言葉の詮索
(その1)
In the beginning was the Word.
The Gospel According to JOHN. Chapter 1,
1.
始めに言葉ありき, ヨハネによる福音書、第1章、1.
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言葉の不思議 (始めに言葉ありき)
パーリ語のお経 (タイ国で憶えた南伝仏教パーリ語のお経)
難 得 糊 塗 (黄浦公園で友人から貰った拓本の文字)
さらんぱん (幕末には使われていた意外に古い言葉)
「わらわら」と「Walawala」 (色々な意味に使われていた変な言葉)
かい・かい・かい・かい (誰が鶏卵を売ってるのか?、素人の声調論)
てれすこ (落語のテレスコ・ステレンキョウ)
「上海」は何故「シャンハイ」と読むのか? (中国の地名)
ちゃんぽん (長崎チャンポン、その他)
YAEYAMAとPA CHUNG SHAN (八重山群島)
馬 馬 虎 虎 (まぁーまぁーですという日本語の起源?)
SINA と シナ (中国の呼び名)
爬虫類と爬蟲類 (読み方は「ハチュウルイ」か「ハキルイ」か?)
多講国語・少講方言 (シンガポールの食堂の張り紙)
バイリンガル (多言語社会の体験)
日出處天子致書日没處天子 (聖徳太子、日出處の意味?)
「さいかい」と呼ばず「せいかい」と読む問題 (西海区水研の呼称)
再び「さいかい」か?「せいかい」か?の問題 (水研の呼称、再度の駄弁)
ローマ字化日本語とメール (ローマ字の日本語は無視されている)
ローマ字で書かれた日本語 (羽左衛門の姓はアイチミューラー?)
ローマ字で表記された各国語 (多様な発音と難読の話)
歴年の表記問題 (年号が好きなのは日本だけ?)
守分英治の言葉談義 ☆モリワケ氏の言葉の話☆ [寄稿]
吃飯了麼? (お食事はお済みですか?は挨拶語、各国にある)
Mandarin (中国の標準語を意味するマンダリンの語源は?)
言語を殆ど使わない講義の名人 (FAO本部で会った神業的な授業の達人)
國際協力と言葉の問題 (現地語にも関心を…。私が感じたこと)
「テクテク歩く」とはどういう歩き方?(分かったようで分からない言葉)
(2003年4月)
真道重明
敗戦前の陸軍の兵隊間には娑婆(軍隊外の世間)には無い業界用語のような特殊な言葉(隠語?)が多数ありました。「さらんぱん」はその一つで、六師団(熊本)に属する兵隊の間でよく使われていたようです。「出鱈目」、「無茶苦茶」、「駄目」、とりわけ、「放り出した為に駄目になる」といった意味に良く使われたように記憶しています。
語感がマレー語系(インドネシアを含む)の言葉のように感じた私はマレー半島かインドネシア戦線から帰還した兵隊が持ち帰った言葉ではないか?と、勝手にただなんとなく思っていました。
結論から言うと「さらんぱん」と発音する言葉には、異なった3個のカテゴリーに分類できるようです。第1は冒頭で述べた「むちゃくちゃ」や「だめ」を意味するもので、「広辞苑」によると、「サランパア」、(sarampan, serampan, sarampang などと表記されているが、本来マレー語か?)、意味は「ほうっておく」こと。滑稽富士詣という滑稽本に「ーにもしておかれず」という句があると解説されている。
「日本国語大辞典」(小学館)によると「さらんばん【名】(マレイ語 sarampan から。また、フランス語 ce-la-ne-pas (無くなせり)から出た語かともいう)物品がこわれたり、または約束が破れたりすること。めちゃめちゃ。元も子もなくなるという意に用いる」とあります。
さらにこの言葉を調べた某氏は上記の「日本国語大辞典」の解説に加えて「その後、出版社に勤務している友人が、服部之総の『黒船前後』にも、それにふれたものがあることを教えてくれた。それには、「サランパン」が今でも上海で使われているピジン・イングリッシュだと指摘している。一〇〇年前の横浜方言から、ピジン・イングリッシュ、上海、そしてマレー語へ・・・」と述べています。
面白いのは、明治後期に日本駐在のドイツ大使館員が片言の日本語で訳したローレライの歌詞の中に「舟はさらんぱん云々」の句があり、注釈として、「さらんぱん」は「(おん襤褸で)駄目」の意であり、中国語に由来するとらしい・・・という記事です。
以上第1のカテゴリーに属するものは第二次世界大戦以前、恐らく江戸時代から使われていたようです。マレー語由来説や上海のピジン・イングリッシュ(通商のために中国・東南アジアなどで発達した英語と中国語などの混成語)説は不明です。インドネシアの南カリマンタンに「サランバン」という名前の人口密度の多い地域がありますが、恐らく単に偶然発音が似ているだけだと思われますし、上海のピジン・イングリッシュ説は私が最近上海で調べた限り、現在の中国の人で知る人はありませんでした。
第2のカテゴリーはハングル(諺文)の「さらんぱん」です。半濁音の「ぱん、PAN」もありますが、濁音の「ぱん、BAN」の方が良く使われています。「韓国家庭料理さらんぱん」という看板の料理屋があります。韓国から来日した「日本語同好会」の記事に「さらんぱん便り」という学術的なものもありました。
また、濁音「さらんばん」は、多数のこの名を冠した韓国料理店が日本の各地にあることに驚きました。また料理屋に関係なく、「さらんばん」を筆名とするソウル出身で在日のホームページを主催している人が居ることも分かりました。他に在日朝鮮人の集会所兼教室を開いている人もあります。漢字では「舎廊房」と書いたものが多く、中には、「沙蘭蛮」もありました。
【畏友の大滝英夫氏から】お尋ねの“サランバン”の“サラン=舎廊または斜廊”は客間を兼ねた主人の書斎として使う部屋のことで、“パン=房”も部屋のことです。したがって、サランバンはやはり“書斎を兼ねた客間”のことを言います。言わば「書斎兼応接間」と言うところでしょうか。ただ、発音は‘サランパン’ではなく‘サラン’を受けて‘ぱん’は濁音化し‘バン’と濁ります云々・・・との教示を頂いた。これで明らかに第1とは別の言葉であることが明白になりました。
第3のカテゴリーは全く意外なもので、「子供が寝ないで目がぱっちりとあいていること、【用例】(寝ない子供に向かって) 「目が さらんぱん だじイ」・決して「サラダパン」ではない....富津の言葉らしいです(情報提供 いちごみるく さん)」と言う記事が千葉県木更津の方言を扱ったホームページで発見しました。これも恐らく単に偶然発音が似ているだけだと思われます。
何れにしても、「さんぱん」や「さらんばん」は日本語にとっては馴染みやすい語呂なのでしょうか?
わらわら (哇喇哇喇) と Walawala
(2003年4月)
真道重明
「わらわら」は中国語では擬声語の一つで「人が混み合ってガヤガヤ・ワイワイと騒がしい」ことを意味し、発音はwalawalaです。漢字では「哇喇」または重ねて「哇喇哇喇」、ただし「喇」の字は日本語のワープロには在りませんが「口偏(クチヘン)に、拉の字を旁(ツクリ)とした文字」も使われます。元来、擬声語ですから漢字の意味はありません。
私が初めてこの言葉に出会ったのは50年も前、内地の兵営で新兵としてシゴカレて居た時のことで、古兵の使う軍隊隠語の一つ。意味は「口喧嘩、または揉め事」でした。中国語にこの言葉があり「騒がしい」様子を表す擬声語であることを知ったのは後のことです。中国の前線から帰った古兵が持ち帰ったのでしょう。声高に口論すれば確かに「騒がしい」わけですから、もともとの意味が転化したのだと思います。
50年後の今、ホームページを見回っているうちに、現在の日本語では「わらわら」という言葉が実に色々な意味に使われ、中には「笑々」や「藁々」などの漢字を当てているものもあることを知りました。
それよりもっと驚いたのは、その後「広辞苑」を引くと、「わらわら」、散りみだれるさま。ばらばら。延慶本平家『紙ぎぬのきたなきが ―とやれたるが上に』とあるのを発見した時です。
コイデヒロカズ氏のページ『正直先生提供現代わらわら図鑑』によると「わらわらとは数え切れないほど多くの物や人が狭い空間の中で蠢いている様」とあります。混雑して騒がしい意味に近いので、転じて「お客が混み合って商売繁盛」を意味することになり、「わらわら食堂」や「わらわら旅館」などと使われるのだと思われます。上海にも「WALA WALA餐廳」(餐廳はレストラン)というのがあり、イタリアやスペイン風の料理を出し、賑わっているようです。ローマ字のWALA WALAを冠したレストランやバーはオランダやシンガポールにもあり、料理屋の室内を紹介した写真には何れも白人に混じって東洋系の顔が見えることから、恐らく“シャングリラ”(香格里拉、地上の楽園を意味する中国語)と同様に中国と関係があるのかも知れません。
しかし、日本語の「わらわら」という言葉は、単に発音の語呂が面白く、語呂合わせでニコニコ堂式に笑々の字を当てた店舗や食品、また、「わら」そのものの藁細工店などにこの言葉が用いられて居るようです。
蛇足を附ければ、仏領ガイアナにはWalawalaという名前の魚(学名は Hypostomus gymnorhynchus)が棲息する。米国にはWalawalaという名の遊漁用擬餌(ルアー)専門店がある。いずれも発音が偶然に似ているだけで言葉としての関係はないのだろうと思われます。
(2003年4月)
真道重明
若い頃、私は長崎で漁業研究に携わっていました。旧ソ連の漁業調査船が来航した時、キスレンコ(キスもレンコも共に魚名)さんと言う人から「ロシア語では「タラはトレスカと発音する」と聞きました。落語好きの私は途端に『これが「てれすこ」だ』と思いました。私はロシア語は判りませんが、ロシア文字をローマ字に置き換えて読むと「トレスカ」らしい気もします。幕末から明治初期にかけて長崎はロシアとは接触が多かったし、落語でも長崎ですから。ステレンギョの語の由来は後記。
落 語「 て れ す こ 」に つ い て
ある日、長崎で変わった魚が網にかかります。
困ったことに だれ一人としてその魚の名前を知らないのです。
人々は「きっと偉い代官様なら知っているに違いない」と代官
の元に聞きに来るのですが彼にもさっぱり判りません。
そこで、代官は「この魚が何というか知る者に百両の褒美をと
らせる」と高札を出します。
ある長屋にたど屋茂兵衛という男が一人います。
高札を見たこの男は
誰も知らないのなら、勝手に名前を付けてしまえぃ!と
「その魚は“てれすこ”という名前でございます」と言って
まんまと褒美をせしめてしまうのです。
褒美を出してしまった代官は思います。
「どぉ〜ぅも怪しいっ!」(笑)
そこで代官は一計を案じます。
その魚を干物にし、その干物を餌に茂兵衛を呼びだして
干物になった魚の名前を尋ねるのです。
茂兵衛は「それは“すてれんきょう”でございます」と言って
またも褒美を受け取ろうとします。
代官の罠にまんまと引っ掛かる訳です (笑)
してやったりの代官は
「お前は以前、この魚を“てれすこ”と言ったではないか」
と問い詰められた男は牢に入れられ夫の身を案じた女房は
火物断ち(加熱調理したものを食べない)をして
ぶじを祈っていたのですが、男は打ち首と決まります。
茂兵衛は最後の望みとして白州に妻子を呼び寄せてもらい
女房に「この子が大きくなっても烏賊(いか)を干したもの
を鯣(するめ)と呼ばせるな」と言いました。代官は「たど屋茂兵衛、言い訳相たった、無罪を言い渡す」
と膝をたたいて許しました。
夫婦は多いに喜んだのですがこれは女房が
火物(干物)断ちをしたのだから
アタリメ(あたりめえ)のお話という事で・・・(以上はライズ・ライズ・ライズ、T.Y.さんのページより)
てれすこは、テレスコープ(望遠鏡)、すてれんきょうは、ステーレン(星の意)鏡、すなわち天体望遠鏡のことだ(何れもオランダ語)という説があるそうですつまり、同じ望遠鏡だと云う訳で、落語「てれすこ」に、長崎奉行が登場するのは、その為ではないかとの説があるそうです。ちなみにこの話の元は、『醒酔笑』(咄本。八巻八冊。安楽庵策伝作。作者が幼年時代から聞いていた笑話・奇談などを京都所司代板倉重宗の所望によって、一六二三年(元和九)、滑稽味を加えて書き下したもの。寛永(1624〜1644)年間に抄出本(略本)三冊を刊行。広辞苑による)だそうです。
「てれすこ」はロシア語に由来すると推理し、鬼の首でも取った気持ちでしたが、どうもこの説では「すてれんきょう」の説明もつき、優れていると思います。これに似た言葉に:−
生きているのは馬「うま」、食べるのは「さくら」
生きているのは牛「うし」、食べるのは「ギュウ」
生きているのは猪「いのしし」、食べるのは「ぼたん」
生きているのは鶏「とり」、食べるのは「かしわ」
英語でも
生きているのは「カウ」、食べるのは「ビーフ」
生きているのは豚「ピッグ」、食べるのは「ポーク」
生きているのは羊(子羊)、食べるのは「ラム」など、外にもいろいろあります。田ん圃にあるのは稲「いね」、食べるのは米「こめ」です。ただし、タイ語では何れも「カウ」(タイ語声調3)で区別しません。調べれば面白そうですが、どうして一部のものに区別があるのか、専門家に聞きたいものです。
[追補1] 畏友の大滝英夫さんからのメールのご意見では:-、
「タラ」のロシア語の英語(ローマ字)表示では「 tresuka ] となりますので、日本語表記では「トゥレスカ」となり、やはり真道さんの最初の推理「トレスカ」が本当と思われます。
とあった。「すてれんきょう」の説明は(穿ち過ぎて)いるのかも知れない。
[追補2] 「すてれんきょう」で想い出したが長崎県史には童歌(わらべうた)として「蘭館キンギョにスットンギョ、煮ても焼いても食われんと」と言うのがあった。蘭館は「オランダ屋敷」、「食われんと」は「食べられない物」の意。「スットンギョ」は「素っ頓狂、スットンキョウ」を捩った単なる語呂合わせかも?
