(その2)
再び靖国問題 (西原春男氏と王敏女史の対談記事を読んで)
言語を殆ど使わない講義の名人 (FAO本部で会った神業的な授業の達人)
國際協力と言葉の問題 (現地語にもっと関心を…。私が感じたこと)
死を危機一髪で免れた話の数々 (人生には予測できないことが時々起こる)
危険を招く規制緩和と批判の欠如 (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
「一銭の洋食」と「チョボ焼き」 (「お好み焼き」と「たこ焼き」のルーツ)
万愚節と万聖節 (エイプリル・フールとハローウィン)
卒業生の追跡調査 (New York 大学の場合)
人造地球衛星 (1957年、上海で見たスプートニク1号)
チョロギ (イカモノ食いを以て任ずる私が食べたゲテモノの数々)
鴨舌(リン・ペッ) (イカモノ食いの数々、その2、続き)
国の無い世界 (The Beatles の John Lennon ”Imagine” に共鳴した話)
IDOQというソフト (DOS 時代にとても便利だったアウトラインプロセッサ)
政治家は英語がお好き?(庶民に分り易い日本語があるにも拘わらず・・・)
今年(2007)は「豚」の歳? (猪の年では無く「豚、ブタ」の年かも・・・。)
回想 (その1) (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
素朴な疑問(その1) (釈尊やキリストは何故自分で「教え」を書かなかったのだろう
素朴な疑問(その2) (日本のグルメ・ブームは虚仮の沙汰だ・・・?)
自然保護活動 (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
「唐あく」ちまき (懐かしの長崎の味、だが「ちまき」の語の由来は?)
大型連休中に激減したスパム (迷惑メールに悩む話)
日本の綜合新聞紙に望む (ダイジェスト版の試みは?)
本質を考えましょう (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
自衛隊を考える (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
是正しよう、日本の格差 (★ 林 繁一 氏の寄稿 ★) [寄稿]
KOHIHIKARI (日本人の米に就いての論議は視野狭窄だ)
思わず笑う変な騒音 (あなたも試みて経験しませんか?)
私の知名度 (水産業界で知名度がベスト・テンに入って居る。まさか・・・)
言語を殆ど使わない講義の名人
FAO本部で会った神業的な授業法の達人
(2005年8月 記)
真道 重明
FAO本部(在イタリア・ローマ)にコンサルタントとして「IPFC、印度太平洋漁業理事会」のトロール作業部会の「最終リポート」を書くため3ヵ月ぐらい滞在していた時の話である。時期は1960年代の終り頃か70年代の初期頃だったと思う。当時私は東京の月島にある東海区水産研究所に在勤していた。
FAOのコンサルタントというのは、FAOの委嘱を受けてFAOから委託された仕事をする「専門家のお客さん」である。FAOはローマ市内に「ペンショーネ」と呼ぶ幾つかの特約宿舎があり、その時私が宿泊していたのは確か「ランセロット」と言う名前の宿舎であった。私の記憶に間違いがなければ、この宿舎を切り盛りしているマダムの旦那はかつてFAOの保安職員で、この旦那が亡くなった後にFAOのペンショーネ(特約宿舎)の女将をやっていた。その後も私は数回此処にお世話になったことがある。
昼間FAOで仕事をして宿舎に戻り一休みする。夕食の時間になると、大広間の食堂に多くの円卓があり、宿泊者はそれぞれ自由に席に着く。数名が仲間同士であると同じ円卓に着くが、私は独りぼっちだったから、適当な空席に座った。その内に自然と顔見知りが出来て定位置らしい席がなんとなく出来る。その後、私は國際機関の SEAFDEC に勤めたりしたので、FAO本部には度々訪れたが、この時が最初だったし言葉も未だ極めて不慣れだったこともあり、強烈な印象と体験の洗礼を受けた。
大広間の食堂の中央奥には横長い特別の食卓があり、その中央の席には例のマダムがホステス・ガウンを着て座っている。宿泊者はFAO関係者の「お客、ゲスト」であり、マダムは「招待者、ホステス」という訳である。FAOの特約のペンショーネの総てがこの形式を取っていた訳ではなく、自由な時間に入って来て食事が終わると勝手に出て行く、一般のホテル形式の所もあったが、此処は朝食は別として夕食はやや格式張ったムードであった。
数日の宿泊者(滞在者)もあり、1ヵ月を超える滞在者もある。滞在者の中で最も長期の者は横長い特別の食卓のマダムの席の隣りの席に「ホステスのマダムに招待されて座らせられる」と言う「光栄」に浴する羽目になる慣わしであった。キリストの「最後の晩餐」のムードをチョット連想する。始めは何も知らず、言葉(英語が主であった)も余り出来なかった私は、祝言に呼ばれた落語の「与太さん」宜しく、ただ周りの人の真似をして食事をしていたが、この慣習を知って途端に憂鬱になった。
というのは私は3ヵ月滞在する…と言うことは間違いなくその席に座らせられる運命に見舞われる。普通、長くても2ヵ月ぐらいの人が大多数だったからだ。円卓の場合6名位の顔触れだし、問いかけられない限り言葉を喋らなくても良い。笑顔で誤魔化せばよい。慣れてくると顔見知りだから何度も平気で聞き返せる。あそこの特別席に座らされるとそうは行くまい。「何か格好良い一言位はマダムの紹介の後で喋らずばその場は収まらない」。それを考えると夜も眠れない。今から考えれば「体裁や格好良さに拘る愚者の笑い話」だが、その時は心底そう思い悩んだ。
或る日は私の円卓の連中の話題が水産や各国の飲物や食物、食習慣である。この時などだと私も皆の話にどうにか着いて行ける。しかし、偶には全く連中の話が理解できない日もある。「昨日の皆の話は私にはサッパリ理解できなかった。一体何を喋っていたの?」と訊ねたことがある。顔見知りになった一人が私に向かって笑顔で「昨日は欧州各国の納税制度のことが話題になった。日本人の貴方が分からないのは当たり前、その方面の経験や述語が分からない人には理解できないでしょう。私も昔同様の経験をして「仲間外れ」のような気がしたものです」。その親切な年輩の人は私に答えた。
外国の言葉というものは厄介な物だ。前置きが長くなって了った。本論に入ろう。
或る日例によって大広間の食堂で夕食が始まった。私達のテーブルには空席が一つ在った。一同がスープを匙で啜ろうとした瞬間、一人の小柄な男が入って来てその空席に着いた。途端に広間の各テーブルから「チャオ」と声が掛かった。…と言うことはこの人物は多くの人に知られているらしい。彼は広間の人々に丁度オペラ歌手がするような大袈裟な身振りの会釈をして座り直し、テーブルの面々に笑顔で「名前は Odd gay、そう私を呼んで呉れ」そして、その後に「プリーズ」と付け加え、片目でウインクした。テーブルに居た面々は皆が爆笑した。
「任地での講義を終わって、飛行機で今ローマに辿り着いたばかり」と言って、食事中、話し好きと見え、引っ切りなしに喋り出した。リリエンタール飛行場から此処までのタクシーは運チャンがお客がよそ者だと分かると法外な運賃を吹っ掛けることで有名である。彼は長年 FAO の仕事をし、ローマを拠点にしているから、その辺のことには精通している。運チャンとの、ツイ先程の対応についての他愛のない「駆け引き」が咄の内容である。私が驚いたのは彼の話に出て来る英語は極めて少ない。恐らく600語以内である。後はジェスチュアーの身振りと手振りである。極めて解り易く、しかも、文章として書き言葉の「滑稽談」として経緯を表現するとしたら、かなり難しいと思われる微妙な心理を軽妙に表現し、聞き手に理解させる。円卓の仲間は咄が滑稽でとても面白いから、皆が食事を半ば忘れて彼に聞き入っている。
漫画家サトウ・サンペイ氏の欧州旅行記に、YES と NO 以外は言葉の代わりに得意の漫画をサラサラと書いて見せ、意志疏通を計った記事を読み、その奇智と頓知頓才に一驚したが、それと同じである。チェコかスロバキアの人だったように思う。後で聞いた話だが彼は潅漑土木工学の専門家で、当時の FAO の公用語(英語・仏語・スペイン語)が余り通じない地域に対する技術協力には貴重な存在のコンサルタントだとのこと。殆ど世界共通語である「数式」と「絵」、それと YES と NO、YOU と I、GOOD と BAD などの僅かな単語だけを駆使して英語や仏語の分からない受講者を相手に名講義をして各国を巡っているらしい。講義先の国々からは大いに手腕評価されていると聞いた。
彼の持つ特殊技能は他人の真似が出来ない、すなわち、教育現場で役立つように「体系付けたもの」にして皆が習得出来ないものだろうか? サトウ・サンペイ氏や今流行りの劇画作家の技能、また手話による意志疏通、立ち入り禁止や禁煙などの標識デザインなどとも関連がありそうだ。もちろん、これらのことは水産研究所時代に留学生を受け入れた時や、後年私が SEAFDEC の Training Department に10余年勤務した時に、度々「ふと」私の脳裏を横切った問題である。
元来、國際技術協力には使用言語の力量の問題が、教える側にも、教えを受ける側にも、当然のことながら常に付き纏う。通訳を介する場合にも、通訳者の言語能力や専門知識の有無も問題になる。だが、それだけでは無い。外国語の習得は、もちろん基本中の基本である。しかし言葉の通じない人々との相互理解は言葉だけではない。audiovisual aids (視聴覚機器)の発達によって最近は大いに効果を上げてはいるが、上述の技能は習得可能な体系化が出来ないものだろうか?
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
國際協力と言葉の問題
−國際技術協力の現場で私が感じたこと。現地語の習得問題−
(2005年8月)
真道 重明
國際と名が付けば常に言葉(外国語)の問題が付き纏う。日本の國際協力の場合、9割以上は外国語と言っても「英語」である。海外に派遣されるとき「英語力の向上に努めること、専門家の中には英語を疎かにし、現地語の方が重要だと思って居る人があるが、現地語の習得は結構なことだが、英語の習得をいい加減にして英語による意志疏通が不完全な侭、現地語の習得を新しく始めるのは、負担が大きく、現地語はさら中途半端と言う状況では、任務遂行はとても覚束ない。「元も子もない結果になる」と良く言われた。極めて尤もなことで、その通りである。しかし、視野を変えてもっと國際技術協力の基本的なことを突き詰めて考えると、背後には更に大きな基本的な問題がある。
國際技術協力の問題を例に取り上げると、それらが実施される場合、先ず、相手国政府が要請してきた幾つかのプロジェクトを審査して対応する場合が多い。以前はこのやり方をメニュー方式などと呼ばれた。この場合、相手国政府の要望が必ずしも「相手国の社会や民衆の要望に沿ったものであるか否か」は別の問題である。協力を受ける側の受講生も「英語が或る程度喋れる人達」であり、途上国の場合、それらの人々はその社会で高等教育を受けた一握りの富裕階級である。社会に対する価値観・意識・感覚は庶民のそれとは必ずしも一致しているとは限らない。
極端な言い方をすれば、「多くの國際技術協力は国家権力(政府)同士の間で取り決められ、富裕階級を技術の受け皿として実施されている」のが一般的実情である。私はこの「仕組みが悪い」とか「間違っている」と言っているのではない。その国の僅か数%に過ぎない「外国語を操れる支配者層や富裕者層」の間で、万事ことが運ばれて居ると言わざるを得ない。そして國際技術協力のシステムは「そう言うものである」と思いこみ、他の在り方を論議の対象にして云々する人は、余り居ないように私には思われてなら無い。
しかし、海外に進出している企業は現地で技術移転を通じて相手国に技術を提供しているし、官製の技術協力のシステムより遥かに効率的である場合が多い。動機は企業の利益のためであるが、結果的には「技術協力」である。その多くの使用言語は英語だけでなく現地語がより多く使われている。技術移転の教育のための curricula や syllabi にしても民間企業の方が整備され、現地語で書かれた教科書(マニュアル形式のものが多い)も立派なものが作られている場合が多い。もっとも私が知っているのは大手企業の場合だけではあるが…。
さらに NGO (Non-Governmental Organization、国連憲章第71条に規定された「国際協力に携わる『非政府組織』、『民間団体』による國際協力)の活動は、私がこの眼で見聞した限りでは、分野は限られ、予算規模も極めて小さいとは言え、一層「現地語が多用されている」と言うよりも、「現地語で事が進められている」場合が多く、庶民の社会に深く食い込んだ「人類愛の世界」で協力が行われているケースが多い。
大上段に振りかぶった言い方で恐縮だが、一体、「國際技術協力とは何か」が問題である。政府が取り決めた、いわゆる官製のプロジェクトの場合でも、二国間プロジェクトと多国間プロジェクトでは目的や内容が異なるし、特に水産の場合の二国間プロジェクトの場合は「極めて近視眼的な目先の当面の国益に利する性格の強いもの」が過去には多かったし、今でもそうであろう。私が直接関与したり傍で見聞きしたそれらの半世紀に亘る経験から言うと、時代の経過による國際社会環境の変化や相手国の経済水準の様変わりなどにより、ナンセンスなものだったプロジェクトが多い。
多国間プロジェクトの場合も、時代は既に乱獲防止・資源保護・環境保護が最優先課題に入っているにも拘わらず、旧態然として生産増大・捕獲技術優先の考え方から脱却できないで居る。参加国の政府の「近視眼的な目先だけの国益優先的思想」に引き摺られている。大局的な見地から見れば実施されている國際協力の幾つかのものは無駄な空転をしている。
ケネディ大統領が創設したと言われる米国のピースコー(Peace corps、平和部隊、JICAの青年協力隊に似ている)はこの種の國際協力活動の模範のように思われていたが、1970年代になると水産分野では、(私の知る限りでは)、米国の大学生の国外産海洋生物の卒論作成に使われ、技術移転ではなくなった。
また、或る技術にかなりの経費と人を投入して一応の成果を収めたにも拘わらず、プロジェクトが終わった途端にその技術は継承されず消え去って了ったり、その国の経済状態が悪化したためその技術を維持できなくなって了った例は沢山ある。逆に先方の国の経済状況が上昇すると、技術普及に経費を支出する迄もなく、プロジェクトの仕組みとは関係のない所でその技術は一人でドンドン歩き出して、普及して行く場合が多い。
國際技術協力と一口に言っても、多種多様であり、余りにも間口が広いので、その一つ一つを異なった色々の視点から問題を眺めると、無数の矛盾点が存在することを痛感する。非戦論と軍備増強問題の論争と同様、私などの凡庸な頭では問題をより改善するための「仕分けや整理」が着かない。技術系ではなく社会経済学の人々の論議が期待される。
さて、言葉の問題であるが、太平洋戦争でハワイ真珠湾が攻撃されると、米国は即座に「日本語の学習チーム」を軍隊内に立ち上げ、日本軍や日本人との接触に具え、一方、日本軍は「英語は敵性語である」としてその使用を禁止すると言う感情的な愚挙に出たことは誰でもが知る逸話である。当時の米軍の意図は占領地の宣撫対策から出たのだろうが、平和?時の今の國際協力に就いても、言葉(現地語)は重要である。
日本の場合、「他に現実に実行できるのは英語の他にない」からと言って、「現地語に対して無視はしない迄も、殆ど関心を持たない」様な気がしてならない。米軍の例を引くまでもなく、現地語の力が或る程度在るか否か?は、場合によっては「英語だけにしか頼らざるを得ない場合」に較べて、協力の根底に関わる本質的な問題を遥かに理解しうることは間違いない。
私は中国語とタイ語に就いて、電話で何とか日常の会話がどうにか出来るかどうかと言った程度のお恥ずかしい水準でしかないが、それでも英語によらず、夫々の国の言葉による会話から、國際協力に関し考えさせられる機会が度々あった。今後もっと具体的に、この問題を書いてみたいと思っている。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
死を危機一髪と言うか、
運良くと言うか、
危機を免れた話の数々
人生、何十年と生きていると、誰しも「危機一髪で九死に一生を免れた」とか、死に至る病と誤診されショックを受け、俺も一巻の終わりか? … 等々の経験は誰しもあるだう、人生、まさに一寸先は闇で何が起こるか分からない。その幾つかを想い出す侭に書き綴った。
(2005年12月)
真道 重明
1 軽トラック諸共断崖から転落しそうになった咄
2 天草の富岡海岸の絶壁から自転車と共に墜落?
3 台風の真っ直中、船長から「SOS発信不可能」と告げられた咄
4 カルテに胃癌と記載され動転したり、乳癌の疑いで手術した顛末
5 戦場での生死の分かれ目は骰子の目と同じ、丁か半か?
6 結びの感想
軽トラック諸共断崖絶壁から転落しそうになった咄
軽トラック諸共断崖から転落しそうになった咄
確か二年生か三年生の頃、各校合同の一週間に亘る大規模な野外軍事教練が行われた時のことである。場所は65年も前のことだから記憶が定かではないが、農事試験場のあった西ヶ原近辺であったように思う。ひと連なりの丘陵というか台地であった処にキャンプが在った。当時の鄙びた長閑なこの付近の景観は現在では想像も着かない。
私を含めた5〜6名が軽トラックに載っていた。何の目的で何処に向かう心算だったのか一切憶えていない。誰も銃は持っていなかったようだ。車はなだらかな斜面に停車していて、車の後尾方向は斜面が低くなっていた。30 m ぐらい後方は台地が切れて崖になっていた。
皆が乗りこんだ途端、車が徐々に後退し始めた。運転手はブレーキを掛けて車を停めようとして居たが少しも利かない。車は少しずつゆっくり加速しながら「後退(あとしざ)りして居る。私は地形を知っていたので「此の儘だと車は崖から転落して大変なことになる」と判断し「危ない!皆飛び降りろ!」と大声で叫んで、私自身は直ちに車外に飛び降りた。
着地した処は潅木の中だった。幸い、かすり傷も受けていない。他の連中はどうなったのだろう?と思ったのは数秒後である。何の物音も悲鳴も聞こえてこない。直ちに潅木から平地の草叢に出てその方向を見た。幸運にも、まさに、幸運にも、車は崖っ淵に生えていた一本の黒松の木に衝突し、その木に支えられて停まって居るではないか。黒松は何本も生えていた訳ではない。丁度ズルズル滑るように後退している線上にたった一本の木が生えていた。
眺めると車上の人々も運転手も夢中で慌てて車から降りかかっていた。飛び降りたのは私一人だけだったようだ。皆は崖の下を見て顔を見合わせて驚いている。「命拾いした」という声が聞こえた。あと 1 m で丘の縁になる。崖っぷちから下を見ると 20 m ぐらいの絶壁である。皆の顔は次第に事態を理解して蒼白に変わっていたのを憶えている。
この一本の黒松の木が無かったら間違いなく車は崖から転落してコロコロと転がりながら墜ちていただろう。絶壁と云う程では無いにしても、かなりの急勾配である。車は大破して乗っていた人には死傷者が出た可能性は高い。今想い出しても「ゾット」する話だ。
天草の富岡海岸の絶壁から自転車と共に墜落?
前項では乗っていた車が崖から転落する話だったが、自分が乗った自転車が海岸の絶壁から墜ちそうになった話である。1946年戦地から復員、農林省中央水産試験場に就職、熊本県天草郡苓北町の富岡半島に在る旧富岡城跡に建設された九州大学の臨海実験場の構内に併設された中央水産試験場支所に勤務することになった。
富岡は風光明媚な景勝地であるが、かなり急勾配の土地に建てられた九大の臨海実験場は海浜に実験棟が在り、何段もの階段を上ると通路に出る。更に階段を上ると宿舎が在った。宿舎からの眺めは美保の松原を小型にしたような砂嘴に囲まれた巴湾の絶景を眼下に見ることが出来る。
着任して数週間後の或る日、町に用足しに自転車に跨って緩やかに下降する道路を走り出した。その道路の左は巴湾の海に面し、右は樹木に囲まれた大型の溜池が在った。道路は修復のためか当時は小粒の砂利が敷き詰めてあった。左側は石垣を積んだ絶壁で、海浜からの高さは十数 m あったように思う。今は知らないが、当時はガードレールなどの柵は無かった。
自転車でこの道を走るのは、勿論、初めてだった。走り出す前に自転車のブレーキなどに異常がないか等はテストして居た。初めて使う自転車だったから…。緩やかな勾配で下降する道路であったが、ペダルを一漕ぎすると後は漕がずとも滑り出した。
走行は快適だったのだが、砂利が敷き詰められた処になるとガタガタ振動し初めて砂利に足を取られそうに感じたので、急いでブレーキをかけた。ところが、砂利が飛び散るだけでブレーキが利かない。ハンドルも利かない。走行の制御が出来ない。ガタガタ振動し乍らズルズルと自転車は道の左肩に寄ってゆく。此の儘だと道を外れて絶壁から墜落して了う。
墜ちたが最後、白波を立てている十数 m 下の岩にぶつかって一巻の終わりとなりそうだ。私は慌ててハンドルを右90度に切り、わざと自ら車を倒して体を道の中央に投げ出した。体は砂利道の上で蛙を叩き付けたような腹這いのミットモナイ姿勢で伏せて居た。自転車は滑りながら道を外れ絶壁から落下していた。私は肘と足に擦り傷を負ったが、体は大丈夫、大したことはなかった。誰か見ている人が在れば駆け付けてきたかも知れないが、田舎のことゆえ誰も居なかった。
それより若し「墜落していたら?」と思うと、暫く呆然としていた。肘と足の傷口から多少血が流れ出た儘の姿で宿舎に戻り事の次第を告げた。用務員とその奥さんは「アッパ・よー!」(まあ、大事だ…の驚き、方言)と云って墜ちて壊れた自転車を見に行った。60年近く前のこと。あの現場は今はどうなっているのだろう?懐かしい気もする。
ともあれ、砂利道では多くの場合ブレーキは利かない。砂場も同様である。危ない、危ない!
