jibunshi7

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AwabiNoKataomoi

磯の鮑の片思い

 

[寄稿]

2009/05/19

三浦 福助

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「磯のあわびの片思い」とは、古くから言い慣わされた言葉で、万葉集のなかの歌が起源だそうです。

伊勢の海人 朝な夕なに 潜ぐといふ あわびの貝の片思いにして (作者不詳)。

これは、あわびが二枚貝の片割れのように見えることから、片割れの貝殻を慕っていると見立てたものだそうです。いわゆる万葉人のロマンというところで、豊かな空想を膨らませたものです。しかし、実際のあわびを見ると”よくこんなことを考え付いたものだなぁ。なんかほかに考えることはなかったのか”と思ってしまうのは、愚生だけかもしれません。

あわびはかって二枚貝であったが、故あって貝殻1枚を失った、というのは面白い発想ですが、実際はどうだったのでしょうか。

生物学上では、貝類は、軟体動物に分類されますが、今から5億年ほど前に、1枚の貝殻を持つ単板類(ネオピリナの仲間)から始まったのだそうです。この単板類から殻を失ったもの(無板類)、8枚に増やした多板類、軸にねじれが生じて進化した腹足類(巻貝類の仲間)、貝殻を失った後鰓類(ウミウシの仲間)、単板類の殻を両側から包むように開閉できる形に進化させた斧足類(二枚貝の仲間)などに進化し、挙句の果てにはイカやタコなどの頭足類へと進化してきました。

あわびはご承知のように巻貝類に属するのですが、1枚の貝殻を持つ単板類から派生した経過については、面白い説明があります。あの頑固なダーウィニストのスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould) が紹介しているのですが、シカゴにある自然史科学博物館のデイヴィド・ラウプ (D Raup)が描いた図−1をご覧下さい。

図−1 貝殻の変形

これは「複雑な形態はいくつもの生成要因のずっと単純なシステムによって作り上げられることが往々にしてある」ということを示す例として、挙げられているものですが、渦巻状の複雑な貝殻の形態も、基本的には3乃至4個の基本変数を決めることにより、生成することが出来ることを示しています。

CGを使ったデモンストレーションと云ってしまえばそれまでですが、それらしく見えるところがご愛嬌です。これは進化の方向を示しているものではないのですが、貝殻の形を理解するには役立つと思います。あわびについてみれば、図−1のBあたりで扁平になる方向に変異し殻口が下にねじれたものか、と思います。そして海草の表面を削るようにして食べるという食性に適した海草との接触面積が広く、外敵などに抵抗しやすい形のものとして生き残ったのではないでしょうか。

あわびが恋い慕う片貝はどうなのでしょうか。二枚貝類は、背側に「二枚目の殻」という新奇な形質を獲得した巻貝類より新しい群なのです。ですから、あわびにしてみればまったく身に覚えがないことで、とやかく言われても困るといったところでしょう。もちろん、こんな即物的なことを言い立てて、「磯のあわびの片思い」をいたずらに貶めようとするわけではありません。お月様には水晶の御殿に珊瑚の木が茂り仙女様がいらっしゃると思えば、宇宙船アポロの映像を見た後でも、満月の綺麗さは格別のものがあります。

しかし、天然のあわびを見て「磯のあわびの片思い」を思い付くには、何かあるはずです。あわびは貝類の中でも大型で外見も良く、内殻には独特の光輝がありますから、神聖なものとして信仰の対象になったのではないかと思います。更には稀にでも玉が見付かるようですから特別な貝として崇めたのかもしれません。柳田國男先生の「海上の道」にもあるように古代では貝に特別な価値を認め神聖視することがあったようです。そのような素地があり、そこから、このような擬人的な発想が出たのではないかと愚考いたしますが、あながち愚生の片思いとも言い切れないのかな、と思います。

                         (平成21年5月17日)

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MurakamiShirou

村上子郎さんのこと

 

私の最初の上司で多くのことを教えて頂いた村上子郎(1912-1990)さんは九大の農学部で動物学を学んだ人である。九大卒業後の約50年間の研究活動の初期10数年間は九大で動物の生態分類学を、後期の40年間は農林省の水試や水研で水産動物学の研究に携わった。研究論文以外には同氏のことはWeb上では殆ど公表されていないと思われるので、此処に半世紀以上前の記憶を辿って私の知ることを記載した。

 

2009/07/14

真道 重明

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CONTENTS

内容

クモヒトデ類の研究

天草周辺の水産生物

ゴマサバの "Species"

村上さんのその後の経緯

 

KUMOHITODE

クモヒトデ類の研究

 

学徒全出陣で応召、敗戦により戦地から復員し、最初に就職した農林省中央水産試験場(田内森三郎場長)の某研究室員となり、勤務地が天草の九州大学農学部に所属する「天草臨海実験所」内に併設された「中央水産試験場臨時試験地」となった時の上司が村上子郎(1912ー1990)さんである。

同氏は九大の天草臨海実験所の主任でもあった。私の職場に於ける最初の上司である。冒頭に記したように同氏の初期10余年は私が同氏とお会いする以前のことで、九州大学農学部での研究活動で同氏から聞かされた事柄である。その主な仕事はクモヒトデ類[クモヒトデ綱(蛇尾綱) Ophiuroidea ]の分類と生態に関するもの(英文)で、それは同氏の学位論文でもあった。

学位論文は印刷公開されるのが原則であるが、日本の敗戦により、戦中・戦後の印刷事情は「印刷公開」が不可能だったので、同大学の「紀要」などに発表されぬ侭、特例的処置として学位授与だけが認可されたと聞く。

