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 水 産 雑 記  

(その1)

(念のため「先ず更新ボタン」のクリックをお勧めします)

PDFファイルは下記のサイトから無償の Acrobat Reader 最新版の Download をお勧めします

水産全般や水産の研究・國際技術協力などの話題を思い付く侭に書き綴りました。

水産雑記の続き(その2)はここをクリックして下さい  

真道 重明

目 次

「水産」という言葉の由来 (日本で定義され中国に逆輸出された語) 
水産・水産業・漁業の各言葉の中国における用法 駱肇蕘の論説 ☆[寄稿]
Fstat Plus (FAO Online 世界水産時系列統計)
戦前の以西漁業簡史 (操業形態、漁場、漁獲量の変遷)
水産統計と漁業管理  ☆ 山本 忠氏の「私の人生記(前編) ☆ [寄稿]
世界の漁業と水産統計 ☆ 山本 忠氏の「私の人生記(後編) ☆ [寄稿]
國際漁業学会(JIFRS)の紹介 (研究会を学会と改め組織を全面的に強化)
日本国内の水産関係WEBサイト集 (1180個のサイトを収録。第2版)
米軍占領下の沖縄訪問 (1951年「琉球に於る水産研究事情調査」の想い出)
1957年の訪中記 (建国直後の中国水産業の実態とその後の交流)
日韓漁業共同委員会の始動 (1966年日韓国交回復直後の韓国での経験)
トウマン・プラ (タイ国の伝統的ねり製品、淡水魚の薩摩揚げ)
西海区水産研究所創設時の経緯 (西水研50年史の記事をDigitize して再録)
苦渋に満ちたSEAFDECの創立 (崩壊危機に直面した創立直後)
最近のSEAFDECを巡る座談会 PDF 日本水産学会のホームページから再録)
中国老教授協会の海洋分会設立総会に出席して  (1995年10月)
自著文献リスト (1947 - 2007、真道重明の著作文献リスト)
中国の新漁業法の発布とその背景  (Digitized、中国水産業の将来)
アジアは世界の水産業の中心となった (20世紀後半期の大きな様変わり)
20世紀後半における世界の漁業生産の動向 (解像度 800x600の閲覧を推薦)
統計から見た中国の水産業 PDF です。Acrobat Reader でご覧下さい)
「メガロッパ」になった.やったー (敗戦で埋没しそうになった卒論)
計算機との付き合い半世紀  ☆山中一郎氏の寄稿エッセイ☆ [寄稿]
西海区水産研究所の呼び名 (「せいかい」それとも「さいかい」?)
上海水産大学92年の歩み (激動社会を克服。校慶90年の校史と感想)
東海水産研究所と老朋友 (研究所の歴史・友人・想い出の印譜)
「トロ箱」の語源 (NHKの「日本人の質問」に顔を出した話)
現役時代の回顧と感想 (研究所現役時代の仕事を振り返って)
増養殖への期待  ☆ 林 繁一氏の寄稿エッセイ ☆ [寄稿]
中国水産業の概要(1995) (PDFです。Acrobat Reader で。英文からの抄訳)
母校の戦前の留学生 (出会いと再会、その後の消息)
最初の訪日水産留学生(上海水産大学前身校を設立した人)
魚博物学と魚文化録の紹介 (古典から現代迄の魚の文献。中国文)
國際技術協力の問題 (私の体験に基づく感想)
スタノボイと雲鷹丸記念歌 (懐かしい母校の練習船に纏わる疑問)

水産雑記の続きはここをクリックして下さい  

 

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JIFRS

國際漁業学会(JIFRS)の紹介

2010/NOV./10

1980年に活動を開始した「國際漁業研究会(JIFRS)」は創立後既に30年の歳月を経過しました。その間に於ける内外諸般の状況の変化に鑑み、本会を大幅に見直し、更に多年の念願だった組織の強化を行い、日本語の名称を「國際漁業学会」と改めて、来春(19114月)から新発足することになりました。英名略称のJIFRはその侭継承)。

新ホームページの担当は 近畿大学水産学科JIFRS事務局の多田稔局長です。

新しいホームページは下記の通りです。

http://www.jifrs.info/

 

【私(真道)は國際漁業研究会時代の初期ホームページ担当者です】

                       ご感想やご意見はこちらへ

 

 

以下お馴染みの閲覧者各位の「懐かしいご記憶」もあろうか?と思い、従来の研究会の歴代のエンブレムやホームページのトップ画面や一部内容などの変化の経緯を此処に述べました。

 

旧 國際漁業研究会のエンブレム

 

以下は最初のホームページのトップ画像と説明です。

國際漁業研究会(JIFRS)世界の漁業を国際的視野の中で、出来るだけ中立的立場で眺め、その中で日本の漁業のあるべき姿を考えようと大学、研究所、官庁、水産業界の海外業務経験者、関連団体、国際機関での勤務経験者などの有志によって1980年に発足し、日本の漁業経済研究の推進に努めて来た任意団体です。私もその会員の一人です。関心のある方は是非ご参加を希望して居ります。

JIFRSホームページ(2002 - 2006)のTOP画像

 

この研究会のホームページは2006年6月末日に従来の形式のホームページを閉じ、ZOOPS ( pHp 言語による新しい形式)のホームページに移行しました。このサイトは全世界を対象に英文を基本にしていましたが、現在は殆ど使用されて居ません。

 

JIFRSホームページ(2006 - 2010)のTOP画像

このページーを見るには下記のURLをクリックして下さい。

http://www.jifrs.org/

開くと右下の最下欄に「OLD JIFRS Pages」が在りますから、此処をクリックすると旧JIFRS(日本語・英語)の内容(一部は削除)を見ることが出来ます。

冒頭で記したように、此れらのホームページは2011年には閉鎖され、冒頭に記した「國際漁業学会ホームページ」に統合されます。

 

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SuisanToiuYiogo

「水産」という言葉の由来

中国古典の「水産」と日本で新しく定義され中国に逆輸出された語

2001/11/12 改訂

真道 重明

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「水産」という言葉を私達はふだん何気なく使っている。50年来の中国の老朋友である駱肇蕘教授から、「水産」という言葉は「経済」・「主義」・「生産」・「資本」などの言葉と同様に、先ず日本が使い始め、近代になって中国がそれらの言葉を中国語として取り入れ、中国でも常用される言葉の一つになったように思われる。日本では何時頃から使われ始めたのだろうか?という私宛の質問があった。これが端緒となって、このような問題には全くの素人である私は、諸賢に請いご意見を伺った。以下はその概要である。


 

「水産」という漢語は中国の古典に見られるが、中国ではこの語は歴史的にも一般用語として使われることは無く、その概念も昨今われわれが使うものとはかけ離れ、「淡水中に生きているもの」といった意味のようである(駱肇蕘教授と真道の往復書簡に依る)。 日本では「水産」という言葉は明治期以前の文書には見られず、「水産」いう言葉が使われ始めたのは1870年代後期の明治時代に入ってからである。

「水産」の語が政府機構の部署名や書籍・文書などに最初に現れた例としては、1877(明治10年)に「政府は勧農局に水産掛を設置」、1879(明治12年)の文書に「水産志料」、1880(明治13年)には「政府は水産課を設置」、「中外水産雑誌」などの「水産」の語が見られる。したがって、今までに判明した限りでは、「水産」の語が使われ始めたのは1877年から1880年頃ではないかと思われる。

「何時?何処で?誰(特定の個人、もしくはグループ)が?」どのような意図で使い始めたかを明言することは出来ないが、明治14〜15年に大日本水産会が年一回開いていた「大集談」と呼んだ会議での講演記録の中に、松原新之助氏が[中国の詩経か山海経に記載されていた「水産」の語を見付け、それまで日本で「魚介類や海藻を採捕したり養殖したりして収入を得る仕事」に対し、「水産」と言う語が「近代化された新しい産業の一つとして育成するのに「打って付けの言葉」と考え、この語を使うことにした]という意味の記述があるという情報は興味深い。同記録が出版されたのは1882年ごろで、同講演内容は先年を振返って経緯を述べたものであり、年代的にも1877を指すものとしても矛盾はないと思われる。

 本題ではないが「水産」と「漁業」の語はどのように使い分けられているかについては、関連した用語問題として多くの意見が寄せられた。辞書などでは「漁業」、「水産業」、「養殖」、「養殖業」などの語はあるが、「漁撈」(漁労・ぎょろう - 魚介類や海藻などをとること。また、その作業。三省堂 大辞林より)の語はあっても「漁撈業」は見当たらない。また、「漁業」と「水産業」は同義語としているものも多い。一方、「漁業と養殖業を総称して水産業という」と説明しているものもある。この場合「漁業」は「漁撈業」、すなわち捕獲漁業を指している。

 中国では法規などから見て、「漁業」=「水産業」=「捕撈業 + 増養殖業(種苗放流を含む)+ 水産加工業 + 水産関連第3次産業」としている。中央政府の農業部(農業省)では、従来の水産総局や水産司に換えて、数年前からは漁業局の名前を使っており、文書では「水産」の語もよく使われている。漁業と水産業は同義語と見てよい。

 日本の行政や法規では「水産業とは漁業及び漁業生産物の加工、製造の業を総称する」、「漁業とは水産動植物の採捕または養殖の事業をいう。」(漁業法第2条)としている。漁業法では、漁撈という語は使わず採補としている。漁撈という語は、漁業法体系下の規制条項には出てくるが、漁業という事業中の一部の行為として位置づけられている。養殖漁業」という用語を使う人があるが、「水産動植物の養殖業」が正確だと考える。最近使われる「栽培漁業」についての法律用語はあるが、「水産動植物の増殖事業」とは一応区分されており、また、「資源管理型漁業」という用語は法律上は使われていない。

(日中農交・理事兼水産部会長 真道重明 2001/05/14 記)

【謝辞】 「水産」の語については次の方々(あいうえお順、敬称略)から数次に亘りご教示を給りました。赤井雄次、秋山博一、有元貴文、井上和夫、平沢豊、深野紀男、本荘鉄夫、武内信能、多屋勝雄、林繁一。心より厚く御礼申し上げます。

 


追 記

(1)

山中一郎氏から大漢和辞典(簡野道明編)に『東南之人食水産 西北之人食陸蓄』の句が在る。出典は「博物志」 (年代不明)との情報が寄せられました 。これは同氏と内橋潔氏との対話の中で内橋氏の指摘だったそうです。日本海区水研連絡ニュース No 134, 1962,7 所載とのことです(2003/04/02)。この情報に基づき、真道が中国の幾つかのホームページを探しましたら次のことが解りました。

張華 『博物志』 (232〜300)。「東南之人、食水産、西北之人、食陸畜」「食水産者、龜蛤螺蚌以爲珍味、不覺其腥燥也。食陸畜者、狸兎鼠雀以爲珍味、不覺其壇也」

ただし、燥と壇の漢字は「にくずきヘン」で常用漢字にはありません。ここで言う「水産」は主に淡水産の可食種の意味で使われています。螺はタニシ、蚌はカラスガイのことだろうと思います。[真道、2003/04/12]

 

(2)

野中忠氏から「用語「水産」の創使に関して下記の情報が寄せられました (2007/11/17)。すなわち:−

日本常民文化研究所編(1955) 「常民文化研究第73、日本漁民事蹟略」、同所発行,215+108pp.の田中芳男の項(111頁)に「本邦水産なる語は芳男の創使と云ふ。(水産の語は張華博物誌に出ずるも之迄使用者なし。)」とあるそうです。

野中忠氏に依ると、上記の原典では典拠として「水産ニ十年史」、「明治大正水産回顧録」、「水産界」、「大日本人名辞書」などが一括併挙されているので、野中忠氏はその何れかは調べて居ないとのことです。上述本文の「松原新之助氏」の話より一層具体的な情報のようにも思われます。

此処に出て来るという人は真道が Web で調べた結果、日本で初めて理学博士となった人だそうで、1856年(17歳)、伊藤圭介の門に入り本草学などを学び、1862年(23歳)、幕府の蕃書調所(のちの開成所)に出仕する。圭介の伴をしてシーボルトを訪ねて居り、また開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探求した碩学である。1866年(28歳)、幕府よりパリ万国博覧会への出張して居る。

1870年、物産局(後の勧業寮→農商務省→農林省・商工省通産省)を創設した人。1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力、また、1881年、大日本農会(現在の大日本農学会)、1882年、大日本水産会と大日本山林会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した大先達とも言うべき人。

男爵 田中芳男の「水産」という語の創始に関し、貴重な情報を寄せて頂いた野中忠氏に感謝を申し上げたい。

「田中芳男」      [真道、2006/11/17]

 

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トウマン・プラ 

−これは旨い。ナギナタナマズのさつま揚げ (タイ国)−

 

真道 重明

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(1998年11月 記)

私が前後11年間にわたって技術協力のための国際機関に勤務したタイ国では、日常食べる伝統食品の1つに「トウマン・プラ」とよぶさつま揚げの一種があります。材料には「ナギナタナマズ」という淡水魚が使用され、海産魚を材料とする日本の薩摩揚げとは一風変わったものです。この「ナギナタナマズ」と言う魚は日本には棲んでいません。この独特の薩摩揚げを簡単に紹介しましょう。

まず、この名前の意味ですが、トウは中国語の「炸」に当り、熱い油の中に入れて揚げたもの。マンはナンマン(油)の略で、トウマンは一般に油揚げの意味、プラは魚、したがって単に「油で揚げた魚」ということになります。しかし、魚を揚げた料理は、もちろん、他にも沢山あり、それぞれの名前が付いていてます。「トウマン・プラ」の語は、元来、単に「魚を揚げたもの」という意味なのに、ここに紹介する「ナギナタナマズの薩摩揚げ」だけを指すことからみても、きわめて普遍的な食品であることがわかります。

元来、タイ料理の味付けは甜(ワーン、甘い)、鹹(ケム、塩辛い)、酸(プリャオ、酸っぱい)、辛(ペッ、辛い)の四味の外にも(コム)と言う、例えばニガウリなどの「苦み」、バナナの花芽などの「えぐい味」など様々な味が一品の料理に混在し、複雑な味覚を持つのが特徴です。

ラーメン(かけ、すなわち汁ラーメンは「バーミー・ナム」、盛り、すなわち冷やしラーメンなどのように汁の無いものは「バーミー・ヘン」と言います)。ちなみに、話は逸れますが、この「ミー」と言うのは麺類のことで、中国語の麺(ミェン)が訛った物では無いかと思いますが、良くは分かりません。長崎ちゃんぽんは「フッケン・ミー」と呼んでいます。しかし、元来中国語の麺は小麦粉を材料にした物に限ります。米の粉を材料にしたビーフンをタイ語では「セン・ミー」と呼んで居ますから、ミーと言うのは日本語の「うどん・そば」に当たる言葉かもしれません。更に蛇足を付け加えると、中国語の麺はパスタの意味で、餃子・包子・饅頭(マントウ)なども麺です。「うどん・そば」の様な紐状の物は麺条と条の字を付けます。

