mougo8

mougo8.htm

UMEnoKioku

私の見た変な夢の数々

 

夢は五臓六腑の疲れ・・・などと言うが、幼少期から現在の「米寿」近くまでの80数年間に見た夢を分類してみた。私は夢を良く見る性ではないが、その中の幾つかは憶えている。それには幾つかのパターンがある。
覚醒時には苦しかったことは記憶の底に沈殿し、楽しかった想い出が意識の表面に出て居るようだ。
しかし夢では逆で、どちらかと言えば楽しい夢より
Nightmare (悪夢)に近いものの方が多い。これで心理状態のバランスを取っているのだろうか?

2010/04/15

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

YumeMOKUJI

 目 次

幼少期から中学卒業までの夢

風邪熱時に見る夢 ・ 空中浮揚 ・ 学期末試験の悪夢 ・ 金縛り ・ 腕や足が抜け落ちる夢

壮年期の夢

デパートの迷路 ・ 「乗車に遅れる恐怖」・ 「乗り換える駅」を間違えて狼狽する夢 ・ 外国語を流暢に喋る夢

晩年期の夢

「駆け落ち」か?「二人で逐電」した夢 ・ 中学の同級生と就職後の仲間が混在して出て来る ・ 故人が若い頃の侭で出て来る夢

 

 

 

 

 

 

 

 

yume1

幼少期から中学卒業までの夢

 

寿に近い私は物心付いて以来、沢山の夢を見て来た。皆がそうであるように目覚めたときは憶えていても、速いときは数十秒、普通3分もしない内に夢の内容を忘れてしまうことが多い。しかし、幾つかの夢はこの歳になる迄未だに憶えている処を見ると、それらには「何かがある」ように思えてなら無い。

夢の解釈はフロイト・ユングが、精神分析をする為に使ったとのことだが、夢の話をすると心理病理学者から「私が精神分析を受診されて居る」ようで、多少は躊躇いがあるのだが、そんなことはこの歳になれば「どうでも良い」ことだ。これも人生の一種の記録であることには間違いない。

 

風邪を引いて熱のある時良く見た不思議な夢

弱体質と云われた私は子供の時に良く風邪を引いて熱を出した。しかし小学校の6ヵ年間に数回「皆勤賞」を貰っているから、一晩で治ったようだ。熱を出すと、当時良くあった「饂飩屋一服薬」という頓服薬が付いた饂飩を饂飩屋から取って呉れたのが楽しみだった。

熱を出した侭、眠っていると必ずでは無いが、可なりの高い頻度で、良く此の変な光景の夢を見た。それは常に「同じ画面?」で、部屋の一隅の床に密着した三角錐状の隅の場所の景色である。

ヤヤ薄暗いその場所には、長い棒が立て掛けてあり傍には野球ボールぐらいの球形の球が一つ転がっている。家には存在しないものである。熱を出して居るときだけ何故この光景を夢見るのか不思議でならない。

 

空中を浮游する夢

学校に入学した頃、近所にある公園の桜並木が満開だった。大小の花見客の一団が夫々並木道に沿って多数陣取って居た。空中浮揚の夢をその頃2〜3回ばかり見た。空中と云っても地上10 m 位の高さ、飛ぶ速力は「小走り」程度、浮游する方法は水泳の「平泳ぎ」(ブレスト)と全く同じだった。

両手で水ならぬ空気を一所懸命に掻く。さもないと身体が地上に落下するような気がした。私は小学校の時から「水泳部」だったし、中学校でも平泳ぎ」の選手だった。そのことが空中での「浮揚式の遊泳方法」に関係していたのは間違いない。

墜落しないように盛んに手足を動かしていたが、水泳プールの練習と同じで、左程に苦痛ではなかった。だが紙芝居の「黄金バット」やマンガの「スーパーマン」のように快速で飛翔する格好の良いものでは無かった。

しかし、桜並木をそぞろ歩きをする人々や酒盛りをして居る酔客を頭上から眺めるのは快感であった。だが誰一人として私を見上げる者は居らず、多分彼等には「頭上を飛んでいる私は見えなかった」ように思われた。

この空中浮游の夢は僅か2〜3回ばかりしか見なかったのに、今でも憶えて居るのは余ほど強い印象を受けたからだろうと思われる。

 

学期末試験の悪夢

末試験が楽しい人は余り居ないだろう。中学校の頃は試験前のガリ勉から来る寝不足で、「玄関の框に座って靴を履いている最中」、フト気づくとこれが夢で目覚める寸前、「未だ身体は床の中」・・・と云った経験は度々あった。「しまった、急いで起きなきや・・・」と云う訳。

本番の教室内での受験時は大失敗の記憶は無いのだが、夢では「筆箱に鉛筆や消しゴムが入っていない」ので周章狼狽したり、正解が喉元まで来ているのに思い出せず、ヤキモキして居る自分を発見する・・・などの事態が夢の中では時々あった。

この手の夢はごく希ではあったが、40歳頃まで時々見た。それは決まって中学生時代の出来事なのである。歳を取ったためか、流石にその後は期末試験の夢は見た事が無い。

現実の世界では17歳で中学の四年生を終了し東京に進学したのに、夢の世界では中学校時代の期末試験の悪夢を40歳頃まで夢見た。未だ尾を引きずっていたのだろうか?40歳を過ぎてやっとこれから開放された。

 

金縛り

縛り・・・は夢の一種だろう?中学生の頃は時々見た。「主に就寝中、意識がはっきりしていながら体を動かすことができない症状を指す。思春期に多い」(Wiki )とある。私の場合は指だけは動かすことが出来た。恐怖状態だが「困った、困った」と思いつつ、それ程恐くはなかった。

不思議だが、夢の中の心では「これは夢だ・・・と云うことが、不思議というか、何となく解っていた」からだ。背後から何か私に危害を与える人が追っかけて来る。それを逃れようとして走り去ろうとしても立ち上がれない。何者かを振り返ってみようとしても、首は硬直して動かない。指だけは動くので、両手の指の爪を畳に立てて「cm」ぐらい前進する。直ぐに追い付かれそうだが、追い付いては呉れない(笑い)。

「これは夢だ・・・と何となく解っていた」とは云え、だからと云って恐怖感は強く感じている。矛盾するようだが・・・。Wikipedia に依ると「金縛り(かなしばり)は主に就寝中、意識がはっきりしていながら体を動かすことができない症状を指す・・・云々」とある。また、思春期に多いとも説明されているが、私の場合も中学生の年頃には何度も見たが、その後は一度も見たことが無い。

余談: 良く「魘(うな)される」と云う言葉を聞く。悪夢に怯えて呻き声を出す状態を指す場合だ。私は他人が「魘されている」のを偶に経験したが、その声は実に恐怖に満ち、アフリカの草原で「ハイエナに襲われたヌー」の叫びにも似た動物的な声であった。「金縛り」と此れとは別物だと思う。私の「金縛り」の場合には声は出さない。

私は「魘された経験があったか無かったか」は知らない。しかし他人から指摘されたことは一度もないことから考えて、勝手に「無かった」と思って居る。

 

腕や足が抜け落ちる夢

中学校で体操に課目時間に「ドッジボール」か何か集団競技をやっている時、左手の指に違和感を感じた。右手の指で引っ張ってみたら指が「スポッ」と抜けてしまった。痛くも痒くもない。まるで木偶人形の指を取り外したようだ。

だが夢の中の私は「これは大変なことになってしまった」と思いつつ、試しに今度は腕を引っ張ってみたら腕もまた「スポッ」と抜けてしまった。「益々大事になった、俺の身体は一体どうなるのだろう?」と苦悶している。

落語に自分の首を両手で持ち上げて走る噺があるが、それに似ている。英国の実話に「痛覚が全く欠如した少女」の話を読んだことがある。医学的にも希だが「あり得る」のだそうだ。上述の夢はたった一回しか見たことがないのだが、余りにも変な夢なので良く今迄憶えている。