船長から「SOS 発信不可能」と告げられた咄
〜 台風の真っ直中、船体転覆の寸前 〜
1940年の夏のこと。海軍は多数の民間船を徴用して日本列島と赤道の間の海洋一斉観測を実施した。当時学生だった私は同級生2名と応募し、これに参加し某社のキャッチャーボート(捕鯨船)に乗船した。当時アルバイトと言う言葉は無かったが、40日間の仕事の報酬は悪くはなかった。支度のための前渡金を貰いに生まれて初めて日本銀行本店に赴いたことを憶えている。
船は小型ながら南氷洋で働く捕鯨船だけに、時化には強い半面、ローリング(横揺れ)やピッチング(縦揺れ)は客船の倍は揺れる。ブルワーク(舷側)が低く、大波を被っても水は直ぐ左右の変則から排出され、船は重くならない。まるで浮上航行中の潜水艦のようだ。だが時化ると甲板には立っていられない。流れ出す海水に足を取られ海中に放り出される。
下田を出航して土佐清水・油津に寄港して私達の船の根拠港である那覇に向かった。当初の計画では下田から那覇へ直行する予定だったが、これらの港に次々と寄港したのは、生憎この年は台風が頻発し、一難去ってまた一難、その都度に避難を余儀なくされたためである。
一斉観測が開始されてからは根拠地の那覇と台湾の基隆に数回寄港したが、その間にも大型台風に数次見舞われた。一度は台風を避けるため赤道に南下したところ、北上すると思われた台風が逆に進路を逆にとり南下し始め、救難信号を出す直前状態に陥り、台風の直撃を避けるため船は北上したり南下したり、逃げまどった。航海日数は超過するし、生鮮食料は無くなるし、食べられるものは「米と脱脂粉乳だけ」と言う日が1週間も続いたこともあった。
白状すると本格的に船に乗って仕事をしたのはこれが最初である。水産の学校とはいえ私の専攻は生物学を主とする養殖科で八丁櫓の和船やピンネス(カッター・ボートを一回り大きくした「大型客船の救命ボート」)などの訓練は受けたが、大洋を航行する非客船には乗船経験はない。初体験が台風に翻弄されるキャッチャー・ボート、乗船直後から物凄い「船酔い」に悩まされ、二度と船には乗るまいと思ったが、その中に慣れた。
この船には海軍の水兵が2人乗船して居た。この二人も船酔いに悩まされていた。一人は潜水艦勤務、他の一人は航空母艦勤務であった。あまり時化ると潜水艦は20mも潜行すれば船は揺れない。波は海面だけで下の水中は穏やかなのだそうだ。また航空母艦は余りにも巨大で揺れる波長が全然小型船とは異なる。航空母艦には慣れていても、小型船に乗ると酔うそうだ。地獄のような船酔いも10日も経てば慣れる。
船長はとても良い人だったが、捕鯨船は半年は南氷洋上、半年は日本の陸上、20年も捕鯨船に乗っているが、「半年の陸上生活を終わって再び乗船するときの最初の1週間は船酔いすると云っていた。40日間の水上生活で「鏡のような無風状態」の日は僅か2日か3日、慣れると少しローリング(横揺れ)がある方が揺り篭同然寝付きやすい。上陸して陸上で一夜を明かす場合、夜半に目を覚ますと旅館の部屋が逆に揺れているように感じる。船酔いとは変なものである。
話が船酔い談義になりそうなので本題に戻る。出港してから何回目かの台風に襲われた時のこと、これは特に烈しかった。縦揺れで水中に潜り込んだ船首が掬い込んだ海水は、船首が水面に出て船体が棒立ちのようになると、大量の海水を船尾の方向に投げ落とす。甲板は河の急流のようになり、とても立っておられない。船尾に括り付けてあった予備燃料を入れたドラム缶は皆切り離されて跡形もない。
甲板に出るハッチは総て閉ざされて乗組員全員は船内に退避して居る。ブリッジの窓からだけしか船外の様子は見えない。私達下っ端の観測員の居住区は船尾に在った。通常なら食堂に行くには甲板出て司厨室傍の扉から直ぐ入れるのだが、甲板には出られないから船内の通路を通るしかない。通路と云っても機関室の上部を貫通している「水平梯子」しかない。まるで綱渡りの状態で獅噛み付いて機関室の騒音と熱気の中を渡らなければならない。
おまけに船は左右35度、計70度の横揺れの最中、チョットした曲芸業だ。それでも何か食わなければ体が持たない。必死の思いで、サーカスさながらの苦労をし乍ら食堂に辿り着かなければならない。テーブルは士官待遇であるが、時化用の深い十文字区切の格子枠にコップ・味噌汁椀・飯椀・お菜皿などが嵌め込まれている。コップの水も3分の2位しか入っていない。船が傾くと零れ出すからだ。この時は食材が不足して水と雑炊だけだった。
船酔いには慣れたとは言うものの、こんなに時化ると食欲は無い。皆無言で食べ終わると各々の居住区に戻る。観測作業は無い。台風をやり過ごすだけだ。ヤットの思いで船尾の居住区(…と言ってもベッドと私物棚だけ)に戻って横になる。すると突然ライフ・ジャケットを着た船長が現れた。「非常事態だ。本船は転覆する可能性がある。全員ライフ・ジャケットを着用して呉れ。警報が鳴ったら直ぐ甲板に出ること。SOS の救助信号は海軍の特殊任務の関係で発信できない。若し発信したとしてもこの大時化では救助船が来る可能性は低い」とのこと。
これを聴いて皆は比較的冷静に状況を受け止めた。近くに居た船員は「10数年捕鯨船に乗っているが、こんな大時化は初めてだと云う。初めて乗った船でこんなことになるとは!しかし、ジタバタしても始まらない。
♪ 板子一枚、地獄の上さ ♪
などと云う当時流行った歌が一瞬頭を過ぎったが、台風との距離が離れるのを期待して待つほか無い。その後兵役に服して戦地では常に「死」とは直面したが、私が常に思うのは人間とは楽天的なもので、「他はどうなろうと俺だけは助かる筈だ」と云う気持ちが心の何処かに在るようだ。何の理由もないのだが。
台風の進路は北上するとばかり判断して、船は赤道に向かって南下したのだが、運悪く台風までもが進路を逆転して南下し始め、恰も船を追っかけるような動きを取って居た。幸い台風は再度逆転して北上し始め、赤道近くまで逃れた船との距離は離れだし、時化の程度は次第に静まった。「助かった!万歳」という人は一人も居なかった。
那覇に帰港する日程が大幅に伸び、残った食糧は白米と粉ミルクだけ、塩味のミルク粥という変なものを数日間「朝・昼・晩」食わされた。帰港したら腹一杯「トンカツを食うぞー」と一同は張り切っていたが、「欲しがりません、勝つまでは」の時代。帰港時の那覇は月一度の「肉なし日」、野菜料理しか無く、ガッカリした。沈没を免れ命拾いしたことはコロット忘れ、食うことばかりを皆考えていた。
この調査航海の想い出は多々ある。「ナンセン式転倒採水器」を入れると度々大型のサメに噛み付かれて曲がって了い使い物にならなくなった。調査を始めるには先ずその地点を縄張りとするサメ退治をしてからである。サメの顎の力はあの金属製の採水器を曲げてしまう。
ちなみに、この私達の調査チームの責任者は後に舞鶴海洋気象台長を振り出しに、その方面では有名な菱田耕造氏で、同氏もまだ「若かりし頃」であった。その後お会いしたことはないが、今なおご健在と聞く。
偶然見た私のカルテに胃癌とあり動転
&
乳癌の疑いで男性の私が手術した話
「癌」と云えば20年か30年以前は誰しも驚愕し、「何故俺が?」と苦悩するのが凡人である。私も「俺も遂に一巻の終わりか?」とツイ思ったものだ。私は今では80歳を多少は超えたが、今迄に2度「癌」と云われた経験がある。その話をする。
誰でも死にたくは無い。私が子供の頃は国民病と云われた「肺結核」が恐れられていたが、「癌」はやはり皆から恐れられていた。今では医療技術も進み、「癌告知」も多くなり、早期発見の場合は治る確率も高くなったとは言え、矢張り「癌」と云われたらショックを受けることは先ず間違いないだろう。嫌なものだ。
未だ30歳代、40歳代の人間は「癌」と知れば「死刑宣告」のような気持ちになり、余命の日数を考えた人は多く居たと思う。最近ラジオで曹洞宗だったか臨済宗だったかのお坊さんの説教を聴いた。「あるが侭を受け止め、それ以上考えないこと」と云う趣旨だった。凡人はクヨクヨ考える。「考えない」境地に達するのは至難の業である。
Magenkrebs (胃ガン)かも?
(← ここをクリック)
(このページに戻るには上のメニュウ・バーで戻って下さい)
(このページに戻るには上のメニュウ・バーで戻って下さい)
戦場での生死の分かれ目
〜 生死は骰子の目、「丁か、半か?」の連続の日々 〜
予定より一日早く出港して命拾い
気象隊だった我達は満州(今の中国東北部)の「新京」(今の吉林省の省都である長春市)での教育を終わり、広東省の広州市に配属が決まり、移動の途次上海市に待機して居た。
気象連隊は情報隊と共に航空関連の部隊であり、長距離移動には重爆撃機が利用される場合が多いが、出発直前になって重爆の都合が悪く、船舶によることとなった。船舶と云っても軍艦ではなく民間徴用船である。
船は正規航路をとらず常に大陸の沿岸が見える浅瀬を進んでいた。米機による魚雷攻撃を受けると一溜まりもない。万一攻撃されたときには直に海岸に向けて進路を切り替え、「おか」(陸のこと)に乗り上げ、沈没を免れて少しでも人命の損失を少なくする策略であった。何ともお粗末な方法であるが、これは常識であった。
船内の居住区は俗に「お蚕棚」と呼ばれる寿司詰め状態、休息も寝るのも食事を摂るのも一人に与えられた「たたみ一畳」よりやや狭い空間である。食事時には当番兵が食事を取りに行くのだが、殆どが船酔いでテキパキした行動が取れない。任務は三交代で甲板に出て敵機を見張ることだけだった。船酔いで食事も摂らず敵機監視の任務をサボる兵も多かった。
何しろ敵機の来襲が最も恐かったから、監視は重要であったが乗員の三分の一と云う多数の兵が甲板の舷側に並ぶと厖大な数になる。点呼を取ることも物理的に不可能であった。厖大な数の眼が全方位の空に注がれていることになる。一度機影を発見、警報が出たが友軍機だった。
船は沿岸伝いに南下し、台湾の対岸で沿岸から離れ、台湾海峡を横断して高雄港に入港できた。高雄には足かけ3日停泊とのことであったが、理由はわからないが一日早く出港して香港に向かうことになった。皆は波静かな港内での停泊で船酔いも治り、ホットしていたので「一日早い出港」を恨んでいた。
有名な高雄港の大空襲はその翌日である。港内の艦船は殆ど全滅した。予定通り三日停泊していたら間違いなく敵機の雷撃か爆撃に遭っている。一日早い出港のお蔭で九死に一生を得た訳である。僅か一日の時間差で命拾いしたことになる。同じことが香港でもあった。午後の下船が午前に急遽変更され、グラマンによる爆撃から免れた。この話は改めて項に述べる。
ちなみに、高雄港に大空襲があり大きな被害を受けたことを知ったのは大分後のことである。その時には誰も知らなかった。命令の一日か半日の差が生死を分けることは戦地では日常茶飯事のように起こっていた。
予定より半日早く下船して命拾い
前項の輸送船は運良く香港に無事辿り着いた。夜半に入港、翌日の午後に下船とのお触れがあった。ところが、午後の下船が何らかの都合で急遽午前に変更され、皆慌ててブツブツ言いながら下船の準備をした。ブツブツ言ったのは上陸すれば何やかやと忙しいだろう。船酔いで碌に食事も取らず体力も無く疲れ切っていた将兵も多かった。折角波静かな香港の港内に入ったのだから、「少しは休ませてくれ!」という気持ちからである。
命令だから仕方がない、渋々九龍側に上陸した。早速宿泊所へ荷物を持って徒歩で移動した。私達の宿舎は旧英軍が使っていた兵舎で、友軍である「印度独立運動に参加して居る印度人の兵士が数十名居た。美しい香港の港が一望できる丘の上にその兵舎はあった。
ところが、同日の午後に敵の大空襲があり、午後まで船に居たら完全に撃沈され、我々は一巻の終わりになる処であった。午前に下船した数時間後の午後、グラマン機が港内に蝟集している日本船を襲ったのを目撃した。敵弾を受けた輸送船が雷撃で一瞬にして逆立ちとなり、多くの人が胡麻か蟻のように空中に舞い上がったり、甲板を滑り落ちるのを上陸した九龍の兵舎から目撃した。予定通り午後の下船だったら私は多分死んでいただろう。些細な半日の上陸時刻の変更が生死を我々の生死を分けた。
これには余談がある。雷撃を受けた港内の多数の船の轟沈を目撃したとき、実は私は兵舎の厠で小便をして居た。厠の窓から看たのである。突然大きな音と共に天上の屋根を突き破って何かが目の前の小便の流れる溝に落ちて来て黄色い黄金色の水の飛沫を上げた。私の尿意はビックリしたので自動的に即時停止した。
敵のグラマン機の空襲が済んで一落着きした後になってもう一度「何が落ちたのか?」と見に行った。不発弾だろうか?棒の先で引き寄せ良く見ると高射砲の薬莢である。勿論金属でかなりの重さである。直ぐ裏の丘の上にある日本軍の高射砲が港内の敵機めがけて零角射撃をした時の弾の薬莢だった。もし運悪く頭を直撃して居たら私は多分イチコロだったろう。
私が狙撃の目標にされたこと
狙撃の目標に私は2回されたことがある。敵機の重要目標である飛行場に勤務して居たから、空からの敵機による機銃掃射に曝されることは常にあったが、この場合は地上に居る不特定多数の将兵の殺傷が目的であり、特に私個人を狙ったものでは無い。これに反し、個人を目標に狙い打ちされるのはとても心理的に気持ちの良いものでは無い。
狙撃の目標にされた第一回目は玉音放送があり、交戦停止命令が出た直後であった。私達の場合はこちらが抵抗を停止したただけで、直ぐ敵軍が眼前に現れたわけでは無い。正式の敵(国民党軍)の停戦交渉を任務とする軍使が白旗を立てて連隊本部を訪れたのは可成後である。
その間は不安定な期間であり、国民党軍と称する便衣隊が市内に入ってきたが、当方は抵抗を止めただけで武装しており、便衣隊は日本軍とは接触せず、市民から不法な交通税税を取り立てるなど、市民から反感を買っていた。後で彼等の内の数名は正規の国民党軍から銃殺されている。
私が狙撃されたのはこの時期である。場所は飛行場の外れ、滑走路の端から少し離れたところ、時刻は黄昏時であった。何故私一人が何の目的で其処に居たかの記憶は鮮明ではない。確か飛行場の勤務地に戻ろうとしていた。突然パチッという大きな音を耳にしたと思った瞬間、曳光弾が私の肩を掠めた。私を狙った弾でなければパーンと云う音がする。次は殺傷用の実弾が飛んできた。
狙撃者が敵なのか味方なのか分からないが、状況から判断して狙撃されているのは明らかであった。戦場では味方との同士討ちはは良くある。時刻から看て不審者と思われたに違いない。私は直に身を伏せてジッとしていた。3分もそうしていただろうか。第2弾の狙撃は無かった。
飛行場の方に向かおうとやおら立ち上がった。この時が一番恐ろしかった。若し明確な意思を持って狙撃しているなら必ず執拗に第2弾を打ってくるはずだ。幸い何事もない。「助かった」と思いやや安堵した。今でも想い出すとゾットする。
狙撃の目標にされた第二回目は、それから可成経過した時点での出来事。停戦処理のため私が中国軍の空軍司令部に通訳官として転属を命ぜられ、その勤務中のことである。場所は広州市内を走行している自動車の中、中国軍の高級将校と二人で乗車して居た。時刻は夜であった。
車には中国軍の空軍司令部を示す旗が立てられていたが、夜だから識別できない。しないの警戒に当たっていた中国軍が発砲したものであることは明らかである。車の窓は開けてあった。私達は車の後方から射撃され、後窓を貫通した弾は運転席の背もたれで止まっていた。
その中国軍の高級将校と私は大声で「スウ・リン・プー(司令部)」と怒鳴った。2〜3発だったように思う。この時も幸いにも誰にも命中しなかった。私達の声が聞き取れたのか、射撃は直に止んだ。高級将校はひどく興奮して悪態をついいて居た。射撃した兵士は夜の不審者と思ったのだろう。
今のパトカーのようなサイレンとか回転灯を付けていれば防げたことだが、当時そのようなものはなかった。一概に兵士を責めるのはどうかと思う。しかし、威嚇射撃として車の他の部分を狙うとか、車に当たらないところを打つことは出来た筈だ。
なにはともあれ狙撃されるのは気持ちの良いものではない。命中しなかったから良いものの、命中して居たら「それ迄、一巻の終わり」なのだから。
以上に述べた話は、当事者がそう思うだけで、誰でもが一生に経験する「何の変哲もない特記に値することではないかも知れない。「この世は一寸先は闇」で、道を歩いていて何時不意に車と衝突するか、何時大地震で梁の下敷きで圧死するか、誰も予測は出来ない。そんなことを考えていたら生きていけない。その時はその時である。
しかし、半生を思い返してみて「あの時一つ間違えれば死んで居たかも知れない」ということは幾つか在ろう。「想い出してもソットするとか、冷静に考えても死亡の確率は高かった」など忘れ得ないことは確かにある。一つ間違えた羽目になって物故した友人もある。私は一つ間違える羽目にならなかったため、明日は分からないが今未だ兎に角何とか生きている。
賽の目が丁と出たか半と出たか?と言う確率の問題かも知れないが、そう言えば身も蓋もない。人間とは勝手なもので、死ぬかも知れないと思える状況下でも「自分だけは助かる」と思って居る場合が多い。何の理由も論拠もないのに…。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
危険を招く規制緩和
と批判の欠如
林 繁一
2005年12月30日
福知山線の事故が重大ニュースとして取り上げられている歳末に、今度は羽越線で悲劇が起きました。新聞、テレビでは風速毎秒20mで減速、30mで運休という規則に照らして、JR当局を責めることはなく、天災のように扱っています。
しかし、12月27日付けのある報道によると旧国鉄では余目の悲劇の後で、気象の厳しい地域では-多分冬季の日本海沿岸も含まれるでしょうが-風速20mで運転を中止するように改められていたそうです。
同じ新聞の28日付けは羽越線は気象だけでなく、地形も厳しいので、坂田-新潟間ではやはり旧国鉄では最高時速が90kmに制限されていたのに、民営化後は120kmとなり、二名であった乗務員も一名に減らされたと報じ、さらに600mもある最上川鉄橋附近に風速計が一個というのも、空港などに比べて不充分と指摘しています。
次いで29日付同紙は、鉄道総合技術研究所の日比野育氏が昨年12月に開かれた研究発表会で時速100kmで走る列車は風速毎秒28mで転覆する危険があると指摘していたことを紹介しています。
このような視点に立った事故原因の究明は一般の報道にはまったく現れないのはいかにも不思議です。おそらく気付いている専門家もいるのでしょうが、一般の報道機関は怖くて発表できないのではないかと案じられます。郵政民営化で巨大与党が出現して以来、建築で、医薬品で、あるいは教育で、いろいろな事件が起きても、行き過ぎた規制緩和の問題を指摘できなくなっているように思われてなりません。あの暗い時代を思い出します。
