mougoA.htm

MougoA.htm

 

閑 人 妄 語

(その6)

 


MOKUJI

目 次

 

ナマズの硬貨と交通標識  (地震と動物の予知現象含む)
ナマズの硬貨の追記 
浦島太郎と竜宮城 (福助さんの貴稿エッセイ)

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NamazuNoHyousiki

ナマズが描かれた硬貨と交通標識

下の大きなナマズが暴れると地震が起こる・・・と云う誰もが良く知る俗説から、ナマズと云えば危険を予測する人は沢山いる。萩生田氏の投稿内容の紹介した。
その後ホームページ公開後に閲覧者から関連事項として頂いた各氏の文や画像を「追記」として記述した。

 

 

2012年2月22日 & 同年3月〜

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

 

 世界のナマズに関する動物学・伝承・社会現象などの第一人者である萩生田(はぎゅうだ)憲昭氏から頂いたメール本文や画像を此処に紹介する。

「急カーブ注意」は岡山県の県道作東大原線の道路警戒標識、同県美作市鯰地区にある。

「緊急交通標識」は東京都建設局が設置。「地震」をイメージするキャラクターとしてナマズが広く知られていることから、都民にわかりやすく且つ親しみやすいためのナマズの絵を標識に描いている。「緊急交通路 地震災害時、一般車両通行禁止」 著作権は夢野梵天先生(キャラクター作家)、使用権は東京都、撮影場所は八王子市内。

                                     

 

記念硬貨の表側

 

記念硬貨の裏側

 

 

岡山県美作市鯰地区の鯰によるカーブの警戒標識

 

 

東京都建設局が設置した「緊急交通標識」、八王子市内

 


NmazuTuiki

追 記 (2012/03〜)

マズと地震の話は誰でも知っている。東海大学のホームページには下記の文章が記載されて居た。『犬やカラスやミミズなど、様々な動物の異常行動が世界各国で報告されている中で、日本では「地中の巨大ナマズが怒れば地面が揺れる」、古くからナマズと地震との関係には因縁ようなものがある。鯰と地震の俗信が生まれたのは江戸時代の初期頃、人口の多い江戸で地震の被害が大きくなるとともに、ナマズの不思議な行動と地震との関係に関する言い伝えが生まれたようだ。江戸時代末期には世間一般に信じられていたようで、現在でもその伝説に基づく民話が残されて居る。』

2011/03/11の東日本大震災以来、マスコミには「震度」・「マグニチュウド」・(原発に関連して「ベクレル」・「シーベルト」)などの文字が氾濫し、非科学的と思ったのか鯰と地震との物語などは殆ど見掛けない。

 

その1

鯰と地震との物語などの様な話は世界の多くの国でもあるようだ。東京海洋大学の有元貴文氏からSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)に多数回講義のためタイ国を訪問した際の余暇を利用してサムトプラカーン県のムアンボーランを訪問して知った経験と画像をメールで送って頂いた。此処に紹介する。

 

   

右図の大きな魚が世界を支えていて,身震いすると地震になる
という伝説。タイ国
サムートプラカーン。有元貴文 氏撮影 2012/02

 

その2

三浦福助さんから下記のメールを頂いた。(2012/03/15):−

鯰と地震については、寺田寅彦先生をはじめ色々と研究があるようです。私の身近でも、時流に乗って、その研究をした人がおり、結果を聞いてみましたが、禅問答を繰り返すばかりでした。禅問答といえば、禅の世界で鯰は一役買っていて、禅の公案にもなっているようです。図は、京都にある臨済宗妙心寺。退蔵院所蔵の瓢箪と鯰の図で、室町時代の禅僧、如拙によるもので国宝になっているそうです。(注) 鯰という字は国字で、中国では鮎を使うそうです。

 

妙心寺退蔵院所蔵(国宝) 瓢鯰図(部分)

 

「円滑の瓢箪をもって無鱗多涎の鮎魚を押さえ捕らえうるかどうか」という禅特有の意味深長な公案を題材にした絵だそうです。もっとも公案といっても時の将軍足利義持が禅僧たちに提示した公案もどきのものです。本則の公案は1,700則あるといわれ、準ずるものを入れても5,515則だそうですが、これは、その周辺のものという事です。図中の人物は手に瓢箪を持っており、これで鯰を押さえようとしているのです。僧たちはこれを材料に座禅に励み、色々な答えを出しています。

「瓢箪で鮎を押さえつけるとは、なかなかうまいやり方だ。もっとうまくやろうなら、瓢箪に油をぬっておくがよい」(周宗)、「瓢箪でおさえた鮎でもって、吸い物を作ろう。ご飯がなけりゃ、砂でもすくって炊こうではないか。」(梵芳)などと答えを出しています。”何の事か判らん”とお思いでしょう。まったくの禅問答です。ちなみに、愚生の回答をご笑覧に入れます。

「瓢破れ、鯰死して、河水涸れ果てぬ」 (福助)

本来なら説明すべきですが、禅では「文字語言の徒となる事なかれ」という戒めがあります。当面、これを守っておきます。

 

【真道 記】  「鮎」の字は中国語ではナマズ類を意味するが、「鯰」の字も中国語でナマズ類の意味に良く使われる。本草学で厳密に言うと種類の範囲がやや異なるが、一般には同義語と解して良い。(中国検索サイト 百度などを参照)

ひょうたんなまず」を広辞苑で引くと、『瓢箪鯰: 「ひょうたんで鯰を押える」を名詞化した語。つかまえどころがないもの。歌舞伎舞踊の一。長唄・常磐津の掛合。七変化の「拙筆力七以呂波ニジリガキナナツイロハ」の一。2世瀬川如皐作詞。10世杵屋六左衛門ほか作曲。1828年(文政11)初演。襦袢ジバン1枚の下男が、瓢箪で鯰を押えようとする大津絵の図柄に取材した軽快な踊り』とある。

 


 

に記した地震と動物(ナマズ・ミミズ・ネズミ・その他多数)の地震予知能力や地震前後の異常行動に関しては世界中に沢山の記録や研究があり、かなり組織的に研究されているらしい。但し、大部分が記載に留まり解析の要因については何処から手を付けたら良いのか?に就いては至難のようである。

最近 Web などを見ると次第に解析が進められる機運が出るようになったように思う。今後に多いに期待したいものだ。

 


 

萩生田さんから下記のメルを頂いたので紹介する(2012/04/01)。

// 引用開始 //

いにしえの人々はナマズをどのように表現していたのか?

