自 己 紹 介 

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2002/02/10

馬齢80歳を超えた今では自分の写真を撮りたいとも撮った写真を見たいとも思いません。これも最近パーティに出席した時他の人が撮った写真の中の私の上半身の映像を切り抜いたものです。「此翁白頭真可憐、伊昔紅顔美少年」(劉廷芝)ではありませんが、髪は半白、頬は痩けて、まさに劉廷芝の云う白頭翁です。自分では「こんな顔や姿では無い筈なのに?」などとツイ思ってしまうのです。
やや伏し目がちに思慮深い表情のように思う人もあるかも知れませんが、本当のことを言うと、胸中は未だ20〜30代の侭、愚かにもそうなのです。何時何があっても可笑しくない歳になっても…。「気が若いのに驚く」と言う人もありますが、「亀の甲より年の功」の諺の「功」が欠如していると云うことなのです。ただ、好奇心だけは未だ幾らでもあると思っているのですが…。


 

  • 姓  名 : 姓は真道(シンドウ)、名は重明(シゲアキ)。ローマ字では SHINDO Shigeaki (英文の場合は Shigeaki SHINDO)と書くことにしている。

  • 年  齢 : 2002年の秋に傘寿を迎えた。1922年(大正11年)の産。干支で言えば生年は壬戌(みずのえ、いぬ)、生月は Horoscopy で言えば SCORPIO。

  • 出生地 : 熊本県 宇土郡 宇土町、現在の宇土市。

  • 国  籍 : 日本国。

  • 頭  髪 : 色は嘗て黒、今は半白、それも今では次第に白が増え、さらに薄くなりつつある。
    (欧米各国のパスポートには頭髪色・瞳孔色などの記載欄があり、赤毛・金髪、青眼・茶眼・灰眼など書いてあった。頭髪は何色にも染められるし、コンタクトレンズで瞳の色も自由に変えられる現在はどうなっているのだろう)。

  • 血液型 : AB 型。

  • 目の色 : 殆ど黒、やや茶色混じり。

  • 身  体 : 生来頑健な体格ではなく、小学生の頃は「虚弱体質」と云われた。小学校に水泳プールがあり、中学校では水泳部で平泳ぎの選手となり、地区の新記録を取ったりした。これが役立ったのか、傘寿を超える今まで生き延びている。しかし現在では「スープ」を取った後の「鶏がら」に似た痩身。歩行中に風が吹 くと飄々と靡いてやや斜めに傾く傾向がある。まだ杖は突いていない。

  • 日本語 : 中学まで大阪で育ち、家庭内では両親や祖母が熊本だったので熊本弁、子供の私達は大阪弁という言葉環境に育つ。以後私は東京などの生活が長いので自分では標準日本語を喋っているつもりでいるが、自分の声の録音を聞くと、他人は気が付かないようだが、子供の頃に喋っていた関西訛りのアクセントが残っているのを発見する。
    両親は熊本弁、兵役は熊本の六師団で鹿児島出身の中隊長や内務班長の鹿児島弁に扱かれ、就職してからは仕事で長崎に23年を過ごし西日本の各地は良く訪れたので、九州方言は肥前・肥後・筑前・筑後・薩摩の地方の言葉は大体何処がおよその見当は付く。
  • 外国語 : 中国語・英語・タイ語を一応は喋る。一応と云ったのは、中国語は東京外語で正式に勉強した。現在では読むことは日本語並みとは行かないまでも、斜め読みの速読でも大体文意が掴めるが、会話は正確な発音、特に声調を忘れて困ることが多い。数句の遣り取りでは中国人と間違われるが、間もなくバレる。
  • 英語は中学以来長年学校で習ったが、それにしてはいい加減で、とりわけ会話には苦労する。国際機関に在勤中は職務上、講義をしたり、会議の座長などをやらされ、討論を取り仕切ってはいたが、内心では冷や汗物。「通じればよい」と悟ってからは、会話度胸が付くと同時に分かるまで何度も平気で聞き返すのに慣れた。日本人の英語ではなく東南アジア人の英語アクセントに近い。マレーシア人やシンガポール人と間違えられる。
  • タイ語は正式には学習する機会はなかったけれども、10年以上居たので生活を通して耳から憶えた。ハッキリ言って日常会話に毛が生えた程度。ただし田舎の漁夫などと何とか「仕事上必要な会話は出来るし、ラオス方言や南タイの方言も多少は分かる。耳からの聞き覚えただけなので、文字は看板がやっと読めるかどうかの程度、書物や新聞などは読めない。しかし、電話などではタイ人と間違えられる。数秒後にはタイ人ではないと悟られるのだが…。
    下手の横好きで日本語の方言や各国の「言葉の問題」には趣味と言うか、個人的には大変興味を持っている。

