File Mougo5

Mougo5

閑 人 妄 語

(その3)

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目 次

 

無宗教という宗教 (信仰する宗教が無い者の弁)
学生時代に憶えた懐かしい唄の数々(その1) (拡張ヘボン式ローマ字を併記){寄稿}
英語の歌 (母が口吟んだ他愛のない明治末期の俗謡)
黍団子売りの歌と曲芸の餅つき (昭和初期頃の客寄せ歌や曲芸の餅つき)
マルコ・ポーロは本当に中国を訪れたのか? (東方見聞録のミステリー)
アイス・クリームのルーツ (中国の「氷淇淋」だと云う説)
五木の子守歌とデンデラレン (熊本方言の俗謡とわらべ唄を二つ)
牛や馬は座るか? (奇妙な馬の姿勢を見た体験と水牛の咄)
奇妙な所作の数例 (外国人には珍奇にみえる日本人の所作)
卑弥呼とアマテラスは同じか? (素人の私が常々想って居た問題)
完全癖の愚 (私にはヤヤ完全主義と云う癖があるらしい)
血塗れの犬 (誤認だった Computer Virus の話)
危ない釣り (河童の捕獲法、三浦福助氏)[寄稿]
パイプ煙草に取り憑かれた頃 (私の喫煙録)
紛らわしいフォントや単語 (高齢者の悩み)
気に掛かる時代劇のシーン (不思議な場面、取り立てて云うのも?)
ナマズにみる象徴表現 (古代エジプト文明 etc.萩生田 憲昭 氏)[寄稿]
私の見た変な夢の数々 (夢は五臓六腑の疲れか?)
服装はカジュアルと記された招待状 (恥ずかしくて逃げ帰った Invitation Card

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Musyukyo

無宗教という宗教

 

2008/01/15

真道 重明

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には信仰する宗教が無い。お寺に行って法話を聞くことも無いし、神社に行って「お賽銭を投げ、柏手を打つ」ことも無い。新約聖書の輪読会に若い頃参加したことはあるが、目的は英会話の習得だったから入信を考えた訳ではない。海外では自宅の裏に小さなモスクがあり、毎日お祈りの声は聞こえていたが足を踏み入れたことは一度も無かった。四書五経の一部は中学生の頃「漢文」で習った。孔孟の思想は「儒教」と云われるが、私は此れらは道徳律(moral code)の一大体系であり宗教ではないと思っている。

しかし、テレビやラジオなどの宗教番組で僧侶・牧師・信者などの話は良く聴くし、感動することも良くある。また、親鸞上人の歎異抄、玄奘三蔵が漢訳した般若心経、キリスト教の聖書、特にマルコの福音書は好きで、何れも良くは分からないが、枕元の手の届く処には置いてあるので寝る前のひととき読むことはある。

なお、佛教に関しては、バンコクに本部のある国際機関に10余年勤務し、多少はタイ語が話せるので、タイの友人が同国の慣習に従って短期修行をして居る時には度々お寺へ面会に赴き、僧侶や友人から南方佛教(小乗仏教)の話を聴いた。日本の佛教は東方佛教(大乗仏教)なので、両者の違いに興味を持ったからである。パーリ語の経文の一部を憶えたりもした。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄・・・で始まる般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経) が漢語(古典中国語)であり、古代印度語の音訳語も混じるから、一般の日本の庶民には「マカ・ハンニャ・ハラミタ・・・」では意味が分からないのと同様、タイ国のお経はサンスクリットかパーリ語であり、タイ国の一般庶民にはその意味は分からない侭、皆はひたすら暗唱している。

英語の聖書ではへブル語とギリシャ語文書を訳した欽定訳聖書(King James Version、キング・ジェームス・バイブルのこと、1161年)があり、何世紀にわたり、格調高い定番の翻訳聖書の一つに数えられて居るようだ。現在では口語訳も多く、庶民が容易に読めるような努力がなされている。私が読んでいる数冊の聖書は日本語の現代口語訳である。

教典の成立過程が異なることもあろうが、聖書とは異なり、仏典の場合には日本語の祈りに唱えられる和讚はあるが、教典の原典の古代印度語が漢語(古代中国語)に訳され、それを呉音で読む場合が大部分のように思われる。

上掲の「照見五蘊皆空」も「ショウケン・ゴーオン・カイクウ」という音声を聞いても何のことだか庶民には難し過ぎる。ましてパーリ語の三宝帰依の出だし「ブッタン・サラナン・ガッチャーミ」 (意味は此処をクリックなどチンプンカンプンだ。キリスト教でもミサなどではラテン語も唱えられる。長崎に居た時、子供の通う幼稚園がカトリック系の学校だったせいで、ローマ・カトリックのクリスマスのミサには招かれて何度か参加したことがある。ラテン語のお祈りの言葉は信者の多くは意味は分からない。意味は分からないが信者には「何か有り難いお唱え」なのだろう。

ツイ数日前ラジオの深夜便のスイッチを入れたら、長崎県五島の小島の「隠れキリシタン」の「オラショ」の話が聞こえてきた。「オラショ」はラテン語の「祈り」を意味する Oratio が語源だそうだ。意味も分からない侭、300年以上も形式を重視して口承されてきたのだと云う。原音は訛りに訛って、現在では意味不明な呪文のようになったとのこと。唱えていることがバレたら禁教の罪で死罪になるかも知れないのに・・・と思うと、それらの人々の強い信仰心に私はラジオを聞きながらひどく感動した。

宗教を私は否定する者では無いし、その主張を意味の無い馬鹿げたこととも思わない。「神や佛とは何か?」、「神や佛は存在するのか?」、また、「生と死とは何か?」・・・など、「一体全体、宗教とは何か?」を凡庸な私の頭ではあるが、理解したいと云う欲望はある。「理解する」と云っても神学的に・・・ではなく論理的に・・・である。最近では「どうもこの〈理解する〉と云う設問に問題がありそうだ」と思うようになった。

 

 

開祖やその「教え」の後継者の云うことを「理論的に理解しよう」と云うことではなく、「信ずるか否か?」が宗教の本質ではないか?ということである。この点、救世軍が年末に街頭で慈善鍋を前にして叫んでいる「・・・ 信ぜよ、信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰も皆救われん!」(ラッパの音と共にメロデイも憶えてはいるが、言葉は記憶が薄れてやや間違っているかも知れない)の歌にあるように、キリスト教では「信ずること、即ち信仰」するか否かが問題であることを直裁に表現している。これに反し佛教は非常に哲学的で理論的要素が強いように思われる。しかし、詰まる処、信仰である。

私達のように自然科学を専攻した者にとっては、何事も「正しいか否か?」、その科学的な証拠は?科学的な証明は?と考えてしまう。「是か非か」だけではなく「是でもなく非でもない」ということがあっても良いのではないか? 科学の基盤である数学には、長年に亘り難解とされて来た数学上の問題に対し、その問題には「回答がない」ということを理論的に証明し決着が付いた・・・と云うケースがあると云う。このことに『感銘というか、目から鱗と云うか、自分では「なる程」と納得した』ことがある。

此の伝で行くと「死後の世界は存在するか?」と云う問いに対し、「その回答は無い」と云うことが証明が出来れば、私の頭の中では「宗教とは何か」と云う設問にある程度の決着は付くような気がする。

中学4年制の時、A・D・ホワイトの『科学と宗教との闘争』(森島恒雄訳、岩波新書、1939)を読んだ。当時の私の学力では内容を正確には理解できなかったのだが・・・(85歳の今も学力はたいして変わらないが)この名著は私に大きな影響を与えたような感じがする。

Wikipedia で「無宗教」を引いてみたら、『特定の宗教を信仰しない、または信仰そのものを持たないという思想・立場。その厳密な定義は曖昧で、特定の宗教(宗教団体)に参加していない・特定の信仰を持っていないといった単に信仰上の空白的状況を指すものから、信仰や帰依といった無批判なまま無条件に信頼を寄せる状態を作ることを論理的・倫理的に善しとしない価値観や思想を持つに至る場合、あるいは積極的に神や宗教・信仰を否定して回る状態まで、全く意味の異なるこれらの全てを内包し得るため、取り扱いには注意が必要である。「神を信じない」という無神論に近く混同されやすいが、本質的には異なる云々』とあった。

私の場合、「信仰や帰依といったことに論理的に、または倫理的に善しとしない価値観や思想を持って居る」のでは無く、「良し悪しではなく、信仰ということが理解できない」という場合に該当する。「神や霊魂を否定はせずとも、これらに対する信仰や確信を持たない者」とも云える。

『無宗教者も所詮は「無宗教」の信者に過ぎない』とか、『神や宗教の代わりに科学を信じる「科学教」に過ぎない』といった言い方も Wikipedia には紹介されて居る。それなら自然科学(生物学)を専攻した私は「科学教」か?と云えば私は躊躇うことなく「否」と云いたい。科学は宗教とは次元(土俵?)が異なるものだと思う。

最近の科学や科学技術は飛躍的に発展増大しているとは云え、発展すれば発展するほど疑問も増大する。その対象となるものは宗教が問題とし、対象とするものに較べて、余りにも狭く、「未だ分からない」もの、「未だ証明できない」ものが山積して居る。このような科学と云う思考体系は宗教ではないし、また宗教たり得ないと思う。

 

 

凡庸な頭の私にとっては、信仰を持つ人達からは度し難い愚者と嘲笑されそうだが、私は無信仰と云う教義の宗教の信者なのかも知れない。若しそう云うケースを宗教の一つと定義出来るのであれば・・・の話だが。

数年前に仕事を共にした若い英国人と宗教論議をしたことがある。彼はロンドンの中心街である City の銀行マンだったが、「日曜日の朝の教会での礼拝に一度も行ったことはないし、聖書も読まないし、食事前のお祈りもしない。友達の多くもそうだ・・・」と云って居た。

 

佐々木 閑(しずか、インド仏教学・仏教史専攻)氏の連載「日日是(これ)修行」と云う欄に戸塚洋二氏(物理学、素粒子専攻)との面談の会話が載って居た(朝日新聞、2008年2月14日、夕刊、4版、12ページ)。情の深い人柄で「骨の髄まで無神論者」と自称する科学的合理精神の権化で、宗教家の天敵のような物理学者の戸塚氏が、「佛教について知りたい」と佐々木氏に尋ねる処から話が始まる。

問と答の内容は、「神の存在?」、「時間とは?」、「世界はどう進むのか?」と云った問いに佐々木氏は以下のように答えている。

「佛教は絶対存在を認めない」、「時間とは物事の変化そのものであり、別個に時間と云う存在は無い。従って変化しないものには時間は無い」、「この宇宙は、特定のサイクルを繰り返しながら無限の過去から無限の未来へと果てしなく続いていく」・・・云々。

話の後での戸塚氏の感想は、「超越者を認めず、因果の法則だけで世界を見ようとする釈迦の佛教の原理は、現代科学と同じであって、それは非常に興味深い。だが未だ理解できない点も多い・・・云々」。

「僅か2時間の対談で佛教が全部理解される訳は無い。しかし、戸塚氏と云う物理学者との対談時の緊張状態は、私にとって、まさに修行であった」とのこと。

二人の碩学の対話内容に凡庸な私などがコメントするのは烏滸がましい限りだが、生半可な私の理解であっても、無神論者と自称する戸塚氏の感想は私のそれと非常に近い。神や佛が存在するか否かは私には分からない。科学的な理屈を云うと、証明できないからだ。

しかし、一方では宗教家の言葉の中には納得し感動するものが沢山ある。宗教家の言を聞くと尤もだと思い、科学者の言を聞くと「その仮説は尤もで、多分に正しい」と思う。凡庸な私など両者間を行き来して居る。

 

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NatukasikiUta

学生時代に憶えた
懐かしい唄の数々

{寄稿}

(拡張ヘボン式ローマ字併記)

2008/01/25

真道 重明

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今の若い人はイザ知らず、60歳 (いや、70歳かな?) 以上の人々は旧制中学から進学希望者は中学後半期の頃、また、進学して旧制高校や大学に入った人達は、殆どが憶えている唄の数々沢山ある。中には由緒正しいものもあれば、流行っている内に部分的に歌詞の一部が色々に換えられた俗謡もある。

俗謡など、飲み慣れない酒や煙草の「飲む練習」をして大人になりかけた気分に浸っていた年頃。明治から大正期に作られた唄を大人になった心算で合唱して居た。今想うと懐かしさが込み上げて来る。寮歌などは別の意味で青春時代が蘇って来る。中には母や祖母が口吟んでいるので何時しか憶えてしまったものもある。

kmns氏(上西俊雄氏、拡張ヘボン式ローマ字の提唱者、長年辞書の編纂に携わって来られた言葉の専門家)から、その幾つかに漢字仮名交じり文の原典と拡張ヘボン式ローマ字を併記した個々のファイルをメールで頂いて居たが、今回お願いしてそれらを纏めたPDF file を作成して貰ったので此処に紹介した。但し、末尾の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」だけは歌ではなく「お経」である。

此処ではローマ字併記とあるが、日本語を文字で表記する場合、「漢字仮名交じり」、「仮名文字表記」、「ローマ字表記」などがあるが、ローマ字で表記するにも色々な方法がある。パスポートの姓名や電車やバスの駅名表示など、国際化が進むにつれてローマ字表記の問題が議論されている。また、パソコンのワープロ・ソフトなどでローマ字を書く場合、「字上符号」(個々のローマ字体アルファベットの上に付ける 「 Macron、長音記号)^ ¨ ´ ` などの記号)を必要としない英語では普通のローマ字入力では字上符号は入力できないから実に不便だ。

長母音の「大河、オーカワ」も、短母音の「小河、オガワ」も OGAWA と書くしか無かった米国人の魚類学者 J..R.ノルマンは講義に来日して「日本語ほど変な言葉は無い。一例を挙げれば OGAWA は時に大河を、時には逆の小河を意味する・・・と帰国後に書いている」という。即席で勉強した彼の日本語ローマ字の表記ではそうだったのだろう。普通は「オーカワ」は「か」、「オガワ」は「が」の筈なのだが。大手町も小手町も OTEMACHI だ。駅名表示などでは字上符号に「」を付けて「オ−」と表しているものが多い。

日本語の文章をローマ字で表記するのは一見容易そうに思われるが、「いざ書こうとすると、上述のように色々な方式があり、素人は直ちに諸問題にブチ当たる。Web 上には沢山のサイトがあるが、その一端を知りたい人は下記のアイコンの先ず A (佐藤正彦氏のサイト)をクリックして読み、次いで B 及び C (上西俊雄氏。 B 及び CPDF file )をクリックして読めば、「なる程!」と思われるに違いない。

A        B       C

 

kmns氏(上西俊雄氏)から頂いた「懐かしの唄の数々」は PDF ファイルである。下記のアイコンをクリックすると表示される。

第一高等學校東寮寮歌、 三高逍遥の歌、 第一高等學校第十七回紀念祭東寮寮歌 仇浪騷ぐ、 北辰斜めにさすところ、 雲鷹丸記念歌、 戰友、梅ヶ枝節、 すててこ、 ハイカラ節、 美しき天然、 われは湖の子さすらいの(三琶湖周航の歌)、 七里濱の哀歌、 奈良丸くづし、 カチューシャの唄、 ゴンドラの唄、 籠の鳥、 金色夜叉、 パイノパイ節、 ストトン節、 東京行進曲、 サーカスの唄、  滿州娘、 誰か故郷を想はざる、 君待てども、 デカンショ節。

【特】 佛説摩訶般若波羅蜜多心經

唄の数々を見るには此処のアイコンをクリック 

 

PDF ファイルを見るためには、Adobe社のAcrobat Reader(無料ソフト)が必要です。お持ちでない方はAdobe社のダウンロードサイトから入手してください。下記のアイコンをクリックするとダウンロードのサイトが表示されます。

 

 

追 記

 

この中に「雲鷹丸記念歌」がある。「雲鷹丸」は母校(現東京海洋大学の前身校である東京水産大学の、そのまた前身である農商務省水産講習所)の第二代目の調査兼練習船である。明治38年日本最初の鋼製帆船(3本マストのバーク型「鋼製補助機関付」帆船で,国産鋼製船舶としては現存最古のもの。平成10年に有形文化財として登録された。

昭和37年,大学のシンボルとして喫水線上部が現位置(港区港南4丁目)に移設されたが、昭和4年廃船になり、私の学生時代には旧校舎の在った越中島の校区の岸壁に係船され、波が来ると揺れる甲板や船室に自由に入れた。

私の個人的な感想だが、北原白秋作詞・山田耕作作曲のこの歌を聴くと懐かしい学生時代が蘇って来る。「スタノボイと雲鷹丸記念歌」と題し、スタノボイとは?、マッコウクジラを捕獲対象にしたアメリカ式捕鯨などをこのホームページに書いた。

 


 

この歌集の中の幾つかは「俗曲の部屋」から down load したもの。下記のコメントが上西氏に依って書き添えられていた。

 

[梅ヶ枝節] 西南戰爭終了後の明治十一年、開化の世相を巧みに描いた、作家假名垣魯文の作詞。義太夫「ひらかな盛衰記」源太勘當の段が下敷きになっており、梅ヶ枝とは、梶原源太の戀人の名前です。

[奈良丸くづし] 明治四十五年、演歌師が唄いだして大流行しました。美聲家の吉田奈良丸が十八番にした」を唄ったもので、「ささや節」ともいいます。

[すててこ] 明治十三年頃、三遊亭圓遊が、寄席ですててこを踊った時の歌詞で、當時の圓遊は、人氣がもっともあったときで、この唄はたちまち流行いたしました。

[パイノパイ節] 大正8年頃流行した曲で、關西に移入して、關西名所名物が替え歌に作られました。當時西園寺公が、歐州に愛妾を携えて旅行されたので、「花ちゃんたら別嬪さんで」云々、という替え歌がおおいに流行しました。

[ハイカラ節] 一名、自轉車節ともいい、關西ではチリリン節ともいう。明治42年頃流行しました。

[籠の鳥] 大正十三年に大流行。きかっけとなったのは、帝國キネマが制作した映畫、「籠の鳥」で、レコードも各社から發賣されました。幼兒までも口ずさむようになったので、歌唱を禁止する府縣もあらわれました。

(以上)

本稿を草するに当り上西俊雄氏と楽水会(同窓会)に深く謝意を表したい。

 

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EigoNoUta

英語の歌

母が口吟んだ他愛のない明治末期の俗謡

 

2008/02/01

真道 重明

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が未だ小学校の上級生だった明治末期、一般庶民で英語の歌を知る人は少なかった。母は冗談半分に笑いながら「英語の歌」なるものを時々口吟んで居た。歌詞は「ウロ覚え」で順番も殆ど忘れているが、曲は「花ちゃんたらギッチョンチョン・・・」の「ギッチョンチョン節」を模した歌である。「ウロ覚え」の歌詞は以下のようなものだった。