                              萩生田憲昭

 

  はじめに

日本には3種のナマズが知られている。日本全土に分布するナマズ(Silurus asotus、全長60p)および琵琶湖にのみ生息するビワコオオナマズ(Silurus biwaensis、全長100p)、さらに琵琶湖と余呉湖に生息するイワトコナマズ(Silurus lithophilus、全長60p)である((1))。

特に、日本全域に生息するナマズは、今日、郷土料理名として東日本(新潟・岐阜・愛知各県以東を東日本とし、その西側を西日本とする)では岩手県の「ナマズのすり身汁」から西日本の宮崎県に伝わるハレの百日の祝いで用意される「ナマズの煮付け」まで37種知られている((2))。

民俗学者の澁澤敬三氏が著した『日本魚名の研究』には、「人による魚類の特徴を見る眼が異なるために同種魚に異名が生ずる場合もなかなか多い。」とある((3))。この言葉に照らして標準和名ナマズの地方名をみると、東日本では岩手県の「ギンギョ」から西日本の熊本県で呼ばれる「ナマンギュー」まで38種存在する((4))。

さらに『広漢和辞典』には、ナマズ・オオナマズ・コナマズと読む漢字は、国字の「鯰」をはじめとして「鮎」「?」「?」「鮠」等を含めて18種挙げられている((5))。

ナマズの形態に起因するこれらの異音同義語のうち、上述の「鮎」「?」の2種に関しては、江戸時代中期の百科事典である寺島良安箸『和漢三才図会』(正徳2年=1712)巻第50の「魚類 河湖の中の無鱗魚」において『本草綱目』(鱗部、無鱗魚類、?魚)を引用して「鮎は大首、大口で額は平夷で低偃く〔それで?とか?とかと名づけているのである〕。涎はねばり滑っている〔それで鮎という〕。」と説明している((6))。

以上のように、魚類の中で、ナマズが多くの郷土料理名と地方名、さらに漢字にも用いられていることが理解できる。その理由は、ナマズが私たちにとって身近な魚である。と同時に、その形態が扁平で表面には鱗がなく、ヌルヌルしている上、その習性が夜行性で貪食な底棲魚であることから他の魚と異なり、不思議な魚としてナマズが映っていたと推察したい。

では、いにしえの人々は、このナマズをどのように表現していたのであろうか。本論では、手がかりとなる具体的な書物(平安時代から江戸時代)を通してその一端を明らかにしてみたい。

                                                   1.『今昔物語』に描かれるナマズの秘めた3つの特質

平安時代末期(1120年前後)に成立された『今昔物語』巻第20「出雲寺別当浄覚食父成鯰肉得現報忽死語第34」には((7))、今日、言い伝えられているナマズが登場する昔話と伝説に影響を及ぼしていると見られる、ナマズが持つ秘めた3つの特質がすでに描かれている。

この仏教説話は、出雲寺の別当浄覚が夢の中でナマズに転生した亡父が命乞いしたにもかかわらず、強欲非道の別当はこれを無視してナマズを煮て食べたら喉に骨が刺さり死んだという話である。これは、悪因悪果を説く現報譚であるとされ、ナマズの特質として次の3点が読み取れる。この記述は、平安時代の人々が持っていたナマズに対する心情を窺うことができるとみられる。

@ 「人間が死後ナマズに転生する」
A 「ナマズが大風による災難を予兆し人間に伝達する」
B 「ナマズによる命乞いを無視すると、ナマズがその者を死に至らしめる」
以下、この3点を原典から確認してみよう。
@「人間が死後ナマズに転生する」に関して、この原典では、「我レハ仏ノ物ヲ娯用ノ罪ミニ依テ、鯰ノ身ヲ受ケ、大キサ三尺許ニシテ、此ノ寺ノ瓦ノ下ニナム有ル。」と記されている。

つまり、人間、この場合は父であるがナマズに転生した理由が、仏の物を勝手に使った罪の結果であるとされている。中村禎里氏によると、『今昔物語』には、人が動物に変身する説話が20話収められており、そのうちウマの1例をのぞくと、すべて死後の変身である。主役の動物はヘビ10例、牛5例、イヌ・ネコ・シカ・ナマズ各1例となる。変身の原因は、金銭・物品への執着や横領をふくめ、広義悪事への応報であったとされる((8))。さらに彼は、人が悪業の報いとして地獄・飢餓・畜生等の悪道に堕ちる話は仏教の経典から来ているとする((9))。つまり、苦しむ忌むべき畜生界に落ちて生まれ変わる生き物として、ナマズが挙げられていることに注目すべきである。

A「ナマズが大風による災難を予兆し人間に伝える」に関して、原典は「明  後日ノ未時ニ、大風吹テ此ノ寺倒レナムトス。(中略)其ノ日ニ成テ、午時  許ニ俄ニ掻陰テ、大キナル風出来ヌ。木ヲ折リ屋ヲ壊ル。」とされる。

