uUEDA JIBUNSHI2

自伝と ESSAY

(その2)

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目 次

中井信隆先生と堀重蔵先生 (恩師その1)
松原喜代松先生と久保伊津男先生 (恩師その2)
稲葉伝三郎先生 (恩師その3)
殖田三郎先生と「美味求真」 (恩師その4)
田内森三郎先生 (恩師その5)
黒沼勝造さんと富山哲夫先生 (恩師その5)
日本が受けた最初の空襲 (列車の窓から見た米軍機)
御大典の想い出その他 (御大典、若い東宮の母校訪問など)
Absinthe と「大華」 (懐かしい学生時代の門前仲町の想い出)
TAN という名の喫茶店 (学生時代の門前仲町の想い出)
雲鷹丸と山田五十鈴 (明女優の雲鷹丸でのロケ)
王貽観さん (田内森三郎先生に可愛がられた中国留日学生)
楊U会長(日中民間漁業協定締結時の代表「楊U氏」の想い出)
費鴻年さん (中国における水産資源学の開拓者)
袁幹さん (激動の中国に活きた同窓生の物語)
学徒総出陣 (代表として私が読んだ壮行式の答辞を巡って)
廖承志会長との学術用語談義 (日中友好協会会長との出会い)
僕が乳癌?そんな馬鹿な (手術で摘出したが、ひょっとすると?)
私のふるさと (郷里は記憶の中にしかない人生)
パソコンの新機種移行  (PCが致命傷を受け予期せぬ事態に泣く)
蝉に祟られたプリンターの咄 (殺生はするものではない)
木部崎修君との交友記 (苦労人で熱血漢だった同級生)
飛行機の胴体着陸 (胴体着陸のテレビ実況放送、戦地では)
追憶の記 (私の人生を回顧し想うこと)
ミャンマーの混乱で蘇った往時の記憶 (2007年9月、軍部独裁に抗議した僧侶)

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松原喜代松先生と久保伊津男先生

松原喜代松先生

久保伊津男先生

 

真道 重明

2005年2月

ご意見や質問は

達が農林省水産講習所の本科養殖科に入学したのは1939年(昭和14年)の4月であった。本科の総数19名、それに選科にタイ国からの留学生が1名、総勢20名であった。そのうち7名は現在未だ健在である。60数年前の当時を想い起こして我々を育んで下さった恩師の方々の私の記憶に残る「想い出」を書き留めたいと思う。

先ず、最初の(恩師、その1)では松原喜代松・久保伊津男の両先生について書くことにした。両先生の簡歴は次のようである。

[松原喜代松] 1907年の兵庫県生まれ。1929年、農林省水産講習所増殖科卒。同所の動物学教室で17年間教鞭を執られ、その後、京都大学に水産学部が新設されるに及んで同大学に転勤、20年間に亘り京都大学農学部教授を務める。魚類学の黎明期にあって多大な功績を残した。1968年12月没。享年60歳。

[久保伊津男] 1909年の鹿児島県生れ。1934年、水産講習所本科養殖科を卒業。同年、水産講習所助手(動物学教室勤務)。1941年、水産講習所助教授。1952年、教授。研究論文は、総計125篇、その内100篇近くは甲殻類に関する論文であり、一連のクルマエビ類の研究は特に有名である。1968年4月没。亨年59歳。

なお、京都大学農学部には「松原文献」として、松原先生の収蔵資料が残されている。また、久保先生に関する年譜は、追憶集 (Kuboiana久保伊津男教授記念出版物、高木和徳編、久保伊津男教授記念事業会)に詳しい。

両先生の生年は2年違い、没年も同じで、両先生はその人生が殆ど「同じ時期、かつ、同じ期間」を、それぞれ「魚」と「蝦」と云う研究分野こそ異なるが「執念とも思える情熱で仕事一筋」の人生60年を一気に駆け抜けられたように思う。これを書いている私は傘寿をやや超えているから、両先生が亡くなられた歳からは私は20余年も馬齢を加えている。それを思うと偉大な業績を挙げられた両先生が59歳や60歳で逝去されたことが、私の心の中では何かしっくりせず、何処かが間違っているような気がして、どうも納得し兼ねる気持ちになる。

冒頭で述べたように、私達が入学したのは1939年(昭和14年)、その時の多くの年長の諸先生の中では、私達のクラスより「松原先生は10年、久保先生は5年の上級生だった」ことになり年齢から言えば少し年上の兄貴にも近い先輩だった。

動物学教室の主任教授は米国ウッズホール海洋生物研究所 (The Marine Biological Laboratory of Woods Holl) で独立研究者 (Independent investigators)として勉学された寺尾 新(あらた)先生であり、私達が習った教科書は今も私の本棚の奥に在る Robert W. Hegner の COLLEGE ZOOLOGY (The MacMillan Co. 1926.)と言う原書であった。

松原先生からは円口類から始まる魚類学の講義を受け、三省堂から出されていた「日本産漁類検索」(岡田弥一郎・松原喜代松著、1938年)の使い方を学んだ。この書籍は私達が入学する1年前に出版されたもので、日本で最初の日本産漁類の綜合的な検索書だった。私の書棚には使い古してボロボロになったこの本を修理したものが今も在る。

助手だった久保先生からは動物学の実習教官として生物測定学の初歩的な実習や動物学の将来像などの雑談を交えた講義を聞いた。久保先生の雑談は、後になって振り返ると実に示唆に富む内容だったことが多いと思って居る。

両先生の講義から私達が得た知識は量から見れば決して多いものでは無かった。それにも係わらず私達が両先生から受けたショックと言うか良い意味での精神的な打撃は強烈であった。良く「子供は親の背中を見て育つ」と言うが、意識するかしないかは別として、両先生の直向きな研究と言う仕事に対する情熱に圧倒されて居た。

1939年(昭和14年)に入学した私達養殖科のクラス19名のうち、3分の2に当たる12名は卒業後に水産試験場、水産研究所、ないし大学で研究に携わって居る。私はこの事実は両先生の熱情的な研究者としての「すざましい生き様に、憧れを感じ、感動したからだ」と思う。

時代はまさに日中戦争の最中であり、入学の2年後には太平洋戦争に突入した時であった。夜は警戒警報のサイレンが鳴り響けば灯火管制、防空壕に避難する状況下にあった。両先生は多の品々は捨て置いても、書きかけの論文原稿を真っ先にリュック・サックに詰め込み、防空壕に駆け込まれていたようだった。授業後の雑談でその話を両先生から良く聞いた憶えがある。

松原先生は戦争が終わって間もなく新設された京都大学の水産学部に移られ、没年迄の20年間を研究と子弟の育成に精力的に勤められた。兵役を終わって農林省水産試験場に入り、漁類資源を専攻して居たが、長崎に在った西海区水産研究所時代には舞鶴の京大の水産学部にしばしば伺って教えを受けた。水産学会が長崎で開催されることが当時は多かったが、弟子の一人として先生を囲む歓迎会の末席に侍った。

瀬能宏氏の「研究ノート 魚学史―日本の魚を研究した人たち」に依ると次のように述べて居られる。「…戦前戦後を通じて、最も優れた日本の魚類学者を一人選ぶとすれば、迷うことなく松原喜代松の名をあげることができるでしょう。松原の偉大さは、日本人の魚類学者としては、(1)初めて、系統類縁関係を念頭において魚類の分類学的研究を進めたこと、(2)すさまじいまでの執念、あるいは情熱といった言葉がぴったりくるほど、レベルの高い多数の業績を残したこと、(3)非常に多くの弟子を育て、同年代だけでなく、後の多くの魚類学者に大きな影響を与えたことに集約されます…」云々。

一方、久保伊津男先生は戦後も母校で研究を続けられた。その業績や詳しい年譜は上記のように高木和徳氏の編纂による追憶集[Kuboiana](久保伊津男教授記念事業会)と所蔵文献を一括収蔵した「久保文庫」がある。1936年(昭和11年)から1942年(昭和17年)にかけての「水産講習所研究報告(Journal of the Imperial Fisheries Institute)の掲載論文は、ほとんど松原先生と久保先生の二人で占められているとあるが、恰度私達が学生として在籍していた時期に当たる。

私は母校の本科養殖科を卒業してから、私一人だけは専攻科養殖科に進み、当時九州大学と兼務だった富山哲夫先生が九大の専属として転出され、富山哲夫の名札の部屋が空いて居たので、恰も教師のように、その部屋を頂いて居た。このような次第で他の級友より2年間長く両先生と接する機会に恵まれた。

松原先生からは「英語で論文を書けるよう勉強しなさい。難しく考えることは無い。中学校(旧制)の4年生程度の英語力があれば何とかなる。あとは英語の論文を沢山読むことだ…」と良く諭された。「俺は今でも中学の英語教科書を繰り返し読んでいる」と言われたことが、何故だか私の脳裏には強く今でも焼き付いている。

未だ若い久保先生からは「苦労人・慈愛の人」と言う印象を私は受けた。後で知ったことだが先生は苦学されたそうだ。後進の人の面倒を良く見られた。後年、中国科学院の海洋研究所の院長・中国甲殻動物学会長の劉瑞玉教授と私は生年が同じで、1957年にお会いして以来の老朋友であるが、私が久保先生の教え子だったことを告げると、「あー、Jiu(久) bao(保)先生、KUBO 先生、多くの論文を通して良く知っています」とのこと、何だか嬉しかった。

久保先生の話は解り易く、しかも巧みだった。60年も前の話である。

今から思うと万事が夢のように懐かしい。

 

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稲葉 伝三郎 先生

稲葉 伝三郎 先生

 

真道 重明

2005年2月

ご意見や質問は

 

稲葉伝三郎先生は私達が水産講習所の本科養殖科に入学した1939年(昭和14年)当時、養殖科長だった中井信隆先生と同郷の和歌山県のご出身だったと記憶している。亡くなられたのは2003年(平成15年)7月だったから、白寿に近い長寿を完うされた。養殖科の本科からクラスでは私一人だけが養殖科の専攻科に進むことになったが、その指導教官が稲葉伝三郎先生であった。

先生は私が海外の SEAFDEC に赴任した1973年(昭和48年)に母校の水産講習所(1949年に東京水産大学と改名されて、さらに2003年に現在の東京海洋大学と改名されている)を離れ日本大学の生物資源科学部に移られ同大学に8ヵ年在籍された。時は恰も大学紛争の時代で、同大学も例外ではなく、先生はその調停に大いに貢献されたと聞く。その功績により「学監」と云う称号をお受けになったと聞く。

私の母校では1969年(昭和44年)に富山哲夫学長のとき大学紛争が勃発、苦労されたと聞くが、富山先生と稲葉伝三郎先生とは講習所入学時の同級生である。時代が時代でこの当時の大学関係に進んだ人々は大学紛争に巻込まれて大変だった。

稲葉伝三郎先生は、従って水産講習所、引き続きその後身の東京水産大学の在籍は 1932年(昭和7年)から1973年(昭和48年)迄の41年間であり、日本大学は実質では5ヵ年間と言うことのようである。なお稲葉伝三郎先生が講習所に入学されたのは1926年(昭和元年)で上述のように富山哲夫先生と同期であった。

私が専攻したのは「ガザミの人工飼育」で今で言う栽培漁業技術を目指した、言わばその分野の黎明期の仕事とも言うべきものであった。熟卵を持つ天然の親ガニを水槽内で孵化させ、得られた幼生を容器内で飼育する訳であるが、幼生の食べる餌が何かを模索し、それを安定生産して与えなければならない。幼生を飼育する前に先ず幼生の餌の飼育から始めなければならない。ドイツ製のマイクロ・マニプラトール(顕微鏡下で種々の操作が可能な機器)という購入直後で未だ開封されて居ない新兵器を与えられ、始めてそれを使って餌になりそうだと見当を付けた珪藻類や鞭毛虫などの単一個体を吸い取り、滅菌海水の中に放ち純粋培養を試みた。培養が成功すればカニの幼生に餌として与えるつもりであった。

このような試みは当時世界中で行われていたが、何処でも旨く行かなかった。私の試みも同じだった。後にアルテミヤが利用される時まで待たねばならない。作戦を変更して何処でも入手できるイワガキを受精させ、その初期幼生をガザミのゾエア幼生に与えることで解決した。温度や光線の管理、投餌方法などいろいろあるが略す。この仲間のカニの室内飼育では英国で4例、米国で1例成功しており、従ってガザミは世界で6番目の成功例であった。千葉市の出州海岸の水産試験場の実験室を借りで居たので早速稲葉伝三郎先生先生に電報を打った。その経緯はこのホームページの電報 「メガロッパ」ニナッタに書いた。