この項目の目次に戻る

 


 

Yume2

中年期の夢

 

デパートの中の迷路

パートに入ったのは良いが、出口などが分からず難渋する夢。デパートは必ずしも常に同じ店では無い。共通する点は地上階ではなく常に4階か5階である点だ。目当ての品を買わずに他の階へ移動し、再び前の売り場で目的の品を買おうと、其処に戻ろうとするが迷って戻れない。

インフォメーション(案内)と書かれたデスクの「案内孃」か傍にいる「売り子」にチョット訊ねればよいものを、自分一人で何とか戻る道筋を探して苦悩し乍ら困惑して居る。時によると5階に居る筈が急に屋上だったり正面玄関の出口だったりする。

後述するように、自分の居場所が急に変わって道に迷う夢はデパートに限らず、私が「好んで?」良く見る夢のパターンだ。覚醒時の現実の生活では道に迷って困惑することは在っても極めて希で滅多に無い。路上に人や傍にある店、或いは交番に訊けば済むことだ。

何故、夢では「案内孃」や傍らの人に尋ねることをせず、ただ自分一人だけで対応し、悩むのだろうか?、不思議と云えば不思議であり、どうも納得が行かない。常軌を外れて居るのが「夢の夢たる所以」だろうか?

 

乗車に遅れる恐怖

車に遅れそうでヤキモキする夢は必ず1〜2泊の集団旅行、例えば同窓会などが終わって、解散後に同方向に帰る者同士が宿を出る場合に限っている。私だけが未だ荷物をカバンに詰める作業が終わらず、乗車に遅れるのではないか?と慌てるパターンの時だけである。

時や場所は違っても、このタイプの夢は度々見た。思い出せないが現実にその様な事態を経験し、その時の痛い記憶が胸中に潜在し、夢となって繰り返されるのだろうか?

しかし、場所も人も会合もその都度違って居る。自分一人が喫茶コーナーで珈琲を飲んで居ると「帰るぞー」の声を聞き、慌てて宿の自室に戻り、狼狽が始まる場合もある。

フト目を覚ますと自宅の寝床の中だ。「何だ夢か」と胸を撫で下ろす。この種の夢は深夜ではなく、起床直前のウトウトしている時に限る。「ひと電車遅れても何と言うことはない」のだが、見て得な悪夢は無いだろうが、何とも、ハテ、損な悪夢だ。

 

「乗り換えする駅」を間違えて狼狽する夢

所は殆どが近畿から関東の間。間違える駅は米原駅か名古屋駅ないしその付近。希に大阪の天王寺駅かその周辺。若い頃、実際に経験したことがあって、それが形を変えて夢の中で様々なバリエンションで繰り返し再現されるのか?

忘れてしまって、現実にその様な実体験があった否かは思い出せないが、通勤電車でウッカリして下車駅を乗り過ごすことは在っても、長途の移動で乗換駅を間違えた憶えは無かったように思う。何故こんな夢を見るのだろう?

 

流暢に喋る中国語

ツダム宣言を受諾した戦地での日本軍には「撃ち方止め」の停戦命令が出て、中国軍(国民党軍)の中国空軍の第四方面軍司令部(在広州市)に通訳官として転属を命令された。

中国語は東京外国語学校(現東京外国語大学)の専修科(夜学)で習ったので何とか多少は喋れた。・・・と云っても学校で習っただけ、現地での実践の経験は「殆ど無いに等しい」。その程度の語学力で敗戦後の戦後処理と云う重責のある「通訳官」を勤めるのは可なりの無理が有った。

毎日「冷や汗」を流しながらの勤務だった。周囲は総て北京官話(乃至それに近い方言)を基盤とする軍隊用語を話す中国軍の将兵ばかり、寝ても覚めても耳にするのは中国語。理解できない語彙が続出する。最初の内は此の様な場合には、先ずメモ帳に「漢字を書く」(有り難いことに中国語の漢字の意味の8割は日本のそれと共通ないし想定可能)・「画を描く」・「身振り手振り」などを交えて、何とか通じさせる苦悩の日々が続いた。

朝昼だけで無く、夜間、床について睡眠中に夢見る際も中国語。通訳する際に日本人に対しても、時々ウッカリして中国語で話し掛けることが良くあった。

仕事中に意味が通ぜず苦悩の連続だった二も拘わらず、不思議なことに睡眠中の夢の中ではスイスイと淀みなく中国語を喋っている。夢の中では知らない語彙や表現句は出て来ない。

私が見た多くの夢では「道に迷った、どうしょう」と云った「どちらかと言えば悪夢に近い物」が多いのに、この場合だけは「良い夢」なのだ。自分が知らない語彙や表現句は自分の頭には無いのだから「出て来るは筈は無い」からだろう。

 

この項目の目次に戻る

 


 

 

Yume3

晩年期の夢

 

「駆け落ち」か?、「二人で逐電」した夢

んなMEMOがノートの中から出て来た:−

『人間は「経験して居ないことを夢で見ることはない」と良く云われるが、昨夜不思議な夢を見た。「駆け落ち」、或いは「二人で手を携えての逐電」と云った方が適切かも知れない夢だ。私は「駆け落ち」や「逐電」の経験は、勿論、全く無い(笑い)。それなのに何故?・・・。

そもそも、駆け落ち(かけおち)とは Wiki に依ると「愛し合っている男女が一緒になることを親によって許されない事情があり、親の知らないところで同棲生活をするために一緒に逃げること。広辞苑では、@ に武士が戦に負けて逃げること。A 「恋しあう男女が連れ立ってひそかに他の地へ逃亡すること」とある。この夢の場合、「二人で逐電」と云うべきであろう。

最近夢は滅多に見ないが、見ても直ぐ忘れるので、自分用に書き留めた。場所は何処かの田舎町。しかし、電車が通って居たので小都市である。「駆け落ち」、「逐電」の相手は良く知る某女史(笑い)。夢の中での二人の年齢は若返って40歳ぐらいだ。私の家は風呂屋。そのあとを職業として継げと言う話が持ち上がり、それが嫌で家出をする気になったらしいようだ。誰が私に「後を継げ」と指示したのかは思い出せない。

また「家出」するとき何故未知の人では無く「某女史」が居たのか、そして二人で夜道を人目を避けて彷徨い歩いていたのかも理解でき無い。「その物腰だと怪しまれる」などの会話を交わしたことを憶えている。二人で徘徊していると、突然電車の駅が眼に入り、それに乗って逃げようと云うことになったが、行き先の駅名の見当も付かない。適当に駅を撰んだが、その駅名は忘れた。

こんな変な夢は生まれて初めて。「ハラハラ・ドキドキ感」は全く無く、私は案外平然とした心境だったし、某女史の心境は泰然自若そのものだった』。

余りにも突飛な内容などで書き留めたのだろう。

「人は自ら経験しない事柄に関連する夢は見ることは出来ない」と云うことを本で読んだことがある。例えば、「殺人をしたことが無い人は殺人の夢を見ることは無い」と云う。先に記した空中浮遊の夢は、それ迄に空中浮遊を経験したことは無いのだが、身体を動かす肉体運動の状況は「平泳ぎ」と全く似ており、水中が空中に置き換わっただけで無関係とは云えないと云うことだろうか?

ちなみに、私は某女史を尊敬し、同時に終始「好意、即ち、親愛感」を持って居るが、「恋し合っている」または「恋し合って居た」訳では無い。二人は異性同士と云う関係だが、この夢では異性であることを殆ど意識して居ない。この種の夢は、後にも先にも此れ一つのような気がする。

 

中学の同級生と就職後の仲間が混在して出て来る

人間は誰でも歳を取ると「物忘れ」が酷くなる、壮年期には夢に出て来る友人は小学生は小学校の知り合いばかり、中学生は中学校の知り合いばかりだった。「物忘れ」と平行して、友人のグループの仕分けが混乱し始め、夢の中では彼等が混在するケースが時々起こるようになった。

外国の友人と日本の友人とが夢の中で混在するケースは、未だ一度も経験したことは無い。外国の友人の場合、言葉や環境が全く異なって居るから「混在することは有り得ないと思うから」だろうか?

