幽霊の好きなタイの人

 

真道 重明

2004/01/15.

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タイ国の人は幽霊の話が大好きである。ホラー映画も沢山あるし、テレビでも良く放映される。タイ語では「ピー」と言う。トーン(声調)はタイ語の第五声(北京語の第三声に近い)である。もし第三声(北京語の第四声に近い)で発音すると兄弟の目上(兄、姉)の意味となり、ピー・サーウと言えば「お姉さん」の意となる。ただし、南タイではこの場合の「ピー」は第三声で発音されるので、ソンクラー市など南部タイの人が方言声調で「お姉さん」と言うと、バンコクの標準音では「幽霊女」の意味になる。バンコクの人はクスクス笑う。ちなみに「サーウ」は Lady の意味である。冒頭から話が脇道に逸れた。本題に戻す。

幽霊、お化け、妖怪、もののけ、怪物、等々いろいろあるが、私は浅学にしてその違いは良く分からない。「幽霊とお化けの違いに関する研究論文?」もあるようだ。中国には「聊斉志異」、「剪灯新話」、「子不語」など多くの妖怪談があり、孫悟空の活躍する「西遊記」にも沢山の「化け物」が出てくる。どちらかと言うと中国の話には動物(まれには植物)の化けた妖怪が多いようだ。

タイ国の場合は日本の「恨めしやー」の類いの人の幽霊が主流で、死者が恨みや怨念を持って「たたり」に来る話が多く、西洋のホラー話のように強力に襲いかかっては来ないが、しわじわと恐怖感が盛り上がって来るストーリ−が多いようだ。話も良く出来て居て大変怖い。西遊記に出てくる「牛魔王」や「羅刹女」のようにカラットした悪者では無く、何処か陰湿で「おどろ、おどろ」しく、気味が悪い。日本の幽霊の感じによく似ている。

常夏の国で何時も暑いから、ゾットして鳥肌が立つと寒気を感じ「涼しくなる効果」がある。タイの人が幽霊噺を好むのはそのせいかもしれない。しかし、それ丈では無い。迷信と言ってしまえばそれ迄だが、怨霊、悪霊、死霊、生き霊、物の怪と言ったものの存在を信じている人が多いように思う。今でもモウ・ピー(祈祷師)が居り、人を呪い殺す祈祷をすると言う。モウ・ピーは私の複数の知人から聞いた話で、この眼で見たことは無いが…。

タイの幽霊には足のあるもの、膝から下が透明でボンヤリして居るもの、首から下は骸骨だけか、頭は有るが喉から内蔵だけがぶら下がっているもの、多種多様である。最後の奴はかなり気味が悪い。なお、女性の幽霊は振り乱した長い黒髪を持つ点は共通している。多くは地上1メートルの高さの空中をゆっくり浮揚して移動する。観客(何故だか女性が多い)は恐怖で鳥肌を立て「ナーウ・チャ・ターイ」(おぅー寒い)などと言うところを見ると、やはり暑気払いの効果はあるようだ。

上で「その存在を信じている人が多いように思う」と言ったが、陰陽師(オンヨウシ、オンミョウジとも言う)が宮中でも重んじられた日本の平安時代程ではないにしても、科学万能の現代でも半信半疑ではあろうが、その気持ちは日本人より強く持って居る。日本でも「加持祈祷」が病気治療のために行われ、警察沙汰になるニューズが今でもあるのだから、タイの人を「迷信家」とあざ嗤うことは出来ない。

体験その1

私の体験例を述べよう。SEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)が開設された初期のこと。訓練生の一人が事故死した。寮生活での夕食後の自由時間に構内の小さな池に小舟を浮かべて遊んでいる中に水中に転落して死亡した。警察による検死の結果、死因は「心臓マヒ」であること、放課後の自由時間であること、などから管理者の監督上の責任を問われることは無かった。「ぽっくり病」的な事故として処理された。SEAFDECの部局の歴史上、訓練生に関する唯一の死亡事故である。

それは良いとして、事件以後は構内巡視の警備員の数名が夜の巡邏を嫌がって「警備員を辞職したい」と申し出てきた。その理由は「死者の霊が出るらしい。祟られては敵わない」と言うのである。誰が言い出したのか「事故死した訓練生の幽霊が出る」と言う風評が寮生や寮関係者の間に立ち始めていたらしい。

「そんな馬鹿な…、幽霊を信じるなんて」と私達は思うのだが、申し出てきたタイ人の警備員は真剣である。モン族の人が多かったように記憶している。「この世に幽霊など居ない」と言った説得はこの際全く役には立たない。理屈の問題では無いからだ。スッタモンダの揚げ句、池を埋め立て平地にして幽霊が出てくる場所を無くしてしまった。「もう大丈夫だ。幽霊が出て来たくても出て来る池が無いのだから」と言うことで一件落着した。

体験その2

校名は伏せるが、ホア・ヒン(マレー半島の中央部の細くなった地点にあり、タイ湾に面する町)に某国立大学の臨海実験所が在る。そこの宿舎では何度か自殺者が出て、それらの幽霊が出ると言う噂は昔からあったようだ。

私が同宿舎に纏わる幽霊噺を知った切っ掛けは、日本の大学教授が教え子だったタイ留学生の帰国後の仕事の様子を見るため、訪欧旅行の途次タイ國に立ち寄り、同宿舎に泊まって居た時に起こった事件である。嘗ての教え子は同実験所に勤務していたのである。

この日本人の某教授は真面目で責任感の強い人であった。未だ定年前の元気で体力のある歳ではあったが、日本を離れバンコクで一泊した侭、熱帯の気候に適応する暇も無く直ちにホア・ヒンに車で直行した。そして遠浅の干潟で教え子と仕事を共にした。教え子は「先生、無理しないで!」と度々言ったようだが「これぐらい大丈夫」との返事だったと教授の教え子である彼は私に後で言った。

30年近くも前のことである。宿舎には扇風機だけでエアコンは無い。食べる物も現地経験のない日本人にとっては「飛び上がる程辛い」タイの日常食である。喉に通らないものも多かった筈だ。今でこそ経済発展したタイ国のこの町には幾つかのホテルも建ち、リゾート地になっているが、当時は田舎町だった。某教授は肉体的に無理に無理を重ねていた訳だが、真面目な性格の本人にはその自覚は無かった。さらに海外の経験が殆ど無かったことも災いした。

三日目に遂にダウンし被害妄想的な「幻覚症状」に襲われた。教え子の彼からの夜半の電話に起こされた私は知人の日本大使館の医務官に連絡を取り、善後策の手を打った。その詳細は略す。それ迄は私は某教授がタイに来ていることも、その目的も何も知らなかった。彼からの電話で事態を知ったのである。

ホア・ヒンの宿舎には幽霊の出る話が沢山あり、同大学の連中もあまり行きたがらない人が多いことを知った。ある助教授は二階で寝ているとき幽霊に出会い、窓から地上に飛び降りて骨折した、ある同大学の関係者は毎夜魘されて睡眠不足となり、早々にバンコクに逃げ返った云々と言った類いの話である。

上述の日本人教授の話もタイの人の中には「あそこは鬼門だ、危ない、危ない、事なきを得て良かった」と真顔で話す人も多かった。同教授の幻覚では「美人の若い女が施錠してある寝室に突然扉を開けて入ってきた」のだそうだ。「自分をスキャンダルに陥れようと言う謀略だ」と思ったそうである。

「いや、そうではない。その女は幽霊なのだ」と信じている人々も多い。とにかくタイの人達は幽霊の話が好きであることには間違いない。タイの華字紙には時々こんな話が載っている。タイ語の新聞にはさらにこの手の話題が多いだろうと思うが、耳から憶えた私のタイ語は日常会話程度で文字は看板程度しか読めないのが残念であった。なお、英語の新聞(Bangkok Post や The Nation など)には殆どこの手の話題は載らない。

 

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Korean

数奇な運命を辿った人々の集団

( NHKの深夜便で聞き私の胸に焼き着いた話 )

真道 重明

2004/02/20.

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2004年2月9日(月曜日)のNHKラジオの深夜便で「天然の美を追いかけて」と云う番組が放送された。子供の頃にジンタで良く聞いた曲なので懐かしく思い、母も良く口吟んでいたことも記憶にある。私はなんとは無く聞いて居た。そのうちににアナウンサーのインタビューに応えるその女性の口から、私にとっては驚くべき話が次々と語られて行くのを知り、驚きながらも夢中で聞き耳を立てた。聞き終わってから、その時は深夜でもありその侭寝入ってしまった。

数日経ってからもその話が何度も蘇ってくるので、私の心に強く焼き着いて居ることを自覚し、その話のことや語った女性がどう言う人か知りたくなった。NHKにメールで問い合わせたら、親切なご返事があり「姜信子、きょうのぶこ」さんと言う作家であると云う。「住所や連絡先は規則上教えられない」とのことであったが、「姜」と云う姓は韓国に多いし、話の内容からそうだと思った。ハングル読みでは「カン・シンジャ」となるのだろうが、本人は日常どう呼んでいるのかは知らない。Webで検索するとその女性作家についていろいろなことが分かった。

姜 信子、1961年横浜生まれ。1985年に東京大学法学部を卒業,1986年に「ごく普通の在日韓国人」(朝日文庫) によりノンフィクション朝日ジャーナル賞受賞。(2004年43歳)、1989年から2年間韓国大田市にて生活。1991年に日本に帰国。在日韓国人であることが文筆活動の出発点であったが、在日韓国人ということにとどまらず、より普遍的に国と国、 民族と民族の「はざま」に位置する存在として、その場所からいかに「越境」していくかをテーマに、現在では「文筆だけで無く、テレビ、ラジオなどさまざまな活動をしている……」などなどである。

同女史の現在の住所は私と同郷の熊本、大田(テジョン)は一度戦時中列車で釜山から同年の初年兵と共に2人で新京(中国東北部の長春市)に転属するため通過したことがあり、愛国婦人会の人達から駅頭で差し入れの「おはぎ」を車窓越しに貰い、それがとても美味しかったので駅の名前を憶えていた。食い意地の張った話で恐縮だが、熊本と云い、大田といい、何となく話に親近感を憶えた。

余談はさて置き、私の胸を打った話のあらすじは次の下りである。

「高麗人(コリョサラム)」と呼ばれる人々の存在。これの人々は1910年の日韓合併以降、日本の支配下にあった朝鮮からロシア沿海州へと逃れ、その後スターリンによって中央アジアへ移住を強制された人々を指すのだそうだ。

その高麗人が口ずさむ「故郷山河」と云う歌謡があり、移住を強いられた嘆きや悲しみが込められた、民族の歌とも言うべきもの。だが、意外にも、その原曲は日本海軍の軍楽隊長であった田中穂積作曲の「美しき天然』というワルツであったと云うのである。日本の支配から逃れてきた民族に属する人々であるだけに「美しき天然」が歌い継がれているのは、皮肉と云うか、何ということだろうとだと姜信子氏は非常な興味を抱いたと云うこと。そしてその後、同女史は調査のため数次ロシアを訪れていると言うこと。

以上は Web を探索した結果、幾つかのサイトから得た知識である。NHKの深夜便で聞いた同女史の話では、朝鮮半島からではなく、朝鮮半島から南サハリン(樺太)に移住し、そこで日本人としての教育を受けたのち、従って日韓合併後かなり経ってから、樺太から直ぐ対岸のロシア沿海州に渡り、そこを経由して、南ロシアのロストフ近郊の一帯の所々の地域に移り住んだ人々に関する話だったように記憶している。

私が驚き、かつ胸に焼き着いたのは、それらの人々の多くが祖国語を話せず、日常語は日本語であると云う事実である。同女史は或る集落を訪れた際、挨拶をハングルですべきか?日本語ですべきか?と迷ったという。それらの人々が憶えている幾つかの歌曲は紛れもない日本の小学唱歌である。幼い子どもの時、日本式教育を受け、そこで習った歌を保持し続けているのだ。私は信じられないような歴史の悪戯が現実に存在することに強い印象を受けた。若しかしたら私の記憶違いで、「集落の人の総てではなく、幾つかの家庭が日本語を常用語にしていた」のかも知れない。

もっとも、それらの人々の舐めた辛酸は筆舌には尽くせないものだったろう。「歴史の悪戯」などと簡単に言うことは気が退けるけれども。日常語が日本語だと言うことだが、一体どんな日本語なのだろうか?小学校(国民学校)での教師との会話、低学年の友達同士の会話以外には多様な日本語にはあまり接しては居なかっただろうから、国定教科書的日本語と子供言葉だったのではなかろうか?

両親の話すハングルは恐らく耳にしていた筈である。ただ、次項に述べた私の熊本弁と同様、それは理解できても、日常話す機会の多い日本語のほうが使い易かったに違いない。このような現象は世の中にはざらにある。私の知人に奥さんがオーストラリアの白人、彼はマレーシア国籍の華僑であるが、家庭内で喋る言葉は「マレーシアやシンガポール訛りの英語」である。マレー語や片言の北京語も喋るが、一番喋り易いのは英語だと彼は言っていた。

大阪で幼年期を過ごして居た頃、私の両親や祖母が家庭内で喋る言葉は「熊本方言」であったが、私や兄弟は家庭内でも「大阪弁」であった。熊本方言は勿論殆ど総て理解し得たが、家の外では大阪弁に囲まれていたし、駄菓子屋で買い食いするときや、学校の先生や友達との会話は大阪弁ばかりだったから、家庭内でも関西方言(大阪弁)しか喋ることは無かった。熊本弁は大人の言葉、大阪弁は俺達子供の言葉とその頃は思っていた。熊本からやって来た従兄弟が熊本弁を喋るのを聞いて大人言葉である熊本弁を喋るなんて、「子供のくせに何と不謹慎かつ生意気な…」と思ったことを憶えている。大阪では子供も大人も大阪弁を喋っているのだから、私の「思い込み」は実に馬鹿げたものだが、子供の私にはそんな心情が在ったのだ。「ロンドンの乞食は生意気にも英語を喋る」と云う笑い話がある。

上述の日本語を喋るコリョサラムも恐らくそれに似た情況があったのだろう。勿論、彼等はロシアの「その土地の言語」を生活の必要上、喋っていたのだろうが、祖先の言葉であるハングルは両親の没後は聞いたり喋ったりする機会がなかっただろうから、自分達の仲間うちで最も使い易い共通語は日本語だったのかも知れない。若しそうならどんな語彙と言い回しの日本語なのだろう。

もう一つの関心事はその人達の心情である。意志疏通手段としての言葉は飽くまで手段である。両親の話、立ち居や振る舞いを通じて、「意識するか、しないかは別として」、多くの文化とも云えるものを受け継いでいる筈であろう。また、日本的教育を受けたのだから、そのことからも大きな影響を受けたに相違ないと思われる。その点はどうなっているのだろうかと好奇心と妄想を逞しくせざるを得ない。数奇な運命に押し流されて、激変する社会環境に次々遭遇したのだから、「新しい郷に入ればその郷に従わざるを得ず、それらの社会に、好むと好まざるとに係わらず、否応なしに適合し、次第に身も心も融合し同化して行ったのではなかろうか?」とも思われる。

この人々のケースは非常に特異なケースのようにも思われるが、世界の人類の長い歴史の中では「普通のこと」のようにも思われる。これに似た事態は常に発生していたと考える方が正常かもしれない。民族の離合集散は、原因は武力による征服であれ、経済的理由に依るものであれ、長い眼で見れば恐らく「絶え間なく行われて来た」と言うのが人類の歴史の実態であり真相だろうと思うからからである。

私は確固不変の「民族」と言うものが存在する筈は無いと思っている。現在、確かに日本人は存在して居り、日本国も在る。しかし、縄文・弥生期を経て形成された日本人は実はここ数千年のことであり、日本国と云う近代的な概念が芽生えたのは長い歴史から見ればツイ先ほどである。

異民族と言って差別したり互いに争ったりするのは、人類発生の歴史という長期のスパンで考えれば、まさに邯鄲の夢と云うか、愚かな近視眼的視野の話で、栄華を誇ったローマ帝国やローマ人も民族としては多くの他の民族と融合して消散し、彼等の喋っていたラテン語も文字の上では今なお存在しては居るが、「喋り言葉」としては死語になっていることを思えば、民族の純潔を守るなどのスローガンなど、笑止千万なことであると、生物学を仕事にしてきた私からみると、そう思うのだが間違っているのだろうか?