声調 (Tones) の話
(2003年4月)
真道重明
言語学にはズブの素人である私が「声調」の話をするのは専門家から見れば「寝言」のようなものかも知れない。だが、漢語(中国語とその方言)やタイ語とその方言に接する機会が多かった私には、「声調」については「下手の横好き」的な意味では大変に興味がある。以下に駄弁を弄する。
タイ語に接したことのない日本人が「誰が鶏の卵を売ってるのか?」とタイ人が言っているのを聞いて、聞き取った音を日本人が仮名で書き写せば、「かい・かい・かい・かい」、となってしまう。最初の「かい」は「誰」、次の「かい」は「売る」、次は「卵」、最後の「かい」は「鶏」であるが、皆同じ「かい」に聞こえてしまう。
喋っているタイ人にとっては、それぞれ全く異なった言葉で、発音ももちろん違っているし、書く文字も異なっている。日本人は聞き慣れないから、その違いを識別できない、と言うことは結局どれも同じように聞こえてしまい、したがって、聞き分けられないし、区別して発音することも出来ない。
日本語では「B」と「V」の区別が元来無いから、英語の Globe (地球)も Glove (手袋)も同じように「グローブ」と書いてしまうのと同じである。もちろん、学習して識別できる人には問題は無く,「グローヴ」と「ブ」と「ヴ」を書き分ける人もある。
私が若い頃、東京外語(現在の東京外大)で中国語を習って居たとき、無気音(息をおさえて発音する音)や有気音(息を強く出して発音する音)の違いや「 n 」 で終わる語と「 ng 」で終わる語を聞き分け、発音し分ける練習に苦労したが、それ以上に悩まされたのは「声調」であった。いわゆる北京語の四声の「声」である。
中国語・チベット語・タイ語・ヴェトナム語・ビルマ語など、シノ・チベット語族(この語族の分け方は今では不適当とされているそうだが)の言葉は声調を強く意識した(発達した?)言語で、きわめて明瞭な「声調」があり、これを間違えると別の意味の語として認識されてしまう。
日本語や英語など、シノ・チベット語族以外の言語にも程度の差はあっても声調があると私は思っている。例えば日本語の「箸」と「橋」は「ハシ」であるが少し声調が異なっている。しかし、あまり強くは意識されてはいない。日本語の声調は語を識別する決定的な要素にはなっていない。
以上「声調」、「声調」と言って来たが、「声調」とは一体なんだろう?英語に在る強弱アクセントでもなく、日本語に在る高低アクセントでもない。どちらかというと抑揚や音調を意味するイントネーションに近い。言葉のまとまり全体に現われる「上がり下がりの調子」を意味するイントネーションではなく、「一語・一語に関する抑揚や音調である」とでも言えばよいのかも知れない。
「具体的に言え!」と言われても、ド・レ・ミ・ファを音ではなく言葉で説明するのは極めて難しいのと同じで、声調を言葉で説明するのは至難である。高く平に、低く平らに、尻上がりに、尻下がりに、一度下がって再び伸びやかに上がる ・・・ などと言葉で説明しても仲々解らない。実際に喋っている音を耳を澄ませて注意深く聞けば誰にでも「なる程」と解るのだが。
私が中国語を習い始めた時、最初の3-4ヶ月間は四声の練習ばかりであった。皆、大声を張り上げて【この大声と言うには極めて大切である。小声でモゴモゴ発声していたのでは発音は上達しない】、首を横に振ったり(一声)、顔を右下から左上に持ち上げたり(二声)、顎を杓ってから天を仰いだり(三声)、と言った具合にジェスチャーを交えて練習するのである。教室内の全員が一斉にこれをやるのは壮観である。
しかし、この練習は極めて機械的というか単調きわまりない発声と首振りだけの、「ただ繰り返しの連続」であるから、単調さに飽き飽きして、開講後3ヵ月で「コリャ、タマラヌ」と受講生の数は三分の一に減ってしまった。だが、この難関を乗り越えなかったら、絶対先には進めない。頭の芯に焼き付くまでやらされる。会話力を優先する私達のクラスは、此処を曖昧にして先に進むと、以後永久に正確な発音で会話することは出来なくなるからである。
自分で言うのも得意げに聞こえて変だが、中国語で「声調」訓練をやったお蔭で、「声調」の何であるかを一応身につけていた私は、後日タイ国に赴任したときタイ語の声調は苦労せずに直ぐ理解できた。なお、元来声調に敏感な中国人はタイ語の声調は直感的に直ぐ見当が付く。日本人が1年以上習って苦労しているのに、タイ語と中国語とは文法的にも共通点が多いこともあるが、僅か1-2ヵ月でもう喋り始める人が多い。
冒頭で述べた「かい・かい・かい・かい」であるが、手元の袖珍版の英タイ辞書はでは、「Khrai Khai Khai K-Hai」 となる。日本の仮名より多少区別して綴られている。ただし声調の区別は示されていないから、この辞書を見て発音しても、通じないことが多い。その目的で作られたのだろうが実際にはあまり役に立たない。
タイ語には第1声 (平音・普通音)、第2声 (低音・低平音)、第3声 (下音・降下音)、第4声 (高音・上昇音)、第5声 (上音・波状音)の5つの声調がある。現代中国の標準語 (普通話・北京語)の声調も第1声 (陰平声)、第2声 (陽平声)、第3声 (上声)・第4声 (去声)の4つがある。
タイ語の第1声は中国語の普通話(北京語)の第1声に、タイ語の第2声は普通話(北京語)には無い。しかし広東方言にはある。タイ語の第3声は普通話(北京語)の第4声に、タイ語の第4声は普通話(北京語)の第2声に、タイ語の第5声は普通話(北京語)の第3声に、それぞれ近似している。
私の経験では似ているというよりも普通話(北京語)の声調をこのように置き換えてタイ語を発音しても、タイの人は完全に識別し理解してくれ、「プー・チャット」(明瞭に喋る)と言って呉れる。だが、彼等は声調を意識して喋っているのではない。子供の時から親や周囲の人々の言葉を真似て自然に会得した言葉を喋っているだけだ。
こんな話をしても読者には面白くも何とも無いだろう。少し話の視点を変えよう。漢詩を習った人は「平仄」をご存じだと思う。六朝および唐宋の中国語に存在した四種の声調、平声・上声・去声・入声のうち、平声に対し上・去・入の3つを仄声と言い近体詩の韻律はこの平仄によって定められている(広辞苑による)。どの漢和辞典を見ても各漢字ごとにどの声調であるかが解説してある。□の四隅の内側に印が付けられているあれである。
この声調は現代のそれとはやや異なる訳だが、漢詩を作った日本人は、中国人だったら無意識に出来ることを辞書で漢字を一つ一つ調べて、漢詩の平仄の規則に合わせていたのだろう。考えると物凄い努力を必要としたのは間違いない。
荻生徂徠などの漢学者はこの点を問題にし、長崎に遊学して生きた中国語を学んだと言われ、彼の詩は日本人の作った漢詩とは「一味違う」と言って漢詩の本家である中国人が賞賛したと言われている。これは私が中学生の頃、漢文の先生から聞いた話である。
日本人が漢詩を読む場合、声調は関係なく、返り点や送り仮名などで文法的には日本文として読む。したがって、詩としてのリズムや口調の面白さは失われる。にも拘わらず漢詩を好きな人々は多く、独特の朗詠法が編み出され、今も愛好者が多い。漢詩の最大の要素である押韻・韻律・字数などの律格を無視した形にして鑑賞する。「声調」のことを考えると、私は何時もこのことを考えてしまう。何とも筋が通らないような、不思議な気もする。
詩歌を多国語に翻訳することは良く行われるが、漢詩を日本語として読む場合は「翻訳」である。詩歌の翻訳は科学論文の翻訳などと違って、多分に感性による創作に近いもののようだ。文学的に優れた感受性が必要とされるのだろう。それはそれとして解るのだが・・・。
杜牧の清明の始めの句、「清 明 時 節 雨 紛 紛」は「清明の時節雨紛紛」、「せいめいのじせつ あめふんふん」と読む。のを加えるのと、雨をあめと読む以外は総て音読みである。「セイメイジセツ・ウフンフン」でも良い筈である。こうなれば翻訳ではない。声調を無視すれば、日本文として読んでいるのか、中国文として読んでいるのか?欧米人がラテン語をそれぞれの自国の発音方式で読んでいるのと同じである。
中国人やタイ人が母国語を喋る場合、「声調」などは意識しないことは上述したが、中国語の表記に用いられる漢字は象形文字から表意文字に進化した「非表音文字」であり、声調表記の仕組みも持たない。しかし中国人は古くより自らの言語が声調(四声)を持つことに気づき、唐代以降、漢字をまず声調ごとに分類して配列した「韻書」と呼ばれる字典が数多く編纂されたと言う。それなら、もともと何故「声調」が生まれたのだろうか?
中国語を例に取れば、「リ」と発音する語は、哩・里・厘・離・麗・李・狸・礼・裏・力・列・歴・利 ・・・ など手元の辞書を見ても30数個ある。同音異義語がこんなに沢山あっては困る。これを声調の違いで区別すると、平均的には四分の一になる筈である。梨は2声、李(スモモ)は3声、栗は4声である。同じ「リ」でも声調で区別すると同音異義語はずっと少なくなる。音声でコミュニケーションを取り合うのが言葉だから、混同が避けられ、ずっと楽になる。
元来中国語は原則として一語・一字・一音(音節)であったと言われている。これでは同音異義語が多くなるのも無理はない。タイ語も音節を短くしたくて堪らない言語のようである。例えば、お互いに呼び合うニックネーム(愛称、チュウ・レン、総ての人が持っている)は「イン」・「スーク」・「ソム」などのように一音節か二音節である。眼は「ター」、頭は「ホア」、身体は「トア」、掌は「ムー」と言ったように音節が極めて短い。タイ語の中には音節の長い言葉があるが、それらはすべてサンスクリット語やバーリ語など古代インド語からの借用語であるらしい。
タイ国にある日本の単車メーカーの川崎工場など「KAWASAKI]と言わず、「何処に勤めているの?」などと聞くと、日常会話では「KAWA」と答える場合が多い。「SAKI」は省略されている。音節が少なくなればなる程同音異義語は増える。タイ語も中国語と同様に「声調」で区別しなければ不便である。
この「声調」にも方言がある。バンコクで喋られる標準語で「お姉さん」を意味する「ピー・サオ」の「ピー」は第3声である。しかし南部タイ方言では第5声で発音される。若しバンコクで第5声で発音すると「お化けの女」になってしまう。バンコクで「マー」(第1声)と言えば「来る」の意味である。南西タイ方言では第5声である。バンコクで第5声で発音すると「犬」の意味となる。「両親も兄弟も来た」と言った心算が「両親も兄弟も犬だ」ということになる。
隣家の田舎から出てきたメイドさんがこう言ったので大爆笑になったのを憶えている。多くの人はこの程度の「声調」の方言は知っていて、始めから解っているのだが、矢張り聞くと爆笑になる。
ちなみに中国語の「マー」第3声(タイ語の第5声に近い)は「馬」の意味である。前節のようにタイ語では「犬」の意味である。競馬がドッグ・レースの意味となってしまう。良く間違えて笑われたことを想い出す。
【追記】私がバンコク在住時代に日本人で、長年に亘ってフランスのアカデミーから特別奨学金を貰って「タイ語の声調の起源」を研究して居られた某氏は、もともとラオス語研究の専門家である。
タイやラオスの民話を翻訳して居られ、話に出てくる淡水魚の名前を日本語でどう言ったら良いかを尋ねるために拙宅を時々訪問されていた。淡水魚は地域による特化が大きく、もともと日本には居ない魚が多いので動物学的な説明は出来ても、一般の読み物の訳では「メダカ」、「ナマズ」などと言うより外は無く、難問であった。
その人の説では「タイ語は元来は声調の無い(弱い)言葉であったが、中国語の諸方言など周りの声調の強い言葉と接触して、歴史的には後で声調を取り入れた」と言うのである。
私の素人学問ではこれは驚きであった。広い意味でのタイ族は長江(揚子江)地域に居住していたが、漢族に圧迫されて南下し、インドシナ半島各地に居住するようになった。言葉も中国語とタイ語が分岐する以前の言葉から、一方では中国語各方言、多種の山岳民族の言葉やタイ語の諸方言が分かれていったと理解していたからである。
その説ではタイ語は元来はマレー語に近かった、タイ語で「眼」のことを「ター」と言うが、こればマレー語の「マタ」(眼の意味)のマが消失したもの、プーケットと言う地名はマレー語の「ブキ」(小高い丘)の訛ったものだし、その他多くの共通点があるのはその証拠であると言う。
声調が周りの言語の影響を受けて取り込まれた例などがあることは読んだ記憶があったが、この説は少数派だろうが、もっと知りたいものである。専門家のご意見が頂ければ幸いである。
(2003年5月)
真道重明
広辞苑(第4版)によると「ちゃんぽん」という言葉には3つの意味がある。一つは「あれとこれと混同すること」、二つは「まぜこぜ」、三つは「長崎料理の麺類一つ」である。また、この語は「中国音の訛ったものとも、マレー語に由来するともいう」とある。
岩波国語辞典(第六版)によると、「かわりばんこ」、酒とビールなどを「併用すること」、および「長崎料理の麺類」とある。酒とビールなどをまぜこぜに飲むのは併用すると同じだから、混同・かわりばんこ・まぜこぜ・長崎チャンポンの四つあるらしい。
私が此処で問題にするのは「長崎チャンポン」である。めん類・肉・野菜などを一緒に煮た中華料理の一種で、いろいろな具がまぜこぜに入っているから「ちゃんぽん」なのだろう。なお、語源についてはポルトガル語の「チャンポン(混ぜる・混合するの意味)」がなまったものという説もある。面白いのは中国を意味する「チャン」(清)と日本の「本」(ニッポンのポン)を繋いで「チャン+ポン」とした、名前まで混ぜ合わした訳で、話が出来過ぎている。
私は若い頃長崎に23年住んでいたから、家族一同その味には愛着がある。庶民的な大衆料理で、取り澄ました懐石料理などでは無い。唐灰汁(とうあく)、または、「かんすい」(中華そばをつくる時に粉にまぜる、炭酸ナトリウム・炭酸カリウムなどのアルカリ性の水のこと。鹹水とも書く)の入った黄色い麺で、好きな人には「あく」の風味が懐かしく、食べ慣れない人はそれが嫌だという。野菜や豚肉と共に貝類では牡蛎(カキ)と有明海で獲れる「あげまき」貝が必ず入っていたが、今は有明海の「あげまき」は乱獲や環境悪化で殆ど獲れなくなって仕舞ったのでお眼に掛かれない。「あげまき」は馬刀貝(マテガイ)に似て、マテガイより貝殻の長さは短く、横幅が太くて「ズングリ・ムックリ」している。味は大変美味しい二枚貝である。最近は食べられないので残念である。
明治初年、長崎の某氏が、丸山(長崎の遊里)で「シナうどん」を「ちゃんぽん」と名付けて売り出したという文献が残されているそうだ。この他にも福建省の人たちが長崎市内(現在の新地や館内)で庶民相手に商売をするようになった頃、明治30年代に、陳平順と言う人が貧しい中国人留学生に安くて栄養のあるものを食べさせようと、野菜くずや肉の切れ端などを炒め、中華麺を入れスープで煮込み「ちゃんぽん」と名付けたとも言われている。
私はマレーシアのペナン島で「フッケン・ミー」(漢字では福建麺と書く)という麺を食べて驚いた。全く長崎の「チャンポン」と麺も味もそっくりである。そこで思ったのは、上述の話で陳平順という人が作ったと言うのは「発明した」のでは無く、故郷の福建の麺を作ろうとして出来たのが「長崎チャンポン」ではないか・・・ということである。長崎には華僑が多いが大多数は福建省の人達である。陳平順さんも福建人だったのではないか。福建省や浙江省は牡蛎や「あげまき」の本場である。
タイ国から長崎大学に留学していた数名のタイ人と「長崎チャンポン」を食べた機会が数回ある。彼等は口を揃えて「ああー、フッケン・ミーだ」と云った。マレーシアのペナンと同じ呼び名で、タイ国でも「フッケン・ミー」と呼ぶようだ。マレーシアとの国境に近い地方にはあると言う。
【蛇足】タイ国を訪れた人々は良くご承知だと思うが、「ミー」の付く麺類が多い。バー・ミー(日本語のラーメン)、セン・ミー(日本語のビーフン)、今流行りのベトナム料理のホーはタイ国では「クイッ・チヤオ」と言い何処にもある。前者は小麦粉、後二者は米の粉が原料である。ホーは漢字では「河」の字を当てる。クイッ・チヤオは「貴堰v(ただし、奄フ字は勹の中のンの字は一本しかない)。いずれも音が近い。
麺の字は中国語では小麦粉を材料にした食品全般を指す。パンも麺包と言う。日本の「そば」のように紐状のものは特に「麺条」と呼ぶ。今日本ではラーメンが大流行りであるが、インスタント麺を含め、いずれも色が黄色である。私が中国各地で口にした麺条は福建麺を別にすれば、むしろ日本の饂飩、ひやむぎ、素麺などのように、白いものが多い。何故だか私には分からない。どなたかご教示くだされば有り難い。
(上海を「ジョウカイ」や「ザンヘー」と発音しないのは何故?)