数年前にタイ国の水産局配下の研究所を訪れて其処の連中と討論している夢を見た。研究所の場所は実際はバンコク市内の魚市場の隣りにあるのだが、夢では海に沿った崖道にあり、何処の国だか分からない。日本でないことは確かだ。

話している言葉は国際機関に居た時と同じく「タイ語と英語の専門用語」の筈である。私のタイ語はいい加減なものだが一応は喋ることが出来る。一方、彼等は日本語は全然喋れない。しかし夢では言葉に関する意識は全く憶えていない。お互いの意思交換には何の支障もなかった。夢では都合がよいらしい。

 

故人が若い頃の侭で出て来る夢

壮年期には故人が夢に出て来ることは殆ど無かったように思う。80歳代の半ばを越した昨今では、故人となった友人が時々夢の中に出て来る。私もそれらの友人と同じく若い。

「故人の夢を見るようになったら、それらの故人との此の世での縁が切れた証拠だ」と云う人が居るが、私はそうは思わない。寧ろ「縁」が近くなったような気がする。

此の様な夢は数多く見るのだが、同窓会であったり、運動会であったりするのは記憶しているのだが、詳細な会話や内容は目が覚めるとスッカリ忘れて思い出せない。

先日見た夢だが、咋年末に受け取った「喪中」のハガキに同級生の訃報があった。僅か半年前であり、その旨を名簿に記入したばかりである。夢では彼と久し振りの面談の約束をして居るのだが、双方ともウッカリして落ち合う場所と時刻を未だ決めていないことに気が付いた。私は慌てて「スグ電話して確認しなければ・・・」とおも多瞬間に目が覚めた。そして彼は既に他界したことを想い出した。

私も「老人ボケが進んだなーと思いながら・・・

 

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

この項目の目次に戻る

このページの目次に戻る    ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

InvitationCard

在外公館からの Invitation Card

に書かれたカジュアル(Casual

 

現今、日常の日本語で使われる「カジュアル」略式の、普段着の、儀式張らない、日常の服装の意に使われる。だが、日本の在外大使館からの格式張った通知文(英文)では時代錯誤的な感覚で意味が異なる。

着任早々、「背広・ネクタイ姿」ばかりの人々の居る式場に異装の私は「恥ずかしくて」入れず、着て居た「色シャツ」の侭で自宅に逃げ帰った。若しも Formal (正装)と記載されて居たら、大礼服か燕尾服でも着るのだろうか?

 

2010/04/25

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

 

0年数年も前の話だから、現在は知らない。しかし、恐らく多分余り変わっては居ないだろうと思う。1973年に海外の国際機関に着任して未だ10日も経たないとき、先日着任の挨拶に行ったばかりの現地の日本大使館から一通の英文招待状が届いた。某参事官が転勤するので各国の友人や在留邦人の代表者を招いて送別の宴を設けるから・・・との内容である。

着任後まだ数日も経たない私は、その参事官の名前も職責も知らない。この種の金縁の招待状を受け取るのも生まれて初めて。それ迄に海外の国際会議には数回出たことはあるのだが、何時も一枚紙のレターが配布されるだけだった。

金縁のカードには差出人・受取人・日時・場所などと共に服装が記載してある。それには「Casual」(カジュアル)とある。私はテッキリ普段の侭のシャツ姿の平服と思って居た。此れが大間違いの「もと」であった。

服装指定については、大正時代に洋行した叔父さんから、客船には「ドレスコードと云うものがあり、夜の服装に対する指示で、基本的に「フォーマル」、「インフォーマル」、「カジュアル」の3種類がある・・・」と云う話を聞いた憶えがある。多年の念願だった洋行を果たした叔父さんは半ば得意げに説明してくれたが、小学生の私は羨ましく聞いたのだが、朝昼はどう、重要な夜はどう・・・と中々面倒な内容で大半は忘れた。國際旅客機便の無い時代の話だ。

大使館などの國際外交のイベントでの服装指定に就いて私はそれ迄全く知識はなかった。国際的に或る程度は共通した様式や述語が有るのだろうが、日本の場合、明治期に文明国となるべく欧米のそれらを学んで造った外務省の慣習は、その後も余り変化無く今迄受け継がれているような気がする。

第1次世界大戦時代の直後の英字紙の四コマ漫画に「タイピスト」としてようやく就職できた男が嬉しさのあまりモーニング・コートを着て初出勤する画があったが、モーニング・コートは当時の英国ではチョット気取った平服と思われていたらしい。この当時の英国などの感覚が日本の大使館では今も続いているような気がする。

・・・と云うのは、上記の現地の気温は熱帯のせいで、常に30度以上、ネクタイのある制服は軍人と警察官だけで、一般人はシャツ姿である。つまりカジュアルである。若し一般人が「背広・ネクタイ姿」だと格式張った半礼装と見做される。

上記の英文招待状ではカジュアルCasualとある。明治・大正時代の感覚だ。それを知らない私自身を弁護するわけでは無い。慣習は慣習だ。しかし、何だか違和感を感じる。外務省には省内使用としての「公文の書き方のマニュアル」がある。それを見ると明治時代の「太政官布告」のような表現が沢山ある。

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

この項目の目次に戻る

このページの目次に戻る    ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Kame&Suppon

亀と鼈

 

2011/04/29

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

 

三浦福助さんから「亀の恩」と題する面白い話を頂いた。先ず此の咄から紹介しよう。

 


 

亀の恩

                                三浦 福助

本に古くから「炭焼長者」という民話があり、南は九州(豊後)から、北は東北(尻屋)まで広く語り伝えられています。話は「貧しい若者が人里離れた山中で一人、炭を焼いていました。そこへ都からやんごとないお姫様が、かねて信仰する観音様のお告げで、押掛け嫁にやってきました。ある日、炭焼きとお姫様は市に買い物に行く道すがら池のそばを通ると、水鳥がいました。若者は、お姫様が持っていた金の小判を貰うと、鳥に投げつけました。お姫様は吃驚して、なぜ金をこのように粗末にするのか、と戒めました。すると、炭焼きが云う事には、”あんな小石が宝であれば、わしが炭焼く谷々には、およそ小笊で山ほど御座る。” それで、その後に炭焼きの谷に行って、金を難なく拾い集め、長者になりました。」というものです。

確かに、金という金属は見栄えがする、錆びないという点で崇められていますが、強度も低く柔らかくて取り柄が無く、近頃は別ですが、あまり実用性のないものともいえます。このように、ある利点が大きく尊重されても、見方を変えれば評価が変わるものが世の中には往々にしてあります。

亀は、いかにも悠々然とした外見から古来、霊的なもの、神の使いなどとして特別視され、3,500年以前の古代中国では未来を知るものとして、占いの具現者として利用されていました。亀の腹甲が利用され、そこに記録を刻んだものが甲骨文字となり、記録された漢字の始まりとなったのです。後代になっても亀は神の使いとして大切にされてきました。しかし、同類であるすっぽんは、あまり良い噂を聞かないのは外見が悪いせいかも知れません。

日本では、浦島太郎をはじめ亀は富と長寿をもたらすものとして大切にされ、誤って網に罹っても放してやる、おまけにお酒を飲ませてやるなどという風習が一般的でした。

しかし、炭焼長者ではないですが、都から離れた海辺の人たちにとっては、高貴な亀もやはり単なる肉の塊に過ぎません。当然、漁業の対象となっていました。かってはかなり広く行われていたようですが、現在は許可漁業となって、沖縄県の八重山漁協に約10人、東京都小笠原に1人の許可が出ているそうです。南洋諸島では亀の食用漁獲が昔から、−今でも−盛んですから、あるいは亀漁業は黒潮流域に伝播したものかもしれません。伊豆諸島の新島に亀漁業の記録が残っています。

