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Letter'sManner

手紙の書き方に関する提案

 

2010/05/01

真道 重明

 

本では手紙は便箋に書いて封筒に入れ、ポストに投函するのが普通だ。その際に差出人の住所や電話番号などは封筒には書くが、便箋の手紙本文の方には書かない人が多い。

良く「手紙や冠婚葬祭の礼儀作法の解説」と云ったタイトルの多くの本には色々と手紙の書き方について述べられているが、以下此処で指摘する点については殆ど触れられていない。

戦地から復員後、初めて農林省の水産局配下の研究所に入所した時、先輩から来送信文書の整理法を伝授された。先輩の机の右手最上段の抽出しには一束の和紙の「紙縒り」が入れてあり、来信文書は「便箋の本文と共に封筒を必ず同時に紙縒りで綴じ、その件に関するものを一纏めにして置くこと。これを「一件記録」または「○○件文書」と呼び・・・と云うものだった。

件名を袋かファイルに書き机の上の本立てか大きな抽出しに仕舞込む。返事や回答を送る際、受信日や宛名が直ぐ分かるようにするためである。「紙縒り」と紙縒りを通すために紙に穴を開ける「目打ち」(千枚通し)は必需文法具であった。

今では「紙縒り」は見られなくなり、「スタプラー」(ホッチキス)を用い、「目打ち」は「2穴パンチ」となっている。だが、システムとしては紙縒り時代と何ら変わっては居ない。便箋と封筒とではサイズが異なるので角を揃えるのが厄介で面倒臭い非効率な方法である。

封筒と抱き合わせで保管するのは、時として文選には差出人の住所や電話番号が、ひどい時には年月日までもが記されていないからだ。

処で欧米ではどうなっているのだろう?郵便制度の本場イギリスの大型辞書(勿論、英英)などを見ると、付録の一つに「手紙の書き方」が詳しく説明されている場合が多い。

私信やビジネス文書を問わず、便箋には【至急】(Urgent 直披)・【私信】(Private)・【秘】(Confidential)・【年月日】・【差出人の住所】、本文、【署名】・【受取人の住所・電話番号】などを書く、)のが「原則」とする。(但し夫々の項目は状況に応じて省略)・・・とある。

用箋に関してもTOPページと2ページ以降用の使い分け、イニシアル(略式署名)など詳しいが、此処では略す。

「成る程なー」と思った。「原則」だから状況如何で省略する場合もあろうが、便箋の紙面だけで色々なことが解り、ファイル保存も楽てある。例えば、【差出人の住所】は差出人の住所に変更の有無をチェックできるし、返事を出す際の住所は封筒を見なくても済む。

【差出人の住所】は同様に封筒を見なくても返事が必要な際に便利であり、封筒の保存は必要がない。日本の慣習では【至急】は封筒にだけ、【私信】や【秘】は便箋にだけに表示されるのが普通だ。私が先輩から習った「封筒と抱き合わせ」で保管する理由の一つは此処にある。

以後、私は手紙を書く際には以下の様式に依って居る。毛筆や万年筆での自筆は漢字が思い出せないので、何時も署名以外はワープロばかり。

@ 横書き。(数式やカタカナ単位を多用するので縦書きは不便)。

A 第1行: タイトル(件名)。

B 第2行: 年月日(左寄せ)。

C 第3行: 自分の氏名と郵便番号を含む住所。(中央よりやや右側から書くようにインデントで設定)。

D 第4行以降: 本文内容(先方の氏名・拝啓などの挨拶・末尾に改行して、敬具などの挨拶。改行して右端に私の氏名)。

E 上記の私の氏名の下を「自筆による署名」を入れる空白を造るため、2〜3行改行する。

F 最下行に文字サイズを一段下げて、左揃えで郵便番号を含む私の住 所・メールアドレスなどを記載する。

以上であるが、私は此の30年来、手紙についてはこの我流に従って書いている。数名の人からの返書は「この流儀を良し」と見たのか、同じ形式で書かれた返事が戻って来る。

ご意見を賜れば幸甚である。 

 

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蛇足的な追補

 

パソコンとそのメール・ソフト(E-mail)を使用している人達の場合は、【至急度】・【年月日】などと【差出人の E-mail アドレス】・【受取人の E-mail アドレスなどはユーザー辞書に登録して置けば一発で入力でき、更にそれらは自動的に記録され保存されるから、極めて便利である。また、無事届いて開封されたか否かの確認も可能である。

メールの場合に「個人情報漏洩」を心配する人のケースでは、住所を知らせる必要がある場合、暗号化して本文に書き込むか、【署名】に入れて自動的に処理することも可能だし、本文を添付形式で送れば先方の整理も楽だ。

