Mougo7

 

 

 

 

KoureisyaFont

高齢者が悩む日本語

のフォントや単語

 

2009/04/10

真道 重明

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宅の二階で独りポツネンとパソコンに向かっている86歳の私は、モニター画面の或る種の文字がはっきりしなかったり、或る種の音声が明瞭に聞き取れなかったりすることが最近増えつつある。加齢による聴覚や視覚の衰えのせいで、医者に訊いても病気ではなく加齢による自然現象だという。治しようは無いようである。見難かったりききとり難かったりする数例を述べ、対策の提案をした。

@ 濁点と半濁点:平仮名や片仮名の右肩上に付ける濁点や半濁点、例えば「ば」と「ぱ」、「バ」と「パ」などの[]や小さな丸[]は非常に小さ過ぎて、視力の低下した人達には判別し難い。フォントのデザインをもっと見易いものに改良出来ないものだろうか?例えば濁音の[゛]の「てんてん」や半濁音の[]の小さな丸 を少し大きくして、「は」や「ハ」の文字に「少しは重なるようにめり込ませる」など・・・方法はありそうにおもえるのだが

余談だが「文字の上で,必ず清・濁を書き分ける習慣が規範として確立されたのは明治以後の教育においてである」と云うことを聞いて素人の私は吃驚した。「今日でも特殊なものには濁点はほどこさない。例えば、祝詞や和歌を短冊に書くような場合など」とある。

また、言語学者の亀井孝氏によると「江戸時代には,かなりよく清音・濁音の書き分けが視られるが,更に遡ると,寧ろ一つ一つに濁音を示さないほうが普通になる。他面,奈良時代の万葉仮名の段階まで遡ると,清音と濁音とは原則として別の文字で書き分けられた。しかし,奈良時代においても私的な文書では,必ずしも清音・濁音の区別は守られていない。古くは,日本語には濁音ではじまる語はなかった」とある。

素人の私が云々するのは烏滸がましいが、古代以来、日本語は清音が主であって濁音・半濁音に就いては多少鈍感で、散漫であり厳格さに欠けていたような気がする。bromide (ブロマイド、肖像写真)のことを誤ってプロマイドという人はかなり多い。野球のバッターの bunt (バント打法)を誤ってバンドと云う人も多い。濁音と半濁音の違いを余り気には掛けていないようだ。

フォントの問題とは無関係な話であるが、関係があるような気もする。

 

A 財務省と外務省: 音声を聞くと、耳が遠い人や加齢による聴覚が衰えた人には「どちらだか聞き取れない」ことが多い。「ざいむしょう」、「財務省」などと文字で書かれたものを読む場合には間違うことはないのだが・・・。音声を聞く場合は「さ」と「ざ」、ヘボン式ローマ字書きでも ZaimusyoGaimusyo だから ZG の一個の文字が違うだけだ。

以前は財務省は「大蔵省」(おおくらしょう)と称したから聞き違えることは先ず無かった。米語でも the Ministry of Finance the Ministry of Foreign Affairs だし、Finance Foreign Affairs を聞き間違える人は居ない。中国語でも財政部と外交部の音声は「ツイ・ウ・プ」と「ワイ・チャオ・プ」だから間違って聞き取る人は無いだろう。

加齢が原因の聴覚障害を老人性難聴と云うのだそうだが、聴覚に関わる細胞の減少や老化により聴力が低下する。進行状況は個人差が大きいらしく、通常は50歳を超えると聴力が急激に低下し、60歳以上になると会話の面で不便になり始めるらしい。私などはごく軽微な方かも知れない。

しかし、早口で喋る人の言葉は次第に聞き取り難くなって来たのを自覚するし、外国語の微妙な発音の差なども区別し辛くなって来た。聴覚だけではなく脳の劣化(呆け)も関与して居るのだろう。

財務省と外務省に関する話も、日本語ではたった一つの文字、即ち「ざ」と「が」が異なるだけなので聴き取り難いのが問題の原因である。また、バリアフリーなどと言って「通り道の段差」などが問題視され改善が行われつつあるが、言葉についても問題があるようだ。

この話、一考の余地在りとは思いませんか?

 

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Announcer

アナウンサーの発音

ー 喋り言葉の発声法の専門家 ー

 

2009/05/03

真道 重明

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0歳代も私のように中ばを過ぎると聴覚も次第に衰えて来る。耳に入る人の言葉やテレビやラジオの言葉も「何?」聞き返す頻度が増えてきた。取り分け早口の人の言葉は聞き取り難い。また、耳が遠くなると「それは務省の所管事項です」と云っているのか、或いは「それは務省の所管事項です」と云っているか・・・?、この場合に「いむ」か「いむ」かがハッキリ聞き取れなったりする。

最近痛感することの一つにテレビやラジオのアナウンサーの言葉の発音が男女を問わず一般の人に比べ実に明晰で耳の遠い人にも「聞き取り易い」と云うことがある。アナウンサーが司会者だった場合他の出席者の声は聞き辛い時でも、アナウンサーの声は良く把握できるし、インタビューの際に相手の声は聞き取り辛いのにアナウンサーの声だけは良く分かることも良くある。

アナウンサーがどういう訓練をしているのかは知らないが、流石に「話すことにかけては専門家だ」とつくずく感心する今日此の頃である。

 


 

話は変わるが、マイクロフォンの性能が悪かった私が若い頃、NHKのラジオ放送に招かれたことがあった。局内や放送室内でのアナウンサーとの会話は普通の声であるのに、イザ本番(On air の赤いランプが点灯)となった瞬間、アナウンサーの声が一変した。「居ずまいを正す」と表現すべきか、何と表現したら良いのか、通常の会話時の声ではなく、形容し難い特殊な透明に近い声に変わる。想うに当時の低性能のマイクに拾われやすい性質の音声らしい。その声で私(話題提供者)を紹介する弁を述べていた。この特殊な発声法はかなりの特殊訓練の賜物だろう・・・と思った。

余談だが、第二次大戦終結後から未だ僅か数年後で、各家庭のラジオのスピーカーの性能もも余り良くはなかったが、子供の時から聞き慣れていたラジオの声は「こんなものだ」と思って居る私達には何の変哲も無かった。ところが「そうではなかった」ことを知って驚いた。

当時、満州(今の中国東北部)からの引き揚げ者の談話が良くラジオの音波に載った。アナウンサーの「日本に戻ってきて先ず吃驚したことは何ですが?」の問いに対し、「日本のラジオや電話の声が、顔を突き合わせ面と向かって話している生の声のように聞こえること」という返事だった。

マイクロフォン(音波を電気信号に変換する装置)もスピーカー(電気信号を音波に変える装置)も刻一刻と進歩して居たのである。毎日聞いて居たのでその変化に気づかなかっただけだ。戦前に渡航した引き揚げ者は10数年?前の低性能の機械の侭だったので驚いたのだろう。

 


 

現在は集音装置も hi-fi (ハイフアイ、音が非常に忠実に再生出来る仕組み)となって、昔のような特殊な訓練は要らなくなったのだろうか?しかし耳の遠い人にも良く聞き取れるのだから、発声訓練には努力しているに違いない。外国語の発音練習とはまた異なる練習であろう。国語教育にも取り入れることが行われているのだろうか?

 

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Sunday

♪ 明日は楽しき日曜日 ♪

母から習った懐かしの歌

 

2009/07/11

真道 重明

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稚園以来、現役を経てOBとなり、その恒常的役職時代を退いた80歳代も半ばを過ぎた現在でも、「日曜日」と云う言葉を聞くと「何だか楽しいような、ホットしたような、一日得をしたような」気分になる。

後期高齢者的な健忘が日増しに進む今では、土日も平日(weekday) も日常生活のリズムにはてしまっているようだ。何の変わりもないのに・・・である。長年の習慣は身体に焼き着い

子供の頃、母は「尋常小学校で覚えた」と云う下記の歌を良く鼻歌のように唱っていた。

 

♪ 明日は楽しき日曜日 ♪

♪ 何時もは暗きこのランプ ♪

♪ 今宵ばかりは光るなり ♪

♪ 楽し、たーのしー ♪

 

歳から考えて習ったのは明治末期と思われる。探したが小学唱歌には載って居ないようだ。ランプは座敷ランプではなく、天井から吊り下げるタイプだったのだろうか。すすで汚れたほやの清掃は手の小さな子供の仕事であったと云うが、私が生まれた大正期には既に白熱電灯だったからランプなるものは良く知らない。

菓子は文語体であり、「楽し、楽し」と云った文句も明治を思わせる。何故この歌が印象に残っているのか和分からないが、80歳をなかば超した私も「日曜日」は何だかホットすると云うか特別の日である。

 

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Manisesito

マニフェストと云う言葉

 

2009/08/10

真道 重明

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「マニフェスト」と云う片仮名書きの外来語が総選挙を目前に控えて新聞紙やラヂオなどのメデアでは毎日眼に入る。「政権公約」の意味に使われる。此処では選挙での各党の公約の内容云々ではなく、「マニフェスト」と云う片仮名書きの言葉の問題について述べる。

何故「政権公約」と云う分かりやすい日本語があるのに、わざわざカタカナ書きの外来語(英語)の方を議員諸公は良く使うのだろうか?

もともと文字を持たなかった日本では、「紀元前200年頃に中国から輸入された漢字」を日本語を表記するための文字として使ったとものの本にはある。(尤も「何時漢字が日本に伝来したか?」に就いては「最初に伝わった時期は前漢の時代ではないか」と考える人もあり諸説紛々である。これは漢字が日本語の表記に「どの程度の権威ある地位を占め、どの程度に普及したか?」の考え方の差異による)。

その問題はて置き、表意文字としては万葉仮名を経て平仮名・片仮名が発明され、日本語は文字(漢字や仮名)で表記できるようになったが、漢語(当時の中国語)も法令など重要文書には使われて居た時代もあったが、実際の日本語は「漢字仮名混じり文」として書かれるようになり、現在にいたって居る。

余談だが「日本語と中国語は近縁関係にある」と思っている外国人が多いが、これは日本語が多くの漢字を文字として使っている為に短絡的にそう思っているだけであって、タイ語やビルマ語・チベット語など中国語とは文字は異なるが言語としては中国語と極めて近いと云うか、言わば同根語であるらしい。声調を持ち多くの場合孤立語で、日本語とは随分異なっている。

閑話休題、話を本筋に戻す。「漢字仮名混じり文」の日本語の中の漢語、例えば漢字で書いた「日本」は「日本を意味する中国語」であると同時に、日本では「日本を意味する日本語」と考えられて居る。漢字で書かれた「日本」は歴然とした日本語(日本の言葉)となって仕舞っている。

此処迄は前触れで、以下述べる事柄が「独断と偏見に満ちた私の云いたい話」である。

膨大な数の漢語が日本語として使われているが、外国語である中国語から取り入れるに際し、躊躇いなく寧ろ「俺はこんな言葉を知ってるぞ・・・」と言わんばかりである。最近の例では「熱烈歓迎」や「造反」など既に日本語化して居る。どうも日本人は中国語に限らず、外国語を平気で日本語化して使っている。

例えば、「店を新しく開く」と言うより「新しくオープンする」と言う場合の方が多いような気がする。「大安売り」より「バーゲン」の方がテレビの広告や新聞紙の「ちらし」などでは多用され居るようだ。しかもその多くは原語の意義の正確な訳ではなく、特殊な意味に限定して使われることが多いから、日本だけで通用する(片仮名書き)の日本語と言うべきかも知れない。

中国語などでは「ホームページ」は「主頁」、インターネットの「サイト」は「網站」などと中国語に訳して使っている。中国人にとっても、時としては漢字の意味を知っている日本人にとってもこの方が理解し易いし憶えやすい。


処で「政権公約」を意味する「マニフェスト」と云う言葉であるが、英語の辞書を引いてみると manifestmanifesto と綴る二つの言葉が出て来る。後者は元々イタリア語に由来する名詞で(政党などの政策に関する)宣言(書), 声明(書)などとある。1848年にマルクス・エンゲルスが「共産党宣言」のなかで独逸語の「manifest」を用いたことに由来するのだそうだが、語源辞典によると世界に流通した「マニフェスト」は「イタリア共産党宣言」を指すイタリア語の manifesto に由来するそうである。

畏友の海外生活や海外接触の経験の多い武内信能氏は以下のようなメールを下さった。以下に引用する。

(引用開始)

特に政治家やアナウンサーの使う言葉は気になりますね。

政治家が和製英語?“マニフェスト”を頻繁に使うのは気障に聞こえて最初のうちは、何故なのかなあ、と考えたりしましたが、結局判っていないとしか考えられないようです。

マニフェスト(manifest)という言葉は長年船舶関係の仕事をした我々には馴染み深い『積荷目録』のことで、政治家が使う、“政治宣言”或いは『政治的公約』なら“マニフェストウ”(manifesto)と言わなければ『積荷目録』と混同してしまいます。