現在の IT 情報化時代と異なり、それ迄は「分類学」を専攻する人は世界中の関係文献を収集し眼を通さなければならず、それらの活動を通して多数の海外の同学の人達との交流があった。名前は忘れたがニュウジーランドの同学の士から連絡があり、該論文の摘要及び本文全部の印刷を同国の専門誌に印刷し援助してくれたとのことであった。

同氏はその後後述するように水産の研究に転じたが、世界水準の該論文の存在は水産仲間では殆ど知られて居ない。

 

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AmakisaSyuuhen

天草周辺の水産生物

 

初めて書いた水産資源に関する調査研究論文は足掛け3カ年余の天草滞在中に村上さんと共著の形で発表した下記7編である。

@1949/07.天草周辺における重要生物の資源学的研究.T.トビウオに関する測定結果に就いて.日本水産学会誌.15,(3),109-13.
A1949/07.天草周辺における重要生物の資源学的研究.U.カタクチイワシに関する研究.日本水産学会誌.15,(3),114-117
B1949/07.天草周辺における重要生物の資源学的研究.V.天草沿岸のマイワシに就いて.日本水産学会誌.15,(3),118-121.
C1949/07.天草周辺における重要生物の資源学的研究.W.ウルメイワシに関する2,3の観察.日本水産学会誌.15,(3),122-124.
D1949/08.天草周辺における重要生物の資源学的研究.X.マアジの年齢に関する考察.日本水産学会誌.15,(4),155-157.
E1949/08.天草周辺における重要生物の資源学的研究.Y.天草沿岸の真鯛について.日本水産学会誌.15,(4),158-160.
F1949/08.天草周辺における重要生物の資源学的研究.Z.アオリイカ・ヤリイカ・ケンサ1949/07.日本水産学会誌.15,(4),161-165

− 以上7編 −

この7編を書くに当たって村上さんから多大の教えを受けた・・・、と云うのは宗戦前の学生時代の卒論で「論文の書き方」について初歩的な指導を受けた程度の知識しか私は持ち合わせていなかった。

「生物学の中の精密科学」と云われる系統分類の論文作成に詳しい村上さんには微に入り細に亘る教えを受けた。通り一遍の記載方法ではなく和英両文の引用・参照文献の厳密な表示方法などはその一例である。

未だ独身で単身赴任の形で宿舎に居た私は、奇縁で村上さんの恩師である大島廣先生と暫くの間同居して居た。その間、大島先生からは同居の誼で実に色々な「教室では聞けない話」を聞くことが出来た。その中には同先生の著書「科学論文の書き方」に纏わる話も多かったが、同先生からは基本を、村上さんからは論文記載の実践を通じて具体的に教えられた。

此れらの体験はその後の「私の生涯の論文執筆時の指針」としてその教えに感謝している。後に聞いた話によると、上述の村上・真道の共著の7編は初投稿であったにも拘わらず一括した形で「水産学会賞」の候補論文として審査の対象になっていたとのことである。

 

 

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GOMASABA

ゴマサバの"Species"

 

農林省水産試験場の富岡試験地主任を兼務されて居た村上さんは同試験場の改組と共に九州大学の臨海実験場主任を辞し、私と共に1948年夏に新設の長崎市旭町に建設予定の長崎試験地を開設すべく移転した。

農林省の機構改革で農林省水産試験場は農水省の「八海区水産研究所」と改名され、私達は「西海区水産研究所」勤務となったが、村上さんが1964年の8月に広島の南西海区水産研究所に所長として転出されるまで、私は天草以来の17年間(1947−1964)を同氏と職場を共にした。

同氏の水研勤務40年弱の約半分に当たる20年弱を共に過ごしたことになり、私の職歴の中ではでは最も長い付き合いである。長崎では私は専ら東シナ海の底魚資源を、一方、村上さんは浮魚資源を調査研究の対象としたので共同研究をすることは無かった。

村上さんはその間多くの論文を発表されたが、その中最も印象に残るものは、マサバ(Scomber australasicus)とゴマサバ(Scomber japonicus)とに関する「種、Species」に纏わる問題の解明である。一般に「マサバは腹側が無地の銀白色のサバ、、ゴマサバは腹側に黒い斑点が多数あるサバ・・・」と云われて居る。遊漁などの図鑑類はい言うに及ばず学術的な図鑑類にもそう書いてある。

しかし、実際には両者の中間型が実に多く、果たして動物学的には同一種なのかは明確ではなかった。魚群体を扱う資源学ではこれは基本に係わる重要問題である。それにも拘わらず、「種、Species」に関する概念の理解の難しさもあって、それ迄この問題は放置されてきたように思われる。

ごく最近では DNA の塩基配列が読めるようになり、スウェーデンの博物学者リンネ(Carolus Linnaeus)以来論じられてきた「種」の問題は深く掘り下げられつつあるようだが、半世紀前に「形態種」としてのマサバとゴマサバの同定問題を村上さんは取り上げて論じられた。

ダーウインの「種の起源」は有名だが、「種、Species」についての概念は基本的であるにも拘わらず、その思索と理解は容易ではない。個々の個体について両者の「何れであるか?」を明確に同定できなければ、『独立した「種」とは云えない』。その場合は『種より下位の亜種若しくはそれ以下の存在である』と云うことになる・・・との規準を村上さんは堅持して居られた。九大時代の系統分類に関する多くの業績の然らしめる所以であろう。

問題にされた形質の決定的なメルクマール(Merkmal、手がかりとなる基準)は担鰭骨の数である。計測値の正規分布曲線は夫々接近してはいるが、夫々の平均値から標準偏差(σ)の約4倍程度の処で重複するから、先ず確実に分離され、両者は個体レベルでの区別が可能であると見て良い。