 

【蛇足】 「天然の美」の楽曲が「故郷山河」のタイトルで彼等に受け継がれていることを知って思ったこと。

日本で作曲された歌謡がアジアの多くの國で流行し、しかもそれらが日本の歌ではなく中国の歌だと思われている例は数多くある。特に最近の若い人が好む流行歌はそうである。タイ国、マレーシア、シンガポール、フリピンなどで私は幾度も経験した。その原因は香港のカセットテープやCDの海賊版で、歌詞を広東語に訳して歌われたものが普及したことが原因であると思う。「愛尓入骨」 = 「骨まで愛して」などその典型例である。

しかし、「故郷山河」と「天然の美」のケースはまったく異なる。私がその事を知って途端に思ったことは、何れも「三拍子」と言うことである。アリランにせよ打鈴(ターリョン)の「トラジ」にせよ、朝鮮半島の民謡は三拍子が非常に多い。それらの多くは私の胸を打つ美しいものが多い。三拍子は民族のリズムと言って良いのかもしれない。一方、天然の美はワルツでこれも典型的な三拍子である。親近感があり受け入れ易い素地があったのではなかろうか?

琉球の歌謡がインドネシアで受け入れられるのは、SCALE (音階)が琉球のそれとスンダ・ガメランのそれとが非常に似通っているためでは無いだろうか?両者は同じルートかも知れない。素人の私の説は専門家からは笑われるかも知れないが、私はそんな気がしてならない。

 

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日本人が知らない味覚

 (バナナの蕾、蝋燭の匂いのクッキー、蟻の卵、蛙の皮、鰐の尻尾、等々)

真道 重明

2004/04/12

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の味覚には、「甘い」、「酸っぱい」、「塩辛い」、「ぴりっと辛い」の四味があると言われる。また、これに「苦い」を加えて五味あるとも言われる。甘味、酸味、塩味、辛味、苦味などとも書く。中国では、甜、酸、鹹、辣、苦、などの字で表している。また、これらの基本となる味の他に昆布や鰹節などの主成分である「旨み、旨味」を加えるべきだと言う説が云々され、これを第六番目の味覚と称するようになったとも記述されている(1909年、東京化学会誌第30帙)。

私など素人にとっては、これの専門家の話は、何だか「分かるような、また、分からないような」気がする記述である。味覚を分類して甘味、酸味などと抽象的に分類しても、現実に我々が感じるのは、例えば「ぴりっと辛い」と言っても「唐辛子の辛さ」と「ワサビの辛さ」はまったく異質のものである。

真っ赤に振り掛けた唐辛子の料理を口にして「その辛さに飛び上がり、舌が火傷しそう」なタイ國や韓国の料理は慣れない日本人にとっては最初は苦痛である。しかし、私も経験ではタイ国の殆どの人は唐辛子の辛さは何ともないが、「ワサビ」の辛さには極めて弱い。タイでは唐辛子の辛さは「ペッ」、ワサビの辛さは「チュン」と言い異なった言葉で表す。「ペッ」は先ず舌に来るが、「チュン」は鼻に来ると彼等は言う。いわゆる日本語で言う「鼻にツと来る」と言う奴である。「カラシ、芥子」の辛さにもそれ程強くはない。ただ彼は唐辛子の辛さ、カプサイシンには滅法強いのである。

話は逸れるが、唐辛子はメキシコ原産でコロンブスが1493年にスペインに持ち帰ったと物の本にはあるから、新世界と呼ばれた南北アメリカ大陸以外の地域、すなわち、アジアや欧州のいわゆる旧世界にとっては比較的新しい食物である。15世紀以前には「食べようにも、そもそも無かった」筈である。

タイではこの辛い料理は伝統的な味覚として自負している人が多いが、15世紀以前には無かった筈である。この点に関してはたびたびタイの人達と議論したが、「いやタイには大昔から在った」と言い張る人も居る。真相はどうなのか?知っている人に教えて貰いたい。

日本人は味覚に敏感で微妙な味についての感覚を持ち、味覚に関しては世界のなかでも優れた文化を持つと言う人が居るが、私にとっては此の説は怪しいものだと思っている。言葉にしても「からい」は「ピリッとからい」とか、「しおからい」と形容語を加えないと区別出来ない。中国では「鹹」、「辣」、タイでは「ケム」、「ペッ」と別の語がある。

食べ物は舌の味覚だけでなく、口にするものの硬軟・弾力・粘度・温度・舌触り・歯触りなど、さまざまな要素が係わる。中国では「滑」(ツルツルした喉越し)、「脆」(英語の Crispy に当たる。ピーナツやクッキーなどのサクサクした歯触り)、その他無数の専用の言葉がある。上の例などは日本語ではパリパリ・ホロホロ・サクサクなどの擬音語を添えなければならない。各民族それぞれに食文化と食に纏わる生活があり、元来優劣を論ずるような問題では無かろう。

テレビを視ていたらある料理研究家と称する人が「お粥と雑炊」の話をしていた。米を主食とする諸民族のなかで「お粥や雑炊というものを持って居るのは日本だけであり、日本人が如何に食文化に優れて居るかの証である」という前置きがあったのには呆れた。米を主食とする諸民族は総て「お粥や雑炊」に類する多様な調理法を持って居る。日本だけと言うのはとんでもない話だ。「粥」という漢字は中国から来たものではないか。一年中毎日「朝飯はお粥」と言う習慣は日本には関西に多いが、中国では日常のことである。それも日本の白粥や茶粥に近いものから、西洋のオートミールに近い「砂糖と落花生の粉を掛けて食べるものなど多種多様である。日本より遥かに進んでいるようだ。

例によって私の話は前置きが長くなった。本題に入ろう。

バナナの花の蕾のスライス:タイ国のメニュー、純タイ式の高級レストランでは時々見掛ける。加熱調理しない新鮮な生そのもの。他の2 −3のものと盛り合わせた皿にフランス料理の盛りつけのように飾って出てくる。味は日本人には経験のない「えぐい」というか、チョット表現し難い味である。明礬を舐めたときの味(弱い刺激臭)に似ている。欧米人は一口食べて英語で Alum (明礬)の味と表現していたから明礬に近いと誰もが感じるのだろう。欧米人も私も決して美味いとは思わない。好奇心から一度は注文しても、二度と食べようとは思わない。

独特の香りもなく、ただ生野菜の仄かな青臭さに「えぐみ」があるだけだ…と私は感じた。ただし、タイの人が食べているのを数回見掛けた。普通の外国人が行くレストランやホテルには先ずこのメニューはない。外国人は食べないからだろう。タイの人は子供も頃から口にしているので、「おふくろの味」か、日本人が早春の味覚としてその「ほろ苦さ」を賞味する「たらの芽」、「蕗の薹」、「土筆」などの感覚なのかも知れない。

タイの人はとにかく生野菜をよく食べる。トマトやキャベツは別として、中には野草としか思えない味のものも多い。それらは一口食べて吐きだしたくなるようなものではない。食べることは出来る。「味も素っ気も無い」と感じるだけである。これらを「ナム・プリック」と称するカピー(アキアミの発酵品、Srimp paste)に唐辛子を混ぜた調味料をチョット付けて食べる日常の食品である。

バナナの花の蕾をココナツの入った汁で煮たスープは一般的なもので、その味は特記するほどのものではない。生野菜の形で食べるところが「ミソ」であり、日本人には不思議な味である。

蝋燭の香りを付けたクッキー:ビスケット(クッキー)は何処の国にでもある。これもタイ国での話。拙宅を尋ねてきたタイの友人がお土産に「おふくろが作ったクッキー」をリボンを付けて飾った紙の箱に入れて持って来た。早速お茶を入れて彼と共に箱を開いて賞味することにした。仄かに蝋燭の香りがする。「この香りはどうしたの?」と訊ねた。

彼は、ここぞとばかり説明を始めた。「この香り付けは加減が難しい。母の得意な製法によるものだ」と言う。焼き上がったクッキーを大きな缶に入れて、その中央に蝋燭を立てて火をつける。直ちに蓋をして置くと火は消えて燻る。その蓋を開ける時間とタイミングが難しいのだそうだ。時間が短いと香りが着かないし、長いと風味がクドクなる。長年の勘だと言う。

彼は「香り」(タイ語でホーム)と言うのだが、私にとっては蝋燭の臭気は「臭い」(タイ語でメン)である。彼は私をからかっているのでは無く本気であることは良く分かる。折角厚意で持って来たものである。「臭い」とは言えない。後で他のタイ人に聞いたら「よくやる香り付けの一種だ」と言う。やはり彼は私を「からかった」のではない。日本の伽羅や抹香のように、タイにも伝統的な香料はある。それらはかぐわしい匂いがする。しかし、蝋燭の燻る匂いは左程嫌なものではないが、食品の場合の蝋燭臭は私には「香り」では無く「臭気」である。しかし、これを好むタイの人は多いようだ。

蟻の卵子供も頃、神社の境内で遊んでいるとき、何かのはずみで蟻を噛み、舌を刺す蟻酸(蓚酸)の刺激を感じて、途端に思わずに吐きだした経験がある。しかし、蟻や蟻の卵を食べる国は案外多いようだ。テレビの「如何物喰い」の特集番組を視て居たらニューヨークのレストランでフライパンで煎った大型の蟻をスプーンで掬って食べている場面があった。あの舌を刺す蟻酸の刺激は加熱すると消えるのだろうか?

中国の漢方では蟻は約3000年ほど前から、蟻を滋養強壮食品として活用しており、紀元前の文献「周札・天官」には、当時の皇帝が蟻の幼虫で作ったジャムのような食品を食べていたことが記載されていると言う。さらに唐・宋代の文献にも蟻の卵で作った食品「蟻子醤」の記載があり、その薬効については唐代の医書に「益気力・強筋骨」と書かれているそうだ。明の時代の「本草綱目」と清の時代の「本草綱目拾遺」は、蟻と蟻の卵の効能が詳しく記載されているとのことである。

タイ国では蟻の卵は普通の食品、と言うよりやや高級な贅沢品で、どちらかと言うと滋養強壮効果があると云う。「蟻の卵入りオムレツ」は値段が高い料理だ。バンコクでは余り見掛けなかったが、ピチッなどの田舎の街では時々市場で販売されている。試食したいと友人の家に泊まっていたとき頼んでおいたら「今日は売っていた」と蟻の卵を持って来た。白い米粒のような生の卵である。

そのまま食べるのだが、仄かな甘みと酸味がある。特別の匂いや香りはない。旨くはないが不味いものでもない。この味に似た日本の食品は私の知る限り存在しない。タイ語では「カイ・モッ」(カイは卵、モッは蟻の意)と言う。

青蛙の皮:蝦蟇蛙ではない。青蛙(ナン・コップ、ナンは皮、コップは青蛙、タイ語)の皮を生干しにして薄く伸ばして拡げ、これを繰り返して厚紙状にして良く乾燥させたもの。油で揚げパリパリした食感を楽しむ。バンコク周辺のものは皮が厚くてやや堅く下等品である。少し北の田舎のものが薄くてシャリシャリして美味しいので高級品だという。

タイの人も「その存在を知り、好む人」だけが口にするようで、一般には「話には聴いたことはあるが、食べたことはない」と言う人も多い。塩鮭の皮、北京ダック(家鴨の皮)、子豚の丸焼き(世界の多くの國にこの丸焼きはあるようだが、皮を薄く剥いで食べるのは中国系の料理だけで、私にとっては油濃い北京ダックの皮より少し淡白で美味しい。タイでは「ムー・ハン」と言う)の例のように「皮」はものによっては肉より美味しい。この蛙の皮もその一つ。

鰐の尻尾:鰐と言っても本当の鰐ではない。「鰐の尻尾」(ハーン・チョラケー、ハーンは尻尾、チョラケーは鰐、タイ語)という名の植物、日本で言う「アロエ」(Aloe)の一種である。分厚いアロエの葉肉の芯の部分を煮て味付けして食べる。最近出来た家庭料理らしい。アロエ自身昔は余り見掛けなかったとタイの友人が言っていた。日本でもそうだがアロエは火傷の傷、美容、便秘などに効く薬用植物である。味はサッパリしていて癖がない。日本では料理に使う例は聞いたことがない。その味は独活やセロリーのような山菜風でもなく、強いて言えば微かに苦い「白アスパラガス」にチョット似ている。結構いける。

ジェンダフォー:ジェン・トウフゥとも言う。タイの麺類では日本人の眼から見ると一番変わっている。麺自身はラーメン(タイ語、バーミー)、ビーフン(センレック)、平打ち太めビーフン(センヤイ、今流行りのベトナム料理のホー)などであるが、味付けや具が変わっている。「かけ」(ナーム)と「盛り」(ヘェン)があるが、普通は汁のある「ジェン・ダフォー・センヤイ・ナーム」が一般的である。

元来中国から伝来したものらしい。「ジェン」は「冷たい」の意味がある。「ダフォー」や「トウフゥ」と呼ぶのは「豆腐」のことらしいが、この料理は決して冷たくはない。確かに豆腐の油揚げが必ず入っているから「豆腐」と言うのは本当らしい気もする。変わっているのは、必ず「豚血」(ルアッ・ムー、豚の血餅の固まったものを四角に切ったもの)や「クラゲ」(メンカプーン)が入っていること、さらに野菜は「バイ・スア何とか」(虎の何とか菜)と決まっている点である。油揚を除くと日本ではお眼に掛からない具ばかりだ。

豚血は中国でもよく食べたから違和感は無かった。偶に食べると目先が変わって結構旨いものである。日本のタイ料理屋にあるのを見たことがない。日本にはない味であり、小さなクラゲの「こりこり」した歯触りも中華料理屋で出るクラゲのそれとは一味違って日本には無い。

味と同様、香りにも経験と習慣の違いによって差が在るのだと私は私なりの経験から思い知らされた。そう言えば日本人は欧米人から「沢庵臭い」と揶揄され、日本人は欧米人を「乳臭い」とか「チーズ臭い」と感じた時代が在ったようだ。欧米人同士の中にもチーズの臭いに逃げ出す話があるし、日本の「クサヤ」の臭いは日本人でも逃げ出す人がある。味や臭いの良し悪しは経験による学習に依るもので、人間社会に共通の尺度がある訳では無いらしい。

お茶の仄かな「渋み」も味の一種であろう。鹿児島の「あくまき」や長崎のちゃんぽん麺の「あく、灰汁」も一種の味覚であろう。慣れない人には不味いが、慣れた人には懐かしい匂いと感じる。豆腐の苦汁(にがり)の味もその一つであろう。もっとも、今どきのフニャフニャ豆腐にはその味は感じられないが、昔の堅い木綿豆腐にはそれがあった。今でも沖縄や中国の豆腐にはそれがある。この方が私には美味い。

これを書きながら想い出した。また、タイの食べ物だが、メンダー・ナー(水生昆虫のタガメ)を小さな石の擂り鉢で細かく砕いて出た汁は強烈な特殊な香りがある。上述の「ナム・プリック」にこの汁を少し混ぜる。その匂いは強いて言えば丸薬の仁丹のような香りである。タイの人は珍重する。値段も結構高いものである。最近では人口香料が作られ、目薬のような小瓶に入れて販売されている。ナム.プリックに1、2滴入れて香りを楽しむ。この香りの感覚も日本には無い。考えると「ホヤ、海鞘」の味に似ていなくもない。そう言えば「ナマコ、海鼠」の味も何と言えば良いのだろう?