  • 職  業 : 水産生物学を専攻、卒業後兵役を終わって政府の水産研究所に就職。取り分け「水産資源の研究」に携わって来た。40歳代後半からは日本を離れ、海外の国際機関での調査研究と教育指導に従事して居た。現在はささやかな年金の生活で糊口を凌いでいる。傘寿を過ぎた今では機会があれば海外の旧友をヨロヨロしながら訪問し旧交を温めている。
  • 電算機(パソコン)は若い頃から計算のため良く使っていたので、本当は初歩的な知識しかないが、現在のWINNDOWSなどは試行錯誤しながら何とか使える。ホームページを開設し「ボケ防止」を兼ねて好き勝手なことを発言している。四苦八苦の「四苦」を意は仏教用語で「生病老死、ショウ・ロウ・ビョウ・シ」のことだそうだが、人生行路の最終段階、サッカーで言えばロスタイムに入った処に居る…と自分では思っているので、さてこの四苦八苦の「好き勝手な発言」が何時まで続けられるか分からないが?(笑)。

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私の履歴のTOPICS

 

家系 出生 幼稚園・小学校 中学 進学上京 農林省水産講習所 中国語学習ガザミの研究 学徒出陣 敗戦と帰国 就職 琉球の水産事情調査 中華人民共和国への出張 レンコダイ資源の研究 日韓漁業共同委員会 Working Party on Trawling IPFC.第13回総会 台湾訪問 SEAFDECへの赴任 NACA Programme で中国の無錫に出張 帰国後OBとなって ホームページの開設  ホームページを開設した動機 - Blog を開設 - PCのDownと新機の設定 - 新機種を更に追加眞道重明のホームページ

 

 


  • 家系:大名の細川家の家臣。ガラシヤ夫人で有名な丹後の國の時代からの家臣で、細川家がその後、小倉・熊本と國替えになるのに伴い最後は熊本に住む。父の話では子供の頃は「丹後」と書いた長持ちなどが家には在ったそうである。「真道」と書いて「シンドウ」と読む苗字は珍しいようだが、私の一族だけでは無い。Webで検索すると一族以外で同姓の人はかなりの数の人が見付かる。父や叔父はかなりこの問題に興味があったようだが、私はそれ程ルーツにこだわりは持って居ない。

 

  • 出 生 : 1922年熊本県宇土町で誕生。両親は仕事の都合で京都市に在住中であったが,母は里に帰って出産する当時の風習にしたがって里の実家で出産。男子出産の電報が京都に届いたとき、丁度その日は大正天皇の誕生日の天長節(大正天皇は8月の盛夏に生まれたので、国民祭日を10月の末日に変更されていた)当日。「日の丸」の国旗を門前に掲げている最中だった祖父の徳重は電報を見て涙を浮かべたらしい。それを見た親戚の人が「鬼の目にも涙」といったという伝説がある。西南戦争に細川藩士として薩摩と戦った祖父は未だ武士の面影を残す人で謹厳に過ぎ,大変口喧しかったらしく,影では「鬼」といわれていた由。父はその後大阪市に転勤。私は中学までは大阪で育った。

 

  • 幼稚園を経て住吉区(当時)の田辺尋常高等小学校に入学。多くの恩師の記憶はあるが正確な氏名は忘れてしまった。正確に憶えているのは一年生の時の担任の初老の女の先生で佐々先生、それと校長先生は川崎と言う名前であったことである。1934年(昭和9年9月21日)の室戸台風で校舎が崩壊と言う事件があったり、日中戦争の足音が聞こえている時代であったが、無事に卒業。
    原籍は九州であるが育ちは大阪である。生まれたのは上述のように熊本県の宇土市であり、勿論そこへは多数回訪れたが、宇土市に住んでいたと言えるのは戦地から復員した直後の僅か数ヶ月である。だから大阪の田辺一帯、山坂神社、長池公園、桃ヶ池公園などが遊び場で「心の中の故郷」と言える場所である。

 

  • 小学校から大阪府立生野中学校に進み、この中学校には四年間在学した。四年生終了後、進学のため上京した。この中学校は今では生野高校となり、場所は移転しているが、人生で最も多感な時をこの中学校で過ごした。中学を離れて以来母校を訪ねたのはたった一回。四年間を共に過ごした学友との交遊は極少ない。しかし、インターネットのお蔭で80歳を超えた今になって生野高校のホームページの掲示板を通じ後輩の人々とは交信している。「有り難きし合わせ」である。「Acorn とヤンベさん」

 

  • 進学のため上京 ; 1939年農林省水産講習所(その後「東京水産大学」と名前が変わり、さらに2003年に東京海洋大学となって現在に至っている)に入学。生物学を専攻したかった私は大学に行きたかったが「そんな金は家には無い」と言われ、生物学が学べる同校を選んだ。学費は返済を必要としない某会社の特別奨学金で賄い,基本的には親の世話にはならなかった。入学式には父が上京してきた。海軍の軍楽隊が演奏したのを聴いた父は水産講習所という学校を「海軍の軍楽隊までが入学式のお祝いに来た」といって見直し感激した。見直したというのは父は水産講習所を全く知らず、内心では受験に反対していたからである。「スタノボイと雲鷹丸記念歌」

 

  • この農林省水産講習所という教育機関は文部省の管轄下にはなかったので「学校」という名前ではなかったが、100年以上の歴史を持つレッキとした四年制の国立の学校であったが、講習所と言う名前だったために知らない人は「何ヶ月の勉強をするのですか?」、「本科は四年です。その上に二年の専攻科があります」と答えると、「それはまたえらく長い講習ですなぁー」、「それで何を勉強するのですか?」との質問に、「ヨーショク科(養殖科)です」と返事すると、「やっぱりこれからは和食より洋食ですねー」。その人は料理学校と勘違いしていた。

