jibunshi8

(jibunshi8.htm)

自伝と ESSAY

(その 4)

「自伝とESSAY」と題しましたが、私が物心ついて以来、この歳になるまでに身を以て体験した事柄の数々や心に残る想い出などを綴りました。その他にこのホームページに投稿して頂いた方々のエッセイなども載せてあります。

「自伝とESSAY」の続き(その5)はここをクリックして下さい  

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Mokuji

目 次

山本忠さんの回想 (ヤマチューさんの愛称で呼ばれた先輩)
半年で日本語を習得? (インドネシア人の介護士の場合)
半年で日本語・・・の追記 (世論が論じ始めた)
12月8日 (紙面の見出しから消えた真珠湾、日米開戦)
ギニア・ビサオ内乱からの脱出 (高杉重光さんの寄稿 PDF
天寿とは (天寿を全うする」の意味は?)
オバマ大統領のお辞儀 (お辞儀好きの日本人,etc.)
ホームページや Blog を永久に! (国会図書館での保存を期待したい)
上西俊雄氏のコメント (表記問題・外国人介護士の日本語教育・その他)
手紙の書き方に関する提案 (便箋に月日や送受信者の情報を書くこと)
第1个走過羅湖橋的日本水産専家 中国語、楊嘉麗女史著)
再び「カタカナ語」の氾濫 (何故漢字を使わないのか?)
中日文化交流史 書籍紹介、王建民 主遍、序は中国文、内容は日本文です)
東日本大震災の体験録 (私の体験の最たるものの一つ)

 

「自伝とESSAY」の続き(その5)はここをクリックして下さい  

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Yamachu

山本忠さんの回想

 

2009/11/09

真道 重明

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山本忠さん(1918〜2009)は母校の5年先輩、水産統計の専門家である。水産資源の調査研究に携わった私に取っては半世紀に亘る長年の国内・国外での仕事上の知己であった。享年91歳、60年に近い公私に亘る同氏との回想を此処に記した。

 

「ヤマチュー」さんの愛称で呼ばれた同氏は、長女の祥子氏の作成した年譜によると1918年(大正7年)東京の小石川区で出生とあるが、小学1年生の時に母の実家である広島に移り、小学校卒業の年には再び東京に戻り、開成中学に入学、同校4年修了、1931年に農林省水産講習所(現・東京海洋大学)入学とある。戦時中の特例により軍歴や暫定職歴などが戦時特例によって複雑で、卒業は1935年、一方、私の記録にも同様の問題があり1939年に入学、戦地滞在中に卒業しているので、「入学は8年早いのに卒業は5年しか違っていない」と云うことになり、甚だ複雑である。(3ヶ年の差は軍役に依る在学中断の時間が山本さんは私より3年長期に亘ったことによる)。書類上の公式記録の卒業年次から云えば5年先輩に当たることになる。

長期に亘る軍役で敗戦時には中尉(ポツダム宣言受諾で自動的に一階級上り陸軍大尉)、父島の守備隊勤務。米国の軍役で従軍兵だったブッシュ大統領(父)が日本軍戦闘機の撃墜に遭い海上に墜落する現場を目撃(日本軍の舟艇により救助されブッシュは一命を取り止める)した経験がある。山本さんの自慢話(?)の一つ。講和後これを聴いた米人は皆目を丸くしていた。「空襲より恐い艦砲の話」の戦地経験など、今では話す知己も年々少なくなりつつある中の一人であった。

山本忠さんの専攻分野は水産統計である。明治以来日本の統計は統計情報(主として数値)の収集と整理が中心で、官公庁の職場としては重視されていなかった。水産統計も例外では無かった。1945年(昭和20年)日本の敗戦時前後、世界的に新しく進歩した数理統計学が官公庁の統計担当部署に導入され、統計システムが改革される機運を迎え、標本調査などが実施され始めたが、この方面での詳しい実施方法の解説書の著作や実施など、山本忠さんの果たした功績は大きい。

名前は聞き及んで居たが初めて顔を合わせたのは1950年頃、私は西海区水研で以西底曳網漁業資源の研究の計画を開始した時、山本さんは水産庁福岡漁業調整事務所で以西底曳網漁業の統計を担当することになった頃である。従って「60年の付き合い」だったことになる。敗戦後の食糧難を政府は克服する必要に迫られて居り、同漁業の統計やその資源の調査研究は時の政府の重点プロジェクトだった。

資源の調査研究は分析に耐え得る統計がなければ推進できない。東シナ海の底曳網による魚種別・各魚種のサイズ別水揚げ量を、緯度経度で細分した魚区別統計が2層式標本調査により作成されると云う日本では初めての資源研究を意識した統計が作成されつつあった。この統計は後年に英国のロストフにある研究視察団が来訪、元祖を自認する数名の彼等が舌を巻いて驚き「世界最優秀」と太鼓判を押したことを憶えて居る。

山本忠さんは統計上の仕事に関しては数値の真偽(信憑性)に対し、頑固なまでに「一貫して拘る」性格であった。これは統計に携わる人としては当然のことであるが、時には統計組織やその組織責任者に対しても「何の遠慮もなく批判を主張」した。FAOや関係国政府にはいわゆる「煙たがわれる」ことが多かったように想う。FAOや関係国政府には「余り本当のことを云う」と困る場合がある。例えば、某国が魚区区分を変更したとする。その真の理由は「他国への違反操業を隠すため、違反魚区での生産を一括して『その他の魚区』の生産とするケースである。山本忠さんは各国のやり方に就いて率直な批判をして居る。

FAOや国際機関は夫々の参加国からの拠出金で仕事しているから、参加国の提出する統計に関する批判を知って指導や協議はするが、「真っ向からの批判」を公表しないのが普通である。真相解明を主張する山本忠さんの発言は、その点では「敬遠したい煙たいもの」だった。この山本忠さんの態度は終生変わらず、晩年死去の3ヶ年前の2006年に88歳で英国の Portsmouth で開催された統計会議に出席、東南アジア諸国の水産統計の信憑性」に関する話をされた。基礎集計は私が行ったものだが、文書の提出に留め「高齢のための疲労する体調」を気使い、私は同会議への出席は「思い留まる」よう説得したが、イギリスは遠距離というのもあり、長女の祥子さん一人で車椅子の父との同行は無理があった為、三女の節子さんと孫娘(18歳)も同行され、旅行中は3人がサポートされた由である。三女とそのお孫さんが大西洋経由で合流し、お互いに会えることもあり、山本忠さんは出席を決断された。逝去の3年前の時である。

同会議への出席の最も大きな動機は私は「山本忠さんが生涯一貫して携わってきた水産統計の信憑性に係わる問題」の指摘で、「FAOに真相を知らない人が多すぎる、誰も云わないのなら俺が言うしかない」という「一徹とも云える」信念であったと思っている。その中には「本当(真実)のこと」を赤裸々に強調して云うと困る立場の人も居る。山本忠さんはこの点では容赦がなかった。


「2009年10月8日(木)1時48分(病院での公式記録)自宅ベッド上で1時28分呼吸停止」との電話を長女の祥子さんから翌日の早朝に寝床の中で聴き心底吃驚した。実は毎月一回電話して居り、8日も夕刻山本さんと電話で話したばかりだった。その僅か数時間後だったからである。

つい先程前までは両眼と片方の耳に障害があったとは言え、声は元気そのもの、頭は確りして居られた。私は一瞬「ショック」と共に「生者必滅・会者定離」の一句が私の頭の中を掛け巡った。告別式で見た花に埋もれた顔は安らかであった。  合掌

 


山本忠さんの寄稿文

「下記をクリックしページの上部の項目をクリックすると、「我の人生記(前編)」、「我の人生気(後編)」、「仏印進駐記の想い出」の3件が表示されます。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/yamamot1.htm

 

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NIHONNGO

外国人の日本語の習得

 

半年で専門用語を含む日本語の読み書きが出来るだろうか?テレビでインドネシアからの介護士の受け入れに関する解説を聞いて驚いた。当の日本人さえ容易には書けない漢字を「理解し読み書きできる」のは天才でも無理だろう。

当局者は何を考えているのだろうか?