【蛇足】例によって無駄話を加える。上のメンダー(たがめ)である。タイには3種類のメンダーがある。一つは上述の水生昆虫の「たがめ」、これは田ん圃(ナー)に棲んでいるからメンダー・ナーとも言う。もう一つはメンダー・ターレーでターレーは海の意味で「海のメンダー」であるが、カブトガニのことである。生きた化石と言われるカブトガニは日本では肥料にするぐらいで食べないが、タイでは卵を食べる。緑色の粒々で丁度ハタハタの卵「ブリコ」、またはホウキグサの実のようでプリプリした食感を楽しむ。タイのカブトガニには二種類あって、もう一つの種類の卵は猛毒である。毎年数人がこれを喰って死ぬとのことである。

三つのうちの最後はメンダー・プーチャイと言う。プーチャイは男の意である。これは娼婦などの情夫で金銭をみつがせている者、いわゆる「ひも、紐」を指す。前二者のメンダーのことを話していたら、冷蔵庫協会の会長さんだった彼もその場に居て「いや、もうひとつタイにはメンダーが居る」と言って説明してくれたのがこのメンダー・プーチャイであった。人懐こい笑を浮かべて話す彼は今どうしているのだろうか?先日会議で来日したタイ水産局の人に会う機会があったが、そのことは聞きそびれてしまった。

ついでに駄弁をもう一つ。唐辛子の辛さである。カプサイシンという化学物質によるものだそうだ。カレー料理のブームで、中辛・大辛・激辛などとメニューにある。エスニック料理屋では「辛度10」などと数値で表示した処もある。私の経験では韓国よりタイ国、タイ国よりスリランカ、私は現地の経験はないが一番は「タコス」に代表されるメキシコの料理のようである。今大流行のイタ飯、すなわちイタリア料理の「ペペロンチーノ」は唐辛子のことらしい。しかし、イタリアではあまり食べないようだ。ローマには仕事で何度も行ったがお眼に掛かったことは無い。

「川菜」(中国の四川料理)も辛いが大したことは無いと思っていたら、先年或る中国の友人からのメールでは四川省の某地方の料理は激辛で他の地方の人には手が出せないとのことであった。タイ国でもハッジャイやソンクラの市街の在る南タイの料理が最も辛く、ケン・ナーロク(ケンは「汁」、ナーロクは奈落、すなわち地獄、「地獄のスープ」の意)、ケン・ター・デン(ターは眼、デンは赤、「食べたら余りの辛さに涙が出て「眼が赤くなるスープ」の意)など、地元の人達もヒーヒー叫びながら食べると言う。インド料理も南インドの方が辛いと言う。気温の高さと辛みの強さの好みには相関関係があるのかも?

人間誰しもこの辛さに対しての強い弱いは、酒類(アルコール)などのように先天的にあるのではない。その事を知ったのは私の軍隊の初年兵時代のある経験である。内務班の同年兵の中に当時植民地だった朝鮮半島出身の候補生が2人居た。或る日営外訓練が終わって帰営は「三々五々の徒歩」ということになった。彼等2人は街で「一味唐辛子の小筒を沢山買い込んでいた。食事時、味噌汁や飯の菜に真っ赤になるほど振り掛けている。皆は「どうしてか?」と訊ねた。彼等笑って曰く「君たちは知らないだろう。空腹感に襲われるのが遅れる効果がある」。

皆は半信半疑であったが、もし本当なら試す価値は大いにある。激しい肉体訓練で喰った飯は一時間で空腹になる。彼等は二時間以上は空腹にならないというのだ。数名が日曜日の外出許可日に買って帰って試した。「本当に効くぞ」ということになり、内務班の初年兵一同がこれに倣った。最初は一振り、2、3日経って二振り、と次第に唐辛子の量を増やして行く。半月後には彼等と同様に真っ赤に振り掛けるようになった。食事後、胃にチクチクと弱い刺激感がある。これがまた心地よい。麻薬に引っかかったようなものだ、空腹感に苛まれる初年兵にとってこの幸福感は止められない。

これを教えて呉れた彼等の「お株」が上がったのは言うまでもない。同時に私は「唐辛子の辛さについての強い弱いは先天的なものではないこと。強くなるには少しづつ量を増やして次第に慣れる訓練が必要なこと」を学んだ。辛い料理が日常の国々でも、生まれたての「赤ちゃん」には唐辛子は与えない。次第に慣れさせて行く訓練をする。親しい友人で10数年間米国に留学して、その間一度も帰国しなかったタイの人が居る。10数年振りに帰国した時は辛いものは食えなかったそうだ。半月位の間は慣らすのに苦労して、ヤット元に戻ったと言うことであった。

 

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本当に「眼から鱗」が落ちた話

真道 重明

2004/04/16

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から鱗」とか「眼から鱗が落ちる」という常套句は多くの人が常に使っている。広辞苑を引くと「目から鱗(ウロコ)が落ちる」とは「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質が分るようになる」ことの意と出て居る。確かにその意味で使われている。

私は以前から眼には鱗など無いのに「どうして鱗なのか?」長年疑問に思っていた。この句の由来、語源は何処を調べて探しても仲々見付からない。その道の専門書には在るのかもしれないが、手元にある普通の辞書類にはその説明は無い。最近、偶然にもある眼科医の方のホームページでヤットこの語句に関する記事を見付けた。以下はその要旨である。原文はかなり専門的な詳しいものであるが、此処では要点をごく短く掻い摘んで紹介するに留める。

「鱗が落ちる」というのは「脱皮」のことだそうだ。蛇の目には「瞬膜」という保護膜があり脱皮の時にはこの膜も抜け落ちる。つまり、「目から鱗が落ちる」とは、ヘビの脱皮のことを言っているのだと言う。私は「へ、なる程」と感心して読んでいたら (…と言うのはもちろん嘘です) とはぐらかされてしまった。

本当は聖書(新約)の使徒行伝(言行録)九章1−19節にある「サウロの回心」に述べられた物語りに由来すると言う。キリスト教徒を迫害していたユダヤ教徒のサウロは、キリスト教徒をエルサレムに連行する途中で突然天からの光で失明する。しかし、イエスの弟子が寝ているサウロの上に手を置いて祈ると、たちまち目から鱗のようなものが落ち、サウロの眼は元通り見えるようになった。彼はその場で洗礼を受け、キリスト教に改宗した。このサウロとは、後の使徒パウロのことだ。この話が「眼から鱗が落ちる」と言う句の出典だという。

私はまた「なる程」と感心した。私は偶には聖書を読むことがあるから、昔この下りを読んだのかもしれないが、「眼から鱗」がこんな処に潜んでいるとは考えもしなかった。まさに「眼から鱗」である。

て、此処からが眼前で起こった私の体験の本論である。「鱗のようなもの」では無く、「鱗そのもの」である。1950年代の初期(昭和25年前後)の頃、今から半世紀も前のことである。当時私は長崎に在る国立の水産研究所に勤めており、数日置きに水揚げ港の長崎魚市場に赴き「魚体測定」と称して重要魚種の生物調査に従事して居た。未だ夜が明けきらぬ午前四時ごろ自宅を起床して一番電車に乗って魚市場に駆け付け、漁夫や沖仲仕の怒号で喧噪を極める中で5、6名のチームでするこの仕事は楽なものではない。

ある時若い作業員の一人が「アッ」と叫んで眼に手を当てた侭立ちすくんでいる。「どうした?」と皆駆け寄って訊ねた。彼は眼から手を離し「片方の目がボンヤリ曇ってハッキリ物が見えなくなった」。「痛いが?」と訊ねると「チョット痛いが大したことは無い」とのこと。一人が指で彼の目を押し拡げて「オイ、片方の目が死んだ魚の目のような色になっている」と言う。何が起こったのか皆には分からない。

「目に何か入ったようなゴロゴロした感じがする」と言うので、とにかく水道の蛇口の在る所に連れて行き蛇口を上向きにして目を洗った。それでも直らない。その内、一人がちり紙を紙縒りにして彼の目から異物をどうにか取り去った。見るとそれは魚の鱗の一片であった。「直った、直った、世の中が良く見える」とその若い彼は叫んで笑った。「眼から本当の鱗が落ちた」のである。

古典落語「たらちね」の千代女の言う「小石眼入、しょうせき・がんにゅう」では無いが、眼に物が入ると例え微小な異物でもとても痛いし涙が止めども無く出る。不思議に彼の場合それ程では無かったらしい。ハード・コンタクト・レンズ程では無いにしても、余り苦痛は無かったようだ。

中国では真珠(中国語では珍珠と書く)の目薬が沢山ある。小粒の真珠の珠を目に入れても不思議に痛くないことから、目薬に用いられるようになったと言う説を読んだことがある。表面が非常に滑らかな物の場合は違和感はあっても痛くはないようだ。コンタクトレンズなどはその例である。

彼の場合、魚にまみれての作業であり、何らかのハズミに飛び散った魚鱗が運悪く眼に飛び込んだのだろう。しかもなんの魚の鱗か分からないが、幸運にもその鱗の表面は滑らかなものだったのだろう。魚の鱗は鯛のようにザラザラして堅いものから、鰯の鱗のように薄くて「しなやか」なものなど様々である。

とにもかくにも大事にならずに済んだのは幸いであった。私が「眼から鱗」の言葉の故事来歴に拘ったのもこの事件の記憶が頭の隅に在ったからだろう。思うに魚好きの日本人は大昔から漁夫と言わず、調理人や家庭の一般人なども魚に接する機会は多かった筈だ。鱗の堅い魚などを調理する際に「鱗取り」のための道具まである。ガサガサやっていると顔や腕など鱗まみれになる。偶には目に入ることも良くあったのではないか?そこから生まれた言葉だった可能性も捨てきれない気がする。

 

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四 不 像 子

 

真道 重明

2004/05/18

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世の中には不思議な動物が居る。これはその一つである。先日友人と話していたら「四不像」の話が出た。確か学生時代に東京外語の中国語専修科で習って居た時に参考にと思い買い集めた本の中にあったと思い、当時の日に焼けて黄色くなったボロボロの書籍類を探し出して開いてみた。在った!急就編、問答之下、(十六)。以下はその文章である。「四不像子」または「四不像」と呼ぶ。

有一宗牲口叫四不像子。請問怎麼叫四不像子?因為他那個様子。説馬不像馬。説牛不像牛。説他像驢和鹿。又不像馬驢和鹿。所以叫四不像子。

(拙訳) 四不像子 [ 四つの 「そうかと思えばそうでもないもの ] と呼ぶ類の四つ足の動物が居る。(問) どうして「四不像子」と云うのですか? (答) そのものの姿が「馬かと云えば馬でもない」、「牛かと云えば牛でもない」、「驢馬や鹿かと云えば、これまた驢馬でもなければ鹿でもない」…と言う理由から、「四不像子」と呼ばれるのです。

四不像子 (Si4 bu4 xiang4 zi・、スゥ・プ・シャン・ズ、最後のズは軽声、他は4声)、中国語の辞書で「四不像」を調べると、上と同じ解説の外に「得体の知れぬもの」の意味もあった。広辞苑によると […「頭は馬に似て馬にあらず、蹄は牛に似て牛にあらず、体は驢馬に似て驢馬にあらず、角は鹿に似て鹿にあらず」の意味で名づけたという。実在の四不像は、角は鹿、蹄は牛、耳は馬、体はロバに似ているが、その四種の動物どれにも似ていないので「四不像」と呼ばれた] とある。

北京の南苑、すなわち清王朝の皇帝の庭園で飼育されて居たが、英国のベッドフォード公爵の手に渡った。北京では義和団の乱と洪水で全滅した。野生のものは絶滅したとされている。現在は、ベッドフォード家から世界の動物園などに贈られ、繁殖している。…との中国の記事を見たことがある。

多摩動物公園のHPによると、別名「ミールー(麋鹿の中国音)」、偶蹄目、シカ科、「ひづめはウシに、頭はウマに、角はシカに、体はロバに似ているが、それらのどの動物でもないという説から、四不像(しふぞう)の名がつけられています。昔は中国に多く生息していました。現在飼育下の個体群は1900年頃皇帝の庭園で飼育されていたものが英国で繁殖し、増えたものです。野生の状態のものは絶滅しており、いまでは全て動物園の飼育下にあります。「体高は1.2m。同動物園では青草(乾草)、根菜類、草食動物用ペレットを与えています」とある。

「赤猫文芸』60号(平成9年8月22日発行)には、「角は鹿のごとく尾は驢馬のごとく蹄は牛のごとく頚は駱駝のごとく、全体としてはそのどれでもない」というところから、「四つともに似ていない」という意味の名前がつけられた(「実用現代漢語詞典』香港・芸林出版社)。現在、世界に数百頭しかいない。麋鹿(びろく)、駝鹿(だろく)とも呼ばれる。日本では、多摩動物園と広島市安佐動物園にいる。言葉としては、日本で言うところの「ぬえ」のようなものとして使われるようだ。

「封神演義』の中では仙人である姜子牙(太公望)の乗り物になっていたが、それだけ神秘的な生き物とされていたわけだ。一名、皇帝の鹿、と呼ばれていたとか。一九〇〇年、義和団事件の混乱期に、北京の南苑(皇帝のお狩り場)に飼われていた最後の四不像が死に絶えてしまった。洪水が原因だ。だが、イギリスが本国に送ったものがいたため、種の絶滅は免れた。のちに中国にも送られ、原産地である江蘇省の自然保護区に放たれた。といっても、完全保護のもとにではあるが。今は故郷の海岸添いの湿地帯で、何十頭かが水草を食べながら暮らしているとか。

中国のHPを見ていたら、次のような記事があった。曰く「麒(麒麟のオス)のような頭に、豸(豸(タイ)は山羊に似た一角獣)のような尾、竜のような体をしているという。封神演義において、太公望の乗騎とある。元来は元始天尊のもの。九竜島の四聖と戦った際、西岐軍の馬が毒気に当たって倒れてしまったので、その際に、太公望が賜った。云々。

また、中国のHPの北方網によると、中国特産の麋鹿、俗称“四不像”は絶滅危惧種として國際“紅皮書”(注:国際自然保護連合のレッドデータブックのこと)に記載されていたが、江蘇省大豊麋鹿国家自然保護区の説明では現在世界での総頭数は2600頭に達し、RED DATA BOOK から外され、珍稀動物として扱われるようになったと述べている。危惧種から外されたのには同保護区の努力が大いに貢献している。同保護区が建設された1986年の世界総数は1700頭であったが、1994年には湖北省の石首にも自然保護区が設けられている。国際自然保護連合のレッドデータブックからは外されたとは言え、中国ではやはり「国家一級保護動物」と指定され保護に努力しているとのことである。

「四不像」は中国の古典にも多く現れ「中原に鹿を追(逐)う」の句の鹿は「麋鹿」のことを指し、漢代の瓦の紋様にも麋鹿がある。麋鹿は甲骨文、青銅器、または原始的な岩画にもあるらしい。

 

 

 

これは漢代の瓦に刻まれた麋鹿、すなわち、ここで言う「四不像」の模様である。生きている四不像は一見して鹿の仲間であると類推されるが、最大の特徴はそ の枝分かれした大きな角(Antler, 枝角)である。

この漢代の瓦にある模様もハッキリそれが窺える。トナカイ(馴鹿)のそれに似ている。事実、中国語ではトナカイのことを麋鹿とも言うとのことである。極地にいる馴鹿は中国本土には居なかった。もし居れば「四不像」は古代からこれほど珍稀な動物とは思われなかったのかも知れない。

吉と思われたり、凶と考えられたり、とにかく大昔の中国では何時も話題となった動物であることは間違いない。

 

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UNYOMARU&stanoboi

スタノボイと雲鷹丸記念歌

 

真道 重明

2004/07/29

 

雲鷹丸記念歌という歌がある。「雲鷹丸、うんようまる」と言うのは私の母校である農林省水産講習所(改名されて東京水産大学、現在は2003年の学制改革で東京海洋大学の品川キャンパス)の第2代研究練習船のことである。1909年に大阪鉄工所桜島造船所で建造され、南北の海に計33次の航海を行った米国式遠洋捕鯨船バーク型帆船で,おもにカムチャッカ漁場開拓とカニ工船事業の開発に活躍した。

私が入学した1939年にはこの船は現役を退いて当時の母校のキャンパスの岸壁に繋留されていたが、船内に入ることができ、甲板上にある操舵輪などを廻すこともできた。グレゴリー・ペックが船長に扮した「モビー・デック、白鯨、原作はハーマン・メルヴィル」の映画で有名なアメリカ式捕鯨は一時は世界を風靡した。その本場の米国でさえバーク型帆船は残されていないらしく、今では東京海洋大学の品川キャンパス内に喫水線以下はセメントで固定されて保存されている「雲鷹丸」は世界でも貴重なものだと聞いて居る。

日本財団  図書館  所蔵

雲鷹丸の写真や絵画は沢山あるが、「海の貴婦人」と呼ばれる大型帆船は全てのセイルに風をはらんで大海を帆走している姿が一番美しい。その様な写真は少ない。ここに掲げたのはその油絵である。日本財団の図書館の所蔵画を許可を得て掲載した。