話を戻します。タイの大衆食堂には食卓の上には必ず砂糖(ナム・タン)、大型の赤唐辛子を刻み込んだ酢(プリック・ナム・ソム)、魚醤油(ナム・プラ)と更に小型の赤唐辛子(鷹の爪のこと、プリック・キー・ヌー、意味は鼠糞の唐辛子)の粉末、処によってはピーナッツの四点ないし五点セットの容器が置いてあり、客は好みによって小匙で少しずつ加えて自分の好みに調合しながら食べて居ます。おまけに、多くの生香辛料を使うので、その味は始めての日本人には何とも言いようがないぐらい濃厚で、おまけに辛くて口中が火事になったように感じます。しかし慣れて来ると日本のラーメンなどは何とも薄味で味気なくガッカリします。

さてこの「トウマン・プラ」ですが、形や大きさは日本の薩摩揚げと見た目では殆ど変わりません。魚肉のスリ身に野菜と生香辛料を混ぜ、平たく円い団子にして揚げます。この材料になる魚は日本にはいない、ちょっと変わった形をしたナギナタナマズという魚の仲間のうちの一種で日本名はありませんが、学名をNotopterus chitala、タイ語では「プラ・クライ」 と呼ぶ種類が一番上等で、食べるとき中身が淡紅色なのですぐ判ります。というのも最近では減ってしまって、他の種類や海産魚を原料に使った偽物が多く、この方は中味が白色です。最近では安価な偽物の方が多くなり、淡紅色の本物は滅多にお目に掛りません。

食べるときには酢、唐辛子、砂糖を混ぜた「付け汁、すなわちソース」に扇状に刻んだ胡瓜を混ぜた小皿が必ず出て来て、これを付けながら食べます。一杯飲むときの酒の肴にもなり、食堂などでは先ず最初に出てくる定番の「突き出し」の一つです。日本のタイ料理屋にもありますが、辛味と香辛料が減らしてあり、原料となる魚も日本の海産魚ですから本場の味ではありません。元来、タイ料理では西洋料理のケチャップやウースターソースなどのようなソースの種類が多く、料理の一品毎に組み合わせが決っているのです。これを間違えると「それは駄目、合わない」と注意されます。

他国の人々にとっては必ずしも名コンビとは思えない組み合わせもあるのですが、やはり子供の時からの味と言うのか、お袋の味と言うのか?頑強に固執して居ます。本物の「トウマン・プラ」はなかなか美味しいものです。なお、タイ国のねり製品としては、この外に中国系の漢字で「魚丸」と書きタイ語では「ルーク・チーン・プラ)と呼ぶ魚団子が一般的で、揚げたものや茹でたものがあり、ラーメンの具に良く見かけます。

此処ではタイ語を片仮名で書きましたが、5声調・長母音・短母音・有気音・無気音・サイレントなどの在るタイ語は仮名では正確には表記出来ません。仮名通りに呼んでも通じるか否かは保証の限りではありません。

 

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西海区水産研究所

創設時の経緯

真道 重明

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以下は「西海区水産研究所創設時の経緯と初期の底魚調査」と題して同研究所の 「50年史」、(水産庁西海区水産研究所.記念号、1999年 p.58-.67)に掲載されたものの再録です。


内   容

はじめに

1. 西海区水産研究所創設時の経緯

1.1 西海区水産研究所の前身となった組織

    当時の職場の雰囲気と生活  

1.2 西海区水産研究所設立の準備時代

    経過組織の確立

2. 初期の底魚資源の調査研究

2.1.研究組織の変遷

    発足当初の活動内容機構と調査方法の改革

2.2 以西漁業資源保持対策委員会の発足と網目規制の開始

    資源保持対策委員会の発足網目規制の開始

2.3 調査研究上の問題点と国際漁場としての問題

    調査研究上の問題点国際漁場としての問題

おわりに


はじめに


私は西水研が創立された時、その前身母体であった農林省水産試験場長崎臨時試験地の時代(1948-1950,昭.23-25)から1971年(昭.46)まで、足掛け24年間を西水研で過ごした。日本の社会は敗戦の混乱期を速く脱して祖国の復興に向かって苦闘していた最中であった。


私がそれまで勤務していた天草の富岡にある九州大学理学部所属の臨海実験から移転して長崎にやって来た時の浦上一帯は、まだ原爆による一面の焼け野が原で、ようやく瓦のない板葺き住宅らしいものが建ち始めていた。日本はGHQ(連合国軍総司令部)の支配下と言う異常な事態にあったが、敗戦による占領下と言う未曾有の局面を乗り越えるために政府は新しい機構の構築に苦慮していた。

水産の調査・研究に関する政府機構の改革がどのように行われたかは、大局的な見地からは多くの説明がなされているが、資源調査の最前線に居た私は自身の体験を通じて理解した西海区の創立前後の経緯や当時の研究活動などの諸事情をこの機会に述べたい。

1970(昭.45)年に西海区水研は創立20周年(西海区と名称が改められた時点から起算)を迎えたが、その前年の秋、当時所内にあった「水曜会」に「以西底魚資源研究20年の歩み」を20周年記念事業の一つとして編集する提案をした。これは原則的な賛成は得られたものの、日常業務に多忙な同僚にはそれに割く時間がなく実現しなかった。

一方、これとは別に前々年から私が書き溜めていた2つの個人的メモ「西水研創立前後の経緯」と「西水研における底魚研究の変遷」が机中にあった。これらのメモは同僚諸氏の指摘や添削を受けて湿式複写機でコピーし、希望される所内の方々に配布した。前身母体である農林省水試分場の創設当初から居た私は、メモを残すことの意味や意義は別として、当時の経緯の記憶が将来忘れ去られることを恐れ、「何とか書き残したい」衝動に駆られていた。

以下述べる内容はこれらのメモを読み返し、半世紀に近い昔の記憶を呼び戻し若干修正しながら要約したものである。記憶や問題の理解に誤りもあろうし、独善的な解釈も多いかと思われるか、老骨の妄言としてお許し願いたい。迂闊にも書いた本人の私自身はこのメモを10数年に亘る海外の国際機関に勤務中に忘失して了っていたが、所員の中に保管して所持していた人々があり、先年、企連室のご厚意で再度入手できたことは望外の喜びと感激であった。ここに厚く御礼申し上げる次第である。

1. 西海区水産研究所創設時の経緯

1.1 西海区水産研究所の前身となった組織

冒頭に述べた20周年と言うのは、前身母体であった農林省水産試験場長崎分場(正式名称は長崎臨時試験地、俗に「長崎分場」と呼ばれた)を「西海区水産研究所」と呼び名を切り替えるようになった1950年(昭.25)の4月の時点から起算した場合の勘定であって、長崎分場が発足した1948年(昭.23)6月1日から起算すると実質的には22年目になっていた。

「10年一昔」の諺から言えば当時では二昔前のことだから、20周年目に居合わせた人々でも、新しい職員にとってはこれらの昔語りは「他家の家族写真のアルバムを見る思い」で興味が無かったかもしれない。しかし、当初からの職員であった私個人の心中には非常に懐かしい数々の想い出がある。1960年代の末期(昭.45年頃)には、これらのごく初期の諸事情を知っている古川三男・村上子郎・増田与(しげし)と言った方々は今ではすべて故人となられた。

農林省水産試験場長崎臨時試験地の発足:
長崎に農林省水試(当時は県水試に対し、中央水試と俗称されていた。後の東海区水研)の分場を設置すると言う考えは戦時中からあった。田内森三郎中央水試場長の構想は分場を全国に増設し機能強化を図ると言うもので、この案に各県は関心が高く、分場の誘致合戦が盛んに行われ、土地や建物も提供すると言う条件を提示していた。長崎分場もその1つであった。

しかし、その裏には敗戦直後の経済難で各県は県水試を維持する予算が無く、国立の分場ができれば県水試はそれと合体することによって運営費は国が持つことになるだろうとの思惑があった。長崎県もその例外ではなかった。後で簡単に触れるが、事態は県の思惑通りには進まず、最前線に居た我々はこの問題の板挟みとなり後述するように大変な苦労を強いられることになった。

事実、長崎県は土井の首にある水産高校とは別に、県下に水産専門学校(旧制)の設置と中央水試分場の誘致運動を戦時中から行っており、後者に関しては分場職員の宿舎建設の募金運動を県下の業界に呼びかけていた。ちなみに前者は大村にあった青年師範学校を昇格させて、現在の長崎大学水産学部になった。

農林省は1948年(昭.23)6月に長崎に分場を設置するための一連の人事を発令した。最初に集まった人々は、天草の富岡の九大理学部所属の臨海実験所内に設置されていた臨時試験地から村上子郎さんと小生、1日遅れて宮城県塩釜にあった塩釜臨時試験地(これは後に東北水研となった機関)から増田与さんの3名であった。日時はよく憶えていないが確かお盆の頃で7月中旬だったように思う。今は移転してなくなったが、旭町の桟橋近くにあった県水試の旧庁舎1階に用意されていた広い一室が臨時の勤務場所となった。どこの誰が分場長になるのかも未だ決まっておらず、3名は分場の職員であると同時に、本場の各研究室(研究室は今の水研の「部」に当たる)の所属でもあった。

生活費である月給は送られて来たが、前渡資金もなく、仕事上必要なものは各人が所属する東京の本場の研究室に伝票を送って買う始末、物品取り扱い主任を命ぜられていた私にとっては統制経済下にあるため、公定価格に違反しないことを証明する書類を揃えるなど、気が遠くなる程のきわめて面倒な手続きが必要であった。米や味噌を買うにも配給券が、外で食事をするにも外食券が必要な時代であったが、私は若さもあってそれほど億劫ではなかった。初めて買ったものは、村上さんと私が使う手回しのタイガー計算機と食品化学の増田さんの「すり身」攪拌用のアルミニュームの「すり鉢」であったのを憶えている。

分場長には3ヵ月ほど遅れて宮崎県水試の古川三男氏が発令され、着任されたのは同年10月頃と記憶する。分場長発令によって前渡金も送られるようになり、経理上も本場とは独立し、名実共に長崎分場となった。

しかし、このことが「県水試は国の分場と合併させる」と言う県側の思惑とは違った方向にことが進んでいると県は察知し、近いうちに同じ所帯となると予期していた県水試職員の我々に対する極めて好意的なそれまでの態度が急変し、同じ水産研究者としての私的な友好関係はあったものの、公式的な諸問題では我々と明確な一線を画す雰囲気に変わった。具体的に言うと、県水試の持つ全ての施設は分場に譲渡することになっていたが、倉庫1棟だけとする、居住する官舎は暫時の使用を認める、水試庁舎や調査船は譲渡しない、などである。県としては水試の廃止を取り止め、県水試存続の腹を固めたから当然の措置だったとも言える。分場長の古川さんはもちろん、我々もこれらの軋轢の板挟みになった。

新庁舎は県が責任を持って建築すると言う契約は実行されたが、計画では屋根瓦はあっても雨樋は無く、ガス・水道は引かない、しかも、建築資材は三菱重工業が戦時中に県財産を占拠して製図棟としていた建物を解体し、その廃材を利用する、外壁や内装は白木のままで塗装はしないなどで、研究機関の機能を果たせる社屋ではなかった。

物品取扱主任を命ぜられていた私は、事務官ではなく庶務的な仕事に素人であり、どうしてよいか切羽づまって、本庁に対して窮状を詳しく説明した手紙を何度も送り指示を請うたが明確な回答は無いままであった。たまたま、視察に見えた藤永元作(後の調査研究部長)氏から「予算に拘泥せず緊急に手を打て」と指示され、譴責は覚悟の上で、今から思えば随分乱暴な会計措置を取り、県と東京の間を駆け巡って何とか使える庁舎に漕ぎ着けた。これが国分町の今の庁舎に移転するまでわれわれが居た丸尾町の旧庁舎である。

その後8海区制に移行し研究部長の藤永さんから「あの時は決意して良くやってくれた」とねぎらいの言葉を受け、ホットすると同時に目が潤んだ。社会は闇市の横行時代で、物品取り扱いといっても備品台帳を作成する仕事から始まった。周りを見渡して、そこに在る物品を記帳して財産として登記し台帳を作った。中には舞阪の支所から送られてきた養殖池の設計に使う測量関係の機械、それも古くて役に立たないものまであった。どうしてこんなものが長崎に送られてきたのか今もって分からない。破損、使用不能、廃棄処分と記帳したものも多い。後で聞いたことだが、広島や日本海の香住などでも同じようなことが多くあったようである。

乱暴な経理といっても決して乱脈と言うのではない。そもそも予算があるから乱脈の余地があるのであって、何も無いに等しい時だったし、皆は真面目に組織を軌道に乗せる努力をしていた。このような時代だから私の乱暴な会計措置も、「研究所としてはガス・水道の敷設は必須条件であり、何としても絶対必要だ」と言う目的でしたことでもあり、不問に付せられたのか、一切問題視されなかった。本職の事務官である初代庶務課長の川島猛さんの赴任は西水研が発足した後の1951年(昭.26)である。庶務会計に玄人の川島さんには遡った問題の整理に苦労をお掛けしたのではないかと思う。

当時の職場の雰囲気と生活
上述のような仕事に追い捲られていたとは言え、本職の調査活動が放置されていた訳ではなく、毎日フェリーで対岸の大波止にわたり徒歩で魚市場に赴き、標本魚を氷水に入れたバケツを持ち帰って体長・体重・脊椎骨数や諸形態の測定を行っていた。市場から一人で重いバケツを大波止まで運ぶのには、何度も持ち替えねばならず、いくら軍隊帰りの若い私にもこれには参った。取り敢えず、天草から一緒だった村上さんと共に同じ調査手法を引き継いでいた。

3名から始まった職員も、月島の本場から化学の村田旭さんが加わり、用務員や女子補助員を採用して1948年(昭.23)の秋には総勢7名となりやや格好が付く形になった。同年末から翌年初めにかけて愛知県の新舞子にあった中央水試の試験地から後に長崎大学に転じた岡正夫さん夫妻が職員に加わり、月島の本場から増殖の田中弥太郎さんも加えて、研究勢力も徐々に増えつつあった。

当時の宿舎は西郷(その後に西町と改名)にあり、全員が電車で当時終点だった大橋から大波止まで、さらにフェリーで対岸の旭町に渡り通勤した。独身の私などは帰宅すると住吉にある市役所の支所に赴いて配給券を受け取り、西町の官舎まで戻りる途中で味噌や醤油を買い、一旦荷物を置いて今度は逆方向の爆心地に近い松山町の配給所まで取って返し、主食の米を入手、帰宅して夕飯を炊いた。今では電車の数駅に当たる距離を徒歩で巡り歩いた。若い私は何とかなったが、家族の到着が遅れて単身赴任状態の増田さんなどは大変だったろうと今になってつくづく思う。

職場での昼食はコッペ・パン(フランスのCoupeeではなく、麸を除かないままの小麦粉で作った味気ないパン)を噛りながらお菜は「山椒コンブ」(実はアラメの刻み煮)と言う何とも変な取り合わせで空腹を満たした。靴は軍靴の改造品、オーバーは軍隊毛布を染め直して仕立てた重いものを皆が着ていた。