(2003年6月)
真道重明
英国人はイタリヤ(Italia)をイタリー(Itary)、ナポリ(Napoli)をネープルス(Naples)、ミラノ(Milano)をミラン(Milan)、ベネチア(Venezia)をベニス(Venice)と呼び、その国の発音に少しでも近い綴りに変えようとはしない。元来、保守的な国民性と言われるが、七つの海を支配していた大英帝国は世界の地図や海図では最も古くから世界の定番的なAtlasやChartを作成していたから、その自負もあるのだろう。
もっとも子音の重なる言葉の発音に弱いイタリヤ人はマクベス(シェークスピアの4大悲劇の1っ、Machbeth)を「マカベート」、お酒のバーモス(Vermoth)を「ベルモット」と発音するから、無理に「こう読め」と言っても誰も従わないだろう。ハワイ・オワフ島の丘岬のDiamond headをカナカ人は「カイマナヒラ」(有名なフラダンスの曲)と発音するらしい。日本人はオーストラリアのSydneyをシドニーと呼ぶが、仮名読みでは彼等には絶対通じない。むしろ「セズネ」と仮名書きしたものを読む方が何とか通じる可能性が高い。もともとそれぞれの言語の発音体系が異なるのだから無理な話である。
英国人がベネチアをベニスと呼んでもイタリア人は「あればベネチアを意味する英語だ」と思っている。英国人が日本をジャパンと呼んでも「ジャパンは日本を意味する英語だ」と思っているのと同じだ。
話を本題の中国の地名「上海」に戻す。日本では中国の地名の多くは日本語の漢音で読む。山海関を「サンカイカン」、武漢を「ブカン」と言うように。しかし、例外が沢山ある。北京を「ペキン」、上海を「シャンハイ」と発音するのは、香港を「ホンコン」と言い廈門を「アモイ」、汕頭を「スワトウ」、澳門を「マカオ」と言うのと同様の現象で、明朝末期から清朝初期にかけてヨーロッパから来た宣教師たちが彼等の文献にローマ字で「Peking」、「Shanghai」、「Hong Kong」、「.Amoy」、「Swatou」、「Macau」 などと書くことに由来し、これらのローマ字読みが日本語に定着したのだろうと思う。広州市は「Kanton」、「Canton」と-ngを-nと書かれて居るものも良くある。漢字で書くと広東、広東省を指すのではなく広州市を指している。
廈門・汕頭・香港・澳門などはそれぞれの所在地のミン南語・潮州語・広東語などの南方諸方言の発音を模したのであろうと私は想像するが、北京官話は一応学習したが、広東語はほんの少し噛ったぐらい、潮州語はバンコクで片言を聞いた程度の私などには云々する資格はなく、ただ勝手な憶測を逞しくする域を出ない。また、一説には南京官話に拠ってローマ字化したとも言われている。
ちなみに、中国の漢字の発音を表記するにはWade-Giles式 [略称 WG] (英国の Sir Thomas Wade が 1859年に考案し、Herbert Giles が改良したもの)を私達は学生の頃習い、日本で出版される日中・中日辞書なども1960〜1970年頃迄は多くはこれであった。中華人民共和国が成立してからは大陸では漢字のローマ字はピンイン式に次第に統一され、注音符号(中国で日本の仮名を模して考案された表音記号)やWGは今では辞書にあるだけで普段には殆ど見られない。台湾や香港・シンガポールの華字紙や出版物に時々見かける程度である。
話を再び本題の「上海」に戻す。「日本では中国の地名の多くは日本語の漢音で読む」と先に言ったが、これに従えば上海は「ジョウカイ」となる。上海語の発音に近い仮名読みなら「ザンヘー」もしくは「サンヘー」となる。もっとも私には「ソンヘー」と聞き取れるのだが。元来上海語は漢音圏ではなく呉音圏に属するようだ。
理屈や経緯はともかく、上海は昔はいざ知らず江戸末期以降の日本人の多数は漢音の「ジョウカイ」とは読まず、例外的に「シャンハイ」と呼んで来たようだ。また、上海に居留していた人は市内の地名の楊樹浦を「ヤンジュッポ」、四馬路を「スマロ」と呼んだように、上海を上海語の「ザンヘー」や「サンヘー」と呼んだかも知れないが、一般の日本人には定着しなかった。
私が個人的に気になるのはこの様な例外となる呼び名は「シャンハイ」以外に幾つあるのか?と言うことである。その数例の「アモイ」・「マカオ」・その他を上に述べたが、皆が良く知る山東省の青島は「セイトウ」と呼ぶのか?、「チントウ」と呼ぶのか?台湾の台北は「タイホク」なのか「タイペイ」なのか?、高雄は「タカオ」か「カオシュン」か?疑問は次々出てくる。
国立国会図書館では内部指針として職員に対する読み方のリストが在るらしいが、なかなか厄介な問題である。言葉は生き物で理屈では筋が通らなくても皆が使い出せばそれが「正しく」?なる。
1960年代に出版された日本の世界地図に中国の地名が黒龍江省(ヘイルンジャン)、山東省(シャンドン)、北京(ベイジン)、厦門(シャーメン)などと片仮名書きにしてあるのを見て驚いたことがある。漢字にルビを振ってあるのなら未だしも、こんな地図を買う日本人は先ず居ないだろう。漢字で書けばよいのに。もっとも、ロンドンを倫敦、ベルリンを伯林、オックスフォードを牛津、サンフランシスコを桑港などと書いたら、今どきの若い人は「何だ、こりゃー」とビックリするだろうが。
ちなみに、中国漢字のローマ字表記では、上述のように色々な表記法があるので、これまた厄介である。大陸では普通話(プートンファ、普く通じる語の意味、中華人民共和国の標準語と言っても良い。漢字書体は簡体字が使われる)のピンイン(中国語のローマ字表記、またはその音)表記に統一される趨勢にあり、国連機関でも現在では中国地名にはピンイン表記法を採用している。例えば北京は「Beijing」、厦門は「Xiamen」、汕頭は「Shantou」、澳門は「Aomen」などと綴られる。最近の国連の欧文文書を見た人から「Xiamenとは何処ですか」と良く問い合わせが来る。
話は少し逸れるが韓国は「自国の地名や人名は出来るだけ自分達の発音に近い音で呼んで貰いたい」と思っているので、日本人もその要望に答えて「首都はソウル、釜山はプサン、大邱はデグなどと片仮名書きして呼んでいる。その代わり韓国は日本の地名や人名はハングルでトウキョウ・ヤマダなどと表記している。ハングルは表音文字としては非常に優れたものでほぼ正確に日本語の音を表記できる。ただ、問題は日本人は漢字と漢音に慣れているから、漢字の意味の連想もあり記憶し易いが、ハングルの場合は漢字圏外の諸国の地名や人名を憶えるのと同じ苦労が伴う点であると私は思っている。
一方、中国の場合は東京・名古屋など漢字で表記し、ピンインで呼ぶので、東京はトンチン、名古屋はミン・ク・ウゥのように発音する。日本側も上述の例外はあるものの、杭州はコウシュウ、無錫はムシャクと日本の漢音で呼んでいる。
言葉の音と文字とは非常に連係が深いが、漢字ばかりで書く中国語の場合は外国の地名や人名などの表音がやや困難であると私は思っている。例えばルーズベルトは羅斯福と書くが、日本人にとってはこれを憶えるのは容易ではない。象形文字から表意文字に進化した「非表音文字」である漢字は非常に優れた面を持っているが、表音には弱いと言う短所もあるのは否めないと私は思う。
【蛇足】
もう彼此40年以上前、台湾の友人から聞いた話。彼曰く「台湾語(ミンナン語)の地名はとても面白いもがある。基隆は本来は「鶏篭」である。「とりかご」では可笑しいから音の似た縁起の良い「基隆」に日本人が改めた。高雄は本来は「打狗」だったが、これも音の似た縁起の良い「高雄」に日本人が改めた。これらは今でもその侭残っている」。この話の真偽の程は私には分からない。誰か知っている人があれば教えてもらいたい。
鶏篭と打狗の地名
最近60数年来の旧友である闕壯狄さんが夫人と共に来日、20年ぶりにお会いした。同氏は1950年代に来日、私の居た西海区水研を訪問以来の友である。その後数次に亘り日本や台湾でお目に掛かっている。戦後台湾の農復会(戦後内戦期末期に結成された中国農村復興連合委員会)の水産部門の責任者として陳同白氏に次いで第2代目の責任者であった。今回の来日の機会に「基隆を鶏篭、高雄を打狗」という問題を尋ねた。同氏曰く「間違いありません。日本の植民地になる前はそう呼んでいたと云う記録は沢山あります」とのことであった。
また、Web 上で「スペイン人が台湾北部の鶏篭鎮(現在の基隆市)を占拠し、淡水鎮にとりでを築いた云々」の記事を見た。基隆を鶏篭、高雄を打狗と書き、そのように呼んだことは先ず間違いない。
2006年4月 記
YAEYAMA と PA CHUNG SHAN (八重山群島)
(2003年4月)
真道重明
西表島(いりおもてしま)がある八重山群島の八重山は日本語で「やえやま」と呼ぶことは言うまでもない。私が今でも「変だなー、何故だろう?」と疑問に思っていることがある。
1940年の夏のこと。海軍は多数の民間船を徴用して日本列島と赤道の間の海洋一斉観測を実施した。当時学生だった私は同級生2名とこれに加わった。当時アルバイトと言う言葉は無かったが、40日間の仕事の報酬は悪くはなかった。支度金を貰いに生まれて初めて日本銀行本店に赴いたことを憶えている。
船は某大手漁業会社に所属するキャッチャーボート(捕鯨船)で、小型ながら南氷洋で働く船だけに時化には強い半面よく揺れる。下田を出航して土佐清水・油津に寄港して根拠港の那覇に向かった。直行する予定だったが、これらの港に寄港したのは生憎この年は台風が多発し、一難去ってまた一難、その避難を余儀なくされたためである。一斉観測が開始されてからは根拠地の那覇と台湾の基隆に数回寄港したが、その間にも大型台風に数次見舞われた。一度は台風を避けるため赤道に南下したところ、北上すると思われた台風が逆に進路を逆にとり南下し始め、救難信号を出す直前状態に陥り、食糧は「米と脱脂粉乳だけ」と言う日が1週間も続いたこともあった。
台風はさて置き、操舵室の背後にある部屋のチャート・デスクで常に海図を眺めていたのだが、ある日私は或る1枚の海図の記載に疑問を持った。図上の地名は日本語の発音がローマ字で記載されていたが、仮名や漢字が記載されていたかどうかは記憶が定かでは無い。不思議だと思ったのは八重山群島がYAEYAMA Is.では無く、PA CHUNG SHAN Is.と書かれて居たことである。これは明らかにウエード式(但し声調記号は略す)による中国語の発音である。(注:1)
八重山について何故中国語の発音が書かれ日本語の発音が記載されていないのか?