余談ではあるが、米国式遠洋捕鯨の主な漁獲対象は「まっこうくじら、抹香鯨」で英名を Sperm whale と言う。Sperm は精液のことである。なぜそう呼ぶのか私には長年疑問であった。後になって長崎大学の初代学部長を務められた大先輩の里内晋さんと上記の映画を見に行ったとき、同氏から学生時代に雲鷹丸に乗船して捕鯨実習の経験談を聞かされた。

舟艇に乗っている実習生はグジラを背にしてオールを漕ぐのに夢中であり、抹香鯨の姿は見えないが、「精液」の匂いが海風に吹かれて強烈に漂ってくるのを体験したそうである。その匂いは抹香鯨の体臭らしいそうだ。「英語の Sperm whale と言う名前はそこから来ている」とのことであった。この実習はかなりの危険を伴うので教官は非常に気を使っていたそうである。抹香鯨の脳油が時計油として最高であるとか、腸の瘤の竜涎香などの話は聞いてはいたが、Sperm の名の由来はこの時初めて知った。

鯨類研究所の人の訊ねてみたら、 Sperm whale の言葉の由来に関しては、米国の文献に「抹香鯨の脳油が Sperm に似ていることからそう呼ぶようになった」と言う記録は幾つかあるそうだ。「似ている」というのが単に「液体の色や色」だけか「匂い」まで含んでいるのかは分からない。この件についてさらに詳しいことは、ここをクリックして下さい (スタノボイ 注1)

しかし、もしこれが正しいのなら上記の里内説は「体臭ではない」から間違いと云うことになる。しかし、上述の里内晋さんの体験は銛を打ち込んで頭部を傷つけ脳油が流出していた場合もあろうから、一概にその意味では体験談が間違いとは云えない。抹香漁の経験者に聞けば分かるかもしれないが、その様な人は現在では非常に少ないだろうから、そこまでは調べていない。

話がクジラに逸れたが、1996年に楽水会(母校の同窓会)の75周年記念事業に招かれたとき、母校の歌集のCD−ROMを貰った。その中に懐かしい「雲鷹丸記念歌」があった。学生時代に夜寮の玄関前に集合して練習させられた記憶が蘇った。私は何故だかこの歌が強く記憶に残って居り、詞も曲も他の多くの歌と異なり優れていると前々から思っていた。

貰ったCDの解説によると、「北原白秋 作詞、山田耕筰 作曲」とあるではないか…。この作詞作曲のコンビは一世を風靡した大作詩家であり、大作曲家である。道理で他のものと一味も二味も違った訳だ。始めてそれを知って「なる程、なる程」と納得した次第である。からたちの花・この道・鐘が鳴ります・蟹味噌・松島音頭・砂山・ペチカ・待ちぼうけ・あわて床屋・帰ろ帰ろと、など近代の詩聖と言われた白秋と天才作曲家と言われた耕筰のコンビの歌は日本人なら誰でも知ってる。

歌詞は三段から成っており、第一段の第1節と第2節は:−

それ北洋の夏の航海(たび)

雪はかかれり、スタノボイ

とある。その後の歌詞の意味はすべて解り易いのだが、この「スタノボイ」だけが分からない。その侭半世紀以上過ぎてしまった。今年の春に久し振りに有志の同窓会に出たとき訊ねたが誰も知らない。この有志同窓会も私が海外勤務から帰国して1984年に入会した時は、私より先輩は多数居られたが今では三・四名、その他の出席者の殆どは私より後輩ばかりになってしまった。それはともかく、ごく最近になって或る文章に偶然出会った。曰く:−

ロシアの「東部開拓」に耐えかねたツングース系住民ソロン族が清朝に保護をもとめ、周辺部族の宗主国的立場にあった清朝は出兵し、両軍は激突した。結果は清朝が優勢となり、ロシアはほぼ清の要求をのんでスタノボイ山脈(外興安嶺)が両国の国境線と決まった。ネルチンスク条約(1689年)。しかし、その後、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約でロシアに割譲された。

興安嶺と聞くと私達の子供時代には満州の山脈(標高は高くはなく高原と云った方が良い)として誰もが知っていた。興安嶺には大興安嶺と小興安嶺とがある。小興安嶺は大興安嶺山脈と直角、すなわち南北に交わる一分派である。外興安嶺はその北にある山脈であり、上述のように一度清国領となったが、その後は現在までロシア(ソ連)に割譲された形になっている。ちなみに手元にある Philips の Pocket Atlas of the World を調べてみると、"Stanovoi Ra.,"(Ra.は連峰)とチャント出て居た。何のことはない、調べれば直ぐ分かったのだ。 

ロシア語で「スタノボイ」、漢字では「外興安嶺」の山脈のことである。その昔、北洋漁業に従事した人達には常に海上から眼にした山脈の光景だったのだろう。夏でも冠雪していたようだ。多年の私の疑問のスタノボイもこれで氷解した。

(スタノボイ 注1)

岡山 洋一 氏の「マッコウクジラの英語名称 sperm whale についての一考察」と題する大変興味深い論文を見付けました。興味のある方はご覧下さい。岡本氏に謝意を表します。

2004/07/05.

http://www13.big.or.jp/~yokayama/debate/thesis/sperm.html

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不思議な話 (1)

2004/07/08.

真道 重明

 

「不思議な話」とか「超常現象」とか言う類いの話は世の中には実に多い。「作り話に決まっている。そんな非科学的なことがある訳が無い」と一蹴するのは易しい。それは自由だ。しかし、身内の人の話だったり、身近な人の体験談だったりすると不思議で不思議で仕方がない。誰にでもその様な話の一つや二つはあると思う。

ここで述べるのはそんな生々しい身近な話ではない。もう30年近く前にタイのバンコクの華字紙に載っていた記事である。田舎町に住む或る幼い女の子が或る日突然変なことを言い出した。「あのお姉ちゃんが死んだ。そら、あの四つ角の雑貨屋のお姉ちゃんだ」。その幼い子供には姉など居ない。これを聞いた家族は驚いて尋ねた。「お姉ちゃんと言うのは誰?。何処のお姉ちゃん?」。

彼女は詳しくその町の中の地理や店の様子などを克明に語った。どうも今住んでいる町ではないらしい。その町の名前を聞くとバスでも一日以上掛かる遠く離れた場所である。この子は頭が変になったのでは無いか?と疑ったが、出て来る人の名前など話が実に詳しいので、不思議に思い「先ず、出鱈目かどうかを確かめて見よう」ということになった。もちろん家族はそんな町に行ったことも無い。

このことを聞いて不思議がった近所の数名の人と共にその町に行くことになった。行ってみると驚くことに彼女の話は本当で、雑貨屋の娘が死亡したこと、雑貨屋の身内の人名、町の様子など、総て正確に幼い彼女の話と符合していた。余りの不思議さに関係者一同は唖然とし、この話はタイ国中で一躍有名になった。マスコミにも取り上げられ、記事になった次第…という訳である。

輪廻転生と言うことは仏典に語られている。しかし、この場合死亡した「お姉ちゃん」と幼い彼女とは同時期に生きて生存していたから「生まれ変わり」ではない。死者には妹は居なかったそうだ。マスコミもかなり詮索したようだが、結局解らず仕舞い。「不思議」だけが残った。

 

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地動説を知らぬ小学生

山中 一郎

2004年10月1日

ichi.yamanaka@nifty.ne.jp

 

近の新聞で「現在の小学生の40%は太陽が地球の周りを回っている」と思っている。ガリレオが泣くだろう」と報じていた。

大人は勿論地動説を知っているし、ガリレオの有名な宗教裁判のエピソードも知っている。しかしこれは教えられた知識として知っているからであり、本当に理解してかどうかは別である。「どうして地球の方が回っていることがわかるの』と畳み掛けられてちゃんと答えられる大人がどのくらいいるだろう。

事実子供(大人もそうだが)実際に感じる世界は、「お日様は毎日東から昇り西に沈む』のである。航海術に応用される球面天文学も天動説の上に組み立てられている。

間違えてはいけないのは大地が球形であることは地動説とは別にギリシャ時代から知られBC3世紀には今日と十数%しか違わない大きさの推定までできていた。

コペルニクスが地動説をたてたのは惑星の見かけの動きの複雑さが起因である。彼はどこまでも「仮説」として、太陽の周りを水星、金星、地球、火星、木星、土星の順に巡回する太陽系の形を提唱した。しかし岩波文庫に含まれる彼の原著作によってコペルニクス自身の推論を小学生に理解させるのは困難であろう。

地動説が単なる仮説ではないことを示したのはガリレオが自製の望遠鏡による木星衛星の運動を観察して得た太陽系の形を推論である。ここまで来れば、あるいはプラネタリウムも用いれば子供にも地球が太陽の周りを回ることを納得させることができよう。最近ならば宇宙船からの写真もある。

物理学、ことに地球物理学では地球自転の証拠は「フーコー現象」が挙げられる。すなわち高いところから垂直にたらした振り子が、時間がたつにつれて右回りに(南半球では左回り)に震動面が捻じ曲げられてゆく。この転向力を「地球自転のコリオリ力』といい、海流や風の原動力の一つとなる。これを理解するには少なくとも高校程度の学力が必要である。

やはり、子供には地球儀や適当な絵本を与え、「太陽や星が動くように見えるのは、車に乗って外を見ると外の景色が後ずさりするように見えるのと同じことなのよ』と「知識』として教え込むべきであろう。天動説か地動説以外にもいくつかの基本的知識もあろうが。

「真理は教えるべきものでなく、体得すべきものである』これは一面の真理である。しかし、すべてを体得しなければならないとしたら、現代社会に必要な知識のうち自力で会得できるものは地動説のみではなく、アルキメデスの浮力論その他どのくらいであろうか。「九九はやはり叩き込まねば役に立たない」。

地動説が特に問題になるのは、これが世界観史の「コペルニクス的変換」という大変革に関わるからである。

(完)

 

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慰問袋に入っていた本

 

− POWのキャンプで金を稼いだ器用な兵士の話 −

POW と云うのは「捕虜収容者、 Prisoner Of War 」の略称

 

真道 重明

2004年12月

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の若い人には「慰問袋」と云うものをご存じ無い人もあろう。第2次大戦中、戦地に居る出征兵士を慰めるために、愛国婦人会などの肝煎りで「励ましの手紙と共に娯楽物や日用品などを入れて送った袋のことである。袋の中味は中には「お守り」、「歯ブラシ」、「石鹸」、「雑誌類」、「腹巻き」、中には「お手玉」、「おはじき」と云った女の子が黙って入れたようなものまであって実に様々であった。

誰かが受け取った慰問袋に確か「主婦の友」(だったと記憶する)の付録に付いていた「編み物大全」とか「編み物百科」と云った風の表題の分厚い本があった。「編み物」と云うのは「毛糸やその他の糸で衣服・シャツ・靴下・手袋などを編んでつくる」あれである。欧米では必ずしも女性とは限らないと聞くが、日本では「編み物」は普通は女性の手芸である。

何故男ばかりの戦地の兵隊さんにこんなものを送ったのか不思議であるが、日本語で書いた読み物が、例えそれが古新聞であろうと懐かしく「貴重な価値があり、皆で貪り読んだ」と云う情況だったからか、それを知ってのことか?、または、送り主が単に手元にあったから袋の中に放り込んだのか?とにかくその本は捨てられることなく、次々と持ち主を変え乍ら、敗戦によって戦闘停止となり、日本軍兵士が捕虜収容所(POW)のキャンプに収容される時まで保存されていた。

POWと云っても兵士には「捕虜収容所」と云う感覚は無く、「復員船が来る迄の待機場所に一時居住している」と云う感覚であった。…と云うのも武器の殆どは既に戦勝国に接収されて居たとは云え、大幅な自治権が与えられておりキャンプの入り口には実弾を込めた二人の日本兵の歩哨が立ってキャンプを守っていたし、かなり自由に町中に食糧や日用品の買い出しに外出することも出来た。1945年から1946年にかけての広東省の広州市郊外での話である。

戦勝国は中国軍(蒋介石率いる国民党軍)であり、敗戦側の日本軍に対する扱いは、例外を除けば極めて寛容であった。彼等には国際条約による敗戦国軍隊の対応より「八路軍」(毛沢東率いる解放軍のことをそう呼んでいた)との抗戦(北伐)に奔走していたので、日本軍どころでは無く、一刻も早く日本軍には「お引き取り願いたい」と云う気持ちがあったとも考えられる。

それはともかく、話を「編み物百科」に戻そう。分厚い本で私もチラット眼を通したが、手芸の「編み物」に関して材料・用具・デザイン・練習方法など微に入り細に亘って実に良く書かれて居た。誰もが私と同様2-3ページ捲ってチラット見るとその場に置いた。ただ一人だけ変わった人が居た。上等兵だった。誰もが再び手に取ろうとしないその本を常に身の側において熱心に読んでいたらしい。

「らしい」と云ったのは、私は部隊から離れて中国空軍第四方面軍の司令部に戦後処理の業務の通訳官として出向しており、POWのキャンプには常に仕事の上では訪れたが、生活を共にしては居なかったから、キャンプの中での彼の行動を常に眼にすることは無かったのである。

聞くところによると、彼は竹を見付けて来て、「大・中・小の普通の編み棒」や「鉤針」を作り始め、次に放置されていた「戦闘機をカムフラージュするための機体を覆う綿製の網を解きほぐしだした。さらに放置されていた絹製のパラシュートに付いている沢山のこれも絹製の長い紐も探し出して来て解きほぐしだした。それらは「編み物の糸」の材料となった。この糸の材料作りは気の遠くなるような仕事だったろう。しかし、とにかく用具と材料は調った。

彼は毎日「編み物百科」の本と首っ引きで「編み物」の練習を開始した。毎日と云っても決められた「使役作業」の余暇を見ての話である。しかしキャンプ内の生活は暇が多すぎた。皆時間を持て余していた。彼だけは「編み物」にハマリ込んでいたから、持て余す時間は無かったのである。1〜2週間もすると不細工ながら手袋や靴下を編めるようになったと云う。恐るべき上達である。「指先の動きはドンドン速くなっていった」と周りに居る戦友達は呆れて見守っていたと云う。

一月も経った頃だろうか。私が彼に会った時にには徳利首のセーターや丸い襟ぐりのジャケットなどを生産していた。そのうち、太い縄を撚った模様が浮き出したような飾りの付いたもの、いろいろなデザインの模様が付いたセーターや衣服類が出来始めた。

愈々販売開始である。彼はその前に街に外出した際、幾つかのサンプルを持って行き、売れるかどうか市場調査を既にして居たらしい。今の私達の感覚から見れば、羊毛の「毛糸」ではない糸から作ったもので、絹のレース編み以外は綿糸だから厚ぼったいゴワゴワした感じのセーターやジャケットである。とても売れそうにない。しかし、当時の街では飛ぶように買い手がついたと云う。

戦いに勝ったとは云え、広州市の庶民の衣食住は辛うじて維持されていたのである。だから綺麗な模様の付いたセーターなど、見たくても見れない時代だったのだ。稼いだ金で彼は街で食欲を見たし、キャンプには「勝利牌」などと書いたレッテルの葡萄酒と焼き豚などを土産に買って戻って来た。一躍彼はキャンプ内の人気者になった。製造元は彼の指先だけ。量産は出来なかった。

若し POW という環境でなかったら、彼は会社を起こす企業家に成って居たかも知れない。しかし彼は金儲けと云うより、「編み物」と云う手芸を通して「もの作り」に喜びを感じていたのだろうと私は思っている。

先日、今は有名人の一人になっている「指編み」(編み棒の代わりに五本の指で編む方式)の達人が民放のテレビでゲスト出演して話しているのを視て居る中に、半世紀前の彼のことを想い出したのでこの駄文を書いた。

 

[追記] 上述の話を読んで戦後生れの人々は「兵役に服して戦地に赴き、例え戦争に負けても、生き残れば普段と余り変わらない生活環境で帰国出来る」と勘違いされることを恐れる。絶対そんなことでは無い。上記は私がこの眼で見、この耳で聞いたことをその侭の事実の記録として書いたが、当時の部隊の兵士の肉体的・精神的なマイナス面は総て「敢えて意識的に」触れなかっただけである。自殺者が頻発し、栄養失調で病死する兵もあった。その様な「或る意味では極限状態」に置かれていた時でも、「忙中閑有り」では無いが、こんなエピソードも在ったと云うことである。老婆心ながら一言。

 

 

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連 環 画

− 日本の漫画やアニメの源流? −

 

