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自伝と ESSAY
(その 5)
「自伝とESSAY」と題しましたが、私が物心ついて以来、この歳になるまでに身を以て体験した事柄の数々や心に残る想い出などを綴りました。その他にこのホームページに投稿して頂いた方々のエッセイなども載せてあります。
目 次
劉瑞玉さん (1957年以来の旧知、中国科学院院士、海洋研究所)
My Guitar (中学一年生からクラシック・ギターを独学したのだが)
六段と聖歌クオレ (箏曲の六段とグレゴリオ聖歌のクオレCuore)
南の花嫁さん (古賀政男の「南の花嫁さん」の原曲)
漢字と日本語 (音読み、訓読み、仮名などに就いて考えたこと)
口を覆うような仕草 (日本女性特有の艶めかしさ?)
探し出した4枚の水産学院の写真 (懐かしい4枚の写真)
見立てを誤った文部省の證據改竄 (上西俊雄)転載![]()
劉瑞玉さんのこと
真道 重明
2011/05/26.
劉瑞玉’1922/11/04〜2012/07/16)
中国科学院の院士であり青島にある海洋研究所の前所長だった劉瑞玉さんは1957年以来の旧友である。国交未回復時代の1957年に農林大臣の命令で日中民間協定の技術交流のため訪中,各地視察の時に青島にある「中国科学院 水生生物研究所」を訪問した際に出会い、私と生年を同じくする壮少学者の風貌を持つ新進気鋭の若手の甲殻類研究者であった。
私がタイ国のバンコクに本部を持つ東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)に勤務中、1983年に中国の東南アジア漁業視察団長としてタイ国を訪問、旧知の私はタイ国内の各地を案内し、またマレーシアでも1週間後に当方のマレーシアの会議と時を同じくしたので、同国内も案内したのが第2回目の再会であった。
1986年、同氏の計らいで青島・北京・広州・上海の各地を訪問。関西空港経由で先ず青島に向かったが、当時の青島空港は未だ開設されたばかりで、建設中の石段に座って劉瑞玉さんと中国の海洋研究関係の死せ鵜埜説明を受けたのを懐かしく思い出す。
1995年に「中国老教授教会」が青島で設立総会があり、私は水産部門の「海外名誉会長」に指名された。現在、同所所長の相建海さん等と共に劉瑞玉さんと昔の想い出を話し合った。こと時、劉さんと私の生年が同じことを知った。
上海水産大学の創立祝賀会(2002年)で再会。科学院の「院士」に指名されたとのことでお祝いを伝えた。1957年当時の「水生研究所」はその後間も無く「海洋研究所」と改名され、現在では多くの研究棟のビルが建ち並び往時とは面目を一新して居る。下記はそのホームページである。
同氏は数次来日している。1994年に東京大学油壺実験所の創立記念祭に招かれ来日、日中友好会館で会食。その後数次に亘り来日、東京海洋大学や海外漁業協力財団(OFCF)で講演会などを開いている。最後は2009年に開催された世界甲殻類学会に出席のため来日、現所長の相建海さんと二人、品川プリンスホテルで会食、彼も私も杖を突き突き歩行は可能。これが最後の面談になるかも・・・と笑う。
私とは専門分野が異なるが、「うまが合う」というのか半世紀以上の付き合いである。多くの著書があるが、先日、彼の主篇による17511種に及ぶ「CHECKLIST OF MARINE BIOTA OF CHINA SEAS 」(中国海洋生物名録)が送られてきた。1267ページ、縦幅 30数センチ、横幅 20数センチ、厚さ 6センチの本装書で、重くて私の力では持ち上げるのに苦労する。
http://www.frelax.com/cgilocal/getitem.cgi?db=book&ty=id&id=ZGHY306352
中国文のプロフィールは下記の通り。
劉瑞玉 資深院士
海洋生物学和甲殻動物学家。河北省楽亭県人。1945年卒業于輔仁大学生物系。中国科学院海洋研究所研究員。系統詳述了中国各海底栖生物組成、分布、群落和生態特点,首次発現黄海冷水性生物群落,提出区系、群落区画方案,糾正了前人的錯誤与不足。系統総結全国和山東省海岸帯環境与資源特点,提出合理開発方案,推動了水産摎{殖的発展,效益顕著。
予測三峡工程対長江(揚子江)江口生態資源影響,為工程論証提供了依据。甲殻類動物研究中,進清几个類群分類区系,発現多个新種、属,指出黄海形成晩,区系年経,特有種少;編写“中国動物志”蔓足類、糠蝦類、対蝦類、口足類4卷,為重要文献。首次做清対蝦生活史,推拡全国対蝦人工育苗和摎{殖的発展,提出評価幼蝦補充、成活和予報生産量方法及合理放流建議,居国國際前列。1997年当選為中国科学院院士。
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漢字と日本語
工事中(内容と構成)
真道 重明
2012/06/02〜2012/07/00
言葉や文字について興味と好奇心はあるが、言語学にはズブの素人である私がこの様な問題を云々するのは烏滸がましい限りだが、敢えて思うことを書いた。
文字を持たなかった日本語は中国で考案された表意文字の「漢字」が導入され、原音(音読み)のみならず表音文字の仮名を発明した。
漢字は中国からの借用語ではなく、今や「日本語を表記する日本の文字の構成要素の一部」となった。
筆者は現代中国語(北京官話)を学習する機会を得、ある程度中国文(論文・華字紙・メールなど)に接して居るが、日本人が漢字を扱う場合と中国人が漢字を扱う場合の違いを屡々意識するので、その一端を此処でを述べた。
目 次
まえがき
音読みを巡って
訓読みを巡って
外国人と日本語
あとがき
まえがき
冒頭で述べたとおり、シナチベット語族の中国語で作られ進化した表意文字の「漢字」を、異なる語族に属する日本人は『原語の表意文字の漢字を原音に由来する「音読み」と、本来の日本語を「訓読み(漢字を本来の日本語即ちやまと言葉で読む」と云う極めて賢明な方法を使って読み書きし、これに日本自身が作った表音文字の仮名と、更に漢字と仮名の「混ぜ読み・混ぜ書き」・・・』と云う極めて特殊な表記方法の言葉を使っている・・・と私は考えている。
