http://www.ganseki.ne.jp/whats_new_971231_j.html今は昔、8ビット

今は昔、8ビットのマイコンと

懐かしい DOS の黒い画面

真道 重明

2004/09/22

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関連事項 「私とパソコン」     ← Click here


目 次

まえがき     ← Click here  

8 ビット CPU のマイコン時代    ← Click here

   懐かしの PC-1500    ← Click here

    8 ビットの PC-8801MKUSR    ← Click here

16 ビット CPU の 98シリーズ 時代     ← Click here

MS−WINDOWS 時代     ← Click here

  WINDOW 3.1    ← Click here

  WINDOW 95 - XP    ← Click here

想うこと (あとがきに代えて)   ← Click here


 

まえがき

 

以下に書いた文章はパソコンの仕組みに詳しい人から見れば「言わずもがなのタワゴト」かも知れませんし、述語などの用語の誤りも多いと思います。電算機の「仕組みがどうなっているのか?」の理解などどうでも良い、ただ、兎にも角にも、「仕事に使えさえすれば良い」と言う考えでしたから。私の理解不足による述語の誤用などはお許し下さい。なお、誤りを指摘してご教示くだされば「有り難き幸せ」です。

集積回路を組み込んだ個人用電算機(今のパソコンは皆そうですけれども)に初期の時代から接している人々の中には「そんな当たり前過ぎることに驚き、感激して喜んだり、そんな簡単なことに四苦八苦している人も居るのか」と云う方々も多いことでしょう。しかし、以下述べるような環境下に居た私の体験談を語ることは、場合によっては少しは「参考になることもあろうか」と思ってこれを書きました。

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周りにパソコンを使っている人は誰も居らず、したがって教えて呉れる人も無くだだ自宅のパソコンの前にポツンと一人座ってやっている。これを「スタンド・アローン」と言うのだそうだが、ALONE (孤独)と解すれば身に凍みる言葉である。

私のような立場の人間にとっては、「機器の仕組みや操作方法を勉強するために費やす時間」と、パソコンを使ってしたい「目的の仕事そのものに費やす時間や労力」の双方の労力配分のバランスに悩む人は、WINDOWS XP の時代になっても、いや、技術が進めば進むほど仕組みも複雑多岐にわたり、ますます憶えなければならない操作も増えて来ると思います。世の中はなかなか侭ならぬものです。

集積回路(IC)を使った個人向けの電算機に私が始めて触れたのは四半世紀まえの1980年代の初期で、シャープのPC−1500と言うマシンでした。当時「コンピューター」と云えば空調機で温度や湿度が制御された特別の部屋に据え付けられた大型電算機(今で言うスーパー・コンピュータ」のことを指していたように思います。

これより少し小型のものはオフコン(オフは多分OFFICEのオフと思います)と呼ばれ、専任の担当者が操作していたようです。だから、職場や自宅で個人が使えるマシンは未だごく少なく、マイコン(マイはMyでは無くMicroのマイ)とか、ミニコン(ミニはMiniの意味でしょう)とか呼ばれていたようです。これら個人用はあっても大変高価で私などの手に出来るものではありませんでした。

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このPC−1500と言うハンドヘルド・マシンの本体はポケットに入る電卓を僅かに一回り大きくしたような、したがって今のパソコンよりズット小さなものでしたから、持ち運びは楽でした。しかも私達が買える程度の価格でしたから1980年代の初頭に売り出された時は、一躍世界のヒット商品になり一世を風靡したようです。

筐体・モニター・キーボードなどの一揃いの機器を使ってパソコン操作の勉強をお始めになった1990年代(平成時代)以降の人々には「想像もつかないような面倒な操作」をしなければなりませんでしたが、その当時では後述するように「何と便利なものが出来たものだ」と非常に感激したものです。

BASIC言語 (Beginners’ All-purpose Symbolic Instruction Code)でプログラムを自分で書かなければ使用することは出来ません。現在ある表計算や文字列を扱うために特化した、いわゆるワープロなどのソフトなどは未だ無かったからです。私は専ら計算とその結果を円グラフ、折れ線グラフ、棒グラフなどをプロッタープリンターで描かせることにこの電算機を使っていました。

プログラムを書くのは大変でしたが、電卓と鉛筆とノートで手計算すれば2ヵ月掛かる処が僅か数分で済むのですから。しかも一度出来上がればいろいろなケースに応用できます。「なんと便利なものが出来たものだ」とただ感心し驚くばかりでした。

その後、上位機のPC−1501に買い換えましたが、勿論 CPU は同じく8ビット。その性能は System area が2KB、User area が600KB、全体でも1MB以下ですから、最近のWINDOWS XPなどの System 領域が3GB 位あるのに較べると、なんとも比較すること自身が意味の無いような機械でした。しかし、これはその当時では世界的に知られた名機?だったことを後で知りました。

