閑 人 妄 語
(その1)

可笑しな話、不思議な話、一人勝手な思い込み、などの雑記です。

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これは古代中国の殷時代の甲骨文字です。さて何でしょう?

答は目次↓の「甲骨文字クイズ」にあります。


目 次

本当に「眼から鱗」が落ちた話 (この眼で見た実話です)
アキノの暗殺でホテルがサウナ風呂になった話 (暴力は怖い)
いちぼう、にのん、さんる、しみ (明治初期、今ではクイズ?)
丁車吃面 (顔を食べるの?)
飲めば死ぬ酒と食えない魚 (タイ語ならでは!)
マイ・ペン・ライ (タイ語の日常語の一つ)
数罟不入夸池 (漁業資源管理の最古文献?)
つちふる (恐るべき本場の黄砂現象、歳時記の霾る)
畑を駆け巡る雷 (誰にも信じて貰えない怪奇現象体験談)
孫悟空とハヌマン (関係がありそう。教えて下さい!)
Without Number One (珈拉 OK )
カノム・チーン・ナム・ヤー (タイの生素麺とその由来)
不思議な商売 (食物か?薬原料か?何をしていたのだろう)
縦書きと横書き (日本語の横書きはますます増えるだろう)
部隊の局名は「ハナコ」だった (軍隊で憶えたモールス信号、花子は乞食だ)
甲骨文字クイズ (このページ冒頭のクイズの答え)
糞・尿・屁の咄  (排泄に関する話は何故だか可笑しい)
幽霊の好きなタイの人 (お化けの映画は何時も絶賛上映中)
数奇な運命を辿った人々の集団 (NHKの深夜便で知った話)
日本人が知らない味覚 (バナナの蕾、蝋燭風味、等々)
四不像子 (牛でもなく、馬でもなく、驢馬でもなく、鹿でもない)
スタノボイと雲鷹丸記念歌 (母校の歌集の中の傑作。スタノボイとは?)
地動説を知らない小学生 (★ 山中一郎氏の寄稿 ★) [寄稿]
一発で治った吃逆 (吃逆、シャックリで死にかかった病人の話)
「さしみ」と言う料理の海外進出」 (刺身は何故海外で流行るのか?
タコの好きな日本人 (タコの似非?的かつ雑談的な食文化論)
慰問袋に入っていた本 (POWのキャンプで金儲けした器用な兵士)
50年前の上海で買った連環画 (日本の漫画やアニメの源流?)
唐 詩 両 首 (駱肇蕘・曹正之の両位先生との唐詩談義)
不思議な話 (1) (或るタイの子供の不思議な記憶)
不思議な話 (2) (胎児の時の記憶がある人)
鶯鶯魚と紅娘魚 (西廂記に由来する粋な魚の名前)
ふぐのぼり (鯉のぼりではない「河豚のぼり」のはなし)
兵の目から見た戦争 (戦後60年に当たり書き残したい追憶)
二つの総選挙 (林繁一、日本とドイツ。) [寄稿]
靖国神社と云う存在 (本当に「靖国で会おう」と云った兵は居たのだろうか?)
征伐と友好 (林繁一氏の ESSAY) [寄稿]

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アキノの暗殺でホテルがサウナになった話

(2003年3月 記)

真道 重明

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ルコスの独裁を批判して居たベニグノ・アキノ (Benigno S. Aquino)が1983年8月21日の白昼にマニラ国際空港に着くなり、軍人に連行され、タラップを降りたところで何者かに射殺された。その後マルコス大統領は失脚し、アキノ夫人のコラソン・アキノがフィリピン大統領になった事件を憶えて居られる方は未だ多いと思う。

当時、SEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)の事務局次長だった私はマニラで開催される同センターの活動計劃策定会議を数日後に控え、会議準備の先遣隊として、バンコクにある事務局職員、タイピング・プール職員ら7名と舶用機関教官(タイ海軍の退役技術大佐 Captain Vuddi 氏)と共にタイ航空機でマニラ国際空港に着陸した。暗殺事件が起こった数分後である。

タラップを降りてみると主滑走路の端に一機が放置されて居る。咄嗟に私は「変だな」と思った。軍隊時代、私は航空関係の仕事をして居たので飛行場管理のことは多少知っている。主滑走路に障害物を置くことは絶対許されないのが鉄則である。着陸した飛行機は直ぐ誘導路に導くか、次便の着陸予定との間に若干時間的な余裕があって乗員を主滑走路で下ろしたとしても、済めば直ぐ主滑走路から移動させる。予定しない他の飛行機が何時急に主滑走路に侵入してこないとも限らないからである。

「あの飛行機はどうしたのだろう?変だ」と私は Captain Vuddi に言った。彼も飛行場管理のことは知っていて、「アキノに何かあったのだろうか?」と言った。・・・と言うのはバンコクからマニラに向かう機内の英字紙で、「イメルダ大統領夫人の警告にも拘わらず、アキノ氏同日台北経由で反マルコス大統領派の集会に参加するため正午着の飛行機でマニラ空港に向かう」との記事を読み、何か起こるのではないかと懸念していた矢先だったからである。我々の飛行機が着陸した一つ前に着陸した機が主滑走路の端に放置されていたのである。アキノの搭乗していた飛行機であったことは後で知った。

我々はその時は、もちろん、何も分からない。通関も平常通り行われ、飛行場内部には何の混乱もないように見えた。その侭スーツケースや沢山の書類を入れたケースを持って車でホテルに向かった。各人の部屋や仮事務所に当てる部屋の割り振りも決り、着替えでもしようかと思った時、10分間の停電が2回あった後全く送電が停止された。大きな一流ホテルである。自家発電に切り替え各階は小さな電灯が点いているだけ。階段を駆け降りて一階のレセプション・カウンターに「何事か」と尋ねた。ロビーはガヤガヤしている。「アキノが飛行場で殺されたらしい」などという声が聞こえる。停電になる前にラジオで聞いたが途中で切れた」、「テレビ局も放送を停止している」。中には「戒厳令が出た」という声もある。

ホテルのチーフ・マネージャーもただ「情報が何も入っていません」というだけ。今ならインターネットも携帯衛星電話もある。情報の取りようが無い。我々の会議は3日後に迫っている。我々のSEAFDECのフィリピンのメトロ・マニラにある Liaison Office からの人々もホテルに来ていない。来ていないのではなく来られないのではないか。会議は開催できるのだろうか?今回は中止し延期するなら至急各関係国に通知しなければならない。國際電話やファクシミリは何時通じるのか?

もう一つ困ったことは、停電によってエレベーターもエヤコンも動かないことだ。熱帯のマニラ、おまけに8月で暑い真っ盛りと来ている。部屋の温度は摂氏50度近くに上昇している。通風口など無い。まさにサウナ風呂である。これにはみな参った。

スペイン時代の面影を残すマニラ・ホテルなどは部屋の高さが高くまだ良かったかも知れない。最近のホテルは冷房効率を良くするため天井が低い。窓はあっても風を取り込むようには設計されてはいない。男は上半身は裸、女はブラジャー姿でも耐えられない。釜茹で状態である。仕事など手に着く筈もない。

2時間か3時間か良くは憶えていないが、突如、送電が開始されテレビで「夕刻には送電を安定供給する。静かにせよ」と言って、またテレビも電気も切れてしまった。こんなことが数回繰り返された。後から聞いた話では、政府が暴動を恐れて故意に送電を切ったらしかった。返って人心を不安に陥れると判断して、夜には送電は復旧した。翌日の午前中の情況を見て会議を予定通り行うか、延期するかを決断することとし、眠れない一夜を明かした。

結局、一応何とかなり、会議は予定通り開催することが出来た。ホテル内は良かったが、ホテル外のレストランやパブなどは数日間は入り口の扉の前には2人の警官か兵士か分からないが、自動小銃を持って立っていた。店内の人々は平気でマルコス大統領の悪口を大声で話していた。少し前までは政府批判を口にすると直ぐ警官に引っ張られていたそうだが。マルコス大統領が失脚し亡命したのはその3年後である。

現在なら衛星による電子メールや電話でSEAFDECの会議も各加盟国と協議も出来るが、これは20年も前の話である。

 

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いちぼー、にのん、さんる、しみ

(2003年5月 記)

真道 重明

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いちぼう、にのん、さんる、しみ、ごはち、ろくばな、しちわ、はちびょうたんに、くのし」という「おまじない」のような句を私の祖母は時々無意識に口ずさんでいた。明治一桁時代の生れである祖母は、政府の学制の発布直後、未だ教育制度も整わない時代で文字は正式に勉強していなかった。

物心がついた頃から何度も聞いているので脳裏には焼き付いていたが、何の事か分からない侭気にも留めずに居たが、私が幼稚園から小学校に上がる頃「それ何やねん?」と訊ねた。大阪市に在った私の家では、両親も祖母も家庭内では出身地の熊本弁を話していたが、私ら子供兄弟は大阪弁を家庭内でも使っていた。

「算術(当時は数学・算数などと言わず忍術ならぬ算術と言って居た)で使うものたい、未だ習ろうとらんとね?(習って居ないのか?)」との答え。さて、何の事だろう。
「死なした(亡くなった)お祖父チャンは武士を止めてから、いきなり銀行勤めになって毎日「いちぼう」、「にのん」ば書いとったて言いよんなはった(書いていたと言って居られた、敬語表現)」とのこと。

クイズの種明かしをすると、アラビア数字(インド数字と呼ぶのが正しいのだそうだが)のこと。「いちぼう」は、即ち「1は棒のように上から下に直線を書く」。「にのん」は、即ち「2は平仮名により縦書きで「の」と「ん」を続け書きする。「さんる」は、平仮名の「る」は3の形に似ている。「しみ」は、し=4は平仮名の「み」の下半分を少し詰めて書くと4に似ている。「ごはち」は、ご=5は平仮名の「ち」。「ろくばな」は、6は鼻の形。「しちわ」は、片仮名のワは7に似ている。「はちびょうたん」は、のこと。即ち8は瓢箪形。「くのし」は、平仮名で「の」と「し」を縦に続け書きにする際に「し」の字の末尾を曲げずに直線のまま書き流す場合もあり、数字の9の早書き書体に近い。

壮年期に帯刀禁止令や廃藩置県など激動の時代を生きた祖父は旧藩主の厚意で銀行の支店長になったそうだが、当時の一般の人は「一、二、三、四」の漢数字しか知らず、「1、2,3,4」のアラビア数字を憶えるのに一苦労したらしい。「いちぼう・にのん・・・」は算盤の「二一てんさくの五」や九九などと同様に皆が憶えるため懸命に口ずさんだらしい。

まさに武家の商法で銀行の支店長勤めが順調だったのかどうかは今は誰も知らない。祖父は私が生まれて間もなく亡くなったので祖父の顔の記憶は無い。祖母によると祖父はハイカラで、謡曲などの外に若い頃は中国から渡来して当時流行った「月琴」で「大湖船」や「九連環」などの唄を良く歌っていたと言う。第二次大戦後のエレキギターの大流行の様な有り様だったらしい。もちろん日清戦争以前の話である。

【蛇足】アラビア数字の字形では中国に「引日」と言う言葉があったとのこと。私が北京官話を習っているとき朱という先生から聞いた話である。引日と早く書き流すと31に似ているので、31日(大の月の晦日)を引日と洒落て「借金は引日に返すよ」などと使ったと言う。今の中国の人々に「引日」を知っているか?と聞いても誰も知らない。当時の一時的な流行語だったのかも・・・。

 

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丁車吃面

(2003年5月 記)

真道 重明

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国の江南の田舎の街角で良く目に付いた看板である。始めて見たときは「はて?、何のことだろう?」と思った。丁車が分からない、吃面はまさか顔面を食べる筈は無い、何だろう?。先ず第一に「丁(ding、1声)車」が分からない。暫く考えている内に、次の吃面の「面」は簡体字(今の標準字の面は日本の常用漢字の小麦粉を意味する「麺」や「麪」(mian、4声)と同じに使われる、すなわち、面=麺=麪は同じ字であることを思い出し、「吃面」は麺を食べることに違いないと判断した。

「丁車」はどうしても分からない。同乗していた人に尋ねた。その人は笑って「もっともです。あれは間違っています。本当は「停車」と書くべきです。丁と停は日本語ではどちらも「テイ」ですが、中国語では「丁」はding1(無気音1声)、後者の「停」はting2(有気音2声)であるから、発音は異なる。これは現在の標準語(普通話)、すなわち北京方言を基礎として決められた言葉の上での話である。「停」と書くべき所を「丁」と書くのは誤りだと言う訳である。

しかし、長江(揚子江)の南、北京から遠く離れた江南の地などでは、有気音(日本の清音より更に澄んだ清音)と無気音(日本の濁音より少し澄んだ濁音)の区別や語尾の n ng などの区別が無い地方もある。声調も同じだったり全く別の声調だったりする場合もある。丁を停と書いたのは「停」の漢字の右下にある丁の部分を示したのだろうと思う。彼は「標準字では間違いであるが、往々にしてこのような字が俗字として使われるのですよ」と教えて呉れた。

丁車吃面は「車をチョット停めて、おそばでもどうぞ!」の看板である。

 

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飲めば死ぬ酒と食えない魚

(2003年6月 記)

真道 重明

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が良く知る中国の銘酒に茅台酒(マオタイ酒、貴州省茅台鎮に産する白酒(パイチュー、無色透明な蒸留酒の一種)と言うのがあります。世界の酒のコンクールで何回もグランプリを取った有名ブランドです。

タイの酒販売店で「マオタイ」と言うと「ニヤニヤ笑って、これは本物で高いよ。飲んだら死ぬよ」と良く冗談を言われた。タイ語で「マオ」は「酔っ払う」の意味、「タイ」は「死亡する」の意味です。茅台酒は「ラオ(酒)マオタイ」と言います。タイ語や中国語の声調や正確な発音の問題は抜きにして、結構この単語は通じます。

茅台酒は「飲めば死ぬ酒」と言う訳です。

「キンメダイ(金目鯛)」と言う魚は誰でもご承知でしょう。タイ人に「キンメダイ」と言うと「そりゃ駄目だ。食えない」と言って笑います。タイ語で「キン」は「食べる」の意、「メイダイ」は「不可能、または(何々しては)いけない」の意味になります。

「キンメダイ」 = 「キン・メイダイ」 = 「食べられない」と言う訳です。

声調のあるタイ語の正確な発音はやや異なるのですが、結構タイの人は察して理解して呉れます。それなら何の言葉でも日本語の仮名読みで通じるか?と言うと、先ず殆ど駄目です。タイの観光地に「プーケット」がありますが、普通のタイ人に「プーケット」と言っても先ず絶対分かりません。「プッ・ケッ」と言えばやや近い音になりますが、声調が違えば通じません。「俺は通じた」と言う人もあるでしょうが、相手が観光業者かホテルの人々で日本人は「プッ・ケッ」のことを日本語で「プーケット」と言うことを知っている人だったからだと思います。

 

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マイ・ペン・ライ

(2003年5月 記)

真道 重明

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イ国に住んだ経験の在る人は皆良くご存じと思うが、「マイ・ペン・ライ」というのはタイの人が日常よく口にする言葉で、「Never mind」、「大丈夫、大したことでは無い」、「いいよ、いいよ、気にするな」と言った意味である。中国語と同じく声調のあるタイ語の正しい発音を片仮名で表記することは出来ないが、そのことは此処では無視する。

ところが、このような日常良く使われる言葉は、ものによっては良く使われるためにいろいろな局面に使われる。訳される国の言葉と意味する範囲が完全に一致していれば問題は無いが、殆どの言葉は大幅か小幅化は別にして範囲にズレがあるので非常に難しい。どのような局面に使えるのかを正しく知るのは語句によっては至難である。「マイ・ペン・ライ」もその一つである。英国の婦人だったと記憶するが、MAI PEN LAI というタイトルの一冊の本を書いている。多くの例を挙げて説明し、その難しさを指摘している。

私が経験したのは、私の車がタイ人の運転する車に追突された時である。明らかに相手の落ち度である。車の損傷は大したものでは無かったが、かすり傷ではなくほんの少しではあるが凹んで居た。相手はサムロー(客を乗せる自動三輪車)の運転手である。この時、余り金も無さそうな彼に弁償させるのは気の毒で可哀想だと思って私が彼に対して、「いいよ、いいよ、咎めはしないよ」の意味で「マイ・ペン・ライ」というのなら分かる。

彼が「悪かった」と恐縮しているのは態度で分かる。しかし、私に向かってただ「マイ・ペン・ライ」と言うだけ。謝罪の言葉は無い。私の顔色を見て、芝居かもしれないが、涙を浮かべんばかりにして、ただ「マイ・ペン・ライ」を繰り返すだけ。

凹んだ傷が「大したことは無いから、問題では無い」と言っているのか、もし、そうなら加害者が被害者に向かって言うべき言葉ではない。私は「その言い方は何だ。怪しからん」と私も渡り合う気になるが、どうもそういうわけではなさそうだ。結局は彼に保障は求めず、「行け」と言ったら彼はタイ式に合掌の礼を深々として去った。今もって彼の「マイ・ペン・ライ」の言葉の意味は理解し難い。

日常良く使う言葉であって、意味する範囲が日本語とずれて居る場合は厄介である。社会の慣習や倫理観が異なる場合に良く起こるように思う。タイ語に「クム・チャイ」 と言う言葉があるが、日本語では「滅入る」と訳している。友人で奥さんは米人、10数年米国に留学して帰国したタイ人で、国際機関に長年勤務していた人である。或る時彼が私に「クム・チャイ」だけは英語に訳せないとこぼしていた。「欧米人にはこのような心境は無いようだ、無いから言葉もない。だから訳しようが無い」と言う。

