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KAMEYAMA_Hone_Page

海から見た日本列島

亀山 勝さんのホームページの紹介

日本列島は海に囲まれている。その海から日本列島を見ると、これまでの歴史観が少し変わってくる。
ここでは古代史編として海人の安曇族の活動を追いかける。

以上は亀山さんのサイトのTOPページの言である。

(2004年.12月.8日 開設)

 

以下は真道の紹介文である。

2008/11/21

真道 重明

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水産技術者OB会で知り合った亀山さんは「海から見た日本列島」と題したホームページを2004年12月8日以降開設して居られる。同氏は1938年若松市(現北九州市)生まれ。1964年水産大学校増殖学科卒業。神奈川県水産試験場勤務。同指導普及部長。神奈川県漁業無線局長、神奈川海区漁業調整委員会事務局長、全国海区漁業調整委員会連合会事務局長、神奈川県漁業協同組合連合会考査役などを歴任。東京湾水産資源生態調査委員(2004年8月現在)「安曇族」と題する著書(郁朋社)が在る。


「安曇族」のあらすじ

亀山 勝

安曇族を解く鍵「金印」

博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から 奴国王が金印を授かったことは 破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのか また なぜ奴国王は 遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだし また 突然の訪問で金印を授かることは考えられないから それ以前に 奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても 奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても 海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。古代において 安曇族が いかなる活動をしていたのか その謎を解く鍵は この金印に秘められているだろう。

『安曇族』に書いた主人公は 海人の活動に興味をもつ研介とその女房の亮子で 二人は 海から日本列島を見る視点から 安曇族の出現と活動を調べることにした。

安曇族は BC5世紀に呉から渡来

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は 入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。また AD57年に洛陽へ行った奴国の使者は 呉の祖といわれている太伯の後裔と述べた と記述されている。

一方 中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に 呉は越と30年ほど戦って BC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦って すぐれた航海術をもっていた呉人が 日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した 習俗 呉の後裔 呉人の亡命の3点から 奴国の使者は 呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。

奴国王は安(阿)曇族の首領

当時 中国大陸まで出かける船は貴重な財産である。現代でも多くの漁船では船主あるいは親族が船頭を務めている。おそらく奴国(弥生)時代も同じことで  王国とはいえ一部族の奴国王と船頭や使者は同族であったはずだ。ということと 下記二つの傍証を合わせると 奴国王は安曇族の首領であったと推測される。

傍証1

 その後 日本の歴史に奴国は登場しないが 安曇族は 記紀に「綿津見神の子孫」として記載されたり 『日本書紀』の応神天皇の項に 安曇連が全国の海人の騒ぎを鎮めたとの記述など その後も登場している。

傍証2

奴国の読み方 すなわち発音と文字の関係にも奴国と安(阿)曇の関係を見ることができる。それは 呉音を使う奴国王の使者が 書面ではなく 口頭で自国の紹介をしたとき「ドン don 国」だと言ったとすれば 漢音を使う洛陽では「ン n」は発音にないから「ドdo」だけになり奴の文字を当てた可能性がある。奴は呉音で「ヌ nu」と読むから 奴国は nu」国 訛って na 国となった。また 阿曇の曇という文字は 呉音で「ドン don」と読み 高僧などに付ける好字である。 阿の字は 『中国語大辞典』によれば 姓の前につけて「○○さん」の「さん」の意味もあるということだから 713年の風土記編纂へ向けて下った「好字をつけよ」という詔にしたがって阿曇という好字を当てた可能性がある。そうすると 奴も曇も元は同じ「ドン don」であったということになる。

復讐のため中国大陸と交易 後亡命を手助け

呉越の争いから出た有名な熟語に 臥薪嘗胆がある これは復讐の念を忘れないことから生まれた言葉であるが 北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は この熟語どおり 仇敵越への復讐を誓い 志賀島を根拠地に 中国大陸に出かけて 越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

ところがBC334年には 仇敵の越も楚に亡ぼされる。その頃になると 安曇族は東シナ海を自由自在に航海する術を身につけ その一方では 交易が軌道に乗り また 代も変わって 敵討ちの意識も薄れていた。 元々呉と越は同族で 呉越同舟という言葉は 両国は戦争をつづけているが 何か呉と越に共通する敵が現れたら 力を一つにして その敵に向かうという意味である。このように 呉越は犬猿の仲の兄弟のようなものだから 越が亡びて困っていると 呉の後裔の安曇族は 得意の航海術を使って 越人が日本列島へ亡命することを手助けした。越の亡命先が越前・越中・越後だともいわれているが ここでは言及しない。
 また BC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると 万里の長城を築いたり 阿房宮をつくったりで そのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族は これらに耐えかねて 祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。

亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋

亡命者たちは 水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると 交易で取り扱う品を多くするため 日本列島内にも交易網を広げていたから 鉄製品がまだ普及せず 石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし 魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに 水田稲作と養蚕に適した地へ 漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。

その斡旋先での生産物は 安曇族が一手に引き受け 日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで 日本列島内においては 水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。

こうなると 倭国においては 一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが 商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては 取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても 光武帝から金印を授かることは 円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説を立てた。

現代 安曇族ゆかりの地は亡命者の入植地地

この仮説を立証するために 現在 全国にある安曇族ゆかりの地を訪ね 石と木でできた農具を使った水田稲作に適した地形的条件 すなわち原始的水田稲作適地の存在を確認することが ひとつの方法だとした。(注:平野に水田ができるのは進んだ土木技術が出現してからである)

文字や読みからアヅミおよびそれに近似する地名(14ヶ所) 安曇族の根拠地の志賀島に通ずるシカに関連する地名(19ヶ所) 合わせて33ヶ所を全国から拾い出して アヅミ地12ヶ所 シカ地10ヶ所を 6年かけて訪ねてみた。その一方で 「国土画像情報(カラー空中写真閲覧機能(試作版)」(国土交通省)から それらの地域の全体地形を俯瞰した。

結果として 現地訪問で得たことは 海から川を伝って行ける地 山が迫った土地 居住集落は山麓 豊かな湧き水 それを集めた小川 が共通する事項であった。 航空写真から得た大きなことは 山麓でも少し高いところから沢へ向かって棚田状にできた沢田の有無だった。これらは 原始的水田稲作適地の条件である。

この条件に照らすと シカ地に原始的水田稲作適地は10ヶ所中4ヶ所しか存在せず また安曇族とゆかりがあるという言い伝えもはっきりしないので シカ地のデータは(今後 検討するとして)ここでは取り上げないことにした。アヅミ地は 現在市街化が進んだりして判別できない3ヶ所を除いた 9ヶ所中8ヶ所が 原始的水田稲作適地であった。

安曇族ゆかりの地が 原始的水田稲作適地であることは 土木技術や農具が未発達の時代に 水田稲作農民が入植した可能性があるということだから 先の仮説はほぼ立証できたといっていいだろう。今後 科学技術の進歩でBC5〜3世紀の水田稲作の痕跡が 安曇族ゆかりの地から発見されることを期待する。

安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった

ところで 稲のDNAを調べた佐藤洋一郎(『日本人はるかな旅4』NHK出版)によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。中国大陸から直接のルートは 或る種のDNAが中国大陸と日本列島に共通してして在るのに対し 朝鮮半島にないことから その根拠は明快だが 朝鮮半島経由ルートは 中国大陸・日本列島・朝鮮半島の3地域ともに存在するDNAと遺跡からの出土品など考古学の知見を合わせて根拠としている。考古学はともかく DNAで見る限り 必ずしも朝鮮半島から伝わらなくて 中国半島から直接日本列島へ伝わったとしてもおかしくない といった問題がある。 ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。

養蚕について 布目順郎は(『絹の東伝』小学館ライブラリー) 確定的とは言えないがと前置きして 浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきた といっている。付け加えておくと 水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水 風通しがよいなど条件が重なっている。

また 言葉について 森博達は (古代技術の復権−漢字』小学館ライブラリー) 日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが 呉音には濁音があるが 朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ、中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。

これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには 東シナ海を渡らねばならないから そこに安曇族が関与したこは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は 日本列島内の交易と中国大陸との交易と結びつくし 安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。

同氏のホームページには数多くの関連した論考が記載されている。

 


 

亀山さんのサイトを見たい人はの茶色の太字で
書いた「海から見た日本列島」をクリックして下さい。

及び新刊著書「安曇族と徐福」は:−

http://kouinequal.arrow.jp/


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LetterFromOldFriend

52年ぶりに受け取った

中国の旧友からの手紙

 

1957の秋、上海の中山公園で半世紀前に僅か2時間話し合った人から昨日手紙を受け取った。感激と驚き。

2009/01/14

真道 重明

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分史的、雑記的なホームページを開設して8年目になる。日本の国内や海外の日本人からの感想やご意見は良く受け取るが、その大部分は此許20年か30年のホームページに載せた話題に関するものである。極一部の英語や中国語を除くと、書かれた言語は日本語であるから、日本語を読めない外国人からのものはごく希れにしかない。