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このマイコン(マイクロ・コンピューター)を触り始めたのは海外(バンコクに本部のある国際機関)でしたが、11年の勤務を終わって1984年秋に日本に帰国して見ると、これに装着可能な「横幅の広いロール紙やカット紙を使えるプロッター・プリンター」が発売され始めて居たので、早速購入し本体にそれを装着して、帰国後の1年間位は「苦労して使い方に慣れている」このマシン PC−1501を使っていました。

しかし巷ではフロッピーデスクドライブが搭載され、テレビのようなブラウン管ディスプレイを載せたマシンが氾濫し、主流になりつつありました。遂に意を決してNECの PC−8801MKUSR に移行しました。CPUは8ビットですが、ブラウン管のモニター、感熱紙のプリンター、Ten kye の付いたキーボード、それらを載せるPCラックなどを買い求め、一応外見は現在のデスクトップのような恰好になりました。

このPCラックはキャスターの付いた鋼鉄製四段の特注品の出物で、とても重い頑丈なものでした。出物でしたから安価だったのと、店員の口車に乗せられた訳ですが、重すぎるのが難点ですが堅牢この上なし。載せるマシンは次々変わりましたが、このラックだけは20年後の現在でも使っています。地震があればこの下に潜り込むつもりです。我が家の家具の中では一番頑丈です。

この MKUSR と言う8ビット機は1年間ぐらい使ったでしょうか?既に16ビットのCPU を持つ NEC の 9800 シリーズが発売されて居り、パソコンと言う言葉も世間に定着し、猫も杓子もこれらを使い始める時代になりつつありました。8ビットと16ビットのMS−DOSでは仕事は比較になりません。とうとう痺れを切らして、またもや NEC の 9801を買いました。PC−9801CV21 と言うマシンです。FDD も3.5インチになって居ました。

0年前のブラウン管のモニター画面は、計算する時も文章を書く時も、反転表示させない限り、普通は今ご覧になっているような画面、すなわち、黒い背景に白い文字であったことは皆様ご承知の通りです。電源を入れると、MS−DOSのプロンプト [ A>_ }が何時もピコピコと点滅して居ました。1988年の10月頃のことです。

その後、9801機はノート型も含め数台買い換え、とうとう DOS/V機に移り、WINDOWS 3.1から3.5へ、次いで3.8、XPとなって今に至りました。

最近、私が保存している全部の TXT ファイルを整理しているうちにタイムスタンプの最も古いものに1988年12月4日と言うのがあり、英文で海外の友人宛てに印刷して郵送したものであることが分かりました。記憶がハッキリしないので調べてみましたら NEC の 9801のパソコンを使って16年前に書いたものであることが分かりました。

これのことが切っ掛けとなって、私が1980年代の当初から今迄に使っていた昔のマシンや、その後に使ったワープロ専用機、日本製の最初のノート型パソコン等、「日進月歩のパソコンの急速な進歩に対する驚き」や、「馬鹿の考え休むに似たり」と言う言葉がありますが、素人の悲しさで試行錯誤の連続的堂々巡りの四苦八苦など、想い出が次々と頭に浮かんで来るので、それらを書いて置く気持ちになった次第です。

 

 

8 ビット CPU のマイコン時代

 

懐かしの PC−1500

私が IC を組み込んだ電算機を生まれて始めて手にしたのはシャープのPC−1500と言う 8ビットのマイコンでした。1980年代の初期です。

このマイコンのモニターは電卓の数字の液晶表示窓より少し横長い窓(下図参照)でした。ミニグラフィック表示、7×156ドット、文字表示は26桁でした。メモり容量は5KB位だったでしょうか?この本体の左側にプロッタプリンターを装着出来るようになっていて、書いたものを出力させると、XYプロッターが忙しく動き出してペンでロール紙に数字やアルファベットを一生懸命に書き始めます。ペンがチョコマカと忙しげに動く様子は面白い光景でした。

BASIC でプログラムを書き、それを(音楽用の)カセットテープに保存(SAVE)させ、プロッタ−に出力させると何を書いたのかが分かる仕組みです。また、保存されたプログラムをテープから本体に読み込ませて、窓に表示された指示に従って数字やローマ字をキーボードに打ち込み、ENTERキーを押すと計算された答えの数値の表やグラフがプロッターが書き出してくれる仕組みでした。

この機械はマイコン(マイは Micro の略)とか、ミニコン(ミニは Mini の略)やポケコン(ポケは Pocket の略)などと呼ばれていました。前述のように搭載されている CPU は未だ「8ビット」でした。アルファベット、数字、一部の記号だけしか使えんませんでした。1980年代の初期でしたから20年以上前のことです。