時は恰も太平洋戦争の最中、学徒総出陣で1942年(昭和18年)12月に我々は兵役に服した。上記の論文を書き上げた翌日、東京を去って郷里の六師団の工兵連隊に向かった。戦争が終わって生きて帰れたら、学校に戻ってこの分野の仕事を続けるつもりで居た。学校もその予定で居たことを復員後になって知った。中国広東省で敗戦を迎え、1946年(昭和21年)4月久里浜に復員船で入港、コレラ発生のため1ヶ月上陸を許されず、5月に上陸許可が下り復員完了、召集解除。故郷に戻り6月一杯の1ヶ月を休息、7月に上京し、先ず母校に行き今後の身の振り方を模索した。

越中島に在る母校は進駐軍に接収され、隣に在った高等商船学校は疎開で無人だったのでその校舎の一部に仮住まいしていた。私もその一隅に寝泊まりしていたのだが、先輩の庄司東助さんや斉藤宗一さんと暫時同室で共同生活をしたことを憶えている。この時同級の漁撈科の神田献二君や堀重蔵・稲葉伝三郎・その他の諸先生とお会いした訳だが、記憶が混乱して高等商船学校の中の何処の建物の何処の部屋だったかは良く思い出せない。2〜3週間の滞在だった。

数日後、早朝日の出前にベッドの中で突然3発の銃声を聞いた。至近音である。半ば夢の中に居た私は「戦地の飛行場の勤務室」に居り「敵襲だ」と勘違いして飛び起きた。100 m 離れた米軍の PX (駐屯地売店、Post exchage)に泥棒が入り、衛兵が逃げる2〜3名の泥棒を射撃した音だったことが判った。20 m 位の至近距離からの自動小銃による射撃だったが、泥棒は無傷で逃げ延びたようだ。

或る日、稲葉伝三郎先生と農林省に行ったことは良く憶えている。農林省の庁舎は鎌倉橋に在ったが1946年には空襲で丸焼けとなり、日本橋の高島屋の2-3階にあったことになるらしい。だから多分そこに行ったのだろう。(余談だが、農林省はその後蚕糸会館を経て霞ヶ関の現在地に移転した)。迂闊なことにその時何の目的で農林省に行ったのかは思い出せない。恐らく同級の木部崎修君が既に復員して居り、彼に会う為だったような気がする。サッカリンの赤いイチゴのジュースをかけた「かき氷」を木部崎君と二人で先生からご馳走になったことを憶えている。それが何処だったかはハッキリしない。銀座の大通りにはGI(アメリカ兵)が闊歩していた。

敗戦後の「どさくさ社会」だったが、稲葉伝三郎先生は帰還した元教え子に対して本当に良く面倒を見て居られた。そうこうしている内に養殖科長の堀重蔵先生から「真道が帰ってきたら、1944年(昭和19年)に海軍に強制接収されて居た横浜の金沢実習場の代替地として千葉県の五井を考えていたので、当人が納得すれば其処に行かせることを科内で予定していたが、敗戦で当面はどうにもならない事態になっている」と云う話を聞かされた。

ずっと後になって聴いた話では五井実習場の話は立ち消えとなり、かなり後年の1954年(昭和29年)になって五井に替って木更津に実習場が開設されている。この実習場は周辺の工業化が進み、養殖実習場としての環境悪化により、1981年(昭和56年)に閉鎖された。なお五井は明治末期から昭和初期まで養殖試験地として母校の施設があった。ここを実習場に昇格させる予定だったらしい。

話が脱線したが、私としては兎にも角にも何処かに就職先を探さなくてはならない。それも出来ることなら研究関係の仕事が望ましい。その内に恩師の一人である田内森三郎先生から「一度月島に来ないか?」との話。田内先生は母校を離れ、中央区の築地魚市場の隅田川を挟んだ対面の月島に在る農林省中央水産試験場の場長をして居られた。恩師と言ったが、私達養殖科の本科生は物理の田内先生の授業は無く、薫陶は受けていなかった。しかし私は専攻科に進んでからは「養殖物理学」と云う課目の講義を受けたので恩師の一人である。受講者は私ただ一人。先生の部屋で週に一度、先生は一人、受講者は私一人の1対1の授業である。内容は今で言う資源学の「はしり、先駆的理論」であった。

「君、郷里は熊本と云うじゃないか、天草の富岡にある九州大学の臨海実験所に中央水試の出先を構えたので、行ってみないか?」との話。「故郷には近いし、喧騒と空腹の東京とは違って食うには困らないし、研究設備は整っているぞ」とのこと。二つ返事で「はい」と答えた。堀・稲葉の両先生に報告し「良かった。良かった」と喜んで頂いた。正式には中央水試の花岡研究室、島津分室の所属ということになった。

任地では私は稲葉伝三郎先生から指導を受けた「栽培漁業の先駆的な仕事」に関心が在りその方面の仕事をしたい気持ちが強かったが、時代の最優先課題である日本では研究経験のない新しい「資源の研究」に携わる羽目になった。その意味では稲葉先生から薫陶を受けた養殖プロパーの分野から逸れて「養殖から資源へ」と研究分野の軌道を修正する結果となった。

従って仕事の上ではその後直接の接触は無くなったが、後年学会や同窓関係の集まりでは良くお目に掛かった。その際には、「やー、元気か。数学は嫌いと云っていた君が「Σやσなどの俺にはサッパリ判らん数式を扱っているようだなー。頑張りたまえ」と励まされた。中学時代から幾何は大好きでクラスのトップに近く、代数は大嫌いでクラスの最低と云う変な脳味噌の私はそう言われた時も変わっていない。先生からそう言われて何だか「こそばゆい」気持ちと同時に頭を掻いて居た。専攻分野は異なっていたが、教え子のその後の仕事をずっと見守って下さって居た。

2003年に逝去されたとの報に接した。途端に専攻科時代良く訪れた先生の部屋に居合わせた時、先生に関西からの来客があった時の光景が頭に浮かんだ。その時先生はのその来客に「お越し」と居って挨拶された。「お越し」と云うのは「良くいらっしゃいました」の意味の関西方言の丁寧語である。大阪でも「お越しやす」などと良く使われ、小中学校を大阪で過ごした私には懐かしい言葉である。後でその事を言うと、大きな目玉に柔和な笑みを浮かべて「関西弁の人と話すとツイ故郷の言葉が出る」と言われた。訃報に接したとき、何故その時の些細なことが頭に浮かんだのか理由は判らない。

ご指導を受けたのは在学期間だけではあったが、心に残る恩師の一人である。

 

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TAN

TAN という名の喫茶店

− 懐かしい学生時代、深川の門前仲町の想い出 −

 

真道 重明

2005年4月

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深川不動尊や富岡八幡宮の前の大通りの裏町に TAN と云う名前の小さな喫茶店があった。当時の中学生は映画館も許可されたもの以外は入れなかったし、ましてや喫茶店などは父兄同伴でも入ることは出来ない時代であった。だから、進学して上京した我々は物珍しさもあって、皆が良く訪れた。いわゆる「純喫茶」である。1930年 (昭和5年) 頃から1941年 (昭和16年) 頃まではこの「純喫茶」が大流行りであった。

余計な話だが、「純喫茶」があるなら、「非純喫茶」、または「不純喫茶」がある筈だが、そんなものは見掛けたことがない。不思議な話だ。もっとも、ミルク・ホールや甘辛ホールという大衆食堂風の飲み物や団子などの軽食を提供する店はあった。現在ではスッカリ見かけない。

戦後は歌声喫茶、民謡喫茶、ジャズ喫茶、等々いろいろな喫茶店が出来たが、純喫茶という言葉はめっきり聞かなくなった。深夜喫茶、同伴喫茶、ノーパン喫茶などと言う店も戦後のものだが、これはどうも「不純喫茶」の匂いがする。戦前には勿論こんなものは無かった。余計な話はこれ位にして本題に戻る。

TAN と言う喫茶店には名前は忘れたが、二人の姉妹?の若い娘の子が居て、お客のリクェストに応じてSP版の音楽のレコードを掛けてくれた。その顔を見るのがお目当ての客も居たのは確かだが、多くは「喫茶店」というムードを楽しんでいたように思う。タバコが吸えたり、酒が飲めたり出来る年齢になったのだし、やがて戦争も最後の土壇場に差し掛かる直前の「束の間」の青春時代だったから…。

ツイ先日、同窓会の時も、生き残り26名中、全国から集まったのは11名、その誰もがこの店を憶えていて、誰が言い出すともなくこの店の思に話が弾んだ。皆大正生まれ、平均年齢が84−85歳位だろうか。共有した「束の間」の青春は誰の記憶にも残っていた。

私が何時もリクェストして今でもハワイ語の歌詞 (発音は出鱈目、意味も分からない) を憶えているのは「リリウエ」というハワイアンの古典フラである。リリウエ (Lili'u E) はハワイの最後の王座についた「リリウオカラニ女王」に対する賛歌である。何故だか私はこれが好きだった。古典フラ (カヒコ) のカイマナヒラなどのハワイアンだけでなく、アマポーラなど1930年代に流行した軽音楽の代表的ナンバーの多くを此処で憶えた。

父がバイオリンを弾いていたせいか、中学生の時、クラシック・ギターを弄んでいた私は、一応五線譜は読めた。音楽にはかなり興味は持っていたので下手の横好きではあったが、クラシック以外のタンゴ・ルンバ・ハワイアンなどの軽音楽の知識はこの TAN で得たものが多い。今この歳になってもこれらの昔流行った曲を耳にすると、途端に TAN と言う店を思い出す。

ただ、困ることが一つあった。上級生が入ってくると起立して挙手の敬礼をしなければならなかった。その代わり上級生はその時店内に居合わせた下級生の会計を総て払ってくれる。これはバーや喫茶店の場合だけだったが、一種の不文律で、これは金のない私達には有り難いことであった。しかし、此方が上級生になると状況は逆転する。一年生が多数入って居るときの二年生や三年生は堪ったものではない。ちなみに、軍隊の上官同様、雲の上の存在だった四年生は卒論や遠洋航海などで忙しかったり不在だったりして喫茶店などでは見掛けなかった。

三年生などは、従って下級生が居ないのを見定めて不在を確認してから店に入ってきたようだ。これも2年間か3年間のことで、太平洋戦争に日本が突入してからは、敵性音楽は禁止、喫茶店などは珈琲も無く砂糖も配給制で無くなり経営不振で消滅してしまった。

 

我々の「束の間の青春時代」は脳裏に残る記憶だけになってしまった。

 

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KIOKU

私の生涯での最初の記憶

 

2004/07/01

真道 重明

 

私の生涯における一番最初の記憶について書く。多くの人がこのことについて語っているが、「恐怖を始めて感じた時のこと」とか、「家中が大喜びした時のこと」…などと幼児期に経験した強く印象に残っている場合が多いように思う。私の最初の記憶は「或る平凡な風景」で、特にその風景から強い印象を受けるような特別の事情があった訳ではない。三島由紀夫は自分が生まれた瞬間を憶えていたっていうのは有名な話だが、本当だろうか?私にとっては三島由紀夫の話は驚きである。一般には早い人でも「2歳になったばかりの頃」とか「漸く3歳の中頃になった時」に…と言っている。

私の「或る平凡な風景」とは次のようなものである。「道路を隔てた向こう側に左程広くはない真四角な畑があって、大根だろうか青々とした作物が栽培されている。畑の向かって左側の端に「撥ね釣瓶」の井戸がある」ただそれだけである。

小学校低学年の時、母にその話をした。何故そんな話をしたのかその前後の経緯はすっかり忘れて憶えてはいない。母は暫く考えて居たが「アー、それはあの家の座敷の窓から見える景色に違いない」と言った。その家と言うのは私の一家が京都から大阪に転居して初めて住んだ借家のことである。山坂神社という神社の南側にあった。

調べてみると、山坂神社一帯について次の記事が見付かった。「JR阪和線の南田辺駅から東に少し入ると、ここにも静かな住宅地がある。それが山坂だ。ここらへん一帯は古くからの集落らしく、ちょっと街角を歩いてみても、落ちついたたたずまいがあちこちにうかがえ、いわば「街の年季」といったものを感じさせる。

山坂の住宅地のほぼ中央に鎮座するのが、山坂神社。古墳の上に建てられているのではないか、と推測されている。なるほど、周囲よりも小高い台地の上にあり、さもありなんと思う。この神社は決して小さなものではなく、境内を歩くと近所の商店街の声さえ聞こえないような静寂さに包まれている。木陰も心地よさそうな場所である。また「田辺不動」としても有名な法楽寺もある。この山坂の静かな町並みを数百メートル北の方へ行けば、桃ヶ池に出る」。

話は逸れるが、この記事は Takasi TANEI 氏の「大阪市内さんぽガイド」のホームページに1990年代の後半に書かれたものである。子供の頃毎日のように遊んだ山坂神社、祖母に連れられて良く行った法楽寺、夏浴衣と団扇を持って近所の幼稚園や小学生の友人と涼みに行った桃ヶ池など、この記事を見て涙が出るほど懐かしかった。…と云うのも中学から進学のため東京に移った私は、それ以来、法楽寺や桃ヶ池は70年近く訪れていないからである。