 

♪ レット・アス、 ゴーツ、 レストラント ♪

♪ コールド・ミツ、 カツレツ、 チキン・ライス ♪

♪ オムレツ、ほにゃらか?、フーカデン ♪

♪ パン、シチュ、サラダ、コーヒ ♪

♪ フライ、 フライ、 カレ・ライス ♪

♪ ビール、 ビール、 ポートワイン ♪

 

以下未だ1〜2行あったようだが失念した。各行の順序も記憶違いがあるかも知れない。

レストラン」「レストラント」と「ト」を書いているが、当時の英語の先生の中にはそのように発音を教えた人もあったのだろう。「ナイフ」(knife)の発音を「クニフェ」と教える先生が居た・・・と父から聞いたことがある。

コールド・ミツ」の「ミツ」は meat、「コールド・ミツ」cold meat 、「シチュ」は stewパン、シチュは「タン・シチュtongue stew の記憶違いの可能性が濃厚である。パン(麺麭)は英語ではなく、ポルトガル語(ラテン語系の言葉)に由来するからだ。

フーカデンは今は余り聞かないが、フランス語の fricandeau に由来する語、また一説では英語の fricadel の訛りだと云う説もある。挽肉をゆで卵を包み、天火で焼いて切り口を見せて皿に盛る「フーカデンエッグ」、や牛肉の挽肉の中にパン屑を入れ、玉葱の微塵切りと卵とを混ぜ合わせて、天火で焼いたもの。チョット「おでん」の「爆弾」に近い感じの料理。要するに左右二個に縦割りした大型の「挽肉団子」だ。「スコッチ・エッグ」と云うものと同じようだが、私にはそうかどうかは良く分からない。

英単語の羅列だから兎にも角にも「英語の歌」には違いない。歌う人は料理の名前だとは知っていても、どんなものか分から無い侭、ただ口伝のように憶えて自慢?し流行ったのだろう。「ジンジロゲ」のように・・・。

鹿鳴館はいざ知らず、私が子供時代の大正末期から昭和初期には地方都市にも「洋食屋」(仕出しも承ります)と書いた看板が見られた。「コロッケ」はこの歌にはない。この歌が流行った時からかなり後の大正末期頃から普及したのだろう。「今日もコロッケ、明日もコロッケ・・・」の歌が流行ったのは昭和初期だと思う。

母に依ると子供の頃は上述の歌と共に、男女が抱き合って踊る、今で云うと社交ダンスが見せ物として各地で「ドサ回り」して居たらしい。 ♪「片目半額、めくら(盲目)はただよ。いらっしゃい、いらっしゃい、西洋人のダンス」♪ と云う「呼び込み歌」を歌いながら客を引いていたと云う。


本項が4年後の3012年1月にデイジーレオ(ハンドルネーム)さんのお目に掛かり下記の文をメールで頂いた。

//引用開始//

明治19年生まれの祖母が口ずさんでいた歌詞です

小さいときに耳に入ったものなのではっきりしませんが聞こえたとおりに表示しました。

あなたが表示した歌詞以外に覚えているものです、順序もはっきししませんが:−

♪ブレドゥンバターオートミルクスープスープ♪

♪ロールキャベジメンチボール♪

♪ロートロートホルトワイン♪

歌詞ですが:−

♪「パン、シチュ、サラダ、コーヒ」♪ 

の部分は

♪「タンチュウー、サラダア、コーヒー」♪

と耳に残っています。

レストラン」も「レストラント」と覚えています。

//引用終り//


真道 記

この歌は私が母から聞いた当時、(ちなみに私は当年「数えでは90歳の卒寿)、

単に故郷の熊本だけでなく、全国的に流行っていた気がする。「西洋料理」という言葉も今では余り見掛けないが、当時はメニュ−の知識の学習になったのかも知れない。

 

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KibiDangoUri

「黍団子売りの歌」

「踊る餅つき」

 

2008/02/23

真道 重明

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和初期、私が幼稚園を出て小学校に入る頃、大道に屋台を引いて黍団子を売る商売があった。現在では「焼き芋屋」さんでも録音されたスピーカーから売り声が聞こえて来る時代であるが、当時の物売りは、勿論、肉声の個性溢れる面白い歌を歌いながらの商売であった。

今でもその歌や身振り手振りは脳中に残っている。

 

♪ 朝から晩まで湯に入って ♪

♪ それに黄粉(きなこ)のオベベ(和服)着て ♪

♪ おしろい(白粉)付けて紅付けて ♪

♪ お黍チャンの「熱っつ、熱つ」(アッツ・アツ) ♪

♪ 誰か身請けをしておくれ!♪

♪ お黍チャンの「熱っつ、熱つ」(アッツ・アツ) ♪

 

「身請けをしておくれ!」はお銭を出して買って下さい・・・の意味である。子供相手の商売だから「身請け」などと言う言葉の意味は分からない侭に憶えて居る。子供だけではなく大人も買って食べていたが・・・。歌の拍子と何処か剽軽な処はなかなかの見ものであった。

 

 

の他にも「踊る餅つき」と云う商売もあった。四、五人が一組となって、各々杵を持ち、別に二人が三味線を持って歌いながら囃す。一種の大道芸的な要素を持つ見せ物であり、商売でもある。

餅つきには普通は一人の「捏ね取り」が居るが、四、五人の杵裁きで捏ね取りは居なくとも上手につき終り、最後には五色の色を付け、取り巻いた見物人に売る。囃子歌を憶えていない処を看ると左程面白いものでは無かったようだ。

何と言っても見事だったのは「捻り鉢巻き」をして彩りが様々な法被を着て杵を持った数人の人達である。彼等は剽軽で見事な身振りの、まさに手を振り脚を振り上げて踊るような餅つきの仕草やその様子だ。

時には臼の中の餅を杵で空中高く放り挙げ、舞い上がった餅はチャント元の臼に戻る。皆ハラハラして眺めている。まるでアクロバットだ。

Blog を見廻って居ると「餅つき踊り」と云うものが日本全国にあることを知った。例えば、埼玉県の川越市南大塚(県指定無形文化財)、武蔵野市西福寺、大宮市の「日進餅つき踊り」、熊本県宇城市の豊年餅つき踊り、香川県善通寺市の三味線餅つき踊り、金沢市上野町の餅つき踊り、秋田県北秋田市五味堀の餅つき踊り、青森県東通村の田植え餅つき踊、神戸市法界寺など。

また、踊りはないが「餅つき唄」と云って歌だけがある地方も存在するらしい。しかし、此れらは「七五三のお祝い」や「五穀豊穣を祈っての神仏行事」の一つ、または「悪魔退散」を願う風習などであり、銭儲けのプロではない。それは夫れで亦面白く、多くの人が見物するらしいが、餅をつく人達は素人の住民やお参りの善男善女である。

上述の大道での商売である「踊る餅つき」とは仕業も、踊る技術も全く別物である。私はその餅が旨いかどうか食べたことはないので知らない。子供なりに面白くて野次馬的に「もぐり」の見物人として見とれていた。娯楽の少なかった時代である。場所は大阪市の住吉区のこと。今でもこんな商売は未だ何処かに残っているのだろうか?

今を去る80年も昔の記憶に残る懐かしの一齣である。

 

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MarkoPolo

マルコ・ポーロは本当に

中国を訪れたのか?

 

「東方見聞録」(La Description du Monde)のミステリー

 

2008/03/01

真道 重明

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La Description du Monde  東方見聞録

 

学生の頃、私はマルコ・ポーロの話《東方見聞録》を文庫本で読み興味を持った。その後、20歳代の終り頃、ものの本で「マルコポーロが中国(元朝時代)を訪問し中国に実在して居た初めての証拠を発見」と云う記事を新聞で読んで驚いた。・・・というのは「彼が本当に中国に行った経験があるのかどうか?換言すれば、彼は嘗て中国に足を踏み入れたか否か?に就いては多くの疑問点がある」ということが中学生の時に読んだ本に書かれていたからである。

私は早速、文庫本の著者である京都大学の大先生にその事を手紙で伝え、ご意見を尋ねた。大先生は親切にも史学には素人であり、しかも一介の20歳代の若僧である私宛に詳しいご返事を下さった。今から半世紀以上昔のことである。

「確かに数年前にそのような話はあったが、人違いの誤認であって中国でも Marco Polo (馬可・波羅、中国語の漢字表記)とは別人であることが判明している」。また「従って、マルコ・ポーロなる人物が本当に元朝時代の中国に来たか否かの疑念問題は振り出しに戻った侭である」との主旨であった。

ご承知のように、マルコ・ポーロ(Marco Polo 、1254 - 1324)は、ルスティケロの著作である《東方見聞録》(原典の題名は "La Description du Monde"、英訳するとDescription of the World 即ち「世界の記述」、日本では「東方見聞録」の題名で知られる)を口述したというヴェネツィア共和国の商人、旅行家。

また《東方見聞録》は "Il Milione" 《百万》と云う題名でも知られ、その理由はマルコ・ポーロが獄中でルスティケロに口述した際の、またその後ルスティケロが執筆を始めた際にマルコから取り寄せたアジアに関する話のノートの中で「百万」と云う言葉を好んで常に繰り返して居た為だと云う。ヨーロッパの人々には信じがたい壮大な内容を含んでいたため、マルコは嘘つき呼ばわりされ、アジアで見た物を数えるときいつも「100万」と言ったことから、「百万のマルコ」とあだ名されたという説が有力であるようだ。

差し詰め日本の「千三つ」、(センミツ、真実なのは千のうちわずかに三つだけという意、嘘つき。法螺吹き、広辞苑6版)と云う言葉と同じだ。また、一説には、マルコが百万長者の財を成した為にそう呼んだとの説もある。

だが、マルコ・ポーロの口述内容は後の大航海時代に大きな影響を与え、《東方見聞録》は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観を一変させた。彼の時代以降、世界地図として一般的だった古い地図は激減し、大きな社会的変化を呼び起こし、ルネサンスにも影響を残すことになったと云う。(以上はWikipedia 日本語版を参照)。

日本では、ヨーロッパに日本のことをジパング(Zipangu)の国名で呼び、初めて世界に紹介したことでもよく知られている。《東方見聞録》では、日本は「黄金の国ジパング」と紹介されているが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。しかし後に新大陸を発見したコロンブスの新大陸アメリカを発見する動機となったと云われているのだから、この書が世界史に大きな影響を与えたことは否めない。

ご承知のように、《東方見聞録》は4冊の本からなり、1冊目には、中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことが、2冊目には、中国とフビライ・ハーンの宮廷について、3冊目には、ジパング(日本)、インド、スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について記述され、4冊目には、モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について記述されている。

マルコ・ポーロに関する書籍は、上述の謎を含め日本でも多数出版されているので此処では述べない。マルコ・ポーロの謎と云うのは、《東方見聞録》の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なこと、その上、中国側の記録には、マルコポーロに相当する人物が見受けられないことも、マルコの業績に疑問を呈する一因となっている。

《東方見聞録》は複数のヴェネツィア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に仮託して纏めた物ではないかとも考えられ、また、マルコが実際に行ったのは西アジアあたりまでで、そこで東アジアに往来した人々の話を聞き、あたかも自分が体験したように纏めたものに過ぎ無いのではないかという推測もある。

私にとってはとても好奇心をそそられる話ではあったが、その侭数十年が経過した。先日、ふとマルコ・ポーロのことを想い出し、最近では容易に中国の Web site の検索が可能なことから、中国ではマルコ・ポーロをどのように見ているのか?日本の Web site に出てくる多くの記述と比較したくなって些少の検討をした。以下にその結果を述べる。

 

 

マルコ・ポーロの《馬可波羅游記》(日本で云う「東方見聞録」は、中国唐代の玄奘三蔵の《大唐西域記》及び日本の僧、圓仁(慈覚大師)の《入唐求法巡礼行記》と共に世界におけるアジアの「三大旅行記」として中国では有名である。

マルコ・ポーロは漢字では音訳して「馬可・波羅、ピンインでは ma3 ke3bo1 luo2マーコ・ポール」と表記するのが普通であるが、波羅を「孛羅」と書く場合もある。孛は bo2 である。また中には「菠羅」などと記したものある。(但し簡体字は日本常用漢字に置き換えた)。中国の幾つかの検索サイトで馬可波羅で検索すると、維基百科(Wikipedia の中国語版)を含む多くのサイトに夥しい数の色々な記述が見られる。

その一端を例示すると:−、《東方見聞録》は《馬可波羅游記》と呼ばれ、著者のルスティケロも原語の氏名である Rustichello da Pisa を明記してある。ポーロは中国北部を「契丹」(Cathay、中国南部を「蛮子」(Manji )と呼んだとして居る。

ポーロは1266年に現在の北京(汗八里 Khanbaliq 、漢字では元大都または略して大都と書く、なお Khanbaliq は大汗の居処の意)でフビライ(忽必烈 Kubilai 1215−1294、廟号は「世祖」、諡は「聖コ神功文武皇帝)に会ったとして居る。蛇足:フビライは漢字名の忽必烈の「忽」を漢音で「フ」と発音することに由来する。「クビライ」と仮名書きする人もあるが、この方が蒙古語の源音により近い

このような書き出しから、多くの中国語サイトの記事は日本語サイトのマルコ・ポーロの記述と大筋に関しては殆ど変わらない。だが、一部の中国の現代の史学家はマルコ・ポーロが間違いなく中国を本当に訪れたと信じて居る。しかし、他の一部の人達は、下記で述べるように、ポーロが《東方見聞録》にあるような多くの地方を訪問したことには疑問を持って居り、それらは他人から聞いた話を自分の体験であるかのように述べたものと推測している。

此れら一部の人達はマルコ・ポーロの記録は不完全であるとして居る。何故なら、常に何処ででも見られるもの、例えば「箸」、「茶」、「裹脚布」(纏足習慣)、「万里長城」などの記録が一切無いこと、元朝の歴史記録に彼がフビライの特使として揚州の知事になった故事は記載されて居らず、また漢文で書かれた中国の歴史書に彼の名前が全く現れていないことを指摘している。

しかし、別の視点から見ると、マルコ・ポーロの口述は遠東(極東)の人々の生活、及びそれらの詳細、例えば、紙幣、大運河、蒙古軍、虎、国家の郵便制度の仕組み・・・などを描写して居る。また、日本の古称を挙げ、これは日本の存在が西欧諸国に紹介された最初のものである、また、大都(北京)近郊にある一つの大きな橋である盧溝橋なども紹介している。

マルコ・ポーロは中国を訪問した史上最初の欧州人では無いが、その記述はその真偽は別として、欧州人に大きな影響を与えた。また伝え聞く処では、彼はイタリアに中国の麺条(中華麺、これがスパゲッテイやマカロニとなった)や氷淇淋(アイスクリーム、イタリヤのジェラート)を伝えたと云う。

注記:私はアイスクリームに就いては驚きであったが、蒙古には嗜好品として存在していたことはアイスクリームに関する歴史にもアイス・ミルクとして記載されている。ポーロ(または当時のキャラバン隊の誰か)がその製法を学んで技術を中国からイタリアへ持ち帰ったのは事実のようである

杭州の西湖の辺にはマルコ・ポーロの立像が在るが、これは彼が杭州を「世界で最も美しい天城」と褒め称えたことを喜んだ中国人が建てたのだろう。なお、ベネチアの国際空港は「マルコ・ポーロ飛行場」と呼ばれている。

マルコ・ポーロの時代、中国は蒙古族の元朝に支配されて居た。西方から来た多くの商人達はポーロを含め蒙古語や回族の言葉は喋れたが、中国の史家はポーロは中国語は地名などを除くと、「漢字は読めず、また中国語は喋れなかったのではないが?」と推測している。

20世紀1960年代、ドイツの著名な蒙古学者 Herbert Franke 、また、1970年代末以降には英国やアメリカの多くの学者が「マルコ・ポーロは本当に中国に住居していた経験が在るのだろうか?」と云う疑問を述べ、John HaegerCraraig Clunas、および Frances Wood などの論文は中国の学者の注意と反論を惹き起こした。日本でも Wood の論文は「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」と題して訳されている、1995年、栗野真紀子訳、草思社、1997年11月、ISBN 4794207891

冒頭で述べた私の質問の手紙は1950年頃だと思うが、世界の東アジア史の専門家の人々の間では、この疑問はかなり以前から問題視されて居たように思われる。1940年代の私が中学生当時に読んだ本にも、その疑問が記されている

さて、故 楊志玖教授(南開大学歴史系、蒙古学、回族学、蒙古・ウイグルなどの言語にも詳しい。南開大学の所在地は天津市、周恩来・温家宝などが学んだ名門校)は問題の疑問点を以下の4点に整理して論じている。

  1. 莫大な数になる中国の史籍の中にマルコ・ポーロに関する記録が一つも見当たらない。

  2. 中国に関する(欧州人にとって)特殊な物事、例えば、「茶葉」、「漢字」、「印刷技術」などが全く触れられて居ない。

  3. 説明されて居る記事に多くの誇大な表現や錯誤がある。例えば、襄陽を攻撃するための砲火武器の技術提供は事実に反し、また蒙古の王族の系譜に関しては混乱や曖昧さがある。

  4. 非常に多くの記載内容はペルシャ語文の《導遊手冊》(旅行案内ハンドブック)の中からの抄訳であると考えられる。

楊志玖は「マルコ・ポーロが本当に中国に来たのか否か」に疑義を抱く論者達の最大の問題点は、蒙古の元代の総ての歴史に関する典籍の中に、「現代に到るもポーロに関係のある記事が一つも発見されて居ない」点であるとして居る。

また楊志玖は、一部の学者がマルコ・ポーロの中国滞在に関する如何なる証拠も存在していないことは認めつつも、彼は確かに長途の旅行中に中国に滞在して居たと考えているが、「ポーロの述べた幾つかの物語が当時の歴史上の事件と符合し一致しているに過ぎない」と断じている。

マルコ・ポーロは「政略結婚のための公主(国王の娘)を護衛して中国を離れ帰国の途に就いた」とポーロ自身が云っている件であるが、その中で最も人の注意を惹くのは、ペルシャの三名の使節の名前とポーロの言とが完全に符合する点である。此の一件に関し、学界では今迄に調べた漢籍の文献中で見付かった事柄の中での「ポーロが中国に実在したこと」の唯一の間接的証拠として「マルコ・ポーロの中国存在説否定派に対する攻撃材料としている。