発音による「初歩的な日常会話」だけでも半年は必要だ。まして非漢字圏から来た人に日本人に対する試験問題を「その侭の形で課す」なぞ馬鹿げているとしか思えない。

2009/12/01

真道 重明

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日テレビでインドネシア人の介護士の日本での受け入れの場合の問題点を話して居た。来日して僅か半年の日本語研修をして、日常会話はもちろんのこと、「心筋梗塞」、「膨満」、「嚥下」、「腫瘍」「脾臓」・・・などの医学用語について読み書きが出来ることを前提にして、日本人と同様の試験用紙を用い国家試験に合格を期待して居るらしい。しかも、3ヵ年間の滞在許可期間内に合格しなければ帰国させる・・・と云うのだ。

尤も一部では「配属された病院によっては院内に特別チームを設けて工夫を凝らして対応し居る」処もあるそうだが、飽くまで極少数だという。私も海外で素人芸だが数人に日本語の初歩を教えた経験がある。外国人は「日本語は難しい」と云うが、音声による初歩的な日本語の日常会話は我々が思うほど難しい物では無い。半年もすれば「はい」、「いいえ」、「今日は」から始まって、「今日は忙しい」、「チョット待って!」程度の言葉は何とか喋られるようになり、その程度の意志疏通は出来るようになる。

しかし、読み書きとなると、特に非漢字圏の人々には途端に難しくなる。問題は漢字で、とても半年での習得は不可能だ。漢字の書き方では先ず、書き順を教えなければ「田」の字を書くのに「縦三本の垂直の棒を書き、次いで横三本の水平の棒を書く」、または「正方形の口を書き、その中に十を書き込む」など云った具合で、複雑な字は煩わしく面倒でどうしようもない。初歩的な易しい漢字の書き方を学習するだけでも1ヶ月は無理だろう。表音文字の片仮名か平仮名ばかりで書くのは彼等にはスット楽だが・・・、

来日者の中の数名の人は多少英語も話せ、母国のインドネシアの看護士の国家資格を持ち、医療機器の取り扱いにも多少は慣れているそうだが、言葉が壁になって日本の国家資格が無いため、病院で毎日「病室の掃除」や「食事の配膳」と云った程度の仕事ばかり遣らされている・・・と不満を述べて居た。

このプロジェクトの担当者は一体何を考えているのだろう?非漢字圏から来て日本の大学を卒業した人々の多くは顔を突き合わせて音声に依る面談は出来ても、漢字仮名混じりの日本語を正しく書くことは(日本文学を専攻した人達を除くと)四年や五年の学習期間では日本文を書けないのが普通だ。そのような実態を当局者は知っているのだろうか?


1980年代初期だったと記憶するが、「國際 シルバー・ボランテイア」と言う名前だったと思うが、一連のプロジェクトが実施され始めた。発想は中々良いとは思うが、企画した国会議員は頭の中でイメージしただけで、現地経験は全く無い人らしかった。私はこのプロジェクトで派遣された数名の方々の苦労を眼前で見たが、言葉の障壁で二進も三進も行かず、食事も口に合わない。

発案した国会議員さんは受け入れる受益国が当然通訳を付けるものと思っていたようだが、受益国側は英語はある程度は喋れると思っている。万事が食い違って、僅か一回か二回で苦難ばかりを残し引き揚げてしまった。余りにも杜撰な話だ。上述のインドネシアからの人達の話を聞いてこの経験を想い出した。


 

足になるが、表音文字に慣れた多くに国の人達には表意文字である漢字には戸惑うようだ。漢字の元祖である中国では発音を示すのに註音符号などが考え出されたが、今では殆ど廃れ、ローマ字によるピンインが使われる。例えば「中国」はZhong1 guo2と書く。数字は声調を表す。「漢字仮名混じり文」で書かれる日本語では表音文字である「仮名」で「にほん」または「ニッポン」などと書くことが出来るし、ローマ字化してNihon、「Nippon」とも書ける。

だから日本語は「表意文字の仮名」と「表音文字の漢字」が混じり合って書かれる。考えようによっては不思議な表記法だ。漢字圏でも朝鮮半島では表音文字の「ハングル」で書かれるのが普通だ。また漢字圏のベトナムではローマ字化して居る。しかし最近では漢字を習う人が増えているようだ。

日本語を習得しようとする外国人は、「何故日本語を仮名ばかりで、またはローマ字化して書かないのか?」と誰でも思うらしい。「漢字(カンジ)は感じ(カンジ)」で、直感的に複雑な意味を理解できるから実に面白いのだが・・・。

 

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NihongoPostscript

追 記


今(2010/03/03)はメデアが問題にし始めた。今年のインドネシア人の「介護士として日本で働きたい」と云う志願者数は最近3分の1に激減し、既に来日して研修中の、または就業中の介護士も職場を日本から中東諸国に移転することを考え始める人達が増えつつあると云うのだ。日本の馬鹿げた規則により、心配していたことがこの数ヶ月の間に爆発的に起ころうとしているらしい(例えばNHKの2010/02/16のクローズアップ現代などの論説)。少し引用してみる。

//引用開始

曰く「インドネシア人“介護士”」、EPA経済連携協定に基づき、今月からインドネシア人介護士候補の受け入れが全国で本格スタートした。徳島県吉野川市にある特別養護老人ホーム「水明荘」では全国で最も多い5人のインドネシア人が着任した。

彼らはインドネシアでは看護師の資格を持っているが、日本の施設で3年の実習を経験した後に、日本人と同じ介護福祉士の国家試験に合格しなければ在留資格を得て日本で働くことはできず、長い間日本で働こうと考えてきたインドネシア人に不安が広がっている。

また介護人材を送り出す側のインドネシアでも、日本ではなく中東やアメリカを目指す人たちが増えはじめている。さらに介護現場では言葉や文化の違いからコミュニケーションの問題も浮上してきている。外国人介護は定着するのか。徳島の介護の現場とインドネシアを取材した。(NO.2698)、スタジオゲスト : 結城  康博さん、(淑徳大学総合福祉学部准教授)。

//引用終わり

 

追記から読み始めたために、話の経緯が解らない人
は下記の「本項の冒頭に戻る」をクリックして下さい。

 

彼等はケータイで本国と交信し、日本での現状、中東諸国での外国人介護士の受け入れ態勢などの現在の状況などを良く把握しつつあると云う。此の儘では日本側の意図は失敗に終わるだろう。

インドネシアで介護士師の資格を持っている人は、サウジアラビアなど中東諸国では或る程度の英語を書いたり、喋ることが出来る場合は、直ちに介護士の資格を与えるそうだ。日本ではわずかな期間の日本語の教育を行うようだが、漢字を書くことが出来るようになるだけでも非漢字圏の人達には容易ではない。