70年近く前のこの当り一帯は大阪市の郊外宅地が南に次々拡張されて居た時代の開始期であり、「田辺大根」(たなべライコンと訛っていた)で有名な農家は次々宅地に変えられつつあったが、未だ多くの畑が散在して居た。

それは兎も角、この家には僅か一ヵ年住んだだけで、母とその話をしたときの家は同じ地区内ではあったが神社の東1 km 位の処にあった。父は教職にあったが大の転居好きだったのである。夜逃げだった訳ではない(笑)。計算すると私の生後一年半ぐらいの時である。

その風景が特に家庭内の話題になったことも無いのにと、母は「良くそぎゃんこつば(そんなことを)憶えとるネー、キット頭の良かとばい(頭が良いのだ)」とその後何回も口にして驚いていた。子供の私は完全な大阪弁だったが、両親や祖母は熊本出身で家庭内では熊本弁だった。私は大阪弁で答えていた。

この風景の記憶は本物だったのだろうか?人の記憶は「本人は記憶してないのに、何回も聞かされているうちに、本当に自分が記憶しているように思い込む」ことは良くある。脳神経学の本などには、記憶に関係のある海馬体の発育は2歳を過ぎた頃完成するとある。この辺になると三島由紀夫の話の信憑性も、私のこの風景の記憶も私には分からない。額に入れた絵画のように「畑と撥ね釣瓶」は80歳を過ぎた今でも「私の脳裏」にはあるのだが…。

 

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日本が受けた最初の空襲

日本が受けた最初の空襲

 

最初の空襲の記憶と日本の平和論

 

2005/03/11

真道 重明

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10万人が亡くなった1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲から60年が過ぎ、悲劇の日は「還暦」を迎たので、テレビ、ラジオ、新聞紙ではその追悼記事でみたされていた。私は兵隊として戦地に居たが、咄嗟に私が体験した「最初の東京空襲」、…と云うよりも「日本が受けた最初の(史上初の…と言った方が良い)空襲」のことを思い出した。1942年(昭和17年)だから、東京大空襲の3年前のことである。

私が母校の養殖科の本科を戦時特例法で半年繰り上げ卒業をした1942年(昭和17年)の7月の丁度3ヶ月前のことである。クラス一同は本科最後の臨海実習を終り千葉県外房の天津小湊(現在の鴨川市)に在った実験所から東京に戻る途中で、一同は房総線の車中に居た。1942年(昭和17年) 4月18日の正午過ぎのこと。

「おい、米軍機のマークを胴体に描いた数機の飛行機が飛んでいるぞー」と誰かが叫んだ、皆は「まさか?」と思いながら列車の窓から首を出して空を見上げた。確かに円の中に星を描いたマークが目視できた。目視出来たと言うことはかなり低空だったことになる。「幾ら仮想敵機でも本物と同じマークとは…」と思った。皆は仮想敵機でありまさか本物とは疑っても見なかった。

東京駅に着いたら本当の米軍機 B25 の空襲があったと云う。皆驚いて呆気に取られた。「それなら、先程車中で見たのは本物のアメリカ軍の飛行機だったのだ」と悟った。真珠湾攻撃から約4ヵ月経った頃である。後で判ったことだが、この時来襲したのは North American社の1700馬力のエンジンを2基装備した双発艦載爆撃機、 B25の16機、ドゥリットル(James. H. Doolittle)中佐の指揮する編隊で、母艦「ホ−ネット」から発進したものだったと言う。

16機の内、東京を襲ったのは6機、他は横浜、名古屋、大阪などへ向かったと記録にある。何処で編隊を散開してそれぞれの地域に向かったか知らないが、私達が見たのは東京へ向かった6機だったに違いない。警視庁の記録によると、東京では死者39人、重軽傷者234人、全国では死者約50人、重軽傷者400人の被害だったそうである。16機は日本上空では無傷まま、中国、ソ連へ向かい、搭乗員80人のうち、10人余を失ったが、その他は中国、ソ連から無事帰国したと言う。

私はこの体験後、1943年(昭和18年)の学徒総出陣で兵役に服すため東京を離れたが、その間にも数回空襲があった。越中島の母校の屋上から東京を空爆する米軍機に対抗して打ち上げた高射砲の弾幕を眺めた記憶がある。10万人が亡くなった1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲はその2年後である。爆撃機も B29 と4発の大型機となっていたから高射砲など届かない超高空で侵入してきただろうから、手古摺ったに違いない。

冒頭で述べたように、毎年3月10日の東京大空襲の日になると平和を願い戦争の悲惨さを語り伝える記事がテレビ、ラジオ、新聞紙に掲げられる。今年は60年と言うので特に多かったように思う。平和を願い戦争の悲惨さを語り伝えることは我々の義務である。

一般市民を巻き込んだ無差別爆撃の非を説くのは正しく、また当然のことである。しかし、多少ではあるが航空部隊の兵士として戦地に居り、戦後は東南アジアや中国と言った海外での生活や勤務の経験を持つ私は、何時も考えるのだが、彼等は日本のマスコミの記事を見て「どう思うだろうか?」と言うことである。

世界の戦史上、最初の無差別爆撃を行ったのは日本軍であり、重慶爆撃は「戦略爆撃」と言う名称を公式に掲げて1938年(昭和13年)から1943年(昭和18年)に亘って数次実施された。これは世界最初の意図的かつ組織的な無差別都市爆撃作戦であり、一般市民の住む市街は平坦な瓦礫の荒野となったと伝えられている。少し知識のある世界の人々はこの事を知らない筈は無い。戦後に私は彼等からこのことを聞いて「先鞭を付けた」のは日本軍であることを知った。「お前、何も知らないのか?」と言われているような気がした。

実施したのは時の日本軍であり一般市民ではない。東京大空襲も実施したのは米軍であり米国の一般市民ではない。だが、会話では「日本がやった、アメリカがやった」と云う言い方になるのが普通だ。東京大空襲の悲惨さ、非人道的無差別爆撃の非を語り伝えるのは貴重で重要なことである。同時に中国では重慶大空襲の悲惨さ、非人道的行為を彼等中国の人々が語り伝えていることも同じく貴重で重要なことである。

今回、60周年に当たり「東京大空襲の悲惨さを語り継ぎ、平和の尊さを日本国内だけに留まらず世界に訴えることが大切だ」と言う意見が指摘されていた。大賛成である。問題は日本のことだけを訴えるのでは無く、世界各国に対し「我々日本の民衆も苦しんだがが、貴方たちの国の民衆も塗炭の苦しみだったことを良く知って居ます」と言う気持ちを忘れないことだろう。

不用意にただに日本の受けた悲惨さだけを伝え、平和を提唱したのでは「日本が先にやったでは無いか。ハムラビ法典や旧約聖書の「出エジプト記」ではないが『眼には眼を、歯には歯を…』と言う言葉がある。自業自得では?」と言う短絡的な返事が返って来ることを私は何度も体験した。それを私は恐れる。

視点はややずれるが、日本は何故何時までも「謝罪」を繰り返し要求されるのか?「もういい加減にしてくれ。公式には謝罪して平和条約を結んだではないか?」と言う人がある。政府間の公式文書の問題では無いのだ。民衆相互間の心の信頼感の問題である。

かつて枢軸国と言われたドイツやイタリヤは日本のように旧敵国から執拗に謝罪を今では要求されてはいない。何故だろう?と私は私流に考えて見た。結論は「島国であり、未だに村社会的観念の一部を引き摺っている日本」だからではないのだろうか?

ドイツやイタリヤは陸続きの国境を持ち、民衆もかつて敵だった周辺諸国と姻戚関係を持つ者も多い。歴史的に何度も襲ったり襲われたりした経験がある。したがってお互いを良く知っており、民衆レベルでの心の話し合いが行われてきた。日本の場合それが殆ど無かった。ごく少数の例外を除いて。

平和の尊さを主張し、非戦論を唱えるのを国内だけに限らず世界に伝えるべきである。勿論それを実行している人々はある。しかし、上述の日本の特異な状況から見て、その努力は未だ未だ足りないのではないか?

 

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御大典などの想い出

御大典の想い出その他

  雲 上 人 に 纏 わ る 私 の 記 憶  

2005/03/11

真道 重明

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内 容

誕生日が旗日   御大典   鳴った鳴ったサイレン

東宮(明仁親王)の母校訪問   浦上の三菱球場

東宮職からの手紙 駐タイ国日本大使館での会話

 

誕生日が旗日

 

の誕生日は旗日(はたび)である。「旗日」と言っても今時の若い人々には分からないだろうが、第2次大戦前の日本では、紀元節(建国記念日)や天長節(天皇誕生日)、神嘗祭(勤労感謝の日)などの国民祝祭日には各家々では日の丸の旗を家の前に飾った。だからこれらを「旗日」と呼んでいた。

私が生まれた時の両親の住居は京都の下鴨の出雲路橋(いずもじばし)の近くだったらしい。長男だったので当時の風習で母は郷里の熊本の実家に戻って私を出産した。1922年(大正11年)の秋のことである。この日は旗日であった。大正天皇の「天長節祝日」に当たっていた。大正天皇は1879年(明治12年)の8月31日の生れで、8月31日が天長節であったが、お祝いは即位後の1912年(大正元年)と1913年(大正2年)の2ヵ年に実施されただけで、1914年(大正3年)以降は酷暑の8月を避けて10月を「天長節祝日」と定めて旗日とした。「天長節」は8月、しかし、お祝いは「天長節祝日」の10月と定められた訳である。

私が生まれた日は「天長節」ではなく、「天長節祝日」に当たっていたことになる。重徳と言う名の祖父は朝方、国旗と旗棹を玄関先に持ち出して、立てようとして居た丁度その時、郷里の母の実家から「長男出生」を知らせる電報が届き、「この目出度い日に、初の男子の内孫が…」と涙を流した。遠く離れた熊本、しかも生まれたての私は「涙を流した」という光景を見た訳ではないから、真偽の程は分からない。

祖父は熊本の細川藩の武士だったせいもあり、万事が厳格で「鬼」と呼ばれていた由、涙など見せなかったらしく、「鬼の目にも涙」と周りで言われたそうだ。母からだけでなく何人かの人から聞いたから本当のことだったのだろう。1847年(安政4年)に生まれた祖父はその後間も無く亡くなった。物心が着く前であり、写真で面影を知るだけで、私には生前の祖父の記憶は全く無い。

出雲路橋の擬宝珠を叩くのを面白がった1歳か1歳半の私を抱いて、祖父は毎日散歩に行き私を良く可愛がって呉れたそうだ。とにかく私は天長節の祝賀の旗日に生まれたのは間違いない。それが目出度いことなのかどうか私には分からない。「あー、そうだったのか」と思うだけだのだが…。

 

 御 大 典  

 

私が物心が着いてから始めての記憶に残るイベントは昭和の御大典である。昭和3年(1928年)11月10日に昭和天皇の京都御所における即位式が行われ、これを皮切りに、同月14日から15日にかけて「大嘗祭」(ダイジョウサイ、おおなめまつり、天皇が即位後、初めて行う新嘗(ニイナメ)祭。すなわち、その年の新穀を献じて天皇自ら天照大神および天神地祇を祀る一代一度の大祭、広辞苑による)が行われた。

記録によると、16日からは御大典を祝う京都の一般市民による提灯行列や旗行列が市内に繰り出した。しかし、雨が多かったことと、天皇在京中の規制が強かったことから、思う存分踊れなかったというので、天皇が東京に戻る26日から奉祝踊を再度行うことを警察に申請し、26日から5日間が認められ、この間は大幅に規制を緩めることとなったと言う。

これらは京都だけでなく全国で行われた。小学校に上がる1年前で6歳の時であった。一家はその時は大阪市に住んでいたが、私は父に連れられて浪速区に在る賑やかな「新世界」、その中心にある「通天閣」の辺りに行った。祝賀の行列や奉祝踊を見るためである。御大典が何を意味するものか理解しては居なかったが、とにかく「目出度いことだ」と言うので夕刻から夜にかけて辺りは大賑わいであった。通天閣の下に「あぶらや」と言う屋号の「飴屋」があって、飴を買ってもらって私はご機嫌であった。

この時私は「花電車」と言うものを生まれて始めて見た。路面電車が少なくなった現今では花電車を見る機会は殆ど無いが、リオのカーニバルでは無いがその壮麗さは子供心にも驚きであった。始めての体験と言うこともあっただろうが、その後になって良く見掛けた普通の路面電車(市電と言っていた)の車体の外側に装飾の花と飾り電灯を付けたケチな花電車と違って、大改造して車体の上半分を取り払い山車の飾りつけ風に趣向を凝らした色とりどりの電灯や人形や本物の美女、アーチ型の巨大な「南京玉簾」や「鳥デングリ」のような形のものが重なった装飾などが載っていた。

そんな電車が何台も列を作って徐行しながら続くのである。線路の両側の見物人は、手を叩いて「わー、わー」と歓声を上げている。この時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。御大典という言葉を耳にすることは少なくなったが、私は聞く度にこの花電車を思い出す。

 