付け加えるとJR東日本会長・松田昌士氏は、この地位には珍しく、69歳という年齢にも拘らず、事故の決着がついたら責任を取って辞任するとのことです。国鉄民営化に重要な役割を果たした人として、少なくとも結果的には正しいと思います。願わくは、民営化の問題点の解明と今回の被害者に対する個人的な償いもして欲しいものです。
政府代表として、また短い期間とはいえ国連職員として、いろいろな国を垣間見る機会を得た私は社会の発展に伴って、経済原則に適応した産業の変化は当然であるが、公共の職域として維持することが適切な分野まで、まるで伝染病に罹ったように民営化-利潤追求型への移行-が良いとはいえないと考えます。
私が好んで引用する海軍士官の言葉ではありませんが、一つの意見に迎合するという国民性は直す必要がありますね。道理が通らないのに、権力の肩を持たざるを得ない、あるいは持ちたがる場合も起こり得るマスコミの意見を盲信して、日本が自由な社会と思い込んでいる無知な、無邪気な人びとは再び"8月15日"を迎えるのではないかと危惧されてなりません。
(ZH05-12)
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
「一銭の洋食」と「チョボ焼き」
「お好み焼き」と「たこ焼き」のルーツ
(2006/03/18)
真道 重明
一銭の洋食
「お好み焼き」は「大阪風お好み焼き」、「広島風…」、また東京の「もんじや焼」など現在では多くの変種が出来で全国に拡がっている。一方、「たこ焼き」は昨今では「お好み焼き」以上に一世を風靡し、全国の至る所にある。さらに日本ばかりでなく台湾のホームページを見ていたら、日本の「たこ焼き」の専門店の広告や宣伝の文句が幾つか散見され、相当に流行って居るらしい。「専門店ではない一般の和風食堂のメニューにも『たこ焼き』が出て居る店はよくありますよ…」と数日前に会った台湾から来日した台湾の友人の奥さんが言っていた。
先月、テレビの番組の「昔の大阪」の特集を見ていたら「一銭の洋食」や「チョボ焼き」の咄が語られていた。急に懐かしくなって食い入るように聴いた。昭和初期,すなわち、私が小学校1〜2年生の頃の話である。当時未だ「お好み焼き」という言葉は無かったし、「たこ焼き」はそのものも自体が未だ無かった(少なくも私が生活していた大阪市の住吉区では…)。
あったのは手押し車の屋台、子供相手の商売である「一銭の洋食」や、同じ子供相手の駄菓子屋の一隅のコーナーにあるカルメ焼きや「チョボ焼き」である。「一銭の洋食」の方は夜店(関東で呼ばれる縁日、毎月日を決めて路上に店が並び、アセチレン灯の懐かしい臭いがした)などにも現れ、「ナンバ(難波)の亀やん」というのが有名であった。
所でこの「一銭の洋食」という代物(しろもの)は間違いなく「お好み焼き」のルーツであると私は思っている。熱した長方形の鉄板の上に先ず油を引き、溶いたメリケン粉をお玉杓子で掬って落とし、直径12〜13 cm の円状に、お玉杓子の裏底を使って平仮名の「の」の字を書くようにして薄く伸ばす。その上に鰹節の粉(削り節ではない)・刻んだキャベツや葱、それと「てんかす(天麩羅を揚げる時に出る糟、関東で言う「揚げ玉」)・小刻みにした紅生薑などを載せ、その上にもう一度溶いたメリケン粉を掛け、焼け具合を見計らって金属の箆で掬ってひっくり返す。
ブリキ板を底に張った四角い「鍋蓋状の把っ手のついた凸状の押し具」でその上を抑える。ジュッという音がして子供心には何とも言えない「良い香りが漂う。やおら出来上がると刷毛でウースター・ソースに少し醤油を混ぜた液を塗り、出来上がり。「オッチャン!一銭でー!」と叫んでよく屋台に走り寄ったものだ。
一銭が相場で二銭のものは直径が大きかった。鶏卵が入ると五銭で滅多に注文する子は居なかった。もう一つの作り方は「混ぜ焼」という方法で、これは柄のついた琺瑯のコップに溶いたメリケン粉に上述と同じ具を最初から混ぜ合わせたものが入れてあり、それを焼くのだが、即席で手短に出来る。しかし、この遣り方だと、どう言う訳か味は一段と劣る。しかし、この方は客である子供自身が篦を持って焼くのが普通で、子供にとってはそれが面白かったのだろう。「あいつ混ぜ焼なんか食べよるでー!。味の良い悪いが分からへん阿保や!」なぞと言う子が多かった。
熱いうちに食べないと不味くなる。客が少なくて鉄板に余裕があるときは「切り食い」と言って鉄板の角に自分の物を置き、小振りの篦を借りて「熱つ熱つ」のものを小切りにして食う。「オッチャン!切り食いしてもええか!」と了解を取り付けると、小さな篦を貸してくれる。篦の反対側は尖っている。尖った方で切った断片を突き刺して口に運ぶ。これは旨かった。私達常連のすることだ。
いわゆる「洋食」なるものが庶民の中にも流行りだし、仕出し屋の一種で「洋食屋」と言った時代である。「ウースター・ソース」を懸ければ何でも洋食、醤油を掛ければ何でも和食と言った感じ。「一銭の洋食」もウースター・ソースを掛けるから「洋食」と言ったのだろう。タルタル・ソース(=ホワイト・ソース)やペシャメル・ソース、フレンチ・ドレッシング、マヨネーズ・ソースなどは庶民の間では未だ珍しく、ソースと言えばウースターのこと。魚や海老のフライにしてもコロッケにしても洋食には必ずといってよいほどウースターを懸けて食べるものだと思われていたように思う。
一度思い切って鶏卵入りの五銭の洋食を清水の舞台から飛び降りる決意で食べた。子供の私にとっては大散在である。ところがちっとも美味しくない。やはり洋食は「一銭」に限ると思った。1930年代初頭(昭和5〜6年)のことである。
小学校高学年、中学校となるに及んで「一銭の洋食」とも遠ざかったが、東京に進学してから「お好み焼き」なるものにで会った。学校は深川の越中島にあり、「はおり」と呼ばれた辰巳芸者で有名な門前仲町の花街に近かった。「お好み焼き」が流行りだし、数個の店舗が在った。屋台ではない。級友と一度行ってみようと言うことになった。
「座敷なんか構えて畳が敷いてあるが、何だ、これ一銭の洋食ではないか」と思って呆れた。客は子供ではない。学生も居たが、多くは旦那衆で「半玉(芸者の卵)を連れた大人。食材が運ばれてきて客が自分で焼くのである。酒も出す。屏風で仕切られた大部屋が普通席、個室もある。ペアの彼等はチョット仮の所帯を持ったムードになるのを楽しんでいるのだろう。味よりムードが「売り」の感じ。鉄板があって金属製の篦でひっくり返すのも「一銭の洋食」と同じである。
上述の「切り食い式一銭洋食」の10ねん後、1940年代前半(昭和14〜16年頃)のこと。メニューも増えて牛肉や豚肉をチョッパーに掛けたミンチ入り、中には甘い餡(あんこ)を巻くものまである。「味はどうでもええのんか?「てんかす」入ったらへんがな。ケッタイなもんやー」。私は一度で懲りて二度と行かなかった。
もっと驚いたのは、更に40年後の1983年(昭和58年)、私が海外の國際機関から任期満了で帰国する前年、家は品川区の西五反田の駅のそばのコンドミニアムであった。打ち合わせのための帰国中に家の近くの神社のお祭りがあり、孫を連れて出掛けた。「お好み焼きがある」というので孫と買った。その厚味と言い味と言い、全く別物である。沢山の具、特にキャベツ、マヨネーズがたっぷり入った濃厚なもの。子供の頃の一銭の洋食の厚味は精々 3〜4 mm.これは 1 cm ないしそれ以上。これはもう「一銭の洋食」とは別の食物ような気がしないでもない。
21世紀に入った現在では益々進化?して、「もんじゃ焼き」、「広島風お好み焼き」、「葱焼き」、その他いろいろな「何々…焼き」の看板が眼に留まる。「日経都市シリーズ 大阪」日本経済新聞社編、「料理と食シリーズ10.お好み焼 たこ焼 鉄板焼」旭屋出版などの著書や Web site などを捜索すると、「在るは在るは、お好み焼き風の世界の料理が山ほど出て来る。
沖縄の「ひらやーちー」…(ニラを使って薄く焼いたお好み焼き風の料理)。中国の春餅(チュンピン)、韓国のパジョン(東莱パジョンが有名、日本人の良く知る「チジミ」は或る地方の方言だそうだ)、ベトナムの「バン (パィン)・セオ…(ターメリック入りの黄色い生地のお好み焼き、アラブのムルタバ…(カレー粉で炒めた牛ひき肉がたっぷり入ったもの)、果ては、メキシコのタコス、イタリアのピッツァまで、「お好み焼き風の料理」としている。
また、タイ国の「正式名称はわからないけどカキの入ったお好み焼き風の料理。溶いた小麦粉にカキをぽとぽとっと入れて、油を熱した平鍋で、油をかけながらふんわりと焼く。つづいて溶いた卵をまわしかけて軽く火をとおし、炒めたモヤシと共にお皿に盛る」とある。
このうち私が食べた経験のあるのは、韓国の「チジミ」、中国の「春餅」、メキシコの「タコス」、イタリアの「ピッツァ」ぐらいで後は知らない。ただ私が足かけ11年居た上記のタイ国のものは「ホイ・ナンロム・トウ」と呼び、外国人向けの高級料理、一般庶民はカキではなくミドリイガイで「ホイ・メンプウ・トウ」と言いお祭りの屋台などで売ってる。安価であるが在留邦人は不消化だと思い殆ど試食した人は居ないようだ。私は一度食べたが余り美味しくはなかった。
驚いたのは、日本の「お好み焼き」の元祖は、明治時代、東京では屋台や駄菓子屋の店先で売られていた「文字焼き」が流行、メリケン粉の生地がゆるいので鉄板に文字を書き、子どもたちに教えながら売ったのが名前の由来だとか、これが後の「もんじゃ焼き」である…云々の記事。同じ頃、大阪や広島で生まれたのが「一銭洋食」とあった。
更に驚いたのは、「お好み焼きの歴史をひも解くと、驚くことに安土桃山時代の有名な茶道家「千利休」に行き着く。というのは利休の茶会によく出された「麩の焼き」こそ、お好み焼きの起源ではないかという説を数人の人が述べている。「麩の焼き」とは、小麦粉を水で溶いたものを薄く広げて焼き、山椒入りの甘味噌を塗ってクルミやケシの実を巻いたクレープ状の食べ物」とのこと。
テキーラを呷って食べるメキシコの「タコス」、イタリアの「ピッツァ」まで入れると「一銭の洋食」の感じからはほど遠い異なった料理のように思われる。だが、マヨネーズやトマト・ケチャップを掛けた最近の「お好み焼き」はチーズこそ入っては居ないが「ピッツァ」に近い。
「俺の街で作り始めたのが元祖だ」…的な論議は諸説紛紛となりがちで、真偽の程は計り難いが、「お好み焼き」のルーツは「一銭の洋食」であり、食い倒れと言われ、庶民の安価な食べ物に凝る大阪の人々の熱情(笑い)、私個人の大昔の記憶の世界から、私は大阪がルーツと信じたい。
チョボ焼き
70年前のなんとも素朴な子供のスナック。直径 1 cm にも満たない凹んだ穴が羅列している「たこ焼き」式の小振りな鉄製の鍋?、その凹みの一つ一つに溶いたメリケン粉をチマチマと注ぎ込み、茹でたグリーンピーや賽の目に切った極小の紅生薑や沢庵を一つ一つ入れて、下半分が焼けると千枚通し状の錐で、これまた一つ一つひっくり返す。
「豆たこ焼き」とでも言うべきもの、ただし、「タコ」は入っていない。何とも手数のかかる変なものである。子供には、特に小学校低学年の女の子には人気があった。チョボというのは「小さい」という意味だろう。80歳を超えた今になって思うと、「なんとミミッチイ食べ物」であろうか。味も決して優れた物では無い。
だが子供心には楽しい食べ物であり、想い出すと懐かしい。急がしげに一つ一つに醤油を垂らし、ちょこちょこと「ひっくり返す」のを楽しんでいる。
私はこれは間違いなく「たこ焼き」の原形であると勝手に思って居る。1930年代の大阪には、この手の屋台の商売が新機軸を出そうと競い合っていたように思う。今の「たこ焼き」大で同じ形状の黄色い「玉子焼き」と言うものも夜店には必ずあった。お客は小学生か中学生低学年である。
今日は夜店の日だと嬉しく、両親の目を盗み、宿題をさぼってアセチレン灯に誘われ吸い付けられて街の夜店通りに向かった。未だ店を張る少し前の黄昏時の頃、「玉子焼き」屋が準備中であった。「玉子焼き」屋が先ず取り出したのは平たい篭に山と積まれた鶏卵を割った空の卵殻である。「本当の鶏卵を沢山使って居るぞ!と言う証拠を示すための陳列品である。
黄色く着色したの「たこ焼き」と同じ形状をした「玉子焼き」は微かに卵の味がして熱々(あつあつ)のものは旨かった。しかし、そんなに沢山の卵(当時鶏卵は高価であった。病院の見舞い品などに珍重された)が入っているわけではない。「オッサン、巧いことやりよる」と子供心に客騙しの舞台裏を垣間見た感じであった。
本当の「たこ焼き」は明石が元祖だそうだが、私は当時見たことはなかった。話にも聞かなかった。「たこ焼き」を食べたのは戦後の東京である。「チョボ焼き」が「たこ焼き」のルーツかどうかは白状するが、本当かどうかは分からない。ただ、私の子供時代の経験として懐かしさ、その「ままごと」的な素朴さが脳裏に焼き着いているから、そう思いたくなるだけだ。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
万愚節と万聖節
エイプリル・フールとハローウィン
(2006/04/01)
真道 重明
今日は4月1日です。四月馬鹿という言葉があります。広辞苑によると、エープリル・フール 【 April fool 】、四月一日の午前中に軽いうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、かつがれた人。もと欧米の習慣。四月馬鹿。万愚節 (バングセツ)、( All Fools' Day )…とあります。また、ばんぐ・せつ【万愚節】で逆引きすると、( All Fools' Day )、 「エープリル・フールのこと」、また、その日。万聖節 ( All Saints' Day )に対していう…となっています。
私は80歳を少し過ぎましたが、「四月馬鹿」と云うものは「ただ何とは無し」に知っているつもりでしたが、改めて辞書を調べると、このウソは「午前中」につかなければいけないことを知りました。「ヘェー、そうだったのか」と思いました。午後では駄目で冗談は許されないらしいのです。
冗談である虚言を真に受けて担がれた人が「 April の fool 」、即ち「四月馬鹿」であり、その日(…と言っても午前中だけ)を「 AII Fool's Day 」と云うこと、また、漢字では「万愚節」と書くことも知りませんでした。中国語の辞書では【愚人節】となっていました。「どうでも良いツマラナイことを調べて、もの好きな奴…と嗤う人もあるでしょうが(笑い)」。
また同辞書によると、【万愚節】 ( All Fools' Day ) は【万聖節】 ( All Saints' Day ) に対応して云う言葉である…と書かれており、この万聖節という言葉が在ることも知りませんでした。そこで研究社の「New College English-Japanese Dictionary, 6th edition」で All Saints' Day を引いてみると「 All Saints' Day ━ 【名】、諸聖人の祝日, (俗に)万聖(ばんせい)節 《11月1日; 天国の諸聖人を祭るキリスト教の祝日; 参照:Halloween 》 」とあり、前から気になっていた「 Halloween、ハローウィン」があるのでそれを同辞書で調べると、「 Halloween, Hallowe'en 、━ 【名】、ハロ−ウィーン (解説: 万聖節 ( All Saints' Day ) の前夜祭; 10月31日の夜; 英国ではあまり行なわれないが米国では盛んで, 魔女 ( witch ) などの仮装や, カボチャ ( pumpkin ) の中身をくりぬき jack-o’-lantern を作ったり, “Trick or treat!” (お菓子をくれないといたずらするぞ)と言って子供たちは近所の家からお菓子をもらう)。語源: All Hallow's Even (諸聖人の祝日の前夜)の短縮語。云々」とありました。
海外に足かけ11年間、半分独身のような形で生活して居た私は、「ハロ−ウィン」に悩まされていた経験があります。万聖節の前夜祭であるハロ−ウィンは10月31日に当たりますが、この日は私の誕生日なのです。普段私は誕生日など余り意識しないのですが、ハロウィーンの日に当たることに、「また、ヘェー」と驚きました。この日は実は私の生まれた大正時代には旗日だったのです。(今では余り見掛けませんが、国民祝祭日には家々では日の丸を門前に掲げていました。これを旗日と呼んでいました)。
大正天皇は8月31日の盛夏に生まれたのですが、酷暑の8月だったので祭日を2ヵ月ずらせて涼しい10月の末日に変更されていたのです。大正天皇の誕生日、すなわち、振替休日と同じ、「振替の天長節(天長節は今で云う天皇誕生日)」という訳です。この日の夕方が奇しくもハロ−ウィンの日だったことになります。つまり、私の誕生日は、天長節であり、ハロ−ウィンの日でもあった訳です。
エープリル・フールに関しては昔から多くの逸話が数え切れないほど在るのはご承知の通り。軽い冗談を通り越してラジオで「地球が火星人に攻撃される」と報じ、米国の田舎でパニック状態が起こったなど、30年〜40年前は、必ずといってよいほどエープリル・フールの咄が新聞紙面を賑わしたように記憶しています。今年(2006年)の新聞を見ると、殆どエープリル・フールの記事はありません。世の中が世知辛くなったのか、もしくは、理屈っぽくなってエープリル・フールなどに関心が無くなったせいでしょうか?
「子供を15階のアパートの上から投げ殺した」とか、殺伐な話やその映像を繰り返し繰り返しテレビで放映しています。イラク戦争やイランの問題、北朝鮮の拉致被害等々、今更、エープリル・フールなどは話題としての価値が失せてしまったのでしょうか?
一方、ハローウィンですが、「米国に留学していた日本人の若者が友人宅をハロ−ウィーンのパーティに訪ねる途次、近所の人から不審者と間違えられて射殺された話」は憶えている人は未だ多いと思います。この話題も銃社会の米国の話。殺伐とした世相を反映しています。
上で「ハロ−ウィン」に悩まされていた経験と云いましたが、「お菓子をねだりに来る子供」のために沢山のキャンデーやクッキーを買い溜めている必要があります。この風習の起こりは英国だそうですが、最近は米国が盛ん。統計に依ると、最近では次第に「ハロ−ウィン用のお菓子の販売量は減少しつつあるのだそうです。世界中が「世知辛くなって来た」のでしょうか?