日本において漢字は、表音文字である仮名(平仮名、片仮名)と並んで日本語を表記するための主要な文字であり、普通は常用漢字が使われる。また中国語を表記する際には中国や台湾で用いられる字体(簡体字・繁体字)も用いられることは皆が知るところである。
文字の無かった日本に2000年ほど前に九州で漢字を記した文物が発見されたと云われて居り、漢字が中国から伝えられた・・・と考えられているようだ。勿論、文字と共に発音も伝えられた。
現在、漢字は、中華人民共和国・台湾・日本・韓国・シンガポールなどで、言葉を表記するための手段として用いられているが、それぞれの漢字の発音は上記の国や地域、また、時代によって変化していることは言う迄もない。
日本で漢字を読む場合「音読み」と「訓読み」があり、音読みは、中国語の発音を基盤とする読み方であり、呉音・漢音・唐音・慣用音があることも皆のるところであろう。
日本では同じ漢字に呉音や漢音または唐音などの異なった音で読む場合が多い。今日では漢音が呉音より良く使われるようだが、それは漢籍を通して入った漢音が庶民の間に急速に広まった明治以降のことのようである。明治に西洋語の翻訳のために作られた新語もほとんどが漢音読みであった。しかし、江戸時代以前の庶民の間では、漢音読みの漢語はほとんど普及していなかったそうだ。
庶民が知っていた漢語は、より古く入った呉音読みの漢語にほぼ限られていたといってもよい。数を数えるときの「二、六、万」は呉音で「に、ろく、まん」と読み、漢音で「じ、りく、ばん」と読むことはない。助数詞の「人、枚、丁」も「にん、まい、ちょう」と読み、「じん、ばい、てい」とは読まない。「人」などは、「遊び人」のように和語ともすんなり結合している。
「幕」「情」などの一字漢語も「まく」「じょう」と呉音読みして、「ばく」「せい」と漢音読みはしない。しかし、江戸時代以前から、漢音がしだいに呉音を駆逐する傾向はあった。お寺の「境内」などは「きょうない」と呉音読みしそうなものだが、漢音で「けいだい」と読んでいる。このように、呉音の本丸ともいうべき仏教語にまで漢音が入り込んでいる例も少数ながらある。(以上は日本版 Wikipedia、及びWikipediaの中国版である維基百科 などを参照した)。
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日本語の起源と漢字音
漢字を日本の音読で読む
音読みを巡って
漢字はもともと中国語を書き表すために考案された文字であるから、中国語の発音で読む。漢字が元来持っていた中国語の 発音を、日本人なりに「聞き取って発音した」ものが「音読みである。中国語の「歩」は日本人には「ホ」とか「ブ」に聞こえたのだろうと思う。
中国語の発音は時代により、また地域により、変化していると思われるが、現代語では音を表記するのに使われるのはピンイン(1958年に中華人民共和国が制定した漢語ピンイン音方案という表記法、日本語のヘボン式と同様に中国語のローマ字化に使われ、国連の文書や多くの国で使用している)。
中国語では発音表記に「注音記号」や「ウエード式ローマ字」が従来良く使われ、私や多くの人はウエード式ローマ字で勉強していたのだが、前者は現在僅かに台湾・香港・シンガポールなどの華字紙に見られるに過ぎず、やがて消滅するだろう。
日本では漢字の発音は「万 =満」は呉音では「まん」、漢音では「ばん」と発音する。しかし、現在の中国では少数の例外を除き一つの漢字にはピンインで表示される発音(一つ)が原則である。中国では一つの漢字に対し無数の方言発音があるから、混乱してしまって収拾がつかなくなりどうしょうもないだろう。
例えば、「日」は標準語(普通話)では片仮名で転写すると「リー」、上海方言では「ニッ」、広東方言では「ヤッ」(声調、即ち高低アクセントは此処では無視する)となる。更に湖南方言では・・・、四川方言では・・・と云った具合である。此れでは「この字は用発音するか?」は無数にあるから収拾が付かない。そこで現在では普通話(プートンホワ、即ち北京方言に由来する北京官話を基盤とし、他の地方後と達には発音しにくいものを除き発音し易くしたもの)をピンインで発音する方法を、原則即ち標準としている。
処が日本では音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字を違ったように発音する。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。
慣用音は、上記のどれにも収まらないものをいう。誤った読み方が時代を経て定着した音読みが多い。「茶」における「チャ」(漢音「タ」・呉音「ダ」・唐音「サ」)という音は、誤った読み方ではないが、漢音と唐音の間に流入した音でどちらにも分類できないため辞書では慣用音とされる。
円滑は「えんかつ」と読み「えんこつ」と読めば誤りとされる。発足は「ほっそく」と読み「はっそく」とは読まない。読めば誤りとされる。
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MEMO
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訓読みを巡って
中国語を日本語に翻訳しようとする場合、中国語の発音だけ分かっていてもどうしようも無い。中国漢字の一字毎に本来の日本語(やまと言葉)の和訳をする必要がある。例えば、「歩」と云う字に「あるく」という和文訳が必要となる。此れが「訓読み」、即ち、日本語の訳読みである。
皆が知る「訓読み」であるが、私は此の「訓読み」と云うものの存在にとても驚いている。永年の試行錯誤と紆余曲折を経て、旨く表現できないが、漢和辞書ならぬ「漢和文字総覧」を造って、「漢字を大和言葉で読ませる」ことにした。
中国音の漢字を語族が異なり従って発音体系も全く異なる日本語で読み、日本語で発音する・・・と云った仕組みである。この様な例は世界に類を見ないのでは無かろうか。
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MEMO