真道 重明

2005年2月

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環画と言うのは中国の「袖珍版(ポケット版)劇画冊子」、言わば「漫画の豆本」である。数日前に書棚の整理をして居たら、最上段の奥の片隅から埃を被った数冊が出て来た。約半世紀前に私が上海水産学院(現大学)で講義のため2ヵ月余滞在した折に、「子供の土産に…」と上海の市中の書店で買い求めたものである。時が経って紙の色も黄色に変色しボロボロになった冊子の埃を払って数ページを眺めてみた。途端に懐かしさが込み上げてきた。数十年の間には処分した仕事関係の書籍やノート、資料やメモの類は沢山あるにも係わらず、どうして一見他愛も無さそうに見えるこれらの小冊子が残っていたのだろうか?横 12 cm、縦 10 cm 、100ページ位の小冊子である。

ものの本によると中国における連環画は、私が生まれた1920年代に、上海の世界書局と言う出版社が出した「連環図画 三国志」など五部の演義故事から始まるのだと言う。そして、このとき"連環図画"と言う言葉が出来たのだそうである。演義故事とは「三国志演義」(晋の陳寿が撰したと言う魏・呉・蜀三国の史書「三国志」ではない。蜀の劉備・関羽・張飛の活躍する三国志演義は羅貫中の作)などのように、昔から伝えられて興味やいわれのある事柄を修飾し小説的興味を添え、俗語で叙述したものである。

上海の書店で連環画を見たとき、私は「以前に何処かで見たことがある」と思った。それが学生時代に神田神保町の中国関係書籍の店か、中国語を習い始めた頃に素人下宿で同居して居た陳国相君が持って居たものか、それ以外の場所か? 記憶が定かではない。その時は「中国の児童向けの漫画本だ」ぐらいにしか思わず、それ程興味は感じなかった。日本では田川水泡の「のらくろ上等兵」などが流行っていた時である。

連環画がどんなものかご存じ無い方のために、上海で買った連環画の一場面を下に示す。古くなって、おまけに紙は黄色く変色しているし、画面がかなり不鮮明であるのはお許し願いたい。奥付けには下記のように記載されている。

大 鬧 天 宮
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作者  :    良 士   陳 光 益
上 海 人 民 美 術 出 版 社 出 版
     上海銅仁路二五七号
 上海市書刊出版業営許可証出002号
新 華 書 店 上 海 発 行 所 発 行
新  新   印   刷  廠   印   刷
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開本:787 × 1092 ,印帳 1 1/13/50.
1956年2月    新1版
1957年10月   第 9 次 印 刷
統 一 書 号 : T 8081・1632
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     定価一角九分

私が買った一年前に出版されている。表紙の題名は「大鬧天宮」、孫悟空の活躍する「西遊記」の大鬧天宮、すなわち「悟空、大いに天宮(玉帝の住む天上の宮廷)を騒がす」の物語りの一章がこの冊子の内容である。

大 鬧 天 宮

使われている漢字は「漢字簡化法案」(第1次)が前年に施行されているので簡体字で書かれて居るが、漢字簡化法案が施行されて間が無い時なので、簡体字の活字が揃わないため旧来の画数の多い漢字が多用されているのも時代を思わせて面白い。画面の左ページの中国語の説明は下記の通り。ただし日本の常用漢字で表記。

(8) 来到霊宵宝殿,太白金星上前跪拝綸旨,悟空却挺身立在殿上;衆仙官見他不向玉帝参拝,都怒目相看。玉帝没有動気,封悟空做「弼馬温」。

[画面の吹出し、玉帝の発言内容] 孫悟空是下界妖仙,不知朝礼,姑且怒罪!今封他弼馬温,即日上任。

悟空が玉帝から「弼馬温」の官職名を与えられた時の場面。玉帝は「悟空は下界の妖怪だから宮廷の礼儀を知らない。その罪は暫く措くことにして弼馬温の官職を与えよう。直ぐに発令せよ」との言葉。一方、孫悟空は玉帝の御前であるにも拘わらず、お辞儀もしないでふんぞり返って突っ立て居る。弼馬温は日本流に言えば厩別当(うまやのべっとう)に当る。

左ページの説明は下記の通り。

(9) 悟空到御馬監上任。他会同大小監官,点明了馬数,就天天在監裏管理洗馬、飼馬、割草、備料等事務。
   (ただし、「飼」の字は「食偏に畏を旁とした字」、日本語常用漢字には無いので「飼」を借用した、食べ物を与えるの意)。

自尊心は高いが無学の悟空は「弼馬温」が低い官職であることを知らず、もっともらしく厩を見回っている(右図)。見回り終わって厩の雑人から低い官職であることを告げられて大いに怒り出し、食卓をひっくり返し、「不做!不做!老孫走了」(辞めた!辞めた!俺様は行くぞ」と直ぐさま故郷の花菓山水簾洞に帰ってしまった。これが切っ掛けで一悶着起こることになる。いわゆる「大鬧天宮」である。

私の書棚にある呉承恩の西遊記 上 の p.40.(作家出版社、1957年北京第6次印刷、現在の西遊記の定本とされるもの)と照らし合わせてみると、「不做!不做!老孫走了」の処は「……、不做他!不做他!我将去也」となっていて、連環画の方は子供向けに現代語で簡略化されて居る。この定本の西遊記は(上巻)が第54回迄、584ページ、(下巻)が第55回から第100回迄、584−1132 ページの大冊である。

余談を言えば、これら上下巻は上海水産学院(現、大学)の王貽観教授(故人)から頂いたものである。初版は1955年で中華人民共和国成立直後であり、文字は繁体字が多用されて居る。「西遊記が好きで原典を探している」と言ったら、「bi4 ma3 wen1 (ピィ・マー・ウェン、)を知っていますか?」とのこと。「孫悟空の天界での職名でしょう」と答えたら数日後に私の部屋の机上に上下二冊が置いてあった。大いに恐縮した。

 

通 天 河

上図は前の「大鬧天宮」と同じ「西遊記」の中の一節である「通天河」の物語りの一齣である。悟空が猪八戒、沙悟浄らと共に、唐僧(玄奘三蔵、三蔵法師)の子弟となり往西天取経(インドに仏教のお経を取りに行く)の途中で通天河を渡る際、人身御供の童男童女を食べる妖怪「霊感大王」と戦う。図はその話の発端の場面である。

西遊記の物語だけでなく、三国志演義、聊斎志異、その他の多くの古典だけでなく、「入社那天晩上」、「在一個国営農場中」などと言った開放後の社会主義を教育する内容のものもあった。恰度京劇が「空城計」、「貴妃酔酒」、「霸王別妃」などの古典的外題以外に「白毛女」などの新しい外題のものが出来たようなもので、後者の連環画はそれと同じ児童向けの新版である。

手元に残っている数冊の出版社や発行年月を見ると、上記の上海だけでなく河北省の石家庄にある河北人民美術出版社、浙江省の杭州にある東海文芸出版社など、出版社は全国各地に跨っている。また、初版の発行は1956年2月、1957年7月、1957年8月などと記載されて居り、私が買った時点の一年前、中には僅か二ヵ月前と言ったごく最近のものばかりである。…と言うことは中華人民共和国が建国されて6−7年目になってヤット戦前の子供向け漫画の連環画が復活し発売し始めたことになる。

「連環画」とは、絵が連続的に連なるという意味だから、現在の日本のマンガやコミックと同じものである。中国で連環画が始まったのは1920年代と言うから、当時の日本では子供向けの絵本や四齣漫画、例えば大正期から昭和初期に報知新聞紙上に掲載され、一世を風靡した[4コマの新聞連載漫画の始祖と言われる。1923年(大正12年)。]麻生豊の「ノンキナトウサン」、同年に朝日新聞に連載した樺島勝一の漫画「正チャンの冒険」などは在っても、今の劇画風のものは無かったのでは無かろうか?米国もでも「親爺教育、Bringing up father」など新聞紙四齣漫画はあったが、80 - 100 齣ある劇画風の連環画形式は無かったのでは無かろうか?

連続した多齣漫画である「のらくろシリーズ」は「さざえさん」で有名な長谷川町子の師、田川水泡が「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」の連載を開始した。これが最初のような気が私はして居るが、調べてみるとこれは1932年(昭和6年)である。中国の連環画はそれより少し早いようだ。今日本のコミックやその延長線上にある動画(アニメ)は隆盛を極め、世界を制しているようだが、その源流は中国の連環画だった可能性は考えられる。

上に図示したように私が買った当時の連環画はモノクロ(おもて表紙だけは彩色)だが、絵はきめ細かく丁寧に描き込んである。現在の連環画は製本も立派になり書籍のサイズも大型化したカラー印刷になって居るが、昔の連環画は白黒とは言え、それはそれで独特の味わいがある。中国の人々も懐かしいのだろう。先年、青島市の書店で大型の本装丁の復刻版を見た。原寸大の絵の8齣分を1ページに排列しアート紙に刷ってあった。

 

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鶯鶯魚と紅娘魚

− 西廂記に由来する粋な魚の名前 −

 

真道 重明

2005年4月

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鶯鶯と紅娘は西廂記に出て来る主役的な人名である。「西廂記」(セイソウキ。セイショウキとも読む)と言うのは一四世紀初め頃出来た元代の戯曲、すなわち元曲(北曲とも言う)の祖である王実甫の作。ずっと昔の唐時代の「会真記」(鶯鶯伝)に基づき、崔鶯鶯という美人と張君瑞という青年との曲折ある情事を脚色したもの。中国の古典戯曲や京劇に興味のある人なら誰もが知っている。西廂と言うのは屋敷内の西側に在る棟のこと。西廂記の英訳は ”The West Chamber” と言うタイトルになっているのを見たことがある。恋愛物語である。

「紅娘」と言うのは、「鶯鶯」と言う名の「多少、わがまま」な良家の非常に美しいお嬢さんの侍女で、張君瑞と鶯鶯との恋仲を取り持つ聡明な小娘の名前である。或る意味では「紅娘」がこの物語の一番の主役かも知れない。1957年私は北京で「拷紅」(紅娘の取り持ちの画策がバレて鶯鶯の母親の崔夫人に叱られる話。拷は拷問の拷で、張君瑞と鶯鶯の仲を問い質そうとして鞭で紅娘が打たれる)という京劇の一齣を見たことがある。「拷紅」のタイトルを持つ一般歌曲は現代でも多くの歌手が歌っている程人気がある。

話は変わって魚のことになる。ホウボウ科 Triglidae と言う魚の仲間に多くの属があるが、その内 ホウボウ属 Chelidonichthys と言う属に「ホウボウ」という魚がある。学名(ラテン名)は Chelidonichthys kumu (= Chelidonichthys spinosus)。体長は約 40 cm 位で、体色は紫赤色、胸びれが大きく、内面は鮮青色で美しい斑点がある。活きているものは実に綺麗である。本州中部以南に分布する底魚で、味は頗る美味であり、鍋物など最高である。漢字(日本語)で書けば「彷彿」の二文字の何れも「行人偏の替わりに魚偏」を書く。また、「竹麦魚」とも書くらしい。英語では Gurnard と呼ぶ。

一方、ホウボウ科の魚の仲間の属にカナガシラ属 Lepidotrigla と言う属があり、カナガシラ、オニカナガシラ、トゲカナガシラ、カナド、イゴダカホデリなど幾つかの種類が日本にも産する。いずれも上記のホウボウに良く似ているが、体長はホウボウよりやや短く、30 cm ないしそれ以下である。体色は赤色(紅色)である。本州中部以南の沿岸に多く、特に冬に美味である。味はとても良いが堅い頭がゴツゴツしているのであまり一般には知られていないようだ。一つ、二つの種類を除くと胸びれはホウボウと同じく色々な斑文がある。長崎ではカナガシラの仲間をガッツ、またはガッツンと呼ぶ。漢字で書けば「金頭」または「火魚」。英語では Searobin と呼ぶ。

私が1949年頃、長崎の西海区水産研究所で底魚の仕事を始めた頃、東シナ海の漁場は李承晩ラインやマッカーサーラインで制約されていた。日本沿岸に近い沖合の資源ではカナガシラ類は重要だったから、先ずこれらの魚の資源の研究を始めた。しかし、分類学的に混乱していたので、分類学的な整理から始めなければならなかった。その結果は、1951年の10月に「東海産カナガシラ類の資源に関する研究.日本水産学会誌.17、(6)、550−562 として発表した。胸びれの綺麗な模様が重要なメルクマールになるのでカラー印刷の図版を入れた。日本水産学会誌でカラー図版を入れたのは発刊以来これが最初では無いか?と思う。

面白いのは中国に於けるこれらの魚の呼び名である。「ホウボウは鶯鶯魚 (イン・イン・ユィ、ying1 ying1 yu2)、カナガシラの仲間は紅娘魚 (ホン・ニャン・ユィ、hong2 niang2 yu2) と呼ぶ」というのである。この話を聞いたのは1957年、青島の中国科学院水生生物研究所だったと思うが説明した人の氏名は失念した。多分「成慶泰」氏 (故人、魚類学者)では無かったか?と思う。私は上述のようにカナガシラの類を調べていた経験があり、また西廂記も多少知っていたので興味を引き、「とても粋な名前だなぁー」と驚いたことを憶えている。

ホウボウを美女の鶯鶯に擬え、カナガシラ類を侍女の紅娘に擬えている。ホウボウの胸びれは実に美しい。美女の鶯鶯に相応しい。カナガシラ類はホウボウよりやや小さく、かつ、その胸びれもさることながらこの仲間の体色は総て赤い。侍女である紅娘の「紅」である。水槽や水族館で活きた魚が胸びれを拡げた所を良く観察しなければその美しさは分からない。魚屋の店頭などの死んだ魚では先ず気が付かない。名付けた人達はこのことを良く知っていた人々であろう。

中国魚類系統検索 (中国科学出版社、1987年版) によると、カナガシラ属は「紅娘魚属」、ホウボウは 鶯鶯魚ではなく、緑鰭魚属の「緑鰭魚」となっている。胸びれが美しい緑色を呈するからだろう。粋な名前の 鶯鶯魚 も捨て難いのだが…。

 

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FUGUNOBORI

河 豚 の ぼ り

− 「鯉のぼり」ならぬ「河豚のぼり」 −

 

真道 重明

2005年4月

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5月5日は端午の節句、1948年からは「こどもの日」と呼ばれる国民祝日である。最近の大都会ではあまり見掛けなくなったが、昔から4月に入ると多くの家には「こいのぼり」が立ち並んでいた。戦国時代の愛国詩人である屈原の命日に当たる5月5日は中国の端午節に由来し、菖蒲(しょうぶ)湯や粽(ちまき)を食べる風習も中国から日本に入って来たものだそうである。

しかし、鯉のぼり「鯉幟」は中国では見たことがない。日本独特のものだと思う。英語では carp streamer と訳している。 streamer には「吹き流し」の意味がある。五月の風に甍の波の上に泳ぐ「鯉のぼり」は如何にも日本的で美しいものである。

もう半世紀も前のことだが、私には変な魚が鯉に混じって空中に泳いでいる。良く見ると、なんと河豚(フグ)ではないか。その時は気まぐれな人が人を驚かせる悪戯な目的で特別に造ったものか、それとも何か特別の理由があってのことか?どうも腑に落ちないで「おかしなものがあるものだ」と思って居た。

これは長崎県の野母崎の茂木でのことで、バスの車窓からの一瞥であった。その後、長崎市内でも二箇所でこの「フグのぼり」を見掛けた。これもバスの車窓からであったが、側の友人に「あれを見ろ!フグじゃないか?」と言ったら、友人も驚いて「初めて見た。確かにフグだ」と言う。彼も「変なものがあるものだ」と呟いていた。此処で私に時間の余裕があれば、その家を訪ねて故事来歴を聴くところだが、その侭になって半世紀が過ぎてしまった。

半世紀後のツイ先日、魚に関する Web site を検索していたら偶然にも魚の幟に関するページを発見した。「これは面白いぞ」と彼方此方の Web site を探した。大部分は「鯉のぼり」に関するものだったが、鹿児島県の枕崎港では「鰹(カツオ)のぼり」があり、毎年「魚のぼりサミット」が開催されているという。笠沙(鹿児島県川辺郡笠沙町)の鰤(ぶり)、宮崎の鯨、そして青森の鮭などの「のぼり」があると言う。他のサイトでは、鮎(あゆ)のぼり、鰆(さわら)のぼり、鯛(たい)のぼり…などがある。私が見た「河豚(フグ)のぼり」は無かったが、「鯉のぼり」だけではなく、いろいろな「魚ののぼり = 魚幟」があることを知った。