鳴った鳴ったサイレン

 

1933年(昭和8年)12月23日の早朝、私は近所にある山坂神社と言う神社の横の舗装道路上をローラー・スケートを夢中になって滑っていた。万年カレンダーで調べるとこの日は土曜日である。私が11歳、小学5年生の時である。丁度小中学生の間にローラー・スケートが全国的に流行り出した頃で、同級生は皆が夢中で競うように練習していた。

滑っている内に突如大きなサイレンの音が二度響き渡った。街が途端に騒がしくなって来たように感じた。スケートを止めて私は家に戻ったのを憶えている。サイレンの意味を知っていたからである。皇后の出産が近く、生まれたらサイレンを鳴らす手筈になって、皆が待ち焦がれていた。サイレンが一声で終われば内親王(女児)、二声なら親王(男児)と取り決めてあった。親王の場合、最初であるから、この場合は皇太子の生誕と言うことになる。二度響き渡ったから、皇太子の誕生である。

ローラー・スケートを滑っていた最中にサイレンの音を耳にした記憶には間違はいない。土曜日だから半ドンだったが、学校には午前中は登校しなければならない。今でも分からないのは何故そんな時刻にローラー・スケートをしていたのか?熱心さの余り登校の前の寸暇を利用して滑っていたのか?、登校をサボってスケートをして居たのか?、それとも何らかの理由でその日は学校が休みだったのか?の何れかであろう。

他人にはどうでも良いことだろうが、「登校をサボってスケートをして居た」ことは考えられない。と言うのは小学校で貰った学年末の賞状を見ると、毎年「品行方正、学業優等につき…」とか「精勤賞を授与…」と言う賞状を受けている。小学校の6年間は真面目(糞の付く「糞真面目」または別名「馬鹿正直」とも…)だったし、学校をサボるなどと言う「だいそれた」ことは小心者の私には出来なかったと考えられるからだ。恐らく「登校の前の寸暇を利用して滑っていた」可能性が高い。

その内に学校で下の歌を習った。

♪ 日の出だ日の出に、鳴った鳴ったボーボー、サイレン・サイレン。 ♪

♪ ランランチンゴン、夜明けの鐘まで。天皇陛下お喜び。 ♪

♪ みんなみんなかしわ手。うれしいな母さん。 ♪

♪ 皇太子様、お生まれになった。 ♪

歌詞はうろ覚えだから多少違っているかもしれない。この歌は歌詞が単純明確で、曲も易しかったから大人も子供も愛唱していた。なお、この他の歌に…日嗣の御子は『生れ座しぬ』と言う文句の入った歌もあったのを憶えている。『 』の中は「アレマシヌ」と読む。お生れになったと言う意味の古語である。この時に小学校の同級生に「お生れになったと言うのに、何故『あれま、死ぬ』と言うのですか?と質問した生徒があって先生が説明に躍起になっていたことを思い出す。

皇太子[継宮(つぐのみや)明仁(あきひと)、 今上天皇]の誕生とローラー・スケートとは私の記憶では切っても切り離せない。

 

 

東宮(明仁親王)の母校訪問

 

1940年(昭和15年)、私が水産講習所に入学して2年生の頃だったと記憶している。時の東宮(明仁親王)が「お忍び」で母校の水産講習所を見学に来られた。東宮(現在の今上天皇)は短いズボンにランドセル姿、恐らく学習院初等科の7歳と言うことになる。母校の記録を調べたが「お忍び」と云う非公式のことなので記事は見当たらない。

学校の正面玄関を入ると、ホールの中央に飾ってあった、多分「セイウチ」(海象)だったと思うのだが、とにかく大きな海獣の剥製標本があった。東宮にとってはその標本の姿が珍しかったのであろう。帽子を取って右手に持った侭で標本の前から動こうとしない。お付きの人に再三再四促されて、ヤット二階の貴賓室に登る階段を元気にかけ登りながら下の標本を未だ何回か振り向いて見つめて居られた。

60数年の昔のことだから、記憶が明瞭ではないが、この光景を憶えているからには、私達学生も整列して玄関前で出迎えていたに違いない。東宮御所から母校へ到着する迄には、「お車今、呉服橋を通過」、「お車今、茅場町を通過」など刻々と連絡が入っていたのを憶えている。「お忍び」とは言え警備は厳重だったようだ。

大変だったのは所長を始め諸先生の方々だった。勿論、後で聴いた話であるが、服はタキシードにするのか?、東宮への説明の尊敬語の言葉遣いは?、数日掛かって練習を重ねたようだ。当日は皆興奮してコチコチだったと聞く。戦前はラジオのアナウンサーも皇室関係の話は専門の担当アナウンサーが居た。不用意に不敬な言葉(普通の言葉は不敬な場合がある。例えば「見た」は「ご覧遊ばした」である。さすが「見そなわせ給うた」までの尊敬語ではなかったのだろうが、ウッカリ敬語でない普通語を喋ろうものなら大変なことであると云う意識が在ったから無理もない。

緊張してガタガタ振るえた先生も居られたようだ。尾鰭をつけて後暫くはその話で持ちきりだった。ご説明の栄に浴した先生に取っては、名誉なことだったのだろうが、苦労も大変だったに違いない。

余 談

この問題で何時も思い出すのはタイ国である。タイ語では王室の一族に対する会話では尊敬語を使わねばならず、それが極めて厳格である。タイ語の場合、単に王室だけでは無く、僧侶に対する言葉、逆に僧侶が一般人に対して喋る言葉などは普通語ではない。私の乏しい知識でも、例えば僧侶がお説教をするとき、第一人称の「私」は普通語では「ポ」であるが、僧侶の場合は「アッタマー」となる。日本語で天皇が「私は…」と云う所を「朕は…」と云うのと同じである。

だから、タイ人は国王と面談する際は大変であり、数日前から猛練習をするらしい。勿論、高等教育を受けている人の場合である。国王が地方巡視で農民などと会話する場合は普通語で問題はない。外国人がタイ語で国王と話す場合も同じ。大学出のタイ人の場合など尊敬語を間違えると「大恥をかく」ことになり、皆から侮蔑されると聞く。また、王族の場合呼び名は非常に長い。現チャクリ王朝のプミポン王やシリントーン王女などの名前がラジオやテレビに出た場合、アナウンサーは「ソムデーチャ・プラ…」から始まる著しく長い呼び方をしている。タイ国の友人に聞いたら「ソムデーチャ・プラ」が付くのは王室の家族(国王・皇后・親王・内親王)の場合らしい。

水産講習所の一年先輩の製造科に「コーソンさん」と云う人がいた。在留邦人は「コーソン殿下」または「プリンス・コーソン」と呼んでいた。タイ国「農業・組合省」の「水産局」に勤務、庶民的でとても人柄の良い、また日本の「とんかつ」と「うな丼」が好きで、深川の門前仲町をこよなく愛した人だった。私が SEAFDEC 在任中、バンコク市内の私の家にも偶には遊びに見えて親しくして居た。既に物故されたが、タイ語では「モムチャオ・コーソン」であった。調べてみるとモムチャオは母親が王室の場合の孫で、その母親が王室以外の場合に付ける称号であるらしい。王位継承権は16位だったと聞いて居た。

中国語の場合もそうであるが、タイ語の場合、伯父・叔父・伯母・叔母・甥・姪などの姻戚関係の呼び方は複雑である。王室の場合はさらに称号が付くので大変である。

 

長崎市浦上の三菱球場

 

949年(昭和24年)5月27日、昭和天皇は九州巡幸の折、雲仙から長崎市内へみえた。魚市場、西坂公園、長崎医大等を視察。浦上三菱球場での奉迎場に臨席。三菱造船所の占勝閣に宿泊。28日長崎駅から宮廷列車でご帰京。(藤城かおる氏の「長崎年表」による)。

昭和天皇を私が肉眼で見たのは上記の東宮時代の学習院初等科の時以来2度目である。場所は浦上三菱球場の奉迎場であった。私が長崎の研究所に勤務したのは1948年であるから、その翌年と言うことになる。戦時中疎開して五島に移り、居心地が良かったのか五島の福江高校に勤務していた叔父が奉迎に行くと云って福江からわざわざ船で長崎に来たので、一緒に奉迎場に向かった。

場所は市電の終点、「大橋」の近くに在った野球場である。市電はその後間も無く浦上河を渡って今の長崎大学の在る文教町や六地蔵の方向に延長されたが、当時は大橋が終点駅であった。野球場の隣りに競輪場(今は在るか無いか知らない)が出来たのはその後のことで、その時は未だ無かった。

敗戦後始めての天皇の巡幸だと言うので、多くの県内の人々が戦後人間宣言をされた昭和天皇を一目見ようと奉迎場は人と旗の波に溢れて居た。万歳の歓呼に応じてお立ち台の上で天皇は背広姿で、中折れ帽を持った右手を何度も、高く差し上げて居られた。丁度、体操でもして居るような感じの身のこなしが印象的であった。

皇室の在り方や天皇制の論議は別として、生没年が確認されている歴代天皇の中では昭和天皇はその在位期間が史上最長である。敗戦と言う激動期を挟んでの在位中の苦労は大変なものであったに相違ない。皇居内に生物学御研究所があり、その成果は「裕仁、Hirohito」の名前で7冊が、共著として20冊が、生物学御研究所編図書として刊行されており、論文数は90件を超えると云う。動物学を学んだ私達にとっては、その意味で親近感を強く持たざるを得ない。

 

 

東宮職からの手紙

 

1957年末、4ヵ月に亘る中国での視察や講義を終えて私は帰国したが、数ヵ月後、すなわち、その翌年の晩春頃だったと思うが突然東宮職から手紙が来た。何故私などに一体何の用だろうと驚いた。此処で東宮と云うのは、幼名が継宮(つぐのみや)、明仁(あきひと) 親王(皇太子)、すなわち、1989年(昭和64年)に即位された今上天皇の東宮時代のことを指す。

差出人は東宮職とある。披いて見ると次のような文面であった。「中国を訪問された由、水産の学術関係の御用だったと聞いております。ついては東宮におかれてはハゼ科の魚類にご興味がお有りで、何か関連した知見や文献を入手されて居られるなら、お知らせくださると幸甚です」と云った内容であった。

昭和天皇は生物学に関心が強く、ヒドロ虫から始まって後腮類など多くの業績が在ることは知っていたし、東宮も魚類、とりわけハゼ科魚類に興味を抱いて居られたことは聞き及んでいた。東宮職と言うのは恐らく東宮のご学友の一人だろうと察しが着いた。

早速、中国から持ち帰った魚類図説の関連ヵ所のコピーや私が得た知見を書き送った記憶がある。中国語ではハゼ科(Gobiidae)は「鰕虎魚科」と書き、4亜科に分けており、多数の属や種が記載されていること。また、トビハゼ科(Periophthalmidae)は「弾塗魚科」と書き広大な干潟があるので生産も多いなどのことを書いたように記憶する。その後2〜3回手紙の往復があった。

当時の中国は建国後10年を未だ経て居らず、現在のような多数の図鑑類も検索表も作成されていなかった。また私も分類学の専攻ではないので、交信はその侭になった。その後、私が顧問教授をしている上海水産大学の友人の伍漢霖教授とは親交が深く、伍教授は数次来日して天皇と魚類学上の話を良くされている。

秋篠宮(あきしののみや)文仁(ふみひと) 親王は父君の今上天皇の影響かどうかは知らないが、ハゼ科魚類に興味を持たれているようだ。タイ国がお好きで良く「お忍び」で訪問されたり、特に淡水産の世界で一番大型と言われるハゼ、タイ語では「プラ・ブー・ナム・チュ」(Oxyeleotris marmorata)を取り寄せられられると聞く。秋篠宮とは SEAFDEC号 の進水式などでお会いしたことがある。

 

 

駐タイ国日本大使館での会話

 

今上天皇と美智子皇后には二度お会いした経験がある。バンコクの日本大使館で両陛下が欧州や中東諸国訪問の途次にタイに立ち寄られた時の大広間で邦人歓迎会が催された席上でのことである。

言葉を交わすなどと言うことは、日本国内では叙勲や園遊会など特に選ばれた人々にしか機会はないが、外地に居ると在留邦人の代表には上記のような場合にはお会いすることが時々ある。私にとっては上に述べた学習院初等科時代に母校を「お忍び」で訪問された時以来のことであった。

先ず始めに言葉は通常の会話語で過度の尊敬語は必要ない旨のお達しがあったので気は楽であった。私は偶々最前列に居たのでタイ国の魚について会話を交わす機会を得た。…と言っても数十秒か一分位の時間であった。日本の皇室とタイの王室とは親交が深く、お泊はタイ王室宮殿の中だったように記憶するが定かではない。

 

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Absinthe と「大華」

Absinthe と「大華」

懐かしい深川の門前仲町 (学生時代の想い出)