1.2 西海区水産研究所設立の準備時代

経過
1949年(昭.24)に丸尾町の庁舎が完成し、これと同時に長崎海洋気象台から辻田時美・近藤正人・佐藤猛郎・浜田七郎・山下秀夫の5名の諸氏が大挙して加わり、分場は俄然賑やかになった。このころ中央では8水研構想が同年6月ごろから固まりつつあり、長崎分場は西海区水産研究所とい名前に近く変わるらしいことを知った。

私の保存している辞令書では1948年(昭.23)6月に「富岡臨時試験地勤務を解き,長崎臨時試験地勤務を命ず」、また1950年(昭.25)4月付けで「西海区水産研究所勤務を命ず。ただし、官庁名称変更による」となっている。したがって、私の理解ではこの間が中央水試の長崎分場時代と言うことになる。

正式に西水研となった1950年(昭.25)4月までには、分場長だった古川さんが辞められ、2月には東海区から大滝英夫・岡田立三郎・大滝英夫・花渕信夫の諸氏が西水研福岡試験地が発足、1月ばかり遅れて最首光三・池田郁夫・中島国重の諸氏が同じく東海区から赴任し下関試験地も発足、3月には水産局時代の研究課長であった伊藤 たけし初代所長が来られ、水研としての一歩を歩き始めた。

また、同年内には卒論を書きに来たアルバイトの青山恒夫・梶原武の両氏(卒業後は西水研の職員)、年末までには山田純三郎・篠山茂行・鈴木たね子氏の外、多数の地元女性職員も加わり、また、熊本水試から池松弥・東海区から田中弥太郎の両氏が参加(両氏は暫時長崎本所勤務の後、佐賀県の浜にできた浜試験地に赴任し、「3つの試験地を持つ水研」としての陣容は急速に整ってきた。

なお、長年活躍された真子 ひろし氏はこの当時から参加しておられたが、水産研究会の職員として水研駐在員の立場であった。記憶に誤りがなければ、同氏が正規職員になったのは1952年(昭.27)頃だったと思う。庶務関係の多くは略したが、山本史郎・塚原貢・小野原逸夫などの各氏はそれ以前から庶務課職員として仕事をしておられた。これらの多くの人々はその後長年にわたって西水研の有力な勢力となって活躍した人が多くご存じの方々も多いと思う。

同年(1950)秋に長崎で開かれた水産学会の秋季大会と時を併せて西水研の開所式典が行われ、名実共に西水研のお披露目が行われた。

組織の確立
長崎分場時代には職員数も少なく、部や課を編成するまでもなく、生物チームと加工チームに漠然と色分けされていたが、西海区水研と名称が変わってからは遠洋・沿岸・加工の3部に分けられ、辻田・村上・山田(紀作)の各氏がそれぞれ部主任に発令されたが、庶務会計は別として、各職員の所属はまだ定まらず、多くの論議の末、10月の開所式典にはほぼ所属が決り、「部主任」は現在水研で使用さる職名の「部長」と呼ばれることになり、官制上では一応の組織ができあがった。

問題は遠洋資源部と沿岸資源部の仕事の内容に齟齬が残っていた点であった。率直に言うと、天草時代から沿岸の浮魚の研究を続けて来た村上沿岸部長はよかったが、海洋気象台から移転してきた辻田部長は元来海洋環境に関心が高く、環境に支配されやすい浮魚と海洋環境の関連に興味が強く、一方、遠洋資源部は東海・黄海の底魚資源を調査研究を対象とする任務を背負っていた。両部長ともに浮魚の研究に頭が向いている状況は仕事の分担区分上好ましい事態ではなかった。

手元の辞令を見ると私自身は西海区と名前が変わると同時に沿岸資源部勤務を命ぜられ、同年末の12月には部が変わって遠洋資源部の生物第1課長を命ぜらたことになっている。なお、余談ではあるが、遠洋と言うのは不適当だとして「底魚」と名前が変わったのは、かなり後の1967年(昭.42)で、それより数年前、村上さんの南西海区の所長への転出の後を継いで1964年(昭.39)に私は遠洋部長を命ぜられていたが、底魚部長の辞令は1967年8月になっているから、この時点で部の名前が改められたことが分かる。

各職員も、例えば気象台から来た人々の中には、次項で述べる「赤箱調査」に参加した経験を通じて底魚に興味を持つ人もあり、事情は複雑であった。実質的に問題が整理されたのは遠洋・沿岸の両部長の立場が入れ替わった1958年(昭.33)頃、すなわち、底魚の調査が開始されてから8年ぐらい経ってからのことである。

これらは管制上の建て前の形式論で、このことが底魚調査の伸展に支障となった訳では全くない。下関・福岡の両試験地は底魚調査に邁進していたし、初期の8年間の遠洋資源部は西海区本所の科長(今の研究室長)や試験地主任との「集団合議制」を取って積極的に運営されており、この意味では遠洋資源部は底魚調査に精力的に活動していた。若い人達によるこの集団合議制は、今から思うと当時の新しい分野の仕事を始める部にとっては「柔軟で固定観念に縛られない」意味では非常に効果的であった。

2. 初期の底魚資源の調査研究

2.1.研究組織の変遷

当時、中央(農林省)の基本的な考え方は、戦後の食糧難を乗り切るには動物淡白源に関しては敗戦で壊滅した以西底曳網漁業を速く回復させること、それにはGHQの天然資源局からの示唆もあり以西底曳網が対象としている資源の状況を把握することにあった。

福岡にはいち早く水産局福岡事務所(駐在所とも呼ばれ、後に水産庁福岡漁業調整事務所と呼ばれることになった)が設置され、「資源状況の把握を主目的とした新しい統計組織」ができ、山本忠氏らの尽力で早くも1947年(昭.22)から「漁獲成績報告書」の収集活動を開始していた。

一方、資源生物学的な調査は同事務所内に設けられた(社)水産研究会の福岡分室を中心とする「以西底魚調査」が統計と並行してその翌年頃から始められていた。これは調査魚を入れたトロ箱が赤色ペンキで塗られていたことから、俗に「赤箱調査」と呼ばれ、下関第二水産講習所(現、下関水産大学校)、九州大学、長崎海洋気象台、長崎県水試などが連合して行なっていた。

これから見ても、当時、予算も碌にない政府が以西底曳網漁業の回復とその対象となる資源の調査を如何に重視していたかが分かる。新設の西水研も早速その一環に加えられたが、遠洋資源部が業務を開始した1950年(昭.25)10月に「赤箱調査」は廃止され、その総ての活動は西水研が受け継ぐこととなった。

「赤箱調査」は東海・黄海の底魚資源調査の先駆的なものとして評価されるが、組織が「弱い連合体」であり調査方法にも計画性や統一性がなかった。西水研に引き継がれてからは、下関・福岡の試験地と本所の遠洋資源部の各科が近代統計理論に基づく「統一的な多段抽出法によるシステマテック・サンプリングによる水揚げ港魚市場での魚体測定の調査」に踏み出した。

発足当初の活動内容
西水研発足直後の機構を見ると、遠洋資源部長の下に生物第1科、同第2科(本所)同第3科(下関試験地)、同第4科(福岡試験地)、また、生物以外では、本所に統計科と船舶科があり、計6つの科が設けられ、西水研全職員数の約半数がこの部に所属していた。中央の意向通り如何に以西底魚調査に重点の置かれた体制が組まれていたかが分かる。

体制が一応できたとは言え、資源調査をどのような方法で進めるか?は大問題であった。資源解析学や標本調査法など誰も学校では習っていなかった。戦時中から少数の研究者は独自に、またはJournal du Councilなどを読んで研究を始めてはいたが、微々たるものであり、「乱獲」の概念とは理論的には何なのか、総ては未知の分野の研究を「学習しながら実践する」状況であった。「推計学」と言う言葉が流行り、皆は必死になって増山氏の「少数例の取り扱い方」などを読み、私もE. S. Russellの「濫獲の問題」をCambridge大学Pressの許可を得て和訳し水研から出版したりした。乱獲と書くのに当時はこんな漢字を使っていた。

この拙い訳の冊子は、自分から言うのもおこがましい限りだが、各水研や大学からの引き合いが多く、瞬く間に出払ってしまうと言う時代であった。教科書などは全くなく、測定器具や集計法など、何ごとも暗中模索しながら調査計画を立てた。多段式標本抽出のシステムも、数理統計に詳しい九大の北川敏男教授に数次来て頂き、部内の各科合同会議で原案が作られた。

調査研究には魚種別担当制が採用され、重要種7種が各生物科に割り当てられ、この他に生物第1科と船舶科が網目試験を、統計科は標本調査の推進と結果のチェックを受け持っていた。1950年(昭.25)には公式の技術報告と共に、ガリ版刷りではあったが「底魚資源調査連絡」(誌)の発刊が開始されたし、また、調査研究活動の諮問機関として本庁・九大を始めとする幾つかの機関の代表者からなる「以西底魚資源調査協議会」ができ、初期の5,6年間はこれらから批判や検討を受け、その意見などを参考としながら仕事が進められた。研究活動が軌道に乗った1955年(昭.30)頃になってこの協議会はその任務を終えて解消された。

初期の3,4年間の労力の過半は上記重要魚種の体長組成・年齢査定・形態や生殖腺と言ったDataの蓄積に費やされた。早朝未だ月の見える時刻から魚市場に赴き、一番揚げの船の標本魚箱の測定を終り、二番揚げの船の測定も行う時などはすでに夕刻となり、再び夕空に掛かる月を見る、すなわち、15時間もぶっ通しで氷にまみれながら寒風の中で数人が蹲りながら測定作業をやった。皆未だ若かったからできた話である。始めの頃は「鮮度が落ちる」といって嫌う漁夫や仲仕の人々もいたが、「任務とは言えよくやるなー」と映ったのであろう。次第に協力的になってきたことを憶えている。

齢70歳の半ばとなった私から見れば、大げさな言い方だが、血の出るようなこれらの苦労の結果は1951年(昭.26)から翌年にかけて「以西底魚資源調査報告」として4回発刊されている。現存する職員で当時を経験しているのは当時未だ新入りだった山田梅芳氏位ではなかろうか。

機構の改革および研究の発展に伴う調査方法の改変と研究課題の拡張:
前項で述べたように、生物調査のDataが次第に蓄積してくるにつれ、労力が魚市場での測定に偏重していたため、本来の目的である漁獲統計や生物統計のDataの解析に割く時間がなく、約1ヵ年の検討期間を経て、1954年度(昭.29)からは市場測定に替えて「魚体の大小銘柄別」の統計を基礎に、比推定方式で銘柄組成を体長や年齢組成に転換する方法に切り替えた。数年にわたる魚種別・漁場別の膨大、かつ詳細な測定結果があったからこそ、この新方式が可能となった訳である。

後年、英国のロストフの研究所で北海の底魚資源を研究している人々が西水研を訪問した際、「北大西洋で行っている自分達の漁獲統計や生物統計が世界一と自負していたが、日本でこのような我々以上に詳細なData収集組織が行われているとは驚きだ」と舌を巻いていた。事実、日本の資源調査研究の草分け期であった当時、西水研の底魚調査に関するData収集や研究体制は、他の研究機関に較べ段突に整備されたものであったと言える。

なお、前項で述べた機構は発足初期のもので、船舶科は部の改正により1958年(昭.33)に沿岸資源部に移行して漁具漁法科と改名され、また、1962年(昭.37)には支所・試験地などの統廃合と言う中央の指示で、福岡試験地が廃止されて本所に吸収され、その翌々年には「科」が「研究室」と呼ばれるようになった。1963年(昭.41)には下関支所が設立され、底魚を担当していた遠洋資源部の第3研究室は支所の第2研究室に移行し、新たに日本海南西海域から対馬海域にかけて操業していた沖合底曳網漁業が対象とする底魚資源の調査研究も手掛けるようになった。先に記したように、その翌年には部の名称が「遠洋」から「底魚」に変わった。

その後の経緯の詳細はご承知の方も多いと思われるので、ここでは省略する。ただ言えることは、所の半数近くの職員を投入して開始された最重要課題であった東海・黄海の底魚資源の研究は、発足から20年経過した時点で当初の約半数に近い20名弱に減ったことである。私が西海区を離れて東海区に転勤した1971年(昭.46)以降、この傾向は一層加速され、50周年直前の現在では底魚資源と名の着く研究室の職員数は僅か数名を数えるに過ぎないと聞く。この問題に関連する広い視野から見た愚見は最後の項で触れたい。

2.2 以西漁業資源保持対策委員会の発足と網目規制の開始

資源保持対策委員会の発足
以西底曳網業界では、戦後に操業が再開された1947年(昭.22)から起算して10ヵ年を経過した頃には、総生産重量は依然として増加の一途をたどってはいたが、初期の数ヵ年に較べると同じ漁獲成績を挙げるには漁場選定や魚群探査により多くの努力や改良された計器を必要とし、漁具改良にも腐心せざるを得なくなってきた。資源の悪化は単に研究者の指摘だけではなく、漁夫は勿論、業界全体が身をもって感じ取っていた。

このような雰囲気の下、1959年(昭.34)初期には業界代表者との間に「資源問題懇談会」が持たれ、同年秋には業界内に「以西底曳網資源保持対策委員会」の設置が決められ、それまでの水研と業界との間の不定期非公式な懇談会に替えて定期的に開催され、必要に応じて行政当局も参加する形になった。
この委員会の発足で水研側は資源の現状についての見解を繰り返し述べ、その見解は業界内にもかなり浸透していったことは次項で触れる網目規制が業界の自主的な意志によって開始されたことからも分かる。

網目規制の開始
網目規制の効果に関しては水研側はかなりの年月をかけて種々の角度から試験と研究を蓄積していたから、上記の委員会の数次の開催によって、業界は1964年(昭.39)の秋からそれまでの平均30数mmのコッド・エンドの目合を54mmに拡大することを決めた。
この措置の必要性を水研は何度も上申したが、行政当局は「業者が応ずる筈はない」と考え、きわめて冷淡であった。業界の自主的な意向であることが分かってからでさえ、何度も福岡で公聴会を開き、ヤット重い腰を上げ規制措置をとったと言うのが真相である。
当時の知識から見れば、網目規制措置は資源保護のために有効であると言う理解は官民一致していた。業界はそのための保証を一切求めてはいなかったにも係わらず。行政側が逡巡、よく言えば慎重だったのは、「仕事が増えて問題が面倒であることを嫌った」からではないかと思われる。

また、私が最近に驚いたのは、以西の若い船長が「魚がこんなに捕れなくなるとは誰もが思いもしなかった。先輩からも聞かなかった」という発言をテレビでごく最近に放映されたのを聞いたときである。科学的判断の成否は別として、数10年前に上記委員会であれほど熱心に業界と研究者間で論議された問題は今では忘却の彼方に置き去りになって了ったのだろうか?

