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自伝と ESSAY

(その 3)

「自伝とESSAY」と題しましたが、私が物心ついて以来、この歳になるまでに身を以て体験した事柄の数々や心に残る想い出などを綴りました。その他にこのホームページに投稿して頂いた方々のエッセイなども載せてあります。

「自伝とESSAY」の続き(その4)はここをクリックして下さい  

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目 次

ピチツトのチャラワン (心が癒されるタイの田舎町での生活経験と鰐の民話)
筆書漢字不能症候群 Keyboard ばかりに向かっている。読めても書けない)
凌虚 画伯の思い出 (1957年、上海中山公園での一期一会、金魚画の大家)
春節 (中国の友人からの美しい連続画像) PPSファイル
映画「不都合な真実」を見ての所感 (林繁一氏[寄稿]
20年振りの魔女の一撃 (私の宿痾、その病歴と想い出す苦痛その他)
本荘鉄夫君の作品 (卒寿を迎えた同期生の写真集)
神谷鐘吉先生 (後年「トッケビ先生」の綽名で呼ばれた私の恩師)
重大な間違からの大逆転劇 (ミッドウエイ海戦に思う、三浦昭夫氏)[寄稿]
「重礼儀、講礼貌、爽」 ( 楊嘉麗さんに依る「爽やかマナー」の中国語訳)[書評]
海から見た日本列島 (亀山 勝さんのホームページの紹介)
52年ぶりの手紙 (半世紀前に僅か2時間話し合った人からの手紙)
私の生涯に於ける4つの時期 私の人生を振返って
鵜飼いの渡海 (三浦 福助さんの鵜飼いの話の第2弾)[寄稿]
初期の紙芝居 (私の見た最初の紙芝居)
「定斎屋」と「切り火」 (学生時代に過ごした深川の想い出)
磯の鮑の片思い (三浦 福助さんのエッセイ)[寄稿]
敗戦直後の心理的混乱の想い出 (日本は瑞西を手本に国造りを・・・」などの与論)
村上子郎さんのこと (多くのことを教えて頂いた最初の上司)
マスクに「うがい」 (インフルエンザで連呼するのは日本だけ
多様な意見を必要とするのが民主主義の筈ですが (林繁一)[寄稿]
年賀ハガキの大量交換 (年賀ハガキの多量交換は良い習慣だろうか?
「外灘」TheBund"の今昔 (上海の「外灘」、〈バンド〉の歴史)

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CHYALAWAN

ピチットのチャラワン

 

2007/10/08

真道 重明

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チットとはタイ国の北部に在るピチット県の中心都市の地名である。チャオプラヤー河(日本人が普通「メナム河」と呼んでいるタイ国の大河は元々隣のナコーン・サワン県でナーン河とヨム河が合流して出来た河であり、ピチットには合流前のこれら二つの河が流れている。(蛇足を付け加えると「メナムとは元来「河」の意でメナム河というのは可笑しい。また「ピチッ」はタイ語に慣れない日本人の耳には「ピチッ」と聞こえ, 語尾の「ト」は殆ど黙音としか聞き取れない。ローマ字では Phichit または Pichit)と表記されて居る。ピチットは「美しい街」という意味だそうである。

私がバンコクの職業学校の学費を個人的に援助した人の故郷がピチット市郊外の出身だった関係で、その人の一族とは親しくなり、生家には度々訪れ親戚の一人のような親交の日々を続けて居た。本人は既に結婚して昨年は数名の友人と共に日本観光で来日、私は日本に帰国して既に20年余になるが、東京で久し振りに再会した。もっとも両親や祖母達は現在では多くが他界しているが・・・。

10年余の半独身生活だった50歳の在タイ時代、バンコクでの私の仕事が連休で時間があるときは良くピチットを訪れ、伝統的な高殿式の家屋に数日寝泊まりしてタイの田舎の庶民生活を楽しんだ。決して裕福とは云えないが、父親は大工、母親は小学校の教師をして居た。バンコクの多忙で齷齪した環境とは異なり、時間がゆっくりと流れるピチット郊外の田舎の雰囲気は心が和み癒される・・・私にとっては桃源郷と云えば言い過ぎだが、それに近い別世界・・・の日々を持つことが出来た。

多忙で正式に学習する機会の無かった私のいい加減なタイ語ではあったが、彼等との会話は話題が何であれ、一応は事が足りた。もっとも、多民族国家であるタイ国では言葉の違いや発音の差異に関する違和感は彼等には全く無かった。即ち「ただ言葉の意味が通じれば良い」と割り切って考えて居るように私には思われた。

高殿式の家屋の床は板が並べられて居るだけ、板と板との間は少し隙間が在り、覗くと地面が見える。部屋の掃除の塵はこの隙間から地面に落とすだけ、極めて簡単だ。窓だけでなく床まで「風通し」がよい。ただ鉛筆や針のようなものは隙間から直ぐ墜ちてしまう。下の地面には鶏が放し飼いされて居り、幾つかに仕切られた端の部屋はトイレで、その下には豚が飼われて居た。浴室は無く、家から10 m 位離れた処に河があり、そこで水浴をし洗濯もする。部屋の中は何時も綺麗に片付けられ、掃除されて居た。

電気は来ているが、水道はない。飲料水は屋根に降った雨水を集めた天水であるが、河を往来する「水船」があり、声を掛けると良質の浄水を河岸にある家には長いパイプを延ばして小さなポンプで給水し、家はその代金を支払う。言わば江戸時代の「水屋」の商売である。河水は幾らでもあるが少し濁っていて飲料水にはならない。但し河水の濁りは土壌によるもので大都市の生活排水のように大腸菌などに依る汚染は無かったようである。

ちなみにタイ人(タイ族)はお茶を飲まない人が多い。他家を訪問した際、素焼きの壺に入れられた上等の「天水」を器に入れて先ず出される。日本なら「良くいらっしゃいました、先ずお茶でもどうぞ・・・」と云う処だ。都会では中国系の華僑が多いから茶は普通だが、タイ族が大多数の田舎では「浄水」である。大気汚染が進んだ今では天水は必ずしも「浄水」ではない。この習慣は今どうなっているのか知らない。

道路から家に入るには、高殿式だから数段の階段を上らなければならない。階段の下には一辺が1 m 四方の正方形のセメント製の浅い水溜めがあり、そこで足を洗ってから階段を上る。

床の一角は河の上に突きだしたベランダになって居り、丁度、京都の「納涼河床料理屋」と云った恰好だ。涼しい川風に身を委ね、ビール(ビヤ・トラ・シン、獅子印麦酒)を2〜3人の若い親戚達と車座に座って、中国から輸入した鳳尾魚(有明海のエツ、今では殆ど絶滅種となった)の「珍味風の乾物の缶詰」を肴に四方山話をする。まさに至福の時間だ。ゆったりした時間が流れる典型的なタイの田舎である。

祖母は90歳というのに伝統的な衣服のチョンカベーン(一種の袴、長い一枚の帯状の布を捻り折り曲げて羽織る。古典舞踊の袴は綺麗な色に染め上げて装飾を施したチョンカベーンに良く似ている)姿で毎朝庭の手入れをして居る。ワッデー (正式には「サワッデー」、「今日は」の意味の挨拶語)と声を掛けると、2〜3本残った歯を見せてシワクチャの顔を綻ばせる。矍鑠然としている。男女の孫達が「お婆ちゃん−」と登校前に祖母に駆け寄って来る。

余談だが、このチョンカベーンとは「パ−カ−マー」(下半身に1 m × 2 m ほどの、一枚の木綿の布を下半身に巻きつけたもの。「パー・カー・マー」は、ズボンとしてだけでなく、帯や、風呂敷、タオル代わりに使えるもので、現在でも、北部タイの男性ならだれでも、一、二枚は持っている布切れ)を、腹に1周半ほどきつく巻き、あわせの部分を、腹に押し込んで止め、残りのあまった部分を、股の下をくぐらせて、背中のところに押し込んで止める。大きくたくし上げると、短いパンツの恰好になり、品のいい、「タッツケ袴」のようになる。

私が最初に見たときは「ズボンの上に褌をしたよう」で変な恰好だと思った。ちなみに日本語の「袴」(はかま)は前説の「パ−カ−マー」に由来すると云う俗説がある。1970年頃はバンコク郊外や田舎では老人の「素足のチョンカベーン姿」を時々見掛けた。今ではバンコクなどの大都会では殆ど見ない。ピチットで私は一度だけ面白半分に着せて貰ったことがある。日本の花嫁の帯姿の着付けではないが、慣れないと一人では着ることは出来ない。在留邦人に訊くとこれを着た経験者は一人も居なかった。

これも余談だが、現在のバンコクなどのタイの男の人達はカンケーン・チーン(中国のズボンの意)を家では着ている。ゆったりとした広東省や香港の人達が着る中国南方の人々が自宅で着るズボンである。気温の高い熱帯ではとても着心地が良い。私も愛用していた。自宅を訪問してくる日本人の何人かから「そんなものを着るのは控えた方がよい」と忠告されたことがある。内心で私は「日本人の誇りを傷つける。チャンとした洋服のズボンを穿け、タイ人とは違うのだ」と思っているのだと感じた。明らかに蔑視感だ。一方では「郷に入れば郷に従え」と云う諺が在るではないか・・・。こんな輩には反論する気にもなれない。世話になっている現地国の服装をして何が可笑しいのだろう。

1974年頃はピチット市を訪れる日本人は殆ど居なかったようだ。まして、この小都市から人力三輪車で20分ぐらい掛かる郊外のこの辺りには外国人の顔は絶無と云って良い。時々インド人の反物屋が、また年に一度か二度は白人の宣教師が来ると云っていた。取り分け外国の観光客の興味を引くものが無いためかも知れない。

しかし、スコータイ時代からある古い町であり、幾つかの鰐園が在り、小湖では長崎のペーロン式のボートレース、魚の放生会(プロイ・プラ)、また市内にはホテルなども在るから、アジアの海外旅行が盛んになった30年後の現在では日本人を始め外国人の訪問客は増えているのかも知れない。

だが、「チャラワーン」という名前の「鰐の王様」に纏わるアユタヤ朝時代に出来た「民話の里」としてタイの人達は皆ピチットの存在を知っている。この有名な民話はタイ国の芝居として全土で良く演ぜられ、映画にもなっている。映画の方は見ていないが、芝居はバンコク市内の国立劇場で一度見たことがある。或る日ピチットに居た時「チャラワーン」の、高さ5 m、長さ10 m の巨大な像(中に人が入れる)が公園に出来た。「見に行かないか?」と誘われた。

下の写真にあるようにかなり大きな口を開いた巨大な像である。中には人が入れるようになっている。

 

 

公園にある巨大なチャラワンの像(建物)

 

タイ国の人達にとっては、ピチットと云えば先ず連想するのはこの「チャラワーン」であろう。その物語の梗概は次のようなものである。

 

 

ピチット県の或る河に纏わる物語。河の底に鰐が支配する洞窟が在った洞窟の中には魔法の宝の玉があり、周囲を明るく照らして居た。洞窟の中に居る間は、鰐は人の姿に化身して暮らして居た。