考えられるケースとしては、私が見た海図は古いものであり、日本海軍が海図を作り始めた明治初期(約130年前の1871年に水路部が設立され、1879年に海図は海軍水路部の仕事となった)には未だ海図の多くは200年前から世界でいち早く近代海図の作成を始めた英国のものを参考にしていたのではないか。
この元になった英国の海図は当時大陸や台湾に接近してる八重山群島は中国の領土と思い込み、日本語の八重山の漢字を見つけ出し、これに基づいて中国語の発音を当て嵌めたのではないか。日本の水路部はウッカリこれを見過ごして原図の侭踏襲していたのでは無かろうか?そうだとすれば極めて迂闊な話である。
それとも海図そのものが日本海軍水路部の物では無く、外国の(恐らく英国の)ものだったのか?海事問題に素人の私などが詮索できる訳も無いが、海軍水路部と書かれて居たような気がするが、この点は明確ではない。もし外国のものだったとしても、八重という語は中国では使わない。日本語の八重と表記した漢字を中国語の発音に置き換えたとしか思えない。ありうるかも知れないが変な気がする。
私が見たのはもう60年以上前のことではあるが、日中戦争の最中のことでもあり、今もって「不思議と言うか変な話だ」と思っている。どなたかこの方面に詳しい方々のご意見を聞きたいものである。
追 記
2010/12./01
上述の記事を書いた丁度8年後、本件に関連する「戦前の海軍の海洋一斉観測」の本ホームページの内容に関する問い合わせがあった。お尋ねの主 K 氏は東北大学の海洋物理研究室に所属して居る方で、戦時中の旧日本海軍による海洋一斉観測の実態について調べて居るとのこと。質問の内容も地名の問題ではなく、観測機器や監測技術に関する事であった。
私は水産資源を専攻分野とし、海洋学やその監測技術については一応は学校で「概論」を習ったものの、素人と大差なく、 K 氏とのメールの遣り取りを通じ同氏の詳しい説明から多くのことを逆に教わった。但し、このことが切っ掛けとなって「七十数年前の私が疑問に抱いた海図に記載された地名の問題」を想い出して海上保安庁のホームページから同庁の海洋情報部国際業務室の N 氏に問い合わせた。同氏は多大の労力を掛けて問題を調べ、親切なご回答を得た。以下はその回答文の本文部分である。
//- 海上保安庁海洋情報部「海の相談室」からの回答文の開始
ご懸念の八重山諸島の我が国刊行海図における表現について確認した結果は以下のとおりです。
正規の航海用海図
・「Is.」という省略形が用いられていることから、小尺の海図である可能性が高い。
・20万分の1の海図1204号「宮古島至石垣島」等においては、少なくとも大正4年の時点で「Yaeyama Islands」もしくは「Yaeyama Retto」 となっている。・140〜150万分の1の海図210号「長崎至厦門」においては、明治30年刊行同44年再版の図で「Yaeyama Is.」となっている。
・さらに小尺の海図1号B「日本總部及付近諸海」等においては、八重山列島は漢字表記のみであり、ローマ字表記が見当たらない。
・なお、八重山列島の最古の日本版海図である明治6年刊行の海図17号「八重山全島図」および海図23号「八重山島石垣港図」(いずれも「大日本海岸実測図」に収録)においては海図名の一部として「YAYEYAMA ISLANDS」という英文表記が見られます。
海図17号「八重山全島図」海図23号「八重山島石垣港図」は、以下のURLで公開されています。
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000356
急速覆版海図(※)
・八重山列島を含む急速覆版海図は、10051号、10081号、19991号の3図がある。
・当部に現存しているものは19991号のみであり、これは千万分の1以下の小尺の図のため八重山の名称表記は無い。・10081号もまた千万分の1以下の小尺の図であるため、八重山の表記が有ったとは考えづらい。
・残る10051号(730万分の1、原図は米国版海図5590号)には、八重山が英語で表記されていた可能性はある。
・しかしながら、10051号は昭和16年1月刊行の図であるため、1940年の夏には刊行されていない。※戦争中に輸入が途絶えた他国版海図の代用として、他国の海図を元に作成した暫定的な海図
以上のことから、私どもといたしましては、当時の海軍水路部が刊行していた海図にご指摘の表現は無かったと考えております。
ここからは全くの推測ですが、乗務されていた捕鯨船が赤道までの一斉観測に従事されるにあたって、他国版海図(米国版海図5590号等)を準備されていたのではないでしょうか。
(なお、現在の英国版・米国版海図は「Yaeyama Retto」 と表記されています。)
//- 海上保安庁海洋情報部「海の相談室」からの回答文の終り
上記の調査結果から見て、日本の旧水路部が公式に出版した海図には PA CHUNG SHAN と云う文字はなく、「茶色太字」の2行の句の通り、他国版の海図である可能性が高い。その場合、不可解なのは何故『日本語の「やえやま」を漢字で表記した「八重山」の一字一字を字を追ってウエード式ローマ字風にローマ字化して記載したのだろうか?・・・と云う疑問が残る。
彼等外国の海図編纂者に「八重山群島は中国領である」という先入観があり、日本語の文書から八重山の漢字を探し当て、それを中国北京音に移したのだろうか? 薩摩藩が琉球王朝を呑み込み、日清戦争で台湾を割譲取得したことは世界的に周知の事実だったとすれば、米国式捕鯨漁船に助けられた「ジョン万次郎」にでも訊ねないとラチが明かないのかも知れない(笑い)。
最近、尖閣諸島の領土帰属問題で中国の検索サイト(簡体字中国文)を時々見るが、「古文の記録から説き起こし中国領とする説」と共に逆に「国際法規に準拠して歴史的に見ても日本の領土」とする説も沢山表示される。地名の表記は領土問題とも関わる場合があるので、事は面倒である。なお中国語には「八重山」という漢字の地名は存在しない。
この点では「西沙 (パラセル) 諸島や南沙 (スプラトリー) 諸島も同様で、古代から漢字という文字を持つ中国は、領有権問題の論争では、昔は文字を持たなかった周辺国のベトナム・フイリピン・インドネシアなどは実際には距離が近く出漁者も多かったと思われるが、中国と較べ立証する物が無く、討議に不利であるように思われる。話が本題から逸れそうになったので、此処で今回は擱筆したい。
【注:1】 現在の中華人民共和国の中国語ローマ字表記は「ピンイン」方式であり、これに従うと、BA CHONG SHANとなる。1979年に国際標準化機構(ISO)はピンインを国際的な標準の中国語のローマ字化方式として採用し、国連は1977年からピンインを採用している。
(2003年4月)
真道重明
文字の無かった日本語に中国から漢字が導入されて以来、我国で使われる多くの漢語は、今では日本語の一部である。朝鮮半島では国粋主義かどうか知らないが、ハングルを使い、漢字を出来るだけ使わないようになったが、日本より遥かに多くの漢語が言葉の中に使われて居り、人名や地名の殆どは漢語である。漢字を使わないで表音文字のハングルだけにすると、非常に不便な問題が起こる。
新聞小説などに人名が出てくると、同音が多いから区別が付かず、漢字を括弧で包んで表記してある。いまのノ・ムヒョン大統領もそうだと思うが、元大統領のキム・ヨンサム氏は「漢語は我々の言葉の一部だ」と言い切って、「東アジアやベトナムなどのいわゆる漢字圏では共通の漢字を決めて、共通に使うべきだ」と言っているのは卓見だと私は思っている。
中華人民共和国は簡体字、台湾や香港は繁体字、日本は常用漢字があるが、台湾や香港の人々は今では簡体字も学習しているし、大陸の人々も繁体字を勉強している。面倒な話だ。
簡体字・繁体字・ベトナム漢字などが在ったとしても、共通漢字書体が漢字圏の各国で使用が合意されれば、いずれ、その字が自然に定着するだろう。
ここで私はこの話を論議する心算は無い。もっと気軽な「へえー、その言葉は中国語に由来するのか?」という雑談である。
大阪の商人同士は挨拶代わりに「儲かりまっか?」と問い、「まぁまぁでんなー」と答える慣習があり「流石に商売の街だ」と良く言われる。この「まぁ まぁ」という言葉だが、私は時々この言葉は中国語の馬馬虎虎(マァーマァーフーフー)から来たのではないか?と疑っている。
中国語の馬馬虎虎と日本語の「まぁ まぁ」は同じような局面状態の「お元気?」、「企画は順調に進んで居ますか?」の質問、さらに「体調は良くもなく悪くもなくまぁ まぁと言った調子です」とか「仕事はどうやらこうやらまぁ まぁ進んで居ます」、と言った時に使われ、日本語の「まぁ まぁ」とピッタリ該当するからである。もっとも中国語では 「投げ遣りでいい加減」といった意味もあるようで、馬虎や馬糊 (発音は何れもマァー・フー) などとも言うようだが・・・。
バッ点の「ペケ」は中国語の 「不可」に由来すると言うし、「チンブン・カンプン」は中国語の「聴不通・看不通」の訛ったものではないか?という人々も多い。「ポコペン」然り、「ラッパ」然り、驚きの声「あら、まー」の「あら」は香港や広東語の女性の「あら」というのを聴くと日本語の場合とそっくりである。邪魔だ「どけ・どけ」も「躱開」ドゥ・カイ、(身を躱せ)から来てるようにも思う。いくらでも、それらしいものが出てくる。
【蛇足】上述の文に「漢語」という言葉を使ったが、その意味は日本や韓国で使われる「中国に由来する漢字で表記し得る語」のことを指す。現代の中国語で「漢語」とは中国語のことを指す場合が多い。
(2003年4月)
真道重明
中華人民共和国の略称を日本では「支那」と漢字で書き「シナ」と発音する人は現在では非常に少なくなり、「支那」の字は新聞紙などでは全く見られなくなった。しかし、年配の人の中には昔からの慣習で未だかなり居る。中国人や日本人だけで無く、第三国の人々も巻き込んで、多くの異論や反論が此処もと数十年来行われてきた。最近の例では有名な「NASDAQ」で株式を公開している中国系のポータルサイト「Sina.com」のサイト名称をめぐる論争がある。
言葉の詮索に興味を持つ私は、もちろん偶々目に触れた範囲内のものに限られるが、この問題に関連する諸説には眼を通した。その結果についての私的な感想を述べたい。
日本や中国を含む各国の諸学者の両国の国名に関する長い歴史を踏まえた学術的な詳細な考証の内容の是非については、もちろん素人の私が云々する資格も知識も無い。それを論じようとするのではない。
私が問題にするのは「A国がA国の言葉でB国をどう呼ぶか?」と言う問題である。言葉というものは「読み聞きする相手がある」から存在意義があるし、また「生き物」であって、時代によっても、その時々の当該する国家間の歴史的な経緯や社会情況如何によって変化したり、新語が生まれたり、時には使い分けされたりすることが多い。学究的な考証とは別次元の感情的な問題がある。
例えば「ビルマは植民地時代に宗主国の英国が付けた名前だが、ビルマ人は独立後昔からの自国を呼ぶ名前ミャンマーを名乗った」と言う。しかし、宇田有三氏の記述によると、軍事政権である国家法秩序回復評議会が1989年に自国の対外向け呼称をそれまでの BURMA から MYANMAR に変更した。但しビルマ語による対国内向け正式国名は独立以降一貫してミャンマーだそうである。日本政府は「ビルマ」の呼び方を「ミャンマー」に変更し、 マスコミの多くもそれに従った。 しかし、はたして機械的に「ビルマ」と呼ぶのをやめて「ミャンマー」なる語を国名として用いてよいのか、宇田氏は疑問を呈して居る。
軍事政権が対外向け呼称を「ミャンマー」に変えて以来、民主化陣営に連なる人々を中心に、 「軍事政権が国民に相談もなく決めた国名変更だから、それに従う必要は無い」として、 その後も一貫して「ビルマ」を使い続けている経緯がある。 このため、 「ビルマ」を使えば「民主化陣営支持派」、 「ミャンマー」をつかえば「軍事政権擁護派」もしくは「中立派」とみなされると言う現象が生じている。 とりわけ、機械的に「ミャンマー」を使用する人々が急激に増えた為、 「ビルマ」を使うとあたかも政治的に何が特別な意味があるかのように誤解されるようになってきたと同氏は言う。
カレン民族同盟をはじめとする反政府少数民族やビルマの民主化をめざすアウンサン・スーチーら野党指導者は、法的正当性のない軍事政権にゆよる国名の変更を認めず、 いぜんとして「BURMA」を使用している。(山本宗輔『ビルマの大いなる幻影』、社会評論社、1996年)
英国植民地下で英国流に使用されていた地名も本来の呼称に変えた。例えば、首都「ラングーン」も本来の「ヤンゴン」に変えている。(桐生稔・西澤信善『ミャンマー経済入門』、pp.1-2、日本評論社、1996年)と宇田有三氏は述べている。ちなみに同氏はフォトジャーナリストとして関西を拠点にして国際的に活躍されている人である。
ミヤンマーと国境を接するタイ国に国際機関職員として11年間勤務していた私は、勤務を終わって帰国した後も毎年タイ国を訪れていたが、東南アジアの多くの英字紙はミヤンマーのことを今でも「BURMA」と書いていた。またタイ語では昔から「バーマー」、首都のラングーンは「ヤンゴン」と呼んでいる。
引用が長くなったが、私が言いたかったのは「国名と言うものは仲々面倒なもので、色々な要素が絡み合っている」と言うことである。
どちらが正しいかと言った問題ではない。序でにもう一つ例を挙げる。外務省によるとコートジボワール共和国(Republic of Cote d'Ivoire)には日本の「在象牙海岸大使館」があるが、JICAでは象牙海岸共和国と言っている。この様な例は外にも多々在る。中華人民共和国を中国、大韓民国を韓国と呼ぶ。公式名称と通称(略称)の違いなのであろうか。
さて、話を本題の「支那」と「シナ」に戻す。この問題は呼ぶ側と呼ばれる側とに意見のズレがある厄介なケースである。
余り指摘する人が居ないが、私は中国と日本の間で特に面倒なのは、両者が共に漢字を使っていることが問題をより複雑にしていると思う。支那と言う漢字の「支」は支店や支所の語から分かるように中央の幹ではなく端の枝である。自らを「中華」、すなわち中央にある美しい花と美称している中国にとっては他国が呼び名として「支」の字を使うことは「決して愉快なことでは無い」と感じるのは良く理解できる。
自国を美称するのは良くあることで、日本もかつては「瑞穂の国」とか大日本帝国と言っていたし、大韓民国にも大の字が付いている。もし中国の人が「支」の字を使うのが「不快だ」というのなら、それを避けるのが礼儀ではないか。
ことは国益の衝突する領土問題ではない。友好を言うのなら礼を以て応じ、先方が不快に思う語を敢えて使うべきではない。これは学術的な名称の考証問題ではないのだから。
論争の実態は、しかし、単に漢字の持つ意味の問題だけではない。日清戦争・日中戦争・太平洋戦争を通じての日本の中国侵略の記憶が中国の人々の脳裏には焼き付いている。むしろこのことが論争の大きな要因であることを考慮すべきであろう。
一方、「シナ」は漢字ではない。仮名(表音文字)であり、中国全土を初めて統一した秦の始皇帝の「秦」の国名がインドに伝わり、サンスクリット語で書かれた音が世界に広がり、仏典を通じて中国にも逆輸入されたものの転音とされる Sino、Sina、Chin などと同じである。「東シナ海」や「南シナ海」・「インドシナ半島」などの日本語表記は問題にされるとは思われない。だがごく一部の中国の人々は「シナ」の表記まで問題にしている。これは「坊主憎けりゃ袈裟までも」の諺通り行き過ぎでは無いかと私は思っている。
話は前後するがロシアでは中国を意味する語に「Kitai、キタイ」、この流れに沿う英語のCathay(キャセイ航空でお馴染みの)がある。これらは契丹(Khitai、ツングース系の契丹人が唐代に建てた国家、後に遼と称した)の音に由来すると言うのがほぼ定説のようだが、古代中国で辺境の異民族を指す「東夷・西戎・南蛮・北狄」の北狄の一つである。中華を美称する漢族から見れば「これは怪しからん」ことになる筈だが、この語の論争は聞かない。表音文字での表記には関心がなかったからだろうか?私が少し噛ったタイ語では中国を「チーン」と発音しタイ文字(表音)もそのように書くが、もちろん両国間に何の問題も起こってはいない。
(2003年4月)
真道重明
ワニやトカゲなどの仲間を多くの人は「爬虫類」と書き、ハチュウルイと発音している。大島廣先生は「これは間違いである。本当はハキルイと発音すべきである」とのこと。また、「虫」と「蟲」は本来別の漢字で、「虫」は「地に腹這うもの」の意味で「キ」と発音し、一方「蟲」は蜻蛉や蝶々など「ムシ」の意味で「チュウ」と発音する字である、とのこと。
すなわち、「虫」は「蟲」の略字ではない。ワニやトカゲなどの仲間は「爬虫類」と書き「ハキルイ」と呼ぶべきで、「爬蟲類」という言葉は存在しないし、したがって「ハチュウルイ」という発音の語もない。これが先生の説である。
私が九大の天草臨海実験所で同先生と起居を共にしていた時に受けた教えの一つである。同先生は言葉には厳格で造詣も深かった。今から半世紀以上昔のことである。当時動物学者の間で議論されたとのこと。しかし、皆が「爬虫類」と書き「ハチュウルイ」と発音している時代となったので、今更「そうではない」と言う議論をしても始まらないとも言われた。
「虫」は「地に這うもの」の意味で「キ」と発音し云々・・・は果たして「そうなのかどうか?」。康煕五五年に刊行され、漢字の最も権威ある字書とされる康煕字典を調べる機会は未だ無いが、現在、日本で普通の人々の手元にある辞書には「虫」を「キ」と読むと言う記載は無く、「虫」は「蟲」と同義で簡略形であるとして居る。中国の一般の人が現在使っている簡体字で書かれた辞書でも同じ趣旨が述べれられて居る。
未だに気になることの一つである。誰か漢字に詳しい人のご教示を得たい。言葉というものは、皆が間違って使うようになるとその間違った使い方が正しい?とせざるを得ない宿命にある。
[追記] 中野康明氏の「中野康明の雑学ペ−ジ」に下記の文章が在った。
「蛸はなぜ虫偏」と題する文章のなかに「…… 「字通」で「虫」を引くと、元来は「蟲」とは別の字であるが、「蟲」の略字として使われるようになったそうだ。本来の「虫」の音は「キ」、意味はマムシあるいは爬虫類の総称だそうである ……云々」。
「虫」の音は「キ」であることを述べたものに一年半を経てヤット出会った。何だか嬉しくなった。中野康明氏は蛸について、また「虫偏」について幾つか述べられているが、私は「蛸について改めてホームページに書こう」と思っているので、そこで同氏の文に触れることにしたい。
「中野康明の雑学ペ−ジ」は幅広い分野に亘り、多くある話題がとても面白い。同氏の快諾を得たので此処に紹介する。(ここをクリックして下さい)
(2003年5月)
真道重明
シンガポールの街の中華料理屋に貼ってあるスローガンである。意味は「国語を多く喋り、方言で喋ることを少なくしよう」ということである。1990年代の初頭を最後に、その後は訪問していないので今も貼ってあるかどうか私は知らない。1970年代から1980年代にかけてはこのスローガンを良く見掛けた。此処でいう方言とはマレー語のことではなく中国南方の方言(広東語・海南語・潮洲語・客家語・ミンナン語など)のことである。
中華料理屋であるし、勿論、漢字で書いてあり客の殆どは中国系の人々である。国語と言うのは中国の標準語である北京語、具体的には普通語(プゥ・トン・ホァ)のことである・・・と私は解している。
日本で国語と言えば「国定国語教科書」のように日本の標準語であり、中国でも国語は中国の標準語を意味する。私が「変だな?」と思ったのはこの「国語」という言葉である。シンガポール共和国は「マレー語、中国語、タミール語、英語の四つを公用語に指定し、とりわけ、そのなかの「マレー語を国語とした」と聞いている。だから法規上はマレー語が国語になっている筈だ。
しかし、都市国家であり、多言語社会のシンガポールでは英語が事実上の共通語として機能している。そして民衆の話す英語は、いわゆる、「シングリッシュ」で、「Yes」 は中国語(広東語)では「、ハイ・ラー」と言うが、これと同じように「イエス・ラー」と言う。「OK」も「ラ」を付けて「オーケー・ラー」と言うように物凄く訛った英語を庶民は普通に使っている。もっとも、官庁や学校では正しい英国式の英語が使われる。
法規的にはマレー語なのだろうが、現実的には彼らの会話の半分近くは中国系の人口が多いせいもあり、中国語、それも南方方言のような気がする。「英語」と「中国語」を比べてその時々に「使い易い」か「伝わり易い」方を選んだ会話をしているようである。
漢字源によると「国語」とは中国の場合、中華民国時代には「方言に対し標準語を意味する言葉」とある。広辞苑によると「その国の公用語。自国の言語のこと」とあり、したがって日本語の場合に国語と言えば「日本語、やまとことば」を意味することになる。冒頭に述べた「多講国語云々」の国語は明らかに「方言に対し標準語を意味する言葉」を指している。
話が混乱する。一体国語とは何か?、公用語とは何か?、標準語とは何か?シンガポールの標準語は何なのか。「マレー語を国語とした」と言うが、原典のマレー語ではどう表現されているのか?