戦時中から戦後にかけての数理統計学の目覚ましい進歩を駆使した論文である。この論文が、後輩の私が云々するのは烏滸がましいが、当時のこの分野のものとしては優れたものとして、強く頭に残っている。

水研の研究職の職員は殆どが「応用生物学」としての水生動植物を習っているのに対し、村上さんは「純動物学」を九大で専攻された。動物学を専攻する者の必携書である復刻された《原色 動物大圖鑑 III(棘皮・毛顎・前肛・軟体動物)》の執筆者の一人でもある。その点では異色の存在であった。

 

 

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SonogoMURAKAMI

村上さんのその後の経緯

 

1964年8月、村上さんは長崎の西海区水研から広島の南西海区水研に所長をして転勤され、その後、1970年5月から1972年5月まで所長として西海区水研に戻り、更に続けて新潟の日本海区水研所長に転出、そこで定年退職、1990年に他界(享年79歳)された。

一方私は7年後の1972年6月に西海区を離れ、東京の東海区水研の企画連絡室長(先任部長に該当し、同時に所長補佐的な部署)に転出した。また数年後に私は国際機関の SEAFDEC に勤務のため11年余に亘り日本を離れたので村上さんとは学会などで顔を合わす機会もなく、主として年賀状交換だけの付き合いになって仕舞った。

村上さんからは天草以来、20年弱の長期間に亘り、公私ともに実に多くのことを学んだが、その多くは天草時代である。またサックバランな私的な論争も良くした。一例を挙げれば、政府機関の研究所に於ける「研究者としての在り方について」などでは私は多いに異論があった。

上から諮問された問題について「我々は科学的な調査研究結果を上申する立場」であり、「それを採用するか無視するかは高級漁政担当者の仕事であり責任である」と云うのが村上さんの信念であった。私は「それは一つの見識」ではあるが、高級漁政担当者と云えども国益優先という立場もあり、研究結果を正しく理解できない人も多い。

そのような局面では「研究者は組織から離れた立場から批判と論議をすべきだ」という考えを私は持って居たので、話は噛み合わないことが多かった。

年賀状は何時も手書きで、最後に受け取った賀状には「私はもう駄目です・・・云々」と書かれていた。その数年後他界された。最後まで頭は確りされて居たと思う。この最後の言葉は私の脳裏に焼き着いている。

今ではその総てが「夢の中の想い出」のような気持ちになる。

 

 

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MaskuToUgai

「マスク」に「うがい」

及び

「手洗い」の励行

 

新型インフルエンザの猖獗で世界中が右往左往している今日此の頃。処で「外出するときはマスク着用」、「外出先から帰宅したら先ず手洗いとうがい」の励行・・・などと当局やお医者さんはテレビなどで推薦する。
どうもこんな勧告や庶民がそれらを生真面目に実行するするのは世界広しと雖もどうやら日本だけらしい。「マスク」や「うがい」は医学的に云って本当に有効なのだろうか?・・・。「疑い深い奴だ」と怒られそうだが・・・。

 

2009/08/28

真道 重明

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テレビでカナダからの帰国者が成田空港で「日本人の出国者の多くがマスクをしているのを見て驚いた、カナダでは見掛けたことは無い」と感想を漏らしているのを聴いた。他の日本の空港でも海外からの到着便の来日外国人や日本人の帰国者が同じ感想を述べて居る。

ある評論家も「この現象は世界広しと云え、どうも日本だけらしい」とラヂオで話して居た。勿論、飛沫感染と思われている此のインフルエンザ患者が「マスク」を装着して他人への感染を防ごうとすることや、車内の「つり革」や人混みの階段の「手摺り」に触れた人が帰宅したときに「手を良く洗う」ことなどは、良いことであることに間違いない。WHO や各国の治療現場の映像を見ると医者は皆「マスク」をして居る。

此処ではそれを云っているのではない。「新型インフルエンザに備えて」と云った意味の座談会の番組で「何の異常も無いと思われる視聴者の一般大衆に向かって、@「マスク着用」、A「うがい励行」、B「手洗いの徹底」などと出演しているお医者さんの方々がまるで判子を押したように注意の勧告していることを指している。

水を含んで口や喉を洗う「うがい」【嗽、gargle 】のことだが、「不用意にやると口中の雑菌を気管や食道に押し込んでしまうので、先ず口中を洗ってから、その後で『喉でガラガラ』すること」と注意されたことがある。若しそうなら単に「うがい」と云うだけで済まさず、もう少し詳しく説明すべきだろう。さもなければ余病を引き起こす可能性が出て来て、かえって健康には逆効果となる。

私が思うに、この手のお医者さんの発言には「罹患の防御」という観点だけからものを言っているように思える。しかも勧告を無視したグループと比較して「有効である」ということの比較検討結果を明示していない。この勧告の発言は「牽強付会」とまでは云わないが、科学的には多少不備、かつ不注意ではないか?と思われる。

どうも多くの日本人は政府や偉い専門医学者が言うと、一斉に「右え倣え」をするようだ。私のような「へそ曲がり」が少なすぎる。私は何も「座談会の偉いお医者さんの発言に『ケチ』を付ける心算」は無い。もっと「物言う輩が居ても良いだろう」と云いたい。

確かに日本は衛生思想の普及も健康保持のための努力も多くなされて来た。そのせいかどうかは知らないが、日本は世界屈指の長寿国となった。だが教育面ではこの種の実態には「日本は多少行き過ぎた側面」も多々あると私には思われる。