鰐達の王にはチャーラワンという息子が居たが、鰐達に内紛が起こり、チャラワンだけが生き残り、二人の妻を娶った。人に姿を変えられるが、チャラワンは人を喰う欲望を持って居た。チャラワンの祖父は生き物を口にしなかったが、祖父と異なりチャラワンは佛の戒律などを無視する破落戸(ならず者)だった。

或る日、彼は河で水浴していた二人の国王の娘の中の一人、美女のタパオトーンを見染め、口に咥え洞窟に戻った。タパオトーンは人に姿を変えたチャラワンの容姿に心を奪われ、第三夫人となることを承諾したが、三人の妻の間には嫉妬の争いが絶えなかった。

娘が鰐に拉致されたと知った国王は激怒し、鰐を成敗し、「娘を取り戻した者には娘と財産の一部を与える」旨の布告を出した。

ノンタブリ(地名)の「グライトーン」と云う鰐退治で有名な若者が布告に応じて名乗り出て、目出度くチャラワンを退治し、勝利したグライトーンは、タオパトーンを救い出し、国王は娘を救い出してくれたグライトーンに約束通り娘を与え、王の資産も分け与え、ピチットで幸福に暮らした・・・という話である。

この民話は立役者の名を取って「グライトーン物語」と呼ばれて居る。グライトーンが隠者から秘技を授かったり、最後の戦いの様子などが芝居や映画では見せ場である。

 

 

勧善懲悪物語でもあり、凜々しい若者が勝利者となって、約束通り王の娘を手に入れると云う世界中の何処にでも良く在る話でもある。ただタイ国の民話には敵を倒す秘技に長けた隠者、呪い、化身、女性の嫉妬の争い・・・などの題材が良くあるようだ。

中学校の英語の教科書にも採り上げられ映画にもなった「黄金の沙魚」(第二婦人を重んじ、第一夫人である本妻を疎んじる夫から、疎んぜられた本妻は夫により河の中に放り込まれて、彼女は沙魚に化身し、次々と化身を重ねる哀れな女性の話。)プラ・ブー・トーンの話(プラ・ブーは淡水産のはぜ魚、トーンは黄金の意)などは、典型的な輪廻転生の物語、タイの人は皆知っている。ハゼ科の淡水産大型魚で肉は美味だが、可哀想だと云うので外国人は別として、タイ人は食べない。

私がピチットの家を訪れると、何時も私のために数十尾を捕獲して例の河に突きだしたベランダの下に在る生洲に活かしてご馳走してくれた。とても食べきれないので鰐公園の近くの小さな沼に放生会(ほうじょうえ)の時に放した。佛教のしきたりである放生会には魚を放つ放魚(プロイ・プラ)、小鳥を放つ放鳥(プロイ・ノック)がある。

今ではそれらの事も懐かしい「想い出の一齣」となった。

 

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Hissyokanji

手書での漢字の

表記不能症候群

 

2007年10月17日

真道 重明

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も80歳代のなかばに近い私は「呆け防止のつもりだ」と云って、この数年は用事が無いときは殆ど何時もパソコンの机に向かって Keyboard を叩いている。以前はペンを握って原稿用紙や便箋に文字を「手書き」するときも在ったのだが・・・。最近では手紙の宛名書き迄、数枚印刷したラベルを使う始末。ペンを使うのは年賀ハガキに一言添え書きするときと手紙の署名、簡単なメモぐらいである。

机の抽出しには数冊の原稿用紙や便箋があるが、この10年間はその侭放置されて居る。ペーパーレスとか云ってプリンターも必要以外は使わない。紙とインクのトナーが勿体ない・・・と云うより、しがない年金生活者だから、なけなしの金子を節約して居るのが率直の処だ。

以前から薄々気付いては居たが、紙片にチョットしたメモを手書きしようとすると漢字が思い出せず、ついつい「顧問の顧の字」が思い出せず、コモンと書いてしまう様なことが頻発する。先日は「稲」(いね)と書こうとしてどうしても漢字が思い出せず愕然とした。初めは「俺も歳の所為でボケが進んだなー」とも思ったが、どうもそればかりでは無さそうだ。ワープロ・ソフトの「仮名漢字変換機能」ばかりに頼っている結果、手書きによる「漢字表記不能症候群」(私の勝手に就けた病名)に私は罹患してしまったらしい。

色々な Blog を見て巡ると、同病患者は最近では世の中に沢山居るらしい。それらの多くの人は漢字は容易に読め、意味も分かるけれども、筆を握ってその字を書くことが出来ないのである。私の場合、日本の常用漢字の外に中国語の簡体字や繁体字を読むことも多いので、こと漢字に関しては中国語や国語・漢文の先生は別として、割と漢字は知っている心算で居た。此処で云う「知っている」とは読んで発音ができ、意味も理解できると云う意味であって、ペンや筆でそれらの漢字を書く能力のことでは無い。紙に手書きする能力が低下して居るのが「漢字表記不能症候群」と云う訳である。

脳の仕組みで記憶というものがどうなっているのかに関しては私は全くの素人だが、「漢字表記不能症候群」に罹患した人は、外国語会話で「相手の云うことを聞いたら意味は良く分かるのに、返事をしようとすると喋れれない」場合と似ているような気がする。会話では聞き取る能力の水準と喋る能力の水準は「原則として一致する」ことは良く知られている。普通の教科諸レベルの人には分からないスラングや方言迄聞き取れる人は、それらの方言やスラングを喋ることが出来ると云う訳である。

聞いて分かるなら必ずそのレベルの会話内容は喋り得ると云うことだから、「喋れるのに聞き取れない、または、聞き取れるのに喋れない」と云うのは、潜在能力はあるが実践訓練が不足しているだけで、元々持って居る水準に応じた能力は頭の中に潜在して居るのだから、少し努力して実践すれば、顕在能力となる、すなわち、「聞き取れるし、喋れる」と云うことになると私は考えて居る。

私の友人の奥さんに早口で喋る私の日本語を殆ど完全に理解できているのに「一言も日本語が喋れない」という不思議な人が居た。彼女は小学校まで日本で育ち日本環境に居たが、母国に帰国してからは、日本語を喋る必要もなく機会も全く無かったのである。子供の時憶えた日本語は、長年喋ることが無かったため「喋る能力は潜在化してしまったらしい。しかし日本語は頭の中には記憶されて居た。その証拠に聞けば何でもその意味を理解することが出来た。夫の友人も首を傾げる程に特殊な例ではあるが・・・。

手書きで漢字が書けない「漢字表記不能症候群」も此れと良く似ている。「盤根錯節」や「金甌無欠」などの漢字は日本の音や訓の発音は知っているし、中学校の漢文で習ったから意味も分かる。しかじ、「ペンで書け」と云われると、「さくせつの錯(さく)の字はどう書くのだろう?」、「きんおうの甌(おう)の字は?」と迷っても仲々頭から出て来ない。書棚から辞書を取り出してそのページを捲るのは面倒だ。結局は Text editor を起動して日本語の IME で漢字に変換して居る。

「それでも良い。物書きの道具や技術は長い歴史の中で変化してきた。ワープロ・ソフトで書けるならそれで良いではないか・・・」と割り切っている人も有る。確かに一理ある意見だ。事務的には電子メールにも使えるし、COPY も自動的に取られるし、第一紙も糊も鋏も消しゴムも要らない。また書いた言葉を自由に加除・追補でき、先の部分をどう書いたか調べたい時も一瞬で検索できる。便利至極であることは多言を要し無い。

だが、一方では「たとい書いた文字が文字が下手でも、手書きの手紙には情が込められて居る。パソコン文は無味乾燥で暖かみが無い」と云う人もある。この意見も尤もだと思う。恋文などは特にそうだろう。だが活字が発明された時、毛筆で書かれた文字ばかり見ていた人はどう感じただろうか?「無味乾燥な活字の紙面なぞ糞食らえ!」と思った人もあったかも知れない。

話は変わるが、小学校で漢字を習って居た頃、「別品 (本当は別嬪かも)さん」の「別」を「ロカリロロロ」、友人で「賢一」の「賢」を「シンマタカイイチ」と呼んで居た。前者は一種の隠語として、後者は綽名としての冗談めいたものだったのだが、これらの字は70数年経った今も脳裏に焼き着いて居る。直ぐ書ける、ボケが進行しない限り、絶対忘れない(笑い)。

「漢字表記不能症候群」に限らず、記憶というものは何事もその記憶に関連した事項なり経験なりと一緒に繋がって居れば、また繋がって居る事柄が多ければ多いほど、張り巡らした関連事項の記憶の網目に引っ掛かって思い出せる。生物学を専攻した私は学名(ラテン語)の種名を沢山憶えなければならなかった。macrocephalus と云う名前をそれだけ憶えようとしても直ぐ忘れる。しかし語源の macro が「大きい」の意、cephlus が「頭」( macrocephlus も元来はギリシャ語に由来)を知れば、「この動物は頭が大きいから、なる程」と納得でき、macrocephalus を思い出すのも容易だ。記憶の網は語源にまで拡がっているからである。

話が逸れそうになったが、長年に亘り問題から全く遠ざかっていると記憶の糸は細く、また弱くなって来る。最近では弱くなった記憶の糸を回復する、則ち記憶のメカニズムが解明されつつあると云う。ボケを防止する可能性も出て来たと云うから年寄りにはご同慶の至りだ。また頭脳には一旦記憶されたことは、記憶部分の脳細胞が破壊されない限り、死ぬ迄失われることはないとも言われている。忘れてしまっていても記憶の糸が繋がりさえすれば、思い出せる筈だと云う。

話を「漢字が書けない」に戻そう。上述の症候群の人達はその字を見さえすれば「意味を理解することが出来るし、発音することも出来る」。ただ習った時には可能だったにも拘わらず、今ではその多くがペンや筆で「書けない」だけである。Keyboad やケータイの文字入力機能にばかり頼り、手書きの機会が無いためにその機能が一時的に失われているに過ぎない。

Web で探すと「漢字練習帳」など沢山のサイトがあるし、書籍も数多く出版されて居る。少し努力すれば直ぐ書けるようになるらしい。どうも歳を取ると怠け癖が着いて万事が面倒臭くなり、「何も今さら・・・」と云う気持ちになる。私も用は Keyboad で充分足りているから、手書きが出来ない事を感じた時、愕然としてショックを受けながらも、その後今もその侭にして居る。

不心得者とお叱りを受けるのを承知で!(笑い)

 

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RYOUKYOgahaku

金魚の画では当代中国で随一と

称された「凌 虚」画伯との出会い

 

2007年12月10日

真道 重明

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から丁度半世紀 50年前の1957年の秋、上海市の中山公園で菊の展示会が開催されていたので、日曜日に見物に出掛けた。公園の一角に画展のコーナーが在り金魚を始め魚類の絵画が展示されており、筆者も椅子に座って居た。上海水産学院(現在は大学)に講義に訪問中の私は興味をそそられて足を止めた。

私が熱心に鑑賞していたのと、一般の観客とは異なった洋装であり、通訳を伴っていた外賓であるらしいと思ったのだろう。椅子に座して居た個展の作者は立ち上がって私に話し掛けて来た。一言、二言、話すと「どうぞ其処の机の傍の椅子にお座り下さい」とのこと。話が弾んで延々二時間以上の会話が続いた。