この記述から、夢の中に現れた亡父の予兆の言葉が現実のものとなったことが理解できる。

B「ナマズによる命乞いを無視すると、ナマズがその者を死に至らしめる」に関して、原典は次にように語られている。「寺倒ナバ、我レ地ニ落テ這行カムニ、童部見テ打殺シテム。其ヲ汝ヂ童部ニ不令打ズシテ、桂河ニ持行テ可放シ。(中略)妻此ノ鯰ヲ見テ云ク、『此鯰ハ夢ニ見ヘケル鯰ニコソ有ヌレ。何ニ殺ゾ』ト。浄覚ガ云ク、『童部ノ為ニ被殺ムモ同事也。敢ナム。

我レ取テ、他人ニ不交ズシテ、子共ノ童部ト吉ク食タラムヲゾ、故別当ハ喜ト思サム』ト云テ、ツブツブト切テ、鍋ニ入レテ煮テ、吉ク食ヒツ。(中略)愛シ食ケルニ、大キナル骨浄覚ガ喉ニ立テ、エフエフト吐迷ケル程ニ、骨不出ザリケレバ、遂ニ死ケリ。」※下線の箇所は、原典では踊り字である。

つまり、亡父が転生したナマズを子供たちが打ち殺す前に、桂川に逃がしてくれという亡父の命乞いを無視した悪罪として、浄覚は煮て食べたナマズの骨が喉に刺さりもだえ苦しみ死んだというのである。

2.『渓嵐拾葉集』、『斎諧俗談』および『甲子夜話』
に記されているナマズの不思議な現象

滋賀県琵琶湖の北部に浮かぶ「神を斎く島((10))」と言われる竹生島には、ナマズと関わる興味深い説話が残っている。14世紀半ばに成立した天台宗の僧光宗が編集した『渓嵐拾葉集』巻37には次のような記述が見られる((11))。

「竹生島明神為魚龍事 相傳云。大鯰七匝繞島也。是則七仏薬師化現也云云。」

つまり、竹生島の明神は魚龍である。言い伝えによれば、大ナマズが竹生島を七回廻る。このことは、七仏薬師が姿を現したこととされる。薬師仏の顕現がナマズということは、ナマズは神聖なる生き物として崇拝されるということになる。なぜ、ナマズが神聖を帯びる仏になったのであろうか。

中山太郎氏は、魚類を崇拝する理由として鮭を例に挙げて次のように述べている((12))。「私共の遠い祖先は、魚類の回帰性と言う知識を、全く所有してゐなかつた。換言すれば、魚類が一定の時期に於いて、産卵その他の事由から、海から川へ、又た川から海へと、去来する習性を有してゐることに、全然無智であつた。従つて、此の時期を定めて去来する魚類の行動は、ただ不思議なもの、神秘なものとして、考えるよりは外は無かつたのである。私共の祖先が、魚類を崇拝し、やがて神にまで祭るに至つた原因のひとつとして、此の不思議を逸し去ることは出来ぬ。」※下線の箇所は、原典では踊り字である。 つまり、鮭の場合は回帰性という習性が神秘性を帯び、神性へ昇華されたとみる。

では、ナマズの場合はどうであろうか。ナマズが神として崇拝された資料が、江戸時代後期に福山藩により編纂された地誌『福山志科』(文化6年=1809)巻之17の「品治郡」の項にあり、その中で「本免荒神(福山市新市村)」が次のように記されている((13))。

「或時地中鳴動セシユヘ掘テ見レハ一丈ハカリノ大鯰アリ即穢多ニ喰ハセシニ痢チ患ヒ死ナントスルモノ多シ此魚ヲ神トシ祭ラント祈リテヤミシコレナリ。」

つまり、地中で鳴動する大ナマズを食べたことで下痢を患い、食した人に死をもたらしめたことにより大ナマズは神になる。この場合は、大ナマズの習性ではなく、大ナマズの祟りが畏怖として昇華されて神に崇められたと察する。

先に挙げた琵琶湖のナマズの場合は、崇りではなく、薬師仏に起因するのならば、仏の功徳とナマズを結びつけたいのだがその根拠は未だ見出せていない。

なお、江戸時代中期に記された怪奇書の『斎諧俗談』(宝暦8年=1758)には「琵琶湖鮎」として次の記述がある((14))。

「近江国琵琶湖に、大なる鮎多し。しかるに此湖の鮎は、毎年中秋のころ、月明なる夜、千万むらがりて、竹生島の北の洲の砂の上に跳ると、土俗の云。この鮎は、弁財天の使魚なりと云。」

つまり、人々がナマズを弁財天のお使いであると見なしていたことが窺われる。ナマズが富(=日常生活に困らない程度に食する粟飯の分量)を与える福の神として登場する資料もある。それは天明7年(1787)、鹿兒島政明が記した「鯰神の祠(徳島県麻植郡山川町川田)」に関する『鯰神由来記』である((15))。これまで記した資料を鑑みると、ナマズは得体の知れない災いをもたらす魚である一方、人に恵みを与える崇敬の念をもつ魚という二面性を持つのではないだろうか。

さらに江戸時代後期の随筆集で、文政4年(1821)から書き始めた『甲子夜話』巻48には、下記のように当時の人が持っていたナマズに対する大変興味深い潜在的意識を読み取ることができる((16))。

「今茲三月の末、江州の琵琶湖に巨なる黒魚浮しを、魚人もりにて突ければ、俄に風濤起り、湖色冥晦せしまま、恐れて舟を馳て避還り、そのことを説く。因て数口の魚夫言合せ、その翌日風収り波穏なるを待て窺しかば、又昨の如く魚現れしを、多の舟取捲て、一度に数十のもりを突て、乃魚死したり。打寄て見るに、三間余もある老?なりしと。逎大綱を以てやうやうに陸に牽上たるを、其辺の豪民買りて膏をとりしに、夥しき斤両を得たりと。?の腹中に髑髏二つ、小判金八十余片ありしとなり。いつの時か溺死 の人を食せしなるべし。従来秋の頃、大しけする時は黒き物湖中に身ゆるを、土俗これを黒竜なりと云伝たり。於是始てこの?なるを知る。これ迄天気晴朗のとき見へたること無きに、今春時候失常、世上流行病ありて地気も亦変ありと覚しく、この?も時に非ずして浮みたるなるべし。」※下線の箇所は、原典では踊り字である。