一例を挙げると「歯磨きの励行」だ。私が子供の頃は今のチューブ入りのクリームではなく、紙袋や缶入りの「歯磨き粉」が普通だった。小学校では「歯磨き体操」が朝礼で行われたりした。その後云われたとおりに余りにも真面目にやると歯の表面の象牙質を削り取って歯を駄目にすると云うことで、「程々にせよ」と云われた。もっと詳しく説明すべきだが、それは無く、「程々にせよ」の一言でだけでは皆が戸惑ったものだ。

「新型インフルエンザ」にしても、「80歳以上の罹患者の比率は格段に低く多くは幼児から30歳台の人達に高い」と云う。「恐らく高齢者は新型インフルエンザに似た他のインフルエンザの抗体を持ち、それが新型の罹患に抗して居るらしい」とも解釈されている。だが、米国の学者のごく最近の研究では「高齢者の集団罹患が幾つか報告されており「上述の解釈に異議を唱えている」とも云う。

こうなると素人の我々はただ迷うだけだ。ついでに蛇足を付け加えると、病院や薬局では別れる前に判子で押したように「お大事に」とか「お大切に」と云う。只の挨拶だろうが、「一体何を大事にせよ」と云うのだろう?(笑い)。

 

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MinsyuSyugi

多様な意見を必要とするの

が民主主義の筈ですが

 

[寄稿]

2009/08/04

林 繁一

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実質的に半世紀近く続いた自由民主党の単独支配は終わりに近づき、次は民主党政権が出現すると予想されています。確かに政権の交替は民主主義社会には不可欠です。しかし良く考えてみると代ればよいというだけではありません。どのように代るかということが問題です。世の中には二大政党の交替が理想とする意見が広まりつつあります。はたしてそうか、考えてみる必要がありそうです。

明治維新は、当時としては革新でありました。政府は、天皇の名の下に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言しました。いくつかの政治団体が生まれましたが、離合集散を繰り返し、大正デモクラシーを経て、「政友会」と「憲政党」の二大政党が成立しました。主に政権を握っていたのは明治元勲であった伊藤博文が設立した「政友会」で、現在の自民党と民主党とに対応しているように見えます。

選挙権が一定の税金を支払っている、つまり一定の収入を得ている男子に限られていた関係上、そして治安維持法が施行されている状態では、「社会大衆党」といった、最終的には軍部の取り込まれた労働者の代表を標ぼうした政党はほとんど力を持ち得なかったようです。多様な意見を含まない政治は1940年10月に大政翼賛会に収斂しました。この歴史を案じる人はどの程度おられるのでしょうか。去る7月23日付朝日新聞15面に武村正義さんが「多様な意見を尊ぶ政治の仕組みがないとだめです。(さもないと)民意をくみ上げられません」と述べておられます。

正しい判断には、正しい認識が必要です。自民党も、民主党も「公務員を減らして、財政を再建する」と主張しています。日本の公務員はそんなに多いのでしょうか。例えば先月に放映されたNHK・TV「クローズアップ現代」の中に折角、他国に先駆けて開発された新薬が米国などに比べて段違いに少ない専門家しか持たない当局の力不足のために遅れをとっていると報じていました。私自身も40年前に大西洋まぐろ委員会で5名から10名余りの専門家を出席させている米国やフランスに伍して、論議に苦労しただけでなく、夕食後に開かれる魚種別会合が深更に及ばざるを得なくなり、迷惑をかけたことを思い起こします。

付け加えますと、この委員会は日本の進出に対応して設けられたものでした。日本の遠洋漁業が華やかだった時代、訪ねてきた米国の友人にこの研究所で働いている研究者は50名を切っているといって相手を呆れさせた思い出もあります。災害など、問題が起きた場合、対応する専門家の数の少なさをいつも感じています。それでも従順なこの国の人は、国立大学の先生も含めて、日本は役人天国、数が多すぎると信じています。

では具体的な資料を示しますと、1996年刊行の石弘光教授・監修「構造改革白書」366頁に載っている図では人口1000人当りの公務員数は日本の40人(内防衛関係2人)に対して、米国81(防衛8人)、英国80人(防衛7人)フランス120人(防衛8人)となっています。これを受けて石教授は「我が国の公務員数は決して多くありません。・・・しかし、なお一層の定員合理化を進める必要がある」と考えておられます。同教授のご感想はご自由ですが、その後の社会の動向を見ると、こういった指導者を選んでしまった私たちは、工業力の比が1:9であることに目をつぶって真珠湾の攻撃を命じた指導者を嗤えませんね。

この話題に付け加えたいことの一つとして、自治会なるものの存在があります。大都会では廃れつつあるようですが、町内会ともいうこの組織は、将に市役所、区役所、町村役場の下部機関です。江戸時代に幕府は参勤交代の行列の接待まで庄屋を中心とする住民組織に押し付けてきた慣わしなのでしょう。この風習は詰るところ、善意で引き受けている人が、いつか地域のボスとなってゆく過程なのです。公務員の数を減らすのではなくて、適正な数に、たとえば米国並みに二倍に引き上げれば、国際水準にある健全な社会を建設することにもなり、深刻な就職難を和らげる結果ともなるのです。世界の常識からすれば当然だということを多くの選挙民が考えて欲しいところです。

「政治を官僚の手から国民の手に取り戻す」と声高に叫んでおられる人の中には、もっとも重要といわれている官庁に入り、有望な若手として税金を使って海外留学を経験し、その成果を職場に還元する前に、代議士となった方もおられるそうです。まさかとは思いますが。