・・・と云うのは私が水産の専門家であり、魚類に就いて多少は色々知っていたこと、私の叔父が日本美術院の日本画の無審査の「同人」であり、花鳥が詳しいことを告げると「お名前は?」と尋ねるので「画の号は『黎明』です」と答えると、彼は驚いて「姓はうろ覚えですが黎明画伯ですか?、黎明画伯ならお名前は存じて居ります」とのこと。今度は私の方が吃驚した。

「魚の画を描いています画、特に金魚が得意です。松井佳一先生も存じ上げています」とのこと。これにも驚いた。中国の若い人は知らないかも知れないが40歳以上の人なら、金魚の画を描いた中国の郵便切手を憶えている。その人の雅号は「凌虚」 Ling2 Xu1 である。

50年後の現在、考えてみるに、このような奇遇と云うか一期一会の出会いは誰の一生にも幾つかは在ろう。第三者から見れば「面白くも何とも無い」ことだろうが、当事者には是非書き留めて置きたい「縁というか、人生の一齣」である。日本に帰国してから信書の交換は数回あったが、凌虚さんと顔と顔を合わせて面談したのはこの時の一回限りである。

まして、現在のインター・ネットの普及によって最近偶然にも「中華教育網(サイト)」を検索中「凌虚伝」を発見した。当時、中国に於いて新進気鋭の画家「凌虚」の生涯がドキュメンタリー小説となって居り、その内容を知ることが出来た。あの時彼と経歴など話す時間は無かった。繰り返すようだが、私にとってはただ驚きとしか云いようがない。

因みに、上記の「松井先生」とは日本では「金魚の父」と呼ばれた母校の大先輩である。その略歴と上の話に出て来た私の叔父である「黎明」の略歴は下記の通りである。

 

松井佳一 先生

治24年2月20日生。山口県出身。水産講習所本科養殖科卒業後、愛知県水産試験場技師、豊橋養魚試験場主任、兵庫県水産試験場長などを経て、昭和33年に初代近畿大学水産研究所長(当時、白浜臨海研究所)に就任。教授。農学博士。「金魚」研究の世界的権威で、学術本だけではなく金魚芸術・風俗を取りあげた緻密な著書を数多く執筆した。「科学と趣味から見た金魚の研究」(弘道閣、東京:1935年)に代表される15篇の著書は現在でも世界中で愛読されており、学術理論も近代金魚研究の基礎としてなお息づいている。

水産研究所においてもその優れた手腕を発揮し、第2代所長 原田輝雄を中心とした長崎県男女群島でのブリ人工ふ化実験や水産庁委託研究「マグロ類養殖技術開発企業化試験」など多くの大型研究プロジェクトを責任統括した。また、昭和11年にはメキシコ政府の要請により同国水産顧問にも就任しており、海外協力活動も積極的に行っている。昭和51年4月、逝去。享年、85歳。財団法人日本真珠研究所長、淡水魚保護協会評議員、日本水産学会評議員、日本魚類学会評議員などを歴任。「金魚の父」と呼ばれる。

(以上は近畿大学白浜実験所ホームページ ↓に依る)

www.za.ztv.ne.jp/vm4k4stx/Staff/Syocho_picture/Pro_Matsui.html

 


 

黎明 叔父

道黎明、日本画家。1897(明治30/5/21)〜1978(昭和53/11/17)、熊本県出身。同郷の堅山南風始め、横山大観・安田靫彦・小林古径らの指導を受け、のち院展同人に推挙された。画家の真道秋晧(日本美術院院友)は弟。本名は重彦。はじめ太平洋画会で洋画を志すが、菱田春草作品に感動して日本画に転向した。(筆者 記、私の父は黎明の兄で三兄弟の長男である。男兄弟三名は三名とも日本画を描いた。父は教師が本業、画は趣味程度、弟二人は画家を本職とした)。

日本美術院研究会会員となり、大正6年「桐の花」で院展初入選。10年日本美術院同人。昭和4年渡米して各地で個展を開催、欧州を経て翌年帰国。34年日本美術院評議員。41年松山東雲短期大学教授。50年「柿右衛門大壺」で内閣総理大臣賞を受賞。中国・朝鮮に旅行して東洋美術に造詣を深める他、米国・欧州で個展を開催した。

中国やインドなどを歴遊し、古代世界を題材とした作品を多く描いて独自の神秘的な画風を確立した。代表作に「雲崗霊巌」「挨及幻想」「藐姑射の神人」などが在る。神秘的イメージの漂う静謐な画風が高く評価されている。内閣総理大臣賞受賞。院展評議員。昭和53年(1978)歿、81才。

(以上は日本美術院の関連ページ、及び熊本市のホームページに依る)

 

 

中国の「金魚画」郵便切手の数例

 

 

此れらの総てが「凌虚」 の作品では無い。処で中国に

は金魚を題材にした絵画・彫刻・刺繍などが実に多い。

 

中国の人達が金魚を愛好する理由の一つには言葉の問題がある。「魚」の字の発音は標準音では ユ(ローマ字表記 yu2 第2声)で「有り余る」を意味する「余」と同音同声である。だから「年年有魚」は「年々有余」、すなわち、毎年生活にゆとりがある・・・の意味ともなる。「年年有魚」は正月などに良く目出度い言葉として使われる。
「金魚」はチン・ユ
jin1 yu2)は従って、発音上では「金が余る」の意味に通ずる。(方言でも方言なりに同様である場合が多いようだ)。

 

なみに、私の叔父は晩年京都に居を構え、同じく京都に住む松井佳一先生とは七、八名で構成された「旨いものを食べる事が好きな仲間の会」のメンバー同士で、松井先生を「金魚の先生」と呼んでいた。まさか上海の公園で三者にこのような繋がりが在ろうとは! 世の中は狭いものだと云う気を今になって実感する。

凌虚さんに話を戻す。三、四枚の彼の作品を私に託し、「日本に帰国したら黎明画伯に手渡し、批評を給りたい」とのこと。私は快諾した。その後、凌虚と黎明の二人の間では数次に亘り信書や絵画の交換があった。私にも数枚の画が送られて来た。叔父の黎明は1980年(昭和55年)に享年83歳で他界して居る。その後、私はすっかり中山公園での出来事を忘れて居た。

処が意外や意外、数日前に中国の検索エンジン「百度」で他の目的のものを探していたら、偶然にも中国教育信息網で「凌虚伝」を発見したのには一驚した。しかもその中には半世紀前に私の姓名と共に、上海の中山公園での彼の個展会場で私と会った時の経緯も事細かく記載されている。

私は突如として50年前のその時の経験や光景が脳裏に蘇って来た。以下に9万6千余字(日本文に全訳すればページ当り1000文字として、300ページ前後と予想される)を費やして書かれたドキュメンタリー小説の「凌虚伝」の内容を抜粋・要約し、このページの筆者(真道重明)のコメントを加えて述べる。私の部屋には同氏の描いた4尾の珍珠鱗遊泳図が今もある。

 

 

凌 虚 画 伯 (1919 - )

 

名は「凌虚伝」、筆者は袁成亮。小説の形を取ったノン・フィクションのドキュメンタリー。中国文史出版社。2005年出版。

凌虚は筆者の袁成亮の学兄である。凌虚は上海の新華芸専で高い資質を持って居た。学校の中では”鶴立群鶏”(鶏の群にあって鶴のように目立つ)存在であった。1950年代に凌虚は上海の美術界に在って非常に活発に活動した。

特に文匯報(新聞紙)の紙上に彼の描いた画集がソ連の元首フルチチョフに寄贈された事が大きく報ぜられた。その内容は「金魚」で、著名な書家の沈尹默の題辞が添えられていて、”幸福的象征”(幸福のシンボル)と記されていた。1957年後、彼は蘇州に赴き「姑蘇城外寒山寺」と題する画は第2次全国美術展に入選した。

1960年代初期には《美術》月刊紙上に多くの論文や画の作品を描いている恐らく彼は蘇州では仕事に多忙だったようである。1987年に彼と面談の機会があり、1988年には再度会うことが出来た。

さて、1919年8月9日に浙江省の湖州の西に在る古い家で男の嬰児が生まれた。「男の子だ!」と家の主人が喜びに堪えず叫んだと云う。此れが後に金魚王と称せられた「凌虚」で、家の主人は父の凌漢堂であった。凌虚が5歳の時、一家は杭州に移り住んだ。幼児の生活では杭州時代が最も楽しかったと云う。

父親は芸術を好み、多くの明人の扇画を収蔵して居た。母親の呉海貞はある程度教育を受けて居り、文化人であった。彼は5歳、一家で西湖に遊び、家に帰ってから彼は紙と筆を執って船と人が歩く姿を描き、それを見た父親は驚き「この子には芸術の天賦が在る!」と云ったという。それ以来、父親は意識的に子供の芸術的潜在能力を引き出すように努めたという。父は二十余件の扇面画を所蔵していたが、これは凌虚に自然と無意識に大きな影響を与えた。

後で凌虚が父親を回想する度に毎回「父は画家ではなく、また文化的教養も無かったが、豊富な芸術的感覚を持ち、よく考えるに私の芸術的素質は父の遺伝因子と密接に関係がある」と云って居た。

凌虚が7歳の時、父親が不幸にも肺病になり、一家は生活に困り、節約のため経済的に苦しい一家を父親は病身を引き摺りながら、湖州の古い家に引っ越した。父は此処で亡くなっている。

1937年7月、日本軍による芦溝橋事件が始まり、上海や杭州にも来寇、凌虚は一命は取り留めたが苦難は日々に彼の身を襲った。しかし、その間にも未だ一般人が知らない熊猫(パンダ)を描いて世に紹介し、金魚の画を描く画家として名を知られるようになった。

1955年には周恩来総理が「百尾金魚」の画をインドのネール総理の65歳誕生日に贈ったが、凌虚の作である。同年、宋慶齢がビルマを訪問、その時の贈り物も凌虚の金魚の画であった。1956年に整風運動が開始された。旧社会で評価の高かった彼であったが、国民党系の著名な文人の勧告にも拘わらず、これを拒否したと云う。

1957年4月、ソ連のフルチチョフ首席が友好のため訪中した際には彼の《百魚図》が贈られた。この絵はモスクワのソ連国家元首贈答品展示室に収められている。

同年には杭州や上海で個展が開かれた。上海の個展の際、多くの参観者の中に二人の日本の友人が居た。上海水産学院の顧問として来訪中の日本の水産専門家である渡辺宗重と真道重明の両氏であった。特に珍珠鱗・軟水泡など十数幅の絵を選んだ。真道重明氏は凌虚に対し「中国は金魚の故郷であり、15世紀に貴国の金魚が日本に来伝した。だが発展は緩やかで現在迄に40余種があり、貴国には遠く及ばない。私はそれらを日本に持ち帰り、飼育して新品種の指標にしたい」と云った。「それは可能でしょうか?」とその時は凌虚は半信半疑であった。

ずっと後年になって、彼は日本の名高い水産専門家で国際養魚の権威である松井佳一の著作《金魚大鑑》と云う書物の中で、日本が既に珍珠鱗や軟水泡などの新品種を飼育して居ることを知り、疑いが解けた。