この種の「お菓子ねだり」は昔の日本では結婚式の翌日、家屋の新築祝い当日などには良くありました。「古き良き時代」かどうか分かりませんが、郷愁を誘う事柄です。クリスマスを始め、バレンタイン・デーのチョコレート、ホワイト・デーのクッキーなど、菓子製造業者の「売らんがため」の陰謀説とも…(笑い)。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
卒業生の追跡調査
New York 大学の Follow-up Survey
(2006/04/10)
真道 重明
経験が私にはないのでアメリカの他の各大学がどうしているのかは知らない。海外の國際機関に居たときの話。もう、30年も前の話である。部下にニューヨーク大学の東洋美術を専攻した女性が居た。仏教美術の論文で学位を持って居た。
或る日、彼女が私の執務室のドアをノックして ”May I come in ?”と彼女の声が聞こえた。何時もは来訪者が居るとき以外はドアは開けているのだが、その来訪者が出るとき律儀に閉めて行ったのだろう。”Of course yes. Please come on in” と答えると真剣な顔で彼女が入って来た。見ると手に分厚い封書を持って居る。彼女は「個人的な秘密文書ですが、手数をお掛けします。協力して頂けるでしょうか?」とのこと。何事かと思ったが「事と次第によっては」と答えた。
彼女が言うには「実は母校のニューヨーク大学から卒業生のその後の状況に関する追跡調査(Follow-up survey)の封書が来た。上司がある人は封印された同封の文書の質問(questionnaire、アンケート)に記入をお願いして返送して貰いたい。記述内容は私を含め一切の人には公開しない規則である。お願い出来ますか?」とのこと。
承諾して分厚いシールされた封筒を受け取った。彼女が去ってから開封して見ると、中には classified documents (秘文書)と表記され、送り先が印刷された返信用封筒と縦長の一枚の記入用紙、それと趣旨説明の分厚い冊子が入っていた。
冊子は目的とこの文書の privacy policy (個人機密保護方針)から始まって、詳しい説明が多項目に亘って書いてある。読み通すのは一苦労である。FAO などの委託を受けて仕事を引き受ける時の契約文書と同じで実に凡ゆるケースに関する事項が事細かく書いてある。FAOの場合も一冊の分厚い冊子であるが、とても読み通せない量の文句が連ねてある。私のいい加減な英語力で斜め読みした。内容は多年の経験を積み上げて、改訂に改訂を重ねて記述されている。
日本の場合と違って職員の採用などは「辞令書」と云った「しかつめらしい」ものはなく、雇用契約書 (letter、タイプした1枚の紙切)だけである。「だけ」と云っても契約条件に関する実に詳細に亘る事項の冊子が交付され、それに従わねばならない。例えば業務上の事故で死亡した際、死亡者が受け取るべき俸給の支給先は配偶者が先ず優先されるが、公式の婚姻形式を取って居ない場合でも、実質的に婚姻関係にあった人が居た場合、その人が「優先対象になる」という下りを読み驚いた。
日本の場合、そんな文書があれば誰しも違和感を持つだろう!。キリスト教の場合「神との契約」が大前提であるように「契約」という概念は「ナァ・ナァ」の日本社会とは異なり厳格である。上述の密封された文書も個人情報保護についての方針は一種の契約である。
最近の日本ではインターネットの普及で「個人情報流失」の問題で大騒ぎしている。上述の問題は未だ 「W.W.W」 は存在しては居なかったから、その心配は無かっただろうが、文書のファイリングや手間は大変だったろうと思われる。日本だったらこのような追跡調査を行うことは、恐らく賛否両論で大変になったに違いない。私は同大学の活力に感心すると共に、現在でもこのシステムが行われているのか否か知りたくなった。
同大学のサイトを詳しく見て回ったが、該当する項目は見当たらなかった。このシステムは廃止されたのかも知れないし、その後も維持されているが、問題が問題だけに一般社会には触れないように配慮されているのかも知れない。
蛇足:最近彼女からの E-mail には「枕草子」や「蜉蝣日記」を読み終えたこと。その印象などを伝えてきた。日本語は出来ないから総て英訳本に依ったものであろうが、彼女が日本の古典文学に造詣が深いのに驚いた。長年の付き合いとは云え、職場以外での付き合いは殆ど無かったから、日本の古典の話は一度も聞いていない。日本に興味を持ち、山田洋次監督の「男は辛いよ」の「寅さん」の映画(英語の字幕か吹き替え版があるらしい)が好きだということは知っていたが…。
日本の古典に関する彼女のコメントなど古典文学に弱い私には分からない点もある。私が11年の勤務を終わって帰国する直前、暇があったら読みませんか?と「Shintoism」(日本の神道に関する英文書)を呉れた。分厚い本で今も私の部屋の書架にはあるが、斜め読みの程度で未だ良く読んではいない。
日本人同士でもそうだが、人は見かけに依らないものだ。もう別れて20年になるがそんな一面を彼女が持って居たとは…。近く来日して岩手県の田舎と高野山に行き宿坊に泊まりたいから助言を待つと云ってきた。彼女の母親は Hinayana [Theravada] Buddhism (小乗仏教)より Mahayana Buddhism (大乗仏教)に興味があるとのこと。.私が居たバンコクは小乗仏教国であり、言葉に興味を持つ私はタイ国の仏教の言葉にも素人ではあるが関心があった。彼等の唱える教典の文句はパーリ語(Pali、Phalee、古代インド語、サンスクリットが公用語ならパーリ語は俗語)でタイ語ではない。タイ国の僧侶とミャンマーやスリランカの僧侶の相互間では現実の社会では死語であるこの言葉で話し合うそうだ。新聞紙には時々その記事が載る。
関連事項: (← ここをクリック。パーリ語のお経)
彼女は「もう初老に近い「叔母さん」になっているだろうが再会が楽しみである。お母さんには勿論会ったことはない。もうかなりの老齢だろうと思われるが…。
人造地球衛星
1957年、上海で見たスプートニク1号
(2006/04/10)
真道 重明
人造地球衛星は日本語の人工衛星を意味する中国語である。人造の地球を回る衛星だからこの語の方がより正確であると言える。ソ連がバイコヌール宇宙基地から人類としては初めて人工衛星を打ち上げたのは1974年10月。いわゆるスプートニク(sputnik)の第1号機である。
それを見たのは私が国家公務員(研究職)の第一号として4ヵ月間の訪中期間中で、現在の上海水産大学(当時は「学院」と称していた)に赴き資源調査方法の講義を丁度開始した直後の時である。「ソ連邦の快挙、米国に先んじて人造地球衛星の打ち上げに成功」と地元の各新聞紙上に大きく出ていた。
4日の打ち上げ直後から連日、新聞紙上には今日は日没後の何時何分から、地平線近く天空のどの方向からどの方向へ飛翔しているのが肉眼でも観察可能と報じて居た。教師も学生も興奮して屋上に集まり、中には望遠鏡や六分儀を持ち出す者も居て、今か今かと待ちかまえている。私もその中に混じって見た一人である。
確かに見えた。淡い流れ星のようだが流れ星のようにスゥーと早く流れるのではなく、ゆっくりと移動していた。余りにも地平線に近い位置なので、今思えば遠くを飛んでいるヘリコプターの灯のようで、何だか拍子抜けした感じであった。
それでも皆は「見えた!、見えた!」と歓声を挙げている。望遠鏡や六分儀の方は把捉するのが難しく肉眼の方が良かったように記憶している。
話はただそれだけ。人工衛星はその後世界では無数に打ち上げられているが、私はこの時が最初であり、また最後である。他の多くの人工衛星は見たことは無い。最初の経験が余りにも呆気なかったせいか、見ようと思ったこともない。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
チョロギ
「いかもの食い」を以て任ずる私が食べたゲテモノの数々
(2006/05/02)
真道 重明
CONTENTS
まえがき − チョロギ − 交白(チャオ・パイ) − 蛙の皮(ナン・コップ) - 蟻の卵(カイ・モッ) − たがめ(メンダー・ナー) − げんごろう・みずすまし - 蛇貝と「あめふらし」 − 甲蟹卵(カイ・メンダー・ターレー)
如何物食い(いかもの食い・悪食家)を以て任ずる…などと大見得を切ったが、多少恥ずかしい。世の中には私の上を行く悪食家は沢山居られるだろう。昆虫の料理研究の会など大きなグループなどもある位だ。これらの人達は「いかもの食い」のプロかも知れない。
傘寿を超えた今は総入れ歯で堅いものは食べられない。生来の好奇心と好き嫌いが余りないため、珍しい(…と言っても私が自分の経験で珍しいと思っているだけだが) ものも話に含めた。日本人には珍しくても、その国の人にとっては普通の食材であるものも沢山ある。それらの思いで話やその食材に纏わる逸話を書き留めてみた。
臨海実験所に居た時、磯採集で採れたものは片っ端から試食した。例えばイソギンチャクの仲間に「ウメボシ」というのがある。これはなかなかオツな味である。調べてみたら漁村によっては味噌汁の具にする何の変哲もない極く普通の食べ物らしく珍しいものでも何でも無い。イソギンチャクを食べるなんて「いかものだ」と思った私がただ知らなかっただけだ。
フジツボ(蔓脚類)を茹でた身は美味だ。ただ大量の殻の中からほんの僅かしか身が取れない。バケツ一杯のフジツボから盃に1〜2杯しか食べるところがない。「フジツボは旨いぞ!食ったことがあるか?」と自慢したら、「あぁー、鍋壊しのことか」俺なぞ良く子供の時食ったよ」という返事。余りに殻がゴツゴツして大量の殻を茹でると「鍋が保たない」ということから「鍋壊し」の名があるそうだ。これも私がただ知らなかっただけだ。
「なまこ」(海鼠)を初めて食った人の勇気には尊敬するとよく言われるが、私はそうは思わない。現人類「ヒト、人」(Homo sapience)が進化する過程の祖先である猿人は昆虫や海岸にいる生物を食べていたに違いない。そして、その経験は引き継がれて来たに違いない。「猿が森の虫や海岸の沙蚕を食っても何とも思わないが、人類が食うとそれは変だ」と思うのは可笑しい。
「いかもの」や「げてもの」と云う食材は、このように考えると「元来は存在しない、勝手にそう思って居るだけ」かも知れない。それにしてもニューヨークのレストランで「蟻の炒めたのをスプーンで掬って旨そうに食っているテレビの画面を見ると好奇心をそそられる。
チョロギ
初めて私がこれとで会ったのは1983年、中国の江蘇省無錫のホテルである。朝食のお粥の「付け合わせ」の中にあった。国際会議の宿泊ホテルだったので、各国の人に訊ねて見たが誰も知らない。1センチ半ぐらいの小さな巻螺(マキガイ)の形をした醤油漬けしたような茶色の「漬物」である。
そこで多少は中国語が喋れる私が料理人に尋ねると、紙に漢字で「佛塔菜、也称宝塔菜」(佛塔菜、また宝塔菜とも言う)と書いてくれた。成る程、見ようによっては中国の寺院の中国式仏塔のようにも見える。「外国から来た賓客だから特に珍しいものを出したのか?」と云うと「否、この辺りでは何処にもあります」と言う。
特に美味しいと云う訳ではないが、形が面白いのと、塩辛いのでお粥と共に食べるとサクサクとした歯触りで良く合う。「あれは一体何だろう?」という疑問はその後も胸に引っ掛かっていた。20数年後の現在、中国の Web site で「宝塔菜」で捜したら見付かった。「草石蚕」とも呼ぶらしい。そこで2〜3の国語辞書で「草石蚕」を引いてみた。在った!、在った!。遂に見付かった。以下にその概要を述べよう。
シソ科の多年草。学名:Stachys Sieboldi MIQ.。和名:チョロギ、チョウロギ、チョロメ、ネジ芋、法螺芋。中国名:草石蚕、甘露子、宝塔菜、螺糸莱、地蚕、銀条。日本での漢字名:長老喜、千代呂木、千代老木。韓国名:チーロンイ、チョロンイ。中国が原産で、中国では13世紀に栽培が始まり、日本には江戸時代に入ってきたとされる。
チョロギは韓国名からの転化であるという。気候条件から日本でもごく限られた場所でしか栽培されておらず、大分、広島、福島の各県や北海道などの一部の限られた地域でで栽培されている程度で希少価値が高い栽培種と言えるようだ。
「このみょうちきりんな名前は中国語の「朝露葱」を日本語読みにしたものだろうと云う説もある。Wikipedia に依ると「中国からヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリーム煮やサラダとして食べることがあると云う。塊茎は長さ1.3 cm 程度の巻貝のような形をしており、泥を落とすと白い。この塊茎を塩漬けにしたり茹でたりして食べる」とある。
松尾芭蕉の文集にもあると云うから、知っている人は良く知られて居たのかも知れない。原産国の中国の Web site には多くの記事がある。江蘇、河南、湖北および青海などの各省に産し、分布域も広い。中国では珍しい食物ではないようだ。
交白(チャオ・パイ)
交白(交の字は竹冠に交、皎白と書くこともある。チャオ・パイ)は交白筍とも云うが筍(竹の子)ではない。長江(揚子江)以南の各地や台湾では普通によく食べる野菜である。しかし、日本では口にしたことはない。中国人でも北方の人は知らない人が多いようだ。上海の大学の食堂に居た時、中国の東北部(旧満州)から来た学生が非常に珍しがっていたのを憶えて居る。
川の畔に生えるイネ科のマコモ(真菰、Zizania latifolia )に黒穂菌(Ustilago esculenta)という食用菌がつくことで、茎が肥大したもので、考えると菌が付いて腫れ上がったものを食べるとは変な食べ物である。食感はタケノコほど堅くはなく、サクッとしていて柔らかい。和名は「マコモダケ」と云うらしい。菌がついて肥大したマコモの芽を乾燥させたもの、食べるだけでなく、完熟させたものは絵具や眉墨(黛)にすると云うから面白い。広辞苑によると菰角(コモズノ)とも云うのだそうだ。菰首とも書くらしい。沖縄にはあるとのことだ。そもそもマコモそのものが万葉の古来から薬用や食用となっていたらしく、今流行りの健康食品としても売られている。
![]()
交白筍 調理したもの
辞書などの記述から私が連想するのは「メンマ」(麺媽)だが、これは中国産の麻竹(マチク)の筍(竹の子)を細かく刻んで発酵させ、乾燥または塩漬にした「シナチク」、すなわち、中華麺の具に用いる乾筍(チェン・スン)であり、これとは全く異なる植物である。
生のものは外観は「ホワイト・アスパラガス」に似ているが、煮塾すると軟らかい缶詰のホワイト・アスパラガスなどよりも歯応えがあり、サクッ・サクッして歯触りは優れていると私は感じた。余談だがタイ語ではアスパラガスを「西洋竹の子」(ノーマイ・ファラン)と云う。ノーマイは筍(竹の子)、ファランは「西洋、または西洋人」の意味である。白い色の「交白筍」、「筍」、「アスパラガス」は何となく相互に似ている。
日本では中華料理屋や中華食材店には最近ではあるようだが、スーパーなどで見掛けたことはない。独特の歯触りは何とも云えない。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
蛙の皮(ナン・コップ)
米国人の好む食用蛙(ブル・フロッグ)だけでなく蝦蟇蛙を除く蛙類は「田鶏」などと称してアジアでは良く食用にされる。肉は白く軟らかい鶏肉か蝦に似て旨い。食用蛙は戦前は養殖して腿肉を缶詰にして米国に輸出していた。浅草の屋台などでは「焼き鳥」のように焼きたてを屋台で売っていたのを憶えている。
面白いのはタイ国で、蛙の皮を剥いで、台の上に載せ麺棒で薄く伸ばして乾燥させたものがある。ナン・コップ(ナンは皮、コップは蛙)と呼ぶ。タイ人で「食べたことがない」と云う人も多いが…。
丁度、日本の島根県のサッと炙って酒のつまみにする「板若布 = イタワカメ」(これも台の上に載せ麺棒で薄く伸ばして乾燥させる処も似ている。丁度同じような感じである。しかし、この蛙皮は油でサッと揚げて、パリパリした食感を楽しむ。バンコク近郊産のものは厚くて堅いが中部タイや北部タイ産のものは薄くて上等のようだ。もちろん、外国からの観光客用のホテルや料理屋には無い。
がんらい、皮には美味しいものがある。例えば「北京ダック」は家鴨の皮、「焼き鳥」の鶏の皮、中華料理の「子豚の丸焼き」の皮、塩鮭の皮、等々皮を賞味するものは多い。その多くは皮の下の脂肪層や肉が少し残って居てそれが美味の要素かも知れない。
しかし、蛙皮(ナン・コップ)は薄い皮だけである。特に味は無い。パリパリした食感が面白い。
蟻の卵(カイ・モッ)
モッ・デーン(モッは蟻、デーンは赤色、赤蟻)と呼ぶタイ国には大型のアリが居るが、これに噛まれるととても痛い。タイ国を含む東南アジア諸国には大小さまざまなアリの種類が多い。タイ国では真っ白なその卵は食用として珍重される。田舎の市場でも常に毎日売っているとは限らない。タイ人の友人でも食べた経験の無い人も多い。
バンコクとチェンマイの中間にピチッと云う小さな都市がある。チャラワンという「ワニの王様」の伝説で有名なところである。ここに友人の一族が居り、休日には2〜3日かけて良く遊びに行った。或る日「市場に今日はカイ・モッを売っている。食べますか?」というので「試食したい」というと走って買って来てくれた。
納豆の大豆を米粒に置き換えたような感じの、僅かに粘りのある軟らかいもので生食するらしい。ぐい飲みに一杯程度の量を小皿に入れてくれた。僅かに酸味があり、特別の味や香りは無い。体に良いという。特に美味しいというものとは思えなかった。蟻酸の独特の辛みが有るのかと思って居たが全く無い。
中国のホームページを見ていたら漢方の生薬としていろいろなサイトに記事があるが、食用と書いたものはない。タイ国でも健康食(強壮剤ではない)の一種と考えられているようだ。
たがめ(メンダー・ナー)
メンダー・ナーの「ナー」は田ん圃、すなわち、田のメンダーという訳。大型水生昆虫で小さな蛙などを補食する「たがめ」である。このホームページの何処かに書いたが、私の知る限り「メンダー」と名の付くタイ語は3っある。第1は此処で述べる「メンダー・ナー」、第2は後述する「メンダー・ターレー」(カブトガニ)、第3は「メンダー・プーチャイ」である。このメンダー・プー・チャイは俗語で、動物の名ではなく人間である。プーは人、チャイは男性の意、これは娼婦などの情夫で金銭をみつがせている者、いわゆる「ひも、紐」となっている「ならず者」のこと。
大体、メンダーという名が付くものは、醜悪な感じのもののようだ。ところが、このメンダー・ナー(たがめ)は食用としては一風変わっている。1970年代にはバンコクの王宮の前の広場(サナム・ルアン)に毎日曜日には大きな市が立ちサンデー・マーケットと呼ばれていた。1970年以前からこの市場はあったらしい。食材、観賞魚、犬猫などのペット類、衣類、、家具、玩具、売っていないものは棺桶ぐらい。私がメンダー・ナーを初めて見たのは此処だった。タイ国に赴任して間もなくの頃である。
話は逸れるが、このサンデー・マーケットは世界中数あるサンデー・マーケットの中では最大級のものだと私は思っている。巨大青空市場である。1970年代の終り頃だったと記憶するが、王宮前広場から移転し、嘗ての盛況は今では見られない。
赴任して間もない頃だから片言のタイ語もわからない時である。大型水生昆虫の「たがめ」の干したのを売っている。結構値段が高い。案内してくれた英語の出来るタイ人に「これはどうするの?」と尋ねた。彼は笑って「ナム・プリックに香りを付けるための食材ですよ」という。「そのナム・プリックとは何?」と問い返すと「唐辛子味噌みたいなものです」との答え。
「たがめ」を擂り潰してナム・プリックに混ぜる。独特の香りがする。その香りはチョット表現でき無い。海鞘(ほや)の香りに似ている。仁丹に似ていると云う日本人もいる。ジャスミンの香りだと云う人もいるが全然違う。この香りを付けたものは「ナム・プリック・メンダー」と云って「ナム・プリック」の中でも上等である。これはタイの生活に慣れてから知った話。
1980年代になると、この香りを抽出した精油が出来て、目薬瓶のようなごく小さなガラスの容器に入れたものをデパートなどでも売っていた。高価なものである。ナム・プリックに一滴入れると直ぐ「ナム・プリック・メンダー」が出来る。手間暇が掛からない。しかし、高価でありこの精油はあまり良くは売れてはいなかったように思う。
「たがめ」はその侭を食用油で炒めても食べるようだが、私は試食する機会は無かった。「たがめ」の最も特徴とするのは「香り」である。香りは人によって好き嫌いがあるから、嫌いなタイ人も居る。パクチ(中国でいう香草)はタイ国では良く料理にトッピングとして使われるが、私のタイの友人の一人はこの香りが嫌いで、箸で丁寧に時間を掛けて一つ一つ摘み出してから食べていた。
話は脱線するが、生スパイス(乾燥したものも勿論)スパイスの種類も使用量も日本に較べ、外国、特に東南アジア諸国は比較にならないほど多い。日本のスパイスは「薬味」と称して、山椒 ・ 生姜 ・ 山葵 ・ 唐辛子 ・ 紫蘇 ・ 麻の実 ・ けしの実 ・ 胡麻 ・ 柚子 ・ 青海苔 ・ 陳皮 ・ 七味唐辛子などがあるが、何れもマイルドである。これに較べ東南アジア諸国などでは香りが強烈で種類は百種を下らない。
ただ、タイ国で不思議なのは胡椒(白や黒のペッパー)で、タイ語では「プリック・タイ」(タイの香辛)と云う名前にも係わらずタイ料理では殆ど食べない。「プリック・キー・ヌウ」(唐辛子、プリックは香辛、キーは糞、ヌウは鼠、すなわち、『鼠の糞の形の香辛、小型の唐辛子の鷹の爪のこと』は料理に真っ赤になるほど振り掛けるのだが…)。
「香り」についても国により好き嫌いがある。わざわざ蝋燭臭い香りを付けたりする。ナツメグ、ガーリック、フェヌグリーク、クローブ、コリアンダー、クミン、キャラウェイ、フェンネルなどの香り系ハーブに加え辛味系ハーブのレッドペパー、ブラックペパー、ジンジャーなど。インドのガラムマサラなど、兎に角多種多様である。中には渋くて青臭く「何処が旨いのか私には見当も付かない生スパイス」も多い。
げんごろう・みずすまし
水生昆虫のゲンゴロウやミズスマシを食べたのは広東省広州市のれっきとした菜館である。大型のゲンゴロウの仲間や小型のミズスマシの仲間数種を唐揚げにし、茶色のテカテカの光沢を帯びているものが、直径30 cm 以上の大きな絵皿の上に一匹一匹丁寧に同心円状に飾るように並べてある。
1945年、1957年、1983年と訪問し街の菜館で見掛けて試食した。その後も数回は広州市を訪れたが暇が無くその後も販売して居るかどうかは知らない。1957年には「五羊ビールの肴として堪能した。ちなみに「五羊」と云うのは広州市の古称「五羊城」から来ている。今は無数に各地の「地ビール」が氾濫して居るが、当時中国産のビールは山東省青島の「青島ビ−ル」とこの「五羊ビール」の2種類しか無かった。現在は五羊ビールは見掛けない。
話が逸れたが、このゲンゴロウやミズスマシ類の唐揚げは丁度「川エビ」を丸ごと揚げたような味で仲々旨い。酒の肴には持って来いである。種類によって味が違うと言うが、私にはどれも似たように思えた。
中国に限らず、東南アジア諸国では水生昆虫の唐揚げは何処にでも在ることを後年バンコクに本部のある國際機関に勤務するようになって知った。しかし、味付けでは上述の広州市のものが絶品であると思う。
蛇足 :この大きな絵皿の上に一個一個丁寧に同心円状に飾るように並べる盛りつけ方法は広東省独特の慣習かも知れない。後年の1989年に広東省の汕頭(スワトウ)で日本ウナギの蒲焼きを食べたが、一切れずつ綺麗に同心円状に並べてあった。元来中国ではタウナギは好んで食べるが、日本ウナギは食べない。
1980年代になって日本向けの輸出品商品として養殖が盛んとなり、日本ウナギの味を覚えて、今では土地の名産品となったとのことであった。