政党の問題に帰ると二大政党は「議員の定数を削減して、身を削る」と宣言しています。本気だとすれば無知ですが、一人を除いて頭が切れる人たちの意見としては欺瞞です。このことに気付いている人は少なくありません。武村正義さんだけでなく、若い理論派も「貧困を抜け出せないのは政治の問題であり、二大政党では少数意見を救えない(同22日付朝日19面)」と主張しています。

那珂湊市の小野瀬良武さんも、議員定数を削減しようという自民・民主両党に抗議したい、そして政党助成金の廃止こそ緊急であると指摘しておられます(8月4日付、朝日、声欄)。この方が手に入れられた資料によると、320億円の大金が446人の国会議員の手に渡っているそうです。つまり一人当たり7,100万円もの金を歳費のほかに取っているのです。世帯の平均年収450万円に比べて多過ぎませんか。財政再建のためにまずこれから削るというのが常識というものです。

この問題については、獲得票数と議席数とが乖離している小選挙区制の問題があります。民意の合理的な反映を無視して、自らに都合の良い小選挙区制に固執、それどころか拡大を求める大政党は民主主義を破壊するものであり、私には旧ソ連そっくりに見えます。

自民党の議員も、民主党の議員も、世襲か、財界のお抱えです。その陰にこんなトリックがあるようです。東洋経済新報7月23日号によると、国会議員の選挙に当って候補者は供託金を納める義務があります。その額は日本では異常に高く、地方区で300万円、比例区にいたっては600万円だそうです。米国や多くの欧州諸国では供託金の制度自体がないし、徴収している英国などでは2万円程度だということです。これでは、世襲か、財界のお抱えで、後援会という企業体を持たなければ立候補はできませんね。形式的な選挙をしていると非難されている発展途上国の中には、選挙をボイコットする動きがあり、当局に弾圧されます。しかし客観的に見ると日本の現状はどのようなものでしょうか。

さらに二酸化炭素の排出を規制する最初の世界会議を京都で開きながら、その実を上げていないこの国で、道路の利用料金やガソリン税の廃止、軽減を進めると公約している政党には、面従腹背という言葉がぴったりだといえましょう。発展途上国が二酸化炭素排出量の削減に消極的となる口実を作る競争に自民、民主、公明三党は励んでいることになりますね。

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Comments

 

大滝 英夫  (2006/09/16)

林さんの寄稿を呼んでまったくそのとおりと思いました。例えば政党助成金なんでこんなものが必要なのか前からおかしいと思っていました。それ相応の歳費を受けているのにさらに助成金を上積みする必要がどこにあるのか、企業献金をなくすためというが一向になくなっていない。まったく無駄な税金の支出です。

自治会の性格もすべてとは言わないまでも当っています。地域住民の組織として必要なことは分かっていても、小生の住んでいるところでも高齢化が進む中で順番の班長のなり手が次第に少なくなっています。その上戸立ての取り壊した跡にアパートなどができてそこに多くの若い所帯が入り自治会に勧誘しても入らないという例が多く、同様のところはよそでも見られます。

公務員削減の問題身近な例で見ても水研の職員です。1968年当時西水研の研究室には45名いましたが、現在は31名です。昔は部長も研究に携わっていましたが、現在は管理部門に多くとられて実働部隊は数少ない人数で苦労している実情です。この傾向は20年数年前の小生の時代にも出ていましたが、年々ひどくなっています。  もちろん研究対象が時代と共に変わることは当然のことですが、やたら管理部門ばかり増やして頭でっかちになっている感じです。これではよその国と対等にやってゆくのは大変だと思います。

 

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NenGajyou

年賀ハガキの大量交換

 

2009/11/06

真道重明

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走ともなると年賀ハガキを書くと云う煩わしい仕事に毎年悩まされる。私の場合この仕事は半ば形骸化しており、87歳ともなると単に「未だ生きている、住所・電話番号・HPBlogのアドレスに変化なし」を伝えるだけの、しかも、伝える必要の無い人達迄も多く含まれている。

発送しなかった人々から来れば律儀に返事のハガキを出さねば失礼となると思うから、どうにかしなければ自動的にその数は増えるばかりである。放置すれば・・・と何時も思い乍らツイツイその侭にしている。唯一の「有り難い?」ことは、最近は死去により同級生や親しい人の数が増え、それらの喪中が増えた分だけ発送数が減ることである。

勿論戦前だが子供の頃にはこんなに大量のハガキが元日に来ることは無かったように記憶する。また、「・・・明治20年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった・・・」と Wikipedia には書かれて居る。

近年は中国からも「お年玉付きの年賀ハガキが来る。恐らく日本のシステムを導入したのだろう。この現象は一種の文化といえるのかも知れない。韓国にもあるそうだが私は受け取ったことは無い。グリーテイング・カード感覚で日本のように形式的に大量に送る習慣は無いとのこと。また、中国からは年賀ハガキでは無く、欧米並みの実に立派な「クリスマスと年賀を兼ねたグリーテイング・カード」が来る場合の方が多い。「お年玉付きの年賀ハガキ」は中国の国内用らしい。春節(旧正月)が中国の正月だから、太陽暦の日本の正月に私に呉れるのは、それを先取りして利用したのだろう。

欧州や米国などではクリスマス・カードで新年の挨拶も済ませてしまうので、日本のような「大量送付の年賀状文化」はない。彼等に尋ねてみたら出す数はせいぜい20乃至30通位だと云う。本当に親しい人達だけに送るだけである。私も数通は受け取るが、万年筆で手書きされている文にも情が籠もっている。これが賀状としての本来の姿では無いか。