新島の亀漁業は、「カメコギ」といい、昭和30年にはすでに亡びており、かって実地に見聞もし、参加もした老人たちから聞き取った記録があります。

1 漁法

大きく分けて2つあり、亀を船で櫓を漕いで追うと、しまいには疲れ切って海底に休止するので、その機を逸せず海士が潜り追い生け捕りにする方法と鈷で突いて捕る方法で、いずれも船を櫓で漕いでする素朴な漁法だったので、島ではカメコギと呼んでいたそうです。

亀捕りの船は八丁艪を用いて24〜30人位は乗組みました。船のオモテのカンヌキヘ1丈5尺位のヤグラを立てて、その上にアラ見が1人乗ります。この亀捕りのアラ見は余程上手な者でないと出來ないもので新島中にも3人位しかいなかったそうです。アラ見が亀を発見すると、ヤグラの上からオモカヂは右の手を揚げ、トリカヂは左の手を揚げ、止めろは後ろへと手を押す、急げは櫓を漕ぐ手眞似をするという信号で漕手に合図をし、だんだん亀を追っていきました。
カメコギの種類は7つほどあったそうです。

(1) オヒキ

これは1番目の漁法で、亀を見つけると船で追い回すのですが、船追いするといっても、船影を海底に写し、その影で亀を追い、亀が疲れ切って海底に休止した時、海士は海に潜り海底についている亀をつかまえて海面に誘導するのだそうです。この時、青亀は喰いつかないが赤亀は喰いつくので、二番モグリは焚木を持って潜り、亀にこれをくわえさせ、一番モグリと交替するそうです。

(2) ノギツキ

亀を船で追うと潜ってしまいますが、間もなくノギ(呼吸の意か)をするため海面に浮かぶので、その機会をつかんで鈷で突くもので、セゴオタ(甲羅)に人間のクロツメ(爪垢の意)ほどのヤ(鈷)が入っても抜けないものだと言い習わされています。

(3) ヒルオイ

凪ぎの時の亀の追い突きはサトくて難しく、荒れ模様で少しは波のある時の方が、船の姿や音が消されるせいかかえって突き易いので、こうした時に突くのがヒルオイというそうです。

(4) ネゴシヅキ

亀が海の岩礁に来て海草などを食べているところを悟られぬように隠れて行き、岩蔭を利用して突く方法だそうです。

(5) ネガメヅキ

亀が磯の根や岩礁に上がって寝ていることがあり、そうした機会を狙って突くのがこの方法です。

(6) シキコギ

八十八夜からはシキ(波頭が白く光ること。夜光虫による場合もある)が立つので、夜の亀が海中を泳ぐシキを見てこれを追い突き獲る方法で、ちなみに土用があけるとシキはないと云われています。

(7) ヨトボシ

夜の亀は、松のアカシ(枯れ松の芯)の松明りで照らすと、ぼんやりして海に潜るのを忘れるので、その機会に突き獲る方法です。アカシを焚く石皿があり、それをウスと呼んでいました。
こうして1日に4、5匹位は捕ったのですが、昔は1日2、30匹捕ったとも云われて
います。その分配は船代は3人代、アラ見は1人代の外に亀1頭分のコータ(甲羅)と頭を貰い、後は全部平均に配分しました。亀には黒亀(アオウミガメ即ち正覚坊)と赤亀(アカウミガメ)があって、黒亀のほうが旨かったそうです。

亀は入梅の頃、卵を産むため、夜に浜に上がり、200個前後産んで夜明けまでに海へ下がるのですが、卵は75日で艀り、子は土用波で海へ行くと云います。産卵の位置も年により異なり、海に近ければ凪ぎ年、遠ければシケ年として、年占いなどもしたとのことです。卵は亀が上がり切って曲って下がりかげる角へ1尺くらいの穴を掘って産み、それに砂を掛けて堅く固めてあり、その周辺は穴などを掘り産卵の位置が分らないよう擬装してあったそうです。卵は丸く白く、押せば凹み、直径3センチで味はまずく、卵を拾って家へ持ち帰り、庭の隅などで艀えしても、子亀は自然と海の方向に歩み帰るのだそうです。産卵のため上がり下がりする亀を捕えることもあり、1人持ち10貫として、2人持ちから4人持ち、昔は時には6人持ちの大亀もあったと云われています。

2 漁期と漁祭り

この漁を行う時期は、1年の中でも短い期間で、カメコギは旧正月になってハツガメを乗せると、初めてその年のすべての漁のクチアケになったもので、ハツガメを乗せないうちは、海の漁はいっさい出来ないとされていました。村の漁師にとってハツガメを乗せることは、めでたいことで、その漁師と初亀を乗せた船は、祝福されたということです。初亀を乗せた船の1番鈷であるハツヤの者は、まず船主の家のニワに運ばれた亀を、熟練者によって腹を切り開き、その内臓からココロブサ(心臓)を取り出し、キリバンに乗せて3つに切り、切ったキモサキを船主の家の屋根越しに投げ上げ、続いてオハツを投げて、今日のハツヤの恩寵を謝し、今年の豊漁を祈念したのだそうです。

このようにして、その年の漁が始まるですが、2月を過ぎると亀の足が速く、ヤ(鈷)を寄せず潜ってしまうのでこの漁も終り、2月末頃から灯油用の鮫釣り、3月からは鰹釣りが始まりました。また、天草採りも始まります。お盆の頃には鰹釣は終り、棒受網が始まり、11月まで続くのが普通でした。11月からは、西風で漁に出られず漁は終りになりました。

3 亀と食糧

新島には餓死年という言葉があったそうです。昔の飢饉時の食糧事情をいう言葉で、餓死年には専ら亀を獲って食糧にしました。男は海へ亀コギに出るし、女は山へアシタボ採りに行きました。こうした年のアシタボは、平地のものは採り尽くされて見当たらず、勢い海蝕の進んだ、人の行けないような断崖(サガリ)に行かなければならず、コジヨロサガリと呼ばれるところがあり、昔こうしてアシタボ採りに行ったアマニイ(嫁)が、サガリから落ちて死んだ所で、そこを通ると、今も女の泣き声が聞こえるとか云われています。

又、一もとアシタボは採るものでないという言葉もあり、それには断崖に生えるたつた一もとのアシタボ採りを無理したばかりに、不幸にも帰らぬ人となったという女の悲話があり、この土地の禁忌になっていったということです。

こうして飢えと闘う日を重ねている時、たまたま海で亀コギをしている男衆が亀を獲れば、今しも磯のサガリでアシタボ採りに挑む女衆に、これを合図して、もうお前たちを飢えさせないからサガリから降りよと呼び伝え、連日の苦闘や飢饉をようやく脱し得た喜びで、船とサガリでは男衆も女衆もしばし共泣きすることがあり、以前の食事情を語る場面となっています。島の人々が珍味だとして、今に昔を偲ぶいわゆる亀汁は獲った亀の肉に塩と水を入れ、更にアシタボを切り刻んで炊き食うものだと言い、一匹の亀で村が二日凌げたそうです。この島の人たちが生き永らえたのは、まったく亀の恩によるのです。

灰のような地質で地味悪く、陸上の天恵に恵まれないこの村では、畑作りなど労多く稔り少ない作業だったのでしょう。記録によると、享保年代幕府から島々に配られた薩摩芋種がものになったのはよほど後年のことで、凶作の年は、こうした自然の野草、山菜に活を求めたのでしょう。このように亀漁業は伊豆諸島、小笠原に広くありましたが、一方で亀は海神様のお使いだとする言い伝えもあり、小亀を獲ると酒を飲ませて放してやる、といった風習もありました(神津島)。