つまり、ナマズを殺そうとすると突然、天候が変わり湖面が暗くなる。突き殺したナマズの腹を裂くと、髑髏と小判が出てきた。今年の春はいつもと違い、流行病が蔓延し大地のエネルギーも変化があり、ナマズが姿を見せるとする。従って、この時代の人々は天候が荒れ狂い大地に異変がある時、出現する貪食なナマズを畏怖すべき何か得体の知れない怪魚としてみなしていたのである。

3.『阿蘇宮由来略』と『増補筑前国続風土記』に現れるナマズと神(仏)の関係

熊本県阿蘇地方には阿蘇神社(熊本県阿蘇市一の宮町)の主祭神健磐龍命(=阿蘇大明神)とナマズにまつわる伝承が存在する。『阿蘇家伝』編纂前後(1801)頃に最終的に完成された『阿蘇宮由来略』が現存している((17))。

「阿蘇大神正一位勲五等健磐龍命ハ(中略)大神常ニ鶴鷹ヲ愛養シ給ヘリ、故ニ今ニ到マテ鶴栖乳シテ神地ニ住リ、此栖乳ノ地ヲ常鶴沼ト云、俗千町牟田ト云、又、湖水涸ル時、大鯰有テ涸死セリ、因テ其霊ヲ祠ル、今ノ鯰社是也、是以国人今ニ到テ鶴鷹鯰ヲ取ラス、犯者ハ罪ヲ科ス。」

つまり、阿蘇大明神は鶴鷹を大事に育てる。阿蘇の湖水が涸れたために、湖水にいた大ナマズは死んだ。その霊を祀ったのが現在の鯰社である。これをもって阿蘇地方の人々は鶴鷹ナマズを獲ったものは、罪として罰せられたというのである。

因みに阿蘇神社祭祀の研究者である村崎真智子氏によると、「阿蘇王権(の象徴的秩序)を確立するためには、土地の霊(土地の主)である大魚(鯰)を手なずけて王国の守護霊に転化し、恒常化に安定した祭祀関係を結ばなければならない」と述べている((18))。

上記に示したようにナマズの霊を祀り上げたことから、阿蘇家と旧社家では今でもナマズを食べないとされている((19))。では、ナマズを食べないとする禁忌はいつ頃から存在していたのであろうか。

江戸時代前期の本草学者の貝原益軒(1630〜1714)が編纂した『増補筑前国続風土記』の「西郷」の項には、「上西郷・下西郷・手光・津丸・久末、此五村の民は?魚を大森権現の使なりとて喰はす。河に多けれ共とらす。」と記されている((20))。また、国学者の青柳種信が記した『筑前国続風土記拾遺上』(天保年間=1830〜1843)巻之37の「大森神社」の項目にも「?当社の産徒五ヶ村ハ産神の愛し給ふとて鯰魚を食せす。誤りて食する時ハ忽祟ありと云フ。」とする((21))。すでに貝原益軒が活躍した江戸時代前期には、大森神社の氏子たちはナマズを食べなかったことが推測できる。

なぜ、ナマズが大森神社の使わしめになったかの興味深い伝承が、貝原益軒の弟子である福岡藩儒古野元軌による編纂された『河津伝記』(宝永3年=1706)に記されている((22))。その記述によれば、伊豆国の河津三郎祐泰の流れをくむ河津氏の一族の河津民部少輔興光が船岡山合戦の際、陣営に戻ることができたのは?魚に助けられたからである。このことは、故郷の産神大森権現の祖である伊豆箱根に鎮座する三島大明神の加護であったとされる。このことからナマズを大森権現のお使いとし、ナマズを食べることを禁忌したというのである。ナマズが先に示したように弁財天の使魚とか、市杵嶋姫の神の眷族((23))とみなされる場合もある。ナマズが仏(神)の使わしめになることから、ナマズを食してはならない禁忌が生まれたとみられる。

さらにナマズを食してはならない禁忌の年代が確認できる資料は、岐阜県養老郡養老町に鎮座する養老寺に伝わる、寛延2己巳年(1749)孟秋上旬と奥書に記されている『養老寺来由縁起略』である((24))。その文面には、「当本尊不動明王ハ当国生津という所より?に乗じて出現し即当処に飛移いましまして鎮に瀧を守護し給ふなり此故に瀧に詣する人々ハ?を食する事を忌是一ツ?制禁なし若背くものハ現罰正に著し」と記されている。※下線の箇所は、原典では踊り字である。この場合はナマズが不動明王を乗せ、瀧を守護することから、瀧を詣でる人々はナマズを食してはならない禁忌が生まれたことになる。

4.『筑前国続風土記』と『和訓栞』に記されたナマズの出現にみる事変

福岡県筑紫郡那珂川町大字山田に鎮座するのが、伏見神社である。その社殿の前に流れる那珂川の一の井手の上に、かつて存在していたナマズのかまどと言われる深い淵にまつわるナマズ伝承には注目すべき記述がある。