和英辞書で「遠慮」や「謙遜」、「謙虚」などの日本語を引いてみると、実にいろいろなケースについての沢山の説明があり、多くの英単語が掲げてある。自己主張をするのは当然で、遠慮して、または無意味な謙遜をして、主張しないのは、むしろ悪だ」という欧米人と、何でも無暗に謙遜する日本人とは、此れらの言葉の範囲や感覚、慣行が大きくずれて居る。私の家内など電話をするとき、必ず先ず「すみません」から始まる。

とにかく言葉とは難しいものだ。

 

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Sakko_or_Suuko

数罟不入夸池
 

(2003年5月 記)

真道 重明

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の字は正しくはサンズイが付く。漢音は「コ」または「カ」で「−池」は「コチ」と読むらしい。罟は網の古字。

孟子の梁惠王篇(上)に「数罟不入夸池,魚鼈不可勝食也;斧斤以時入山林,材木不可勝用也.」という語句が見える。これは世界最古の漁業資源管理に関する文献では無いかと思われる。問題は「数罟」の意味である。

学習研究社の「漢字源」を引いてみると、「数」は訓読では「かず・かぞえる・わずらわしい・しばしば」など。音読みでは、慣用音として「スウ」、一類として漢音では「ス、現代音=shu(3声)」・呉音では「シュ、現代音=shu(3声と4声)」、二類には漢音と呉音いずれも「サク、現代音=shou(4声)がある。一類の意は「かず」・「しばしば」など、二類は「わずらわしい」・「細かい」の意味と言う。なお、「数罟、サクコ(目の細かい網)」という解説があった。

従って「池でサクコ(数罟、すなわち網目の細かい漁網)を使わなければ、魚や鼈は充足し供給不足になることは無く・・・云々」の意味となる。

もし、数罟を「漁網をスウコ、すなわち漁網をしばしば(多数回)池で使わなければ、魚や鼈は充足し供給不足になることは無く・・・云々」の意味となる。

前者は網目規制による資源管理の考え方であり、後者は漁獲努力量規制による資源管理の考え方となる。

もう30年も前のことであるが、私は中国ではどのように解釈しているのか知りたくて、老朋友である上海水産大学の王貽観教授に手紙で問い合わせたところ、早速返事があり「恐らく後者の意味であろうと解釈する人が多いようです。なお、夸池とはどのような池なのかは不明です」との内容であった。日本の中国古代史研究者の著書にもこの解釈を採っているのを読んだ記憶がある。

王貽観教授は戦前に中国から日本の水産講習所(現在の東京水産大学)に留学し、日本水産学会誌に外国人としては初めて論文、『瀬戸内海に於けるマダヒのStockに関する一二の知見』と題する日本水産学会誌 6(4) p.175−178、1937(11)を発表した私の先輩である。

私は数罟に「目の細かい網」という解説があるところから、前者の意味であるという解釈を未だに捨てきれない。[前者の意味に解釈する例も日本と中国を問わず多数在ることが判明した。詳しくは下記の関連項目にある]。

【蛇足】:漢語の「池」は天然の池、「塘」は人工の池という解説もある。「池塘」は宋の朱熹の偶成と題した詩にある「未覚池塘春草夢」(未ダ覚メズ池塘春草ノ夢)で年配の人は中学校の漢文で習ってよくご存じと思う。現在では天然池であるか人工池であるかを問わず、池の汎称として「池塘」と呼んでいるようだ。鼈(スッポン)は日本のものとは別種で普通の会話では甲魚と呼び高級な水産物として中国や東南アジアでは普遍的に食べられている。

関連項目「再び、数罟不入夸池」について」は此処をクリック

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TUTIFURU

つ ち ふ る

(恐るべき黄砂現象)

(2003年4月 記)

真道 重明

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と書く漢字がある。余りお目に掛らない字だが日本語の慣用音読では漢音の「バイ」、呉音では「マイ」と読む。雨の下に貍(狸)があるので、”雨のしょぼしょぼ降る晩に まめだ(豆貍)がとっくり持って酒買いに…”という俗謡(大阪府下)を途端に思い出したが、勿論全く無関係。

俳句の季語に「つちふる」と言う言葉があり「霾る」とも書く。蒙古風とも言う。学習研究社の漢字源を引くと「つちふる は 「霾る」と書く。{動}つちふる。大風に吹きあげられて、空から土砂がふる。中国の北部に於てしばしば見られる現象。詩経に「終風且霾=終ノ風ニ且タ霾ル」の句がある」と出ている。また熟語として【霾翳】バイエイ、 まきあげられた土砂が空をおおって暗いこと。【霾霧】バイム、まきあげられた土砂と、霧。また、そのために暗くなること、などが挙げられている。気象用語でいう黄砂のことである。

私が初めて本場の猛烈な霾翳現象を目の当たりにしたのは四平街(当時は四平街と呼ばれていた。現在の吉林省四平市。なお、台湾の台北市にも四平街という名前の商店街がある)の駅頭、学徒兵として招集され熊本に在った六師団の工兵第六連隊での初年兵教育を終わった途端に急遽転属命令により新京(現在の長春)の気象連隊に戦友と二人で赴く途次、1944年の春のことであった。

瞬時にして太陽の皆既蝕のように世界は夕闇に包まれたように薄暗くなり、地平線の彼方から高さが数千丈?と思われる「黒い壁」のような切り立った雲がじりじりと押し寄せて来る。私達は呆気に取られて何事が起こったのか分からなかった。仰天とはまさにこのことである。

「黄塵満丈」という言葉を思い出したのは暫く後のことで、この言葉も「日本人は中国の古典に良くある白髪三千丈式のオーバーな表現との一つというが、日本では見られない超常現象で、「黄塵満丈」は実にピッタリの表現である。

旧約聖書の出埃及記 (EXODUS) に題材を取った「モーゼの十戒」という映画を戦後に見たが、紅海が左右に裂けて干上がった一本道を脱出するシーンの裂けた海水の壁さながらの光景である。これは映画の画像処理による仮想であるが、黄塵は現実のものである。四平街のホームでただ口を開けて暫し呆然としていた。

幸い黒い壁は私達の居た方向には来ず、逸れたので「眼も開けられず呼吸も出来ない」と言われる中心部には巻き込まれることは無かった。最近ではNHKの大河ドラマの「大地の子」で陸一心が内蒙古自地区に下放された時に黄砂の嵐に遇うシーンがある。人々は包(パオ、天幕)の内で毛布を被って霾の去るのをじっと待つしか無い。屋外に居ると駱駝以外は人も動物も生命の危機に曝されるという。

日本の留学を終えて帰国した北京の人が次のように書いている:−

「黄塵万丈を体験したことのない人にはなかなか分かってもらえないであろう。青空が一瞬にして黄色く染まり、まばゆい光を放つ太陽が丸く赤くくっきりと肉眼で見える。幼い頃に日食を見るためにガラスに墨を塗り太陽を見た記憶があるが、それとまったく同じなのだ。真昼間が夜のように暗くなり、何かが起こるのではないかと、恐ろしく感じるほどだ。もちろん、家の中は明かりをつけるが、気は暗くなる。Yシャツの襟も半日で黒くなるし、机の上も半日で塵が積もる。ひどい時にはこの黄塵が海を渡り日本列島にまで及ぶと聞く」。

これを書いた人は続けて、「北京を訪れるには何時頃が良いか?の問いに「9月か10月」と決まって答える。これは北京に長く住むものならばだれもがそう答えるに決まっている。日本人なら桜の咲く4月にどうぞと言うだろうが、北京は春より秋がよい。そのそもそもの原因が4月の西北から吹き寄せる黄塵をはらんだ風にあるのだ。その頃、北京ではよくこんな情景を見掛けた。街をゆくほとんどの女性、とてもモダンな姿をしたお嬢さんまでが風呂敷ほどの大きなベールを頭からすっぽりと被り、首筋のところでしっかり結ぶのだ」。

この記事に「ほとんど見られなくなったのは全くつい最近のことである」とあるが、「2002年には中国では屋根に約3トンもの砂が積もり、韓国では黄砂重大警報が出たと聞きました。町全体がまるでベールに包まれたように写っている航空写真を見てビックリしました」との某Web siteの掲示板への書き込みを見た。このニュースは私もテレビで数回聞いているし、発生源からかなり離れた韓国でもビニールハウスに降った砂の重みで押し潰され農作物に大きな被害が出たと伝えていた。

蘇 逸平(作家)と言う人の小説に経験のない孫に祖父が黄塵の凄まじさを生々しく語って聞かせる話がある。「幾重にも重なった濃厚な烟霧が青空を阻み、濛々とした暗い灰色の雲が大地を覆っている。動物や草木は生気を失い、息も絶え絶えで中には既に息絶えているものもある。空気は重く深呼吸が出来ず、皆は浅い息をヤッとしている・・・」と言った描写がある。

斜め読みした程度で場所が何処か分からないが、登場人物の名前から漢族ではなく回族(ウイグル族)か蒙古族らしく、西北部の辺境、いわゆる黄砂の本場であろう。

偏西風に載って日本本土に運ばれて来た頃には被害は遥かに弱くなっているが、日中韓の3ヵ国の気象学専門家の共同研究が始められるという。

これらの記事から考えて黄砂現象は発生源の中国辺境、少し離れた北京、かなり離れた朝鮮半島、果ては日本列島など、地域により大きな差異があり、弱いものは常に発生しているが、強烈なものは日本の火山の大噴火のように数十年に一度と言った頻度で起こるようだ。杜甫の漢詩に「すでに風磴(ふうとう)に入りて雲端に霾(つちふ)る」とあるそうだ。

日本人も昔から知っていたのだろうが、宋画の峨々たる風景は虚構で現実には存在しない幻想の世界だと信じていたのが、近世になって現地を踏む人が増え肉眼で桂林や黄山を目の当たりにして写実であることを知ったのと同様、「つちふる」も身をもって体験してみないと分からない。私はその中程度のものを遠望したに過ぎない。

「つちふる」は俳句の季語にもあり、松尾芭蕉、奥の細道、「雲端につちふる心地して・・・」とあるそうだが・・・。俳句の季語と言うと何だかマイルドな仄々とした感覚を憶える。

【蛇足】:現代の中国語の「霾」は先年発生した東南アジア(カリマンタンの森林火災の煙害、海を越えてシンガポールにまで被害が及んだ)なども含めて「霾害」と使っているようだ。ちなみに普通話(標準現代音の「霾」の発音は mai (2) マイ (第2声調)である。

 

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畑を駆け巡る雷

(2003年5月 記)

真道 重明

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に話しても「嘘付け」とどうしても信じてくれない話の2っや3っは誰にでもあると思う。これは私のその1っである。小学校4年生の夏休み。私は自宅から左程遠くない臨南寺と言うお寺の近くに一人で「とんぼ釣り」に出掛けた。1933年のことである。当時この一帯は田ん圃や畑ばかりで、見事な竹林に囲まれた臨南寺は「不許葷酒入山門」と書いてあったのを憶えて居る。

70年もご無沙汰しているので、此の話を書くに当たって「臨南寺」をWebで調べてみたら見付かった。大阪の地下鉄御堂筋線「長居駅」から徒歩5分、JR阪和線「長居駅」から徒歩6分、曹洞宗とある。間違いなくこのお寺である。とんぼ釣りの場所は長居陸上競技場の当たりである。現在の地図から察して田ん圃や畑は無く賑やかな市街地に変貌しているようだ。

とんぼ釣りの最中、突如夕立に見舞われ、近くに落雷が幾つも発生した。私は雨宿りする場所もなく、畑の隅に濡れ鼠になってただ屈んで居た。突然大きな耳を劈く雷音と共に空から「火の玉」が目の前の畑の一角に落ちてきた。眩しくて表現でき無いが、その色は青みがかった橙色、直径1mもあったろうか。

雨は殆ど止んでいた。驚いたことに火の玉は地上に落下して消えたのではなく、弾みの付いたボールのように畑の上を転げ廻るのである。最後には爆発音も無くサッと消えた。この間が数秒だったか数十秒だったか気が転倒し居た私には覚えがない。「一体これは何だ?」と呆然とし、恐怖感は無かった。白昼夢を看ていたのではないかと言うのが私の気持ちであった。

話はこれだけ。問題はその後である。まわりの誰にこの体験を話しても本気にして呉れない。信用しないばかりか「日(熱)射病になっての幻覚だろう」とか、「狐か狸に化かされたのではないか?」と言って誰一人として相手にしてくれない。いくら「本当だ。本当だ。この眼でチャント看た」と言っても駄目で信じて貰えない。

その中、私も面倒臭くなってこの話は独り胸の中に仕舞込み、二度と持ち出さなかった。しかし、「信じてくれなくても、あれは本当だ」と言う思いは胸の底にこびり着いて居た。

何時しか70年近くの歳月が経った。傘寿を迎えるこの歳になって、Webで次の記事を発見した。「特殊な落雷を見た事が有あります。明るい火の玉が上から降りてくる、子供の頃の経験です・・・」。これは感電事故関係の科学専門記事サイトに在った。

また、次のような記事も見付けた。「これだ!」と私は思った。

球電(球雷) ball lightning。自然現象の一種で,大気の一部分の原子が壊れてプラズマ状態となり電気を帯びる現象。プラズマ説。希だが激しい対流雲に発雷とともに発生する可能性がある。それ以外の成因をとなえる仮説もある。主に青または赤黄色の光を放出する数十cmほどの球形。

発生機構など未解決な点も多いが,それで説明のつく現象事例は多数あるとされている。一部の研究者はこの現象が実在するか否かを慎重に見ている。また,畑に謎の円形痕(「サークル」参照)が発生するのはこの現象が原因だとする仮説もあったが,現在では疑問視されている。いずれにしても科学的に観測し立証することが望ましい。(NAPIC)

当時、言い争った小学生の仲間も今では遠くなり所在・生死も分からない。近くにいれば真偽論を蒸し返すのだが・・・。所々に河内平野の野井戸があり、「肥溜め」の懐かしい匂い?が!懐かしい。

 

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孫悟空とハヌマン

(2003年4月 記)

真道 重明

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国の京劇では孫悟空の活躍する出し物を「猴児戯」と云います。直訳すれば「猿芝居」ですが、猿に衣裳や鬘などを付けさせて芝居のまねをさせる見世物、転じて「すぐ見すかされるような浅はかな企み」などを指す日本語の猿芝居と云う言葉とは意味が違い、孫悟空の仕草などで大変人気のある演目です。

小学生の頃、縁日の夜店で買った「孫悟空」という子供向けの本が切っ掛けとない、私はすっかりノメリ込んでしまいました。中国語を学習し始めたのには「何時かは原書で西遊記を読んでみたい!」という願望が原因の一つです。この些やかな願いは1957年に上海で達することが出来ました。私の母校に留学した経験のある先輩の王貽観さんにその話をすると、「弼馬温」を知っていますか?」とのこと。「孫悟空が天界で天帝から受けた官職名でしょう」と答えると、翌日「昨夜数軒の書店を探して見付けました」と定本とされる呉承恩の「西遊記」上下2巻を記念にと贈って頂き感激しました。西遊記に関する「連環画」(豆本の中国の絵本)の「大閙天宮」などと共に今も書棚に大切に並んでいます。

先日、NHKのシルクロードのTVを見ていると、呉承恩が西遊記を書いた300年も前に楡林窟に猿と玄奘三蔵の壁画が見付かったことが報じられていました。この中国の四大奇書の一つとされる物語は呉承恩一人の創作ではなく、それ迄にあった話を明の時代に呉承恩が集大成したことは少しは知っていましたが、猿が冥府で高官として働く話など、中国には猿に纏わる物語が沢山あるようです。

前置きが長くなりましたが、私はその後、タイ国のバンコクに本部のある国際機関に10年余勤め、東南アジアの各地を訪れる機会が多く、多くの国で芝居になっているラーマ・ヤーナ(ラーマー・ヤナ)、タイ国では(ラーマ・キヤン)と呼ぶ物語りの存在を知りました。この話にはハヌマン(ハヌマーン)という猿の化身ならぬ化神が登場します。インドで最も古い物語の一つ、紀元2世紀頃に出来たと云われ、元々はサンスクリット語で書かれて居たのだそうです。これがマレーシア・インドネシア・タイ・スリランカなど各地に広がったらしいのです。ハヌマンはラーマ王子を助けて戦いに大きな力を発揮します。とても強い猿です。

私はタイ国の仮面劇の猿のハヌマンを見たとき、直ぐに猪八戒や沙悟浄と共にインドに取経に行く玄奘三蔵を助けて大活躍をする斉天大聖の号を自称する孫悟空を連想しました。もちろん、話の筋はラーマヤーナと西遊記とでは全く違います。しかし、とても強くて、片や王を、片や師父(三蔵法師)を補佐して力強く戦う点は良く似ています。インドが絡んでいることも曰くが有り気です。

玄奘三蔵の書いた「大唐西域記」にはラーマヤーナの話があるかどうか知りませんが、日本にも研究者は沢山居られると思います。教えて貰いたいものです。

 

このページを見て次のようなご教示がありました。

 

  • タイ文学を研究している方から「ラーマーヤナの物語りはインドからタイに伝わり「ラーマキヤン」となり、さらに中国に伝わり西遊記となり、次いで日本に伝わって「桃太郎」の原型となった可能性が高い」というものです。【安藤 浩 氏のご教示】

  • ハヌマーンと孫悟空とは間違いなく関係があると睨んでいる。しかし状況証拠は沢山あるが、確証はない(匿名希望)。

 

 

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Without Number One

(2003年7月 記)

真道 重明

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ニラで見た看板。「Except No.1」 と書いたものもある。レストランに掛けてある。「はて何のことだろう?」、分からないので、フイリピン人の同僚に尋ねた。1970年代の後半であった。

「お客さんがマイクを持って歌を唄うシステムですよ。日本が本場だと聞いています」との答え。「ハハー!カラオケのことだ」と直ぐ分かった。それにしてもフイリピンの英語には可笑しいのが時々ある。ナンバー・ワン(主役)の歌手抜きの楽隊とは。主役の歌手はお客だから店から言えば「主役の居ない楽隊だ」、なるほど!