BASIC 言語を夜自宅に戻ってから独学で勉強しました。タイのバンコクに本部のある國際機関に勤務して居た頃のことです。周りにはコンピュターを使っている人は一人も居ませんでした。歳も若くはありませんでしたからプログラムを書いていても、何処まで書いたかすぐ忘れてしまいます。区切りのよいところまで一気に書いて置かないと翌日また最初から見て行かないと想い出せないので、ヤット区切りがつく処まで書き終わり、旨く出来たかどうかを確かめ、それをテープレコーダーのテープに保存する訳です。

当時のバンコクの電力事情は発電機が余り良く無かったせいでしょうか、普通は気が付かないのですが、10分の1秒程度の瞬間的な停電が良くあり、保存中や読み出し中に瞬間的な停電によってエラーが頻発し3回目にヤット「OK」となるなどの状態が普通でした。仕事を終わって時計を見ると午前3時の深夜になっていたことも良くありました。

 

 

使っていた機械。1982年にシャープが発売したPC−1500。全世界で100万台のベストセラーとなり、BASIC言語を標準搭載していました。左側にプロッタプリンターを装着出来るようになって居ます。小さいので持ち運びにはとても便利でした。

 

しかし、電卓とノートブックと鉛筆で「手計算をすると2ヵ月も掛かる」ものが「僅か数分」で回答が出るのです。自宅の仕事部屋の壁にはプロッタプリンターのペンで「横 6 cm、 縦 2〜3 m のロール紙」に書き出されたプログラムが、丁度写真のネガフイルムを乾燥させる暗室の光景と同じように、何本も並べて沢山吊るされて居ました。想い出すと懐かしい当時の様子を想い出します。昼は街の騒音で気が付かないのですが、夜半の仕事中に庭の椰子の実が落ちてドスンという音が時々して居たのを憶えています。

今から考えると操作の面倒さは気が遠くなるような話ですが、50歳半ばの未だ若い(?)私には苦痛ではなく、面白くて一生懸命でした。この時に付いた癖で WINDOWS XP を曲がりなりにも使っている現在でも数行書けば直ぐ上書き保存のアイコンを押してバックアップを取る悪癖?が付いてしまいました。それだけではなく自己データはその都度他のドライブの HD や MO にも取って置かないと気が済みません。

この手の機械は3台買い換えましたが、最後の1台(1501)は大切に箱に入れて記念品として今も持って居ます。当時素人の私が書いたプログラムは次のようなものでした。

5: REM **** PROG.-600A CATCH-EFFORT ANALYSIS-A ****
10: "A":CLEAR: WAIT 1000: BEEP 3, 60: PRINT "**CATCH-EFFORT ANALYSIS**": BEEP 3: TEST
11: INPUT "PEN SELECT(0-3)=?"; COLOR O
15: BEEP 5: INPUT "Initial YEAR=?"; A
16: BEEP 3: INPUT "No of YEARs(6-10)=?; B
17: BEEP 3: INPUT "No of YEAR colums=?"; E
18: FOR M=0 TO E-1: LF 2: C=A-1: LPRINT "YEAR": LF 2
19: FOR I=0 TO B-1: Q=Q+1: C=C+1: USING "###": LPRINT TAB 4; C
20: IF I=4 LF 1
21: NEXT I: Q=0
22: IF I<=8 LF (10-B)
23: LPRINT "SUM/MEAN: GO SUB 1000
25: NEXT M
29: REM ********
30: BEEP 10: WAIT 0: Z=B: H=Z-1
40: DIM A(Z,7), B(Z,7), C(Z,7), D(Z,7), K(7), P(7), Q(7)
50: FOR J=0 TO 7: CLS: K$="": CLS: K$="SQUARE KM("+STR$(J+1)+")=": PRINT K$;

(以下延々と続きますが省略しました)

記録には Sharp PC-1500, LANGUAGE USED: Expanded BASIC, Cassette=05-A, Tape counter 002-080, 08 March 1983, SHINDO (SEAFDEC) とあります。1983年5月にSEAFDECの教材内部資料(TD/SP Series)として印刷されました。このようなプログラムを70件ばかり作りました。

専門のプログラマーが見れば一目で素人が書いたと分かるものですが、得られる計算結果の数表の数値や各種の描画されたグラフは同じです。何処でこれを見たのかバンコク在住の未知のある米国人から「3分の1位の行数で書けますよ」と云われ「そうだろうなー」と思いました。バンコクの大学で Computer Science を教えている専門家でした。親切な彼にはいろいろ教えを受けましたが、他の仕事が忙しかったので会ったのは数回だったのは残念でした。