2.3 調査研究上の問題点と国際漁場としての問題

調査研究上の問題点
北海などで行われている底魚資源調査の先進経験などを手本に、今から50年前に手探り状態で開始された東海・黄海の底魚資源調査研究も一応軌道に乗り、20年と言う歳月を費やして研究が進むにつれ、多くの疑問点や問題が意識されるようになった。当時は未だ以西の総生産は上昇を続けており、一方、努力当り生産量は多くの魚種で明らかに減少する傾向が観察されたが、生産現場の漁夫の「魚が非常に捕り難くなった」と言う訴えとわれわれの調査が示す診断結果との間にはかなりのギャップの存在が直感された。

漁船の漁獲性能は船体の大型化、馬力数の増大、計器類の改良などにより年々着実に向上しており、それに伴う努力量の補正が不充分なために資源の諸指数が正しく資源実態を反映していないのではないか?と言う疑問はその最たるものの1つであった。しかし、その実際の補正作業は、本邦でも希に見る詳細な統計を持つにも係わらず膨大な計算を要し、電算機の未発達な当時では大変な作業であった。

定量漁探による調査も開始されたが、これにも議論が百出し、まして多魚種資源の解析理論などは模索状態を出ていなかった。魚種交代などの大きい魚種組成の変動が見られる浮魚類とは異なり、底魚に関して得られた知見は当時の水準の理論モデルによく沿ったものではあったが、漁獲と資源指数の関係などは決して満足する形ではなかった。

次項で触れるように、今にして思えば「日本側の資料だけで自己完結的に問題に対応していたこと」が生産現場で働く漁夫の人々の「捕れない」と言う感覚と、われわれの調査結果からの資源状況についての診断の「ずれ」の主原因の1つだったのではなかったか?と思う。

国際漁場としての問題
東海・黄海は日本・中国・韓国そのたの出漁する國際共同漁場である。われわれが調査を開始した当時、韓国は独立国家としての体制を整備中だったし、半植民地状態を脱した中国は国共内戦の最中であった。韓国は1952(昭.27)1月に李承晩ラインを宣言、一方、その3ヵ月後の4月に以西業界の悲願であったマッカーサー・ラインがGHQの命令によって撤廃され、3年後の1955年(昭.35)には新しく建国された中華人民共和国の中国漁業協会と日本の日中漁業協会との間に「日中民間漁業協定」が締結されると言った時代であった。

したがって、これらの国は当時われわれが開始したような組織的な資源調査を実施する状況にはなかった。長年かかった日韓漁業会談は1965年(昭.40)になって何とか政府間協定の締結に漕ぎ着け、その翌年には同協定の下に「科学小委員会」の設置が決まり、漁獲情報の交換が取り決められたが、我々が調査を開始した時点から起算するとかなりの長期間にわたって「東海・黄海の中国や韓国の底魚生産の情報はきわめて大雑把で、とても資源解析に耐えるDataは得られなかった」と言ってよい。

多くの日本人は戦前の中国沿岸に近い水域での操業経験や見聞する中国漁船の貧弱さの記憶から、中国の底魚生産量に関しては長年に亘り過小評価していたのではないかと私は思っている。日本人に限らず、中国の人々の多くも戦後当初はそう思っていたのではないかと思われる節がある。

しかし、戦前は略すが現時点で公表されている修正された統計数値によると、1955年(昭.30)の以西の生産は29万トン、中国は252万トン、最盛期だった頃の1960年(昭.35)の以西は35万トン、同年の中国は270万トンで、以西の約8倍は中国が捕っていた。私が1957年(昭.32)に民間協定の技術交流計画の取り決めで中国を約4ヵ月に亘り公式訪問した際に、先方から入手した種々の情報に基づいて推定した結果の中国の生産量(浮魚を含む)は上記よりやや少ないが、それでも以西の約7倍はあった。

経済開放政策に中国が転じてから後の急激な生産の伸びは驚異的であるが、それはここでは触れない。また既往を含め中国の数値の信頼性に疑問を呈する人もあるが、その多くは現場の実態を知らないでただ感覚的に思っているだけである。何れにせよ「東海・黄海の魚類資源に最も大きな影響力を与えているのは中国である」と言うことは間違いのない事実である。

このような認識は最近の中国の科学者間では常識であり、科学者はすでに1960年代からこの点を確かめようとしていたように思われる。情報管制が敷かれ國際交渉に不利との判断から、それらの声は日本には伝わってこなかった。かつての民間協定時代に「この海域に大量の近代漁船を投入し資源を破壊した元凶は日本であり、日本の研究者の報告は科学的にそれを裏付けている」と言った論調は、経済開放政策以後では全く見られなくなっている。

日本の中にも「西水研の研究は商売敵に利用されている。わが国のためにはなっていない」と考える人もあった。国益に関する社会的価値観の違いや行政や國際競合と言った立場の違いに科学者は、何れの国においても板挟みになっていたと私は思うし、今もこの問題はスッキリしてはいない。「目先の国益に固執する余り、大局的に長い眼で見れば、結局は国益と逆行する」ことのないよう関係国の有識者に訴えたい。

日本の研究者が資源解析に使用できるのは日本漁船の操業した範囲に関する日本のDataだけと言う状況の中で、また、この共通資源に対し各国が投入している漁獲の圧力が上述のような状態の下で、日本のDataだけで自己完結的に分析を進めざるを得なかったため、正鵠な結論を導き出すには無理であった。確言できるのは「これからどうすればよいか」と言う示唆ではなかっただろうか。だからと言って、数10年前からの努力が無駄だったことには決してならない。数多くの経験は今後のための踏み台として貴重な役に立ったし、これからも役立つと思う。

おわりに

−現在から省みて思うこと−

東海・黄海の底魚資源の研究が開始されてから50年を経過した現在、國際漁場としての東海・黄海の現況を見ながら、結語に替えて往時を振り返りつつ私見を述べたい。

世界を見渡すと、漁業資源管理には前項で述べた事態と似たような状況下にある事例は山ほどある。なにも東海・黄海に限ったことではない。真実により一歩近づくことを常に目的とする研究者である限り、共通漁場の資源解析には科学者は国境を越えてDataを交換し相互に検討し合う空気を醸成しなければならない。その基盤には目先の利害打算を超えた信頼と友好がなければ実現しない。これが幻想に近い理想論だと決めつける人が多いことは何も日本に限らない。アジアにはないが世界にはその方向に向かって進んでいる幾つかの地域での國際組織もあることは皆の知るところである。

1960年代の後半、以西漁業は収支均衡点の付近で徘徊していた。中国の均衡点は中国漁業のコストや立地条件上、日本より資源経済学的に見て遥かに強度の漁獲水準に耐え得るものであり、その後の経過がそれを証明している。しかし、現在の中国のこれら水域、特に沿岸域の資源の荒廃は顕著である。遅かれ速かれ中国も日本の以西漁業が直面した局面に遭う事態は容易に予想し得る。加えて、海域の環境汚染問題も、捕獲と養殖を問わず、各国は対決しなければならない運命にあるのも間違いない。

この海域の資源調査の草分け期から問題に携わった者の一人として、このような結びの文句を書くつもりは無かったが、毎年訪中して40年来の老朋友と隔意のない雑談を交わして来た経験を通じ、常に私の脳裏にあるため、最後にツイ筆が動いてしまった。思えばすでに50年をアッという間に経過したが「問題の解決は本当には今からだ」と言う気がしてならない。また、本格的な国際的研究協力に向かおうとする機運の萌芽も仄かに見え出したと聞く。各国の資源研究の後継者の諸氏が正しい方向に踏み出す努力を期待して止まない。

1998年1月10日 記 真道重明

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中国老教授協会の海洋分会

設立総会に出席して

真道 重明

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(1995年11月 記)

はじめに

1995年9月19日から22日にかけて山東省青島市の沖にあるリゾート開発地の田横島仮度村において中国老教授協会の海洋分会設立総会が開催された。筆者は同協会の邀請を受けて出席する機会を得たので、同協会と会議の様子について簡単に紹介したい。

中国老教授協会は1985年9月に設立され今年で10周年を迎えた。初期には「北京教授講学団」と称されていたものが母体で、50歳以上の現職、ないし定年(60歳)退職し、その後も活動している教授・研究者・専門家で構成され、引き続き教育・科学技術・文化事業などに貢献する活動を行うことを主旨とした高度の知能集団ともいうべき全国規模の民間団体と定義されている。総会の下には理・工・医・政治・経済・文化・法律など数100個の分野を編成組織した20数個の分会があり、各省(自治区・直轄市)や重慶・済南・その他の多くの大都市にある老教授協会を包括した形で、それらと連動して活動しており、現在の会員総数は7,000名余という。

同会の通訊(Newsletter)の各号を通読するに、民間とはいえ、党中央の政治局常任委員長や国務院の李鵬総理(日本の首相に当たる)、ないし全人代委員長(国会議長に当たる)などが総会で祝辞を述べ、国家教育委員会の高級幹部が名誉会長に推挙されているなどの事情から見て、任意民間団体(入会には推薦が必要だが、退会は本人の自由)とはいえ、かなりの権威を持つ存在と考えてよい。

日本とは社会の組織や環境が異なるので、これに該当する組織は日本には存在しない。しかし研究者や専門技術者がまだまだ足りない中国では、「(1)異なる学術領域の間の連携、ないし境界領域の学術を強化するのに役立ち、とりわけ、(2) 定年退職をしたとはいうものの、永年の経験を持つ有能な活動可能な人材は顧問などの肩書きで現在ではいろんな場所で働いてはいるが、これらの人々を組織化して会員間の情報連絡を強化し、可能な限り効果的に社会の発展に役立つようにする」ことに協会設立の目的があるように筆者には思えた。

余談ではあるが、「何を以て老人というかについて中国では統一的な定義は無いが、50歳以下は青年、50歳から60(65)歳は壮年、65〜75歳までは準老年、それ以上は老年と考えるべきだ」という話が通訊の最近号の講演記録に書いてあるのを読んで、70歳を超える筆者は「この説に依れば俺はまだ本当の老人ではないな」と嬉しくなった。なお、「老」という言葉は中国語では一般に尊敬を表す場合が多く、老博士・老先輩などと手紙の宛名に書くし、虎は百獣の王として幼くても老虎、教師は若くても老師と呼ぶ。

 

海洋分会の設立

回筆者が参加したのは海洋分会の設立総会である。海洋部門(水産分野では海水増養殖やその海洋環境などを含む)に属する会員はいたが、分会としての体裁を整えるに至ったので今回の設立になった。分会総会は本年(1995年)9月19日の午後、外国人1名(筆者)と、北は遼寧省から南は広西壮族自治区まで、全国の臨海各省(自治区)と北京から中国国内の海洋関係の会員の中の60余名が青島市に参集し、フェリーで約20分、会場の田横島に渡った。

同日の晩に委員会、翌20日の朝に開幕、開会宣言、祝電披露、孫,元海洋経済研究所長の会議準備報告、雲光,老教授協会名誉会長(北京政法大学教授)と厳宏漠,国家海洋局長の挨拶、章程案(分会規約案)と理事(51名)の人事案の審議と採決、午後からは綜合学術報告、翌21日は分科会(海洋の生物・物理・化学・地質)に分かれての学術報告、22日の午前に閉幕、フェリーで青島市に戻り散会という手順で進められた。

分会の名誉会長や理事の名簿の中には知っている人も多く、参加者には中国科学院海洋研究所・中国水産科学研究院の漁業経済研究所・黄海水産研究所・東海水産研究所・上海市政府水産辨公室などの旧知の顔が数名見られ久闊を叙した。

筆者は図らずも分会所属の海外名誉会長の聘書を受け恐縮したが、国交未回復の1957年以来、現在までの水産分野での交友と友好の証として、その柄ではない筆者であるが、同分会の厚意を受けることにした。外国人としては分会では二人目ということであった。

海洋分会の今回の分科会は、上記のように海洋の生物・物理・化学・地質であったが、理事名簿の所属先は中央(国家級)や省・自治区・直轄市・大都市などの、1.公立諸大学の教授、2.科学院、海洋局、水利局その他に所属する研究機関の研究者、3.各級政府に属する研究者、4.工程設計や水産業に関連した各種の公司(会社)に属する高級工程師(上級技師)など多彩な顔ぶれであった。

筆者は海洋生物分科会に出席したが、水産の分野ではご承知のようにエビ養殖の病害対策に関するものに興味があった。とりわけ、南米のエクアドルから移植した Penaeus vannavnei,Boune.1931.(中国名は南美白対蝦)の試養(中国南方では10万トン生産され、すでに企業化されている)が面白かった。説明によると病害に強く摂取する餌料は低蛋白でよく、歩留まりも85%で、P. monodon(斑節対蝦)やP. orientalis(中国対蝦)、P. japonicus(日本対蝦)に較べ遥かに生残率がよい上、低塩度にも耐え、CODが300ppmでも飼育でき、がんらい温水性ではあるが中国北方でも養殖可能とのことであった。1993年秋以来、中国のエビ養殖、特に大正えび(コウライエビ、P. orientalis、上記の中国対蝦)の生産が回復せず、全国統計でエビ養殖生産が1/3〜1/4に低位で停滞しているのは読者各位がご存じの通りで、養殖業の中でウナギ以上に外貨獲得の目玉である該業不振の打開は大きな問題の一つとなっている。

対策として病気に対する抵抗力の強い品種の遺伝学的手法による選択、環境調査、外国産の種類の導入などが検討されているが、今のところ上記の新しい外国種の導入には聴衆の関心が集まっていた。


筆者の感想

協会はOBの親睦会ではなく、章程(定款規約)にもあるように、政府の定めた方針・任務に則り、教育・科学技術・経済・文化の分野で各種の産業・各種の機関から委託された仕事について積極的に活動することであり、教育訓練・調査研究指導・生産技術顧問などといった具体的な活動を行っている。元来、中国では分野や組織系統が異なると相互の連携や情報の交流は弱い。それらは学術雑誌や著書として発表されたものを通じて、または個人的な人脈(コネ)を通じてのみ行われているのが現状である。

かなり前から「横向連絡」のスローガンの下で、「立て割機構に閉じこもらず、横の連携を深めよ」と叫ばれてはいるが、学術分野では、日本でいう「産学協同」の意味に使われているように筆者は理解している。もっとも、最近では民間の技術顧問公司(コンサル会社)も増え始めてはいるが、大学や研究所などの公的機関までは浸透していないのが実情のように思われる。

同協会はこの意味では大いに役立つのではなかろうか。事実、今回も会場や夕食会でお互いに「久仰、久仰」、「久仰大名」(ご高名は兼ねてから存じておりましたが、始めて拝顔の栄に浴します」という、名前だけ知っている人と初対面の時に交わす挨拶の常套句)が常に参加者間で聴かれ、その後に両者が懇談しているという場面が随所で見られた。これは裏返せば、専門を同じくする仲間で論文で名前は知ってはいるが、互いに会う機会がないケースの人達が相当多いことを感じさせる。どこの国の社会にもあることだし、まして欧州全体に倍する広大な国土を持つ中国では当然と思われるかもしれないが、同分野の人々の間で初対面の名刺交換が多くなされ、新しいネットワークが生まれつつあるのを目前にした次第である。

同協会は国内組織であり、当然のことではあるが、すべてが漢語(国語ともいう、いわゆる普通語=共通語)で進められたので、筆者が学生時代、東京外大の専修科(夜間部)で50年前に3年間習って卒業はしたが、そのままで実践の機会が少なかった筆者にとっては、読むには殆ど事欠かなかったが、口頭発表の論議は大意がやっと掴める程度で、詳細な点での正確な理解には苦労した。

集まった人々の大半は若い頃はエリート学生であり、ロシア語は話せるとのことだったが、英語で仕事の会話ができる人は1/3以下である。今の中国の若い学生は英語は何とか話せても、ロシア語は全くできない人が多いことを考えると、時代の変遷を思わせる。

開催地の田横島は将来は国際会議場を含むリゾート地として立派なホテルが棟を分散した形式で建設されている。1年後には完備するのではなかろうか。風光明媚で、とりわけ、朝の海面からの日の出が美しいという。大気汚染のため北京や上海は勿論、この数年来ビル群の増えた青島市では「夜空の満天の星」を見ることはできないが、ここではプラネタリュームを看るようで、皆が夜空を指さして口々に星座名を言い合っていたのは印象的であった。

真道重明 記  (1995年10月) 

中国老教授協会 海外名誉会長 (海洋分会所属)
上海水産大学顧問教授

 

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聘書

聘書

経研究決定聘任真道重明博士

為本会海外名誉会長。

中国老教授協会海洋分会

1995年9月20日 [印]

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ASIA

アジアは世界の水産業

の中心となった

(2000年11月)

真道 重明

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アジアは現在では地球上での漁業生産の中心的な重点地域となった。19世紀から20世紀の半ばにかけて大西洋を主漁場とし、漁業生産では世界の首位の座を占めていた欧米先進国に替って20世紀の後半期に入ってからは「なぜアジアが地球上で漁業生産の中心的な重点地域」になったのだろうか?