凌虚はやがて松井氏からの手紙を受け取り、多いに喜んだと云う。そして自分を鼓舞し人類に美しい〈幸福の象徴〉としての可愛い金魚の絵を通じて更に貢献を決心したと云う。

1994年、英国のケンブリッジ国際伝記センターに依り「国際人物」として名前がに登記され、また、米国の伝記協会から「1994年世界人名」の称号を授与された。

 

 

 

余 録

中国と金魚

 

キンギョ(金魚、学名: Carassius auratus)は、フナの突然変異であるヒブナを観賞用に飼育、交配を重ねていった結果生まれた観賞魚。室町時代に中国から伝来したと云われる。だから動物学の種(Species)としては、フナ(鮒)と同じである。ウナギ養殖池に混養し、ウナギの食べ残した餌を金魚(和金)が食べてくれるので、学生時代に実習場では、面白半分に刺身にしたり味噌汁にして食べた。味は鮒と全く同じ。ただ、味噌汁の具としては大きな赤い頭がお椀に入って居るのは少々グロテスクだった。

金魚は日本でも盛んに飼育され庶民に愛好されているが、元来は中国の伝統的鑑賞魚である。大都市の公園では一般の人々に展示している所が多いが、北京の中山公園ではかなり大きな規模で展示していた。「中国で飼育が始められたのは浙江省で、年代は唐末五代」と説明してあった。日本には無い珍しいものも多く、1957年秋、上海で入手した数品種をホルマリン標本として日本の東京水産大学(現海洋大学)と北海道大学に寄贈のために持ち帰った。

「中国で飼育が始められたのは浙江省・・・」とあるが、1980年代に数次同省の田舎を訪れた際「此の路地の奥で金魚を売って居ます」と書かれた張り紙を良く見掛けた。今でも浙江省の人達は大の金魚好きなのかも知れない。

1957年に私が胸を打たれたのは、北京の中山公園で聞いた話である。日中16年戦争で日本軍が侵攻して来た時に、この多種多様の伝統的な多くの品種を如何にして守り保存するかの問題であったと言う。玉で作った美術品等と違い、生きている魚だから水も必要であり餌も与えなければならない。北方では冬期は水温調節もしなければならない。これを大きな甕に入れて、目立たない遠距離の辺鄙な地方に分散させるのには非常な苦労をしたそうである。このことは公園で展示している担当者から聞いた話である。日本人である私にとっては胸を締め付けられる思いであった。

金魚は中国では目出度い吉祥を表すものとして、その愛好振りは日本を凌いでいる。実物の鑑賞だけでなく、絵画・刺繍・ネクタイの図柄・木彫置物・ブローチなど各種各様である。孫悟空の活躍する「西遊記」に出て来る通天河に棲む水怪の霊感大王も金魚。此れは観音菩薩が飼っていた金魚が逃げて精となったもの。最後には観音菩薩の魚藍に菩薩の法力で生け捕りとなったが、連環畫に描かれた図では「黒い出目金」でグロテスクな様相である。

朝天眼・珍珠(真珠)鱗・水泡眼・丹頂・獅子頭・龍眼・青文魚・銀魚・茶金・白鳳・・・など名前だけで一冊の小冊子が出来るほど品種数が多い。(朝天眼は日本語では頂天眼と書く人が多いが意味から考えても「朝天眼」が正しいようだ)。中には形態が異様な感じがするものも多い。鱗が反り返って一見病気のせいではないか?と思われるようなものもあるが、品種として遺伝的に固定されている。

 

 

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TwoPPSfiles

春節

 

中国の友人が呉れた綺麗な Power Point

 

2008年2月6日

真道 重明

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節とは中国で、一年で最も重要な祭日である旧暦の元旦のことである。また中秋名月は「中秋の名月」のこと、中秋節とも云う。中国では月餅を食べ、日本では旧暦八月十五日のこの日は「十五夜」と呼び薄(すすき)と月見団子を供えるお祝いの日であることはご承知の通り。

下に示した「新春祝福」は春節の目出度い言葉、例えば、新年快楽、万事如意、福気多多、好運連連、平平安安、万事圓圓、永葆青春、工作順利、不断進取、歩歩高昇、前程似錦、心想事成、等々、その他多くの句が現れる。読んで字の通りの言葉と共に、美しい多くの多種多様な花卉の画が次々と現れる。なお「新年快楽」は日本の「新年お目出度う」に当たる常套句。

「中秋名月」は中秋節に〈月圓花好〉の歌曲に載せて、美しい風景と共に、米シ(クサカンムリに市)の〈中秋登楼望月〉七言、蘇軾(蘇東坡)の〈中秋月〉七言、元好問の〈倪庄中秋〉五言、白居易の〈八月十五日夜溘亭望月〉七言、劉禹錫の〈八月十五日夜玩月〉五言、蘇軾(蘇東坡)の「名月幾時有・・・」で始まる〈水調歌頭〉、等々の漢詩が次々と現れる。

なお、中秋節は、拜月節、女儿節、追月節、玩月節、などとも呼ばれて居るようだ。

 

注 意

下記のファイルを視聴するにはパワーポイントがインストールされて居なくても、Power point reader (無償)をインストールして置けば良い。未だの人は(ここをクリックすれば画面が出る)ので指示に従って下さい。操作は簡単です。

漢字は簡体字(Simplified Chinese)です。MS WINDOWS XP などでは標準でインストールされて居ますが、幾つかの文字が「・」や「?」に「文字化け」する場合はMicrosoft からダウンロード(無償)して下さい。尤も画を見たり歌を聴くのですから中国語を読めなくても楽しめますから、その侭でも結構です。

下記をクリックすると「ファイルのダウンロード」の画面が現れます。そこで「開く」のボタンをクリックして下さい。読み込んで最初のページが表示されます。

 

新春祝福   

 

 

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FutugouNaShinjitu

[寄稿]

映画「不都合な真実」を見ての所感

 

林 繁一

2008年1月15

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学の先生から R. ゴア さんの CD が手に入ったので、静岡駅近くのホ‐ルで友人たちに見せるとの誘いを受けました。「瞬間的に米国大統領であったゴアです」という自己紹介で始まったこの映画には説得力があり、ノ‐ベル平和賞に相応しいと感じました。同じノ‐ベル賞といっても、時には政治的な匂いが付き纏うのであまり好きではなかったのでしたが。もっとも日本人の「共和党贔屓、民主党嫌い」は国際的にも有名でして、仲の良い友だちの一人には「そんなものは!」と一言の下で撥ね付けられましたが。

清水という地に居を構えて二十年余り、海岸から離れて天児も棲む山中で棕櫚が育っているのに、気候の良さを感心した私でしたが、今思えば温暖化の走りだったようで、南方の植物の侵入と捉えていた人もいたようです。

十年余り前には温暖化をいうのは憚られたこともありました。修士課程入試問題に米国の雑誌 Coastal Management の一節を引用して、それに対する意見を英語で述べてもらったことがありました。英文の理解力、文章力は十分なので合格と判定された人の中に「温暖化などは一部左翼人の妄想に過ぎない」という感想もありました。

当時生態学の講義も受け持っていたので、オダム教授の「生態学の原理」などに記されている地球が生まれた当時の大気は二酸化炭素で充満していたが、光合成を始めた植物が増えて酸素と入れ替わり、酸素22%、窒素78%という現在の組成になったとか、増加し始めた酸素は多くの生物にとって有害なガスであったけれども、それを利用できる生物が現れ、その生理的効率は従来の種よりもはるかに高く、その結果古い生物を圧倒して繁栄したとか、産業革命後化石燃料が大量に消費されて逆の変化が起こり、二酸化炭素の濃度が高まり始めたといった話に若い人たちが関心を持ってくれました。

特にハワイの高山で続けられてきた二酸化炭素の濃度が僅か数十年の間に320 ppm から370 ppm にまで高まったというグラフはショッキングだったようです。詳しく見ると陸地が広く植物が多い北半球の夏には二酸化炭素は減り、光合成が衰える冬には高まりますが、この事実も新鮮な知識だったようです。私たちに比べて未来の長い人たちにとっては当然の話です。

東海大学といえば、私が水産学科主任教授の仕事を頂いた平成元年頃には「水産は時代遅れ」といった雰囲気が一部にあり、教養学科のある先生が新入生に対して「もう水産などやっても役に立たない」と言われたとかで、若い先生や学生の中には吃驚した人もありました。生き物である人間にとって食べ物は不可欠、それに関る水産がなくなる筈がないと教えたことも思い出されます。昨年の秋、新幹線の中で偶然お目にかかった海洋学部の先生は「水産は良いですよ、他の学科が受験生の確保に苦労しているのに、たくさんの高校生が来るのですから」と話されました。感覚がすっかり変わったと指摘されている若者世代ですが、頼もしい話です。

食料の不足という問題はその姿を現し始めました。大豆が不足して、食用油やそれを使った食べ物の値上がりも話題になっています。FAO での経験から、特に南アジアからアフリカの食料問題に関心がありますので、動物蛋白を畜産だけに求めて、漁業を無視しようとする欧米やそれに無批判な同胞を見ると不安が募ります。特に自分たちの先人は油脂を採るだけを目的に多くの鯨を乱獲していたのに、経済性の高い石油製品が出現して捕鯨をやめると、裏を返してこの産業を非難し、時に暴力を振るう一部の白人には憤りを覚えます。

残念なことに敗戦直後には動物食品の一割近くを鯨に頼っていた歴史を忘れて、捕鯨反対を叫ぶ日本人も少なくありません。一月も終わりに近づいたある日、新聞やテレビは調査船に保安官を乗せていると報じました。このような動きを誘発している一部アングロ系の諸国に対してある高官は「価値観を共有する国」と発言して、3000年来文化を共有してきた中国に対して露骨な反感を示しました。アングロ諸国であれ、東アジアの国々であれ、人類全体が大きな危機を迎えている現在、共に生きるための本質を弁えておく必要を強く感じるこの頃です。付け加えると、中国についても食品の農薬汚染といった不安材料があります。この問題は中国にとって輸出に差し支えるだけでなく、自国民の健康に係る大問題、日本の経験を素直に受け入れて欲しいものです。

 

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MajoNoItigeki

20年振りに魔女から

の一撃を受けて・・・・

 

私の宿痾の60年に亘る苦痛の歴史とその想い出物語

 

2008年4月24日

真道 重明

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宿痾と云えば大袈裟かも知れないが、20歳代後半に最初の発作を経験して以来、80歳代の半ばの今日に至る60年間に幾たびとなく「魔女の一撃」に襲われて来た。「魔女の一撃」とはドイツ語の Hexenschuss を日本語に訳したものだそうだ。英語に訳すと a witchs shot となるそうだが英語では余り云わないらしい。中国語では「閃腰」と云うらしい。魔女の一撃と云い、閃腰と云い、症状にピッタリする言葉だ。日本語では「ぎっくり腰」である。此れらは何れも発作の状況から付けられた「俗称」であって、医学的には色々なものがあって、病名も状況に応じて異なっている。

