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MyGuitar

My Guitar

 

真道 重明

                                      2011/05/26.

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Mokuji_Guitar

目次

はじめに
戦後買ったギター
ギターと中国の琵琶
触ったその他の楽器

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HajimeniGuitar

はじめに

 

は旧制中学の一年生の秋から古典ギターを独学で学び始めた。今年が米寿だから76年も前の話である。当時はクラシック・ギターの教則本は未だ極めて少なく、タレガ(タルレガ、タ−レガとも云う=Francisco TARREGA 1852/11/21 - 1909/12/15]スペインの作曲家・ ギター奏者 )のギター教則本以外にソルフェルナンド・ソル= Fernando SOR  [1778/02/13 - 1839/07/10]、スペイン・バルセロナ生まれの作曲家)の教則本などが二・三冊ある程度、それもただ五線譜の楽譜のみで、言葉による何の解説もなかった。

当時(今もそうらしいが)、その中でもマッテオ・カルカッシMatteo CARCASSI1792 - 1853]、イタリア出身のロマン派の作曲家、ギタリスト)の教則本が最も良いと店から薦められてこれを買った。此れには多少の日本語の説明文が書いてあった。


1930年代の6年制の尋常高等小学校には「唱歌」という課目があり、次に進学した5年制の旧制中学校では、一・二年の低学年に「音楽」という課目があった。都合8ヶ年も習っているのに、楽譜の読み方について習った記憶が私には無い。中学校では教科書すら無かったように思う。上級の学校の進学するための「英数国漢」(英語・数学・国語・漢文)に重点が置かれ、情操教育の音楽などはどうでも良かったように思う。

余談だが、最近検索してみると、「楽譜を読める」と思っている人に関するアンケートでは10%前後、思っているだけで読めない人の実数は、もっと少ないようだ・・・とある。義務教育なのに、九九や文字ほどの成果がないとのこと、識字率99%>読譜率10%?とある。

また、別の或るサイトには年齢別のアンケート調査「譜面を読めるか否か?」の調査結果では、若い人ほど読める人が多く、60歳代以上は「譜面を読めるか?」の質問に無回答で、一人も返事がなかったそうだ。

曲と楽譜とは言語と文字のような関係にあるから、文字が無くても、または文字があるが文盲で読めなくても、言語は喋れるのと同じで、楽譜が読めなくても歌は歌えるし楽器を演奏することは出来る。ただ思い浮かんだ曲を書き留めたり、聴いたことのない音や声を聴いたことのない新曲などを唱ったり演奏することは出来ない。勿論、楽譜は読めるに越したことはない。

「ソルフェージュの本が在ったらなー」とツクズク思う。最初、ト音記号のハ長調のものから始まりヘ音記号、ヘ長調 (一つ) ト長調 (一つ)という具合に発展していくものが殆どなので最初の段階で、難しすぎ難解と感じることはない。また、リズム的にも四分、八分中心に始まり、三連符、シンコペーション、16分音符という具合に発展していくので、段階を追って理解していくから解り易い。何故、学校で此れらを教えなかったのだろう?。

此処で楽譜と云っているのは中学校で学ぶべき筈の(西洋)音楽の「ト音記号の付いた五線譜」を指す。旋法、musical mode、、旋律 Melody など私の理解する音楽理論はいい加減なものだから述べない。話を本筋に戻す。


中学校一年の同級生に心斎橋の大きな楽器屋の息子が居たので、その店なら価格を少しは負けてくれるだろうと思い、父と二人で赴き其処でギターを購入した。店にあるギターは総てイタリアかスペイン製の物ばかりだった。伸び盛りの子供の練習用には、バイオリンなどと同じくサイズが一回り小さいのがあり、ケースや楽譜台や調子笛、ガット線(当時は未だナイロン線はなかった)などと共に上記の教則本を一冊購入した。

父は趣味でバイオリンを弾き、母は箏を弾いていた。私はセコビアの弾くトレモロ練習曲「アルハンブラ(宮殿)の想い出」(Recuerdos de la Alhambraを聴き一度で魅せられ、以来のめり込んでしまった。