 

  • 中国語の学習 : 同校在学中の1940に東京外国語学校(現在,東京外国語大学)専修科[支那語科]入学。夜間学級で当時は中国語とは言わなかった。学校は一つ橋にあった.包象寅という有名な先生からは「名著の定番である急就篇を基礎とした教科書」を習った。朱先生は北京で英語教師をしていた人で、京劇が好きな人だった。この朱先生からは満支官話教程という教科書で「尓有麼?、我没有」から始まる丸暗記方で習った。学生は社会人や陸軍の憲兵などが多く、私のような学生は僅か数名だった。台湾の人も居た。昼は水産、夜は外語と忙しかった。本業の水産の学校の寮に帰ってからも消灯後,特別に利用できる小部屋で発音や四声の練習をした。中国語は中学時代からラジオで独学していたので「声調や発音がよい」と褒められ嬉しかった。夜間学級と言っても足掛け3ヵ年間受講した。このお蔭で戦地の中国から栄養失調にもならずに生きて日本に帰れた。急就篇

 

  • 農林省水産講習所(現在の東京水産大学)の本科養殖科から更に専攻科養殖科に進み、卒論に「ガザミの人工飼育を選んだ。ガザミ(亦の名はワタリガニ)の稚仔の飼育に成功、カニ類の人工飼育では世界で6番目だった。戦時下で印刷事情も悪く、学術誌に発表する機会はなくただ要旨が記録されている。

 

  • 学徒出陣 : 1943年秋、学業半ばにして技術系学生も一斉に軍役に服することとなり,私が専攻科学生として最上級生であったため,全校を代表して出陣式の式辞を読み、その足で宮城前に駆け足て赴き万歳三唱をした。学業は後で戦時特例として繰り上げ卒業として処理された。いわゆる世に言う「学徒総出陣」である。現役兵として西部第22部隊(工兵第6連隊)に入隊、辛い初年兵教育が終わった翌年春、航空気象連隊と言う兵隊さんらしからぬ特殊部隊に転属、新京(現在の長春)を振り出しに中国大陸を北から南に南下して、広東省の広州市で敗戦を迎えた。

 

  • 敗戦と帰国 : 「撃ち方止め」の後、日本軍からそれ迄敵だった中国空軍第四方面軍司令部に通訳官としての転属命令を受け、中国の兵隊さんから敬礼される身分になった。異例中の異例体験であり、日本軍以外の中国軍や米軍の実態を垣間見ることが出来た。1946年4月日本軍に復帰。6月久里浜に帰還、復員完結、兵役招集解除。郷里の熊本県宇土町に帰還。軍隊経験についてはこのホームページの従軍奇談 (停戦後、敵だった軍隊の司令部に勤務した体験)に記載してある。

 

  • 就 職 : 1946 年夏、農林省水産試験場に就職、熊本県天草郡富岡町の九州大学臨海実験場内に設置された農林省水試分室で研究活動を開始。同実験所創設者の大島 廣 (学士院会員、九大名誉教授)先生と足掛け3ヵ年起居を共にし、英・独・仏の言語に精通して居られた同先生からエスペラント語を習った外に世界の動物学界の話や教室では教えてもらえない事柄に就いて多大の薫陶を得た。熱心なクリスチャンだった同先生から受けた知見や物の見方はその後の私の人生観に大きく影響したと思っており感謝している。「大島廣先生の想い出」

    1948年、機構改革で長崎臨時試験地に移動、これが8海区水産研究所の設立構想に沿って今の西海区水産研究所となった。原爆投下から2年後の浦上一帯はまだ一面の焼け野が原であった。研究所では専ら東シナ海の底魚資源に従事した。
    西海区水産研究所の創設時の経緯の想い出はここ西海区水産研究所創設時の経緯をクリックして下さい。

 

  • 琉球の水産事情調査 : 1951年「琉球に於る水産研究事情調査」のため1ヵ月間の出張を命ぜられ、西海区水産研究所の初代所長の伊藤氏と共に、若い私は「所長の鞄持ち」の恰好で沖縄を訪れた。当時沖縄は未だ米軍の占領下にあり、パスポートが必要であった。黒い羊皮紙のカバーの昔ながらのパスポートは大事に今でも持っている。真の目的は琉球の水産研究所の戦後の再建のための適地の選定や仕事の内容の策定に関する助言であった。この年に日本は講和条約でGHQの占領が終わったが、沖縄の本土復帰は1972年であり、この時より20年も後のことである。沖縄政庁と米軍機関の間を行き来した。那覇には戦前数回訪れたが、現地の雰囲気は私には平和に感じられた。 詳しくはここをクリックして下さい。

 