フイリピンでは水産業のことを Fisheries industry ではなく Aqua-business と言うことが多い。水商売の意味ではない。ご承知の通り、AQUAはサンスクリットを語源とするラテン語の「水」である。梵語(サンスクリット)の閼伽(アカ)の水(墓前に供える水)とか、仏教用語ではなくても、和船の船底に溜まった水を汲み出すのを「あか取り」という、あの「アカ」である。

蛇足を付け加えると、この「アカ」という言葉は世界で広く使われているらしい。ローマのホテルで「アクア・ポッタービレ」と書いてあるのを見て英語の potable water (飲んでよい水)のことだと直ぐ分かった。

フイリピン英語の Aqua-business は水商売ではなく水産業のことだが、最近はペットボトルの飲料水が良く売れる。これなんかも水を売るのだから Aqua-business かも知れない。今ではカラオケは世界各地に広まって来ているそうだから、フイリピンで今でも Without Number One とか Except Number One と言っているのかどうか知らない。「Kara OK」などと言うのかも知れない。

ちなみに、中国では「珈拉 OK」(香港)と書かれていたのを憶えているが、今では大陸の各地では、上に上の字、下に下の字を並べた字(中央の一は結合して一本、カーと発音する字(日本語ワープロには無い字)に続けて「・・・ 拉 OK」と書くのが普通になっている。

 

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KANOMCHIN

カノム・チーン・ナム・ヤー 

タイの生素麺とその由来

(2003年5月 記)

真道 重明

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イの庶民が好んで食べる麺類にカノム・チーンと言うのがある。バンコクなどの外国人の泊まるホテルや、日本にあるタイ料理屋などではお眼に掛らないものである。余りにも庶民的な安価な食べ物で、その上始めての人には少し饐えた(腐って酸っぱくなった)ような臭いがするので売れないだろう。フナの「なれ寿司」や「クサヤの干物」程強烈な臭気ではない。欧米人のいう日本の納豆程度か。しかし、臭さの質は全く異なり、炊いた御飯の饐えた臭気に近い。しかし、慣れると仲々の「乙なもの」である。

早朝のタラツト(市場)の門前の街路傍など路上に天秤棒を担いだ行商人のお婆さんなどが店開きして売っており、お客は皆しゃがみ込んで食べている光景を見掛ける。もちろん家庭でも良く食べる。一言で言えば日本の素麺の「なま」のような一種の真っ白な色の麺類である。

タイの麺類には「バー・ミー」(らーめん)、「セン・ミー」(びーふん)、「クイッ・チャオ」(これには セン・レ と セン・ヤイ があり、前者は今流行りのヴェトナム料理のホーと同じもの、後者はきしめんのような平打ちうどん式のもの)、「ウン・セン」(はるさめ)など、いろいろあり、何れも「盛り」と「かけ」があるか、このカノム・チーンだけは、名前も特殊であり、一風変わっている。

「盛り」と「かけ」は無く総て「盛り」であり、水気が多く「ふにゃふにゃ」で、湯伸びし切った素麺とでも言えばよい。かけ汁の具によっていろいろ名前がある。カノムというのは普通は「お菓子」と訳すことが多いが、中国語の「点心」、「小吃」等の語がピッタリする。英語のスナックに近い。チーンは中国の意味である。したがって、カノム・チーンは中国のスナックの意味であるが中国にはこのようなものは無い。

タイの英字紙 Bangkok Post に見開きの紙面を使って、このカノム・チーンの故事来歴を詳しく解説した記事があった。1980頃のことである。それによると18世紀か19世紀初頭にタイに来た中国人がラーメンを作るのをタイ人が見て、何とか自分たち自身で作ろうと考えたが仲々旨く行かない。ある時、米の粉を水に溶いてノズルから熱湯の釜の中に流し込んだところ、軟らかい麺のようなものが出来た。

それ迄タイにはひも状の麺のような食品は無かったのである。試行錯誤の末の全くの偶然だったと言う。「これはいける」ということでカノム・チーンと名付けたのだそうだ。紙面の切り抜きを持っていたが紛失してしまった。

麺の上にかける具の入った汁には、タイ式にカレー、中には甘い各種の果物をかけるものもある。私が好きなのは最も普通のカノム・チーン・ナム・ヤーという奴で、ナム・ヤーは鰹節の粉の混じったように見える汁(味もそんな味がする)をブッかけたもの、必ず唐辛子粉や一見野草のような香りの強い生スパイスを振りかける。友人が言うには、いわゆる「おふくろの味」で、家のナム・ヤーが一番美味しいなどと皆が自慢するのだそうだ。

釜からあげて水を切ってから常温で少し寝かせる。熱帯の30数度の気温だからその内に多分少し発酵するのか饐えた臭いがしだす頃が食べ頃である。日曜日など朝早くお母さんが作って、前日夜遅くまで遊び疲れて眠い目をこすりながら起き出してくる子供らが車座になって「アロイ・アロイ」(美味しい、美味しい)と食べている風景を思い出す。

ちなみに、日本の素麺を紹介したタイの料理専門家の冊子に「カノム・チーン・ジープン」と書いてあった。「日本のカノム・チーン」という意味である。

 

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不思議な商売

(2003年5月 記)

真道 重明

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学生の6年生の時に見た体験である。季節は春だったような気がするが正確には憶えていない。場所は大阪市の南の郊外。窪地の斜面を一人の男が周囲を気にしながら何かしている。私もただ一人だった。物陰からそっと見守っていた。

太い孟宗竹のような長さ約1m 弱の竹筒の一端を竹槍のようにスパッと鋭利に斜に切断したものを持ち、これを崖の斜面に突っ込んで居る、何かを捕っていることは察しが着いた。男の足元には大きな篭のような「獲物を容れるもの」が置かれていたが、中に何が入っているのかは見えない。

暫くして冬眠中の大きな蛙か蝦蟇のようなものを捕っていることが分かった。普通だったら「何してるの?」と尋ねるところだが、男の態度が何だか「人に見られたくない」と言うか、「人目を警戒して悪いことをしている」ように私には感じられた。だから私も息を凝らして物陰から黙って見ていた。

話はただこれだけのことである。私が驚いたのは「あんなに沢山の蛙が集まって冬眠していた」ことである。家に帰って見た体験を家族に話したが誰にも分からない。もっとも、そばに行って良く見た訳ではないから、トノサマガエル、ウシガエルなどの仲間だか、またはガマガエルだか種類は分からない。

考えられる理由としては、食べるため(食糧品原料)か? ウシガエル(牛蛙、ブルフロッグ、別名食用蛙)などは養殖するぐらいで、戦前は米国へも輸出していたし、また普通は青蛙と呼ぶ種類だが中国では食用にする場合には「田鶏」と呼んでいる。鶏と蝦の中間のような味で仲々旨い。私もよく食べたことがある。また、学生時代には、浅草に屋台店も食用ガエルは良く売れていた。焼き鳥らなぬ」焼き蛙」である。「神谷の電気ブラン」と共に売っていたのを記憶している。

大道芸の「蝦蟇の油売り」の話にあるように蝦蟇蛙だったら、「六神丸」の主成分の蟾酥(センソ、動悸、息切れ、 気付けの薬の原料)を得るためかも知れない。『蟾酥には麻薬コカインの数十倍の強い局所麻痺 作用があり、更に血管収縮と抗炎症作用とが認められており、溶剤の油に傷を保護する作用もあることから、「蝦蟇の油」は刀傷を負っても出血や痛みも少なく、当時は素晴らしく良く 効く塗り薬ではなかったかと推測される』という記事が百科辞書にあるぐらいだから、薬の原料として捕っていたのだろうか?

そんな採捕業(商売)が在ったのだろうか?三味線の胴の皮を求めて猫を盗み捕る商売があるとか、あったとか言う話は聞いたことがある。その後このことを誰に聞いても知っている人は居ない。今もって不思議で堪らない。

「あー、それはこういうことなんだ」と知っている人があれば教えて貰いたい。

 

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Tategaki&Yokogaki

縦書きと横書き

 −日本語の横書きはますます増えるだろう−

(2003年5月 記)

真道 重明

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字かな交じり文で書かれる日本語は元来縦書きを基本としていた。神社や仏閣などの「扁額は横書きではないか」という反論があるかも知れないが、実はこれも縦書きなのだそうである。その証拠に、例えば[寺暦延山叡比]というように、右から左に書かれて居る。縦書きは1行書き終わって改行すればその行の左に次の行を書く。扁額などは一見横書きのようだが、実は1字の縦書き、すなわち1字書き終わると改行して次の1字を書いているのだそうだ。この説明を聞いて「なる程!」と思った。習字の本などでは「1字詰め縦書き」と呼んでいる。「右横書き」とも言うようだ。

日本語の横書きは左から右に書く左横書きが原則である。上の例なら[比叡山延暦寺]と書かねばならない。アラビヤ文字は横書きでも右から左に書く、すなわち「右横書き」だそうだが、此処では日本語の横書きを問題にしている。

左横書きが何時から始まったか知らないが、物の本によると[漢字の縦書きは二千年以上の歴史があります。ひらがなも千年の歴史があります。それらの書き方は決まっています。しかし横書きの歴史は数十年しかありません。]という記事があった。戦後に書かれている本だが、これは極端である。私が学校教育を受けたのは戦前から戦中に掛けてであるが、理科系の教科書は殆どが横書きであったし、受講生のノート、いわゆる「大学ノート」も横書きであった。もっとも上記の記事はペン習字関係の本であり、ペン習字の世界で横書きが云々され始めたのは戦後のことかもしれない。

今では何でもないように思われるが、歴史的に縦書きだった日本語を横書きにするのは大変な苦労があったらしい。明治初期に出版されたオランダ語や英語を和訳するための辞書など、日本語は2字詰縦書きといったレイアウトをしたものも在ったというから、日本語を横書きにするには如何に心理的抵抗があったかが伺われる。「日本語は縦書きするものだ」という固定観念を脱け出すことが容易では無かったことが良く分かる。

明治時代はもちろん、私が子供の時の昭和初期の新聞紙は縦書きが主体で、横書きはコラム欄ぐらいであったと記憶するが、最近の一般紙を調べて見て「横書き:縦書き」の比は大雑把な感覚では40:60、ないし50:50ぐらいで、昔に較べて横書きが非常に増えているのに驚いた。特に広告欄は断然横書きが多い。

数学や化学関係の記述は縦書きでは不可能である。横文字(英語など)が氾濫する今の日本語では横書きが増える一方である。テレビや映画のスーパー・インポーズ(字幕)は下段に横書き。能や狂言の謳い文句の場合だけ例外的に画面の左側に縦書きの字幕が出る程度である。最近の電子メールで縦書きを見たことは無い。郵便局の住所番号の自動読み取りやスーパーマーケットのレシート、すべて横書きになっている。

お役所に提出する公的な「届け」なども電子機器で読み取る時に都合が良いのだろう、みな横書きである。私の住んでいる東京都練馬区では平成10年練馬区議会規則第1号で「練馬区議会の規則を左横書きに改める規則」を定めていることをWEB上で発見した。電子メールを始め、電子機器の普及は益々増え、横書きは今後も一層増えるだろう。

毛筆の書道をやっている人々や和歌や漢詩などを嗜む人たちは横書きでは「感じが出ない」という人は多い。そのような人は従来の縦書きをすればよい。私は何も「縦書きを廃止しろ」と言っているのではない。

しかし、本当に横書きでは「感じが出ない」のだろうか?私は唐詩が好きで中国語の分厚い1530ページの「唐詩鑑賞辞典」(簡体字)が書架にあるが、すべて横書きである。問題は慣れであると私は思う。子供の頃家の床の間に李白の「早発白帝城」の詩を隷書体で書いた掛け軸があった。もちろん縦書きである。今の家には床の間が無い。このような掛け軸を鑑賞する場所がない。横書きなら未だ少しは掛ける場所はある。

「感じが出ない」かどうか、試しに私の好きな唐詩、杜牧の清明を横書きで書くと次のようになる。

 

清 明   杜牧

 清 明 時 節 雨 紛 紛

 路 上 行 人 欲 斷 魂

 借 問 酒 家 何 處 有

 牧 童 遙 指 杏 花 村

 

中華人民共和国では新聞紙も書籍も殆ど原則的には横書きになってしまった。縦書きは一部の立て看板や門の左右にある「対聯」ぐらいのものである。中国の横書きは、コンマ、ハイフン、コロン、セミコロン、書籍名表示の括弧記号など、「使い方」が詳しく決められて居り、日本より合理的であると思う。漢詩や対聯などに就いては「感じが出ない。簡体字より旧来の字が良い」と言う人も中国にももちろんあるが、「慣れれば同じですよ」という人々の方が多い。

私も始めは「感じが出ない」と思ったが、いつも中国語の横書きを見ている中に違和感は意識しなくなり、今では「慣れの問題」だなと思うようになった。

「縦書きと横書きの問題はどちらが良いか」という設問はナンセンスだと思う。時代の流れによって皆が横書きが良いとか、便利だと思えば自然にそう変わって行く。また、縦書きの出来ない欧米語と違い、どちらも出来る日本語や中国語は確かに便利な点もある。表などでは縦横組み合わせて見易く引き締まった割り付けが出来る。英語の表ではこうは行かない。

私が奇異に思うにはパソコンの雑誌である。矢鱈と横文字が多い技術分野の問題であるにも係わらず、何故だか本文は縦書きが実に多い。図表のタイトルやキャプションは横書きであり、縦横入り混じって不統一極まりない。七不思議の一つである。

 

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甲骨文字クイズ

 (このページ冒頭のクイズの答え)

(2003年11月)

真道 重明

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骨文字とは表意文字である漢字のルーツである古代中国の象形文字である。亀の甲や獣の骨などに刻み込んで書かれ、占いなどにも使われていたらしい。河南省の殷墟から多数発見されたので「殷墟文字」とも言われる……と言うことは知っている方も多いと思う。

此処に掲げた甲骨文字は殷(自らは国名を「商」と称したから商と呼ぶのが正しい)の時代(前16世紀−前11世紀)の数字なのだそうだ。中央の区切線の左(A)と右(B)に、それぞれ4個の文字が示されている。

(A)        (B)

三千三百六十五    三千六百五十六

3365    3656

下段の茶色は漢数字、すなわち現代も使われている漢時代に書かれた数字、(以上は本来は縦書き表記)。その下の紺色はアラビア数字でインドで始まった「インド数字」がアラビアに伝わり、さらにアラビア人によってヨーロッパに伝えられたと言われる(我々が現在使用している横書きの)算用数字で、三者は同じ数を示している。(日本に算用数字が入ってきたときの話「いちぼう・にのん…」はここをクリック)。

私が驚いたのは殷の数字の字数はアラビア数字の字数と同じく、4ケタの数字は4個の字数で示されるという点である。これに反し漢数字は7個である。殷の数字は「数字」と「ケタを示す字」との合成文字なのだ。

例えば左側の(A)の場合、左端の字に就いて言うと、3条の重なった横棒」は3(漢数字「三」の原形)を示し、これと千のケタを示す縦長い模様(漢字の「人」の原形でもある。上記の場合はケタ[位取り、十進法の位置 decimal place]を示す字)とが合成された字、これで3000を表している。

次の字は、上にある3条の横棒は3を(上述と同じ)、下の模様は百のケタを示す字で、両字が合成されたこの字は300を示している。

そのまた次の字は、上端にチョットある縦棒が十のケタを示す字、下は6を表す数字、この合成文字は60を示している。

(A)の右端のアルファベットのXの形の字は5を表す。これは1のケタであり、ケタを示す字は無い。…と言った具合である。

(B)に就いて言うと、左端の文字は(A)の左端の文字と同じ字で3000を示す合成文字、3番目の字はX (= 5)の上のチョットある縦棒が(A)の場合と同様に十のケタを示す字で、この合成文字は50を表すこととなる。

このシステムで(A)と(B)を見比べると「なる程」と納得できる。ただし、6 を表す字は幾通りもあり、(B)の場合は U を逆さまにした形の字が 6 を示し(A)の6とはとは異なった形をしている(言わば synonym のようなもの)のだそうである。

 

以上は叶 時子氏のホームページ「中国三代紀行」の中の一節から同氏の快諾を得て引用した。引用許可にお礼を申し上げたい。この「中国三代紀行」のホームページは甲骨文字ばかりでなく、古代中国の夏・殷・周の時代についてのいろいろな話が、易しい語り口の文章で、しかも詳しく述べられている。残念ながらこのサイトは現在閉じられている。

 