コード(和音)ばかりを弾く伴奏楽器と思っていたギターが、この様な独奏楽器になるのにも驚いた。モーツアルトも若くて貧乏なときにはピアノが買えずギターで作曲していたのだそうだ。当時は未だエレキ・ギターは存在せず、胴体のサウンド・ホールから覗くと中に紙が貼ってあり、イタリア語らしく、読めなかったが、ただ、ローマ字で書かれた「ITALIA」 の文字だけが読めた。

購入した当時の「カルカッシのギター教則本」は僅かな説明文の外は楽譜ばかりの羅列であり、詳しい説明は書かれては居ない。独学者向けの入門書はなく、知っている人から習うことを前提にしていたのだろう。

「バイオリンの第一歩」や「撥弦楽器入門」と云った題名の本を読み散らして居る内に何だか分かって来たように思えた。今から考えるとこれは大間違いで、たとえそれが趣味であっても「何事も最初が最も大切であり、先生に就くべきであった」が、中学の学業があるし、その時間も授業料のお金もなかった。

少し低めの椅子に座り、多少「前屈み」になって、左足を小さな足台の上に置き、楽器の瓢箪型のぐびれの凹みを左太腿にあわせて置き、左肘で抱きかかえるようにすると楽器は固定され、弦をかき鳴らす左手の五本の指、弦の勘所を押さえる右手の各指は棹の背面中央に置く親指を除き、指は自由に動かせる。

本格の独奏楽器としてはこの姿勢はクラシック・ギターにとっては極めて重要である。楽器をベルトに結びつけて首から吊り下げ、左指にピック(爪)を持ち、演歌やソングライターなどを弾き語りする今の多種多様なエレキ・ギターなどと呼ばれるものとは非常に異なる厳しいお行儀が要求される。エレキはエレキで、また、それなりに面白いけれども、あの大音響で「テケ・テケ・テケ」と云う音を聴くと思わず私は耳を塞ぎたくなる。音楽としての風格はクラシック・ギターには遠く及ばないと私は思っている。

 

     

Matteo CARCASSI1792 - 1853]     小型と大型のクラシック・ギター

楽器類は先生に付くと独学との如何を問わず、「おおよそ15年続けば一生手放さない」と良く云われるが、私の場合は50歳になって国際機関のSEAFDECに赴任する時携行しなかったから、約36年間はギターに触れていたことになる。

それにしては、一向にパッとしない(笑い)。尤もその間には「本来の仕事が多忙だったり、兵役などで触れる暇がなく、または触れることが出来ない時期」が在ったりした。先生につけたのは戦後復員して国立研究所に就職してからであり、すっかり独学の悪癖が身に付いてしまていた時である。大人用の大型楽器を買い、第一歩からの叩き直しだった。

フランス映画で大ヒットした「禁じられた遊び」の背景音楽に前編を通して使われた「愛のロマンス、Romance de Amor, ROMANZE D'AMOR」(スペイン民謡)などギターを知る人は誰でも口吟むが、最初の部分は開放弦が多く、入門曲の一つとなっていることが多いが、転調してから後は難しくて手に(右手の指に・・・と云うべきか)余る。私のギターの奏法技術は先ずそんな処だ(笑い)。

伴奏楽器としてコード(和音)を押さえてリズムを取るのとは違い、クラシックのソロの曲を独奏楽器として演奏するのは多くの楽器類の中でも難しいものの代表とされて居る。ピアノやアコージョンのような鍵盤楽器のように易しくはない。左指は弦を弾くため爪を伸ばし、弦を押さえる右指はフレットに掛からないように爪を短く切っておかなければならない。その上、アポヤンドやアルアイレなどの指使いなど現在では沢山の解説が在るが、75年前、私が中学生になって始めた頃は解説書は先ず何も無かったように思われる。

当時ギターばエレキなどは無い時代だから、総てがアコースティック (自然音)でクラシックの曲などを、取り分け録音でない「生演奏」を聴くと鳥肌が立つぐらい感動した。椅子に座らず起立したままで弾くフラメンコなどはクラシックとは言わなかったが、レコードやラヂオで聴くだけで譜面は無かったようだ。

 

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GuitarTuzukeru

戦後に買ったギター

 