おまけに「趾間腐爛」、「白脾髄」など普通の日本人すら読み書きが難しい言葉を覚えるとなると元々無理な話だ。(多くの医者はカルテには英語かドイツ語で書いている)。更に3ヵ年余の滞在期間内に合格しないと強制的に帰国させられると来ては「開いた口がふさがらない」。

かなり以前の話だが、海外の国際機関に勤務していた頃「シルバー・ボランテア」と云う制度が日本で始まった。「技術を持つ日本人を定年退職後に海外に派遣し、國際技術援助に役立たせよう」と云う話である。結構なアイデアである。

考え出した国会議員や役人は「ただ机上で立案しただけで、派遣した現地で何が起こるか?」に就いて事前に考えたことは無かったようだ。結果は惨憺たるものであった。派遣者の現地語や英語の会話力の有無は無視されていた。「受益国は有り難がって当然通訳を準備するだろう」ぐらいに思っていたらしい。

そればかりでは無い。宿舎はどうなるのか?食べ物は大丈夫か?立案者は考えもしなかったようだ。私は現地でそれらの数人を目前で見た。受益国側の現場の人々は「何故日本は言葉の出来ない人を派遣するのか?」、俺たちは上からの指示で「通訳をやれ」と云われて、忙しい処に更に仕事が増えた。「遣っていられない、どうしたらよいか?」と訴えられて困った。

ボランテアの人達は「日本で聞いてきた話と違う」と這々の体で帰国したがっていたが、お気の毒であった。インドネシア人の介護士の場合の問題と似ている。

一時期帰国で大手商社の海外駐在員と機上で隣り合わせとなった。彼曰く「日本の国会議員の半数以上が多少とも国際経験を持つ人とならなければ日本はグローバル化など云えた義理ではない」・・・。私もその通りだと思う。彼等は良く海外視察に行き、国際問題を知っているかのような顔をするが、所詮「お客様待遇の経験」しか無い。その経験でことを考えたら大間違いだ。

 

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DEC.8.1941

紙面の見出しから消えた12月8日

ハワイ真珠湾の奇襲、日米開戦の日

 

2009/12/10

真道 重明

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941年(昭和16年)12月8日、戦中・戦後の新聞・出版・放送・映画などのマス‐メディアは「12月8日」を日米開戦、アジア太平洋戦争開始の日として取り上げて居た。今年はどう言う訳か真珠湾・太平洋戦争・神風特攻・・・などの文字が紙面に見あたらない。

政権交代で沖縄の普天間・辺野古の問題が日米間で微妙な駆け引き問題となって居る最中だから、微妙な駆け引きを「マスコミが煽った」などと言われ兼ねないので意図的に「触らぬ神に祟り無し」とばかり黙止したように私には思われる。

余談だが、「へのこ」は古語の大和言葉では睾丸や陰茎を指す場合(漢字では陰核と書く。広辞苑)があるので、沖縄方言だろうが「へのこ・辺野古」を最初に見た途端、不謹慎と思われるかも知れないが、可笑しな地名だと、苦笑した。

尤も、女好きを意味する「女楽」と書いて「めら」と発音し、色摩と書いて「しかま」と発音する苗字もあるのだから、沖縄の「へのこ」を笑うことは出来ない。ついでに言えば花の名前に「ヘクソカズラ」(屁糞葛)と云うのがあるが、「呼べば心が和む」と云う人もある。「オオイヌノフグリ」という美しい花があるが、意味は「大犬の陰嚢」だ。「ふぐり」は古語で陰嚢を意味する。中学校の園芸で習った時に笑ったことを想い出す。


が変な方向へ脱線したので本題に戻す。日中戦争・太平洋戦争は「軍の独走であり軍以外の一般国民には罪は無い」と云う説があるが、マスコミは「勝った、勝った」と煽り立て、一般国民も自発的に「雰囲気に酔い提灯行列などを行った」と私は想う。敗戦色が庶民の心中に意識され始めてからマスコミを非難するようになったのは「一般国民の側も少し身勝手ではないのか?」。

現在のマスコミは過去の此れらの経験から、「国際問題はうっかり調子の良いことは云えない」ことを学んでいるかのようだ。「反論を併記する」か「ああでもないが、こうでもない」などの表現が多いように私には感じられる。

「一国の政権が変わっても二国間、多国間で交わした国際的条約は従来通りに守られる。相手国の事情にまで勝手に踏み込むことは許されない」と云うことを主張する人が居る。しかし、此れら国際的条約は慣習の範囲を越えないので、一方的に破棄したからといって罰則のようなものは通常無い。国際的約束や国際法はただ「国際社会での信用を若干失う」という程度である。

ヒットラーは総ての国際的約束を破棄したし、歴史を見ると此の様な例は沢山ある。だが罰則は無くても報復措置を執られることは多い。日本のアメリカへの依存度がこれほどにも高い現状ではこの点が気になる訳でしょう。

此れらの問題にこの種の問題に無知に近く、且つ凡庸な私には「ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった日本は、和平条約締結後の半世紀が経っても、未だにその軛から脱していないように思はれる。日本は米国に対し対等の立場でNOと云うことに躊躇せざるを得ないようだ。

傲慢な言い方と謗られそうだが、国家の存亡を意識しながら生命を懸けて覚悟の決心した戊辰戦争・日清・日露戦争に係わった人達に比べ、今の政治家にはそのような人物は居ないようだ。マスコミも同じだ。

何だか「気概に欠ける」と云うか、「無私」という心が無く保身と自己利益ばかり追究しているように思えてなら無い。どうも人間が小さくなってしまって、命を懸けても信ずることを云う大人物は居なくなった。

「あれだけ億単位の偽装献金が社会問題化しているのに、内閣支持率は60%台と高く、まだまだ多くの国民が期待しているのは事実のようです。それだけ、国民の多くが自民党政権に辟易していたともいえるのでしょうか。にもかかわらず、政権の寿命が見えてきたように思うのは、経済失政があったからではありません。顔や考え方が宇宙人だからではありません。日米関係をあまりに軽視しているからです・・・云々」という某紙のネット速報。

そのような次元の問題だろうか?

 

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NaturalSpan_of_Life

「天寿を全うする」の意味は?

 

天寿とは何だろう?人間は誰しも歳を取ると「自分は何歳まで生きられるのだろうか?」と考える。私は間も無く「米寿」(88歳)になるのだが、若い頃は「傘寿」(80歳)になる以前迄は、「せめて傘寿まで生きたら幸いだ」と思っていた。欲深いもので傘寿を超えると、「半寿」(81歳)迄は、それを超えると「米寿」迄は・・・と切りがない。寿命を表す言葉にも関心が出て来る。
処で、「天寿を全うする」と良く云うがこれはどう言うことなのか?「馬鹿の考え休むに似たり」だが、駄文を弄した。

 

2010/02/01

真道 重明

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端は永年の知己である魚食の効用に詳しい某女史からのメールである。曰く「必要にせまられて寿命の読み方を調べていましたら、よく『天寿をまっとおして』などの言葉を使いますが、天寿と呼ぶのは120歳であることを知りました。とうてい天寿をまっとおすことは不可能!まあ99歳白寿まではと思いますが・・・」とあった。