しかし、その記事の中には「馬可波羅」(マルコ・ポーロ)の名前は記されていない。この事は返って「ポーロの中国存在説懐疑派に有利とも考えられる」と楊志玖は云う。

《元史》の中に、「1277年4月2日の枢密副使孛羅・・・云々」と云う記事が在り、「孛羅」は「波羅」(マルコ・ポーロ)の他の音訳とされ、「孛羅」の名前は《元史》の中に頻繁に現れる。この事が長期に亘って論争の的となったが、《元史》の内容を良く読むと、明記された年代にはマルコ・ポーロは未だ中国に向かう旅の途上にあったか、若しくは中国到着の直後であり、枢密副使などの重責に任せられる筈は無いと考えられる。ちなみに現代音では「波」も「孛」も同音、但し前者は一声、後者は二声

「孛羅」と云う名前は《元史》の中に良く現れ、「蒙古の貴族の氏名の一つと考えるべきで、「波羅」(マルコ・ポーロ)を指すものではないと思われる」と楊志玖は云う。蒙古語を始め、ウイグル族の色々な言語に詳しい楊志玖は、彼が調べた結果では、マルコ・ポーロの漢字の音訳は7個ある。(下記の表を参照)。

 

  1. 1853年、香港英華学院 《西国通商原委》 の訳では“馬歌坡羅”

  2. 1874年、映堂居士的 《元代西人入中国述》 の訳では“博羅馬格”

  3. 1913年、魏湿(湿のさんずい偏が無い字)、林舒(舒の字は糸偏に予の字)の《元代客卿郷馬哥博羅游記》の訳では“馬哥博羅”

  4. 1929年、張星烽(烽の字は火偏に旁が良の字)翻訳の 《馬哥孛羅游記》 の訳では“馬哥孛羅”

  5. 1936年,馮承釣翻訳の《馬可波羅行記》の訳では“馬可波羅”

  6. その他に”馬可孛羅”および現在よく使われる馮承釣の”馬可波羅”がある。

 

楊志玖は混乱を避けるため、馮承釣の上海世紀出版集団が2001年出版したものにならって、中国では人名の Marco Polo は漢字では「馬可・波羅」、問題の書籍の題名は漢字では《馬可波羅行記》と統一することを提案している。

真道記:論文や引用文献の表記に外国人の名前を示す場合、「名、Given name 」、「姓、Family nane 」、または、その間に「クリスチャン・ネーム」の三名式にするか?、またそれだけはキャピタルだけにするか?と云う問題に対しては我々にとっては理屈が分かり易いが、私の僅かな経験でも、教え子に、マレーシアやインドネシアなど回教圏の人々の名前(アラブ語化?)の中には著しく複雑なものがあって、何処まで書けば良いのか分からなかったり、逆にビルマ人のなど場合は簡単過ぎて、どのように表記すればよいのか迷うことがしばしばあった。古代の日本などでは一名式が多かった、例えば、「うがやふきあえず-の-みこと」や「ひこほほでみ-の−みこと」など皆一名である。蒙古語や西域諸国の言葉に通じていた楊志玖が氏名の表記に拘るのは良く分かる

 

 

既述のように、《東方見聞録》は「世界のアジアに関する三大旅行記の一つ」として中国では有名であるが、他の二つ、即ち中国唐代の玄奘三蔵の《大唐西域記》と日本の僧、圓仁(慈覚大師)の《入唐求法巡礼行記》は何れも本人の手によって漢語で書かれて居り、一方 Rustichello da Pisa (ルスティケロ)によってイタリヤ語によってマルコ・ポーロのノートや獄中での口述などを取り纏めて書いた《東方見聞録》は、しばしば写本され、また各国語に訳されたが、祖本は断片的には残されてはいるものの、完全なものは残って居ないと云うことである。

マルコ・ポーロが中国を訪れたことが事実だったとしても、当時の中国は漢民族ではない他民族である蒙古族の支配下にある元朝であった。元朝は武力では強くても文化的に勝っている漢民族の影響の中に巻き込まれた社会に変貌して行った。《元史》は元王朝についての「正史」であるが漢語で書かれて居る。また、その記述内容には多くの矛盾や齟齬があり、明時代に改訂版が出されたと聞いて居る。

なお、楊志玖の云うように漢語ではない「蒙古語や非漢語で書かれた厖大な文献類は未だ手が付けられて居らず、色々な疑点の解釈には「気が遠くなる程の作業が必要らしい。

私は楊志玖の云うように、マルコ・ポーロがノートしたりルスティケロに口述したとされる内容は、当時多くいた東西を行き来する商人から聞いた話を口述内容にに織り込んだ「セミ・フィクションでは無かったのか?」と云う気がしてならない。

また、マルコ・ポーロ以前にも東アジアを訪れた近東や欧州のキャラバン隊の商人は数多くいた筈だから、それらの人がアジアについて何も云わなかったのだろうか?商売上の今で云う企業秘密で、敢えて黙していたのだろうか?これも史学には素人の私にとっては不思議である。

 


 

本題に関しては公開後直ちに、閲覧者から幾つかのメールを頂いた。その総てが確証は無いが、ポーロ訪中に就いては懐疑的である。
面白かったのは「東方見聞録」は見聞ではなく聞聞、即ち「東方聞々録」と呼ぶべきだ・・・と云うべきだと人から聞いた」と云うものだった。

多くの日本人がマルコポーロの話に興味を持ち、しかし、だが「何か変だぞ」と感じているらしい。

 

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Ice_Cream

アイスクリームのルーツは古代

の中国の「氷淇淋」だと云う説

 

イスキャンデーやかき氷にシロプを掛けた食べ物などいわゆる氷菓の類は、世界各地に古代から在り、中でも「アイスクリーム」の元祖は中国の元朝時代の「氷淇淋」であると云う。特にアイスクリ−ムは私はテッキリ製氷機が欧米で作られた後に出来たものと思っていた。「へ−」と思った。
紫式部や江戸の将軍や諸大名の口にしたものは?また、ジンギスカンやフビライはアイスクリームを食べたのだろうか?

氷菓に関する閑な老人の無駄話。

2008/03/12

真道 重明

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閑な老人の無駄話。お読み下されば懐かしい人も居られよう。小学生の頃、暑い盛夏に食べた「冷たい菓子?」には色々在った。ガラスのお椀に盛った定番の「かき氷」、それを丸めた「氷饅頭」、何れも毒々しい赤色のイチゴやメロンと称する甘いシロップが掛けてあった。また、小振りのガラス椀に寒天を流し込み、甘いえきを加えて氷水で冷やして固めた赤色や青色の寒天、その名前は忘れたが、総菜屋や八百屋の店先で売って居た。

試験管に棒を一本突っ込んで甘い液を冷やし固めた「アイス・ケーキ」、これは自転車に乗って売りに来た。それから、鶏卵大のアルミの容器に甘い液を流し込み、冷やして固めた「アイス・ドロップ」、色は各種あってイチゴやメロンの外にも、レモンやミカンなどと云ったものもあった。此れは手押し屋台で売って居た。

「かき氷」と「氷饅頭」は70年後の今でもあるが、氷を削る大きな鉋は間も無く手回し削氷機に変わった。氷を削る大きな鉋時代「縁日」や「夜店」で売って居たのだがアセチレンの臭いに混じって♪「冷やこいで−、冷やこいで−!」♪と歌うように大声で客を引いていた。名前を忘れた寒天菓子と「アイス・ドロップ」なるものは数年にして街頭から消え去った。多分あまり売れなかったのだろう。

一方、「アイス・ケーキ」は品質が向上して、「アイス・キャンデー」や「アイス・ステック」などと改名して70年後の現在でも健在である。戦前、長春(新京)の街路を大声を張り上げて「ピンパン・ピンパン」と叫ぶ物売りがあるので、何だろうと窓から覗くと「アイス・ケーキ」売りだった。「氷棒」と書くらしい。また「氷棍」とも書くと辞書にあった。「ピンパン・ピンパン」の言葉の発音が面白かった。

子供の頃の定番中の定番の氷菓は「アイスクリン」であった。高級な食堂で出る値段の高いものは「アイス・クリーム」と呼び、街頭で売って居るのは「アイスクリン」であった。コーンの上に量を多く見せるため、篦で貼りつけるように盛ってあったのを憶えている。

一方、1869年(明治2年)に町田房蔵と云う人が横浜の馬車道通りと呼ぶ処に開業した「氷水屋」と云う店で製造販売したアイスクリームを「あいすくりん」(平仮名書き)と名付けた云々・・・という記録がある。値段は一個が2分(現在の貨幣価値で約八千円)と云う当時としては非常に高価なもので、一般には浸透せず売れなかったらしい。原料は、生乳、砂糖、卵黄といた簡単なものだったと云う。

私達が子供の頃、街頭で「買い食い」した「アイスクリン」は、砂糖や卵黄は多くはなかったかも知れないが、上記の当時より60年も前の明治時代の横浜の「あいすくりん」に近いものだったのかも知れない。だとすると、「アイスクリン」の名称はいい加減なものでは無く、由緒正しいもので、私らの云う「アイスクリン」はその末裔かも・・・。私は「アイスクリン」は「アイス・クリーム」の名前が単に訛ったものだと思っていたのだが・・・。

 

 

氷菓の分類は国によって若干異なるようだが、日本の専門業界では二つに大別されると云う。第1類は、「アイスクリーム」 (乳固形分15%以上、うち乳脂肪分8%以上):「アイスミルク」 (乳固形分10%以上、うち乳脂肪分3%以上):「ラクトアイス」(うち乳脂肪分3%以上)。これは「乳及び乳製品の成分規格等に関する省令」によっても表示が決められている。

第2類は「かき氷」、「シャーベット」など。上記の分類に含まれない冷凍菓子を指す・・・となっているが、アイス・テ−やアイス・コーヒーも Blog の宣伝では冷菓に含めてある喫茶店が多い。規格にある「冷凍菓子」の冷凍は凍結を意味するから、細かいことに拘るようだが、アイス・コーヒーや前記の氷水で冷やした甘い寒天、甲子園名物の「かち割り」などはどうなるのだろう。

乳製品を天然の氷や高山の万年雪を運んで来て冷やして食べる習慣は紀元前より見られた。ユリウス・カエサル[注:1] やアレキサンダー大王が乳や蜜に氷や雪を加えて飲んだという話が伝わっている。また、マルコ・ポーロは中国で乳を凍らせたものを食べ、その製法をイタリアに伝えたという話は有名ある。(以上は Wikipedia 日本語版、アイスクリームに依る)。[製法をイタリアに伝えた話は後で詳述する]。

[注:1] ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー、BC 100〜44)も、冷たいものが好きだったようで、嗜好品としての味を求め、アペニン山脈から運ばせた氷や雪に「乳」や「蜂蜜」および「葡萄酒」などを混ぜ合わせたものを冷やして飲んだとと云われて居るそうである。

[注:2] アレキサンダー大王は、更に古く、紀元前4世紀ごろ、大帝国マケドニアを樹立したが、彼は「乳」、「蜂蜜」、「葡萄酒」などに氷を加えた氷菓を好んだとされる。そして、難攻不落の城塞都市パラオを包囲した際には、甘い飲み物に雪を被せて地下壕に貯蔵、兵士たちに与えたと云う。兵士たちはこの冷たい飲み物で元気づき、士気を高めたと伝えられて居るそうだ。

 

 

16世紀初頭から中期に掛けて硝石を用いて水を冷却し、氷を人造する「製氷の原理が発見」され、冷凍技術の発展に伴い近代の製氷機が現れる迄は、世界中何れも天然氷や天然雪を洞窟や保蔵庫(日本で云う〈氷室〉ヒムロ)に夏期まで保管し、これを使って氷菓を作った訳だから、非効率であると共に、輸送にも手間が掛かり、高価なため庶民の口には入らず、上流階級や権力者だけが口にし得たのは当然であったろう。

日本ではどうだったんだろう。製氷の技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管した。正確な記録は残されていないが洞窟や地面に掘った穴に茅葺きなどの小屋を建てて覆い保管した。これを「ヒムロ、漢字では氷室」と称した。

従って夏場の氷は極めて貴重品であり、永らく貴族や将軍家など一部の権力者のものであった。氷室とそれを管理する職は各時代において存在し、明治時代になって消滅したそうだ。江戸時代には、毎年6月1日 (旧暦)にあわせて、加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあった。氷室は現在も各地に実在するし、神社の神事やお祭りの風習が各地に在る。

藩政時代から明治時代にかけて売られていた「白山氷」は、天然氷を熊笹の葉で三角に包んだもので庶民にとても人気があったと云うから、江戸時代以降、日本では氷を庶民も口ににして居たようだ。恐らく「かき氷」のようなものだったろう。夏に庶民が氷を食べたのは日本が世界で最初だったかも・・・。「教育システム」(寺子屋)や「浮世絵」など、またこの「白山氷」などを見ても、江戸時代の日本社会は封建社会であったにも拘わらず、当時では世界に冠たる「庶民の社会」だったような気がする。

話が逸れそうになったので本題の日本の氷菓に戻す。平安時代、清少納言が書いた「枕草子」の中に「あてなるもの」(貴重なもの)は何々と挙げて居るものの中に「削り氷に甘葛入れて、あたらしき鋺(かなまり)に入れたる(もの)」と云う記述があり、また「削り氷にあまづら入れて、あたらしきかなまりに入れたる」と書かれているそうだ。「あまずら」は蔓草(つるくさ)の一種である甘茶蔓(あまちゃづる)や甘葛(あまかづら・あまづら)のこと。その甘味のある樹液を掛けて飲んだようだ。「かなまり」は金鋺(金属製の容器」のこと。「削り氷」(ひけずり、「ひ」は氷の意)と読む、かき氷のこと。

また、紫式部の「源氏物語」には、夏の暑い日、宮中の女房たちが夏の夕暮れ時に氷室から取り出した氷を割って、額や胸などに押し当てて涼をとる様子や、夏の盛り、源氏の君が青年達に氷室から出した氷を振舞う様子が描かれていると云う。

此れらは恐らく「かき氷」風のものだったと思われるが、書かれた年代が千年前の平安朝時代だ。多分そのかなり以前から「かき氷風の冷菓」は貴族や上流階級の間では飲食されていたのだろう。明治時代に入って欧米の製氷機が導入されて以後のアイスクリームを含む冷菓に関する情報は日本は勿論、世界中に沢山あるが、此処では触れない。

ただ、アイスクリームは1550年頃にイタリアで考案され、これがフランスに伝わりパリで初めて商業提供を始め、イギリスには1624年にはイギリスに伝わった・・・という記述を見たことがある。此れらはレンゲメを使用したシャーベットに近いものだったらしい。1846年にアメリカに伝わり、現代風の乳製品のアイスクリームになったと云われる。なお、1867年にはドイツに伝わり、冷凍技術と酪農の発達に伴い工場生産時代に入った・・・とされる。(日本に伝わったのは1869年、明治2年)。

最初に発明されたのがイタリアである点に以下に述べる話との因縁を私は感じる。イタリアでは氷菓は Gelato (ジェラート、凍ったの意)と呼ばれ、現在もそう呼ばれている。

 

 

さて、冒頭に触れた「氷淇淋」(ピンチリン)のことだが、中国語を習っている時、中国語ではアイス・クリームのことを「氷淇淋、bing1 qi2 lin2 」と云うと教えられた。(簡体字では氷は「にすい偏に、水を旁とする。稀に「雪餅」と書いたものもある。

中国における氷菓の歴史を中国の網站(Web Site)で調べてみた。中国の「冷飲」(氷菓)の歴史は凡そ三千年前の「商」(殷、国名を商と自称)の時代に遡る。当時の富貴な人達は天然氷を貯蔵庫に保管できることを既に知って居り、夏の暑気払いに用いた。

周時代には氷菓に関係した記録はないが、春秋末期になると氷の用途は広がり、諸侯は宴席で好んで「氷鎮米酒」を飲んだと云う。《楚辞・招魂》の中には多くの句があり、当時の冷飲食品の技術のレベルはかなりの高い水準に達して居たらしい。

唐代になると市場で氷製品を売るようになり、人々は競って買ったと云う。商人は氷に砂糖を加え顧客を引き付けるようになったと云う。宋代になると更に進歩し、種類も増え「冷飲専売店」が現れた。

楊万里の詩に:−

帝城六月日停午  市人如炊汗如雨

売氷一声隔水来  行人未吃心眼開

と云うのがある。

北宋の開封の氷水屋では「氷糖氷雪氷元子」の名の氷水で冷やした酸梅湯(現在もある嗜好飲料)独特の風味があった。南宋の臨安(今の杭州)では街路上で「雪泡豆水」、「雪泡梅花酒」等々が売り出され、絵にも描かれて居る。元代から後になると、「冷飲」(氷菓)の歴史は大きく変わった。それは「氷淇淋」の出現である。

『紀元前二千年頃 ソフトクリームのルーツは、なんと四千年も昔の中国だった。紀元前二千年頃から中国では家畜の乳しぼりが始まり、ミルクはとても貴重な飲み物だった。ミルクを長時間煮てから雪で冷やし、軟らかい糊状にした氷菓(現在のシーベットに近い「アイスミルク」)は、大金持ちのシンボルだった。また、果肉入りのジュースを雪やアイスミルクとまぜたフルーツアイスも作られていた』との日本の記述がある。

また、続けて『13世紀頃 シルクロードを通って、中国からイタリアへ・・・。中国で長く伝えられていたアイスミルクをイタリアへ伝えたのはマルコ・ポーロだったという説がある。1295年、マルコ・ポーロは25年間に及ぶアジア横断の旅をおえてヴェネツィアに戻り、「東方見聞録」を著したが、その際、北京で出会ったアイスミルクの製法をイタリアに持ち帰った。これによって、氷菓の製法がヨーロッパに広まったといわれて居る。果たして真実は如何に?』、と述べている。

中国のサイトで見付けた幾つかの記述では:−

幾つかの伝えられた説によると、例えば《杜陽雑俎》 (晩唐の五代時期の小説集) の中に「冷飲」の製法が述べられて居り、13世紀に蒙古帝国の統治者達は「氷淇淋」の製法を国家の統制事業とし、作られた氷淇淋は皇室用だった・・・として居る。

イタリア人マルコ・ポーロが中国に来てから、「氷淇淋」その他の冷菓の製法を知り、これらの知識をイタリアに持ち帰ったと云う。1955年にはそれらがフランスに伝わったと云う。19世紀には欧州では既にアイスクリームの工場が在った。 (中略) 中国から西方に伝わった氷菓は現在のアイスクリームではなく、果汁を氷塊で攪拌して作ったものだとも云われている。

また《冰淇淋的歴史:欧洲宮廷的繁栄史》では、(前略) イタリヤ人旅行家マルコポーロ(1254−1324)は中国を遊歴した時、「凍+[女偏に乃を旁とした字、乳の意]+酪」(Ice Milk)の製法を看て、帰国時に製法をイタリアに持ち帰った。この神秘的な製造方法はイタリアの宮廷内で200余年に亘り外部には流出しなかった。1533年になって皇女がフランスに嫁した時に同国に伝わり、乳油・鶏卵及び各種の香料を加え「氷淇淋」と称し美味であった。フランスの宮廷内では「乳油氷」(Cream Ice)と称した・・・(以下略)とある。

此れら以外の記録も幾つか在ったが、内容は探し当てたものに関する限り、その内容は大同小異であった。記事の内容が相互に若干矛盾したり食い違ったりして居るが、文献の性格上止むを得ない。

 

 

元朝時代の中国には乳製品を使って天然氷で冷やした冷菓が既に存在していたことは、恐らく間違いなかろう。だとすると、フビライ(忽必烈汗)やジンギスカン(成吉思汗)がこれを口にした可能性は充分考えられる。

驚いたのは、冒頭の部分で書いたように近代の製氷機が発明されるまでは、冷菓は貴族や将軍・大名などの独占物と思っていたが、「かき氷を江戸庶民が食べて居た」ことを知ったことだ。更に驚いたのは、中国では宋の時代には既に街頭に冷菓の専門店があったことである。欧米では恐らく庶民は口に出来なかったのではあるまいか?