蛇貝と「あめふらし」
熊本県天草郡苓北町にある九州大学理学部の臨海実験所に居た時のことである。同実験所の創始者である「大島 廣」先生が「君、蛇貝は旨いが、アメフラシは堅くてどうしても食えない」とのこと。1946年頃のこと。蛇貝(ヘビガイ)もアメフラシも磯に幾らでもいる。早速試食してみることにした。
蛇貝であるが多くに種類があるらしい。潮間帯の岩に白い紐をクネクネ巻いたように岩にへばり付いている。一生移動することは出来ない。「磯がね」を使うと体を壊すのでピンセットで用心深く中味を取り出す。長いものになると10 m 以上にも及ぶらしい。大島先生によると動物の中では最長記録保持者でクジラより長い物があるのだそうだ。細い紐状だから重量は微々たるものだろうが…。
牡蛎(カキ)のように生を酢醤油で食べた。味はカキに似ている。結構旨い。ただし、誰も食べないらしい。あの紐のような殻から細い身を摘まみ出すのは面倒極まりない。岩牡蛎が沢山居るから皆はそれを目当てに磯採集をする。蛇貝なぞ見向きもしない。
アメフラシはウミウシの仲間の大型のもので、二本の突起がウサギの耳のように見えるので、英語では Sea hare (海の野ウサギの意)、中国名でも「海兎」という。海のナメクジのような軟体類の貝の仲間である。貝類と言っても貝殻は退化して小さく、外套膜の中に隠れている。突っ突くと紫色のインクのような液を出すので少し気持ちが悪い。
生で食うのは気が引けたので茹でてみた。肉はパパイヤのようなやや赤味のある黄色で引き締まって旨そうである。良く切れる包丁でないと堅くてスライス出来ない。案の定、口に入れても堅くて噛み切れない。咀嚼出来ないから味も分からない。見かけは旨そうだが食えない。
貝類は一般に加熱しすぎると身が固くなるが、これは極端に堅牢な、丸で自動車のタイヤぐらい堅くなる。地方によっては食べるそうだが、何か調理法に秘訣があるのだろう。毒があるから口にするなとも言われるが、専門家によるとアマフラシが食べる紅藻類の中の毒が体内に蓄積されるためだそうだ。いかもの食いの試食と云っても飲み込めないのだから、試食したことにはなら無い。
この卵は「ウミゾウメン(海素麺)」といって食べる地方もあるとのこと。上記のように、中国では「海兎」と云い、乾燥させ粉末にしたものを「海兎粉」と称して漢方薬に使われると云う記事を50年前に読んだ記憶がある。今回調べてみたが見当たらない。
アメフラシの親戚に「タツナミガイ」というのがある。これはアメフラシより食べる人が多いようだ。私は試食したことはないが Blog を見ていたらレシピまで出て居た。タツナミガイとアメフラシは別物であるが混同されることも多いらしい。突っ突けば例の気持ちの悪い紫色の液を出す点も同じであるようだ。中国の「海兎」はアメフラシでは無くタツナミガイかも知れない。抗腫瘍の薬効成分があると言う。
甲蟹卵 (かぶとがにの卵)
(カイ・メンダー・ターレー)
カブトガニを私が初めて目撃したのは小学生の頃、大阪の堺にある堺水族館(明治中期の設立、関西最古)を遠足で見学した1930年の頃である。海底の砂をブルトーザーのように押し分けて歩くさまは戦車のようだった。先生が「蜘蛛の仲間に近い生きた化石だ」との説明に、世の中には変わった動物が居るものだと思った。
カイ・メンダー・ターレーはタイ語、カイは卵、ターレーは海、メンダー・ターレーはカブトガニ(兜蟹・甲蟹、節足動物の剣尾類カブトガニ科に属する。日本の沿岸や東シナ海で獲れるのは「カブトガニ」、タイを含む東南アジアで獲れるのは「ミナミカブトガニ」と「マルオカブトガニ」と呼ばれる。カニと云う名前だが生物学的にはクモ(蜘蛛)に近い。この他に北アメリカの東海岸に棲息する属の異なる「アメリカカブトガニ」があり、世界ではこれら2属4種が居る。これは水産生物学を専攻してから知った話。
九州大学の富岡臨海実験所に居た時、九州では嘗て尭産し「ドンガメ」と呼んでいたが食べられないので畑の肥料としていたと聞いた。その後、長崎の西海区水産研究所で東シナ海の資源研究に携わっていた頃、沖で獲ったカブトガニを干して飾り物にして居た。背の方は恰好がよいが、ひっくり返して腹の方を見ると多くの足があって、何とも気味が悪い。
タイ国ではこの卵を好んで食べる。卵粒はハタハタの卵の「ぶりこ」か、箒草の実のようで、加熱しても緑色を呈しており、噛むと丁度「ぶりこ」のようなプリプリした「つぶつぶ」である。汁物の中に入っている。最初は植物かと思った。特別の味も香りもない。「これ何?」と尋ねると「カイ・メンダーです」との答え。プリプリした食感を楽しむのかも知れない。
上記のようにタイ国には2種類棲息するが、一種は卵に猛毒がある。見分け方を誤って有毒に方を食べて死ぬ人が毎年多数出るという。魚毒の権威である橋本周久さんに標本を送って調べて貰っているとのことだった。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
鴨舌(リン・ペッ)
「いかもの食い」を以て任ずる私が食べたゲテモノの数々
(その2)
(2006/05/20)
真道 重明
鴨舌(リン・ペッ) −蠍の唐揚げ − アロエの葉肉 - 鰐の肉 - ソムタム − プラ・サワイの照り焼き − 水牛の肉− カノム・チーン
鴨舌(リン・ペッ)
鴨(あひる・家鴨)の舌
中国語では「鴨舌」、タイ語では「リン・ペッ」(リンは舌、ペッは家鴨の意)という。「あひるの舌」のこと。中国や東南アジアではごく普通の食べ物で酒のつまみにもなる。中国では鴨舌(ヤー・シャー)と云い煮込んだり炒めたりする。タイ国でも同じで酒の肴としてもごく普通の料理屋にある。
日本ではお目に掛かったことは無い。もともと、日本では鶏(ニワトリ)の飼育が圧倒的なシェアーを占め、飼育している家鴨を目にすることが殆ど無い。中国やタイを含む東南アジアでは、ニワトリとアヒルとは共に並行して飼育され、肉質は時にアヒルの方が旨いと評価されることも多い。慣れると確かにアヒルの肉は旨い。
中国では色々凝った調理法があるらしいが私は試食したことは無い。タイ国では鴨舌(リン・ペッ)は庶民の食べ物で、街の小さな料理屋には必ずあるが、高給な料理屋には無いようだ。タイの友人と場末の飲み屋に一杯飲みに行くと「酒のつまみ」として良く注文する。幅 1 cm、長さ 5 cm ぐらいの茶色の「味付けスルメ」の様な感じで、噛み応えもスルメのようなものと思えばよい。
スルメほど味は無いが、コリコリした軟骨の様な感じで不味いものでは無い。のめり込むほど旨いものでもないが…。コラーゲン・コラーゲンと今時の日本では流行っているので、その中に流行るかも知れないが、原料のアヒルが余り飼育されない日本では輸入するしかなかろう。
蠍(さそり)の唐揚げ
「蛇蝎の如し」などと言われ、「蠍」(さそり)は聞いただけで刺されると「死ぬのでは無いか?」と恐れられる嫌われ者である。私は一度刺されたことがある。とても痛い。日本には居ないだけに余計に恐い。中国や東南アジアには沢山居る。「さそり」の恰好をした仲間の虫は種類が多いが、小型の体長 1.5 cm、位の飴色掛かった奴に刺された時が一番痛くて飛び上がった。
タイやマレーシアにいる大型の黒い 20 cm もある如何にも恐ろしげな奴は、実は余り痛くない。しかし、見た目が恐ろしいので皆が恐れる。よくプラスチックの板に埋め込んで飾り物として外国の観光客の土産物として売っている。生年が「蠍座」の私は記念にマレーシアで買ったのが今でも書斎の柱にぶら下げてある。14 cm 位ある。
唐揚げにするのは小型の体長 1.5 cm、位の奴で、初めて食ったのは1995年の9月、中国老教授協会の海洋分会設立総会に参加した夜の宴席であった。隣席の人がニヤニヤ笑って「これ何か分かりますか?」、「はて?、何かの虫でしょう」と云うと「蠍子」(Xie zi、シエ・ツー)です。もう噛まれないから大丈夫と冗談半分。話には聞いていたが「これか!」と私。
小さな川ガニの唐揚げと同じようなもので、特別の味や香りはない。シャリシャリした歯触りの食感で、ただあの恐いサソリというだけ。
アロエの葉肉
ハーン・チョラケーの料理
アロエ(Aloe)は胃の調子が悪い時や風邪をひいた時、便秘の時などに、皮ごと擂り下ろし、苦い汁を飲んだり、丸ごと噛ったりする。苦さに効き目があるらしいが、苦味の成分は皮の部分に含まれて居ると言う。また、チョットした火傷をした時などこの苦い液を塗ると清涼感があって治りが早いと云うので、多くの家庭で庭に植えたり鉢植えにしたりして「常備薬」のようにしている。
日本で良く使用されるのは「キダチアロエ」という種類らしい。ジュースとして商品化されて居るものも多い。世界には700種以上あり、がんらい熱帯のユリ科の植物だそうで、何れも花は美しいと云う。
タイ国に居たときタイ人の料理専門家の家に招かれて、アロエ料理をご馳走になった。1990年の頃である。アロエの葉を削り落としてジェリー状の葉肉の「あく」を抜くと苦みが弱まる。これを他のいろいろな野菜や味付けに豚肉のミンチを加えた一種の「野菜炒め」である。
タイ国でアロエを食用にするのは、ごく最近のことで昔には無かったと云う。アロエをタイ語では「ハーン・チョラケー」ということを知ったのもこの時である。ハーンは「尻尾」、チョラケーは「鰐」のことである。「鰐の尾」という訳だ。葉のトゲトゲが鰐を連想させるからこの名前が付いたのだろう。
私が食べたものには苦みは殆ど無かった。苦瓜(ゴーヤー)はタイ国では「マラッ」と呼んでよく食べる。苦みの程は日本のそれとほぼ同じである。始め私はアロエ料理と聞いて苦いと予期していたが、仄かに苦みを感じるか、感じ無いか?の程度であった。
特別の香りや味が有る訳ではない。最近食べ始めたので珍しいと云うことのようだ。アロエ自身(種類は不明)も昔は余り目にしなかったようだ。
鰐の肉
バンコク郊外の鰐園(鰐の養殖場)は観光名所。施設内のレストランにはワニの肉の料理がいろいろある。Blog に無数にある「世界の旨いもの食べ歩き」式の記事には「仲々旨かった」と各国のワニ料理の試食経験が書かれたものが多いが、「これは不味くて二度と口にする気にはなれない」と云った記事はワニ料理に限らず一般に非常に少ない。
折角お金を使って外国迄楽しみに出掛けているのだから、旨く無ければ出掛けた甲斐は無い訳で、旨い記憶だけが記載されているのだろう。調査研究ではないのだから…。
上記の鰐園での私の率直な印象では、煮込んだ物や揚げたもの、ステーキ何れも「不味くて二度と喰う気にはなれない」ものでは無いが、肉がかなり堅くて、「美味しくて病み付きになる」ほどのものでは無い。
物の本によると、「ワニの肉は珍味として貴族、王族などに賞味されてきた」などとある処を見ると、調理法に問題があるのか否か?。『ワニ肉は脂肪が少なく高蛋白で、鶏のささみのような食感で、チョット「ぱさぱさ」した感じが気になる場合は、低い温度の油で唐揚げにすると良い。ワニ肉は傷みやすいので、信用のおける業者から購入される事を薦める』という記事に出会った。
…と言うのは 最近のBSE 問題で牛肉に替わる肉として欧州などでは見直されているらしい。日本も輸入しているようだ。これには驚いた。私の感覚ではカンガルーや駝鳥の肉の方がワニより遥かに旨い。
タイ国のワニ養殖技術は世界に先駆けて成功したが、目的はハンドバックや財布などの「鰐皮」にあり、肉は副産物である。最近、北部タイの養殖場からワニが大脱走したと云う記事が世間を騒がした。
FAOのFishstat Plus 2004年(2006年公開版)の数字では生産報告をしている国は世界全体では28ヶ国、総計137万匹、南米大陸、北米大陸、アフリカ大陸の順になっている。種類は14種。もちろん食用と皮革である。クロコダイル、アリゲーターの仲間に分けてあるが、尾数の多い順ではメガネ・カイマン、アメリカ・アリゲーター、ナイル・アリゲーターとなっている。
ソム・タム
ソム・タムはタイ国全土にあるが、元々はラオスやラオスに近いイサーンと呼ばれるタイ東北部の郷土料理。日本の「大根なます」にとてもよく似た庶民の料理である。ソムは「酸っぱい」、タムは「叩く」の意味。すなわち、「叩いて作る酸っぱい料理」。叩くと云うのは容器に入れて「叩いて混ぜ合わせる」ことに由来するようだ。
大根の代りに未熟な青いマンゴー(マムアンと呼ぶ)を千切りにしたものを使う。マンゴーの代りにパパイヤや胡瓜を使うこともあるらしいが、私はお目に掛かったことは無い。マムアンと呼ばれる未熟な青いマンゴーはとても酸っぱい。タイの女性は未熟なマムアンを砂糖と唐辛子を混ぜたものに塗して「おやつ」に食べるが、「赤ちゃんが出来たの?」とからかわれたりする。妊娠すると酸っぱいものを好むからだ。
味付けに生や干した「川蟹」を使う場合が普通。生の川蟹は寄生虫が居るので在留邦人は日本人会から注意を促されている。私は思うのだが、ソム・タムだけでなく、「ネーム」と呼ばれるタイ式のソーセージも半生の豚肉の発酵中のものを食べる。これも日本人会から寄生虫の注意リストにある。それならタイ人は寄生虫(ジストマ)だらけか?と云うとそうではない。
問題は唐辛子にあるようだ。慣れない日本人の場合、口の中が火事になったかと飛び上がる思うぐらい辛い。だからソムタムもネームも唐辛子を摘みだして食う。唐辛子の辛みのカプサイシンは寄生虫を防いで居るらしい気がするが専門家に伺いたいものだ。
話が逸れたが、このソム・タムはラオスやタイ国の東北部の人々にとっては郷土食として「どうしても無くては我慢が出来ない程、「旨くて懐かしい」味らしい。糯米(カオ・ニァオ)飯とソム・タムさえあれば、後は何も要らないとまで云うぐらいである。
否かの料理屋では小さな行李式の容器に詰めた炊いた糯米とソム・タムを時々食べた。ソム・タムは丁度お袋の味の「大根なます」そっくりだと云う感じがする。もちろん、飛び上がる程辛くて酸っぱい点を除けば… の話ではあるが。
プラ・サワイの照り焼き
ウナギの蒲焼きに匹敵するオオナマズの照り焼き
プラ・サワイというのはタイ語で大型の淡水鯰(正確には Catfish の仲間に属する一種の淡水魚)である。これより一回り大きいのが有名なメコン河のパンガシュウス(アジア最大の淡水魚)である。
プラ・サワイはタイ国全土の大きな河川に分布する大型の「ナマズ」に似た淡水魚の仲間である。熱帯の海産魚は一般に脂気が少なく、日本人の味覚で云う「脂がのっている旬のサンマは旨い」というような意味ではパサパサして淡白なものが多い。
これに反し、熱帯域の淡水魚は四季を通じて脂気が多く、その意味では「旨い」ものが多い。ナマズの仲間は大型のもの、小型のものなど種類が多いが、このプラ・サワイは大型で四季を通じて何時も脂がのっている。タイの人が好むのは小型のプラ・ドクで、プラ・サワイは余り食べないようだ。
例の「いかもの食い」の根性で私はプラ・サワを煮たり焼いたりして試食した経験がある。一番美味しいのは焼き魚で、焼いている中に油がしたたり落ちる程だ。素焼きにして一度脂気を適度に抜き、「タレ」を掛けて「照り焼き」風に仕上げる。丁度ウナギの蒲焼きの遣り方である。
下もと全長が 1m 以上ある魚が多いから、一切れの厚味は 1.5 cm ぐらいが丁度良い。焼く時に漂ってくる匂いも美味しそうである。このような調理法はタイ国にはないようだ。長年タイ国に居る日本人も知らない。
余りに旨いので私は5、6切れ食べたのは良かったが、翌日背中に赤い斑点が出来た。タイ語で「ペー」という。アレルギーだな?と思ったので直ぐ様医者に診て貰ったらやはりそうだ。二切れも食えば腹一杯になるところを食べ過ぎてしまった。ヒスタミンのカプセルを2粒飲んだら半日で治った。
タイ人のお医者さんは「プラ・サワイは一度に沢山摂るとペーがでるから過食しないように」とのことだった。「一切れ」でも充分大きいから、その後は「二切れ」に留めた。味は「ウナギの蒲焼き」に似ているが、チョット違う。「ブリの照り焼き」とも異なる。だが、とにかく旨い。
これは日本人には受けるぞ!と思った。ウナギの蒲焼きはタイ人には余り受けない。日本にいるタイの留学生や日本在住のタイ人に「何が旨いか?」と尋ねると多くに人が「トンカツ」と応える。「ウナギの蒲焼き」と答えた人は皆無では無いが殆ど居ない。ウナギ(プラ・ライ)は蛇に似ているので嫌な気がすると云う。毒蛇が多い熱帯だから尚更であろう。プラ・ライと聞いて先ず食べる気がしないと云う。
味の良し悪しよりも感覚的に嫌悪するのだ。食べた人も「旨いとは思わない」という。この手の味は好まれないのだろう。だが「日本人にはプラ・サワイの照り焼きはキット受ける」と私は心の中でずっと思って居た。
何かの機会にこの話を日本人会の長老格の人にしたら、興味を持ってくれ、友人の中国系の女性の起業家の家に案内して呉れた。豪華な邸宅だったことを憶えている。そこで試しに「照り焼き」を作った。その家のコックが説明通りに調理した。出来たものは失敗であった。素焼きの過程で脂を抜きすぎたためパサパサになって旨くなかった。女社長も首を傾げていた。
家で作ったものを持って行けば良かったと思ったが、もともと私には金儲けをする気はないし、脂抜きの程度の調節が不味かったのだとは云ったが、再度試みる熱意は私にも彼等や彼女らにも無かった。私が「タイの華僑系の大金持ちの家がどんな雰囲気なのかを垣間見たのが面白かった」だけに終わった。
水牛の肉
中国の華南一帯から東南アジアにかけでは水牛は何処にでも居る。沖縄にも居る。私が初めて生きている水牛をツクズク観察したのは兵隊さんのときで、広東省の広州市郊外であった。
畑や田んぼの細い途を隊伍を組んで歩いていたのだが、途の傍らに小さな池が在った。私達の足音が聞こえたのを知って20頭ばかりの水牛が途の前方に在った池からノソノソと途に駈け上がって来た。その小さな池に水牛が水浴びしているなんて予想もしなかった。
池の中に居るときの水牛はただ頭だけを水面に出し、大きな体は水面下に在るから全く見えない。あんな小さな池に20頭も居るなんて!。私達全員は北方から移動して来た者ばかりで初めての体験である。皆呆れてビックリして居た。その後は子供の水牛や耕作に従事している水牛を毎日のように見た。
水牛は普通の「牛」とは全く違う。体色も灰色一色だけ、白黒茶などは無い。成長した親牛は普通の牛に較べ遥かに大きい。しかし生まれ立ての子供は犬より小さい。印鑑の材料になる大きな角はご存じの通り。世界の水牛の90%以上は飼育種で、野生種はごく少なく、東南アジアが原産地らしい。
さて、その肉である。大戦末期で食糧は総て現地調達。空けても暮れても毎日毎日の蛋白源は「水牛の肉と魚の塩漬けの丸揚げ」ばかり。牛肉と云えばご馳走を連想するが、これは飽食の時代と云われる現在の話。もともと耕作牛は堅くて旨くない。それでも牛肉の風味はある。水牛の肉は全然似ても似つか無い別物である。風味も違えば第一恐ろしく堅い。少なくも私は飢餓状態になった時以外には「食べよう」とは思わない。
しかし、私のこの経験には現在若干の疑問が残る。ごく最近だが水牛の乳から造ったモツァレラ(チーズの一種)は一度口にすると「病み付き」になるほど美味だという記事に出会った。また、南ラオスでは正月(4月)に「水牛を食べる祭」があり、粽(ちまき)や麺料理に入れるとの記事を読んだ。ベトナムでは挽肉にして牛肉のハンバーグの増量材にして居る可能性があるらしい。
パパイヤの果肉に漬け込んで肉を軟らかくするとあるが、牛肉もそうして軟らかくするのは東南アジア諸国ではごく一般的な調理法だ。そうだとすると、私の記憶にある野戦で食った華南での水牛の肉は特別に保存の悪い材料だったのかも知れない。旨くはなくてもそれ程不味いものでは無いのかも知れない。
それでも毎日毎日食ったあの水牛の肉の味を想い出すと、二度とは食べたくは無い。「げてもの食い」の話や「世界食べ歩き」の話にしろ、旨い不味いは多分に個人差がある。好き嫌いである。日本の「クサヤの干物」は好きな人には「コタエラレナイ」が、鼻を抓んで逃げ出す人も居る。中国の臭豆腐(発酵品)も同じだ。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
国の無い世界
The Beatles の John Lennon 作詞作曲 ”Imagine” に共鳴した話
(国が無いと云うことは「国境無き医師団」ではないが国境も無い)
(2006/08/25)
真道 重明
戦地から1946年に運良く生還した私は九大の天草臨海実験所の中に設置された農林省の水産試験所の分室に赴任した。生死の巷から生還できた私は「平和」と言うことについて無意識に…ではあるが、心の中では実感する日々を過ごしていたように思う。赴任して数日後、坂道を下っていると、子供達の遊び声や遠くの犬や鶏の鳴き声が長閑に聞こえていた。
突如、脳裏に「桃源郷」と云う言葉が浮かんだ。そして数10秒間だったと記憶するが、強烈な、今まで経験したことのない精神状態に自分が居ることを感じた。1946年の8月のこと。間も無く84歳になろうとする私が23歳、60年も前のことである。今でも強烈、かつ、鮮明に憶えていると云うことは、その時の精神状態が如何に強く脳裏に焼き着いているかの証拠であろう。
事柄は違ってもこのような特別の精神状態に或る一瞬自分があったことは誰にも一生の内には一度や二度は経験するのでは無かろうか?。その時の精神状態をどう表現したら良いのか私の拙い筆力では無理である。「至福に満ちた和やかな感じ」と云うか、禅の「悟りを開いた時」と言えば言い過ぎかも知れないが、兎に角形容し難い精神状態の中に、一瞬ではあるが、身を置いていた。
陶淵明の云う武陵の漁夫が道に迷って桃林の奥にある村里に入り、秦の乱を避けた者の子孫が世の変遷を知ることなく、平和で裕福な生を楽しんでいる仙境の「桃源郷」に自分が居るような心境である。後で考えたのだが、戦地と云う修羅の世界から脱却し得たという反動的ショックだろうか?「平和」と云うものの幸福感に由来するものなのだろうか?。
同実験所を創立された大島廣先生と実験所の宿舎で起居を共にする幸運に恵まれ、エスペランティストだった先生からエスペラントを学習し始めた時であった。エスペラントを創設したザメンホフがエスペラント創設の目的は『エスペラントと云う誰もが学びやすい人工語を作ることが目的ではなく、エスペラントは彼の信条とする「汎人類主義」を広めるための手段であった』ことも、この時知った。
エスペラントと共に、この汎人類主義というものにものめり込んだ。そのプリンシプルに賛同する気持ちは今も変わらない。その方面の専門学者の綿密な難しい提議は別として、私の理解では『この考え方は古代から存在して居り、第二次大戦後には戦争の悲惨への反省および核兵器の脅威からアインシュタインらによって推進された「世界連邦」や「世界政府」と云うものに近い、人類愛を基盤とする人種差別を認めない思想』である。
戦前の日本の植民地だった台湾や兵役に服した時の朝鮮半島や満州(現在の中国東北部)、中国大陸の各地での体験、更には戦後の国交未回復時代の訪中、日韓漁業協定の政府随行員の経験、FAOのIPFCの作業部会、SEAFDEC勤務中での東南アジア諸国やローマのFAO本部での仕事を通じての体験、OBになって後のOFCFでの諸経験など、極めて乏しいとは云え、ますます汎人類主義的な気持ちを強く持つようになった。
そして、常々心の中では「国家が存在するから、国益が在りその競争で啀み合い、一方では人種差別や人種蔑視を生み出す素地となり、強国と弱小国の対立を醸し出し、惹いては戦争という愚行の原因を造り出す」、「若し国家が存在しなければ啀み合いも人種蔑視も、発生する素地は無くなるが、ずっと少なくなる筈だ」と思っていた。それを口に出さなかったのは、「一笑に付される」だけで、議論すれば「決着のない話」になるだけだと思ったからである。
此処で話は全く一転する。エレキ・ギターというものが大流行していた頃。「テケ・テケ・テケ・テケ・テケ・テケ」と云う騒音が彼方此方から昼夜を問わず街に溢れていた。ロックと云うものらしい。中学生の頃からアストリアスやトレモロ練習曲のアルハンブラの思い出などの名曲に憧れ、クラシック・ギターをタルレガやソルの教則本を読みながら独習して居た私(恥ずかしい程下手だが)はエレキと聞いて「これはギターではない。騒音発生器だ」と決め込み、耳を押さえたかった。
