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閑 人 妄 語

(その4)

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目 次

 

私の持つ2冊の辞書 (本格的な図解辞書と筆写したj辞書
真実の歴史が解明されるのは (三浦昭夫氏の視点)寄稿
懐かしい歌の数々(その2) (拡張ヘボン式ローマ字併記)寄稿
激辛料理 (中国の麻婆豆腐やタイのトムヤムは昔から「超ピリ辛」だったか?
ゆっくり賞味したいと云う欲望 (背中に貼りついた甘味品)
超インフレ下の紙幣価値 (紙幣はゴミ屑にはならないと云う話)
アナウンサーの発音 (喋り言葉の専門家だけのことはある)
日曜日という日 (♪明日は楽しき日曜日♪、母から習った懐かしの歌)
マニフェストという言葉 (何故「政権公約」という日本語を使わないのか)
三宅康松さんの想い出 (FAO HQs で知り合い、気心の合った知己)
日本の鯨肉食と中国などの狗肉食 (食文化の科学と感情の対立)
絵で読む般若心経 (多年探していた文盲用の般若心経)
亀と鼈の咄 (亀〈カメ〉と瞥〈スッポン〉の雑話
なぜ犬と自転車? (租界時代、上海の江浦公園の立ち入り禁止条項
浦島太郎夫人のお墓 (浦島太郎には奥さんが在った寄稿
怪奇な淡水の食人魚 (北京の北郊に在る湖で捕獲)PDFファイル
奇怪な淡水の食人魚(その2) (追記と閲覧者諸氏からのコメント)
干瓢巻き」と「キノコ(茸)のサンドイッチ (本当のものは実に旨い)

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TWO_Dictionaries

私の持つ2冊の辞書

 

2008/08/28

真道 重明

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のを読み書きしたり古典や外国語の訳読や作文に「辞書は必須の存在」である。海外の国際機関に居たとき知り合った国連職員で今は故人の三宅康松さんは私の知る限り、英語の会話・講義・読み書きの一番の達人だった人だ。

彼は四六時中、Pocket Oxford Dictionary (英英)をポケットに入れて居た。3〜4ヶ月もすると使いすぎるためボロボロになり買い換えていた。特権官僚コースの人だったが戦後早くして国外に出た人である。ボロボロになり捨てられる辞書自身も此処迄愛用されれば本望だったろう。

不勉強で怠惰な私が辞書の話をするのは烏滸がましい限りだが、私は2冊の変わった辞書を持って居る。以下紹介する。知っている人達からは「何だあの辞書か」と笑われるだろうが。

 

ENGLISH DUDEN A Pictorial Dictionary : いわゆる「図解辞書」の世界の定番だと思う。673 pp の図解ページと200余ページの英語とドイツ語の索引からなる可なり分厚い辞書である。(1960年 第2版)。買ったのは約半世紀前の丸善である。

この辞書の存在を知ったのは英国のプリマス臨海実験所に長年居られた大島廣先生が所持しておられた昭和初期に出版された同名の辞書(大型判)を見せられた時である。実に詳しく出来ており、驚嘆した。2年後に長崎の国立の西海区水産研究所に私は転勤した。早速、丸善にこの辞書の購入予約をした。

在り来たりの「絵解き辞典類とは異なり、実に内容が豊富で通常の辞書に挿入されて居る絵とは比較にはなら無い。例えば製本関係の処では「輪転機」、「製本機」、関連する書籍のページの項目の処ではページ面の「余白」、「柱」、「ノンブル」等々が100項目もある。「活字」に関しても数10項目の部品名称が説明してある。上記の「輪転機」、「製本機」でも、各々について、機械の構造と各部品の名称が百数十項目も説明してある。金具や留め金・釘の一つ一つの名称が記載されて居る。

「百科事典にあるではないか」と思われる人もあろうが、目的が「言葉では説明が困難な」場合の事物の各名称を知るための辞書」であるから英文でそれらを書いたり、調べて確認したい必要がある時などには実に便利である。名詞の項目数は4万から5万件に達する。独文の索引もあるから独文にも役立つ。

元々 DUDEN と云うのはドイツの老舗出版社であり、英語版は Oxford と協力して編纂されている。フランス語版・スペイン語版・イタリア語版などの他にポルトガル語版も出ているようだ。いずれも、その国の言葉による索引と共に、巻末にはドイツ語の総索引が付いている。

「暇潰し」にも打って付けの楽しい辞書である。暇なときフト何気なく無作為にページを開いて眺めると、仲々面白い画面に突き当たる。例えば、鉄路の項の駅舎を見ると発車直前の光景が描かれている。赤帽 the red cap、水飲み台 the drinking fountain、画面の右下の隅に物陰で「しばしの別れ」の抱擁し合っている男女が居る。そこで私はニヤリとした。the embrace となって居た。

普通の辞書もそうだが、言葉は時代と共に変化する。特に百科事典やこの種の辞書は技術の進歩で内容を更新する必要がある。原子力・航空機などは変化が著しい。しかし、逆に考えれば「昔はこうだったなー」と懐かしい博物館に行ったような気分にもなる。

最近はこの辞書を手にする機会は滅多にない。性格上、辞書の文字サイズが小さい。一方、加齢のせいで拡大鏡を使用しなければ字が読めない。おまけに思い辞書は書棚から取り出すことも億劫になった。既に一部はそうなっているようだが、音声も聞けるオン・ラインなってしまうのだろう。

 

 

VERDA STELO Mia Kara Vortareto de la Lingvo Esperanto (Esperanto - Japana, Japana - Esperanto), Marto 1947: ペン書きの自作辞書 143 pp.。私にエスペラント語を教えて下さった大島廣先生の辞書をお借りして「エス和」は殆ど完全に、「和エス」は少数の単語を割愛し筆写したもの。世の中にこれ一冊しかしか無い。辞書名のヴェルダ・ステーロ(エスペラントの紋章「緑の星」 の意)は私の勝手な命名。

九大の天草臨海実験所で作成。敗戦直後、書店ではエスペラント辞書は販売して居らず、一般の用紙も仙花紙(くず紙を抄紙機ですきかえして作った粗悪な洋紙)などと称するトイレの「落とし紙」のような粗悪なものしかなかった。幸い良質の紙で作った戦前のセクション・ペーパーが沢山在ったので、それを裁断し作画用の丸ペンを使って細かい字で書いた。

基本辞書以外にも、文法解説書(Gramatiko)、接頭語・接尾語表(Tabelo)と文章論(Sintakso)なども書き写した。大学ノートのサイズの帳面を作って、それに普通のペンでやや大きなポイントの字で書いた。

今から考えると「筆写」など気が遠くなる作業である。しかし、時代は今を去る60余年前の敗戦直後の何も無い時だ。書籍印刷の技術に弱かった江戸時代迄は筆写や写本は日常のことだっただろう。筆写は少しも苦にはならなかった。尤も、他にテレビも未だこの世には無く、ラジオも一台、これと云った娯楽も無く、ただ時間だけあった。

世界語を目指したエスペラント語は第二次世界大戦後スッカリ英語の世界共通語化現象に押されてしまった。また人工語の宿命として、次々に改良された新言語が生まれてくる。仲々制御し難い問題である。

しかし、私はエスペラントを学習したことを「多いに為になった」と思っている。英語しか学習しなかった人がフランス語やスペイン語など他のインド・ヨーロッパ語を学習しようとする際、遠回りのようだが一度数ヶ月エスペラントを学んでから始めた方が「上達が遥かに早い」と云う統計分析があるそうだ。

インド・ヨーロッパ語の基本的な仕組みが分かるからだという。私のいい加減な英語もエスペラントを学んだお蔭で、「英語とはそんなものだったのか」と目から鱗的に痛感した憶えは数え切れない。

 

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SHINJITUnoREKISHI

真実の歴史が解明さ

れるのは百年後か?

 [寄稿]

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筆者紹介

私のホームページを視て時々メールを頂くようになった三浦昭夫氏は戦前の上海で幼少期を過ごされた「老上海」である。頂くメールには子供心に思い出す戦争中の上海の状景が生々しく綴られて居る。

氏は仕事で訪れる米国の資料・文献なども精読され、英国での会議での意見交換などを通じて得られた知見を基に「ミッドウェー海戦」の話を前に頂きこのホームページに載せた。今回は「歴史の不思議」と題した玉稿を此処に掲載した。

 

歴史の不思議

2008/10/18

三浦 昭夫

「ミッドウェー海戦」のことを書きましたが、後年の色々な人の考察や叙述に基づいて、日常業務に役立ちそうなことを列挙しましたが、そこで思いあたったことは、歴史の事実というものが、直後ではわからず、年月を経てからわかってくることが多いということで、これは不思議に思いました。たとえば:−

 

新撰組

 

3−4年前にNHKのドラマで人気を博した「新撰組」、初代局長の一人だった水戸藩出身の新見錦は、幾つもの小説や映画で、近藤、土方の一派に囲まれて平素の乱暴な行跡を責め立てられて切腹させられたということになっていましたが、最近公表された永倉新八(二番隊組長で、剣術師範の一人)の手記などの資料から、彼は水戸藩邸で切腹したということ、また、筆頭局長で希代の剣豪だった芹沢鴨はその数日後に暗殺されたのですが、島原の料亭で隊を挙げての宴会で酔っ払って屯所に帰った後で、副長の土方歳三が大徳利を部屋に持参してさらに飲ませて、寝入ったところへ抜刀した7人が乱入して切ったとのことでした。

こういう話はNHKのドラマに間に合わなかったのかも知れません。明治以降最近まで、屯所の家主と近所の人たちの談話に基づく子母沢寛の「新撰組始末記」のとおりに信じられていたようですが、永倉は隊の幹部でしたから、なお詳しいわけで、個人の手記ですから虚飾は無いと思います。なお、永倉の記述によると、芹沢鴨というのは世間に言われてきたような乱暴者ではなく、かなり立派な人物で、巨魁隊と呼ばれ、その死は「国家的損失」とのことです。私の推察では、芹沢は水戸藩出身でしたので、会津守護職が近藤、土方を呼んで芹沢暗殺を命じたのは、攘夷関連での水戸藩との確執など、政治的な絡みからではないかと思います。

土方歳三は函館戦争で鉄砲の玉にあたって戦死したことになっていましたが、一説によると、生き残って江戸に戻り、お坊さんになって亡き同志や新撰組が手にかけた勤皇方の犠牲者を弔って歩いていたとか。また、坂本竜馬暗殺の下手人、京都見廻組の今井信郎は、行方不明だったのですが、静岡県でキリスト教の牧師さんになっていたとのこと。以上は、事件の直後は不明だったことが100年以上経ってから判明したということになります。

数年前にテレビで「本能寺を焼き討ちにしたのは誰か?」という学校の試験問題に、ある生徒が「それは僕ではありません」と答えたという落語がありました。傑作な答えだと思います。それはそうと最近になって、本能寺の変は、徳川家康が明智光秀を唆して行ったという説と、天皇又は公家衆が光秀に頼んだという説が出ています。また、光秀は土民に竹槍で刺されて横死したのではなく無事逃れて、後年天海僧正になって家康に加担して豊臣を滅ぼしたという説もあるようです。根拠や真偽のほどはわかりませんが、いずれもあり得ると思います。