学術的な詮索は別として(と言うよりも私にはマレー語は解らないからどうしょうも無い)、多言語社会は厄介な問題を抱えている。同国の言語政策に関する論文は沢山あるようだ。
私の友人の Hooi Kok-Kwang (許國強)さんはマレーシア国籍で、客家系(Hakka Chinese)の人である。シンガポールの政府職員で、奥さんはオーストラリアの白人で英語はペラペラ。バンコクから来た私を飛行場に出迎えに来て呉れた。車中は英語で話していた。彼の日常の家庭語は英語である。タクシーから下りようとしたとき、彼は私が中国語を少し喋れることを知っていて、北京語で「我帯着零銭了」(俺は小銭を持っている)と言ってタクシー代を払おうとした。咄嗟に私は「ポム・コ・ミー・ドエイ」(俺も同じく持っている)とタイ語で喋った。彼はタイ語も少し分かる。
私のタイ語も彼の北京語もいい加減なものである。いい加減とは言え日常この程度の会話は何気なく使っている。それ迄英語だったのに金を払うときになって双方とも無意識に多少エキサイトしていたのかも知れない。英語・中国語・タイ語が入り混じっても何の違和感もない。とにかく通じれば良い。ただそれだけである。日本人が良く言う「気取ったり、知ったか振ったり、会話度胸」などと言った意識は微塵も無い。多言語社会はそんなものだ。
シンガポールの国語はマレー語だ。しかし、漢字で表記したスローガンの国語は北京語のことだ。私が「なにか変だ」と感じたのはこのことだったと後で思った。
(2003年7月)
真道重明
バイリンガル(bilingual)という言葉は「二つの言語を自由に話せる、または、その様な人」、もしくは、二言語で書かれた文書の意味であることはご承知の通り。多民族国家の「多言語社会」ではこのような人は多い。
私が何時も思い出す経験がある。バンコクの本部に勤務して2−3年後の頃、バンコク市内の中心街の中華レストランで一人、侘びしく食べていた。隣りの円卓には中国系の人々が6人ばかり食事をしていた。ご存じのように彼等中国人の食事風景は大声で喋り捲る賑やかなものだ。タイの中国人は潮洲系の人が圧倒的に多く、喋っている言葉は広東省の潮洲方言であり、私にはチエツ・プン (吃飯、飯を食う。標準語では漢字は同じだが チー・ファンと発音する)などの数語を除くと、99.9%解らない。
そのうち6人のなかの誰か一人が新しい料理を追加注文した。ウエイトレスはタイ人の若い女性で、彼女は潮洲語は解らない。注文は勿論タイ語である。二言・三言の言葉を遣り取りしていた。
ここで言語スイッチが切り替わった。ウエイトレスが厨房に立ち去った後、6名は一斉にタイ語で喋り始めた。これならほんの少しは私にも分かる。彼等は潮洲で製作され、近くタイで上映される映画の話やタイ国で作成され上映中の中国人を題材にした「タオ・ホエ・ライ・リャオ」(漢字で書けば「豆花来了」、潮洲語)という題名の映画の話をしていた。豆花というのは杏仁豆腐かおぼろ豆腐のような、いわば豆腐のプリンのようなデザート、豆花来了は「豆花を売りに来ましたよー。一椀、如何ですか?」という売り声である。
この映画は私も観ていた。ソンバット (宝物を意味する。タイの人は黄金とか宝石など、とても上等の名前を付けることが多い)という有名な男優が中国人に扮している喜劇である。彼等6人はしばらくタイ語で話を続けていた。 ところが誰かが潮洲語で一言喋った。これが切っ掛けで言葉のスイッチが再び切り替わった。彼等は一斉に潮洲語で続きを喋り出した。
彼等はタイ国生れ、タイ国育ちで、タイ語は母国語のようなものである。国籍も恐らくタイ籍であろう。しかし、潮洲系の人達ばかりだと親から聞き覚えた潮洲語が飛び出す。恐らく彼等には何語を喋っているかという意識は無いように見える。喋っている言葉が一瞬にして一斉に切り替わるのは見事である。
(2003年3月)
真道重明
日出處天子致書日没處天子無恙云々. (隋書東夷伝)[日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々]は聖徳太子が遣隋使の小野妹子に託して煬帝に送った国書にある字句として有名です。
日本を「日出處」と言い中国を「日没處」と表現し、まるで日本が日の出の勢いにある國、一方、隋は落日の国、余命幾許もない國のような印象を与える言葉と解されているようですが、国家の法整備も中国や朝鮮半島から学び、やっと国家としての体裁が整い始めていた当時の日本が当時のアジアの超大国の隋に対し、その様な意味の言葉として使ったとすれば、喧嘩を売っているようなもので、私は「国書にある言葉の意味は少し違うのではないか?」と常々思っていました。
定説では、隋と対等の立場にある日本国として「堂々とした文面の書を送った」ということで、日本の歴史上では非常に賞賛されて居ます。
果たしてそうなのでしょうか?、「日出處」と言うのは単に「東にある」、「日没處」は「西にある」の意味で多少文学的?な表現にしただけではないか?と私は思うのです。そう思った切っ掛けは私が少し噛ったタイ語にあります。
タイ語では「西」のことを タワン・トック と言います。タワンは太陽、トック は落ちるの意味で、タワン・トック は落日ということになりますが、日の沈む方向は西ですから転じて「西」を意味する言葉になったのだろうと思います。「東」は タワン・オク と言いオク は「出て来る」の意味でまさに日の出です。日の出る方向は「東」です。
ちなみに、タイ語で太陽は普通は「プラ・アティッド」と言いますが、タイ語の権威である畏友の安藤浩氏によると、タワンは本来のタイ語、プラ・アティッドは借用語だそうです。
八重山には「西表」と書いて「イリオモテ」と読む地名があり、また、鹿児島県の種子島には「西之表(市)」があり、「イリノオモテ」と読みます。この西をイリと読むのは、「日の出・日の入り」の「入り」では無いか?と素人ながら考えています。タイ語の タワン・トック と同じではないでしょうか。東西を表す言葉はタイ語に限らす、他の国々にも同じ発想から来る言葉が沢山あるのではないかと思いますが?。
さて、本題の「日出處」と言うのは単に「東にある」、「日没處」は「西にある」の意味で多少文学的な表現をしただけではないかと私は申しましたが、言い換えれば、当時の隋は建国後余り時間が経っていないので国の基盤整備に追われており、さらに朝鮮半島問題も抱えており、「朝鮮と日本の両面作戦は取れない」ことを聖徳太子は見抜いており、国際情勢を的確に把握しており、強気な外交戦略的文面になったと言うのは、私は「聖徳太子が偉大な人である」ことを強調したいために「多分に持ち上げ過ぎた見方」ではないか?と思います。
私は聖徳太子が「そんなに偉い人では無かった」と言っているのでは決してありません。部族的な社会だった日本を当時の概念で言う国家にした功績は歴史上でも第一級の人物だと思います。此処ではその事を問題にしているのではありません。
国書を読んだ煬帝は激怒し、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と言ったと隋書倭人伝には書かれて居るそうですが、それにしては、妹子をとめおき、翌年の春に裴世清らを付けて日本に帰し、日本も彼らを歓迎し、「裴世清の帰国の際しては再び妹子と他に何人かの留学生をつけて中国に派遣した」とのことです。煬帝が怒ったのは一時カッとなったのでしょうが、それは隋以外はすべて属国、ないし蛮夷の土地と思っていたのに、同じ「天子」という表現であったことに対してでしょう。
煬帝は「国書なるものを始めて送ってきた國のくせに、何を生意気な」と一時はカッとなったのでしょうが、小野妹子の話を聞くうちに冷静に戻ったのでなければ、その後の話と辻褄が合わないように私は思うのです。
日本に来た裴世清らを小野妹子が裴の帰国に際し、再び同行し、その際に時の天皇(推古女帝、,聖徳太子の伯母)は小野妹子に託した文書があります。それには「東の天皇が西の皇帝に申し上げます。お変わりありませんか?」の文言があると日本書紀にあるそうです。
聖徳太子は「日出處」とは単に「東の國」と言うところを言葉の綾でそう言っただけではなかろうか?。煬帝がこの言葉を悦ばなかったことを知り、友好を損なわないように、次回の国書には「東の、西の」と言い改めたのではないでしょうか。
「さいかい」と呼ばずに
「せいかい」と読む問題
西海区水産研究所の呼称の問題
(2003年7月)
真道重明
西海区水産研究所(農水省水産庁所属の国立水産研究機関、現在は独立行政法人水産総合研究センターに所属する水産研究所の一つ)の名前の西海を「せいかい」と読むか?「さいかい」と読むか?の問題は嶋津靖彦氏が所長として同所に着任した直後にこの問題に興味を抱き、詳しい考証と所感を述べて居られる(西海水研ニュース104 号、2000年)。
同所が開設された1949年以前の同所の前身母体である農林省水産試験場長崎分場(正式には長崎臨時試験地)時代から同所に勤務し、通算23年間勤めていた私は開設当時からこの問題の論議に巻き込まれ、とりわけ開設当初には当時の同僚や初代所長の伊藤たけし(漢字では人偏に「間」を旁とする文字)氏などと「どうだこうだ」と盛んに論じた経験がある。半世紀以上経過した今、少し異なった視点からこの問題を考えて見た。
結論から言うと、お役所の規定、例えば設置法などでは名称は漢字で書かれるが、その漢字の発音、すなわち「読み方」までは規定して居ない。表音文字の片仮名や平仮名と共に、表意文字の漢字を常用する日本文では、例えば戸籍の出生届の例のように、氏名欄にフリガナを記載する小欄はあるが、名前として登録されるのは「漢字」および表音文字の片仮名や平仮名の文字だけである。
戸籍と同じで、官庁名や部署の名前は殆どの場合に漢字が使用される。最近では「埼玉県 さいたま市役所」、「茨城県つくば市役所くらしの便利センター」など「平仮名や片仮名文字」も使用されるケースが少しずつ出始めてはいるが・・・。
したがって、「西海区」の漢字だけが規定され、読み方(発音、振りがな)までは官庁名では決められていない。どう読むかは、多分自明のこととして「関知しない」ことになっているように思う。だから、読み方は慣行によらざるを得ない。『藤谷超氏が1954年(昭和29年)に第1号を発行された同所の研究所報告に "SEIKAI REGIONAL FISHERIES RESEARCH LABORATORY" と記載されているので、この機会に「せいかい」に統一したのではないか?と推測された』とあるが、それより数年前の1951年の刊行物に付けられた西海区水研のエンブレムには円形を取り囲むようにローマ字で「SEIKAI」と記載されている。言わば「振り仮名」に当たる「読み方の表記」ではローマ字ではあるが既に「セイカイ」となっており、同所としては「セイカイ」と呼ぶことに決めていることを間接的に示している。(ちなみに長年使われたこのエンブレムは現在では恰好の良い新しいデザインに改められている)。
開設当時研究所内部でどのような論議がなされ、また外部では実際にどのように呼ばれていたか?については、50年も前のことであり私の記憶に曖昧なところもあろうが、『もしも五機七道の西海道(サイカイドウ)にあやかって名付けたと言うことであれば「サイカイ」と呼ぶべきだとする人』、『いや、これからの科学研究を担う機関の呼び名が、今更、八世紀の律令制に倣うこともあるまい。呉音の「サイ」は西方浄土(サイホウジョウド)など仏教を連想させ、抹香臭い。漢音のセイカイが正解だ」という人』、『漢和辞典を見ると「西」を「セイ」と読む場合が殆どで、「サイ」と読む例は僅か一割にも満たない。「セイ」の漢音読みが良い』等々、茶飲み話的雰囲気の中で行われて居たように記憶する。
結局、後者の漢音読みの「セイ」に、特に「読み方を統一すると言った申し合わせ」などの形式張ったこともなく、開設後一年頃には、むしろ自然発生的に当時所内で皆が使っていた「セイ」と発音することにし、出版する冊子の表紙を飾る「エンブレム」にも SEIKAI と記述されたように記憶する。しかし、所外の一般社会では、とりわけ九州では西海道に由来する「サイカイ」の読み方をする人々が多く居た・・・と言うよりも、むしろこの方が圧倒的に多かった。会社名や屋号の西海運輸・西海屋だとか、橋の名前の西海橋な「西海」と漢字で書かれた場合は殆どが「サイカイ」と発音されて居た。
また、水産庁や他の水研の職員で「サイカイ」と呼ぶ人々も少数ではあったが居たことも実態としてはあった。その後は徐々に水産研究に携わっている人々の間では「セイカイク」という呼び方が定着して行ったが、水産界の人々の中には21世紀の今でも「サイカイ」と呼ぶ人は、少数とは言え跡を絶たない。
法規的にも戦後の新戸籍法と同様に読み方までは規定されては居ないことは上述の通りである。それなら西海区を「セイカイク」、「サイカイク」のどちらでも良いのか?というと、ローマ字で SEIKAI と表記してあるということは「セイカイク」と呼ぶことを主張していると解すべきである。総理府か外務省か忘れたが、官庁関連機関名を英訳表記する場合の通達には SEIKAI としてあったように記憶する。ヘボン式や日本式のローマ字読みでは何れも「セイカイ」となる訳である。
日本社会の中では目くじら立ててこの呼び方を、今更云々する人はあまり居ないのではないかと私は思っている。水産研究に携わる世界の人々の間では「セイカイ」や「SEIKAI」はこの半世紀の間にすっかり定着してしまっている。日本国内で呼び方が話題になった根底には表意文字である漢字、すなわち「書き言葉の文字」と「話し言葉の発音」の問題があると私は思っている。表音文字を使っている欧米では起こり得ないことである。
蛇 足 的 な 無 駄 話
言葉の詮索に素人の横好きではあるが特別な好奇心を持つ私は上記の愚論を書いているうちに色々な問題や疑問が頭に浮かんで来た。
上記は「西」を「セイ」と読むのか?、「サイ」と読むのか?の話であったが、西瓜を「スイカ」と読むことを思い出した。西はこの時は「スイ」と読む。調べてみるとこのスイは唐音である。漢字の音には漢音・呉音・宋音・唐音などいろいろあることはご承知の通りである。なお宋音では「シュ」らしい。ちなみに西瓜は「セイカ」という呼び方もあり(漢字源)、水瓜という書き方も間違いではない(広辞苑4版)。
もっとも、漢字が中国から伝わった時、その時代に応じて中国の原音を表記するのに仮名を使った場合、原音がどう発音されていたのか?また仮名も当時どう発音されていたのか?の考証はきわめて難しく、専門家の論文を素人の私などが読んでも歯が立たない。
次に前々から気になっていたことだが、国名の「日本」を「ニッポン」と発音する人もあれば「ニホン」と発音する人もある。無理に統一しようとする動きも無さそうである。郵政省の切手にはNIPPONと書かれており、オリンピックなどの國際競技などで日本選手の背中には NIPPON と書かれているから、現代の政府は一応公式には「ニッポン」としているのかも知れない。在外公館の看板は「日本国大使館、The Embassy of Japan」となっているから、どちらか分からない。
「日本」を「にほん」と読むのか?「にっぽん」と読むのかは昔から議論があったようだ。仮名の「ほ」という文字は古代には「ポ」と発音したので「にほん」と仮名を振れば古代の発音では「ニポン」となった筈だとも言われる。そう言えば漢字は同じだが、東京にあるのはニホンバシであり、大阪にあるのはニッポンバシである。
次に常々感じているのは日本人の氏名の呼び方である。上記のように戸籍では文字だけが登記され、出生届けなどには振り仮名の記載欄はあるが、これは「参考までに・・・」程度なのだろうか、登記はされない。知人に出口と書いて「デグチ」とは読まず、「イデグチ」と読む人が居る。教えられなければ分からない。設楽を「しだら」と読むのは、名刺にルビを振ってあるか、ローマ字でも書かれて居れば別だが、知らない人には読めない。
海外の国際会議で知り合った外国人が私が日本人であることを知り、ポケットから日本人の名刺を取りだし「この人と名刺を交換したが何と読むのか?」と問われたことがある。見ると「両角和夫」とある。名の「カズオ」は分かるが、姓の両角が読めない。私が顔を顰めて居るのを見た彼は「貴方は本当に日本の高等教育を受けたのか?」と失礼なことを言う。彼は同じ日本人の名前も読めないのかと疑ったのはもっともである。後で分かったのだがその日本人の苗字は「モロズミ」であった。
★この氏名や地名が読めない問題は既に慶應二年に前島密(まえじま ひそか。1895−1919。号は來輔。日本の近代郵便制度の創設者。 明治3年、郵便制度調査のため渡英、帰国後は駅逓頭『えきていのかみ』今の郵政大臣)に任ぜられ、郵便制度の創設に尽力。鉄道・海運・電信電話・教育など幅広い分野で活躍)が若い頃に時の幕府へ提出した長文の建白書にも見える。その最後の一部を下に引用する。
『但地名人名に漢字を用ひざるときは、喩へば松平を「マツタイラ」「マツヒラ」「マツヘイ」「シヤウヘイ」其外「シヤウヒラ」「シヤウタイラ」何と讀て然るべきや。其人に聞かざれば其正を得ざる如き、實に世界上に其例を得ざる奇怪不都合なる弊を除き、萬人一目一定音を發する利を睹ては此御美擧なるを普く賛賞仕候儀は尤速なる御事と奉存候』
「奇怪不都合なる弊」、「萬人一目一定音を發する利」などの表現は多いに納得できる。表意文字の漢字には多くの長所がある半面、読み方に関しては表音文字に較べて不便である。それなら漢字ばかり使っている中国ではどうだろうか?と考えて見た。現在の中国では「西」の字はピンインでは Xi と書き、シーと発音することに標準語では決まっている。広東語や南方方言で Sai と発音する人があっても「方言音だ」として問題にはならないように思われる。姓の「陳」は標準ではChen 2声の「チエン」であるが、広東語では「チャン」、また客家語では「タン」だったように記憶する。此れらの方言音を言い出せば切りがない。だから「それは方言音だろう」と大らかに割り切っているのではなかろうか?。標準語では上記の前島密の言う「萬人一目一定音を發する利」が実現されている。
「セイ」か「サイ」かが云々されるのは日本では一つの漢字に漢音・呉音・宋音・唐音などいろいろあり、語句によって使い分けられているからで、差し詰め「日本ならでは」のことのように思う。
上に「表音文字を使っている欧米では起こり得ないことである」と言ったが、ラテン語などの発音は英国では英語流に、フランスではフランス流に発音されて居るようだ。しかしそれぞれの国内では統一されている筈である。日本では「日本米」の学名 Rizo japonica の japonica を英語流に「ジャポニカ」と発音する人、また、ラテン語のローマ時代の原音に近いとされる「ヤポニカ」と発音する人が居る。私などは後者と教えられたが、あまり拘ることでもない気がする・・・。
ローマ字化日本語とメール
(2003年6月)
真道重明
Senjitu denwa de hanashi shimashita. Sensei no okenki (ogenki) sou na koe wo kiki mashita. Ureshi des. Watashi wa ansin shimashita.