彼によると「この機種はアセンブラでプログラムを書くと驚くほど早いスピードで処理を行える。余計なインタフェースを通さないからフルアセンブラによる記述をすれば物凄く速く動く。ドイツやスイスを中心に、この機種に関するサードパーティ製の周辺機器が多数発売されており、外付けFDドライブやTVインタフェースなど海外のユーザーが夢中になっている優れたマシンです」とのこと。

そんな彼の言葉を聞いても「アセンブラでプログラムを書く」とはどう言うことなのか?、第一「アセンブラ」て一体何か?が分からない私にとってはチンプンカンプンの説明もありました。多分話に聴く「機械語」のことだろうと思い「machine language のことですか?」と尋ねると「そうです」とのこと。気が遠くなるほど難しい話だと思い諦めてしまいました。

バンコクから帰国して東京に戻ったのは1984年の秋でしたが、2年前にNECから発売された多分一般向けでは始めての16ビット機である「9800シリーズ」の全盛期でした。店頭で眺めるばかりで「すごい機械だなー」とは思いましたが、苦労してやっと使い慣れた「1501」から離れる気がしません。

しかも銀座一町目の京橋寄りの店で「1501」の本体に接続出来る「横幅が20 cm 位の広いロール紙やカット紙が使えるプロッタープリンター」が発売され始めて居るのを知り、早速買い求めました。ペンの色もプログラムに指示しておけば、4色がレボルバーのように回転しながら指示された色が使えます。何しろ大きなサイズのグラフが書けますので、一人で「悦に入って」居ました。

だから、帰国後1年間位はやはり「それ迄苦労して使い方に慣れていた」この8ビットの PC-1501機を使って居ました。しかし日本に居る周りの人は皆フロッピーデスクドライブが搭載され、テレビのようなブラウン管ディスプレイを載せたマシンが氾濫し、主流になりつつありました。

 

8ビットの PC−8801MKUSR

遂に意を決してNECの PC−8801MKUSR を購入しました。CPUは8ビットですが、ブラウン管のモニター、5インチのフロッピードライブが水平に2台並んでいました。それにジャージャー音のするドットインパクトのプリンター、Ten kye の付いたキーボード、それらを載せるPCラックなどを買い求め、一応外見は現在のような恰好になりました。

5インチのフピーデスクと言うものを私はこの時始めて見ました。フロッピー (Floppy) とはなんだろうと辞書を引くと「柔軟な、弱々しい、布などのペラペラした…」とあります。紙かプラスチック製のジャケットの中に入っているデスク(円盤)は、その名の通り薄くて軟らかいペラペラなもののように見えたのは確かで、名前の通りこれがフロッピーなのだと納得しました。

ご承知のように現在の3.5インチのフロッピーディスクは堅牢なプラスチックの枠の中にこのペラペラなデスクが収められていますから、窓枠(シャッター)をスライドさせないとデスク面を見ることは出来ません。5インチのフロッピーはジャケットに窓が在ってデスク面が何時も見えて居ました。

今どきこの5インチのフロッピーなぞ使う人は居ないので、店でも現在では売って居ません。その以前には8インチのフロッピーデスクと言う大きなものもあったのです。私は知人が棚の奥に仕舞ってあるのを一度見たことがあります。

この5インチのフロッピーデスクなるものは、それ迄使っていたPC−1500の時のカセットテープでは、プログラムやデータを読み込んだり書き出したりするのに数分も掛かかり、おまけに瞬間停電のエラーが頻発して3〜4度目にヤット「OK」となるのが普通でした。処がこのフロッピーでは僅か1〜2秒間カタン・カタンという音がしたかと思ったらアット云う間にもう済んでいます、SAVEやLOADのエラーなぞ先ず起こりません。「これは凄い」、私にとってはバンコク時代の苦い経験が頭にこびり着いているものですから「まさに驚き」でした。

2バイト文字(全角文字)の平仮名や漢字も「曲がりなり」ですが、とにかく書けます。しかし、8ビットのせいでしょうか、プリントアウトする時、プリンターのヘッドが左から右に動くとき字体の半分が半角で印字され、その後に右から左に動くと字体の残りの半分が印字される、すなわち往復して1行が書ける仕組みでした。1行が終わるとガタンと改行されるわけです。

今から思うと何とも変な、しかも非効率な話ですが、PC−1500に装着したプロッター・プリンターでは、これらの文字は全く書けなかったのですから、とても嬉しかった訳です。これにまたもや痛く感動しました。