「マルコポーロが中国から乳製品の入った氷菓をイタリヤに持ち帰った」と云う話は多くの文献にあるが、私は彼が中国(統治は元朝)を訪問したことが事実か否かに就いては懐疑的であるため、「氷菓の製法を中国からイタリヤに伝えられた」ことは、事実で在る可能性は高いが、ポーロではなく彼が聞いた当時のキャラバン隊の商人達の誰かの話を自分の経験のように「東方見聞録」の著者に喋ったのでは無かろうか・・・と憶測して居る。

何れにせよ、それは日本アイスクリーム協会の云う「アイスミルク」ないし「ラクトアイス」のようなものだったのかも知れない。日本では明治期になるまで乳製品の入った冷菓は無かった。それにしても、平安時代の貴族の女官達に好まれた甘葛の「氷削り(ひけずり)」、江戸庶民の天然氷を熊笹の葉で三角に包んだ「かき氷粽」とでも云うべきものなど、想うと何だか「いとおしい」気持ちになる。

子供の頃数回観戦に行った甲子園には「かち割り」と称するガーゼの小袋にブッ欠いた氷を入れたものが在った。今でもあるらしいがアイスクリーム・ソフトクリーム・シャーベットなどの新しい氷菓類に押されて消滅寸前だという。溶けた氷水を舐めるように舐るだけで無く、偶には頭に載せ落ちないように帽子を被って涼を取ったものだ。そう云えば平安時代の女官達も「かき氷を袋に入れて額や脇の下に押し当てて涼を取った」と云う。何とも艶めかしく微笑ましい。

 

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ITUKIkomoriuta

五木の子守唄 (熊本県球磨郡)

デンデラレン (熊本県・長崎県)

 

2008/03/21

真道 重明

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私が生まれた熊本の民謡・わらべ唄を二つ。「おてもやん」を始め、私が憶えている熊本の俗謡は幾つか在るが、五木の子守唄は今や全国に知らない人は居ない。一方、「デンデラレン」は最近、長崎出身の「さだまさし」さんがNHKの朝の子供の番組で歌ったので想い出した。肥前・肥後一帯に拡がる「わらべ歌」らしい。歌詞も色々少しは違っている。熊本が元祖か、それとも長崎か知らない。

 

五木の子守唄

 

♪ おどまかんじんかんじん、あん人たちゃよか衆、よか衆ゃよかおび よか着物 ♪

 オドマ・カンジン・カンジン、アンヒト・ターチャ・ヨカシー。ヨカシャ・ヨーカ・オービ・ヨカ・キーモン。

おどま「おどんな」(おどんは「私」、おどまはその短縮形、「私は」の意。熊本方言には拗音が多い、私はおどまおどみゃと聞いた気もするが定かではない)。かんじん々々かんじんは勧進帳の勧進。仏閣建立や修理を装って喜捨を請うのだが、実際は「乞食」の意。自分の身の上を「乞食」のようだ・・・と自ら哀れんで居る。あん人たちゃは「あの人達は」の意。よか衆は「良い(金持ち)」。よかおび よか着物は「良い(上等)の帯、上等の着物」。

♪ おどま盆ぎり盆ぎり、 盆から先きゃおらんと、 盆の早よくりゃ、 早よ戻る ♪

オドマ・ボンギリ・ボンギリ、ボンカラ・サーキャ・オーラント、ボンノ・ハーヨクリャ・ハヨモドル。

おどまは前出。盆切り々々の盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)、子守奉公の年季は盂蘭盆会の日まで・・・の意。盆で年季が明けるから、「盆が早く来れば父母が居る故郷に早く戻れる」の意。

 

♪ おどんが打っ 死んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか 裏の松山蝉の鳴く ♪

オドンガ・ウッチンダ・チュウテ、ダイガ・ニャーテ・クリュカ、ウラノ・マーツヤマ・セミノ・ナーク。

打っ 死んだ、熊本方言には拗音と共に動詞の接頭語が多い。ほんの数例を挙げても「死ぬ」を「ウッ死ぬ」、「なる」を「キャーなる」、「呑む」を「ヒン呑む」、「切る」を「ツン切る」、「曲げる」を「ヒン曲げる」など。打っ 死んだは「死んだ」の意。ちゅうては「・・・と云って」の意。だいがは「誰が」。泣いては拗音で「にゃーて」となる。くりゅうかは「呉れるだろうか?」。(子守の身の上の私に対しては、泣いてくれる人なぞ誰も居ないだろう。ただ裏山の蝉が鳴くだけ。淋しい限りだ)。

 

♪ おどんが打っ 死んだら  住環ばちゃ 埋けろ 通るひと 毎ち 花あぐる ♪

オドンガ・ウッチンダラ・ミチバチャ・イケロー。トオル・ヒトゴチ・ハナ・アグル。

うっちんだら、前出、「死んだら」の意。住環ばちゃ、住環は「道路、みち」、住環ばちゃは「道端に」の意。住環(おうかん)は「行き来する街路。数多く在る歌詞の一つに「みちばちゃ」に替えて「おかんばちゃ・・・」がある。「おかん」は往還の意。埋けろは「埋めて(埋葬して)呉れ」の意。毎ちは「毎に」。花あぐるは「花を供える」の意。(私が死んでも墓参などして呉れる人は居ないだろう。いっそ人通りのある道路端に埋めて呉れた方が、誰かが花でも供えてもらえるだろう)。

 

♪ 花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水 ♪

ハナハ・ナンノハナ・ツンツン・ツバキ。ミズハ・テンカラ・モライミズ。

供えて呉れる花は何の花だろう、椿だろうか?墓参の手桶の「閼伽水」が無くても、天から雨が降って呉れるから。(天からの「貰い水」で結構だ)。

 

 

子供の時、自家に在った数冊のアルバムの中に、祖父(1857年、安政五年生れ)が五木村の在る「五箇の庄」を細川家の藩主と20名ばかりの旧家臣と思われる人達で秘境探索?に出掛けた時の集合写真が在った。明治維新後に撮った写真である。

平家の落人が住み着いたとの伝説を持つ、当時の五木村は山奥の秘境だったに相違ない。鉄砲を持った人達もあり、アフリカ探検ほどでは無いにせよ、セピア色に薄れたその一枚の写真は何だか物々しい雰囲気で、私は見入った記憶が在る。猪や鹿なども多かったのだろうか?

今では全国的に有名になった「五木の子守歌」だが、私は祖母や母から聞いた憶えはハッキリしない。熊本の渡鹿にあった六師団の工兵隊で初年兵の時に憶えたような気がするが、定かではない。歌詞は幾つかの替え歌が在った。(熊本国府高等学校パソコン同好会のホームページに詳しい調査結果が記載されて居る)。

 

 

でんでられん

♪ 出んでらるるなら 出てくるバッテン ♪

♪ 出んでられんけん 出んけんこんけん ♪

♪ 来んこられんけん 来んけんこん ♪

 

出んでらるるならは「出られる(外出できる)ならば」の意。出てくるバッテンは「外出して来るのだが」(バッテンは「・・・けれども」の意、熊本や長崎ではよく使われる言葉。

長崎出身の「さだまさし」さんがNHKの朝の子供の番組で歌ったので一躍有名になった。「遊びに来ないか?」と友に誘われて、「行けない」と断る・・・だけの内容だが、九州以外の人からは「意味が分からない」との問い合わせが多いとのこと。

出んけんこんけん来んは「来ない」、けんは「だから」の意。従って来んけんは「来ないから」となる。問題は「来る・行く」の使い方だ。標準語では、友から誘われて「午後三時に行く」と云った場合を、九州方言では「午後三時に来る」と相手に答える。此処で理解に混乱が起こる。標準語では「行く」と「来る」では意味が逆となるから。出んけんこんけんは「外出しないから(そちらには)行かない」。最後のこんは「来ない」の意。

「さだまさし」の唄は『でんでらりゅうばでてくるばってん、でんでられんけんでてこんけん、ごんごられんけんこられられんけん、 こん、こん』となって居た。「でんでらりゅうばは、「出られるものならば」の意。

「でん」と「こん」の語呂が交互に出て来るリズムが面白い。肥前や肥後の地方一帯に広く普及している「わらべ唄」らしい。メロディー (旋律)は平坦。

蛇足:幼児期から中学迄育ったのは大阪市の私であるが、家庭内での言葉は、両親や祖母は純粋の熊本弁だった。また天草の富岡(現在は苓北町)に足掛け3年、長崎市には23年勤務して居た。両県の方言は酷似して居る。富岡の言葉は双方に中間型である。酷似していると云っても詳しくは違う言葉も沢山あり、極端に言えば、町や村一つ違えば差異が在る。

富岡では「先生な〈ランキュウ〉は噛ますですかん?」と尋ねられて意味が分からなかった。聞いた最初、「電球を噛んだら大変だ」・・・。どうも可笑しい。ランキュウはラッキョウ(辣韮)のこと、噛ますは「食べる」の意。最後の「かん」は疑問の・・・ですかの「」?の意、此れが「かん」となれば尊敬語となる。「先生は辣韮をお召し上がりになりますか?」の意味である。

五島列島の三井楽には仕事で度々訪れた。「ミンのミンのミン」は、最初の「ミン」は「右」、中水」の「ミン」は「耳」、最後の「ミン」は「水」。つまり、「右の耳のに水が入った。(海に潜ったら耳に水が入った時、「みんのみんのみんが出て来ない、さて困った」と云うような場合。

処変われば言葉も変わる。

 

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Ushi&Uma

牛や馬は座るか?

奇妙な馬の行動を見た体験

(余録) 水牛の咄

2008/04/15

真道 重明

 

兵役で中国に派遣されているとき、南京の路上に「寝そべって居る」一群の馬が吾々が近付くと危険を感じたのか、一斉に折り畳んだ前後左右の脚を一本ずつ開いて、ゆっくりと立ち上がり移動をし始めた。その光景を目撃して私は驚いた。「アレツ、馬も臥せる事があるのだ」。寝そべって居る時の群は大した存在には見えなかったが、立ち上がって普通の立った馬の背丈になった20数頭の馬の群はとても「大きな群」とも云える存在に思えたからである。本当に私だけでなく、行軍していた皆が吃驚した。
幼年期の小学校・中学校(旧制)を大阪市、中卒後は進学のため東京都と云う大都会に住んで来た私には、牛や馬が街路を歩いている姿を戦後の60余年間に一度も見たことはない。テレビで放映される映像は別として、市街地の路上で生きた牛馬の歩く姿を肉眼で見たのは幼年期の僅かな体験と兵役や国際機関勤務だった外国での僅かな場合だけである。
南京での上述の奇妙な60年前の光景は今も脳裏に焼き着いているが、一体全体「馬などは座ったり寝そべったりするのだろうか?」。今回改めて気になった。例により駄弁を弄する。

 

が「座った」り、「寝そべった」り、「本当に睡眠した」りして居る姿を私は嘗て見たことがない。肉眼で生きている馬を見たのは立ち姿か走る姿だけである。映画やテレビの映像ではよく見掛けるのだが、こんなことを云うと多分畜産農家の人達には笑われるだろうが・・・。勿論、騎馬の経験も無い、尤も中国の万里長城で観光のための駱駝には一度乗って、その地上からの高さには驚いた事はあるが・・・。

元来、「座る」と云う姿勢は二本の脚で直立して歩行する人間の場合には「茶室などでの正座」・「禅寺などの座禅座り」・「胡座(あぐら)」・「椅子座り」・「小学校の朝礼時などで習う体育座り」・「しゃがみ(俗称ウンコ座り)」など多種多様である。しかし四足で歩行する動物の「座る」と云う姿勢は何を指すのかはハッキリして居ない。牛・馬・羊・駱駝などには「お座り」があるが?飼い犬の躾けに「お座り」と云う姿勢が在るが、此れは極めて特例、即ち特殊な訓練をした結果の姿勢らしい。

テレビのコマーシャルに牛か馬が「犬のお座り」の恰好をした画像が放映され、不思議がった人達から疑問が多く出されたそうだが、人工的に作った動画の合成画像だった。合成した動画の画像なら「逆立ち」、「片足立ち」、「トンボ返り」・・・何でも作れる。実写ではなく人工の虚像だから。不思議がった人達は畜産業に携わるか乗馬クラブの人々である。私から見れば牛や馬を良く知る玄人である。彼等が不思議がるのだから、『牛や馬の「飼い犬式のお座り」・・・』は先ず実際には存在しないようだ。

それなら牛・馬・羊などには飼い犬式の「伏せ」や「寝ろ」はどうなっているのだろう?・・・と次々疑問が湧いてきた。古典絵画に「臥牛」、「臥牛図」などと言うものがあり、そこに描かれた恰好を見ると腹を地に着けた「犬の伏せ」と良く似た姿勢て、いわゆる「寝そべった」姿である。これらの牛は多分休息しているのだろう。飼い犬の場合は姿は似ているが休息ではなく「次の指示を待って居る」のだろうが・・・。

ものの本や Blog site の書き込みによると「馬は起立した侭で寝る、横倒しになると自力では立ち上がれないので、場合によっては死に至ることもある・・・云々」と云う説明がされているものも幾つか在った。また「寝そべることも無いようだ」とも書かれて居る。果たして本当だろうか?冒頭で述べたように私は確かに中国の南京の路上で馬の寝そべっている姿を60余年前にこの肉眼で見ている。中国の馬は寝そべるが日本の馬は寝そべらないのか?私は好奇心から事の真相を調べたくなった。忠実に原文を掲げ、引用を明記すべきだが、学術論文ではないので抄訳したことをお許し願いたい。、

「馬は立って寝る事ができます。疲れている時は首を起こしてしゃがんで寝ます。非常に疲れた時はごろんと横になりますが、滅多にありま せん」と云う上記とは異なる記述を見付けた。或る篤農家の言である。前後の文章も素朴で生真面目な語り口で信頼出来そうに思えた。また此れとは別に「座るというのは人のように後ろ足で座るということなのでしょうか?」の質問に答えて「四本の足を畳んで寝るのは牛や羊など反芻動物であれば必ず行います。反芻行為は寝ないと出来ないからです。牛飼いの間では『寝る牛はよく太る』といいます。これは反芻時間が長いと、消化吸収の時間も長いので飼料効率が上がるためだと思われます・・・」とある。回答者は獣医さんらしい。

「二本足で座るかと問われれば、『中にはそういう癖を持った牛や羊はいます、人間で言うと体育座りに近いかな』。なかなか可愛いいですよ」と云った農家の、多分娘さんの書き込み Blog もあった」。また、或るサイトには「正常な牛、馬、羊なら、横になります。しかし、ある種の病気を患っているときに犬座姿勢(犬がお座りをしているような姿勢)をとることがあります」と云うれっきとした獣医さんの説明を見付けた。

獣医学や哺乳動物の偶蹄類や奇蹄類などの学術的な記載も調べて見た。

草食動物は馬をはじめとして一般的に睡眠時間が少なく、馬はだいたい四時間くらい。これは外敵に襲われたりするので,絶えず警戒していた野性の頃の習性が残っているからだといわれている。また、草食動物は餌を食べる時間が長いため、睡眠時間が少ないとも云われている。馬の睡眠の姿勢は三本足で立って寝る場合と腹ばいになって寝る場合とがある。疲れている時や子馬は横たわって寝ることもある。

馬は立ったまま寝ると良く言われるが、此れはいつ敵に襲われても逃げられるようにするためで、その場所が安全だとわかると、腰を落ち着けて深い眠りに入るようである。でもそれも十五分くらいで、そうするとまた立ったまま寝て、また座って…を繰り返し、結局一晩のうちに馬が熟睡するのは合計で三時間程度のようだ。

姿勢については、学術的には「立位」、「腹臥位(四肢を折り曲げて座った姿勢)」、「横臥位(四肢を伸ばし完全に横倒しの姿勢)の三つに区別している文献が多い。

次第に事情が呑み込めて来た感じがする。牛や馬には立位・腹臥位・横臥位の何れも存在するらしい。但し、馬では立位の状態が圧倒的に多く、腹臥位や横臥位は極めて稀で、普段馬に接している人でも滅多に見られない場合が多いようだ。牛の場合は立位の外に横臥位も普通に見られる・・・と云うより食物の消化と云う日々の生活に必須な姿勢のようだ。なお、横臥位も馬よりは牛には多く見られるようだ。

この項の表題に用いた「座る」という言葉は、厳密に定義しない限り安易に使用すると混乱を招きそうである。二足歩行のヒト(人間)の場合、色々な座り方があるが、欧米人には日本人の云う「正座」は一苦労しても出来ない人が多い。正座は躾けられたものだ。韓国での畏まった場合の正座姿勢は右足を折り曲げて立て、膝の上に右手の肘を置く。それも「躾け訓練」の結果である。

曲馬団などの馬は調教訓練で様々な姿勢を取るが、訓練の結果による人工的なものである。牛や馬も野生種と飼育種とでは或る姿勢を取る頻度が異なるようだ。骨格の構造に係わるので学術的な説明は面倒極まる事になる。

動物園のジラフ(麒麟)が休息姿勢の腹臥位から立位に移行するために、折りたたんだ前後左右の長い脚を一本々々延ばして、バランスを取るためユラユラしながら、やおら起立する姿の映像をテレビで見たが、実に面白く奇観とも云える。冒頭で触れた南京の街路上の馬の群の行動と同じだ。但しジラフの脚は細くて非常に長いから、この光景は私には仲々の「見もの」だった。