今年(2008年3月)に約20年振りにヤラレタ!!。約20日間で自力で床から立ち上がって室内を歩行したり椅子に座って机に向かえるようになり、これを書いている。長年の経験上、特に慢性化した高齢者の場合は呼吸できない程の激痛ではない。自然治癒に任せる外に打う手は無い事を知って居たので・・・。「ヤレヤレ、またか・・・」と云う外は無い。この病気で死ぬことは無い。満開の石神井川沿いの桜並木は「窓からチラット見た」だけで見損なってしまった。

 

人生最初の激痛を伴う発作

 

二十歳代後半に最初の発作を経験した。年末の職場の大掃除の際、重い大型の作業台を持ち上げようとした瞬間、閃光のような激痛が背中に走った。話には聞いて居たが、これが「魔女の一撃」か?と思った。少し身体の一部、例えば手の指一本でも動かすと、途端に背中に一瞬の激痛が走る。経験者しかその痛みは説明し難い。呻き声を出すとその呼吸の動作で痛みが走るので呻くことさえも出来ない。ただ黙して錐で刺されるような一瞬の激痛に耐えるしかない。

同僚に図書室長で警察で柔道の指南をして居た人が居り、「あー、ぎっくり腰だ。直ぐ治るよ」とばかり机上に横たわっている私の背中と腰回りのツボ処を押し、5分間ばかり揉んでくれた。
その後分かったことだが、実は此れがいけなかった。彼の治療法は普段から身体を鍛えているスポーツマンなどに対応するもので、私のように毎日机に向かって居るばかりで運動不足のものには逆効果だったらしい。

担架で運ばれるほどではなかった・・・と云うより、当時は救急車は普及して居らず、友人に支えられてバスに乗り何とか自宅に戻り、布団に寝かされた。寝返りも打てない。一番困ったのはトイレに行けないことだ。整形外科のクリニックに入院した。取りあえずの痛み止めをして様子を見ることになったが、肘を曲げたり寝返ったりする呼気に走る激痛は同じだ。

下半身をギス(Gips ス、石膏)で型を取り、特注のコルセットを作った。この時「ギブス」のブ(濁音)はよくある誤りで正しくはプ(半濁音)で「ギプス」と云うべきだと知った。以来十数年間に2回、何れも約2週間入院している。なお、全治には約40日間ぐらい掛かった。

コルセットは全治後の一ヶ年は朝起きて夜寝る迄身に着けていた。医者は取れと云うのだが、発作が何時再発するか分からないから、その時の「ズキ」と云う一瞬の苦痛が恐くて中々コルセットが手放せない。この状態が40歳ぐらいになる迄、7〜8年間隔で1〜2ヶ月の入院、一ヵ年間のコルセット着用と云う状況が続いた。

 

日本一姿勢の良い乗客と褒められたこと

 

大阪での会議を終え、新幹線で東京に帰る途中だった。向かい合った座席に品の良い60歳代のご婦人が座って居た。列車が終着駅の東京に就く迄、一言もこちらから話し掛けないし、先方も話し掛けて来ない侭だった。

列車が東京に間も無く着く直前、その婦人が初めて私に話し掛けて来た。「今迄に貴方のように姿勢のチャントした人を見たことがない。ズット感心して居ました。戦前は海軍さんでしたか?」とのこと。

そう言えば、私の中学の同級生に海軍経緯学校に進学した友人が居た。彼等は汽車に座るとき、背筋を伸ばした姿勢で帽子を膝の上に置き、端然としていたことを想い出した。
思いがけぬ不意の質問だった。「私は陸軍でした」とだけ答えた。静岡あたりから話し合っていればぎっくり腰とコルセットの話も出来たのだろうが、咄嗟の、しかもベルが鳴って居る下車で忙しい時だ。その一言だけを返し一礼して分かれた。何とも変な気持ちだったことを憶えている。

 

コルセットを着けた不自由な身体の侭での

連続した日程の掛け持ち海外出張の数年間

 

日韓国交回復の翌年、日韓政府間漁業協定の締結で毎年1回、東京とソウルで2国間協議が行なわれ、私は科学小委員会設立に当たっていた。一方、隔年に開催される IPFC/FAO Working Party のメンバーもして居た。

生憎なもので、両者の開催時期は同じ頃の時期が多く、ソウル会議が終わって2日後にバンコクに駆け付ける・・・と云ったことが数回あった。おまけにそのような時期とコルセットを着用している時期とが重なる場合が多い。皮肉なものである。

出入国の手続き、身体も書類のケースの運搬、飛行機の中、総て自分一人で遣らなければならない。コルセットで締め付けられた身体に鞭打って何とか乗り切った。今にして想えば30歳から40歳代の若さだったから、それ程の苦労とは思わなかった。

中山式と云う頸骨や脊椎骨をマッサージする数個のタコの吸盤状の上に球が付いている健康器具をスーツケースに入れて持ち運んだが、飛行場の所持品検査では「これは何ですか?」と度々尋ねられた。検査官には余程変なものに見えたらしい。その都度面倒くさい説明を繰り返さなければならなかったことを想い出す。その後も軽い発作は数度経験したが、加齢と共に慢性化したようで、「呼吸もできない程の激痛」は発作時の1回だけで、2週間も安静にして居れば自然に治癒し、コルセットを1ヶ月も着けて居れば症状は消えるようになった。

 

劇的に効いたバンコクでの中医鍼治療

 

タイ国のバンコクに本部がある国際機関に十余年勤務したが、10年振りに再発した。「ぎっくり腰に良く効く鍼灸医が在る」と聞き試しに小さなクリニックを訪れた。タイ族の人は鍼は殆どしない。「身体に針を突き刺すなんて恐ろしい」と思っている。だから訪れる患者は中国人または中国系のタイ国籍の人か、若しくは在留の日本人だけである。

鍼灸師は私と殆ど同年配の女医さんでタイ国籍の中国系の婦人であった。北京に数年間留学して中医学院で鍼灸を学び、帰国して開業したとのこと。日本語は喋れないが旦那はタイ族の人であり、タイ語が日常語であるのは勿論だが、それに多少の英語ができた。北京語を私が多少喋れるのに興味を持ったらしく、2〜3回通う内に親しくなり、特別待遇をして呉れた・・・。つまり他に患者が居ても順番を優先してくれ、治療費も安くしてくれた。

1回に20分、背中に数ヶ所の鍼を打つ治療。2週間もしたらスッカリ治ってしまった。それ以降バンコク滞在中には2度と再発しなかった。実によく効いたのには驚いた。仲良くなったので、2〜3ヶ月に1度はお喋りをしに訪れ、そのついでに鍼を予防の意味で打って貰っては居たが・・・。
その後国際機関での勤務を終り、日本に帰国してからは20年間は一度も再発しなかった。

 

80歳を超え、過去の病状を省みる

 

長年の現役を退き、定年で OB となって団体の仕事の手伝いや大学の非常勤講師など、人生の第2の仕事に入ったが、その間に一度だけ軽い発作に見舞われた。加齢に伴い「魔女の一撃」は慢性化していたのだろう。苦痛も弱く10日ぐらいで自然治癒した。

整形外科医に聞くと「急性の筋・筋膜性腰痛や腰椎椎間板ヘルニアの病態であることが多いが、稀に棘間・棘上靭帯損傷でも同様の痛みを発する。発生要因等も様々であるが、主に年齢(ヘルニアは若年性だが筋関係は加齢によって好発)や運動不足(急な運動)などが考えられる」と云う。

私の場合、それらの何れに該当するのかは専門医にも分からない。20歳代後半の初回は椎間板ヘルニアだったかも知れない。40歳代以後は筋膜性腰痛と診断されたこともある。この診断を下した人は知人の紹介で知った「ぎっくり腰に関する日本では著名な人である。

発病の原因は特定できないが、私の場合は年中机の前に座っており、極端な運動不足による筋膜の弱化であろうと自分では思っている。ゴルフ・テニスどころか万歩計は持って居ても、運動のために歩くことよくサボっている。80歳を半ば過ぎて、「その罰がまたしても当たった」と思っている。

それにしても私が感服し尊敬するのはプロのボクサー・大相撲力士・サッカー・野球や体操選手達である。彼等はよく「ぎっくり腰」になったり、骨折したりする。ある種の職業病とも云えよう。恐らく激痛は普通人と同じだろう。だが、それに耐えて数ヶ月で現役に復帰しケロッとして居る。担架でで担ぎ出されても翌日は試合に出ていることも屡々である。苦痛を恐れる気の弱い臆病者の私などにはその心境は想像もできない。

 

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HONJYOUKUN

本荘鉄夫君の作品

米寿を迎えた同期生の写真集

 

2008年4月24日

真道 重明

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荘鉄夫君は1939年に私が上京して母校に入学した時の同級生である。小柄だったが年齢は私より3歳年上であった。体調を崩し卒業は2年遅れたが、そのため今この歳になってみると「同級生」は3クラスに跨っており、私などより同級生の人数は3倍も居る勘定になる。その分だけ沢山の「良く知る友人」が多い事になり、その点は羨ましい。

卒業後は主として淡水魚の調査研究に携わり、多くの業績がある。OB の今は岐阜県水産試験場の名誉場長である。サツキマス(皐月鱒、Oncorhynchus masou ishikawae)の名付け親であることでも有名だ。

80歳代の半ばを過ぎ、多くの同級生が他界し、私にとっては数少ない生き残りの一人で、時々電話で話し合う機会があるが、取り分けパソコンを操る同級生が絶無の中、メールの交換などが出来る唯一の同級生である。下記の写真は彼からのメールに添付されていた物の一つで私の好きなものである。

 

数年前に送って頂いた「紅椿と斑椿」の写真

 

私は「ぐうたら者」で暑中見舞いなど殆ど知人などに出さないが、彼は几帳面で年に数回は写真入りの暑中見舞い・寒中見舞いなどの葉書を送ってくれる。有り難い話だ。

学生時代には知らなかったが、彼には美術的センスがあり、毛筆の字も見事だ。「パソコンアート協会(静岡)の創立者の一人で、米寿を迎えた今年、記念とお祝いに同協会のホームページに特集が掲載された。

「パソコンアート協会」 のホームページ:http://www.pcartsociety.com/ をクリックすると表示されるTOP画面の左肩にある多くの枠の中の『卒寿の作品』の処をクリックして開くと、同君の卒寿記念作品集が表示される。ご興味のある方はご覧頂きたい。同君の承諾を得て此処に紹介した。

 

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TOKKEBI

数学の恩師「神谷鐘吉」先生

型破りの奇人。後年教え子から「トッケビ」と綽名されたと云う。今にして思えば「菩薩」のような心を持った人だった恩師のこと

 

2008年7月10日

真道 重明

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1939年に旧制中学校の第4学年を修了した私は、上京して農林省水産講習所(東京水産大学の前身校、学制改革で現在では東京海洋大学)の本科養殖家に入学した。一年生のとき数学の授業を担当されたのが「神谷鐘吉先生」であった。

言葉は茨城訛り、お洒落っ気の全く無い服装、顎髭は4日に一度剃ったか剃らない様子、風采は全然上がらない。そんな事にはトンと無頓着な先生だった。一年生は全員学生寮の共同生活が義務付けされていた。時恰も日中戦争の最中。「欲しがりません、勝迄は」の時代、寮費(主として食費)は月に22円だった。

それでも食糧不足で腹を空かせる事はなく、学生の中には朝食の味噌汁をお椀の底に少し残して食堂の席を立つ人もあった。朝食の時間帯が終わる頃、寮の食堂に何処からともなく表れる人が居る。神谷先生だった。厨房が何列もある長い食卓を片付ける前で、残飯(軍隊で云う「下残飯、ゲザンパン」の入った食器類が卓上に在る。(ちなみに、軍隊で云う「上残飯」は手を付けていない「いわゆる一口も食べ無い侭で残したものを云う)。

先生は点検して回って食べ残しの汁や御飯を集めて食べ尽くされた。先生は腹が減っていた訳ではない。「勿体ない」、この食料が貴重な戦時中に「食べ残してはいけない」という考えから出た行為であった。ただし、その時に教訓めいた言葉はなかった。黙々と残飯を処理されて居た。「食べ残してはいけない」と云っても他人の残飯を・・・「何もそこまでしなくても・・・」と皆は思った。

禅僧の厠掃除の修行と同じだ。仲々俗人に出来る業ではない。衛生上の問題は在ったかも知れない。しかしそれ以上に「乞食ではない、格好悪い」という気持ちが先行する。厨房の人達は見慣れていたのだろう。横目で見ながら「先生が・・・変わった人だ」と不思議がって居た人も多く居たのではあるまいか?