漢字を日本の音読で読む
外国人と日本語
多くの外国人は、言語学の専門家は別として「日本語は中国語に近い言葉だ」と思っている。その理由は単純で「書かれた日本語に漢字が多用されているから・・・」らしい。(表意文字である漢字は、彼等にとっては学習が難しい極めて特殊なものらしい)。
日本語と中国語地は、勿論ご承知のように全く異なった語族に属し、日本語は朝鮮語・蒙古語・土耳古語などに近く、中国語はチベット語・タイ語などと同源の語族であると云う。
私の経験からすると6つの声調を持ち中国語に極めて近い言葉なのにサンスクリット係の表音文字で表記するせいか、専門家を除くと、中国語とは関係がないと一般の人は思っているようだ。しかし彼等が中国語を学習すると僅か数ヶ月で一応の初歩会話は喋れるようになる。
日本語と語族の近いモンゴル語を喋る相撲の力士が瞬く間に日本語を喋り出すと云うが、上記と同じ事情から来ている・・・と私は思っている。
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MEMO
外国人にとって日本語は声による会話は容易、文章を書くのは至難
あとがき
前にも何処かで書いたが日本語で書いた字句は「どう読めばよいのか分からない場合がある。ラヂオやテレビでアナウンサーがどう発音すればよいのか分からないので「住所・氏名には「振り仮名をふって下さい」と良く言う。
喋るのが専門家であるアナウンサーが読めないのだ。この現象はチョット変な気がする。以前、何処かの國際会議で見知らぬ欧州人から訊ねられた。日本語を知らない彼はポケットから1枚の日本人から貰った名刺を取り出し「この人の姓はどう読む(発音する)の意)のか?」と云う。
名刺には肩書き・氏名・住所が漢字で書かれて居る。振り仮名は勿論振られていない。日本国内で日本人同士が使う普通の名刺だ。氏名には「重信 遼」 とある。名の「遼」の発音は多分「リョウ」(訓読みはない)と思われたが、姓の「重信」は「しげのぶ」?か、「じゅうしん」?か、それとも「おものぶ」ないしそれ以外か・・・私には思い付かない。
彼は厚顔で無遠慮にも「お前は日本人だと言うが、日本で教育を受けたのか?その名刺が読めないのか?」と云う。彼の云う意味が解らぬでもない。
勿論、各国語にもその国の人が読めない語はある。しかし多くの場合、読めないケースは極めて希である。処が、日本語の場合は「ふりがな」という言葉があるくらいだから、読めない場合はごく一般的だ。
我々が使って居る日本語は文字として表記するのは易しいが、言葉の基本要素である「音」を表記できない。敢えて表記する必要があれば、漢字や漢字仮名混じり文を避け、「かながき」か「ローマ字書き」にするほかはない。
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MEMO
漢字を日本の音読で読む
外国人にとって日本語は声による会話は容易、文章を書くのは至難
ふりがな
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芸に見る日本の女性に
特有の艶めかしい所作
掌で自分の呼気をやや覆う様な、しかし、その所作が嫋々として居る日本の女性の仕草は、私は余りにも「なよなよ」し過ぎている様に感じるので余り好きではないが、舞台でも映画でも日常生活でも「女らしさ」を多くの人は感じるらしい。私の知る処ではこの仕草は他国には無いようだ。「まさか口が臭いわけでもあるまい」と外国人に尋ねられたことはある。
真道 重明
2011/10/26.
日本人は呼気(吐く息)の漏れることに強く気を遣う事が多い。例えば、刀剣の手入れや、絵や書を目の前の至近距離で鑑賞する等の場合、「和紙」を口に咥えて吐く息が漏れて刀や絵に掛かり害することを防ぐ。
女性がものを言うとき掌で自分の呼気が漏れないように覆うさまに女の艶めかしさを感じる人は多いように私には思える。舞台の踊りなどでは掌が口まで達して居まいと、それとなく分かる。以下 Web に在った文句の一節。。
その1
口を手で覆う仕草をする女心。 ひと昔前までは、美人の条件の一つに口の小さいことがあげられていました。だから、若い娘が大口をあけて笑ったりすることは、はしたないこととされ、厳しく戒められていたものです。現代でも、上流家庭の令嬢ならずともこれぐらいのしつけは受けているでしょう。そうしてしつけを受けているかどうかは別にして、人と話をするとき、無意識のうちに口を手でおおい隠すようにしてしゃべったり、笑ったりする女性には、その深層心理に性に対する欲望が横たわっているにもかかわらず、それを相手に悟らせたくない、という抑制をはたらかせるという女性が多いようです。
口を手で隠す人は欲望を隠している。 口に手を当てるというのは、自分の本心を隠すときに特有の仕草です。こういう癖を持つ女性は、自分を実際以上に上品に見せて、相手の興味を引きたがっているのです。男から口説かれたとき、本心はなびいてしまいたいのに、即座に色よい返事をしたのでは、はしたない女と思われはしないかと思案しているときの仕草を表しています。(哲学ニュース nwk)
その2
(前略)ボディランゲージというのは国や文化にとって様々な意味合いがあり、その文化に沿って解釈しなくてはなりません。ですからその解釈が標準化がされていないのなら、ご自分で感じてらっしゃるように納得できない解釈であることもあるでしょう。人間の本能的なしぐさでさえ文化によって表れ方に違いがあったりするものです。 (中略)
隠したい部分を隠すこともあります。一昔前、欧米の人間は日本人女性が笑うときに口元を手で覆うので馬鹿にされているように感じたと書いていますが、これは歯並びあるいは日本人がよくあるように笑ったときに歯茎が出てしまうのをみっともないと感じていたか、女性が歯を見せて笑うのははしたないという社会通念があったからでしょう。また、ミケランジェロのヴィーナス初め女性像は大抵手で覆う部分は同じでしょう。もし自分の意に反して公衆の面前に裸で放り出された上に逃げる場所がなかったら、どこを隠しますか?