現在、亀を食用にする国は多く、中国、南洋諸島、中米諸国、その他などがあり、神格化の本家であった中国などの消費量はかなり多いようです。まあ、元々は亀の甲を焼いて占いをしたそうですから、食用の過程で出てきた発想だったのかもしれませんが・・・。

動物保護の見地から、亀の禁漁を訴える声は高く、裕福な護運動家達が、亀は金の小判よろしく、貴重なものだとして他国で行われるている亀漁の禁止を押し付けています。しかし、今もって他に蛋白源が無く、他の肉を入手できない人々にとっては、亀は炭焼長者の小石のように単なる食用品でもあるのです。炭焼長者の話は、めでたし、めでたしで終わりますが、この問題はハッピーエンドになりそうもありません。

                                     (平成23年4月23日)


以上は福助さんの投稿ですが以下は真道の駄文です。

私の祖母は一族の拠点が熊本だったから熊本方言で鼻歌で下記の歌を良く歌っていたのを思い出す。

♪ガメンミャー は見たれども、コウズのミャーは未だ見ん♪

(「亀舞・亀の舞」は見たことはあるが、「こうず」の舞は未だ見たことがない)

祖母の云う「亀舞(亀の舞とも言う)」は狂言などにある格式張った中国風の舞のことではなく、酒席での仲間に踊りの隠し芸を促すときの「囃子ことば」らしい。しかし、祖母は一升瓶を逆さまに立て、その上に亀を載せると「首や手足を伸ばして?く様を踊りに見立てたのがその起こりだ」と説明して居た。真偽の程は分からない。

この歌詞で「がめ」と「こうず」が何を指しているのかが私には分からない。「がめ」と云うのは下記のスッポンを指し、「こうず」はイシガメなどのリクガメを意味するのだろうか? 明治6年に生まれた祖母は勿論既に亡くなっているので聴くわけにはゆかない。何人かに聴いたが不明である。私の独断だが、「がめ」は「スッポンを含む陸亀の仲間の汎称のように思える。

博多の有名な家庭料理に「がめ煮」(筑前煮とも言う)がある。「これが本物の伝統的な〈がめ煮〉だ」と云う博多の居酒屋の女将の言によると、『蒟蒻を[雷=かみなり]に千切って(刃物を使わず手で千切ること)これをスッポンの身(肉)に見立て(本来は鶏肉ではなくスッポンの身(肉)だったとのこと)、これに現在では鶏肉と牛蒡・蓮根・里芋・人参・椎茸・筍などの野菜を炒めて煮込んだ甘煮』で「がめ」と云うのはスッポンのことを指す言葉に由来するとのことであった。(がめ煮の語源説には色々あるが、この女将の言は秀逸である)。

ややこしいのは生物学的には潜頸亜目 Cryptodira (カメの仲間)に陸ガメのスッポンもイシガメやクサガメ、またオサガメなど各種のウミガメの中間も総てこの亜目に属しており、スッポンもカメも同じ仲間であり、カメとスッポンと云うような言葉では対比は出来ない点である。

有名なアリス物語に「ウミガメのスープ」が天下の珍味だという件がある。タイ国の南にあるソンクラで椰子で作った即席酒の肴に絶滅危惧種で採捕禁止のウミガメの肉を食べたことがあるが、さ程美味いものではなかった。

一方、スッポンは中国を始めアジアでは各国で食べられ、日本でも高級料理として、また精力剤として養殖まで行われて居る。私達もスッポン養殖の技術を学生時代に習った憶えがある。穴を掘って逃げるので養殖池は頑丈な矢板で深く囲まなければならず、面倒なものだったとの講義の内容を記憶している。

中国ではスッポンは「瞥」の字が当てられ、「数罟不入夸池,魚鼈不可勝食也」や「川淵深詩而魚鼈歸之」などの句は孟子など諸子百家の時代から良く使われ、魚鼈は可食海産動物の意として多用されている。

紀元前の「殷」の卜占(甲骨文字として刻まれた)では亀類の甲羅を焼いてひび割れた様子で占ったようだが、亀類を使ったのは亀類が長寿で古代は神聖な動物で高貴さの象徴でもあったからだろう。

しかし、現代の中国の中国語では亀を表す[烏亀 wu1 gui1]、[王八 wang2 ba1には「尻軽女の夫」という意味の蔑称があり、また、馬鹿野郎の意味で「王八蛋」という蔑称が良く使われて居る。(忘八は仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者の意で「忘八」とは言うが、蔑称として「忘八蛋」と誤って書く人があるが、これは間違いで王と忘は声調も異なる。

だが、中国でスッポンは「甲魚」とも云い、高級食材である。良質のコラーゲンを多く含むため美肌作用、血圧抑制、腰痛、動脈硬化、疲労回復、目の疲れ、肩こり、その他成人病等に良いと昔から言われている。特に身体の廻りのゼラチン状の部分は一番旨いとのことで、私は酒席で招待主が私に為にわざわざその部分を取り分けて、良く食べるように薦められた経験が数回有る。中々美味である。

FAOのオンライン世界水産統計では、世界のスッポンの生産量は総て養殖生産で、世界総計は201851トン、中国が204,139トン、タイ国が2,545トン、台湾2049トン、韓国118トン、(日本はFAOに報告していない)、なお、天然採捕のデータは調査困難のせいか数値は0トンである。これは欠測と解すべきであろう。


三浦福助さんからのコメント

物の骨や甲羅を灼いて、そのひび割れの形から占うという事は、古くからかなり広く行われていたようです。殷の場合は鹿、牛、亀などで亀で多く、鹿、牛は1割以下だそうです。日本でも縄文時代の遺跡から痕跡が出土しております。猪、鹿、海豚などがあるようで、縄文時代には猪が多く、弥生時代には鹿が多いとのことです。海豚とは大変珍しい事です。

占った内容ですが、勿論、国家の大事もありますが、「今後の10日間に悪い事があるか?」や「先祖のお祀りに行くのに歩いていくか、車で行くか」などという些細な事から、「呪いを払うための犠牲に、牛3頭を殺すか、人(そうです、人間です)を10人殺すか、どちらが良いか?」などものすごいものまで多数、多彩な内容でした。要するに皇帝の行動は占いで決めていたということだと思います。ですから、占いに使う骨、甲羅の数は相当数必要なわけで、確保は大変だったようです。

しかも、占うについては、原則として、前辞(導入部)、命辞(占う内容)、占辞(占いの結果)、験辞(占いの的中程度)を骨、甲羅に書き込む事になっていましたが、一部を欠くことも多かったようです。ですから、これらを書き込むための大きさも必要だったわけです。という事で、牛、鹿の肩甲骨や亀の甲羅を使っていたのだと思います。占いの頻度が増えると、大型動物の自然採取では、到底需要を賄えないので占い用の亀を飼育し、専らこれを使用していたのだそうです。

・・・という事で、亀が神聖視されていて占いに使ったのか、占いに使っていたので神聖視されたのか、判断し難いところでは無いか、と思います。敢えて異を唱える訳ではありませんが、愚生の戯言とお聞き下さい。

福助さんの博学に驚き敬意を述べたい。

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

このページの目次に戻る    ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Dog&Chinese

租界時代の上海の江浦公園に犬と

自転車が入れなかった話を巡って

 

2011/09/01

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

 

はじめに

と中国人」は入るべからず」の高札が上海の江浦公園の入り口に掲げられていた・・・と云う。租界時代の「中国人が過酷に蔑視されて居た」と云う話の例として有名である。

この話の具体的確証はどうなって居るのだろうか?私が此の話に好奇心を抱いた切っ掛けは中国の友人から貰った「回眸上海 - 第二章:民国初期」の中の19世紀末から20世紀当初にかけての「這是外灘公園1917年設立的園規招牌。規則第四条是狗与自行車禁止入内。這大概就是「華人与狗禁止入内」的出処」との説明が書かれた一枚の写真(後掲)である。

この中国文は和訳すると、『これは外灘(バンド)公園(現在の江浦公園)に1917年に立てられた公園の(入り口の入園)規則の高札である。規則第4条は「犬と自転車は内に入ることを禁止する」とあり、これは概ね「中国人と犬は内に入ることを禁止する」と云う言葉の出処であろう』の意味である。

此処には「中国人と犬は内に入ることを禁止する」と云う条項はない。元来これは英文で書かれて居り、誰を対象に書かれたものかを考える必要がある。中国語は併記されていない。これを読む人々は租界に居留する中国国籍以外の人達である。中国の「百度、Bai du」などの検索エンジンで「犬と中国人の入園禁止」に関するサイトを調べると無数のHPやブログが出て来るが、その多くは中国語に訳された文章を元に云々されて居り、現在の中国の若者が愛国心と相俟って中国を侮蔑して居たことへの非難が大部分である。

その気持ちは良く分かるが、私は可能な限り客観的且つ冷静に問題を扱うために敢えて、19世紀末から20世紀当初にかけての租界に居留する中国人以外の人々の当時の社会環境の下での心情を考慮して問題を扱うことにした。

 

PUBLIC AND RESERVE GARDENS.