「天寿とは120歳のことか」と知り、いつもの癖で俄然興味が沸き私も調べてみた。広辞苑を見ると「天から授けられた寿命。天年。定命(ジヨウミョウ)」とある。他の辞書やネットを検索してみると某女史の云う120歳は「昔寿 」(セキジュ)、または「上寿 」(ジョウジュ、中国古伝説より)、及び「大還暦」(これは嘗ての長寿世界一だった「泉 重千代」を讃えるために作られた言葉だそうで2回目の還暦を迎えたことによる)と云うらしい。なお、「天寿とは250歳」とある。

某女史からのメールにある「天寿=120歳」説を探し当てることは出来なかったが、女史の言によると旧約聖書の「ノアの箱船の大洪水」を境に以前と以後とでは人間の寿命は大きく変化したらしい。此れらの言葉は佛教・キリスト教・中国などの古典に由来するものが多いようだ。

また、漢字の場合は「米寿」は「米」の文字を「八・十・八」に分解して88歳とする、また、99歳の「白寿」は百の文字から上の「一」を取り去ったら「白」となる、即ち 100ー1=99と云った「謎かけ的な「クイズ」の類いで、文字の点画を分解して数として読み換えるようなもの」が多い。

そのことはさて置き、広辞苑その他の辞書の多くの解説では、@ 『「天寿とは、天から授けられた寿命。天年。定命(ジョウミョウ)。「天寿を全うする」など』とあり、また、A 『「250歳のこと」と云う解釈が付記されて居る場合も多い』。「喜寿」、「米寿」、「百寿、モモジュ」、「昔寿」などの漢字で表す年齢用語数は少し調べてみても少なくも80個以上もある。

前者 @ では「彼等8名のうち5名は各々の戦で戦死し、残りの5名はその後夫々に彼等の天寿を全うした・・・」などと書かれて居る。また、「彼は目的を達して間も無く世を去った・・・」。「まさに天寿を全うしたと云える」などの言葉もある。後者 A の場合は250歳まで生きることは科学的には非現実的であり、神話は別として実際には有り得ないから、寿命に関連した一種の古典的な文章と云うことになろう。


或るサイトには「天寿・寿命」に関し、次のような記述があったので引用する。(site は終末期関連用語集)。

//引用開始(1)

人々には予め定められた寿命があるものとして、それを天寿または寿命と云う。人それぞれのものであって分からないが、若し DNA をすべて読めるようになれば、 受精した瞬間に、この命は途中の事故がなければ、何歳ごろ、どこのがんで亡く なることが分かるという遺伝学者も居るが、それが分かるようになることは、人 間にとって幸福なこととは思え無い。85歳くらいまで生きれば、本人も、残された家族も「歳に不足はない、天寿を全 うした」と考えるのが普通ではないだろうか。

現在では平均寿命が女性では83歳、男性では77歳となっている。平均寿命はその年に生まれた子どもが平均して生きる寿命を云うことになる。すでに50歳、60歳になっている成人の平均予命は平均寿命プラス何年かになり、85歳まで生きること、すなわち天寿を全うすることは、難しいことではない状況になっていると考えてよい。

//引用終わり(1)

上記の数値は少し古い統計で、1999年に WHO が公表した最新の保険統計のデータ(1997年の調査)では「日本の女子は86歳で世界1位、男子は79歳で世界3位」となっている。余命を考えると88〜89歳ぐらいだろうか?

上の引用文は「人々には予め定められた寿命があるものとして・・・云々」とあるから一種の宿命論である。自分で変えることは出来ない。一方、WHO の数字は科学的な確率論だが、国により、即ち生活習慣や食事に左右される筈だし、既往症の有無や医療技術の進歩も大きく関与する筈だ。十把一絡げに何歳という調査結果は個人の問題を考える場合には「余りにも単純かつ乱暴すぎるから、「考慮に値しない」と云えば言い過ぎだが、自分のケースとして考えるには不充分だと思われる。


「老化の科学入門」と題した Web 上の文章(百万遍ネット)を探し当てた。勉強になるので引用した。原著者に謝礼を申し上げる。

//引用開始(2)

私が放射線と老化の関係に疑問を持ちながらもなお老化の研究を進めてきたのは、学生時代に読んだメチニコフの長寿の科学的研究という本の強烈な印象があったからである。この本は「楽観論者のエッセイ」というのが元の題名で昭和十七年に「長寿の科学的研究」と訳されて出版された。メチニコフはロシア生まれの生物学者でパリーのパストゥ−ル研究所で活躍し、1908年に食細胞の発見という功績で、ノーベル賞を受けた大科学者である。食細胞というのは白血球の一種で体内に入った異物などを食べて処分する働きをするもので、現在ではこれが免疫反応の引き金になると重視されているものである。

この本でメチニコフは人間を含むいろいろの動植物の死に方を調べ、人間には天寿というものがあって、それが全うされれば安らかに死ねるのだと考えた。しかし、実際には多くの人々はいろんな健康上の障害のために天寿を全う出来ないで不安のうちに死を迎えることになる。この障害の最大のものが腸内細菌の生ずる有害物質による自家中毒で、これを乳酸菌(いわゆるヨーグルト)で置き換えることで長寿が得られるのだというのがメチニコフの主張である。

 メチニコフは天寿の傍証として有名無名のいくつかの例をあげているが、私はその中で80才を過ぎて大作ファウストを完成し、若い少女に恋をしたゲーテの伝記に感激し、当分ゲーテに没頭した感激は今も忘れられない思い出である。

 さて、この本の中に次のような記事がある。それは九十三才の女性の言葉として、「もし、あなたが私位の年になったら、死がちょうど眠りのように必要なものになるということが分かるでしょう。」と。私にも昭和の初めに94歳の曽祖母を送ったことがあるが「こんなに沢山、大学生までいる曾孫達に送られてあの世へ行けるのは楽しい」と言って眠るように死んでいったのを今でも憶えている。 残念乍らメチニコフは71才の誕生日に病の床にあり、「私は71才に達した。永らく病むことなしに急速に死にたいという私の夢は実現しなかった。・・・」と手帳に記し、その後自らペンはとることの出来ない状態で二ヶ月後に死を迎えた。それでも彼は老化研究への大きな指針を残してくれたことを忘れてはならない。

 現在の我が国には百寿者(100歳以上の人)の研究がある。1963年には153人であった百寿者が、1997年には8,491人に増えている。これは大変嬉しいことではあるが、そのなかに従来の遺伝的エリートとも言うべき百寿者のほかに、高度な医療やケヤーに支えられて100歳にとどいたという有病百寿者が存在するということである。これを見るとどうやら、医療の関与が複雑で天寿の研究はかえって難しくなったように思われる。

//引用終わり(2)


上述のように「メチニコフは人間には天寿というものがあって・・・云々」と云っているようだが、科学者である彼も、宿命論的な要素を持って居たように思える。『宿命論とは「一種の決定論」であるが宗教的色彩が強く、自分が自由意志と思い込んでいるものも実は全知である神が前からそうなるよう定めていた、という風に解釈する。例えば或る「宿命論」を読んでそれに反論しようとしても、その反対したこと自体がすでに定まっていた、という風になり基本的な反証できない性質の論理である』とものの本には書いてある。

こうなると難しくて、凡庸な私の思考の範囲を超えている。一体私は此処で何を云おうとしているのか頭が混乱してしまう。

天寿を250歳という説を取れば「常識では先ず有り得ない話だ。「天寿を全うする」ことなど不可能と云うことになる。冒頭で述べた「その後夫々に彼等の天寿を全うした・・・」と云う意味に「天寿」という言葉を使えば、何歳とは特定できない。各人の人生観、生死観、局面の如何によって異なることになるものと思われる。

もう、この辺りで私の愚文を止める。読まれた方々には深謝を申し上げたい。

 

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OJIGIandOBAMA

オバマ大統領のお辞儀,etc.