宛名も中味の祝辞も総て印刷されている日本の多くの年賀ハガキは味気ない。電子メールで多くの人に、C.C.で送るのは超便利だが、下手をすると味気ないこと夥しいし、電話番号などを入れるとセキュリテイの問題もある。しかし、これで近年は年賀状を送る人は大幅に減りつつあると云う( Wikipedia に依る)。

近年ではパソコンでオリジナルな年賀状を作るという傾向もある。中には音楽付きの Power Point など中々凝ったものもある。(中国から来た例:此処をクリックPower Point viewer をインストールして見て下さい。ダウンロードが表示されたら「開く」をクリックすること)。このような、Power Point は貰って嬉しいものであり、電子メールならではのものだ。

を本題に戻そう。年賀ハガキの大量交換は日本郵政公社(旧郵政省)の「儲け主義か?」と疑わしくもなるが、商売の顧客リストの場合を別とすれば各人銘々発送リストを整理して所持しているか、面倒臭くて「前年受け取ったハガキを見て、これをリストとして発送先を書いているのではなかろうか?」。

それが証拠に一度「喪中」を出すと、その翌年の年賀ハガキは途端に数が減っている経験を持つ人は多い。喪中欠礼のハガキを前年度の年賀ハガキの保管に含めて居なかったからであろう、私の場合、長く海外に居て帰国したときには年賀ハガキの来信枚数は3割程度に減っていた。

年賀ハガキの大量交換は文化の一つかも知れないが、どうも形式化し形骸化して居るようだ。私の場合、80歳台も半ばを超えているから、呆けも手伝って名前も顔も思い出せない人達が数名居る。しかし律儀に毎年下さり、メモまで書き加えられてので此方も律儀に返信している。先日或る会合でお会いした人が「賀状を頂き嬉しく存じて居ります」と云われ「あー、この人だ」と分かった。

年賀jはガキの習慣は「もうそろそろ止めようか?・・・」とも思うが、考えるほどにそうも行かず、優柔不断と謗れれるかも知れないが、今年もそろそろ書き始めることにした。

 

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TheBundSyabghai

外灘"The Bund"の今昔

 

上海の外灘(ワイ・タン)、英語では嘗て The Dund (バンド)と呼ばれた川沿いの地域一帯の風景とその歴史と変遷が写真画報として上海画報出版社(上海市長楽路672弄33号、新華書店上海発行所発行、1998年6月)から出版された。
畏友の頼春福さん(水産出版社社長)から本冊子の贈与を頂いた。戦前・戦後を通じ思い出深い私体験を交え、此処に昔日の想い出を書いた。

2010/01/15

真道重明

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灘の「灘」の字は中国語では、日本漢字の例えば「玄界灘」などの「なだ」ではなく、水辺の土砂が堆積している場所、また、それらの場所は往々にして船の「積み荷の陸揚げや輸出物の積み込み場」になる処から、日本語の魚河岸などの「河岸、即ち船着き場」の意味となる。物の本によると「外灘」は元来「外国から来た船舶の船着き場」と云う意味らしい。

私が初めて「外灘」の風景の絵織物を見たのは小学生5〜6年生の頃(1934〜1935年の頃)、同級生に木村君というのが居て、家が近かったため良く同君の家に遊びに行った。彼の父は上海の紡績工場に勤めていたので二階の欄間に飾ってあった「外灘の景色の絵織物の額」と床の間に置かれた「長江(揚子江)を往来する紫檀か黒檀で造った伝統的な小型民船の模型」があった記憶がある。

勿論、当時は「外灘」の語の意味も知らず、その頃には未だ日本には少なかった洋式の高い建造物群が上海には在ることに興味を持った程度であった。中学に進学し更に上京して専門教育を受講中、学徒出陣で兵役に服し中国大陸で移動中、上海で「外灘」の実景を覧る機会を得ることは夢想もして居なかった。


時は一漁村であった上海は、今や中華人民共和国第一の大都会となった。阿片戦争敗北の結果、南京条約によって、その後1843年末には上海港は外国に開港され、1845年の英国租界を始めとし、次々に仏国・米国など列強各国の租界地(租界地とは中国の主権が及ばない外国人居住区)となったことはご承知の通りである。

上海市内を貫いて流れる黄浦江に沿って1920年代から1930年代にかけて、各国商人や金融機関がこぞって建てた個々に造形美の溢れる多くの西洋式の建築物群が立ち並ぶ「外灘」は英語では嘗て "The Bund" (バンド)と呼ばれ、その風景は壮観であり上海名所に一つである。外灘の範囲は、南は延安路から北は呉淞江(蘇州河)に架かる外白渡橋(旧名・ガーデンブリッジ)に至る一帯である「上海市が大都市となった切っ掛けは「外灘」の存在から始まった」と云っても過言では無い。

 

租界時代の外灘の建物群、今も基本的には変わっては居ない。

 

学徒兵として第二次世界大戦中に私は気象連隊に属し、部隊の一部が訓練地の満州(中国東北部)の新京(現在の長春市)から広東省の広州市に移動する途次、上海には約2週間ばかり滞在し、外灘を訪れた経験がある。戦後は日中国交未回復時代の1957年を皮切りに、多数回に亘り訪れた。

 

      

1928当時の外灘                    2007年の外灘夜景 

 

 

戦時中の上海の想い出と外灘

 

上述のように、部隊の移動中に輸送のための広州市行きの重爆撃機の都合が付かず、已むなく船舶輸送となり、船を待つ間上海の兵站施設に約2週間ばかり短期滞在した。各国のの租界を含め上海市は総て日本軍の占領下にあった。