さて、今回は、ミッドウェー海戦前後の時代、即ち、第二次世界大戦中と終戦直後の、今となっては歴史となった事件を普通の人があまり知らないこと、さらに、これを書いている最中に私が気がついたことも加えて取上げることにします。

 

終戦直後の帝銀事件

 

時が経つとわかってくる」ということから考えると、犯罪で時効になってから事実が判明することもあり、従って、時効の期間が短すぎる、又は、期限を設けるべきではないということにもなるのでしょうか? 1948年の1月でしたが、帝銀事件という殺人事件がありました。東京の池袋の近くの、帝国銀行椎名町支店に強盗が入って、十数人の行員に毒薬を飲ませて殺し、十八万円ぐらい(今の2千万円近く)を盗んで逃げたのでした。すぐ平沢貞道という画家が捕まって、警視庁の辣腕の居木崎刑事に自白させられ、一度は「自白は(強迫による)言葉の綾だった」と言ったのに顧みられず、死刑の判決を受けて監獄入り、1987年に96歳で獄中死しました。逮捕後は取り調べの状況を毎日ラジオと新聞で詳しく報道されていました。

問題は、「アリバイ」*の証明ができないとのことでした。私は小学5年生でしたが、どうも取り調べが強引で不自然としか思えませんでした。平沢さんが何故事件の起きた時刻にどこにいたかをちゃんとしゃべれないのかと、不思議に思ったのです。強圧的な尋問でよほど動転していたのかも知れません。1970年代に、ある人が「真犯人は平沢さんの絵画の仲間で、成城学園で歯科医をしている男である」と突き止めて、しかるべき証拠資料も揃えて警視庁に届けたのでしたが、「時効成立後」ということで、全然相手にされなかったのだそうです。

面倒な仕事が増えるのをいやがったのか、担当刑事の立場を擁護するためだったのか、その双方か、そこはよくわかりませんが、これは私がしかるべき筋から直に聞いたことであり、また、別の筋からも聞こえてきましたので、信憑性は高いです。この歯医者、友人を犯人に仕立て上げて罪をなすりつけ、自分は盗んだお金で裕福に暮らしていて、まったく鬼畜です。(* 「アリバイ」というカタカナ言葉は「現場不在証明」という解説も付いていましたが、この時に新聞やラジオに突然出てきて、それ以来 日本語として定着したのです。)

 

シンガポールでの山下奉文陸軍大将

 

太平洋戦争が始まって間もなく、日本軍はマレー半島からシンガポールを攻めて、イギリス軍との激戦の後に占領しました。その様子は当時のニュース映画でも出ましたが、1942年に「マレー戦記」という記録映画になり、私も5歳でしたが両親と一緒にその映画を見て、かなりよく覚えています。日本軍の自転車部隊や戦車隊がマレー半島の道路を進軍する様子、シンガポールでの大砲の撃ち合い、歩兵の突撃、日本兵が敵の弾に当たって倒れる光景を覚えています。

戦闘の結果、日本軍の山下奉文陸軍大将とイギリス軍のパーシヴァル中将の会談で、山下大将がテーブルを激しく叩いて「Yesか、Noか?」と降伏を迫ったシーンがありました。これは日本中に有名になりましたが、たまたま1990年頃、私が仲間と歓談中に、一人が話してくれたことでは、彼の父君は山下大将の側近で参謀を勤めていた将校で、その会談にも列席しておられたそうで、事実としては、山下大将は大変温厚な方で、その会談の席でもテーブルを叩くようなことは一切せず、終始紳士的で物柔らかに手を軽く上げ下げしながら、犠牲者を必要以上に出させないために降伏を勧告していたのだそうです。

それが何故映画でテーブルを激しく叩いたことになったのかというと、実は日本軍の映写班のフィルムの残りが足りなくなって、仕方なしにスローで回して撮影したのだそうです。それを普通に映写したから激しく叩いていたように映り、また、それが日本国民に「大受け」になったのだそうです。なお、山下大将はアメリカ、イギリスとの戦争開始には反対されていたとのことでしたが、大本営の命令により不本意にも前線の将軍にされてしまったそうです。戦後はフィリッピンでアメリカ軍に出頭して戦犯となりましたが、部下の兵隊の命を少しでも救うために、「責任は兵隊には無い、すべて司令官たる自分にある」と言って、進んで処刑に応じたのだそうです。キリスト様のように思えます。

 

珊瑚海海戦

 

ミッドウェー海戦の1−2ヶ月前に珊瑚海海戦というのがありました。オーストラリアの東方の海で、日本とアメリカの航空母艦を主力とする艦隊による海戦だったのです。日本の報道ではアメリカの正規空母「サラトガ」と「レキシントン」の2隻が沈没で日本側の大勝利となっていました。私はその直後のニュース映画を母と一緒に見ましたが、当時毎月買ってもらっていた「講談社の絵本」にも早速「サラトガ」を沈めたという大きな絵と説明が出ていましたので、よく覚えています。

しかし、戦後わかったことは、「サラトガ」は沈んだのではなくて大破、アメリカ軍はサンディエゴの基地まで曳航して修理して、その後戦線に復帰させたのでした。また、日本の空母が1隻沈没だったので、この海戦は日本の大勝利でなく、「優勢勝ち」だったようです。ニュース映画では、敵の軍艦が沈んだ様子は、船がそのままの形で沈み、平面図の輪郭が海面に残っていましたので、船はあんな具合に沈むのかと、母と一緒に話し合ったのでした。

呑気な話ですが、ごく最近になって、あの沈み方はどうもおかしいと気がついたのです。考えてみましたら、あのニュース映画はどうも特撮だったように思えます。あの頃は映画の技術はアメリカでは天然色ができて、また、アニメも優秀でしたが、日本ではどちらも皆無で、普通の映画はモノクロのみ、しかし、特撮だけは極めて優秀だったのだそうです。

 

フィリッピンでの死の行進

 

1941年末に日本軍はフィリッピン攻略を開始し、翌年5月に大変な激戦の末、アメリカ軍のコレヒドールの要塞を陥落させました。これもニュース映画と絵本で印象に残っていました。1950年に読売新聞で太平洋戦争のシリーズがあり、ある日の記事には「フィリッピンでの死の行進」という大きな見出しが出ていました。日本軍は、8万人近いアメリカ兵を捕虜にして後方の収容所まで護送したのでしたが、ほとんどが長距離の徒歩で大変でしたので、「Death March, 死の行進」と言われました。

アメリカ側からは、「アメリカ兵の捕虜だけが虐待されて死んだり病気になったから、実にひどい」と主張していますが、日本側でも護送する兵隊が大勢死んだり病気になったりで大変だったのです。日本軍にとっても「死の行進」だったのです。(夏の甲子園大会の最中は、阪神タイガースは3週間ほど本拠地で試合が出来ないため、日本中を転々と移動するのを余儀なくされています。これは戦後すぐに、「死の行進」と呼ばれるようになりました。)

1999年の3月に、
HoustonASQの監査部会の大会があって、出かけたのでしたが、私が空港からホテルまで乗ったタクシーの運転手が、「日本人か?それとも韓国人?」ときいてきたので、「日本人だ」と答えましたら、つい数年前に 90 歳ぐらいで他界された彼のお父さんのことを滔々としゃべり出しました。

フィリッピンで日本の捕虜になり, 死の行進で歩いたのだそうです。それが、生前毎度のように「日本の兵隊は極めて親切で優秀だった。世界一だ」と褒めちぎり、感謝していたそうです。どういうことかというと、毎日果て無き道を歩いている間、食料も医薬品も乏しい中で、日本の兵隊は自分達の分は後回しにして、食料も医薬品も捕虜優先にして分けてくれただけでなく、ずっと捕虜に随分親切にしてくれたとのことでした。日本の新聞や雑誌でも読んだことのないことでしたが、これぞ古き良き時代の日本人の心根かと思いました。

 

上海での戦闘

 

私は、上海で生まれて翌1937年に上海事変主体で中国との戦争が始まって、1939年の
初めまで、神戸の母の実家に預けられていました。戦前は毎年 神戸と上海を往復していたのですが、戦時中は日本に帰れず、戦後神戸に引き揚げたのでした。上海では、日本人の主たる居留区域の「虹口(ほんきゅう)」に住んでいました。

街角のあちこちの煉瓦やコンクリートの建物の壁や塀が、機関銃の弾の痕だらけで、まるで「アバタ」のようになっていました。大通りを外れたら、道端に鉄砲の弾や薬莢(やっきょう)がいくらでも落ちていて、また、あちこちの「お砂場」で砂遊びをしていたら、砂や土の中から人骨のカケラがよく出てきたものです。毎度のことなので、なんとも思いませんでした。大激戦の跡だったからと上級生から聞いていました。しかし、日本人の居留民は皆平和で悠々としていました。

学校でも近所でも「日本軍が強くていつも勝っていた」という話しか聞きませんでした。上海は日本陸海軍の一大基地で、周囲どこを見渡しても、陸軍の部隊と、海軍の特別陸戦隊の守備隊の沢山の将兵が警備していて、町の辻々には鉄兜に「剣付き鉄砲」(銃剣)で完全武装の番兵(歩哨)が立っていて、安全でした。1941年のアメリカ・イギリスとの開戦までは、場所によってはイギリス軍の兵隊も一緒に仲良く警備していたそうです。

戦後20年以上経って、会社の上司で元陸軍中尉だったという方から、「上海の戦闘では中国軍が強くて大変だったのだ」と聞かされました。それは私が上海で持っていた認識と違うので、半信半疑でした。最近たまたま手にした本や資料によると、中国軍は人数で優るだけでなく、当時世界一優秀だったチェコスロヴァキア製の機関銃やドイツ製の立派な戦車で装備していて、機関銃は音からして違っていたのだそうです。

日本海軍の軍艦旗の印を付けた戦車が勇ましく戦っている写真を見たことがあるのですが、戦車の性能が敵と大違いだったなどとはついぞ思いつきませんでした。そういう敵に対して、善戦敢闘というより悪戦苦闘の末に追い払ってくれたようです。「チェコスロヴァキア製の機関銃」というのは、1940年に買ってもらった「講談社の絵本」に載っていたので覚えていたのですが、まさか自分に身近なところで日本軍に対して猛威を発揮していたものとは想像すらしませんでした。これも会社の上司から聞いたのですが、メーカーはSkodaという大会社で、今も健在です。