2005/03/23

真道 重明

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朝、NHK ラジオの深夜便でアブサン酒の話を聞いた。途端に60数年前の記憶が蘇ってきた。懐かしさの余り、記憶が失せない内にとキーボードに向かった。こんな話は同時代の同窓生には多少の興味は在っても、その他の人には「親しくない他家の写真アルバム」と同じで懐かしくも面白くも無いだろう。しかし、何故だか私は書き留めたい衝動に駆られた。

その頃、私の母校は越中島に在った。永代橋で大川を渡った最初の十字路の交差点が門前仲町、大通りを右に折れて佃島方向に向かって黒船橋を渡った次の市電の駅が越中島であった。角には東京高等商船学校が在った。交差点を右折しないで100 m も直進した左側に富岡八幡宮や深川不動尊があり、それらの対面の裏通りが仲町の花街になっていた。木場の材木商の旦那衆を相手に江戸時代から賑わった辰巳芸者(置屋から羽織を着てお座敷の待ち合い茶屋に出向くので羽織芸者とも呼ばれていた、それだけ格式が高かった)が三味線を持った箱屋を従えて行き来していた。

私が入学したのは1939年(昭和14年)の春で、日本が真珠湾奇襲で太平洋戦争に突入する1941年末の、時間的に正確に言えば、満3年近く前の頃である。日中戦争の最中で社会は軍事色に満ちていたとは云え、2年生の終り頃まではこの辺一帯は未だ賑わっていた。土日の休みには先輩の指導?で飲み屋やパブで酒の名前を憶えた。もちろん出会い茶屋などは前は通り過ぎても芸者遊びなど学生の身分では出来よう筈もなく無縁ではあったが…。

辰巳松竹と言う映画館の前に「大華」(たいか)と言う名前の「こじんまり」としたパブがあった。中年の夫婦二人だけの店で、バーテンダーは旦那であった。学生寮の同室の先輩が新入生歓迎の飲み会を催してくれ、生まれて始めて思いっ切り酒を飲んだ。その時に此処「大華」に連れて行かれた。数軒飲み屋を「はしご」した末であった。酔って足元が覚束なくなったのは生まれて始めてだった。酒に関する私の、また母校の学生としての、大袈裟に言えば一種の「通過儀礼」であった。

前置きはさて置き、話を表題の Absinthe (アブサン)に戻す。小学館の国語大辞典(1988年、新装版)に依ると「アブサン(フランス absinthe)〈アブサント〉洋酒の一種。色は緑色。苦艾(にがよもぎ)の花、または葉からしぼりとった液に、茴香(ういきょう)、アニス、アルコールを混ぜて蒸留して作ったアルコールを70%含む強いリキュール酒。現在は苦艾を含まないもの(45度)が出まわっている」とある。

NHK ラジオの深夜便では以下のような話であった。

アニスを始め10以上の各種の香草で味付けをした禁断の幻の酒アブサンの製造禁止の法律が、一世紀を経て近く解禁になり、フランスで盛大なお祭りが催される。(中略) この酒は19世紀後半にヨーロッパで大流行した。特に退廃的な雰囲気に包まれた19世紀末は多くの芸術家がこの酒を絶賛し、有名な作家にはピカソ、ゴッホ、ゴーギャン、ドガ、モネ、ロートレック、ランボー、モーパッサン、ボードレール、ヘミングウェイなどがある。

特に、ボードレールやランボーに至ってはアブサンを崇拝するほどであった。ゴッホはアブサンの常用者だったと信じられており、自画像を描くのに邪魔だと感じた左耳を自ら切断したことや、自殺を図るなどの奇行は、高濃度のアブサンを飲み続けたことによって先天的な精神病が悪化したためと思われていた。しかし、その後最近になって香草の量を調節することにより無害となることが科学的に立証された結果…云々。

ッホが左耳を自ら切断したことや、自殺を図った話は知っていたが、アブサンがそんな酒であることに私は驚いた。さらに上述の「大華」と言うバーで面白半分にこの酒を飲んだ記憶が何回もある。一世紀以上も醸造が禁止されていたのなら私が飲んだのは偽物だったのだろうか?と云う疑惑を持った訳である。

アルコール濃度が高い点では中国貴州省の茅台酒と肩を並べるアブサンであるが、この酒に水を混ぜると白濁する特徴がある。私が飲んだものも白濁したことを憶えている。いろいろ調べてみたら、一世紀以上も醸造が禁止されていたのは事実だが、密造は跡を絶たず、禁止令は有名無実だったらしい。と云うよりもむしろ黙認されていたようだ。今回晴れて解禁されたので「お祭り」が開催されることになったのだろう。

「大華」と言うバーでは、若気の至りで、生意気にも、未だ酒を嗜む心も分からない侭、何度も通った。と云っても2ヵ年間ぐらいで、刻一刻と戦争が激化し、喫茶店なども大豆を焦がした珈琲にサッカリンで甘みを付け、マッチ箱一杯の落花生が申し訳程度にセットになる有り様で、酒は店頭から消え、縁が無くなった。「大華」と言うバーもその後どうなったかは知らない。

私が生まれて始めて行ったパブリック・バーであり、カウンターの前の飾り棚にはドライジン・セリー・ジョニーのウイスキー・テキーラ、リキュールではベルモット・何種類かのキュラソー・チェリーブランデー、などなどの綺麗なラベルの洋酒の瓶が並んでいた。懐かしい光景は今でも忘れない。

 

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殖田三郎先生と「美味求真」

殖田三郎先生と「美味求真」

 

2005/04/12

真道 重明

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田三郎先生(1898−1992)からは海藻学を習った。海藻学にはもう一人「東道太郎先生」が居られた。「そうかと思えば、そうでもない」という言葉を頻発されるので、学生は「道ちゃん」、「道ちゃん」と云う愛称で呼んだ愛嬌のある先生だったが、海藻の概論の講義を受けただけで、海藻学の講義の主体は殖田先生であった。

私が農林省水産講習所の本科養殖科を出て専攻科に在籍中、安房の天津小湊に臨海実験場が在り、私はそこで専攻分野のガザミの人工孵化実験をするため度々訪れた。実験場の主任は助手の猪野俊さんであった。当時の専攻科の学生、…と云っても養殖科では私一人だったが、特別待遇で、寝泊まりは本科生の大部屋ではなく、個室が2、3あって教官用の部屋であった。偶々私がそこて実験中、本科生の海藻の実習があり、殖田先生も来て居られ、隣室に宿泊して居られた。

本科生の実習が終わった後、土日だったので先生は滞在を2日延期されて朝から宿舎の二階の窓の手すりから釣り竿を突きだしてフグ釣りを楽しんで居られた。先生は釣り好きで仲々お得意であった。朝飯時である。見ると七輪が横に置いてあり、上には味噌汁の鍋が載っていた。釣り上げたフグを早速皮を剥いて小刀で割いて内臓を取り去り、鍋の中に放り込まれる。種類はショウサイフグだったと思う。

「真道くん、食べてみるか?」、私は「先生、朝飯は済ませました。結構です」と云ったら、「猪野くんも遠慮するんだよ、『河豚食わぬ人には言わじ河豚の味』だなぁー。一茶の句に『河豚食わぬ 奴には見せな 不二の山』というのもある。君は「「美味求真」という本を読んだことがあるか?」と笑いながら私に問われた。「いいえ」と答えると「今夜話そう」とのこと。先生は単なる釣り好きだけではなく、相当の食通、今流行りの言葉ではグルメだったようだ。

これが私が「美味求真」という名著を知る切っ掛けであった。夕食を共にしながらいろいろと食通の話を伺った。それまでは殖田先生とは専攻分野が違っていたので、ただ教室で講義を受けただけの関係だったが、先生がこのような面を持って居られるのを知って記憶に残る恩師の一人となった。

さて、「美味求真」だが、木下謙次郎(1869―1947)という人の著、大正14(1925)年1月に五月書房から発行、全3巻。3月までに五十版をかさねた名著で、推奨文に「著者は美食味道のしたたかな傑物」「食について比類がないほどの知識をたくわえ」、「美味を天然に求め包技を自然に探る著者」、「天下の味覚は、この著述によって啓発される」などとある。知る人ぞ知る天下に名高い味と調理の奥義書。
「調味の真髄を究明して原理を捉え、料理と食膳の実際に応用し、料理を一つの芸術として研究したもので、一般の料理書と異なり真の味と庖技を教える」とも書かれて居る。

その後、復刻版や続編が中央公論社などから出て居る。木下謙次郎という人は大分出身の代議士で、「美味求真」は本業の余暇に書きためたグルメの書物であるが、世間からは政治家と言うより、一押しの「食通の定番の書物を書いた著者」という方が有名になったようである。この本についての私の知識は殖田先生から拝聴した内容、および図書館に時々行って拾い読みをした程度で、勿論大きなことは言えない。

ただ、私が思うことは、現在、テレビでは料理番組が花盛り、漫画でもグルメ関係のものは大流行り、世界食べ歩きの番組も然りであるが、この「美味求真」は宣伝臭かったり、間違いや針小棒大な話だったりすることが多い。それらとは「全く格が違う」と言うか、「レベルが格段に高い」真摯な内容である。その方面の方はとっくにご存じとは思うが、まさに奇書である。

食通と聞くと私は直ぐ恩師の殖田先生を思い出す。

 

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田内森三郎先生

田内森三郎先生

2005/04/16

真道 重明

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代的な水産学の開拓に大きな功績のあった田内森三郎先生 (1892−1973、明治25−昭和48) は水産研究者なら誰もが知っている大先生である。名古屋に生まれ、第八高等学校を経て東京帝国大学理論物理学科で寺田寅彦の薫陶を受け、1920年 (大正9年) に農林省水産講習所の教授に就任された。(田内森三郎先生生誕百年記念出版会編、「田内水産物理学」に所載の略年譜による)。教授に就任された時期は私が生まれる2年前である。

母校を離れて農林省水産試験場の場長に就かれたのは1946年 (昭和46年)で、日本水産学会が出来て2−3年後の1948年から1966年までの18年間という長期に亘って同学会の会長を務められた。またこの間の1950年 (昭和26年) から1956年 (昭和31年) の間は再び母校の後身である東京水産大学の学長に就任しておられた。享年80歳。私が海外の国際機関に居た1973年に逝去された。

水産講習所に入学した時、私達の養殖科では物理学に関して、田内先生の講義はなかった。勿論、名前やお顔は知っていたが、ただ、「恐い大先生」という噂を聞いて居ただけであった。本科を出て専攻科に進んでからは、週に一度「養殖物理学」の講義を受けた。だから養殖科在籍のもので先生の講義を受けたのは講習所時代を通じて私一人だけである。

「恐い先生」と言うイメージについては、当時の或る年輩の先生から「教授会などでは、田内先生は「発言は少なかったが、ひと度口を開くと皆シーンとなった」と回想されたのを憶えている。「まるでカミソリの様な感じであった」と聞かされたこともある。後年、私の上司であった西海区水産研究所の伊藤たけし所長から「田内さんを皆が厳しく恐い先生と言っているがどうも解せない、そんな人では決して無いよ」と聞かされた。伊藤所長は戦後の水産局の研究課長時代、田内場長とは常に仕事上の付き合いがあったが、共に旧制第八高等学校の同窓で親しかったこともあろうが、友人関係と師弟関係との立場の差かも知れない。初対面では「取っ付き難い」が関係が出来ると決して「恐い」先生ではなかったと私は思っている。

講義と言っても先生一人、受講生一人であったから、教室ではなく先生のお部屋に伺って、先生一流の細かい文字で書かれた講義メモの紙片を手渡され、1週間後に再びお部屋に顔を出し内容に就いての感想や問いに答え、次回のメモを受け取る…云ったやり方であった。恐る恐る先生の部屋に入るときは何故だか緊張した。「やぁー、来たか。書いてある内容の意味は解ったかなぁ−、君?」と眼鏡越しに先生独特の苦み走った笑顔で訊ねられる。「はぁ、何を問題にしているかは解ったような気がします。しかし数式に弱いので、本当は解らないと言うのが…と言葉を濁した」。先生は破顔一笑して「これが直ぐに解れば、君、大したものだ。無理も無かろう。それでも良いから、また1週間考えてから来なさい」。

これが先生の教育方法であった。いわゆる「手取り足取り」式のやり方ではない。ああでもない、こうでもない…と自分自身で苦しんでヤット理解出来るのに1ヶ月掛かろうとも、2ヶ月かかろうとも構わない、そうすれば本当に「身に付く」。手取り足取りして教えれば、「その時は解った気がしても、本当は身に付かない」とよく言っておられた。これが教え子にとっては「恐い先生」との噂の原因だったのだろうと思った。

少し親しく先生にものが言えるようになってから「先生、欧米の教科書では多少高いレベルのものでも、導入部にはまるで幼稚園の生徒に噛んで含めるように 1+1= 2 から始まって、実に巧みにそのレベルまで案内してくれるものが多い、私達にとっては非常に親切で助かる。日本の教科書は、いきなり「そのレベルのことは承知の上」という前提で始まるのは不親切だと常々思って居る。先生はどう思われますか?」と生意気な質問をした。