水産関係の数人の友人に尋ねたが、私同様に誰も「鯉のぼり」しか知らないし、そんな物は見たことがない」との返事だった。鰤のぼりがあり、鮎のぼりがあるなら、河豚のぼりも不思議ではなかろう。これで、私の半世紀に亘る疑念は解けた訳だ。それにしても世の中には「色々なものがあるものだ」とツクズク思う。

 

追 記

(1)四国の四万十川や琵琶湖の鮎のぼり、沖縄の鰹のぼり等々、数名の人から連絡があった。鰮のぼりもあった。全国にはかなり「鯉のぼり」以外の「魚のぼり」があるらしい。しかし、私の見た「河豚のぼり」の情報は未だ無い。知っている方が居られたら、是非「何処で見た」などとお知らせ下さると幸甚。(2005/05/08)。

(2)「河豚のぼり」を遂に見付けた。デール君の「デールのリスナビ」のサイトに「ふぐのぼり」の写真が出て居る(2006/06/07)。鯉のぼりに混じって3尾の河豚がお腹を膨らまして風邪に泳いでいる。(2007/05/08)。

同上のサイトから引用

私が昔見た河豚のぼりは背中が黒く、腹も膨らんでは居なかった。フグの中間はハリセンボンなどでも同じだが、棒で突っつくと空気を吸い込んでパンパンに膨れる。その様子が何とも面白い。上の写真も目玉まで飛び出して居り思わず笑ってしまう。

(3)5月5日も近いNHKのラジオ深夜便で、鯉のぼり製作者のインタビュウがあった。最近では「鮎(アユ)のぼり」、「鯨(クジラ)のぼり」、中には「甚平鮫(ジンベイザメ)のぼり」等と云う変わった注文があるという。まさに「魚なら何でもあり」の様子。私には驚きだ。(2007/05/06)。

 

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兵の目

兵の目から見た戦争

真道 重明

2005年9月

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戦争は軍隊という殺人者集団同士の衝突であり、殺人が罪悪である以上、戦争は罪悪であり正義の戦争などと言うものはあり得ない。軍歌の「天に替わりて不義を討つ云々」など不遜も甚だしい言葉である。私は「不倶戴天」という言葉が大嫌いである。凡庸の人間が「天」(神や仏と言い換えても良い)に代わるなど出来る筈はない。「倶に( = 共に)、天を戴かず(いただかず = この世で一緒に生活できない)」と言うのなら先方を地球上から「一人残らず抹殺せよ」と言うのか?ナチスのユダヤ人殲滅思想と同じだ。

モスレムの知識を知らない私が云々するのは烏滸がましいと言われるかも知れないが、妥協を頑なに拒否しているように見えるイラクのシーア派とスンニ派の争い、更にはイスラエルとパレスチナの啀みあいを見ると、この「不倶戴天」という言葉を連想するのは私だけだろうか?

こればかりではない。自分達の思想を至上のものとし、他を武力を行使しても排除しようとする事例は世界中に沢山ある。地球上の人類の一部の人々は「何か勘違いをしていて、大きな間違いを犯している」ように思われてならない。

戦後60年の節目に当たる今年は、「戦争を語り伝えたい…」の記事やテレビ・ラジオの番組が目立つ。私もそれに倣って書き残したいと常日頃思って居た幾つかの事柄を此処に書こうと思う。以下に述べることは私自身が軍役に服していた際、この眼で見たり体験した「私の胸底にある偽らざる事実の記憶」である。大多数の兵は「心ならずも」軍役に服し、戦死したり辛酸を舐めた。私も含め「心ならずも」命令に従い、心底に秘めた考えを必至で「押し殺していた」のだ。


目 次

(1) 出征時、父母を大衆の面前で非難した士官候補生。
(2) 
「天皇陛下万歳」と言って息絶えた兵はむしろ例外に近い。
(3) 
兵は敵よりも身勝手な上官を内心では敵視していた。
(4) 
「靖国神社にだけは祀ってくれるな」と言う兵。
(5) 
復員船の中で行われた部隊長に対する弾劾裁判
(6) 
将校が全員海に投げ込まれた復員船。


父母を大衆の面前で非難

出征時、父母を大衆の面前で非難した見習士官。

 

大阪の阪和線、南田辺駅頭には多数の群集が日の丸の小旗を手に、「祈武運長久」の幟を立てて集まっていた。正面の壇上には3〜4名の兵隊さんが並んでいた。当時は少なくも週に1〜2回は見掛けた光景である。時は1939年(昭和14年)の夏。私は中学から東京の学校に進学した年であり、初めての夏休みで大阪にあった自宅に戻っていた。壇上の一人は小学校時代からの親友だったから偶々私は見送りのためにこの集会に参加していた。

型通りの「出征兵士を見送る」形の式の次第が済み、万歳三唱で終わろうとした途端、壇上の一人が突然に演説を始めた。彼は戦地で少尉に任官する直前の見習士官だったように思われたが、本当のことは分からない。ちなみに「ボーヤ」という綽名の私の友人は初年教育を終え、戦地に赴く前に一階級上がった一等兵だった。

士官紛いの服装のその彼は声を張り上げて眼前にいた両親を指さして叫んだ。「皆さん!この二人は私の親です。『勝たずば活きて帰るな』と私を激励しようとしないばかりか『何があっても活きて戻って来い』と言うのです。皆さん!これは非国民の言葉です。国体の本義をわきまえて、どうかこのような間違った考えを持つ人にならないで下さい」と声高にぶち上げた。一同はただ呆気にとられて両親をその面前で罵倒する彼の演説を聴き、ただ押し黙った。

数秒間の沈黙。誰かが「体に気をつけて!万歳」と叫んだのを切っ掛けに散会となり彼等数名は電車に乗るため駅舎の中に入って行った。両親は下を向いているだけだった。両親のご心情は察するに余りあるが、演説を聴いた一同は呆然とした顔付きで、ただ黙して誰も声を出さなかった。「忠君愛国」の一色に染まった彼は真剣そのものだった。

声を出さなかったのは多くの人々が「内心では両親の『何があっても活きて戻って来い』と言う言葉の心情が痛いほど分かっている」にも拘わらず、大衆の前で彼に反論して「それ」を言うと「非国民」と誤解され、平服の憲兵がいたら睨まれることを恐れたからではあるまいか?

何処かが間違っていると思いながらも、軍部の指導する「世の中の大きな流れ」に沿って居なければ、爪弾きされることを恐れたからであろう。しかし本当の胸底にはその両親の言葉を是とし共感して居たと思う。

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天皇陛下万歳

「天皇陛下万歳」と叫んで息絶えた兵は居たのだろうか?

 

小中学校で軍国教育を受けた私達は戦場で「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」などの言葉を最後に残して息絶えたという話を、何回も何回も、繰り返し、繰り返し、聞いたり読んだりした。これは本当のことだったのだろうか?若し、在ったとしても、それはむしろ例外で、極めて希なことだったのでは無いかと戦地の経験を持つ私は、傘寿を超えた今ではそう思うようになった。

敵弾や爆弾の破片で重傷を負い、戦友や軍医や衛生兵に看取られて死んでいった兵を私は数多く見たが、「呻き声で言葉にならない者」、「水を呉れ」、「タバコを呉れ」という兵は多かったが、「万歳」と叫んだ例は一つもなかった。大量出血による脱水症状からくる喉の渇き訴える兵は水を与えると数分以内に死亡する。吸い込んだタバコの煙が胸部に負った肋骨の裂け目の隙間から吐き出ている者を数回見た。阿鼻叫喚の図である。

航空隊の支援部隊の一つである気象隊に私は属していたから、戦場は敵機の爆撃や敵艦隊からの艦砲射撃の最大目標である飛行場である。歩兵の、いわゆる白兵戦ではないから敵兵の姿は見えない。敵愾心丸出しの白兵戦とは環境は異なるが、未だ意識が残っているとは言え、「天皇陛下万歳」などという心情を表す言葉が出るものだろうか?

飛行場を警備している歩兵部隊のベテランの兵士からも、白兵戦の突撃はただ「ウヮー」という叫び声だけだとよく聞かされた。戦闘が終わって運良く衛生兵の看護を受ける状態となった兵も「…万歳」などと言うものは一人も居なかったと言う。そんな冷静?な気持ちになる者は居ないと言う。

小学校や中学校での軍国教育で度々習った「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」と叫んで息絶えたという話は、本当だったとしても、例外中の例外だったのではないか?そう思わずには居られない。

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内心では名誉欲

兵は敵よりも身勝手な上官を内心では敵視していた。

−兵を人間扱いしない上官や名誉や出世欲に駆られた上官の話−

「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず」(孟子公孫丑下)の言葉通り、戦いで最も大事なものは「人の和」である。兵と上官(下士官や将校)との間に信頼関係が失われれば、その軍隊は戦いには勝てない。この分かり切った道理に逸れた実態が戦地にかなり存在していたことは否定できない。

徹底した階級社会である軍隊は、肩章や襟章の星の数が一つ多いか少ないかは,学校の先輩か、後輩かの関係などとはとても比べものにはならない。「あの薄野呂野郎」と思っても、その男の星の数が一つ多くなれば途端に「その男が偉く見えて来る」から人間の心理は不思議なものだ。

「そんな馬鹿な」と今の若者は思うだろうが、徹底した階級社会の軍隊での生活経験がなければ、その心境はとても理解できない。

兵は下手に将校と口論でもすれば「上官侮辱罪」、更に下手をすれば「反逆罪」というもので締め付けられている。そこまで行かなくても陸軍懲罰令には軽営倉や重営倉というものが在って、娑婆(兵営の兵の外の一般社会)でいう警察の「ブタバコ」に抛り込まれる。内心でどう思って居ても絶対口に出してはいけない。下手をすれば命に関わる。

しかし、敵の弾が飛んでくる戦場では事情が異なって来る。何時敵弾に当たって落命するか分からない状況下にあるのだし、第一、最前線には営倉など無い。在るのは敵前逃亡罪ぐらいのものだ。これは極刑に値する重罪だが、逃亡罪は話には聞くが私は身近に見聞きした経験はない。敵の夜襲に遭ってから気が変になって精神に異常を来した兵が私の隊に居た。夜中に勝手に部隊を脱け出して徒手空拳の「着流し」の侭、敵の潜む近隣の部落に赴き、徘徊するので何時狙撃されるか分からない。その兵には「前線を離れて後方勤務就く命令」が出された。気が変なのだから手の着けようが無く、逃亡罪で無いのは明らかだった。朝になるとフラフラと帰営するのだから。

それはそれとして、上官のなかには何時も威張って当番兵でもない兵隊に褌を洗わせたり、身勝手な私用を平気でさせる者も少なく無かった。最も腹に据えかねるのは「自分がより良い手柄を立てるのが目的で部下の命を屁とも思わず、消耗品扱いのように部下を使い、戦闘の指揮をする上官である。酔っぱらうと平気で「これが軍隊で出世する方法だ」と皆の面前で放言して憚らない。兵や下士は内心「この野郎」と思っても云えない。戦闘が始まると「どさくさに紛れて背後に居る部下から狙撃された」という話を、初年兵の教育期間は別として、聞かされたことが何回もあった。

作り話かも知れない。私は気象隊という非戦闘部隊だったから、もちろん、その現場に立ち会ったことは無い。事実で真相がバレたら銃殺刑は免れないだろう。しかし、作り話だったとしても、この手の話が戦地では到るところの物陰の噂話として語られていたこと自身が問題である。兵を人間扱いしない上官は私の身近に何人か居たし、兵がどう思っているかは良く察しが付いた。毎日起居を共にしていたから。

名誉や出世欲に駆られた上官で将官にまで登り詰めた人には何度も会った。戦況が日増しに不利になりつつある1945年、南方戦線から内地に向かうベタ金(将官の肩章や襟章は縞が無く地が一面に黄金色であるため「ベタ金」と俗称されていた)が時々広州の飛行場に給油のための中継地として立ち寄ることが多かった。彼等将官は「戦況報告と言う名目」で内地に向かっていたのだろうが、我々には逃げ帰るとしか映らなかった。

彼等は決まったように小指を除く4本の指には分厚い純金の指輪が見えた。私達の任務は台湾経由の航路の気象条件をパイロットに説明することである。搭乗機は小型の戦闘機で、機はエンジンを掛けた侭、搭乗者は将官ただ一人。滑走路の脇で私など気象隊員の説明を聞くパイロットのそばで「大丈夫か?、大丈夫か?」と何度も念を押す将官の態度には、我々は何か将官が「俺は死にたくない」と言う気持ちが強く表れているように感じる。そのくせ態度は「威張り反って」いる。

「これが日本軍の将官か」と唾を吐きたくなる気持ちを抑えながら、「一体部下の将兵は何人戦死しているのか」と内心では怒鳴りたかった。明日の爆撃で死ぬかもしれない情況にある私たちに向かって「ここは平和で好い処だ」などと口走る始末。「一体何を考えているのだ」と呆れた。日本軍の将官が皆そうとは思わない。私が体験した数名は例外中の例外と思いたい。我々の仲間も後で「あのベタ金野郎」などと陰口を叩いていたから、皆彼等に対してはそう思っていたにに違いない。中には指輪だけでなく、ピカピカした腕輪までしたのも居たと言う話を仲間達はして居た。

私が自ら天気図を手にして会ったこのような将官は4、5名であった。沖縄特攻は既に始まっていた。彼等が無事内地にたどり着けたか否かは知らないし、その情報は送られては来なかった。また知りたくもなかった。

いわゆる「玉音放送」の4、5ヶ月前、広東省広州市の白雲飛行場での話である。その時の私の階級は下士官の最上位である准尉(以前は特務曹長と呼ばれた)だった。

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靖国神社にだけ

「靖国神社にだけは祀って呉れるな」と言う兵。

 

この頃は「靖国神社問題」か盛んに論議されている。私個人は神社というものにあまり興味は無い。小学生の頃は恰好の遊び場であり、祭礼の際の「だんじり(山車、だし)」の太鼓や鉦の音、小遣いを貰って境内に並ぶ多くの屋台店を覗き回った楽しい記憶はあるが、神社そのものについて考えたことは無かった。

私の神社観は進学のため上京して入った学校の一般教養に「倫理」という課目があり、深作安文という先生から受けた「神道、しんとう」の講義に基づく所が大きい。私の理解に間違いがなければ、その内容の骨子は次のようなものであった:−

日本の神道は一種の多神教の原初形態的な宗教である。しかし、宗教としては低次のアミニズムの一種である。いわゆる自然崇拝の一形態である。

神道より高次の宗教である佛教やキリスト教などは教義を述べた教典や聖書と言ったものを持っているが、神道には「祝詞、のりと」はあるが、これは教典ではなく教義を述べたものではない。

仏教の「寺院や伽藍」、キリスト教の「教会堂」に当るものは神道では「神社」である。この宗教思想の萌芽は縄文時代から見られる。現代までこの神道という宗教思想は時代により大きな変遷を経て来た。

東京帝国大学から私の母校に講義に月に一回程度見えていたと記憶するが、この深作安文という先生は倫理学、とりわけ神道の理論的学者としては有名な大先生であったらしく、その事を知ったのは極最近のことである。

話が逸れそうになったが、靖国神社に戻ろう。伊勢の神宮、出雲大社を始め、全国にある神社には各々祀られている神が決まっている。ところが靖国神社だけが例外で、膨大な数の殉国者が合祀されて居る。幕末の錦の御旗の下に戦死した官軍、西南戦争の官軍の兵は祀られてるが、愛国の志を持って戦いはしたが、負けた側の志士は賊軍として省かれている。「勝てば官軍」という言葉を思い出す。

昭和時代に入った侵略戦争で「心ならずも」兵役に服した兵のなかには熱心な仏教徒や僧侶も居た。クリスチャンも居た。彼等は神道の信者ではない。戦死すれば「家の菩提寺に祀って貰いたい、強制的に兵隊にされたが、「死後の祭祀」まで強制されるのは嫌だ」という兵はかなり居た。家に神棚があるのは普通だったが、故郷の鎮守の森の神社なら分かるが、「靖国神社は御免だ、そこまで自由を奪い強制するのか」という者も居た。