しかし、日本語が読める漢字圏の人々からの手紙で、しかも半世紀に近い時を経て居るにも拘わらず、近況やホームページに書いた事柄に対する感想や意見の手紙や E-mail も偶には送られてくる。その時はその都度、その方が未だ健在であることを喜び、多いに感激し驚くと共に早速返事を認めて当方の近況を伝え、健在を喜び懐かしさに溢れた返書を送っている。

IT技術が無かった時代には先ず考えられなかったことであろう。最近の例では1957年の秋に上海の中山公園の菊の展覧会場の一郭で催されていた凌虚画伯の展示会でお会いした同画伯からの手紙を半世紀経ってから、この年始に受け取ったことである。

経緯を云うと、現在90歳の同画伯の息子さん(次男)が日本の企業に努めており、OBとなったのを期に日本のホームページを探している中、家父(父親)の記事があるのを発見、早速私宛にメールを頂き、蘇州の親ものにも伝えたことが端緒となった。詳しくは下記のURLにある。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/jibunshi5.htm#RYOUKYOgahaku

 

同画伯は金魚の絵を得意とし、金魚を描かせれば当代随一であった。私が顔と顔を突き合わせて面談したのは僅か2時間足らず、今から考えればまさに一期一会の出会いであった。50年以上経過した他国の人から直筆の手紙を頂く・・・なぞ夢のようである。

 

 

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LetterFromOldFriend

52年ぶりに受け取った

中国の旧友からの手紙

 

1957の秋、上海の中山公園で半世紀前に僅か2時間話し合った人から昨日手紙を受け取った。感激と驚き。

2009/01/14

真道 重明

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分史的、雑記的なホームページを開設して8年目になる。日本の国内や海外の日本人からの感想やご意見は良く受け取るが、その大部分は此許20年か30年のホームページに載せた話題に関するものである。極一部の英語や中国語を除くと、書かれた言語は日本語であるから、日本語を読めない外国人からのものはごく希れにしかない。

しかし、日本語が読める漢字圏の人々からの手紙で、しかも半世紀に近い時を経て居るにも拘わらず、近況やホームページに書いた事柄に対する感想や意見の手紙や E-mail も偶には送られてくる。その時はその都度、その方が未だ健在であることを喜び、多いに感激し驚くと共に早速返事を認めて当方の近況を伝え、健在を喜び懐かしさに溢れた返書を送っている。

IT技術が無かった時代には先ず考えられなかったことであろう。最近の例では1957年の秋に上海の中山公園の菊の展覧会場の一郭で催されていた凌虚画伯の展示会でお会いした同画伯からの手紙を半世紀経ってから、この年始に受け取ったことである。

経緯を云うと、現在90歳の同画伯の息子さん(次男)が日本の企業に努めており、OBとなったのを期に日本のホームページを探している中、家父(父親)の記事があるのを発見、早速私宛にメールを頂き、蘇州の親ものにも伝えたことが端緒となった。詳しくは下記のURLにある。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/jibunshi5.htm#RYOUKYOgahaku

 

同画伯は金魚の絵を得意とし、金魚を描かせれば当代随一であった。私が顔と顔を突き合わせて面談したのは僅か2時間足らず、今から考えればまさに一期一会の出会いであった。50年以上経過した他国の人から直筆の手紙を頂く・・・なぞ夢のようである。

 

 

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PhaseOfMyLife

私の生涯に於ける4つの

時期と苦学?および兵役

 

80年代も半ばを超えようとしている私、この歳になって、呆け掛かった頭で、来し方を振り返って色々と考えてみた。私の人生は大きく区分して、4つの時期に分けられるように思う。即ち @ 幼少期、A 専攻分野の学習と実践(調査・研究)期、B 海外の国際機関での技術協力と調査・研究、C OB期の仕事の4つである。

なお、この愚文は加齢に伴う物忘れが日々促進して居る私の記憶を「今の内に書き留めて置きたい」と云う私自身の意図もある。他人には少しも面白くない話だとも思うのだが(笑い)。

2009/03/10

真道 重明

 

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Mokuji1

目 次

@ 幼少年時代 (1922−1939)
A 水産学の苦学?、兵役と資源の調査・研究期 (1939−1973)
B 海外の国際機関に於ける活動 (1973−1984)
C
定年退職後の活動  (1984〜 )
D
結語に代えて (人生で私は何をしたのか?その他)

 

YoungPhase

幼少年時代

(1922−1939)

 

少年期に就いてはこのホームページの各所に断片的には触れて居る。家は代々細川家の家臣で、細川家が「國替え」で丹波から小倉を経ての最後の地である熊本に移り、その隠居所は今の宇土市に在ったが、其処に今日構えていた。父の仕事の関係で両親は京都の鴨川(加茂川)の出雲路橋の近くにあったらしい。

母は長男の私を当時の慣習で故郷の宇土市に戻って私を出産した。此れらは両親から聞いた話で、赤ん坊だった私自身の記憶には全くない。父は間も無く大阪市に転勤したので、私の記憶は大阪市から始まる。また、余りにもプライベイトな話は「良くは知らぬ他家のアルバムを看る」のと同じで、関係者以外には面白くも何とも無いから、その大半は割愛する。

母の言によると虚弱体質だったそうで、赤児の育ちに効くと云う温泉に度々通ったそうである。小学校前半には朝礼時に貧血で倒れたことも良くあった。それが日本人の男の平均寿命をかなり超えた80歳代の半ばの現在まで未だ生きているから不思議だ。

幼少期の出来事の幾つかは、この歳になっても鮮明に覚えて居る。近所の神社の前の道を当時日本で初めて流行ったローラースケートを練習中、サイレンが響き渡って今上天皇の出生を知ったこと、即位式は御大典と称して市電が「花電車」を仕立てて賑わう様子を父に連れられて見に行ったこと、近所に「オーヤン」と呼ばれる知能障害者が居り彼の奇行・・・などの他愛の無い記憶の数々は枚挙に暇が無い。

尋常小学校では5年生の時「第一次室戸台風」(1934)に襲われ、コンクリートの一棟を残し校舎の3分の2が崩壊する羽目になった。幸いにも木造校舎から最後に残った一人の女生徒がコンクリート校舎に避難した数秒後に砂煙と轟音を立てて2階建ての校舎は倒潰して僅か2メートルの塵の山になってしまった。

私達の5年生と6年生はコンクリート校舎に教室が在ったから、窓越しにその光景を看て吃驚したことを今でもマザマザと憶えている。また、街の家々の屋根瓦が扇風機で裁断した千代紙の紙片を吹き飛ばすように空に舞い上がり、また、「お釜」を頭に冠って落ちてくる瓦で負傷しないようにして路上を走る人なども窓から見た。

当時は大和川や武庫川の増水氾濫による洪水など、大阪一帯は自然災害が頻発したが、子供の私達は洪水時に盥を船に見立てて、それに載り面白がっていた。今ならテレビなどで大騒ぎとなる処だが、子供にはのんびりした時代だったように思う。

小学校の卒業式の際、来賓の一人が「国際コミンテルンの害悪に関する話」をしたのを解らない侭に聴いたが,生徒には何かさっぱり意味が解らないのに何故こんな話をするのか?と子供心に憶えている.今にして思えば、世は反共と戦争に向かって進んでいたのである。

府立生野中学(旧制)に入学し、新しい帽子を被り公園の桜並木の花見客の雑踏の中を爽やかさと、やや得意気の気持ちで歩いた光景も何故だが忘れ得ない。中学校では理科同好会に入った。特に動物学に興味を持って居た。

家計のこともよく分からないで、将来は大学に進学して動物学を専攻したいなどという夢を持っていた。父は「学費が思うようには出せない」という理由で、学費免除の軍医の学校や学費の安い京都の美術工芸の学校などに進ませたい意向だったが、それらを無視して、学費が安く奨学金なども受けられれば・・・なども考え、動物学が勉強できる学校を一所懸命に探していた。

唯一ではあったが幸い「農林省水産講習所」と云う4年+α制の「高等専門学校に該当する教育機関」が存在し、養殖科では動物学を勉強できることを知り、しかも「旧制中学の4年修了で受験可能」とあったので、渡りに船と4年を修了した時に試しに受験したら合格してしまった。

当時は「神宮皇學館」、「東亜同文書院」(在上海)など文部省の所管ではない幾つかの学校があり、「国が特殊援助をして居る、従って学費の安い」学校が在った。校名に「学校」と云う文字はなかったが実質的には同じで、農林省水産講習所もその一つであった。

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Phase2

水産学の苦学?と

資源の調査・研究

(1939−1973)

 

京の同校に合格して無事に養殖科に入学したが、幸運にも返済する必要がない某企業が出して呉れる奨学金も受けることに成功した。唯一の条件が「成績が上位の二割以内に常に入っていることで、二割を切ると直ちに奨学金は打ち切られる」と云うものであった。返済義務が無かったのは有り難かったが、同時に学期末試験の成績如何では直ちに退学となることから「これはウカウカ出来ない」と心配でもあった。