 

 

  1. 以上を纏めると、「牛や馬は座るか?」と云う質問は答え難い質問である。理由は吾々の云う「座る」と云う姿勢は二足歩行の人間の場合の色々な姿勢であって、四足歩行の牛や馬は前足と後ろ足の骨と肩胛骨や座骨との繋がり具合の骨格構造が異なるから、比較条件が基本的に異なる為に問題にし難いからである。

  2. 牛や馬も、腹を地に着けて臥せる姿勢を取ることもある。特に牛や羊など反芻する動物は食物を消化する際の日常的姿勢で、臥せることは常に見られる。但し、反芻動物ではない馬の場合には臥せの姿勢は極めて希にしか見られない。

  3. 横倒しの横臥姿勢は牛にも馬にもある。但し、馬の場合には一般に非常に稀である。馬に良く接している農家や乗馬クラブの人達ですら知らない人が案外多い。「馬は横倒しになると自力では立ち上がれず、死んでしまう事さえある」というのは誤解され易い言葉である、立ち上がれないのは病気で体力が弱っている為である。

  4. 吾々が目にする馬は飼育された馬であり、特に競走馬などは膝を痛めないように、仔馬を除き、臥せたり横臥したりすることをさせない。一生立った侭のような感じである。野生種がどのようかは判然とはしない。

そこで想い出したのは西部劇のカウボーイの映画である。長縄で牛を捕らえようと格闘している時、牛に引っ張られて馬と共に横倒しになる場面もあったように記憶している。横倒しになった馬は直ちに起き上がって次の行動に対応する。「横臥した馬は自力では立ち上がれない」と云う説明を読んだとき、何故これを思い出せなかったのか?未だある。ロデオ(rodeo カウボーイたちが、荒馬や荒牛を乗りこなすなどの技を競う会)などでは馬の横倒しは常に見られる。横倒しに転んだ馬は直ぐさま立ち上がって荒れ狂う。

余談だが、テレビや映画で戦国時代の騎馬武者の面々が旗や風袋などの指物を背負って勇ましく突進する光景がある。勇ましい格好良い光景だ。だが此れは現在の映画やテレビで見る光景で、現代の馬である。戦国時代の馬は多くは現代の競走馬などよりズット背の低い在来種の馬で本当は「騎馬武者の姿はぶざま(不様)とまでは云えなくとも、現代人の眼には、あまり恰好の良いものではなかったのが真相だ」と書かれたものを読んだ記憶がある。テレビや映画の馬はサラブレッドのような格好良いものでは実はなかったらしい。

 

 

(余録) 水牛の咄

牛を私が初めて見たのは小学生の頃、父に連れられて白黒映画館のスクリーン上の米国の猛獣映画である。子供を虎に奪われた親水牛が虎を逆襲して奪い返すマレーシアでの物語であった。実物を見たのは大阪の天王寺動物園か、戦前に訪れた沖縄か台湾だったか、どうもハッキリしない。

水牛について明確に覚えている光景がある。それは兵役で中国の広東省の田舎でのこと。吾々兵隊の四、五名が細い田舎道を歩いていた。道の右側に小さな池(水溜まり)があった。水面には数頭の水牛の角と鼻面だけが見え、池の中には水牛が居ることは分かっていた。何の変哲も無い長閑な中国南方の農村風景である。水牛は多分耕作用に飼育されている放し飼いのものだったのだろう。

吾々の跫音が聞こえると、池の中の水牛は一斉に水上に姿を現し道路に出てきた。その頭数の多さに驚いた。優に20頭は居る。池の中に居た時は水面上には角と鼻の孔だけしか出して居らず、水中の大きな体は見えない。だから「ほんの数頭」と想われたが、牛より一回り太い体躯の持ち主である水牛のこと、次から次へと肥った大きな体躯が水面から上がって来る。おまけに子供まで居る。20頭あまりの水牛の群が道に溢れた。皆も私と同様に忽然と水牛の一群が「無から突如に出現した」ように感じた様子で、呆気にとられて居た。この時の印象はまさに吾々には驚異と壮観であった。

親の体色は灰色であるが、子供は実に小さく黒味色掛かって居たように想うが、仔牛の体色の記憶は定かではない。ただ親に比べてとても小さい。彼等は別に吾々を恐れる風でもなく、「さー、水浴も済んだ。家に戻る事とするか・・・」と云った様子で吾々を無視してノロノロと歩き出した。

後年になって、勿論、戦後だが、私は東南アジアを担当する水産技術協力のための国際機関に10余年勤務する羽目になり、水牛は少しも珍しい存在では無くなった。しかし兵隊の時の上記の経験と驚きは鮮烈に今以て憶えている。

日本語 Wikipedia によると、「アジアはスイギュウ(水牛)の原産地であり、現在でも世界の95%が生息している。多くのアジアの国でスイギュウは最も生息数の多いウシ科の動物であり、1992年時点でのアジア全体でのスイギュウの数は1億4100万頭と見積もられている。内、インドが最も多く、中国では、2300万頭程度と見積もられる」とある。雄の成牛は1トンに達するものもあるらしい。

また、「タイ東北地方で飼育されるスイギュウについては道路や農地脇の草を家畜のスイギュウに食ませる。住民は、現地の資源、ローカル・コモンズの利用に長けている。野生のスイギュウが生息する地域はほとんどなく、少数がインド、ネパール、ブータン、タイで見られる。スイギュウは平均 1 m ほどの生き物の中で最も長い角を持っており、なかでも1955年に射殺されたスイギュウは4.24 m もある角を有していた。この巨大な角のため、野生ではトラなどの捕食者も成長した雄牛には滅多に襲いかからず、また怒らせたスイギュウは極めて危険な動物となる。スイギュウはふつう草原や沼沢地で見られ、群で行動している」とも説明されて居る。

ダイオキシン問題で最近騒がれたイタリアのモッツァレッラ(Mozzarella)チーズは水牛の乳で作られたものだそうだ。兵隊の時、広東で毎日喰わされた水牛の肉は普通の牛肉とは風味も異なり固くて不味いものだった。来る日も来る日も水牛の肉か、塩干品の魚の唐揚げと云った二種類のメニュウばかり、此れには辟易した。その記憶からモッツァレッラ・チーズが水牛の乳から作られると知って、これまた驚いた。

「ラオスの田舎のお祭りの日には水牛の肉料理が出る、それが美味しくて楽しみだ」と云う若いラオスの娘さんが言っているのを民放テレビで見たことがある。「お袋の味」とか「故郷の味」と云うものだろうか?

(完)

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MeganefukiToOjigi

外国人からは珍奇に見ら

れる日本人の所作の数例

2008/04/30

真道 重明

 

お辞儀

 

先日聞いた話。日本に初来日して短期滞在している米人が私に友人に尋ねた。曰わく「テレビを見ていると細長いテーブルに数名の人達が起立して聴衆に向かって深々と頭を下げている光景をよく見る。あれは何のセレモニーなのか?」・・・。

検査の不行届で公園の遊技施設で子供を傷つけた所轄市長、医師の処置ミスで患者に損傷を与えた病院長や医師、欠陥商品で顧客に損害を与えたメーカー会社の社長や社員、・・・ などが謝罪している光景である。彼等は生真面目で深刻な、また極めて畏まった態度で一斉にお辞儀をする。三日に一度ぐらいはこのような場面が放映される。

真面目な顔をした雰囲気から、日本語を理解できないその外国人が「何らかの儀式」と想うのは良く分かる。「儀礼作法と云えばその通りだが集まった聴衆の人々に対し「謝罪」して居るのだよ!」と友人は答えたら、その米人は少し驚いたようだ」とのこと。

外国にも謝罪は常にある。しかし、一斉に頭を下げる形の「お辞儀」などの所作はしない。言葉で謝罪を伝えるだけだ。兎に角、日本人は無闇矢鱈に「お辞儀」をする場合が多い。

ニュース番組でも始まる前にアナウンサーは「お辞儀」をする。終わるときも「此れでニュースを終わります」と云って「お辞儀」をするのが普通だ。ワイド・ショーなども初めと終りには出演者一同は「お辞儀」をする。習慣なのだから善悪の問題では無い。Blog の書き込みなどを見ていると「某局のアナウンサーのお辞儀の仕方は心が込もって居ない」などの批判記事がよくある。

タイ国のテレビの場合も「今日は・・・サワデ・カップ」の言葉と共に「合掌」してから始める。合掌は頭を下げる「お辞儀」と同じようなタイ国の慣習である。タイ国の場合は頭は下げない。日本のお辞儀やタイ国の合掌などは世界の標準からは例外だろうと思われる。頭を下げる「お辞儀」の代わりに合掌する仏教圏の国々の場合も多分同じだろう。

外国のお笑いバラエテーの舞台を見たことがある。日本人が出て来る場面の日本人は処構わず「お辞儀」を繰り返しやって居る。「ドッと観衆は笑う」。日本人なら「お辞儀」はしない場面でも、一言何か云えばその都度に頭を下げる。余りのことに、こちらが寧ろ笑ってしまう。

中国でも私は訊かれたことがある。「どうして日本人は部屋に入ったり出たりするとき、その都度「お辞儀」をするのですか?」。「目上に人の部屋に入る時はその人に敬意を表すために「お辞儀」(頭を下げる所作)をするのが普通の慣習です、同輩や目下の人でもその人の部屋にお邪魔するのですから軽く頭を下げ一礼するのが慣わしです」と私は答えた。

「お辞儀」と共に「お早うございます」などの挨拶語を口にすることも多い・・・とも付け加えた。また、特に改まった場合だけでなく「何処の国でもする会釈的な感覚で頭を下げる「お辞儀」と云う所作が身に付いている」とも補足した。

「礼節を重んじるのはよいことだとは想うが、毎回、頭を下げるのは実意のないお世辞とか過剰な仕草と想われるのでは無いか?」ともその人は云っていた。日本では長年の慣習だから理屈ではないと思う。

しかし、一方、最近ではアナウンサーなどでも、頭を下げる「お辞儀」は最初を省略したり、全く省略して「今日は」と言葉だけにする場合も増えて来たようだ。欧米でもアジアでも頭を下げる所作はある。ただ日本に較べ重大な局面だけのようだ。確かに日本人は頭を下げる「お辞儀」をする度合いが多いことは事実だ。繰り返すが此れは日本人社会の慣習で理屈ではない。伝統的な「躾け」だと私は想う。

 

眼鏡のレンズ拭き

 

「前から尋ねよう尋ねようと思っていたのだが、君は眼鏡を拭く時、ハッと眼鏡に息を吹き掛けるが、あれは何かのお呪い(オマジナイ)か?」と私のシンガポール人の友人がら尋ねられた。

実はタイ国の友人からも同じことを訊かれたことがある。晩秋から初夏に掛けて気温が低い日本では、冷えたレンズに暖かい息を吹き掛けると結露してレンズが曇り、その結露水で拭き取ると塵は取り易くなる。誰でも良くやることである。私も此れが癖になっている。

真夏には結露しないから効果はない。気温の高い東南アジアなど熱帯域では年中日本の夏のようだから、この効果を期待する機会は年中を通して無い。従って眼鏡に息を吹き掛けると云った所作も元来存在する筈が無い。

私はツイ癖でこれをやって「此処では駄目だ」とその都度気が付く。これを彼等から横で見られて居たのだ。彼等にとっては「不思議でならない」のは尤もである。「彼は一体全体何をしているのか?」と訝るのは無理もない話だ。だが、彼等にとっては奇妙な所作に見える。

 

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HIMIKO

卑弥呼と天照大御神は同じ人物

である可能性が高いと云う学説

 

「怒ったアマテラスが天岩屋戸(あまのいわやど)に隠れた・・・」などと云う日本の多くの神話と学術的分析による日本の古代史との関係の解析が進展し、例えば神話の「アマテラスの岩戸隠れ」が日蝕と関係があるのでは?」とは従来からも云われて来たが、最近の天文学の研究で「皆既日蝕」が同時代に短い間隔で続けて2回起こって居り、時間的にピタリと一致することから「ヒミコ」と「アマテラス」が同一人物である説が強く裏付けられるとのこと。日頃から私が素人なりに興味を持っていた此れら幾つかの事柄が次々と解き明かされつつある最近の研究成果に驚いて居る今日此の頃である。

 

2008/05/05

真道 重明

 

NHK のテレビで数日前に魏志倭人伝に出てくる卑弥呼(ヒミコ)と「アマテラス」(あまてらす・おみかみ、天照大御神)は同一は同じ人物である可能性が高い・・・と云う考古学の専門家の最近の学説を聴いた。

真実を追究する「科学の領域となった現在の実証的な歴史学」が一見フィクションのような古事記などに述べられた神話の物語」や中国の多くの、例えば「魏志倭人伝」などの古文書を解明する経緯は、専門の学者にとっては大変な苦労を伴う仕事であろうが、私達のような素人にとっては推理小説を読むような好奇心を満たしてくれる。

暫く遠ざかっていたが、最近の学説をテレビで聴いて再び好奇心が蘇って来た。戦前の小・中学校で「皇国史観」を唯一のものとして叩き込まれていた私などにとっては、戦後60年余の日本古代史の様々な研究や論争の公開やその進展は驚きと好奇の連続である。

尤も中学生の時、数年の短期間ではあったが母校の国語教師を務められた某先生から、番外講義として実は・・・と小声で「皇紀の勘定は間違っている」、「日本の古代史には多くの疑義がある」、「神話と史学を混同した記述が横行して居る」・・・などの話を聴いた。某先生は間も無く文部省の研究員として転出されたが、天皇は神であり、「不敬罪」と云う言葉の在った時代である。だから先生の小声の話は印象深かったから私の脳裏にはその後も残っていた。

戦後、大日本帝国憲法(明治憲法)が今の日本国憲法となり、天皇の人権宣言が出されて以来、皇国史観に替わってそれ迄一部の学者以外には公開されなかった多くの古代史の研究内容が一挙にドットと吹き出した。上述の某先生の小声の話は敗戦と言う社会の大変動に伴い「大声で云々される時代になったのだ」と思った。

プロの専門学者だけでなく多くのアマの民間学者なども色々と発言し、まさに「百花斉放・百家争鳴」の有り様。数冊の書籍を読み偶に雑誌や新聞のコラム欄などを見て居る私など、批判がましいことを云うのは分を辨えない所行だが、その人が住んで居る地域を指して「邪馬台国は此処だ」と云う話を聞くと我田引水的な疑いを抱きたくなるし、「系図買い」ではないが、自説に有利な部分だけを切り出して神話の解釈をするように疑いたくなる説も多い。

古代史神獣会の Website に記載されて居る『日本古代史混迷の元凶は、「年代論」の不徹底にある。年代論の基礎を明確にすることにより、卑弥呼と天照大御神の年代が重なりあい、邪馬台国の時代と日本神話の時代とが重なりあう』という、驚くべき統一的な視座の新しい世界がみえて来る・・・と云う説明は傾聴に値すると私は想っている。

「神武天皇から10代崇神天皇の即位前までの時代が、邪馬台国時代に相当し、スサノオは、6代孝安天皇に比定できる」、「スサノオとアマテラスの父のイザナギ(伊邪那岐命)は、5代孝昭天皇に当たる」、「イザナギ以前の神々は皆、朝鮮半島に居た神々で、倭国との縁は薄かった云々」、「イザナギが倭国に都を移してから、次第に倭国との関係が深くなり、やがて統一への意思を持っようになったのではないか」、「イザナギと神武天皇を間違えた例がしばしば見られるが、初めて倭国に進出した天皇と、初めて倭国に都を移した天皇が混同されたためである・・・」などの最近の説は、私にとっては「目から鱗」の驚きであった。

「目から鱗の驚き」と云ったのは、家系のルーツに興味を持つように、邪馬台国論争、騎馬民族渡来説などに興味を持ち、「真相はどうなって居るのだろう?」と吾々の祖先の歴史の疑惑を解明することに興味を持つからだが、郷土史家より遥かに素人である私などには、余りにも問題が多く焦点がぼやけて議論が拡散して了って居る感じを抱いていた。これが近来では次第に収斂(統一集約の共通認識)の方向に向かいつつあると感じるようになったからである。

戦前の1940年、私が東京に進学して水産の勉強を始めた2年目、また私が当時は一ツ橋に在った東京外語(現東京外国語大学)の北京官話の専修科(夜間)に入学した私の個人的には思い出深い年に、「紀元二千六百年式典 」(昭和15年11月10日)が行なわれ、式典に参加された諸先生から盛会の様子などを聞かされた。世は日中16年戦争の最中、皇国史観一色に貫かれて居た。橿原神宮と畝傍山東北陵の拡張整備、天皇陵の参拝道路の改良、日本万国博覧会の開催(中止)、第12回オリンピック東京大会の開催(1940年9月 21日〜10月6日を予定、日中戦争の影響で返上)、国史館の建設、「日本文化大観」の編纂などが行なわれて居た。

戦後の今だから誰でもが云えることだが、「皇紀二千六百年」は神武天皇の即位の年からの起算である。しかし神武天皇はその存在の実証が史学的に困難であり、また古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は西暦紀元後2世紀前後であるとされているため、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことが事実であるとは考えられて居ない。考古学的には、この時期は弥生時代前期に該当する( Wikipedia 皇紀)。紀元節の数字は前提の如何にも依るが「少なく見積もっても500年〜600年ばかりは多くサバを多く読んで居る」ことになるらしい。研究の進んだ今だから云える事だか・・・。

余談になるが、2月11日(この戦前の紀元節は現在では「建国記念の日」と名前を変えて国民祭日」となって居る。歴史学者の学術団体である「史学会」で会員の一人で史学に詳しい三笠宮親王と同会長坂本太郎氏との論争は有名で、同氏は世論やマスコミから批判された。また1959年に右翼構成員が宮邸に乱入する事件まで起こしたことも良く知られている。

その存在に疑義のある神武天皇の即位の日を祭日とするのは可笑しいとは想うが、「これを変えろ!」と云うことに今直ぐに行動を起こすべきだとは思わない。自然科学を専攻した私は「古代史の検討が進み、一歩でも真相に近づく努力が更に積み上げられたら、問題は自然と解決される」と考えて居る。古代史の研究は最近驚くべき発展をしていると驚いては居るが、問題は史家の中でも未だ未だ異論や反論はあるのだから。

素人の私は、「邪馬台」を素直に「やまと」と読めないのか?、「卑弥呼」は「アマテラス」と極めて類似している・・・と前々から思っていた。勿論、素人の直感的憶測である。邪馬台(臺)国の「邪馬台」は「やまたい」と殆どの日本の史家は読んでいる。原典の漢字のピンイン(ローマ字化した現在の標準音)では xie2 ma3 tai2 あり、声調を無視して無理に仮名で表記すると「しまーたい」となり「やまと」とは程遠いが、魏志倭人伝などが書かれた当時の中国の漢字音(北方音か南方音かは知らないが)では「やまたい」に近い音だったのだろう。なお、日本の漢和辞書(そこには伝来した時の漢音・呉音・宋音・唐音などが混在して居る)では、普通は「邪」の字は「じゃ jya」または「しゃ sya」であり、 「ja」 はラテン音では「や」となるから「や」と読むのは素人の私なりには納得していた。そして「やまと」と「やまたい」とは、素直に誰が見ても発音は近似して居る。

また仮名の当時の発音は現在と同じか否かの問題もある。専門の史家は勿論これらを踏まえた上での検討結果であろうが、固有名詞一つを取ってみても、中国・朝鮮半島・日本の古代の言葉の発音を調べなければならない。また古代の地理地形、考古学、天文史学、民俗史学、民族史学、その他多くの学際領域に跨る総合的な分析や解釈が求められるから、研究結果だけを見る一般の読者には好奇心をそそる面白い話だが、専門の史家の研究過程の苦労は大変なものだろうと何時も感心する。

 

 

常々想っていた幾つかの疑問

 

本の国名は「ニッポン」または「ニホン」であるが、中国の漢字(借用語)の発音である。「やまとことば」では古くからある「ヤマト」が日本を表す代表的な言葉ではなかったのか?と私は考えている。沖縄方言で「ウチナーグチ、即ち琉球の言葉」に対する「ヤマトグチ、即ち日本の本土の言葉」の「やまと」は近畿の大和政権の版図を指すのではなく、広く日本列島の言葉を指す。漢字では「山門と書くヤマト(福岡県・熊本県)」などその一例であるが、日本には「ヤマト」と呼ぶ地名は広く分布して居る。

文字の無かった日本では中国から伝来した漢字という借用語(字)の音「ニッポン」や「ニホン」を現在では国名として居るが、このような借用語の例は大韓民国を始め世界には普通に数多く在る。また「ニッポン」や「ニホン」と二通りの呼び方があるが、タイ国では「プラテー・タイ」と「サイアム(Siam、 シャム、暹羅 )、ミャンマーでは「ミャンマー(Myanmar)」と「バーマ(Burma)、日本ではビルマ」の双方がその国の人達によって使われている。[此処では政府の定めた国号を問題にしているのではない]。また、異なる呼び方が複数あるのは珍しいことではない。しかし何故古来からある「やまとことば」の「ヤマト」としなかったのだろうか?