ナマズのかまどとは、「ナマズの棲家であって、伏見渕・鎧渕・風拝渕の三渕にそのかまどがあって、おびただしいナマズが棲息していた」と言われている((25))。

元禄元年(1688)に貝原益軒が編集に着手した『筑前国続風土記』巻之6には、この三渕を総称する「?淵」が次のように記されている((26))。「山田村にあり。一の堰手の上なり。此淵に?魚多し。常には見ゆる事なし。岩穴の中にありて云。國天下に変がある時は、必あらはれてあつまるといふ。天正十四年七月、薩摩の軍兵此國を乱妨せし前、此淵中にすきまもなく泳出ぬ。元和元年大阪陣の時も、また?出たる事古のごと し。白?及鞍掛?とて鞍置たる形の如く、背の白きなまずも此時出たりと云。其?の大なる事三四尺に及べり。寛永十四年、肥前有馬に賊兵起りし時も出たり。然れども初兩度の如く夥しくは出ざりしと云。又慶長五年、長政公此國を領し給ひしより以来、山田村を大身の家臣に宛行れし事共有けり。其地頭逐斥せらるべき前兆にも?出けりと云。此所の?一の井手より上なるをば神の使と里民おそれて取らず、此井手より下に落下れば神のめぐみに背けりとて常の魚の如くとりて食ふとなり。」

この長文なる記載で、当時の人びとが持つナマズに対する心情が興味深く窺われる。つまりナマズの群棲の出現は、天下国家の大事変の前兆と見られていた。そして一の井手より上に棲息しているナマズは神の使わしめとし、ナマズを食べてはならないとする禁忌が存在していた。なお、島根県邑智郡桜江町では、五月に入ると田の水口におるナマズの子をサンバイサン(田の神=筆者補足)のお供だから捕ってはならないとの禁忌がある((27))。

さらに江戸時代後期の国語辞典である谷川士清編纂の『和訓栞』(1777年〜1787年)後編においての「なまづ」の項に見られる「なまづのかまど」には次のように記されている((28))。

「洪水などの時、山中の洞窟より数万の鯰の湧出る事あり、是れ俗になまづのかまどといへり。関東もと鯰なし、戊申の際の洪水より今ハ常用の物となれりとぞ。」ここで注目すべきことは、江戸時代前期の貝原益軒が『筑前国続風土記』を記した頃、ナマズの出現は天下国家の大事変の予兆と見なされていたが、江戸時代後期の谷川士清編纂の『和訓栞』になると、ナマズの出現は洪水と関連づけられていたのである。

5.『仙台間語』と『安政見聞誌』に見られるナマズの現れに対する心情

江戸では、享保13年(1728)の大洪水と安政2年(1855)の大地震による多大な被害がもたらされた。この2大天変地異をめぐるナマズの伝承が語り継がれている。ナマズは、宝永7年(1709)に刊行された貝原益軒編『大和本草』の「?魚」の項において、「箱根ヨリ東ニ無之ト云」と記されている((29))。これが事実であるならば、この宝永7年までにはナマズは江戸には出現していなかったことになる。ではいつ頃、ナマズは江戸の人びとに姿を現したのであろうか。ナマズの出現とともに洪水をもたらす示唆を与える興味深い資料が、林笠翁が明和元年(1764)に記した『仙台間語』である((30))。

「(前略)又今年何ヲ以テ水アランヲ知ルヤ。十大夫対云、我之ヲ父ニ聞、?ノ無キ地ニ?生ズレバ其年必ズ有大水ト。関東古来無?。二三日前家児等門前ノ溝ニテ、泥鯲ヲ捕トテ五寸許ノ?ニ匹ヲ獲タリ。依之テ知大水、人ハ不知我ハ為備トレ去。八月ノ初ヨリ霖雨、糀町辺ノ廿尋余アル深キ井水モ溢レタリ。九月ノ朔朝ヨリ大雨篠ヲ如突二日迄不止。二日午前ヨリ何クモ無ク水溢来リ、未後ニハ屋根棟浸セリ。至夜亦猶不止。(中 略)此?ハ決三沼前年、有廟命ヲ紀州二伝テ求得、以十六口ヲ中川二放タレタリ也。」長々と引用したが、次の重要な3点がこの記述から推察できる。

@ ?が棲息しない地域に、?が出現するとその年、洪水が起こるという言い伝えがすでに存在していた。A?が2匹取れた年の8月より長雨になり、9月1日より大雨になり、屋根まで雨が浸透する。B?は有廟(=江戸幕府第8代将軍徳川吉宗)が三沼干拓(1727年)を行う前年、紀州からナマズを16匹求め、中川に放流する。従って、1726年、中川に放流したナマズが江戸に出現したのかもしれない。

なお、この『仙台間語』には先に挙げた記述の後に注目すべき記述が次のように挙げられている。「九州ニハ、夏日晴天ニ大ナル?ノ二三十間許空中ヲ飛行コト有リ。豊前 国ニ、千丈ガ滝トテ七十余尋落ル滝アリ。其山ニ観音アリ、堂前ニ御手洗池アリテ橋アリ、大塚庄右衛門瀬川藤介二人橋上ニ納涼ス。忽水中躍物ヲ見、躍コト三五廻、水ヲ離ルヲ見レバ?也。離水コト始一二寸、及三四廻躍テ而離水一尺余、直ニ空ニ上去レリ。忽雲覆雨下レリ。是必竜ナラント二子語レリ。」

竜に見立てたナマズが出現後は、天候が急変し暗雲が垂れ込め豪雨をもたらす異常気象になる。それ故、ナマズは天候を予兆する畏怖すべき霊魚であると、豊前国の人々はみていたのではないだろうか。

民俗学者の宮田登氏は、「都市に鯰が出現することは、都市の発展と呼応するもの、その内面に隠れた意味が潜んでいる。それは都市生活者が必然的にいだいている漠たる『不安』の象徴といえるのかも知れない。」と述べ、さらに「享保13年(1728)、江戸で起きた大洪水は、そうしたこれまでの都市開発(人口増加による下水道=筆者補足)の不備を暴露したことになった。『物言う魚(ナマズ=筆者補足)』の大群の出現がそれをシンボライズしているといえるのではないだろうか。」と推察している((31))。