本の敗戦により戦地から復員してまず最初の問題は喰うための就職であった。中学生時代から趣味として手掛けたクラシック・ギターを考慮する暇は無かった。長崎市内に新設された国立水産研究所に何とか落ち着いてから同市内の目抜きの大通りである「浜町(はまんまち)」に在った大きな楽器店(店名は藤田楽器と云った、今は無い)で日本製のクラシック・ギターのやや大型のものを購入した。

現在の長崎市内には、ヤマハやカワイなどの大手楽器メーカーがピアノ教室を開いたり、楽器屋も増えスッカリ様子が変わったが、敗戦後10年足らずの当時は楽器店も少なかった。この店の二階にクラシック・ギターを教える部屋があり、数人が受講しているとのこと。其処で私は初めてギターの先生に付くことになった。既述のように独学で身に付いた悪癖を取り去る仕事第一歩からの叩き直しだった。

週に二回、午后7〜8の2時間、本業の方は学位論文を取り纏めると云う最も大事な仕事の真っ最中。にも係わらず、大きなギターを入れたハード・ケースをイソイソと抱えて自宅から電車で通うのを見て、「よくやるなー!」と冷やかされた(笑い)。1950年頃の話である。

50歳(1957年)にタイ国のバンコックに本部のあるSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)事務局に次長として赴任する時、ギターは赴任のための持参荷物に入れなかった。十数年の海外生活が始まった訳だが、日本を留守にしている間に息子がそのギターを弄くり始め、帰国したときには私の手元からそのギターは消えていた。

その後はギターの演奏会などには聴きに行っても、ギターに触れることはなかった。だから、私のギターに触った期間は13歳から50歳までの約40年間弱と云うことになる。勿論、古典ギターの名演奏の録音テープ、CD、DVDなどは海外にいたときも、また、帰国してOBとなった今も良く聞く。

 

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Guitar&ChinesePIPA

ギターと中国の琵琶

 

琵琶というと日本人は大きな撥(ばち)で奏でる薩摩琵琶や筑前琵琶、弾き語りの平家琵琶、中には正倉院の螺鈿を埋め込んだ御物を思い出すだろう。楽器としての形は似ているが中国の琵琶(pi2 pa2, ピー・パー)は普通は撥を使わず、左手の五本の指先をその侭、または爪を附けて弦をかき鳴らす。

音色は日本のそれとは大きく異なり、洋楽器のギターに極めて近似している。最近のものは特にリュートやギターの影響を受け特に似ているし、右手の弦を押さえる様子など技巧的にはギーターとそっくりだ。西洋旋律に基づくギターやピアノとの合奏は最近は大流行りで、違和感は全くない。日本の琵琶とは大きく異なる。

音色は日本のそれとは大きく異なり、洋楽器のギターに極めて近似している。最近のものは特にリュートやギターの奏法の影響を強く受け特に演奏を聴くと非常に良く似ているし、右手の弦を押さえる様子など技巧的にはギーターとそっくりだ。西洋旋律に基づくギターやピアノとの合奏は最近は大流行りで、違和感は全くない。日本の琵琶とは大きく異なる。

構造上大きく異なるのはフレットで、ネック(棹)の表面に金属細線を埋め込むギターに対し、中国琵琶では日本の琵琶同様、下駄の歯を立てたような仕組みになっている点、及びギターにあるサウンドホールが無い点であろう。なお、クラシック・ギターは斜めに抱き、一方、琵琶は垂直に立てた形で抱く。

左の図は最近中国で良く使われているものでフレットはサウンドホールが無いので下まで広く配置されている。

中国琵琶は日本の平家琵琶などと同じく、弾き語り式に物語を台詞と共に演奏する場合も多いが、独奏か他の楽器との協奏される場合が多く、ギターのように和音コードのみの伴奏楽器としては殆ど使われないようだ。

上海でテレビで視た弾き語りの琵琶は女性の有名な奏者と云うことだったが、琵琶を横に抱いていたように記憶する。呉音(南方音)の上海語(寧波語)だったので意味はサッパリ分からなかったが、日本の浪花節ではないが、話が面白いため中々人気のある番組だったようだ。