REGULATIONS.

  1. The Gardens are reserved for the Foreign Community.

  2. The Gardens are opened daily to the public from 6 a.m. and will be cloased half an hour after midnight.

  3. No persons are admitted unless respectably dressd.
  4. Dogs and bicycles are not admitted.
  5.        (以下省略)

By Order, N.O. Liddell, Secretary.
Council Room. Shanghai, Sept. 13th. 1917.

(画像の英文、真道 記)

調べている内に「真実的眼睛 論壇」と題した綜合サイトを見付け、その中に「中国人と犬は内に入ることを禁止する」と云う言葉が「実際に書かれていたか否か?創作ではないのか?」に疑問を持ち調べた結果を述べたものを見付けた。上述の私の気持ちと極めて近い考え方の人の文章である。

それに依ると、入園規則は数回書き換えられ、1903年版では「4..除了洋人之仆,華人禁入、(外国人=非中国人の召使いを除き、中国人は入園を禁止する)と云う条項が書かれて居る・・・とある。後でも触れるが、中国人でも子供の世話をする所謂ベビーシッターなどは入っても良かったようだ。

同じサイトに在る別の著者の文には年代別の内容の比較が示されている。即ち:−

1903年版:

1. No dogs or bicycles are admitted.(犬と自転車は入園できない)
5. No Chinese are admitted, except servants in attendance upon foreigners(中国人は入園を禁ずる。外国人の「下僕として(子供などに付き添い世話)をして居る中国人は例外とする)

1913年版:

1. These Gardens are reserved exclusively for the foreign community (本園は外国人[非中国人]社会だけに対してのみ独占的に適用される)。
2. No dogs or bicycles are admitted.(犬と自転車は入園を禁止する)。

1917年版:

1. The Gardens are reserved for the foreign community (本園は外国人[非中国人]だけに適用される)。
4. Dogs and bicycles are not admitted.(犬と自転車は入園を禁止する)。

1929年以後、公園は中国人に対し開放された。此れらを通読すると1903年以来、中国人に対する入園制約は漸次弱まって来た感がある。なお、1937年に日中戦争が勃発。第二次上海事変以後、実質的に各国の租界は日本軍の統制下に置かれるようになった。1941年に太平洋戦争(大東亜戦争)が起こると日本軍は共同租界に進駐し、敵国人となった英米人は抑留され、同時に上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は閉鎖された。

 

何故「犬(狗)と自転車は入園を禁止されたか?

項に関しては大戦後の現在、経済的に発展している中国の視座から見た(取り分け若い人々から見た)色々な発言が中国のホームページやブログにあるが、私は極めて素朴且つ素直に解釈している。

先ず犬(狗)であるが、犬は字が読めないから、愛玩犬を連れて散歩している場合の犬を指していると考えられる。野犬ではない。尤も余談だが貧困に喘いでいた当時の中国では野犬が多く、それらの群同士の喧嘩が多発し、「狗打杖」(犬戦争)と称して北京や上海などの大都市では厄介視されていたと聞いたことがある。

日本も欧米各国も「公園内の居心地を良くし、癒しの場とするため、昔も今もペットの犬を連れた散歩者の入園を禁止しているところは多い。現在自宅の近所の小さな高稲荷公園でも「犬はお断り」と掲示板に在る。

次に自転車であるが、幼児や子供の多い公園内で勝手に自転車を乗り回されるのは危険だから、自転車も「乗り入れはお断り」の処が普通だ。上記の高稲荷公園でも同じ掲示がある。今も昔も多くの国では「至極当たり前のこと」である。尤も当時(19世紀末〜20世紀当初)の自転車は主として英米からの舶来品であり、中国人で持つ者は富裕層に限られていたと思われる。何も「中国人の入園制約」とは結びつかないと私は思う。

中国人の入園禁止について

1903年の条項には例外として中国人の servants (下僕、召使い)を除き、中国人の入園を禁止している。1913年以降はこの条項は置き換えられ、間接的に「入園許可は中国人には適用されない意味の表現となった。

元々この掲示は英語で書かれ、癒しの場としての公園を彼等なりに「より良くする」ために指示したものであって、中国人の立場は短視眼的には全く意識されては居ないものと思われる。

実質的にこの公園を設計し管理していた英国人の頭の中にある公園というものは、癒しの場としてはそれなりに進んで居たように思う。私は戦後に英領から独立したビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)の旧公園跡地を見た経験があるが、草茫々に荒れた一角に残る廃墟から嘗ての公園の立派な設計に基づく庭園が想像できた。

閑話休題、話を本題に戻す。書き出しの冒頭の第一句に記したように「犬と中国人は入るべからず」の高札が上海の江浦公園の入り口に掲げられていた・・・と云う禁止条項は、この言葉通りの文集王としては、此れまでに縷々述べてきたように実際には無かったのである。

言い換えると、「犬」と「中国人」とを対句とした入園禁止条項は実際には無かった。但し、1914年の Putnam Weale の書いた小説や1917年の他の人の小説中にも、この言葉、「Chinese and Dogs Not Admitted があるらしく、実際の掲示と小説なかの文句とが多くの人々の頭の中で入り混じり、混乱して了ったようである。


まるところ「犬と中国人は入るべからず」Chinese and Dogs Not Admittedと云う掲示は現実には存在しなかったけれども、「中国人はいくらチャンとした身なりの人でも園内には入れない」と云うことは、他の諸条項を総合的に視て明らかであった。

中国政府の権益の及ばない租界の中のことだから、買弁(外国資本への奉仕によって利益を得、自国の利益を抑圧するもの。広辞苑)の横行する中にあっても、「社会を正しく見る眼を持つ中国人」にとってはその差別感は強く無念で堪らなかっただろう。

Broadway Mansion (ブロードウェイ マンシヨン、現在の上海大廈)に1957年の秋数ヶ月滞在したが、窓からは江浦公園が目の前に見え、近くの三階建てのビルの屋上ではシェパード犬の君れをしている様子がよく見えた。同公園にはその後も数回訪れた。全く世の中は変わっていた。

 

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

このページの目次に戻る    ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

UrashimaTaro

浦島太郎の夫人?のお墓

寄稿

2011/09/24

三浦 福助

 

浦島 千代さん

            
 神奈川県横須賀市長井6丁目に熊野神社があり、その神域内に浦島千代の石碑があります。バス通りの海に面したところにあり、ふと見たときは浦島太郎の奥さんのものかと思いました。三浦は浦島太郎と縁のあるところで、三浦の住人であったとの伝承もあり、横浜には浦島太郎のお墓まであります。ある伝承では、太郎はその後、千代という美女と結婚して暮らしたというものもあるのです。