安政2年(1855)10月2日夜、直下型大地震が江戸を襲い多大な被害を出し、その直後に錦絵の一種である鯰絵が大量に売りに出されたことが知られている((32))。この鯰絵に描かれたナマズは、地震後の復興景気で儲けた職人(大工、左官、鳶など)にとっては救済者である一方、地震後に仕事がなくなった商人、芸者、遊女などにとっては破壊者であることがわかる。なお、ナマズが掛軸に尊像として描かれ、信仰の対象になっていることを示す鯰絵も3点存在する((33))。

鯰絵として描かれたナマズは地震、洪水など天変地異を予兆する魚ではないが、この地震を実地踏査し報告した仮名垣魯文が書き残している『安政見聞誌』(安政3年=1856)では、ナマズは次のように地震を予知する魚であるとみられていたことが窺われる((34))。

「本所永倉町の篠崎某とかいう人は漁が好きで、10月2日の夜、すずこというもので鰻をとろうと、河筋のところどころをあさっていた。ところが、鯰がしきりに騒ぐばかりで、鰻は一匹も釣れない。鯰三匹だけを釣って、よく考えてみると、鯰が騒ぐときは、かならず地震がある、ということに気がついた。そこで魚釣りをやめて帰宅し、庭で?を敷いて、家財道具を出して、異変の備えをした。妻はいぶかしんで、ひそかにそれを笑っていた。ところがその夜、例の地震である。(中略)こうしたことは自然の道理で、地で変動があるときは、まず鯰が騒ぐということもあるかもしれない。このことから、地震は鯰だといいもし、絵にも描くのだろう。」

なお、安政2年に起きた江戸大地震の八年前、弘化4年(1847)3月24日夜、信州において善光寺大地震が起きている。多大な被害を出したこの地震は、大鯰親子の仕業として出雲国大社に提出した興味深い史料『出雲国大社地震御裁許書』(弘化四丁末年四月廿八日落着)も存在する((35))

では、ナマズと地震はいつごろ結びつけられたものであろうか。それは、遅くとも文禄元年(1592)の日付のある豊臣秀吉による伏見城譜請の書状がナマズと地震を結び付ける史料と言われている((36))。その書状には「ふしミのふしんなまつ大事にて候まま、いかにもへんとう(面倒)にいたし可申候間」と記されている。従って、この時期には、すでに京都周辺ではナマズが地震を起こすという俗信が広がっていたことが理解できる。

しかし、注目すべき書物として、日本最初の科学読物とみられている兒島不求正長著『天地或問珍』(宝永7年=1710)が存在する((37))。つまり、次に示す文章によると、すでに、この書を記した1710年、地下にいるナマズが地震を起こすことは根拠のないものと一笑に付していることである。

「(前略)彼の輩のいへらく、大き成る鯰地底にありて、日本國中五畿七道載せずと云ふと所なし、彼れが尾或ハ鰭にても動かす所、忽ち地震す、故に鹿嶋の明神、要石を以て押さへ給ふといへり、今案ずるに、何ぞ其の鯰日本をのみ載せて唐土を載せざるや、唐土にも地震あり、一笑するに堪へたり。」

  おわりに

ナマズは平安時代の『今昔物語』以降、多面的な顔を覗かせる。それは自然災害・天変地異(洪水、地震)・国家大事変の予知、人に災いや恵みを与えたり、神(仏)の使わしめにより食してならぬ禁忌が生まれたりなどである。科学的知識のない人々にとっては、ナマズは他の魚と異なり実に不可解な行動をみせる魚とみていたのであろう。

浅野昌充氏が行った科学的データによれば、ナマズは驚異的な感度の電気感覚を持つ魚であるという((38))。そうとすると、ナマズが持つその特殊な能力が天変地異などを感知して、我々が体験する前に、夜行性のナマズが昼間、突如として川底から姿を現すことにその時代の人々は、驚くと共に、人知の及ばない災害の予兆を伝える不可解な霊魚と見なし、その形態も印象に残ることからこそ、その魚名を書き残したとみる。

柳田国男氏は鋭い洞察力と豊かな想像力で、次のような見解を述べている((39))。「水の神の信仰の基調を為したものは畏怖である。人は泉の恵沢を解する前、既に久しく其災害を体験して居た。水の災の最初のものは掠奪であつて、就中物の命の失はれた場合に、其事件の場処近く姿を見せた動物を、あらゆる水の威力の当体と信じたのでは無かろうか。兎に角に古く我々が畏れ又拝んだのは、水その物では無く水の中の何物かであり、それが又常見る一類の動物の、想像し得る限りの大いなるもの、又は強力なるものであつたのである」。 このような現象のなか、出現する魚がナマズであったので畏怖すべき或いは畏敬の念を抱く魚として語られ続けたのであろう。

なお、明治28年に脱稿した農商務省水産局が編集した『日本水産補採誌』の「伊勢地方に於ける鯰釣」の項に「水田動もすれば水を被ふる梅雨の候に至れば鯰は水に乗じて水田に入り来りて潜伏するもの頗る多き」と記されている((40))。ナマズは田植え儀礼の時期である梅雨の時、水田に遡上し、カエルの鳴き声をかき消すほどの水面が炸裂する音を発しながらナマズの雄は雌の腹部にタイヤ状に巻きついて産卵するという((41))。このような神秘的な習性をナマズがもっていたからこそ、強い感情が喚起され後々まで語り継がれたと付け加えておきたい。