それはさて置き、繰り返すようだが中国琵琶の演奏を聴くとギターの音曲に極めて良く似ている。巨大な撥(ばち)を使う日本の琵琶とは全く異なっている。

 

最近日本でも大流行りの中国の「女子十二楽坊」は、中国及びアジアの伝統楽器を使用し、演奏分野は、ポップ・ミュージックからクラシック音楽、中国民族音楽までと幅広いが、琵琶は大活躍している。「張 爽」、「趙光瑾」 その他2〜3名等が琵琶を担当している。

蛇足を云うと、十二とは楽団を構成する人数ではなく、縁起の良い言葉を使っただけなのだそうだ。構成員の数も楽団名も変遷を経て今日に至っているとのこと。

 

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Syamisen

面白半分に触った他の楽器

 

興味半分に弄くってみた楽器には、子供用のハーモニカ、木琴、和楽器としては「三味線」、中国楽器の「笛子」、「京胡」、洋楽器の「ヴァイオリン」、「ピッコロ・マンドリン」、「ウクレレ」などを悪戯半分に触ったことがある。

ハーモニカや木琴(シロフォン)は恐らく誰でも一度は手にするだろう。譜面は読めなくても、だだ試行錯誤で一応のメロデが音になったという程度である。和楽器の三味線は一般男性では特殊な環境の人以外には先ず手にしないようだ。どんなものか試したくなって長唄の三味線を半年ぐらい習った。入門曲から「松の緑」を歴て、本格的長唄にはいるところで止めた。

撥(ばち)というものが意外と重いものと知った。普通の弾奏楽器のピックなどと違い、先ずこの操作から憶えなければならない。(沖縄の三線(さんしん)は三味線の原形と云われているが、水牛製の分厚い指ぬき型のピックを使う)。

中国楽器は中国語を習っているとき、同室の陳国相さんから「笛子(横笛)」、「京胡」を習った。中国の横笛は歌口の次の穴に薄い膜(笛膜)を貼り音を大きくすると共に振動音を出す。「梅花三弄」(曲名)などを吹けるようになった。

「京胡」だが、日本で云う胡弓は中国語では「胡琴」と呼ばれる一群の擦弦楽器を指す。その中の京劇に一番良く使われるのが「京胡」である。最近日本で大流行の「二胡」(アル・フー)は長江(揚子江)より南のものらしく、京劇では多少異なる「京二胡」が使われる。「京胡」は甲高い音だが多くの人が自分で演奏し、仲間同士で「技」を競い合うようだ。

胡琴や二胡は内弦と外弦の二本の弦の間に『右手で持つ弓の(バイオリンの Hair 蒙古馬の尻尾の毛)に当る部分』を挟み、 Hair で弦を擦って音を出す。琴筒はニシキヘビの皮が貼られている。内弦と外弦の開放弦の音高は音名では「D4=4点音」、「A4=4点音」である。弓を持つ手の中指(なかゆび)や無名指(くすりゆび)で Hair を押し下げるか否かで、詳しく云うと、押し下げると外弦を、押し下げ下げすにその侭だと内弦を、擦るので容易に内弦・外弦を区別して操作できる。

京劇の「売油郎」や「四郎探母」などを陳くんから演奏の入門を習い「弾き語り」の真似事をした。当時東京には京胡を売って居る店はなかった。

 

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HanayomeSan

古賀政男の作・編曲とした「南の花嫁さん」には原曲が存在して居た

 

真道 重明

                                      2011/05/28.

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胡(湖北省に伝承されている「二胡」を指す)を調べていたら、「彩雲追月」と云う曲に出会った。そのメロディーは1942年(昭和17年)に藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子の歌声で大ヒットした「南の花嫁さん」という曲と全く同じである。この曲に関して私は半世紀前から一つの疑問を持って居た。

戦後中国とは国交未回復の1957年秋に中国漁業協会から招かれて訪中した時の話である。10月10日の国慶節の前夜祭で北京の大通りは人が溢れ、流れてくる音楽に合わせて二人が手を組んで踊っている人が多かった。そのうち「南の花嫁さん」が流れてきたので、「日本お歌もやるのですねー」と呟いたら、「この曲は中国の任光という人の作曲した有名な流行歌ですよ」との答え。「まさか?」と思いながらも、その発言の真偽を確かめもせず、この疑問を忘れてしまっていた。