英語で話す外国で、“政府が宣言しているから大丈夫”と説明を受けた時相手がわざわざ私が船関係の者なので“マニフェスト”ではなく“マニフェストウ”だと、発音の違いを強調して説明してくれたのを思い出して、日本の政治家が誰か一人くらい“マニフェストウ”と言わないか待っていましたが皆、異口同音に“マニフェスト”を繰り返していてがっかりしました。

(引用終わり)


数名の人から「賛同」のメールがあった。なお、引用した同氏の気持ちは良く分かる。私の場合は「エコ」という環境問題に関連した新造語である。生物学を専攻した私には「エコ」と聞くと Ecology (生態学)の略称と言うことが先ず頭に浮かんでしまう。群集生態学で頭を悩ましたからだろう。現在ではエコタウン・エコパック・エコツーリズムなど紙面の至る所に「エコ」が出て来るが、その都度 Ecology を想い出して仕舞う。

「マニフェスト」であるが、英語の manifest にも「積荷目録に記載する」(動詞)と云う言葉ががあるようだ。manifest と云い manifesto と云い、独逸語の manifest と云い元々はラテン語に由来する同根語であっろう。この点については毎度教えを受けている國語問題協議會評議員 (擴張ヘボン式提唱者) Kmns 氏からも示唆があった。

また畏友の Y. I 氏から「英語の manifest とイタリア語の manifesto ではアクセントが違います。前者は ma に、後者は fes がそれぞれ強声です。日本語ではどうやら(ニ)と(フェ)とが高声で混じって使われているような感じがします。いまさら言うのもおこがましいが、日本人の『ローマ字・カタカナ英語』が通じにくいのはアクセントに問題があると思います。」とのコメントを頂いた。

確かに Y. I 氏の云う通り日本語のカタカナ英語を日本人が発音するときは、アクセントの置き所は原語のそれとは違っている場合がある。英語の正しい発音を知っている人には「聴いて居ると耳障りで気持ちが悪い。タイ人がタイ語で話している中に英語が混じるとき、アクセントの置き所が原語である英語のそれとは異なり常に一定の処に置かれることが多い。タイ人にはその方が発音し易いのだろう。日本語のカタカナ英語もこれと似ているのかも知れないが、私には良くは分からない。

和製英語と同様、日本語のカタカナ英語はもはや英語ではなく「日本語なのだ」と割り切った方が良いようだ。此れらのカタカナ日本語は次々と生れて、流行しやがて消え去る運命にあり、一部の便利で慣れて多くの人が使うようになった「カタカナ日本語」の言葉だけが生き残り国語の辞書にも拾われることになるのだろう。

日本に留学して日本語を流暢に話せるようになった沢山の中国人を私は知っているが、母国に帰国して10年〜20年と経過すると、口を揃えて云うのは「カタカナ日本語」の急激な増加には困る」という不満である。確かに雑誌を見て居て「セレブキャリア‐ウーマンであり、しかも国会議員である彼女はクールビズが好きだ・・・」などと云う文章に出会うと30年以上前に日本語習った人達には「チンプンカンプン」であろう。

日本人の私にも分からないのだから「気にしない、気にしない。なんだそれ?」と訊ね返せばよい」と何時も彼等に答えている。その中に恐らく消え去る流行語だから。此の様な言葉は何処の国にもある。米人と英語で会話していて、 Bingo」と云ったら「今は余り流行らないよ」と云われた。(数を記したカードを使ってするギャンブル。思いがけない結果に対する喜びを表わす時「Bingo ビンゴ」と叫ぶ。一時「やったぞ、 当たったの叫び声で米国や日本でも流行った)。

さて、「マニフェスト」であるが、日本語では定義すれば良いような気もするが、そんなことをしても議員諸公に無視されるのが落ちだろう。「はてさて」と思う今日此の頃である。新聞紙、テレビやラヂオで「マニフェスト」を使わず「政権公約」の語だけを使っている人があると嬉しくなる。

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JIDAIGEKI

悪代官の出る時代劇

 

他愛のない駄弁の極みだが、水戸黄門や暴れん坊将軍などには決まって欲深い悪代官などが出て来る。大衆娯楽ドラマだから、時代考証などどうでも良かろうとは言え、そうと分かっていても何時も気になることがある。その幾つかを書く。

 

2010/01/27

真道 重明

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深い悪代官は悪巧みを持つ廻船問屋(何故、いつも「悪商人は廻船問屋と相場が決まっているのだろう?)から賄賂を受け取って、ニャット笑って懐に「切り餅」『江戸時代、1分銀100枚、すなわち25両を方形に紙に包んで封じたもの(広辞苑)』をサット入れる。ここで「懐」というのは正確には「和服の胸元部分の襟元の掛け合わせの処」である。

洋服と違って、和服の場合は外にポケットがないので、どうしても懐や袂に物を入れることになる。手拭いや煙草、軽い財布程度なら良いが、あまり重くかさばるものを入れると着崩れしたり、和服を傷めるので「小物入れ」に入れて持ち運ぶのが普通だ。小判の25両はかなり重いから、「襟元に.サット入れる」ことなど出来る訳がない筈だ。

「切り餅」の場合は「袂」に入れうる場合が多いようだ、だが、「袂」に入れてもズシリとして着崩れしそうだ。ドラマでは着付けた和服はきっちりして居て何の変化もない。襟元も乱れず恰好は良い侭だ。中には三宝に載せた「切り餅」三個の時もよく見掛けるが、三個だと「袂」にさえ入りきれないだろう。信玄袋のような「小物入れ」に入れたとしても底板が抜けるだろう。

演劇や映画などに「汚れ役」というものがある。乞食などがそうだ。だが若しリアルに本当の乞食の着物のようにすると観客に不快感を与えるので、「綺麗な破れ衣」を纏う。これと同じことのような気がする。お代官が着崩れしたのでは様になら無い。しかし、毎回私はツイ変だと思ってしまう。

大切な手紙や約定書などもにチョット半分見える程度に襟元に挟んだ侭、馬に乗って走っている。よく落とさないものだ。どうも日本人は「さりげ無く」チョット挟むのが「格好が良い」と感じるようだ。現今でもズボンの背中側のポケットに財布など半分見える恰好で如何にも「さりげ無く」突っ込んで居る若者を見掛ける。掏摸に「取ってくれ・・・」と云わんばかりのように私には思われるのだが・・・。チョット挟むのが「格好が良い」と感じるのだろうか?

話は少し逸脱するが、この感覚は日本固有のもので、他の多くの国々(例えばインド・中国・ベトナム・米国・ポルトガル・ペルー・ドイツなど殆どの国は「いわゆる鍵社会」である。此れらの国の人々が見たらハラハラするだろう。「ふらりと散歩に出る、タバコを買いにちょっとそこまで、そんな気楽な生活がしてみたいなどと、何度も鍵社会の論理を考えた所以である・・・」と云う文章を読んだことがある。多くの日本人の海外生活者が鍵社会について経験や感想を語っている。

民俗学の専門家達の鍵社会に関する論文は多い。私の勝手な愚見だが、「我が身を敵から守る必要が少なかった」所為なのだろう。二世紀半に亘る徳川幕府支配下の平和状態の結果がそれを齎したのか? 更に戦後の半世紀以上の平和が追い打ちを掛けたのか?どうも「我が身」、「我が家」、「わが国」を守ることに関して、日本人は多分に「平和呆け」かも知れない。これが鍵社会と関係がありそうな気がする。話が話が本題から逸れたので本題に戻そう。

 


 

代劇の僞闘(ぎとう、以前は「殺陣、たて」と云った)、「立ち回り」、即ち「チャンバラの演技」である。何人斬っても刀には血の一滴も付着していない。剣術や古武道の専門の研究者の言によると、日本刀で敵を斃せる人数は「剣豪と云われる人でも精々5〜6名だそうだ。荒木又右衛門や高田の馬場の中山(堀部)安兵衛にしても斃した相手の人数に就いての学問的な確証は無いと云う。バッタバッタと10人も20人も次々に斬り倒すのはどうも誇張された後世の戯作者による創作らしいとのこと。

惨劇の現場は「血の海」であった筈、言葉で言うのは未だしも、映像で表示すれば「手で目を覆いたくなり」見るに堪えないし、視聴者に不快感を与える。吉良邸に討ち入った四十七士の話もNHKの大河ドラマでは「一滴の血もない」では不自然だから、血が溜まっている場面を少し写してはいるが、間接的な表現で、後は視聴者のイメージに任せている。切腹の場面で解釈人が大刀を振り上げるまで、首を打ち落とす処は割愛?するのと同じだ。

処が、「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」などの大衆娯楽ドラマでは10人、20人と、「斬って斬って切り捲って」も血の一滴も出ない。「峰打ち」の場合も多少はあるが・・・。若しリアルに血が噴き出したら誰も気持ち悪がって見ないだろう。

利根の河原か何処かは忘れたが、江戸末期に「やくざ」の出入りで敵方の腕を肩から切り落としたのを、斬った「やくざ」が修羅場で「遣ったぞー」と見せびらかすように抱いている姿を望見した人が「丁度、一夜酢に漬けた生の芽生薑の巨大な形のものを抱いているように見えた」と書いている。実にリアルな表現だ・・・と思ったことがある。切り口には余り血は無く、肉がピンク色だったと云う。

・・・と此処迄書いて私は「一体何を書こうとしているのか?」と思った。「そうだ、血の出ないチャンバラのことだ」。「そんな下らないことをお前は何を議論しようとして居るのか・・・?」と揶揄されそうだ。そのことは私もよく分かっている心算である。「然し」である、修羅場の戦地で血み泥の現場を見た経験を持つ私は心の一隅で何だか変だとツイ思うのも事実だ。

 


 

「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」などの大衆娯楽ドラマは、いわゆる「勧善懲悪」ものである。「遠山の金さん」も、チョット変わったものでは「必殺仕置き人」などもその類いだ。日本ばかりでは無い。中国の「包青天」、即ち「包拯(ほうじょう、999年〜1062年、包青天とも呼ばれ、中国では子供から年寄りまで、誰もが知る歴史上の人物)を題材にした勧善懲悪の物語、連続娯楽映画として人気がある。

台湾でもタイ国(言葉はふき替え)などでも、包公(包青天)の映画は大人気だ。封建時代の倫理観の社会に立脚しているとは言え、庶民大衆の「目線」では善玉が悪玉をやっつける話は大受けで胸がスッキリする人情は国が異なっても変わらない。

現役の若い頃は仕事が多忙だった所為もあるが、此れらの大衆娯楽ドラマは「馬鹿馬鹿しい」と見向きもしなかった。「人間歳を取ると子供の気持ちに戻る」と云うが、傘寿を目前に控える今日この頃ともなると、馬鹿げているとは思わず、時々見るようになった。呵々大笑。

 

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MiyakeYasumatu

三宅康松さんの想い出

2010/03/16

真道 重明

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宅康松さんと初めて出会ったのは1972年6月、イタリアの首都ローマのカラカラ大浴場遺跡(Le Terme di Caracalla, Antoniniane の傍に在る FAO HQs (国連食糧農業機構本部)の水産局であった。 数年間 FAO / IPFC のトロール作業部会委員をしていた仕事の総決算の代表報告書を書きに行った時である。

FAO 本部の水産局では漁業協同組合を担当する課長をして居られた。私が本部を訪れたのはこの時が最初だったので食堂や売店の場所、仕事をする上での FAO の慣習、その他「勤務マニュアルに書かれて居ない様々なことを色々と親切にお世話をして頂いた。

当時の水産局には数名の日本人が在勤して居られたが、三宅さんは小島さんや藤波さん等と共に Big Japanese と呼ばれ、他の国の人達から一目置かれて居たように思う。

FAO を定年退職後、帰国して海外漁業協力財団(OFCF)に Consultant として勤められ199810月に物故された。東大法科卒、農林省在籍中の1942年(昭和17年)に文官高等試験外交科、(外交官及領事館)試験に合格、(後に総理となった宮沢喜一氏が合格した翌年の試験に合格)。

昨今で云う「キャリアー国家公務員」(国家公務員試験の上級甲種またはI種(旧外務I種を含む)に合格し、幹部候補生として中央省庁に採用された国家公務員の俗称。昔は「特権官僚」と云った)だったにも拘わらず、農林省水産局の課長時代に海外の国連機関である FAO に転職された。(以上 Wikipedia 及び Web 文官高等試験合格一覧より)。日本政府に居れば、先ず間違いなく水産庁長官になる人だった。