切手を貼る必要も無く、封筒も要らず、歳を取った私などは「杖を突き突きポストまで歩いてゆく必要も無く」、まさに「便利この上なし」だが、相手がパソコンを持ちインターネットでメールの送受信が可能な場合に限られる。「解り切ったことを態態しく云うな」と叱られそうだが、蛇足的と断っている。ご容赦願いたい。

歳を取ると万事が面倒くさくなり怠惰となる。手紙一つ送るのも一仕事と思うようになる。パソコンを使いインターネットでメールの送受信が可能なことは実に有り難いと痛感する。80歳を超えた私の知人は皆そのことを口にする。


話は変わるが、ことの序でにもう一つ言わせて貰う。パソコンや家電製品、または、売薬などを買うと、「取説」(取り扱い説明書)、ないし、「使用説明と注意事項」なる冊子や紙片なるものが付いて来る。

それらを印刷した年月日や第○版という表記のないものが多い。役所からの「お知らせ」の類にも掛けている場合が良くある。僅か数文字加えれば済むことだ。

この表記の有無で、後で問い合わせるときだけでなく、色々な経緯が解る場合が多い。たった数文字の記載を「骨惜しみ」しているのだろうか?それとも故意に書かないのか?私には後者のような気がするか、良く分からない。

 

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KatakanaGo2

再び「カタカナ語」の氾濫

 

2010/08/04

真道 重明

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近テレビで良く「アスリート」という言葉を耳にする。何故、昔から普通に使って居た「運動選手」という漢字の言葉が有るのに、わざわざ聞き慣れないアスリートなどと言う言い方をするのか?

カタカナ語としては「スポーツマン」という言葉が既にあった。このカタカナ語は今では日本語として定着している。・・・にも係わらず、何故今更聞き慣れない「アスリート」などと云う外国語を口にするのだろう?

日本人は「新しがり屋」のようだから、その「癖」が出たのだろうか?そうだとしても聴いた人が理解できなければ困った癖である。それとも「俺はこんな外国語(この場合は英語)を知って居るぞ」と自慢したいのだろうか。自慢するのは勝手だが聞き手が理解できないのだから、折角の自慢も「嫌み」と思われる方が先に立つ。

今日此の頃、大相撲協会が野球賭博問題でマスコミ(此れもカタカナ語だが日本語として定着いて居る)は賑やかだが、テレビの解説者や評論家が「ガバナンス」とか「コンプライアンス」いう言葉を良く聞く。前者は「統治」とか「共治」、後者は「法令遵守」と云えばよいものを何故、ガバナンスやコンプライアンスなどと、八百屋さんや床屋さんには先ず理解されない英語をわざわざ口にするのだろう?

幾つかの例を挙げてみよう。カジノ は博打場、シェフは調理師長(厨房長)、タレントは芸能人、マニフェストは政権公約、アジェンダは課題、タトウ-は刺青、レシピは調理法、リベンジは雪辱、アドバイサ-は助言者、キャンペーンは宣伝活動、アシスタントは助手、コメンテ-タ-は解説者、コンテンツは内容、モラトリアムは融資金返済一時停止・・・等々、枚挙に暇がない。

「漢字の言葉が有るのに、わざわざ聞き慣れない外国語を口にするのか?」と云う主張とは矛盾するようだが、例えば「メーカー」、「デパート」、「アパート」、「バイク」、その他多くの漢字で書ける言葉が今では寧ろ「カタカナ語の方が使われる頻度が多く」、スッカリ日本語として定着して居る言葉も多い。「トイレ」などその典型かも知れない。動力付自転車よりバイクの方が書くのに楽だし、便所よりトイレの方が気持ちよく発音でき、口にし易いのは私だけでは無かろう。

中国語では「厠所」が長年に亘って使われ、今でも普通に使われて居るが、日本語では;−『日本には便所を意味する呼称や異称が多い。「(かわや)」は古く「古事記」にその例が見え、施設の下に水を流す溝を配した「川屋」だったことがわかる。あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)」といったり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語を使うようにもなった。昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになり、戦後は「トイレ」や「W.C.water closet の頭文字)」など外国語に由来する表現や男女を示す画でその場所を表したりすることも増えた』以上 『 』内は Wikipedia による)

話は逸れるが、日本人は「新しがり屋」と云うか、次々新語を好んで使う「癖」が有りそうだ。一昔前に較べて、今では乗合自動車より「バス」、百貨店より「デパート」と云った具合で使用頻度は後者(カタカナ語)の方が遥かに高い。

「ショッピング・モール」(遊歩道や歩行者専用の買い物広場のある、空間的にも気分的にもゆとりのある商店街、shoping mall )、「アパレル業界」(衣服や靴・アクセサリーなど、服飾全般の製造や販売をする業界)など従来に無い新語はカタカナ語が使われるのは結構だ。