半世紀以上を経過した最近になって、中国の検索エンジンで「彩雲追月」を調べたところ、任光(1900 ー 1941)が1932年に「上海百代唱片公司から出版され、1935年にレコードに録音配布された」ことが判明した。同様の記事は「任光」、「彩雲追月」のキーワード検索で数多の関連事項が出て来る。

「彩雲追月」は当初は二胡の曲として作曲され、「站在白沙灘 翹首遥望 情思綿綿 何日尓才能回還・・・」で始まる長い歌詞が添えられている。その後 CD で提供されて居るが、何度聞いてもそのメロディーは「南の花嫁さん」と全く変わらない。原曲の歌詞は「白砂の海辺に立って首を上げ遥かに遠くを望むと思いが綿々として胸が一杯になる。『あなたは何時帰って来られるの?』 ・・・」と云った恋歌である。

一方、「南の花嫁さん」の作曲者は全音などでは古賀政男となっているが、戦後になった日本の現在の各関連サイトの解説では編曲は古賀政男、原曲は任光と云うように修正されている。若し戦前の侭だと「盗作」となるのは必然だったろう。「任光」も今では没して後、既に70年近い。

作詞家の「藤浦 洸」は「任光」の原旋律を聴いたか否かは知らないが、聴いて「南の花嫁」をイメージしたのかも知れない。「坂本久チャン」の「上を向いて歩こう」(作詞は永六輔、作曲は中村八大)はイギリスのケニー・ボールにより題名だけが「すき焼き=SUKIYAKI」と称されて公開されたようだ(訳詞ではない。また英語の歌詞も無い(Wikipedia)。作詞は次元の異なる問題だが、旋律が問題視される作曲は盗作の問題が出て来る。当時、両国は戦争状態にあり、著作権に関する取り決めも存在しなかったと思う。


音楽に関する著作権については私は無知だから云々する資格はないので辞める。話は変わるが日本の演歌や日本の自作自演(シンガーソングライター)の歌曲の多くが香港・台湾・東南アジアでヒットしている。聴いている彼等の大部分の人達はそれらを中国の歌だと信じている。台湾や香港で中国語(標準語の普通話、広東方言、ミンナン方言など)に訳され「中国語で謳われている」からだ。

日本人は直ぐそれと分かるから「日本の曲だ」と説明するのだが、多くの場合彼等は「キョトン」としている。言い張っても大人げ無いのでその侭だが、一例を掲げる。中国語を解する人にとっては中々面白い。

「骨まで愛して」は「愛尓入骨」

原文の日本語

♪ 生きてるかぎりはどこまでも,探しつづける恋ねぐら,

傷つきよごれたわたしでも。

骨まで,骨まで,骨まで愛してほしいのよ。♪

翻訳された中国語

♪ 那裏去找尋往日的夢, 愛人呀尓在何方?

雖然尓已不再愛我, 我還是對尓一樣。♪

 

此の愛尓入骨の他に恨尓入骨という訳もある。訳と云うよりオリジナルな作詞だ。「愛」と「憎や恨」は、日本と中国だけでなく、世界中どこでも、人間なら「裏腹や裏表」の関係にあるようだ。

詩歌の翻訳は意味を可能な限り正確に訳す科学論文の翻訳などと違い、感情や心情を扱うのだから程度の差はあってもオリジナルであるように思う。有名なアイルランドの歌 【庭の千草」(1884年(明治17年)刊行の音楽教科書『小学唱歌第3編』】は原詩は「夏の名残のバラ」であり、日本訳では「バラ」ではなく「白菊(しらぎく)」である。季節も花の種類も違うが、氏の気持ちには似通っている。

一方、作曲の方は旋律を作ることが基盤であり、編曲を除くと完全にオリジナルである・・・と云うか、そう思われ勝ちだが、実際には時によって解釈が微妙な場合もあるようだ。但し冒頭で述べた任光が作曲した「彩雲追月」などはメロディーを聴けば万人が「南の花嫁さん」と全く同じ教であることが分かる。

 

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