入学直後の私もその一人だった。その行為が先生の信念に由来することを感じるようになったのは、かなり後になってからである。当時の先生の教官室には、「小野小町九相図」程ではなかったが、死んだ小野小町が痩せて衰えた姿の「老いさらばへた地獄絵風の一幅」が壁に貼り付けられていた。「お化け」か「幽霊」のようで薄気味悪い。

日本の歴史上最高の美女、且つ才女の小町に関する「九相図」などの話は後年知ったが、当時私は「何と不気味な画が何故飾ってあったのか?」は知る由も無かった。私はその絵のことについて質問もしなかったが、先生もその絵に関しては何も語ることはなかった。

神谷先生に私は一方ならぬお世話になった。戦前の5ヵ年制の旧制中学を4年修了で進学した私は数学の「三角法」を全く受講して居ない。「三角法」は当時のカリキュラムでは5年生で習うことになって居た。サイン(正弦)やコサイン(余弦)などと言われてもサッパリ分からない。授業では5年修了の前提で講義が行われている。これには弱った。

数学担当だった神谷先生にその事を告げると、「分かった。夏休みの3週間寮に出向いて特別に個人的に講義しましょう」とのこと。続けて「四年修了で受験資格を与えて置き乍ら、三角関数は知っていると云う前提のカリキュラムと云うのは学校側に教科内容に欠陥がある。特別講義で補いましょう」との話。私にとっては入学最初の夏期休暇の大半は寮で居残りと相成った。

だが先生の側から見ると「善意による無償の講義」である。「夏休みが吹っ飛んだ」などと云えば罰が当たる。毎日1時間か日によっては2時間の授業を受けた。先生のこのボランティア活動について恩着せがましい言葉はひと言もなかった。何時も笑顔で「君分かったか?」と学生仲間と同じ目線と会話で淡々として居られた。

数学は基礎教養科目だったが、後で養魚池設計などの土地測量実習などで「何とか他の同級生達に着いて行けたのは、「先生の三角関数の講義があればこそ」であった。その時は「折角の夏期休暇を一人学生寮に居残りして・・・」などと思う「先生の好意を無視した罰当たり的な気持ち」になる瞬間もあったが、80歳代も半ばとなった今にして思えば神谷先生からは「大恩」を受けたとツクズク思う。

母校の百年史を見ると、先生の母校での在職期間は1932年(昭和7年)から1941年(昭和16年)、担当は修学と統計学と記載されて居る。私が入学したのは1939年(昭和14年)であるから、先生の母校在職期間の終わりの頃に当る。

先生からの講義を受けた翌々年、先生は日本統治時代の朝鮮釜山府に設立された旧制専門学校である「釜山高等水産学校」に移籍された。この学校は東京にある母校の姉妹校とも云うべきものであり、3年後には「釜山水産専門学校」と改称された。しかし、日本の敗戦により学校の校舎や校地は1945年に韓国政府に接収され、それは後に韓国の「国立釜山水産大学」となった。

敗戦と同時に日本人の教授陣や学生は日本に引き揚げ、下関市永田本町にある「水産大学校」となった。神谷先生もその一人であった筈である。・・・と云うのは私は同校に講師として招かれ定期的に何回も訪れているにも係わらず、先生とはお会いしていないし、名前も聞いていないからである。1960年代だから先生は既に職を退いて居られたのかも知れない。

「毬栗頭」に顎髭は伸び放題ではないが「2,3日に一度剃ったかどうか」、失礼を顧みず云えば「全然風采に無頓着」、教壇の上での言葉も「君」、「僕」。少しも先生らしく威張ったところが無く、まるで同輩同士の目線での話し振り、「こんな先生見た事無い」と云う言葉通り。「奇人」・「変人」と揶揄されるのには慣れて居られ、ただ、アッケラカンといったご様子だった。

釜山の学校に移籍されてから、口さがない学生から「トッケビ先生」と云う綽名で呼ばれて居たそうである。その話を、何時、誰から、聞いたか私には確かな憶えがない。また「トッケビ」と云う言葉はハングルだそうだが、その意味は私には理解できなかった。

余談:「トッケビ先生」の「先生」だが、東京の母校では学生は多くの先生(教官)に対して綽名を付けていた。しかし本名で呼ぶ場合もあだ名で呼び場合も、例外なく「さん」付けであり、先生とは云わなかった。これは伝統的な慣習であった。教官を先生と呼ぶようになったのは、母校が戦後に大学となり農林省の管轄から離れて文部省管轄となってからである。私達の時代の水産講習所長は杉浦保吉と云う人だったが皆は「所長」でなければ「杉浦さん」であり、決して「杉浦先生」とは呼ばなかった。(余談終り)。

話が逸れたので戻す。「トッケビ」の意味が何か?である。まさか在るとは思わなかったが、今この稿を書くに当たり試しに Web で検索してみた。驚いたことにハングルの「トッケビ」が無数にヒットした。韓国の人達が実に良く知る言葉だと判明した。食堂の名前に「トッケビ」があり、街路に「トッケビ通り」があったりする。民話集には無数のトッケビの話がある。意味は「お化け」・「妖怪」・「悪戯好きの幽霊」等々。

「トッケビ先生」のニックネームを日本人の学生が付けたのか、韓国人の学生が付けたのか分からないが、私は Web site で知った知識から見て「付けも付けたる哉!」と感心した。実に私の知る神谷先生にピッタリのニックネームである。

「トッケビ」は鬼気迫る妖怪の側面を持つと同時に「愛すべき側面をもつ民話の主である。私が先生の個室で見た『小野小町の老いさらばへた地獄絵風の一幅の絵が壁に飾られて居り、「お化け」か「幽霊」のようで薄気味悪い』と述べたが、途端にその絵の事を思い出した。先生には「鬼気迫る妖怪の側面」は全く無かった。寧ろ「茶目っ気のある河童伝説」が近かった。

欠けた前歯の笑顔で「君、分かったかね?」との先生の言葉には愛すべき一面が感じられる。水産大学校50年史だったかには(『神谷鐘吉教授(物理学):ニックネームを「トッケビ゙」という。トッケビとは ハングル(朝鮮語)で「神あるいは幽霊」の事だそうだ。頭脳明晰学識豊かだったが、それを知らない人から見れば確かに幽霊のようでもあり神々しくもあった・・・云々』とある。

「神々しくもあった・・・」と云う言葉は並大抵の表現ではない。世俗の塵に塗れ、この世の出世・栄達を計り、富を追い、美食を好むと云った俗人には与えられない言葉である。釜山の学生諸氏は「何かを神谷先生から感じ取っていた」からであろう。そして「トッケビ゙」と云う綽名はけだし傑作だと感心した。

先生は学校が釜山から敗戦により引き揚げて後、制度上の曲折を経て農水省所管の「水産大学校」と改称された1963年(昭和38年)の翌々年、即ち1965年(昭和40年)3月に退職されたことが後で分かった(名誉教授)。上で「私が同校には講師として招かれ定期的に何回も訪れているにも係わらず、先生とはお会いしていないし、名前も聞いていない」と述べたが、丁度「すれ違い」だったようである。

お生まれは1906年(明治39年)だったそうだから、私が講義を受けたのは先生が年齢40歳の少し前ぐらいの時と云うことになる。後年水産大学校で先生から教えを受けた S.K. 氏は本稿の草稿を読み「私達の頃も先生のご様子は全然変わっては居なかった」とのこと。

尊敬すべき諸先生や諸先輩(諸後輩にも)は沢山居られる。しかし、神谷鐘吉先生のような人は他に比すべき人を見ない、まさに悟りを開いた禅僧か菩薩のような心を持ったお方だったと思う。

 

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MIDWAY

[寄稿]

重大な間違からの大逆転劇

ミッドウエイ海戦に思う

2008年8月1日

三浦 昭夫

 

著者紹介私のホームページを視て時々メールを頂くようになった三浦昭夫氏は戦前の上海で幼少期を過ごされた「老上海」である。頂くメールには子供心に思い出す戦争中の上海の状景が生々しく綴られて居る。

ご尊父は海軍の特殊機関に居られたので「戦犯」となられたが無事帰国された。子供の時憶えた記憶を辿って纏めた「上海方言」などのミニ辞書?などもあり、多いに参考になる。氏の戦争観はどうであれ、その誠実な語り口には何時も敬服する。「こんな思い出話を誰にしても相手にしてくれない時代になりました」と云われるが、私の兵役体験の上海時代と照らし合わせ懐かしさが込み上げる。

氏は仕事で訪れる米国の資料・文献なども精読され、英国での会議での意見交換などを通じて得られた知見を基に、今回、この「ミッドウエイ海戦」の話を頂いた。此処にその内容を紹介する。

 

 

本では忘れられ、無視されているミッドウェーがアメリカ、イギリスでは忘れられないどころか、経営管理の資料としてまで取上げられている・・・ということに感心して居ます。また、私の友人で、アメリカの経営管理の専門家の多くは孫氏の兵法と宮本武蔵の五輪の書をよく読んでいます。

ところで、3年ほど前にイギリスの湖水地方に観光旅行に行ったのですが、そこの博物館の一隅に、Imphal という字が書いてあったので、はて、見たことあるぞ、と思って見ましたら、地元の陸軍部隊が1944年のビルマ戦線に遠征して、インパールで日本軍に大勝利を博したという記事と写真のコーナーでした。イギリス挙げてよほど嬉しかったのだろうと思います。こちらにとっては残念なことですが。

重大な間違いによる大逆転劇

5−6年前に、ASQ 年次大会で特別に Management の講演していた Steve Zxxx という専門家に講習内容について一言助言をしましたら、そのお礼として、彼が時々経営管理関連のセミナーに使用しているという雑誌記事を送ってくれました。それは、Strategic analysis and application という題で、1999年にイギリスのManagement Decision という雑誌に出た記事で、太平洋戦争のミッドウェー海戦に関するものでした。彼の記事ではありませんが、原著者の許諾の下に使用しているのだそうです。ミッドウェー海戦での日本とアメリカの戦争の作戦計画と実戦の模様を例に取って経営管理の戦略の立て方に応用するための考察をしているのですが、やさしくて読みやすい英語で書いてありますので、是非ご興味のある方は一読をお勧めします。(この雑誌の記事は pdf file として末尾に添付した。HP 管理者 記)