ビートルズという英国のロック・グループが1966年に来日し武道館で公演し若い人達で大騒ぎになった。飛行機から降り立つ画像は、その後その時代の象徴として何回も見た。内心では騒音バンドのグループに若い「ミーハー族」が浮かれているとしか思わなかった。ビートルズとはカブトムシ(Beetles)のことか?と思っていた。エリザベス女王から叙勲されたことも聞いたが、世界中のミーハー族の人気を集めたからと云って叙勲とは…などと思った。
40歳をやや超えていた当時の私は、いわゆる働き盛りで日韓条約交渉でソウルから帰京しても長崎の研究所に戻る暇なく、東京で一夜を過ごすと翌日には FAO/IPFC の作業部会出席のためタイ国のバンコクに赴く…と云った多忙な日を送っていたので、ビートルズなど全く関心は無かった。
子供の時から音楽は大好きだったが、軽音楽について云うと、私には「好き嫌い」があり、ジャズはデキシーランド以外は興味が無く、ハワイアンではカナカ語のクラシックだけ、タンゴはコンチネンタルはあまり好きではなく、専らアルジェンチン・タンゴ、と云った風であった。ロック(ロックンロール)も無関心の部類に属していた。
ところが、ごく最近、つまり間も無く84歳になろうとしている時、音楽評論家がジョン・レノン(John Lennon)のイマジン(Imagine)に就いての解説しているものを読んだり、Web サイトを探した。第二節の歌詞は下記の通りである。
Imagine there's no countries
it isn't hard to do
nothing to kill or die for
no religion too
imagine life in peace...想像してご覧、国が無い世界を
それは(想像すること)は難しくないよ
国のために殺したり死ぬこともないよ
宗教もまたない世界を
想像してご覧、平和な人生を常々私が思っていたことをズバリと表現しているではないか!。レノンのメッセージ(彼は没する直前に「作詞はオノ・ヨーコ(小野洋子、彼の妻)との合作だ」と語ったそうだが。ニューヨークの「グラウンド・ゼロ」( WTC ビルのテロ地点)の一隅にはただ「Imagine」とだけ書かれた碑が在るそうだ。作者名も年月日も何も無い。ただ文字だけ。敢えて書かなくても誰もが知っているからだ。
何と素晴らしいメッセージだろう。私はただロックンロールの中にはこのようなメッセージを伝えているものが多数あること、また「ビートルズ」というものに就いても「ミーハーの類と勝手に決めつけていた」私の不明を恥じた。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
”IDOQ” と云う Outline processor
MS-DOS 時代に論文を書く際に「こんなに重宝なソフトが在るのか!」と感心した話。
そもそも、アウトライン・プロセッサーというものに私の知人の多くは余り関心を持っていないようだが、WINDOWS時代の今でも「組織だった文章を書く」には超便利で手放せない。
(2006/09/10)
真道 重明
パソコンは20年以上使っているが、ただ仕事に使うだけで、電算機の専門家では無く、ハードは勿論、ソフトもそれらの仕組みについては素人の私が云うのも烏滸がましい限りであるが、昔は便利だと感じてよく使ったソフトの話。
知っている人は「読まないで…」と云いたい。顔が赤くなり、素人の経験談だから専門の技術的理解もいい加減で、汗顔の至り。ご教示のコメントを頂ければ幸いである。MS-DOSの時代にアスキーだったかと思うが”IDOQ” (アイドック)と云うとても重宝したソフトがあった。アウトライン・プロセッサーである。WINDOWS 時代に入ってからは多くの定番的なワープロ・ソフトにはアウトラインプロセッサの機能を内蔵しているものが数多くある。しかし、多くの人はあまり使っいないように思うし、その機能も「一長一短というか、帯に短し襷に長し」というか、問題が無いわけではないとは思うが…。
しかし、使えば便利この上ない。(使って物足りない人は現在ではフリーウェアやシェアウェアで、 AUTLA (あうとら)など幾つかのアウトライン・プロセッサーが出て居る)。アウトライン(Outline、輪郭・枠組み・概要・骨子・下書き…などの意)、プロセッサー(Processor、処理や加工をする装置、例えばワープロは「Woerd processor、文字列を様々に処理する装置・仕組み)。その最も簡単なものはテキスト・エディター」だが、アウトライン・プロセッサーは「ワープロやエディターで書く文章の中味の構成(枠組み)の概要や輪郭を処理、ないし、加工する仕組み」と云えばよいかも知れない。
抽象的に言うと何のことだか分からないので、具体的に例示しよう。メールや便箋を一枚程度の文を書く程度の場合は「ベタ書き」でも良い。しかし、400字詰め原稿用紙にして200枚や300枚、時には1000枚以上の長論文やエッセイ、長編小説などを書く場合は「章・節・項など」、すなわち、「大見出し・中見出し・小見出し、など、(IDOQ では項番レベル1・項番レベル2などと呼んでいた)を設けて中味を整理する。第一章は何々、第二章は何々、第一章の第二節は何々、第三章の第五節の第四項は…と云った具合である。
書き始めた時から頭のなかで中味がスッカリ整理されて居れば文句はないが、そんな頭の良い人は多くは居ないだろう。書きたい材料やアイデア、また項番のレベルを並べる順序は、文章を書き進める内に変えた方が良い、すなわち「第三章は第五章の後に置いた方がよい」と思うような場合が良くある。
また、アイデアも書くことによって新しく生まれたり、整理されて行くのでは無かろうか?。書きながら考えている訳だ。また、頭のなかにイメージがあっても、文字で文章の形に書くことによって不確かな部分や誤りなども浮かび上がってくることは常に経験する。アウトライン・プロセッサーが別名アイデア・プロセッサーとも呼ばれるのはこのためである。
或る「節」を書いているとこの「節」で書きたいことが一杯あって「章」に格上げしたい場合がある。その「節」の下には「項」が幾つかある。この場合、簡単に「節」を「章」に格上げし、下にある「項」は自動的に「節」に格上げされる。逆に格下げしたい場合も同じように自動的に変わる。「章」や「節」を二分割したい時も一発で出来るし、項番も自動的に振り直される。
ベタ書きの場合は範囲を選んで「切ったり(CUT)、コピーしたり(COPY)、貼付けたり(PASTE)などと大変に面倒な作業だが、アウトライン・プロセッサーなら(ワープロにこの機能が内蔵されている場合も)、一発で出来る。章・節・項などの字下げも自動的に行われる。
第二章と第三章を入れ替えたい時などもその下の「節や項」も含めて、一発で順序を変えられる。このような作業をワープロやテキストエディタでやるのはとても面倒である。兎に角アウトライン・プロセッサーはこれらの処理をする場合とても便利である。
シングルタースクだった MS-DOS 時代だから、書きたい材料やメモ類は別途にファイルを作成し、その都度、本文を閉じて、メモ類ならメモ類を起動して視た後でそれを閉じ、再び本文を起動すると云った手順を踏まなければならない訳だが、IDOQ にはそれ等をメモるための副文書があり、それに切り替えると一発で簡単に材料やメモを即座に見ることが出来た。「こんなに便利なもの(ソフト)があるのか」と当時はとても感心したものである。
その頃、「日本人はアウトライン・プロセッサーを余り使わないらしい。欧米ではものを書く場合、小説家も科学技術論文を書く人も、エッセイストも、先ずアウトライン・プロセッサーを使う。文章の内容の組み立てを重視するからだ。日本人は頭がよいのか?、それともアウトライン・プロセッサーなるものを知らないのか?。知っていても操作が面倒だと決め込んでいるのか?」という皮肉めいた意見を聞いたことがある。
これは マルチタースクの WINDOW が幾つも起ち上げられる時代の現在でも云えるのでは無かろうか?。アウトライン・プロセッサーは日本では人気がない。ゆわゆる「食わず嫌い」だ。お節介かも知れないが、知らない人は是非一度触って見ることをお薦めしたい。
MS-WORD などのアウトライン機能を弄くって、興味があれば下記の AUTLA なども超便利だと思う。
追補: フリーソフトやシェアウェアに今では沢山のアウトラインプロセッサーがある。それらは非常にコンパクトなものから多機能なものまで様々である。冒頭にちょっと挙げた「AUTLA (あうとら)」は、論文を書いたり、アイデアをメモったり、会議の議事録を取ったり・・・・。整理や推敲を得意とする文章作成ソフトだ。「文章を書くこと」に目的を絞って開発した(作者の脇元寛之氏の言、フリーウェア)。
印刷機能、HTML出力機能、プレビュー機能などを具え、左枠にツリー構造が表示される。Download は脇元寛之氏のサイト下記から:−
http://www.autla.com/side-a/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
上図は脇元寛之氏のサイトから。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
再び靖国問題
西原春男氏と王敏女史の対談記事を読んで
2006/09/22
真道 重明
今朝の新聞 (2006/09/22、朝日、オピニオン、12版、15p.) を読んだ。1ページを割いた「日中、新たなページへ」と題する特集である。刑法学者であり早大総長や国立の追悼・平和祈念施設検討会委員でもあった西原春男氏は対談の中で次のように述べて居られる。「・・・・21世紀は周辺の国や世界との関係を考えなければなりません。国の唯一の追悼施設が、軍人、軍属を中心に祀る靖国神社でいいのかということです。ただ「靖国で会おう」と言って散っていった兵士がいて、遺族がそれを知っている。そこまでは否定できません。・・・・」と述べて居られる。
私は対談での同氏の発言の殆どに賛成同感する者である。しかし、この私のホームページに嘗て書いた「靖国神社と云う存在」(クリック)で述べたように、「戦死したら靖国神社で会おう」と云ったり、メモや手紙に書き残した将兵は34万人強(1949、昭和二十四年、第005回国会、政府答弁、旧陸軍復員者推定総数、戦死や未復員を含む)と云う膨大な数の中の特殊な状況下にあった将兵の極々一部であったとしか私には思えない。
私は対談での同氏の発言に賛同共感するものであるが、「靖国で会おう」と言って散っていった兵士が居て・・・云々」の発言を読むと、また繰り返しで、「しつこい」ようだが、戦地の経験者の一人として気に掛かって仕様がない気持ちになる。(尤も記事は二人の司会兼編集者に依るものであるから同氏の発言その侭か否かは分からないが・・・)。
頑迷固陋の老人の愚痴かも知れないが、気に掛かるのは「大日本帝国万歳と叫んで散っていった」とか「靖国で会おう」と言って散っていった・・・・などの表現が現在のこの種の記事には常套句のように使われて居るからである。
戦場での兵の大部分の心理状態はそんなものではなかった。胸の奥底には「何か間違っている」と漠然と感じては居ても、それを皆の面前で口にすることは無く、そうかと云って反戦論者でもなく、「世間の、どうしょうもない大きな流れにただ押し流されて上官の命令に従っていた」人達が大部分であったと私は思っている。
靖国神社に関して云うならば、私個人の戦地での経験では「やすくに」の「や」の字も耳にしたことはなかった。ことの善悪や正否を云って居るのではない。事実を述べて居るだけである。
私がこの特集対談記事で関心を惹いたのは、王敏女史(法政大国際日本学研究所教授)の「靖国問題、交流深化示す」、西原氏の「「新たに平和祈念施設を」、また、王敏女史の「理念の中国、感性の日本」、西原氏の「法と道徳二元主義必要」と云う見出しの意見内容である。
とりわけ後者の問題に対する両者の見方である。王敏女史の「感性の日本」と云う意見には「なる程!」と思う点が多々あった。面白いのは日本ドラマの「おしん」と韓国ドラマ「チャングムの誓い」に関する処である。特に「チャングムの誓い」では「逆境にめげず頑張る姿」に日本人は共鳴する。一方、中国人は「新旧の倫理観や儒教社会の不合理な面を克服しようと葛藤する」ドラマとして見ている・・・と云うくだりである。
両国のテレビで高視聴率を得ているドラマではあるが見方が違うと云うのである。私も好きで毎回放映時には見ている。私は日本人であるが、王敏女史の云う見方、すなわち「儒教社会の不合理な面を克服しようと葛藤する」点を何時も強く感じる。今放映されている大河ドラマ「功名が辻」でも新旧の倫理観の問題を強く意識する。
勿論、私も逆境にめげず頑張るチャングムの姿に感銘するが、同時に封建社会に於ける諸種の矛盾を心の何処かで意識せざるを得ない。だからといって作品を批判している訳ではない。結構楽しんで視ている。
儒教社会の不合理な面・・・云々と云うが、二十世紀初頭以後に教育を受けた人々の見方であって、儒教批判を打ち出した1919年の五四運動以前の中国の大衆の多くの人々だったら、あまり意識しなかったのでは無かろうか?
戦地で敗戦を迎え、中国空軍第4方面軍司令部(国民党軍)で通訳官を務めている(クリック)時、中国軍の将校との雑談で良く儒教批判を聞かされた。中国の近代史を知らない私にとっては驚きであった事を想い出す。
日本人は理屈抜きに「義経」びいき、「水戸黄門」が好きだ。確かに感性で見ている。しかし、中国でも「清朝時代のドラマ」や勧善懲悪の大岡政談のような「包公(包拯)」の公明正大な裁判物語の映画ドラマは庶民には大きな人気がある。私が思うに理念や感性と云うのも、教育や社会環境に依存し、突き詰めれば、結局は同じ人間同士では無かろうか?
話が靖国とは離れた感じだが、相互にもっと歴史や思想を知り合うことが最も大切だと思うのだか・・・。そして、誰でも祖先の犯した誤りを云々するのは心苦しく口を噤みたくなるのは人情だが、批判する相手国側に、「若し自分が相手側だったら・・・」と仮定して考えることも極めて大切だ。その度量を持ち苦しくてもそれを克服出来なかったら靖国問題は解決できない。
相手の考えを尊敬しなかったら、相手からも尊敬されない。「世界から尊敬される国造り」を云うのなら、此方からも相手を尊敬しなければ実現出来ないことは自明の理であると思うのだか・・・。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
政治家は英語がお好き?
「公約」や「政権公約」と云えば良いのに、何故政治家は与野党を問わず、「マニフェスト」 などとわざわざ英語を使うのだろう。数年前には「(公的)事業計画案」と云えば済むのに猫も杓子も「スキーム」 と云う英語が国会論争で大流行した。今は流行らないのか滅多に聞かない。行きつけの床屋の親爺は当時「スキーム、スキームと云うが、何の事やらサッパリ分からん」と呟いていた。
2006/10/10
真道 重明
日本の政治家は与野党を問わず、「マニフェスト、イノヴェーション、スキーム」(これらはホンの一例である)などと外来語、とりわけ英語を「対応する適当な日本語があるにも拘わらず、わざわざ英語を口にするのだろう?9月29日の午後、安倍晋三氏の首相就任後初めての所信表明演説をテレビで聴いた。冒頭の数分間の間に「イノベーション」と云う言葉が頻発されていた。
この演説には、「オープンな経済社会の構築」、「オープンな姿勢により・・・」、「音楽などのコンテンツ」、「道州制ビジョン」、「ゲートウエイ構想」、「グランドデザイン」、「再チャレンジ」 、「新健康フロンティア戦略」、「レセプト[独語、診療報酬明細書ないし処方箋]の電子化」 ・・・・ など施政方針演説に使われたカタカナ語が非常に多かった。(朝日新聞、2006年9月29日、夕刊、2版 P..2、演説全文)。日本語の語彙が不足している新来の外国人の演説ではない。生粋の日本人の日本国の首相の言葉だ。行きつけの床屋の親父は、「国会中継を見ていても、難しい英語が多くて何を言っているのやら、サッパリ分からん」と、毎度のことだが、呟いていることだろう。
翌日、米国留学と国際機関勤務の経験を持つ畏友の Y.I. 氏から来たメールに新閣僚の某氏の言葉に、・・・ 「イノヴェーション対策」とあったが、気になった。どうして「技術革新問題」と日本語でいえないのかしら? ・・・、と書いてあった。多くの人が私と同様に政治家の英語(外国語)の多用に違和感を持って居るようだ。
私は11年ばかり技術協力を目的とする海外の国際機関に勤務して居たので、Innovation と云う言葉は会議で頻繁に使用された。英語を公用語とする機関だから、当たり前の話だ。しかし、これは日本の国会での話である。
テレビで特別番組として放映されて居るのだから、多くの庶民が視聴して居ることは当人も知っている筈だ。私は何も安倍総理を貶しているのではない。その後日に行われた各党の反対質疑演説でもこの現象は同じだ。安倍総理の演説は多少カタカナ語が多過ぎたようだが・・・・。このような状況は「何かが変だ」と思うのは私や上記の友人だけだろうか?今日も民社党の代表質問者が「モチベーション」を頻発していた。
いわゆる専門用語や業界用語、また学術用語と云ったものがある。例えばITやパソコンの用語では「プロトコル」、「オフィシャルサイト」、「ポータル」、「ホーマット」や「ホーマッタ」、「ブログ」、「Gメール」 ・・・・ その他、カタカナ語が無数にありドンドン増えている。技術の進歩が日進月歩で訳語が追い付かず・・・・と云うより、カタカナ表記すらも面倒で英語の原語をその侭ローマ字で表記して、OS (オー・エスとかオペレーション・システム)と読ませている。WWW、FTP、USB、Web2.0 などそのホンの一例である。それぞれ、「ダブリュー・ダブリュー・ダブリュー」、「エフ・ティ・ビー」、「ユー・エス・ビー」、「ウェブ2.0」と読ませている。
パソコンに関しては初心者に毛が生えた程度の私だが、IT 用語については言いたいことが山ほどある。「今さら恥ずかしくて他人に聞けないパソコン用語の知識」と云った式の表題を付けた冊子が氾濫している。取説(取扱説明書)や「ヘルプ」を見ても書いてある用語の意味が分からないことは良くある。この話は本題から逸れるので此処では触れない。しかし、以下に述べる日本人の言葉に対する慣習に無関係ではない。
此処で問題にしているのは上述のIT 用語などの専門用語の話ではない。政治家の発言内容に無暗と外来語が多用されて居る問題である。以下は言語問題には素人の私の愚論である。庶民の支持を期待するのなら、庶民に理解される言葉で喋るべきだろう。何故「理解しにくい外国語を使うのだろうか?庶民を煙に巻くハッタリではないかとさえ疑いたくなる。近所の焼鳥屋の親爺さんも「モチべーション?何それ?、俺にはサッパリ分からん」と云う。
「議員の偉い先生方が使っている言葉だ、意味は分からないが、とにかく有り難い有益なことなのだろう」と庶民が思って居るとしたら、一般庶民大衆の側にも問題があるのでは無いか?歴史的に日本人はお上に従順であり過ぎるようだ。柿本人麻呂が嘆くように「葦原の、瑞穂の国は、神ながら、言挙げせぬ国 ・・・」なのだ。
元来、文字を持たなかった日本人は、朝廷の用いる公の言語は古墳時代、奈良時代、平安時代までは古典中国語の文語(漢文)であったと言われている。・・・ 平安中期になると、平仮名、片仮名が発明され、これを機に日本語の表記方法は大きく進歩することになる ・・・ (出典:Wikipedia) と考えられている。
これは表記の話だが、万葉仮名などで書かれて喋っていた「大和言葉」に由来する「現在私達が使っている日本語の語彙のうち50パーセント以上が古典中国語からの借用語、およびそれを基に日本で作り出された和製の漢語であると云う。当時庶民がどのような言葉を、どの様な発音で喋っていたか?は私にとってはスゴク好奇心をかき立てる問題だが、その事は此処の主題から逸れる事柄なので、今は一先ず置き、踏み込まない。
当時の識字率は低かったに相違ない。漢字で書かれた古典中国語からの借用語や和製漢語を読み書き出来る人は人口から見れば、極く一握りの貴族か富裕階級だっただろう。庶民は彼等を尊敬し羨みながらも、権力階級である彼等の言うことに「意味は分からなくても、お上の云うことに盲従して居た」のだろう。
蛇足:お上に従順なのは日本だけではない。想い出したのはタイ国の「プ・ヤイ・リー」 (リー村長) と云う俗謡だ。「ポー・ソー (仏歴) 2504年のこと」と云う歌詞の文句で始まるこの歌は、西暦では 1961 だからもう半世紀近く前に流行したもの。今でも年配の人は皆知っている。
さて、時の政府が養豚奨励のお触れを出した。豚のことは普通は「ムウ」というが、権威ある公用文では古代印度語からの借用語である「スコン」を使う。
リー村長は集会を告げる太鼓を叩いて村民を集め、「皆スコンを飼え」と云う「お触れ」を伝えた。スコンの意味が理解できない村民が、「スコンとは何の事ですか?」と質問した。リー村長も実は知らない。そこでリー村長はツイ口から出任せに「普通の子犬のことだ」と答えて了ったと云う話。これは一連の物語の第1節。次々とチョット間抜けたリー村長の逸話が続く。
このように書けばなんの変哲もないが、原語のリズムとメロディはとても面白い。「マー・ノイ・マー・ノイ・タマダー」 (普通の子犬) の処で聞く人は爆笑する。私もこの歌を覚えて良く歌った。子犬が来ると「リー村長の豚が来た」などと冗談を言ったら大受けした。
間抜けたリー村長を揶揄しているともとれるが、私は同時に権力者が難しい言葉を使うことを風刺しているようにも思えた。
封建時代を経て近代社会になった現在でも、権力階級の使う漢語(外来借用語)で表現された言葉に憧れ、これを受容する風土は長い歴史を通じて庶民の間には強く受け継がれているように思う。明治時代になって多くの外来語(西洋の言葉)も平安時代の漢語や和製漢語と同様に上等舶来(この言葉は今では殆ど死語に近い)の言葉と庶民の眼には映ったようで、皆がハイカラさん振ってその真似をした。どうも日本人は無闇矢鱈と外国語を取り込み、平気で安易に本来の意味とはずれた和製語にして口にする癖が、政治家に限らず一般大衆にもある。日本語の、または日本人の特質かも知れない。
私が多少は噛った中国語では、外国語を取り込む際、嘗てはごく少数の例外を除いて殆どの言葉は漢字に訳してしまう。地名などの固有名詞、例えば オックスフォード (Oxford)を「牛津」、ケンブリッジ (Cambridge)を「剣橋」と訳したりする場合がある程だ。(もっとっも、後者は音から考えて、明治初期に日本で使われ、中国に逆輸出された可能性がある)。しかし、何れにせよ、最近の日本語とは正反対である。
次々と新語が出現し造られて来る IT 用語などでも、「IT」を「信息技術」、「CD」を「光盤」、「アクティブ・デスクトップ」を「活動卓面」、「アセンブラ」を「匯編程序」、「メール」を「電郵」、「Web サイト」を「網站」、「HD」を「硬盤」、「オフライン」を「離線」 ・・・・ などと表記している。門外漢でも、何となくその意味を思い浮かべる(イメージする)ことが出来そうだ。日本の場合はそうは行かない。門外漢や初心者が入門書を見て、いきなり「アクティブ・デスクトップ」などと云われても戸惑ってしまう。
このことは政治家が「マニフェスト」、「イノヴェーション」、「スキーム」、「モチベーション」 ・・・・ などと喋って、床屋や魚屋の親爺さんが戸惑う問題と似ている。人口に膾炙した日本語で充分表現可能で、庶民が理解し得るもの迄、どう云う訳でわざわざ英語で云うのだろう?