  • 中華人民共和国への出張 : 農林大臣名により1957年8月に中華人民共和国に3ヵ月間の出張を命ぜられた。これは未だ同国との国交がなく、民間漁業協定の合意事項により、技術交流のため、北大の水産学部長を定年で退かれた直後の渡辺宗重先生と共に訪中した。中国側の窓口は中国漁業協会(会長は楊U氏)の要請もあり、出張期間を1ヵ月延長して12月末に帰国。日本の国家公務員としては戦後の訪中第一号であった。当時日本では全く知られていなかった中国の水産業の実態をこの眼で確かめられたのは有り難かった。その詳細な顛末はこのホームページの1957年の訪中記 (建国後8年目、国交の無い中国の水産)にある。

 

  • 「東海におけるレンコダイ資源の研究」を発表 : 10年を費やしたレンコダイ資源の研究結果を論文に纏めた。1960年この論文で日本水産学会賞を受賞、また農学の学位論文(京都大学、旧制/農/168)となった。特記すべきことでは無いかも知れないが、研究に従事する者としては矢張り仕事の上での一つの節目であったと思っている。

 

  • 日韓漁業共同委員会 : 1965年の日韓国交回復により、両国間の漁業協定締結を前提とした日韓漁業共同委員会が翌1966年5月から始まった。その第1回会議に日本政府随員として大韓民国に出張。私は同委員会の1970年における第5回会議まで毎年参画し、ソウル・釜山・慶州・浦項・木浦・済州島・その他各地を訪問した。強く印象に残っているのはやはり第1回会議で、日本大使館は未だソウルの半島(バンドー)ホテルの中にあった。

    2週間ぐらいで共同声明文に調印できる予定が、協議難航のため結局2ヵ月近く掛かった。旅費が足らなくなり大使館も貸してくれず、各自の個室を引き払い、相部屋でホテルの支払いを節約した。ソウル市内に日本人は殆ど見掛けず、路上に櫛などの小間物を並べて売っている人達が我々の日本語を聞いて、流暢な日本語で「20年も日本語は使っていない。懐かしい」と目を潤ませていた光景が脳裏に焼き付いている。 
    詳しくはここをクリックして下さい。

 

  • FAO/IPFC/Working Party on Trawling : 1966年夏、FAOの印度太平洋漁業理事会の南シナ海のトロール作業部会員としてタイ国(バンコク)に在るFAOのアジア太平洋事務所を訪問。この作業部会はその後数回開催された。協議結果の取りまとめを担当することとなり、1972年にローマのFAO本部水産局に3ヵ月滞在して報告書を執筆した。私にとってはその後しばしば訪れたFAO本部訪問の最初の機会となった。

 

  • FAO/IPFC.第13回総会 : 1968年10月、オーストラリアのブリスベーンで開催されたFAOの印度太平洋漁業理事会に日本政府代表として参加し、シンポでは東シナ海の底魚資源の問題点を報告した。外務省には大きなサイズの字が打てるタイプライターがあり、Letter of Credentials、分厚い紙のいわゆる「信任状」なるものが私のために作成されて居り、「汚さず、折り曲げず、疎漏無きように携行せよ」とのお達しがあった。「これを持参する者は日本国政府を代表する者であることを証す」と言う訳であろう。そのため卒業証書を入れる紙筒、ただし途方もなくデッカイものを買った。スーツケースには入らず手で持ち込んだ。身柄もその間は外務省に出向している形だった。

    私は政府代表などと言う柄ではないし、言葉も大して出来ないからと行くことを何回か辞退したが、「現地領事館から通訳が付く、言葉など心配ない」と騙され、口車に乗せられて承諾した。現地では通訳どころか在外公館からは誰も会議には顔を出さない。例の大袈裟な赤い封蝋でリボンを綴じてある「信任状」を提出したのは参加国中恐らく私だけで、中にはポケットから四つ折にした紙片を出す国も在った。何だか変な気がして意味も無く恥ずかしかった。FAOの会議受付係は畏まり押し頂いて読み、それから和やかな笑顔で握手して呉れた。

 

  • 台湾政府の要請による台湾訪問 : 当時台湾では行政府の一般漁業統計と調査機関の漁業統計は相互に何の連係も無く非効率で無駄が多かった。この問題の助言を農業復興委員会の要請で1968年末に渡台した。

    私は大陸を訪問した経歴があるので通関時に面倒があるのではないかと多少不安であった。当時は大陸の中華人民共和国を訪れた外国人は台湾入国を許されないとの噂があったからである。通関時のパスポート検査官は偶然にも私と同じ「重明」と言う名前で、おまけに私の生まれた月日が蒋介石総統のそれと同じだった。数日後には国を挙げてお祝いの準備中だった。「こんな目出度い人は居ない」と私に告げてポンとスタンプを押し「很好了」と言うことで素通りできた。台湾政府からの招請状を提示するまでも無かった。

    基隆や台北には戦前行く機会が数次あったが、戦後の基隆・台北・高雄などどうなっているのか興味があった。皆が北京語を話し、若い人は日本語を知らない点が大きく変わっていた。タクシーの運転手などには軍隊を退役した人が多く、私が北京語を話すので日本に居る華僑と度々間違われた。
    林書顔

 