ミッドウェー海戦は 1942年6月上旬に、それまでに連戦連勝でハワイ付近を除く太平洋全域で優勢を誇っていた日本海軍の連合艦隊とハワイに残っていたアメリカの太平洋艦隊との戦闘で、日本側では これに楽勝してアメリカに対して圧倒的に有利な立場で講和条約に持っていくという目的で行われたものでした。

日本側は軍艦の数が航空母艦4隻を含む約200隻、アメリカ側は航空母艦3隻を含む十数隻、誰が見ても圧倒的に日本側が有利です。それが唯一つか二つの「ポカ」のお蔭で大逆転して、日本側が惨敗、航空母艦4隻を沈められ、搭載の飛行機324機の全部を失っただけでなく、残りの約200隻が大砲の一発も撃たないで算を乱して広島湾を目指して逃げ帰るという、なんともはや情けない結果になり、せっかく有利に展開していた戦局が一挙に不利になったのでした。

しかも、逃げ帰る途中で、日本側の重巡洋艦の「最上」と「三隈」が衝突して、「三隈」は沈没、情けなさの上塗りです。「最上」は大破、即ち かなり壊れたのですが、無事曳航されて広島に帰れたらしいです。この惨敗については、日本国内では当然秘密にされていました。

つい先日の朝日新聞に書いてあったのですが、当時の新聞記者の間では「ミッドウェーでは大負けだったらしい」と小声で囁かれていたとのことです。戦後、海軍の航空参謀だった淵田美津雄大佐(だいさ)と奥宮正武中佐のお二人による「ミッドウェー」という本で一般人に判明したのでした。この本は英訳されてアメリカとイギリスからも出版され、とてもよく売れたらしいです。

さて、私が何故ミッドウェーに関心が深かったのかといいますと、1942年に私の家族は上海にいて、私は小学校に入る前の年でしたが、戦争が始まって日本が連戦連勝、街角に貼ってある太平洋の地図で日本が占領したことを示す日の丸の旗がどんどん増えて子供ながらに胸がすく思いをしていたのでした。

香港からフィリピン、シンガポール、ラングーン(ヤンゴン)、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、セレベス(スラウェシ)、ウェーク島、グアム島、アッツ島、ニューギニア、ソロモン諸島、…。目新しい外国の地名も連日逐次 覚えられたものでした。それが、6月になってミッドウェー島に日の丸の旗が一旦ついて、そこで止まってしまい、その後はそういう地図がどこに行っても見られなくなったのです。(ミッドウェー島に日の丸の旗がついたのは、島を攻撃して敵の基地を無力化したからだったのだろうと思います。)

小学校(戦時中は「国民学校」といいました)に入っても、先生達からは「日本は勝っている」としか聞かず、そのまま日が経っていたのでしたが、その年、1943年10月にラジオのニュースで、「陸軍の○○師団がニューギニアのどこかから西へ XX キロ転進」と言っているのが聞こえて、とっくに占領してあったはずのニューギニアで西、即ち逆の方向に移動ということは押し返されているのか退却しているのか、「何だか変だぞ」と薄々感じたものでした。

私の父は海軍の特殊業務に携わっていたのでしたが、戦況に関しては家では軍事機密ですから一切口に出しませんでしたので、ほとんど謎のままでした。それが翌1944年7月には、「サイパン島玉砕」というニュースで、学校の朝礼で先生方が大騒ぎだったのをいまだに覚えています。サイパン島という地名はその時初めて聞いたのでした。元々日本の領土でしたから、それまで戦闘が無く、ニュースに出なかったからです。

翌年の2月には、これまた初耳の硫黄島というのが玉砕、これも新聞で大騒ぎ、小学校の二年生ですから硫黄島は読めません。それが東京都の一部であるなどとは、なおのこと知りませんでした。「りゅうこうじま」と読んで、父に「いおうじま」と直されたのを覚えています。変な読み方だなと思ったものでした。続いて6月下旬には沖縄玉砕、そこで父が夕飯の時に「次は上海だ」と言ったのを覚えています。

それで、戦争は日本の負けで、家族揃って近々お陀仏かと、内心で覚悟しました。その頃は毎晩アメリカの飛行機が上海に空襲にきていました。主体は小型の爆撃機と援護戦闘機だったようです。敵機がどこから飛んでくるのかなどと考える余裕はなく、空襲警報と灯火管制が毎日の恒例としか思っていませんでした。近所にあった海軍陸戦隊の練兵場の演習も日に日に激しくなっていました。

道路での実弾戦闘の訓練も始まり、学校の帰りに上級生と一緒に歩いていたら、「こらー、危ないから、さっさと帰れー!」と怒鳴られたものでした。近頃になって初めて気がついたのですが、敵の飛行機は沖縄付近にきていた航空母艦からだったのです。もう一つ気がついたことは、敵が爆弾や食料を毎日ちゃんと補充できていたということで、これには感心しているのです。

私は毎晩呑気によく眠っていたのですが、集団登校の途中で、上級生や友達が、「ゆうべの空襲ではノースアメリカンP51の機銃掃射が凄かった」などと話していました。ノースアメリカンP51というのはその頃のアメリカの新型の戦闘機で、私の持っていた絵本にもちゃんと載っていましたが、夜中の暗がりにそういうのが空を飛んでいて何故上級生や友達がP51と見分けられたのか、これも不思議に思うのです。

また、これも最近初めて知ったのですが、上海は特攻基地の一つで、昼間は日本の飛行機が訓練と哨戒と両方のために沢山飛んでいて、夜は何本ものサーチライトの柱の間で敵の飛行機、さらに、迎撃のための日本の飛行機が飛び交い、朝方には特攻機が発進、だから日本の航空隊は連日超多忙だったと、これも今頃気がついたのです。昼間は日本の飛行機が飛んでいるのを単に「日本には飛行機が沢山ある」と思い、安心して呑気に眺めていたのでした。

私の父は1944年から1945年2月にかけて、そのような状況下で、飛行機に乗って南方(ヤンゴン、サイゴン、ハノイ、マカッサル、シンガポール)や東京に出張していたのでした。軍の出張用及び落下傘部隊用の飛行機は輸送機で、全部アメリカのダグラス製だったようです。今思うと、沢山のダグラス製がロッキードやボーイング、ノースアメリカンに撃ち落とされたのです。

父がいつも平気な顔をして出かけていましたので、危ない仕事などとは露ほども思い寄りませんでした。しかし、「次は上海だ」と聞かされて、自分の家族は近々玉砕かと思ったら、ミッドウェーがどうなったかなどと考える余裕はなおのこと消え失せてしまいました。

戦後、中学三年の夏休みの終わり頃に、宿題を片付けるために友達と一緒に等々力(「とどろき」と読みます)にあった世田谷区立図書館に出かけたのでしたが、そこで前述の淵田大佐と奥宮中佐の共著の「ミッドウェー」という本が本棚にあるのが目に止まり、何気なく手にして目を通したのでした。南雲忠中将という珍しい名前の長官の名前が出てきて、友達に読み方を聞いたら彼は学が深くて「なぐも」と教えてくれました。

めくっていたら、敵を攻めている最中に、敵の航空母艦が見つかったからということで、飛行甲板や格納庫で飛行機に積んである爆弾を魚形水雷(魚雷)に積み替えさせるという命令が出たという記述に遭遇しました。

そこで思ったのは、「一体何のためにそんなことをするのか?危ないではないか、なんたることだ」ということでした。敵の軍艦を攻めるのに、普通の爆弾でも当てれば壊せるのに何故魚雷に積み替えねばならないのか?と思いました。案の定、そんなことをしていたが故に、飛行機を発進させる前に空から敵の爆弾が降ってきて、航空母艦が次々に被弾して戦闘不能になり、おまけに飛行機に搭載してある爆弾や魚雷に誘爆して次々に大爆発を起こし、大変な惨劇になったのでした。海に投げ出されて生還できた乗組員の話によりますと、分厚い鉄製の防火扉がメラメラと燃えていたそうです。その日は詳しく読むヒマもなく、そのままで終わりましたが、その時の日本国民としての落胆は大きかったです。

社会人になってからその本を買おうと思って探しに行ったら売切れていました。しかし、英訳されてアメリカで出版されたポケットブックがたまたま1969年に紀伊国屋で見つかり、買って詳しく読みました。それによると、航空母艦4隻を沈められた後、残りの約200隻が大砲の一発も撃たないで広島を目指して逃げ帰るという、なんともはや情けない話。「何のための軍艦なのだ」、「何のための大砲なのだ」と言いたかったです。

アメリカの航空母艦は日本の航空隊が全滅する前に1隻だけ沈めたので、残りは2隻。それも、多数の飛行機を失って、また、爆弾も魚雷もかなり使い果たして、無力化していたはずですから、残りの200隻のうちの多数の日本の戦艦や巡洋艦が追い回して大砲で撃てば、護衛の駆逐艦や潜水艦も含めて全滅させられたはずです。

それを恐怖に戦いて算を乱して逃げ帰るとは何事だといいたくなります。また、大体航空母艦を主力とする艦隊というものは、航空母艦が被害を受けたら何にもなりませんから、前後を戦艦や巡洋艦で厳重に護衛しなければならないのですが、この時の日本の隊列は航空母艦4隻が先頭で、護衛するはずの戦艦大和その他大きな軍艦がすべて、ずっと後の方で、この陣形を見て、参加した参謀やパイロットが、「ナンだ、これは?」と驚いたのだそうです。

また、このときは、アメリカ軍の飛行場があるミッドウェー島を占領して、日本側の航空基地にするために、「陸戦隊」(戦後の言葉だと海兵隊)を乗せていたそうです。島の基地を占領するなら、軍艦から艦砲射撃をして、その後に陸戦隊が上陸して占領すればよいのですが、空から 200機近い飛行機で爆弾を落としただけだったそうで、これもまったくおかしな話です。

この時に日本の主力航空母艦の一つは「加賀」でした。1944年の 6月、サイパンの玉砕より一月前でしたが、小学校2年の国語の教科書にあった少年の物語で、『お兄さんが水兵で「加賀」という航空母艦の乗組員で、それを誇りに思っている』という記述がありました。高等女学校を出立てで若干17歳の、とてもやさしい担任の先生(教員が続々出征したため代用教員として動員されたのだそうです)が、とても歯切れよく読んで下さったので、印象に焼きついて、「加賀」の漢字もすぐ覚えられたのですが、それが、その時より2年も前に沈没していたとは、なんともはや複雑な心境になります。

その後、ある時たまたまテレビを捻ったら NHK の特集番組に当たり、そこでは、厚さが50センチを越える膨大な「ミッドウェー作戦計画書」というのが映っていました。あんなのを読んで頭に入れられるのか?という疑問も起きましたが、驚いたのは、攻めて行くに当たっての味方の無線電信での暗号です。