 

    (A) 欧米が永年強い漁獲強度の下に利用してきた大西洋海資源は乱獲によって枯渇に傾いているのに対し、太平洋や洋などのアジアに接している海域の資源にはまだ余裕があった。

    (B) 漁業生産が先進国から発展途上国に移行する傾向は世界的な潮流である。先進国は発展した工業生産が中心で、途上国から水産物を輸入する形に変わりつつある。アジアは日本を除くと他は殆ど途上国である。アジアの生産が欧米に取って替ったのはそのためであろう。

    (C) アジア諸国、とりわけ東アジアや東南アジアでは、食文化的には水産物に対して世界では最も高い評価をを与え、水産物への依存度も世界では最も高い地域なのではないか?欧米諸国では、北欧の一部の国や地中海に面する一部地方を除くと、「水産物」に対タイする社会の価値評価は低く、一方アジアはこれに高評価を与えていと言う大きな違いがある。この問題がアジアが世界の中で生産の中心的地域となった要因ではないか?

  • 私は上記の(A)から(C)の何れの見方も正しいと思う。即ち:

        (A) の問題は多くの資源学者が指摘している。特に底魚類についてはそうであり、アジアも最近では同じ運命をたどり始めたと言う人もある。確かに、最近のアジア諸国の海産魚の生産は低下し始めている気配があるが、黄海や東シナ海の底魚類資源の極端な悪化を引き合いに出す迄もなく、その可能性は高いと思っている。

        (B) の問題は漁業総生産が先進国から発展途上国に移行する傾向は明らかに認められる。私の計算では1983年までは途上国の漁業総生産徐々に先進国に肉薄しつつあったが、1984年に逆転して途上国が追い越し、その後は現在に至るまで両者の差は急速に開きつつあり、しかも1989年以降は先進国は低下を始めたのに反し、途上国は上昇の一途をたどってる。先進国と途上国の差異が歴然としている養殖生産に限って見ると、先進国は横ばい状態で低位で停滞を続けているのに反し、途上国は重量でも金額でも、急激かつ安定的に増加している。ただし、単位重量当りの単価を見ると、先進国の養殖生産物の単価(全体の平均、1994年)は途上国の2.5倍高値であったが、最近(2000年)では両者の差は縮まって2倍程度である。(ここで言う先進国 (Developed country)と途上国(Developing country)はFAO の区分 [UNDP基準に基づく] で仕分けたもの)。      
               
        (C) の問題は私が最も根源的であり、重要視している問題である。資源の問題はアジアだけに余裕が残されていたのだろうか? アジア以外にも在ったかも知れない。しかしそれらの地域では生産は伸びなかった。何もアジアだけが途上国であったわけではない。なぜアジアの途上国が他の地域に較べて大きく生産を伸ばしたのだろうか?

    このように考えてくると、アジアが世界の他の地域と比クラべて特徴的な点は食文化的に見て、アジアが最も水産物を口にし、FAO の Food balance sheet の PCAP (per capita、国民一人当たり)の水産物年間摂取量、一日当たりカロリー、一日当たり脂肪などを見ると、アジア地域中東を除くと、世界では最も高く、東アジアはもちろん、ASEAN 諸国も動物たんぱくの半分は魚類から摂取している。

    すなわち世界最大の水産物消費国であり、また水産物輸入国である日本ばかりでなく、中東を除くアジア諸国は欧米諸国に比し、遥かに魚食(水産物消費)地域である。しかも魚類だけでなく、ホヤを始めアキアミ・シャコなど各種の甲殻類、イカやタコなどの軟体類、海藻類などにもにも高い経済価値を与えている。これは東アジアだけでなく東南アジアの多くの国でも似た点が多い。

    なぜアジアがそうなのか?は食文化の専門家ではない私には云々する知識はないが、多くの諸国は元来牧畜業の発展には不向きな立地条件であることが要因の一つかもしれない。牧畜に関しては中国の北西部は例外かもしれないが、その中国でも古来から楽土を意味する「魚米之郷」の諺があるように、魚や水産物は重視されて来た。人の生活の根本的基盤の「衣食住」の中の「食の一つである水産物」の社会的需要が世界の中でも特に高い風土のアジア諸国が20世紀後半に入って先進技術が導入されるや否や捕獲や養殖の生産が急増したのは上述の魚食文化の伝統が主要因であると私は思っている。

  • 漁業に対する資源管理問題を始めとする「将来の世界の漁業はどうあるべきか?」と言った論議は、FAO などの主張などに見られるように、現在では欧米の人々の論調が世界の指導的な流れになって居いる。しかし、世界で水産物を最も多く生産し、欧米とは異なった食文化の下にあア ジアの人々の目から見直せば、かなり欧米とは異なったものがある筈である。以下に記した諸点はどうなのだろうか?
  • 現在の欧米には家族的経営や小規模の企業的経営など、いわゆる零細な漁業は殆ど存在しない。しかし世界の大多数の国ではこれらが多タ数存在し、それらへの対策はきわめて重要である。アジアも例外ではなく日本などの漁業先進国ですら零細漁業を抱えている。零細漁業が無い欧米の人々に果たして零細漁業にどう対処するかを切実に体験を通じて考えることが出来るのだろうか?
  • 漁業の役割について、欧米では人類に対する動物蛋白の供給と言う点だけに関心が集中していたように思われる。したがって FAO の世界漁業統計年報などにも、たんぱく源ではない海藻類は省かれている。しかしアジア、特に東アジアでは伝統的に食糧・保健薬・糊料(工業品)として海藻類に高い価値評価を与えてきた。
    この点は FAO の FISHSTAT Plus など新しいデジタル化された統計では海藻類・哺乳類を追加し、また、アフリカを考慮してのことだと思われるがワニ類なども追加されて来ている。さらにクラゲやホヤなどの無脊椎動物の項目なども増やされて来つつあるが、欧米の多くの人々にとっては元来身近でないものであるため、統計的取扱いの手法には適切でないものも多い。
    以上は、例として統計という一面だけを取り上げたが、改善されて来つつあると言っても、欧米人の視点が世界共通の規範にはならないことを示す例だと思う。
  • Open access を建て前とする漁業の在り方が欧米では主流である。一方、日本には沿岸漁業については Open access とは対照的な漁業権制度があり、中国でも最近は漁業権制度の検討が始められ東南アジア諸国でもかなり前からこの制度に関心を示しており、また漁業権制度と共に日本式の漁協の組織化について手本とすべきだと言う各国のなかの論者も多い。
  • Open access の下では漁業活動が「投機的な形に陥り易いのではないか?」と危惧するし、一方、FAO なども「欧米の考え方が強く反映された政府による上意下達式の責任ある漁業論を推進している。
    「責任ある漁業」については人によっていろいろな理解の仕方が在り、一概には云えないようだが、私は思い過ごしの老婆心かも知れないが、下記のように感じれれる。
  • これは道徳律 (Moral cord)のように思われてならない。利潤追求に漁民が走るならば、いくら上から説教されても、漁業者が従わない限り、国が莫大な経費を投じて監視しても、いたちごっこになるだけで、結局は乱獲を制御できないのではないか?と言う気がする。企業倫理のお説教も否定しないが、圧倒的に人口の多い沿岸零細漁業に実効が期待されるだろうか?強制的管理・監視は國際入会海域に対しては必要であろうが・・・。
  • 以上ゴタゴタと「独断と偏見に満ちた愚見」を述たが、私が言いたいことは現在世界を風靡している「欧米流の漁業の在り方」に対し、世界には「異なった考え方も在る」と言うこと、しかも欧米の人々は殆どその実態を知らないのではないか?と言うことである。我々、とりわけ世界で最大の生産を挙げげているアジア諸国の人々は系統立った対案の有無に拘らず、思うところを主張すべきではなかろうか?

 

アジアが20世紀の後半期に世界の水産業では最重要地域になったことを示す統計値(時系列)は下記の URL をクリックして下さい。

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WORLD

20世紀後半における

世界の漁業生産の動向

 

(2000年11月)

真道 重明

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電報 「メガロッパ」になった.

やったー!

−敗戦の混乱で埋没しそうになった卒業論文−

真道 重明

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(2003年10月 記)

葉市の出洲海岸に在った水産試験場から恩師の稲葉伝三郎先生に打った電文である。1943年のことである。農林省水産講習所(現在,東京水産大学)の本科養殖科を卒業した私は、さらに上の専攻科養殖科に在籍し、稲葉伝三郎先生の下で現在では盛んになった「栽培漁業」の前駆的な勉強をしていた。

この学校は先輩後輩の区別が当時はなかなか厳格で、専攻科の学生は学生仲間では神様のような存在で教官に準じた立場にあり、私は化学の富山哲夫先生(東京水産大学長、97/12/17に91歳で亡くなられた)が九州大学に転勤された直後であり、同先生の部屋を私の研究室(個室)として与えられていた。

論文には「ガザミ、Portunus (Portunus) trituberculatus の人工飼育」を選んだ。当時、カニ類の人工飼育は英国のプリマスにある海洋生物研究所の Rebour という人が4種、米国の研究者が1種について成功していた。もし私がガザミ(ワタリガニ)について成功すれば世界で第6番目となる筈であった。実験材料となる生きたガザミが入手し易い千葉市の出洲(でず)港に近い水産試験場を実験場所に選び、前年からそこで仮実験の準備を始めた。

人工飼育といっても、卵を孵化させて、ゾエア期、メガロッパ期を経て幼カニまでを、室内の水槽で飼育することであり、これらの稚仔期の飼育容器、水温・光線の管理、中でも脱皮する毎に大きくなる稚仔の発育段階に応じた餌の確保や給餌方法が大問題であり、思うほど容易な仕事ではなかった。

放卵直前の雌親ガニから採取した卵を孵化させることは容易である。孵化した稚仔に何を食わせるか?どういう方法だと食うか?まさに試行錯誤の連続であった。飼育するものの餌を飼育する技術は未だ確立されて居らず、一日置きに時間をずらせて受精させたイワガキの幼生を作って与える方法が初期段階では運良く功を奏した。

しかし、ただ与えるだけではゾエア期のカニは食ってくれない。一計を案じて容器を黒い紙で覆い、天井の蓋に小穴を空けて光が射し込むようにした。カニも餌となる牡蛎の子供も趨光性があるので食べる方も食べられる方も小穴の下に集まってくる。この計略が当たった。

当時ガザミの稚仔の発育過程を研究している大島という人が岡山の笠岡にある水産試験場に居て、数編の論文を発表して居られた。戦後になって分かったことだが、映画監督の大島渚氏の父君である。プランクトン・ネットで天然のカニの稚仔を採集し、種類と発育(変態)段階を分けて、鎖が連結するように段階を整理する仕事である。大変な苦労を要する作業である。

ゾエア期のカニは脱皮する度に大きくなり、形態が少し変わる。これを鎖に例えると、鎖の連鎖に欠落した環がありそうだと思われた。しかし、それを埋める採集標本は無かった。飼育することによって予想された欠落環が発見でき、形態の変化が整数を並べたようにきわめて規則正しいことが分かった。

生き物を飼う仕事は時を待ってくれない。24時間の連続監視。稚仔は次々と脱皮をしながら、どんどん成長する。観察は昼夜を問わず「続けて観察」しなければならない。目覚まし時計をセットして四時間ごとに見ていた。或る時眠い目をこすりながら見ると、何とゾエアがカニとエビの中間形の恰好をしたメガロッパ期の形に変態しているではないか!思わず「ヤッター」と叫んだ。

メガロッパ期に進んだ稚仔は餌として魚の切身(と言っても耳かきで4分の1位の大きさ)を食べることは、先人の文献にある。多分もう大丈夫だと思った。夜が明けると直ぐ電報を東京の母校の稲葉先生に打った。「脱皮後 MEGALOPAE Stage に変態した。万歳」。

先生は早速飛んで来られた。顔を見るなり「やったな、カニの類では世界で第6番目だ。水産学会誌に載せよう」と言われた時は嬉しかった。メガロッパ期は一期だけ、次回の脱皮で幼カニの段階に入ることも確認した。メガロッパ期になると先人の文献にあるように、先ず餌の心配はない筈であった。果たしてその通りであった。その後の3ヵ月は実験結果の記述に専念し、卒論として提出、その翌日に徴兵検査を受けるべく東京を去って郷里に向かった。

日本は戦争に負け、戦地から復員船で母国に帰ったのは1946年の初夏である。敗戦後の混乱で水産学会の活動も一時停頓状態に追い込まれた。卒論は金庫の中に収納される慣わしだったと聞くが、その侭どうなったか解らず仕舞いになってしまっていた。仕事の記録が埋もれ忘れ去られてしまうのは口惜しく、確か稲葉先生から記録したとの連絡があったことを思い出し、半世紀たった今、母校で教鞭を採って居られる甲殻類の専門家の渡辺精一先生にお願いし記録を探して頂いた。同同先生からは面倒を厭わず「探し当てた。下記の通りです」とのご返事を頂いた。

1947年(昭和22年)の日本水産学会の年会の生物関係(6)で、稲葉伝三郎(水講)・真道重明(水講)の両名の名前で「ガザミの人工飼育並びにその變態」と題して稲葉先生の発表があり、講演要旨が日本水産学会誌 Vol.13 No.2.p.59に「ガザミを止水中で稚蟹期まで飼育した。Zoea期中に餌料の轉換(カキ幼生 → Copepoda 幼生)が見られ、Megalopa の期及び稚蟹期は生魚肉、蟹肉等で容易に飼育できる。水温30.8℃以下鹽分26‰〜32‰で19〜21日で變態完了。 Zoea期は6期あり、Prezoe期はみとめられない」との記事が掲載されている。私の人生における最初の、細やかではあるが、技術論文の記事である。