 そこで調べてみたところ、近年のもので、しかし深い意味のある石碑である、ことがわかりました。

 碑の正面は、正しくは「烈婦 浦島千代之碑」となっており、汚れも少なく、綺麗に手入れされています。碑文は下記のとおりです。

裏面「碑 文」

神奈川縣横須賀市長井町番場四四六七番地浦島千代事常ニ報恩感謝ノ念ニ満チ至誠ヲ以テ一貫シ特ニ荒崎海軍官舎創設以来長期ニ亘リ献身的援助ヲ致シ万人ノ崇敬ノ的タリシノミナラズ日支事變並ニ大東亜戰爭勃發セラルルヤ 聖戰完遂ノ一翼タランコトヲ哲ヒ只管皇軍ノ武運長久皇國□榮ノ祈念ニ ナク益々當官舎員ニ對スル有形無形ノ慰問援助ニ滅私狂奔シ當隊ノ任務遂行上貢献セラレタル事績至大ナリ 右ハ全ク小我ヲ滅却シ大義ニ律シ至純至誠ヨリ發シタル坤道精神ノ發露ニシテ大和女性ノ亀鑑タリ仍テ茲ニ碑ヲ建立シ悠久ニ感謝ス

側面「昭和二十年一月二十日」

側面「荒崎海軍官舎員一同」

 そうです。この石碑は、昭和20年に当時荒崎にあった海軍官舎に居た人たちが、浦島千代さんに感謝して建立したものだったのです。

ひっそりと立つ墓石  

浦島千代さんとは何者だったのでしょうか。千代さんは、北原白秋や前田夕暮も泊まったことのある長井町番場の旅館の女将だったのです。もっとも旅館といっても、正式なものではなく寿司屋で、その二階に寝泊りできるという程度のものだったそうですが、千代さんは独りでこの店を切り盛りし、美人で声もよく、三味線を弾き、踊りも上手と有名だったそうで、白秋もその噂を聞きつけて泊まったのではないか、とも云われています。

ところが反面、その性格は男勝りで侠気にあふれ、姉御肌で近隣でも鳴り響いていたそうです。

 太平洋戦争末、荒崎に砲台が出来、小隊が駐留し兵隊は兵舎住まいをしていました。千代さんはその官舎に頻繁に通い食糧の援助や慰問をしていたのだそうです。当時、物資は不足し、勿論食糧は大変欠乏していたでしょう。千代さんはその補給に努め、また物心両面での献身をし、その程度は只ならぬものであったそうですから、相当なものだったのでしょう。

この国難に際し、侠気あふれる千代さんは居ても立ってもいられぬ心情で、自身は還暦を越えていても何とかお国のために働きたい、という思いで献身したのでしょう。その熱意と行動が官舎一同の感激を呼び、感謝の意を込めた碑を建てることになったのでしょう。

 千代さんは生涯独身を貫き、昭和42年(1967)8月24日に亡くなり、享年85歳でした。碑の建立後、22年生存していたのです。このような石碑は、普通には死後に建てられることが多いのですが、「烈婦 浦島千代之碑」は存命中建てられていて、大変珍しく、当事者たちの感謝の念がいかに深かったかを偲ばせるものがあります。

 また、建立が昭和20年1月20日ですが、この年の8月15日が終戦ですから、戦局益々厳しく、海軍さんも大変だったと思いますが、そのような時期にこの石碑を建立したという事は、並々ならぬ想いがこもっているに違いありません。

想像するに、当時の兵隊さんといっても、二十歳になるか、ならぬかという年の若者が多く、千代さんに母親を投影していたのかも知れません。いずれにしても、胸をうつ事です。

 戦争という修羅の世界であってもこのような事跡があることを知り、そこに一輪の花を見るようなまことに清々しい心地になりました。

                         (平成23年9月20日)

 

ご感想やご意見はこちらへ

 

このページの目次に戻る    ホームに戻る

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

KowaiSakana2

恐い淡水の食人魚(その2)

追記と閲覧者諸氏からのコメント)

 

 

2011/11/25 起筆

真道 重明

ご感想やご意見はこちらへ

 

のホームページの閑人妄語(その3)目次に在る前項(怪奇な淡水の食人魚)の内容の追記と閲覧者からのコメントを述べる。

小生の知識不足で巨大な淡水魚は Web 上に沢山の記載がある。特に「世界の釣り」や「輸入ペット」に関するものが多いが、大型淡水魚の多くは「絶滅危惧種」のレッドデータブック (Red Data BookRDB) に登録されているものが多い。

輸入ペットの中には世界の巨大淡水魚が数多くあるのには驚いた。目次の前項のPDFファイルの中でも少し触れたが、一見して「メコンオオナマズ Pangasianodon gigas 」ではないか?と思ったりした。しかし身体の表面の斑紋が全く異なる。(寧ろ海産の「ウバザメ」、「バカザメ」とも云う、 Cetorhinus maximus に酷似して居る)。

余談だが、タイ国に多く獲れる「プラ・サワイ(タイ語) Pangasius pangasius 」は分類学的には近い種だが、体長は 1m ぐらいが良く捕れるが、1.5m ないし 2m に達するものもある大型天然ナマズで、タイ人はそれ程には評価しないようだ。日本の鰻の蒲焼き風に調理すると、私の個人的な採点では非常に美味である。バンコクの駐留日本人に紹介したが(1980年頃)、同年に香港がタイ国から輸入して養殖を始めると聞いた。

話が逸れたので本題に戻す。話が画像を含め捏造でなければ、これほど Web 上で公開されて居る以上、中国の魚類分類学者達には意見があると思われるので問い合わせて居る。

(ちなみに、ナマズは日本の漢字では「鯰」、中国では「鮎」の字であるが「鯰」の字も使用される。アユは日本では「鮎」、中国では「香魚」と書く)。

とにかく、この「怪奇な淡水の食人魚」と云う情報の内容は奇怪な「謎」に満ちている。

 


「萩生田 憲昭」さんからのメール

友であり「メル友」であるナマズ研究家の第一人者であり、「生き物文化誌学会」で活躍しておられる萩生田憲昭(ハギュウダ・ノリアキ)さんは生物学だけでなく民俗学や魚の口碑・伝承についても博学である。下記は同氏からの E-mail の一端である。

@荒保宏著『世界大博物館 図鑑A魚類』には、リー夫人《動物奇譚集》によると、捕えてみたら胃のなかに人間の子どもがはいっていたこともまれではなかった。またトルコの国境地帯で貧しい漁夫が捕った大ナマズから、指輪をはめ、金貨のつまった財布をもった夫人が見つかったともいう。このヨーロッパナマズは、〈川のクジラ〉とよばれてることもある。

A江戸時代後期の随筆集『甲子夜話』巻48(1821)には、魚の腹中に髑髏二つ、小判金八十余りありしとなり。

その他の資料として、Is the Giant CstfishSilurus Glanisa Predator on Man? Scientific Montly 611945などが存在しております。

前項の添付ファイル(PDF) の怪奇な魚は、おっしゃる「ジンベイザメ」みた いですね!