Watashi wa ima shigoto takusan arimas dakara hima ga nai no des. sorede amari tegami wo kaki masen. Taihen sumimasen.
Mata yorosiku onegai shimasu. Iroiro shigoto oshie te kudasai.Sayounara.
(括弧内の [okenki」 を [ogenki] とした以外は原文のまま)
こんなメールを昨年タイ国の若い教え子?から貰った。彼は日本に2年足らず留学していたので、日本語は声に出して会話すことはかなりできるのだが、書くのは漢字を憶え読み書きすることは彼等にとっては2年ばかりの短期留学では至難の業である。電話などで話すと流暢とは言えないまでも、誰とでも先ず日本語で支障なく意志の交換はできる人である。彼は英語は一応読めるが書くとなるとやはり気が退けるらしい。
私のタイ語の能力はこれと同じで声による話は「言いたいことは一応は相手に通じる」が、それをタイ文字で書くことは私には殆ど出来ない、出来ても「一語一語を辞書と首っ引きで探さなければならず、時間が非常に掛かる上に文法的にも怪しいから、とても書く気にはならない。とりわけ電子メールではタイ文字はタイ語のIME(タイ語変換ソフト)の環境を持って居ないとどうしようも無い。先方も日本語が若し良く書ける人であったとしても日本語のIME(日本語変換ソフト)が使える環境のパソコンでないと、第一、モニターに日本語を表示することすら出来ない。インターネットのURLならそれぞれの文字セットをダウンロードして置けば閲覧できるが、メールではそうは行かない。[・・・と私は思うのです。IMEやMIMEに関する私の知識はいい加減な初心者です。「こう言うことが在るぞ」と言う問題があれば是非ご教示下さい]。
冒頭のようにアルファベットを使って書かれた、すなわち、ローマ字化した日本語なら、IMEなどの問題なしに「いとも簡単に」送受信できる。英単語・数学記号・化学記号などの混在も何の違和感も無く可能であり便利さはこの上ない。このような条件下にある人はかなり多いと私は思っている。何故、ローマ字化した日本語を使わないのだろうか?不思議な気がする。
私は何も日本語の表記を現在の「漢字かな交じり文」から「仮名ばかりの分かち書き表記にせよ」、または「ローマ字表記にせよ」と主張しているのではない。IT化時代の現在、面倒臭く煩わしいIME変換の束縛を脱してメールや電子文書では、かなりの水準の、例えば論説や技術論文などの文章をローマ字化で、「取り敢えずは読者に理解させ得るにも係わらず、何故これを「誰も問題にしないのか不思議だ」と思っている訳である。
以前一度シンガポールの友人から「性の悪いVIRUSが蔓延しているから警告します」とのメールを受け取ったことがある。彼は政府の技術職員で、英国に留学し、英語は極めて堪能である。日本語は日常の挨拶に毛が生えた程度である。彼からのその英文のメールの最後に「Kono VIRUS wa tottemo kowai zoh ! Goyoujin Goyoujin !」と付け足してあった。もちろん遊び心的な気持ちで付け加えたのだろうが、チョット楽しくなった。
日本語をローマ字で表記するにはヘボン式や訓令式の何れにしても少しは勉強する必要はある。しかし彼等の場合は日本語を習う過程でその何れかを既に習っているから、片仮名や平仮名よりズット楽である。実は仮名は日本人にとっては何でもないが、彼等にとっては漢字程ではないが、それでもかなりの苦労である。
パソコン操作には慣れて居り日本語は話せるが「かな漢字を使う日本文は書けない。英文も今一つ苦手」という人々は海外に沢山居る。飽くまで便宜主義ではあろうが、何故、ローマ字化日本文が超便利であるにも係わらずメールで使われないのか?私はその訳を知りたい。誰か教えて下さい。
(2003年7月)
真道重明
戦前の中央公論だったと思うが、歌舞伎の15代市村羽左衛門がロンドン興業で大人気を博した時、新聞紙に Uzaemon Ichimura と紹介されていた。ロンドンっ子が「ユーザイモン・アイチミューラー」と発音するのを聞いた羽左衛門は「アイチミューラーとは俺のことか?」と大笑いした云々と言う記事が載っていた。
次の文章は畏友山中一郎氏の私宛メールの一部である。
もう何十年も前になりますが,初めての米国滞在のときの印象で「アメリカも結構土地訛りがあるな」ということです。ことに旧メキシコ領のところは土地の名前は全部スペイン語で我々水産海洋関係者以外の外国からの来訪者で La Jolla を教わらないで「ラ・ホヤ」と一度で読める人は少ないでしょう。 Seattle も米人自身「スィア-ル」 (t はサイレント) という人もあれば「Seattl」と最初の se と a とを二重母音にして、しかも最初の「シ」にアクセントをつける人もいる。航空券を買いに行った旅行社の人が Chicago を「チカゴー」といっていたのに驚きました。私のイチロウを正しく一度で読める人はほとんどいません。「アイチャイロウ」、「イシロウ」 (これはフランス系のひと)、イタリアでは「イッキロー」と言った具合です。云々。
山中一郎氏のメールを読んで私はスペイン語圏のメキシコに技術指導に言っていた友人が日立(HITACHI)のことを「イタチ、鼬」と発音するので何度聞いても可笑しかったことや、冒頭の市村羽左衛門が「アイチミューラー」と呼ばれた記事を思いだした。
マリナーズの野球選手のイチローが一躍有名になったから、今は米国の野球ファンの人々の間では「イチロー」に統一されたかも知れないが、ローマ字で書かれた日本語は山中氏が言うように、相手次第ではその発音は元の日本語の発音とは「似ても似付かぬ」ことになる場合がある。
日本語をローマ字で書き表すには「ヘボン式」と「訓令式」の2っの方法があることはご承知の通りである。ヘボン式とは、幕末に宣教師として来日したアメリカの医師、James Cartis Hepburn が考案した表記法、訓令式というのは、1885(明治18)年に田中館愛橘が唱えた日本式にヘボン式の一部を取り入れたもので、1937(昭和12)年に政府が定めたものであることも良く知られている。
だが、訓令式は基本的には田中館の日本式であって、戦後の国語審議会による仮名遣いの改革によって両者の差はほとんどなくなったと考える人もある。 「シ」を前者では「si」と綴り、後者は「shi」と綴る。「チャ」は前者では「tya」、後者では「cha」と綴る。パソコンのワープロ・ソフトのIME(ローマ字入力仮名変換法)はヘボン式でタイプしても訓令式でタイプしても、「テイ」と「ティ」などの場合を除けば、同じ結果となるから殆ど両者の違いを意識しないで仕事が出来る。
学校では訓令式を教え、パスポートではヘボン式で表記せよと言うのはどう言う訳だか知らないが、ヘボン式にも問題がある。それは、これを作ったのがアメリカ人であるため、原則的には英語の読み方に従っているということである。chi は、英語では「チ」と読むが、フランス語なら「シ」、ドイツ語なら「ヒ」、イタリア語なら「キ」と発音したくなるようだ。漢字の読み方が日本と中国と韓国でそれぞれ違うように、ローマ字の読み方も国によって違う。
音楽家の猪間道明氏のホームページから1998年12月5日に書かれた面白い文章を2003年8月1日に見付けた。以下同氏の文章を引用する。
今度シチリアで演奏会をするために、私のプロフィールを求められましたが、これは当然イタリア語訳されて向こうに渡ることになります。私の名前も、ローマ字で表記されることになります。本名(猪間道明)をローマ字表記すると、もちろん「Michiaki Inoma」ということになります。・・・(中略)・・・
今日書きたいのは、ローマ字表記ということです。上の表記で、「ち」の音を「chi」という文字で表していますが、この書き方はヘボン式によるものです。・・・(中略)・・・ 戦後進駐してきた米軍兵士には、ヘボン式の方が都合がよく、そのため GHQ の指示によって、公式の場でのローマ字表記はヘボン式によるべきことが定められました。
そのこととは別に、戦前からずっと「日本語ローマ字化運動」というものを繰り広げている人々がおります。漢字仮名交じりという現在の表記は非効率的で日本の発展の妨げになるから、ローマ字で表記すべきだと主張する人々で、確かに、もし彼らの主張が通っていれば、日本人がローマ字表記を憶えるためには日本式の方が都合がよかったでしょう。
しかし、特に漢字仮名交じり文を改めることもなく、日本は現にここまで発展してしまったので、漢字仮名交じりが発展の妨げになるなどというのは根拠のないことであったことが明らかになりました。最近はローマ字論もだいぶトーンダウンしているようです。私の子供の頃は小学4年生で強制的に憶えさせられましたが、この頃はどうなっているのでしょうか。・・・(中略)・・・
ともあれ、日本式ローマ字綴り法はほぼ廃れ、ローマ字表記としては昔ながらのヘボン式が生き残っているわけです。「はら・ひろし」さんという名前の人がフランスに留学したら、フランスでは H も発音しないため、どう聞いても「イホシ・アハ」としか聞こえない呼ばれ方をして面食らったという話があります。
この場合、ラ行を L で表記していれば、少なくとも「イロシ・アラ」と聞こえる発音で呼んではくれたはずで、H が飛ぶ違和感はあるものの、R で書いた時に較べればずっと本来の発音に近い聞こえ方になったでしょう。
そして、ローマ字を使う他のたいていの国でも、la は日本人にも「ら」と聞こえる発音で読まれますし、lo も「ろ」と聞こえます。向こうも、la と書いてあるものを日本人が普通に「ら」と読んでも、そんなに違和感はないでしょう。しかし ra を「ら」と読むと、まずどこの国でも、日本人は R の発音が下手だ。と考えられてしまうことは間違いありません。
日本も大国となり、英語圏だけを相手にしていればよい時代でもなくなりました。そろそろ、140年近く英語にばかり準拠していたローマ字表記法を見直す時期なのではないかと思えます。 (1998.12.5.) 。以上が猪間道明氏の記事である。「そうだ、そうだ」と賛同する点が多く勉強になった。
大昔の日本語には文字が無かった。漢字が大陸から導入され漢字による日本語表記が始まり、次いで片仮名や平仮名が発明され、今では「仮名で」あるいは「仮名交じり漢字」で表記されている。ローマ字を使って表記することもできる。しかし、どの文字を使おうとも、それは日本語である。その場合「表記のルール」を使う人は知っていなければならない。とりわけ、どう発音するか?は「使う人が勝手に思い込んで居る発音では無く、「日本語ではこの綴りはどう発音するか」を学習して知っていなければならない。当たり前の話である。
死語であるラテン語を英国人は英語流に読み、フランス人はフランス語流に読むそうだが、これとは話が違う問題である。「当たり前の話である」と偉そうなことを言ったが、言語の音声学の専門家に言わせると「そんなに簡単なものではない」と叱られそうだ。
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多様な発音と難読の話 −
(2003年8月)
真道重明
市村羽左衛門がロンドン興業で「市村」、すなわち「イチムラ」を「アイチミューラー」と呼ばれ、羽左衛門が「アイチミューラーとは俺のことか?」と大笑いしたとの話を前に書いたが、中にはこのロー字の氏名は「一体どう発音すればよいのか」分からないものも良くある。タイ国の知人で名が「ARPONA」、姓が「SRIBBIBHADH」 と綴る人がある。名は多くの人が「アポーナ」とよむが、この姓の読み方は難しい。「スリブビーブハダー」と発音するのだろうか?舌が縺れそうだ。國際会議などでは決まって先ず「どう読みますか?」と何時も議長から彼は質問されていた。タイ人すらこのローマ字書きをどう読むのか分からない人々が多い。実は日本の仮名を使用して出来るだけ原語に似た音声を私が我流で書いて見ると、名の「ARPONA」は「アポーナ」では無く「アポン」であり、姓の「SRIBBIBHADH」は「 シュ ピッ パッ」である。
しかし、この「アポン ・ シュ ピッ パッ」、とりわけ、シュ ピッ パッ はタイ語を学習して居ない外国人には声調(tone)の問題がある上に、長母音・短母音・語尾の黙音などのため、発音がとても難しい。彼は「アポン・シュビバーと呼んでください」と答えていた。何故こんなことになるのか?原因はこの姓はサンスクリットに由来し、「サンスクリットをローマ字で表記する場合の原則に忠実に従った綴りにしたためだと本人は言っていた。
外国人の多く住むスクミット通りの歯医者さんに「Dentist Dr. Sut pid patt」とローマ字で書いた看板があったが、「Sribbibhadh」と「Sut pid patt」とは同じ姓でタイ文字で書けば同じらしいのである。ローマ字で書くとまるで別姓である。タイ人の名前をローマ字で表記する場合、人によって大きく異なる場合が多く、各人の好みで綴っているような気さえする。また表記を統一するような動きは無い訳ではないらしいが、異論百出で収拾が着かないらしい。
日本人が氏名をローマ字で表記する場合は、普通はヘボン式、ないしは訓令式による場合が大部分であろう。パスポートではヘボン式で書くように定められている。何れにせよローマ字綴りを読んだ外国人が日本語の発音に近い音で読んでくれることを期待しての話であろう。しかし、そう簡単にはいかない。英語を母国語とする人にはまあまあ良かろう。それでも市村は「アイチミューラー」に発音されることもある。そもそも英語では綴りと発音の関係が非常に複雑であり、英国人でも読めないことがある。
中国ではどうか?私などは学習当時に最もよく普及していたウエード式表記を習った。中国語を学んでいない人にとっては、ウエード式が原音に近く読めるような気持ちがするが、現在ではピンイン表記が国内では殆ど標準の方式となったし、国連の文書もこれを採用している。キーボードのアルファベットだけで変音記号などが無い。[だだし、声調を表記する場合に、1声にマクロン、2声にアキュートアクセント、3声にキャロン、4声にグレーブアクセントなどの変音記号を借用して付加することもある。またこれらの変音記号を使わないで、単字の末尾に1、2、3、4を付ける方法もある。しかし、何れにせよピンイン表記を読むには多少の勉強が必要である。例えば:-
山東省の青島(チンタオ)はウエード式では「CH’ING TAO」であるが、ピンインでは「QING DAO」と綴られる。ピンイン表記を学習して居ない人々は「Q」をどう読んでいいのか?迷う人が多い。浙江省の象山(シャンシャン)はウエード式では「HSIANG SHAN」であるが、ピンイン式では「XIANG SHAN」と綴られる。「X」や語頭の「Z」をどう読むかなどピンイン式は学習しない限り先ず読めない。有気音・無気音、また中国語特有の巻舌音などの区別をどうするか日本語より面倒である。ピンイン方式は考えて見ると中国語にとっては実に良くできていると私は思っている。
在る国の言葉を原音に近く読んで貰うことを期待する場合、万国表音文字で書けば未だしも、ローマ字で書く場合は、例えば日本語のヘボン式表記の場合の読み方、中国語のピンイン表記の読み方の知識が無ければ原音らしくは読めないのである。万人にこれを期待するのはそもそも無理である。
その上、例として日本語のヘボン式を取り上げるが、米人ヘボンの考案したこの表記法は英語を母国語とする人の産物であり、長音の概念がない。「Ote-machi」は「オテマチ」か「オーテマチ」か分からない。このような問題は何も日本語のローマ字表記に限らず各国語のローマ字表記に存在するらしい。何処かで妥協しより良い方法を模索しているのが現状であろう。
此処まで書いていたら山中一郎氏からのメール(下記の茶色と紺色太字の部分)が届いた。
終戦直後の米軍勤務のころ、米軍が作った「日本語の手引き」を見ました。ちゃんとしたローマ字でなく、{カタカナ米会話」の逆ですが、一例を挙げると次のようなものです。
Wah-tah-she-wa-, Harris goon-saw des.