中国では super market は「超級市場」と漢字の訳語を使うが日本では「スーパーマーケット」とカタカナ語しか使わない。更に云うと、表意語の漢字を使う中国語では従来は極少数の言葉(モーターを馬達、ソファーを沙発など)を除いて、殆どの外来語を漢字に訳して使っていた。しかし最近では世界各国のグローバル化の波で、取り分け IT の分野の言葉などは新語が矢継ぎ早に次々と出来てくるので原語をローマ字で表記するようになってきた。日本の仮名のような注音文字の無い漢字ばかりの中国語は表音に困っているようだ。

それにしても日本語の中でのカタカナ語の氾濫は日増しに拡大して居る。この現象は善悪や良し悪しの問題では無く、日本語が本来持って居る性格のように思う。これは利点でもあり不利点でもある(「メリットでもあるしデメリットでもある」と書きたくなる)・・・と云う訳だ。速度の問題、速さの問題などと言わず、「スピードの問題」という人が最近は寧ろ多いような気がする。

その昔、文字の無かった日本に漢字が入って来た頃、大和言葉で書いたり云ったりするより意味の該当する漢字の方が「恰好良かった」のだろう。「俺は知っているぞ!」と自慢する気持ちもあったようだ。現代の「カタカナ語」の多用は此れに似た心境かも知れない。

但し生物学用語で種の和名はカタカナ書きとする取り決めが在る。例えば「カタクチイワシ」、「ソメイヨシノ」など。此れらをひらがなや漢字で書くと云わんとする文章の意味が混乱して読み辛い。例外的な慣習化の知れない。

 

 

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Rokudan&Cuore

千鳥と並んで有名な箏曲の六段とグレゴリオ聖歌Cuoreの謎

 

(2011年05月29日 記)

真道 重明

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鳥の曲と並んで日本の古典箏曲として最も有名な調べに「六段」がある。子供の頃、床の間の一角に袋に包んだ琴が立てかけてあり、母の嫁入り道具の一つだったようである。母は「口三味線」ならぬ「口ごと 琴」で縦書きの楽譜を鼻歌交じりに口吟んで居たのは憶えているが、指に爪を附けて演奏して居る生の音声は記憶にない。

【がんらい琴と箏とは異なる楽器で、「箏」は中国や日本の撥弦楽器、一方「琴」は中国の弦楽器なのだそうだが、和箏(わごと)は「箏」の字を使用するのが正しいのだそうだ。しかし、嘗て「箏」の字がワープロに無かったため「琴」で代用し同じ意味の文字として使われているらしい】。

母が琴柱(ことじ)の位置や張りを調整して居るのを見ている記憶があるから、その演奏の生の音を聞いている筈だと思うのだが、80年も前のことなので良くは思い出せない。あだしごとはさて置き、本題に入ろう。

朝、目覚めて日曜日のこととて(2011/05/29)何となくラヂオのスイッチをいれたら、皆川達夫さんの「音楽の泉」をやっていた。同氏の解説に驚き思わず好奇心を掻き立てられメモした。何と「箏曲の六段の調べ」はグレゴリオ聖歌のクオレを下敷きにして、此れに箏曲の技法を駆使して作曲したものらしい」というのである。

皆川達夫さんと云えば日本だけでなく国際的にも知られた合唱曲の編曲の第一人者である。また、隠れキリシタンの「おらしょ」などにも造詣が深いことを今回知った。「クオレ」というのはイタリア語だがラテン語に由来し、グレゴリオ聖歌のクオレの歌詞は「我々は神を信じます。また神の子であるイエス・キリストの教えを信じます・・・」と云った内容らしい。

一方、六段は八橋(やつはし)検校の作と云われてきたし、母もそう言っていた。しかし、言い継がれてきただけで確とした証拠は無いらしい。もっと以前から在ったとも考えられるのだそうだ。

同番組では六段の演奏、聖歌隊によるクレドの合唱、双方を重ねた場合の結果などが放送されている。趣味でギターを弾いていたから或るテイぢ楽譜は読めるが、音楽理論に弱い私にはこの問題を云々する資格はない。しかし、両者は旨く重なり合致しているような気がした。下記はこの論旨の出版物の一つ。


邦楽ジャーナル社のサイトより

「六段」はキリシタンの音楽だった!?

副題「日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い」。箏曲の代表曲「六段」が、グレゴリオ聖歌の「クレド」から生まれたのではないか?との研究に基づき、両者の同時演奏を試みたアルバム。箏と合唱の美しいハーモニーに、古へのロマンがふくらむ。中世・ルネサンス音楽史研究家の皆川達夫氏による詳細な解説がある。


尤も「両者には何の関連もない」と反論を唱える人もある。此の皆川説の真偽は別として、実に面白く驚くべき発想である。隠れキリシタンは弾圧を恐れ「マリア観音像」でキリスト教を仏教に見せかけようとした。六段の場合は若し聖歌に由来していても歌詞のない器楽曲であるから、その意味は言語では表示不可能である。

実に賢明と云うより外は無い。驚くべきことであると思う。

 

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