先日30歳代の空手仲間が、ある日一緒にスパーリングをした後で「色々なことを聞きたい」というので何事かと思ったら、その人は学生時代に近代史を専攻していて、「戦時中のことで覚えていることを何でも聞きたい」とのことでした。私の少年時代のことは今や歴史のテーマとなっているのかと気付かされました。「上海にいて、開戦の日も終戦の日もよく覚えている」と言いましたら、なんと、彼のお祖父さんが陸軍の兵隊で、1937年の上海上陸作戦に参加したのだそうです。生前にお話していたことは、「敵は強くて大変だった」とのことでした。生の戦闘に参加した人の証言を初めて聞いて、会社の上司の話に納得したのでした。

数年前に「上海」というビデオを見つけたので買いましたら、当時の戦闘の場面が出ていました。戦闘直後に、荒野に日本軍の戦死者の墓標や卒塔婆が沢山立っていましたが、その中に「支那兵戦死者の墓」という石の墓標もありました。日本兵の分は名札に基づいて、「陸軍軍曹」、「海軍一等水兵」などという階級の後に名前が入っていますが、相手の分は名前もわからないから、こういう表示になったのでしょう。勝っていたからこそ、お墓を作れたのだと思います。なお、上海の中心部は、イギリス、フランス、日本の租界が主体で、日本租界へ中国軍が攻めて来るので、戦闘になりそうな区域の住民(中国人、イギリス人と日本人)を日本の軍隊が安全な収容区域に護送している写真を最近どこかで目にしました。

南京事件

 

1975年頃ですが、私は東日本居合研究会という七、八段の先生方の集まりの事務局の手伝いをしていましたが、そのお蔭で多数の剣道、居合の立派な先生方の直接指導を得られるという余禄にありつけました。塚瀬正平先生という剣道八段、居合道八段、元は陸軍の部隊長で、また、戸山学校の剣道と銃剣術の教官だったという先生に随分とお世話になりました。

ある日、特別に首の切り落とし方を習いました。これは居合の初伝の必須科目で「介錯」の形としてあるのですが、普通は格好だけに終わっています。それが、本当に切る方法を教えて下さったのです。格好だけでしたら簡単なのですが、実際は難しいようです。新撰組の七番隊組長で槍術師範だった谷三十郎が、切腹する隊士の介錯を失敗したために「士道不覚悟」ということで処刑されてしまったという事実もあるのです。

塚瀬先生曰く、「君なら切れるよ」でした。確かに私は五段錬士で、真剣の振り方とスタミナでは相当なものでした。しかし、「こうやって簡単に切った」と仰有ったので、「一体どこでどのくらい切ったのですか?」と伺いましたら、「昭和13年に、南京で毎日切って、合計は何百、数え切れないぐらいだった」とのこと。「何故?」と伺いましたら、「毎日中国側の政府から大勢数珠繋ぎにして連れて来て、"処刑を頼む"というから、最初は一所懸命断ったのだが、"こいつらは極悪人だから是非に" といわれて、仕方なしに切ったのさ」とのことでした。殺人犯、強盗、政治犯などだったのでしょう。南京大虐殺は一方的に日本側による残虐行為のように言われていますが、こういうのがカウントされているのではないかと思います。

二、三年前に8月中旬のNHKの戦争特集テレビ番組で、日本と中国両国の大勢による南京事件の討論会がありました。そこで日本の若い女性が「日本軍が南京占領する前の人口は25万人だったのが、占領後は30万人に増えている。なぜ30万人虐殺したはずなのに逆に5万人も増えたのか?計算が合わないではないか」と堂々と質問していました。とても冴えている女性でした。これには中国側はまともな返事はできす、論点変更で言い逃れしていました。嘘とインチキのかたまりの共産党中国といえども、この攻め方には勝てないようです。日本の外務省や小泉君、麻生君にも、少しは見習ってもらいたいものです。

1939年頃、上海の私の住んでいたアパートに南京攻略の主力だった熊本六師団の将校と兵隊さん達がよく遊びにきていました。隊長は父の親友の義弟だったからで、いつも将校用の立派な革の長靴(「チョーカ」、今の言葉で言うと「ブーツ」)を履いていました。私は3−4才でしたが、よく覚えています。いつも夕食を一緒にして歓談し、ご機嫌で帰って行きました。私の両親は、彼等の戦利品を日本の実家にお送りするというサービスもしていたようです。熊本六師団は虐殺の元凶のように言われていますが、あの兵隊さん達は、とても優しくて、虐殺するタイプにはとても考えられません。また、敵兵のお墓を作ったり、中国人市民を護送したりしながら戦争をしていた日本軍が大虐殺したなどとは、なおのこと考えられません。

南京攻略の最高責任者は、松井石根(いわね)陸軍大将閣下で、南京大虐殺の主犯として東京裁判で1948年12月に絞首刑になりました。松井閣下は、たまたま私の祖父と両親の知人で、とても温厚で立派なお方だったそうです。絞首刑になって新聞に出たときに、母に「あの松井さん?」と聞いたら「そうだ」という返事でした。

閣下は「一般市民に対する暴行は禁止する」という命令を下していたのに、一部の末端では不徹底があったようです。陸海軍の将校の戦後の証言でも「虐殺があった」とのことですが、戦争の最中ですから、必死で撃ち合って、多数の死者を出したことはあり得ます。一般人になりすましたゲリラも沢山いて、危険極まりない状況だったとも考えられます。それを30万人大虐殺とするのは、いかにも「白髪三千丈」の表現としか思えません。命令不徹底ということですと、乱暴で規律を無視する悪い兵隊は、どこの国にもいます。沖縄や横須賀でのアメリカ兵、日本の敗戦後の満州でのロシア兵、あちこちでの中国兵、ひどい人はひどいものです。

上海でガーデンブリッジの近くから、ずっとまっすぐ北方、揚子江(ヤンツー川、長江)岸のウースンまで行く大通りが「松井通」という名称でした。今は四平路(すーぴんろ)と言います。松井閣下の兵団が、ウースンで上陸してから その道路を通って市街地に進軍したから「松井通」になったのだろうと思います。上海を平定してから南京攻略に向かったのでしょう。

私が会社にいたころ、長年一緒に仕事をした取引先の人と親友になっていたのでしたが、彼は陸軍少将の息子さんで、父君から聞いた話を聞かせてくれました。「当時の中国の蒋介石(ちゃん・ちえ・しー)総統と松井閣下とは日本の陸軍大学か士官学校の同期生で親友であり、また、支那事変というのは実は共同で中国共産軍(匪賊)を駆逐するための偽装戦争だった」とのことでした。即ち、戦争をしているように見せかけて、共産軍を挟み撃ちにして駆逐するという企図だったのだそうです。

私の叔父が上海の陸軍部隊にいたので、復員した後に、「敵と戦争をしたことがあるのか?」と聞きましたら、「時々討伐に出かけた」ということでした。日本軍の「討伐」というのは、大平原のあちこちに出没する匪賊(共産ゲリラ)の掃討のことだったようです。なお、台湾では毛沢東(まお・つぉー・とん)のことを「毛匪(まお・ふぇい)」と呼んでいました。実際、日本と中国はお互いに「宣戦布告」をしておらず、あの戦いは「戦争」とは言わず、「上海事変、「支那事変」」と称していました。こういうことも考え合わせると、日本軍が南京政府から処刑を依頼された「極悪人」というのは共産ゲリラだったのかも知れません。その一つの根拠として、南京大虐殺というのは、相当な期間が経ってから中国共産党が騒ぎ出すまではあまり話題になっておらず、人数も時を追うにつれて雪だるま式に増えた感じです。

偽装戦争だったはずのものが、泥沼化して実質的な戦争に変わってしまったようですが、それは最初に企図した「八百長」の筋書きが、どこかで狂って、お互いに齟齬を来たして本物の戦闘になってしまったということも言えると思います。それに油を注いだのは、ドイツが昭和初期の第一次世界大戦で日本に青島(ちんたお)とマーシャル群島、ラバウル方面の領土を取られた腹いせに裏で糸を引いて中国をたきつけたのと、太平洋戦争が始まってからアメリカがB29などの飛行機を四川(スーチュワン)省に沢山送り込んで、日本人がかなり居留していた漢口(はんかお)などの都市を繰り返し無差別爆撃したりしたというのも大きな要因のように考えられます。

私が戦時中に上海にいたときに聞いたほかに、最近もよく耳にしていることですが、中国戦線では、日本軍の兵営の前に毎日中国人の貧しい人たちが列をなして、医薬品の無償支給を受けていたのだそうです。しまいに薬がなくなってしまって、仕方なしに歯磨き粉を与えたのだそうですが、それでも治療効果は大いにあったとのことです。それは医学的に(FDAGMPにもあります)、"Placebo effect" (プラシーボ効果、偽薬効果)といいます。日本兵は別に偽薬効果を狙ったのではなく、仕方なしに与えただけだったはずです。

中国その他、アジア各地で日本軍は悪いことばかりしていたと喧伝されていて、善いことをしたことは無視されているようです。「悪事は一日に千里を走り、好事は家を一歩も出ず」という中国の諺があります。敵兵のお墓を作ったり、医薬品を支給したりしたほかに、1970年前後に日本のテレビで見たことですが、中国南部を転戦していた日本陸軍の光(ひかり)師団の一部隊が、家と両親を失って路頭に迷っている中国人の幼児を保護し、その後、移動に同行して毎日世話をしたのだそうです。戦後復員船に一緒に乗せて日本に連れてきて、適宜交代で養育して、名前も部隊の名前から「光」という姓にして、学校も卒業させ、結婚式にも何十人という復員兵が全員「父親」でとして出ていました。名前は「公明(きみあき)」君だったと思います。中国で戦っていた日本軍の将兵の、こういう美談には私も涙を出しました。私よりやや若い ひかり君 がその後元気でおられることを祈ります。

 

考察と応用

 

事件の直後はわからなかったことが何年も経ってから判明した例が多いのですが、なぜそうなるのかと考えてみましたら、直後だと、あちらでもこちらでも、限られた当事者の見聞と判断だけに限られているのですが、それは一つか二つかの視点から見た断片で、時が経つとあちこちの関係者の記録や資料が集まって、それらを総合すると新しい事実の解明ができるようになるからでしょう。

戦国時代に、戦闘を始める前には斥候又は間者(忍者も含む)を出して敵の兵力や陣形の様子を偵察させるのでしたが、楠木正成は一人の斥候からの報告だけでは動こうとせず、必ず複数の報告を聞いてから判断して動いたのだそうです。歴史が後世になってから詳しくわかるのも、これと同じで複数の断片と視点からのデータを集積すると、精度が高くなって判断にも分析にもなお役に立つようになる ということです。何事にでも、違う角度からの観察又は違う方法での取り組みというのも有効で、これは日常の業務や生活にも応用できます。

しかし、複数の情報源といっても単純に組み合わせたり矢鱈に累積したりすると、おかしなことが起こり得ます。情報を何でもかんでも取り込んで単純に組み合わせると、中には辻褄が合わなくなることもあり、また、取り合わせもおかしくなって、「鵺(ヌエ)」のようになってしまうこともあるからです。また、聞き間違い、勘違い、記録の間違いということ、さらには、枉げられることもあります。だから、上手に分析・勘案しなければなりません。