2010/02/24

真道 重明

 

先日オバマ大統領が来日して、天皇・皇后両陛下を訪ねた際に、握手をしながら腰を90度に曲げて深々とお辞儀をした。米国の保守系FOXテレビは15日、外国の要人に頭を下げるのは「米国の大統領として不適切」と批判したらしい。
それより先、オバマ米大統領が金融サミット出席のために訪問したロンドンでアブドラ国王と握手をした際、お辞儀をしたと米保守系メディアなどが指摘、物議を醸している。
米ワシントン・タイムズ紙は「イスラムに多大な敬意を示すために体を折り、大統領は米国の力と独立を矮小(わいしょう)化した」と論説したという。ギブズ米大統領報道官は9日「握手しようとかがんだのだと思う」と述べ、お辞儀したとの指摘を否定した(共同)。これらの話は私にとっては感じる処が多い。触発されて駄文を書いた。

 

辞儀とは何だろう?頭を下げて相手に敬意を示す仕草であることは誰でも知って居る。日本人は大のお辞儀好きで「今日は」の挨拶や「もうしわけありませんでした」と謝罪する場合にもお辞儀をする。

最近はそうでもないが、テレビのニュース・キャスターが最初に「今日は!、ニュースをお伝えします」と云って軽くお辞儀をする場合が多い。タイ国・スリランカ乃至インドなど仏教国やヒンズー教国などの場合にはテレビのニュース・キャスターは最初に必ず合掌するが、これと同様である。

会社や団体がミスを犯してユーザーや視聴者に対して謝る時、起立して一列に並んで一斉に深々と頭を下げるシーンが良くある。この光景を見た外国人が「あれは何をしているのか?セレモニーのようだが?」と不思議がることが多いと聴いたことがある。兎に角、日本人は無暗にお辞儀をする。

欧米人でなくても多くの外国人は言葉で謝罪を述べるが、お辞儀はしない国々が普通のようだ。善悪の問題ではなく日本社会が歴史的に育んで来た慣習である。ちなみに日本人は電話や面談で話し始めに「済みません」という言葉を発する人が多い。何も此方に落ち度がある訳ではないにも拘わらず・・・である。日本人は無暗にお辞儀をし、無暗に謝っている(笑い)。

先方に敬意を表す方法には「お辞儀」以外にも多々ある。剣道や相撲の試合前の蹲踞もその一つだと私は思っている。手漕ぎ舟艇のカッターやピンネスの「櫂立て」もその一つである。学生時代に館山の舟艇訓練で沖に停泊している航空母艦に近づくと「櫂立て」の号令で挨拶した。母艦からは手を振ってくれたのを想い出す。

軍隊の「挙手(きょしゅ、お手上げではない)」や「捧げ銃(ささげつつ)」も対象に敬意を示す動作だ。エスキモーは「相手の顔おを見ながら舌を出す」と聞いたことがある。真偽の程は分からないが昔の伝統ではどうも本当らしい。

話を「頭を下げて相手に敬意を示す仕草」の「お辞儀」に戻そう。「叩頭」(こうとう)と云う言葉があるが、叩首とも言い「頭で地をたたく意」で 頭を地につけて拝礼することらしい(広辞苑)。お辞儀の最たるものとも云えよう。「頓首」も「中国の礼式で、頭で地を叩き、また頭を地につけて敬意を表すこと。もと対等の礼に行い、後に君主に対して行なった」とある(広辞苑)。日本の「土下座」のようなものか?

テレビなどを見ていると米国などでは国歌斉唱の際、胸に手を当てて注目している。欧米の時代劇などでは、臣下が国王に対するときなどは「胸に手を当てて注目し、更に腰を深く折って頭を下げる」所作を良く見る。


頭で述べた「オバマ米大統領が金融サミット出席のために訪問したロンドンでサウジアラビアのアブドラ国王と握手をした際、お辞儀をしたと米保守系メディアなどが11日までに指摘、物議を醸している。米メディアによると、オバマ氏は1日、英バッキンガム宮殿で行われたエリザベス英女王と各国首脳との写真撮影の前に、頭を下げたような姿勢でアブドラ国王と握手。米ワシントン・タイムズ紙は「イスラムに多大な敬意を示すために体を折り、大統領は米国の力と独立を矮小(わいしょう)化した」と論説したという。

ギブズ米大統領報道官は9日「握手しようとかがんだのだと思う」と述べ、お辞儀したとの指摘を否定した」という(共同)。

オバマ米大統領が天皇、皇后両陛下に90度のお辞儀をしたことについて、米国のみならず韓国でも大きな話題を呼んでいるらしい。アジア歴訪で14日に来日したオバマ大統領は、天皇、皇后両陛下を訪ねた際に、握手をしながら腰を90度に曲げて深々とお辞儀をした。これについて、米国の保守系FOXテレビは、外国の要人に頭を下げるのは「米国の大統領として不適切だ」と批判したと云う。

このオバマ大統領が見せた90度のお辞儀に、衝撃を受けたのはアメリカの保守派だけではなかったようだ。韓国でもこのことについて、大きな話題となったらしい。ネット上には米国の反応をはじめとし、歴代の韓国大統領が両陛下と面会した際の様子を比べた文章などが掲載され、賛否両論の意見が寄せられているようだ。

全体的な反応を見てみると、4割ほどが「驚いた」としながらも「外交儀礼」として見ているようだ。「礼儀正しいことが罪なのか?」「大統領でもあり大の大人であるオバマ氏が、当然の礼儀を見せただけ」「年長者に対する礼儀であろう」「どうやら米国は相当プライドが傷ついたようだ」・・・など。

だが、残りの6割はオバマ大統領のお辞儀に「ショックを受けた」という意見で占められているらしい。「米国が作った映画を見ると常に地球を救うのは米国人であった。そのような映画を見て育った私にとってはひどく失望させる姿で、気力すら無くなった」、「米国が日本に…いくら外交儀礼だからとはいえ、これは違うと思う」、「米国が日本に屈した」・・・などである。

韓国では「オバマ大統領が見せた90度のお辞儀が「東洋式の挨拶」を尊重して行なったのであれば、韓国でも同様の丁寧な挨拶をするのではないかといった推測も流れている・・・云々(トレビアン韓国)。


れらの記事を見た私は、旨くは云えないが、何だか「自国の慣習を正しいとし、他国の慣習を劣るものとする理不尽な傲慢さを感じ、馬鹿げた議論のように思った。慣習の異なる他民族から構成され、今は嘗ては奴隷だったアフリカ系の黒人を大統領に選出しているアメリカ合衆国ですら、未だ社会内部には白人社会の慣習を優れたものとし、異なった慣習の人々のそれらを受け入れ尊重することに抵抗を感じる白人の人達が多いことを如実に示している。「握手なら良いが、お辞儀の場合は問題がある」などの発言は興味深い。

「お辞儀」と「握手」はどちらも挨拶として行われるが、「お辞儀」は相手への敬意を表し、「握手」は親睦・和解の表現として行われるという微妙な違いがある。日本の挨拶の代表格であるお辞儀は主に東アジアで見られるが、西洋でも行われるのは衆知のこと。西洋の挨拶は握手が主だが、女性が男性に、または女性同士の場合には握手をせずに軽くおじぎをすることが多い(日本文化いろは事典)。