ハワイを攻めるか、ミッドウェーを攻めるか、それを艦隊に知らせて指示するため、ハワイ(オアフ島)は「OH」,ミッドウェーは「MI」となっていたのです。こんなものでは、子供でも一目でわかります。何のための暗号かといいたいです。案の定、敵に傍受され、一瞬で見抜かれて、ミッドウェー島の守備隊には待機され、アメリカの太平洋艦隊がミッドウェーに乾坤一擲、決死の迎撃に出たのでした。

日本で一番頭脳明晰と言われた海軍大学や兵学校を出た偉い人たちのオツムがこんな暗号を作るレベルだったのかと思うと、これも落胆しました。また、敵の決死の姿勢に対して日本軍の逃げ帰り精神、ひど過ぎます。奥宮さんは昨年97歳ぐらいで亡くなったそうですが、2−3度テレビでお目にかかる機会に恵まれました。とても冴えていて立派な方でした。

テレビでも作戦会議に出ておられる光景の再現がされていましたが、上層部が席上で「アメリカの爆弾がそんなに当たるはずがない、当たる確率を三分の一にして計算せよ」などという無茶苦茶なことを言ったと、憤慨されていました。さぞかし悔しい思いをされたことでしょう。淵田さんも1970年頃、亡くなる少し前でしたがテレビで偶然お目にかかれて、それによると戦後キリスト教の牧師になり、なんとアメリカで伝道をされていて、丁度日本に帰ってきたところだったのでした。このお二人の業績については、下記の Website に詳しく出ています。

淵田:
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/fu/mitsuo.html

奥宮: http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ao/okumiya.html

「前述のイギリスの雑誌の記事には、諸所に淵田さんと奥宮 さんの著書を参照しており、また、この記事にはその他に実に 沢山の本や記事が参照されています。その記事の要点を2〜3 挙げますと:− 

A. 9ページ目(雑誌ではP. 241)の右側に、Compared to Midway, such an environment would be . . . という一節があります。「ミッドウェー海戦の場合と同様、会社の運営管理でも、絶えず変化する環境に適切に対応するには、よく分析をした結果に基づき、弾力性を持って、臨機応変に、合理的で、しっかりした決断をすることが大切である」とあります。

日本側は綿密な計画に固執していて、臨機応変ということに欠けていたようです。その後に、「日本海軍が冒したような中央集権的で機械的な管理、それと、過去の成功例(ハワイ奇襲攻撃)に固執して、前回うまく行ったから今回もそれでうまく行くという考えだったのが間違い」と言っていますが、それは著者の考え過ぎです。なお、戦いの最中に一々中央に具申して指令を仰ぐなどということをしていたら、その間に攻撃されてわが身が危なくなるだけです。

ミッドウェーでは、各空母から「爆弾を搭載したままで爆撃に発進させる」というのに、艦隊司令官から「魚雷に積み替えよ」などという命令を出して従わせたというのが大失敗の元です。それも前述のとおり中学三年の少年だった私にすら疑問を持たれるようなミス、まったく残念なことです。その少し後に、Ability to act quickly is a prerequisite for crisis management. 即ち、「危機管理には、迅速に行動できることが必須条件」とあります。これは、まったくその通りです。

一々中央に具申して指令を仰ぐなどということの一番ひどい例は、先年の自衛隊の「なだしお」事件で自衛隊の上層部からの命令が無いからと言って、犠牲者が溺れているのを救助しようともせず腕組みして見物していた山下艦長のような非常識としか言えない行動でした。これは論外ですが、計画というものは状況の変化も考えて臨機応変に対応できるように弾力性を持たせること、ある程度の裁量も与えることが大切です。

B. 原典の12ページ目(雑誌ではP. 244)の左下の表で、海戦の際の日本とアメリカの管理の方式、計画、目標、戦略、戦術、連絡手段、索敵、実施の各項目について比較をしています。これは中々面白いです。一番の問題は、日本の計画は、詳細にわたって綿密周到、しかし、ガンジガラメで固定し過ぎ、アメリカ側は戦略的で弾力的・流動的とあります。前述のテレビに出たように、日本側の厚さが50センチを超えるような詳しすぎる計画書では、却って動きが取れず、意味がありません。

C原典の13ページ目(雑誌ではP. 245)の左上の方に、「日本型の経営管理は、全員合議制と言われているが、最近の日本で実施されている全員合議制は、ミッドウェーでアメリカ軍の上層部が取ったやり方とほとんど同じであり、それは日本特有のものではない」と言っていますが、まったくその通りです。

記事全般について言いますと、50年以上昔の話について、色々な人の本を沢山読んでそれらを参照しています。しかし、知らないことを前提での主観による推測も多いようです。

ついでながら、私はアメリカ側の参戦者が著述して出したミッドウェー海戦の本も1970年頃に New York に駐在していた会社の大先輩が買って送って下さったので、読みました。それによると、アメリカ側は逆転を図るべく必死だったようです。また、アメリカ軍の戦闘機が日本の飛行機に撃たれて火を噴き墜落する際に、「どうせ死ぬなら、日本の戦艦か巡洋艦を道連れにしようと思って体当たりを試みたのだそうです。

その飛行機は幸か不幸か軌道が少し反れて海の中に突入し、海上を漂っていたら数時間後に味方の駆逐艦に救助されたのだそうですが、そのパイロットの述懐によると、司令室の中で金モールをつけ勲章だらけの偉そうな将校たちが真っ青になって逃げ惑っていたとのことでした。神風特攻と同じことを世界で最初にしたのはアメリカの飛行機だったということも新発見でした。

余談ですが、会社の同じ部屋で5年先輩に南雲さんというお方がおいでで、通勤電車でも一緒で数年間仲良くさせて頂いていたのでしたが、なんと南雲中将のご令息でした。また、航空母艦「飛龍」と共に沈んだ艦長の加来大佐のご令息も他の部署でしたが3年先輩で、仕事でお世話になり、今でも仲良くして下さっています。もう一人、同じ課で机を並べていた一年先輩が作戦参謀だった海軍少将のご令息でした。ある日、会社に出勤する際に乗ったタクシーの運転手さんが、海軍の戦闘機乗りで、ミッドウェーで海中に放り出されたため九死に一生を得たというお方でした。

あの海戦で勝っていれば、戦死なさらずに済んだはず、また、ご遺族の戦後の苦労も無かったはずです。私の父というのは危ない特殊任務でしたので、戦後は上海で戦犯として逮捕されて半年間牢屋に入っていました。その間、私の家には鬼より怖い顔をした中国の憲兵将校が連日見張りに来ていて、まったく恐ろしい思いをしました。日本語はとても上手で、毎回 母の出した茶菓を摂りながら色々なことを根掘り葉掘り聞き出していました。

また、父がいつ銃殺されるか、ひょっとしたら家族も一緒かと、気が気ではありませんでした。こんなことは経験していないとご理解頂けないかと思いますが、とにかく心細いこと限りなく、まったくやりきれませんでした。私の方の被害もさることながら、東京大空襲、原爆、沖縄、満州、シベリア、中国奥地(ハンカオ(漢口)、チャンチャコー(張家口)など)、その他各地でもっとひどい目に遭った方々が沢山おいでです。だから、ちょっとしたミスで惨敗して、その波及効果による損害が計り知れないぐらい大きくなったということで、これは教訓として心に留めておかねばと思うのです。

冒頭で述べた雑誌(英文 pdf file)はこのアイコンをクリックして下さい

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SAWAYAKA

重礼儀、講礼貌、 爽

[書評]

楊嘉麗さんが中国語に翻訳した本書は日本に於ける職場文化(職場に於ける礼儀作法)を多くの図と共に解説したものである。日中両国の人々が共に働く企業がますます増加する趨勢にある現在、関係者には非常に参考になる。各ページには日本語が併記されており、中国語が分からない日本人にとっても解り易く、日本語を学習中の中国人や中国語を習得中の日本人には相互に言葉の勉強にもなる。中国語で書かれ中国で出版されてはいるが、敢えて此処に紹介した。

 

2008年10月5日

真道 重明

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日本語の原典はテプコシステムズ(株)編著の「爽やかマナー」と題する職場の礼儀作法について述べたものである。中国科学技術大学出版社から本年(2008年3月)に出版された。なお、訳者の楊嘉麗女士は IT技術を専攻され、最近10年間は IT企業の営業やプロジェクト・マネージャーの仕事を担当して居る人である。中国の IT に関する実用的人材不足にも非常に貢献され、人材の就職やビジネスの内容にも繋がることであり、その今後の努力や活動に期待する処が大きい人物である。

日中両国の職員が共に働く職場では、育った環境や慣習の違いによる職場環境のギャップが共同作業を妨げる問題が多い。著者は長年の在日経験を生かし、日本の職場環境に於ける礼儀作法を本書を通じて解説している。

礼儀作法に関する書籍は日本では無数に出版されている。冠婚葬祭のしきたり、香典授受のマナー、結婚式や誕生パーティ、喪主などのスピーチ、贈答品の包み方、進物に添える熨斗袋の仕組み、障子の開け閉めなど日常の立ち居振る舞い・・・等々、礼儀作法に関する書籍は枚挙に暇がない。

本書の「爽やかマナー」は、これらとは全く異なり職場での接客、(服装と身だしなみ、応接時の態度と動作、挨拶と返事)、企業倫理と情報保護、人権問題、社会生活のマナー、ストーカー行為の対処、など非常に具体的な問題を絵入りで説明している。言わば職場の従業員に対するマニュアルである。

不肖、85歳の私は今迄にこの種の本を読んだことはなかった。書かれて居る内容の大半は日本人として「余りにも常識的」で誰もが承知しているからである。しかし良く考えてみると、今時の多くの若い人達には必ずしも「常識」では無いようである。テレビのクイズ番組で「オニャンコとして売り出し中のごく若い娘の子達や人気が出始めた若い男のタレント?達が、マナー常識出題に時々見当はずれの珍回答をしている場面に出会すが、この現象は「年配者が常識と思っていることを知らない」証拠である。

まして先方が外国人の場合、異なった慣習や価値観の社会環境で育っているから、日本の礼儀作法の違いに戸惑い、メンタル・ギャップを痛感する。日本語の学習と共に「これらのマナーを習得することは極めて大切である」と私は外国で勤務した経験を通して強く感じている。

何処の国に於ても礼儀作法(マナー)は業種や置かれた地位などで異なり、歴史的にも変遷して来た。封建時代には武家には武家のマナーが、商家には商家のマナーがあった。テレビドラマの脚本の時代考証などは大変な苦労であろう。これらの問題は今此処では暫く置くとして、問題は現在の職場などのマナー実態である。

本書は日本の職場マナーを説明した本の中国語訳であり中国人読者を意識し対象にした冊子であるが、冒頭に述べたように内容は総て和文が併記され、日本人にも日本語の冊子と同様に完全に理解し得る。中国人と共に働くために中国語を学習している人には言葉の勉強にもなる利点がある。

中国科学技術大学出版社の発行、新華書店の発売ではあるが、日本のこの分野の関係者で中国語を学習中の人には是非一読をお勧めしたい一書である。

 

中国文を読みたい人は此処をクリックして中文訳を見て下さい。

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