「君の云うことは確かに一つの考え方だ。そう云う教育方法も場合によっては確かに有効だろう。本当に理解しょうとする強い熱意が本人にあるならそれも良かろう。しかし、手取り足取りの説明で解って「正解に達して居れば理解できた」と勘違いするものが多い。それは「付け焼き刃」で解ったと思い込んで居るだけ。理解が本当には身に付いていない。あぁーでもない、こうでもないと苦労して理解に達しなければ、実際の問題に突き当たったときに対応できない」との返事。「だから、私は手取り足取り式の教育方法は採らない主義だ」と云われた。この先生の言葉は今でも忘れずに脳裏にある。

内容は現在の「資源力学モデル」の分野であったが、バラノフから始まりべバートン・ホルトなどの底魚資源研究の流れなどが未だ日本に知られていない時代でもあり、力学モデルの萌芽期だったから、いろいろな考え方が出はじめていた。だから、きわめて独創的な先生の試行実験的モデルや外国の文献の紹介が多かった。どう言う訳かロシアの文献を先生が和訳されたものが比較的に多かった。大学卒業後、兵役で尼港事件の時にシベリア出兵に参加されているのでロシア語に接しておられたことも関係があるのかも知れない。記憶がハッキリしないが、バラノフの論文はロシア語で書かれていた。英語に訳され有名になり日本に紹介され、その名が知られるようになった訳だが、田内先生は戦前からミコヤン工科大学のバラノフとは文通があったと聞いている。

物理ではない生物学の「ガザミの幼生の飼育実験」で頭が一杯の私には、専攻科時代の田内先生の授業は正直言って半ば上の空であったと白状せざるを得ない。その後、兵役を終わって戦地から帰国すると、先生は母校を離れ、月島にあった農林省水産試験場の場長になって居られた。就職先を探していた私は先生に呼ばれ、同所に入所した経緯もあり、先生の女婿だった村上士郎さんが20数年間も私の上司だった関係も手伝って、芝の白金にあった先生のお宅には上京の都度、機会の許す限り度々訪問した。また、地方での水産学会では歓迎会などで良くお目に掛かった。上記に様に「恐い先生」では決して無かった。

白金のお宅は場長官舎だったように記憶しているが、一戸建てで日当たりの良い角の6畳ぐらいの和室に書籍が山積みされて、文机の前に座って居られた。手回しの計算機などは一切使わず、計算尺を何時も手にして居られた。座談中に某氏が見え「畏まった挨拶の後、先生の座右の銘をお聞かせいただきたい」と訊ねると、先生はブッキラボウに「私にはそんな物はない」の一言。某氏は言葉の継ぎ穂が無く暫し沈黙が続き、早々に辞去された。某氏にとっては「恐い先生」だったかも知れない。

庭に小振りの実がなる柿の木があって奥様 (瑠璃夫人)が丁寧にその皮を剥いたものをご馳走になったりした。ご家族の話から察してかなり質素な生活のようにお見受けした。酔心だったか名前は忘れたが、広島の銘酒の醸造元と親しく常に送ってくれるので、「飲みしろだけには困らない」と笑って居られたことを思い出す。

専門分野が違うので具体的な仕事では教示を受ける事は無かったが、研究者としての心構えなどに就いては多くの教訓を受けたと思って居る。例えば、何々君は仕事は良くしているが、夫々(各々)の仕事がバラバラで一貫性と言うか、全体としての体系らしい物がない。其処に気が付けば優れた研究者だ、また、皆は論文になるようなテーマを撰んで沢山書こうとしているが、全体の中で自分のテーマは何の位置にあるのかを忘れている。鎖の中の一つの環だけを磨いてみても結局現実の問題は解決できない…などである。また、「先人は此処迄しか到達できなかった。俺はその先の此処まで分かった」と自慢する人が居る。知見の少ないその先人の時代に「その人が如何に苦労して其処までに達したのか」の苦労を察することが出来ないでいる…などとも言われた。

先生は全くの学者気質で、試験場の出勤簿管理など、「何時に出勤しようが、何時に帰宅しょうが構わない」と言ったお考えだったようだ。その代わり半年に一回仕事の中間報告会があり、成績が上げられない人は「降格させるぞ」と愕かされた。実に割り切ったお考えだった。その通り実行された訳ではないが、庶務課など公務員管理規則があった訳だから困ったのでは無かろうか。如何にも先生らしい逸話である。

当時日本は占領下にあり、GHQ (連合国軍最高司令官総司令部)の管理下にあった。農林省水産試験場長であった先生は日本の水産研究の改革の方策として同試験場の全国各地にある分場を強化することを考えておられた。敗戦後の各県庁は財政難でそれ迄持って居た県の水産試験場の維持に困るところが多かったから、国である農林省水産試験場がそれらの県水試を吸収し統合することも視野に入れておられた。

一方、GHQの天然資源局ヘリングトン水産課長は田内先生の構想とは異なる8海区水産研究所設立案を示し、この案が実行された。機構上からは実際は田内案の看板の掛け替えであった所が多く、長崎もその例であった。田内先生と W. C. ヘリングトンとの間には確執があったようである。私の記憶に誤りがなければ、田内先生がヘリングトンの Haddock (タラ科の魚)に関する論文の理論的矛盾を指摘されたことが確執の緒であると聞く。もしそれが事実なら馬鹿げた話であるが、占領下では致し方なかった。8海区制になった翌々年の1950年に先生は母校の後身である東京水産大学に学長として戻られた。その翌年、日本はサンフランシスコ講和条約で占領下から解放され、この年にヘリングトンは帰国している。

上記の機構改革期は先生にとって苦労の多い時期であったと思われる。村上士郎さんと私はそれ迄居た九州大学の天草臨海実験所内に併設されていた農林省水産試験場富岡臨時試験地を閉鎖、長崎臨時試験地に移り、これが西海区水産研究所と名称が変わった。当初、田内案では長崎臨時試験地は長崎県の水産試験場を吸収し合併するものと思われていたが、農林省としては県の職員は不要とのこと、長崎県は建物の建設だけを協力する形になった。この間の経緯は行政的な駆け引きがあり、話はかなり難航した。先生が県宛てに出された文書はハガキに例の細かな文字で書かれたものが多かった。県側の行政担当者は「ハガキは公文書とは認められない。ハガキに書かれて居る内容は総て無効である」と主張し悶着が起こったりした。先生にとっては問題は内容であり、文書の形式などは何でも良かったのである。先生は飽くまで研究者であった。

余談ではあるが、先生と私との会話では良く寺田寅彦の話が出た。先生は東大では寺田寅彦の門下生であった。先生が大学を卒業して水産講習所に行き教鞭を執られたのは寺田寅彦の示唆があったためと聞く。一方、私が先生の薦めで水試に入り、赴いた先の九州大学理学部の天草臨海実験所の図書室には寺田寅彦全集があり、戦後間もなくの時期で娯楽も何もなかった時代だったから、足かけ3年間のうちに13巻の同全集を3回も読み通した。余暇には何もすることがなかったからである。

記憶している「定斎屋」、「ジラフの斑文形成」などの話題を持ち出すと、「君、よく寺田寅彦全集を読んでいるねー、あれは水試の試験地を世話になったお礼に私が寄贈したんだよ」と嬉しそうな顔をされたのを憶えている。先生は1973年に逝去されたが、私はその時海外の国際機関に居り、葬儀には顔は出せなかったのが残念である。なお、上述の村上士郎さんの夫人は田内先生の長女アヤ子さんである。アヤ子夫人からは父である田内先生の家庭内での話をいろいろ伺った。後年、瑠璃夫人が亡くなり、親族の方々からの薦めもあり、瑠璃夫人の妹である万里夫人と再婚されたが、万事が几帳面で、いい加減な処で問題を放置する事のない徹底したお人柄であった。

 

追 補

 

此処迄書き終わって、記憶違いなどがあるかも知れないと思い、水産研究所時代の同僚であり、かつ、資源の数理モデル解析の第一人者である畏友の田中昌一さん (前水産大学学長) に電話で相談したところ、影山昇氏の《田内森三郎の人間形成と水産物理学研究 - 出生から水産講習所時代まで -》 の25ページに亘る記事を含む冊子を送って頂いた。冊子は 《田内森三郎博士の業績の展望と評価》 東京水産大学 平成元年度 学内特別研究成果報告、研究代表者 田中昌一、1990年3月、59 pp.である。

影山昇氏の文章を見ると実に詳しく田内先生のことが述べられている。上述の私の記憶と相矛盾する記述は基本的にはないものと思わる。義弟に当たる筧義章氏の言葉に「…… 外面的にはまことに以て気六づかしく (ママ)、とっつきにくい性格を露呈しながら内部的に繊細な神経と人間性を多分に湛えている ……」とあるが、まさにその通りだと私も同感である。気難しいとは私は思わなかったが、取っ付きにくいのは、特に初対面ではそうである。私もそうであった。「恐い先生」という噂の先入観があったからかも知れない。話をするようになってから分かったが、決して本当に恐い先生ではなかった。

若い日の先生は師である寺田寅彦とは多少意見を異にする「自説を主張する論文」の草稿を閲読し色々と注意を与えられた師の寺田寅彦は、声をおとして「当時としては十分に考え抜いた上で到達した結論であるので、先人の努力を傷めることのないように言い回しを慎んでほしい」と付け加えられたそうである。先人の成果を踏まえた研究の発展を絶えず目指す謙虚さの大切さを説いた寺田のこの教えは、研究生活に入って間もない田内にとっては、まことに時を得た助言となった…とある。その後、間もなく学位を得られた。

上述のように、田内先生から私達が度々聞かされた「先人は此処迄しか到達できなかった。俺はその先の此処まで分かった」と自慢する人が居る。知見の少ないその先人の時代に「その人が如何に苦労して其処までに達したのか」の苦労を察することが出来ないでいる…などとも言われた言葉は、この時の寺田寅彦の言葉を胸に叩き込んでのことだったのだろうと私は思った。自慢した人の名は伏せるが、「彼もそれが分かれば学位を得て然るべき仕事をしているのだが…」と付け加えられた。

 

なお、この影山昇氏の文章が記述されている《田内森三郎博士の業績の展望と評価》という冊子は1990年9月11日に東京水産大学の資源管理学科の野中忠氏から私は頂いていたことを後で個人蔵書のPC検索で判明した。私の不徳の至りで紛失したも同然、未だに探し出せない。畏友の田中昌一氏に再度送って頂き大変お手数をお掛けした。同氏のご厚意に感謝を述べたい。なお、この冊子は1992年5月15日の先生の生誕百周年記念が行われた2年前の印刷物である。生誕百年記念には私も末席を汚して参加した。

 

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中井信隆先生と堀重蔵先生

中井信隆先生と堀重蔵先生

 

2005/04/20

真道 重明

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井信隆 (1892年−1943年,明治29年−昭和18年) 先生は私が1939年(昭和14年)に水産講習所の本科養殖科に入学した時の教授で養殖科長だった。先生はその時47歳ぐらいであった。当時の所長は杉浦保吉、中井信隆先生は各科の科長の諸先生のなかでも取り分け人望があり、当時の噂によれば次期の所長候補に擬せられていた人であった。私達が先生から習ったのは淡水養殖学と魚類病理学であった。

魚類病理学の勉強のためドイツに留学された経験があり、英語よりドイツ語の方が堪能であったように記憶している。入学当初は養殖科の一番偉い先生と言うわけで、先生のお姿は何だか風格があるとても真面目な、しかし、柔和な人柄のように私達の眼には映った。

当時の淡水養殖学はコイ・フナ・ウナギ・アユ・ニジマスなどの養殖経験の紹介が主で「学」と云う程の体系を持つものではなかったように思う。漁病対策、飼料、養殖池造成などにしても、漸く近代科学の光を当てる試みが始まりつつあった。

だが山梨県北巨摩郡大泉村にある冷水性魚類、おもにニジマスを対象にした「大泉実習場」、静岡県榛原郡吉田町川尻にあるウナギの「吉田実習場」など、母校の養殖科の淡水養魚実習場は大自然に包まれた環境下にあり、都会を離れて先生に引率されて往った若い日の思い出は一生忘れられない。信州の佐久平への「稲田養鯉の実習旅行」などもその一つであった。

大泉では先生は夜明け前の早朝、まだ朝食も摂らない時に一人早起きして実習場の境の崖で「山芋」を掘って居られた。皆が起き出して顔を洗い朝食を食べようとして居た頃に、長さ 1 m 以上もある曲がりくねった山芋 (自然薯) を手に「大収穫、大収穫」と喜んで食堂に入って来られたことを思い出す。まるで子供のような一面があり、山芋掘りのコツを自慢げに話される。曲がりくねった山芋を一本、「折らず少しも傷つけない」で掘り出すのは用心に用心を重ねて、仲々根気の入る仕事だと言うことを、私達都会生まれのものは知らなかった。