これは水産学会誌が復刊された戦後の最初の号では無かったかと思う。私は上述のように1947年には専攻科時代に「養殖物理学」の特別講義を受けた恩師の田内森三郎先生がその後場長を勤められて居た月島の農林省水産試験場に既に就職し、遠く離れた九州大学の理学部所属の天草臨海実験所に居た。仕事はGHQの示唆もあり水産資源(乱獲防止)の研究に携わって居たから、上記の水産学会には出席しては居ない。仕事もカニ類や以前から興味を持っていたイセエビ類の人工飼育の仕事などからは離れる羽目となってしまっていた。

 

【後日談】 岡山県の笠岡にある水産試験場で数編の論文を発表して居られた大島氏が有名な映画監督の大島渚氏の父君であることを戦後知ったことは上に述べた。

私は戦地から復員して月島に本場が在る農林省水産試験場に就職し、天草にある九州大学の臨海実験所で同実験所を戦前に設立された棘皮類の大家である、これ亦同性の大島廣先生と2ヵ年起居を共にし、貴重な教えを沢山受けた。ある日、卒論の話をし、冒頭で述べた英国のプリマスの海洋生物研究所の Rebour (レブーア)と言う人の論文を繰り返し繰り返し読んだ話をした。

「あ−、レブーア女史か、良く知っている。初老に近い品のよい人で、そう言えば毎日々々、水彩の絵の具でカニのゾエアの画を描いていたのを憶えている」とのこと。学士院会員だった先生は当時既に大学を退官して名誉教授だったが、若い頃はプリマスに長年留学し、英語が頗る堪能で英国人の論文の英語文法の誤りを直したことがご自慢であった。Mrs.Rebour をご存じとは驚くと共に世の中は狭いものだと思った。

 

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上海水産大学92年の歩み 

−激動社会を乗り切りって今に至った校史の簡介と校慶90年に参列した感想−

真道 重明

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 (2004年7月)

海水産大学は2003年11月1日で創立90年目を迎えた。校史によると、90年と言うのは1912年に設立された前身校である江蘇省立水産学校から起算してのことである。呉淞水産専科学校、上海水産専科学校、上海水産学院を経て1985年に現在の名称である「上海水産大学」になった。
私が同校を最初に訪問したのは1957年の夏から晩秋に掛けてで、今を去る45年前の「水産学院」時代である。中国の水産界にとってはこれが中華人民共和国建国以来の最初の外国人専門家の招聘であった。その後同校には講義で幾度も訪れたし、また上海に立ち寄る機会のある時には必ず懐かしい校門を潜って老朋友を訪ねた。校慶(学校創立のお祝い)90周年に招かれ、体調のせいで1997年以降は国外の訪問を中断していたが、この際、敢えて老躯を駆って、四年振りに参加した。
詳しい校史が始めて総括的に編纂されていたので、「激動の社会を乗り越えて前進した同校の90年に亘る歴史を此処に紹介し、同時に同校の近況と筆者の感想を述べた。


項 目

まえがき

江蘇省立水産学校時代 (1912−1937)

呉淞水産専科学校・上海水産専科学校時代 (1945−1952)

上海水産学院時代 (1952−1985)

上海水産大学 (1985−現在)

90周年祝賀と老朋友との交誼 (2002) 

あとがき

(特)海洋大学と改名


 

まえがき

 

海水産大学は私が1957年の日中国交未回復時代、日中漁業協議会と中国漁業協会との間に締結された民間漁業協定の学術交流の条項に基づき、中国の水産基地の各地を視察後、2ヵ月余に亘って水産資源調査方法を講義した思い出の学校である。その経緯は「1957年の中国水産界の情況」にやや詳しく述べたので省略する。思えばその時から半世紀弱の歳月が経ってしまった。

その間に日本の水産も中国のそれも、また水産業界の世界情勢も大きく変わってしまった。とりわけ中国の水産生産は世界の首位に躍り出た。私が1957年に訪問した際、中国水産界の誰が今日の隆盛を予測できただろうか?

上海水産大学は中国の水産教育機関としては、歴史的にも、現在に於いても中国の水産を専業とする教育機関としては最高の学府である。学生総数は一万四千余人を超え、校舎も上海市の新開地である浦東地区の「南匯」に分校を新築し発展を続けている。日本の大学とは仕組みが異なるとは言え、学生食堂や学内の売店なども先回の訪問時に較べ大きく変わっている。

今迄に学校の歴史に就いては幾つか散見されたが、それらは断片的なものであった。今回始めて90年に亘る詳しい「校史」が24名の編集委員会と8名の編写チームにより出版された。校慶90年の祝賀には中国全土から多数の水産界の著名人が集まり、多くの冊子やパンフレットが配布されたが、「校史」を中心にこれらを参照して学校の歴史の概要、並びに近況について私の感じた点を紹介したい。

余談ではあるが、本校の原点である1912年(私が生まれる10年前)に設立された江蘇省立水産学校(呉淞鎮に在ったから俗称を呉淞水産学校と言った)の設立準備委員であり、初代校長となった「張繆(繆の字は糸偏では無く金偏)」と言う人は私の母校である農林省水産講習所を卒業した先輩であり、その後継者の第2代目の校長「候朝海」氏は1957年に私が上海水産学院を訪問した時には未だ健在でお眼に掛かり、「日本に留学していた時は藤原咲平氏から教えを受け親交があった」とのこと。日本の中央気象台長で「お天気博士の祖」と言われた藤原咲平氏[1884(明治17)〜1950(昭和25)]のことであり、私共にとっては伝説上の大先生であり、驚いたことを憶えている。

 

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江蘇省立水産学校時代

(1912−1937)

 

蘇省立水産学校は上海市の浦東地区の郊外の宝山県呉淞鎮砲台湾の北側に在ったから俗称を呉淞水産学校、またの名を略して「呉淞水産」と言ったと言う。1912年(大正元年)に開設、初代の校長は日本の農林省水産講習所で学んだ「張繆(繆の字は糸偏では無く金偏)」と言う人であった。年代から考えても水産講習所のごく初期の卒業者であることは間違いなく、恐らく中国から日本へ来た水産留学生としては初期の数名の一人である。

私が調べた結果、張繆は水産講習所第13回製造科卒業(1910年、明治43年)、なお、翌年(1911年、明治44年)には水産講習所の漁撈科を卒業した李士襄と言う人が1915年にこの呉淞水産学校の漁撈科主任に任ぜられている。また初期の卒業生の中の成績優秀な卒業生で日本留学後帰国し教師に任ぜられたものに張柱尊、沙玉嘉などの人が居る (東京水産大学百年史、資料編)。

漁撈科の漁撈教材の内容の多くは「これら日本留学生の持ち帰った専門分野の教材や彼等が学習時に筆記したノートなどを基礎に中国独自で調査した経験を加えて作成した」との記述がある。

このような事情から考えて呉淞水産学校は開校に当り日本の水産教育制度を多く受け継いだものと思われる。日本で学んだ知識に照らし、学制は先ず当初は漁撈科・製造科を設け、1921に養殖科が追加されている。さらに1923年には航海専科、1925年には遠洋漁業科が追加されている。外国語科目としては英語と日本語があった。

当時の在校生の総数は200名を算し、第6回卒業生は100余名と記録されている。張校長は1925年に過労のため病没、享年は未だ若く44歳であったと言う。彼を引き継いだ第2代目の校長が「候朝海」と言う人で専攻は漁撈学。既述のように筆者は1957年には健在で上海水産学院でお眼に掛かり親しく面談した経験がある。

当時の中国は列強の圧力の下で半植民地情況にあり、漁場は日本の以西漁業底曳網など外国の領海侵略により荒らされ放題であったため、水産業は非常に立ち遅れていた。また、国内的にも内乱状態があり、北伐戦争(注1)など不安定な時代であった。国民政府は1927年に学制改革を行い、同校は「国立第四中山大学農学院附設水産学校」と改称、その翌年「中央大学農学院水産学校」と再度改名され高等教育処の所轄となった。しかし、1930年には元の「江蘇省立水産学校」の名称に戻り、所管も江蘇省教育庁に戻った…と記録されている。

その2年後の1932年(昭和7年)には、一・二八抗日戦争(日本では第1次上海事変と呼ばれている)で日本海軍の砲撃や空襲により、同校の校舎や施設は大打撃を被り、一時上海市の康定路にある家屋を借り上げるなどして授業を行ったが、やがて経費困難に陥り、1937年の盧溝橋事件後に日本軍は再度上海に侵攻(第2次上海事変)したが、この時に校舎や設備は殆ど全部が奪い去られたり壊滅したりして、再起不能に近い情況となり、教育活動は停止に追い込まれた。

建学から起算して停学までの25年間に卒業生400余名を輩出し、これらの人々の多くはその後の中国の水産界や航海界の重要な開拓者になったと言われている。戦争という暴力で学校は全てを失い廃校状態になった訳であるが、水産振興を目指して努力していた同校の関係者は無念だったに相違ない。

此処で視点を変えて同校の教科を見ると、海洋漁撈業と水産物加工業(製造科)に重点が置かれ、水産養殖業は設置も遅れ、1930年に元の「江蘇省立水産学校」に戻ってからは、経費不足もあってか、養殖科は廃止されていることからも窺われるように、それほど重要視されて居ない。現在の「以養為綱」(水産生産は養殖を主要な柱とする政策)から見ると一見やや不思議な気もする。

同校の初代校長も次代校長も日本留学の経験者であり、日本の水産開発の体制は当時は海洋漁業が最重点であったから、それが反映されたものと思われるが、日本に限らず世界の漁業先進国は「海洋漁業」が中心であった。中国の立地条件から見ると養殖業(特に淡水)は世界最大の潜在生産力を持って居る。

このことが意識され始めたのは半世紀後の1980年代に入ってからであって、当時としては、海洋漁業重点の教育体制は、無理からぬことであったと思われる。

 

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呉淞水産専科学校・上海水産専科学校時代

(1945−1952)

 

945年9月末、抗日戦争に勝利した民国政府の教育部(文部省)は戦争によって停止していた教育機関の回復と整頓に乗りだした。校長の候朝海は活動を停止していた呉淞の水産学校の学友会を団結させ、主だった学友らと共に上海市に働きかけ、水産界の人々の援助を求めた。

1947年に「上海市立呉淞水産専科学校」の設立が上海市政府によって認可され、候朝海が校長となった。1948年に漁撈科・製造科・養殖科および航海科を設け、初等中学卒業生を募集する「5年制の学校」として再発足し、上海・厦門(アモイ)・広州・青島および台湾からの学生を募集した。同年末の学生数は119名に達したと言う。呉淞の校舎は破壊されて居り、校名は呉淞でも上海市内の数ヶ所を借りて分散して開講していた。

 

候朝海 校長 1957年に私が上海水産学院で講義した際、候朝海先生は健在であった。上は同氏から私が頂いた絵葉書集である。

1949年5月、上海市は中国共産党の人民解放軍によって解放され、10月には中華人民共和国が成立した(注2、新中国成立)。同校は上海人民政府によって接収され、その後間もなく上海市人民政府教育処は候朝海を校長とし、1951年に中央人民政府教育部は地名と校名が一致しないため校名を「上海水産専科学校」に改める案を批准した。

この時期は解放直後であり、長年の戦禍により水産の科学技術は立ち遅れた情況にあった。南方の戦火も未だ終息して居らず、1950年10月には朝鮮戦争への義勇軍の出兵など、社会も安定した状態には無かった。新政府は学校の管理を強化するため、華東水産管理局副局長の方原を上海水産専科学校の校長として併任させ、人を選んで黄亜成を派遣して副校長、候朝海も副校長に任命している。

候朝海氏は上述したが、この黄亜成氏も筆者が6年後の1957年に水産学院を訪れた際に候氏と共にお会いしている。大柄の人で笑うと童顔のような可愛い優しさを感じる顔となるのを憶えている。

所在地は上海市内の各地に分散していたので不便であったが、1950年頃には華東水産管理局の斡旋の努力により現在の軍工路334号に纏められ、長年分散による苦労は終わったという。なお、この間に崇明島に在った閔行水産学校(江蘇省立水産職業学校崇明分校)や浙江省乍浦国立高級水産職業学校などを吸収合併し、学校の規模を拡大し、統計に依れば20余の家屋、建物面積は3940平方 m、教職員110名、学生数305人、漁撈・製造・養殖の三科が設けられ、附属する技術学校には漁撈・製造・養殖と漁船機関の四科、その他に一つの漁村指導チームなどが設けられた。その学生数は337人であったと言う。

 

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上海水産学院時代

 ( 1952.8 −1985.10 )

 

古い教育制度を改造し1953年から開始された国民経済建設のための第1次5ヶ年計画の人材需要の要求に適応するため、1952年10月に中央人民政府教育部(文部省に当たる)は、前項で述べた上海水産専科学校を昇格させ、独立した学院(単科大学)として「上海水産学院」の成立を批准し、11月1日を校慶(建学)日と定めた。

1957年1月には有名な魚類学者の朱元鼎教授が学院長、10月には曹正之氏が副院長に任命されている。中国漁業協会の要請により北海道大学水産学部長OBの渡辺宗重先生と私が9月から12月下旬にかけて訪中し、上海水産学院で講義をしたのはこの年の10月から12月の間で、曹正之氏とは同氏の赴任前に北京の農業部(農林省にあたる)でお会いしている。

私達のこの訪問は日中両国間に未だ国交が未回復の時代で、日本では当時の中国の水産事情が殆ど知られていない情況にあった。この時の訪中の事情は「中華人民共和国の建国初期(国交未回復時代)の水産業の実態と社会主義国家への驚き、その後の交流を通じて得た多くの友人」に詳述した。

私達が訪問した1957年は中華人民共和国が建国された年から数えて8年目に当り、未だ10年を経ていない時である。国家再建のために皆が一致団結して努力して居る最中であり、社会は気鋭に満ち溢れていた。校舎の場所は次項で述べる上海水産大学と同じ上海市内の軍工路にあった。

訪問した当時の学校の雰囲気は順風満帆のように見えたが、その後、中国は大躍進や文化大革命の失敗、ケ小平の経済開放という政策の大転換と言った激動に時代を迎えることとなった。上海水産学院もそれにつれて福建省の厦門(アモイ)への疎開など苦難の道を歩まざるを得ない時期もあった。

校史の記録によると1952以来、学院の所管は、例えば華東軍政委員会水産管理局、中央人民政府農業部(農業省)、華東行政委員会高等教育局、教育面では上海市教育局、農業部水産管理総局、等々。また、1960年からは中央政府の水産部が直接管理する、など目紛るしく変っている。

1963年には学院の研究機構を独立させて、「中華人民共和国 水産部 東海水産研究所」が学院のキャンパスに接した形で成立した。その母体は私が訪問したとき学院内の一角に在った研究棟、すなわち、魚類学者の朱元鼎教授(学院長)が主任をされて居た「海洋漁業研究室」を移して、これが発展したものである。日本では越中島に在った母校の水産講習所のキャンパス内の一隅に在った「研究棟」が独立して月島に移り、「農林省(中央)水産試験場」になった経緯と良く似ている。