上京するため下着類を入れるものが必要である。金が無いので一番安いボストンバッグ一個を買った。見かけは鰐皮であったが実は革ではなくボール紙の模造品、濡れると直ちに穴が空いて使用に耐えないものであったが、取り敢えず風呂敷に包むと云うのも格好が付かなかった。汽車の切符も各駅停車の鈍行では無かったが「準急」。貧乏には慣れていたが実際問題に突き当たったその時は「金が欲しい」と心底から思った。

しかし進学して勉強できる喜びが先に立ち、「貧乏が恥ずかしい」などと思う気持ちはあまり深刻では無かったのは若者の特権だった所為であろう。両親の苦労して用意してくれた「なけなしの金」で制服や制帽、その他実習衣などを買い、同級生と伍して対等の学生寮の生活を始めた。ただ、金のある同級生が銀座のレストランで食事をするなどの贅沢は出来なかっただけである。

苦学生?:奨学金のことは誰にも云わなかったが、最初の学期末試験結果はクラスで Top に近い上位を占めたのは嬉しく、今後も在学して学習は何とか続けられそうな気がした。それでも読みたい書籍の購入や少しは「小遣い銭」も必要だから、「アルバイト探し」に懸命になって居た。

同級生にタイ国から来た人が一人居た。彼は日本語の学習が未だ不充分で、講義のノートが取れず困っていた。私が講義のノートを良く取っているのを知って「謝礼は弾むから週に一回の勉強の手助けをして呉れないか?」との申し出があり、これ幸いと快諾した。

彼の名は Boonvichitla Amatayakul と云った。毎週土曜日には彼の居る新宿の國際学生会館に通い、午後の半日を費やして、その週の講義の内容の理解を手伝った。他人に説明することは自分自身の勉強にもなった。彼は本科を卒業後は九大に移り、日本敗戦時には直ぐには帰国できず GHQ に暫く務め、1年半後に母国のバンコクに戻った。

帰国後はタイ国の水産局に就職、後には局長になった。 Amatayakul 一族は華族級の家柄で、彼も二つの農園を持つ富豪であり、日本留学費も充分であり、真面目な人柄であった。

奇しくも、後年私がバンコクに本部を持つ国際機関に11年間勤めた際、度々彼の大邸宅を訪れた。(その彼も数年前他界した)。人生に於ける「縁」とは不思議なものである。

話が脱線したが、毎週貰う彼の謝礼金は私にとっては思わぬアルバイトとなり、戦時中で甘味のない時代に母国から送ってくる乾バナナ・乾マンゴーなどの「果物の蜜餞類」を口にすることができ、また、高級レストランなどで彼のご馳走になった。

私は親から一文の学費も受けず無償の奨学金とアルバイトで勉学したから「苦学生」と云っても良いのかも知れない。旧友の誰にもこの話はしなかったから、此処で書いた話が最初である。尤も Amatayaku 君も私との関係を余り人には知られたくはない様子だったから、私も敢えて他人には喋らなかった。

無償の奨学金を受けられたこと、上記のアルバイトが出来たことは、私にとって幸運としか云いようが無く、深く感謝して居る。母もなけなしの家計から下着類や物の無い時代に手作りの菓子類を時々送って来た。その時は何とも思わなかったが、今にして考えると感謝以外の何者でもない。

義務教育を終え東京に進学してからは学費に関しては、親からは一文も貰わず奨学金とアルバイトで得た経費だけに頼った。他の同級生に比べ確かに小遣いは少なく苦労したが、これは苦学だったのだろうか?

北京官話: 中国語に興味を持っていた私は東京にいるのを幸いに当時一つ橋に在った「東京外国語学校」(東京外国語大学)の専修科(夜学)支那語科を二年生の時に受験し、土日を除く毎日、5時の授業が終わると電車で外語に駆けつけ6時から2時間北京語を勉強した。

受業料は安く電車賃を含め、余り経済的負担は無かった。ただ、水泳部の部活をサボってのことなので、水泳部の上級生から叱責され殴られたことは数回ある。何故中国語か?は色々の理由があったが、此処では割愛する。

60名の受講者は終了時には20名を下回った。私が最年少で企業からの人達が多く、中には陸軍大学校からの受講者も2名居た。中国と交戦中なのに何故陸軍では相手国の言葉を教えなかったのだろうか?と不思議だった。此処で習った中国語は、その後の私の人生に大きな影響を与えたことは後述する。

4ヵ年の本科養殖科を終えて私は更に2ヵ年間の専攻科を続けることとした。クラスでは私一名だけだった。他の多くの同級生は名目上の就職をして、実質的には兵役に服した者が多かった。世は挙げて戦争に突入して居た時代である。

兵役:1943年秋、「学徒総出陣」の大号令により、全国総ての徴兵年齢以上の教育半ばの在学中の学生は、兵役に服することになった。私も例外ではなく、その一人であった。学徒総出陣の時の詳しい経緯は下記の上段に、また、兵役についての具体的な話は下記の下段に記載した。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/SYUTUJIN.htm#SYUTUJIN

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/heitai.htm

原籍の熊本県の「八代」で徴兵検査を受け、熊本の六師団の工兵第六連隊に入隊し、初年兵前期教育終了後に気象連隊に転属し、満州の新京(現在の中国東北部、吉林省の省都、長春市)で初年兵後期教育を受けた。日本の敗戦により、戦地であった広東省の広州市から復員船に乗り1946年夏に母国の久里浜に帰還、除隊する迄の足かけ4年間の兵役であった。

兵役期間中、敢えて特記するとすれば、「銃を持って戦闘には参加しない」気象隊という特殊部隊に属していたこと、敗戦による停戦後、復員船に乗船する直前まで、日本軍からの出向命令で事後整理のため通訳官として中国空軍第四方面運司令部に勤務したことである。

それ迄敵だった連合軍(国民党軍)に少佐待遇で配置され、「中国軍の兵士から敬礼される」という前代未聞の珍しい立場に在ったことである。従って敗戦側の日本軍将兵が POW Prisoner of war、捕虜と云う立場に在ったのに対し、私は POW ではなかった。(尤も、復員船で帰国した日本軍の将兵は捕虜という意識はなかったが、帰国船を待つ間の期間は背中に WP war prisonerと書かれて居た)。全く予期しないことだったが、学生時代に東京外語の専修科で中国語を習ったことが幸いして多いに助かった。

就職:戦時特例法によって「繰り上げ卒業」の措置が取られ、私が兵役で戦地に居る時点で公式記録の上では卒業した形となった。従って後年になって卒業証書は母校から手元に送られてきたが、私は卒業式と云うものは経験して居ない。

戦地から故郷に戻って休養した後、取るものも取り敢えず母校に出頭すべく上京した。情報を得、就職を考えるためであった。農林省水産試験場は戦後の同試験場の組織の再建中であり、その一環として九州大学の天草臨海実験所内に併設される水産試験場の(臨時)試験地に職を得られることが決まって、一ヶ月後には直ぐさま赴任した。

任務は水産資源調査とその研究であった。その翌々年にはこの試験地は長崎市に移転し、政府組織の改変により、紆余曲折を経て、農林省水産試験場は八海区制となり、その後間も無く八海区の一つである「西海区水産研究所」と改名された。此処には23年間在籍し、主として東シナ海の底魚に関する調査と研究に携わった。

1971年に東海区水産研究所(中央水産研究所)に転勤、1980年まで在籍した。任務は各研究部を統合的に調整する企画連絡であったが、1973年にタイ国のバンコクにある「東南アジア漁業開発センター、SEAFDEC」に急遽出向を命ぜられ、その後11ヶ年間の1984年迄、長期に亘り同センターに勤務した。

実は出向元の東海区水産研究所は定年制により1980年に退職したのだが、国際機関の任期が残っており、出向元を JICA に移して SEAFDEC には任期の終わる1973年迄在任した。

農林省(水産庁)在任期間中には私なりに振返って特記することが幾つか在る。第一は当時まだ国交のない中国へ初めて日本の国家公務員の第一号として派遣されたこと。日中漁業民間協定の学術交流の一環として日中漁業協会の要請により農林大臣の出張命令であった。詳しくは下記の URL を:−

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/china57.htm

第二は SEAFDEC に派遣された初期の苦労話である。詳しくは下記の URL を:−

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/SEAFDEC.htm

上述のように水産資源の調査研究だけに専念出来たのは西海区水産研究所に在職した時代で、東海区水産研究所に移ってからは「資源の研究」では無く、専ら研究全般に関連した管理業務だった。研究を続けたい気持ちの強かった私は、「取り敢えず急遽 SEAFDEC に赴任してくれないか?前任者の予期せぬ離職に困っている。帰国後のポストは保証する」との庁の要請があった時、快諾した理由の一つは SEAFDEC では研究が業務の一つとあり、研究が再開できることに在った。

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Phase3

海外の国際機関に於ける活動期

(1973−1984)

 