矢鱈に累積する例は というと、一二年前のNHKのテレビで「台湾沖航空戦」という番組があり、マリアナとフィリッピン近海を制圧した後に沖縄に向かって攻めて来るアメリカの機動部隊を日本の200機ぐらいの飛行隊が爆撃したのですが、実戦経験に乏しい新米の航空兵が多く、彼等が至近弾で水柱が上がったのを一々沈没させたものと誤認して報告、それを累計して大本営が十数隻の敵空母を撃沈したと発表したので、日本中が久しぶりの大勝利に沸いたのです。ところが実際には1隻も沈没しておらず、おまけに、実際に浮かんでいた敵空母の数より何隻も多かったのだそうです。

ついでながら、その少し前に起きた、普通は滅多に知られていない事実があります。これも昔アメリカの本で読んだのですが、アメリカの艦隊がマリアナ近海を北上中に、空母が1隻沈没という損害があったのです。日本側には全然知られていません。それは、日本の飛行機も潜水艦もそこには出ていなかったから、わからなかったのは当然です。

では、一体どういうことだったのでしょうか? それは、あの辺りは台風の発生する大元で、艦隊が航行中に出来立てほやほやの猛台風による強風と波浪であえなく沈没したのです。そういう状況では、乗員の救助はできなかったと思います。その船は、商船を急拵えで改造した「護衛空母」だったのです。アメリカ軍の略号では、空母は CV (Craft-carrier Vessel)、原子力空母はCVN (NNuclear)、護衛空母はCVE (EEscort) でした。アメリカの水兵は、CVEのことを、Combustible(燃えやすい)、Vulnerable(攻撃されたら脆くて危ない)、Endangerable (危険にさらされやすい)と言っていたのだそうです。

(以上)

 

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NatukasijiUta2

懐かしい唄の数々(その2)

(拡張ヘボン式ローマ字併記)

[寄稿]

2008/11/04

上西 俊雄

 

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内 容 一 覧

題 名

ページ

題 名

ページ

人を戀ふる歌

1

冬景色 13
蛍の光

3

13
さくら 3 朧月夜 14
故郷の空 3 濱邊の歌 14
婦人從軍歌 濱千鳥 14
夏は來ぬ 影を慕ひて 15
軍艦 月の砂漠 15
青葉茂れる櫻井の 昭和維新の歌 16
ラバウル小唄 17
日本陸軍 青い山脈 18
水師營の會見 人生劇場 18
青葉の笛
(敦盛と忠度)
10 旅の夜風 19
歩兵の本領 10 惜別の歌 19
紅葉 11 曾我兄弟 20
われは海の子 12 義士(四十七士の歌) 21
海行かば 12 明治節唱歌 27
廣瀬中佐 13 あざみの歌 27

 

下記の URL をクリックすると PDF ファイルが開きます。上記タイトルの目当てのものだけを視るには PDF ファイルで題名か頁番号の検索で行って下さい。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/kmns_tekkan5.pdf

 

なお、PDF ファイルは最新版(2008/11/01現在)では 9 です。(下記をクリックすると無償でダウンロード出来ます。)

http://www.adobe.com/jp/products/acrobat/readstep2.html

 

補足説明:上西氏は歌曲の選に当たり、また、歌のタイトル、作詞者や作曲者の名前、発表年月などを詳しく考証されて居る。取り分け「義士」(赤穂四十七士)については、「赤穗浪士の歌は赤穗市企畫振興部觀光商工課より、わざわざコピーを送ってもらって記載された。「何か、さういふ(旧仮名使い、ママ)歌の本からのコピーのやうなのですが、誰の作か、いつごろできたものかも一切判りません。七部よりなり、番號を通せば四十番まであることになります。複數の頁に渡るので體裁を變へてあります。」とのコメントを頂いて居る。

その後、同氏からの連絡で「縣人寮の最長老の先輩を見かけ訊ねたところ、義士の唄は四十番まで全部覺えて居られ、明治のをはりか大正の始めのころに鹿兒島でつくられたものだ」とのことでした」との補足説明を頂いている。

不肖私はこの歌のあることを知らなかった。歌舞伎では客の入りが少ないと「義経か赤穂浪士を打てば必ず客が増える」と云うが、歌も大作である。これが出来た当時の日本人は挙ってこの長編を歌ったのだろう。なおこの歌は入手が容易ではなくメロディーが想い出せない場合もあろう。この歌だけはその末尾に上西氏によって楽譜が書き添えてある。

なお、歌詞をどのように発音するのがより正しいか?に就いても併記されて居る「拡張ヘボン式ローマ字」に依って表記し検討を加えられている。「拡張ヘボン式ローマ字」に就いては下記の懐かしい唄の数々(その1)」を参照されたい。

 


懐かしい唄の数々(その1)は此処をクリックして下さい。


 

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GekikaraRyouri

四川の麻婆豆腐やタイのトムヤム

は昔から超ピリ辛だったのだろうか

 

2008/11/14

真道 重明

 

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辛子を含む発酵調味料の「豆鼓」や「豆板醤(中国では豆醤と書く場合が多い)」を使って味付けした「麻婆豆腐」などの四川料理、またタイ料理のヤム・ヌア(細切れ牛肉の炒め物)やトムヤム・クン(オニテナガエビを入れた酸辣湯風のスープ)など、現地の本物は初めての日本人には「口中が火事になった」ように飛び上がるほど辛い。咳き込んで吐きだす。慣れない人が無理に呑み込めば胃を荒らす。

辛い料理と云えば、私の個人的経験による番付では、タコスなどのメキシコ料理が第一位、第二位はスリランカの諸レシピ、次いでタイ国の諸料理、四川や雲南の一部の中国料理、次いでキムチなどの韓国料理の順となる。日本は最近はピリ辛好きが増えつつあるが、元々マイルドな環境のせいか、香辛料も強烈な刺激の強いものは従来は好まれず、辛い料理の順位は低い。言葉にしてからが「からい」には「塩辛い」(ショッパイ)と「ピリ辛い」を区別しないでただ「からい」で済ます場合が多い。中国語では「塩辛い」は「咸=鹹、シアン」、「ピリ辛い」は「辣、ラー」と区別し、タイ語では「塩辛い」は「ケム」、「ピリ辛い」は「ペ」、山葵や芥子の「辛い」は「チュン」など使い分ける。香辛料に関心度が高いためかも知れない。

より一層「ピリ辛い」料理を好んで食べる人は、酒豪を自慢する人達に似て、「優位にある」と思う傾向があるようだ。特にタイ国ではその傾向が強い。ケン・ナロック(地獄のスープ、ナロックは奈落)やケン・ター・デン(眼が赤くなる程辛いスープ)が美味しいと自慢げに話す。そして「辛い料理は大昔からのタイ族の食文化の特長だ」と云う。エスニック料理を食べる側の人達も、「俺は辛さのランクが最高の10だ・・・」と自慢げに云う人も多い。味を云々するのではなく「大食い競争」の心理と同じだ。

これらのピリ辛さの原因は唐辛子に含まれる「カプサイシン」(辛味の主成分で、食物の辛味の指標となるスコヴィル値の基準とされている物質.。Wikipedia による)である。時々私が疑問に思うことなのだが、ナス(茄子)科に属する唐辛子が世界に知られるようになったのは「大航海時代、1492年の新大陸発見の時だ」と云うことを本で読んだことがある。コロンブスは胡椒を求めてインドへ向けて旅立った心算だったが、着いたのは中南米、胡椒の替わりに唐辛子を発見した。唐辛子が 「Hot pepper」や「Red pepper」(pepper は胡椒の意)で呼ばれるのはそのため。胡椒とは全く違うシロモノだ。(Wikipedia による)。

そうなら僅か400年前の時代には「アジアには唐辛子は無かった」筈ではないか? この疑問をタイ人の友人に話すと、「ピッ・キー・ヌー」(鷹の爪に似た赤唐辛子、なお、ピッは辛い、キー・ヌーは鼠の糞)はタイ国には大昔から在った」と強弁して居たが、怪しい。その証拠に胡椒はタイ語では「ピッ・タイ、即ちタイのピッ」と呼ぶが、余り食べない。「余り食べないのに何故タイのピッと呼ぶのだろう」。想うに恐らく元来は胡椒を使っていたが、400年前から半世紀後にアジアに伝わったとされる唐辛子の「ピッ・キー・ヌー」に取って替られたせいではないのか?

若しそうなら僅か300年か350年と云うごく、歴史的には極めて最近のことである。「辛い料理は大昔からのタイ族の食文化の特長だ」と答えた人ばかりではない。数人のタイの友人達から同様の答を私は聞いた。タイ人ばかりではない、キムチの話をしていたとき韓国の友人からも似た主旨の意見を聴いた憶えがある。私は食用植物の分布やそれらの移動に就いての専門知識はない。その方面の専門家に一度訊いてみたいものだ。恐らく「300年か350年まではアジアには唐辛子はなかった」と云うのが正解だろうと思う。

私はと云うと香りや刺激の強い香辛料である唐辛子(Hot pepperRed pepperChili pepper)、胡椒(Pepper)、芥子(Mustard)、山葵(Japanese pepperJapanese horseradish)、丁字(チョウジ、clove)、茴香(ウイキョウ、Fennel)、肉桂(桂皮、ニッケイ、または、ニッキCinnamon等々、殆どが好きだ。東南アジアの生活経験も影響しているのかも知れない。唐辛子のピリ辛も平均的日本人なら敬遠する辛さは私には物足らない。物足らないのは「美味しさが物足りない」では無く、辛さから来る刺激に対する一種の「快感に通ずる感覚」が充分では無いと云うことである。

唐辛子を例に取れば、私は食べている時に首筋の背後から汗が出る。(人によっては額から、或いは「もみ上げ」や「耳の下」や「背中」から発汗するから、発汗場所には個人差があるようだ)。この発汗作用が一種の「快感」である。唐辛子粉で真っ赤になった滅法辛いものを食べている地元の人も「フウフウ」呻きながら、手にハンカチを握って汗を拭き拭き食べている人が居る。彼等に取っても辛いのだ。

この一種の「快感」には「おまけ」がある。尾籠な咄だが、排便するとき肛門の周りに微かなチクチクする刺激を感じる。これがまた一種の「快感」である。カプサイシンの作用であることは間違いない。この状態下では回虫などの人体寄生虫は着かない。超ピリカラ料理を食べる地域には回虫患者は居ないそうだ。

その話はさて置き、唐辛子が未だ渡来していなかった時代、即ち今から300年から350年以前には「ピリ辛料理」は無かったのだろうか?麻婆豆腐やキムチは無かったのだろうか?中国語の検索サイトで麻婆豆腐を調べると、「麻婆豆腐始創于清朝同治元年(1862年),開創于成都外北万福橋辺,原名”陳興盛飯舗”」とある(原文の簡体字は日本常用漢字に直した)。調味料には「辣椒」(Capsicum frutescens L.、唐辛子属の一種)が記載されており、年代から見ても既に唐辛子は中国に普及して以後だったことになる。(日本語の「唐辛子」の「唐」は中国の唐ではなく「海外から渡来した・・・」位の意味である。なお、唐辛子と一口に言っても植物学的には数種ある。中国語のサイトの「辣椒」はラテン語の学名が明記されている。真道 記)。麻婆豆腐の歴史からは唐辛子が未だ中国に渡来した以前の「ピリ辛料理」のことは「解らないことが解った」に過ぎなかった。