(注)1.川那部浩哉・水野信彦編・監修『山渓カラー名鑑 日本の淡水魚』(1989年、山と渓谷社)412〜420頁。なお、今日、漁業権魚種にナマズを指定している都道府県は、茨城・長野・愛知・岐阜・岡山の5県だけである。滋賀県立琵琶湖博物館編『鯰 ―魚と文化の多様性―』(2000年、サンライズ出版)173頁。なお、ビワコオオナマズとニゴロブナをデザインした滋賀県による地方自治法施行60周年記念500円貨幣が発行された(平成24年1月18日)。
2.岩手県の「ナマズのすり身汁」に関しては、「日本の食生活全集 岩手」編集委員会編『日本の食生活全集3聞き書 岩手の食事』(昭和59年、農山漁村文化協会)219頁。宮崎県の「ナマズの煮付け」に関しては、「日本の食生活全集 宮崎」編集委員会編『日本の食生活全集45聞き書 宮崎の食事』(1991年、農山漁村文化協会)93〜94頁。以下、35種がすべて『日本の食生活全集』の各県別に記載、以下は省略。
3.澁澤敬三『日本魚名の研究』(昭和34年、角川書店)11頁。
4.岩手県の「ギンギョ」および熊本県の「ナマンギュー」に関しては、千葉県立大利根博物館編『特別展「鯰百話」展示図録』(平成6年、千葉県立大利根博物館友の会)23頁。以下36種は主に同書を参照、詳細は省略。
5.諸橋轍次・鎌田正・米山寅太郎『広漢和辞典』下巻(平成6年、大修館書店)1326〜1348頁。
6.島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注『和漢三才図会』7、東洋文庫471(1987年、平凡社)185頁。7.馬淵和男・国東文麿・今野達校注・訳者『今昔物語集』3、日本古典文学全集23(1989年、小学館)132〜136頁。
8. 中村禎里『日本人の動物観 変身譚の歴史』(2006年、星雲社)107頁。
9.同上、108頁。
10.NHK取材班『NHK国宝への旅』第19巻(平成2年、日本放送出版協会)66頁。
11.高楠順次郎編『大正新修大蔵経』第76巻続諸宗部7(昭和6年、大正一切経刊行会)626頁。なお、左方郁子氏が、「『7』という数は神と人をつなぐ、畏怖をはらんだ呪術数であった。」と興味深い見解を述べていることを付け加えておきたい。左方郁子「古典の世界にみる七」(『フォークロア』2号、1994年)54頁。
12.中山太郎「気多神考(我が国に於ける魚類崇拝の俗信)」『日本民俗学』神
  事篇(昭和5年、大岡山書店)316頁。
13.『福山志科』〈復刻版〉(昭和43年、「福山志科」刊行会)7頁。
14.「斎諧俗談」日本随筆大成編輯部編『筆の御霊』日本随筆大成 新装版〈第
  1期〉19(平成6年、吉川弘文館)370頁。
15.川田町役場編『川田町史』附録(昭和5年、川田町役場)46〜47頁。喜多
弘・湯浅安夫編『麻植の伝説』(製作年不明、喜多弘・湯浅安夫)276〜277頁。
16.中村幸彦・中野三敏校訂『甲子夜話』3、東洋文庫321(昭和52年、平
  凡社)273〜274頁。
17.阿蘇品保夫・佐々木哲哉校注『阿蘇・英彦山』神道大系・神社編50(昭和
  62年、神道大系編纂会)24〜25頁。
18.村崎真智子『阿蘇神社祭祀の研究』(1993年、法政大学出版局)244頁。
19.同上、40頁、注(20)。
20.貝原益軒編、伊東尾四郎校訂『増補筑前国続風土記』(2001年、文献出版)
  372〜373頁。
21.青柳種信編『筑前国続風土記拾遺』中巻(1993年、文献出版)549頁。
22.伊東尾四郎編『宗像郡誌』下編(1986年、臨川書店)54〜55頁、61〜62
  頁。
23.垣田五百次編『口丹波口碑集』(1925年、郷土研究社)170〜171頁。
24.『養老寺来由縁起略』寛延2年の版本。
25. 那珂川町教育委員会編『郷士誌 那珂川』(昭和51年、ぎょうせい)216頁。
26.益軒会編『益軒全集』全8巻之4(昭和48年、国書刊行会)137〜138頁
27.文化庁文化財保護部編『田植の習俗』4、島根県・岡山県 民俗資料叢書
  9(1970年、平凡社)24頁。

因みに、他の魚と異なりナマズには鱗がないため忌み嫌われたとみられことから、この魚を用いてはならない三重県下の「川干しの特殊神事」が以下のように伝えられている。「延宝8年(1680)以後の記録帳あるも以前詳かならず。(中略)然るに古来よりその淵の下流、すなわちその支流を毎年九月六日に川干と称してその年の当人(祭礼営人)供人数多引連れ古式の如く川干して川魚(伝説、石打してハヤを捕り以て神供に備う。今尚昔に変らず)を捕り祭礼の御供物(ウナギ・ナマズ等うろこなき魚は決して用うべからざる古例なり)並に祭礼当日の式典に供し来りしは古例よりの慣例にして、現今実行しつつあり。」(青山町史編纂委員会編『青山町史』〈昭和54年、青山町役場〉823〜825頁) 一方、神饌としてナマズが用いられている事例も以下2点存在する。@奈良県奈良市の正月5日の五日戎にナマズを求めて神前に供える(塚本霞村「奈良の風俗」〔『郷土風景』1巻2号、昭和7年4月号〕)80頁。A大阪府大阪市の「住吉神社・一夜官女神事」の際にナマズを三皿神饌として用意する(岩井宏美編『神饌 神と人との饗宴』〔昭和56年、同朋舎〕)