このような会話や論議は真っ昼間に堂々とは勿論出来ない。心を許し合った仲間同士だけで陰でひそひそ行われる。「今度は俺が出撃する番だ。次にお前と会うのは靖国で…」というのは歌の文句としては恰好が良いのかも知れない。しかし、毎日毎日一人、二人と人数が減る空中勤務の戦闘機搭乗者には、ピット(Pit-inn、給油や整備をする溜まり場から転じて空中勤務者の飛行場での待機所)を訪れ気象情報を毎日説明する我々は、彼等とは親友となっていたが、彼等から「靖国」という言葉をついぞ一度も聞いたことはなかった。

死を目前にして居る彼等は貴重なベテランの戦闘機操縦者であったが、普段口にするのは両親の話、故郷の山川だったが、それも多くはなかった。専ら、「雨々降れ降れ母さんが…」、「赤とんぼ」などの童謡を手を組んで輪になり踊っていた。その子供のような様子には「悟りきって生死を超越したものを感じた。

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復員船での部隊長

復員船の中で行われた部隊長に対する弾劾裁判

 

我々が母国の日本へ帰還のため戦地の広東省の広州市を離れたのは1946年の4月、乗船のため広州市から黄埔(蒋介石軍の黄埔軍官学校のあった地)の港まで徒歩で移動し、3000名を収容した「リバティ型の復員船」に乗り、母国日本に帰還が叶ったのは5月初旬である。

私は戦闘停止後、通訳官として約7ヵ月勤務した中国空軍の第四方面軍司令部に居たが、その侭その後も留め置かれることも無く、復員船が来ることが決定されると、司令部を離れて原隊に戻ることが出来、原隊も全員が待ちに待った復員船で母国日本へ帰ることが確実になった時は、まるで「これは夢ではなく真実のことだ」と皆心に言い聞かせて居た。

復員船の目的地は神奈川県の久里浜港だった。事件はこの帰国途上の航海中に起こった。黄埔を出航して数日目、大佐だった情報隊の部隊長の行李(部隊長だけはどう言う理由か知らないが行李を所持していた)の中味が私物であり、しかも、金製品や象牙の麻雀牌であることが分かった。他の下級将校、下士官、兵は所持品を収納出来るものは、いわゆる背嚢だけである。背嚢以外に別の袋など持つことは不可能であった。中味は石鹸・歯磨き粉・歯ブラシ・タオル、それと毛布一枚という最低限の生活必需品だけと言うのが実情であった。

「部隊長の行李には私物の金製品の土産物や象牙の麻雀牌が詰め込まれれて居るらしい」という噂は、瞬く間に船中に拡がった。これが切っ掛けとなって船中には兵の部隊長に対する弾劾という不穏な雰囲気が日を追って醸成されつつあった。

召集解除で軍役を離れるまで一応の軍律は守られて来たとも言えるが、これは集団行動を維持するための最小限の規律であって、上官侮辱罪などの考えは何処かに吹っ飛んでしまっていた。第一、全員が階級章を付けていないのである。階級という観念は無くなっていた。

部隊長だけでなく兵が腹に据え兼ねていた「将校数名の弾劾裁判を行う」旨のニュースが船内に流された。正面に「ひな壇」が設けられ、中央に部隊長、その左右に5、6名の将校が座らされていた。その前の床には2個の机が置かれ、一方は検事に当たる席、他方には判事に当たる席となっていた。誰がこのような仕組みを考え出したのか私は知らない。しかし、兵や下士の中には司法に詳しい知識を持った学徒兵出身のものが可成居たのである。

裁判長に当たる兵(下士官かも知れない)が「ひな壇」に並んで正座していた将校の氏名と職名を読み上げ、呼ばれた将校は次々と頭を下げた。夥しい数の聴衆は胡座を組んだ姿勢で床に座り、成り行きを固唾を飲んで見守っている。次いで検事に当たる席の一人が部隊長始め「ひな壇」に並んだ将校の罪状を告発する文を読み上げた。

裁判長は聴衆に向かって「何か意見は無いか?」と問いかけた。途端に最前列に座っていた兵がすぐ手を挙げて「某々中尉は当番兵でもない俺に何度も褌を洗わせた。洗い方が悪いとやり直しを命じ、殴られた。何時か闇討ちで殴り倒そうと何度思ったか知れない」と叫んだ。何人かが「今、此処で殴り返せー」と怒鳴る。裁判長はそれを制して「某々中尉、何か反論はあるか?」と尋ねる。「事実を認めます」というと「判決:某々中尉、発言した兵に謝罪せよ」。

某々中尉は頭を下げて、「申しわけ有りませんでした」という。聴衆の数名が、「帽子を取れ」、「頭の下げ方が少ない。もっと低く下げろ!」、「言葉に誠意が感じられない。もっと本心から謝れ!」と喚く。繰り返し数回謝り、最後は土下座せんばかりであった。

これは一例である。次々とこのような形の謝罪が繰り返された。告発文や判決文はなかなか堂に入ったものであった。大詰めは部隊長の私物行李の問題であった。「判決:某々部隊長は私利私欲のため、たの兵士が最小限の生活必需品しか所持していない実情を百も承知して居ながら、行李を所持しうる特権を利用して私物の貴重品類を持ち帰ろうとした。部下を思い遣る心は微塵も無い。この思い上がった行為に対し全兵士に謝罪せよ。なお、当該の行李は明日海中に投入し、水葬礼に処す」というものであった。部隊長はシャツ一枚で土下座し、謝罪を繰り返した。

翌日の定刻には皆が甲板に集まった。部隊長、元副官も引き出されていた。船橋に居た誰かがメガフォンで「只今から部隊長の行李を水葬する」と物々しく宣言した。舷側に置かれていた行李が数名の兵によって担がれ海中に抛り込まれた。一斉に「万歳」の声が甲板にいた全観衆の口から挙がった。純金製の貴金属類、象牙の香炉や麻雀牌などは海の藻屑と化した。

誰誰がこのような裁判劇のシナリオを企画し、演出を考え出したのか私は一傍観者だったから知らない。しかし、検事役や判事役の兵や学徒兵だった下士は司法の専門家のように思われた。諧謔と皮肉を含む告訴文や判決文は仲々堂に入ったもので感心した。判決は謝罪と所持品の廃棄であって、殴る蹴るの暴力は無かった。

夥しい兵の眼前で土下座して謝る一部の身勝手だったかつての上官の不様な姿を見て、内心「この野郎」と思って居た兵は溜飲を下げたのは確かである。船内の不穏な空気はこれで収まり、久里浜港に入港するまでは平静さを保っていた。

今になって思えば、このリンチ的、人民裁判的なこの事件を取り仕切った兵や下士は良いことをしたと私は思って居る。多数のリバティ型の戦標船(戦時の物資不足の状況下に設計された船で幾つかのタイプがあった)で外地(主に南方戦線)から引き揚げてきた船の中には、次項に述べるような悲惨な出来事が多数あったようである。私達の船にはそれは無かった。一応、集団行動のルールは守られていた。

「兵や下士は良いことをした」というのは、若しこの一連の弾劾裁判がなかったら、感情的に興奮した兵は集団心理も手伝って、所々で上官を殴る蹴るの暴力を振るい出して止めようの無い無政府状態になったかも知れない。この事件はそのガス抜きとなった。

久里浜港に無事入港したが、コレラの発生で約1ヶ月後に祖国上陸を許され、久里浜の宿舎には3〜4日居て、形ばかりの復員式と軍歴の書類作りが行れた。占領下の政府に設けられた復員局の指示でそれらは行われた。復員式により召集解除となった後は全員は軍隊の階級は完全に消滅した。上官に対する私的制裁(リンチ)を私が見たのは久里浜駅頭である。船内での弾劾裁判に飽き足らない一部の兵がかつての上官を殴り顔が膨れてボコボコの南瓜のようになった将校が一人ポツリと離れて駅の長椅子に座っていた。面相が変わって誰だか分からなかった。

勇猛を誇った日本軍と言われるが、兵の目から見ると一部とはいえ、このような側面があったのである。孟子のいう戦いに勝つ条件「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず」の人の和、すなわち、上官と兵の信頼が崩壊して居た部隊も多々あったということだ。

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将校が全員海に

将校が全員海に投げ込まれた復員船。

 

久里浜港に船が入港し、ヤット懐かしい日本の山河を目前にして居るにも拘わらず、コレラ検疫のため久里浜港の沖に約1ヵ月も留め置かれた。コレラが船内に発生し、毎日10名、20名と死んでゆく。コレラ菌は塩分に強いので、当時の久里浜湾はコレラ菌で充満していた。帰国の航海中は何事も無かったが、湾に到着後「絶対に海水で歯を磨いたり顔を洗うな」の厳命が指示されて居たにも拘わらず、大したことはないという者が禁を破ったためであろう。

一人の罹患者が出た途端に急速に船内に蔓延した。復員兵は半栄養失調状態で細菌への抵抗力が低下していたことも急速な流行に拍車を掛けた。全員がワクチン注射を受けていたが、栄養失調状態の者には抗体が出来ないため効果は余り無かったようだ。一人の居住空間は将校・下士官・兵を問わず皆平等に畳一帖、そこに自分の身体と背嚢・毛布が置かれている。

発病すると物凄い下痢と発熱症状が起こり、栄養失調状態の患者の場合、12時間以内、早ければ約6〜8時間で死亡する。隣りに寝ていた兵士が発病すると気が気では無い。先ず確実に翌朝は死亡している。毎日毎日「検便」がある。乗り組み全員が総て「陰性」にならないと上陸は許可されない。懐かしの故郷日本の山川・民家・人の行き交う姿を目前にしながら上陸できない。皆もどかしがっていたがどうにもなら無い。

その内、奇妙な噂が広まった。久里浜湾内には多数の復員船が犇めき合っている。その内の1隻だけがポツンと少し離れて沖係りしていた。あの船はどうしたのだろう?皆疑問に思った。

コレラで死亡した遺体を荼毘に付すためにランチが毎日数回本船を訪れ、遺体を収容に来る。乗っているのは白衣を着た医者か民間病院関係者または多分衛生兵だ。噂はこれらの人々から伝えられた。その沖で孤立して居る船には下士官と兵ばかりで将校が一人も乗船していないと言う。

久里浜沖にもう四ヶ月も留め置かれ、上陸許可が出ないと言う。ラバウルかどこか南方からの復員船である。将校全員は航海中に海に投げ込まれたと言う。コレラ騒ぎではない。占領軍は事態の異常さを重視し、取り調べが続いていると言う。

私達には「何があったのか?」の見当は直ぐ付いた。その船の場合ほど過激ではなかったが、似たようなことが航海中の私達の船でも起こっていたからである。前項で述べた航海中にあった部下から憎まれていた将校の弾劾裁判である。

これは私がこの耳で聞いた話だが、私は取調官ではないので、真偽の程を明言する証拠はない。しかし、上陸を許可されて消毒薬の風呂に入れられ、一人宛5分のバリカンで数ヶ月その侭だった頭を刈ってくれた復員者収容所の中の床屋の「おやじ」が私に語って呉れた話では、「あの船ほど酷くは無いが、良くある話ですよ」という。

私達は復員式が済み召集解除となった2、3日後、故郷に帰るべく久里浜駅から国鉄(占領軍が管理している RTO [Railway Transportation Office]が当時の正式名称)に乗車、東海道線に乗り換えて両親の元に急いだので、その事を詮索する精神状態ではなく、時間的余裕もなかった。しかし、私は噂の信憑性は先ず高いものであり、恐らく事実であろうと思う。

1946年6月の出来事である。

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二つの総選挙、日本とドイツ

二つの総選挙、日本とドイツ

 

林 繁一

2005年9月24日

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戦から立ち直った二つの経済大国で相次いで総選挙が行われました。選挙の経過と結果が示した国民の判断力、民主主義の定着の度合いの歴然とした差に世界の視線が集まったようです。日本では一つの法案を第二院が否決したという理由で第一院を首相の権限で解散しました。それ自体第二院の存在を恣意的に否定する行為ですが、世論はほとんど反応しなかった、つまり憲法の存在が忘れ去られました。ドイツでは任期満了に伴う選挙でした。どちらの国も雇用の縮小などの大きな課題を背負っていました。

日本ではさらに世界に類を見ない巨額の財政赤字が問題となっています。米国からの指示によって、国連の承認を得ないイラク攻撃に手を貸し、さらに国内に米国の軍隊の司令部まで呼び込もうとしています。加えて時代錯誤の教科書を権力によって採用したり、軍国主義を鼓吹してきた神社に政治家が参拝してきました。首相が固執する郵政民営化が米国の金融資本に日本国民の貯金を譲り渡す意味を持っていることも多くの人が指摘しました。

事実過去10年の間に日本の大銀行のいくつかが潰れ、税金で補填された後に米国の金融会社に安い価格で渡されてきました。近隣諸国との政治的関係も大きな困難に逢着しています。「否決されてしまった国連常任理事国入り」も、アジアでわが国を支持してくれたのはブータンなど三ヶ国にとどまりました。中国や韓国は「他の三国は支持しても良いが」と発言し、それを受けてインドは「日本を入れたのが失敗だった」と後悔の念を表しました。

ドイツでは経済の停滞と雇用の低迷、特に外国人労働者の増加が問題となっており、現政権の支持が低下するという当たり前の現象が起きていました。野党である保守勢力は当然この問題を取り上げ、支持率で与党を大幅にリードしました。所が党首討論で与党側の発言が説得力があった上に、保守勢力が富裕層の優遇を洩らししたために、議席数を増やしたものの両者の差は小さく、また左翼政党が議席を大幅に伸ばしました。

日本では野党第一党が呼びかけた党首討論に首相は応じませんでした。その前の国会論議を通して説得する能力がないことをご存知だったからでしょう。NHKの党首討論会で黙らざるを得ない場面もありましたね。その一方で「刺客」といったサムライ映画もどきの候補を多数立て、それをマスコミが面白おかしく騒ぎ立てて、世界を呆れさせました。淵田・奥宮両氏のいう「国民性の欠陥」が遺憾なく発揮されたわけです。折しも自由民主党の長老であった後藤田正晴さんが亡くなられました。立派な発言をしてこられましたが、後を継ぐ人が同じように振舞うにはこのグループ内の自由度は余りにも小さいようです。

感慨に浸っているだけでは、200万の同胞、アジアを中心とした2000万の人々の犠牲を出したあの時代を生き延びた人間として義務を果たしていないことになります。この現実を直視する人を増やそうではありませんか。自治会のお世話をするようになってから選挙にもかかわるお誘いを頂くことがありました。特定の候補者を勧めたり、逆に勧められたくないとお断りしてきました。理解してくださりそうな方には、選挙権の行使は個人の判断であり、そのために社会の現実を話合う必要があるとお話しすることにしています。

この国では興味本位で候補者または政党を選び、その政治家なり、政党の実績とか、今後何をやってくれるかを考える人が少ないのです。その結果、亀井静香さんが嘆いていたようにマスコミの面白半分のムードで支持政党が決まってしまうという識字率の高い国では稀な現象が起きていると考えます。

マスコミのムードに乗って、政治を判断している人が多いのです。たとえば「声の大きい人を信頼する」という人がおられました。「分かりました、あなたの年収はおそらく1,500万円を超えているのでしょうから、その政治家を支持されるのですね」と念をおしたのに対して「屋外労働で日銭が2万円入る他は、国民年金だけだよ」という返事なので、政府税制調査委員会の方針を説明したところ、ご意見を変えられたようです。

カリフォルニアやローマで暮した頃、その土地の人々の選挙や政治に対する関心を思い出しました。高校進学率が95%、大学進学率が45%を超える社会では開票率1%で当落が決まる例はきわめて稀れでしょう。

この文章を作り始めた9月21日の朝日夕刊2版、16面に載った加藤周一さんの「夕陽妄語」を読み、観察の鋭さに同感すると同時に、それで良いのかと感じを強くしました。つまり現在のこの国では「自分さえ良ければ」に安住している人の割合が他の経済的に発展した国に比べて、高いようです。

投票日が近かったドイツの例を挙げましたが、スペインでも、お隣の韓国、台湾でも、与党が失敗して政権が入れ替わっているのに比べて、異様ともいえるこの慣習を直さないと次の世代に大きな不幸が降りかかる危険が大きいと存じます。国旗を掲げ、国家を歌えば、愛国者というマヤカシでは国民の利益を守れないという現実に憂慮させられるこの頃です。