から9までの数字とケタ表示(位取り記数表示)が合成された1個の文字で表す方法が紀元前11世紀以前にあったことは驚きであると私は思う。エスペラント創始者のザメンホフは数字の表記法は中国の方法が最も合理的であると考えて[数字+位取りのケタ表示]の方式を採用した。例えば:−

6783 = ses_mil sep_cent ok_dek tri 

と表記する。此処では解り易いように仮にアンダー・バーを入れたが、バーより左は数字、右は位取りのケタである。それと言うのも英語では13以後は10のケタを表す teen で統一されているが、11は eleven、12は twelve など12進法の痕跡が混在し、フランス語では90のことを「80と10」などと言うらしく、英語よりもっと面倒らしい。もっとも殷でも暦法では「十干・十二支」の12進法やそれに由来する60進法があったらしい。

殷のこれらの合成数字はどのように発音されて居たのだろうか?元来漢字は1字が一つの意味を表し、1音節である。後世の合成文字の「丗(30)」(後述)などが2音節のサン・シーと発音されたように呼んでいたのだろうか?それとも1音節だったのだろうか?「来」の字は「ライ、現代音では第2声」と発音され、「来る come」、「さぁー来い come on」の意味を表し、論語などが書かれた紀元前の時代から現代まで変わっていないということを読んだことがある。世界でもこのような言語は他に例がないという。

数学の世界では大革命と言われるインドを起源とするゼロ(0、零)が数学的に確立したのは二世紀、しかし「ゼロの概念」は紀元前2世紀頃にインドでは既にあったと言うことだが、もちろん殷には無かった筈。

殷の人々はどのように計算し、どのような数学的水準にあったのか?私の好奇心を駆り立てるが、素人の私には壁が高くて踏み込めない。

「魚、うお」の漢字の甲骨文字はここをクリックすること。

 

甲骨文字とは関係のない数字の無駄話

 

漢数字の合成文字は、現在でも多少はある。廿(20)や卅または丗(30)の漢字はその例である。今では流行らないが私が若い頃には良く見掛けた。1957年に上海水産学院で講義していた時、受講者のノートを見たら「問題」と言う文字を「門構え(もんがまえ)の中にアルファベット大文字の「T」を書いていたことを想い出した。「どう読むのか?」と訊ねたら、「問題という言葉は度々出てくるので速記の様にこの字を書きます」との返事。「題」という字の発音は「 ti 、ティー 2声」である。これは学生語(字?)であり、こうなるとまさに判じ物だ。

現代の中国語では10005は「一万零零零五」と言うのが原則だと私は習った。日本では「一万五」と言うか、もしくは「一万、飛んで五」または律儀に「一万、飛んで、飛んで、飛んで五」と言う。

漢字では一・二・三・四・五では改ざんされ易いので、重要な数字は「大字」の壱・弐・参・肆・伍などと書くのはご承知の通り。例えば「12,345」は「壱萬弐阡参百肆拾伍」となる。これには幾つかの異体文字がある。

私が東京外語で中国語を習ったとき、朱先生は大の月の晦日の31日を「引日」と書くことがあるとのこと。「引」の字を速く書くと31に似ていることから来たらしい。数10年後になって中国でこのことを尋ねたら誰も知らない。先生は北京人だったが、これは半世紀以上も前の話。当時の流行語だったのかも知れない。そう言えば今流行りの「ケータイ」とか言うものでメールを打つ時、【3の次に|(1ではない縦棒)ひ】と書いて「31日」の意味に読むことが若者の流行りだと新聞に出て居た。

指数字と言うものがある。人差し指だけ立てて他の指を握れば 1、人差し指と薬指を立てて他の指を握れば 2、親指と人差し指を握って他の指を拡げれば 3 (中国式、日本では親指と小指を握ることが多い)……と言った具合である。中国では誰でも知っている。方言の多い中国では北京語の1はイー、2はアル、しかし、広東や香港では1はイャッ、2はイーと言う。イーは北京では1、広東では2である。声では紛らわしい。商人(売買人)は売り買いに困る。そこで歴史的に指数字が発達したのだろう。

面白いのは6、8、9や10で、親指と小指を立てて中の3本を握ると6、親指と人差し指を立てて他の指を握ると8、人差し指を立てて先を曲げると9、両手の人差し指を十の字に交差させると10である。人差し指を立てて先を曲げる9は「日本では人のものを掠める(泥棒)を意味する」と言ったら、「それなら9はどうするのか?」と訊ねられて困った。日本では系統立った手話数字は別として、せいぜい1から3迄ぐらいしか普通は使わないのではなかろうか?

もっとも、日本でも「5」は「ジャンケンの紙、グウ・チョキ・パーのパー」で表し、「6」は左手でパー、その上に右手の人差し指を添えて表すなど、臨機応変の我流で示すことは良くある。

 

注  記

インド数字 8世紀頃アラビアに伝わり、さらにアラビアから10、11世紀頃、西ヨーロッパに伝わり、現在の姿になったと言われる。アラビア数字という呼び名はヨーロッパ人が使った言葉で、アラビア人はインド数字と呼んでいるそうだ。アラビア文字は横書きで右から左に向かって書かれるが、インド起源である数字だけは左から右に向かって書かれるそうだ。

書道というものがある。これこそ余談だが、広辞苑によると「毛筆を用いて文字を巧みに書く術。中国で後漢の時代、紙の発明と筆の改良で盛んとなり、魏・晋の頃、王羲之・王献之父子によって発達。わが国に伝来して、平安時代に草仮名を創作し、和様として世尊寺流・法性寺流・定家流・青蓮院流などの流派を生じた。」とある。

書道は英語のカリグラフィー(calligraphy)に当たるものとしているが、語源はギリシャ語の「美しく書く」と言う言葉に由来するらしい。ローマ字の「花文字」なども含まれる。書道は単に装飾性だけでなく芸術性・精神性を含む、きわめて奥の深いものであることはご承知の通り。世界の文字の中で書道として芸術性が高く「数百年、いや、千年前の某々の書などと評価される」のは漢字とアラビア文字だけである……という記事を何処かで読んだ憶えがある。

漢字だけでなく、日本の草仮名やハングル(諺文)も扁額や屏風に飾られており、これらも含めるべきであろう。それにしても、蚯蚓がのた打ったように見えるアラビア文字はピンと来ないが、日本にも同好会が在り、のめり込むと実に奥の深いものらしい。数年前にテレビでその紹介を見ながら「へぇー、そんなものか」と驚いた。

手話数字: 手話には全くの素人であるが、入門書を見て、流石に理論的かつ系統立ったものである。ゼロは親指と人差し指で丸を作って「OK」のサインと同じ、ただし他の指は握る点が異なる。1や2は本文の中国や日本のそれと同じである。6は中国指数字の8と同じらしい。面白い例の中国指数字の9であるが手話数字では10である。何しろ素人談義であり、間違っていたらご海容を請い、ご指摘を願いたい。

 

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糞・尿・屁の咄

2004/02/14.

真道 重明

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火野葦平の小説「糞尿譚」ではないが、糞、尿や屁に関する話や記述は医学書は別として何だか可笑しく面白い。潔癖症の人は「下品だ」と嫌がるかも知れないが、知人と云っても恩師の一人だが、食事中に平気で糞尿の話をする方が居られた。それがまた面白い。何故に糞尿や屁の話が可笑しいのか深く考えたことは無いが、鳥羽僧正の「放屁合戦絵巻」や江戸時代の「放屁大会」の絵図は何となく実に面白い。此処に駄文を弄する次第である。


CONTENTS

糞尿の名を持つ食べ物や料理屋

犬の糞 (熊本で聞いた言葉)
鼠糞唐辛子 (プリッ・キー・ヌー、タイ語)
歯糞菓子 (長崎で聞いた言葉)
馬尿鶏卵 (カイ・ヤオ・マー、タイ語、長崎では「腐れ卵」)

正弁丹吾 (小便担桶と読むしか無い関東煮の老舗店)

トイレの落書き (何度想い出しても可笑しい)

厠 考 (かわや考、便所に関するお話と研究)

幸田露伴の「厠考」 (その漢学の博識に驚く)
日本のトイレと世界のトイレ (どちらを向いて座るのか?)
尻の拭き方 (尻を拭かない英人の弁、沖縄、シンセン駅の掲示)

トイレと兵隊 (戦地で経験したトイレ物語り)

トイレの棒: (極寒地のトイレ作法と掃除)
野営地で先ず最初の必須作業: (これを怠ると悲劇だ)

米兵の立ち小便 (米人・日本人・犬何れも同じ習性を持つ?)

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糞尿の名を持つ食べ物

犬の糞:

熊本では「黒糖でコーティングした太めの「かりんとう」(花燐糖、練った小麦粉を油で揚げ砂糖にまぶした菓子)のことを「犬の糞」と呼ぶ。熊本だけではなくモット広く使われているのかもしれない。美味しい駄菓子だが、大きさと云い、色と云い、形と云い、まさに「犬の糞」である。

「糞食」と云う言葉がある。糞を食べることである。当たり前の話だが、人間は糞食はしない。もっとも江戸時代の牢屋では牢名主が新入りの囚人に罰として強制的に糞食をさせ、させられた者は数日中に死んだと云う話を読んだが、真偽の程は分からない。

糞食の現象はペットでも野犬でも見られるの犬の性癖である。ペットの飼育法の本には詳しく載っている。私の母は生前、「犬はむなやけ、(胃液分泌過多で胃が重くなること)すると糞を食べると治まる」と言っていた。これまた真偽は分からない。

糞食で私が驚いた経験がある。小学生の時、大阪の天王寺動物園で始めて河馬を見たときのこと。今から70年も前の話。水から上がって観客に背を向けて脱糞した。出て来た糞は枕大の短い茶色の棒状のものだった。自分の糞の臭いを嗅ぎ、暫く眺めていた河馬は突然、まさに突然、その大きな口を開いて「パクッ」と一口、一気に呑み込んでしまった。私は呆れ返って河馬は「なんと変なことをする動物だ」と思ったことを憶えている。河馬も糞食するようだ。物の本によると動物の糞食は良くあることで、栄養のバランスを取っているのだそうだ。

 

プリッ・キー・ヌー: 

タイ語である。意味は「鼠の糞の(形をした)唐辛子」、日本で言う「鷹の爪」である。小さいがタイ国のこの唐辛子はとても辛い。ヌーは鼠、キーは糞、プリッは唐辛子である。タイ国の女性は目上の人に対して自分のことを「ヌー」と言う。プリッキーヌーは「妾の辛いウンコ」と言うことになるが、女性に尋ねたことは無い。ハリ倒されるのが怖いから…。

タイ語にはキー「糞」のつく言葉が多い。キー・ター・ヨッは日本語の「来たよ」と音が似ている。日本人が「来たよ」と言うと大笑いになる。キー・ターは目糞、すなわち「目やに」。ヨッは「多い」の意である。「キー・ター・ヨッ」は「目やに」が多いと云う意味になる。

「おーい、来たよ」と言えば益々可笑しい。オーイと言う叫び声はタイ語では苦痛の場合の「痛いー」、「助けて」などの時に発する叫びで、オーイ・キー・ター・ヨッは「目やにが多くてたまらん。どうにかしてくれ!」と叫んでいる訳である。

また、日本語の綺麗(キレイ)に音が似ているキー・レイは「糞をたれる」の意で、日本の婦人に扮した人物が舞台で和服を着て丸髷姿で出てくると「キーレイ・キーレイ」と舞台の周りの役者が囃す。日本人の観客は「綺麗・綺麗」と言っているものと思っている。本当は「糞ったれ・糞ったれ」であり、タイ人は大笑いしている。ただ「可笑しい語呂合わせ」で言っているだけで、日本人を侮蔑する意図があってのことでは無い。日本語の綺麗という発音はタイ語の「糞ったれ」に似た音であることを多くのタイ人は知っているので、このギャグが成立する。

 

歯糞菓子:

「歯くそ菓子」と言う言葉を長崎で聞いたことがある。「安物の駄菓子」と言う意味で、多少侮蔑的な気持ちを表したい場合に使う。「歯くそ」は歯と歯の間に詰まった残渣のこと、言い得て妙である。

「彼奴は吝嗇坊(けちんぼう)で、茶菓子に出すのは何時も歯くそ菓子ばかり」などと使う。

 

カイ・ヤオ・マー:

タイ語である。中華料理のピータン(皮蛋、家鴨の卵の泥塩漬、黄身は濃緑褐色、白身は褐色半透明なご存じのあれ)のこと。カイは卵、ヤオは尿、マーは馬 [マーは四声なら馬、五声なら犬で正確な発音はチョット難しい] の意で、「馬の小便の卵」と言う意味である。タイ語で尿はパッサワーとも言うが学術用語(上品な言い方かも?)のようだ。

私は大好きだが、特有のアンモニア臭がある。臭いは「クサヤ」ほどでは無いにしても人による好き嫌いがある。長崎では冗談めいて「腐れ卵」と呼ぶ人がある。余談だが皮蛋の高級品は「松花蛋」と言う。松花江一帯の地域で産するものだと私は勝手に思い込んで居たが、上海で尋ねてみたら卵の表面の紋様が松の花に似ていることから「松花蛋」の名前で呼ばれる。松花江とは何の関係も無いとのこと。

皮蛋と似たものに「鹹蛋」シエンタンと言う家鴨の卵の加工品がある。皮蛋は石灰、木炭、塩、茶、粘土(塗布用土)などを練って卵殻に塗り付け、籾殻をまぶして甕の中に漬け込んで造る。

一方、鹹蛋は泥と塩を合わせたもの、草木灰(あく)と塩、または簡単に塩水に漬けて造る。卵白は凝固しない。安価であるが、茹でてお粥の「おかず」にはとても合う。月餅の餡の中に入っているのはこれの卵黄を取りだし、蒸して火を通したものである。

鹹蛋はタイ国ではカイ・ケム(塩卵「しおたまご」の意)と呼び何処でも手に入る。中国や東南アジアでは普通の食品であるが日本では見たことが無い。日本では家鴨をそれ程食べないせいであろう。鹹蛋は臭みは無い。アンモニア臭のある皮蛋の方が加工するのに手が混んで居り、味も濃厚である。話が横道に逸れた。

 

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正弁丹吾

小学校の六年生の頃だった。父は酒は殆ど飲めない方だったが、珍しく「今日は同僚に誘われて、兼ねて名前だけは聞いていた『ショウベンタンゴ』で一杯やって来た。さすが老舗だけあって美味かった」と云う。知らない私は「小便…て一体そこ何やねん」と聞き返した。

小便担桶は「ショウベンタゴ」、また大阪では「ショウベンタンゴ」である。まさか食べ物屋で小便は無かろうと思った。父は始めて行った店のことを自慢げに講釈した。有名な「関東煮」、(「かんとう・だき」または「カント・だき」とも呼ぶ)の店なのだそうだ。この関東煮というものは実に美味い。関東にはこれに相当するものは無いにも係わらず、何故関東煮なのか、変な話である。

後年に東京生活をするようになってから思うに、関東の「おでん」をイメージして名付けたのではなかろうか?。京大阪で「おでん」と言えば豆腐や蒟蒻を串に刺して味噌を付けで炙った田楽のことである。そこで「関東風おでん」と云ったのが関東煮になったのかも知れない。

見かけは関東の「おでん」に一見似てはいるが、味は全く異なる。子供の頃の大好物の一つであった。家の近所の屋台などで買い食いする処を父に見つかると叱られたが、浜寺の海水浴場などではおおっぴらに食えるのが何よりの楽しみであった。

この小便担桶であるが、正式名称は「正弁丹吾亭」だそうだ。織田作之助のデビュー作「夫婦善哉」が昭和15年(1940)世に出て一躍有名になった法善寺横丁に今でも残っている数少ない老舗であることを最近知った。

それにしても「しょうべん」とは…。大阪は漫才の本場だけあって、「まからんや」とか「すぼらや」など面白い名前の店が良くある。

 

 

トイレの落書き

 

戦後間もなくの頃に雑誌のコラム欄で読んだ記事。何度想い出しても可笑しい。良く「このような発想か連想が出てくるものだ」と一人で感心している。或るビルの何階かのトイレの内に「張り紙」がしてあった。曰く:

「紙が無くなったら事務室まで来てください」

第1回目の落書き、紺色が落書き挿入部分。

「紙が無くなったらその侭の恰好で事務室まで来てください」

第2回目の落書き、紺色が落書き挿入部分。

「紙が無くなったらその侭の恰好で事務室まで来てください。 拭いてあげます

 

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厠  考

 

幸田露伴の「厠考」:

 

前の中央公論だったか文藝春秋だったか忘れたが、幸田露伴の「厠考」と題するエッセイを読んだことがある。半世紀以上も昔のことなので詳しい正確な内容は忘れた。書いた人は幸田露伴と記憶しているが、菊池寛だったかも知れない。菊池寛にも厠のエッセイが幾つかある。間違っていたらご寛容を請う。無責任な言い方をするな」とのお叱りは甘受するしかない。

「厠考」(かわや・こう)と言う言葉は余り見掛けない言葉だと思って居たが、これは大間違いで、「厠考」や「厠学」、すなわち厠(かわや)に関する歴史や民俗学、はたまた便器に関する研究などにはしばしば用いられている。世の中には日本だけに止まらず世界各国には夥しい研究があり、学会なども沢山あることを知った。

此処で述べる私が読んだ文豪の幸田露伴(菊池寛?)の「厠考」は此れらの類書とは異なり、恐ろしい程の漢学の素養に溢れた文学的エッセイである。今でも私の記憶に残っているのは次の二つの話である。