  • SEAFDECへの赴任 : 日本が肩入れして出来た国際機関、東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)の日本人初代次長(猪野俊氏、水産庁研究一課長、南西海区水産研究所長を経て SEAFDEC に赴任されて居た)の突然の辞任帰国で後任を急遽派遣することになり、私に要請があった。FAOなどの仕事で東南アジア海域のことを多少は知っていると思われていたせいである。当時私は50歳、東海区水産研究所の企画連絡室長(所長補佐、先任部長的なポスト)だったが、普通なら次は何処かの水研の所長に転出する立場にあった。

    現在はそうでもないが、当時の所長は労働組合対策に専念する役目で、技術や研究面の仕事は全くといってよい程従事する暇は無く、今後の身の振り方について迷っていた。

    要請を受けた1973年春から1984年秋まで足掛け12年間に亘って同センターの Deputy Secretary General(事務局次長兼訓練部局次長)として勤務した。勤務期間に関しては日本人としては最長記録である。初期の3年間は反日運動、組織の崩壊に繋がり兼ねない混乱、調査船のビルマ海軍による拿捕事件など、苦難の連続であったが、その後は「雨降って地固まる」の譬えでは無いが一応安定した組織となり、現在の発展に繋がる基盤ができた。

    今では多くの人が知らない初期の異常事態はこのホームページに苦渋に満ちたSEAFDECの創立 (忘れ去られようとしている裏話)と題して記載してある。
    この SEAFDEC
    での初期の困難期を過ぎると順風満帆とは言えない迄も、円滑にことが運べるようになり、集積回路を持つ電算機の操作を独学で修得する余裕の時間も持てるようになった。「私とパソコン」

 

  • FAO の NACA プログラム(世界養殖業発展計画)の東アジア拠点として中国の無錫に開設された施設の開所式(1983年)に SEAFDEC 代表として参加、Statement を述べた。水産部門として中華人民共和国が開催した第1回目の国際会議であった。また私個人にとっては1957年の初回訪中に次ぐ第2回目の訪中であった。各国から200名ぐらい集まった。1957年以降、中国は文化大革命で紅衛兵が跋扈、私はその後の26年間は訪中出来なかった。ケ小平の経済開放政策により、やっと再度の訪問が可能となった。
    この会議に日本人は私一人であった。水産養殖技術では世界でTOPの日本は再三の各国からの要請にも係わらず、プログラム自体にも参加していないし、したがって出席もしていなかった。

 

  • 1984年秋、SEAFDECから帰国。長年勤めた農林水産省に所属する研究所は手続上では既に退職していたが、国家公務員の立場は特別措置により退職後も未だ2年間は残っていた。そして帰国した時点で実質的に現役の公務員から退き、OBとしての人生第二の生活に入った。10年以上母国を留守にしていた訳だが、この間に日本は大きく変貌しており浦島太郎のような気がしてならなかった。その空白を埋める何かをしなければ…と言う衝動に駆られた。

 

  • OBとなってからは、国内では國際友好団体、國際漁業協力団体、大学の講師などに従事。国外に就いては、中国やタイ国の政府、SEAFDEC などの地域国際機関や国連のFAOおよび世界銀行などの諸機関、OFCF などからの邀請による中国・タイ国・スリランカなどの調査や指導などに携わって来た。

    また私的な形での祝賀行事参加などの海外訪問をしている。
    「上海水産大学90周年祝賀」これら人生第二の生活も既に20年を超え、サッカーで云うロスタイム、換言すれば「人生の最終段階」に入りつつある。

 

  • 2002年2月に「真道重明のホームページ」を開設、この個人のホームページを通じて見知らぬ国内や国外の人々のメール友達も増え現在に至っている。

    ホームページといっても技術的には Home Page Creator により沢山ある機能のうち私の理解しうる初歩的な水準の仕組みだけを使って居る幼稚なものである。

    勝手な事を喋っているが、先輩や友人からの投稿もあり、まや、全く予期しない、それも国外からの友人や日本語の読める未知の人々からのメールで「ホームページを見た」との連絡でご意見を下さるのはとても嬉しい。何時までパソコンを続けられるか分からないが、このようなメールを貰うと「生きて居て良かった」とフト思う心境になる瞬間もある。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/

 

  • 2005年12月に昨今では大流行のホームページである Blog に挑戦、取り敢えず加盟プロバイダーの無償サービスの Welog と2006年1月に無償サービスのココログを開設、HTML エディターや FTP ソフトを使う従来のホームページと異なり、総て画面上から操作できる超便利なものだと云うことは分かった。

    しかし、まだ試行錯誤の連続に四苦八苦の最中。従来のホームページとの連携をとった。

http://s-shindo.cocolog-nifty.com/blog/

 

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NACA

STATEMENT BY DR. SHIGEAKI SHINDO
Deputy Secretary-General
Southeast Asian Fisheries Development Center (SEAFDEC)
Bangkok, Thailand.

24 October 1983
NACA, WUXI MEETING.
Wu-Xi, P. R. China.

On behalf of the Southeast Asian Fisheries Development Center (SEAFDEC), it gives me great pleasure to participate in the Third Advisory Committee Meeting of the Network of Aquaculture Centres in Asia. I am especially pleased to say a few words about SEAFDEC's collaborating role with NACA.