中国でも古くから握手はおこなわれたらしい。『後漢書』には「以為既至当握手如平生歓」とあり、また、韓退之の『柳子厚墓誌銘』には、「握手出肺肝相示」とある。相思相愛の男女が相会するのを「肩を抱いて手を握る」とか「手を握って腰を抱く」とかいう(Wikipedia)。

Kiss (接吻、これは Wikipedia に依ると明治20年(1887年)に造られた新語だそうだ)も欧米から輸入された慣習で「愛情・あいさつ・尊敬などのしるし」の一つだ。それ以前から日本にあった「くちずけ」や「くちすい=口吸い」は思相愛の男女の行為で、額や頬にする kiss とは異なる(尤も男女が相互に唇を接する場合も kiss と称するが・・・)。ちなみに日本では男性が初対面の女性にいきなり kiss をすれば、日本の法制では「強制わいせつ罪や暴行罪」が成立するそうだ。

時恰もモントリオールでの冬季オリンピックの最中だが、女子フィギャーの選手が闘い終わって監督との kiss シーンは連日見ている。既に慣習として定着したかのようだ、違和感は無い。例により私の話が脱線しそうになったから本題に戻そう。

ロトコル(儀典、外交儀礼)と云う言葉がある。日本の在外公館には、「儀典」と書かれ、下にローマ字で Protocol と記してある。外交の場や国際的催しで、その実務や交流の場における公式な規則や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめたもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や慣習を成文化したものであり、法的な拘束力はもたない(Wikipedia)。

【注記】 コンピュータ等の電子機器間で通信する際の取り決めをプロトコルと呼び、最近ではこの言葉は電子工学用語(例えば HTTP HyperText Transfer Protocol)や HTML (hyper Text Markup Language )などと思っている人も在るようだが、これは急速に発展しつつあるコンピュータの世界で最近使われ出した全く別の用語である。

話を本題に戻す。「法的な拘束力はもたない」とは言え、儀典、外交儀礼を意味するプロトコルは各国で国王に表敬訪問をするなどの場合にセレモニーの慣習が異なることによる「不便さ」や誤解・差別感などを避けるため双方が納得する「取り決め」であって、その考えの基本は上述の米国などでの論議などとは正反対の思考であると私は思っている。

オバマ大統領の天皇に会ったときの映像なども Web 上に公開されているが、私はごく普通の形の所作で、特に問題視するのは馬鹿げて云うと思った。「人類は未だ未だ愚かである」と思う。

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Homepage&BlogSaving

HPBlog 永久保存の問題

 

世界中には膨大な数のホームページやBlogが存在する。それらの開設者の中には何らかの理由で、本人の意に反して、閉鎖せざるを得なくなり、続けられなくなる場合が起こり得る。
開設した以上多くの閲覧者に読んで貰いたい。どうすれば良いのだろうか?

2010/02/28

真道 重明

 

ホームページやブログを開設している団体や個人は、その開設の目的の如何を問わず、多くの閲覧者に読んで貰いたいと思っている。同時にその内容が「有意義か否か」は別として、取り分け個人の場合はその人の「存在を後世迄残したい」と云う意図を持っているのが普通であろう。良く当世流行りの自費出版で自叙伝を出版する人が在るが、その意図の現れである。

他人の映を訪問した際、その家族の分厚い写真アルバムを見せられることがあるが、特別な事情がある場合は別として、何の係わりもない人々の写真なぞ面白くも何ともない。自費出版の自叙伝(自分史)もこれと同じで、わざわざ寄贈されて来ても、謝辞の手紙は出すが、興味がなければ一瞥したきり直ちに書棚の隅に放り込むなら未だしも、中には屑籠にポイと捨てられる運命にある。

友人の一人はパソコンに書いたものを CD に焼いて「読んで呉れそうな友人に送る心算だ」と云っていたが、実行する前に他界して了った。現在に技術では CD に焼いたものは10年ぐらいで焼き直さないと消えるそうだ。ホームページなども編集し直して CD にして呉れる処もあるらしいが、結局は冊子の自分史と基本的には同じ運命にあるらしい。

首記の問題に関連のあるサイトの検索をしていたら、私の問題と同じことを取り上げて論じた「夢工房」氏の文章に出会った。内容は次の通りである。


ホームページの永久保存

 日本のすべての本は国立国会図書館に納める事になっているらしいのですが、ホームページの扱いはどうなっているのでしょう。日々更新しているホームページを保管するとなると大変ですが、何とかして永久保存をしてもらえないかなと思っているこの頃です。というのはもし交通事故かなにかで急死した場合、プロバイダーに入金されなくなってホームページが消されてしまうと、もう私のホームページは誰も見る事が出来なくなってしまうからです。

内容はともかくこの世に生きた証として、ホームページの永久保存をしてくれるところを公共又はボランテアの手で作ってもらえないかしら。メモリアルページとして遺族や友人が見る事ができるし、100年後や200年後には古文書としての価値が出てくると思うのです。

各市町村からオンラインで死亡者のリストを入手して、プロバイダーが永久保存用の専用機関にその人のホームページを移すというサービスはできないでしょうか。あと30年もするとそういう要望がぐっと増える気がします。今のうちから考えてもいいのではないでしょうか。江戸時代の平凡な日記が今では貴重な資料となっている事を考えると、平凡なホームページも後々文化財としての価値になりうる思います。


ホームページの「永久保存を代行するサービス」を行っている処などもあるようだが、其処が倒産すれば同じく Web の上から消えるだろう。国家が崩壊しない限り、国立国会図書館などの組織は先ず存続するだろうからこの目的のためには最も相応しいものと思われる。

知人の Wilhelm  さんはドイツのボン大学出身で同校で学位を取り来日していた。彼の専攻分野は「民族の民俗研究」で、資料収集には各国のホームページやブログの永久保存を主張して居た。数回個人的面談したが、「日本の研究者はデジタル情報管理が遅れている」、「ブログ日誌などで一見何でもない内容、例えば『今朝の朝食は漫画喫茶でワッフルと珈琲で済ました』と云った記事は一見余り価値はないと思われ勝ちだが、「実は民俗学の研究上では多いに役立つ」と主張していた。

情報技術の急速な発展によって、サーバーの容量はメガバイト、ギガバイト、テラバイト、ペタバイト、エクサバイト,更にはエクタバイトゼタバイト(1.,000,000,000,000,000,000,000,000,)と天文学的に巨大化するだろう。近い将来には、素人考えだが、サーバーの容量問題は無くなるのでは無いか?

国立国会図書館では「近代デジタルライブラリー」と称して「インターネット上の情報を文化資産として保存することを目的とする WARP (インターネット情報選択的蓄積事業)など、様々な電子図書館コンテンツが既に公開されている)。

一国の情報資源の網羅的収集を役割とする国立図書館として、国立国会図書館がインターネット上で流通するネットワーク系電子情報をも網羅的に収集して保存することが検討されている。国立国会図書館の納本制度の運用について調査と審議を行う諮問機関である納本制度審議会は、2004年(平成16年)に行ったネットワーク系電子出版物の収集に関する答申において、インターネット情報の収集と保存、提供を制度化するよう勧告がなされている。、

過激なポルノや犯罪に該当する記事の除外、版権の問題など多少は面倒なのかも知れないが、超党派的にこの問題を前進出来ないものだろうか?