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YAUKUNI

靖国神社と云う存在

本当に「靖国で会おう」と云った兵は居たのだろうか

 

真道 重明

2006年8月

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年もまた敗戦記念日がやって来た。ことしは総理は15日に参拝するのだろうか?とか「ポスト小泉はどうするのだろう?など、テレビ、ラジオ、新聞紙など各種メディアは喧々諤々である。私は「兵の目から見た戦争でも書いたが、私にとって「靖国神社」と云うものがどうも訳の解らない存在である。

そのことは後述するとして、マスコミも新聞紙も(参拝擁護派も反対派も)大多数のメディアが『皆が「天皇陛下万歳!」とか「靖国で再会しよう!」と叫んで死んだ英霊云々…』と云う言葉に出会うと、「嘘だ、多くの将兵の中にはそのように叫んで祖国のために死んでいった人が少しは居たかも知れないが、その多くは士官学校出の将校だったり、軍国主義教育に凝り固まった一部の人達であって、「戦場に居た普通の大部分を占める下士官や、とりわけ「兵」の場合は無視しうる程度の極めて少数の人だったとしか思えない…」と云うのが私の戦地での体験である。

戦場における兵士の心理状態はそんな一言で片づけられるような「単純なもの」ではない。互いに殺し合う状況と云うのは心理的には「まさに狂気の異常心理」という極めて正常ではない状態にある。敵味方とも,その状態になければ白兵戦など出来る物ではない。「狂気状態の下で行動出来る」ための訓練をするのが軍隊である。

悲しいことだが、第1次世界大戦、第2次世界大戦を経て、国際連盟や国際連合ができ平和が希求されたが、今の中東戦争で見るとおり、人類は未だ殺戮闘争の性(さが)から脱却することが出来ない侭で居る。敵の殺戮は美徳とさえ思われている。

話は本題から逸れたが、皆が「靖国で再会しよう!などと叫んで死んだ英霊云々」の言葉に戻ろう。殺すか殺されるかの極限状態にあり狂気と云う異常心理下では「祖国のために…」などの冷静な?考えは何処かに吹っ飛んでいる。

異口同音に「靖国で再会しよう!と叫んで「死んでいった将兵」などの表現は、美辞麗句?であって、私には「虚偽」としか思われないし、そのような異口同音の言葉の引用は戦場を知らないものの言い草としか思えない。少なくも私の体験に関する限りでは。

戦場の兵士の心情は軍隊教育と云うマインド・コントロールで幾ら洗脳されて居たからといっても、「赤紙一枚で応召され勝手に本人の承諾もなく靖国に祭られるのは余りにも酷い」と思っていた人々も沢山居た。口に出さなかっただけだ。数日前の朝日新聞に数名の遺族から「靖国の合祀名簿から削除してくれ」との訴訟が提出されたことが載っていた。

戦地での兵士の或るものは「故郷の鎮守の社に祭って貰えるのは望むが、靖国神社だけには祭って貰いたくはない」と云っている人がかなり居たことを思い出した。靖国神社とは一体何だろう?。以下は無知と独断と偏見とに満ちた、しかし、私の率直な感想である。

神社と云うからには「お宮さん」である。「お宮さん」と云うからには神道(シントウ)と云う宗教の「お社(やしろ)」である。社(やしろ)とは一体何だろう?。こんなことでは話をする資格は無い。そこで、WIKIPEDIA で「靖国神社」、「靖国神社問題」、「日本人の宗教観」、その他幾つかの Home page (Web site) を読んでみた。賛否、異論反論、莫大な数の記事がある。

「靖国神社は単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない単立神社である」。と書かれている。さて、単一宗教法人とは、単立神社とはなんだろう?。解説に出て来る言葉は、日本神話、 古事記、日本書紀、風土記、式内社、一宮、近代社格制度、祝詞、神仏習合、仏教、修験道、道教、陰陽五行説、民俗学、国学、等々。その中には学生時代に少しは習ったり、読んだり人から聞いたことがある言葉もあるが、何れも自信を持って「面と向かって答えることが出来ないもの」が大部分である。

靖国神社は1869年8月6日(旧暦の明治2年6月29日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創建され、1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となったのだそうだ。戦前においては神社行政を総括した内務省ではなく、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていたようだ。

戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館(当時「宝物遺品館」)に展示するB・C級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていた事が2006年7月に発覚したとも述べられている。

「発覚した」と云う言い方は何か違法なことを秘かに「どさくさ」に紛れて遣ったかのような印象を与える。しかし、WIKIPEDIA は世界共通の WIKI が参加して作成される百科事典として、異論反論併記の性格を持っていると思うので、そのような印象を与えること自体も考慮に値するのでは無かろうか。

また、「中国、韓国などは、こうした神社の見解が軍国主義の名残であるとして拒否感を持っている。欧米の一部では“War shrine”(戦争神社)や“Military shrine”(軍事神社)と揶揄されている」とも書かれて居り、さらに『特に遊就館の展示が「恥知らずにも戦争を美化している」と批判されることがある(USA TodayFinancial Times など)。また大東亜戦争が起きた第一の原因を連合国側の経済制裁であると就遊館の展示物などで主張しているため、そのことがアメリカ社会に知られると日米関係に重大な悪影響を与える恐れがあるとの指摘もある』という記述もある。

また『戦後、折口信夫は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり(所謂御霊信仰を指す)、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている』との記載もある。

その他多くの著名な哲学者や神道研究者の見解も述べられているが、これらは専門家の学理的論説で、私のような素人には難しくて良くは理解できない。だが、直感的に「靖国神社」というものが極めて異論の多い存在であることが解る。

国際機関に勤務中、米国人の知人から Shintoisum と云う英文の書籍を彼女が退職時に貰ったことがある。今も書棚にあるが録に読んではいない。生まれたときには「七五三」など神社にお参りし、結婚式は基督教の教会で行い、死亡すると仏教のお寺で葬儀をすると云う日本人は極めて驚きと奇異の眼で見られる。アッラーの神に身を捧げて自爆する原理主義の回教徒達から見ると全く理解できない日本人の宗教観だろう。

家に仏壇があっても戸棚の中に仕舞込み、神棚など家の何処にもない都会暮らしの日本人は多い。「私の家は確か禅宗だった筈だなのだが…」、「黄檗宗か、それとも曹洞宗ですか?」と問うと「分からない」との返事。上司の母堂が亡くなった時、私は隣の家に居り、葬儀の手伝いに行った折の話である。何処の「お寺」に頼めば良いか困った。私の家庭もそうだが、お経を仏前で読むなど全く無いし、神棚も無い。

この上司のような人は現在の都市生活の日本人には案外多いのでは無かろうか?私はお経も上げないし、神棚がないから柏手も打たない。そのくせパーリ語の経文を知っていたり、菜根譚を読み、歎異抄や般若心経の解説書も読む。私はクリスチャンではない。しかし、どう言う訳か新約のマルコのゴスペル(福音書)が気に入って時々読む。和英対照になっている小型版である。興味があるから偶に読むが信仰という訳ではない。特定宗教の信者ではないが、このような日本人は多いのでは無かろうか?。

話が変な方向にずれそうだ。上述の靖国や神道、GHQの命令で廃止された国家神道の話などは専門家の議論で、多くの庶民にはどうでも良いのかも知れないと云う気がする。「どうでも良い」というのは言い過ぎかも知れないが…。

それでも多くの人々は神社の前を通ると柏手は打たないとしても、拝殿に向かって頭を下げ、お寺の鳩に豆をやる子供連れの人は本堂の前で手を合わせる人は多い。鎮守の森のお祭りには行くし、盂蘭盆会(精霊会)に由来する?「盆踊り」を楽しんでいる。此のような現象は靖国神社、神道などとは密に関連していることは間違いない。しかし、庶民にとって「曰く因縁・故事来歴」はどうあれ、庶民の習俗(ならわし)であり、つまりは、是非や善悪を超えた次元の問題のようにも私には思われてならない。

節分の豆まき、桃の節句のひな祭り、端午の節句の鯉のぼり、皆然りである。しかし、靖国問題は違う。これに少しでも疑問を持てば、途端にややこしい、しかも難しく何か変な問題であることに気付く。日本人の長い歴史の中で、古来の習俗ではなく明治以降の、即ち、ごく最近の、しかも、お上から押しつけられたことに気付く筈である。

「国のために殉じた人の霊を祭る」というのなら、何故西南戦争で賊軍と決めつけられた西郷隆盛率いる鹿児島軍の人達は除外されているのだろう。明治の元勲で国のために多大な功績のあった西郷は1877年に官位を剥奪され、死後、賊軍の将として遇されたが、黒田清隆らの努力や明治天皇直々の働きがあって1889年に大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈されたそうだ。それでも靖国には祭られていない。

「なんと狭量な話ではないか」と思う人は多いのではあるまいか。軍の一部の恣意的な権力によって左右されているのではないか?と思わざるを得ない。また最近では太平洋戦争を「大東亜戦争」、敗戦を「終戦」と云う人が多い。非国民と云う言葉も時々聞かれる。父や祖父のしたことを事実を曲げてまでも美化したくなる人が増えた。靖国は今時の戦争の総括を曖昧にしている象徴的存在であるとしか私には思えない。

 

追 記

 

西郷隆盛が靖国神社に祭られていないと云ったが、此れは私の無知から来た誤りで、本殿ではなく社の隅の鎮霊社という場所に祭られているのだそうだ。Webを検索していたら、Blog に下記のようなコメントがあった。引用をお許し願いたい。私とは立場は違うが、大いに参考になった。もっともっと議論がされるべき問題だとツクズク考えさせられた。Blog のコメントに御礼を申し上げたい。
最下の「従軍看護婦の思い出」はNHKラジオ放送に基づく、私の追加記事である。

白虎隊や西郷隆盛が本殿に祭られてないなら、それこそが問題だ。恥辱なのだ。
彼らも、国のために、国事を思って殉じたのだ。本殿に、置かないことが、この御霊を、侮辱しているのだ。白虎隊にも、親族・子孫が居り、西郷と供に散った維新の功労者の子孫も、営々と、日本のために貢献している。彼らは、国難で散ったのであり、侵略戦争で散ったのでは、無い。また、A級戦犯の一部のように、戦地に行かず、命令し、暖かい食事を戦時にしていたのではなく、まさに、戦場で散ったのだ。本殿に祭られていないことが、恥辱なのだ。

神様の席順まで決めるのは誰だ?少なくとも、靖国は本殿と鎮霊社に分ける事自体が差別と思う、本来死せば何人共同じと論じている中で、誰が本殿と鎮霊社に分けて、祀って居るのかが問題と思う、先日全ての英霊は分け隔てなく祀られると、TVを通して卑しくも宮司が能書きを垂れていた。
宮司曰く、それが証拠に東条の上に一般兵が祭られていと、それなら全ての御霊は本殿入りすべきと思うが?狭くてはいれないのかな?
鎮霊社に祀られている御霊は如何なる理由で祀られているか、誰か教えて欲しい、西郷始め西南戦争で戦った御霊、白虎隊の若き御霊、彼らが本懐を遂げたら何処に祀っていただろうね、当然日本の歴史が変わっていたと思うが、死んでまで、靖国に祀られてまで、娑婆の生臭宮司を始めとする何人かに差別されるなんて考えるだけで、この国の差別主義の最たるものと思うよ、対外的に死せれば何人も同じなどとおこがましい事は言えないよ、この辺ですっきりと靖国問題を解決させねばならないと思うよ。

従軍看護婦の思い出 昨夜(2006/08/27)NHKのラジオ深夜便のスイッチを午前四時に偶然入れたら、九州方言(博多弁?、大分弁?)の老婦人のテキパキした話が耳に入って来た。80歳代中頃の人と思われた。満州(中国東北部)での従軍看護婦だったときの「思い出」を語っている。ツイ聞き入って了った。

インタビュウーアのアナウンサーに「私はこの話を今まで誰にもして居ない、しても若い人には分かって貰えず、また、昔の戦争の話か」と一蹴されるから」と言い切る。主旨は「戦争ほど愚かなことはない」、「天皇陛下万歳・日本国万歳などと叫んで死んでいった将兵は一度も見掛けたことはない」、多くの人が「お母さん」と云って息を引き取ったとも語っていた。

語りが方言だけに実感がこもっていた。野戦の従軍看護婦だけに気丈で主張を明解に断言していた。誰にも話さないで死んでゆくつもりだったが、今日は話す気持ちになった。語り継いでおく方が良いとこの齢になって思い始めたから」とのこと。野戦病院で、ベッドがない場合は藁束を敷いた上で、無数の兵が息絶えた。誰もが云いたい不満や憤懣を胸に秘めて居たが「誰もが、しかし、その事を一言も口にはしなかった」。云っても詮ないことだと知っていた。「私もそう思った。こんな悲惨な戦争を何故懲りもせず人間は今もやっているのだろうか?」。

一句一句が絞り出す様でもあり、逆に淡々と記憶を述べているようにも聞き取れた。私と同じ気持ちの、同じ経験を持つ人に出会えた気がして、朝までその事を反芻して居た。

 

 

靖国問題に関しては Kmns 氏の異なる視点からの Yasukuni: Why the Emperor Stopped Going と題する興味深いページがある。

 

 

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SEIBATUTO

【寄稿】

征伐と友好

 

林 繁一

2007年2月23日

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岡市の広報誌91号は「大御所四百年祭」ということで「平和と交流」を進めた徳川家康の貢献をまとめています。ある若い人に朝鮮征伐をした秀吉は愚か、朝鮮半島から拉致していた1000人を超える捕虜の帰国に尽くした家康は賢明と話したところ、「狸親父は太閤様の家系を潰した悪者」と反発され、話が弾んだことがありました。

上に紹介した広報誌には慶長12年(1607)に初めて我が国を訪れた朝鮮通信使は駿府の家康に国書を渡す予定だったが、彼はそれを辞退して将軍を継いだ江戸の秀忠に渡すように伝え、自らは一行を清水(多分江尻と呼ばれていたのでしょうが)や三保の松原を遊覧させたとあります。

当時の先進国である朝鮮の使者とあって多くの知識人が宿舎となっていた興津の清見寺を訪れ、その有様は葛飾北斎の東海道五十三次の「由井」にも描かれているとのことです。数十年に一度の朝鮮通信使の来訪は日本人にとって大イベントであったと記しています。

家康はまた和蘭、英吉利とも国交を結び、特に William Adams には三浦按針と改名させ、家臣として重用し、その按針も帰国を望みながらも日本の土となるまで尽くしてくれたという話はご存知の通りです。また難破したフィリッピン総督一行を助けて、伊東で船を作り、帰国させた、あるいは朱印状を発行して交趾、暹羅を始め、東南アジア諸国との交易を振興したとあります。

次に二月二八日に放映されたNHK・TV「そのとき歴史は動いた」は室町幕府三代将軍足利義光が金閣寺(正式には鹿苑寺とのこと)を建立した目的は長らく途絶えていた大陸との交流の復活であったそうです。

二度にわたって侵攻してきた元に替って大陸の支配者となった明は、南北二つの朝廷があるような日本を未開な国と見ており、室町幕府の将軍などはさらにその一臣下として、交渉に応じてくれなかったとのことです。そこで義光は南北の朝廷を統合して、自らは皇室に準じる位を得て、明との国交を開き、来日した使節を金閣寺に案内して、国力を誇示したと説明されていました。番組は「国交をはたした義光が明から永楽銭を大量に輸入して、貨幣経済を確立した」と紹介していました。

村山富市元首相の声明にある通り、日本と大陸諸国との間には限られた不幸な時期、特に19世紀末から20世紀半ばまでの半世紀を除いて文化・文明の流れがあり、双方、というよりは隔離していたわが国は大きな利益を享受してきたことを意識しておく必要がありますね。

奈良、京都を始め、各地の文化的な遺産を訪ねる間に一層東アジアの一員としての日本という感銘を強くしています。領土を巡る対立、核武装宣言、拉致、反日デモ、高速鉄道の拒否・言換えといったわが国にとって不快な事件もありますし、「不幸な時期」に起きた強制連行、従軍慰安婦、なによりも武力侵攻といった関係する国民の間の「棘」も数多く残っています。次の世代のためにこういった不快な懸案を解決する政治的風土を育てたい気持ちが強まっているこの頃です。

 

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