行動範囲の制限地域は在ったが、外灘一帯を覧たのはこの時が最初である。しかし、其処が有名な「外灘」であることも、また、「外灘」という名前も知らなかった。兵站施設で記憶に残っている事は、施設内の食堂で「冬瓜(とうがん)の膾が旨かったこと」、「海軍の気象隊を訪問した時のこと」、「長江(揚子江)で日本の小型油送船が攻撃を受け沈没し、10数名の乗組員が重油の中を泳ぎ命は助かったものの、油に塗れて真っ黒になり、泥人形のような恰好で黄浦江経由で兵站に収容されたこと」位である。

海軍の気象隊を訪問した時は勤務内容が我々陸軍と全く同じであるため、多いに歓談したが、北方の島列島や南方の南太平洋の多くの地点からの情報が入らなくなって来ている事を憂いて居た。彼等海軍の気象隊の人々は連合艦隊がミッドウエイ海戦で過半が失われた話を故意に避けたのか、或いは「知らされていなかったのか?」は知るよしもないが、後者の可能性が高い。勿論、これらは敗戦後に分かったことである。

此の様な次第で、兵役中の上海での約2週間ばかりの短期間の滞在中、外出して市内観光は可能ではあったが、観光などと云う精神状態には無く、「外灘」も単に一瞥した程度で終わって了った。

 

戦後の上海訪問と外灘

 

交未回復の1957年、「国家公務員の訪中第一号」として、訪中し四ヶ月余滞在し中国各地を視察し、また日中民間漁業協定の技術交流の取り決めの一環として、秋には上海水産学院での講義のため、外灘の一角に在る「上海大厦」(旧称はブロードウエイ・マンション、百老匯大廈と呼ばれた時もあると云う)に3ヶ月余滞在し、休日には玄関を出て外灘を散策した。

最初の散歩は北京で参加した国慶節(10月1日)の数日後だったから、上海も未だ祝賀ムードが続いており、「外灘」の建物群は夜は電飾で飾られ路上には多くの見物人が散策していた。大道芸ではないが子供達の中には雑伎団のように逆立ちして回転する者などが居た。持参した三脚を建て二眼レフで写真を撮ろうとすると沢山の子供が集まってきて「貴方は誰?」と訊ねる。「当ててご覧!」と云うと「新聞記者でしょう」との答え。上海でも私の北京語が通じたのを嬉しく想ったことを憶えている。

1957年頃の「上海大厦」は上海では未だ現在に様な多くの高層ビルのホテルは無く、このホテルが唯一の高級ホテルだった。1934年に建てられたから外灘が出来てやや後期の建物である。下に掲げた写真はaiwa (日本のテレビ製品)などの広告の文字が見られ、パラボラ・アンテナなどが設置されて居る処から、1990年代になって撮影されたものであると思われるが、建物本体は1957当時と殆ど変わっては居ない。建設されてから2回の外装や内装改築が行われたらしい。下に在る橋(外白渡橋The Bund Waibaidu Bridge 、旧称はガーデンブリッジ)は1856年に架けられ、数次の改修の末2009年に大改装が行われた。従って私が滞在した頃は大改装以前のものであり多分に戦前の面影を未だ残していた。

 

 

  

上海大廈(ブロードウエイ・マンション)と外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)

 

述のように、私が初めて滞在した1957年頃の「上海大厦」は中華人民共和国が成立した1949年から未だ10年は経過して居ない時だったから、このホテルは戦前の様子の侭だった筈である。租界時代には欧米や日本の要人が宿泊し、24階建ての「上海では最も高いビル」だった。恐らく当時の中国では最も近代的なホテルの一つだったであろう。その内装は立派なものであった。

但し、日本軍の上海攻略後はホテルの維持管理は日本軍に任され手居たらしく、一時は日本軍司令部として使われたとも聴く。街路を隔ててロシア領事館がある。私が滞在した1957年頃は確か13階より上は長期滞在者専用で、14階以上には主としてソ連や北欧諸国の技術者とその家族が居住して居た。ソ連の艦船が入港すると乗組員は13階に宿泊して居た。私も同階に泊まって居た。

一度、部屋の鍵を室内に置き忘れ外出先から帰ると自動閉鎖式だったため部屋の扉が開けられない事があった。ロビーに連絡すると「マスター・キーは無い」と云う。已むなく職人を呼んで頑丈な扉全体を取り外し、やっと中に入れた。マスター・キーが無いため外出時にロビーの「キー・ボックス」に預けるのを忘れキーを持ち出すとメイドさんも中に入れないので、メイドさんが部屋を掃除したりベッドを造ったり出来ない。元々は在ったのだろうが、戦乱時に紛失してしまったのかも知れない。未だ1957年当時は上海に「洋式の鍵職人」が居なかったか、居たとしても仕事の手が回らなかったようだ。

また或る時は入港したソ連海軍の乗組員が夜遅くまでドンチャン騒ぎをして煩いので、ロビーに文句を言うと5分後にはピタリと止んでしまった。此の様な面での管理は仲々確りしていた。ソ連や東欧諸国から来ている長期滞在の技術者の奥さん方は手の爪を皆マニキュアで真っ赤にして居た。彼女らは中国語は喋れないが、片言の英語はどうやら通じた。そのことを訊ねると「母国ではマニキュア」は出来ないが此処『シャンハイ』はハイカラで美容術は進んで居る」との答だった。

便所・禁煙・掲示板などの表札は中国語、英語・ロシア語の3個の言葉が併記されて居た。所持は食堂で摂ったが、日曜日などの朝食ではロシア人の客が食パンにバターを塗りつけ「イクラ」(鮭の卵、中国語では「紅魚子」と書かれていた)を載せて度数の高い酒(生「き」のウオッカ)をぐい呑みし、生「なま」の大根を噛っていた。ロシア人の多くは身体も大きいが、酒も強いのが印象に残っている。