Ming-gee knee ah rue ohkey tahtei moh-no wah nahn-dess.
鼻音の ng を一々表記してあるのを鮮明におぼえています。なる程と私は感心した。英語読みなら、「軍曹」は gunso と書くより goon-saw の方が日本人にはそれらしく聞こえるだろう。ケネディ大統領が1963年ベルリンを訪れたときの独逸語の挨拶の冒頭の一句に下記の文章がWeb上にあるのを見付けた。(明治大学教授遠山義孝 BRUNNEN 1990.3)。内容は以下の通りである。
ケネディが手にして読み上げた紙片: ish Froy_er mish in bear_lean sue zine. ish froy_er mish in Doich_lont sue zine. (下線は読み上げるとき強調する部分)。
ドイツ語の原文 : Ich freue mich, in Berlin zu sein. Ich freue mich in Deutschland zu sein.
和文訳 : 私はベルリンに来て嬉しい。ドイツに来て嬉しい。私はドイツ語は習ったが今ではスッカリ忘れている。しかし、朧気ながら発音は多少は想い出せる。ケネディはこの英語流の綴りのドイツ語の紙片をこのあと数行読み上げたあと、「私はドイツ語は不得手なので後は英語で話すことをお許し願いたい」と言って英語に切り替えた由である。ドイツ人聴衆に敬意を払ってドイツ語の音で冒頭の数句を喋った訳である。イッヒ( Ich )が( ish )になっている。
悪魔の言葉と揶揄されるほど英語の発音は難しい。英語の綴は英国人でさえ分からないことが良くあると言われる。バーナード・ショーは「FISH」は「GHOTI」と綴るべきである。その理由は 「rough」の「gh」 は「F 音」であり、「women」の「o」 は「I 音」であり、「nation」の「ti」は「SH音」である。だから Fish は Ghoti と書いても良い・・・と言う訳である。ショーは母国語の英語の読みが無暗に難しいのを一流の皮肉屋である彼は指摘している。「ドイツ語とスペイン語は外国人にも近づきやすいが、英語は当の英国人にとっても近づきがたい」(上記の遠山氏による)。
山中一郎氏からのメール(下記の茶色の部分)には、さらに次の文がある。
ローマ字について、かねて思っていることがあります。日本語のローマ字表記についての問題ですが、「ラ行」については日本式(訓令式)もヘボン式も「r a」、「r i」を用い、「l」 は日本語に無い音としていますが、私の欧米での経験では日本語の「ラリル・・・」はむしろ「l a」、「l i」 ・・・ に近いような感じがしました。
religion.rely.relation の発音練習をやらされましたが、「r」の方が舌やのどに特別の努力を必要としました.Hepburn 先生などどのようにお考えになったのでしょうか、それとも当時1850年代の日本人の発音がそうであったのでしょうか?Hepburn 先生は漢字で[平凡」とサインされていたそうですが、オードリーやキャザリンをこう呼ぶ日本人は余りいないのではないでしょうか。私自身は「オードリ・ヘボン」と呼んでしまいます。山中一郎氏が Hepburn 先生と書いてあるのは、Hepburn 氏が山中氏の母校の創立者の一人であるため敬意を表して「先生」を付けられたのであろう、ヘボン式表記の考案者のヘボンのことである。メールにある R と L の問題は私も同意見である。日本人は L 音の発音が出来ないと言う迷信があるように思う。日本語のラ行音は「一部少数の人は(英語の場合の) R か L の何れか、また多くの人は両者の中間音で発音しているように思う。ある私の友人が「ヘチマコロン」と言うとき、「ロ」の音が明らかに L 音なのでこのことに気が付いた。日本語の音韻研究者もこの「L説」を支持する人が多いようだ。
私が多少勉強した中国語では R音 と L音とはハッキリ区別されている。「林」・「利」・「里」などは L音、「人」・「日」・「如」などは R音である。しかし、この R音は巻舌音という特殊な音であり、英語やイタリア語の R音とは異なる。おまけに「児」という字は北方方言では非常によく使われるが、この発音は L から R に舌が移動するような感じで、音を聞くと R のようでもあり、L のようでもある。R と L の区別(英語の世界で考えての話)は中国人も練習しないと難しいようだ。このような音韻体系の言葉は色々な国にあるようで、日本だけではないと私は思っている。
日本語のローマ字で 私は時々「いっそのこと 他のローマ字国のように変音記号を導入したらと考えます。日本式では長音を示すのに山形の変音記号が制定されましたがいつのまにか消えてしまいました。ドイツ語のウムラウト、フランス語のアクサン、スペイン語のチルダ、イタリア語でさえ e を and と is の区別のためアクセント記号をつけます.エスペラントも子音と変化を山形記号で示していることご存知のとおりです。思い切って日本語のローマ字も サ行タ行、など混同しやすいところに変音記号を導入したらと思います。とんでもないと一蹴されましょうが。
上記も山中氏のメールにある。日本式(訓令式)では日本語の長音を示すのに山形の変音記号(拡張ローマ字のサーカムフレックスアクセント)を今でも使うことになっているようで、「何時の間にか消えてしまった」のは、ヘボン式に圧倒されて人々が混乱したためかも知れない。伊藤を「ITO」と書くと「イト」か「イトー」か分からないので、「ITOH」と書く方法が流行っているが、日本式では使わないよう勧告しているようだ。
日本語の場合、若干の変音記号を使うことで随分スッキリすると思う。しかし手書きの場合は良いがパソコンでは記号の入力が面倒なので、現状の侭なら使われないで無視されそうだ。調べてみると拡張ローマ字は大文字と小文字を併せて224文字(2003年2月現在)が国際的に決められている。チルド(文字の上に付く〜)などはパソコンのキーボードにあるが、パソコンでは特別の意味があるのでややこしくなる。日進月歩の「I T」化時代、今後どうなって行くのだろうか?
話が興味の向く侭に彼方此方に飛び回って何を論じているのか自分でも分からなくなってしまった。これを「乱文不一」と言うのだろう。
− 年号が好きなのは日本だけ? −
(2003年8月)
真道 重明
今年は西暦では2003年、仏暦では2546年、皇紀では2663年、(みずのとひつじ)、「平成15年」である。
この「平成15年」というのは年号であり、役所に提出する「届け」などの書式にはすべてこれが使われている。私の偏見と独断で言わして貰えば、この年号と言うのは年を表すニックネームだと思う。いわゆる「あだな」、漢語では渾名・綽名などと書くあれである。「あだな」は親しみを込めて呼ぶもの、愛称、なかには蔑称もあるが、年号の場合はその年代の希望と期待を込めた称号である。
私の素人考えでは歴年を表すには二通りの方法が在り、一つは世の中にきわめて重大な出来事(例えば釈迦の入滅やキリストの生誕、神武天皇の建国など)があった場合、それから起算して年を数える方法、もう一つは上述のニックネームで、王位を継承した年にこれを祝い、期待や願望を込めて縁起のよい名前を付ける場合などである。西暦・仏歴・モスレム歴・皇紀などは前者、日本の元禄・寛永・明治・平成などや、中国の建元・康煕・宣統などがこれに当たる。
前者は2000年以上継続して勘定されているものが多いが、後者は在位期間が1年から数年、ないし大災害などが在ると厄払いに新しい年号に代えたりしたから夥しい数にならざるを得ず、幾つかの年号を跨る期間の年数の計算などには極めて不便である。
台湾では今年を「民国92年」としているが、これは年号ではなく、辛亥革命により中華民国が成立した西暦1911年を元に起算して居る年の数である。中華人民共和国では建国以来、「年号制を廃止」し、西暦(公歴と呼んでいる)を用いることを法規で定めており、韓国も法律によって歴年を表示するには西暦を用いることと定め、「年号」を廃止している。北朝鮮も多分同じだと思う。(北朝鮮にはチュジェ○○年という歴年の呼称があることを I.Y氏からご教示があった)。
日本だけが年号制を維持し続けている。恐らく年号制が社会に広く浸透し多くの文書に使われている。この現象は世界広しと言えども日本一国だけでは無かろうか?それほど日本社会は多分「年号」が好きなのか、または余り考えることもなく、ただ習慣的に惰性で使ってるのかもしれない。
私は朝日新聞を取っているが、発行された歴年の表記は上段欄外に「2003年(平成15年)10月2日」などとしている。すなわち歴年は太字で記載し、年号は括弧で包んで(平成15年)などと歴年の後に細字で併記している。年の表示は西暦を基本とし太字とし、年号は参考までと言う気持ちで細字としているように私には思える。
NHKのテレビやラジオでも「今日は何の日?」と言った番組では西暦を使っている。年号では前後関係が分からず、時間間隔も判断し難いからであろう。
海外の国際機関に勤務した経験のある私は西暦でものを言わないと相手は戸惑うから西暦という物差しが頭にこびり着いてしまい、昭和何年と言われてもピンと来ず、換算表を見なければならなくなってしまった。ちょうど通貨と同じで、帰国した当初は日本円で書かれた物の値段を、慣れていた勤務国の通貨に一度換算しなおして見ないと「高いか安いか」の見当が付かなかった。通貨は帰国後数ヶ月で慣れたが、年号の方は未だに戸惑う。
日本国内における年の表示に関するこの二重基準(ダブル・スタンダード)は歳を取って呆け掛かっている私には面倒で仕方がない。「頭の悪い奴は手に負えない」と一喝されればそれ迄だが…。
何とか良い方法は無いものだろうか?
【余談】皇紀は戦前まではよく使われていた。「紀元は2600年」の祝賀の歌も憶えている。確か1940年(昭和15年)のことで国を挙げてのお祝いであった。戦後は何故かあまり見掛けない。日本歴史学会では起算の根拠となる神武天皇は実在の人物ではなく、年数も数百年食い違うとの説を取っているそうだ。そのため使われなくなったのだろうか?
そういえば、西暦だってキリスト生誕の年は世界の専門家の人々の研究結果ではかなりズレて居るという。それらの問題は専門の研究者に任せればよいと私は思う。
実用問題としては根拠の科学的考証ではなく、グローバル社会に進みつつある現在、「何らかの共通の物差し」が必要で、それには最も実績のある西暦が良かろうと思うのだが、どうであろうか?。
【I.Y 氏からのご教示】 ホームページを見たI.Y 氏から「北朝鮮には『チュチェ何年』という歴年表示が行われている」とのご教示があった。Web を調べた結果、その通りであり、下記の記載があったので、私の書いた「北朝鮮も多分同じだと思う。」は誤りである。
『金日成主席の逝去3周年に際し、7月8日付で発表された朝鮮労働党中央委員会、同中央軍事委員会、共和国国防委員会、同中央人民委員会、同政務院の決定書「偉大な領袖金日成同志の革命生涯と不滅の業績を末永く輝かせるために」によって制定。主席の誕生した1912年をチュチェ1年とする。共和国創建記念日の9日から使用開始。同決定書は同時に、主席が誕生した4月15日を太陽節に制定した』とある。(Web 海外業務部 Tokyo Outosourcing Co.)
