べて少ないように思われてなりません。

現地にいると日本からの視察団やプロジェクトの可能性調査団から意見を求められる機会が良くありますが、多くの場合、第一頁から実態の説明をしなければなりませんでした。国際援助・協力のための情報不足だけでなく、その収集・管理・利用のシステムが弱いと云わざるを得ません。

もっとも、現地で最新情報を聞くのが最も手っ取り早いと考えたのかも知れませんが、現地にいるから正しく実態を捉えているとは限りません。専門馬鹿や灯台もと暗しと云うこともあります。

現地で仕事に携わっている人々は現地の社会の歯車の中で四六時中仕事に追われているのです。任務の一つとは言え日本から来た視察団への説明ばかりに多くの時間を取られるのはかなりの負担です。説明を求めるだけでなく論議の場でなければなりません。そのためにもかなりの情報を事前に持ち検討結果を携えてくる調査団でなければならないと思います。

日本は情報化社会に入ったなどと良く云われますが金儲けだけの情報化なのかと思いたくもなります。情報の整備・分析体制は改善の兆しはありますがまだ程遠い感じがします。官・民を問わずもっと問題意識を持って貰いたいものです。

次に感じたことは良く指摘されることですが、現地で協力に携わっている人の身分の安定性に就いての問題です。官庁の研究所、大学、会社の技術職員は一般に2〜3年を超えて海外に出ると原職に復帰できなくなる場合が多いため、やっと現場の事情が分かりかけたころ後ろ髪を引かれる思いで帰国するか、4〜5年を超えた人は日本に帰って中途半端な立場で冷や飯を食わされる位なら今の任期が終わった後、次の仕事の保証もハッキリしないまま、一層のこと国際協力を一生の仕事にするかどうかの人生計画上の大決断に迫られるのです。

この点では欧米とは異なった雇用制度の風土の中にいる日本人にとって大変苦しい問題です。カバン一つで気軽に本国と行き来している欧米人とは全く事情が違います。

先日、FAOの仕事で本部を4年ぶりに訪れましたが、水産局の日本人は僅か一名に減っています。世界一の水産国としてこれは異常としか思われません。国際協力はお金だけの問題ではありません。優れた人こそ大切です。そのような人が気軽に技術協力に出て行ける体制にすべきでしょう。国際化を云うのならこれらの面でも抜本的な制度や運営の確立が望まれます。

昔、水産立国などと云われた日本の水産業も今では暗いニュ−スが目立ちます。しかし、技術面では各国が日本の援助に大いに期待しています。これに答えるのは長い目で見れば日本の水産業にも必ず役立つものと信じています。

−完−

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