前節の URL に記したように、 SEAFDEC に赴任した初期の2ヶ年間は外務省や水産庁が全く想像もしていなかった変則的な状況下にあり、研究処ではなかった。詳しい経緯は前節の URL にゆずり此処では繰り返さないが、同国際機関の活動が正常化してから以後は、加盟各国と協同で調査研究の実施が出来るようになった。

SEAFDEC は日本を含む6ヶ国の政府間機構としてとして発足したが、ASEAN (東南アジア諸国連合)の伸展強化に伴い、両者の関係も調整強化され、現在では11の国家(ブルネイ Brunei DarussalamカンボデCambodia、インドネシア Indonesia日本、ラオス Lao PDR、マレーシア Malaysia、ミャンマー Myanmar、フイリピン The Fhilippin、シンガポール Singapore、タイ Thailand 、及び ベトナム Vietnamが加盟して居る。

日本だけが非東南アジア国であり、技術者の派遣と経済援助国であったが、発足時には ASEAN の会議には開会式にだけ招待され、実質的な会議には日本人職員は参加できなかった。また、この種の多国間組織としては世界的にも唯一の極めて特殊な「設立協定」を持つ組織である。

発足時には本部をタイのバンコク市内に置き、Training Department (訓練部局)をタイのバンコク郊外に、また Marine Fisheries Research Department (調査部局)をシンガポールの Changi に設置したが、数年後にはフィリピンのパナイ島に Aquaculture Department (養殖部局)を増設し、この体制jが長らく続いた。その後加盟国の増加と共に Marine Fishery Resources Deveropment and Management Department (海洋漁業資源開発管理部局)がマレーシアのタイ湾に面した Kuala Terengganu に追加されて今日に至っている。

なおこれらの部局に名称は、訓練部局は「海洋漁業部局」、調査部局は「水産加工部局」と呼ぶ方が仕事の内容を的確に表しているが、外部からの訪問者に誤解を与えることが多いが未だに改正されていない。


参考迄に JICA が行った SEAFDEC に関する評定を下記に掲げる。なおこの項目は現在 Web 上では閉鎖されている。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/JICA_SEAFDEC_Evaluation.pdf

なお、参加国が増えた後、日本の現地に派遣経験のある大学関係者による、その後の同センターの問題に関する討論内容が下記の site に公開されて居る。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/SEAFDEC2.pdf'


なお以下に述べる話は小生が担当した訓練部局(部局の名称は、上述のように、「海洋漁業部局と称すべきが正しい)に関するものである。

教科書の編纂: 公式使用後は英語である。各国から派遣されて来る訓練生は殆どが政府の若手技官であった。私が赴任して先ず最初に取り掛かったのが教科書の作成であった。それ迄は日本人指導教官の持つ講義メモに基づき教室で講義した内容を各訓練生はノートして居たが、ノートに手間取り理解し考える余裕が無かった。

いわゆる日本式講義方法である。多くの国では予め講義内容を印刷した冊子を事前に配布し、受講生はそれを読みながら講義の中で各自が必要と思う事柄だけを手帳に書き留め、それに基づき疑問点や理解の正否を質問する方法を取るのが一般的であり効率的である。私は教科書(講義録)の編纂を痛感して居た。

更に云うならば、 SEAFDEC が多数の受講生を擁する学校に類する教育組織である以上、CurriculumSyllabus に関する論議は殆どなされて居なかったと云って良い。JICA (当時は OTCA と称した)も教官として専門家を派遣するのは良いが、他の先進国では派遣者数に匹敵ないしそれに倍する支援チームを国内に置いている。我々の場合は事務の連絡担当者を1〜2名居たのが実情であった。初めての経験とは云え、準備態勢は極めて弱体だったと云う外はない。

CurriculumSyllabus に関する論議も、日本の国内に支援チームがあり、水産高校や水産大学でのそれらを仮英訳して支援して呉れて居れば、問題はかなり効果的に進んだ筈である。現地での「教科書(講義録)の編纂」という私の考えが実現する迄には多くの困難と努力を要した。

技術報告書の出版: 理事会報告や活動結果ないし活動計画などの事務的文書以外に、各年度の実施した調査研究の結果を出版することは、技術協力や調査研究を担当している国際機関として門戸を張っている以上、当然のことであった。

先ず調査研究の「技術報告書及び技術論文の記載要領」(マニュアル、米国の科学論文記載要領に関する諸文書を元に、 SEAFDEC の状況に合わせて修正)の作成)、「英語を母国語とする英文の推敲担当者による点検」、「Typing pool での印刷原稿作成」、「印刷業者への発注」など一連の業務規定の決定等々である。運用出来るようになる迄に2ヶ年程度を要した。

マニュアルの作成(これには Washington Univ. の水産学部の司書だった Ms. Shallotte の協力を得た)と技術文書作成主任は私が担当した。日本人派遣専門家は、大学や研究機関、民間企業、政府行政職技官の三つの出身母体から構成されていたが、マニュアル作成には大学や研究機関出身者が協力した。

調査研究活動: 初期にはタイ水産局所属の水産研究所や国立農業大学の水産学部の研究者達との協同研究が多かったが、母国では技官である訓練生喉を介してフイリピンなどの資源調査など、研究対象区域も拡張した。

下記はその一例である:−

ECONOMICALLY IMPORTANT MARINE FISHES IN THE SOUTHEAST AISAN WATERS. Compiled by Shigeaki Shindo and Somsak Chullasorn. Training Department, SEAFDEC. 1980/10. TRB/No.17. 91 pp. + v.

これらの調査研究報告は個別に、また業績集の合本として1000ページを超える数冊の印刷物としても配布された。但し、当時から30年も経過した現在の SEAFDEC では大判のカラー印刷冊子として数種の定期または非定期の刊行物が「水産関係の一般人を対象とした形の書籍」として公表配布されている。

私が SEAFDEC に在任したのは11年間であったが、設立後40年を超える歴史中の初期の4分の1に該当する期間である。この間には組織の存亡に関する危機問題や在シンガポールの調査部局の調査船 Changi 号のビルマ海軍による拿捕事件などがあったし、対象海域の資源や環境も大きく変化している。

当時の現地職員の殆どは退職しているが、数名は未だ在籍している。私が定年で離職後も個人的に数回訪問しているが、先年、寄宿舎の庭に私の名前を冠した記念樹が育っているのを見たときは感慨無量であった。

任期を終了して日本に帰国したのは1984年の7月末である。

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Phase4

定年退職後の活動

(1984〜 )

 

帰国後直ちに海外漁業協力財団 (OFCFに招かれ、同財団が新しく計画している「外国からの研修生の受け入れ、及び研修の実施」を手伝うことになった。同財団には足掛け4ヶ年務め、1987年の秋に退職、時に満65歳であった。私の人生に於て、恒常的に毎日出勤する、いわゆる「サラリーマン」としての生活は修了したことになる。

尤も、同財団在籍中や退職後の現在に至る期間を通じて、東京水産大学(東京海洋大学)、東海大学水産学部からの要請で非常勤講師を務め、また、FAOFAO/SEAFDECWorld Bank/FAOOFCFJICA、中国政府、タイ国政府などの要請で講義や Mission member (調査視察団員)として各国に赴いたから日本を離れることが多かった。

特に印象深かったのは World Bank/FAO の協同による Mission で、中国広東省の水産業と果物栽培業の開発に関する中国の借款の可否を調べる調査であった。用語は英語だったから借款を要望した広東省側はかなりの量の資料や統計を英訳しなければならず大変だったろうと思った。日本人は私一人で他は欧米人であり中国語は読めない。

調査団は数個の専門別チームに分かれて行動したが、私一人は同省が面する南シナ海の資源状況を推測する任務であった。中国文は読めたので中国側の資料や統計は英訳しなくても理解できたのには重宝した。約4ヶ月に亘って北は汕頭(スワトウ)から南は雷州半島の企水鎮の漁港まで、同省の海岸の重要漁港の大半を視察できた。

但し、中国の田舎料理に不慣れな欧米人は1週間経つと広州市の近代的大型ホテル(白天鵞賓館)に戻り、気力を蓄えて再度現地の田舎に赴くと云う苦労があった。広州市は私が兵役時の勤務地であり、戦後も数回訪問した懐かしい所であり、記憶にある市内や近郊の旧跡を訪ねたかったが、そのために時間を充分に割けなかったことは残念であった。

 

2002年に此の個人のホームページを立ち上げ、その後 Blog も開設して駄文を公開して居る。元々「呆け防止」の心算であったが、案外にも閲覧して下さる人達が在り「メル友」も多数出来た。有り難いと思っている。呆け防止の効果は在るのか無いのかは判定の仕様は無いが、「物忘れ」が次第に進んでいることは実感する。

80歳代も半ばを過ぎて、杖を突きながら歩いている現在、どうしても在宅時間が多くなり、パソコンの前に座って時間を消費することが多くなった。友人の多くから「高齢にも拘わらず良く遣っているなー」と云われるが、眼は翳み(70歳を超えた日本人の9割は程度の差はあっても白内障に罹患していると云われている)モニターを見るにも眼科医の助言で専用の眼鏡を掛けて居る。