余談だが、何故「麻婆」と称するのか?だが、清朝の同治元年(1862年)、四川省の省都である成都の郊外の万福橋の辺り陳春富という人が <陳興盛飯舗>と称する菜館(食堂)を始めた。彼は早世し、彼の夫人である「温巧巧」という名前の人があとを継いだ。この人は微かに天然痘に罹患した後の、いわゆる「あばた面」で、人々に陳麻婆と呼ばた。ここで出される豆腐と牛肉の独特の料理が評判となり「陳麻婆豆腐」として有名になった。原文[女老板面上微麻、人称陳麻婆]。[真道 記:「麻」には「あばた」の意味がある。なお「婆」は老女の意味もあるが、此処では江戸の下町俗語で40歳程度以上の奥さんのことを主人が「家の婆さん」と呼ぶ人が居るのと同じで、麻婆は「薄あばたのオバサン」ぐらいの意味だと想う。しかし以上は一説で外にも異説がある。中国の検索エンジン「百度」の百度百科(辞書)には詳しく出て居るが、此処では抄略する。(Baidu 百度百科、麻婆豆腐、簡体字、中文)。

そこで朝鮮半島のキムチについて調べた。Wikipedia に依ると「文献上キムチがはじめて登場したのは13世紀初頭、李奎報の詩においてだが、少なくともそれ以前から存在していたと考えられている。16世紀、朝鮮半島に唐辛子が伝来し、現在のように赤く辛いものが作られるようになった。なお、唐辛子は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本から伝来したとされている。また、江戸時代に朝鮮通信使が日本から持ち帰ったという説もある。唐辛子の原産地は中南米(ペルー説が有力)であり、当時、スペイン・ポルトガルとの直接の交易路を有していなかった朝鮮半島には、朝鮮出兵時は極端としても、同時期に日本経由で伝来したものと考えられる。唐辛子の普及以前においてはもっぱら山椒が使用されていた。なぜ唐辛子を山椒の代わりに使用し始めたかについては明らかにされていない」とある。

朝鮮半島で「唐辛子の普及以前に於ては専ら「山椒」が使用されて居た」ことについては香辛料の世界史を扱った専門書にも記載がある(「香辛料の世界史」リュシアン・ギュイヨ著 白水社)。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」の諺もあるぐらいだから「ピリ辛」調味料の一つであり、その英名は Japanese pepper であり、日本の最も代表的なピリ辛香辛料である。

なお、「中国では花椒(ホアジャオ)と呼ばれるカホクザンショウ(Zanthoxylum bungeanum、英名 Szechuan pepper)の果実の果皮のみ用いる。四川料理で多用される。煮込み料理、炒め物、麻婆豆腐などに果皮を加えて風味をつける。乾燥粉末を料理の仕上げに加えると、四川料理の特徴といわれる舌の痺れるような独特の風味が得られる。また、五香粉の材料としても用いられる。炒った塩と同量の花椒の粉末を混ぜたものを花椒塩(ホアジャオエン)と呼び、揚げ物につけて食べる・・・云々」と云う記載に出会った。

現在の麻婆豆腐の材料には唐辛子の「辣椒」と共に必ず「花椒」、即ち山椒が入っているから、私の勝手な憶測だが、ピリ辛の四川料理はキムチと同様に唐辛子(辣椒)が中国に渡来する以前から山椒を用いたピリ辛料理が存在していたのではなかろうか?なお、中国でピリ辛料理を好む地方は四川省に限らず、雲南省や貴州省など広範囲に亘っている。

カプサイシンの強烈な辛みを持つ唐辛子が渡来してからは、中国でも朝鮮半島でも従来の山椒などと共に、寧ろそれらを押しのける形で「ピリ辛」の味付け材料の首位の座を奪ったのではなかろうか?色々なこれらの諸記録から見て、激辛料理は以前から在ったが、「唐辛子の伝来以降、現在のような「超ピリ辛」になった」と考えるのが妥当なようである。

 

追 補

 

述の唐辛子の話のように、民族の食習慣や食文化というものは、数千年に亘る長期の歴史の眼から見ると、ものに依っては案外短期間に伝播して変化することがあるようだ。ものの本によると中国では唐王朝時代に餃子の原形が中東から齎されたとか、元王朝時代に麺類(中国語で云う麺条、即ち「紐状の日本語で云う「そば状」のもの)が中国からローマ帝国に伝播しスパゲティなどになった・・・という。

それらの基本的な食べ物の歴史の外に、上記の唐辛子のピリ辛食品などが伝わるのは三・四百年と云う実に短期間という現象もある。日本での餃子やキムチの大々的な普及は第二次世界大戦後の数10年であり、しかも餃子などは人口比で比べると本場の中国より消費が多いという。不思議と云うか?面白いというか?

衛生上の理由から、生ものを先ず「絶対食べない」のが漢民族の従来の慣習である。飲料水も一度沸かして熱水瓶(魔法瓶)に入れ、冷ましたものを涼開水(開水は沸かしたお湯の意)と称して飲む。半世紀前まではそうだった。今でも同じである。

しかし、ごく最近ではスーパーなどにも生ものの寿司が出回り、日本式の「海苔巻きお握り」が良く売れるという。尤も購買層は富裕階級だけだろうが、私には信じられない現象である。僅か10数年のうちにこんなにも変わるのだ。一時の流行かも知れないが・・・。だが一概に流行とも思えない節もある。それは「鰻」(ウナギ)である。元来中国では日本のウナギは食べない。中国では動物学的には同族だが日本で云う「タウナギ」(魚偏に善と書く)が好まれる。しかし日本への輸出用として養殖を始め、福建省南部や広東省北部にかけて生産が伸び、蒲焼き加工まで大々的に最近では行われている。串刺しの蒲焼きでは無く、広東料理式に大皿に盛りつけた日本鰻はわずか10数年で汕頭(スワトウ)などでは中国人向けの名菜(有名料理)となってしまった。

婆豆腐や「エビチリ」(剥き身小エビのピリ辛炒め、乾焼蝦仁日本人向けに調整したもの)などで、中国にも「ピリ辛料理」の在ることを多くの日本人は知っているが、10年前に上海生まれの中国の友人からのメールで「日本学の国際研究会に湖南省の長沙へ行ったが、長沙の料理は殆どが唐辛子が沢山入っていて、辛くて閉口、驚いた」とあった。

考えて見れば、中国は人口や国土の広さから見て欧州全体、否、それ以上に大きい。大きな省は欧州の一国に匹敵する。北方の吉林省がポーランドなら南方の広東省はスペインと云ったようにである。地理環境も違えば食物も異なる。上海出身の彼女がピリ辛料理に驚くのも無理はない。

辛子のピリ辛料理だが、私がこれを好むのには理由がある。初年兵の頃同じ内務班に半島出身の同年の幹部候補生が二人居た。許可された外出日には彼等は決まって数本の瓶入りの「一味唐辛子粉」を買ってきて味噌汁に真っ赤になるほど振り掛けて居る。皆が驚いてその訳を問い糾した。「あんた達は知らないだろうが、一杯のメンコ(アルミの飯椀)は二杯食った気になるのだ」という。「おまけに元気にもなる。ウソだと思うなら試してみろ」とのこと。

初年兵は皆空腹(量やカロリーは充分だったが強度の肉体訓練で常に空腹感に苛まれて居た)だったから、早速試みることにした。少量ずつ唐辛子の量を増やし二ヶ月も経たぬうちに皆の味噌汁は振り掛ける唐辛子粉で赤くなった。食後二時間ぐらいは胃袋にチクチクした刺激感が満腹感には程遠いが、「確かに空腹感を抑える作用があり、初年兵の胃袋が空腹に苛まれるのを遅らせる効果は覿面である。「彼等の言は本当だ。ウソじゃない」と皆思った。遂には内務班長までがこれをやり出した。

この時の経験は後年タイ国に勤務したときに多いに役立った。少量ずつ毎日増やして行くことがコツである。最初から多量に用いると口中が火傷したようになってしまう。タイ人は「赤児」には食べさせない。幼児の成長に伴って次第に慣らす訳である。タイ人も10年以上海外生活をして帰国した時は矢張り辛くて食べられないようだ。2・3ヶ月の訓練?を経ると元に戻るらしい。

白生姜:電白は広東省の西南の沿岸にある県で、茂名市の所管する地名、生姜は「なま」の生薑(ショウガ)。兵役で広州市に居た時、街頭で電白生姜と書いた布を掲げた路上の担ぎ屋商をよく見掛けた。大きな拳(こぶし)よりもヤヤ太い見事な生薑を薄く輪切りにしたものが淡いピンク色になって瓶に入って居る。ピンク色になって居る処から恐らく「にぎり寿司」の「ガリ」同様に酢に漬けたものらしい。

ものらしい・・・と云うのは我々兵隊は指定された酒保以外での外食を禁じられていたから、ただ見守ることしか出来ない。だから以下述べることも試食はしていない。どうするのだろうと私は客が来るのを待って居た。やかて若い男が購いに来た。売り手の「おやじ」はやおら小さな缶に入れた黄色い「練り辛子」を篦で茶さじ大ぐらいの量を掬いだし、薄切り生薑の中央に載せ、丁度クレープのようにくるりと巻いて客に差し出す。(練り辛子と云ったが恐らく芥子だろうと推測した、本当のところは不明である)。

それからどうなるかが見物(みもの)だ。「ウ」と叫んで一噛み二噛みして嚥下する。顔を顰めて目に涙。手で額を叩いている。よほど辛いらしい。銭を出して苦しんで居る。暑い広東のこと「暑気払いにはこれが一番」と云ったかどうか?此方は広東語は解らない。

これも「ピリ辛料理」の一つだ。戦後広東省には FAO などの仕事で数回訪れたが、このことは本業の多忙に紛れてコロット忘れていた。最近 Blog などでこの食べ物を探すのだが見当たらない。知っている人はご教示下さると幸甚。

60数年前に軍隊で憶えた地名の「電白」を半世紀後の FAO/World Bank の仕事で広東省沿岸一帯の調査の際に専用バスで移動中、図らずも車窓から「電白」の文字を見た。ただ10分間ぐらいで市街を通り抜けただけだったが、私に取っては途端に半世紀以上昔に憶えたこの地名を想い出し、感無量だった。

[ライスカレーのこと]