・・・と述べて居られる。(2011/11/27)。

また、ヨーロッパ産のナマズ類に関し下記のサイト(英文)の紹介があり、ご親切にも多数の関係ヵ所のCOPYが郵送sれて来た。下記をクリックのこと(2011/12/01)。

http://www.fieldandstream.com/photos/gallery/fishing/2009/10/angling-cult-europe-targets-wels-catfish-can-reach-200-pounds  

http://www.lochnessinvestigation.org/catfish.html

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21004969


道重明 記:目次の前項の添付ファイル(PDF)の記載では「国家安全局の調査により、水庫(ダム)で最近発生している人骨の場所と溺死して沈んだ高官の子弟の地点とは異なっており・・・云々」とある。萩生田憲昭さんの上述の記載では人骨が腹中から発見される例は珍しくは無さそうであり、必ずしも「高官の子弟が怪魚に[噛み殺された]と早とちりすべきでは無かろう。溺死体となったものを呑み込んだかも知れない。


「上條清光(福助さん)からのメール」

この魚が食人魚かという事については、真道さんを始め、諸先生が述べておられる

ところが穏当なところだと思います。相模湾などで底刺し網を操業しますが、1週間も放置すると、網にかかった漁獲物(ひらめ等)ば肉を食われてしまいます。これは「虫が吸った」といって、海底にいる虫が肉だけを食べてしまうのです。骨、皮は残っています。以下は憶測ですが、これに似たことが湖底でも起こり、その残骸をこの怪魚が啜った(口の形からの連想です)のでは無いか、とも思いました。

江戸時代の本ですが、「耳袋」(根岸鎮衛 文化8年)に"河怪の事"という記事があります。余り関係は無いようですが、怪談つながりで一言。 上條清光 (2011/12/18)


「鐘 俊生」さんからのメール

海海洋大学の畏友である「鐘 俊生」さん(海洋系漁業資源専攻)から下記のメールを頂いた:−。

(前略) この怪魚については、周 応祺 (元学長)から情報を頂いて、驚く同時に、『この魚は 海に生息していた「ジンべザメ」だろう』と返事しました。何か変な(可笑しい ことで、本当に不思議な話で、とても変なJOKです。このことを見ると 基礎的な知識を民間に教える立場にいる僕ら(大学や研究所などの科学者ら)の責任ですね。

先週、東京海洋大学で共同シンポジュウムをしました。今回は「水産養殖の 安全性」について、いい交流をしました。(後略) (2011/12/03)                       


道重明 記:私や萩生田さんと同様、画像(写真)で見た感じでは「ジンベイザメ」と鐘 俊生さんも感じて居られる。文面から見て中国では生物学者による科学的検証は未だ行われては居ないようだ。情報はこの一件だけでサンプルも残されていないのだろう。

原典が捏造された疑いも残る。画像も合成すれば出来る。可能性としては、海で捕獲された「ジンベイザメ」を秘かに輸送用トラックで現地に輸送し、時を見計らって公開すると云う行為である。若し「消化管を切開して人骨を発見!」としたいなら、事前に詰め込んでおけば良い。

若しそうだとしても「何のために一体面倒で手の込んだ事をしたのか?」が解らない。世間を驚かせる「愉快犯的な悪戯な行為」なのだろうか?確かに謎に満ちた話だ。


「上西 俊雄」さんからのメール

魚についてのコメントも拜見致しました。鮫が河を溯る、さういふことがあるのですね。

「ほとけ食ひたる魚ほどきけり」を思ひ出しました。 上西俊雄 (2011/12/05)


道重明 記:上西さんは「鮫が河を溯る・・・」と思われたようだ。思い付かなかったが、海産魚の「フグ」の仲間は長江(揚子江)を遡上して遠く離れた四川省の河川湖沼に良く見られる。大陸の大きな河川では良くある話である。また、メキシコの淡水湖には、湖と連なった河川を遡上したいろいろな海産魚が棲息すると云う。この怪魚についてもその可能性を考えられ無くもない。

上西さんの「ほとけ喰いたる・・・云々」のことは浅学の私には分からず調べた。

その結果、次のことが分かった。『雛の句に芭蕉が「ほとけ食ひたる魚ほどきけり」と付けてゐるが、このほとけを古人は佛像と解し、僥倖を得し體なりといひ、

志度浦の長田作平といふもの鰐をほどきて惠心僧都作の彌陀を得たることなどを擧げて解したるなどあれど感服せず、

ほとけは屍骸にして、魚の腹に餘物は皆見へずなりても、毛髮、爪などは殘るものなれば、魚をほどきて、アゝこの魚は食ったのだナとさとることがある』・・・云々。


NHKの午後9時のニュースで「ジンベイザメ」の海中の映像が色々と放映された。魚類図鑑や放映されたこの魚の形や体表の斑紋や皺は上述の怪魚そっくりである。私及び萩生田さんや鐘 俊生さんが「ジンベイザメ」らしいと推測したことを改めて感じた。

NHKのニュースによると、巨大魚の「ジンベイザメ」の主食はアキアミであり性は穏和、生物学的には未知の部分が多く、絶滅危惧種であり、発信器を取り附けて再び海に放流したとのこと。(2011/12/05)


NHKのニュース (2012/04/01)

東省の小河川の河口に近い汽水域に大きな「ジンベイザメ」の遊泳しているのが発見された。沖合に住むこの魚が接岸するのは珍しく知らない多くの漁民達はその巨大さに驚いたとNHKのニュースが伝えた。

画像は無く短いニュースだったが、此れは虚偽や作り話ではなく本当のことであると思われた。


ット上には多くの虚偽の情報がある。一例を挙げると:−

ネット上に捏造記事を掲載したとして、浙江省紹興市のネットユーザー2名が治安管理法違反として罰金を課された。5月24日付けで中国新聞網が伝えた。

問題の記事は“紹興市の南山ダムに人喰いナマズが現れた”というもの。記事は“地元住民が捕らえた大きなナマズの腹から人骨が出てきた”“地元警察の調査の結果、全長3メートルのナマズが捕獲された”などといったもので、その捕獲されたとされているナマズの写真も掲載されていたが、実際にはそのような事実はなく、すべて捏造されたものだった。

しかし、このダムは紹興市の観光名所の1つであるため、現地の管理部門にこの記事の真偽を問う電話が殺到。旅行客への影響なども考えられるために同部門は緊急措置を展開し、記事の作成者を調査した。

割り出された記事の作成者2名は、冗談でこのような記事を捏造したことを反省しており、今後この記事による悪影響が出ないように協力していくと述べているが、すでに治安管理法に違反しているため罰金が課されることは確定している。(柳原拓郎、exeite News 2009/05/26)

本項で問題にしている内容(画像を含む)は、上記と軌を一にするような捏造であることがその後判明した。『画像はやはり海産の「ジンベイザメ」、中国名は「鯨鱶」・「鯨鮫」・「鯨鯊」・「条鯨鯊」・「姥鯊」、また、「蒙鯊」・「老鼠鯊」・「白肚鯊」・「昴鯊」・「太陽鯊」など多数の呼び名がある』。(「鯊」の字は日本では小魚の「ハゼ」を意味するが、中国では「フカやサメ」の類を指す)。

その後の「新聞網」の記事(2009/05/13)によると、記者はダム管理局の了解を取り付け、二年前の食人魚の記事は捏造であり虚偽の記事であること、当局はその旨記事の虚偽であることを公表する措置を執りつつある。詰まらぬ、また、くだらない情報だと付け加えている。

詳しくは下記のURLを参照のこと(中国文、簡体字)。

 http://www.xinhuanet.com/chinanews/2009-05/13/content_16512513.htm

記事が真実であり、場合によっては新種かも知れない。とにかく所謂「一例報告」であり、生物学者による科学的検証も無いので、今の処「謎の侭」として置く他は無い(2011/12/06) としたが、捏造記事と云うことで決着が付いたようだ。(2011/12/10)。PDFファイルの記事の「北京の金海湖」が各省に多々ある南山と呼ぶ地名の「南山水庫(ダム)」になっていたり、記事に矛盾が幾つか在る。

なお、中国の検索サイトを探すと、浙江省の「食人ナマズ」など、幾つかの此処で問題にした情報と似た記事があり、それらは総て「捏造記事」であるとされて居る。

私が思うに、この様な捏造記事は「世を惑わす」危険性がある。西遊記などに出てくる妖怪の牛魔王や金角・銀角大王、紅孩児」、「多目怪」・・・などの無数の妖怪群を読者は「物語り」として納得して読み、架空の話として楽しんで居るが、如何にも現実のように装った「食人魚」など、この種の情報はどうも頂けない。

最も「雪男」の存在については科学者同士でも論争が続いて居るようだが、その内容はかなり高度の思考過程を経ており、上の捏造記事などとは次元が異なるようだ。

 

この項目の冒頭に戻る

このページの目次に戻る    ホームに戻る