As you know, the SEAFDEC Aquaculture Department, on behalf of the Government of the Philippines, has served as the NACA Lead Centre (or RLCP) since 1980. Thus a close relationship between SEAFDEC and NACA has developed since the formation of the Network, culminating in the signing of the Memorandum of Understanding on 13 May 1982 by the SEAFDEC Secretary-General and NACA Coordinator. This Memorandum describes the mode of operation of the activities of the RLCP.

The SEAFDEC Aquaculture Department and NACA have similar objectives to stimulate fisheries development on aquaculture. Since 1980, the Aquaculture Department has done its utmost to collaborate with the NACA team.

The collaboration between the Department and NACA comprises three main areas, namely: The NACA training course for senior aquaculturists which is incorporated as part of the Aquaculture Department Training and Extension Division's activities;

Research on brackishwater fish and shrimp (tiger prawn) culture; and Information services which are being implemented by the personnel of the Aquaculture Department. Over thirty Aquaculture Department personnel are actively assisting the RLCP research and information activities, as well as providing office facilities.

Also, the Aquaculture Department has provided fellowships to the NACA Training Programme for Senior Aquaculturists. Eight fellowships were provided for the first session held in 1981/82. Ten fellowships were provided for the second session in 1982/83 and there are ten more for the third session in 1983/84. Thus, the Aquaculture Department has provided 28 fellowships to-date for the one-year degree course for senior aquaculturists. SEAFDEC does this because training skilled personnel is one of its primary objectives.

In addition, the Department provided total financial support amounting to-date is US$513,070 under training and research expenses. In collaboration with NACA, the Second Training Course for Senior Aquaculturists ended on 25 March 1983, while the third session commenced on the same date.

Various training and communications equipment procured by NACA were availed of, particularly the audio-visual equipment for the development of technology packages. This is because SEAFDEC pays a great deal of attention to transferring technology to the grass-roots fish farmers. As a joint project between the Department and NACA, the aquaculture information which has been compiled thus far is being digested for wider distribution.

Lastly, let me assure NACA that SEAFDEC will continue to collaborate as much as possible in order to complement our efforts to further aquaculture development. Such collaboration based on mutual understanding as exemplified by the pooling of expertise and resources avoids duplication of effort. However, to be most effective, the collaboration needs to be undertaken on an equal basic for mutual benefit. It is hoped that this spirit of collaboration will continue and that SEAFDEC will be able to continue its whole-hearted support to the NACA programme.

Copyedited by Shindo, June 2006.


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PCdown

PCのDownと新機の設定

 

パソコンが 2006/07/11 に Motherboad のクラッシュという致命的な問題が発生した。BIOSも起動しない。安定性に優れた最近のマシン、全く予想もしていなかった。MFVの新機を購入、悪戦苦闘の末、何とか総てのデータを失わずにデータ構成と使い勝手を一応新機に移行するのに2週間余、周章狼狽した指先の震える老人がその顛末を記録した。10数台買い換え、旧機が人生の最後のマシンと思いたかったが人生は最後までそう甘くはない。

災害は忘れた頃にやって来る (寺田寅彦)。老若男女を問わない。

 

真道 重明

2006年7月

ご意見や質問は→

 

積回路が組み込まれた電算機を使い始めて20余年経った。シングルタースクの時代と異なり、最近のパソコンは滅多なことでは壊れない。画面がフリーズしても再起動すれば殆ど直る。電源を強制的に切っても、昔と違って HD は大抵は大丈夫だ。この5-6年、無事故だったから、ツイ甘くなって居た。Mother-boadのクラッシュらしい。BIOS も立ち上がらない。2006年7月11日の午後4時前、突然画面が真っ暗になり、ビープ音が数回鳴った。「ヤラレター!」と直感した。

5時前だったのでメーカーのサポートに電話した。指示通りいろいろテストの操作を試みたがウンともスンとも反応しない。メーカーは「工場送りの修理だ」と云う。ご承知のように「工場送り」の場合、購入時のデフォルト状態に戻されて了う。個人データは月に一回は定期的に D ドライブと MO および CD と3重に取って居た。これは20年以前からの苦い経験で鉄則として身に付いて居る。たが、前回から20日以上経っている。ダウンしたマシンは6年間酷使して来た特価品った。CPU も1GHz 前後の古いものだった。で、「そろそろ買い換えなければ!」と思っていた矢先にこの不幸が起こった。

先ず、「対応策をどうするか」である。(1)今までのマシンを棄てやや高性能の新しいマシンにする。年金以外に収入の無い身の上には辛いがやむを得ない。(2)沢山ある個人データは外付け HDD を購入して、旧機の2つある HD の内の C¥ドライブを入れ、新機(FMV、CPUはPentium4)にトラブル発生時点までの内容を移行させる。旧 C¥ドライブが壊れていないことを前提とする訳だから一種の賭けである。壊れていれば20日前のバックアップを移行させるしかない。外付け HDD は昔に較べ非常に安価であり、新機のバックアップに活用できると考えた。

(3)モノクロのレーザー・プリンタはまだ使えるが、10数年前の古い型で、部品のトナーなどはもう売っていない。接続端子もパラレル型で新機のパソコンには便利なUSBばかりであり、パラレル接続端子は付いていないものが多いので、この際、USB接続のインクジェット・プリンタを新調することとした。長年慣れ親しんできたFDD も新機には無い。日進月歩のIT機器、「なるほどなー」と今更感心した。(4) ADSLを経常経費が安く100Mbpsの高速の光回線にこの際切り替えることとした。