@ 幕末から明治初期に入り、今では国民食の一つになったと云うピリ辛料理のカレーライス、「ライスカレーと呼ぶのが正しく、カレーライスは間違いだという説。(和英辞書ではライスカレー curry and rice はあるが rice and curry ライスカレーはない)と云うのがその理由、チョット変な理由だ」。「否!、高級食堂のものはライスカレー、自家製の下級品はカレーライスだ。高級食堂ではルウは壷に入れてあり、御飯は皿に入れてあるから。「否!、皿の中の御飯の上にぶっ掛けたのがライスカレー、皿の片隅にルウを置いたのがカレーライスだ」という説、等々。喧々諤々である。

戦時中から戦争直後の食糧難の時代、肉が入って居ないものは「少好かれ ショウス・カレー」、肉が入って居るものは「大好かれ ダイス・カレー」と云った。これなどは面白い命名法だ。

ルウ(フランス語: roux カレーの とろみを出したスープ・ソース)はカレーの命だが、私には生涯忘れ得ないルウがある。バンコクに居たとき女性のインド人が所有する大きなアパートに3ヶ月ばかり仮住まいしていた時だ。階段を下り掛けて居たら「さも云われぬふくよかなカレーの香りがする。振り向くと最上階を住み処にしているオーナーの女性インド人のオバサンが手にボールを持ちその中に入って居るカレーのルウからの香りだと分かった。

チョット会釈をしたら、「門番(バブー、元来は Mr を意味するヒンド−語の敬語らしい)のインド人への夕食用のお裾分けだ」と云う。その香りの余りにも「馥郁さ」に感激していた私はどう表現して良いのか分からず「素晴らしい香りですね」と云ったら、私が只のお世辞ではなく心底褒めているのを感じたのだろう。笑顔で「造って居る処をお見せしましょう」と案内された。彼女との最初の会話だった。

大広間に15〜16名ぐらいの多数の下働きの若い女性が丸く並んで座り、銘々「石の擂り鉢」に「石の擂り粉木」(機能から云うと「乳鉢と乳棒」に近い)を持ち、色々な乾燥バーブを叩き潰している。グローブ・ナツメグ・ウコン・コエンドロ・コショウ(胡椒)・スターアニシード(大茴香)・ショウガ(生薑)・トウガラシ・カラシ・チョウジ・・・知らないものが沢山ある。粉末に擂り潰すのに2時間は掛けているようだ。タイ国の家庭では数種程度で、この種の擂り鉢は何処の家庭にもあるが、此処では材料の数が一桁多い。家庭の味というのか調合は「家の秘伝」だそうだ。

その得も言われぬカレー・ルウの香りは私にとっては素晴らしく、言葉では表現でき無い。普通はナン(小麦粉を水でこねて発酵させ、薄く伸ばして壺形のかまどの内側にはりつけて焼いたイーストを使わないパン)や炊いた白米と共に食べる。

 

A インド人の8割を占めるヒンド−教徒は牛は神聖な動物として崇めその肉は絶対食べない。ヒンド−教徒にとっては牛肉の入ったカレーは「恐ろしい悪魔の食べ物」と云うことになる。彼等にとっては牛肉の入ったライスカレーなど、あり得ない「身震いする食べ物」で存在し得ない。菜食主義者が多いが、肉類は鶏か羊肉である。

私は一度マドラスから日本に帰国したことがあるが、飛行便のトラブルで6回乗り換える羽目になった。飛行機は乗り換える都度、機内食として毎回チキンカレーだったのには参った。南アジアや東南アジア地域では宗教的制約から豚肉や牛肉の料理はローカル・フライトでは出さない。

日本では牛肉の入ったライスカレーが最も好まれるようだが、カレーの本場であるインドでは殆ど見掛けることは無い。

 

余 録 (閲覧者から)

 

 

内信能さんは水産業で長期の海外経験を持ったピリ辛料理好きの畏友人である。下記のような挿話を頂いたので此処に紹介する。

1.ボンベイでのカレーライス:

或る時アラビア沖で操業中の大型トロール船行きのの交代乗組員50数人を案内してボンベイに立ち寄った時、人数が多いので色々な注文が出来ず、全員現地人向けのチッキンカレーライスにした。辛いもの好きの私には抵抗はなかったが、すごく辛い。数人が“こんなもの食えるか”“水呉れ”“水は駄目だ、腹こわすぞ”など騒ぎになった。私は“文句言うなよ! これしかないんだ、黙って食えよ”と言った具合で放っておいた。その内一口食べたら辛いが味は良く、自然に食欲がそそられて何となく食べてしまう。結局全員が汗をかきながらも残らず平らげてしまった。アデンに着いたら独立戦争の最中で、空港から一歩も出られず、また食事を頼むことになった。アデン空港では当時エアーコンもなく、狭いトランジットルームで暑くて皆ぐったりしていたが、今度出てきたビーフカレーは、その後何処で食べたカレーより旨かった。

2.アデンで朝食:

アデンには10年も駐在した。ある日徹夜、朝まで勤務した時、現地人の家族が朝食を届けに来た。見ていると仲間に入って一緒に食わないかという。3段重ねの食管の一つには餃子の皮のような薄い柔らかい沢山のパン、二つ目にはぶつ切りの焼いた魚や山羊の肉、もう一つにはたっぷりの青いすり汁。ご存知のようにアラブは右手で食べる。薄いパン(ホブスという)で肉片をつまみ、青汁をたっぷりつけて食べる。真似して食べるとこの青汁が辛いが旨い。聞いてみたら、ニンニクと青唐辛子と若いマンゴウを掏り下ろした物だという。

家(現地の)に帰って早速女中(ソマリア人)にその汁の話をして作って呉れるよう頼んだら、良く分かっているが、卸し金では駄目だ、現地人が使うのは石で作った臼で日本の擂鉢のようなものらしいが手作りの貴重品で町では売っていない、彼らの家の宝のようなものだという。青汁は頼むと何処かで作って持ってきて呉れたが、後から来た仲間の日本人は“辛い、青臭い”などと言って誰も食べようとはしなかった。

3.ベドウィンの食事:

イエーメンの奥地(アデン州以外)を旅すると点々と小部落があり、小さな食堂(茶店)や雑貨店くらいはある。食事も出来るが、入ると蝿だらけだ。テーブル上は蝿の死骸がいっぱい。ボーイが来て箒で掃くが直ぐ空中で死んだ蝿が落ちてくる。

注文する前に皿に山盛りの唐辛子とニンニクが来る。唐辛子は獅子唐を二周り小さくしたような感じ、砂埃を拭って齧ると物凄く辛いのもあるし、余り辛くないのもある。小粒は辛い。ニンニクも小さいが辛さはそれ程強くない。

髪の毛も髭も伸び放題、砂埃で薄汚い目つきの鋭い、明らかにベドウィンと思える二人連れが食事をしている。右手だけでニンニクの薄皮を剥き、辛い唐辛子をバリバリ食べ、いかにも辛そうな顔をして右手だけでパンを千切り、甘い煮豆か何かを摘んで食べている。

唐辛子を良く見ると形が少しづつ違う。先が幾分丸いのは余り辛くないが先が尖ったのは間違いなく辛い。奥地を歩く内に唐辛子とニンニクなしには食事が出来ない位になった。

ある日内地から一人仲間が加わった。出された唐辛子の山から慣れた私は余り辛くないのを何気なく何個か摘んで続けて食べたが、それを見ていた彼がどれが辛いか分からずに一つ摘んで食べ、“うわっ”と驚き彼はそれっきり昼食は出来なくなってしまった。

4.唐辛子、胡椒、山葵(ワサビ):

私の親父は山葵漬が大好きで“鼻にツンと来て涙がポロット出る静岡駅前、田丸屋の山葵漬けが一番”などと良く聞かされた。

ある時オーストラリアの友人に『山葵漬け』を土産に持って行き、缶入り粉山葵も紹介したら病み付きになり、彼らのホースラディッシュじゃ駄目、毎回粉山葵を持参させられた。 彼は焼き魚は勿論、ビフテキにも何にでも山葵を使って楽しんでいた。

山葵の辛さは一瞬に過ぎる。胡椒の辛さも水でも飲めば直ぐ消える。唐辛子は長く消えない。内地でも辛いライスカレーを求めて色々尋ねてみたが、唐辛子を使っているものは辛さが後に残って感心しない。カレーの『辛さ』は胡椒によるしかないようだ。胡椒はテーブルに置いてあるのを沢山入れれば済むが、胡椒にも上下色々あるようだ。

唐辛子の辛さは長く消えない。水を飲んでも中々消えない。京都出身の私の祖母は辛いものが好きで庭に唐辛子を育て唐辛子の味噌煮などを作っては、一緒に食事する子供の私にも“美味しいよ食べてごらん”などと言っていた。味噌が唐辛子の辛さを弱めるようだと私が薄々気がついたのはその頃だったのかも知れない。

唐辛子の辛さで口がカッカしているとき冷えた味噌汁を飲むと直ぐ直るが、冷えていないと利かない。

5.麻婆豆腐:

外食と言えば兎角面倒だし一人の時は尚更面倒で何処へ行こうかいつも迷ってしまう。そこで中華なら麻婆豆腐、イタリアンならスパゲッティーの旨そうな店があれば迷わず入ってみることにしている。外地で食べた旨かった味のような店が見つかったら何時もそこに来ようと思いながら違った店に色々入ってみたが、未だ此処なら絶対来ようと決めたという店は見つからない。

シアトル郊外にあった韓国人の中華料理店で食べた麻婆豆腐の味は忘れられない。あの辛味の旨さは聞いてもわからなかったが唐辛子の辛さのように長く口に残らなかった。豆腐はこげ茶色に味が染込むほど煮込まれているが潰れては居なかった。

日本でもあちこち麻婆豆腐を食べたが、先ず豆腐が白い。味はまあまあだが甘味が強く私向けの辛味が物足りない。テーブルにある胡椒や一味唐辛子をかけて我慢している。

エチオピア、アディスアベバには中華料理店が小さい店を含め20軒くらいあったようだが立派な店も何軒かあり料理の味も材料も素晴らしかった。2千米級の高地で魚類の入手なども大変なのに、大きなフカヒレの料理は安いのに驚いた。一人で入ったのに何種類も注文したら、量が多いですよ、食べられないでしょう。一つか二つにしませんかと店の者が言う。フカヒレと麻婆豆腐はどちらも安く美味しかった思い出がある。高地だから味が良いのかは知らないが。40年も昔のことである (2009/02/13)。

 

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HeitaiKanmihin

時間を掛けてゆっくり賞味したい

と云う欲望人間誰しも同じか?