このマシンは2年間位使ったでしょうか。当時、既に16ビットのCPUを持つNECの9800シリーズが発売されて居り、パソコンと言う言葉も世間に定着し、猫も杓子もこれらを使い始める時代になりつつありました。8ビットと16ビットのMS−DOSでは仕事は比較になりません。とうとう痺れを切らして、またもや NEC の 9801に乗り換えました。PC−9801CV21 と言うマシンです。FDDも3.5インチになって居ました。

 

16 ビット CPU の 98シリーズ 時代

 

購入したのはNECの「PC−9801CV21」です。本体とモニターが一体となって居り、3.5インチのFDDが2台付いているこのマシンは、狭い机上に置けることもあり、当時は名機(何を以て名機と言うのか分かりませんが、多分良く売れたからでしょう)と言われていたことを後で知りました。

OSは「MS-DOS」です。生まれて始めて「MS-DOS」というものの勉強を始めました。最初に買ったバージョンは記憶が定かではありませんが恐らく「3.1か3.2」だったろうと思います。マニュアルやMS-DOSの解説書を数冊買い込み勉強を始めました。「入門 MS-DOS」、「MS-DOSが見えてくる本」,「始めてのMS-DOS」などと言った類いの書籍が沢山ありました。電源を入れた途端から常時背後で働いているDOSが分からなければこのパソコンは使いこなせないない訳ですから。

DIR、CLS、MD、FORMAT、COPY、DEL、CD、TYPE、REN、PATH …などというコマンドです。DOSの実態である IO.sys、MSDOS.sys は隠れている、すなわち DIRコマンドでは表示されないものだとか、COMMAND.com が何であるか?とか、ツリー構造の概念、内部コマンド、外部コマンド、config.sys、autoexec.bat.などの意味が試行錯誤しながら少しずつ分かって来ました。

今ならアイコンを掴んで引き摺って行って目的のアイコンの上に落とせば済むのですが、その都度、長いコマンドラインを打ち込んで Enter キーを押さなければなりません。今から思えば面倒きわまる話ですが、当時は「そうするものだ」と思っていますから面倒とは感じません。むしろ「こんなことも出来るようになった」と一種の達成感と云うか「ヤッター!」と嬉しくなったものです。バッチファイルの作り方も憶え、いろいろなバッチを組み一人で悦に入っていました。

1985年の8ビット機以来、3年後に使い始めた16ビット機もそうでしたが、1995年に WINDOWS 3.1を使い始めるまでの10年間のモニター画面は、今ここでご覧になっているような「黒い背景に白抜きの文字」で万事仕事をして居ました。表計算・データベースー・原稿や手紙の文章を書くためのワープロ作業が中心で、「お絵かき」や「音楽」、「ゲーム」など「色とか音」は念頭に無かった」のです。今にして想えば「この黒い画面」は何とも「懐かしい」感じがします。

話は変わりますが、1990年の秋に国連機関と世界銀行の合同調査団の一員としてスリランカやインドを訪れ、現地調査が終わると最後にはローマの本部で報告書を仕上げたのですが、この時始めてノート型パソコンを出発直前に購入し、携帯用の軽い日本語プリンター(半角のローマ字、いわば英語は使えます)、マウス、外付けテンキー、変圧器、電源を取るための「差し込みジャックの組み合わせセット」などと共にスーツケース一箱に詰め込んで出掛けました。

ノート型が出始めた頃で PCー801N (98 NOTE)というものでした。日本でノート型のパソコンが発売された多分 NEC では第1号のマシンでは無いか?と思います。ノート型を使うのは勿論初めてです。「使い方の附属マニュアル」を読む暇も無く出発したので、コロンボのホテルのベッドの中で一生懸命読みました。

そればかりではありません、国によって供給される電気の電圧が異なり切り替え式の変圧器が必要です。ホテルによってコンセント(差し込みジャック)の形式や規格が異なります。ひどい場合は一つのホテルでも部屋により、また、同じ部屋であっても位置によって規格が「まちまち」のこともあります。途上国では当時は当たり前のことだったのです。多分今でもそうでしょう。手提げカバンに一杯になる位のこれらの小物の組み合わせセットは必需品でした。

ショックで機械が壊れるといけないので「防空ズキン式の綿入れ小袋」を数個作って一つ一つ収め、これらを中型サイズのスーツケースに丁寧に詰め込んだ訳ですが、これがまた重くて困りました。衣類を入れた大型のスーツケースとこのケースと2箇のケースを何時も行く先々まで持ち歩きました。若い頃の体力は無いのでヨロヨロしながらです。

機械の仕組みに詳しい人は笑うでしょうが、データを保存した 2DD のフロッピーはローマ字の英文であっても、私の日本語プリンターでないと印刷出来ないのです。報告書の初稿(First rough draft)を団員の皆が相互に交換するのですが、持参した軽量小型の日本語プリンターは印刷速度が遅くて気が焦っている時はイライラします。ローマにある国連機関(FAO本部)での話です。