この「東海水産研究所」は現在は中国水産科学研究院の配下にある多くの水産研究所の一つとして活動し、主に東海の水産資源の研究に携わっている。2002年に訪れた際には内部の施設や機器類は一新されていた。

文化大革命の期間の1971年に悪名高い「四人組」は「農業関係の高等教育機関は都会を離れて農村に移れ」との命令を出し、農業関係の高等教育機関の一つである上海水産学院は上海と云う都会から田舎に移転しなければならないことになった。いわゆる個人の「下放」(都会から生産現場に送って思想改造させること)では無く、学校と云う組織の「下放」である。

1972年5月に国務院の批准を経て、学院は福建省に移り「厦門水産学院」と改名され、中国共産党福建省委員会の管理下に置かれた。この大混乱で学院はかなりの教員や研究者を失ったようである。上海の軍工路に在る校舎は留守を管理する若干の人々が残っていたが、校舎や設備の多くは他の単位に占拠されたり破壊されていたようである。

厦門の集美には華僑の陳嘉庚が創設した有名な「集美水産専科学校」が在った。この専科学校は文革でかなり破壊されていたが、学院はその地を受け継いだ形である。集美水産学校は私は訪れたことはないが、私の知人である鄭広良氏は、長崎の華僑で一高・東大を出た秀才で、1950年代に中華人民共和国成立後数年を経ずして帰国し、郷里福建省の水産に関係していた。そして同氏からの依頼で、日本の水産高校の各種の教科書類を多数送った経験があり、「集美水産学校」と云う名前は以前から良く知っていた。

厦門での学校運営は1972年5月から1979年4月までの7ヵ年間に及ぶ。1978年末の党の第11次「三中全会」での議決により、中国の歴史的な政策転換が行われ、それ迄の極左的な文革路線は全面的に否定され、1979年5月に「厦門水産学院」も元の「上海水産学院」に名称も場所も戻ることに決まった。ただし、厦門水産学院も引き続き厦門に残ることとなり、国家水産総局と福建省とが協議して学校規模や人員・施設・機器・図書・資料・標本、その他の財産を配分することとなったと校史は述べている。

現在地の上海市の軍工路に元の「上海水産学院」の校牌(学校名の名札)が掛けられたのは1980年の6月であり、復旧作業が終わったのは足掛け二ヵ年後の1981年12月である。厦門に下放されてから9ヵ年の受難期間があったことになる。1952年に「上海水産学院」として発足以来、中国における唯一の水産の専科学院として4000名の人材を水産界に送り出し、文革前には100名に近い外国留学生を教育したこの学校はこの時点で本来の姿に戻ったことになる。同校はこれを「上海復校」と呼んでいる。

上海復校の後は学校の組織の整備強化、國際交流の一層の促進、世界銀行からの借款による実験設備の充実促進、その他多くの面で努力が行われ、1986年に「学院」は次項で述べる「上海水産大学」と校名が改められた。

私事になって恐縮だが、「上海水産学院」時代の1957年に同校で講義して以来、相次ぐ中国国内の激動で、訪中の機会はなかった。1983年10月無錫で開催されたNICA/FAO主催の「アジアにおける養殖の國際会議」にSEAFDEC次長を勤めていた私はタイ国のバンコクから同会議にSEAFDEC代表として参加し、同会議終了後、同月の30日に個人的に一人で上海水産学院を訪問した。

これが私の上海水産学院への第2回目の訪問である。第1回目と第2回目との訪問には26年に及ぶ空白期があるが、文化大革命路線の終焉と経済開放政策の開始という中国における国内の大変動の期間であり、水産関係でも日中両国の接触は「日中漁業協定など国際的な「取り決め」の会合以外は停頓していた。

タイ国バンコクへの帰任と云う私の旅程の関係で僅か2時間ぐらいの、しかも初対面の王克忠氏(副校長)との面談だけに終わったのは残念であった。26年前に知己となり私を良く知る駱肇蕘氏や王尭耕氏らは在校の筈であったが、事前連絡を取ることが出来ず、突然の訪問であったから止むを得なかった。だが懐かしい校舎を26年振りに瞥見出来て感慨無量であった。学院の景観や校舎の佇まいは1957年訪問の時と大きくは変って居なかった。

その後現在までに同校には10回の訪問の機会があったが、校名は「上海水産大学」と変っていた。次項で述べるが、上海水産大学となってからは訪問する度に校舎は改築や増築され、諸施設も増えた。私の脳裏に焼き付いている1957年当時の同校の景観は、私の胸の中ではこの時の訪問が見納めになったような気がしてならない。

 

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上海水産大学

(1985.11− 現在)

写真は現在の上海市軍工路334号の正面玄関 (2002)

この写真は現在の上海水産大学の正面玄関である。正面ゲートは改築されてはいるが私が最初に訪問した1957年当時の「上海水産学院」の佇まいとかなり変わってはいるが、「あー、此処だ」と直ぐ分かる。変わっているのはゲートの左右の門柱の梁の中央に横書きの「上海水産大学」の文字が置かれている点で、1957年当時はメインゲートの外側にやや小さな門柱があり、メインゲートが閉ざされている時の通用門となって居り、そこに縦書きの「上海水産学院」の表札が掛かっていた。通用門に接して守衛室があったが、今はメインゲートは常時開放され、写真の様にそのやや内側に守衛BOXがある。

なお、47年前には背後に見える校舎はもう少し奥に煉瓦造りのものが見えていたが、今ではゲートに接して近代建築に改装された多くの建物が林立している。ゲートに接して「小売部」(小物販売所)があり、私は良く「加飯酒」を買ったものだが、今はキャンパス内に移り、スーパー式の店になっている。閑話休題。

1985年末から校名は「上海水産大学」と改められたが、上に述べたように1912年の建学以来、校名は数次に亘って下表のように度々改められている。

1912-1927 江蘇省立水産学校
1927-1928 国立第四中山大学農学院水産学校
1928-1930 国立中央大学農学院水産学校
1930-1937 江蘇省立水産学校
1937-1947 日中戦争による活動停止。
1947-1951 上海市呉淞水産専科学校
1951-1952 上海水産専科学校
1952-1972 上海水産学院
1972-1979 厦門水産学院
1979-1985 上海水産学院
1985-現在 上海水産大学

これらの中、薄い色で示したものは上級管理機構による変更、ないし文革による強制的な移転に伴うものであり、黒色で示したものが本来の姿を示す校名である。

1985年10月に上海水産学院は楽美龍院長、趙長春・王克忠副院長の下に学校の指導方針に調整や充実を行った。同年11月、国際交流を強化し、中央政府の農牧漁業部の批准を経て校名を「上海水産大学」と改められ、楽美龍氏が校長(日本の学長)、趙長春・王克忠の両氏が副校長に任ぜれれた。

中共中央の「教育体制改革の決定」の趣旨に沿い、学校の組織・機能の強化に努力が払われ、1986年6月以来計画的に校長の責任制に関する試行が進められた。これは学校の内部指導体制の重大な改革であり、校務委員会や職工代表大会などの機構が作られた。

1990年代の初頭には上海水産大学は農業部(中央政府農業省)直属の高等教育機関として全国的に認められて居た。1990年から1991年にかけての大学の組織は、漁業工程(エンジニアリング)系、食品科学技術系、水産養殖系、漁業経済管理系、および基礎部、社会科学部が教育実施組織である。この他に図書館、情報研究室、魚類研究室などがある。(ただし、日本で言う総務・庶務・会計・学長事務室、学生課、その他は省略した)。

なお、農業部に属する遠洋漁業培訓中心(遠洋漁業訓練センター)がキャンパス内に建設された。1990年に訪問したときは建設工事が進んでいたが、その翌年の1991年10月に筆者は農業部の招請により新設の上海水産大学キャンパス内に完成した同センターで、約20日間に亘り講義をしたことがある。講義対象は全国から集められた遠洋漁業を開始している各単位からの実務者であった。

1993年7月には学内の教学機構を調整し、「4院2系2部」となった。すなわち漁業学院・食品学院・工程技術学院・成人教育学院・経済貿易系・外語系・基礎部および社会部である。

1995年以後も学内組織の教科調整を進め、’95年5月には「信息中心」(情報センター)を新設、9月には経済貿易系と外語教研室を合併して「国際経済貿易学院」を成立させ、’97年には「経済貿易学院」と改名した。’98年には従来在った単位を改名して「計算機学院」とし、また社会部・基礎部および外語系を基盤とする「人文与基礎科学学院を成立させた。

1999年初めには上海水産集団や上海水産学校連合会などと連係して「高等職業技術学院を成立させている。2000年3月に工程技術学院は「海洋学院」と改名されている。なお、同年には上海水産大学はそれ迄の農業部の配下を離れ、上海市の管理下に置かれることになった。

上海市の管理下に置かれたと云っても、後述するように多くの中央政府農業部配下にある遠洋漁業訓練センター、冷凍設備や冷凍品の品質監督検査機構、漁業発展戦略・海洋科学技術・水域環境などの諸研究センターなどが在り、全般に亘って中央政府との密接な連係を保持した形で、地方教育機関としてでは無く、全国的な水産教育の代表校として運営されている。

      

(全画面表示でご覧下さい)

左の写真は正面玄関を入って中央の路を直進した場所からの新しい諸学部のビルの光景である。真正面に毛沢東首席の白亜の立像がある。右の写真は図書館、内部は改築されているが、他の主学部のビル群は近代様式となったが、これは昔の面影を残しており、私にとっては47年前にこの中の一室で二ヵ月以上に亘って講義原稿を書き、謄写印刷した中国語訳の講義録の翻訳内容を点検したり、日本では当時全く知られていない水産事情が記載されている「水産工作」(誌)など図書館の多数の蔵書を貪り読んだりしたので、殊更懐かしい想いの多い建物である。

2000年10月には学校の規模を拡大して南匯県恵南鎮に分校の新校舎を建設した。旧来のキャンパスを「軍工路校区」、この南匯のキャンパスを「学海路校区」と呼んでいる。南匯は以前は何も無い原っぱであったと言うが、浦東地区の発展で「学海路」一帯は、いわゆる学生団地、または大学街とも名付けたらよさそうな新開地となり、団地の中には郵便局・銀行・スーパーなどもあり、壮観である。

1957年に訪れた際、日本の学校に較べて土地の広さに驚いたが、半世紀を経た今日でも、南匯を見ると土地の広大さに再度驚く。2002年11月の校慶90年の祝賀に参加したとき、特にお願いして上海水産大学の「学海路校区」を見たくて車を出してもらった。建学90年のお祝いのため休日であったが、図書室や幾つかの新校舎の内部を見学した。下に示した写真はその一部である。

          

(全画面表示でご覧下さい)

中国で「水産」の名を持つ唯一の大学である上海水産大学の最近の機構は以下のようになっている。(以下、学院は日本の学部に相当する)すなわち:−

1.漁業学院
        水域環境保護
        水産養殖
        淡水漁業
 2.海洋学院
         海洋船舶航海
         舶用機関管理
         機械設備とその自動化
3.食品学院
        食品検査
        食品技術
        加熱送風と空調工学
4.計算機学院

         情報管理

5.経済貿易学院
        市場経営
        金融学(専業教課目)
        会計学(専業教課目)
6.人文基礎学院
       秘書学
       商用英語
       商用日本語
7.成人教育学院 8.高等職業技術学院
9.愛恩学院
    Austlaria との合弁、英語による。
 

の9個の学院があり、各学院には、例えば経済貿易学院を例に取ると、漁業経済管理研究室、漁業環境と資源経済研究室、WTO漁業事務対策研究室、中国漁業社会経済史研究室などの研究室組織がある。

以上は学院(日本の学部に当たる)に関してであるが、この他にも農業部隷下の遠洋漁業訓練センター・水産増養殖生態生理重点開放実験室・冷蔵庫冷凍設備品質監督検査センター・水産動植物病原保管庫・漁政管理幹部上海訓練センターなど、その外にも漁業発展戦略研究センター・海洋科学技術研究センター・水域環境研究センター・生物技術研究センターなどがある。

また、図書館・インターネット管理センター・中国水産網(Web site)・上海水産大学 Web Site、上海水産大学学報編集部・水産学報編集部などがある。総務に当たる機関として校務や外事関係の事務室・学生課・庶務会計、その他があるが詳しくは割愛する。

 

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90周年祝賀と老朋友との交誼

 

2001年の上海水産大学からの賀状を受け取った中に「来年の2002年11月は校慶90年に当たる。招待状を送るから是非祝賀に参加を希望する」旨が書かれて居た。その後同学の駱肇蕘・楽美龍・王尭耕ら教授数名の老朋友からの信書に繰り返しこの件が述べられていた。2年前に胆嚢炎の開腹手術を受けリハビリ中であった私は「医師の判断を待って決める」と回答した。

1995年に青島の中国科学院海洋研究所からの要請で中国老教授協会海洋分会設立総会に出席の帰途、北京の水産局や水産科学研究院を訪れ、さらに上海水産大学や東海水産研究所を訪ねた。この時、上海水産大学からは顧問教授の聘書(辞令)を貰っていた。1957年以来の交友関係やこの辞令のことなどもあり「祝賀会出席の勧誘」があった訳である。

1997年には上海水産大学校慶85年の祝賀に参列したが、祝宴では青島から来た中国科学院海洋研究所の曾呈奎名誉院長に久し振りでお会い出来、コンブの育苗に蛍光灯を使っていた1957年当時、私が視察した時の記憶など話し合う機会を得て懐かしかった記憶もあり、多くの古い友人に会えて嬉しかったことも想い出して居た。

今回の90周年は大きな節目の年でもあり、全国から1985年の祝賀に数倍する多くの私の老朋友が参加することも分かって居たので、内心では是非参加して旧友の諸氏との再会を喜び合える機会が持てると思い、飛んで行きたい気持ちであった。私と同年生れで1957以来の友人である中国科学院海洋研究所の甲殻類の劉瑞玉院士や北京の中国水産科学研究院の王衍亮院長からも「その時に会いましょう」との連絡があった。

幸い医師の国外旅行の許可が出て、おまけに上海水産大学食品学院の中の日中合作室で仕事をして居られた経験のあるJIRCAS(國際農林水産業研究センター)の当時水産部長だった福田裕さんが、荷物などの運搬は手伝って呉れるという親切な言葉に甘えて訪問の決心をした。

上海水産大学の旧友は勿論、中国各地から集まる多くの旧友に会えることの期待と共に、前回の訪問以後における南匯分校の設立など上海水産大学の変貌や一万人を超える学生数の拡大など、この眼で確かめたかった気持ちも在った。

2002年10月30日午後2時、新しく開設された東浦飛行場に着く。それ迄は市内の紅虹飛行場だった。上海水産大学の駱肇蕘(副学校長、加工専門家、戦前に京都帝国大学農学部農芸化学を卒業)教授、上海漁業総公司顧問の繆聖賜氏の出迎えを受ける。駱肇蕘氏は1957年以来、繆聖賜氏は1986年以来の旧友である。抱き合って出迎えの謝意を表した。福田裕さんは祝賀に参列する数名の人達とホテルに向かった。