何故、海外に転職されたのか?を本人の口から聞いたことも無く、また訊ねたこともなかった。なお、「キャリアー」だったことも、ずっと後に知ったことである。人柄から考えて出世を意識するタイプの人ではなかったように思う。戦前から文官高等試験外交科を受験、合格しているところから見て海外で働きたいという意図はあったようにも思う。

三宅康松さんは私の知る限り、英語の会話・講義・読み書きの一番の勉強家であり達人だった人だ。四六時中、Pocket Oxford Dictionary (英英)をポケットに入れて居られた。3〜4ヶ月もすると一日に数十回も捲って使うため、ボロボロになり、同じ本を買い換えて居られた。ボロボロになり捨てられる辞書自身も此処迄愛用されれば本望だったろう。

普通の人は会話や読み書きが一応出来、意志疏通が出来るようになると本来の仕事の方に心を奪われて、言葉の勉強は疎かになる。三宅さんは違って居た。或る時私が鉄工所のつもりで「ironwork 」と書いたのを見て、ironworks と複数形にすべきで、ironwork だと構造物の鉄製部分の意となる筈、この work 言う言葉は使い方が面倒な言葉で単数か複数かで意味が異なり読者が誤解する・・・と云われ、早速辞書でそのことを再確認されていた。

咄は戻るが、水産局は本部ではなく、リリエンタール空港に通ずるクリストファー・コロンボ通りCristoforo Colombo)の庁舎に在る。初めてローマのFAOを訪れた際、イタリア語にはとても堪能な三宅さんの奥さんにはわざわざ飛行場まで出迎えて頂き、ローマ市内の「ランセロット」という名前だと記憶するがFAO特約のペンショーネ(下宿式旅館、英語のペンション)に案内して貰い、チェックインの手続きをして頂いた。

これには理由があった。当時、悪質な白タクが多く、不慣れな外国人客には数倍のタクシー代を取る事件が多発していたのである。最初の訪問で右も左も分からない私を気遣ってのことだった。休日には飛行場の先の漁港に行き魚を買って、お宅で海鮮バベキューを藤波さんや小島さんなどと共に楽しんだ。

この漁港には FAO を定年退職された三宅さんが日本に帰国された後も、 FAO の要請でローマを何度も訪問したが、その都度行った。 FAO 本部の日本人職員は当時とは大きく様変わりしているが、漁港の魚の種類は日本と良く似ていて懐かしい。


三宅さんとゴルフ

私はゴルフを遣ったことが無いし、その知識も無い。ただ、SEAFDEC に在勤中オニテナガエビの養殖を初めて開発したことで有名な FAO / RAPA の林紹文さんが退職時、同氏から「運動しなさい。年配者に良い American Lady のハーフ・セットを上げよう」と云って貰っていた。林さんも余り使わなかったのだろう。見た目には新品同様だった。

三宅さんも私がゴルフをしないことをご承知だったので私に対しゴルフに関する話題を口にされたことは無かった。後年私も三宅さんも任期を終えて帰国後、赤坂の OFCF で一緒だった頃、仕事を終えて帰宅するとき良く珈琲を飲んで雑談した後、必ずゴルフ用品店に立ち寄られた。 American Lady の話を私がしたら、「それは女子用の米国では有名なブランドですよ」と云うことだった。

その後、偶然に「鎌倉 章(かまくら・あきら)」氏のサイトで「ケニー・スミスの持ち主ミヤケ・ヤスマツ氏」を探しておられる記事を見付けた。また、その後の記事で「最近改めてgoogle してみて、まだ試してない漢字があったことに気づいた。すると、google の巨大な書庫の底から浮上して来たのは戦後まもない頃の衆議院の委員会の議事録だった」とある。以下鎌倉 章氏 (ライフメデイア社長。akirabee333 のサイトより文章を引用して見る。

// 引用開始

昭和二十五年三月十一日(土曜日)午後二時四十四分開議の第007回国会 経済安定委員会 第9号。そこに委員外の出席者の一人として農林事務官 三宅康松の名前があった。昭和三十一年五月二十八日(月曜日)の第024回国会 農林水産委員会 第44号の議事録では農林事務官(農林経済局企業市場課長)となっている。1973年、つまり、昭和45年にイタリアに駐在していた可能性はどうなのか?

google は三宅氏が「世界の中層トロール漁法」という論文の訳者であるとも言う。農林省と言ってもどうやら水産方面らしい。ならば地中海のイタリアに駐在してもおかしくない?(Johnson T.アメリカ西海岸における中層トロールの設計,「世界の中層トロール漁法」(三宅康松訳).海洋水産資源開発センター,東京.1984; 51-60.

この本をみれば訳者の略歴もわかるかも知れないと思いつつもそのままになっていた。去年はそこまでしか解明が進まなかった。年があけて改めて google でトローリングすると、また新たな情報が引っ掛かって来た。

080103 ケニー・スミスの持ち主ミヤケ・ヤスマツ氏, 文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)合格者一覧である。三宅康松さんは昭和17(1942)東大法卒でこの試験に合格している。同期には昨年亡くなった宮沢喜一元首相(19192007)もいる。仮に宮沢さんと同年齢とすると1970年には51歳だ。その時に何らかの事情でイタリアに駐在しておられた可能性は十分考えられる。

終戦直後の経済安定会議で「労務者用配給物資に特別価格設定の請願」とか「新聞用紙統制撤廃反対の陳情書」とか「飮食営業臨時規整法の一部を改正する法律案」とか「公共事業及び経済復興に関する件」を審議していた時代から20年が経過した1970年、日本は高度経済成長期の真っ只中にあり、三宅さんも「やれやれ」と戦後の肩の荷を降ろし、ケネス・スミスという贅沢な道具に心置きなく手を伸ばすことができたのかも知れない。

私がケニー・スミスを使っていてもほとんどのキャディーは気にもとめない。だが、12月に太平洋クラブ相模コースを回った時、人手不足のためにキャディー役を務めてくれた年配の男性スタッフだけは違っていた。こっちが自慢する前にエーッと叫び声をあげて驚いてくれたものだった。

打ちやすくよく飛ぶ今日のゴルフクラブの基準に照らすと、このケニー・スミスには骨董価値以外の価値がない。よぼよぼのジーサンが昔の偉かった時代の古い名刺を見せびらかすようなものかも知れないな。その名刺も誰も知らない紙切れに近付いているわけだ。

// 引用終わり

鎌倉 章氏 の探しておられた三宅氏は、間違いなく本項で言う三宅さんのことである。私がSEAFDEC 時代、一足早く帰国された三宅さんを招いて数回講義をして貰ったことがある。拙宅に見えた際、「剣玉」(けんだま、またの名前は日月ボール)があったのを手に取り、その剣玉の特技の素晴らしさに驚いたことがある。「子供の頃にはビー球やメンコなどクラス第一だったが、この歳になってゴルフは好きだが子供の頃のようにはゆかない」と笑顔の声が返って来た。


SEAFDEC に11年勤めた私は帰国後も OB となってからも、FAO 本部や水産局には何度も訪れたが、上述の初回に三宅さん夫妻にお世話になったことが最も強く印象に残っている。

FAO 時代から共に OB となって赤坂の OFCF でご一緒した時代を通じ、気が合った三宅さんも1988年鎌倉の自宅で亡くなられ、今ではご冥福を祈るだけとなってしまった。

 

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KujiraToInu

食文化の科学論と感情論

日本人の鯨肉食と中国や世界
各国の狗(犬)肉食を例に:−

2010/03/19

真道 重明

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MOKUJIkjira&inu

目 次

始めに
日本人と鯨肉食
中国や世界各国の狗(犬)肉食
 
中国本土 香港 台湾 日本 その他のアジア
 太平洋諸島 欧米
諸国
議論と感想 (結語に代えて)
 反捕鯨活動を巡って  狗肉食を巡って

ベトナムの狗肉食 (追補)

 

 


 

Hajimeni

始めに

S.s. (シー・シェパード)の反捕鯨活動で船長が日本に逮捕され、マスコミは連日紙面を賑わしている。鯨や犬だけに留まらず、食文化の各民族の違いに関する問題は「種の保存」と云った科学的論争から、「動物愛護」と云った感情論、更に加えて商業主義や国益などの対立などの裏事情も在って、水産資源を専攻した私には、論議の多くが「矛盾だらけの話や自分勝手な暴論」のような気がしてならない。
先ず始めに
Web 上での3編の書き込みを紹介する。


豪州をはじめとする欧米ヤソ教の白人たち。「鯨を食うな」と主張する理屈、いまだにオラにはさっぱり分からん。イスラムの豚肉、ヒンズーの牛肉。「テメエは食わねえ」というのなら分かる。「他人に食うな」というのは大きなお世話、大傲慢。明らかな人種的・宗教的差別よ。

大陸や半島では犬・猫を食うらしい。猫はイタリアでも食う。オラは食わん。だからといってチョンチャンイタ公を「犬猫食ってはいかん」と国際司法裁判所に提訴するだろうか?英国の愛犬家団体が知ったら勿論すぐ提訴するがの・・・。

南氷洋で日本の捕鯨船を攻撃する SS (シーシェパード)というエコ・テロ海賊。米国や豪州で持て囃され、億単位の寄付が集まるという。それでも調子に乗ってノルウェー捕鯨にちょっかいかけたら半殺しの反撃に遭って、2度と白人捕鯨には手を出さないのだという。第2昭南丸は舐められているのよ。

先日の米アカデミー賞。わが国の和歌山県太地町のイルカ漁を扱ったドキュメンタリー映画が受賞した。「年間2万頭以上のイルカを殺す」といった「眉唾」がドキュメンタリー大賞だで!反日のアメ公みんな拍手喝采。膨大な興業収入が入るという。その潜在的人種差別感情、米にも根強いこと、知るべきだ。

豪州やニュージランド。「反捕鯨」が国是の党が与党になった。IWCが認めようが認めまいが調査捕鯨止めない日本、国際司法裁判所に提訴すると息巻いている。

(中略)

日本の新聞はあまり書かなかったが、ついこの間まで豪州での印度人留学生への襲撃。「カレー・バッシング(印度人はカレーを食うから)」と執拗にやっていたようだが、今度は日本人相手の「イエロージャップ・ホエイルバッシング」だ。

(中略)

鯨の尾の身。おばいけの三杯酢味噌。(山堂コラム 309、頂門の一針再録、1848号、2010/0314日より)


第2の例を挙げよう:−

この話は本当か?「中国版「生類あわれみの令」
「犬肉」、「猫肉」をメニューに書くと罰金か懲役刑」

この10年だろうが、中国の都会ではペットに犬、猫を飼う人が増えた。それも高級で高価なペットを自慢そうに連れて散歩したり、ブリーダー同士で道ばたでペットを見せ合いながら会話している風景がみられるようになった。

 「ん?」 中国では犬と猫は食べ物じゃないの?

中国黒龍江省延辺地区、吉林省から遼寧省の北朝鮮国境にかけて200万人といわれる朝鮮族の居住区へ行くと、軒並み「狗肉」レストランの看板が並んでいる。

朝鮮族自治区ばかりではない。北京にも堂々と犬肉レストランがある。猫の肉は華南へ行くと「甘み」があるといってやはり好物の人が多く、猫肉レストランがある。

そもそも SARS は「ハクビシン」が原因で、あの愛玩動物も、中国人が食べていた。

すでに全人代では「犬肉、猫肉を食べることを禁止する法律」が可決しているが、反対が多くて法律の実施は事実上、宙に浮いたまま。最近の噂では「メニュー」に掲載を禁止する措置を、その第一歩とするらしい。

町の市場へ行くと、生きたままの鶏を売っているし、客の目の前で、客が選んだブタを屠殺するし、サファリ・パークへいけば生きたままの鶏をライオンの檻に投げ込み、食わせている。

動物愛護団体や環境団体の活動により、全人代は犬・猫の食事を禁止してゆく方向にあるのだが、「冗談は止せ。これは数千年つづく中華の食文化だ」とする抵抗が強く、実際は裏町や、別の看板で犬猫レストランの営業が続いている。

そこで「当面の措置として『罰金5000元以上』『禁固15日以内』という法律ができた。

またペットと偽って犬や猫(とくに犬)を家庭で飼い、ころあいをみて調理する手合いが多いので、「家庭内の犬も一匹以内(ひとり犬政策?)、体長35センチ以内」ということになった。(英誌エコノミスト、2月27日号、「頂門の一針」に再録、1837号;2010.3.4;「宮崎正弘、国際ニュース」、2010.3.3.通巻2895号)


もう一つ本項を公開した以後に書かれた鯨に関するメルマガの記事を挙げよう。

捕鯨反対の本当の意味

岡崎 溪子

シー・シェパードが日本の捕鯨反対を口実にしてギャングまがいの無謀な攻撃を日本の艦船にしかけている。日本の調査捕鯨船には海上保安庁から数名同乗しているが、テロリストに日本政府から発砲許可は下りていないので、武器はあれども役立たず。本来なら射殺も許されるはずが、事なかれ主義の日本は一発の銃砲を撃つこともできない。