切望している人々は私だけではなく大勢存在すると思うのだが・・・。

 

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上西 俊雄氏のコメント

[再録]

シルバー新黨に期待する。 國語が基本だからだ。

2010/04/17

上西 俊雄

.「立上がれ日本」黨、鈎括弧の附け方が難しい。1884 號を見ると平沼新黨と呼ぶ人もあるが與謝野さんのこともあり、さうも呼びにくい。平井さんがシルバー新黨「たちあがれ日本」と書かれた。これに從ふこととする。

みんなの黨といふのもある。これも鈎括弧の附け方が難しい名前の一つだ。その黨首がシルバー新黨について感想を求められて一言アヂェンダと言った。

柳父章氏の言ふ外來語のカセット效果を思ひだした。カセットは寶石箱の意味。聽いた人がめいめいに美しい内容を想像するといふのだ。制度設計拔きの政策でも政治的效果は大きいだらう。シルバー新黨の發表にはさういふものがないのが清々しい。

常用漢字表、當局は定期的に漢字表を見直すと言ってゐたが、今回は碍、玻、鷹などの追加は見送ったとのこと。よかった。これで三鷹市民は大手をふって常用漢字表を無視することができる。「玻」は人名漢字どころではなく常用漢字への追加候補だったのだ。

その使用を禁止することを最高裁判所は是とした。もし玻が追加になってゐたらどうするつもりだったのだらう。一體、裁判官や文部當局は表記を如何なるものと考へてゐるのだらうか。表音といふことからその時代時代で變るべきものだとする前提があるやうに思はれてならない。

眞道さんのサイト:−

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/index.htm

の「自傳と ESSAY」其の4に「HPBlog の永久保存の問題」と題して、世界中には膨大な數のホームページや Blog が存在する。それらの開設者の中には何らかの理由で、本人の意に反して、閉鎖せざるを得なくなり、續けられなくなる場合が起こ得る。開設した以上多くの閲覽者に讀んで貰ひたい。どうすれば良いのだらうか?(國會圖書館での保存を期待したい)との問題提起があるが、政府が「表記」を定期的にいぢられてはたまったものではない。

「自傳と ESSAY」其の4には「外國人の日本語の習得」といふところがある。インドネシア人の介護士の場合、「心筋梗塞」、「膨滿」、「嚥下」、「腫瘍」「脾臓」・・・などの醫學用語について讀み書きが出來ることが前提なのださうだ。手許の辭書では梗塞嚥腫瘍脾臓が表外字。

日本人に表外字だからと使用を禁止しながら、外國人には表外字の讀み書きができないからと不合格にするのはあまりに阿漕ではないだらうか。

漢字が難しいからと厚勞省は難解用語の言換へなどの檢討を始めるとあるが、見當違ひだと思ふ。試驗に通るかどうかが問題ではなく、彼ら彼女らが介護士として役立つかどうかが問題だからだ。

介護の現場で漢字が使はれる以上、漢字は讀めた方がよい。しかしそれはだんだんと覺えるしかないのではないか。音を教へるならルビでなくローマ字の出番だらう。但し、通行のローマ字はヘボン式にしろ訓令式にしろ、日本語を習得してゐることが前提だ。

少しローマ字のことに觸れる。

國土地理院時報 平成 17 年第 108 集「地名のローマ字表記」:−

http://www.gsi.go.jp/REPORT/JIHO/vol108/8.pdf#search

(= 地名のローマ字表記) 國土地理院 によれば、國土地理院長達第 34 號(平成 16 年 11 月 11 日)によって陸圖も海圖も地質圖もこれで統一されることになるやうだが、長音記號は用ゐないとなってゐる。つまり大黒も小黒も oguro と書くわけだ。これでは日本語教育に用ゐることはできない。

基本は日本語が等時拍であって、長音といふものはなく、長さは母音の數に比例するといふことだ。だから 小黒は oguro 大黒は o`oguro のやうな書き方が大事。

これを一方を長音だとしてアクセント符號でまとめたのは歐米人にとっての便法ではあっただらうが、まとめた上でアクセント符號を省くのは本末轉倒。なほ o`oguro は大黒の歴史的假名遣を擴張ヘボン式によって轉寫した綴り。

眞道さんのサイトの引用(下記)に戻る。


1980 年代初期だったと記憶するが、「國際シルバー・ボランテイア」と言ふ名前だったと思ふが、一連のプロジェクトが實施され始めた。發想は中々良いとは思ふが、企畫した國會議員は頭の中でイメージしただけで、現地經驗は全く無い人らしかった。

私はこのプロジェクトで派遣された數名の方々の苦勞を眼前で見たが、言葉の障壁で二進も三進も行かず、食事も口に合はない。發案した國會議員さんは受け入れる受益國が當然通譯を附けるものと思ってゐたやうだが、受益國側は英語はある程度は喋れると思ってゐる。萬事が食違って、僅か一回か二回で苦難ばかりを殘し引き揚げてしまった。

餘りにも杜撰な話だ。上述のインドネシアからの人達の話を聞いてこの經驗を想ひ出した。

蛇足になるが、表音文字に慣れた多くの國の人達には表意文字である漢字には戸惑ふやうだ。漢字の元祖である中國では發音を示すのに註音符號などが考へ出されたが、今では殆ど廢れ、ローマ字によるピンインが使はれる。例えば「中國」は「Zhong1 guo2」と書く。數字は聲調を表す。

「漢字假名混じり文」で書かれる日本語では表音文字である「假名」で「にほん」または「ニッポン」などと書くことが出來るし、ローマ字化して「Nihon」、「Nippon」とも書ける。

だから日本語は「表意文字の假名」と「表音文字の漢字」が混じり合って書かれる。考へようによっては不思議な表記法だ。

漢字圈でも朝鮮半島では表音文字の「ハングル」で書かれるのが普通だ。また漢字圈のベトナムではローマ字化して居る。しかし最近では漢字を習ふ人が増えてゐるやうだ。

日本語を習得しようとする外國人は、「何故日本語を假名ばかりで、またはローマ字化して書かないのか?」と誰でも思ふらしい。(引用終わり)。


日本人と結婚した香港の女性、母子手帳の中の記載が正字體であれば、少しは理解できるものをといふことを新聞で讀んだことを思ひ出した。漢字學習を強要した揚句に國外追放になり、しかも、その學習した漢字の知識が他の國では通用しない字體であることの恨みを當局は考へたことがあるだらうか。

以上、表記の問題がきはめて今日的問題であること訴へたく目に觸れたものを擧げ、併せてローマ字方式の問題を論じた。(表記は引用部分も好みに從った。頂門の一針、1886号、2010/04/17.)