「レセプト」は「診療報酬明細書」で充分、「マニフェスト」は「公約、党の公約」、「イノヴェーション」は話の脈絡に応じて、「革新、刷新、新制度」と、「スキーム」は「公的事業計画」、「モチベーション」は「動機づけ、誘因、場合によっては単に「原因」などと云って差し支えがあるのだろうか?
どうも日本人は外来語を無節操と云うか、無定見と云うか、安易に取り込み、その意味を十分に理解し咀嚼して使用に当たっては慎重であるべきだ。マンション(大邸宅)、ワイシャツ(ドレス・シャーツ)、キーホルダー(キー・チェイン)など和製英語は枚挙に暇が無い。若人の流行語や業者の思惑語なら未だしも、ことは国会演説や政党の公式発言である。「日本語で言える言葉をどうして英語で云うのか?」と感じている人々が庶民には多く居るのでは無かろうか?
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
今年(2007)は「豚」の年?
今年は「亥(い)の年」である。猪(イノシシ)の年だ。外国の友人からの年賀カードには豚の絵を描いたものがある。ハテ?、豚と猪とでは大違いだ。そこで調べてみた。結果を先に云うと豚が一般的で猪は日本だけらしい。閑人の駄弁。
2007/01/20
真道 重明
今年は「亥の年」である。私の年賀葉書にもイノシシの絵が描いてある。亥は「イノシシ」だがイノシシを漢和辞典で引くと「猪」とある。一方、中国語では「猪」とは「豚・ブタ」のことで、イノシシは「野猪」と言う。だから中国では今年は「豚」の年であり、イノシシの年ではない。
そう言えば孫悟空が暴れる「西遊記」の中に出て来る猪八戒も、連環画の絵は明らかに豚でイノシシでは無い。ちなみに、中国語の「野」は野蛮などの語から分かるように wild の意味がある。
例えば、日本語の家鴨(アヒル)は中国語では「鴨」または「家鴨」であり、日本語の「鴨(カモ)」は「野鴨」である。英語で云えば、中国語の「野」は wild、「家」は domestic の意味がある。
英語では今年は「boar」の年で、boar は去勢されていない雄豚のことらしい。「pig」は去勢された家畜の豚で、「hog」とも言うことは知っていた。丁度、去勢された雄牛が「ox」、去勢されて居ない雄牛が「bull」であるように。英米語の「イノシシ」は「wild boar」というらしい。中国語の野猪に相当する。尤も、欧米語の「十二支」は中国の古典に由来するのだろうから、野猪と wild boar が一致するのかも知れないが・・・。
これから考えると、どうも今年は豚年で、イノシシの年というのは日本だけかも知れない。外国の友人からの年賀状には豚の絵が多かった。韓国やベトナムなどはどうなのかしら?
ひょっとすると、今年を「イノシシ」の年というのは日本だけかも?・・・。こんなことを Blog に書いたが、もう少し調べてみた。十二支は、中国の王充(おういつ)という人が、民衆に十二支を浸透させるため、抽象的な数詞を覚えやすく馴染み易い動物に替えて文献を書いたことから始まったのだそうだ。「子、丑、寅……」の方が先に存在し、動物の干支は後から便宜上当てはめられただけと云う。
十二支の発生は中国の「殷」(西暦紀元前1600〜1046年)の時代であると云うから極めて古い。王充の正式な十二支名は子(シ)、丑(チュウ)、寅(イン)、卯(ボウ)、辰(シン)、巳(シ)、午(ゴ)、未(ビ)、申(シン)、酉(ユウ)、戌(ジュツ)、亥(ガイ)であり、便宜上の動物の十二支名は 鼠(ね)、牛(うし)、虎(とら)、兎(う)、竜(たつ)、蛇(み)、馬(うま)、羊(ひつじ)、猿(さる)、鶏(とり)、犬(いぬ)、猪(い)であることは日本人は皆知っている。
また、甲(コウ)、乙(オツ)、丙(ヘイ)、丁(テイ)、戊(ボ)、己(キ)、庚(コウ)、辛(シン)、壬(ジン)、癸(キ)の十干(じっかん)とこの十二支を組み合わせた「十干十二支」(じっかん・じゅうにし)を、一般に干支(えと)と呼んでいることも多くの日本人は知っている。十干の10 × 十二支の12 = 60(年)で干支は循環するから、満60年で還暦となる。
動物に擬えた「ね・うし・とら・・・」の十二支は漢字圏の中国・韓国・北鮮・ベトナムなどには在ると思っていたが、私が11年勤務したタイ国にも在ることを知った。ベトナム・タイなどの十二支は面白いことに、割り当てられる動物に若干の異同がある。 ベトナムでは丑は水牛、卯は猫、未は山羊、亥は豚に変わる。モンゴルでは寅の代わりに豹を用いることがある。韓国では猪(い)は豚となっているらしい。
亥については、むしろ日本が特殊であり、亥は中国・韓国・ベトナム・ベラルーシなど、いずれも豚である。(以上は Wikipedia その他から引用)。但し、中国(台湾を含む)・韓国は「猪」の字を書くが豚の意味であることは上述の通り。冒頭で「豚が一般的で猪は日本だけらしい」と云ったが、まさにその通りであった。
豚の年と云うと、「豚」が何とはなく「意地汚い大食漢」のイメージが浮かぶ。英語でも pig や hog には同様の意味の俗語があるようだ。だが、中国やタイ国などでは豚は重要な家畜であり、耳・鼻・豚足・内蔵・膀胱・その他余すところ無く利用されている大切な家畜である。欧米ではペットとして可愛がる風習もある。「豚の年」でも結構ではないか・・・。猪突猛進より平和的だ。
蛇足的余談
1.ブログ を見て廻ると色々面白い書き込みがある。十二支は文字通り12種の動物であるが、13番目は何だろう?と云うこと。猫好きの人は「猫だ」、「そりゃパンダに決まっている」など喧々諤々。このパンダは多少面白い。
中国語でパンダは「熊猫」と呼ぶ。「猫」の文字が入っている。「猫だ」という人の中には単に「猫好き」もあろうが、パンダ派の中には「熊猫」の字から、せっかちの誤りで猫を挙げた可能性もある。紀元前の太古から在る十二支である。13番目が在る訳がないが、お遊び感覚のお咄。
2.猫が十二支に加えられなかった咄。『昔々神様が動物たちにお触れを出し、「元日の朝、新年の挨拶に出かけて来い。一番早く来た者から十二番目の者までは大将にしてやるぞ!」、しかし、鼠が猫を騙して刻限を告げた為、遅れた猫は十三番目となり選に漏れた。猫が鼠を追い回すのはこの時の恨みだ』。この民話?は日本・中国・モンゴル・ロシアにまで拡がっているそうだ。
神様がお釈迦様になっている咄もある。私は祖母から子供のと聞き居たのは「お釈迦様」だった。また、「鼠は牛の背に乗って出掛け、神様(仏様)の前まで行くと飛び降りて第一番目にランクされ、牛は第二番目になった」と云う咄もある。祖母からも聴いた。
3.十二支の中で「辰」=「竜(龍)」だけが想像上の動物である。九龍壁の名の通り中国の龍には9種類在る。一方、タイ国では一般には「グー・ヤイ」(大きな蛇の意)が干支の「辰」で、「グー・レク」(小さい蛇)が干支の「巳」であったように記憶している。タイ国にも龍の種類が多く、頭が九つある九頭龍など夫々に名前があったように思う。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
【寄稿】
回想 (その1)
林 繁一
2007年3月18日
書かなければ良かったと後悔することもない年齢となりました。折に触れて思い出を書き残しておくことにしました。まずは世の流れ、特にわが国の最高責任者である内閣総理大臣の思い出です。
敗戦後60年余り、いろいろな人がこの職につきました。そのほとんどすべては自由民主党、またはその前身である保守政党の党首です。その中で石橋湛山氏とか、三木武夫氏といった国民にも思いをいたした人も現れましたが、いずれも短期間でその職を退かざるを得なかったことはこの国にとって不幸でした。
自民党の党略で押し出された村山富市氏は財界だけでなく、その小道具であるいくつかのマスコミや、それに躍らされた人々から冷たく扱われました。しかし村山さんの発言は日本が公式に行った戦争責任に対する唯一の謝罪としてこの国が外交を進める上で、決定的な役割を果たしてきました。
米国大統領のピエロのようなあの小泉純一郎氏さえ、時として村山談話を尊重すると言明しました。この経過は本質に裏打ちされた発言こそが、この国を救ってきたという歴史を如実に示しています。
半世紀の間に日本はあのどん底から這い上がりました。その原動力は敗戦直後、当時の占領軍総司令部から押しつけられた日本国憲法です。敗戦時、指導的な立場にあった人が考えた憲法草案なるものは依然として封建的な思想に基づいていたと聞いています。
今、その原案なるものは憶えていませんが、あの人達には不戦はもちろん、主権在民といった発想はなかったはずで、一歩誤れば封建的な体制を温存することになり、国民の自由な発想とか、活動とかの保障は覚束なかったことでしょう。
敗戦間近い1944年夏に私は当時の海軍機関学校を受験しました。元来体力に自信がなかった私がなぜこの学校に入れたか、今思えば不思議です。後年ある高名な方が、講演の中で「昭和十年頃までに軍の学校に入った人は優秀だが、終戦間際に入った連中は単なる弾除けだ」と話しておられました。
敗戦後同じような意見をしばしば聞きました。私は元来理工科に関心を持っていたので、家の近くにあった高等工業、現在の東京工業大学に憧れていました。しかしあの無謀な戦争の末期には、多くの中学生が海軍飛行予科練習生‐予科練−や陸軍特別幹部候補生−特幹−を志願してゆきました。
知覧の特攻博物館の資料によるともっとも若くして逝った人は15歳とあります。高等教育を受けている学生に対する徴兵猶予制度も急速に短縮されました。連日の報道もわが国の敗色は隠せなかったので、純真な人ほど一刻も早く戦場へという気持ちになっていました。
私には軍の学校の中では海軍機関学校がもっとも本来の希望に近いように思われました。しかし四年生になってから肺門淋巴腺炎と診断され、動員されていた爆撃照準器を造っていた工場を一時休むほどでした。
そのような私がこの学校に採用されたのは、先に述べた方のいう事情を裏付けているようにも思われます。当時、海軍の指導層には「負けることは確実だ、戦後の復興に海軍生徒を当らせよう」という方針が立てられていたと阿川弘之氏が書いていると聞きました。真偽の程は別として、敵性言語として排斥されていた英語を含め、数学、物理などの講義がかなりあったことを思い起こします。
敗戦を迎えて一週間後、帰省する私たちは「短剣は持つな、勅語・勅諭集、それに毛布を持って帰れ」といわれました。やはり復興の指導者を目指せということだったのかもしれません。勅語集は歴史的な文書として戦後生まれの人々に見せびらかす程度にしか使っていませんが。ともあれ聞くところによると医者とか、技術者になった人の割合は旧海軍兵学校中退者の間では特に高いとのことです。
NHKのプロジェクトXなる番組にも旧軍関係の学校で敗戦直前を過ごした人がしばしば登場します。水産庁研究機関でも一時九つの研究所のうち旧76期生が2名、旧77期生が2名を占めました。当時の軍の指導層にも先見の明を持つ人がいたのだという感慨があります。
二十世紀も終わりに近づき、70歳に達した頃、旧海軍兵学校(機関学校は敗戦直前の昭和19年秋に兵学校に併合されました)舞鶴分校第11分隊会は「自分たちの歩んだ道」をまとめようということになりました。「躑躅ヶ岡最後の第11分隊」と銘打たれたこの文集は感銘の深いものですが、その一つとして海外で活躍されてきた中村さんは「...軍人の目的は戦いに勝つことであると教えられました。
しかしその先輩方は敗れました。これは私達の先輩が敗北したのであって私達ではありません」と書いておられます。私たちの世代にはあのどん底にあったこの国を半世紀後に世界第二の経済力を持つ社会に押し上げたという自負があります。
経済力よりも重要な成果として1970年頃には世界でもっとも安全な社会の一つを作り上げました。当時起きた石油危機にも真っ先に対応できました。また世界でも稀に見るほど分配が平等化しました(寺島実郎氏2007、世界、763、33頁)。
世界第一の長寿社会も実現しました。東京で会社を営む米国人トッテン氏は「安全で、安定した社会」と賞賛し、米国の真似をして経済第一主義に陥るなと警告しました。
封建時代の柵を残した敗戦国は他人の力を借りてではありましたが、民主的な社会に生まれ変ったのです。自由、平等、平和を謳った憲法の下で発展を遂げたのです。
しかし、日本の民主化は借り物の域を完全には脱していないようです。経済発展を自分たちの能力と錯覚したこの国の上層部は、能力があるものが酬われる社会と称して、自分たちの利益を露骨に求めるようになりました。
米国の指導層は朝鮮戦争以来日本の再軍備、在日米軍への協力を求め続けてきました。軍需産業は安定した利益を生むし、資源と市場とを確保するために軍事力が必要と考えた指導層は、憲法を改訂して軍隊を持とうと露骨に主張し始め、マスコミを使った大量宣伝によって物事を本質的に考える機会を奪われた人々に次第に浸透しました。
その結果、三分の二を自民党、三分の一を社会党・共産党という国会の構成は崩れました。多くの人は経済的に楽になると労働組合から離れました。村山富市社会党委員長が自民党に取りこまれ、消費税問題で国民の支持を失うと、社会党と労働総評議会(総評)とは消失しました。
ソ連の崩壊とあいまって、マスコミは55年体制からの脱却を賛美しました。中曽根内閣は行政改革、就中国鉄と全逓という二つの巨大労組を解体しました。テレビキャスタ-も国鉄からJRに変ってサ-ビスは格段に良くなったと持ち上げました。
それが後年、福知山線や羽越線の悲惨な事故に繋がる結果を招いたことも、地方の路線が廃止され、二酸化炭素排出量の増大に寄与していることも予測できなかったか、知っていても財界の太鼓持ちを演じていたか、いずれにせよ同じ結果になりました。
反対者をなくした支配層は利益を思うままに取り込むこととなりました。その一つは労働経費の削減です。寺島さんが引用された総務省の労働力調査、2006年版によると「年収が200万円未満で働いている人は、自営業者とその家族従業員で443万人、雇用者のうち正規の雇用者(正社員)で447万
人、非正規の雇用者で1,284万人、合計は2,174万人となる。労働力総数が6,384万人であるから、実に三分の一が「200万円未満の所得」ということになるのです。これは先進国のうちでも格差社会の代名詞になっている米国の貧困率12.7%を越えています。一部マスコミが高給取りと非難する公務員であるはずの首都大学東京でも、事務組職員の大部分は年収が200万円前後の低賃金に抑えられているそうです(宮原恒晃氏、2007、日本の科学者、42(3)43頁)。
こういった格差の拡大がかつてトッテンさんなどが賞賛したわが国の現状です。その結果が年間三万人を越える自殺者、先進国の中でも最低に近い特殊出生率、火の見櫓の半鐘からガード・レールまで盗まれる犯罪の増加と道徳観念の低下、なによりも本間正明教授や松岡農水大臣で代表される指導層の我侭勝手な行動に表れています。
こういった状態を「国が悪い、社会が悪い」と非難するのは誤りだし、不毛です。この国は民主主義体制を取っています。自由選挙制度があります。自分の判断で投票する人が増えれば変えられるのです。
財界は二大政党制を礼賛しますが、共和・民主といったいずれも財界を背景とする政党しか持たない米国では投票率が50%前後であるのに対して、保守政党と拮抗している社会主義を党是とする政党も持っている欧州、特に北欧では80%を越える人が投票していることに注目する必要があります。
それを使ったフランス人は短い労働時間と高い出生率とを手に入れました。幸い日本の政党分布は米国型のように見えながら、本質的にはヨ-ロッパ型なのです。投票する政党はその時々で変えれば良いのです。政党の選択はス-パ-での買い物と同じです。
その時々で好ましいと判断できる政党に一票を投じるのが当然という習慣をつけようではありませんか。
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る ホームに戻る
素朴な疑問(その1)
釈迦、キリスト、孔子などの聖人は何故
自分で「教え」を書かなかったのだろう?
2007/04/17
真道 重明
前々から思っていたのだが、釈迦(Gautama siddhaartha)の説いた教えを記述した仏典は釈迦自身が書いたものではない。多くのお経は「如是我聞」[ニョゼガモン、この様に私は(釈迦から)聞きました]と云う常套句で始まっている。日本人の読んでいる夥しい仏典はサンスクリット語かパーリ語の原典を玄奘三蔵らによって漢訳したものであるが、原典もそうなっていたのだろう。
・・・と云うことは、「仏陀本人が書いたもの」ではなく、弟子や後世の人が記録したものと云うことである。本人が書いたものは何も残っていないらしい。弟子などの本人以外の人が書けば、理解が食い違ったり間違っている場合も起こり得るであろう。
異論が起こることは当然予想されただろうから、そうならないために「何故、本人が自身の考えを自分の手で書かなかったのだろうか?」尤も本人が書き残しても、その字句の解釈を巡って論争は起こり得るだろうが、弟子の記憶や理解と云う間接的な場合よりも自身が書いたものであれば、遥かに異論や反論の混乱は避け得たのでは無かろうか?