日本大使館に乗り込んだテロリストたちに対して、大使館は治外法権なのだから本来は射殺しても叩き殺しても日本の自由である。しかし日本大使館では「領土不法侵犯者」を現地警察官に引渡しているというお粗末さ。

断乎たる処置をするのが特に外地では日本の国益を守ることである。外国を旅行していて困ったことがあっても日本大使館に駆け込んでも事務的で、助けてもらえない。シー・シェパードに抗議するためやっと岡田外務大臣がオーストラリアを訪ねたが、逆にラッド首相に「国際司法裁判所に提訴します」と宣告されてしまった。

ラッド首相は、日本の調査捕鯨停止を求めるべく、国際司法裁判所に提訴する構えを見せており、この会談の前に、地元メディアに「11月まで」という提訴の期限についても発言していた。オーストラリア政府はシー・シェパードと同じ意見なのである。

「ベスーン船長は、日本船に乗り込む権利があると私たちは思っている。会談の結果がどうなろうと、もし、日本が野蛮な大量殺戮を続けるなら、シー・シェパードは常に、現場に向かう」。

まあ短日の訪問で解決するような問題でもないのに、岡田外務大臣のいかにも「私は一生懸命働いています」というパホーマンスだけで、情けないったらありゃしない。日本政府に外交で解決できる力量もない。

岡田さん、『捕鯨の歴史』を十分にご存知ですか?教えてあげましょう。

≪日本の捕鯨の歴史≫

日本人は8000年前の縄文時代から鯨を獲って食べていた。千葉県館山市の稲原貝塚ではイルカの骨に刺さった黒曜石の「やす」が出土しているし、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。

縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する
例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたものである。
「古事記」の記述では、神武天皇に鯨肉を奉った話がある。古事記にも日本書紀にも書かれているのは、神武天皇が九州から大和へ東征する途中、奈良の宇陀での戦勝の歌がある。「鴫(しぎ)をとる罠を張って待っていると、鴫はかからず、なんとまあ、でっかい鯨がかかったよ」。


【真道 記: この歌は私が旧制中学校で習ったことを想い出した。今回調べ直してみた。古事記 中巻 (神武東征の件)、宇陀(うだ)の高城に鴫罠張る 我が待つや鴫は障らず・・・。原文は[宇陀能多加紀爾志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受]、仮名対応では:宇(う)陀(だ)能(の)多(た)加(か)紀(き)爾(に)志(し)藝(ぎ)和(わ)那(な)波(は)留(る)、和(わ)賀(が)麻(ま)都(つ)夜(や)、志(し)藝(ぎ)波(は)佐(さ)夜(や)良(ら)受(ず)、伊(い)須(す)久(く)波(は)斯(し)、久(く)治(じ)良(ら)佐(さ)夜(や)流(る)】


古事記には応神天皇が皇子の時、越前の敦賀の浜で地元の神に「入鹿魚(いるか)」を贈られて、「鼻の傷ついたイルカが浜一面に打ち上げられていた。皇子は食料の魚をくださってありがとうございます」と神の恵みに歓喜している。

「万葉集」にも、「いさなとり(鯨とり)」が海、浜の枕言葉として使われている。「いさな(伊佐奈)」は鯨をほめたことばで、広い海の中に住む魚の王として、「勇ましい魚」の意味である。魚を古代は「那(な)」とよんだので、鯨を「勇那(魚)」というのである。
それから転じて海や浜にかかる枕詞として万葉集にでてくる。

日露戦争を描いた映画『二百三高地』の主題曲『防人の歌』で有名になった:−

鯨魚(いさな)とり 海や死にする 山や死にする  死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ               〈よみ人知らず  万葉集・巻16〉

鯨魚(いさな)を獲る海は死にますか?山は死にますか?死ぬからこそ、海は潮が引き、山は木が枯れるのです。大きな鯨がいるような大海でも潮が引き、連なる深い山々もいつしか木が枯れることもあり、どんな物でもこの世に常なる物はない、と無常観をうたっている。

万葉集では12首の「いさなとり」の歌があるが、海の枕詞になるほど日本各地の海で鯨が獲れたとの記録がある。大切なのは古事記の応神天皇のように鯨もイルカも海からの贈物として感謝の心を持ってありがたく食べたということである。(頂門の一針、1876号、2010/04/08.)。岡崎 溪子氏のこの論説には[つづき]が数編ある。此処では第1編のみを引用した。

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KUJIRA

日本人と鯨肉食

の三つの引用文をチョット読んだだけでも、本項で取り上げた食文化の問題は、科学論だけでなく、各国々の社会的な感情論、国際的に動物愛護精神の後進国と見られたくない意識の存在などもさることながら、多面的な側面を持つことが解る。Wikipedia によると:−


世界各地の沿岸部で古くから鯨肉を食していたことは、考古学的研究から判明している。中世ヨーロッパにおいてはビスケー湾などで組織的な捕鯨が行われ、鯨の舌が珍重されたほか、肉は広く沿岸民の食糧となった。特にイルカが食用として好まれ、串焼きやプディング、パイなどに用いられた。変わった料理法では、捕鯨船などでまれに供されたイルカの脳みそのフライが挙げられる。

大型鯨が食品とはみなされなくなった後も、イルカについては比較的最近まで食用とされていた。15世紀のイングランド家庭料理についての本にもイルカ料理が登場する。イングランドの宮廷では17世紀頃までイルカの鯨肉が供された。

19世紀に刊行された「白鯨」にもイルカの美味はよく知られているという記述がある。なお、「白鯨」には、ある捕鯨船員の特殊な嗜好としてではあるが大型鯨のステーキを食べる描写もある。同じく19世紀にアメリカの捕鯨船に救助された日本人船員も、アメリカ人船員は大型鯨肉は毒だからと食べないが、イルカはまれに食べていると記録している。

日本においても、組織的な捕鯨産業の成立以前から、鯨肉を食用とすることはあったようである。小型のハクジラ類を中心に、縄文時代以前を含む旧石器時代の貝塚や、弥生時代の遺跡など古くから出土例がある。日本では宗教上の理由などから、「肉食」が忌避されたり、公式には禁止される時期が歴史上で度々あったが、欧米の場合と同じく「魚」として食用にされていたようである。

江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理江戸時代から組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていた。ただし、九州地方の一部では、初期の突取式捕鯨期には鯨油生産のみが行われて食用習慣が無く、皮下脂肪以外の鯨肉は沖合いに運んで廃棄していたという記録もあるが、その九州でも網取式捕鯨が始まる頃までには急速に鯨肉食が盛んになる。

例えば幕末に捕鯨地の長崎を訪れたシーボルトも、しばしば鯨料理が供されたことについての記録を残しており、中には「鯨ひげのサラダ」などの特異な献立も記されている。ツチクジラは、現在の千葉県房総半島太平洋岸のように、該当種の捕鯨が行われてきた地域では古くから食べられ、特有のクセに応じた調理法も工夫されてきた。

なお、日本の江戸前の鯨に関しては福助さんの下記にも記事がある:−

 http://home.att.ne.jp/grape/shindo/EdomaeNoKujira.pdf

 

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れから察するに、ノールウェイなどを除く欧米の多くの国が主張する現今の「反捕鯨活動」は長い人類の歴史から見れば至極最近のものであると云えよう。

米国の文学史の初期を飾るハーマン・メルヴィル(Herman Melville)が1851年に発表した小説 Moby-Dick (和訳題名は「白鯨」)はモノクロ時代に2回映画化されたらしいが、3回目の1956年に映画化された米国映画の「白鯨」(はくげい、Moby-Dick )によって大型機帆船時代の「アメリカ式捕鯨」は一躍有名になったが、ジョン・万次郎などは当時日本近海をウジャウジャと遊弋していた米国の「アメリカ式捕鯨」船によって救助されたことは良く知られている。

ちなみに当時の捕鯨用大型機帆船の現物は米国には残されて居らず、品川にある東京海洋大学の構内の陸上に固定して保存されている「雲鷹丸」が唯一の貴重なものであるらしい。この船は私が学生時代には越中島の水上に繋留されており、昔は捕鯨実習に、私達の頃には多くの帆を「張ったり畳んだりする」帆の操作用の訓練に使用されていた。

「雲鷹丸」に就いては下記のURLに記事がある:−

 http://home.att.ne.jp/grape/shindo/mougo2.htm#スタノボイと雲鷹丸記念歌

或る事情で私は「アメリカ式捕鯨」の歴史を調べたことがあるが、「アメリカ式捕鯨」の捕獲目的であった「マッコウクジラ」は濫獲によってその資源は壊滅寸前に追い込まれた。当時は「ナガスクジラ」や「シロナガスクジラ」などの超大型鯨は遊泳速度が速く、その存在はハッキリせず、未だ「幻の鯨」であったらしい。

「ナガスクジラ」や「シロナガスクジラ」などの超大型鯨は船速の速い動力船に銛を発射する捕鯨砲を備えた現在の「ノールウエイ式の捕鯨技術」が開発されてからのことである。

鯨肉食に関しては、私の体験によるものでは子供の時によく食べた「コロ」(鯨肉を揚げて油を絞った残りを乾燥させたもの。大阪で好まれた)が最も記憶に残る懐かしいものである。賽の目に切った「コロ」を、水菜と共に煮たり、関東煮(かんとうだき)の具の一つだった。【余談だが、関東には無いこの「おでん風の食べ物」を何故「関東煮」と呼ぶのか不思議だ】。この味は大阪だけにしか無いように思う。独特の濃厚な味で、その説明は困難。大阪人だけに解る味かも?、懐かしさも手伝って居るかも知れないが実に旨い。

戦前、進学して上京し深川に居たが、緑町当たりだったかに「とせう」と書いた暖簾の小店があって、半年は泥鰌(ドジョウ)の柳川鍋、後の半年は「鯨汁」を出す店があった。今回調べたら、「江戸時代から続く泥鰌鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けている店がある。江戸時代の江戸城下では、泥鰌鍋屋(柳川鍋ともいう)で鯨汁が出されるのが一般的で、一説では一番小さな魚料理のどじょう鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれ、凡そどの店でも泥鰌汁と鯨汁は同じ値段で、十六文で売られていた。明治末期には泥鰌汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘であった」という記事があった。私の知る店はその名残だったようだ。

その後、学徒動員に狩り出され、戦地では良く「百尋」(ヒャクヒロ、茹でた小腸)を「漬け物代わり」に食べた記憶がある。最初は植物の「漬け物」かと思った。小さな「菊」の花の形をした不思議な味の食べ物である。

戦後長崎に居た頃は「松浦漬け」(鯨の上顎の骨の内部にある軟骨組織「かぶら骨と呼ぶ」を薄く刻んで酒粕に漬けたもの、「玄海漬け」とも言う)を珍味だと感じた。江戸時代には鯨熨斗(くじらのし。ホリホリとも云う)という珍味が在ったそうだが、似たものらしい。本項の冒頭の引用文に「鯨の尾の身。おばいけの三杯酢味噌」とあるが、「おばいけ」は「おばけ」(漢字では尾羽毛と書く)とも言う。これも実に旨い。日本人は鯨は皮・皮下脂肪・脂肪を採った絞り糟・凡ゆる内臓各部を余すところ無く食べたり利用している。

その証拠に夫々に名称がある。オバ(脂肪とゼラチン質からなる尾びれ。尾羽)・ヒメワタ(食道、姫腸)・セセリ(舌。さえずりともいう。高級部位で脂肪に富む。コロに加工されて関東煮の具種などに用いられる)・マメワタ(腎臓、豆腸)・ウネス(ヒゲクジラの下顎から腹部にかけての凹凸した部分の肉。鯨ベーコンの材料。畝須)・・・など食用となる各部の名称は20数個もあるそうだ。

マッコウクジラなど歯鯨類の歯は象牙に似て非常に堅く重い。学生時代、アルバイトで海軍の「一斉海洋観測」でキャッチャー・ボートに2ヶ月余乗船した際、船員から「シガレット用の煙草パイプ」を貰ったが、堅すぎて彫刻刀が使えず、象牙の印鑑の代用品には不適当とのことだった。

 

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ChineseDog

中国や世界各国の狗(犬)肉食

羊頭狗肉 『懸羊頭于門,而売狗肉于内』。「門前に羊頭を掲げて、内では狗肉を売る」(清の銭大マ 《恒言録》卷六:“《晏子春秋》の語に由来する四字熟語、百度検索サイトによる)という誰もが知っている諺があるが、裏を返せば狗肉(犬の肉)を売ることが昔から中国では普遍的に行われて居たことを意味する。以下に数個の Wikipedia から抄録した世界各地の犬肉食に関する記事を掲げる。