その1: 中国の或る奥地(原典には場所が明示してある)の峨々たる山脈の絶壁にある厠所で、眼下を見おろすと人の通る姿が胡麻粒より小さく見えるような場所にある。

小便を放つと黄金色の水滴は途中から霧のようになって、まさに「霧散」してしまうらしい。実に爽快かつ愉快な気分になるとのこと。

大便を放つとそれは風に流されて鳥のようにヒラヒラと空中を舞い、これまた愉快の極みだと云う。絶壁に当たった風の動きで舞い上がったり左右に揺れたりするのが見えるそうだ。痛快極まる。

余りにも高いところに在るため、遥か下方に見える胡麻粒より小さい通行人に落下物が命中することは先ず無い。従って、いわゆる「肥溜め」は無く、厠特有の臭気も無い。「厠所の上たるもの也」と云うべきである。

断崖絶壁の切り立った垂直に近い斜面に水平の杭を無数に打ち込み、鎖か葛縄でこれを繋げて短冊状の小板を沢山次々に並べて括り付けた、まるで巨大な吊り橋を絶壁に取り付けたような場所らしい。高所恐怖症の人にはチョット怕いかも。

 

その2:或る帝王の厠の話である。「肥溜め」の壷や坑は無く、白砂の上に数万匹の美しい蝶々の羽根が敷かれている。糞弾が落下すると、その風圧で羽根が舞い上がり、舞い落ちた時には糞弾は綺麗な羽根で覆われていると言う。

本当にそう旨く行くのだろうか?実験してみたいが莫大な数の蝶を採集しなければならないから諦めた。「見たくないものを覆いたい」と言う欲望を満たすために数万匹の蝶の生命を殺すのだから、今なら動物愛護団体か、殺生戒を犯したとして仏教徒から抗議が来るかも知れない。

 

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日本のトイレと世界のトイレ:

 

伝統的な和風トイレには「きんかくし」と云うものがある。広辞苑によると[【金隠し】(「金玉を隠す」の意)。(1)当世具足で、胴の前腰にある草摺の称。まえいた。(2)大便所の便器の前方に設けた遮蔽物。転じて、そのように作られた陶製の便器。]とある。此処で云うのは勿論、後者の(2)のことである。

遮蔽物の板は平安時代(鎌倉時代との説もある)から存在し、「女房装束の十二単(じゅうにひとえ)を掛けておく簡単な衣桁が変形した」(平安)、「武士の直垂(ひたたれ)を掛けるための衣桁が変形した」(鎌倉)、と物の本で読んだことがある。従ってトイレの扉を開けた場合、この板は先ず手前(扉側)に在った。「何時の間にか、その理由は分からないが、逆(扉から遠い反対の奥側)に変わったらしい」と言う。

もちろん、この場合には扉を開けたら便器は前進する方向にあり、駅のトイレのように横方向にはない。そして扉を開けたら前進してそこで蹲む。換言すれば扉を背にしている形となる。最近の腰かけ式トイレの場合は逆で、入ればクルリと180度回転して扉方向に顔を向ける。これは洋式であり、伝統的な和式の状態で蹲る形は、私の乏しい経験から見ても、世界ではむしろ少数派のようである。

経験その1:戦争最中の香港の英軍の「インド兵用キャンプ」に在った大便所。観音開きで垂直幅は1メートルかそれ以下の短い扉が付いている。普段は閉まっているが、バネ仕掛けでチョット押せば開き、手を離せば自動的に左右が合わさって閉まる。扉の上も下も何も無く素通しになって居る。蹲んだ時の顔の見える高さの部分だけが扉板で遮蔽されているから誰だかは分からない。もちろん鍵は無い。下が素通しだから中の人の膝から足までは外から見えるので、中に人が居るか否かは直ぐ分かる。顔は扉の方向に向いている。実にアッケラカンとした感じである。

経験その2:バンコクで世話したタイ人の好青年が東京の知人(鉄工所の社長)宅に3年間、溶接や旋盤・玉掛けなどの実技修得のため邸宅内の別棟に泊まっていた。私はバンコクに勤務していたが、一時帰国した際に彼の様子を見に同宅を訪れた。社長の奥さん曰く、「或る日、人が入っていないと思ってトイレの扉を開けると、彼がこちらを向いて蹲んで居るではありませんか、魂消て仕舞いました」とのこと。純和風式の便所である。戸を開けたら此方を向いた顔が見えたので奥さんは驚いた。「失礼」と言って直ぐに閉めたが、彼が「何故此方を向いて居たのか不思議だった」ようだ。

タイ国の庶民の家にあるトイレは上の香港の例のように扉の方に顔を向ける。奥さんにその事を説明すると「へぇー、変なのー!、そうですか」と事情が分かり、その好青年に日本式作法を親切に教えていた。韓国でもインドやスリランカでも奥の壁を背にして扉の方に顔を向けるタイプだったように記憶している。総て「蹲み式」で椅子のように座るのは高級洋式家屋かホテルなどにしか無い。戦前の中国では茅房と称する屋外の一角があり、扉も仕切りもないものがあった。

今でも「茅房」と言う言葉はトイレを意味するが、茅で葺いてある訳では無い。一般には「厠所」、「洗手間」などと言う。

余談だが寒い中国の北方地域では冬に室外に出るのは大変なので、いわゆる「おまる」が室内の屏風の陰に置いてある。「馬桶」、マードンと呼ぶ。金持ちの家では螺鈿細工の装飾を施した漆器の桶である。ただし、これは室内装飾品で実用には供さない。戦前の日本人がこれを街で見付けて本来は何に使うのか知らない侭、螺鈿装飾の立派なのに見とれて土産に買って帰った。

中国人のお客さんが見えたとき、炊いた御飯を入れる「おひつ」の代りに「中国で探して買った容器」と自慢げに持ち出して馳走した……と言う話を聞いたことがある。中国人のお客はさぞビックリしたに違いない。実用品ではなかったにしろ屎尿入れに飯を盛ってあった訳だ。

蛇足:「金隠し」であるが、これは日本だけのものかも知れない。日本人は昔は江戸のイナセな兄さんなどは「彫り物」自慢で裸体を見せるのは平気なのに、何故だか「前」を見られることを極端に「嫌がり恥ずかしがる」ようだ。公衆浴場には全裸で入るくせに、入るまでは手ぬぐいで必ず「前」を隠す。

もっとも外国人だって真面目な?Nudist Club member は別として公衆の面前に「前」をさらけ出すのは無作法だろうが、猥褻な理由が無い限り、人目に触れる状況下でも敢えて隠すことはしないようだ。海外の海水浴場や温泉場ではそうだった。日本人のように隠すと返って「何かあるのか?」と変に勘繰られる。

東南アジアなどの便器には「金隠し」のような遮蔽物は無いから、トイレのあるシャワーないし水浴室の一方で水浴びしている人がおり、その人が振り向けば「前」は丸見えになるが、お互いに男女であろうと何とも思わない。ところで「金隠し」だが、扉を背にしているから背後で人が戸を開けても背中が邪魔して「前」が見える筈はない。これが奥の壁を背にして扉の方に向かっているのなら、「金隠し」は「前」すなわち「 金」を隠す効果はあろうが、そうではない。それなら一体「何のためにこれが必要」なのだろうか?理由が分からない。理屈では無く、単なる歴史的な習慣なのだろうか?私の疑問の一つである。

 

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尻の拭き方:

 

尻を拭かない英人の弁:以下は或る英国紳士の弁である。

Hey, I have never wiped my ass in the entire life. Well, when I was a baby, my mother wiped it for me. Sine then I've never wiped my ass hole.
You know why? because I didn't have to. My shit IS ALWAYS PERFECT!!
You know, it is banana shape, not too hard, not too moist. It is the kind that you don't have to wipe your ass after taking shit, because it doesn't leave any residue around ass hole.Hey man, I AM ONE HAPPY SHIT-TAKER!! Also let me know if you find somebody like me.I will organise an association of Happy Shit-taker.

私の昔親しかった知人にもこれと全く同じ意見の人が居た。もし生きて居られたら90歳を超えている筈。今では同氏とは音信が不通である。有機化学の専攻者であったその人は、肛門の排便のメカニズムを説明し、直腸の粘膜の動きを詳しく述べ、終われば体内に巻き込まれ収縮する。「外皮に近い肛門の出口部分は全く汚れない」と言う。もっとも健康な快便の場合に限る。

旧友が上記の英国人の主張を知っていれば早速 Association of Happy Shit-taker の設立に賛同し、そのメンバーになっていたかも知れない。

 

沖縄の場合:

数メートル離して高さの低い杭を2本立て、杭頭に麻紐を結びつけて強めに杭間に張る。事が終わればこの紐に跨って腰を前後に動かしてしごく。紐はその後乾燥して次第に太くなる。蝋燭大になれば取り外し、20センチ位の長さに裁断する。「豚をよく食べるので糞には脂肪分が多い。麻紐を芯としてローソクの代わりに使う」と言うのである。灯したときの臭いについては分からない。

戦前、中城湾(なかぐすく湾)の浜辺で聞いた。中国の田舎でも似たような話を聞いたような気がする。まさか本当ではあるまい、面白がっての作り話だろう。

余談だが、高床の厠で地上には豚が飼ってある。慣れた人は親豚の居る方の厠を選ぶ。子豚の場合は穴から地上を見ると子豚が集まってきて上を向いて「キイキイ」と叫んで催促する。気になって出るものも出ない。親豚の場合は落下地点を少し外して黙って下を向いているので気にならないそうである。

 

シンセン駅の掲示:

1957年の夏、香港の新界の国境の橋を渡って対岸のシンセン駅に着いた時のこと。駅舎のトイレで用を足した。しゃがむと目の前に中国語の張り紙が掲示されている。「竹箆の使用を禁ずる」。

始めは竹箆を何に使うのか?と思ったが、考えて見ると「落とし紙」(トイレットペーパー)の代わりに使うのだろうと気付いた。尋ねはしなかったが、そうだとすれば随分と尻(けつ)の穴は頑丈に出来ていることになる。

それとも糞の掃除など、別の用途に使うのだろうか?知っている人はメールで「教えてー」。

 

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トイレと兵隊

−麦と兵隊ではないが、戦地でのトイレ物語り−

 

トイレの棒:

初年兵教育の後半は満州(中国東北部)の新京(吉林省の長春、満州国の首都)で受けた。冬期は極寒地である。勇名を馳せた関東軍の駐屯兵舎の一つである広大な兵舎群のなかに起居していた。その兵舎のトイレの話である。

大便所の各小部屋には必ず一本の「棒」が置かれていた。極寒季になると排泄された便は瞬時に凍って仕舞う。その上にまた次の人が落とすと次々積み重なって、ちょうど鍾乳洞の石筍のように堆積する。余り「うず高くなる」とその「棒」で突き崩す必要に迫られる。さもなければ盛り上がってきた石筍が尻に触れそうな直ぐ下まで迫っているのだ。「棒」で軽く叩く程度では堅くて簡単には崩せない。

ゴロゴロした糞の石筍の「崩された大小の団塊は固体であるから、「汲み取り」は出来ない。満杯になると「つるはし」や「円匙」(エンピと読む。広辞苑によるとエンシの誤読だそうだ。軍隊用語で「シャベル」のこと)などを使って畚に入れで運び出す。これにはかなりの労力を要する。臭気も凍ってしまうと臭わないことを体感した。

ところがペチカや温突(オンドル)で温められた居室に戻ってからが大変。何処からか臭気が漂い始め、次第に強くなって「こりゃ堪らん」ということになる。見渡したところ何処にも異状はない。訝っていると其処に古参兵が入ってきた。「皆上着を着替えろ」と叫ぶ。「古参兵殿」の説明により訳が分かった。

作業中に無数の眼には見えない小さな固体の破片が飛び散り、軍衣に付着して居たのだ。凍っている中は臭気は無いので気が付かない。暖かい部屋に戻ってから、固体は溶解して液体に戻る。同時に臭気も戻り始めるのだ。何のことはない「軍衣の表面は糞に覆われていた」状態になって居た訳である。

 

野営地で先ず最初の必須作業:

今流行りの「アウトドア・キャンプ」が好きな人はご存じだろう。戦地の前線で野営地を設定すると、先ず一番初めにしなければならないのはトイレを作ることである。「何でまた、たかがトイレを…?」と思われるかも知れないが、これは非常に重要である。トイレと言っても穴を掘って二枚の板を少し間隔を空けて穴の上に渡し、その位置を周知させ目印に竿を立てるだけのことではあるが。

これを怠ると悲劇が待ち構えている。これが2〜3泊以上になると野営地点(天幕)を中心とした100メートルの円内の地面は到るところ「糞」だらけになり、自由な歩行が出来なくなる。人数が多いほどこの現象は酷くなる。ウッカリこの作業を忘れた場合どうなるかは、実体験しない限りその「不自由さや悲劇的情況」は想像を超えたものであることがなかなか分からない。

排泄は本能であり、人を含め哺乳類は一般に排泄時には敵に対して無防備であるため身を隠す本能があるように思う(鳥類は排泄行動がやや異なる)。人の場合各自が他から見られない場所を物色する。もし、そこに誰か先人のものが在れば、そこを避けて少し離れた処を物色する。結果的には数ヶ所に纏まるのではなく、至る所に満遍なく分散した糞が分布することになる。

私は二度これを体験した。特に夜の天幕外の出歩きは、糞を踏みつけて靴は糞まみれとなる。ご用心! ご用心!

 

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米兵の立ち小便

 

戦地で「撃ち方止め」の命令で敗戦を迎えた私は敵だった中国軍の司令部に派遣され、中国語の通訳官を勤めた経験がある。広東省広州市でのできごと。我々の任務地点だった白雲飛行場は連合軍の管理下に置かれていた。

中国軍だけでなくジープに載った米兵が飛行場内を乗り回していた。米兵は毎日一回は主滑走路を全速でジープを走らせる。スリルを楽しんでいるのか戦地での無聊のストレス解消かは知らない。とにかく彼等はスピードが好きだ。

或る日、一人でスピードを楽しんでいた彼が突然ジープを止めて滑走路に降り立った。その辺りをウロウロしている。何だろうと私は遠くから見守った。

…と、突然その米兵は車に戻ってきて、車の後輪目掛けて小便を放った。そして乗車すると再び猛スピードで走り出した。「ハハァーン、小便するため車を止めたのだ」と分かった。ウロウロしたのは何故だろう?私の解釈は以下の通りである。

下車して小便する場所を探していた。打ち見たところ飛行場のど真ん中である。樹木も無ければ溝や段差もない。飛行場は極めて平坦な広場である。彼は小便の適地が無いと知ると、仕方なく自分の車に戻り、それを目標に放尿したのだ。

「…と私は思う」。彼の気持ちはよく分かる。犬も何も無いところでは小便はしない。もっとも犬は自分の領域を示すためのマーキングなのだそうだが、柱か樹木を探してそこでして居る。何も無いところで小便しているのを見たことは無い。

人間の場合はマーキングではない。しかし、何も無いところでは「気持ちが何だか落ち着かない」。やはり柱か樹ないし窪み、溝か段差など何か在る所の方が落ち着く。そう思うのは私だけではあるまい。

何故そうなのだろうか?知っている人があれば教えて貰いたい。宜しくお願い致します。

 

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一発で治った吃逆(しゃっくり)

 

(2004年11月)

真道 重明

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ゃっくり (漢字では吃逆と書き、キツギャクと読むらしい)という現象は、「横隔膜の不規則な痙攣」だそうだ位は聞き知っていた。子供の頃は良く経験したが、齢50歳を超えてからはトント起こった例(ためし)がない。普通10分以内には治まってしまうようだ。

「しゃっくり」なぞ病気の中には入らないようだが、この痙攣発作が数秒を置かずに頻発し、更に数時間、いや、一日間も止まらないとなると、これは「大ごと」である。第一、飯が食えないし、睡眠も取れない。私が経験したのは二日半の間「しゃっくり」が止まらず、半死半生になかった人の話である。

私がある診療所の待合室で待っていた時、突然その診療所の玄関前に高級車が止まり、働き盛りの40歳代の男性が一人の、これ亦50歳代ぐらいの色青ざめてヨロヨロする男性を抱え込んで来た。タイ国のバンコクでのことである。その男性は私の顔見知りの人で、日本系の大きな銀行のバンコク支店長である。抱え込まれて来た人は東京の本社から「たまたま」来ていた偉い人だと言う。

二人はゴルフをやっているうちに突如その「偉いさん」が「しゃっくり」の発作を起こし、以来二日間以上止まらないと言う。バンコク中の高級病院を駆け巡って診てもらったが、どの病院も首を捻って「打つ手がない」という返事。「食わず眠らず」の状態が二日以上続いて、当人は半ば生死の境をさ迷っている様子のように見えた。ほとほと困り果てた支店長も顔色が変わり、ただ事ではない。

同銀行に勤めているタイ人の行員の一人が西洋医学の病院が駄目なら良く効くという噂を聞く「鍼診療所」があるから「試しに行ってみたら?」と言うので「藁をも掴む」思いで来たと言うことだった。その鍼灸医はタイ国籍だが中国系の女性で北京に数年間留学した経験を持つ人である。英語や日本語は喋れないが、タイ語と北京語は流暢である。患者は殆どが中国系の人である。タイ語では「鍼」のことを「フアン・ケム」と言うのだが、タイ人は「身体に針を突き刺すなんて恐い」といって誰も行かない。

私がタイ語と中国語で通訳して中年の女性の鍼医に事情を話した。彼女は笑って「直ぐ治ると思う」と言って治療室の寝台に患者を寝かせた。3〜4分も経たない間に突如大きな物凄い鼾声が聞こえてきた。「しゃっくり」はすぐに止まった。だが極度の睡眠不足と絶食に疲労困憊していた患者は「しゃっくり」が止まると、その侭直ぐに眠り始めたのだ。

カーテンで仕切られているので、何処に鍼を打ったのか分からない。「その侭、その侭、起こしては駄目」、「一時間ぐらいで目覚めるから、帰宅して宜しい」、だたし、お湯を飲ませるのは良いが、空腹を訴えても「少量の鶏肉スープか薄いお粥程度にすること」、「明日はお粥だけ、その後は普通食で良いでしょう」との指示だったのでその旨を通訳して伝えた。

支店長は「鍼」て凄いですねー」、「いや本当に助かりました。どうなることかと動転して居ました」と感激して居た。私が何故そこに通っていたかと言うと、若い頃「ぎっくり腰」を数回患って入院したこともあった。「ぎっくり腰」と言っても椎間板ヘルニアでは無く「筋鞘炎」で手術はして居ないし、医学的には軽度のものらしいが痛みは激烈で「ぎっくり腰」そのものである。バンコク勤務中にその診療所を知って、その女医とも仲良くなり、一月置きに一度ぐらい予防的な意味で治療して貰っていた。丁度その日、職場からの帰宅途中に立ち寄って居た時にたまたまこのハプニングと出会った訳である。

私は鍼灸治療は初めてではない。日本に居たとき数回経験している。だが、この時のような劇的な、まさに「効果覿面」を目の当たりにしたことは無かった。大体、漢方医学は西洋医学のように手術や伝染病治療には弱いが、中国数千年の経験を基礎とした治療体系は西洋医学では手に負えない症状に対応できるものがある。重症の「しゃっくり」を止めるのもその一つなのかも知れない。

蛇足的コメント

以下は私の独断と偏見に満ちたコメントである。「しゃっくり」については西洋医学書にいろいろ書いてあるが、理論ばかりで「その様な考え方もある、この様な仮設もある」と言う調子で実に多くの記述がある。しかし具体的治療方法には殆ど触れていない。

民間療法としては、面白いことに日本を含め世界の多くの国々で非常に共通する方法があるのに驚く。「コップやお椀の水を身を極端な前屈み状態にして反対側から飲み干す」とか、誰かに背後から大声で「ワット」と叫んで驚かせると止まる、などの類いである。世界の多くの国々に共通してこのような方法があるのは、きっと何か医学的理由があるのだろうと思うが、普通「しゃっくり」は間もなく治まるので誰も研究しないのではないか?