本部には幾つかビルがあり、その各階にはプリンター室があり、高速の大きなドットインパクトのプリンターが常時使えるようになっていました。しかし、私の 2DD のフロッピーはエラーとなって読み込んで呉れません。本部の「D ビル」には計算機の専門技術者チームの部屋があり、いろいろ調べてくれましたが、3時間ああでもない、こうでもないと、しきりにやっていましたが、結局「お手上げ」でした。その部屋には日本人の専門技術者も3名ばかり居たように記憶しています。その人達も首を傾げていました。

彼等同士の議論を聞いて居ると、ASCII、1byte、Formatter、Binary code など本で読んだ記憶のある単語が飛び交っていましたが、私には何の事だかサッパリ分からりません。翌日その室の若いイタリア人の技師が私の部屋を尋ねてきて、「フロッピーを貸してくれ、何とかなる筈だ」ととのこと。デスクを一枚コピーして渡したのですが、二日後にやって来て「やはり駄目です」とのこと。

仕方なく遅い日本語プリンターで仕事を続けました。英文原稿を txt に落としてあるのに何故読めないのか?「苦労して日本語プリンターを持っていってよかった」とツクズク思うと同時に、一見すぐ解決出来るように素人の私には思われたのですが、問題によっては「世界中のマシンを相手にしている国連機関のコンピュター技術者でも手に負えないこと」もあるのだと言うことを知りました。

この 9801シリーズのマシンはメモりを増設したり、周辺機器を付け足したりしました。とりわけ40MBの外付け HDD を付けた時も感動しました。現在ならその千倍の40GBでも少ないと言うでしょうが、当時は40でも感激ものでした。その後モデルの異なる9801の上位機種に少なくも2台は買い換えたように記憶しています。しかし、世の中は DOS/V機 (PC/AT互換機)に変わりつつあり、1995年の初頭にとうとう WINDOWS 3.1の走るマシンを買う羽目になりました。

 

MS−WINDOWS 時代

 

WINDOW 3.1

WINDOWS 3.1の走るマシンの最初のものは PC-9801BA3/U2/W と言うものでした。3モード対応の3.5インチ2HDが2台付いていました。66 MHz のCPU、210 MBの HDD、WINDOWS 3.1がプリインストールされて居ました。購入したのは1995年の2月頃でした。

知人の友人にパソコンに関する論評などを書いている人で、一年の半分は米国に行っていると言うとても忙しい人が居て、幸運にも電話で会話する機会に恵まれ、こちらの要望を伝えると親切にもわざわざ調べて呉れ「上記のマシンが数台残っている。絶対に良い買い物だから直ぐ手を打った方が良いでしょう」と言う返事。幾つかのアドバイスもして呉れました。知人の紹介があったからでしょう。普通はその様な質問に対応してくれる人ではなかったようです。その人はその後シリコンバレーに転居したそうです。

今迄使い慣れた MS-DOS の多くのソフトも使いたい、DOS/V の世界基準のソフトも使いたいし、デスクトップに沢山のアイコンが一杯に並んでいる画面を羨ましく眺めていた時でした。

 

デスクトップにアイコンが一杯並んでいた WIN 3.1の画面。これを見ると当時を想い出す「懐かしの画面」の一つです。これが癖になって WIN XP の今でも物忘れが烈しくなったせいもあり、続きの仕事のショートカット・アイコンはデスクトップの画面に沢山貼り付けています。

この WIN 3.1は、MS-DOS上で動く GUI (情報の表示にグラフィックを多用し、大半の基礎的な操作をマウスなどによって行なうことができるユーザインターフェース)環境に近いものでした。不完全なマルチタースクでしたが、私は常にシングルタースクで使っていました。「なんと便利になったものだ」と思う一方、素人の私にとっては、「なんとも中途半端なもの」と言うより外はないような感じもありました。もっとも、それはWIN 95を使い始めてから「振り返って思ったこと」で当時は便利な感覚だけです。マニュアルに説明してある技術的な内容も本当には理解出来ず、四苦八苦しながら使っていました。

この頃のことです。「自宅の近所」と言うより、むしろ散歩の時に歩き回る地理的な圏内にパソコンにとても詳しい弱電を専攻した人が居て、散歩の都度ガラス窓越しにモニターの前に座っている姿を良く見掛けて居ました。或る日、意を決してその店に入り話をするようになり、この人からは多くのことを親切に教えて貰いましたし、大変お世話になりました。

WINDOWS も9.5が出て一年後の1996年には10年間慣れ親しんで来た「9800シリーズ」を離れ、32ビットの DOS/V 機に移行しました。

 