中国本土

中国の新石器時代の遺跡からは、犬の骨が大量に出土している。これは犬を食用として大量に飼育していた為である。黄河流域にも長江流域にも犬食文化は存在した。古代中国で犬肉を食べていた事実は、「羊頭狗肉」「狡兎死して走狗烹らる」などの諺、前漢初期の高祖に仕えた武将「樊會」(はん かい、會の字は口偏が付く、紀元前189年)が嘗て犬の屠殺を業としていたことからも窺える。

しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、或いは家族や家畜群を外敵から守る番犬として飼っており、犬肉を食べない。こうした犬は生業や家族の安全に寄与する生活の仲間であり、家族同様だったからとする見方がある。農業生産性の低かったヨーロッパでは伝統的に牧畜が重要な生業であり、現在の西洋の「犬食」に対する嫌悪感には、北方民族と同じ源があると見られる。

華北では、五胡十六国時代に鮮卑など北方遊牧民族の支配を受けた影響から、犬食に対する嫌悪感が広まった。北方民族が入らなかった南朝でも、5世紀頃から犬を愛玩用として飼う風習が広まり、特に上流階級はペルシャ犬を愛好した。この為、南朝でも犬食を卑しいとする考えが広まり、時代が進むに連れて犬食の風習は廃れていった。但し『本草綱目』にも犬の記載があり、全く廃れた訳ではなかった。

現在でも、広東省、広西チワン族自治区、湖南省、雲南省、貴州省、江蘇省等では、広く犬食の風習が残っている。江蘇省沛県や貴州省関嶺県花江、吉林省延辺朝鮮族自治州は犬肉料理で有名な場所である。地名にも養殖場があった場所として、「狗場」等の名が使われている場所が多くある。

広東省広州では「狗肉」(広東語カウヨッ)の隠語として「三六」(サムロッ)や「三六香肉」(サムロッヒョンヨッ)と呼ぶが、「3+6=9」で同音の「狗」を表した表現である。概ね、シチューに似た煮込み料理に加工して食べられる。調理済みのレトルトパックや、冷凍犬肉も流通している。

広西狗肉料理古代よりの伝承では、黄(赤)、黒、花(斑模様)、白の順に美味いとされている。一般に、中国医学では、犬肉には身体を温める作用があると考えられているため、冬によく消費されるが、広西チワン族自治区玉林市では、夏至の頃に「狗肉茘枝節」と称して、犬料理と茘枝(れいし、ライチー)を食べる行事が行われている。夏に犬肉を食べるとのぼせるが、身体を冷やす茘枝と合わせて食べると問題ないとされる。

香港

香港では犬食に嫌悪感の強い英国の支配を受けたため、犬は「猫狗条例」により保護され、現在も犬肉の流通が解禁されていない。2006年12月22日に、香港で4人が禁を破って犬食を行ったため刑務所へ30日間拘留された事件があった。

台湾

台湾では香肉という呼び名で好事家の食文化として存在していたが、2001年1月13日に、犬、猫を食用目的で屠殺する事を禁じる動物保護法が施行された。2003年12月16日には改正され、販売も罰則対象に含まれるようになった。これ以降、それまでの犬肉料理店の多くは羊肉料理店に変わったが、客の需要に応え犬肉を羊肉として売っていた羊肉料理店が摘発されるという事件が度々起こっている。

朝鮮半島

韓国では犬肉を「ケゴギ」、北朝鮮では「タンゴギ」と言う(「ケ」は犬、「タン」は「甘い」、「ゴギ」は「肉」の意)。朝鮮でも狗肉は新石器時代から食用とされている。犬料理は、滋養強壮、精力増強、美容に良いとされ、陰暦の夏至の日から立秋までの「庚(かのえ)」のつく日の中伏(チュンブク)には、犬料理を食べて暑気を払う習慣がある。黒犬には時別効能があるとされる。

韓国では人糞を犬に食べさせて飼育することもある。犬を人糞で育てる習俗はモンゴルにもあるが、ここでは逆にゲルの成員の糞を与えて育てた犬を、ゲル周辺を警備し、余所者の侵入を防ぐ忠犬として養育するという要素を持つ。また、食肉家畜を人糞で飼育(養豚)するという概念自体は、中国や以前の日本(現在は沖縄でわずかに残っている)などにも見られた(日本では中国由来の不潔な奇習であるとの偏見から人糞養豚廃絶運動が行われ、現代日本では穀物飼育が行われており、人糞養豚はほぼ消えている。

韓国における犬食は、今なおきわめて盛んである。2006年、韓国国務調整室が行なった調査によると年間200万頭の犬が食べられている[5]。2008年の調査によると、ソウル市内だけで530店の食堂が犬食を扱っている。違法のため、当局による衛生管理が行なわれておらず社会問題化している。

北朝鮮においては、食糧難の中、数少ない蛋白源として珍重されている。平壌観光のガイドブックには「朝鮮甘肉店」と記載され紹介されており、案内員に希望すれば朝鮮甘肉店へ連れて行ってもらうことも可能である。なお欧米の批判の影響を受けにくいこともあってか、平壌甘肉店は大通りに面した場所にある。犬は残飯を与えても育つので、家庭で小遣い稼ぎに飼われることがあり、中でも結婚資金を稼ぐために数頭の犬を飼う若い女性を「犬のお母さん」と呼ぶ。育った犬は自由市場で売買される。

日本

先史・古代

日本では、縄文時代に集落遺跡などの土坑底部から犬の全身骨格が出土する例があり、これを埋葬と解釈し、縄文時代の犬(縄文犬)は、狩猟犬として飼育され、死後は丁重に埋葬されたとする説が一般的になっていた。

しかし、1990年代になって、縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現 行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚からは、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土し、特に1点の犬の上腕骨には、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、当時犬を食用として解体していた事を示す物的証拠と評価しており、日本列島における犬食の起源がさらに遡る可能性が高い。

弥生時代では、遺跡から出土する犬の骨格も縄文期とは異なっている。また現代の日本列島在来犬のDNA解析によると、北海道と沖縄の在来犬は南方系の系統で近縁だが、その中間地帯の本州、四国、九州の在来犬は北方系の系統の犬に由来するとする研究結果が報告され、またこの時代はその犬の解体遺棄された骨格の出土例の報告が多くなる。

この為、日本に犬食文化が伝播したのは、縄文文化と別の特徴を持つ弥生時代からと見る意見もある。弥生時代には大陸からの渡来人(ここでは弥生人を指す)により金属器などが日本に伝来しているが、これに伴い大陸由来の犬食文化が伝来した可能性も考えられている。

『日本書紀』天武天皇5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食が禁止されたことから、犬を食べる習慣があったことはあきらかである。また、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子供を産んだ母犬の餌に米を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸跡では、貴重な米をイヌの餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米はイヌを太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表した。以後たびたび禁止令がだされ、表面上は犬食の風習を含め、仏教の影響とともに肉食全般が「穢れ」ることと考えられるようになった。

中世

もっとも、武士や河原者の社会では、犬がある程度常食されていた。相国寺の『蔭涼軒日録』によると、犬追物の後、犬を「調斎」し、蔭涼軒に集まって喫したとある。武士の鍛錬法(場合によっては見せ物にもなった)である犬追物は、広場で放たれた犬を標的として鏑矢で射つものであるが、その後処理についての記述である。また、犬追物のための犬は、犬追物用に飼育されていたとは限らず、多くは町内や市内といった人間の生活空間の中にいた犬を捕獲することで賄っていたらしく、それを生業とする専門集団や独自の道具まで存在していた。

大内教弘が15世紀中頃に公家や文人墨客をもてなし、大内文化の舞台となった大内氏当主の別館・築山館跡の発掘調査では、食用に供された可能性のある犬や亀などの切断された骨が2006年に出土している。中世では西日本で犬が密かに食用に供されていたが、山口でも普及していたことを示す史料として注目された。

宣教師ルイス・フロイスは『日欧文化比較』で「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」とあり、また 「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」という記述があることからも、当時の日本人が薬効も期待して食べていたことを窺い知ることができる。

近世

近世になっても犬食の文化は存続していたとされ、松井章などの発掘によると下層民だけではなく上級武士などでも食されていたとされる。例えば姫路城内のゴミの穴からは刃物で傷のある犬の骨が発見されている。また岡山城の発掘時には食肉用の骨の中に混じって犬の骨も出土しており、体の一部分のみ多数出土したことから、埋葬ではなく食用であった可能性がある。

鹿児島にはエノコロメシ(犬ころ飯)という犬の腹を割いて米を入れ蒸し焼きにする料理法が伝わっていた。「薩摩にては狗の子をとらへて腹を裂き、臓腑をとり出し、其跡をよくよく水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内へ入納、針金にて堅くくりをして、其まま竈の焚火に押入焼くなり(略)甚美味なりとぞ。 是を方言にてはゑのころ飯といふよし。高貴の人食するのみならず、薩摩候へも進む。但候の食に充るは赤犬斗を用るといへり」。

江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、「江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。」としている。

しかし、徳川綱吉の生類憐みの令で、表立っての動物殺生に対する忌避感が増幅され、犬がとりわけ「将軍家の護神」とされて保護されたことにより犬食の習慣はかなり後退した可能性がある。また、「座敷犬」「抱き犬」として狆などが流行する等、犬食文化の衰退の要因は増えた。

その後、19世紀初頭の文化・文政の頃からは、蘭癖(らんぺき=蘭学流)からももんじ屋などの獣肉専門店も出現し、教養のある者もそこに出入りした。しかし、これら不浄の気により江戸が「祝融の怒りに逢」うので、災害が絶えないとの文献[16]もあり、一般には肉食全般が「穢れ」であるとの禁忌意識は強かった様である。江戸時代の庶民が肉食をする朝鮮通信使を野蛮視していたとする見解もあり[17]、犬食がこの時代の日本で一般的であったとは言い難い。

近代以降

明治維新以降、文明開化により西洋の肉食文化が持ち込まれ、日本は肉食タブーから解放されたが、同時に西欧の「愛玩動物」の概念も持ち込まれ、愛玩動物に該当する動物を食べる行為は嫌悪の対象となった。昭和時代に入ると、忠犬ハチ公の物語が多くの人々の感動を誘い、全国で犬を愛玩する風潮が高まった。

しかし、戦中・戦後の食糧難の時代には、犬を食べたという証言はある。忠犬ハチ公の子孫が盗まれ、鍋物の具になったとの当時の新聞報道が残されている(畑正憲の大学時代のエピソードも参照)。北海道の浦河でもアイヌ・和人関わりなく冬の食糧不足の時期には犬を食べたという証言もあるが、日本で犬を食用とする文化は一般的にはなくなった。

現在の日本国内では食用を目的とした犬の屠殺は皆無に等しいが、食用犬の犬肉は現在でも輸入されており、2008年の動物検疫による輸入畜産物食肉検疫数量によると中華人民共和国から5トン輸入されている。日本で犬肉は大久保や猪飼野などのコリアン・タウンで食べることが出来る。2005年12月には東京都足立区の輸入販売業の韓国籍の男が、韓国料理店に卸す予定で売れ残った食肉用に輸入した犬の頭部を大量に東京都葛飾区の東京拘置所の北側にある水路に不法投棄をして逮捕され、日本で犬食が存在したこと自体が話題になる程、犬食は現代日本では稀な習慣と看做されている。

その他アジア

ハノイの犬の丸焼き野良犬を食べるというのは逸脱的とする見方もあるが、アジアでは広く集落や都市内で半飼育、半野良的に犬の群が人間社会と共存関係にあり、廃棄物処理、余所者の侵入の警告の役割を担っている状態がかつては普遍的に見られた。こうした犬群の一部が、食用に用いられた。

ベトナムでは北部を中心に、中国の影響で中国南部と似た犬食・野味文化があるが、ホーチミンなど南部ではそのような文化は皆無である。

太平洋島嶼地域

ポリネシア、ミクロネシアの島々では古くから犬を食用としており、現在も食用家畜として飼養しているところが少なくない。多くは祭りなどハレの日の料理として、バナナやタロイモなどの葉に包んで地中に埋め、熱く焼いた石で蒸し焼きにされる。ハワイの民族料理として知られるカルア・ピッグはこの調理法を豚に置き換えたものである。

北米

北米のインディアン民族は、コモン・インディアン・ドッグを始め、独自の労働犬を使役し、食用ともしてきた。スー族の「ユイピの儀式」など、犬食(鍋で煮る)が重要な意味を持つ儀式も多く、現在もこれらは行われている。

欧州

スイスの山間部では、犬肉を食べる風習が存在している。スイス国内での犬肉の流通は禁止されているが、消費する事自体は黙認されている。犬を食べる場合は、犬を買い、それを肉屋で処理して調理してから食べる。レストラン等で、料理として出される場合もある。ドイツにもかつては犬肉屋が存在したが、1986年以降は流通が全面禁止になっている。それまでは食用から医薬用まで、様々な用途で利用されていた。