しかし、上記のような重症の場合には、下手すると命に係わるような気がする。それとも私がただ知らないだけで、治療法は確立されているのだろうか?驚いたのは70年間「しゃっくり」が止まらなかった人があるそうだ。ギネス・ブックか何かに載っているらしい。きっと痙攣間隔も長く、痙攣も軽度だったのだろう。「しゃっくり」を止める「お呪い、オマジナイ」も沢山ある。「絶対治る、保証付き」というのがあった。「是非お試しあれ、万一治らないときは運命と諦めなさい」と書いてあった。

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「さしみ」の海外進出

 

(2004年11月)

真道 重明

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まえがき  韓国での話  タイ国での話  中国での話

 

まえがき

身(さしみ)と言う言葉を広辞苑で引くと「魚肉などをなまのままで薄く細く切って、醤油などをつけて食べるもの。おつくり」とある。私の経験では関東では専ら「さしみ」、関西では主に「つくり」と言うようだ。なお、この他に「あらい」と言うものがある。広辞苑によると「洗膾」「洗魚」とも書く。 コイ・タイ・スズキなどの肉の生身を冷水や氷で洗い縮ませた「さしみ」とある。とある最近ではスーパーなどの表示に牡蛎(カキ)などに「さしみ」と書いてあるのが目立つ。何だか言葉に違和感がある。

鮮度の良い牡蛎は「生(なま)牡蛎」と称して酢牡蠣などで食べるが「さしみ」とは言わなかったように思うのだが、どうだろう?なかにはアサリ、シジミ、海藻まで「さしみ用」と表示したものもある。鮮度がよいことを強調しているのだろうが、何だか変である。イワシなどの肉は包丁を使わず指で背骨を取り去って「おびき、尾引き」と呼び「さしみ」とは言わなかった。今ではこれも「さしみ用」と書いてあるのを見る。「さしみ」の言葉が「鮮度が良くて生(なま)でも食べられる」と言った意味に拡大されつつあるように思う。

本題に入ろう。獣類の生肉を食べる食文化を持つ国や民族は世界に数多くあるようだ。しかし魚介類の生食に関しては私の乏しい経験で「実際にこの眼でみた」のはタイ国のタイ湾に面した(カンボジア寄り)有名な観光地のあるパタヤ近くの西海岸に在る小さな漁村でイワシ類の「おびき」を食べる例だけである。タイ国でも魚介類の生食は此処だけで、他の地方では魚介類の生食は聞かない。ホテルの食堂などでの "Oysters on the half shell" などと言う西洋料理は別である。

日本人は生食を好み、魚介類だけでなく鶏卵なども生食するが、日本で何時から生食が始まったのか?物の本によると「江戸時代に寿司屋台がはじまり、その頃から魚介類を生で食べるようになった」とある。だとするとそれ程昔からではない。奈良や平安時代には生食は無かったのだろうか?

日本の動物蛋白(植物は別として)の生食では「馬刺」や最近の「レバ刺」など獣肉や獣類の内蔵を生食する僅かな例外はあるが、魚介類に関する生食、すなわち「さしみ」は極めて普遍的で大量に消費される。このような現象は日本独特のもので、他の国には余り見られない現象だと私は思っていたし、今もそう思っている。だからテレビなどでポルトガルの海鮮料理屋などに「生き章魚(タコ)」のメニューがあり、輪切りの章魚を食っているのを見ると驚いてしまう。これは例外中の例外だと私は勝手に決めつけて居るのだが…。

だから、日本以外の国の料理屋のメニューに「さしみ」がある筈は無いと思っていた。もっとも、高度経済成長の後、日本人の海外に勤務したり、海外へ観光に出掛けたりする人達が増え、日本人相手に開いた日本料理屋は別である。これには二通りあって、日本人が経営し、日本人の板前が調理する本格派と、現地国人が経営し、現地人の調理人が「見様見真似」で「さしみ」や寿司らしいものを出す店とがある。以下に私の「ささやか」な経験と見聞きしたことを述べよう。

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韓国での話

 

1966年5月から7月に掛けソウルで開催された日韓漁業共同委員会の第1回会議以降毎年開かれる同会議に私は第5回会議まで随員として連続毎年参加した。66年は国交回復直後で首都ソウルには日本料理屋が僅か数軒あった。経営者も板前も総て韓国人であったと記憶している。「さしみ」もあった。二三人が食べて早速翌日下痢をしてしまった。その後其処では誰も「さしみ」には手を出さなかった。

日本人は魚介類の鮮度が良ければ「さしみ」にし、それほど鮮度が良くなければ煮魚に、鮮度が悪いと唐揚げにする。どうもこの時の板前さんは、同じ魚を生で薄切りにすれば「さしみ」、煮付ければ煮魚、油で揚げれば唐揚げと割り切っていた様子である。後年になって同じような例をタイ国でも経験した。

同店の名誉のために書き添えれば、国交回復で日本人訪問者が増えたその2年後には、その店の「さしみ」の鮮度は良くなっていた。多分苦情が出て改善されたのだろう。女将は女優の森光子に年格好が生き写しで、冗談に「光子の店」などと呼んでいたのを憶えている。

要するに「さしみ」という調理法は鮮度が第一である。鮮度が悪ければ誰も「さしみ」にはしない。この大原則を無視して、ただ魚肉の薄切りを「さしみ」と称するなら「堪ったものではない」のである。

この鮮度の問題に関連して想い出す話がある。話は逸れるが米国でのこと。未だ最近のように「スシ・バー」や日本料理屋が流行する以前のこと。或る米人が「さしみ」の値段が不当に高いと不平を漏らした。その理由は「手間暇掛けて調理したものならそれなりの労力を費やしているから高価であるのも分かる。「さしみ」は「魚肉を、だた魚体から薄切りにしただけでは無いか、それを調理と言えるのか。金を不当にボッテいる」と言うのである。

日本人の板さんは「あのなー、寿司ダネや刺身の材料は生食のため活きている魚、もしくは極めて新鮮な魚でないと料理にならないんですよー。良い鮮度の魚の提供に費やす経費は桁が違う程に高価なのです。分かりますか?」とい返したそうだ。その米人の客がその説明を分かったかどうか、これは私が他人から聴いた話なので其処の処は知らないが、ありそうな会話である。

ちなみに、韓国には「フェ」と称する伝統料理があって、古くから魚を生食する習慣があったそうである。1621年に於于堂・柳夢寅が著述した『於于野談』には、文禄・慶長の役が起こった当時、明からの援軍10万人が朝鮮に長い間駐屯し、朝鮮の人がフェを食べるのを見て汚いと罵ったという記述があるそうだ。

また、1614年に著された李芝峰の『芝峰類説』には『今の中国人は膾を食べない。干した肉であっても必ず火を通し、わが国の人が膾を食べるのを見て笑う』という記述が残っているそうだ。以上のことから、韓国の研究者の間では、朝鮮時代の中期以前からも魚の生食文化が存在したと認識されている。(以上は『韓国料理文化史』(李盛雨/平凡社)による。

私は「フェ」と称するものを食べたことは無いが、韓国の生牛肉の「ユッケ、漢字では肉膾と書くらしい」は今では日本人の大半は知っているが、「フェ」はその海鮮版で、言わば「さしみ盛り合わせ」のようなものらしい。漢字では「鱠」の字を当てるそうだ。釜山の市場で海鞘(ほや)を売っていたのを見たが、これなども日本と同じく生食するのでは無かろうか?

日本の考古学を科学的に体系づけたと言われる濱田耕作(1881年、明治14年生れ)は《青陵随筆》のなかで「洛東江に産する川幸をいろいろと食べさせられた。中にも「カムルチ」という魚のサシミは、その身がまっしろでうつくしく、すこぶる味覚をそそったが、何分洛東江の魚にはジストマがいると聞いているので…」という文章がある。

この「カムルチ」は日本では「カムルチー」とも呼び、中国の雷魚(ライギョ)も同じ仲間である。この「さしみ」は本当に美味しい。私は1943年兵役に服したが、入隊前に故郷の熊本で親戚の歓送会の席で食べた。当時は朝鮮半島から侵入して野生化したこの魚に「寄生虫が居り危険だ」と言うことを知らず、「さしみ」にして食べる人が多かった。私もその一人だった訳だが、幸い事なきを得たようだ。

韓国の魚介類の生食は伝統的に在ったようだが、そう言えば私も洛東江のサヨリの「糸切りのさしみ」を土地の名物だと言って食べさせられた経験がある。後記する中国とは違い、朝鮮半島には日本と同様に魚介類の生食文化が存在して居たようだ。当然鮮度は重視されていただろう。それなら上記の1966年のソウルでの日本料理屋の「さしみ」の話と矛盾するようだが、「フェ」は釜山など南鮮にだけあるのだろうか?

 

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タイ国での話

 

戦後日本人の駐在員や観光客が激増したタイ国では、昔から在った数軒の日本料理の老舗だけでなく1970年以降は日本料理屋や寿司屋の数も激増している。それらは日本人の客を対象にするだけでなく、地元のタイ人や日本人以外の欧米人の客筋も増え、魚介類を生食する寿司や「さしみ」も繁盛するようになった。

今では「食堂街」式の数階建てのビルもあり、一・二階はタイ料理、三階は日本料理、四階は西洋料理、その上の階は軽食喫茶などと言うものまである。日本料理のフロアーには、寿司、おでん、「さしみ」は勿論ある。日本人も行くが地元タイ人の客が多い。しかも「さしみ」を食べる中年や若者が案外多いのである。

不思議に思って「さしみ」は好きですか?と私はたびたび彼等に笑顔で尋ねた。「それ程美味しいとは思いませんが、身体に「精」が着くと言うので食べている中に好きになりました」と答える人が実に多い。『日本人が猛烈に精を出して働くのは「さしみ」を食っているからだ』という迷信?が広まっているらしい。南米から齎された馬鈴薯がオランダに輸入され始めた時、高価で上流階級の人々しか口にすることが出来なかったが、彼等は「馬鈴薯」は「精」が着くと信じられて居た…という有名な話と通じる処がある。

ちなみに、彼等は山葵(わさび)の代わりに唐辛子粉をナンプラ(魚醤油)で溶いたもので「さしみ」を食べる。山葵は鼻にツンと来るので嫌だと言う。この「ツンと来る」のツンはタイ語では「チュン」(タイ語第四声)と発音する。唐辛子の辛さには滅法強いタイ人だが、山葵や芥子(からし)の辛さには弱い。もっとも日本でも九州の天草では山葵が無いためか、「さしみ」は専ら唐辛子である。

 

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中国での話

 

漢民族は生食を殆ど全くといってよい程しない。「料理はフランスと中国が世界を征して居る」と良く云われる程に中華料理は世界の何処に行っても在るようだが、極めて少数の例外を除いて生食料理は無い。また、直火で焼いた料理も無いと聞く。漢民族の間では「直火」、すなわち「火」には毒があって直火で焼く調理法は古来から無かったと云うことを聞いたことがある。調理法が多種多様で世界に誇る中華料理に「生食と直火焼き」が無いのは不思議と云えば不思議である。

北京ダック(カオ・ヤー、カオは火偏に旁は考、ヤーは鴨)や豚の丸焼きがあるじゃないか?と言われるかも知れないが、これらは蒙古から伝来した蒙古系の料理なのだそうである。今では普通になっているけれども…。直火で焼いたものには上記のカオの字を着けるが、鶏の丸焼きは「焼鶏、シャオ・ジー」、焼き豚は「焼肉、シャオ・ロウ」などとも言う例も無い訳ではない。

生食は無いから「さしみ」は当然のことながら無い。水も生水は絶対飲まない。必ず沸騰させ「お湯」(開水、カイ・シュイ)か「湯冷まし」(涼開水、リャン・カイ・シュイ)を飲む。開水を入れた魔法瓶(熱水瓶、ロー・シュイ・ピン)がやたらに目に着くのはこの所為である。日本の旅館の朝飯には必ずといってよい程「生卵」と焼き海苔が出るが、日本の習慣に慣れた人は別として、中国人は「生卵」は絶対に食べない。漢民族が生食をしないのは、恐らく寄生虫や細菌の害を防ぐための数千年の経験から来た衛生上の習慣であろう。

驚いたのは私が最近畏友の鈴木秀弥氏から受けたメールである。「9月に雲南省の山奥にトレッキングに行った帰りに広州で美味い刺身を食べたのですが現地で「百花魚」と云っていました。どんな魚か見当がつきません。お心当たりがあれば、お知らせいただければ幸いです」とある。続けて:−

「まさに美称と思われるほど良い味でした。同行7人が先ず驚いたのは、大き目のまな板のような底の浅い木の箱に白身の刺身がたっぷりと盛られて出されたことです。山中で野菜の炒め物ばかりでしたので、有難かったのですが中国で生ものは・・・・と一時はたじろぎましたが、あっと云うまに平らげてしまいました。不思議なことに直接かき氷の上でなく、氷の上にラップを引き、その上に刺身がのせてありました。また山葵の替わりに、揚げビーフンや豆類など7,8種類が付け合せで食べるように小皿にもられていました。「ところ変われば食べかたも変わる」でした…と同氏のメールにあった。 

「雲南省の山歩きとは羨ましい限りです。ところで「百花魚」ですが、「百花」の語は百花繚乱や百花斉放のように日本でも中国でも常に良く使われます。百花園、百花劇団、百花レストラン、百花公園などの名前は中国では一種の美称だと思います。料理の名前にも「百花対蝦(対蝦はクルマエビ属のエビを指します)」、「百花魚翅 (魚翅はフカヒレ)などがあります。

「見た目が豪華な」ぐらいの意味で魚の種類を示す語ではないと思います。中国の Web-site を見ると「百花」の文字は非常に沢山出て来ますが、「百花魚」という魚の種は学術的には特定できません。地方によっては「百花魚」は特定の種を指すらしいのですが、日本の料理屋のメニューの用語で、豆腐の「おから」を凝って「卯の花」などと言ったり、例えば日本の寿司屋で、「ムラサキ」といえば醤油、「アガリ」と言えば「お茶」のことを指すのと同じ「業界通?」的なの用語のなかの美称のように思います。幾つかの学術的な魚名の辞典を調べましたが「百花魚」は発見出来ませんでした…。と返事した。

しかし、中国で「刺身」が旨かったと言うのは私にとっては驚きであった。私は多少は中国語が分かる。戦時中の中国は兵役の時、北は長春(新京)から南は広東省まで。戦後は1957年以来中国各地を度々訪れた経験はあるが、軍隊では「さしみ」は衛生上厳禁、戦後では1957年に中国漁業協会の招きで訪れた際、大連市のホテル(賓館の名前は忘れた。確か「旧やまとホテル」だったと記憶する)で鯛の「刺身」を食べた。