また、70歳ぐらい迄は筐体を開いて HD やメモりの増設ぐらいのことは出来たが、今では指先の力が衰え、しかも震えるので人に頼むしかない。第一床に置いてある筐体を自分でラックに持ち上げる腕力すらない・・・と云うのが実情である。

但し、ホームページや Blog を立ち上げてみて感じることの一つは「メル友」や Web 上で知り合った知人が増えたことである。80歳を超えると、それ迄良い話し相手だった友人の訃報に接する頻度が多く、その数は年々減って来る。

無駄話であっても話し相手との会話の機会が減ることは精神的にとても淋しい。この状態を多いに変えてくれるホームページなどは実に有り難い。このような友に感謝し大切にすることに努力して居る。教えられることも沢山ある。

 

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KetugoNiKaete

結語に代えて

(人生・生死・仕事・好奇心・言葉・宗教観、etc

 

人間誰しも OB となり齢を重ねると「人生観」や「生死観」、また「俺の人生は何だったのだろう?とか「俺がやってきた仕事は意味があったのだろうか?」、などに就いて考えることが多くなるらしい。凡庸な私ではあるが、ホームページに書いた「数多くの駄弁」の序でに愚文を弄した。

冒頭で述べたように、「加齢に伴う物忘れが日々促進して居る私の記憶を自分自身のために「今の内に書き留めて置きたい」と云う意図もある。しかし公開する以上、当然のことだが、余りにプライベイトなことや誤解されることには避けた。

私の人生観や生死観: 関東大震災の前年に生まれ、物心が付き始めた昭和初期には世界大恐慌、サッカーのロス・タイムにも似た人生の終末期にある現在、100年に一度と云われる金融大恐慌の中にあり、恐慌と恐慌の迫間に生きて居た訳だし、日中戦争に次ぐ太平洋戦争、敗戦・・・と世界史的にも激動の社会の中に生きたように思う。

だからと云って「不運な時代に生まれた」と思ったことは無い、同年配の人々は皆そうだったのだから・・・。半飢餓状態の国に生まれた人々も「この世はこんなものだ」と思っているだろう。周りの人は皆そうなのだから。「生」が在るから「死」が在るし、「富」が在るから「貧」が在る。皆が一様に「富」であれば「富」と云う概念は存在しないだろう。「生と死」もこれと同じだ・・・と思う。

戦地の飛行場勤務で毎朝目が覚めると連日の爆撃にも拘わらず死なずに、胸中には「今俺は生きている」と心から思う瞬間が在ったが、「死を恐れ、生に執着する気持ち」だったのでは全くない。連日戦死者が出るのを目前にする環境下に在っては、「生」と「死」は「極く近い事柄であり、常に隣り合わせ的な存在だ」と恬淡とした気持ちだった。

復員・帰国後の日常生活で、この時のような心理状態を自覚したことは無い。生死に関し恬淡としたその時の心理状態は、今にして思えば「生者必滅・会者定離」ではないが、一種の宗教的な「悟りの境地」に近いものだったのかも知れない。戦地を離れると元に戻ってしまった。凡人の凡人たる所以であろうか?

宗教観: 信仰する宗教を私は持たない・・・と云っても宗教に無関心だとも云えない。子供の頃の家には神棚も在ったし、仏壇も在った。当時の履歴書には宗教を記入する欄があり「佛教」と記入していた。しかし、南無妙法蓮華経のお題目(日蓮宗だった)を佛前で唱えたことは一度も無い。

一階にあった神棚の真上の天井には「雲」と筆書した和紙が貼ってあった。「二階に居ると神棚を踏みつける(即ち「神」を踏みつける)危険があり恐れ多い、そこで「雲」と書いて上は天空だと云うことにしてある」と父は云っていた。神様を騙しているのではないか?と私は思った。祖母とは良くお寺に行ったが、私にとっては鳩が沢山居る遊び場であって、佛を礼拝に行ったのではない。

上で「宗教に無関心だとも云えない」と云ったが、仏典、特に般若心経や歎異抄などは枕頭にあり、またタイ国に居た関係でヒーナヤーナ(小乗仏教=南方佛教)には関心がある。佛教関係の言葉には古代印度語のサンスクリットやパーリ語に由来する言葉が沢山あるのに興味を持ったからだ。例えば「夜叉」はタイ語は「ヤク」、原語は「ヤクシャ」:「奈落」はタイ語や原語ではでは「ナーロク」など。

パーリ語の「お唱え」なども少しは今でも記憶している。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/GENKOW1.htm#Pali_languege

聖書は英会話を習うため「新約聖書の輪読会」(無償)で出会い、特に「マルコの福音書」は好きで、今でも枕頭にあり時々は読み返すこともある。洗礼を受けることはなく、私はクリスチャンではない。仏典やキリスト教の聖書は少しは読んで居るが、その内容を「勝手な自己流に解釈」をしているだけである。

中学校時代に岩波全書の「科学と宗教の闘争」という書を読み、後に生物学という自然雅楽を専攻した私は、「教えを信ずる」という境地とは無縁な気がする。「総てを先ず疑って考える」、「何故そうなるのかを考える好奇心」が私には常に働いている。信仰とは理屈ではない。戒名もお墓も私には無関係である。

だからといって虚無主義者では無い。先日 NHK のラジオ深夜便で禅宗の高僧が「地獄や極楽を信じる人が多いが、本当はそんなものは無い」と明言していたのを聞いて驚いた。「無」だそうである。科学も総て「仮設」の上に成り立っている。何だか通じるものを感じる。

 

(完)

 

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UkaiNoTorai

鵜飼いの渡海

[寄稿]

 

2009/04/28

三浦 福助

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三浦 福助さんから鵜飼いに関する話の第2弾を頂いたので紹介します。PDF形式のファイルですから、Adobe Reader をインストールしてからお読み下さい。

此処をクリックするとPDFが表示されます

なお、第一弾の「鵜飼いの理解」は此処をクリックして下さい。

 

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KAMISHIBAI

私の見た最初の紙芝居

 

2009/05/05

真道 重明

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転車の後に大きな木箱を載せ街路脇の一角に停め、カチカチと拍子木を叩き乍ら子供を寄せ集める「紙芝居」。私がそれを始めて見たのは、確か1931年(昭和6年)、小学校2年生の10歳の頃だったように記憶する。処は住んで居た当時の大阪市住吉区(現在の東住吉区)の田辺である。

大きな木箱は上下に分かれ、上部は観客側に向けた窓枠の舞台、下部は観客側とは横向きに回転して置くのヤヤ小さな箱で「飴を入れた抽出し」があった。「舞台」と云ったのは数枚の絵を次々に見せるのではなく、差し替えの出来る2〜3枚の背景画とその前で演じられる一種の人形芝居という形式だったからである。

厚紙に「笑った顔の母親の姿」を描いて切り抜き、裏には「怒った顔の母親の姿」が描かれており、これらの人形は割り箸の上端に挟み込むように固定されて居る。割り箸の下端を握ってクルリと回転させ裏返しにすると「怒った顔が笑った顔に変わる」と云った仕組みである。

背景画の前は「隙間」があって、割り箸の下端を握った紙芝居師は箱の背後から操る仕掛けであり、姿は見えない。紙芝居師は大声で説明や人形の「せりふ」を語る。素朴な一種の「あやつり劇」の趣向で指先の動きで登場人物が動くのである。インドネシアの影絵芝居に似た雰囲気を持って居た。

外題は柳川春葉の「生さぬ仲」(明治、大正にかけて新聞連載されていた「血の繋がらない義理の親子関係」を取り上げている小説)や、尾崎紅葉の「金色夜叉」など、幼い子供には理解しがたいものが多かった。

今日は五月五日、端午の節句である。86歳の私はフト昔日の子供の頃を思い出し、このことに好奇心を燃やし調べてみた。以下はその結果知り得たことを述べる。


日本語 Wikipedia に依ると、1890年代に「立絵」と言う、竹の串につけた20×10cm程度の紙人形を舞台で動かす芝居が現れた。1890年代、円朝の弟子「新さん」が考案したといわれ、昭和初期に現在の紙芝居形式(平絵)が登場するまで、この立絵が「紙芝居」と呼ばれていた。1927年ごろの不況の中で立絵は消えていった・・・云々とある。

私が初めて見た紙芝居はこの「立絵」が消滅する時期、即ち「立絵」の末期のものだったことが判明した。外題が「生さぬ仲」だったり「金色夜叉」だったりしたことも「成る程なー」と納得した。

この紙芝居屋さんも僅か半年足らずで「立絵」スタイルを止め、10数枚の絵を次々と差し替える今の紙芝居のスタイルに替わり、「黄金バット」(金色の骸骨の姿をし、漆黒のマントを身にまとう正義の味方)などの名作になった。カチカチと拍子木を叩き乍ら子供を寄せ集め飴を売ることはその侭受け継がれた。10数枚の絵を次々と差し替える今の紙芝居のスタイルは「立絵」に対し「平絵」と呼ぶのだそうだ。