フランスでは、パリで1910年頃に犬肉精肉店が開店したことや、横断幕で開店を示している例などが見受けられる。また数十種類に及ぶ犬肉料理本が販売されていたり、通信記事では牛肉のように美味しく色もピンクで歯触りもやわらかい、という記述などがあることからも、飢饉で仕方なく食べたのではないことを示し、犬料理が特別なものではなく禁忌としての対象でもないことが明らかである。

犬食文化がヨーロッパ大陸部に広く見られるのに対し、イギリス人の多くは、交通や狩猟等の高速移動手段として重用された馬と共に、犬が他文化で食用にされている事に嫌悪感を抱く。この理由としてイギリスでは、牧羊や狩猟、上流階級の趣味の世界での生活の友として馬や犬の交配・品種改良の歴史が長く、人間社会で共存出来るような調教や躾が行き届いており、他の動物とは異なる扱いがされている点が挙げられる。

ちなみに、南極探検においてアムンセン隊がそり犬を食べていたとされる。これはイヌイットからソリ犬の扱いの手ほどきを受けた際に、緊急時の食料として弱ったり怪我をして動けなくなった個体から食料と他のソリ犬の飼料として饗すると同時に身軽にするためと教わったからである。また文化とはかかわりないが、同様にジェームズ・クックはその航海記の中で、急病の際に仕方なく犬を食べた事を記している。


上の諸記述から見て「犬の肉を食べる風習」は「鯨の肉を食べる風習」と同様、人類の歴史の上では、かなり古くから世界各地に存在していたことが解る。同時に宗教上や生活慣習上の理由で犬肉食を禁じたり嫌悪した歴史も昔から存在していたことが解る。単に現今の「動物愛護精神」に基づく形とは異なって居る。

私体験を云うと、銭の無い学生時代に屋台店に「串カツ屋」と云うものが在って、よく食べたが、「犬の肉らしい」との噂があった、だが真偽の程は分からない。その後、中国大陸や台湾で店頭に黒犬が鉤にぶら下がっている(中国の伝統的慣習では食堂や屋台店では顧客に「提供する食材の偽物では無いことや鮮度がよいこと」を示すために店頭に肉や野菜を陳列して居る)のを時々見掛けたことがある。但し残念だが、私は機を失して此れらの狗肉を口にした経験は無い。

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DISCUSIONkujira

議論と感想

 

文化とは一体何だろう?Wiki に依ると「人間の食事に関係する文化を総称する概念」とある。食材・調理法・食器、食事作法・外食産業などに至るまで多くの物事のあり方が含まれる」とある。続けて紹介すると:−

民族や国家、宗教、風俗によってそれぞれ固有の多様な食文化が存在する一方で、麺類のように交易などを通じて文化圏を越えて食文化が伝播する場合もある。ヨーロッパの近世史では、地理上の発見や植民地戦争が、食材や香辛料などの面でその食文化に大きな影響を与えた。

日本においても、明治維新に伴う文明開化や、太平洋戦争中の食糧不足、連合国軍最高司令官総司令部の占領下の日本での食糧援助、高度経済成長などにより食文化が急速に変化している。(中略)。宗教教義や生活環境の違いなどによる食の Taboo (禁忌)や、食事の頻度、摂取する時間、等々も食文化の要素の一つである。(中略)。征服支配、経済成長などの要因によって時代とともに変化する。[紹介文の終わり]。

昨今のシー・シェパードの無茶苦茶な「反捕鯨活動」のニュースに刺激されて、この項を書き始めたが、色々と調べている内に凡庸な私ですら「食べ物」と「その食べ物を食べることに対する禁止・禁忌や、「その食べ物を食用にすることに反対する運動」は大昔から世界中に存在して居たこと」を知って驚いた。鯨肉食も嘗ては世界各地に普遍的に存在して居たことも驚きであった。まさに食文化は時代と共に大きく変化して居る。


餃子は中国のものと思っていたが、食文化の専門家によると「中東」が元祖で東方に伝わり中国に定着し、中でも「焼餃子」(中国で云う「鍋貼儿」)は、現在では「一人当たり消費量」は日本の方が中国より多いと云う。また、歴史的に見て「生もの」は先ず殆ど口にしないと思われて来た中国で最近は一部の富裕層ではあるが、「刺身」や寿司を食べる人々が増えていると聞く。

朝鮮半島の「キムチ」なども、今では日本の食卓では定着した食べ物となって居る。僅か半世紀の間に急速な変化が起こって居る。ラーメンもそうだ。「にんにく」(大蒜)も戦前は土佐の「鰹のたたき」ぐらいで、一般には臭いが臭いと云って嫌悪する日本人が多かったが、昨今では臭いの強い「生の擂り下ろし」も普通になって居る。

食習慣というものは、各民族で固有のものを持って居ることはその通りだが、生活環境の推移に伴って変化し、場合によっては急速に変化するようだ。また、最近では世界的傾向として各国の食生活がグローバル化に向かって進行しているようにも思える。

余談だが、国際機関に私が勤務していた時、外部に公開する文書の点検修正を任務とする英国と米国の二人の婦人職員が居た。元は国連機関の文書課で仕事をして居た OG で初老の英国婦人とは仕事の上で毎日顔を合わせて居たが、家では「猫」を20匹も飼っていた。或る時切っ掛けは忘れたが雑談が中国人の狗(犬)肉食に及んだ。

彼女は「鳥肌が立った時」のように身を震わせ、2時間ばかり私との論争となった。「動物愛護精神の欠如」とばかり狗(犬)肉を非難した。タイ国王から称号を貰った程の真面目な彼女の此の時の啻ならぬ剣幕に驚いたが、笑顔で私は以下のように反論した。

欧米人の多くは牛を屠殺して牛肉を食べるが、宗教的理由で牛を神聖視するインド人は「欧米人は何と罰当たり的行為を平然とする人達だろうか?」と内心思っているかも知れない。話は世界の食文化の様々な問題にまで及んだが、「中国では愛玩犬として「狆」を育てたし、食用としての犬を二千年前から養っている。食用牛の牧畜と同じだ」。牛なら「善」で犬なら「悪」だろうか?

「結局は食文化の相違」であり、最後に彼女は自説を捨て、私の説に合意した。

HANHOGEI

反捕鯨活動問題を巡って

 

Web 上に時事通信の以下の記事を読んだ。:−

IWC (国際捕鯨委員会)は議長案として海域ごとの捕獲数に上限を定め、日本の沿岸捕鯨再開を容認するとしている。IWC 22日、こう着状態となっている議論の打開に向け、10年間にわたり海域ごとの毎年の上限を設定して全体の捕鯨頭数を削減する新しい議長提案を公表した。

調査捕鯨を停止する一方、日本が求めている沿岸小型捕鯨の再開を容認する内容。324日に米フロリダで開催されるサポート会合での議論のたたき台とし、6月の総会で合意を目指す。ただ反捕鯨国の反発は必至で、交渉は難航が予想される。

同提案は、2020年までの暫定措置として、議長が作成。これまでの商業捕鯨や日本の調査捕鯨、グリーンランドの先住民捕鯨などを一括してIWC管理下に置き、全体の捕鯨頭数の削減を図る。

具体的には、南半球のザトウクジラ、北太平洋のミンククジラ、北極海のホッキョククジラなど、海域・種別ごとに20年までの年間捕鯨頭数の上限を設定。「日本東沿岸域のミンククジラ」の項目が含まれており、日本の沿岸捕鯨再開を事実上認める格好となっている。

ただ、全体の捕鯨頭数は「現状から大幅に削減」としており、日本の捕鯨頭数は実質削減される可能性がある。上限頭数は今後の交渉の中で詰め、5年目に再検証する。(2010年2月23日、時事通信)。


同じく Web 上に次の記事を見付けた。『マグロの国際商取引禁止や商業捕鯨禁止は、漁場の近傍に位置する国々による(排他的経済水域の外側の海域での?)、漁業資源の囲い込みではないかと思う。シー・シェパードなどはその手先として利用されているのだろう。

中国や韓国はアフリカで農地を取得し食料生産に励んでいるという。我々も将来の食料危機に備え(世界人口は確実に増えて行く)、断固捕鯨を続けノウハウを維持すべきである。

カナダはBBCの「世界に良い影響を与えている国」調査では、日本と共にいつも上位にランクインしている。そのカナダはIWCを脱退した。もし日本もIWCを脱退すればIWCがむしろ「悪の枢軸」になるだろう。

日本はいい加減IWCを脱退すべきだ。(もし脱退しにくい事情があるのなら、どなたかご教示下さい)(春)』(頂門の一針、1862号のBLOG版2010/03/26)。


じ水産資源学を専攻した私だが、私は底棲魚類、鯨は水棲哺乳類であり、鯨の資源問題には素人に近い。鯨類研究所などで時々話を聞く程度である。しかし、純科学的に資源を論ずる場合には、種ごと、生息域ごとにデータを取り、資源模型(仮説)を立て、それらに基づいて解析しなければならない点では同じである。

衆知のように、IWC (国際捕鯨委員会)は19488年に発効した国際捕鯨取締条約(ICRW)に基づき設立され、事務局は英国のケンブリッジ。科学・技術・財政運営の3つの小委員会を持つが、重要な決定は年1回開催される総会で行う。当初は、各国の捕鯨枠を決める「捕鯨国のサロン」だったが、60年代から動物愛護の思想が浸透して反捕鯨運動が活発化。現在では日本を中心とする捕鯨支持国と、欧米を中心とする反捕鯨国が政治的に鋭く対立する場になっている。

換言すると、1950年〜1960年代のIWC は科学的根拠でなく捕鯨産業界の意向に沿う形で捕獲限度を決めて来た。

しかし、鯨資源の減少が疑いようのないものとなったため、60年代から科学者を参加させて水産資源学の分析手法を導入し、国別捕獲枠や減少鯨種の捕鯨禁止措置を実施するようになった。その結果、イギリスなど鯨油目的の捕鯨国は採算が合わなくなり捕鯨業界から撤退。その後、委員会は米英など反捕鯨国と捕鯨容認国の争いの場になって了って居るのが実情である。

82年には商業捕鯨一時停止(モラトリアム)が決議されたが、日本はミンククジラを中心に調査捕鯨を89年以降継続し、海洋生態系バランスを維持しながら科学的根拠に基づく「持続的捕鯨」を目指している。なお、2006年6月現在の加盟国は70ヶ国である。

幾つかの鯨の種では科学的調査結果から「持続的捕鯨が可能との見解が各国の科学者間では一致している」と聞くが、最も重要な科学的見解がそうであろうとも、現実の会議では依然として感情論が根強く幅を効かせている。

問題はそう簡単ではない。例えば、観光資源としてニホンザルに餌付けをして「可愛い猿に餌をあげましょう」などと云っている内は結構だが、猿が増えすぎて農家が栽培している作物を食い荒らし・・・天然記念物に指定された処の農家では「殺傷して駆除することも出来ずに困っている」という矛盾に弱っているのと似ている。

Asahi.com に次の記事があった。抜粋引用する。

鯨は高等な動物だから殺すのはかわいそうだという感情論や、じゃあ牛や豚はかわいそうじゃないのかというこれまた感情論がまじり込み、いささか滑稽なことになっている。

日本は頑固な捕鯨国として知られ、今回も激しい非難を浴びた。日本が商業捕鯨再開を主張する根拠の一つは、鯨を捕って食べるのは日本の文化だから、というもの。ガイジンの価値観で、オレたちの食文化にいちゃもんをつけるな、というところか。

だが、本当に捕鯨と鯨肉食は日本人の伝統的な文化なのだろうか。日本人はいつごろから鯨を食べるようになったのだろうか。渡邊洋之『捕鯨問題の歴史社会学』は、この問題を研究した学術論文である。

結論からいうと、捕鯨も鯨肉食も近代になって普及したものだ。明治になって爆薬を装填したモリを打ちこむノルウェー式捕鯨が導入され、捕鯨会社がいくつかできた。ただし、砲手はノルウェー人、作業員の多くは朝鮮人。これによって捕鯨が盛んになり、鯨肉も一般に食べられるようになった。それまでは網による捕鯨が一部の沿岸で行われていただけ。

捕鯨に対する感情はさまざまだったようだ。たしかに鯨を捕って食べる地方もあったけれども、鯨を神様に見立てて捕鯨をタブー視する地方もあった。

明治時代には捕鯨に反対する動きが各地であった。本書には青森県で起きた捕鯨会社事業場の焼き打ち事件が紹介されている。死者・重軽傷者まで出したというから大事件だ。誰もが鯨肉を喜んで食べていたわけではない。伝統だの文化だのというのは案外こんなものなのである。(捕鯨問題の歴史社会学 渡邊洋之[著] 永江朗の書評 Asahi.com Bookより一部頻用)