吉田の実習場では「あそこの饂飩屋は旨いぞ」などと云われる。「綺麗なお姉ちゃんが入るから旨いと思うのでしょう」と誰からが答えると「お前往ったな」と笑顔で答えられる。何故こんな些細なことを今でも憶えているのかは知らないが、威張らない親しみを感じる先生であった。

ただ極めて残念なことに、先生は私達が本科3年生の時に急逝された。養殖科の科長は次席の堀重蔵先生に代わった。余りにも突然のことで皆茫然とした。

 

重蔵先生からは鹹水 (海水) 養殖学を習った。どちらかというと長身の中井先生に較べ小柄で温厚な先生だった。妹尾秀実先生との共同研究で、ワイヤーに牡蛎殻やホタテ殻を連ねたコレクターに牡蠣の稚貝を付着させて、これを筏に吊るして成長させる「いかだ式垂下方式」を開発し、牡蠣養殖の繁栄の基礎を築いた先生である。今回調べてみると先生がこの仕事を開発されたのは私の生年である1922年である。

本題からは外れるが、この妹尾秀実先生は私達の時には母校から既に離れておられたが、ご子息に当たられる妹尾次郎先生も母校の教師をして居られ、浮遊生物調査方法を習った。妹尾次郎先生とはその後付き合いは無かったが、10年まえに偶然のことから文通が始まり親しくしていただいたが、数年前に逝去されている。

堀重蔵先生というと、私にとって忘れられないのが1942年 (昭和18年) 11月の母校での学徒総出陣の壮行式である。学業半ばにして技術系学生も一斉に軍役に服することとなり、本科を出て専攻科学生だった私は最上級生であったため、講堂で開催された壮行出陣式で全校の出陣学徒を代表して式辞を読んだ。私は緊張して自分で足が震えるのを止めようとして一生懸命だった。この時、堀先生は終始俯いて目頭を押さえ泣いておられた。時が時だけにこの時の光景は一生忘れられない。今も鮮明に眼底に残っている。

Study nature, not books.”と言う言葉が先生のモットーであった。

 

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王貽観さん

王貽観さん

 

2005/05/05

真道 重明

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海水産学院(現、上海水産大学)の教授であった王貽観さん(故人)は1930年代の中期から後期に掛けて私の母校である農林省水産講習所に在籍した中国の留学生である。農林省水産講習所は戦後に東京水産大学と改名され、現在は、東京商船大学と統合されて「東京海洋大学」と称されている。東京水産大学百年史およびその資料編を見ても残念ながら「王貽観(オウ・イ・カン)の名前は記録には無い。

恐らく、敗戦直後に越中島にあった校舎はマッカーサーの親衛隊本部として占領軍に接収されたため、記録が逸散したのであろう。他の多くの中国を含む戦前の各国からの留学生の名前は復元されて居るが、残念にも王貽観の名前は見当たら無い。

私は1957年に北京と上海で本人とお会いしているし、直接本人から「農林省水産講習所に在籍した」とこの耳で聞いてるし、色々な写真や資料から本人が在籍したことは間違いが無い。10年程前に突然北京に住み中央広播電台(中国中央ラジオ局)に属する「中国民俗音楽団」の団長だった同氏の弟さんから手紙を頂き、数回信書の交換をしたが、同封されていた写真や日本留学中の恩師数名の名前の中から、未だ当時生存されていた妹尾次郎先生(今は故人)に問い合わせたところ、「当人を良く記憶している」とのことで、その旨北京に返事した記憶がある。

日本側の公式記録としては、日本水産学会誌に掲載された下記の論文がある。

  1. Wang, Y. K.(王貽観).1937.北海道及び樺太に於けるタラバガニの Stock に関する一二の知見.日本水産学会誌 5(5) p.291−294.

  2. Wang, Y. K.(王貽観).1937.(11).瀬戸内海に於けるマダヒの Stock に関する一二の知見.日本水産学会誌,6(4) p.175−178.

これらの著者の所属は「水産講習所」となっている。これらの論文は日本水産学会誌に投稿した外国人の論文としては同学会で最初のものではないか?と思われる。何れも田内森三郎先生(同学会長)の指導をうけて書かれたもののようである。1957年の年末、約4ヵ月の中国滞在を終わって香港経由で東京に戻り、田内森三郎先生のお宅に伺い「王貽観さんの近影です。宜しくとのことづけでした」と写真を差し出すと、家族の皆さんが「やー、家に良く遊びに来た王さんだ!」と懐かしがっていたのを憶えている。

王貽観さんの尊父は清朝の高官で福建省に赴任中に王貽観さんが生まれたので筆名を「閔生」(ただし、閔の字は門構えの中は「文」ではなく「虫」。中国語では「ミン」と発音する。福建の古称)としたとのことであった。このような名門の家柄だったのが災いして、文革中に上海水産学院が厦門(アモイ)に下放された時、猖獗を極めていた紅衛兵に苦しめられたことを後で知った。亡くなったのもこの厦門である。何とも痛ましい出来事であった。ただご冥福を祈ることしか無い。

1957年の上海水産学院での講義中、昼食休みの時、構内の掲示板に張り出されている大字報(壁新聞)を私が見ていると「昨夜の構内映画会は見ましたか?」と声がする。振返ると王貽観さんだった。「阿Q正伝で有名な魯迅の「祝福」(小説の作品名)でした」と答えると、いろいろ「祝福」について解説して貰った。魯迅の作品は少しは読んでいたが「祝福」は知らなかった。

母校では私より10年?先輩である王貽観さんは同窓の誼と言うこともあってか、暇があると私の部屋に来て色々な雑談をし、中国社会についての私の疑問に答えて下さった。私が呉承恩の「西遊記」を入手したがっているのを知って上下二巻の定本を探して来て頂いたのもその一つである。奇書に興味があるのを知って「鏡花縁」も「荒唐無稽な話だが…」と言って下さった。ガリバー旅行記では無いが、似たような話の中国版である。

上海水産学院の講義が終わる頃、約4ヵ月の中国滞在中にお世話になった各地の人々に礼状の原稿を拙い白話文(口語文)で書いていたら、「私が書きましょう」と言って尺牘文 (書簡文) で手直しされた。尺牘文は東京外語で私は一応は習ったのだが、とても手に負えない。流石に古典に精通されていた王さんの文は簡にして要を得た見事な文章であった。

私にとって王貽観さんはまさに一期一会の人であった。

 

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費鴻年さん

費 鴻 年 さ ん

 

2005/05/20

真道 重明

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英国のケンブリッジの国際伝記センターが出版して居る《世界名人録》にも1991年に撰ばれてその名が記録されている費鴻年さんと初めて出会ったのは1957年の秋のことである。中国漁業協会の招聘、日中漁業協議会の派遣、農林大臣の出張命令という形で、同年の9月から12月までの約4ヶ月間に亘り訪中、10月から年末まで上海の上海水産学院で水産資源調査方法を講義した時である。

その後、1983年に無錫で開催された FAO/NACA の国際会議に SEAFDEC 代表として出席した際、勤務地のバンコクへの帰途、同年の10月31日に一人旅で広州市に立ち寄ったのが二回目の出会いであった。その後も同氏は広州市に在る南海水産研究所に在勤されていたので、広州市を私が訪問するごとに数回お会いする機会を得た。中国における水産資源研究の草分け的存在である同氏の略歴は下記の通りである。

略  歴

費鴻年(1900年10月29日〜1993年5月12日)は浙江省海寧県の人。江蘇農業学校を1916年に卒業した後、日本に留学、東京帝国大学の生物学科を卒業。同氏はまた同校を卒業する前の1924年に一度母国に帰り、広州市にある中山大学の中に生物系(学部)を創設。この学部の開講式は魯迅院長が主催している。

彼は動物学及臨海實習,解剖学などの課程を講義した。1933年からは北京農業大學、江西大学、天津水産專科学校、武昌大学などで講義を開始。1937から1938年の間は再び広州市の中山大学に戻り、組織学および胚胎学を講義。1954年には生物系を主宰、海洋生物学科の開設を計画し、再度費鴻年を兼任教授に招聘された。

また、これらの間に中央政府の農業部参事、水産部の副総工程師、中国水産科学研究院の南海水産研究所副所長,《水産学報》副主編,および中国水産学会、中国魚類学会、中国生態学会などの学術関係の多くの組織の職務に携わっている。

なお、1920年代以降、中国における最初の「海洋生物の科学視察調査」、最初の「黄河流域水産資源視察調査」および最初の「南海(南シナ海)底曳網魚類資源調査」の担当責任者であった。1970年代には新しい水産資源評価方法の「資源解析模型」の研究に先鞭を付けた。

著書に《動物生態学》、《生物学綱要》、《海洋学綱要》、《水産資源学》、《魚類学》など多くの論文や専門書がある。1991年には英国ケンブリッジ國際伝記センターが出版した「世界名人録」にその名が記載されている。1993年5月12日,逝去。享年93歳。

 

以上の諸記録から分かるように、費鴻年さんは近代20世紀における中国水産学術界の初期の重鎮であり、常に広い視野に立って、特に資源研究に強い関心を持って居た数少ない中国の20世紀の初期開拓時代の水産学者の中でも優れた人の一人であると私は思って居る。

冒頭で述べたとおり、1957年の秋に上海水産学院(現、大学)私が費鴻年さんと初めてお会いしたが、私の講義とは別に、大学関係者以外の当時の第一線で水産資源の仕事をしている人達の費鴻年、黄文豊(豊の字は正しくは「さんずい」が付く)などの諸氏も来て居られ、毎週一度は費鴻年、黄文豊、同大学の王貽観の諸氏と卓を囲んで自由討議をした。

何れも日本留学の経験者で、私より先輩である。特に費鴻年さんは最年長であり、生物学全般の研究経験も豊で中国側の代表的な存在であった。埃及葉の紙巻きタバコを好まれ、何時も携行しておられた。当時の中国における水産研究の立ち後れた分野を改善する為には「何をなすべきか」という問いかけが多かったように思う。

費鴻年さんとの次の出会いは1983年の10月31、FAO/NACA 国際会議の帰途、広州市の南海水産研究所を訪問した時である。初回にお会いしたときから26年後であったが、同氏に合うのが目的であった。非常に喜ばれ往年上海でのことも良く憶えて居られた。その後の世界や日本の資源研究の動向に非常な興味を持たれ、話題はそのことに集中した。

既にかなりの高齢であったにも拘わらず元気で向学心に溢れて居た。私がバンコクに帰任したら謄写版刷りの近著が送られてきた。Beverton-Holt 型モデルによる再生産曲線の試算論文であった。高齢にも拘らず研究一筋に励んで居られるのには頭の下がる想いであった。

1986年6月に中国科学院の招請により中国各地の海洋研究所を訪問した際、南海水産研究所を再度訪問した時は、少し体が弱って人に助けられて車椅子に座られていたが、頭は非常に確っかりして、最近の学説の紹介やその応用としての網目規制に就いて今筆を進めていると言った話や、往時の上海での想い出などを語り合った。これが直接お会いした最後となった。この時の会話は通訳無しの日本語で行われ、費鴻年氏の流暢な日本語に驚いた。往時上海では常に中国の研究者数人と一緒だったので、一言も日本語を同氏の口から聞いたことはなかったように記憶している。

その後は同所を訪れる機会は2、3あったが、高齢のためお会いするのは遠慮し、「ご健康と長寿を祈る」と伝言を依頼した。今では中国の20世紀初期の水産学者の中でも優れた人の一人である同氏の冥福を祈るしかない。

 

水産出版社のホームページに「歴史上的今天」(今日は誰の日?)に費鴻年さんのことが出て居た。以下に中国文のその内容を掲げておく。

《歴史上的今天》

水産資源學大師費鴻年逝世週年紀念日 2005/5/12.