私が見た紙芝居屋さんはどう言う訳か大学帽を被っていたので「大学の紙芝居」と私達子供は呼んでいた。中には蓄音機を携えて観客が集まる間は行進曲を掛けて居た。私達子供は「蓄音機の紙芝居」と呼んで居た。

紙芝居の歴史はその方の研究者によると、「絵解き」と言って、絵を見せながら物語を語って聞かせる伝統があったらしく、『源氏物語』にも、女房が姫君たちに絵巻を見せながら物語る場面が出てくるし、寺では僧侶が曼荼羅や寺の縁起を「絵解き」で参拝者たちに語って聞かせたそうだ。

時代が下り、江戸時代から明治・大正にかけて、小さな穴から箱の中の絵を覗くのぞきからくり縁日の見世物小屋で楽しまれた。絵だけではすぐあきられるので、これに語り(のぞきからくり節)をつけたものが人気を博した・・・と云う。私も近所にあった神社のお祭りで、この「覗きカラクリ」なるものを数回見た経験がある。確か「遠眼鏡の芝居」と呼んでいた。

また同じ時期に寄席や縁日で楽しまれた、写し絵、手影絵、影絵眼鏡もまた、「絵を見せながら語る」という点で、紙芝居の源流と言うことができ、この延長線上に無声映画があり、映画館では活弁士がスクリーンの前で熱弁を振るった・・・云々とある。(以上、歴史に関する部分は日本語 Wikipedia に依る)。


街頭での「平絵」の紙芝居は1946年というから、戦後間も無く復興したそうだが、これは敗戦の翌年で私が戦地から久里浜に復員した年である。もはや紙芝居を見る歳では無かった。

その後テレビが出現、テレビのことを「電気紙芝居」などと冗談めかして呼んだが、「平絵」の街頭紙芝居は今では懐かしい子供時代の思い出の一つとなってしまった。

 

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jyoSaiya

「定斎屋」と燧石の「切り火」

− 学生時代に過ごした深川の想い出 −

 

2009/05/07

真道 重明

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田寅彦全集の中に「定斎屋」の記述がある。遠藤 武氏に依れば「定斎屋(じょうさいや) 夏に江戸の街を売り歩く薬の行商人。是斎屋(ぜさいや)ともいい、江戸では「じょさいや」という。この薬を飲むと夏負けをしないという。箪笥の引き出し箱に入った薬を天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、天秤棒が揺れるたびにたんすの鐶(かん)が揺れて音を発するので定斎屋が来たことが分かる。売り子たちは猛暑でも笠(かさ)も手拭(てぬぐい)も被らない。この薬は、堺(さかい)の薬問屋村田定斎が、明(みん)の薬法から考案した煎(せん)じ薬で、江戸では夏の風物詩であった」とある。

また、杉浦 日向子氏に依ると「定斎屋(じょうさいや)、是斎屋(ぜさいや)とも言いました。犬塚さんのお話によりますと、小さい頃見たことがあったそうで、小学校の頃、近所に担いでくるのですが、細長い黒の物に引き出しが沢山付いていて、金具がついているそうです。後と前を合わせて12個くらいあったらしいとか。何やら歩き方が違うらしく、担いで歩くと共にゆっくりですが身体をゆすりながら「ザッザッザッザッ・・・」という音がしたそうで、その音で「定斎屋が来た」ということが分かったそうです。犬塚さんのお話は、昭和十年〜十一年(1935〜1936)くらいの頃の大森で見たそうです。定斎屋は、食中たりの薬、粉薬を売っていました・・・云々とある。

寺田寅彦全集の「定斎屋」の件だが、物理学者だった寅彦は1935年(昭和10年に病没しているから、その時点より可成以前に書かれたものであるに違いない。曰く「街々を歩く定斎屋が発するガチャガチャした音色はすっかり東京の街から消えてしまった。江戸の名残の風情がまた一つ失われた」というような内容だったと記憶している。

私が定斎屋を見たのは1947年(昭和17年)、場所は下宿していた今の江東区三好町である。杉浦 日向子氏の記事では1935年頃の大森ということだが、それより10数年後まで、寅彦が書いた時点より起算すれば更に後まで定斎屋は未だ残っていたことになり、寅彦が嘆いた江戸風情は深川では生き永らえていたようだ。

蛇足だが夏の食中りなどの目的で私の母などは水を飲むときに一滴の枸櫞酸をコップに垂らして居た。中国では薬房の店頭に「菊花水」が売られて居るのを見たし、タイ国では「ナム・ヤー・ウタイ」(日ノ出ノ水の意)が「菊花水」と並んで薬房の店頭に売られていた。定斎と同じ薬効がある水薬である。


「切火」は辞書によると「切り火」とも書き、対象にむかって火打石を打って火花を起こすことによって行う清めの儀式である。神仏に対する供物や神具を清めるほかに、花柳界や相撲のような水商売の世界では一種の縁起かつぎとして人に対しても行う・・・とあるが、時代劇などで例えば町火消しの「め組」などが消火のため出動する際、おかみさんが両手を高く差し上げてカチカチと燧石を打ち「切り火」を打ち安全を願う・・・あれである。

「火打ち石と火打ち金を摩擦させて火を起こす」ことはマッチが発明され日本に輸入される迄は、社会生活では日常のことだっただろうと思うが、上記のように「清め」や「安全の呪い(まじない)」のために行われることは江戸時代の話で、まさか昭和期になっても関東に残っているとは、九州生まれ・大阪育ちの私にとっては驚きであった。

(参考出典 青蛙房刊 江戸商売図絵 三谷一馬著)

1945年頃、深川の素人下宿先で、私が学校の調査旅行などで数週間家宿を離れる時は、下宿の「おかみさん」が玄関先で必ず「切り火」を打ってくれた。旅行の無事を祈ってのことである。

私の下宿先だけが特殊だったのか?それともこの風習が未だ多く深川界隈に残り伝えられていたのかは知らない。・・・と云うのは同じ光景を他で見たことは一度も無かったからである。

お呪い的な迷信と云えばそれ迄だが、好意には何時も軽く頭を下げて会釈した。恐らく深川あたりには伝統が残って居たのではないかと思っている。それとも「厄よけ」のためや「神棚」に向かうとき「切り火」を打つ風習は全国各地に残っており一部の人達の間では未だ行われているのだろうか?

話は変わるが、フリント式ライターと云うものがある。主に喫煙や厨房で着火に使用することはご承知の通り。100円で売って居る。フリントは英語で「火打ち石」 flint のことだから多くの人々が日常使っている。これには「厄よけ」や「無事を祈る」などの「御利益」は無さそうだ。玄関先で頭上にライターで「カチツ」とやられったらどんな気かするだろうか?先ずそんな人は居ないだろうが、若しあったら「この人、おつむ(頭)が変だ」と思うだろう(笑い)。


追 補

@:定斎屋に就いて三浦福助さん(筆名)から以下のコメントが在りました。

定斎屋のこと、拝読しました。私は、東京の芝で生まれ育ちましたが、定斎屋を見た覚えがあります。天秤の両端に抽斗状の函を提げ、売り歩くのですが、天秤のしなりにより、引き出しの取っ手が揺れてカッタカッタと音がしていました。その音を今でも覚えています。私の記憶では戦後のようなのですが、定かではありません。終戦時、私は小学2年生で、記憶が曖昧になっているのです。兄に聞いたところ覚えているが、年代は定かではないとの事でした。私の感じでは、戦後であったような気がするのですが、今となっては確かめようもありません。思い出したものですから、お知らせいたします。(2009/05/13)

真道 記: 深川一帯だけでなく上記の内容から察して、東京都内の各地に定斎屋が敗戦前後に残っていたことが分かる。

なお、福助氏からだい2信で近世風俗志(喜田川 守貞 1810〜?)に是斎売りの記事(画像)が送られて来たので紹介する(2009/05/15)。

真道 記:定斎屋(じょうさいや)は是斎屋(ぜさいや)とも呼んだ。多くの文書に記事があるが、「孫引き」も多い。江戸が有名だが上方(近畿地方)から江戸に伝わったらしい。下記はその経緯を述べている典型的な記事であると思う。

 

近世風俗志(喜田川 守貞 1810〜?)