嘘をつくとき、口元を隠してしまう人もいます。相手から喋っている口の形が見えませんし、声は口から出るものです。また、なぜか人は嘘をつくとき顔をいじりがちな傾向がありますが、それはまあ今回の回答では省きます。
またのぞきや痴漢も同様です。隠れてするのが好きという性癖もあるのでしょうが、行為そのものを行う自分自身を隠しているわけでしょう(笑)。
また隠したいことというのは普通、人にばらしたくないですよね?ですから本当に隠したい場所と違う場所を隠す場合もあります。そして、隠しても別に困らない場所に触れるはずです。目を隠すと、人間にとって最も重要な知覚である視覚情報が入ってきません。相手の動きを把握することができなくなりますので目を隠す人はあまりいないでしょう。(OK wave)
引用例を終え話を戻す。日本人の良くする仕草にお辞儀がある。謝罪の場合は勿論のこと、テレビなどでアナウンサーや紹介されて出て来る人は決まってお辞儀をする。また女が口を覆う仕草も間々ある。此れらは外国人に取っては些か奇妙に思われるようだ。此れに近い仕草(物腰)として着物の袖で恥ずかしげに顔を半ば隠す場合があるが、これは私の経験では東アジアに特に多く見られ、日本独特だけでは無さそうである。
女が口を覆う仕草だが、私は以下のように独断している。大昔の縄文・弥生時代に関する発掘調査では「日本列島に住む古代人の歯には「歯周病」の病歴を持つものが極めて多く発見されるらしい。当然、多くの罹患者である彼等の呼気には特有の臭気が有った筈である。話し相手に不快感を与えないように吐く息を押さえようとしたであろう。恐らく此れが「日本の女性が口を掌で押さえる動作の原形であろう。
紀元前からのこの仕草は「話し相手に悪印象を与えない意図」から、長年に亘り受け継がれ、仕草は次第に昇華されて艶めかしいものとなったのではないだろうか。私個人としては、特に舞台などの「踊り」など、余りにも「なよなよ」し過ぎて違和感を感じるのだが・・・。
探し出した4枚の水産学院の写真
工事中
保存して置いたデスクの中から上海から送られてきた4枚のJPGの写真を偶然発見した。中には半世紀前のものも2枚あり、初代の上海水産学院長の朱元鼎・王貽観その他の諸氏の面影がある。
画像はヤヤ不鮮明な者もあるが、私の個人的には貴重な宝とも思えるので敢えて此処に紹介した。
真道 重明
2012/05/11.
上海の水産学院に1957年に講義に赴き、以降も多数回訪問して多くの知己を得たが、私が自分のカメラで撮影したネガは2千枚近くに及ぶ。しかし中国側が撮った写真を E-mail の貼付画像として取得したものは余り多くはない。
此れらの画像は半世紀以上前に箱写真機で撮影したものもあるが、後に貼付画像とした際ヤヤ不鮮明なものもになって居るものもあるある。無縁の人には何の興味もないだろうが、私に取っては感無量の懐かしいものばかりである。
(このホームページには多くの中国に関する項目及び人名や画像があるが、本項目とのリンクは煩雑を避け略した)。
この講義は日中両国の国交が未回復のため、民間組織である中国漁業協会(楊U会長)と大日本漁業協会の下部機構である日中漁業協会との学術交流に関する契約による実施第一号として行われ、真道は農林大臣による特殊出張命令で訪中を認められた。
海洋水産資源調査方法論の講義対象者の集合写真
(1957年10月撮影)
1957年,日本水産資源専家真道重明与培訓学員合影
この写真の元物は「大型のボックスカメラ」と「マグネシウムを焚いた閃光のフラッシュで撮影されたモノクロのブロマイド」で、出来た立派な歪みのない写真は「枠付きの大型版」で、現在東京の自宅二階にある私の書斎の戸棚の中に大切に保管収納されている。此処に掲げたのは後で中国でJPGにし、インターネットに公開された画像でヤヤ不鮮明で歪んでいる。
私が公式に受け取った写真の厚紙枠(額縁)の右肩上から縦書きで「真道重明先生留念」とあり、左脇には縦書きで「上海水産学院 1957年12月10日」となっている。写真の中の上部にはタイトルが象眼の横書きで入れてあり、「日本水産資源専家真道重明輿全體學院合影、1957年12月4日」となって居た。未だ人民共和国になってから10年を経ず、簡体字の活字が揃っていなかったため処々に繁体字が使われ、横書きと縦書きが混在して居るのが時代を思わせる。
前から二列目は講師(小生、真道重明)や朱元鼎(学院長)その他の本件に関与した諸幹部、受講者は沿海各省の水産庁海面漁業担当技術者。
朱 元鼎
前から2列目の白い服の人は朱元鼎 1896−1986(初代上海水産学院長を長期に亘り在職)、中国魚類学会創始者。戦前私が学生時代「長江(揚子江)の鯉科魚類」(英文、聖ヨハネ大学在籍)を読んだ憶えがある。
まさか此処でお会いするとは夢にもしなかった。同大学は現在「上海海洋大学と改名されているが、数年前に同氏の記念展示室が設けられていた。没後、息女は同行の庶務に勤務、お会いして面談の機会を得た。
[下記サイトは同氏の詳しい経歴、(中国サイト、中国文]