WINDOW 95 - XP

1995年に32ビットのプロセッサーを持つマイクロソフトのWINDOWS 95が、次いで1998年には98が発売されました。日本語版が売り出された時は、いずれも秋葉原には行列が出来た「パソコン史上歴史的な日」だったと言われています。その行列の光景はテレビで見ました。だが、私がこれらを使い始めたのは、何れも一年遅れの、それぞれ1996年からと1999年からです。MS-DOSから完全に離れた XP は2001発売されましたが、これも私は一年遅れて使い始めました。

e-mail をやり始めたのは1997年、小規模なプロバイダーでしたが、様子が少し分かって来て「これは駄目だ」と半年後には大手プロバイダーに切り替えました。インターネットと言うものを利用し始めたのもこの頃です。それまでは知識として知っていただけでした。だからメールや Web などと言うものはごく最近の10年にも未だ満たない経験しかありません。

しかし、ご承知のように WIN 95 以降の進歩は本当に日進月歩、いや「分進時歩、秒進分歩」と言いたくなります。それに伴ってマシンも数台買い換えました。中には慢性金欠病ですから、安く入手出来ると思ってベアボーン・キットの自作マシンもありますが、XP になってからは 98 を OS にしている自作マシンは 98 でしか走らない中国語辞書のソフトを見るためだけに使っています。

もうこの辺りの話になると皆様は良くご存じですから、ここに書く迄もないので、思い付いたことが在れば、次項の「想うこと」に譲ります。

 

 

想うこと 

- あとがきに代えて-

 

1.1980年から現在迄の20数年に亘る私のパソコンの経験、…と言っても「ゲームや音楽」などとは無縁の、計算、グラフ、ワープロ、メールが殆どですけれども、それらの仕事を通じて想うことを「あとがき」に代えて最後に述べます。

2.私は終始、いわゆる stand alone のひとりぼっち、自宅で隣りに机を並べてパソコンを使う仕事をして居る人は一人も居ない環境です。1997年以降はインターネットや e-mail を使い出したので stand alone とは言えないのでしょうが、研究所や大学、会社、団体などと言う職場では、傍にパソコンに詳しい人が必ず一人や二人は居て、何か分からないことがあると、「チョット教えて」と尋ねると、画面を見ながら直ぐ指導して呉れるようです。こんなに有り難いことはありません。この意味では孤軍奮闘する他に道はありませんでした。

3.年金と雀の涙ほどの原稿料の生活、講習会など時間も金も、また暇もないのが実情でした。数冊の解説書と登録ユーザーのサポートに電話で教えを受ける他ありません。電話も時には20分も30分も受話器を持ち続けて待たねばならないこともありました。…と言うよりそれが普通でした。「でした」と過去形で言いましたが現在でもそうです。

4.解説書には良く「今更恥ずかしくて他人に聞けないパソコン操作の虎の巻」などと題した本が沢山あります。「分からないから聞く」のです。何が「恥ずかしい」のでしょうか?知ったか振りをして居た手前、今更「初歩的なことを聞く」のが恥ずかしいのでしょうか。もし、そうなら暗に威張って「知ったか振り」をした自分が悪い、自業自得です。それが初歩的なことかどうかも実は分からないでは無いでしょうか?

5.パソコン関係の雑誌類を見ると「お前そんなことも分からないのかょ−、入門書をもう一度読み直してから尋ねて!、俺は忙しいんだから」と言った漫画が良くあります。掲示板の書き込みなどには、私などチンプンカンプンな難しい述語ばかりの文章で最後に「……畜生、ざまあ見ろ!ワッハッハ (大笑いの顔文字)」などと言ったものが良くあります。勿論本人は大真面目であり、ただ少し戯けて書いているだけかも知れません。しかし読む方は「俺はこんなに技術的に高い水準の事をやっているのだ」と言わんばかりに、暗に威張って、「自慢げに掲示板に書き込んだ」とツイ勘繰ってそう思ってしまい、「なんだ威張りくさって」と感じると同時に「俺は何と駄目なんだろう」と内心委縮してしまう人もあるのでは無いでしょうか。

6.凡人の浅はかさで誰でも自慢して威張りたがる癖が在ります。自慢するためにパソコンをやっている訳ではないのですから。上述のような気持ちでは受け止めない、余計なことは考えないのが良いように思います。私はなり振り構わずヒタスラ「聞きまくって、教えを請う」ことにして居ます。それにしては上達しませんけれども (^o^)。←この顔文字というもの私は好きではありませんが感心する傑作があると嬉しくなります。