A:真道 記:(物売り 日本 Wikipedia)に依ると、定斎屋---昭和30年(1955)頃まで存在したといわれ、江戸時代の物売りそのままの装束で半纏(はんてん)を身にまとい、天秤棒で薬箱を両端に掛け担いで漢方薬を売っていた。また力強く一定の調子で歩いた為、薬箱と金具や天秤棒のぶつかり合う音が独特の音となり近隣に知らせた・・・とある。@ の福助氏の話は戦後の可能性も充分考えられそうだ。

B:真道 記:(寺田寅彦 物売りの声)というタイトルのエッセイに下記の一文が在ることを発見した。曰く:−

東京で震災前までは深川(ふかがわ)へんで見かけたことのあるあの定斎屋(じょさいや)と同じようなものであったらしいが、しかし枇杷葉湯のあの朱塗りの荷箱とすがすがしい呼び声とには、あのガッチンガッチンの定斎屋よりもはるかに多くの過去の夢と市井の詩とを包有していたような気がする・・・云々。

私の記憶は冒頭に述べた寺田寅彦全集に収録されていたこの一文だったのかも知れないが、消え去って行く江戸情緒を懐かしむ気持ちがもっと長い文章でつづられて居たように記憶している。

C:真道 記:『声を出さなくても音でわかるのは「定斎屋(ジョサイヤ)」のかたかた鳴る金具の音だった。暑さよけの薬を売る定斎屋は帽子をかぶらず「ジョサイヤでござーい、毎度ありがとうござーい」と売りあるく・・・云々』と書いたものを見付けた。(東京弁(7) 町に響いた『物売り』の話、東京新聞 Web 2008年3月19日、早稲田大学名誉教授 秋永 一枝)。

なお、他のサイトに「江戸時代の定斎屋は二人一組で、一人が荷を担ぎ他の一人が声で触れていた」と云う記事があった。私が見たのは天秤棒で荷を前後に振り分けて担ぐ人一人だけだった。売り声は無く音でそれと分かった。

D:上西俊雄氏から下記の情報を頂いた。曰く:−

定齋屋はひょっとしたら私の見たのが最後かもしれません。四谷驛の前でみました。小さく作った箪笥を二棹天秤棒で擔ってゐたです。定齋屋といふ語を知ったのは昭和45年頃の或る宴席。そのとき見たことがあると思ったのですが、それが何年前のことだったか、まだ30年臺だったかどうかはっきりしません。
定齋屋は
jauzaiyaでせうね。つまりダ行音。「近世風俗志」の場合はさうでない。字音の假名遣はあまり嚴密ではなかったといふことでせうか?(2009/05/19)

真道 記:上記Aの「定斎屋は昭和30年(1955)頃まで存在した」と云う記載の信憑性の一つになる。場合によっては昭和45年(1970)頃までかも知れない。従って定齋屋は寅彦が目撃したときより少なくも20年以上の後年まで、私が見たときより10年弱の後まで、場合によっては、上西俊雄氏の記憶は定かでないとのことだが、昭和45年頃まで生き残っていたことになるのかも知れない。

 

ガッチンガッチンの音と共によほど親しまれた薬だったのかも・・・。

 

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OccupiedJapan

敗戦直後の日本人の「心理的

な混乱」の想い出とその感想

 

2009/05/07

真道 重明

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国家の無条件降伏という未曾有の体験に直面した日本人社会の話は今や忘れ去られようとしているか、若しくは敢えて触れたくないのか、引き揚げ者の悲惨な体験などは別として、余り多くの文章は語られず、私達の眼に触れないように思う。此処では些かではあるが、80歳をなかば超えた私の個人的な体験やそれらに就いての「私なりの独断的な感想」を、脳の老化が未だ余り進まないうちに記録して置きたいと思い、記した。

Mokuji2

目 次

玉音放送直後の戦地の軍隊や居留民

復員船での出来事

RTOと書かれた駅舎の文字

日本の将来像はスイスだと云う与論

半世紀以上経過した現在の感想

 


 

 

 

GyokuomHoso

玉音放送直後の戦地の軍隊や居留民

 

象連隊に所属していた私達はモールス信号による定時放送を任務の一つとして居た。従って極めて性能の良いラヂオ受信機を持って居たから戦地でも玉音放送は明瞭に聞くことが出来た。敵軍に対する一切の戦闘行為は上部からの命令で停止された。

・・・とは言っても、広州市郊外に居た私達には目前に敵軍が居る訳ではない。武装もその侭、軍隊としての組織や軍律は玉音放送前と何ら変わらない。ただ「撃ち方やめ」だけの状況である。兵は銃剣装備の侭自由に市内を出歩いて居た。中国の市民は戦いに勝利したことは知っていても日本兵に罵声を浴びせたり、睨み付けて刃向かうことはしなかった。何しろ此方は兵器を持って居るから恐い存在だった。

ヤケになった日本兵は酔っぱらって街中を徘徊していた。一方、中国の市民は「勝利牌」などと書いた酒の宣伝の広告を大八車に乗せ、意気揚々とお祝いムードで市内を行進している。お互いに存在や行動を敢えて無視したような、実に変で且つ異様な光景が少なくも数日間続いた。

負けてやけ酒を呷り酔っぱらって「屋外を蹌踉めき歩く」姿を視るのは苦々しい限りだ。そもそも屋外で酔態をさらけ出すのは日本人だけのようだ。屋内では在っても屋外と云うのは欧米では極めて希だと云うことを読んだことがある。中国でも同じだ。この醜態を視た中国人はどう思っただろうか?

敗戦前の日本軍では勿論処罰の対象になる。戦争に負けたからと云ってここれらの兵の路上の兵の酔態を放置したのは敗戦による軍の統率力の低下によることは言うまでもないが、日本人社会ではそれを許す慣行が昔から存在したことにも一因が在ったからだと私は思っている。

象隊は小高い丘の上にあり、気象放送や通信は人工的に掘った洞窟の奥に在った。数名の勤務担当者は通信機器の設置された洞窟内に居たが、部隊本部や集会所などは洞窟を出た丘の中腹に在り、裏からは市街や真下の街路が手に取るように良く見渡せた。

大型トラックに寿司詰めになった他部隊の兵が歓声を上げて市内を離れ奥地に向かう光景が時々見られた。中には将校が混じっていたことも在ったし、また必ず2〜3名の従軍看護婦が乗って居た。勝手な行動であるから通常なら脱走兵である。私達には彼等の行き先は分からない。その目的は負けた日本軍から離れ「孤立した武装集団」になるためだと云うことは想像された。

後で聞いた話だが、海軍にも舟艇に乗って隊を離れた連中が居たとのことである。彼等のその後がどうなったかは誰にも分からない。恐らく「山賊や海賊」まがいの集団となったのでは無かろうか?我々は現役召集解除の命令が出され、次いで再招集の達しがあった。上記の状況と時間の前後関係は記憶が薄れて居るが、現役召集解除令の直後は一般民間人となった訳だから、「今後の身の振り方は各自の考えに任せる」と云うことだったのかも知れない。

戦争終結に関するジュネーブの国際協定にはどう決められているかは知らないが、彼等が脱走兵と云うべきか不法行動者だったと云うべきか・・・?その末路は・・・。恐らく悲惨な運命がまち構えていたのではないかと私は想像する。

本の居留民は後に中国軍が進駐して来てからは収容施設に収監されて領事館の責任者がそれらの人々の纏め役をして居た。収容施設内は概ね平静であったように思う。しかし、単身赴任していた男性間には「居留していた日本人女性の現地妻の縺れからの葛藤でピストルによる射殺事件が起こったり、集団生活下にある夫婦には、「夜の営み」を他人に見えないように「隔離されたテント小屋」が創られ、希望者でなくても交代でそのテントに泊まることになっていたようだ。

兵である私が何故そんな事情をを知っているか?と思われるかも知れないが、南支派遣軍からの命令で敵であった中国軍の司令部に通訳官として転属しており、形式上では日本兵であるにも係わらず特殊な立場にあり、戦勝国の中国軍の管理下にある日本人居留民の収容施設や日本兵キャンプなどに立ち入る機会が度々あったからである。

未だ二十歳をやっと超えた独身の日本軍将兵の一人だった私ではあったが、人間社会の一面を垣間見る機会に恵まれたと云う訳であった。日本兵キャンプはハッキリ言うと「捕虜収容所」である。しかし、収容所に居る日本軍将兵は捕虜であると云う意識は希薄であった。

当然ながらキャンプは中国軍(国民党軍)の管理下にあったが、毛沢東率いる八路軍(共産党軍)との内戦が激化し南の広東省に駐在して居た中国軍は北伐と称して、連日北方に向かっていて、南の広東省に留まっている将兵の数は減少する一方であったから、日本軍捕虜に対応して諸事に費やす労力の余裕は無く、国際協定に沿った措置に則し「早く日本に帰還させたい厄介者的な存在」だったのだろうと思われた。

また、彼等のジュネーブ国際協定に沿った措置は寛大なもので、小競り合いはあったものの、負けた日本側から視れば「大局としては」感謝すべきものであったと私は思っている。

 

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ukuinSen

帰国復員船内での出来事

 

訳官として約7ヵ月勤務した私は中国軍司令部に戦争終結に関する総ての措置が完了する迄留め置かれることも無く、現地に居た原隊が帰国する時点で中国軍司令部から日本軍の原隊に戻ることが出来、原隊の全員が待ちに待った復員船で母国日本へ帰ることになった。

広州市から近い黄埔港迄は徒歩で移動し、数日待機して日本から来たリバテイ型の復員船に載り込んだ時には、何時何が起こるか疑心暗鬼の将兵もヤット安堵の心境になった。日本の久里浜港に到着する迄には黄埔でのコレラの発生や色々忘れ得ない事件があったが、それらの詳細は本項末尾に示した「従軍綺談」に詳しいので此処では略す。