http://baike.baidu.com/view/899399.htm
候 朝海
朱元鼎の向かって右側、日本留学生だった時は藤原咲平と親しかったと同氏から聴いた。江蘇省立水産高校の第2代目校長。蘇州訛りで有名。同氏が喋り出すと学生は同氏の蘇州「訛り」が聞き取れず苦笑いが耐えなかった。
後年、同氏の伝記を編纂するに当たり、学院では同氏の肉筆の文字が見あたらず、私が同氏から記念に頂いた葉書大の名所写真集の封書袋に縦書きの直筆で書かれた「真道重明先生」及び「候朝海贈、1957年十二月5日」の文字を東京から上海へ送った。
その後、上海水産学院(現・上海海洋大学)では同氏の詳しい電気をhwんさんしたと聞く。江蘇省立水産高校時代から現在の上海水産大学に到るまでの諸困難に対応してきた苦労は高く評価されている。
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黄 文豊
福建省出身。日本農林省水産講習所留学。(豊の正字には「さんずい篇」が付く)。話をする時は全身を使ったジェスチャーが伴うので有名だった。###
王 貽観
同列の向かって左から二人目。後掲の写真に詳細な記事を掲げた。
真道 重明
同列中央の朱元鼎の右のネクタイ姿。
1993年の4人の面談
(1993年10月撮影)
1993年,従左至右王尭耕、楽美龍、真道重明、駱肇蕘
王 尭耕
王 尭耕氏(左端、漁撈の専門家)は1957年の最初の講義から講義の粗訳原稿(中国語)を私が見て不適当なヵ所をチェックし、同氏が清書して謄写に掛ける忙しい仕事を毎日行って頂いた。
また週末には蘇州や杭州などを案内して頂いた。1957年10月にはソ連のスプートニクが打ち上げられたときで、夜間の漁撈棟の屋上は大賑わい、私は彼の六分儀で地球で初めての人工惑星を興奮して眺めた。
その後、上海の同校や隣りにある国立の東海水産研空所などを訪問する都度、先ず面談する一人である。1957年に知り合って以来、現在生存し賀状を交換している数名の一人である。
楽 美龍
寧波出身と記憶する。元同学院の学長。日本との漁業協定には中国代表として数次に亘り日本水産庁の故恩田氏と激論を交わした。###
真道 重明
楽美 龍氏のネクタイ姿。紫外線除けの眼鏡カバーを跳ね上げているので恰も舞う下が白いよう見える。尤も2011年の現在は本当に白いが・・・。
駱 肇蕘
四川省出身、元同学院副学長。第一高等学校や京都帝国大学農学部に留学、専攻は水産加工。###
朱元鼎・王貽観などとの集合集合写真
(1957年撮影)
1957年,日本水産資源専家真道重明来校
講学時与朱元鼎教授、王貽観教授等合影
朱 元鼎
向かって左端の平服。
真道 重明
中央のネクタイ姿。
王 貽観
真道 重明の右隣の大柄の人。日本農林省水産講習所留学。水産講習所教授を歴て初代の日本水産学会長を務めた田内森三郎先生に認められ、日本水産学会誌に「マダイの標識放流」の論文を発表、外国人の論文掲載の第一号となる。
1957年末に帰国して田内先生宅を訪ね写真を披露したらたら、先生の子供さん達が一斉に「やあ!王さんだ!」と叫ぶのを聞いた。このことから考えて、王 貽観さんは留学中に良く田内宅を訪れ先生の家族と親しみがあったように思われる。
私が呉承恩の《西遊記》の原本を探して居ると聞き、「弼馬温」を知っていますか?」との私への問いに「孫悟空の天界での最初の官職でしょう」と答えると、翌々日に分厚い上・下二巻の原本(定本)を探してプレゼントして頂いた。今も書斎にある。
父親は清朝の高級な遺臣で、偶々、父が福建省に赴任していた時に生まれたので号を「ミン(門構えの中に虫)生」と称していた。文化大革命の時、上海水産学院は厦門(アモイ)に下放され、紅衛兵から度々嫌がらせを受け、三角帽被らされ市内を引き回されたと聞く。父が清朝の高級な遺臣だったことで睨まれたのだろう。大学は文革終了と共に上海へ復帰したが、「気の毒に王氏は厦門で無くなった」と聞かされた。
数年前、兄(北京中央放送局、民族音楽主任)が長崎県のハウス・テンポスで公演を依頼されて来日、私の存在を知っており弟のことを話し合った。
1997年10月の真道重明の誕生日
(天海楼の上階にて)
1997年,従左至右真道重明、駱肇蕘、楽美龍
真道 重明
左端のネクタイ姿。
駱 肇蕘
真道 重明の向かって右側。
楽 美龍
向かって右側。
小生に関する1957年などの記事(中国検索サイト、中国文)は下記をクリックすること。
http://mall.cnki.net/magazine/Article/SSDB199502014.htm
真道のホームページ、1957年の「訪中記」は下記をクリックすること。
見立てを誤った
文部省の證據改竄
上西俊雄
転載 (弔問の一針、2012/April) 2012/06/30
大阪地檢特搜部の搜査資料改竄・隱蔽事件で犯人隱匿罪に問はれた元特搜部長O氏と元副部長S氏に有罪判決が出た。この事件は搜査が或る見立に合ふやうにフロッピーディスクが書き換へられたと報道されたけれど、ファイルが書き換へられたのでなくファイルのタイムスタンプが書き換へられたといふことであった。