私一人は用意された車で駱肇蕘氏、繆聖賜氏と共に上海水産大学のキャンパス内の招待所(海天楼餐庁の前の階段から上る三階の特別室)に泊まる。空調・テレビなど招待所は内装が一新され、鍵も新式の自動ロックになっていた。私も歳なので身の回りの世話に3年生の「施嘉」スウ・ジャー君が付いてくれたのは実に有り難かった。崇明島出身とのこと。スウの姓は「西施」(注4:西施)のスウですか?と聞いたら「良く人からその事を言われます」と笑って答える好青年だ。

午後5時、周慶祺校長らと面談、私の滞在中の日程を協議、公式行事は別として、演芸などは割愛し、替りに南匯の校区視察や資源関係の座談会などを追加した。先回訪問時まで在った幾棟かの旧招待所は何度も泊まった懐かしい場所だが、今は取り壊され離れた平屋の一角だけが残っていた。午後6時に駱肇蕘・楽美龍・繆聖賜・外数名の既知の人々が大学の近くの「上海小菜」と言う菜館で私の歓迎宴を開いてくれた。

翌31日の午前は特別に車を出してもらって新しくできた南匯校区(分校)を視察、広大な面積の土地に図書館・教室楼などが新設されていて壮観である。この地一帯には他の大学との共同学生寮団地のビル群が林立して居り、上海水産大学の学生数11,000余名ある実態もこの眼でみて納得した。日本とは学制が異なり、成人職業教育や必ずしも水産とは直接係わっていない分野も含んでいる。

学内の学生食堂なども個別の経営によるものが3ヵ所もあり、その設備も日本の学食施設と同様の形態になっていた。いわゆる生協もスーパー式となり、色々な文法具や小物、パックの菓子類などを販売しており、以前の「小売部」とは大きな変化を感じた。

同日の夕刻は校慶90年祝賀の前夜祭で、午後7時に新藍天賓館で宴会があった。外賓席には東水大の佐藤要副学長、横山雅仁(JIRCS 東水大)、山中英明(東水大食品利用学科資源利用科学研究室)、三重大から参加された教授のほか日本人女性も5名見えていた。中国国内からの私の旧知は、青島の科学院海洋研究所の劉瑞玉院士、中国水産科学研究院の王衍亮院長、同院の科研処のNie善明処長、安徽省科学技術協会の趙乃剛副主席、黄海水産研究所の唐敬升所長、南海水産研究所の張光育所長などの人々であった。

中央政府農業部の副部長も列席していたが、同氏は1957年に上海水産学院で私の講義を聞いた」とのこと、私は同氏とは半世紀を隔てて会っていない。奇遇に驚いた。南海水産研究所の張光育所長とは久し振りだったが、費鴻年所長の思い出話などが出来て嬉しかった。その他多くの人々で先方は知っていても私が失念している人も多かった。

主催者の上海水産大学からは、葉駿主任(校務委員会)、周応祺学校長(学長)、楽美龍教授(農業部遠洋漁業訓練センター長)、駱肇蕘教授(副学校長、食品学院OB)、孫満昌教授(遠洋漁業研究所長)、許柳雄教授(海洋学院長)、陳舜勝教授(食品学院)ら主だった人々が多く参加していた。

祝賀近縁日当日の11月1日は軍工路キャンパス内に大きな祝賀台が設けられ、午前9時開始、式典の最後には功績のあった人々の表彰が行われた。その人々の中には良く知る友人の伍漢霖教授(魚類学)、王尭耕教授(漁撈)、馬海家教授(海藻学)などもあった。また、多くの旧友にも会えた。式典終了後は自室で休養、私が京劇を好むことを良く知る駱肇蕘氏の厚意で貴妃酔酒や霸王別妃のDVDを見て四面楚歌など項羽の話に花が咲いた。

翌2日の午前は東海水産研究所の繆聖賜さんと共に隣りの東海水産研究所を視察、同所の上級機関である中国水産科学研究院の王衍亮所長も私の訪問を待ち構えていて、暫しの歓談に時を忘れた。東海水産研究所には数次訪れて旧友も多いが、同所に就いては項を改めてこのホームページに「東海水産研究所と老朋友」と題して書くことにした。

2日の午後は上海水産大学のキャンパス内に新設された鯨館と歴史館を視察。鯨館は二階建ての大きな建造物で中国では鯨の展示場としては最初のものと思われる。歴史館では候朝海氏(呉松水産学校時代から同学校の第2代の校長を勤めて以来、永年上海水産大学前身校の校長を務め、上海水産学院では1957年にも会っている旧知)の業績や、1957年に始めてお会いし、魚類標本室などを親切に案内して呉れた朱元鼎名誉院長の業績や遺品が特に懐かしかった。

午後3時から海洋学院の人々や山東の青島海洋大学(2003年10月に「中国海洋大学」と改名)から国内留学している男女の研究者も加え、私の「アジアに置ける水産生産の世界における地位」についての討論会をした。楽美龍・駱肇蕘の各氏や施嘉さんも参加。

午後7時から招待所(遠洋漁業培訓中心楼)に接する餐庁「海天楼」で周応祺・駱肇蕘・楽美龍・王尭耕・繆聖賜などの各氏や海洋学院長や海洋学院の人々などにより私の誕生日パーティを開いてくれた。1986年にパーティを開いて頂いたので今回が2回目である。手厚い饗応に感謝するばかりである。

特に駱肇蕘教授は私が丁度傘寿になるのをご存じで、誕生日パーティを学長その他の方々と共に開いて頂いた上、祝いの自筆で自作の詞を書いた掛け軸を頂いた。漢詩には次のように記されている(軸は縦書き)。

四十五載一顆心 千年友諠緊相連

而今八十喜高寿 遐齢松鶴福綿延

恐縮の限りであった。戦前に京都帝国大学の農学部農芸化学を勉強された駱肇蕘先生は四川省の人、中国の水産食品加工に大きな功績のあった人である。1957年以来の友人で、現在90歳を超える高齢にも拘わらず矍鑠として居られる。肖りたいものである。

翌11月3日の午後の便で帰国することになっていたが、午前に東海水研の丁仁福・鄭元甲の両氏に招かれ昼食を共にした。出発時間の制約のため充分に両旧友とゆっくり歓談する時間がなく残念であった。その後、駱肇蕘・繆聖賜の両氏と滞在中身の回りの世話をしてくれた施嘉さんが「見送りましょう」とのことで、共に飛行場に向かった。

浦東の新空港は地階に喫煙室が4箇所。上階の出発ロビーの喫茶店で珈琲を飲めば喫煙可能であることが分かり、喫茶店で喫煙、隣席のシンガポール人と英語で浦東新空港の話やシンガポールの近況などの雑談をして搭乗時刻を待った。東京練馬の自宅には20:30に到着した。

今回の校慶90年祝賀への参加では思いがけない旧友の多くの人々と会うことが出来、滞在を数日増やせば良かったと帰国してからつくずく思った。暖かく迎えて呉れた多くの半世紀近くに亘る老朋友們の友諠に深甚なる謝意を表したい。

 

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あとがき

 

上海水産大学はその前身校の創立時から起算すると、今年(2004年)で92年の歴史を持つ中国で最も古い歴史ある水産教育機関である。私が学生時代に李士豪の「中国漁業史」などの著書を読み、前身校の「呉淞水産学校」の名前と存在だけは、福建省厦門の「集美水産学校」と共に知っていた。第二次世界大戦後、私とこの学校とが、。まさか、深い縁で結ばれようとは当時夢想だにして居なかった。

同校と縁が出来る端緒となったのは1957年の10月から12月にかけての同校での講義である。日中両国間には未だ国交が無い時代で、本来なら両国政府間で話し合われるべき問題だったのだろうが、国交のない国に政府公文を出すこおは出来ず、やむなく政府に替って民間機構の、日本側は「日中漁業協会」と中国側は「中国漁業協会」との間に締結されて居た「日中民間漁業協定」の取り決め条文の中の「学術交流の促進」の条項に基づいて、中国漁業協会の招聘の形式が採られた。

中華人民共和国にとっては水産分野では建国以来最初の外国の専門家の招請であり、日本にとっては研究職ではあったが国家公務員としては戦後における第一号の中国出張命令であった。中国漁業協会は北京から遠く離れた広州市までわざわざ王智徳氏が出迎えに来て頂き、帰国に当たっても北京から協会の高頤樹副主任が別れの挨拶に見えるなど、9月中旬から12月下旬までの4ヵ月の滞在は実に大袈裟に言えば国を挙げての破格の待遇であった。観光旅行など相互に自由にできる現在から往時を振り返ると総てが異なった状況下に在り、まさに夢のようである。

上海水産学院での講義が主目的ではあったが、中国漁業協会は広州市から北京に至る鉄路沿線の武昌、漢口、その他の各都市、北京とその近郊、さらに東北の瀋陽、旅大(旅順・大連)、青島などの水産関連の施設、学校、研究所などを一ヶ月かけて視察旅行を組んで呉れた。この時お会いした中央政府水産部の許徳衍部長を始め、水産界や科学院の代表者や職員の方々と知己になれたのは大きな私の宝である。その人々の中には既に他界された人も多いが、私の脳裏には焼き付いている。

この度の上海水産大学校慶90年に列席して、上海水産大学の方々は言うまでもなく、その他の全国から参列された旧知にあう機会を得、最近の発展事情を聞けたことは私の人生の中でも特記すべき「出会いと再会」の一齣であった。

 

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KAIYOUDAI


現在は上海海洋大学と改名

002年には、それ迄長年に亘って軍工路にあり、私が半世紀以上前の1957年に数ヶ月間に亘って講義をした上海水産大学も、浦東の民星路(南匯)に新しい校区が、校名も上海海洋大学と改名、更に上海市臨港新城蘆城環路に臨港校区が追加されて、2009年頃には此処に大学機能の本部が置かれるようになった。(上海海洋大学ホームページによる)。

私も80歳代の半ばを過ぎ、招きの通知はあるものの杖を突いて歩く有り様、同学を訪問するのは控えているが、同学からは多くの出版物が送られてくるし、旧知の数名とはメールによる講師は続いている。半世紀以上前に同校を訪れた際の軍工路にあった建物は今は取り壊されてみることは出来ない。校区は拡大され大きく発展を続けているのは喜ばしい極みではあるが、一抹の寂しさを感ずる今日此の頃である。(2010年1月 記)。

 

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注 記

注1.北伐戦争

1925年3月、孫文が死去。国民党は1925年(大正14年)7月に国民政府を組織し、11ヵ月後に蒋介石を国民革命軍の最高司令官に任命。蒋介石はこの資格で北伐を開始、中国の中部および北部で対立し合っている張作霖ら、さまざまな軍閥の一掃を図ることになった。北伐は3年かかり、27年3月には南京・上海を占領した。そして南京に首都を定めた国民政府の下に中国を統一することに成功した。
なお、日本軍による盧溝橋事件が勃発し日本の侵略戦争が本格的に始まったのは1937年7月のことであるが、それ以前にも一二八事変、すなわち第1次上海事変や熱河侵攻、満州国建設など、日本と中国間には軍事衝突が多発して居た。

 

注2.新中国成立:

毛沢東が中華人民共和国中央人民政府委員会主席に選出された。1949年10月1日、毛沢東首席は中華人民共和国の建国を宣言。
12月10日、国民政府の蒋介石総統は台湾に移った。1945年の第2次世界大戦終結から1945年の新中国建国までの期間、中国はまさに激動の時代であった。

注3.上海水産大学の聘書

 上海水産大学の聘書: 聘書 聘字(95-08)号
 茲聘請 真道重明先生 任 我校顧問教授 聘期
         特授予此証。
                    上海水産大学  1995年9月

上海水産大学ではこの時上海水産大学の顧問教授は私と前上海市水産局長の「顧恵庭」氏の2名とのことであった。知人の顧恵庭氏は別として、私はその柄ではないが、半世紀に亘る同校との友好の証として頂いた。

注4.西施

春秋時代の越の美女。越王勾践が呉に敗れて後、呉王夫差の許に献ぜられ、夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至った。(広辞苑)。なお芭蕉の句に「象潟(きさがた)や雨に西施がねぶの花」の名句がある。希代の美女。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

増養殖への期待

林 繁一

2003年9月29日

著者へのご意見やご感想はどうぞ 

に入り易い肥料とか、成長の早い草本を使う農業、畜産業は古い時代から採取に入れ替って、生産を拡大し、安定させて来ました。それに対して水という汚れ易い媒体に依存する水産養殖業には制約があったと思います。それを克服して品種改良を含めて多くの利点もある養殖業の近年の発展は著しいものがあります。例を挙げれば限はなく、養殖業の収穫量は十年位のうちに漁獲量を上回るであろうと予測する技術者もいます(Pillay T.V.R. Aquaculture-Principles and practice)。

赤井雄二さんは採捕漁業と養殖業との生産量の差は年々小さくなり、2001年には9180万トンの漁獲量に対して収穫量は3750万トンで、それぞれの割合は71%と29%であったと指摘しています(水産経営技術研究所刊:各国の水産事情62号)。養殖は生物生産の人為的変革であり、農業、牧畜業と同じく人類の食料の確保に不可欠な役割を果たすことは間違いありません。

レスター・ブラウン氏は近著エコ・エコノミー(和訳光文社)の中で将来発展する産業の一つに水産養殖業を挙げています。それでも専門家は環境に少なからぬ影響を与える可能性を心配して、その生態学的、社会的意味についても研究が進められています(Costa-Pierce, B.A .Ecological aquacullture ; the evollution of the blue revollution)。増殖事業は環境の破壊には繋がり難いのですが,それでも特定の種の密度が高まり生態系を撹乱する虞もあります。

養殖業の対象としては飼育が楽で、価格が高い種が選ばれます。さけ科魚類を例にとると1970年代まではニジマスが主な対象でした。その収穫量は限られており、漁業による生産は浮遊生物を主な餌とするカラフトマス、シロザケ、ベニサケの生産量が20〜50万トンであったのに対して、比較的大きな動物を食べる種類の漁獲量は少なく、ギンザケが5万トン、マスノスケとタイセイヨウサケがそれぞれ2万トン程度でした。我が国のシロザケ放流事業の成功は沖獲り漁業の禁止に対する成功と考えられました。しかし帰ってきたシロザケの品質の低下が問題となりました。

その後各国が進めている増殖事業が北太平洋のさけますの環境収容量を越えてしまうのではないかという危惧が生じ、カナダ,日本,ロシア,米国の間で1990年に締結された北太平洋遡河魚類保護条約では漁獲尾数に加えて放流尾数も相互に通知することと定められています。米国では放流事業の拡大に伴いギンザケの特定の系群を絶滅危惧種として保護する動きが起きました。増殖の対象となっている我が国のヤマメ,アマゴ,イワナ等についても同様の懸念があります。

 「つくる漁業、そだてる漁業」として推進されてきた増養殖業の将来について専門家を含めた皆様のご意見を期待しています。

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faofstatplis

FAO Fstat Plus

 

本項目はFAOからOnlimeで配信されて居る英文版世界水産統計の操作方法と結果を日本語版エクセルにインポートする操作を述べたものであるが、数多くの問い合わせメールが最近では殆ど無くなり、日本人にれらの操作方法が普及されたものと思われる。

そこで本稿の内容を削除することにした。

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