7.私が常に感じることは「パソコンの技術を教えて貰う」のは「語学の会話と良く似ている」ということです。人には「二種類」あると言う持論を私は持って居ます。第一のカテゴリーに属する人々は私が拙い英語で会話していると、相手の人が私の喋った最初の数句を聞いて「すぐに私の会話力を察知して、私の水準に合わせた語彙と解り易い表現法で対応して呉れる人です。第二のカテゴリーに属する人々は私の会話力には関係なく、私が分かろうが分かるまいが、ただヒタスラ自分の言いたいことを喋り捲る人です。

8.パソコンの操作法を尋ねた際もこれと良く似ています。こちらが「多少はパソコンのことは知っているのだがと「幾ら格好良く」喋って見ても相手はすぐこちらの知識水準を見抜いてしまいます。失礼だと思って言わないだけの話です。そしてこちらの水準に合わせて対応して呉れます。上述の第一のカテゴリーの人達と同じです。これが出来る人は、語学の場合もそうですが、かなりの実力を持った人だと思います。効率的に尋ねたことが解決します。

9.ソフトのサポートなどに電話して教えて貰うとき相手が優秀な人の場合には、こちらの要望を説明した時の技術用語や内容を聞いて、すぐこちらの知識水準を察知し、それに応じた技術水準に合わせて説明をして呉れます。そうで無い人の時には20分〜30分も掛かるところが僅か数分で解決します。身に憶えのある方も多いのではないでしょうか?

10.どう言う訳だか知りませんが、パソコンの事になると少し分かるとすぐ「天狗」になって自慢したがる人が多いようです。未だ未だ奥が深くて知らないことが山ほどあることを知らないからでしょう。そう思うには私の僻みでしょうか?

11.話が愚痴っぽくなり、余計なことを喋りすぎました。私の言いたいことに話を戻します。冒頭の処でも言いましたが、私達はパソコンのパワーユーザーになりたいのでは無く、計算なり文章を書いたりという目的にその道具としてパソコンを使いたいのです。しかし、ここまでマシンが進歩し複雑になって来ると「機器の仕組みや操作方法を勉強するために費やす時間と、パソコンを使ってしたい目的の仕事そのものに費やす時間や労力の配分のバランスに悩む人は益々増えて来ます。

12.分業化の必要が望まれます。ここでも語学と似た現象があります。専攻した分野の仕事をしたいのに、なまじ語学が出来るため、周りや上司から翻訳や作文を頼まれ、その便利屋のようになった人が知人にかなり居ます。そのため専攻した分野の仕事をする暇がありません。結局、便利屋で終わってしまう。これは悲劇です。なまじパソコンが出来るため、周りや上司から「操作を教えろ」とかダウンしたマシンの修復を頼まれ、その便利屋のようになった人が知人に数人居ます。彼等は転職してしまいました。

13.頼む側は「何れだけ労力と時間を必要とするのか分からない侭、気安く「チョト頼む」と言うのでしょうが、その人は自分の本来の仕事が出来ず、昇給の評定では落とされてしまいます。親切な人柄で頼まれると断り切れず、「人が良すぎる」と言うか、パソコン以外の色々な仕事にも非常な能力があるにも拘わらず、具合の悪い立場に嵌まり込んで脱け出せない恰好です。とうとう外資系の会社に移ってしまいました。

14.分業化してその様な仕事の職種を設け、能力に対応した待遇をすべきでしょう。これは15年前の話ですが、いまでも似たり寄ったりの話は良く聞きます。

15.NHKのテレビ番組を視ていましたら「シンガポールのパソコン教育事情」を話していました。誰もが希望して申請すると政府がパソコンを無償で貸してくれるだけで無く、無償で講習が受けられるというのです。勿論、審査はするのでしょうが。マシンがダウンすると家まで来て修復してくれ、これも無償だそうです。

16.携わっている人々は政府の IT 推進戦略の予算で賄われ、パソコンは中古品を修理して使えるようにしたものらしく、奉仕的精神を持つ年配の人々を雇用しているとのこと。操作が分からないときは電話で親切に教えて呉れるのだそうです。政府は長期的観点から多大の予算を組んでいるとのこと。入門・中級・分野別など実に組織的です。

17.もし、これが本当なら、何とも羨ましい話です。日本でも一部の都道府県や町村では無償講習会などを開催するというニュースを最近では聞きますが、内容の充実さでは比較にならないように思いました。

18.IT 立国とか半導体技術で世界の先端を目指すなど口では言いながらこのような面では日本の行政は何処まで本気なのでしょうか?韓国もそれらの面ではかなり行政は力を入れていると聞きます。

19.日本では2001年に「IT 戦略本部を内閣に設置」し、2004年には e-Japan 重点計画を決めた(首相官邸ホームページ)そうですが、立派な計画ではあっても、我々身近には余りそれと感じないのは何故でしょう?何だか少し淋しい気がします。

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