文字がなかった訳ではない。仏教より古いバラモン教の教典などは文字として存在して居た筈だ。釈迦の死亡後、数回に亘り「結集(けつ‐じゅう)」と称して、異論を無くし教団を統一するため、代表者が集まって仏陀が遺した教えを集め、経典を編集したことはご承知の通りである。
孔子を始祖とする儒教でも同じである。儒教は宗教かどうか?勉強不足の私には道徳律 (moral code)の体系化されたものであり、いわゆる他の諸宗教とは異なるような気がするけれども・・・。また、儒教の成立と孔子の関係は定かではないとも云われて居るが・・・。
儒教の根幹を成す四書(「論語」「大学」「中庸」「孟子」)と五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)のうち、取り分け「論語」は有名である。
「論語」は弟子の編集による孔子の言行を記録したものである。孔子自身が書いたものではない。中学校の漢文で習った「子曰わく・・・」(子ノタマワク、孔子様が仰せられた・・・)の意味は弟子の云った言葉で、「師である孔子が(斯く斯く然々である)と発言した」と云うことである。
余談だが、面白いのは「ノタマワク」の読み方で、諸子百家のうち、孔子の場合だけ「曰わく」と書いて「ノタマワク」と読むと習った。他の学者の場合は「曰わく」は「イワク」である。日本では孔子は始祖として崇められ、日本語特有の尊敬語が使われた。
余談はさて置き、四書五経その他の儒教にとって聖典とも云えるものは多くの学者が合議によって編纂が時代を経る毎に多数回行なわれている。焚書坑儒と云った時の権力によって失われたものもある。
儒教の場合、「始祖の原典に戻れ」と云った議論は成り立たない事情と経緯がある」と素人の私は思っている。しかし、論語だけに限って云うとしても「孔子は何故自筆(隷書体で紙ではなく木簡だったか、もっと古い字体だったかなどの問題は別として)の文書を書かなかったのだろうか?と云う素朴な疑問はやはり私の頭の中には残る。
キリスト教の場合もキリスト(ラテン語の Jesus Christus、実在の人物と考えられている)自身は何も書き残しては居ない。新約聖書のなかの福音書(Gospels、キリストの使徒であるマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネがキリストの生涯や言行を記憶を辿って記録したもの)などが現在まで受け継がれてきた。
新約聖書には手紙類(書簡類)や「ヨハネの黙示録」など予言類が含まれているが、総て初代教会の指導者たちによって書かれたものでキリスト自身によって書かれたものではない。
キリスト教の聖書の旧約聖書は古ヘブライ語で書かれていたというから、キリストは古ヘブライ語で書くことは容易であったろう。言行の記録は大筋では一致していても、解釈の違いや重点の置き所が異なるため、ローマ・カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教などの分派が出来た。
「真実を告げましょう。良く良く聞きなさい。このことが一番大事な点です」などと本人が書いたと仮定すると、重点の置き所も大きく食い違うことは無かったようにも思うのだが・・・。
イスラーム教は、信者数では世界の第一位にあるキリスト教に次いで第二位にある大宗教であるが、私は宗教自身に殆ど知識がないので敢えて触れなかった。
尤も、多くのムスリムの研修生を教えたし、戒律や食物の制限による給食調理の問題に関わった経験などはある。丁度自宅の裏にモスクがあり日に何度化の礼拝を告げるアザーンは良く耳にした。また数名のムスリムの同僚も居た。しかし、聖典のコーランに就いては殆ど何も知らない。
処で、Wikipedia に依ると以下の記事がある。開祖のムハンマド自身は文盲であったため、彼を通じて伝えられた啓示はムハンマドと信徒たちの暗記によって記憶され、口伝えで伝承された・・・。若しそうなら、自分で書く筈は無いから、此処では問題にはならない。
私は仏典については、般若心経の解説書や歎異抄を読んだり、タイ国で憶えたパーリ語のお経の文句を数行今でも憶えているが、仏教に関する書物は多少読んでも、仏門に帰依し、得度することも、勿論無かった。しかし、小中学生の頃、提出する履歴書の宗教の欄には「仏教」と書いた。祖母に連れられてお寺には数回行った記憶はある。
キリスト教に就いては、枕元から手が届く所に新約聖書がある。マルコによる福音書は時々読むが、勿論洗礼を受けたことは無い。子供は近くだという理由でカトリック系の幼稚園に通い、クリスマスのミサには何度か出たことがある。
英会話を勉強するため聖書の輪読会(プロテスタント)には半年以上参加した。ただ、好奇心から多少の興味を持っている程度で、熱心な信者には程遠い。佛教もそうだが、信仰と云うものを持たぬ不心得者である。
宗教のなんたるかを知らずに云々するのは烏滸がましい限りではあるが、自然科学の生物学を習った人間として、この素朴な疑問を持って居る。科学の世界からの発想で宗教上の問題を云々すること自体が間違っているのだろうか?
「著作権」、記事の「文責」、「引用」、「孫引き」、「盗作」などの概念がハッキリしていない二千年以上前の世界では、書籍に当たるものは今日に比べてごく少なく、口伝や個人の模写(書き写し)が主であったろう。
しかし、それとこれとは話が違う。「開祖と云われる人々は、何故、自分で書かなかったのだろう?」という疑問は私には残る。
諸賢の教えを受けたい。
2007/04/19
.
追補とコメント
その後にこの問題に就いて私が自分で知り得たことや閲覧者諸氏からのご意見を以下に列挙した。
(A): 孔子は「春秋」(魯の国の歴史を記述したもの)を自分自身が書いたと云う説を Web 上で見付けた。曰わく:−
「春秋」と云う書の成立には孔子が関わったとされる。ただし、歴史的にその解釈は一様ではないらしい。最初に孔子の「春秋」の制作を唱えたのは孟子だそうである。孟子は堯から現在に至るまでの治乱の歴史を述べ、周王朝の衰微による乱世を治めるために孔子が「春秋」を作り、その文は歴史書であるが、そこに孔子の理想である義を示したという。
ただし、この孟子の云う「春秋を作り・・・」にもいろいろな解釈があり、「春秋を自ら書いたのではなく、講義したのだ」とする考え方もあるらしい。前漢の司馬遷「史記」にも似たような記述があり、孔子が元々あった「魯の史記」(昔からあった「春秋」)を加筆訂正して「春秋」を作ったという解釈である。
論語は別として、或る種の経書は孔子自身が書いた可能性があると云う見方は捨てきれないようだ。 (春秋 Wikipedia、真道 07/04/19)。
(B): 昨夜、新約を読んでいてフト思い付いたのだが、洗礼者ヨハネの後継者として宣教活動を開始したイエスは、彼を妬んだユダヤ教の司祭達によって「自らをユダヤ人の王であると名乗り、また『神の子』あるいは『メシア』であると自称した罪」(冤罪)で、ユダヤの裁判にかけられた後、ローマ政府に引き渡され磔刑に処せられたことは皆知っている。
現代的解釈かも知れないが、イエスは時の権力から狙われ、逮捕され「捕縛されて裁判に掛けられる」と云う極めて危険な状況の中に在った訳である。教えを口頭で述べた場合に比べ、自筆の文書を書くと云うことは「裁判の動かぬ証拠」となり得ることを考慮したからではないか?
若しそうだとすると、エルサレムの衆議会に敵視され、パリサイ派や大祭司カヤパや他の多くの祭司から執拗な妨害を受けるようになって居るなかで、冤罪だとしても証拠物件となる執筆など出来る筈はない。
イエスの周囲に居た信頼できるユダ、ペテロ、ヨハネらの弟子たちに書いたものの保管を依頼することは出来たかも知れないが、ユダの裏切りと云う話もある。尤も最近話題になっている「ユダの福音書」では裏切りではないとも言われているが・・・。
「何故書かなかったか?」の理由の一つになるかも知れないと私は思った。論ずるに足りない下司の勘ぐりかも知れないが・・・。 (ユダの福音書 Wikipedia、真道 07/04/20)
(C):畏友の I.Y. 氏から下記のメッセージを頂いた。
仰せの件、私も常々気にしていたことです。ただ私の理解の範囲では、現存する仏教経典の最古のものでも釈尊入滅後7-8世紀を経てからできているのに対し、キリスト教ではイエスの直弟子が新約聖書のうちの福音書の著作に関与していて、現在の正典(ギリシャ語)の完成にはせいぜい百数十年しかかかっていないということです。
それだけ仏教は幅が広く、どの経典を取るかによって教義が大きく異なり、キリスト教におけるカトリックとプロテスタントどころの差ではないのだと考えられます。
イエスは旧約聖書をよく読み理解していたことは福音書にも現れていますし、当然書くこともできたはずだと思います。何かわけがあるのでしょうか。−以上− (2007/04/20)I.Y. 氏の云うように釈迦入滅と仏典成立の時期とキリスト処刑後と正典(ギリシャ語)の完成の時期を比べると後者の方が遥かに短いから、それだけ分派の発生の程度は少なかった可能性は高いだろう。二千年に亘る神学者の研鑽もあってか、素人の私等にとってキリスト教の聖典は確かに内容は「絞られて居る」ように思う。一方、仏典は「良く言えば多彩、言い方を変えれば複雑」で難解であるように思う。
凡庸な理解かも知れないが、キリスト教は何派であろうと直裁に「理屈はどうあれ、ただ信じること」に尽きるように思う。佛教では理論が多く、より哲学的な感じがする。それだけ佛教では多くの異なる解釈に立つ分派が多いのでは無かろうか。分派が出来るのは自然の成り行きでありその是非を云々して居るのではない。
始祖はどう考えていたのか?その問題に触れていたのか?など私達素人は矢張りツイ考えてしまう。大乗仏教と小乗仏教とでは随分考え方に違いがあります。戒律の厳しい小乗では仏といえば釈迦牟尼仏だけを指し自利的、大乗では多くの仏を指し他利的で、非常に異なるようです。私が10年余居たタイ国は小乗仏教国ですが、「釈迦牟尼」はどう考えていたのだろう?という疑問にぶつかったのがこのことの始まりでした。 ( I.Y. 07/04/20)。
(D):三浦福助 (Handle name) さんからのコメント [真道一部編集]。
ブログ拝見しました。「素朴な疑問」面白く拝読しました。興味があることなので、若輩にも拘わらず、あえて駄文を連ねてみました。ご意見、ご叱正をお待ちしております。
“何故自ら書こうとしなかったのだろう?”、大変面白いことだと思います。私ごときが判ることではないのでしょうが、議論のきっかけともなればと思い考えてみました。
「書こうとしなかった」ということは、大別して、(1)物理的に書くことが出来なかった。(2)書く必要を認めなかった。(3)書き表すことが不可能であった。・・・のいずれかであったのではないかと思います。これ以外にもあるかも知れませんが、この3点について比較的資料のある孔子様を中心に考えてみました。
(1)、物理的に書くことが出来なかった。
孔子は紀元前479年に亡くなられていますが、これは紙が実用化される400年程前です。ですから、当然紙はないのですが、竹簡、木簡がありました。孔子も竹簡に書かれた古代聖王の書を繰り返し読み、綴じ紐を何度も擦切ってしまったという話があります。また布もありましたからそれも利用できたはずです。筆記用具はどうでしょうか。筆、墨とも起源では殷の時代からあったとされていますが、それらしく使われるようになったのは、いずれも漢の時代であり、孔子の時代より数百年後になります。「刀筆の吏」という言葉があります。竹簡に筆で字を書いて、書き損じを消すために小刀を持っている下級の官吏をこのようによびました。あまり尊称ではないようです。案ずるに、その当時は用具も不完全なもので、書くというよりも彫るという形だったのかもしれません。そして、士大夫のなすべき業ではなかったとも思います。ですから、不完全ながら文房具はあったとしても、孔子様がそれを簡単に使うという状況には無かったものと思います。
釈迦でも状況は似たものでしょう。時代は孔子様とほぼ同じ、文房具についてほとんど無しといった状況だと思います。ご存知のとおり、紙の代わりに木の葉を使ったとの話もありますが、実用性が疑われるところです。
キリストについては、死海文書に見られるように羊皮皮や粘土板がありますが、時代が下るようです。
結局のところ、文房具が不備であったこと、慣習的な制約があったことで、君子が自分で著作をすることは無かったということではないでしょうか?。
(2)、書く必要を認めなかった。
孔子は志すところ理想国家を建設することであり、一国を任されてその夢を実現すべく生涯を過ごしました。多くの弟子を従え、教化し精力的に遊歴しました。現在なら、自分の思想を著述し広く一般に読んで貰うという手段がありますが、当時は一般国民は無学文盲、著述する意味が無かったものと思います。そのような時代では、指導、実践こそが必要だったのでしょう。この状況は、釈迦、キリストでも同じで、特にキリストは優秀なアジテータだったのではないでしょうか。関連してマルクスを思い出しますが、割愛します。
(3)、書き表すことが不可能であった。
何を今更とお思いでしょうが、言語というものはすべての事象を表現できるものではありません。特に思想、感情などについては正しく伝達できないのです。すでに禅の世界で「不立文字」と喝破されているように悟りの境地は体験、啓示でしか得られないし、到達できないのだそうです。あの親切で理屈の多い道元禅師でさえ、結局のところ「只管打座」と教えています。孔子様を初め聖賢の到達された境地は、到底我々には窺い知れませんが、聖賢をもってしても文字に表せない深々微妙なものかもしれません。到底、表現できないような神秘体験があり、啓示を受け行動を起こしたのであれば、書き表すことなど念頭に無かったのではないでしょうか。マホメットを含めほとんどの宗教はこのような啓示に端を発しているのですから、後は民衆にどのように受け入れられるのかだったのでしょう。
以上、取り敢えずまとめてみましたが、如何でしょうか。「何だ! あれもこれもと言ってるだけでどれなんだ」とお思いでしょう。確かに学者かテレビのコメンテーターみたいに色々なことを言ってどれかが当たるだろう、では困ります。私としては、(2)の書く必要を認めなかったが主因だと思いますが、ご意見を賜れば幸いです。 (福助 07/06/30)。
ご感想やご意見はこちらへ
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
【寄稿】
本質を考えましょう
林 繁一
2007年7月23日
去る7月15日の「天声人語」で作家・丸谷才一さんが、「岩波文庫を置いてある書店と、置いてない書店とに分けている」と紹介していました。事実「本」と大きな看板を出している本屋さんには漫画本とか、週刊新潮といった本しか並んでいません。そしてこの手の本屋さんが増えて、日本社会のパルプ消費量は増えましたが、選挙の棄権率は高まり、暮しの格差は拡大し、若い人の希望は萎えました。
「岩波文庫」はさて置き、読書は人間の徳育、知育を向上させると考えてきた、そして廃墟から世界第二位の経済大国を築いてきた昭和一桁世代にとっては、次の世代に引継ぐ前に伝えておきたい問題です。佐久間久俊さんが指摘された通り、「文字文化」は「科学的認識」なのですから(「日本の科学者」42(8)2頁)。
多くのマスコミは米国の「二大政党制」を持ち上げてきましたが、その根拠は薄弱です。そこには本格的な考察がありません。彼らが理想としている「共和・民主の二大政党制の米国社会」は巨大資本に支配され、世界の3/4の軍事費を使って「米国の安全」を守っているといいながら、現実には米国民をテロの危険に陥れています。
国内では「窒息するオフィス」で代表される格差を生み、低所得層の健康を維持できないでいます。多寡が一つの嵐から州民の生命、財産を守れなかったのです。イラク侵攻が誤りであると気づけば撤退できるスペイン、イタリヤには、立場をまったく異にする複数の政党が存在し、選挙民の意思によって国の方針を変換できるのです。多くの“自称・自由主義者”が指摘してきた旧ソ連を含む所謂社会主義国とどちらが近いか、余りにも明白です。
そうはいっても、私は最初の海外生活を過ごした米国が好きです。今でもイラク侵略反対の大規模なデモも行われます。同盟国である日本でもその非人道的な行為に対して、議会は非難決議を採択します。それは日本の友人だからなのでしょう。イラク戦争の誤りに気づけば、共和党から民主党に転換します。その民主党の限界にも反応します。我が国のマスコミは無視していますが、7月21日付「赤旗(電子版)」はUSA TODAYが7月12日付電子版でギャラップとの共同世論調査の結果、有権者の58%が米国に第三の政党が必要と答えた、この数字は四年前の18%増と伝えています。
現在、日本の言論界が自己規制の時代に戻ったように見えます。本格的な意見を載せた書籍や雑誌が手に入り難くなりました。大きな書店街とか、図書館とかを訪ねて幅広く意見を仕入れて、真剣に考えてはいるが、厳しい勤務条件の下で忙しい日を過ごしている方々のために、気になる情報を書き残しています。
七月二十日付朝日朝刊13版一面は、有権者に対して行った電話による情勢調査に基づいて、自民-不振、民主-好調、共・社-伸び悩みと報じました。しかしこれでは、米国と同じで、変革になりません。自民と民主との有志議員は共同してワシントン・ポストに「慰安婦問題を取り上げるな」といった趣旨の広告を出して、我が国の立場を損ないました。私たち選挙民にはこの事実を率直に認める義務があります。
戦中や戦後ではなく、それに先立つ戦前を考え直そうという声をしばしば聞くようになりました。今回の参議院選挙だけでなく、それに続く国政、地方の選挙に向けて国民の利益を考え直す機会を増やしたいと念じています。それがこの国の安全と繁栄とを守る唯一の手段だからです。第三の政治勢力を求める米国の流れが日本に達するか、既に日本に存在する政党をこの国の有権者が使えるか、この国の運命が掛かっている問題です。
(完)
閑人妄語(その2)の目次に戻る 閑人妄語(その1)の目次に戻る
私の知名度が Best Ten とは?
日本の水産界の中で、私の知名度がベスト・テンに入っているなど、私がそれ程「知名人」とはとても信じられない。何故私の名前が紛れ込んだのか?
2010/01/23
真道 重明
数年前に分野別の各界の人物の知名度を Ranking したサイトを見付けた。覗いてみて驚いた。何と私が錚々たる人達に混じって10位以内に入って居るではないか・・・。「そんな馬鹿な、恐らく programming に問題があるのかも?・・・」と思って、その侭見過ごした。
今回フトした拍子で2年振りに同様なサイトに巡り会った。顔触れは若干変わっていたが、やはり私の名前が THE BEST TEN の中に入っているではないか。そこで好奇心の赴く侭に調べてみた結果を述べたい。サイト管理者の謝辞に云う処では、奈良先端大学松本研究室が開発したものらしく:−
このサイト管理者による計算方法は:
@ Web (この場合は Yahoo! )の API を使って、検索エンジンのヒット数、各ページのタイトルとサマリーを取ってくる。
A ヒット数を有名(知名)度とする。
B CaboCha (奈良先端大松本研究室で開発された日本語係り受け解析システム)を使って、形態素解析と固有表現抽出をして、タイトルとサマリーに含まれる人物、組織、場所、名詞を抽出する。
B 各単語ごとに TF-IDF を計算して、上位50件をキーワードとして表示する。
以上
上述の説明を読んでも Programming に就いては1980年代初期に BASIC (Beginner's All purpose Symbolic Instruction Code)で Programm を書かなければミニコンが使えない頃に使っていた経験はあるが、現在の進歩した技術から見ればズブの素人に近い門外漢とも言うべき私には知識不足のために良く理解することができない。素人が云々するのは烏滸がましいが「ヒット数を有名(知名)度とする」と定義する処に「問題の鍵」を感じる。
なお、原表には氏名の次に得られた結果のポイント数が掲げられている。職名は私が記載したものである。(ポイント数は省略したが、順位の1と2は400,3と4は300,5は250,6〜11は200,12〜20は150である)。下に得られた結果を掲げた。
水産界の人物(個人)の知名度の算定結果
1 佐野宏哉 前大日本水産会会長
2 垣添直也 前大日本水産会会長
3 平井明夫 マリノリサーチ株式会社社長
4 中須勇雄 大日本水産会会長
5 ニッスイ 日本水産株式会社
6 鈴木たね子 日本水産学会名誉会員
7 片山房吉 漁業法、大日本水産史の著者
8 真道重明 (小生)水産資源研究、技術国際交流
9 高鳥直樹 大日本水産会品質管理部調査役
10 岸野洋久 東京大学大学院農学生命科学研究科(分子系統学)
11 勧角 第一勧業朝日投信投資顧問(株)
12 鈴木平光 水産食品栄養学(医博)
13 奈須敬二 海洋学者、鯨研究者。
14 東山孚 日本水産、中国室長兼山東山孚日水有限公司総経理
15 田中輝 日本水産株式会社水産営業部 水産第二課課長
16 倉持利明 国立科学博物館動物研究部無脊椎動物研究Group主幹
17 川合真一郎 神戸女学院大学人間科学部人間科学科教授
18 松原新之助 東京海洋大学の前身校の初代所長(1903-1911)
19 小坂智規 大日本水産会、全国漁業就業者確保育成センター長
20 熊井英水 近畿大学水産研究所元所長(原表には50位まで掲げてあるが21位以下は割愛した)
この結果を見て感じることは、私を除く各氏は何れも日本の水産界では知名度の高い錚々たる人達のようである。世情に疎い凡庸な私でも、約半数の人々のお名前は存じ上げており、その中の5名の方々はお会いして言葉を交わして居る。1名は嘗ての同じ研究所の同僚であり、特に18位の「松原新之助」氏は明治時代に日本の水産業の近代化と発展に大きな功績を残し、母校には胸像が建って居り、80歳台を半ば超えた私が生まれた11年も前に没した人で水産史を習った人ならその名前を皆が知っている。
しかし、故人となられた大先輩は他にも沢山居られるし、何故「松原新之助」氏一人だけが20位に入っているのだろうか?。知名度の高い人々はそう言えば他にも多数居られる。その他の人々は昭和期以降の方達であるが、「知名(有名)度」ということでは他にも沢山居られる。世間に名がよく知られている人は沢山居られる。「ヒット数を有名(知名)度とする」と定義したための現象かも知れない。
ITの世界(情報通信技術、「コンピュータとネットワーク、特にインターネットに関連する技術)での取り扱いであるから、上述のように「ヒット数」を問題とするのであれば、寧ろ「関心度」と云うべきかも知れない。Hits 数・page View 数(ウェブサイトの閲覧数の単位の一つ)・Visits 数(ウェブサイトへの訪問者数の単位の一つ)の時系列変化のグラフを見たことがあるが、3者には高い相関が在る。若しそうなら個人のホームページを開設している私などにとっては視てくれる人が多いと云うことに繋がるので、アバウトに云うと Hits 数が多いことは嬉しいことである。
尤も此れらの述語の夫々の意味も、基礎知識が無い私にとってはチンプンカンプンであり、従って大きな勘違いをしているのかも知れないが・・・。個人のホームページを開いて居る私にとってヒット数が多いことは有り難いことであろう。少なくもデメリットは無いようだ。
そうだとしても、私より Hits 数が多い人は沢山居られると思われる。何だか「狐に摘まれた」ような気がしてならない。