特搜部がタイムスタンプを書き換へるツールを所有してゐたとは、それこそ犯意歴然と驚いたのであるが、當時、この違ひをはっきり書いた記事は少なく、見立てをもって搜査がなされることが間違ひだと受取る人が多かったのではないだらうか。
しかし、或る見立てに合ふやうに證據を探していくといふのは當たり前のことだ。ただ、見立てに合はない證據が一つでもあれば、見立てを修正する柔軟性がなければならない。我々は常に或る見立てで物事をみていく。そして小さな證據に氣がつかないか氣がついても踏みにぢってしまふ人は多い。
たとへば、この判決を報道した新聞の見出しは「證據改ざん」と、改竄と表記せずに熟語の一部が假名になってゐるが、これは文部省の漢字制限を墨守した表記、かかる表記に違和感がなかったとは思はれない。さういふときに立ち止まって戰後の國語行政の見立てを疑ふ見識が欲しい。
いや、すでに字音と訓を腦中で別に格納するといふことも無くなってしまったのだらうか。もしさうであるなら記者諸君は漢字を表音機能に於てのみ看てゐることになる。侵掠と侵略、後者であればかすめとるといふ意味は常用漢字音訓表表から知ることができない。村山さんなど、戰場が大陸中國であったといふだけのつもりで侵略を謝罪したのかもしれない。漢字制限、發信だけでなく受信も問題。文部省が中國政府に常用漢字音訓表表を渡して、その範圍で我が國の發言を理解するやうにもとめなければ片手落ちといふものだらう。
三月の國語議聯の會で或る國語辭典の見返しに五十音圖でなくワ行のイ段エ段を缺いた假名の表が出てゐたといふことが話題になった。假名にはそれぞれ頁番號が示してあって索引なのだが、國語辭典は見出そのものが位置を決めるもので、第一字めだけの頁番號が示してあったところで役にたつものではない。これも一種のごまかしだと思ふ。
見立てに合せて、ちょっと變だと思ふところを脇へおいてしまふ。「頂門の一針」2554號の「國語大變、弖爾遠波がゆらいでゐる」は書店に設置してある圖書檢索システムの話だが、これは圖書館の司書なら知ってゐるはず。しかし、變だとの聲をこれまで聽いたことがなかった。
それとも、見立てといふものをもつことがないのだらうか。英語をやれば、j が ch の有聲音であることに氣づかざるを得ないはずだが ji をジに對應づけてゐることを英語教育關係者が問題にしたといふことを聞いた事が無い。
いや、ワ行のイ段やエ段はア行とは異なる發音を示した假名であったといふ物語を信じてゐるのだらうか。さういへば、ヲのことをウォのやうに發音してゐたが戰後はオと同じやうに發音してかまはなくなったとテレビで解説してゐるのに出くはしたことがあった。
最近、面白い例をみつけた。露伴の『眞言祕密 聖天樣』(明治二十四年)で其の名も葦沼濕といふいやらしい人物、少し飮んでの歸るさ、人力車夫に聲をかけられてみれば零落れはてた舊主、合力はおろか乘るのもいやだと、ついに舊主の臑を蹴飛ばして歸った其翌々日の出來ごと。
「濕が官衙((やくしよ))に出たる留守((るす))ヘ、ご、め、ん、な、さ、れ、と細く寛((ゆる))める調子で」と、言葉の調子まで表さうとした表記で始まる。
見るから幽靂らしきが然((しか))も座敷へ竹の杖ついたまゝ泥足で蹌踉((ひよろひよろ))と上って來て、とても厭((いや))な世の中を今晩は退((の))きまする駒下駄の御役介((ごやくかい))には既((もう))かゝりませぬ、と是((これ))だけ御傳へ下され、臑折れが參ったと仰((おつし))やれぱ旦那樣には宜く御分りになります、左樣ならぱ、と又ひょろひょろ、歩((あるき))ながら、アゝ奇麗な、極樂((ごくらく))のやうに結構な御座敷と、變な獨語((ひとりごと))變な笑ひやうして沓脱((くつぬぎ))へ下りかゝり、何((どう))した拍子かどたりと轉((ころ))んで戸道((とみち))に膝をつき、ゑあッ痛いは、いっそ此所((こゝら))に鎌でもあれば好いに、と寢たまゝ云ふて頓((やが))て徐々((そろそろ))去りし跡、下婢((げぢよ))も女房((にようぼ))も茫然となりて、今日((けふ))は寒いとばかり小さくなってかたまりぬ。
ここにある「ゑあッ」の「ゑ」は如何なる音を表してゐるのか。露伴は音についても隨分深く考へた人だ。擴張ヘボン式ではワ行子音と語中のハ行子音とを離合の徴表とみる。つまり、ここは鋭く始まったエだと思ふのだ。ウェでは逆になってしまふ。
假名遣のことは結局見立ての問題なのかもしれない。
保科孝一の一統は國語音韻は變化してきたと看る。當然ながらこれからも變化しつづけると看る。假名字母四十七文字は假名成立時の音韻に對應したもの。明治期には區別のなくなったものがあるとして、ワ行のイ段エ段オ段、語中のハ行假名を不要とし、ヂジ、ヅズも一方だけでよいとした。