 

軍隊で支給された甘味品

初年兵教育の時、最後尾に居た私は起床直後の体操では小隊全員の背中が見えた。処は「新京」(現中国東北部の吉林省の省都「長春」、当時は満州国の首都でもあった)の気象隊、1944の初春。
ふと見ると
初年兵の大半の襦袢の背中の何処かに必ず一個の餅がへばり付いている。「ははーん」と私にはその訳が直ぐ解った。その訳とは:−

2009/01/28

真道 重明

 

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練に次ぐ訓練だけが毎日の初年兵教育、其処には何の「癒し」も「楽しみ」も無い。在るのは朝礼と三度の食事、気象観測の実技訓練と内務班の部屋中に24時間鳴り続ける「ツー・トン、ツー・トンのモールス信号音。これらから解放されるのは就寝時だけ。ただし、唯一の例外は寝る前に支給される一個の甘味品。

冒頭で「餅」と云ったが実際は酒保から夕食後暫くして一日一回支給される「求肥」(ぎゅうひ)と「棹物菓子の一つ」(州浜、すはま)の合いの子のような、すなわち求肥ほど飴のように粘らず、かといって、「州浜」や外郎(ういろう)」ほどあっさりもしていない、色は薄茶色の甘味品であった。年中腹を空かせている私達初年兵にとって、それを口にするのはまさに至福だった。

就寝前のひととき、お茶を飲みながらその甘味品を食べ終わり数分後には床に就くのが規律である。しかし、私はそうしなかった。私はそっとその甘味品を自分のベッドの枕の下に隠した。甘い至福の甘味品を玩味する時間を一刻も長くしたいので就寝して消灯後に床の中で長くゆっくり味わいためだ。

突如として大声で起床と連呼するの号令で目を覚ます。既に翌日になっている。睡眠中に「夢を見るとか、昨夜の甘味品がどうだったか」など考える余裕は全くない。昼間の訓練で疲れ切った初年兵の睡眠は、全くの空白で、まるで睡眠中は差し詰め「死人」と同じである。

起床の声を聴くなり、皆は一斉に飛び起き、その侭の「衣」(イ、上の肌着、襦袢)と「袴下」(コシタ、下の肌着)の侭、ベッドはその侭にして気温零下20度以上の庭に飛び出す。経験者の方々も多いと思われるが、マイナス20度ともなると「寒い」と云うより露出した皮膚は数千本の針で刺されたように「痛い」。

[注記] 旧陸軍では一般社会とは異なる名称で呼ぶものが多かった。「物干し場」(モノホシバ)を「ブッカンバ(物干場の漢音読み)」、飯茶碗(アルミ製)を「メンコ」など。上述の「イ」や「コシタ」などもその一例。此処は「娑婆(しゃば、一般社会の意)ではない、軍隊なのだ」と云うことを強調したかったのだろうか?全国統一した慣習だったかどうかは知らない。なお一日に一回支給される甘味品には数種あったが一様に「カンミヒン」と呼んでいた。

皆は適当な間隔を取って体操を始める。後尾に位置する私には全員の「衣」の背中は丸見えである。統率教官は此方を向いているので皆の背中は見えない。体操は寒いので数分で終わるのだが、私は面白いことに気が付いた。各人の襦袢の背中には押されて薄くなった楕円形の煎餅のような噛りかけの甘味品が、或る人は背中の肩辺に、ある人は左右の肩胛骨の間に、またある人は腰の近くに、一つ貼りついているのだ。教官からは見えない。

私の内心では咄嗟にその現象の意味が判った。甘い至福の甘味品を玩味する時間を一刻も長くしたい欲望から、こそっと寝台の枕の下に隠したように、誰もが実は「同じことを考え、そうしていた」のだ。

問題は思ったように、その「欲望が成功したか否か」である。答は「否」で、殆どの者が失敗している。消灯して数十秒すると床中に在る「昼間の訓練に疲れ切った身体」の我々には猛然とした協力な、抗しがたい「睡魔」に見舞われる。一噛り、二噛りするうちにやって来た睡魔は「至福を楽しんで居る状況」を遥かに終える強力なものだ。その後は甘味品も何もあった物では無い。翌朝までの睡眠中の頭脳は全くの空白状態。

食べ残された甘味品は寝返りを打つ中に背中の何処かに貼りつくという経過を取る。粘りけがあるから故意に剥ぎ取らない限り貼りついたものは落ちない。翌朝「起床」の声に起こされてからの事情は上に既述した通り。

馬齢80歳代の「半ば」となった飽食時代の現在、その甘味品と全く同じものを口ににした場合、果たして「そんなに甘くて美味しいものだったか否か?」を時々思ってみるのだが、それにも増して私が思うのは、当時の年齢や生活環境の下では、若い我らにとっては規律を犯してまで、恐くて口には出さず、秘かに・・・であっても、人間は誰しも皆が「細やかかも知れないが、同じことを欲望し、同じことを考え、同じ行動をすることに抗し切れないと云う事実だった」という感慨であった。

 

凡人の浅ましさかも知れないが、それに気が付
いた私は当時は何だか「嬉しくなった」気がした。

 

蛇足的な疑問

 

背後から眺めた時、極めて少数だが、2人か3人は背中に何も付着していなかった。その理由には以下の三つが考えられる。即ち:−

 

@ 規則通り甘味品を食べ終わってから寝に就いた真面目な優等生。

A 秘かに寝台に持ち込んだが、翌朝迄敷布か毛布の方に残されて仕舞った者。

B 強烈な「睡魔」に打ち勝ち、甘味品をゆっくり堪能して後に就寝した「優れ者」。

 

今から65年も前のことだし調べようは無い。調べるほどの重要な問題でもないし、その気もない。以下は単なる憶測である。

可能性から考えて、@ か A であるように私は思う。B は先ずあり得ないのではないか?初年兵教育中には強烈な「睡眠欲」に襲われることが昼夜を問わず良くある。疲れ切っている中での強行軍などでは「歩きながら半睡状態となる」ことは誰でも経験する。特に夜行軍の場合に多い。頭の中は夢か幻のように真っ暗。それでも「薄目」を開いているのだろう。前列者の軍靴が路上の石とがぶつかって発する小さな火花だけを頼りに無我夢中と云うより習慣的に前を歩く人の後を追う。

「軍靴が路上の石とがぶつかって火花が出る」など多くの人は気が付かないと思う。軍靴の踵の裏に打ってある滑り止めの鋼鉄製の鋲と路面の小石が触れ合うと「火打ち石」同様に常に小さな火花が出ている。明るい日中では気が付かないが夜行軍などでは気が付いている人は多いと思う。

訓練用の塹壕の中で10分間の「撃ち方止め」があると休憩ではないが殆どの兵は一斉に銃を杖として仮眠状態に陥る。立った侭である。万一次の号令が無く放置されたら前後を忘れて寝入ってしまうに違いない。

訓練だから良いようなものの、もしも戦地での実戦だったら命に関わることだ。特に前者は前を歩く人の後を追えず隊列から離れ落後すれば、その中に敵に見付けられ捕虜か射殺される危険が多い。

疲労困憊時に襲われる「睡魔」は自己の生死に関わると知りながら、中々抗し切れない。食欲・性欲・睡眠欲のうち、最大のものは睡眠欲だと私は思って居る。

 

「恋しさとひもじさをば比べれば、恥ずかしながらひもじさが先」という言葉があるが、ひもじさと眠りたさを比べれば、恥ずかしさとは無関係だろうが、先ず間違いなく「眠りたさ」が先」だ。箸やスプーンを持ち口に運ぶ途中で眠りこけている人を見掛ける。幼児に多いが、やや呆け掛かった高齢者にもある。

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HAYAGU

早食いや早飲み

「早食いや早飲み」が好きな人私は飲食には人一倍ゆっくりと時間を掛ける方だが、多くの人の中には、私が半分食べ終わった頃には食事を済まして最後のお茶を飲んでいる人がある。皆とペースを合わせるのに私は往々苦労することが多い。

今の若者がコンパで囃し立てる酒の「一気飲み」は馬鹿げて居るが、普通の人でも「ぐい飲み」か「コップ」で「グイ」と飲まないと飲んだ気がしない人も間々ある。

ゆっくり話をしようと喫茶店に入ると出された珈琲や紅茶を三口か四口で「ぐいぐい」と飲み干してケロットして居る人がある。私は・・・と云えば未だ一口か二口唇を湿した時点だ。何だか私は「気が削がれた」ような気持ちになる。彼等は叙述の軍隊での甘味品の場合はどうなのだろうか?

 

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余 録

 

名の閲覧して下さった方々から「懐かしい話を久し振りに読んだ」との主旨のメールを早速頂いた。総て大正末期か昭和初期の方々で軍隊経験をお持ちの方々からである。

此の様な他愛もない話は経験者でなければ面白くも何ともないだろう。軍隊の経験者でない若い人にとって話の筋が理屈では分かっても感情(こころ)としては分からないだろうと思う。家族などに喋っても、「またまた、面白くもない軍隊の昔話をして・・・」と思われるのが「落ち」のようだ。

昨夕 NHK の「クローズアップ現代」(2009/02/01)で間も無く死を迎える高齢者の「死を希望できる権利」を病院長に提言している話題を取り上げていた。病院長は法律で「殺人罪」に問われるのを恐れて拒否していた。お医者さんと評論家の二人のコメンテーターが呼ばれて同席していた。

出席して居た人は総て提言した患者より若い。高齢にも拘わらず未だ頭脳明晰な患者(提案者)の置かれたのと同じ条件と状況下で生きた経験はない人達ばかりである。病院長が法律で「殺人罪」に問われるのを恐れるのは当然であろう。しかし、人権問題や終末医療に於ける心のケアの問題は単なる法律云々を超える問題である。

これと似た問題は今迄にも度々報道され、論じられて来た難しい問題である。私が今回思ったのは多くの論者が自らその経験を持たず、理屈上の話として議論している居る点である。此処で書いた初年兵教育時の「甘味品」などと言った他愛もないこととは次元が違う人生の基本問題である。ただ体験したことのない人達には本当の心は分からない点では同じだろう。

例により、つい話が滑って逸れたが、話を戻す。後期高齢者(この言葉は私は嫌いだ)で Web を視でメールを下さる人はその年齢層の恐らく、2%か3%ぐらいの極めて少数の方々だろう。「こんな話のできる相手も次第に少なくなってしまった」とあった。大正生まれの知己が年々少なくなる。同感の想いをしみじみと考えて居る。

 

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GUNPYOU

超インフレ下に於ける

紙幣価値の末路の話

 

敗戦直後から戦地で通用していた紙幣の価値は日毎に猛烈な勢いで下落し続けた。食堂で一食の代金が数万を要する事態になったが、「紙幣そのものの価値」は「ゴミの屑」として0(零)とはなら無かった。その訳とは?・・・。60年以上前の私の経験談。今のアフリカのジンバブエの通貨はどうなのだろう?。

2009/02/18

真道 重明

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数日前にNHKのTVでジンバブエで一枚が数百万ドル(Z$、ジンバブエ・ドル)の紙幣の話と現地の子供達がその紙幣を掴み、「ゴミ!だ、ゴミ!だ」と叫んで投げ合って遊んで居り、風に吹き飛ばされて散り転がっている光景を視た。咄嗟に私は敗戦直後の現地での経験を想い出した。

経済学には殆ど無知の私の以下の話には間違った理解や述語の誤用なども少なからず在ると思うが、一応、お眼を通していただくと有り難い。

玉音放送で日本軍の敗北は確実となったが、私達の場合、目の前に敵軍が居るわけではない。「撃ち方止め」の状況であり、武装・兵器・弾薬・食糧も従来通りのその侭。外出も自由。これから終戦処理のための戦勝国と接触し多くの事務処理をする必要に迫られていた。