 

弥呼(ヒミコ)であるが、ピンインでは bei1 mi2 hu1 (ペイ・ミ・フ)となり「ひみこ」とはこれまた程遠いが、漢和辞書では「卑」は「ひ」、「弥」は「や」、「呼」は「こ」とある。しかし、「ひみこ」を何故素直に「日御子(ひ・みこ)」と表記することが無かったのか?今回調べていたら、「在った!、在った!」。例えば Website ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源など。この他にも日御子と漢字で表記した学術文献がかなり存在することを今回知った。

「ひみこ」即ち、日(太陽)の「みこ(御子・皇女・神子・御巫・巫女・・・など)」はアマテラスと同じ意味ではないか・・・と素人の私達は素直に、また直感的に「日御子」や「日神子」または「日御巫」などと思うのでは無いか?そして卑弥呼はアマテラスと同一の人物ではないのか?・・・これらの疑問は現在ではそれを肯定する学説を支持するものが在るのに「我が意を得たり」と感じている。

小・中学時代を大阪で過ごし80歳代の半ばにな私は、小・中学時代には正月の初詣には父に連れられて仁徳陵(大山古墳、即ち、百舌鳥耳原中陵)に参拝したり、学校の遠足では奈良の石舞台遺跡や飛鳥古墳群などは数次訪れたりした。歴史の教科は「皇国史観」を唯一のものとして叩き込まれていた時代である。「石舞台遺跡が蘇我の馬子の古墳かも知れない」などと言う話は先生からは全く聞かなかった。

まして、初代の神武天皇が倭国に進出した初めの天皇、5代の孝昭天皇が倭国に都を移した初めの天皇、10代の崇神天皇が統一倭国の初めの天皇などと云う仮説など、真偽はさて置き思いも依らぬ話である。津田左右吉氏が「記紀」神話を架空であると主張し、裁判にかけられ有罪となった時代である。

戦後になって江上波夫氏の「騎馬民族国家」(中公新書)などを読んで俄然古代史に興味を覚えた。漫画家の手塚治虫氏の「火の鳥」はこれが題材になっているのだそうだ。推理作家の松本清張氏なども邪馬台国論争に関する著作が幾つかあり、史学専門家のレベルに達する洞察が多いと聞く。

最近では全国に亘って多くの古墳群が発掘され、古代史の再構築が目を見張るように進められている。しかし天皇陵などは宮内庁が管理しているため研究者が自由な学術調査をすることが出来ない面が今でもあると云う。皇室の祖先に関連する問題でもあり、宗教の「神道」とも関連があるため、難しい側面が存在するのは分かるが、余り問題をタブー視すると返って逆効果になりはしないだろうか?

グローバル化が進む現在では海外の史家の日本古代史研究も増えつつあるに違いない。わたしも米国籍の友人から Shintoism の分厚い本を貰った。怠けて余り精読はして居らず、興味のある点だけを斜め読みしている程度だが、彼等の率直な意見を感じる。個人的家系なども同じだが、祖先を美化したい気持ちは個人の場合も国の場合も同じだが、真実に一歩でも近づく事こそが依り重要ではなかろうか?

 

 

追 記

 

浦福助(筆名)氏から、Basil Hall Chamberlain 日本の国名に関する記載についてのメールを頂いた。Chamberlain によると日本と云う国名は西暦670年に用いられたのが最初であるとし、それ以前の土着の人々は普通には「やまと」と呼んで居た・・・とある。670年は法隆寺が全焼した年である。

Chamberlain (1850−1935)は英国人で東京帝国大学教授だった言語学者で日本研究家でもあった。彼の云うのは西暦670年に朝鮮の正史『三国史記』[新羅本紀]文武王下に、「倭国が日本と国名を改めた」とあることを指している。なお、その頃に中国の正史『旧唐書』にも「日本国」と云う国名を正式に記録して居るそうである。この年は天智二年に当たるので、倭国を「日本国」に改めたのは天智天皇である・・・とされている。

 

は此処での問題上とは少し外れるようだが、上でポリネシアの言葉で卑弥呼の名前の分析をした例に触れた。日本人の成り立ちに就いては、日本列島に居たアイヌ、この列島に渡来した漢族・蒙古族などのモンゴリア系、東南アジアのマレー系(フィリピンのタガログ語や台湾の山岳民の言葉を含む)、太平洋島嶼諸国の人々、更には中近東の回族など実に多民族の混合であるらしい。そう言えば日本人の顔付きや体型には中近東の人達と似た人もあり、漢族や蒙古族の顔もあり、変異の幅が広い。

テレビで放映されるシルクロードの旅などに出て来る各地の人々の顔付きを見ると、近所の魚屋さんの「おっさん」にそっくりだ・・・など思うことが多い。チベット族の人々の顔が互いに似通った一つの類型に属しているのに対し、日本人の顔かたちは実に幅が広い。日本語が「どのようにして成立したか?」も謎が多いと聞くが、多くの異質なものの混合が解明を複雑、かつ、困難なものにして居るように思われてならない。

日本の神話に似た話が太平洋の島嶼国に多々あるそうだ。「ヒミコ」をポリネシアの言葉で検討することは、一見、牽強附会なように思ったが、今では実はそうではないと思うようになった。日本の古代史に興味を持つ理科系の某氏が『古事記』や『日本書紀』に記載されている理解できない船の名前、地名などを古代ポリネシア語で次々と解明する話など、門外漢の私など驚きの連続だ。

話は変わるが、遺跡発掘などに関し宮内庁が過度の慎重な意識を持っているように思われるが、「日本の古代史を研究するには非日本人の書いたものを読め!」など将来言われ兼ねない。ハングルで読み解く万葉集などと言った本が一時多いに人を驚かせたが、現在では荒唐無稽だと否定的な論説が多いようだ。私も否定的な一人だが、その内容には考えさせられるものがあると思っている。このような問題は説が公開されたら、直ちにその説の可否を云々するより、読者が牽強付会、荒唐無稽と断じても、その内自然に内容が淘汰されるだろう。そして真相が浮かんでくるのではなかろうか?(2005/05/12)。

 

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KANZENHEKI

完全癖の愚

完全主義と云う愚かな性癖の話。

 

2008/05/29

真道 重明

 

全主義と云うものがある。「物事の完全さ」を何処までも過度に追究するあまり、結局は物事が旨く行かない意で、完全癖とも言う。どうやら私にもその性癖が在るらしい。

「分かっちゃ居るけど止められない」のが電算機(パソコン)である。OS の仕組みなぞ、最近のものは複雑怪奇で一向に理解していないくせに、何時も最善の状態にして置きたいと思う。

チョットでも不具合が起こると、CEKDSK を掛けて各 HD を調べたくなる。検査を予約して再起動する。結構時間が掛かる。デフラグなぞ「今のところ必要なし」と出ても、パターンを見てバラバラになっているとツイ実行してしまう。昔のマシンと違って大した作動時間が早くなる訳でもないことは分かって居るのだが・・・。DATABackup も毎回 電源を落とす前に MO や外付け HD に必ず取る。

常駐させて居る VIRUS 監視駆除ソフトなど全ドライブに頻繁に掛ける。30万個のファイルを検査すると2時間半ぐらい掛かる。怪しいメールなど殆どゴミ箱に送り、怪しいサイトなどには出来るだけ近寄らないのだが・・・。最近の5ヵ年間だけに関して云えば、「トロイの木馬、Troian horse」など自己増殖はしないがシステムを破壊したりする悪質な VIRUS は僅か1件が自動隔離された位であるが・・・。

不完全極まる私の知識の範囲内ではあっても、マシンを最良の状態にして置きたいと思うことは悪いことではなかろう。しかし、その為に数時間を費やすのは、矢張り「完全癖の愚」である・・・と云うのは、こんなことをして居たのでは自分の本来の目的である「パソコンを使用してものを書いたり計算したり Website を見たり・・・などの仕事をする時間を大幅に削がれる結果となるからだ。

ゴルフ好きの人がドライバーばかり磨いていたらゴルフをする時間は無くなるし、釣り好きの人は釣り道具の手入ればかりして居たら釣をする時間は無い。これと同じだ。パソコンを常に完璧最良の状態に保って置く・・・と云うのも程々にしないと、年に僅か数回起こるかも知れないトラブルを恐れて莫大な無駄な時間を空費していることになる。

「どうやら私には完全癖の性が在るらしい」と云ったのはこの事からも分かる。パソコンだけではない、他のことに関しても大なり小なり此の癖が在るようだ。だが、パソコンに関しては特に著しくこの性癖が現れるようだ。それというのも、テープに データを保存する20余年前のマシンは完全な状態を維持して置かなければエラーが続出したため、その時の恐怖感が頭に焼き着いているからである。

最近のマシンは「固まってしまって手の打ちようがない時」は途中で強制的に電源を落としても殆どの場合 HDD が壊れたりしないほど安定しているようだ。・・・にも拘わらず・・・昔の恐怖感はなかなか頭から取れない。人は多分「下司の考え休むに似たり」と思うだろう。「分かっちゃ居るけど止められない」。


人の定期検診と云うものが私の場合は年に一度ある。約30項目程度の無償検査である。申し出れば有償だが追加項目の検査も出来る。若し私が悪性腫瘍、即ち「癌」の検査をしたいと仮定する。胃癌・肺癌・大腸癌・・・その他にも沢山の種類がある。どの癌も「早期発見が最善」と医者は云う。

若し完全癖の男性が女性特有の子宮頸癌・子宮体癌・卵巣癌などを除き(ちなみに乳癌は男性にもある、私はその疑いを掛けられた経験がある)、現代医学で分かっている総ての癌の検査をしなければ・・・と考え実効しょうと思ったら、一年の全日数365日を費やして通院や入院しても日数が足りない勘定になる。

何処かで線を引き、それらの検査を割愛して「折り合い」を付けなければならないだろう。さもなければ、私は何事も出来ない。検査のために一年間の毎日を送らなければならない羽目になる。若し万一その他の種類の癌が発症したら天命と諦める外は無い。完全というものはあり得ないのだ。完全癖の愚の典型であろう。

「私にはヤヤ完全癖の氣が在る」と云ったが、この問題に関しては全く無関心で、その気配は全く無い。甚だ勝手なものだ。煙草を吸う私は発症確率の高い肺癌ですら検査したことはない。喫煙癖は止めた方がよい事は分かっては居るが、「分かっちゃ居るけど止められない」と云う意志薄弱者だ。尤も「禁煙が実行出来ない事と意志薄弱とは関係がない問題である」と説く心理学者も居るけれども・・・。


輩・・・(と云っても出身校は異なり私よりも4〜5歳年長、職場を共にした)に或る意味で完全癖の人が居た。名前は敢えて秘す。

この人は仕事(生物研究)をするに当たって実に「微に入り細に亘った計画書を作成した。仕事を推進するための「フロアー・チャート」などドイツ製の定規や作図用のテンペレートを使って見事な流れ図が描かれて居る。それらを清書して綴じ合わせ「簡易製本的なノート」にする。

見事な微に入り細に亘る計画書だ。必要な器具類の規格・価格・メーカー名・その住所・・・。研究開始時期・予想所要時間などの表もある。しかしこの欄は空白である。何時から仕事が始まるのか?毎日彼が机に向かうと、此の計画書の修正や追加が始まる。

近く結婚すると云うことだったが、未だ独身。取り敢えず所持品の台帳が作られて居た。業務用品台帳と生活用品台帳の二冊がある。敗戦直後だったから醤油・味噌・砂糖・・・などの配給品の名称が列記されて居り、醤油の瓶などは見ればそれと直ぐ分かるのだが、「醤油」と書かれたラベルが貼りつけられている。バケツもトイレ用・一般用・厨房用などと分類され、ラベルが貼ってある。

雑巾も生活用品台帳に欄があり、「上用」と「下用」に分けられて居た。流石にこれにはラベルは無かったようだ。箒も塵屑籠にも「上用」と「下用」に分けられて居る。まさに几帳面の極致である。

結婚後に備えた家庭菜園や花壇の予想設計図もあった。播種時期・収穫予想など、これまた実に詳しく記載されて居た。毎年誕生日には決まった場所、決まった位置で写真が撮られていた。10数枚在った。所持する蔵書などの一覧は出版社名、同住所、購入した店名、価格など見事な記載であった。

私とは足掛け3年間の付き合いだったが、専攻分野も私とは異なり、彼は某県立大学に移り、私は中央官庁に属する研究所に進んだから、分かれてからは毎年の年賀状の交換だけとなり、それも何時しか途絶えてしまった。

数年前に Web を見ていたら訃報が載っており、名誉教授、享年86歳とあった。人柄は実に生真面目、几帳面、若し生きておられたら米寿を超えて居られた筈だ。私はあれほど几帳面で「完全癖」の人を見たことは無い。合掌。

 

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BloodyFound

血塗れの犬

Bloody Found, 誤認だった Computer virus  

 

2008/05/31

真道 重明

 

イタリアのローマに在る国連機関 FAO の統計部門が配布して居る世界水産統計の数枚の Floppy disk を受け取り、インストールしようとしたとき念のため Anti-Virus のチェックをした際、ウィルスの警告が出た。「さあ大変!」とばかり早速、常に連絡し合っている FAO の担当者に伝えた。1997年12月末の頃であるからマシンは MS-WINDOWS 95 を使っていた頃だったと記憶して居る。10年ばかり前の話である。日本のウイルス対策協会に問い合わせたら、その名前のウイルスは数週間前に世界で発見された「かなり悪質のもの」だという返事であった。

偶々何故だか今急にその事を想い出したので此処に書き留めて置く。・・・と云うのは国連機関としては当然と云えばそれ迄だが、先方の処置が親切で周到だったことに私は感心したからである。ウイルスに素人の私にとっては国連機関の配布物にウイルスが潜んでいるなど、事実とすればこれは驚きであったから。

VIRUS の名前はうろ覚えだが Blood yhound だったと記憶していたが、今回、調べてみたら 「Bloodhound 」と云う一群のウィルスが現在も存在するから、名前は Bloodhound だったようである。辞書を引くと Bloodには「血まみれ」の外に強意語として「馬鹿」、「嘘つき」、「ひどく馬鹿げた」などの意もある。また、Hound には「犬」、「猟犬」の外に「嫌な奴」と云う俗語もある。何れにせよ嫌な感じを表している。Blood hound だって同じ感覚の語だろう。過去の1997年の FAO との通信記録を調べてみると、メールに記載されて居た警告の文句には BLOODHOUND BOOT と云う名前だったことが分かった。なお、 BLOODHOUND は嗅覚のすぐれたベルギー原産の犬種名に由来するのだそうである。

名前は兎も角として、国連機関が配布して居る Floppy disk Web 上に公開して居る FTP などから Download したものの中にウイルスが潜在しているとしたら大変な「管理不行き届き」で国連機関としての面子にも係わるだろう。果たして此方からのメールの通報を受けた FAO の関連部門者達は大騒ぎとなったようだ。早速調査中との連絡があった。

本部は直ぐさま7〜8名の本件の担当社や関係者に通報、約3時間後に FAO が使用している Anti-Virus Symantec 社)に調査を依頼した結果の報告メールが当方に来た。内容は「Symantec 社からの報告によると、何らかの不都合に起因する間違ったウイルス警告であり、安全であるため無視して構わない」と云うものであった。なお同社は誤認の発生を直ちに修正した・・・云々」と云うものであった。

私が感心したのは、此のメールが「誰から誰と誰に転送され、どのような遣り取りがなされ、また、どのような経緯を経て結論報告に達したか?」を一言の省略もせず、いわゆる「一見書類の綴り」のようになって居た事である。従ってかなり長いメールであったが、しかし透明性が明確に維持されていたこと、僅か2時間半と云う短時間で処理され、危機管理能力が優れて居ると思ったことである。メールが長いと云っても必要ない人はメールの冒頭の分だけを読めば良い訳である。