萬葉假名と假名の成立時の表記とは上代特殊假名遣と呼ばれる八母音體系から五母音體系になったといふことと、清濁が共通の字母で書かれるやうになったといふことの違ひがある。國語學では後段の清濁が共通の字母で表すことになったことは無視する。また八母音體系から五母音體系に變るほどの如何なる大事件があったかといふことも無視する。これはフロッピーディスクの改竄以上のやりかたではないか。
上代の表記は渡來人によってなされたとされる。朝鮮語は八母音體系、音韻が變化したのでなく、認識が進んだのだといふ説がでてきたのも當然だと思ふ。その顰に倣って言へば、渡來人は濁音と清音とに別々のものと捉へたのも當然であったはずで、假名の成立時に清濁を同一の字母で捉へる認識にすすんだとするのは、言語學でいふエティックよりイーミックへといふ流れにも叶ふ見方だ。
つまり、上代と假名の成立時の間に音韻變化があったとする證據はそれほど強固なものではない。だから江戸時代の國學で、假名遣が問題になれば、時代を遡って調べるといふのは當然とされたのだらう。時代を遡って調べる方法であれば、これが正しい書き方といふのが定まる。所謂現代假名遣では制限假名字母を使ふかどうかだけが問題で、どうつづるかは音韻次第だから定まることがない。
假名遣といふものがあるとすれば、それは歴史的なものでしかあり得ないのだ。よく考へてみて欲しい。筆で書くとき、字の相對的大小で二字組合せて一つの子音とし、三字めの假名で母音を與へ、都合三文字で一つの音節を表すことが可能だったはずがない。そのやうな音がなかっとは言へない。しかし、そのための假名を作り出すことはなく、二文字の組合せで表したのがイロハ歌のケフであったのではないか。これは文盲のための般若心經でミヨウと假名書のあるところを眼の繪と鵜の繪、つまりメウとあることによって知られるところである。
ヂヅの使用を禁止するどころではない、今では外來語の流入のためにダ行であればディやドゥのやうな表記も行はれてゐるのだ。當然、それらを書分けるローマ字も必要だ。いや、和英語林集成でヂジに j を當て、ヅズに dz を當てたことからすると、ヘボンは四假名を破擦音に收斂したとみてゐたわけで、所謂現代假名遣の假名字母の制限はむしろ見當違ひであった。
要するに保科孝一の一派は見立てをまちがったのだ。歴史的假名遣は語の書分けで勝れてゐただけでない。表音性においても勝れてゐたのだ。マルティネといふフランスの言語學者の主張したこととして知られてゐることに言語の二重分節がある。表音文字による表記は、まづ語を表し、語はそれを構成する音の單位よりなるといふことで、ヂジやヅズが同じ音を表してゐるのだから一方は不要だと一概に言ふことはできない。
明治期のローマ字が日本語の説明として機能してゐる場合は、音としての區別は必要なかっただらうが、假名漢字の使用できない環境であるとか、英語で書く場合で假名漢字の通じない人に書く場合はローマ字でもその區別が必要であることはいふまでもない。ローマ字に併せて假名字母を制限することはまさに逆立ちであるが、しかもどちらを殘すべきであったかを、エティックの立場で言へば、ダ行音であった。
國語議聯の會に出て、いつももどかしく感じるのはいくら證據を出してみても、文化廳の役人には通じさうにないこと。いや、もっと廣い立場に於て、或る見方が底流となってゐるのを感じる。
冒頭の新聞の表記もさうであるが、國歌國旗法のときに君が代の歌詞が改竄され、日の丸の仕樣が變更になったこともさうだし、武道が復活となるとヒップホップが取り入れられてゐるのもさうだ。世田谷區が教育特區で古典を教へるとなっても假名字母の制限は生きてゐて、ヂヅにジズと振假名をつけて、これらの假名は使用禁止であることを刷り込まうとしてゐることもさうだ。ここにあるのは、傳統の無視であり、その時點での最適のシステムがあればよいとする考へで、ソシュールの共時態に通じる。
かつて出版社で英語辭書の編集に携はって共時態といふ假想のものを前提としてなされる音韻分析に魅せられた經驗をもつので言ふのであるが、一般に英語教師はなにがしか、この魅力に囚はれてゐると思ふ。文法といへば英語のものしか知らない人が多いはずだ。子供は英語教師に憧れをもちやすい。共時態が方法的に要請されたものであり、正書法には與らないことだといふこと、そのことを知って欲しい。さうでなければ、英語の學習も片端なものになってしまふ。
以上、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて」の巌がイハホとなってゐたことから、語中のハ行子音の結合力を思ふのは見立てを修正することで、強引にイワオとするのは見立てに合せての改竄だといふ説明を試みてきた。
さうして氣がついたことは、筆者の見立てもまちがってゐたといふことだ。これまで、戰後の國語行政の間違ひの前提は英語の綴り字改良運動に魅せられた保科孝一が明治時代特有の劣等感から國語にそれを移植せんとして果たせず、敗戰を奇貨として宿願を果たしたものとのみ考へてゐた。そして文化廳の役人が保科の敷いた路線に忠實であるのは、公務員無謬の原則のためであり、彼らの呪縛を解きさへすればよいと思ってゐた。