このことは末尾の「関連事項」(このホームページの「従軍綺談」と題するページ)の中に少し触れているが、此処で多少記憶を振り絞って詳しく述べる。関連事項の「従軍綺談」に書いたように、私は日本軍からの命令で中国軍(国民党軍、航空第4方面軍司令部付きとして通訳官を勤めて居た。

場所は広東省の広州市内である。戦勝国側の国民党軍が敗戦国側の日本軍の所持する物資を接収するため、双方の軍の責任者(高級将校)が市内の料亭で交互に招待し合って協議する形で行われた。出席者は双方2名ずつ、通訳の私を加えて計5名で卓を囲む。

協議内容が多岐に亘るため数回行われたが、問題は毎回の協議が終わってからの料亭への支払いである。用いられたのは軍票(軍用手票)であったが、その価値は日を追って急速に下落して行く。最初の第一回目は「手提げ袋」に紙幣が入れてあったが、2〜3日後の第2回目は小さなカバン、その後は中に軍票がギュウギュウと一杯詰め込まれた大きなカバンを抱えて行かざるを得なかった。

軍票の替わりに中国貯備銀行券(チョビ券と呼ばれていた)も使われていたように記憶するが定かではない。これも日本軍の軍票と同じく紙幣価値は急速に下落していった。「最後には一体どうなるのだろう?」と私は思っていた。

江戸時代の各藩の「藩札」、明治以降の兌換券、日本銀行券(金本位制の下での非兌換券)、各種の軍票など、総ての紙幣が通用するのは、孔子の名言の一つ「民無信不立」(民、信なくば立たず)の通り、藩・国家・政府・日銀・軍などが安定していて信用できると云う前提下にある。此れらが不安定となり、その信用が崩れると売買に支障を来し、社会は大変な混乱こ陥る状況となる。

究極の状態としては紙幣は「只の紙切れ」となる訳だが、「紙切れ」にも使用価値はある。特に紙幣(軍票を含む)は「お札」であり、次々と人手に渡るから、紙と云っても軽くて強靱な材質で出来ている。細長い円錐形にして巻くと「紙巻き煙草」の巻紙としては最も便利で重宝することが分かった。戦後の混乱社会の広州市ではこれが流行した。貴重な紙として物々交換されて居た。

その後の事態がどうなったかに就いては、私達は日本に帰国のため復員船に乗り現地から離れたので知らない。紙幣としての価値は無くなっても、消え去った訳ではなく、煙草の巻紙として使用価値は残って居た。価値が底を突いたというのだろうか?

現在のアフリカのジンバブエの紙幣の状況は経緯も異なるので比較することは出来ないだろうが、この方は今後どうなるのだろう。それにしても一卓分の支払いに大きなカバンに紙幣を一杯に詰め込んで、それを抱えて行った異常な思い出は胸中に今も残っている。

何しろ食べた料理の量より支払った紙幣の量の方が多かったのだから。

 

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関連事項: http://home.att.ne.jp/grape/shindo/heitai.htm

 

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EdeyomuSingyou

絵で読む般若心経

 

2010/10/12

真道 重明

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即是空・空即是色の句で知られる「摩訶般若波羅蜜多心経」を解説した冊子を読んだ記憶がある。30歳頃だったから、米寿を迎えた今から勘定すれば60年も前の話である。その中に文字を読めない文盲が此の「お経」を唱えるために記憶する方法として、絵文字で書いたページが在った。冊子の名前や出版元などはとうに忘れて了っていたが、その絵と読み方はとても面白くて胸中に長年潜在して居た。

ウエブサイトの何処かにあるだろう・・・と思い、最近の数ヶ年間、余暇のあるときには探し捲ったが見付からない。処が一昨日、遂に見付かった。「ヤッター」と思い,嬉しくて、この愚文を書いた。

読み方:−下図の縦書きの右端中央にお経の表題がある。各絵の左に平仮名でルビが振ってある。上端の絵は「ひっくり返した釜」であるが、「かま」をひっくり返すと「まか」となる。漢字で書くと「摩訶」に該当する。その下の絵は「はんにゃ」のお面で、漢字では「般若」である。その次の絵は「人間の腹」で、「はら」と読み、漢字で書くと「波羅」となる。次の絵は「箕」で「み」、教典の漢字では「蜜」、次は田んぼの「た」(漢字の「田」)、教典の「多」に当る。最後は神社にある神鏡の絵で「しんきょう」この場合は「しんぎょう」、教典の「心経」に該当する・・・と云った具合である。

文字を読めない文盲が祈祷の為に、この「お経」の音声を唱える時の便宜のため苦労して描かれた傑作だと私は思っている。隠れキリシタンの祈祷文「オラショ」(ラテン語のオラシオ、 oratio 祈りの意に由来)と同様に祈祷文であるから文の意味は分からずとも「音声」が重要であった筈である。

元々、このお経は唐の玄奘三蔵や多数の高僧が古代印度語のサンスクリットやパーリ語を当時の漢字の中国音で漢訳(中国語訳)したものを基礎に、日本の漢字音で読まれたものである。但し、表題そのものでも分かるように「心経」以外は原典のサンスクリットやパーリ語の発音を漢字で音写して居る。

私はタイ国に十数年居たが、南方(小乗)佛教のタイ国の僧侶の読経には原典のサンスクリットやパーリ語で読まれる。葬儀や家屋の新築、新造船の安全祈願などには僧侶を招いて読経が行われる。多数回出席したので、意味は解らぬ侭、最初に唱えられる数句の音声は今なお憶えている。(此処をクリック)。

話を「絵文字」に戻そう。字が読める私達にとっては「まさにクイズ」である。眺めれば眺める程苦悩の程が偲ばれる。下にその絵を示そう:−

 

絵文字の般若心経

 

漢訳した人によって「摩訶」を漢訳して「大」、サンスクリットでは「波羅蜜多」、日常語のパーリ語では「波羅蜜」となるのだそうだ。此処では上記の絵の絵文字に会わせた漢訳を下に記した。(なお、似た絵文字は他にもあるのかも知れない。何十年前に冊子で瞥見したのはこの絵のように思う)。

 

まかはんにゃはらみったしんぎょう
摩訶般若波羅蜜多心経

かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうおんかいくう
観自在菩薩   行深般若波羅蜜多時   照見五蘊皆空

どいっさいくやく しゃりし   しきふいく   くうふいしき  しきそくぜくう
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

くうそくぜしき   じゅうそうぎょうしきやくぶにょうぜ  しゃりし   ぜしょうほうくそう
空即是色    受想行識亦復如是    舎利子  是諸法空相

ふしょうふめつ   ふくふじょう  ふぞうふげん   ぜこくうちゅう
不生不滅   不垢不浄  不増不減   是故空中

むしき むじゅそうぎょうしき むげんびにぜつしんい むしきしょうこうみそくほう
無色  無受想行識   無眼耳鼻舌身意  無色声香味触法

むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん
無眼界  乃至無意識界  無無明   亦無無明尽

ないしむろうし  やくむろうしじん むくしゅうめつどう  むちやくむとく
乃至無老死 亦無老死尽  無苦集滅道  無智亦無得

いむしょとくこ   ぼだいさつた えはんにゃはらみたこ
以無所得故  菩提薩■ 依般若波羅蜜多故

しんむけげ   むけげこ  むうくふ    おんりいっさいてんどうむそう
心無■礙 無■礙故 無有恐怖  遠離一切顛倒夢想

くぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ
究竟涅槃  三世諸仏  依般若波羅蜜多故

とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみた
得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多

ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ  ぜむとうどうしゅ
是大神呪   是大明呪   是無上呪  是無等等呪

のうじょいっさいく しんじつふこ  こせつはんにゃはらみたしゅ
能除一切苦  真実不虚  故説般若波羅蜜多呪

そくせつしゅわつ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい
即説呪曰    羯諦  羯諦  波羅羯諦  波羅僧羯諦

ぼじそわか   はんにゃしんぎょう
菩提薩婆訶  般若心経

(■はPCの日本語漢字変換には無い。最初の字は「薩た」の「た」で土偏に垂、次の2文字は「け礙」の「け」で「四」の下に「圭」がある字)。

 

余録 ツイ先日、NHKのラヂオ深夜便の午前四時から始まる番組で、声からみるに未だ若そうな女流作家の話を偶然、話の途中から聴いた。彼女は米国に在住し仏典研究者ではないそうだが、英訳の般若心経を読んで興味を持ち、パーリ語を勉強し、漢訳ではなく原典から自己流で日本語の口語に訳している内容が紹介されていた。NHKに問い合わせた処、お名前は「伊藤 比呂美 (ひろみ)さん」と云う方だそうだ。「ヒロちゃん」や「ヒロさん」と呼ばれてファンが多いそうだ。

話の内容は「とても新鮮で、面白い」と感動じた。漢訳の般若心経の日本語の解説は仏教経典の専門家による数多のものあるが、凡庸の私などには中々理解し難い。「色即是空・空即是色」など、仏典研究者ではない彼女流の素直な訳は非常に面白く感じた。「読み解き般若心経」というタイトルの本も出版されているらしい。その中に調べてもう一度読みたいと思っている。

心経のタイトルの英訳は The Heart Sutra heart は心、 Sutra は経)だから、まさにその侭の直訳である(鈴木大拙Shohei ICHIMURA その他数名の高僧や研究者の訳が在るようだ)

 

は変わるが、隠れキリシタンの祈祷文「オラショ」を幕府の禁令にも拘わらず、命を懸けてその音声を長年伝承し続けたように、佛教の祈祷文も意味の理解や不理解とは関係なく、音声で唱える。唱えることによって、たとえタイトルだけの場合でも想いが「そのことに向かって心の平安を得られる」と云う。

言葉には興味があるとは言え(それも素人のレベルだが)、不信心の私には摩加不思議と云えば確かに摩加不思議だ。「呪詛」や「TFTThought Field Therapy、思考場療法」など関係があるような気もする。

 

上西俊雄氏からのコメント

上西 俊雄 氏は大手出版社で辞書の編纂に携わってきた言語問題の専門家であり、 「拡張ヘボン式ローマ字」の提唱者である。國語問題協議會評議員、英語教育や言葉の 問題で活躍されている。本件に関連して下記にコメントを頂いた。下のPDFファイルをクリックされたい。

KMNS_10_OCT_20.pdf

 

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KanpyouMaki

「干瓢巻き」と「きのこ(茸)

のサンドイッチ」

ほんま物(本当のもの)は実に旨い

 

2010/12/21

真道 重明

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年前に某作家(名前は忘れた)が書いたのを読んだ。人生で「至福の時」は何時か?と云う設問の答である。

「多摩川」だったかと思うが、土手の草原に寝そべって、某寿司店の折り詰めの「干瓢巻き」を頬張りながら河の流れを眺めるとき」と答えている。

 

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