余談になるが、当時の中国の表札や名札には簡体字の漢字の下にピンイン(漢字をローマ字化したもの、例えば「北京」を Bei jing と表記)で発音が記載されている場合が多かった。最初にこれを見たときは「漢字を知らない外国人のためか?と思っていたが、それもあるが必ずしもそればかりでは無く、寧ろ各地方の方言を喋る中国人に普通話(標準語)の発音を「教育するためではないか?」と思うようになった。・・・と云うのは Bei jing を日本人の場合は「ベイジン」と発音するだろう。しかし、音を聞くと「ペイチン」と聞こえる。ピンインを正しく読むには相応の知識が必要である。寧ろウエード式ローマ字で表記した方が原音により近く感じる。漢字が読めない外国人に発音を示したものでは無さそうである。話を本題に戻そう。

「上海大厦」の屋上は左程広くは無く普段は誰も上がっては来ないようだったが、自由に上れた。私は四方の景色を眺めるため時々上がった。黄浦公園の中かどうかは分からないが、その方向に「シェパード犬を訓練している若者」を度々遠望したことを良く憶えている。租界時代にはこの公園には外国人しか入れなかったと云われていた。

軍工路に在る上海水産学院での講義のため毎朝迎えに来る自動車は、尾部の左右に羽が立っているように見える米国製の大型高級車であった。当時中華人民共和国と米国とは通商は無かった筈である。訊ねるとスイス経由で入手できるのだそうだ。市内でも余り見掛けない車種だった。「国賓級の外国人用に特別に用意したもの」と聞いて恐縮した。

「外灘」の北端に黄浦公園」がある。その公園の北側、呉淞江(蘇州河)に架かっている橋が上掲の写真にある「外白渡橋」である。1860年に英人によって架けられたと云う。この橋は「外国人公共のための設置で、犬及び自転車を禁止する」と租界時代には書かれて居たそうだ。外白渡橋の意味は「外国人は無料で渡れる橋」と云うことらしい。半植民地状態にあった当時では止むを得なかった。

なお、良く知られている「犬と中国人は立入禁止」の掲示が在った云々・・・は俗説だとも云われて居る。「外白渡橋」は建造されてから100年を経過し老朽化して居るため最近はほぼ10年毎に補修され、2008年から1ヶ年を掛けて大改装が行われたと聞くが、私が「上海大廈」に泊まって居た1957年は未だ大改修の前である。

また、「租界時代には外国人も通行料を支払うことになっていたが、無視する人が多く、一方、中国人からは容赦無く通行料を取り立てたため、それに対する中国人の反発が強く、市は誰でも無料で通行出来る橋を架けた。これが現在の外白渡橋であり、その後、英人の架けた橋は壊された」と云うのが真相であるらしい。なお「黄浦公園」は1984年以降、私は殆ど毎年1〜2度は訪れた。

 

改革開放後の上海市の変貌

 

毛沢東時代の「大躍進」に続く「文化大革命」で疲弊した経済を立て直すため、ケ
小平は「近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試み、1989年の天安門事件の発生により「改革開放政策」は一時中断したかに見えたが、1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速したことは衆知の通りである。

1984年には上海市を含む14の沿海都市が開放された。私は1983年にNACA会議(中華人民共和国が初めて開催した水産養殖の國際会議に私はSEAFDEC代表としてバンコクから出席)し、その翌年の1984年に科学院の海洋研究所長の劉瑞玉氏の招聘による中国視察で上海を訪れたが、「外灘」の様子は以前とは余り変わっては居なかった。

しかし、その後の中国の経済発展は著しく、2002年11月の上海水産大学の「校慶(創設記念日)90年」の祝賀に招かれて参列した時には「外灘」一帯は遊歩道も改築され、見違えるようになって居た。取り分け下に掲げた写真のように対岸の浦東地区を「外灘」側から一望すると、嘗ては草茫々の荒れ地だったが、年々訪れる度に急激に開拓されて変化し、ビル群が増えていたが、高さ468mの上海タワーを始め、高層ビル群が林立している光景は圧巻であった。

蘇州河に沿う外灘の遊歩道は美しく改装され、所々に長椅子があり、コカコーラやホット・ドッグなどを売って居る。隣りに座った白人の女性に英語で「Bund には良く来ますか?それとも初めてですか?」と問いかけたら、年配のその婦人は「子供の頃上海で育ちました。フランス人ですが今はカナダに住んでいます。Bund は変わりましたねー」と笑顔での英語の答だった。

 

     

外灘から眺めた現在(2002年)の対岸、

浦東地区(旧称:川沙)の光景

 

002年には、それ迄長年に亘って軍工路にあり、私が半世紀以上前の1957年に数ヶ月間に亘って講義をした上海水産大学も、浦東の民星路(南匯)に新しい校区が、校名も上海海洋大学と改名、更に上海市臨港新城蘆城環路に臨港校区が追加されて、2009年頃には此処に大学機能の本部が置かれるようになった。話が本題から逸れたようだ。

昔ながらの面影を残す「外灘」と上掲の浦東地区のビル群との光景は大きく異なっている。「外灘」に並ぶ建築物はその個々は夫々個性を持ち乍ら各建造物は高さが租界時代から規制されていて、多少の凹凸はあるものの、全体を眺め渡すと一種のバランスを備えた感じで、小学生の頃に大阪に居た頃の友人の家で見た絵織物の姿と基本的には変わらない独特の風格がある。これに対し浦東のビル群は近代技術を駆使した超高層ビルが自由に林立している。

(完)

 

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