パソコン歴20余年とは云ってもタダ使うばかり。5年に一度ぐらいしか行わない仕事だ。しかし、余り難しい作業ではないと思ったが、スッカリ歳のことを忘れていたのは大きな誤算であった。84歳に間もなくなる私の眼は筐体を開いて HD を取り外す工事は若い頃(60歳頃まで)のようには行かない。第一、マイクロ・ドライバー(時計屋さんなどが使う小さなネジ回し)をランプ付き拡大鏡を頭に被って操作することは至難とは云わないまでも、80歳を超えた視力の衰えた眼では無理であり、第一指先の力が衰え、緊張すると震える。それどころか筐体を「ドッコイショ」と持ち上げる体力も腕力も無い。古いレーザー・プリンタなどトテモ重くてラックから持ち上げることも出来ない。

年寄りの愚痴になるが、脳の海馬体もかなり劣化しつつあり、操作手順を忘れて了う。やむを得ずパソコンに強い知人に来て貰いハード面の作業を助けて貰った。旧機も新機も OS は MS-WINDOWS の XP である。だからデータの移行は簡単と思っていたが、これも誤算であった。賭けだった旧機の C¥ドライブは幸運にも異常がなかった。旧機と新機はプリインストール版である。メーカーが異なるとマイクロソフトの正規版ではないから各メーカーが独自の機能や付録ソフトを組み込んでいる。ハード面の設定は一応は終わった。しかし、これからが大変だということを今回イヤと言うほど思い知らされた。

新機種への移行は個人データを含めて過去のシングルタースクの MSDOS時代に10回近く経験がある。たいした苦労ははなかった。WINDOWS XP 時代になってからは初めての経験である。パソコンの前に座っての画面を見ながらの作業である。私は率直に言って XP なるものの仕組みの理解が充分ではない。どうしても書くことに気持ちが走ってパソコン技術は勉強不足となる。

個人データと同様、ユーザー辞書はこの20年間登録した内容を VJE の β・γ・δ を経て、2年前から ATOK に移行させて使っている。VJE から ATOK にユーザー辞書の内容を引き継ぐのには苦労した。今回の機種変更でそのユーザー辞書が見付からず、メーカーに訊ねたが旨く行かず、知人に助けて貰って差分抽出法で成功した。辞書に関する操作は難しく、私もよく解らない。なにしろ約2万件(登録されている数。その4割は屑だから1万200語。手作業では数ヶ月掛かるだろう。気が遠くなる仕事でトテモやる気がしない)。

この20数年間にパソコンを10数台買い換え、今度の旧機が人生の最後のマシンと思いたかったが世の中そう甘くはない。寺田寅彦の言葉に「災害は忘れた頃にやって来る」と云うのがある。老若男女を問わない。

 

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「真道重明のホームページ」 を開いた動機

(2007年11月)

(2007/05/19数値更新)

ームページを開いた理由を尋ねられて、「呆け防止のため・・・」などと陳腐な尤もらしいことを答えている。確かにそれは動機の一つである。こんなことが呆け防止になるか否かは別として、2009年の今年で5年目、アクセス数は9.8万回を超え10万回に近づいている。しかし、このアクセス数のカウントはいい加減なもので、年平均で1.6万回、月平均では1300回に計算上はなるが、Upload 作業毎に数回は増えるし、実際にアクセスして、たとい斜め読みでも記事を閲覧して呉れる人は、その一割か二割にも満たないのかも知れない。TOPページを見ただけで目的に適いそうなページではないと次に飛ぶ人も多いからだ。

だが、若し、1割か2割だったとしても、1.6万人、ないし8千人の人が斜め読みだったとしても、兎に角、中味をチラット読んでくれたとしたら私にとっては「とても嬉しい」。最近は自分史の自費出版が流行っている。だが500部か1000部を刷って知人に配布しても、受け取った人は封を切って目次をチラット見ただけで、お礼状のハガキは礼儀上出すが、本棚に放り込まれる運命となるものも少なくは無い。

文才とお金があれば自費出版も結構だが、文才もお金も無い私など、仮令、自費出版しても、有名人でもない凡人の私のこと、全く読まれずに、本棚に入れられれば未だしも、直ちに屑籠に放り込まれる羽目になる可能性が高い。

「週に2〜3回の更新を」と思いつつ、更新の回数だけは数えるのだが、中々確りとしたものは書けない。脳の老化の促進は勿論のこと、元々が怠惰な性格の私、書きたい話かりが次々と頭に浮かんでも、それを最後まで書き通せないため中途半端な内容となることも度々です。

また、誤字や脱字も目に付き次第直しているが、不充分であるに違いない。これも老化のためだと言い訳している。拙いサイトであるのはその通りだが、見て頂く方も居られ、ご連絡いただく方もかなり居られる。そんな方々との新しいお付き合いもサイトを開いている余得であると思っている。

 

 