真道 重明
2004年12月
中国語の「吃飯了麼?」(ツー・フアン・ラ・マ、ご飯食べたか?)は「尓好」(ニイ・ハーオ、「やあ−」とか「今日は」)と同じ感覚で使われる親しい間柄の友人間で使われる日常の挨拶語である。挨拶に「飯を食べたか?」と云うなんて「失礼きわまり無い、無作法にも程がある。それとも余程飢えているのか?」と揶揄し嘲笑する日本人が戦前は居たが、そう思うのは不見識であり、かつ、大いに間違っている。
これと全く同じ表現は中国だけではなく、いろいろな国にある。私が10余年居て言葉が多少は喋れるタイ国では「今日は」の挨拶に親しい仲間同士では「キン・カウ・ルウ・ヤン?」と言う。本来の言葉の意味は「御飯を食べましたか?それとも未だですか?」である。また、ハングルでは「パッモゴッソヨ?」と云うらしい。調べればその他の国にも数多くあるようだ。
しかし、私の知る限り日本ではこのような言い方はない。しかし、兵庫県の香住地方の方言では「ゴッツオ(ご馳走)ありますか?」は「今晩は」の代わりに良く言う挨拶語だと友人の故木部崎修(キベサキ・オサム)君から聞いた。
考えようによっては「ゴッツオありますか?」の方が無作法極まり無いようにも考えられるが、そう思うのも間違っている。大体、挨拶の言葉は何処の国の言葉にしろ簡略され、本来の意味は薄れて単なる慣習的な口癖?となっているものが多い。この吃飯了麼もそうである。
渡辺利文という人の「落日の景」と題する句集に「国がらが変わりし故か 吃飯了麼(ツフアンラマ)が尓好(ニイハオ)となる 明るきはよし」と云うのが在った。中華人民共和国となってからは「昔の挨拶語が明るい言葉になった」と云う意味だと私なりに解釈した。渡辺利文と云う人を私は知らない、他の句から察して旧満州(現在の中国東北部)に長く居た人らしい。この人によると「吃飯了麼」は明るくないのだろうか?確かに今では「尓好」は様々な局面で実によく良く使われる。だが、同氏の気持ちを(私なりに受け取ったのが間違いでなければ…の話だが)、問題は「明るい」とか「暗い」と云った語感の話ではない。
吃飯了麼と声を掛けられたとき返す言葉は、食べて居ようが居まいが、必ず「吃過了」(ツー・グオ・ラ、食べました)と云わねばならない。タイ語の場合も必ず「キン・リアオ」(食べました)である。ただの挨拶語だから、本当に相手が「食べたか食べていないか」を問うて居るのではないからだ。
若し、「未だ食べていません」と答えたら、相手は「冗談を云っている」と思うか、もしくは「どうした、何処か身体でも悪くして食欲が無いのか?、それとも…腹を空かしているのか?」と心配するか、の何れかである。後者の場合は挨拶語では無く、本来の意味の言葉の遣り取りである。
ハングルでは上記のように「パッモゴッソヨ?」と挨拶語として云うらしいのだが、若し相手が「食べてない」などと云ったら、ビックリして早速その人のために ご飯を準備してくれるほどだと云っていた。この場合も挨拶語では無く、本来の意味の言葉の遣り取りである。事情は中国やタイ語の場合と全く同じである。
ちなみに、中国でも広東語(私は少しは習ったのだがスッカリ忘れている)では「やあ!」、「どう?」と云う挨拶語に「食飽未?」(チャー・パー・ボェー)と云うらしい。原意は「ご飯食べましたか?」だそうだ。
とにかく、挨拶語は永年の習慣が変化して単純化、短縮化しているから理屈では変なものが多い。日本語でも、「やあー、何方へ」、「いや、チョット其処まで」、「では…」などだ。何処に行こうと余計なお世話だ。また「チョット其処まで」ではサッパリ何処へ行くのか判らない。双方とも「では…」と云って別れる。「では…」と云うのも一体何が「では」なのかサッパリ判らない。しかし、双方とも納得している。
タイ語でも同じだ。男が女に「何方へ」(パイ・ナーイ・クラップ?、クラップは男性が語尾に付ける丁寧語)と道で会って声を掛ける。相手の女は「彼処まで」(パイ・ティ・ノン・カー、カーは女性が語尾に付ける丁寧語)と答えている。「彼処(そこ)」とは「何処」だか男にはサッパリ判らない。それでも二人は納得して別れる。日本語の場合と同じだ。元々行き先を本気で尋ねて居るのではない。何処だろうが構わないのだ。挨拶として声を掛けただけなのだから。
真道 重明
2005年4月
Mandarin (マンダリン)と云う英語は広辞苑によると「中国、清朝の高等官吏。中国の公用語。官話。中国原産の蜜柑」と出て居る。小学館の国語大辞典では「ポルトガル語の mandarim 、中国清朝の官吏。英語 Mandarin、中国の公用語。標準華語。実の色が清朝の高等官吏の服と同じところから、中国原産のミカン」と出て居た。このミカンはポンカンのことであり、温州蜜柑ではない。私の知識は従来この程度であった。そして常々何故 Mandarin と言うのか語源に疑問を持っていた。
岩波書店には、絶版では無いが、在庫が無かったので友人にお借りした梅棹忠夫著「実戦・世界言語紀行」(岩波新書、205)を読んでいると「マンダリンは 満大人 (man3 da4 ren2 マン・ダー・レン) の訛った言葉であると言う説がある」という意味の記述が眼に留まった。「成る程!」と目から鱗が落ちた感じであった。
「多分陳瞬臣氏だったかと記憶するが、同様の説を唱えて居られる」と云う人もある。好奇心に駆られた私は素人芸ではあるが調べ始めた。小学館のプログレッシブ英和中辞典 第2版 (1987)に依ると、@ 旧中国の官吏;時代遅れの官僚,要人,党首.。A 標準中国語;北方中国語(特に北京官話).。B ポンカンの実;その木 (mandarin orange)、(大まかな用法で)ミカン. ⇒TANGERINE。C .だいだい色(の染料)。D ━ adj、格式ばった,保守的な : a 〜 style 凝った文体。とある。この最後の C の説明は面白い。
尺牘文(手紙文)など古典を駆使した文語体は欧米人から見れば保守的な凝った文体としか思えなかったのだろう。私の拙い白話文(口語文)の原稿を友人の父親が清朝の遺臣だった人に添削して貰ったら、簡潔な見事な文語文になっていたのに感心した経験がある。また、これは余談だが、ある人は「mandarin orange は中国産の柑橘類全般を指す」と言い、また他の人は「青い蜜柑」を指す…などと諸説が混乱している。
気に掛かったのは冒頭のポルトガル語の mandarim と云う言葉である。何故ポルトガル語が出て来たのか?調べている内に次の記述が在った。すなわち:−
[マンダリンはポルトガル語から英語に入りました。もとは、マレー語で「官吏」を表す語です。さらに語原を遡れば、サンスクリット語の mantrii (顧問、高級官吏の意)の俗語形に由来します。これが、アジアにやってきた西洋人が中国人官僚を指す語になったようです云々]。若しそうなら、満大人 (マン・ダー・レン) の訛った言葉であるというのは間違いで、その語源はサンスクリット語と言うことになる。サンスクリットの mantrii は「マントリー」と発音するのかどうか知らないが、私が少し噛ったタイ語では、大臣を「ラチャ・モントリー」、首相を「ナヨック・ラチャ・モントリー」と云う。タイ語にはパーリ語やサンスクリット語など古代インド語からの借用語が多いから、高級官吏といった意味から考えても mantrii と関係が在るのは先ず間違いなさそうだ。
少し噛ったタイ語との関連もあり、その事を知って私は嬉しくなった。そして、「満大人」説は、単なる発音が似ていることから憶測したことで、どうもこれは誤りではないかと思うようになった。★ 誰かご意見をお持ちの方があれば是非ご教示願いたい。
追 記
調べている中に上記とかなり重複するが、以下の文章に出会った。すなわち:−
「満大人 → マン・ダー・レン → mandarin」説は興味深いのですが満洲族の高官が果たして漢族の言葉を話していたのか若干気になります。勿論、時代が下がるにしたがって満洲語は廃れていきましたが。
ところで普通「マンダリン」という語はマラッカ帝国の貴族層「ムントゥリ」がポルトガル語に入って「マンダリ」となり、後に英語で「マンダリン」と発音されて東方の王国の官吏、すなわち特に清朝の高官を指すようになったのであると説明されます。元の「ムントゥリ」自体がさらに西方起源の言語に基づいているらしい点からすると、この語自体、極めて歴史的な単語であるという気もしますね。これは旅行関係のホームページのBBS(掲示板)の匿名の書き込み記事である。かなり言葉に詳しい人らしい。マラッカ帝国とは現在のマレーシアが英国の植民地になる前の国名である。なお、北京の故宮を始め清朝時代の建物の扁額には漢字と共に満州語の文字(蒙古語の文字を手直しした文字)が併記されているのはご存じの通りである。清朝時代には公用文字であったが、清朝没落以後は急速に廃れたと言われる。
公用文字である以上、満洲族の高官は当時は当然満州語を喋っていたのだろうが、扁額に漢字が併記されていることから、中国語(この場合は北京語)も喋っていたに違いない。これは私の勝手な独断であるが、建国当初はいざ知らず、次第に北京語の方が多くなってきたのでは無かろうか?武力では漢民族に勝っても文化の面では漢民族が遥かにレベルが高く、その広大な支配地域の大部分は漢民族だったのだから、中国語を話せなければ支配は出来なかっただろう。
また、以下の文章にも出会った。要約すると:−
19世紀?に中国にやって来た英国の貿易商人(前身は海賊、後にはアヘン密売人、後には公然たるアヘン商人)たちが、交渉相手にした清帝国の官僚を、買弁たちに「あれは何者だ」と聞いたところ、「満州族の旦那様」(満大人、すなわち音ではマンダリン)と教えられた。そのマンダリンの話す言葉が、Mandarin という訳…。
歴史書によると、英国の貿易商人が中国にやって来たのは18世紀末である。時期は兎も角として、この話はまるで「その場に居合わせ、見てきた」ように面白く、如何にも本当らしい。しかし、前項の説が正しいなら、これは作り話である。なお此処で言う「買弁」と言うのは、中国にある外国商館・領事館などが、中国商人との取引の仲介手段として雇用した中国人のことで、中華人民共和国が成立してからは完全に消滅した。
蛇 足
Mandarin (マンダリン)と言う英語はその由来から言えば清朝時代の役人が使った公用語(北京官話)だったのだろうが、現在の英語で Mandarin Chinese と言えば中国の標準語、すなわち、中華人民共和国の普通話(プー・トン・ホァ)、台湾・香港・シンガポールの中国系の人々の言う国語などを指すものと思われる。
漢字の字体は簡体字や繁体字と異なっても、何れも北京官話に由来し、殆ど共通して居る。私が65年前に東京外語で習ったのは巻舌音の多い北京官話であった。今の普通話は北京方言の特殊な音を除いた他の各地方の人にも発音し易いように配慮され、いわゆる共通語であると私は理解している。
尤も、厳密に言うならば台湾の標準語は「台湾国語」と呼ばれたりするようだ。基本的には北京官話に由来するが、普通語と較べると同じ熟語でも使用頻度に差がある。例えば大陸では「信息」と言う場合が多く、台湾では「資訊」と言う場合が多い (何れも日本語の「情報」の意) などである。また、台湾ではミン南語や客家語の影響があるとも言われている。上記の「資訊」も大陸の厦門(アモイ)では台湾に近いせいかホームページなどに資訊網などの名前が多いようだ。
シンガポールの台湾料理屋で「多講国語、少講方言」というポスターが貼ってあったが、客家語や広東語を喋る人が多いシンガポールではこれらを方言と言っているのだと思う。そう言えば北京官話自身が満州語の影響を受けていると物の本にあった。言葉は生き物である。英語の Mandarin はこれら総てを指すものと考えられる。
「テクテク歩く」とはどういう歩き方?
分かったようで解らない言葉
真道 重明
2006年4月
分からないのに何気なく聞いたり読んだりして平気でいる言葉が私には沢山ある。私だけではなく誰にも幾つかは在るのでは無かろうか?。それが誤解で間違っているため問題になる場合は困るのだが、「どうでも良い」場合もかなり多い。
「どうでも良くない」場合もある。名前は伏せるが友人から受け取った手紙に「気候も暖かくなり桜も満開、春情を催す季節となりました」と前書きの挨拶文に書いてあった。春情には「春情に満ち…」などと「春景色」の意味もあるが、「春情を催す」と云えば「色気づいた」、「色情が盛んになる」の意味になるから、これは不味い。
有名な歌手が、「故郷」の歌の「♪兎追いし、かの山…♪」を、30歳近くなるまで、「♪兎美味し、かの山…♪」 とばかり思って居た」とテレビで言っていた。あの山で獲れる兎は美味しいという訳。また他の歌手は、「赤い靴」の「♪異人さんに連れられて… ♪」を「♪ひぃじいさん(曾祖父)に連れられて… ♪」と思って居たそうだ。
私も「赤とんぼ」の歌の「♪負われて見たのは…♪」を「♪追われて見たのは…♪」とスッカリ最近まで思い込んで居た。「背中におんぶされて…」を、「蜻蛉に追っかけられて…」と思い込み、とても恐い蜻蛉、多分オニヤンマだろうと考えていた。「蜻蛉が恐いなんて変だなー」と心の隅ではチョット思っては居たのだが…。
この手の誤解は本人自身のことでもあり、「どうでも良い」ことだ。分かれば「そうだったのか、成る程!」で済み「目から鱗が落ちた」と「ヘェー!」と思うだけだ。
私は常々気に掛かる副詞が一つあった。それは「テクテク歩く」の「テクテク」とはどんな歩き方を指すのだろうか?という疑問である。例によって広辞苑で調べてみた。「徒歩であるくさま」とある。そこで「徒歩」を引くと「乗物に乗らず歩くこと。かち。かち歩き。」と出て居る。これでは答にならない、ただ「歩く」だけだ。
そこで「てくてく、テクテク」を岩波国語辞典第六版でしらべたら、「副詞、(乗物を使わず、遠くまで)歩き続けるさま。」とある。「成る程!チョットした距離を歩くのではなく、かなりの距離を歩く場合がテクテク歩きなのか!」。
「ヨチヨチ歩き」、「ヨロヨロ歩き」、「ヨタヨタ歩き」、「ブラブラ歩き」などはイメージが直ぐ浮かぶ。テクテクは歩く恰好ではなくて「距離なんだ!」と知った。私は歩く恰好だとばかり思って居たから分からなかったのだ。そこで恰好・距離・速度…などで分類して見た。この分類はきわめていい加減なものだと思いつつも…。
【恰好の形容】 ヨチヨチ、ヨロヨロ、ヨタヨタ、フラフラ、ドッシドッシ?、チョコチョコ、
【速度の遅速】 ノロノロ、セカセカ?、ソロソロ、
【態度や様子】 スタスタ(脇目も振らずに…)、セカセカ(忙しそうに…)、ブラブラ、
【距離の長短】 テクテク、
「だが待てよ」、昔、大正時代に石田一松が作詞した「酋長の娘」という歌が大流行し、昭和期の戦前まで学生仲間は良く歌った。その歌詞の中に「椰子の木陰で、テクテク踊る」というのがあることを想い出した。
この「テクテク」はどういうことなんだろう?。「テクテク歩き」と同様、「テクテク踊り」はチョット短時間踊るのではなくて、長時間踊り続けることなのか?。驚いたことにこの「酋長の娘」に関しては Web 上に実に多くの記事や論証が出て来る。しかし、「テクテク踊る」の説明は、自明のことなのだろうか、何処にも出て居ない。分かったような解らないような…、私だけかも知れないが、もう一つスッキリしない。
「閑人だなぁー」と思われるだろうが、何かコメントがあれば是非お知らせ願えると幸甚。