視点が異なると此の様な見方もある。問題の社会的価値観も中々複雑である。

 

KUNIKUsyou

狗(犬)肉食を巡って

 

述のように狗(犬)肉を食べる習慣は中国や日本を始め、昔は世界の多くの国々に見られたようである。近世以降になって「愛玩犬」が次第にもて囃されるようになり、取り分け英国などの欧米諸国では犬や猫のペット(愛玩)は常識となった。

欧米の先進国の動物愛護に逆行する狗(犬)肉は野蛮な慣習として、中国などではこれを取り締まる規制が実施されるようになった。それらを列挙してみる:−

  • 中国国内では犬肉、猫肉への反対運動が起こり、犬・猫を食べない人や、ベジタリアンが増えてきています。中国関連ニュースからでもそれが伺いしれます。

  • 中国で犬肉・猫肉の食用禁止へ―動物虐待禁止法案に盛り込む  2010.1.26 サーチナ

  • 重慶晩報によると、中国で起草が進められている反虐待動物法案(動物虐待禁止法案)が、犬と猫を食べることを禁止する条文を盛り込むことが分かった。犬・猫肉の販売も禁止される方向だ。

  • 活き猫水煮中止を!5000匹の動物虐待食に反対運動  2008.12.19 中国ニュース通信社

  • 2008年12月19日、北京晩報によると、5000匹の猫が江蘇省南京市から広東省広州市に送られ「活き猫の水煮」にされてしまうと同紙が16日に報じたところ、18日、北京市に住む猫愛好家50人が広東省駐北京事務所へ集まり、真摯に対応するよう求めた。
    ・食用猫 1000匹を守れ!愛護団体と業者のにらみ合い続く―浙江省嘉興市  2008.8.29 中国ニュース通信社

  • 嘉興市の物流センターで1000匹の猫を積んだトラックが、動物愛護団体「中国小動物保護協会」のスタッフによって広東行きを阻止されていた。近くでは警察官も見守っている。

  • 看板メニューは「活き猫の水煮」、悲鳴がこだまする広東の名物料理 - 客は寄り付かない  2008.3.26 中国ニュース通信社

  • 生きた猫をそのまま熱湯で煮込むその名も「水煮活猫」という広東の名物料理を出すレストランが、湖南省にお目見えした。だが厨房から聞こえてくる猫の悲鳴に恐れをなし、客はほとんど寄り付かないという。

  • 犬猫食はモラル違反!市民ボランティアが訴え―陝西省西安市  2008.1.27 中国ニュース通信社

  • 陝西省西安市では動物保護ボランティアの市民たちが雪の舞う中、犬猫の食用禁止を訴えるイベントを行った。動物に扮した市民が自ら檻に閉じ込められ、動物虐待防止を訴えた 。

  • 中国吉林省長春市 犬猫食根絶を訴えパフォーマンス  2007.9.29  中国ニュース通信社

  • 「ペット保護サイト(CCAPN)」と「アジア動物 保護基金会」が犬猫肉根絶を訴える動物愛護活動を共同で行った。パフォーマンスのほか、無料で市民に動物愛護の資料が 配布された。

此れらは犬猫ペット愛好家の「書き込み」のほんの一端である。中国のネット上に氾濫する此れら「狗肉食を止めよ」の文句がある反面、狗肉の販売、菜館(食堂)や屋台店には狗肉のメニューが在り、平然と営業が行われているらしい。

繰り返しになるが、何故、牛肉や豚肉は「是」で、狗肉(犬肉)は「非」なのだろう? 私も犬を可愛がる人々が感情的に「犬を食べるなんて、飛んでも無い」と思う気持ちは分かる。私も私の家族もシェパードや秋田犬を飼っていた経験がある。敢えて犬食を奨励しようとは思わない。しかし、それは現環境下の話で、長い歴史的なスパンで冷静に考えれば是非を論ずる問題では無さそうだ。

鯨肉食と同じで、是非の問題では無い。

 

VietNamuDOG

ベトナムの狗肉食

NHKのラヂオ深夜便(2010年8月)で、ハノイ在住の邦人女性から「ベトナムの狗肉食」に就いて面白い話を聞いた。ベトナムでは狗肉が最高の食材で、盆や正月と云った祝日だけ、言わば年に一回か二回だけ口にすることが出来るのだそうだ。

それらは総て「野犬」で食用として飼育されたものは無いという。狗肉料理が最高というのには驚いた。イギリス人が聴いたら仰天するだろう。狗肉食を蔑視するのは、犬をペットとして可愛がるイギリスを始めとする欧米文化で、オリンピックや万博で中国が規制をし始めたのは彼等欧米人から蔑視されるのを恐れたからだと思われる。

 

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NAMAZU

ナマズにみる象徴表現

-古代エジプト文明と現代アフリカの種族を例として-

[寄稿]

2010/03/28

萩生田 憲昭

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「生き物文化誌学会」で活躍されて居る「萩生田(はぎうだ)憲昭」さんは「世界のナマズ(鯰)に関する多方面に亘る研究をされて居る。水産生物学を専攻した私は寡聞にして此の様な学会の存在を迂闊というか、この歳になるまで知らなかった。

私のホームページのTOPページの画像(アンコールワット遺跡にある魚のレリーフ、BAS-RELIEFS of FISH in ANGKOR WAT by Tyson R. Roberts )の記事を読まれてメールを頂いたのが奇縁となり面識を得た。以下は同氏の寄稿文である。実に好奇心を満たされる論文である。(真道 記)。


ナマズにみる象徴表現

-古代エジプト文明と現代アフリカの種族を例として-

萩生田 憲昭

2010/03/28

 

人は身近に存在する特定の魚類の習性や形態を観察し認識することで、国や地域の文化を象徴する表現として、その魚類をみることがある。例えば、日本では地震の前にはナマズが敏感な反応を示すことから、ナマズが「地震を予知する魚」として、知られている。それは、「鯰が水中成分の変化、水流の変化、水面下の物音や電気放射のような幾多の物理現象を触鬚や体側の鋭敏きわまりない神経細胞組織で知覚している」(1)と考えられているからである。では、日本以外ではナマズをどのような象徴表現としてみているのであろうか。

そこで、小論では、ナマズが特異な地位を占めている古代エジプト文明と現代アフリカの種族を取り上げて、その一端を垣間見ることにしよう。まず、古代エジプトではナマズが王名の一部に、また文学作品や宗教テキスト等にも記されていることを明らかにしたい。次に、現代アフリカの種族の中には、ナマズが神話的な役割を演じたり、妊娠や出産を促す儀礼に用いられたりすること等を提示したい。

古代エジプト文明にみるナマズの象徴表現

紀元前3000年頃、上・下エジプトの統一がナルメル王により成し遂げられ、その最初の統一国家出現を示唆する記念的奉納用の化粧版が「ナルメル王のパレット」である。このパレットの表側の第1段には、セレクと呼ばれる王宮の正面を表す矩形の枠が描かれている。この枠内にナルメル王の名前を示すナマズ(古代エジプト語で「ナル」)と鑿(古代エジプト語で「メル」)の象形文字が刻まれている。

ここに描かれるナマズ[図1参照](2)は現在のナイル河に棲息するヒレナマズ科Clarias anguillaris (3)或いは Heterobranchus bidorsalis(4)又はHeterobranchus longifilis(5)3種のいずれかに同定できると言われている。

図1、ナルメル王パレットの表側第1段に描かれているナマズ

では、この3種を比較してみよう。Clarias anguillaris は、触鬚4対、体長約75cm。脂ビレがなく、長い背ビレが存在し、ナイル河全域に棲息している。一方、Heterobranchus bidorsalis は、触鬚4対、体長約77p。長い背ビレと短い脂ビレがある。棲息地はエジプトでは珍しく、スーダンのハルツーム以北の白ナイル河である。また、Heterobranchus longifilis は、触鬚4対、体長約72p。短い背ビレと長い脂ビレがある。棲息地は上エジプトのルクソールからハルツームである。

このパレットに描かれているナマズは、長い背ビレと短い脂ビレがあることから、ヒレから推測すると、Heterobranchus bidorsalis に同定できるかもしれない。一方棲息地から推測すると、Heterobranchus longifilis の棲息地が、特にルクソールと言われており、ナルメル王が上エジプト出身の王であることと関連付ければ、この魚に同定できるかもしれない。

しかし現在ナイル河に棲息する上記の2種類のナマズの触鬚はいずれも4対つまり8本であるが、パレットに描かれたナマズの触鬚は第1段目では10本、第2段目は9本、裏側の第1段目は6本であり、触鬚が全く異なる。さらにナルメル王から約600年後の第5王朝ティのマスタバ及び第6王朝メレルカのマスタバの壁画に描かれた魚は、現在の魚と識別し同定できると言われるが、パレットに描かれたこの Heterobranchus 属は、不思議なことにこれらの壁画には描かれていない(6)。それは神なる王の名前として用いた魚を他の魚と安易に同列に描くことができなかったのであろうか。つまり、この神聖な魚は、現時点では同定でき得る資料が唯一このパレットであり、また壁画に全く描かれていないことと合わせれば、これ以上の同定作業は困難である。

では、なぜヒレナマズ科のナマズを王名の一部に取り入れたのであろうか。それは、次に記すナマズの神秘的で不可解な習性や形態等に対する畏怖と盲従により生じたのであると推察したい(7)。@鰓の上部に空気呼吸のできる特殊な器官を発達させていることから、乾いた大地でもヒレを利用して身をくねらせながら歩行移動できる。A体型は扁平で、表面は鱗がなくヌルヌルしており、頭部がカブトのように頑丈な骨板で覆われている。B産卵の時期と豊かな実りが約束されるナイル河の増水時期とが一致する。C同類のナマズでも飲み込んでしまう程気質は非常に荒く貪食である。

ところで、先に述べたティ及びメレルカのマスタバには神話的世界を暗示させる「牧人の歌」が描かれている(8)が、そこにはナマズが次のように現れる。「西方の神よ。牧人はどこにいるのか。牧人は魚と共に水の中にいる。牧人はナマズと話をする。牧人はオクシリンコス魚に挨拶をする。牧人はどこにいるのか。西方の牧人よ。」西方つまり冥界にいる牧人と話す魚になぜナマズが選ばれたのであろうか。

それはナマズが夜行性かつ濁った水を好む底棲魚であること、言い変えれば暗黒の世界に住む魚と考えられ、冥界の牧人と話す魚にナマズが選ばれたのではないだろうか。ちなみにこのナマズをClarias anguillaris に同定する学者がいる(9)。新王国時代(紀元前約1550〜1069年)になると、宗教テキスト「洞窟の書」と「アムドゥアト」にナマズが現れる。まず「洞窟の書」とは太陽神が生命の担い手として、また暗黒領域における光として、下界の12の洞窟を旅する内容である。ナマズが描かれるのは第2および第3洞窟である(10)。第2洞窟の上段では、頭部がナマズ型をした神2対2組と頭部がトガリネズミ型をした神4対4組が棺に入って描かれている。添え書きによると、ナマズは冥界の王オシリスの顕現となったとされる。第3洞窟では、頭部がナマズ型をした7神が聖なる大きな蛇の胎内に居る神々となっている[図2参照](11)。

図2「洞窟の書」の第3洞窟に描かれている頭部がナマズ型をした7神

この7柱の神々であるナマズは7つの頸椎を表すのではないかとみなす学者がいる(12)。興味深いことには、この7柱の神々にはそれぞれ名称が「オシリス」「アディ(アジュ)」「ケセシィ」「イフェフィ」「レミィ」「セニィ」「メへヒィ」と添えられている。この「イフェフィ」がもう一度現れるのが「アムドゥアト」の第8時の場面である。「アムドゥアト」とは太陽神がケプリとして再生するために、12時間を経る地下世界を旅する内容である。この第8時の上段に特徴的な長い触鬚をもつ頭部がナマズ型をした「イフェフィ」と称する神が腰掛けている。E.ホルヌンクによると、「この『イフェフィ』は『ナル』に対する代用の名前として使われている名称である」とする(13)。

さらにラムセス3世の墓や4世の石棺等には、前述した頭部がナマズ型をした「ケセシィ」「イフェフィ」を含む4柱の神々の図柄が描かれている(14)。この神々は夜間の航行において太陽円盤を象徴する球を綱で引っ張る大地の神アケルを助けているのである(15)。要するに、宗教テキストでは神聖なるナマズは冥界を夜間航行する太陽神を道案内する役割を担っているのである。