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yjl_paper1

【日本語の解説は末尾に在ります】

第一个走過羅湖橋的日本水産専家

                             2010/04/25

楊 嘉麗

真道重明先生是日本水産界コ高望重的老専家,今年就要88歳了。頭髪有些稀疏了。但是総是梳理得整整斉斉;腰有些弯了。但是眼睛仍然炯炯有神,説起話来談笑風生,趣味悠然。

二次大戦后期的1943年,日本政府在学生中征兵,称之為[学徒出陣],真道先生被選為学生兵的代表,在壮行式上発言,60年后這分文稿被整理出来并送到老人手里請他確認,老人在回憶文章中説他発言的時候分明看到有的老師含着眼泪給学生送行。

在中国打了几年仗,因為是気象兵,没有直接上戦場。在日本時真道先生就開始学習中文,到中国以后結交了很多中国朋友,従知識分子到売豆腐的。

戦后真道先生回到日本,継続学業。新中国成立以后,真道先生是第一个進到新中国考察水産業的日本政府官員,受到周総理,廖承志等領導人的接見,従那時起到現在,真道先生一直和中国水産界的老学者朋友保持着聯系。真道先生曾多年駐聯合国粮食農業機構(羅馬),東南亜漁業開発中心(曼谷)工作,在日本水産界倍受尊重。原是日中農林水産交流協会水産部会長。國際漁業研究会副会長。

回憶往事,真道先生談起過二次大戦結束后,在軍隊里,因為他会説中文,一度給国民党和日本軍做翻訳。抗日戦争結束后,共産党和国民党再次戦場論英雄,国民党無暇養活這麼多的日本戦俘,要求日本兵們尽快回国。

当時真道先生的中国朋友以為他是中国人,体貼地動他不要去日本,并表示愿意收做学徒。可以想見那時真道先生的中文説得很好了。他還講起一件真実的事情,当時日本兵作為戦俘,被国民党監管,国民党兵和.一支軍隊的士兵早上互相射撃,中午却在一个食堂吃飯,日本戦俘也在一起,他聴到中国.只軍隊的士兵們互相討問軍餉,軍餉低的有人[転軍]到軍餉高的一方去。他説如果没有切身経歴,現在的人很難理解那時的還境和所発生的一切。

他還在回憶文章中記述起日本兵撤退時,因為船只有限,本規定以載人為主,可是却有帯着細軟的軍官坐在船上,不承想細軟被衆人発現,于是為了懲罰這个軍人,在船上成立了臨時法庭,対他的自私行為進行宣判并体罰,也就是給他一頓拳打脚、打的鼻青顔腫。細軟也.進了海里。

真道先生的祖上是日本肥後地区---熊本一帯細川家的武士。日本的武士産生于由源頼朝創建的幕府時代,,一直到大政奉。在幕府時代,行政区域以藩割分,藩的最高地位是将軍,将軍下面就是武士,関于武士有一本著名的書--武士道,作者是新渡戸稻造。新渡戸稻造的太太是美国人,美国太太常常対日本人的很多言行不理解;新渡戸有外国友人,友人問及日本有没有宗教信仰,他説没有,外国友人説没有宗教信仰,道コ教育如何成立?有感于此種種.,新渡戸用英文写了武士道這本書。武士道一詞由此而広泛使用。

武士家身分高貴,家規厳格,真道先生孩童時不能随意進入父母的房間,要先在房間外問候得到允許再進去,但是這并不糸毫影響骨肉感情。真道先生做学問做到了博士。他的叔父真道黎明是著名的画家,受到日本美術院横山大観的賞識。真道先生的胞弟是諾貝尓物理学賞湯川秀樹教授的弟子,

真道先生年軽的時候游泳和音楽都很有造詣,強記博聞,熟知英文,中文,泰文,等多国語言文字,現在依然朗朗上口,他和中国水産界有近 60年的交往,是戦后日本政府派往新中国作水産考察的第一人者,従香港過羅湖橋経深.進入中国,到過中国的很多城市,対中国很熟悉,那時和共産党国家接触過的日本人非常少,真道先生為此也付出了很多,再此不一一詳述。

如果不是文化大革命,他和中国的交往会更多,真道先生喜歓交朋友,他的朋友中年経的才十几歳,他一直説自己是不主張有国家的。在泰国的聯合国机.工作時,他資助了為自己開車的司机和女傭,司机后来成了某建築公司的董事長,女傭成了当地的婦女界某団体的首領。

真道先生有自己的主頁,雖然年近九十,但是仍然在辛勤地写作,写自己的経歴,回憶,以及各種各様的知識性文章,既有知識性,又有趣味,老人家非常地有学者風范,言語挙止令人敬佩。筆者的日文笨拙,経老人点撥修正,一字之差.時就能使文章生輝,自感羞愧,受益匪浅。引用真道先生老友的表述,愿真道先生福如東海,寿比南山。

(完)

 


この項の冒頭に戻る↓

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/jibunshi8.htm#yjl_paper1

 

以下は日本文に依る本項の追補と解説

第一个走過羅湖橋的日本水産専家(初めて羅湖橋を渡った日本の水産専門家)の羅湖橋は中華人民共和国と当時(1957年)英領だった香港の新界(New territory)との国境である河に架かる橋の名称。日本と中華人民共和国との国交は未回復の時代である。真道は国家公務員として農林大臣の命令で中国を訪問した第1号であった。

中国文の著者の楊嘉麗女史は楊U会長(1918ー1995,初代の中国漁業協会会長、日中民間漁業協議会の中国側の初代窓口)の息女である。

母国で「IT関連の科学技術」を専攻後、日本留学、日本語に堪能。現在、IT関係企業の副社長として駐日。国交未回復時代の1957年に日中民間漁業協議会から派遣された小生は尊父の楊U氏のお世話になった。

上記中国文の原文は簡体字で書かれて居るが、今回常用漢字に変換した。

楊Uさんのこと

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Okenmin

書評

中日文化交流史

王建民 主遍 外語教学与研究出版社版

 

20112

真道 重明 

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中日文化交流史、ISBN:978-7-5600-7016-2、著訳者:王建民 主遍、開本:大32頁数:220頁、装丁:平、定価:11.90、出版日期:2008-01-16、外語教学与研究出版社(北京)。

本書是按照年代順序,以人、事為軸心,特別是図繞産生重大影響的歴史人物和事件,尽量理清歴史的発展脉絡。中日両国間具有両千多年的文化交流史,内容涵括宗教、文学、経済、政治、風俗等,本書在篇写上深入浅出、通俗易解読。同時注重以充注的歴史資料依据、注重文化精神的伝授。本教材可用于課堂教学,也可用于教学補助参考書。

 

書は9名の編集参加者と共に主編者としての王建民女史の努力で出来上がった。本書の大きな特色は、中国から出版されてはいるが、前言(まえがき・序文)の中国語を除き、目次以下本書の主体を占める内容が日本語で書かれて居る点である。

なお、王建民女史は日本文学を専攻し、関西の有名校に留学の経歴を持つ。上海海洋大学の中にある外国語学院で日本語を教えて居り、日本語には極めて堪能な人である。

日本と中国との文化交流に関する著作は両国各々に沢山あり、専門家による高度に学術的なものから、一般人向け、学童向け・・・など多種多様であるが、本書は210頁に亘り「読み易く、肩が凝らない」文章で綴られている。

古代篇 第一章の「縄文文化と大陸文明」から、現代篇 第十三章の「中日文化交流の回復と発展」まで、「漢委奴国王」の金印、「法隆寺」、「唐招提寺を創建した奈良時代の帰化僧『鑑真和上』の話」、「聖徳太子」、「唐三彩の馬」と奈良三彩、「良寛さん」と中国、現代では「魯迅と内山書店」、「郭沫若」、「帝国劇場での梅蘭芳の数次に亘る京劇の公演」、等々、多くのエピソードに満ち、一気に薄れ掛けていた数多くの記憶を取り戻しながら読み通した。

我々は日本から両国の長い歴史関係を眺めるが、これは中国から友好の精神に貫かれて日本を眺めている。知らなかった話も多々あった。

皆様の一読をお勧めしたい。

 

中国の「百度」検索エンジンで見付けた本書の紹介記述(中文)↓

http://www.bookuu.com/kgsm/ts/2007/11/21/1210060.shtml

 

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