このような事務には疎い私だから、上記の処置は国連機関では常識かも知れない。


話は若干逸れるが、日本では採用や昇進した際に「辞令」と云う物々しい印鑑を押した分厚い証書が出される。欧米では普通の手紙の便箋のような責任者の署名した一枚紙だけである。何だか頼りない気もするが、しかし、それでことは充分足りて居る。明確な履歴にもその CC が添付される。仕事の手紙など数枚に及ぶ場合は、最初の一枚のレター・ヘッドには機関名、住所、電話番号などが印刷されているものを使うのが普通であるから、一々住所は書く必要は無い。

日本の官庁などの公文は場合によっては年月日や住所が本文には書かれず、封筒だけに書かれて居る場合がある。私達は一見ファイルを保存するのに「必ず封筒を共に綴じて置かねばならない」と教えられたものだ。

欧米では仕事に関する手紙は用紙(便箋)に必ず発信人と受信人の名前、住所、発信年月日などを書くのが普通である。その紙片だけを保管しておけば総てが足りる。戦前の日本では官庁や会社を問わず、業務文書は「紙縒り」で封筒と共に綴じ合わせて置く・・・などの面倒な手作業をして居たと聞く。新米の職員や従業員は閑があれば「紙縒り」作りをさせられて居たようである。

上述の FAO からのメールに転送先や各人の遣り取りの経緯が総て省略されずに履歴として付いて居るのも合理的かつ透明性が確保され、受け取った第三者には有益でその侭で簡単な「該当案件(一件書類)綴り」となる。敢えて蛇足として此処に書き加えた。

 

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PIPE

パイプ煙草に取り憑かれた頃

 

昨今は犯罪者のように虐げられる多額納税者の吾々。嘗ては Philosoph muss rauchen 「哲学者は煙草を吸わざるべからず(独逸語)。」と云われた時代もあったのに・・・。
喫煙歴70年、「悦楽のパイプ煙草三昧」の思い出と喫煙場所が年々縮小される現状に対する「愚痴半分」のニコチン中毒者である一介の後期高齢者の喫煙録。

2008/08/15

真道 重明

 

目 次

まえがき
敗戦当時の「自家製三種の神器」
パイプ煙草との出会い
パイプ党に取り憑かれる
帰国後已むなく紙巻きに戻る咄
北京空港と上海浦東新空港の喫煙室
淡路恵子の言に拍手
余談(葉巻や嗅ぎ煙草)
読者からのご意見、その他

まえがき

まえがき

草を私が吸い始めたのは進学のため上京した17歳の時である。動機は大人の真似をしたかったのだろう。だから喫煙歴は70年に近い。家では父親だけが「敷島」と云う名の和風の紙巻き煙草を嗜んでいたのを憶えているが、煙草を吸いたいと思ったことは記憶には無い。

世の中には体質的にアルコールが飲めない人があるように、煙草に弱い人が居る。誰でも最初は多少の「眩暈感」と「むかつき感」がある場合が多いようだが、10日間ぐらいで慣れる。同級生に2〜3ヶ月経っても慣れず、それでも我慢して遂に克服し吸えるようになった者が居た。彼は「卒業したら起業家になる心算、その時煙草が吸えないようでは他人と交渉する場合に不利だ」と良く口にして居た。

中国語を習っていたとき「水煙袋」という単語があった。所謂「水煙管、水キセル」(煙草の煙を水にくぐらせて吸う喫煙具)のことである。大小様々であるが繊細な彫刻で飾られた銀製の高級品は骨董品として博物館などに展示されている。水煙管は日本では珍しいようだが、インド・中近東・欧米にもあり形こそ違え、世界の各所にある。

兵役で香港に居たとき、友軍のインド兵部隊のキャンプに遊びに行ったら、巨大な水煙管が在り、それを中心に7〜8名のインド兵が取り囲むように座し、私にも加わるように座を開けて呉れた。太い筒の上端に飯茶碗大の火皿があり、着火した木炭の上に粗刻みの煙草を載せ蓋をする。太い筒からは鶴の首のような管が出て居り、その先端を咥えて煙を吸う。筒の中には水が入っている訳である。一人が吸い終わると吸い口の部分を掌で拭き、隣りに座った者に渡す。次々と一巡りすると最初の者に戻る。再度一巡する。これの繰り返し。

覚束ない英語での会話だったが、驚いたのはこの巨大な Water pipe (水キセル)と彼等がたった一枚の軍用毛布を実に巧みに衣服として着こなして居る二点だった。私が真似して着ても直に肩からズリ落ちてしまう。煙草は少しも旨くはなく、ただ「いがらっぽい」だけだった。

戦地では度々輸送が追い付かず、煙草の支給が途絶えた。最初数日は野草などを干して刻んだ「偽煙草」を吸っていたが、ニコチンが含まれて居ないので飲んだ気がしない。しかし、不思議なもので全員が煙草不足状態になると諦めの境地になり、禁煙のイライラ心理にはなら無い・・・と云うか禁煙の苦労は殆ど無い事を体験した。禁煙の苦労は煙草が存在するからだ。苦労は多分に精神的な側面の問題らしい。

一ヶ月後に支給が再開されると、久し振りに本当の煙草が吸える。この時注意すべき大事な点がある。決して立った侭吸わないこと。朦朧として倒れ頭を怪我する場合がある。皆床に伏せて横になり阿片中毒患者宜しく、半分か三分の一に千切った煙草をおもむろに吸う。手足の指先まで快感が染み渡る。この時「俺はニコチン中毒なのだ」と云うことを痛感させられる。誰もが同じことを言う。

戦地から復員して神奈川県の久里浜に上陸、復員式が済んで召集解除となり国鉄の久里浜駅に向かった。道端に煙草を売る闇市の小屋がありおでんとたばこ屋が繁盛して居た。米国製のキャメルやラッキー・ストライクなどもある。「その煙草を呉れ」というと「これはシガレットだ、タバコでは無い」という。日本の紙巻きは「タバコ」、美国の紙巻きは「シガレット」なのだそうだ。「モク」と云う新しい言葉も憶えた。シガレットは「洋モク」とも云った。「和モク」という言葉は聞かない。吸い殻を拾うのは「モク拾い」などと云った。

 

三種のカラクリ神器

敗戦当時の「自家製三種の神器」

ベストセラーの
How To Stop Smorking

 

当時、「自家製紙巻きタバコ製造器」なるものが流行った。蒲鉾板の一端に20 cm ぐらいのテープ状の布を取り付け、布の先端に箸状の棒を固定した簡単なものである。吸い殻のタバコ屑を集めて来て、長方形に切った紙片を布の上に載せ、その上にタバコ屑を置き丁度「海苔巻き寿司」の要領で箸状の棒を掴んで包むように廻す。布が巻き寿司を巻く際の「簀の子」に該当する。長方形に切った紙片の端には薄い糊を引いて置く。これでタバコ一本出来上がり・・・と云う訳。

玄米を一升瓶に入れ、細い棒を突っ込んで20分ぐらい搗く「自家製精米器」、矩形の小箱の内面の両端に電気の陽極と陰極を繋ぎ、水で練った麸の多い小麦粉を箱の中に入れ、スイッチ・オンで出来上がる「自家製麺麭焼器」、それとこの「自家製紙巻きタバコ製造器」を私は「自家製三種の神器」と呼んでいる。当時は殆ど何処の家にも見掛けたから思い出された方も多いと思う。流行ったのは2〜3年間ぐらいだったろうか?・・・。

話は変わるが、禁煙を薦める書籍は世の中にゴマンと在る。戦後暫くして美国から How to stop smorking と云うタイトルの和訳本が出てベストセラーになった。原書も和訳本も「若しこの本を読んで禁煙に失敗した場合は書籍代金を払い戻します」と書いてある。これが爆発的に売れた理由らしい。ペーパーバックの廉価版である。仮令、失敗してもわざわざ「金返せ」という人は先ず無かったのでは無かろうか?。私の記憶が正しければ、著者は推理作家だった。私も一冊買った。今この本は稀覯本らしい。書棚に無い処を見ると、誰かに貸して戻って来なかったようだ。和訳本ではあるが表紙には英文の大きな文字で How to stop smorking と書かれて居た。

パイプ煙草との出会い

パイプ煙草との出会い

 

本格的な出会いは国際機関の SEAFDEC に赴任した1973年である。Secretary General Deb Menasveta さんが常にパイプ煙草を吸っていた。「紙巻き煙草より体によいし、第一とても香りが良く旨いよ」と薦められた。彼のお父さんは国王から Koramaya と云う称号をもらった電気技師で20年の海外留学の経験を持つ人で、私の家も彼の持つコンパウンドの中ににあったが、常時パイプを咥えていた。親子ともパイプ党であった。尊父は享年97歳、亡くなるまで矍鑠。Deb さんは十数年の留学中に大学の司書官だった夫人の Ms. Shalotte さんと共に今も健在である。

学生時代、母校の漁撈学科は船に乗るので、マドロス・パイプの言葉通りパイプには興味を持つ人が多かった。何となく「格好いい」気がしたのだろう。しかし、この歳になって思うと、私の知る限りパイプ党は一人も居ない。多くの人はパイプ煙草を試みたのだろうが、結局パイプ煙草を「吸い慣れるコツ」を掴むに至らず、口の中を荒らした末に断念したのではないか?と思う。

火を付けると火が消えるのを恐れて、無闇矢鱈と吸い続ける。火皿はまるで鞴の状態、結局の処口腔内は「えがらっぽく」なり、爛れはしなくても不快感に苛まれる。解決法は実に簡単。「火が消えるのを恐れず、無理しないで消えたらまた火を付けること」である。そのうちに火皿部分の内側に適当な厚味の「カーボン層」が出来ると火持ちが良くなるし、刻んだ煙草の葉の詰め加減も分かって来る。5分や10分は火は消えない。最初の1〜3ヶ月が「パイプ煙草に馴染めるか、吸うのを断念するか」が決まる。何だか話が理屈っぽくなったので元に戻す。

最初に買ったのは三つ折りのビニールの Pouch に入った Flying Duchman (pipe tobacco) と云う名前(恐らく同名の有名な戯曲に由来するのだろう)で、パイプは BENT APPLE 型(下図参照)だった。

 

パイプの型
(この外にも多々ある)

 

少し慣れて来ると、煙草の銘柄だけでなく、パイプの型にも興味が沸き、色々物色するようになる。三つ折りビニールのパウチに入った煙草は Flying Duchman から数種を経て下図のアンフォーラ (Amphora) に落ち着いた。「落ち着いた」と云うのは最も良く買った」と云う意味で、パイプ煙草の醍醐味は銘柄の多様性にあり、トルコ葉のように強烈な芳香のものも偶には楽しい。凝る人は強く圧搾した缶入りの葉を自分で刻み、他の種類の葉と混ぜ合わせ「My blendと称して自分だけのブレンドを愛用し自慢する。Amphora は世界的に有名なブランドであるが、先日久し振りに煙草専門店を覗いたら売ってなかった。

 

         

 

紙巻き煙草の場合は、Seven StarPiace など、常にその人は一つの銘柄に決まってしまうが、パイプ煙草の場合は食事が油っ濃かった時は食後の一服に「これを・・・」、食事が淡泊な味の時は「それを・・・」と云った風に使い分けをする。粗刻みや小刻みもその時々の気分次第。これがまた楽しい。

パイプ煙草の味(香り?)を一度体験し知ると、もう紙巻き煙草には再び戻れない程、その「ふくよか」な嗅覚や味覚の「とりこ」になる。紙巻き煙草の味が唯の野草のように感じ、パイプ煙草の「ふくよか」な味は紙巻きと比較にはならない。

パイプ党に取り憑かれる

パイプに取り憑かれる

多くの人はパイプ煙草やパイプは紙巻き煙草より高価なものと勘違いしている。パイプはものによっては非常に高価なものもあるが、安価で気に入るものも多い。そして、煙草自身は決して高いものでは無い。私の場合は一日一箱(20本入り)の紙巻きだったのだが、パイプ煙草になってからは煙草代の出費は3分の2程度になった。

パイプの型 (shape)を色々と選り好みして収集するようになるのは当然の成り行きだった。上述のように最初に手にしたのは BENT とか VIKING などと云う管楽器のサックスに似た所謂マドロス型だったが、コレクションが増えるにつれ、L 字型の平凡な LIVERPOOL , CANADIAN などのようなものを常用するようになった。今でも書棚下の大きな抽出しの中には45〜50本ぐらいは埃を被って入って居る。

コナン・ドイルの推理小説に出て来るシャーロック・ホームズが愛用した「海泡石」のパイプはとても高価で手が出ない。敗戦後に先ず日本に乗りこんで来たダグラス・マッカーサーが 玉蜀黍の芯を火皿にした Corncob pipe を咥えて飛行機から降りて来は無い。現物はかなり大きなもる場面は誰でも知っているが、私は手にしたことは無い。長持ちしないので一週間毎に新しいものと取り替えるらしい。

パイプの材質は陶器や海泡石などもあるが、最も一般的な木の場合、ブライヤー(英語では White heath )と呼ばれる躑躅科の灌木の塊根だそうだ。良く「薔薇の根」と云われるが、これは誤り。恐らく熱帯の重い堅木のローズ・ウッドに似ていることから連想したのだろう。パイプ煙草にのめり込んでくるとパイプに関する色々な雑学を知りたくなる。ペーパー・バックの How to pipe smorking と云った本を数冊買ったりした。

仕事で訪れた国では余暇があると必ず煙草専門店を覗き込み、パイプを見るのが癖になってしまった。日本に一時帰国したら友人の一人がパイプの自作に凝って居た。彼は吸うよりパイプを自分で作ることに熱中して居り、自信作を一本貰った。当時の流行りだったようで、「パイプ自作用セット」などが売られて居た。有り難く頂いたが、無数にある店頭のパイプに目が肥えて来ると自作品は不細工で比較にはなら無い。しかし記念品として捨てずに未だ抽出しの中にある。

パイプ煙草ではパイプだけでなく、多くの周辺の小物、例えば、パイプを置く大きな溝が附き、中央にコルクの突起が附いた陶器の灰皿、パイプの頭を磨く布や頭の内面に附くカーボン層が厚くなった時に適当な厚味に削るナイフや螺子の附いた削り器、パイプを並べて立てかける飾り台、部屋の壁に取り付ける式の飾り台・・・等々が必要であり、欲しくなる。火皿にユッタリと一杯詰め込んだ後、マッチで満遍なく点火する。

後では大枚を叩いて銀無垢の Dunhill 製のパイプ用ライターを買った。このライターは一動作で「カチッ」と快音を発して鳴り、必ず着火し決して失敗しない。35年後の今もビクともしない。Dunhill 製のライターは流石である。一度では火が着かず「ガチャガチャ」とさせる100円ライターとは大違い。昔、池田首相が気に入った取り巻き記者連中にプレゼントしたと云う奴である。パイプ用ライターは炎が垂直に出ず斜め45度に出る。勿論紙巻き煙草用にも使えるが、火皿煮詰めた煙草の表面を見乍ら満遍なく着火出来る。空港の免税店で買ったが、普通の店では当時3万円ぐらいした。

紙巻きに戻る

海外生活から帰国後「紙巻き」に戻る咄

 

10余年の海外の国際機関での勤務を終わって帰国した。この時に今でも胸中に残る二つのショックに見舞われた。一つは「物の値段」、物を買うとき日本円を見ても「それが安いのか?高いのか?」がピンと来ない。勤務地の通貨か米ドルに頭の中で換算しないと見当がつかなかったこと。

他の一つは「パイプ」と指輪である。日本ではこの両者は極めて少数派である。例えば、指輪は芸能人か、いわゆる「恐い兄チャン」を除くと殆ど見掛けない。一方、パイプは他人から如何にも「ハイカラ振った」感じに見られることが多い。

多くの国では指輪は極々当たり前で、何もして居ないと返って変に思われることの方が多い。従って、指輪は直ぐ取り外した。パイプの方はジロジロ私のパイプを吸う姿を見る人が予想以上に沢山居る。変に気恥ずかしい気持ちになることが良くある。その中に加齢に伴い総義歯になってからはパイプを口で咥えてホールドするのが難しくなり、手でパイプを持たなければならなくなった。パソコンのキーボードなどを操作する時に両手の指を同時に使えないので効率が悪い。だからパソコンの前では何時もパイプを机上に置く羽目になった。

加えて、日本ではパイプ煙草を売っている店は大型煙草専門店で、その数は少なく入手が容易ではない。「桃山」と云う缶入りのパイプ煙草は昔からあったが、これは1980年頃は何処でも売って居たが、私の好みではない。残念だが旨くないのを承知で「紙巻き煙草の小箱」を昔のように再び買うようになった。

無念だが仕方がない。数10本の慣れ親しんだパイプは書棚の下の大きな抽出しの中に、パイプ用の灰皿や小物と共に「お蔵入り」となってしまった。ただ、例のDunhill 製のライターだけは使えるので、これは現在も未だ現役である。

 

北京空港

北京空港と上海の浦東新空港の喫煙室

 

数年前、青島を訪問した帰途、北京に3泊した時である。北京の後は上海の半世紀前からの旧友や多くに知人に会うために数日滞在する予定だったので、国内便のトランジット(乗り換え)室で上海行きの飛行機を待っていた。

大部屋の椅子に座っていたが煙草を吸いたくなった。室内禁煙の掲示が見える。一隅の小部屋に喫煙室の表示が見えた。此処なら吸えると思いその小部屋に入って驚いた。物凄い数の人で寿司詰め状態、濛濛とした煙が室内に充満して居る。

まるで煙が押し寄せてくる火事場は、経験したことは無いが、多分このような状態なのだろう。皆が急ぎ焦って一本の煙草を貪るように吸って居る。「阿片のような強い麻薬程ではないが、ニコチンの禁断症状から逃れる」と云うような意識を感じる人がその中にあったかどうかは知らない。私は3分の2ぐらいで怱々と小部屋から出た。

上海では以前からあった虹橋飛行場に下りて数日滞在して多くの旧友と会った。帰国時は「国際線として、丁度、偶々新しく開設されて未だ数週間も経たない浦東の大きな飛行場」であった。万事が新しく綺麗だったが、その巨大さには驚いた。相変わらず禁煙の掲示が各所に貼って在る。

新空港内の二階の出発カウンターや居並ぶ多くの商店を見て回っていると、「喫煙室は階下」の掲示が見えた。これ幸いと矢印の示す階段から階下に下りたら「喫煙室」か直ぐ見付かった。小部屋で長い腰掛けが両側にあり、数人の人が長椅子に腰かけて吸っている。北京と違って煙で濛濛とはして居なかったが、その小部屋は何とも味気ない監獄の一室みたいな雰囲気である。一服吸って早々に二階に戻った。