当時の中国には日本料理屋は皆無で、4ヵ月間の滞在中、連日中華料理ばかりだったので、わざわざ特別の計らいで調理して呉れた。日本が関東州を占領して居た時代から勤めて居たという調理人が居り、「刺身」と「味噌汁」を特別に作ってくれた訳である。旨かったのは憶えているが、山葵があったかどうかは記憶にない。その後の半世紀間、現在に到るまで、後にも先にも中国で「さしみ」を食べたのはこの時一度だけである。

だから、鈴木秀弥氏のメールを見て驚いたわけだ。時代は変わった。中国の大都会にはホテルが林立し、多くの日本人観光客が押しかける現在では、日本人用に「さしみ」を出すホテルの食堂が在っても可笑しくない。迂闊にも私はそれに思い当たらなかった。魚肉の「さしみ」を意味する言葉はある。「生魚片、ション・ユィ・ピエン」と言う。

1980年代になってからは少なくも2002年迄は年に一度は訪中して居るが、止まる宿舎は大学の宿舎だったり、政府の招待所だったりで、一般人のホテルに泊まったのは、日本や国連の調査団の一員か、私用で訪れた場合で、僅か数回しかない。その様な時でも日本食のコーナーに行って日本食を食べようとは思わなかった。だから「さしみ」がメニューに有るのかどうかは知らなかった。

ここで問題になるのは、上述のタイ国の場合のように「さしみ」が中国人にも食べられて居るかどうか?である。タイ国では一部の人とは言え、タイ人の調理師が造った刺身をタイ人が食べている。中国の場合はどうなのだろうか?上記の鈴木秀弥氏によると「山葵の替わりに、揚げビーフンや豆類など7,8種類が付け合せで食べるように小皿にもられていました」とある。「さしみ」が中国人の間にも浸透し始めている感じもする。

若し日本人だけに出すのなら山葵(いまはチューブ入りの練り山葵もある)が添えられているだろう。この辺の最近の事情をお知りの方が在れば是非お教え願いたい。

生食とは関係のない余談になるが、中国の料理も最近ではどんどん変わっている。ビックリしたのは日本のウナギの蒲焼きである。縞模様のあるタウナギは良く食べるが、中国では日本のウナギは元来食べなかった。最近では日本へ輸出する目的で福建省や広東省では日本のウナギ養殖が盛んである。そのうち「此れは美味しい」と味を憶えてしまった。

先年、世界銀行とFAOの調査団に加わって広東省の海岸の各都市を2ヵ月に亘って歴訪した。汕頭(スワトウ)に行ったら大皿にウナギの蒲焼きが出た。名刺大に切った蒲焼き片が広東式の盛りつけで、丁度「フグ刺し」風に綺麗に同心円状に並べられている。山椒粉は無かったが、日本人は私一人だったので「どうぞ」とばかり私の皿に山盛りになった。現在ではこの地方の各地では中国人の食べる「名菜」として有名になっているそうだ。

冒頭で「漢民族は生水を飲まず、生食をしない」と言ったが、極少数だが例外はある。私の経験でも例えば山東省青島の観光地「労山」に徒歩で登ったことがある。頂上に「観」(道教の廟)があり綺麗な湧き水がある。生水を一杯いくらで飲ませてくれる。ここの水は天然の鉱泉水で、安心して飲むことが出来る。ちなみに、中国でビールと言えば創業百年を超える「青島ビール」が最も有名だが、この「名水の存在」と嘗てドイツの租借地だったから優れた「醸造技術」が伝わっていたのが「青島ビール」を有名にした原因だろうと思う。

魚介類の生食では前掲の近代考古学の祖「濱田耕作」氏の文章の一節に「先年北京の東興樓といふ料理屋で、蘇州の名物とかの生きた小蝦に味噌を付けて食ふ奴を出されたことがある。ピチピチと跳ねる蝦を食ふのであるから、殘酷でもあり薄氣味が惡く、味を賞する餘裕もなかつた。然るに同席の支那の友人某君に「それはチブスに危險ですからお止めなさい」と言はれて、急に腹具合が惡く、それから一週間ばかり今日發病するか、明日參るかと心配したことである。後で聞くと、此の蝦は西湖の泥水の中にゐるのを捕るのであるから、丸でバチルスの培養基の樣なものであると言ふ。可恐、可恐」とある。明治時代のことであろう。

真の生食では無いが、広東省の広州には炊き立ての熱いお粥に「さしみ」を載せて「半生(はんなま)状態」にして食べる料理がある。日本の「鯛茶漬け」と似ている。また、生きた「蚶、サルボウガイに似た二枚貝」に熱湯を掛け殻の口が開き掛かった半生のものを酢醤油で食べる。これは中国各地にあり、なかなか旨い。

余談だが、兵隊の時、広州の市場の魚屋で不思議な「魚の捌き方」を見た。日本では「輪切り」以外は普通「二枚下ろし」、「三枚下ろし」など魚体の背と腹を共に左右に(垂直に)切断する。処がその時広州の魚屋で見た或る魚は背骨に添って背中側と腹側とを上下に(つまり水平に)切断してある。鮮度を良く見せるためか紅を刷毛で塗ってある。こんな「捌き方」は私の知る限り世界の何処にもないと思うのだが、どうだろうか?

.蛇足:植物の生食だが、中国では最近の西洋式のサラダは別として、野菜も炒めるか、茹でるか、煮るか、何れにしても火を通して食べる。但し、桃や梨などの果物は加工もするが普通は生食である。

しかし例外もある。無錫だったか、蘇州だったかの旅館で、「此処の大根は旨い」と言われて寸胴の短い生大根を同行の中国の友人から差し出された。白酒(強い蒸留酒)をチビチビやりながら丸齧りする。少し辛みと甘みがあって旨かった記憶がある。

 

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タコの好きな日本人

 

− タコの似非?的かつ雑談的な食文化論 −

 

(2004年12月)

真道 重明

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畏友の 故 田中二良氏の「たこ研究会」のホームページに請われて短文を書いたことがある。このホームページはなかなか面白いホームページで今でも後継者に引き継がれている。以下はその短文を読み返し、その後に気が付いたり調べたりしたことも多いのでそれらも加えて全体を編集し直した。


前言   タイ国   中国大陸   香港   台湾   韓国   ポルトガル   余談


 

前言

タコと言う言葉を聞くと「日本人」は何かユーモラスで「滑稽で人懐こい」感じがする。ポルトガルやスペインなどラテン系を除く多くの欧米人は「悪魔の魚、Devilfish」などと呼び、とても食べる気はしないようだ。もっともイカの類やアンコウなども Devilfish と呼ぶようだからタコだけがやり玉に挙げられている訳ではない。嫌なもの、気持ちの悪いもの…と云うことだろう。

1954年封切りのカーク・ダグラス主演の映画「海底2000マイル」の中に船長がタコの卵を客に出し、お客が眼を丸くするシーンが在った。最近の或るWeb siteの書き込みに「海底2000マイルという映画を観た時、カークダグラスが蛸を食べるのを信じられないという風に、アメリカ人ジャーナリストが会話していたシーンがあったように思うのですが、ヨーロッパでは蛸を食べないのだろうか?」と言うのがあった。

NHKのテレビの映像にポルトガルの漁港の近くのレストランで、まだ蠕動している「生き蛸の足のぶつ切り」をスライスしてレモン汁をかけフォークに刺し「さも旨そうに食べている」シーンを見て驚いたが、欧米と言ってポルトガルやスペインでは生食(なま食)は一部の特殊な例かもしれないが、いろいろなタコ料理を食べて居るらしい。紀元前3000年前のエーゲ海文明の海底から見付かった土器にタコの絵が描かれているのを見た記憶がある。地中海を囲む地域の人々は大昔からタコを食べていたのかも知れない。

しかし、何と言ってもタコが好きなのは日本だろう。世界のタコ輸入金額を見ると、日本は世界の首位にあり、2002年には3.4億ドルを各国から輸入している。生産量から見ても世界の首位にあり、同年には約6万トン弱を生産して居る。ともかく世界で一番タコを消費している。

「タコ酢を肴に焼酎で一杯」、明石の飯蛸(イイダコ)、大阪の関東煮(カントダキと呼ぶ。関東にはない「関西式おでん」、関西にしかないのに「なぜ関東煮」と言うのか不思議)の中の「串に刺したタコの足」(巻き貝・二枚貝・イカ・タコなどの軟体類の身は一般に煮過ぎると堅くなるが、タコだけは煮込めば煮込むほど軟らかくなるのは何故だろう?関東煮の煮込んだ軟らかいタコの味は絶妙)、今では関西発のお好み焼きに次いで全国的に普及した「たこ焼き」などなど、日本のタコの調理法は枚挙に暇がない。

余談になるが、加熱して乾燥させたダコを鰹節のように削って細いテープ状にした商品名を「波の花」と呼ぶものが熊本にあった。お祝いパーティのクラッカーを「バン」と爆発させると「パッ」と飛び出す五色のテープそっくりの食べ物である。子供の時良く食べたが今もあるのだろうか?

「藷タコ南京」(いも・たこ・なんきん)と云う女性の好物を指す常套句がある(南京はカボチャのこと)。とにかく日本人は女に限らず男もタコが大好きだ。他の国はどうなのだろう?以下に各国のタコの消費について調べた結果を述べてみた。

 

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タイ国

 

欧米人だけでは無くタイ人もタコのことを「Pla-muk Yak」と言う。Plaは魚、Pla-mukは烏賊、Yakは梵語(サンスクリット語)のYaksa(容貌・姿が醜怪で猛悪な鬼神。後に仏教にとり入れられ諸天の守護神となる。日本語の夜叉(ヤシャ)の語源。日本の仁王様のようにタイ国の寺院では2匹(2人?)のYakが入り口の左右に立ち寺院を守っている…に由来し、Devilに近い語感である。

私が見たタイのタコは小型のものが多く、乾して乾物とする。もちろん食用としてだが、普通の市場では殆ど見かけない。「何でも売っている、売ってないものは棺桶ぐらい(まるで日本で百貨店が出来た頃の謳い文句そっくり)で有名なバンコクの旧サンデー・マーケット」でこの「乾蛸」が売られているのを一度見掛けたことがある。元々タイ人は「焼いて味付けした(のしイカ)、即ち味付けしてローラーで薄くしたスルメ)を非常に好み映画館の前の屋台では何処でも大繁盛で売っているから、タコを食べることは「ごく限られた一部の人達」かも知れないが、それ程不思議ではないと思われる。

タイ人の知人のお母さんはタイ料理に詳しい人だったが「日本の握り寿司を食べたことが無い」と云うので知人と共にバンコク市内の寿司屋に案内したことがある。タコの握りを見てビックリして身震いし「それは駄目」と言ったのを憶えている。普通のタイ人は先ず食べないようだ。

 

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中国大陸

 

中国では Octopodidaeを章魚科、Gen. Octopusを蛸類(蛸属)と表記している(中国科学院の表記法)。「章」と「蛸」の漢字の使い分けをしているが、章の場合は他の語と混乱するので「章魚」と必ず2字で表記する。蛸の場合は1字だけで、蛸魚と2字では書かないし、また言わないようだ。一般の日常会話ではタコは章魚(ジャン-ユィ)が使われている場合が多いように思う。なお、「章」と「蛸」は日本語の音読みでは同じく「ショウ」と発音しますが、中国標準音では前者は[ジャン、1声]、後者は[シアオ、4声]で全く異なる。

「広東人は猫・二十日鼠・猿・蛇・ゲンゴロウやミズスマシ(水生昆虫)から沙蚕に至る迄、とにかく『何でも食べる』と言う」、しかし、どう言う訳かタコだけは無い。また広東省以外でも北は黒龍江省から広西壮族自治区に到るまで、広大な中国ではあるが私の知る限りタコの料理の存在は聞いたことが無い。各省から来日している留学生に聞いても皆「タコは食べたことがない」と言う返事が返って来る。

しかし、Web上でただ一つ見付けた。「章魚切段」と言う商品名で連雲港の加工会社がパックを出している。写真で見ると煮塾したタコの足を1センチ位にぶつ切りにしたものらしい。 これは「輸出用ではないか」と私は思うのだが、内需だとすると私の判断は変わってくる。しかし内需なら「タコの料理」が大陸でもっと沢山云々されて良い筈だが、中国の「食譜」には私が調べた限りでは皆無である。パックの表は中国語で書かれて居るから恐らく下記する台湾向け商品と踏んだが、詳しいことは判らない。Web で探している中に北京で一つ見つけたが、ホテルに出店している日本料理屋であり、対象の客は日本人だけらしい。

何故中華料理にタコが無いのだろう?「大陸沿岸ではあまり漁獲されないからだ」と言う説がある。確かにFAOの統計では中国は多い年で4000トン〜5000トン、少ない年では100トン以下で変動が激しいが、これらは遠洋漁業によるアフリカ西岸からのもので、地先の北西太平洋では零ないし無視しうる量である。大陸沿岸では獲れないのか、あるいは棲息していても獲っていないかだ。

一方、輸出入の金額を見るとかなりの額がある。自国では食べないが輸入して加工し再輸出している可能性が考えられる。上記の連雲港の加工会社ではないが、うろ覚えだから記憶が正しいかどうか保証の限りではないが、浙江省の舟山でタコの加工工場を見たと人から聞いたことがある。何れにしても中国の沿岸では獲っていないし中国人は殆ど食べてはいないようだ。

 

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香港

 

Web site を捜し捲っていたら、香港に一つだけあった。その「章魚食譜」には日本語に抄訳すると次のように書かれて居る。曰く:章魚、またの名を「八爪魚」。タコはイカやエビと同じくタウリンを含み血圧を下げる効果があり、「中年の人が多く食べても良い」と一部の栄養学者は言っている。(中略、動物学的な説明と新鮮なタコの見分け方など)。必ず煮塾して調理すること。調理した料理名には「節瓜章魚湯」や「合掌瓜章魚排骨湯」などがある…云々。上の記載から見て、香港でもそれほど人口に膾炙した料理とは思えない。いかもの食いか物好きな人が食べる程度らしい。

 

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台湾

 

中国と言っても台湾では事情は大きく異なっている。寿司屋やおでん屋が軒を連ねる台湾のことである。章魚沙西米(沙西米は音から考えて「さしみ」である)を始め「たこ焼き」まである。たこ焼きは「章魚小丸子」と呼ぶらしい。日本と同じく「章魚焼」と書いてある店も在る。

「たこ焼きは日本では60数年の歴史があり、章魚焼と呼び、20数年前から日本各地を風靡していて日本の何処に行っても食べることが出来る。しかし美味しいか否かは地方による。我が公司(製造会社)の「章魚小丸子」は品質や形が日本の本場のものと同様で…」と店(会社)の謳い文句にある。

これから考えて、日本料理屋の多い台湾では「たこ焼き」はかなり普及していることが窺える。「章魚小丸子」で検索すると沢山の料理屋(日本料理屋とは限らない)が「たこ焼き」で互いに競い合っている。菜単子(メニュー)の「酸錯章魚」は「タコ酢」に違いない。

 

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韓国

 

それでは韓国はどうであろうか?釜山の元祖ハルメチプ(ウォンチョハルメチプ)、「釜山で1960年ごろからある韓国で最初のタコ料理屋」などの広告がある。これは「たこ焼き」ではなく、唐辛子を入れて炒めた料理。日本と距離的には最も近い韓国、その南部海岸地方は日本同様に歴史的に魚介類の生食(なま食)料理があったと言うから、食習慣は極めて似ているようだが、タコに関しては歴史的には「1960年ごろ」と言うから、比較的新しいのかも知れない。

 

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ポルトガル

 

冒頭に『NHKのテレビの映像にポルトガルの漁港の近くのレストランで、まだ蠕動している「生き蛸の足のぶつ切り」を「さも旨そうに食べている」シーンを見て驚いた』と書いたが、ポルトガルだけでなく、スペインやイタリヤその他の地中海を囲む地域の人々は、冒頭で述べたように、大昔からタコを食べていた可能性がある。

しかし、現在では何と言ってもポルトガルが第一らしい。グルメ世界旅行と言った記事のメニューを見ても「蛸のミネストローネ」の話や調理法、ポルトガルの料理屋で「蛸のお通し」が出た…とか、「ポルトガル人はタコをよく食べる。タコのリゾットや炊き込みご飯はほとんどの店のメニューに載っている。メニューにはアローシュ・デ・ポルボ(Arroz de Polvo)と書いてあり、アローシェはリゾット、ポルボは蛸のこと。

また、在る人は「ポルトガル料理、蛸(POLVO)、烏賊 (LULA/CHOCO)…」と云う解説など、「ポルトガル料理、蛸とジャガイモのコリアンダー煮込み。蛸のマリネ」のどの文字が出て来る。私が驚いた「活きダコのなま食」は無かったけれども…。

こんなにいろいろなタコ料理のメニューが出て来る国は他にない。ポルトガル人は間違いなく「タコ好き」である。面白いのは香港の対岸の澳門(マカオ)である。今では中国の領土であるが、長い間ポルトガルの租借地であった。最近の澳門(マカオ)旅行の記事の中に「レストランでたこを食べた」と云う記事があった。中国各地では先ず食べないし、香港でも特殊な人しか食べないのに、澳門(マカオ)にタコ料理が在るのは、かつての宗主国であるポルトガルの影響に先ず間違いない。

 

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[余談]

 

[余談その1]

昨夜テレビで「アフリカ西岸の沿岸国、モーリタニアのタコの生産が乱獲により激減、採算が取れなくなり、漁船は出航できず崩壊の危機にある」との報道が放映されていた。日本はこれらの地域からタコを大量に輸入しているので、「日本人は今迄のようにタコを自由に食べられなくなるだろう」とのこと。そこで世界のタコの生産重量、輸出入金額、と資源の問題を少し調べてみた。