復員船の中で起こった出来事や知ったことで書き漏らしたことや感想を述べよう。船内は総て日本人ばかりである。日本から来た船舶の運航関係者は民間人であるが、それ以外は皆軍人である。正確に云えば「母国に送還する捕虜集団」という極めて特殊な立場の人々からなる2〜3千人の社会とも云える。

本題からは外れるが、「衛生兵」と云う人達の三分の一程度がモルヒネやヘロインなどの麻薬中毒に罹患していることを知って驚いた。戦場に於ける軍医活動の大半は戦闘による負傷者を治療する外科であり、大量のモルヒネやヘロインを所持して居た。軍医が執刀するのを補助する衛生兵は痛み止めの此れらの薬が常に身近に在ったためであろう。

船内で禁断症状を起こし暴れる者、四六時中徘徊して呂律の回らない言葉をはく者が沢山居た。彼等の吐く息には「甘酸っぱい形容し難い特殊な臭い」がある。戦後タイ国のバンコクの自宅に迷い込んだ麻薬中毒患者も同じ臭いがした。普通は人間には「その臭いは感知できない」と云われ、捜索犬などが使われるが、人間の鼻も重症患者の場合はその特有の臭いを感知できるようだ。

内の復員兵集団の将兵の肩章は総て取り外されて居り、兵・下士官・将校の身分差は存在しなかった。(しかし、公式には日本に着いて復員式が終わり召集解除となる迄は身分差は存在したことになっていたのかも知れない)。だが集団である以上、情報の伝達方法、衛生注意事項、食事の配布方法や跡形付けの担当・・・等々、何らかの規律が必要である。それらは内容に応じて現役時代の旧組織が活かされていた。但し強制力のある上官の命令と云うものではなかった。

船内で行われた旧部隊長の過剰な私的財産所有に関する弾劾、兵を不法な使役に使った将校の弾劾告訴、等々の私が思いもよらなかった裁判の実施、皆は「人民裁判」と呼んでいたが・・・。その詳細は「従軍綺談」で述べたので省略するが、船内で我々が話し合った話題の幾つかを紹介する。

「日本は戦勝国に分割吸収されるだろう」、「多分米国の一つの州になるのでは無かろうか?」などの話が多かった。「ハワイやアラスカなどのように日本全体が一つの州になる方が良い、分割統治は不利だ」・・・等々。日本の戦国時代に勝った側が次々負けた国を合併吸収した歴史が頭に浮かんでいたからかも知れない。

無条件降伏と云う「ポツダム宣言」を受諾して以降、外地の戦場から勾留キャンプに移された我々が持って居た日本本土に関する情報は、現地紙の伝える「日本各地に餓死者の山」、「日本は無政府状態」・・・など記事ばかり、真偽を確かめることも出来ない。また、真相を伝える日本からの情報は何も無かった。若しラヂオ放送があったとしても、我々には受信装置は無かった。また、GHQ の管理下にある日本では、その類いの情報の放送は行われては居なかったものと思う。

杜甫の「国破山河在 城春草木深」の感慨そのもので、日本という土地は在っても日本国が存続できるのか否か?誰も分からなかった。今から考えれば随分と悲観的な議論と思われるだろうが、皆の頭の中は「真っ白」、何しろ考えたこともない初めての事態だった訳である。親戚・縁者・旧友などの存否などは勿論不明だし、日本に着いたとしても鉄道は動いているのだろうか?堂々巡りの議論の繰り返しだった。

久里浜港についた時、双眼鏡で陸を視て「民家が見えるぞー」、「人が歩いている」、「汽車が走っているぞー」など歓声を上げて叫んだ。

 

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RTO

RTOと書かれた駅舎の文字

 

コレラの発生で約一ヶ月間、久里浜沖に留め置かれ、やっと上陸許可が出て復員式が終わり召集解除となった。各将兵の落ち着く先を確定するための旅に要する「汽車の乗車賃を免除する証明書が全員に渡され、当座の費用としての「涙金」が出て各自は久里浜駅に向かった。

駅舎には KURIHAMA と云うローマ字と共に RTO と書かれた駅名が表示されていた。RTOR は多分 Railload または RailwayTTransportationOOrganization または Office の略号だろうと想像した。KURIHAMARTO のローマ字を視たとき、「日本は本当に占領下にあるのだ」と心底から実感した。掲示も名札も日本人のためと云うより連合軍のために書かれて居た訳だ。

其処には日本国という主体性を持つ国家は無く、連合軍と云う占領軍の支配する社会があった。後年になって調べたら、《はな38》というサイトに RTO とは GHQ の「鉄道司令部」、また、各主要駅の場合は「占領軍鉄道事務室」と訳されているのを発見した。「 GHQ の下に鉄道司令部という組織があり、日本の鉄道は連合国(アメリカ)にコントロールされていた」とある。

 

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FutureOfJapan

日本の将来像はスイス(瑞西)を手本にせよ

 

大阪の住吉区にあった家は空襲を逃れて一族の居る熊本県下に疎開して其処に住んで居ることが判明し、ようやく両親の下に辿り着いたのは1941年の初夏である。当時、私の身の回りで「日本の将来像は?」などの話は殆ど聞かなかった。戦地の兵が戦争の終結を知って「ホッ」としたように、日本内地の庶民も「もう空襲はない、戦闘で死ぬこともない、これからどう生きてゆくか?」を考えるだけだ」と胸中では思って「ホッ」として居た人達が大多数だったと私は思う。

1951年9月8日にアメリカのサンフランシスコ市で開催された講和会議に於て日本は署名し、52年4月28日に発効。この講和条約の締結によって、日本は独立国家として国際社会に認められるようになった。日本はその後、5610月に日ソ共同宣言に調印、同年12月には国際連合に加盟した。

1951年のサンフランシスコ講和条約締結に至るまでの数年間、「戦勝国による民主・平等・人権・博愛教育は、日本人の精神構造を骨抜きにした」、「明治〜1945年の行き過ぎた教育を是正する良い点もあったが、知識や言葉使い・道義・マナー・良識・創意工夫の知恵は失われた」、「殺伐とした若者が増加した」、「日本国民は国を失った事がなく、のんびりしているが、国家の存亡にかかわる際には、スイスに学び、市民も銃を取る心構えが大切ではないか」などと云った論調が新聞紙面にしばしば掲げられていた。

復員船の中で論議された「日本は聯合国により分割統治されるのでは?」、「アメリカに吸収され、一つの州になるのではないか?」などの話はその後の経緯から視て「悲観的な妄言」のように誰も口にする者は居なくなった。だが世界の動向が一つ間違えば、独逸、ベトナム、朝鮮半島などのように南北に分断されていたかも知れないのだ。

 

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After60years

当時から半世紀以上を経過

した現在から省みての感想

 

敗戦による占領直後の庶民や兵の精神は、その大半が上述のように「半虚脱状態」にあったと云って良かろう。「先行き日本の社会がどうなるか?」は一般庶民には想像可能な問題の範囲外の事だったと云って良い。

それより「毎日をどうして食べてゆくか?」に精一杯であり、「半虚脱状態」と云ったのは「日本人社会が今後どうなるか?」と云った問題に就いては「考える気力が無い」と云うより、 GHQ の監視下にあっては「考えても仕方がない」という気持ちだったように思われた。

「風にそよぐ芦」、「私は貝になりたい」、などの新約聖書の中の句やドラマの題名に由来した言葉がその当時流行し、(「風にそよぐ芦」は後年になって石川達三の小説の題名にもなった)。戦争の悲惨さ、それに由来する人心の混乱や苦しみに喘ぐさまが如実に描かれている。

復員船の中で論議された「日本は聯合国により分割統治されるのでは?」、「アメリカに吸収され、一つの州になるのではないか?」などの話は、戦争を知らない現在の若い(?)人達からは「まさか」と思われるかも知れない。

しかし私はそうは思わない。幸運にも旧ソ連と米国との利害対立や朝鮮半島での争乱などのはざまで「漁夫の利を得た」と云えば言い過ぎかも知れないが、ドイツ、朝鮮半島、ベトナムなそのような「南北分割」から免れたことが非常に幸いしたと思う。

今後将来の世界はどうなるのだろうか?話は唐突に変わるが、先月末、来日を機にNHKが緊急インタビュウを放映した当代世界一の知的な人と云われ、91年から93年まで欧州復興開発銀行総裁を勤めたジャック・アタリ、(Jacques Attali、1943〜)の発言を聴き目から鱗の感じがした。

ソ連崩壊、金融バブル、新たなテロの脅威、インターネットによる世界変化を予測し見事に的中した人である。その資本主義や社会主義に対する批判、市場経済の問題点、国家の存在に関する意見、世界単一通貨論、何一つ取っても傾聴に値する。恥ずかしながら私はこの人の存在や論議を知らなかった。

人間、何歳になっても、未だ未だ勉強すべきことが沢山ある。

 

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下記 URL はこのホームページの「従軍綺談」が掲載されている。

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/heitai.htm


 

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