フト見ると「珈琲亭」と書いた喫茶店が在る。窓越しに眺めると客がゆったりした椅子に座って煙草を吸っている。早速中に入ってその人の隣りのテーブルに座ってコーヒーとクッキーを注文した。僅か数元である。「此処は禁煙ではないのですねー!」と日本語でその客に声を掛けた。服装と顔から日本人だと思ったからだ。彼は掌を此方に向けて手首から上を左右に振って「話不董」(話が理解できない)と中国語(標準のいわゆる普通話)での返事が返ってきた。

この動作は京劇などで良く見る「不可解」・「駄目」などを示す身振りの一つだ。丁度日本では「相手を押し止める」・「止めろ」という時の手振りに似ている。発音の調子から見て彼は南方の中国系の人らしい。

私も普通話で(尤も私は普通話以外の中国南方の多くの方言は数句を除き殆ど喋れない)「何方から?」と聞き返すとシンガポールだと云う。「それならチャンギですね」と英語で云うと、にこっと笑った・・・と云うのは彼は英語のほうが得意らしい。チャンギ(Changi)にはシンガポールの国際空港があり、私の属していた国際機関の支所も直ぐ傍にある保養地である。私もチャンギ地区は空港が出来る前から何回となく訪れて居る。多少双方に時間があったので、彼との会話は話が弾んだ。彼も煙草が吸いたくて階下の喫煙室にも「さっき行って見た、あれは非道い」と云って大笑いした。

駄弁が続いたついでに余談を続ける。それよりかなり前の1984年頃、初めて北京空港に降り立った時の話。飛行場内での検査が終わり、やっと場外のタクシー乗り場に出た。それ迄の場内は禁煙。場外に出てホットして一服吸い付けた途端、いきなり警官がやって来て「此処は禁煙区である、煙草は消して規則違反の罰金を支払え」と云う。

それならそうと「禁煙の警告表示を何故してないのか?」と云ったら警官はキョトンとして居る。「一国の首都の国際空港では無いか?禁煙マークか少なくも英語で表示すべきだ・・・」と云ったら益々キョトンとして居る。私の拙い中国語の言葉の意味は通じている筈だ。まさか反論されるとは意外千万だったので驚いてキョトンとしているらしい。

幸いかが院の友人が出迎えに来ていた。彼は警官に幾らかの罰金を支払って「未だ国際化意識が進んでいません。一個人の警官と論争しても始まりません。大した額ではないので、こうするのが一番です」と笑顔で私に告げた。経済開放政策がやっと社会に浸透し始めた頃の話である。

 

淡路恵子

 

淡路恵子の言に拍手

 

或る民放のチャンネルに長年続く「徹子の部屋」という番組がある。黒柳徹子さんがホステスとなって有名な芸能人を招いてお喋りをする。ある時スイッチを入れるとフィリピン人の歌手 Bimbo Danao と結婚して居た(後で離婚)女優の「淡路恵子」さんが出て居た。

私は「淡路恵子」さんと云う人を余り好きではなかった。だが上記の彼女の煙草に関する「啖呵」を聴いた途端、「手を叩き」好きになってしまった。愛煙家の淡路恵子さんは話が偶々煙草に及ぶと、顔付きが急変し柳眉を逆立てて「さも不合理で残念だ」と云った様子で「煙草には重税が掛かっている、それだけ国家に貢献している多額納税者だ。それを一方では禁煙を勧めている」、「可笑しいではないか?」。

そんなに禁煙、禁煙・・・と云うのなら「麻薬として禁止するのなら分かる、一方では「止めよ」と云い他方では「納税のため良く売れれば有り難い」という底意が見え見えではないか・・・。その口調は胸の空く啖呵調だ。ニコチン中毒者の私は思わず胸中で手を叩き「そうだ、そうだ」と快哉を叫んだ。ニコチン中毒者の「ごまめの歯ぎしり」的同志愛か?

余談(葉巻や嗅ぎ煙草

余談

(葉巻と嗅ぎ煙草や噛み煙草)

煙草には「紙巻き」が普通だが、パイプ(日本や韓国の煙管、キセル、中国の水煙袋やインドや中東の水パイプを含む)の外にも葉巻煙草や「嗅ぎ煙草」、「噛み煙草」などがある。「嗅ぎ煙草」(Snuff)は私は本で読んだり、洋画の時代劇で視たり、話に聴くだけで実際の事は知らない。欧州などでは嘗ては貴族など上流階級の嗅ぎ煙草の粉を入れる「金属彫刻家が施した凝った飾りの小さな容器」は非常に高価な物で、今では美術博物館でしか見られない。

今回チョット調べてみたら驚いた。嗅ぎ煙草は今も健在で販売されており、綺麗な小型の円形の缶に入っている。日本でも売って居るらしいが私は気が付かなかった。一方、噛み煙草もチュウインガム式で使用されているらしい。メージャー・リーグなどの選手はダッグアウトで紙巻き煙草やパイプを吸って居る光景は全く見られない。しかし、チュウインガムは試合中にも常に見られる。噛み煙草もその可能性は否定できないだろう。

私はチュウインガムは「噛む動作は精神の集中力を高める作用がある」と聞いていたので、それだろうと思っていたが、噛み煙草の場合もあるらしい。ニコチンを含むガムは長距離トラック運転手や深夜作業の人達の間ではごく普通の存在であるらしい。

以下に私の知る(体験した)これらに纏わる咄を述べる。

葉巻:英国のチャーチル首相や日本の吉田茂首相が「葉巻を咥えた姿」は新聞紙の写真などで皆知っている。大体このような「葉巻煙草」は「紙巻き」や「パイプ煙草」に較べて非常に高価である。一本一本がアルミ製の筒に収められて封印されて居る。桐のような箱に収められたものなど、普通は目玉が飛び出す程高価である。庶民の物では無いようだ。

キューバのハバナ産のもので一本数千円から1万円のものはザラにある。そうかと思うと一箱10本から20本入りで数千円というのもある。葉巻にはピンからキリ迄あって、私の経験ではミャンマーなどでは「紙巻き」より「葉巻」の方が安い。尤も恐ろしく不味い。タイやインドネシアなどの田舎でも尤も下級品は粗悪な葉巻で、「紙巻き」のような紙箱入りではなくバラ売りである。不味い。

フィリピンには「ツイスト」(twist 、捻る、捩る、の意)と云って3本の葉巻を捩り合わせた葉巻がある。(社交ダンスのツイストも腰を捩りながら踊る)。フリピン自慢の葉巻だ。吸うときは一本一本に解いて、「旋盤の切り屑のようなヨレヨレの恰好になったもの」を吸う。一本買ったら3本になるので「何だか得をした気になるのはご愛敬」だ。恰好は悪いが葉巻愛好家にとっては「値段に比し味は中々のものである」そうだ。私も興味半分で数回買った憶えがある。

時代劇の西洋映画の大劇場などの場面で、高級席の幕間の出口扉の外には「吸いかけの葉巻置き場」があり、幕間の休憩時間が終わり、またオペラや芝居が始まると「吸いかけの葉巻」を其処にそっと突っ込んで観覧席に戻る。誰のものかは本人しか分からない。婦人のオペラグラスと共に時代を感じさせる。上流社交界の慣習だったのだろう。

葉巻やパイプは紙巻きのように深く吸い込まない。プカプカと口中を「ふかす」だけだ。英語では puff と云う。Just puffing と云われて私はパイプ党になった。葉巻の香りは吸っている本人より同室の人々が心地よく感じる・・・と良く言われる。私なども室内に入って「いい香りがする、誰か葉巻を吸ってるなー」と思ったことが度々ある。アロマテラピーみたいなものか?。嫌煙権とはまる反対の咄である。

 

嗅ぎ煙草歴史的には、偉大な音楽家のJ. S. バッハ(Johann Sebastian Bach も吸っていたと云う嗅ぎ煙草。上述のように「スナッフ」(Snuff、粉末状)とか「スヌーズ」(snoose、鼻腔塗抹液)と呼ばれる火を付けない従って煙を出さないタバコに就いては、私は本で読んだり、洋画の時代劇で視たり、話に聴くだけで実際の事は知らない。

10余年居たタイ国には「ヤー・ナッ」と称する「スナッフ」類似のもの、「ヤー・ドム」や「ヤー・モン」と称する「スヌーズ」類似の物(口紅状のクリームか小瓶に入った液状)が在る。大量に日本に持ち込むと空港の検査で没収されるところを見ると、ニコチンではないにせよ何らかのマリファナやハシシュ類似の物質が微量に含まれて居るらしい。薄荷が多く含まれているので、暑い国ではチョットした清涼感を味わうことが出来、多くの人が普通に使っているし、麻薬には厳しいタイ国の法律に触れることも無い。

私が見た上記の「ヤー・ナッ」は「スナッフ」紛いの粉末で、U 字状に曲げた極細の管の一端を粉の入った小箱に、他に一端を鼻の孔に入れて吸い込む。どういう訳か、彼はそれを他人には見られたくない様子だった。私は度々その様子を目撃したが、敢えて問い糾さなかった。何だか「彼が答に窮する」気がして、私は問うことに気が引けたからである。

彼は謹厳実直な仏教徒で、酒も煙草も飲まない。頭脳も明晰で英語にも堪能、人柄は「堅物過ぎる」ぐらいであった。酒の席では人が酒を飲んで居ても彼だけは一人でただ「ソータ水」を飲んでいた。その彼が隠れるように吸っていたのは一体何なのだろう?。在日タイ留学生やタイ料理屋のタイ人従業員などに「ヤー・ナッ」を尋ねても「名前は知っているが今の若い人は実物を見たことも無いし、どんな物かも知らない、古い大きな薬局には今も売って居る筈です」という返事。お分かりの方が居られたら是非ご教示頂ければ幸甚である。

 

噛み煙草:上記のように「メージャー・リーグなどの選手はチュウインガム状のものを試合中に噛んで居ることがあるらしい」程度のことしか知らない。

子供の頃、氏神神社のお祭りや縁日の屋台の駄菓子屋でニッキ(肉桂)を染みこませた小さな短冊型の厚紙を売って居た。千切って口中に含み噛むとニッキの香りがして心地よかった。噛み煙草もそんな物だろうか?

茶道の先生で年中「茶葉」を噛んでいる人を知っている。一種の禁断症状だろうか?噛まずには居られない様子だった。薄荷や仁丹なども極端に多用すると同様の現象が起こるようだ。船酔いの「ムカツキ」を鎮めようと仁丹を一日に2箱以上も一週間続けて飲んだりした場合だ。しかし、これらは環境か変われば自覚しないでも自然に治り、元に戻る。

大麻(マリファナ)など世間を騒がしているが、米国では州によって規制が大幅に異なり、使用する局面によっては黙認されるところも多いと聞く。変な咄だ。国によっては規制は厳格だが、実際の世間では少量の大麻を来客用の料理に入れるのは常識だと云う。「味が美味しく感じられ、また、心が昂揚して話が弾むのだ」とのこと。私なども知らず知らずにその目に遭っていたかも知れない(笑い)。


 GOIKEN

閲覧者からのご意見や関連エッセイ

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件に関しては、閲覧者からかなりの反響があった。「野蛮人の煙(タバコのこと)の話に興味なし」との畏友 T.D. さんからのメールには「河豚食わぬ人には言わじ河豚の味」とメールを返した。数氏からは「懐かしい」とか「嬉しく読んだ」との賛同的なメールがあった。

N.T. さんからのメール。「パイプタバコの香」も、もう何十年もタバコは吸っていません。しかし煙草の味も香も好きです。若い衆が“煙草が切れて大変という。聞くと一日に2箱(40本)必要だという。しかし見ていると吹かしているだけで吸ってはいない。しかもニコチンの含有量は極めて少ない煙草です。ニコチン中毒ならニコチン含有量の高いものを少し吸えば良いはずでしょう。

パイプタバコには香りが大変良いものがある。良いものは自分が吸っても他人が吸ってもよい。パイプはブライヤー(バラの根)が珍重された。しかしそれでもヤニが出る。ヤニが口に入ると苦い。

「ご存知でしょうが、タンザニア特産の海泡石 (meerschaum 、白墨のような白い化石)で作ったパイプは断熱効果が強いのでタバコが完全燃焼しヤニが出ない。東アフリカ諸国の土産物店などで安く売っていたのを沢山買ってきたのだが何処へ行ったか一つも見つからない・・・云々」とあり、続けて「タバコの咄をつまみにして一杯飲みながら座談会でも遣れば楽しいと思う」と付け足してあった。

「スナッフ煙草紛い」の粉末で本文で述べた「ヤー・ナッ」であるが、正体が多少分かった。若い頃世話をした Mano Ivanuvat さん(建設会社社長)が2008年10月に来日した折、家族で夕食会をした。その時に尋ねたら「今の若いタイ人は多分知らないでしょう」と彼は云う。「鼻詰まり」の症状を持つ人のための治療薬で茶色の粉を特殊な管を用いて吸い込む」のだそうだ。その後に新しい西洋薬が出たので今では殆ど薬局の店頭から姿を消したとのこと。

帰国した同氏からのメールに添付された英文の医学文書の1ページの複写の内容によると、「タイ国の伝統的な蓄膿症の外用薬でハーブの一種の葉を乾燥させて粉末にしたものらしい。多少の習慣性があるが麻薬のよな禁断症状はないらしい。今も販売されてはいるが新薬に取って替られた為、販売数はごく少ない」とある。

そう言えば私が子供の頃、日本でも、「蓄膿にはミナト式点鼻薬」と言う広告をよく見掛けた。「メガネをかけたおとうさん」のマンガ風のイラストを新聞紙や看板で良く憶えている。これは薬液の入った容器の先端を鼻の穴に突っ込んで噴射する仕組みであった。私は必要ないので試したことはなかった。今ではサッパリお目に掛からない。

私が「マリファナ紛いの習慣性や禁断症状を持つもの」のかも知れない」と勝手に怪しんで居たものではなく、「昔は正規に販売されていた」と云う。現在日本でも鼻に噴霧するスプレー式点鼻藥が在り、花粉症に効くと云う。それに類する薬だったようだ。彼が物陰に隠れて使用していたので、私の思い過ごしだったようである。

「熱血「パイプ道」始末記」 小生は昨年2月3日に紙巻き煙草をやめ、4ヵ月後の6月3日からパイプ煙草を30年ぶりに再開したが、先日近所の煙草屋から「禁煙したの?」と聞
かれた。「パイプにしたよ」「禁煙パイポ?」「いや、シャーローックホームズ」。パイプ煙草は大学時代のマドンナの実家の煙草屋に注文している(なんたる未練!)。デンマーク製の「スイートダブリン」と米国製の「ハーフ&ハーフ」をミックスして吸っているが、結構うまい。

それにしても小生のようなガサツな人の喫煙風景はいただけない。茶道のように「パイプ道」というのはあって、優雅に吸わなくてはいけないのに、小生はそれからずいぶんとはずれている。他人(ひと)様にとても見せられない。

パイプは数本用意しなくてはいけない。最低でも5、6本は必要だ。ローテーションで使うのである。本妻、妾、婢、浮気、ツマミ食い、行きがかり・・・の順番みたいに。30年ぶりの小生は数本を(物置に「しまい無くして」)紛失してしまったから、今は3本しかないのだが、しかたがない、その1本をとって「パイプ道」の所作をする。

ブライヤーとかいうバラ科の根っ子製のパイプの木目をまずは楽しむのだ。ためつすがめつ。見たっていつも同じなのだが、「この瑕は気付かなかったなあ」なんて毎回思いつつ、「ま、いいか、人生こんなものか」と納得する。今さらカミサンを選んだことを後悔したって始まらない。カミサンもそ
う思っていることだろう。ここで諦観する。パイプは人を哲学者にする。

次に穴(ボウル、燃焼室)を愛でる。穴にはカーボンというかオコゲがついている。この厚さが適切でないときはリーマーという道具で掃除する。オコゲは煙草の味を左右するから大事なのだ。GHQのマッカーサはもっぱらトウモロコシで作った安物のコーンパイプを愛用したが、オコゲが適当につくまで1ヶ月ほど部下にパイプを預け、それから吸い口(マウスピース)を代えて愛飲していたという。

FDRルーズベルトと手を組んで真珠湾攻撃へ日本をいざない、戦端を開かすために自国民4000人を犠牲にさせたということを含めて秘密はすべてあの世へもっていった "skim the cream off"(いいとこ取り)の嫌な奴らしいやりかたである。真実を50年後でも開封すべきだった。(平井 修一、頂門の一針1861号、2010/03/25.)。

「パイプの話」 平井氏の「パイプの話」に触発され、少々回顧致します。何十年か前の話。ベンツピレンが肺癌の元とか騒がれ、パイプ煙草が大流行し、手作りパイプセットなるものが売れに売れた時代がありました。先祖伝来の野次馬遺伝子保持者である私も、御多分に漏れず、セットの購入から始め、色々と試行錯誤致しました。生来のものぐさでもある私は、結果として次の慣習に至りました。

パイプ。コーンから海泡石迄試し、掌への馴染みと手入れの容易さからブルドッグに落ち着きました。葉っぱ「桃山」から舶来品迄各種を喫み比べ、ハーフアンドハーフ・オンリーになりました。一度、ハーフアンドハーフのデカい缶入りを取寄せ、呆れる程の長期間保った記憶があります。

外での喫煙用にハーフアンドハーフの巻煙草を愛用していましたが、何時か輸入が途絶え、残念に思いました。其頃から、デパートの煙草販売コーナーが無くなり始めました。

詰め技術 パイプ談義のハイライトであります。私は平井氏とは対照的に、最初はふかふかと柔らかく、最後はキツ目に押さえます。此詰め方に就いて西洋人の言葉で「最初は幼女の如く、最後は悪魔の如く」を何かで読んだ記憶があります。

着火 燐寸を最上とします。ライターではボウルのカーボンが焦げて煙草の味を損じますし、ボウルの縁に盛り上がるタールの趣を楽しめません。中でもガソリンライターではガソリンの匂いが残り、興趣を殺ぐ事が半端ではありません。

喫み方 一度、軽く試して30分を記録し、本気でやれば1時間保たせる自信を付け
ましたが実行には至りませんでした。邪道ですが、初めに満遍なく火を回して2、3度深く肺迄吸い込むとニコチンとタールが体中に行き渡り陶然となりますので、其侭パイプ立てに立てます。次に又喫みたくなれば同じ事を繰り返し、何度かやると葉っぱが無くなるので詰め替えます。

現在 75歳に成る頃、カミさんが喘息に成り、家での喫煙を止めました。外でのパイプは何かと面倒なのでやって居りません。(渡部亮次郎 、パイプ煙草、頂門の一針1862号。2010/03/26)。

 

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