日の NHK のテレビ番組「クローズアップ現代」で、最近は「貴殿の原稿を本にします」という詐欺まがいの商法が横行して居ることに警告を発していたが、これが猖獗を極めているらしい。そう云えば新聞などでそのような広告を近頃はよく見掛ける。凡夫の浅ましさで、多くの人は「自分がこの世に存在したことを知って貰いたい」と云う欲望がある。道路族の国会議員などが郷土の河に橋を架けたり、道路を造ったりして、橋や道路の名前に「自分の名を彫り込む」のもその一例だ。自己の宣伝もあろうが、心の奥には細やかながら「青史に名を残す」と云う意味に近い心情があるように思う。

凡夫の最たる私にも、呆け防止と云うのは名目で、自分という人間がこの世に存在し、「下司の考え休むに似たり」的な愚文や駄文を弄して居るが、書いたものを誰かに読んで貰いたい気持ちが私の胸中に在ることを否定は出来ない。寧ろこれが私がホームページを開設している真の動機の一つであるように思う。

40歳代の若い頃、知り合ってザックバランな話をする友の一人となった東大法科出の、いわゆる「特権官僚」と呼ばれるその友人が退官する直前に私と二人で席を共にする機会を得た。「俺たちは50歳を超えると天下りさせられ、転職させられる。何れは『そんな奴が居たのか』とその内皆から忘れ去られる運命にある。君たちには研究論文の云うものがあり、後世に死後も名前が残る。羨ましい」と云う言葉を聞いた。「自己の存在を後世に残したい」と云う欲望は人の本能的なものだろうか?

書籍と違って個人的ホームページは閉鎖してしまえばそれ迄だから「後世に残す」と云うより「開設中の時間」だけである。何処かで誰かの目に止まればそれで嬉しい。仮令それが異論であり反論であろうとも・・・関心を持って頂いただけでもとても嬉しいものだ。無視されて屑籠に放り込まれない迄も本棚に直行し全く読まれない運命の書籍自分史よりズットましではないか?・・・。

 

 

の外にもう一つ動機がある。定年前の10数年間、私は海外の国際機関に居て日本には業務一時帰国で年に2回程度、それも1週間の短期間で、多忙を極め、まさに「とんぼ返り」だった。海外勤務を終わって帰国した時は「浦島太郎」同様、皆から忘れ去られて居た。

現役最後の10数年間は第2次の仕事をするための就職や活動にとって実に重要な期間であることをツクズク知らされた。凡庸な私の名前なぞ忘れ去られて居る。幸い、海外勤務に出る前に「帰国した後の就職は面倒を見る」と云う約束だったので何とか場所を得たが、嘗ての旧友の多くとは接触の機会がある訳ではない。ホームページは多少はこのギャップを取り戻せるのでは無いか?と思った。

事実この目的は或る程度効果があった。かなりの旧友との関係を取り戻せた。ただし、歳既に60歳代の中端、PC に縁のない旧友には全く無効である。若い友人は増えたが・・・。

 

 

79歳の末にホームページの試行を試み、80歳になって契約しているプロバイダーの無償サービスのサーバーの50MBを借りて五年目になる。幸い時々は読後の感想やコメントを頂くことがあり、E-mail を通じての知己も得た。また日本語が読める海外のサイトで私のページのリンクを張って下さった処もある。

得た知己には、国内・国外の、また水産野は勿論、水産以外の分野で有名な方々も居られ、実に有り難いと思っている。80歳も半ばに近く、最近では「物忘れ度の進行を自覚する」今日此の頃だが、体力的に机に向かえる間は続ける心算で居る。

 

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ESPRIMO

PC本体としてESPRIMOを更に

追加購入、旧機とLanを組んだ

(2008年5月22日)

 

Diskpower (富士通、2006年7月購入)に加えて、2年後の2008年5月に新たに Esprimo を更に追加購入、双方に Lan Local Area Networkを組み、旧機との間を相互に操作を可能にするため Linkstation を導入。

パソコンの仕組みに関する知識の無い私にとって、この辺が限界、自宅で一人独立して近所に教示を請う人が居ない私には、使用可能な機能のごく一部分だけしか使っていないと思われるが、止むを得ない。

20年前頃は筐体を開けて自分で電纜の接続異常の修理やメモリの増設などを行っていたが、80歳を超えると、目は翳み指先は震えて力が入らず、そもそも本体やモニターを持ち上げることも困難になってきた。

マウスもホイールが動かなくなって仕舞ったので、5ボタンのレーザー・マウスに取り替えた。万事が驚くほど便利になったが、トラブルが発生すると複雑になった分修理には四苦八苦する。さて何時までパソコンのラックの前に座り続けられるのだろうか?(2009/02/27)。

 

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眞道重明のホームページ(真が眞の場合)

 

眞道重明のホームページ

 

「真道重明のホームページ」を「眞道重明のホームページと打ち込んだ場合、正體字の「眞」は常用漢字の「真」とは別の字として認識されるが、真道重明と眞道重明とは同一の人物で同義(synonym )で私のことである。

「眞道重明」で検索すると、「真道重明」と同様、多くのサイトが表示される。しかし、目的とする「眞道重明のホームページ」は表示されない。

この場合は http://home.att.ne.jp/grape/shindo/ をクリックして下さい。

 

 

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