世界のタコ類の生産量をFAOの Fishstat Plus の国別の総生産のデータベースで調べると、2002年では日本が首位の5万トン強で世界の総生産の約30%を占めている。次いでモロッコの4万トン。3位はタイ国の2万トン強、続いて韓国、セネガル、モーリタニア、スペイン、ポルトガルの順となっている。
タイ国が3位とは多少意外ではあったが、モーリタニアは1987年の3.8万トンをピークに2002年には1.2万トンと3分の1に減っている。ちなみに中国はアフリカ西岸に出漁して居り、タコについては多少の漁獲があったが2002年はゼロである。

同データベースの輸入金額を見ると、日本は3億ドル(US$)で世界各国の輸入額総計の30%強で首位、次いでイタリヤの2億ドル、3位はスペインの2億ドル弱、続いてギリシャ、米国、中国、ポルトガルの順である。タコ好きのポルトガルは2600万ドルで7位である。タコを余り食べそうにない中国がポルトガルより多い2700万ドルを輸入している。

同データベースの輸出金額を見ると、モロッコが3.7億ドルで首位、次いでスペインの1億ドル、中国の7300万ドル、続いてセネガル、モーリタニアの順になる。面白いのは漁獲の無い中国が2700万ドルを輸入し、7300万ドルを輸出している点である。恐らく加工による付加価値を付けたものの再輸出(Rexport)ではないか?と考えられる。

輸出入金額のデータは税関の統計値で相手国の数値と突合して居るから、生産量のデータなどより数値の信憑性はより高い。アフリカ西岸のタコの資源は枯渇に近づいているのは事実のようである。モーリタニアの輸出額は2002年の値では減ったとは言えそこそこの輸出額はあった。テレビはその2年後の2004年の話である。最近の2年間にさらに生産が極端に落ちたのかも知れない。

 

[余談その2]

はなぜ虫偏(中野康明氏の雑学ページより)。海に住む八本足のタコの漢字は「蛸」だが、なぜ虫偏なのか質問があった。 白川静先生の「字通」で「蛸」を引くと、『説文に「堂[虫良](どうろう)の子なり」とあって、かまきりの子とする。爾雅には[虫粛]蛸(しょうしょう)、あしたかぐもとし、本草綱目に海蛸子をたことする。みな足の長いものに名づける。』とある。ここで、[]に包まれた2字は、この偏(へん)と旁(つくり)からなる字を表す。本草綱目は明時代に中国で刊行された動植物図鑑である。

蛸は足の長い動物であることが分かった。しかし、虫偏であることの理由はやはり不明である。「字通」で「虫」を引くと、元来は「蟲」とは別の字であるが、「蟲」の略字として使われるようになったそうだ。本来の「虫」の音は「キ」、意味はマムシあるいは爬虫類の総称だそうである。そういえば、蛇も蝮も虫偏である。虹にも虫偏がついているが、虹は空にかかる竜と考えられていたと何かで読んだ。 ということで、蛸は足の長い爬虫類と考えられて、この字になったのだろう。

 

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唐 詩 両 首

 

(2005年4月)

真道 重明

 

1987年10月12日月曜日の夕刻、私は上海水産大学の駱肇蕘教授と同学の曹正之教授がその時私の宿舎であった上海機械学院の外賓接待室に見えた。
私が中国農牧漁業部の招請により上海の東海水産研究所で9月5日から10月16日まで講義のために滞在していた時である。この両氏とは私が1957年に訪中して以来の30年来の親しい老朋友である。
偶々話が唐詩のことに及び、私の大好きな杜牧の「清明」を挙げ江南を謳った詩が好きだと云うと駱肇蕘先生は早速同じ杜牧の「江南春」を挙げ、曹生之さんが記念にこの二つの唐詩を書き、私はそのMEMOを大切に保存して居た。先日、古い引き出しから赤茶けたその紙片を発見し、往時を想い出した。MEMOには以下のように記されていた。(ただし、ローマ字のピンインによる現代中国音と声調は真道による)。

 


 

唐 詩 両 首

 

清 明   杜牧

 

 清   明   時   節   雨   紛   紛
qing1  ming2  shi2  jie1  yu3   fen1   fen1

 路   上   行   人   欲   斷   魂
lu4 shang4 xing2 ren2 yu4  duan4   hun2

 借   問   酒   家   何   處   有
 jie4  wen4   jiu3  jia1  he2   chu3   you3

 牧   童   遙   指   杏   花   村
mu4  tong2  yao2  zhi3  xing4  hua1  cun1

 

 

江南春  杜牧

 

千   里   鶯   啼   緑   映   紅
qian1  li3  ying1   ti2   lu4  ying4   hong2

水   村   山   郭   酒   旗   風
shui3  cun1  shan1  guo1  jiu3  qi2  feng1

南   朝   四   百   八   十   寺
nan2   chao2  si4  bai3  ba1  shi2   si4

多   少   楼   台   烟   雨   中
duo1  shao3  lou2  tai2  yan1  yu3  zhong1

 

1987年10月12日(星期一)晩,上海水産大学駱肇蕘教授和我到上海機械学院外賓接待室拝望真道重明先生時,談起江南風光時,真道重明先生与駱肇蕘教授共同憶誦這両首唐詩。


                         曹生之 記録

 


 

杜牧(803〜853)は晩唐の詩人。字は牧之。陝西の人。詩は豪放にして洒脱。杜甫に対して小杜と称された。「清明」と「江南春」(何れも七言絶句)の和訳は下記の通り。

清明 (せいめい)

清明(せいめい)の時節(じせつ)  雨(あめ)紛紛(ふんぷん)

路上(ろじょう)の行人(こうじん)  魂(こん)を断(た)たんと欲(ほっ)す

借問(しゃくもん)す  酒家(しゅか)は何(いず)れの処(ところ)にか有(あ)る

牧童(ぼくどう)遥(はる)かに指(ゆび)さす  杏香(きょうか)の村(むら)

 

清明(二十四節気の一。太陽暦の四月五日頃)の時節、(すなわち、清く明らかな季節)だと云うにも拘わらず、小雨がしきりに降っている。道を行く旅人の私はこの雨で気持ちが滅入ってしまいそうだ。「済まん。おいチョット、酒屋はどちらにあるのか教えて呉れないか?」。すると牧童(牛飼いの子供。多分牛に乗って居ただろう)は遥か向こうの杏(あんず)の花が咲く村を指差した。(子供は多くを語らずただ黙って指差しただけ…と私は勝手に光景を想像している)。

 

江南春 (江南こうなんの春はる

千里(せんり)  鶯(うぐいす)啼(な)いて  緑(みどり) 紅(くれない)に映(えい)ず

水村山郭(すいそん・さんかく)  酒旗(しゅき)の風(かぜ)

南朝四百八十寺(なんちょう・しひゃくはっしん・じ)

多少(たしょう)の楼台(ろうだい)  烟雨(えんう)の中(うち)

 

広々と続く平野に鶯の鳴き声が聞こえ、樹の緑色と花の紅色が映えて美しい。水辺の村や山里の集落には、酒を売る店の旗看板が春の風に靡いている。
南朝時代の多数の寺院が望見出来る。その中の幾つかの寺の楼台は小雨でぼんやりしている。

「多少」は「幾つかは」の意味だと私は思う。南北朝時代の江南の景色は想像するしかないが、「春うららかな」景色を想像すると平和な心癒される心地がする。特に「酒旗」がはためく様子を思うと、尚更である。まさに一幅の画を見る思いである。

 

追憶と余談

 

杜牧の「清明」の七言絶句の唐詩は私が今を去る60余年前の学生時代、信州の佐久平の稲田養鯉の調査旅行の途次、数日泊まった旅館の床の間に飾って在った掛け軸の書で初めて知った。とても気に入った。ちょうど中国語を習っていた最中だったので何度も何度もその軸を見ながら「チン・ミン・シー・ジエ・ユィ・フェン・フエン…」と読誦して居た時のことを想い出す。平仄も知らず現代音ではあったが…。

3年前に同級生の鎌田淡紅郎(かまた・ときお)君に佐久の旅館の想い出のことを書き送ったら、彼は「欲断魂」の字句に興味を持ち、文芸の才のある彼は此れを表題にした作品を書きたいと思い「想を練っている」との返事が返って来た。残念にも彼は昨年(2004年)に他界してしまった(享年82歳)。

上記の外賓招待室でのことがあった翌々年だったと記憶するが、上海の中国水産研究科学院の東海水産研究所の趙伝因(因の字は正しくは糸偏がある。故人)さんと唐詩の話をしていたら、上海辞書出版社から1985年に刊行されている1,536 頁に及ぶ大冊の《唐詩鑑賞辞典》を贈られた。この辞典は程千帆の序言、湯高才の責任編輯、100人余の人々により選ばれた千篇以上の唐詩を多数の解説者が詳細に説明している。書棚から早速引き出して「清明」の項を今回再び調べてみた。解説者の周如昌は2頁(日本文なら4頁以上となろう)をこの詩に費やしている。以下要点を抄訳する。

周如昌曰く。「雨紛紛」の句については清明の時節は名の通り「清く明らか」な晴天の日が普通だが、江南の地ではこの季節は往々にして天気が急変して雨となる。甚だしい場合は疾風甚雨となるが、但しこの詩の場合は細雨であり、これが春雨の特色である。この「雨紛紛」は「做冷欺花,将烟困柳」と云われるような、凄迷かつ美麗な境地を我々に伝えている。

「欲断魂」の句は何故「断魂」なのか? 詩歌の中で用いられる「魂」は大半が精神や情緒の面のことを指す。「断魂」は強烈な表現ではあるが、しかし、清明節で人々は祖先のお墓の清掃[真道注:沖縄では清明節に墓の清掃をする]などをして一家団欒のお祝いなのに彼は故郷を離れた一人旅。おまけに雨である。小さな酒店でも探して一杯やりたい心境になるのは当然である。ここで最初の「紛紛」に戻ってみよう。紛紛の句は春雨の形容であるが、ここまで考えると紛紛が同時に情緒の形容でもあることが分かる。

第三句は誰に対して路を尋ねたのだろうか?それを作者の杜牧は示さず、第四句で牧童(小放牛)であることが分かる。牧童は何と答えたのだろうか?それは知る由も無い。しかし、言葉ではなく行動で答えたのだ。「私の手が指差す方向をご覧なさい」ぐらいの言葉は発したかも知れない。[真道は「ただ黙って指差しただけ…」と勝手に想像したが、それでは余りにも失礼かも知れない]。

「遥指杏花村」で終わっている。その後の情景には一切触れていない。旅人が礼を言ったか、牧童が何か詳しい酒屋の話をしたか否かは読者の想像に任せている。簡にして心憎い。次第に話が盛り上がって最高潮に達したとき突然詩は終わっている。後は読者の推測に委ねている。

この詩には難しい字句も、故事成語も無い。誰にでも理解できる易しい文字ばかりである。だから、多くの人に愛され、現在まで愛唱され続けているのであろう。[真道注:杜牧が没したのは西暦852年である。今を去る1150余年前のことである]。


 

同じく杜牧の「江南春」は余恕誠が次ぎのように解説して居る。私が「この詩は一幅の画だ」と感じたように、余恕誠も「まるで広大な風景の映画でも見ているようだ」と言う。面白いのは、冒頭の「千里」と言う言葉である。誰が千里も遠くの鶯の声を聞けるだろうか?誰が千里も見渡せるだろうか?鶯が鳴いていると分かるのは近くの場所だけだろう。また見渡せるのは精々十里四方ぐらいであろう。

広大な江南の平野を一目で見渡せるものではない。杜牧は江南の広大な地域の春景色全体を歌い込もうとした。「緑映紅」と言うからには天気は晴天である。ところが最後の句では「烟雨中」と言う。広大な江南の平野では、同じ日でも所によっては晴天、所によっては雨天もある。彼はその総てを歌い込もうと意図したのだ。[真道注:江南とは長江(揚子江)の中流と下流の南部の地方を指す。今の江蘇省・浙江省・安徽省・江西省のあたり一帯を指す広大な地域である]。


 

「清明」と「江南春」の二首は古来日本人に非常に愛されて来た。唐詩を含む漢詩の書には、小冊子と雖も、殆どのものがこれらの詩を採録して居る。中国でも同様のようだ。この両首の解説も多い。しかし、日本の解説が情緒的であるのに反し、上記の中国の《唐詩鑑賞辞典》の解説は理論的であるように私には思える。私は漢詩、とりわけ唐詩は好きだが詩には全くの素人である。意見を述べるなど烏滸がましい限りだが…。

作詞した時の作者の置かれた周囲の環境、精神的状況などが非常に具体的に述べられている。「解説が理論的」という私の素人的愚見はその道の専門家から見れば笑われるかも知れないが…。


 

もう一つの私が常日頃思って居る問題は日本の好む「詩吟」である。中国語である漢詩を日本語に翻訳して吟じる。元来、詩は平仄や押韻などの規則があり、音声やリズムがある。他国語に訳せばこれらは全く崩れてしまう。大体詩歌は外国語に訳せるものなのだろうか?と言う疑問である。意味は訳せても詩歌として重大な要素である音やリズムの面白みは無くなる。優れた外国の詩の翻訳は半ば翻訳者の創作的な作品と言った方が良いのでは無いのか?

しかし、詩吟は永年に亘って日本人に愛され、隆盛を極めている。節を付けて朗々と歌い上げる詩吟はそれなりに魅力がある。どう考えればよいのだろうか?日本語にしないで、漢字の日本語の「音」に声調を付けて読むと言った実験もあると聞く。しかし、余程慣れないと違和感があろう。漢詩を理解する学習には意味があるだろうが…。


 

私が初めて漢詩に出会ったのは小学生の頃、自宅の床の間に掛けてあった隷書体の李白の「早発白帝城」の唐詩であった。書家は父の職場を訪れてて来た中国人で、望みに応じて揮毫し、その謝礼を生活の糧としていた人物らしい。名前は思い出せない。大正末期から昭和初期の頃である。祖国の中国ではかなりの教養のある人であったかも知れない。当時このような人はかなり多かったようだ。

始めは意味も考えず毎日々々目の前にあるから、ただ漫然と眺めていた。父は時々「朝 (あした) に白帝を辞す、彩雲 (さいうん)の間」などと声を出して読んでいた。中学校では漢文の授業でこの詩を習った時、直ぐ暗唱して先生から褒められ、唐詩が好きになった。これも「出会い」の一つであろう。


 

冒頭で述べた曹生之氏は1957年9月に北京の農牧漁業部でお会いしたのが最初、上海水産学院に赴任の直前であった。10月には上海でまたお目に掛かった。その後、上海水産学院や同校が上海水産大学になってからも上海に行った都度、学校で、また休日には郊外の盆栽園などを案内して頂いた。既に他界されたが拙い私の中国語での会話であったが、とても親切な老朋友の一人である。

また、駱肇蕘氏は四川省の人。戦前に京都帝国大学で農芸化学を専攻された人で、中国に於ける水産食品加工の大家である。90歳を超えた現在もなお矍鑠として居られ、手紙をよく頂く。漢詩、京劇、中国語と日本の漢音、呉音、宋音などの関係など多くのことを教えて頂いている。同氏の日本語は私達の学生時代の恩師のような風格を感じる。京都の嵐山 (あらしやま)の紅葉が懐かしいと良く聞かされた。考えて見れば半世紀に近い付き合いである。

 

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胎児

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胎児の時の記憶がある人

 

(2005年7月)

真道 重明

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『私の生涯での最初の記憶』と題して、このホームページの「自伝とESSAY」に書いた。その中で「三島由紀夫は自分が生まれた瞬間を憶えていたっていうのは有名な話だが、本当だろうか?私にとっては三島由紀夫の話は驚きである」と書いた。(読みたい人はここをクリック)

最近になって偶然、母親の胎内に居た胎児が出産後に胎内に居た時のことを記憶している例を読み、興味を持って調べると、このような現象は世界中に数多く存在することが分かった。何も三島由紀夫に限ったことでは無さそうである。本当だろうか?

大脳生理学の進歩、記憶のメカニズムの研究、また、有名な立花隆の「臨死体験」など一連の著作などを読むと、私などただ驚いて了うばかりで、素人の我々は、 A説を読むと「へぇ、そうなのだ」と感心し、A説に反論した B説を読むと、またぞろ「へぇ、そうなのだ」と感心する始末で、頭の中は振り回されっぱなしになって了う。

好奇心は大いに掻き立てられるし、振返って「我が身に憶えがある」と思うことも多い。サイコロジイの世界では「トラウマ」と言った言葉が良く口にされるし、非行少年の事件などの裁判ではテレビでも常に聞く。「世の中の理屈は複雑になったものだ」と痛感すると同時に「サッパリ・ワカラン」と言う気がしないでも無い。

さて、胎児の時の記憶(胎内記憶)は私が知らなかっただけで、その方面の研究者には常識であって、三島由紀夫の話など当たり前らしい。先日も民放テレビで幼児が胎内にいたときの体位を問われて、その真似をしていた。レントゲン写真とそっくりである。

大流行りのクラシック音楽の胎教と関連して、いろいろな事例がテレビでも論じられ紹介されている。しかし、「神秘的な…効果 云々」、「奇跡的事実」などの言葉が多いと、ツイ、疑り深い私は何だか「新興宗教」ではないが「果たして本当だろうか?」と思う瞬間もある。

私にとっては、未だ、これらは不思議な話の一つである。

 

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