超自然界を背景にする新王国時代の作品の「二人兄弟の物語」では、神であるバータの性器をナマズが飲み込んでしまうことが記されている(16)。性器を飲むということは、生命誕生を阻止する役割をナマズが担っていると見たい。また、同時代のパピルスにナマズが「夢判断」に用いられている(17)。「身を開いたナマズを食べている夢を見る場合、『凶』を意味し、それはクロコダイルに襲われるということを暗示している」と言われている。さらに神聖化された Clarias 属はミイラ化されている(18)が、特に医学文書「エーベルス・パピルス」の中には、Clarias anguillaris の平衡感覚に関係がある耳石が挙げられている(19)。

またナマズの頭骨が民間信仰による霊的交感による治療薬として偏頭痛に処方されていることである(20)。そして下エジプト第15州ではナマズを忌み嫌っていた(21)が、一方下エジプト第18州ブバスティス神殿の聖なる池では、ローマ時代(紀元後1世紀頃)までナマズが飼われていたことが伝わっている(22)のである。

現代アフリカの種族

まず、壮大かつ精緻な神話体系をもつと言われるドゴン族から見ていくことにしよう。マリに住むドゴン族の創世神話による(23)と、創造神アンマは、最初の生ある存在であるノンモ・アナゴンナと呼ばれるナマズを創った。神話的な役割を演じるこの魚に見立てているのがニジェール河に棲息するヒレナマズ科の Clarias senegalensis である。ナマズはドゴン族では胎児の象徴でもある(24)。それは水の中にいるナマズの状態が羊水の中で体を曲げている胎児の様子に似ていると信じられているからである。

さらにナマズには鱗がなく人間と同様すべすべしており、ナマズが口から空気を吐き出す時に音を発することや付帯する呼吸器官によって水の外でしばらく生きることができること等ナマズの習性が人間になぞらえているのである。そのことが、ドゴン族の先行儀礼の一つである結婚式と婚姻の給付にもナマズが関連することになる(25)。つまり娘が初潮を迎えると、男は胎児の象徴であるナマズ2匹と子宮の象徴であるヒョウタンを娘の母親に贈る。娘は贈られた2匹のナマズを頭からまるごと食べなければならないし、それによって彼女の胎内で「ただちに胎児が形成される」と信じられている。しかし彼女が、なかなか妊娠しない場合には、腹にじかにナマズの背骨をあらわす傷痕を「生殖を容易にするために」つけられるという。また死の儀礼にもナマズが関連することも興味深い。なお、ナイジェリアのティヴ族も出産を促すために女性の腹部に「ナマズ」を象徴する傷痕を行うと言われるが、近年の研究では傷痕はさらに深い宗教的意味をもっていると見られている。

次に、ドコン族と歴史的文化的にも深い関係があるマリンケ族やバンバラ族等マンデ系民族は、神話的な役割を、ニジェール川に棲息する Heterobranchus bidorsalis Clarias senegalensis という魚に与えている。創世神話によると、水の精霊ファロの化身である2つの魚、つまりマンノゴ・ブレとマンノゴ・フィが天から降りてきたという。このマンノゴ・ブレが Heterobranchus bidorsalis であり、ファロ自身を代表し、地上や水中でファロと人類の仲介者となったことから、この魚が人々にとって禁忌とされるのである。一方マンノゴ・フィが Clarias senegalensis であり、ファロの息子である人間の原型になる(27)。

なお、この Heterobranchus bidorsalis に関して興味深い伝承がある。それは今日、ソモノ族とボゾ族によって厳しく尊守される近親婚の禁止は、本来、捕まえても食べてもいけないこの魚に関しての禁制をボゾ族の先祖たちが破ったという伝え(28)からである。このボゾ族は、丸木舟の縁にポルヨ(Polyo)と言われる記号をバンバラ族に知らせるために3つ描いている。ポルヨはHeterobranchus bidorsalis 及び longifilis を示唆し、バンバラ族の一親族集団であるコウリバリ族(koulibali)は、この2種類の魚を禁忌としている(29)。

さらにドゴン族とそれ程遠くない地域に住むグルマンチュ族は、ドゴン族同様に人間の胎児をナマズになぞられる(30)。というのは、ナマズも胎児もともに水の中で成長するからである。つまりナマズは湿地の水、胎児は羊水の中でである。それ故、ナマズが女性の胎内に入るとすぐに胎児に変わると信じられている。特にこの部族は、Clarias anguillaris に対して強い関心をもっている。それは、この魚が水の外ででもしばらく生きることができ、鱗がなく滑らかな表面が人間の体を連想するからだ(31)という。

ザイール(現コンゴ民主共和国)のンガンドゥ族は、Heterobranchus longifilis を幼児に対する、及び乳幼児を持つ両親に対する食物規制の対象としている(32)。同じザイールのソンゴーラ族エニャ支族は、Heterobranchus longifilis を4つの生長段階に分ける“出世魚”と見ている(33)。また、エチオピアのコエグ族も5段階に分ける出世魚として、Clarias gariepinus を見なしている(34)。

なお、14世紀〜19世紀末に栄えたベニン王国(現ナイジェリア共和国)で作られた装飾板にナマズが描かれているのが少なくない。その一つに外側に曲がった足が2匹のナマズで表されているいわゆる「魚足王オバ・オヘンの青銅製装飾版」がある(35)。ベニンの伝承によると、ナマズは川の神オロクンの平和・繁栄・多産の象徴でもあり、神オバの領域である陸地と神オロクンの領域である水中との間を行き来する生き物であるとされる。ちなみにこのナマズを何種類かのナマズ類に同定することが試行されている。その中で clarias anguillaris を挙げているが、その理由は、この魚が特殊な呼吸器官を備えているため水から出て陸上でもしばらく生きることができる異常な力を所有するからだ(36)とする。

以上、古代エジプト文明と現代アフリカの種族が、ナマズをどのように見てきたのか探ってみた。古代エジプトでは、ナマズが神聖な魚であるからこそ禁忌にもなる。また、生命誕生を阻止する一方、太陽神の復活を手助けするという両義性も持ち合わせているのである。現代アフリカの種族でも、ナマズが神聖な魚であるとともに禁忌にもなる。また人間の胎児の象徴でもある。上記の通り、現時点で調べた限りにおいては、アフリカ全域には数多くのナマズ類が棲息しているが、その中でもヒレナマズ科が特異な地位を占めていることがわかる。では、なぜこのヒレナマズ科が、そのようにみられてきたのか。それはこの魚が魚類にもかかわらず、陸上でも短時間なら生き長らえることができる神秘的な魚であるため、古代エジプト及び現代アフリカの種族にとって、王名・文学作品・宗教テキスト・創世神話・儀式等に用いる特別な存在であったからだと見なしたい。

[付記]以下の方々に対しては、私の質問に関して親切にもご回答を頂き、記して感謝いたします(敬称略)。小島瓔禮(琉球大学)、小早川みどり(九州大学)、小山茂雄、坂井信三(南山大学)、佐藤哲(南伊豆海洋生態ラボラトリ−)、立入健、周達生(国立民族学博物館)、竹沢尚一郎(国立民族学博物館)、松田凡(京都文教大学)、村井久之(さいたま水族館)、山岡耕作(高知大学)。


注 記

 

(1) C.アウエハント、小松和彦・中沢新一・飯島吉晴・古家信平訳1989『鯰絵』せりか書房,96頁。
(2)
Brewer,D.J and Friedman,R.F. 1989 Fish and Fishing in Ancient Egypt, Aris&Phillips,p.63,fig.3.21. (3) Kees,H. 1977 Der Gotterglaube im alten Agypten,
Akademie-Verlag Berlin,S.68-69.
(
4) Gamer-Wallert,I.1970 Fische und Fischkulte im alten Agypten,Wiesbaden , S.9-11.
(
5) Gaillard,C.1923 Recherches sur les poissons representes dans quelques tombeaux egyptiens de lAncient empire, MIFAO 51,Kairo,pp.57-60.
(
6)Gamer-Wallert,I.op.cit.,S.140,Tafel.I,U.
(
7)Brewer,D.J and Friedman,R.F. op.cit.,pp.60-63;Boulenger,G.A.1965 The Fishers of the Nile.in AndersonZoology of Egypt.Neudruck,pp.278-305.Burgess,W.E.1989 An Atlas of freshwater and
Marine Catfishes, T.F.H.publications,pp.135-142.
(
8)Altenmuller,H.1973Bemerkungen zum Hirtenlied des Alten Reiches,”Chronique dEgypte 48,S.211-231;Hollis,S.T.1978On the Nature of Bata, the Hero of the papyrus dOrbineyChronique dEgypte 59,pp.248-257.
(
9)Handoussa,T. 1988 Fish offering in the Old Kingdom,Mitteilungen des Deutschen Archaologischen Instituts f?r agyptische Altertumskunde in kairo 44,S.108,n.18.
(10) G.ハート、阿野令子訳1994『エジプトの神話』丸善、110頁;
Piankoff,A.1954 The tomb of Ramesses Y,New York,pp.55-76.
(11) Piankoff,A. op.cit.,p.68, Fig.12.
(12) Barguet,P.Le livre des Cavernes et la re-constitution du corps divin,Revue degypte
28,p.27.
(13) G.ハート、前掲書、102頁;Hornung,E.1963 Das Amduat,Wiesbaden,vol.1.S.145.
(14)
Capart,J.1939Cultes del KAB et Prehistoire,Chronique dEgypte,14.pp.213-217.
(15) Gamer-Wallert,I.op.cit.,S.116,n.321,117.
(16) Hollis,S.T.1990 The Ancient Egyptian Tale of Two Brothers,University of Oklahoma press,
 pp.103-105.
(
17) ibid.,pp.111-112.
(
18) Gamer-Wallert,I.op.cit.,S.119. (19)Dawson,W.R.1932 Studies in the Egyptian medical Texts,The Journal of Egyptian Archaeology 18,p.150.
(
20) Gamer-Wallert,I.1986Wels,Lexikon der agyptologie Y,Wiesbaden, S.1210.
(
21) Montet,P.1950Le Fruit Defendu,kemi 11, p.99.
(
22) Kees,H.op.cit.,S.69.
(23) M.グリオール&G.ディテルラン、坂井信三訳 1986『青い狐』せりか書房、44,107,138頁。
(24)
Calame-Griaule,G.1965Ethnologie et langage, Paris,Gallimard,pp.95-96.
(25) 竹沢尚一郎1987『象徴と権力―儀礼の一般論理』 勁草書房、114,120,124-125頁。
;Griaule,M.1955Role du silure clarias senegalensis dans la Procreation au Soudan fancais,Afrikanistiche Studien 26,pp.301,303,308 ;Dieterlen,G.1973 limage du corps et les composantes de la personne chez les Dogon,La notion de personne en Afrique Noire, Ed.du CNRS, pp.227,229.
(26) 和田正平1982 「黒いアフリカの皮膚装飾−傷痕刺青 ボディ・ペインティング−」『化粧文化』6号、23-24頁。;
Bohannan,P.1956 Beauty and scarification Amongst The Tiv,Man.no.129, p.120.
(27) 阿部年晴1994 『アフリカの創世神話』紀伊國屋書店、pp.197-200頁。
Dieterlen,G.1957The Mande Creation Myth,Africavol27p.126,n.3.
(28)
Dieterlen,G. op.cit.,p.135.
(29)
Griaule,M et Dieterlen,G.1949Lagriculture rituelle des Bozo,Journal de la Societe des africanistes 19,pp.212-213,n.2.
(30)
Cartry,M.1979 Du village a la brousse ou le retour de la question. A propos des gourmantche du Gobnangou Haute-Volta)”,in La Fonction symbolique.Essais danthropologie reunis par Michel Izard et Pierre Smith, p.270.
(31)
Cartry,M.1968 La calebasse de lexcision en pays Gourmantche,Journal de la Societe des africanistes 382,pp.189-191,209-213.
(32) 武田淳 1987「熱帯森林部族ンガンドゥの食生態 ―コンゴ・ベーズンにおける焼畑農耕民の食性をめぐる諸活動と食物摂取傾向―」和田正平編集『アフリカ 民族学的傾向』同朋舎、1136-1137頁,付表21。
(33) 安渓遊地1982「ザイール川とタンガニイカ湖漁  撈民の魚類認知の体系」『アフリカ研究』21号,24‐31頁。
(34) 松田凡1991「北東アフリカの大地から川がもたらすゆたかな暮らし」『季刊民族学』58号、18,24頁。
(35) 川田順造1992 『口頭伝承論』河出書房新社、493-495頁。
(36)
Ben-Amos,P and Rubin,A.(eds.) 1983 The Art of Power,The Power of Art: Studies in Benin Iconography,Museum of Cultural HistoryUCLA,Los Angeles,pp.64,89-93.

日本ナイル・エチオピア学会JANESニュースレター、No.12号(2004.10)より転載。

(完)

 

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