しかし、そんなことではない。英語教育でアルファベットをしっかり教へてこなかったことが、英語に於ても音韻分析を過度に重要視させて、いはば無數の保科孝一をつくりだしつづけてきてゐたのだ。我が國の英語教育が音聲と綴りとべつべつのものとしてなされてゐることに英語教育の效率の惡さの疫學的原因があると書いたことがある。歴史的假名遣に戻すことは英語教育にとっても必要だと言へるだらう。
すでに六十五年。今さら戻すことが大變であるのは事實だ。小學校から始めるだけなら子供にとっては何の問題もないことだけれど、社會一般にとっては大手術。とは言っても、敗戰時に、音韻としては萬葉から、表記としては假名の成立時から續いたものを廢棄したことに比べれば大したことではない。
所謂現代假名遣は何時まで經っても正書法になることはない。音韻變化にしたがって表記は二次的に決まるとする考へ方からしてさうなのだが、戰後の音韻が未來永劫變化しないものだとしても、2554號の「國語大變、弖爾遠波がゆらいでゐる」で論じた問題がある。ワ行子音や語中のハ行子音を復元してみればローマ字に轉寫してみたとき非常に讀みやすい。これは我ながら意外な結果であった。傳統のこと、ローマ字のこと、一見相反する問題が一擧に解決するのだ。手術は一刻も早い方がよい。(最後の段落は掲載時に脱落)2569(24.4.3)
補遺
露伴の『眞言祕密 聖天樣』に間投詞を「ゑ」とする例をみて證據改竄との一文を草した(2569號)が、ものを知らないといふのは他愛のないもので、まさに遼東の猪を地でいったやうなものであって、『風流微塵藏』に間投詞「ゑ」や「ゑゝ」が一杯でてきた。實は露伴は子供のときに讀んだ『五重塔』を除けばなにも讀んだことがなかった。それをもう一度讀んだのは友人の遺品の中に昭和二年改造社刊現代日本文學全集第八卷の露伴集を見つけたからで「擴張ヘボン式の提唱」の發表先を探してゐた十年も昔のことだ。
しかし「ゑ」の用法には氣付かなかった。露伴の表記に變化があったのかと、刊行年を調べると『五重塔』は『眞言祕密 聖天樣』と『風流微塵藏』との間だ。
ワ行假名、ハ行假名に離合の働きをみるやうになったのは一昨年の暮のこと。『眞言祕密 聖天樣』、『風流微塵藏』はその後で讀んだものだから氣付いたといふことなのか。
ネットで調べてみると『五重塔』其の三の後半、主人公の女房がとつおいつ思案するところ、
今日は大抵何方((どちら))にか任すと一言上人樣の御定めなさる筈とて、今朝出て行かれしが未だ歸られず、何か今度の仕事だけは彼程吾夫は望んで居らるゝとも此方は分に應ぜず、親方には義理もあり旁((かたが))た親方の方に上人樣の任さるればよいと思ふやうな氣持もするし、また親方樣の大氣にて別段怒りもなさらずば、吾夫に爲せて見事成就させたいやうな氣持もする、ゑゝ氣の揉める、にはちゃんと、「ゑゝ」がある。この箇所を改造社版でみると、「えゝ氣の揉める」となってゐる。市の圖書館の地下書庫から出してもらって確かめると岩波の露伴全集も岩波文庫の『五重塔』も「ゑゝ」だ。
昭和二年にすでに間投詞を「ゑゝ」と書くのは正しくないとの意識が編集者にあったわけだ。念のため「ゑゝ」といふ表記を檢索してみると古典名場面集といふのが出てきて樋口一葉が露伴と同じく「ゑゝ」であること、漱石は「ええ」であることを知った。
江戸時代のデーターですぐみつかったのは心中天網島と好色一代女。近松門左衞門も間投詞に「ゑ」を用ゐてゐるが、西鶴の場合は確認できなかった。國語辭典の用例によれば十返舍一九にもある。十返舍一九の場合は、敢て異なる假名遣で登場人物の無學ぶりを示す狙ひもあったであらうから假名遣の典據とすることははばかるべきかもしれない。しかし、間投詞の場合は、まさに表音文字として違和感なく用ゐられてゐたと看るべきだと思ふ。
要するに「ゑゝ」と「ええ」と同時代人でぶれてゐたわけだ。子供時代を振り返ってみても「ゑ」と「え」が異なる音を表す假名だと思ったことはなかった。ウィウェウォなどといふ音があるといふ意識はなかったのだ。
江戸時代の人も明治期の人も露伴や一葉の表記をみて別の音を表してゐるとは思はなかったに違ひない。しかし、書き手の方の意識は變化したのではあるまいか。露伴や一葉のやうに間投詞に「ゑ」を用ゐる作家は少數派になった。そして昭和に入ると作家の假名遣を修正する編集者まで登場するに至ったわけだ。
鴎外は「ヰタセクスアリス」を「ウィタセクスアリス」と發音してゐたといふことを聞いたことがある。露伴にも、Dickens をヂケンズと書いた例があるから、「ゑ」は「ウェ」をあらはしてゐたとする人があらはれてきても不思議ではない。しかし恐らくさうではないのだ。
三省堂『時代別國語大辭典室町編』には間投詞「ええ」の項に富樫に「扨は御坊は…西塔の辨慶にてはなきか」と追求されて辨慶が發する例があげてあるが、「ええ」では音引なのか、重ねていふのかの區別もない。淨瑠璃の近松門左衞門が「ゑゝ」としたのはさういふことも與ってゐたのではないかと思ふのだ。
以上、補足までに。2648(24.6.25)