70頁。これらの神事を鑑みると、ナマズに対する意識が時代および地域により異なるとみられる。
28.谷川士清編・井上頼圀・小杉榲邨増補『増補語林 和訓栞』後編(昭和48
  年、名著刊行会)658頁。
29.矢野宗幹・河本寿之校註『大和本草』第2冊(昭和55年、有明書房)83
  頁。
30.日本随筆大成編輯部編「仙台間語」『日本随筆大成』新装版(平成5年、
  吉川弘文館)443〜444頁。
31.宮田登「都市民俗学からみた鯰信仰」宮田登・高田衛編『鯰絵 ―震災と
  日本文化』平成7年、里文出版)28頁。
32.C・アウエハント(宮田登解説 小松和彦・中沢新一・飯島吉晴・古家信
  平共訳)『鯰絵 ―民俗的想像力の世界(普及版)』(1989年、せりか書房)。
  気谷誠『鯰絵新考 ―災害のコスモロジー』(1984年、筑波書林)。北原糸
  子『地震の社会史―安政大地震と民衆―』(2000年、講談社)。加藤光男「鯰
  絵に関する基礎的考察 ―その種類と異版―」(『埼玉県立博物館紀要』18
  号、1993年)91〜126頁。なお、富沢達三「『鯰絵の世界』と民衆意識」
  (『日本民俗学』208号、1996年)によると、3パターンA「地震鯰が明
  暗に悪とみなされている鯰絵」B「地震鯰の善・悪の区別がつきにくい鯰
  絵」C「地震鯰が明暗に善とみなされている鯰絵」に分類できるという(90
  頁)。
33.宮田登・高田衛編、注31、前掲書、「第5部鯰絵総目録」作品番号69 表
  題「万歳楽身の用心」(285〜286頁)、作品番号129 仮題「(鯰の掛軸)」
  (320頁)、作品番号196 表題「ぢしんミやうさく下徳参」(357頁)。
34.荒川秀俊『実録・大江戸壊滅の日』(昭和57年、教育社)121頁。
35.岡沢要編『弘化4年善光寺 大地震記録集 叙勲記念出版』(昭和57年、
  岡沢要)281頁。
36.北原糸子「本草学のナマズから鯰絵の鯰へ」『(展示図録)鯰 ―魚がむず
ぶ琵琶湖と田んぼ―』(2001年、滋賀県立琵琶湖博物館)49頁。
37.物集高見『広文庫』第5冊(大正6年、廣文庫刊行会)229頁。
38.浅野昌充「電気を感覚する魚―ナマズ」(『地震ジャーナル』通号26、1998
  年)には、「ナマズは乾電池の電圧1.5Xの数1000万分の1の電位差を感
  知できる。単純計算では、琵琶湖のような広い湖に乾電池が1個投げ込ま
  れたとすると、そのことを数キロメートル先で感知できる計算になる。」と
  記されている(52頁)。
39.柳田國国男『柳田國男全集』第7巻(1998年、筑摩書房)543頁。
40.『日本水産補採誌』〈復刻版〉(1983年、岩崎美術社)153頁。
41.片野修『ナマズはどこで卵を産むのか』(1998年、創樹社)11・13頁。な
お、ナマズ・ビワコオオナマズ・イワトコナマズの巻きつき行動による産
卵状況に関しては、前畑政善「ナマズ類の繁殖生態と水辺移行帯(エコト
ーン)」『(展示図録)鯰 ―魚がむずぶ琵琶湖と田んぼ―』(2001年、滋賀
県立琵琶湖博物館)107〜114頁に詳細。

// 引用終り //

(文中の「?」は正體字で「魚偏に挟」、「魚偏に弟」 ・・・ の字、何れもナマズの意、詳細は略す)

 

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UrashimaTitle

浦島太郎と竜宮城

福助さんのエッセイ

      2012/09/27

真道 重明

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昔々浦島は助けた亀に連れられて・・・で始まる浦島太郎の歌(尋常小学唱歌は誰でも知っている。「浦島太郎の生地」や「浦島と竜宮の話」または「玉手箱」などの話は日本全国にあり、良く知られたものとしては神奈川県下の各市・京都府与謝郡・香川県三豊市・長野県上松町・愛知県武豊町がある。なお沖縄県にも近似した話があると云う(以上 Wikipedia と私に記憶による)

今回、福助さんから神奈川県下の竜宮と浦島についての調査結果に就いて詳しい結果のメールを頂いた。私は此れをPDFファイルに変換し、下記をクリックすれば閲覧が出来る。(PDFファイルを見た後は閉じずにタブでこのページに戻ること)。

 

福助さんの原文は此処をクリック

 

誌などの竜宮城の絵を見ると下に図示したような福建省の寺院様式のものが多い。此れから推測されるのは浦島太郎が行った先は中国の福建省と思う人達が多かったようだ。長崎市にはこの外に此れと似た山門の「悟真寺」(稲佐地区)がある。

 

   

長崎市の赤寺(唐寺)の山門(三門)       下関市の赤間神宮の山門(三門)

 

(注)山門(三門)と書いたが、山門は寺院が元来山に建てられたものであるから山中の寺門の意.。三門は三解脱門の意。鎌倉時代に禅宗とともに重層楼門の左右にと思われる山廊を付けたものが流行したことで、この門に限って三門と称した。( Wiki による。

本の神社仏閣の伽藍様式では此の種の山門(三門)は少ない。素人の私の勝手な推測だが、中国北方の西王母に対し南方では媽祖であり、媽祖は海の神様である。海に纏わる浦島太郎の話は古事記にも記載されていると云うが、漢字が中国から日本に伝来した時よりずっと以前から、書かれた漢字ではなく対面して「発音」により喋り会う形での意志疏通が行われていたに相違ない。

浦島太郎の話(またはその原形)は日本に漢字が伝来する遥か以前から日本各地で知られていたものと思われる。

私は福建省を除く中国の沿海各省の寺院を数十と数多く見たが、上掲のような山門はこの眼で見たことはない。媽祖廟(媽祖堂)は恐らく福建省にある様式だと思う。但し、媽祖を祭った寺院の山門が総てこの形という訳ではない。日本の長崎や横浜中華街にある媽祖堂は普通の寺院形式である。中国本土でも同様である。

処で、「竜宮城」の絵はずっと後世のもので、大昔の人々はどの様なイメージを持っていたのだろうか?

 

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