費鴻年教授(1900年10月29日〜1993年5月12日)浙江省海寧縣人,1916年江蘇農業學校畢業後,負笈東瀛,進入日本東京帝國大學生物系畢業,1924年他在東京帝大還沒畢業便返國創設中山大學生物系主任。

當時中山大學係由魯迅院長主持開系儀式。他講授動物學及臨海實習,解剖學等課程。1933年開始在北京農業大學、江西大學、天津水産專科學校、武昌大學教書,1937−1938年重返中山大學,講授組織學及胚胎學。1954年戴辛皆主持生物系,擬開設海洋生物學業,再次聘請費鴻年為兼任教授。

根據國際漁業專家真道重明博士網站資料,費鴻年曾任農業部的參事、水産部的副總工程師、中國水産科學研究院南海水産研究所所長,《水産學報》副主編,及中國水産學會、中國魚類學會、中國生態學會等相關學會等學術單位職務。

真道重明指出,1920年代以還,他是中國最早進行「海洋生物科學視察調査」、「黄河流域水産資源視察調査」、「南海底曳網魚類資源調査」的先驅。他從1970年代開始新水産資源評價方法研究,進行「資源解析模型」研究。

他的著作等身,出版的專著有 :《動物生態學》、《生物學綱要》、《海洋學綱要》、《水産資源學》(此書由中國科技出版社出版僅印行800冊)、《魚類學》等及多篇研究文獻。

1993年5月12日,也就是12年前的今天仙逝,享年93歳。

有關費鴻年教授相關訊息,及想瞭解當年中日兩國漁業前輩那種相知相惜、專研專業、關心時局者,可參考日本國際漁業研究專家真道重明博士的網站:-

http://home.att.ne.jp/grape/shindo/china57.htm#費鴻年)

(完)

 

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袁幹さん

袁 幹 さ ん

− 激動の中国を生き抜いた同窓生の話 −

2005/05/26

真道 重明

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CONTENTS

  1. まえがき

  2. 母校に留学中の彼との親交

  3. 南京の街頭での偶然の再会

  4. 家族と引き離され単身で台湾に移動

  5. 高雄での夜半の再会

  6. 大陸の故郷を訪問

  7. あとがき

  8. 本稿の中国語の抄訳文


 

まえがき

 

袁幹さんは私の母校である農林省水産講習所(現在の東京海洋大学)の製造科46回の卒業生、私の一年後輩である。当時私は中国語を学ぶために東京外国語学校の専修科(夜学)に通っており、言葉の練習のため北京から母校に留学していた二年後輩の陳国相さんと下宿を共にしていた。

袁幹さんは良く私達の下宿を訪れ、私も彼の下宿を度々訪れて両国の歴史や習慣の共通点や相違点、映画や娯楽など色々な四方山話などをして友人としての親交を深めていた。夏休みを利用して南京の自宅へ一時帰国する際には大阪にあった私の自宅へ泊まったりもした。1940年頃の話である。

彼は中国へ帰国後、国民党の反蒋派の重鎮であった汪兆銘の「南京国民政府」(親日傀儡政権)の水産局に勤めたりしたようだが、日本の敗戦、中国の内乱など激動の中にあって、結局は蒋介石の率いる国民党と共に、大混乱の中で、家族を伴う余裕もなく余儀なく単身で台湾に渡り、台湾で水産教育に従事して多くの人々に知られるようになったが、遂に故郷の南京を離れた台湾の地で生涯を閉じた。

この間、奇しくも私は彼に二度会っている。いずれも私が全く予期しない状況下での出会いであった。一度目は軍役に服して居た時に南京で、二度目は台湾政府の招聘で渡台した時に高雄の私の泊まっていたホテルの一室である。その後、私は上海の東海水産研究所を講義で数回訪れたが、ある時、「ツイ半月前に袁幹先生が台湾から来訪し、私(真道)のことをよく知って居られた」との話を聞いた。

諸事情から彼とは敢えて文通は控えていたが、激動の中国を生き抜いてきた親友の袁幹さんの気持ちを察すると感無量なものがある。彼の思い出を此処に書き留めて置こうと思った。今は亡き彼への Requiem の気持ちで筆を執った。

 

母校に留学中の彼との親交

 

「まえがき」で述べたように、袁幹さんは私の母校である農林省水産講習所(現在の東京海洋大学)の製造科46回の卒業生、私の一年後輩である。

「幹」の字は「澣」とも書く。筆名は「雅卿」。楽水会の会員名簿では嘗て「袁昌賢」という名前で記載されていたが、これも袁幹さんの別名である。中国では姓は同じでも雅号や筆名の外に、名を変えるケースは多く、大陸からも台湾からも尊敬されて国父と呼ばれる「孫文」が孫逸仙や孫中山などいろいろに呼ばれることはご承知の通りである。

袁幹さんも常に私達の下宿を訪れて来た親友である。彼は南京の人で尊父は毛皮の貿易を仕事にしているとのことだった。南京は中華民国の首都だったから、南京人のプライドだろうか、北京のことを北平(ぺィピン)と呼んでいた。元来、歴史的には南京は北京と並んで中国の首都であったし「南京官話」は19世紀から20世紀初頭までは欧米では中国の標準語と思われて来たそうだ。彼は南京人として誇りに思っていたのかも知れない。

筆名を「雅郷」と称し、上野の桜見物に行き詩を作るなど、文人の風格があった。時々漢詩を朗読する幾つかの方法について教えて貰ったことも在った。有楽町に在った日本劇場で中国の映画が上映される時は良く彼と一緒に見に行った。「木蘭従軍」や「アニメの西遊記」などは今でも憶えている。

私も彼の下宿には良く訪れ四方山話をした。当時私の家は大阪市の住吉区にあり、偶々夏休みで私が大阪に帰省している時、彼も夏休みを利用して南京に一時帰国することになり、帰国の途次に大阪の私の家を訪ねて来た。私の母が椎茸の乾物を買って土産に贈ったのを記憶して居る。当時の日本産の椎茸(香磨jは中国産より大きく品質が良かったのである。一泊して神戸から彼は船で帰国したことを憶えている。今のような航空便は在ったのかも知れないが、便数は極めて少なかったように記憶する。

彼は母校の農林省水産講習所の製造科を卒業後、1943年には東京帝国大学に進んで動物学を専攻して居たと後で聞いたが、敗戦直前の日本の社会は混乱していたので、彼が東京帝国大学を卒業したか、若しくは、学業半ばで帰国したかは定かではない。その時私は既に応召して戦地に居たから、どうなったかは知る由もなかった。

 

南京の街頭での偶然の再会

 

兵役で私が気象部隊として満州(現在の中国東北部)の新京(現在の長春)で初年兵教育を終わり、前線の勤務に就くため第四気象連隊に転属、列車で天津経由、南京に移動した数日後のことである。長旅の慰労もあってか外出許可が出た。南京の街はもちろん初めてである。戦友数名と市街見物に出た。中西菜館、中西衣服といった文字の店が沢山あった。友の一人が南京には「中西(ナカニシ)さん」が多いのは何故だろう?」と首を傾げている。

「中西さん」じゃないよ。中は中国、西は西洋のこと、日本語の『和洋』と同じで『中西』は中国式と西洋式ということだ」と私が答えたら「お前中国語が解るのか?」と言われた。「学校で一応習った程度はねー」と答えたが、外出時には日常会話が通じるのは楽しかった。

「琵琶鴨」と称して丸ごと煮塾した塩漬けの家鴨を骨付きの侭で平たく圧搾してしやや乾燥させたものを売っている店が数軒あった、丁度形が楽器の「琵琶」の様に見える。南京名物かも知れないなどと思ったりした。

「焼餅」という看板の店もある。小麦粉を練って円盤状にして落花生か胡麻の油で焼いたもの。大きいのは直径が 40 cm 以上ある。店先で焼いているのだが焼く鉄板は見あたらない。在るのは普通の中華鍋だけ。どうして鍋の直径よりすっと大きなものが作れるのか不思議に思った。見ていると鍋から食み出した円盤の部分を鍋の外に出し、円盤の一部を火で熱した鍋の上で加熱しながら焼き、全体をグルグル回しながら円盤全体を満遍なく焼いている。その技術はまさに名人芸だ。この市街見物は面白くて堪らなかった。余談はさて置き袁幹さんの本題に戻ろう。

上述のように私が気象隊の教育を終わって勤務に就くため、旧満州から転勤し、偶然にも南京の街頭の路上で背後から日本語で「真道さーん」と呼ぶものがいる。良く見ると同窓の袁幹さんではないか。まさかこんな処で合うなんて。その奇遇に手を取り合ってお互いの無事を喜び合った。「ヤァー、袁さん」と私が叫ぶと、彼は「是非家に来てくれ。母も貴方の話は知っている」とのこと。まさか此処で袁さんに合おうなどとは夢にも思って居なかったから私も半ば興奮していた。そこで戦友に事情を話し、私一人彼に伴われて彼の家を訪ねた。

彼の住居は町の一郭を大きな塀に囲まれた区域の中心部にある大邸宅である。塀に囲まれた区域は彼の一族が住む大家族制の居住区画であり、彼の家はその中心に在った訳である。一見粗末に見える一の門を潜り、次いで普通の構えの二の門を潜ると立派な構えの三の門があり、そこが彼の住居である。半端ではないかなりの富豪の邸宅だと私には思えた。

やがて上品な身なりの老婦人が現れ、母堂だと彼から紹介された。「息子が留学中は大変お世話になったと聞いております。貴方のお母さんから頂いた乾香磨i干し椎茸)は大変味がよく珍味でした」との挨拶。長江(揚子江)を超えると言葉は一変して呉音系になるが、南京は、どちらかというと北方の漢音系の言葉に近い。母堂の喋ることも何とか理解でき、私もツイ嬉しくなって了い、帰営時間も忘れ掛けて長時間お邪魔して了った。

先ず、黄酒が出た。日本で言う「老酒」とか「紹興酒」という中国では最も普通に飲まれる酒である。小皿に氷砂糖も入れてある。母堂が言うには「日本人は黄酒を飲むとき氷砂糖を入れる」と息子から聞いています。私達は氷砂糖は入れません。良かったらどうぞ…。とても親切なもてなしに恐縮した。

袁さんは「お袋はあのように言っているが、中国でも砂糖を微量加えることがあります。熟成期間が短い下級品の場合は本来の『まろやかさ』が無いので砂糖で誤魔化すのですよ」。さらに「高級品は「女児紅」とか「新娘酒」といって女児が生まれたときに仕込み、床下に埋め、その子が成人して結婚する宴席で開封する。これは街には売っていません」と言う。

更に日本酒と同様に燗をする場合もあるとのこと。そう言えば白楽天の詩に「林間に紅葉を焚いて酒を暖む」という有名な詩句があるのを思い出した。

日本留学の思い出や私の家に泊まった時のことなど、取り留めの無い雑談で時が経った。兵役に服している私の立場などは彼も気を使って何も訊ねなかったし、私も彼の現在の立場などは、複雑な事情にある当時の中国のことなので、敢えて問い質さなかった。

彼は政府の水産局にいるとだけ言っていた。政府というのは1938年から1945年に掛けて存在した汪兆銘の、いわゆる中華民国の国民政府の一つである。日本によって立てられた傀儡政権であり、首都を南京としていたことから「南京国民政府」とも呼称された政府のことである。蒋介石による国民政府は1938年以降は重慶に移転し、重慶政府と呼ばれていた時代である。

若し彼が重慶政府に属していたら、敵である日本軍の私を自宅に招くことなどは出来なかっただろうし、そんな家を訪れたら私もどうなっていたか解らない。お互いの気持ちとしては、そんな次元の問題ではなく「旧友に会え、無事を喜び合えた」ということであった。

帰途彼は街で出会った処まで送ってくれた。その直後、市内巡邏をしている2人の銃を持った憲兵が私を見付け、氏名所属を尋問された。そこは日本兵や日本居留民の「立ち入り禁止の危険地帯」だったのである。

「数日前に満州の新京から天津経由で南京に移動してきたばかりだ、行動範囲の指示は受けていない」と言ったら「即刻向こう側の道筋に移れ」と言われ、それ以上は追求され無かった。軍隊の階級は下でも憲兵は決められた範囲の上官を拘束できる権限を持つ。とにかく憲兵は苦手だ。物分かりが良く意地悪でない憲兵だったので助かった。

離れてその様子を見守っていた袁幹さんは「好意で私を家に招いたのが、反って恩を仇で返す事になりはしないか?」と心配げだったが、最後に私が笑顔で「目くばせ」したのを見て安心した様子で立ち去った。卒業後一度目に彼と会ったのはこの数時間である。

南京に長く滞在して居れば再会の機会もあったのだろうが、私達は作戦命令で最終勤務地は広東省の広州市とされ、間もなく上海経由で広州市に向かうこととなり、南京での再会は出来なかった。

 

家族と引き離され単身で台湾に移動

 

戦時中、汪兆銘の率いる親日政府の水産局長の職にあったらしいのだが、日本の傀儡と評された同政府は日本軍の敗戦と共に、抗日を掲げる蒋介石の率いる国民政府に敗れて一挙に瓦解した。彼は南京から徒歩で重慶まで行き蒋介石総統に所信を直訴したと聞く。口で言えば一言だが、実際の彼の経験した苦労は非常なものであったろうと思われる。

結局、彼の釈明が受け入れられたのは良かったが、この国民政府も毛沢東の率いる解放軍との戦闘に敗れ、首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ移動したと言うから、彼も国民党と共に妻子と離れ離れの侭、単身で台湾に渡った。1949年のことである。

もちろん、これらの経緯はずっと後になって色々な人々から聞かされたことである。当時私は既に日本に帰国しており、戦時召集を解除され軍役から離れていた。すなわち農林省の中央水産試験場に就職、勤務地の天草の富岡から、西海区水産研究所の前身である長崎の臨時試験地に移動した年である。

考えて見ると人の命運というものは分からない。敗戦国側の私が何とか無事に帰国出来、その上仕事に就き安定した生活を送っていたのに、戦勝国側であった筈の彼は国共内戦と言う大混乱に巻き込まれ、一家離ればなれとなる苦労に直面していた。彼の労苦を偲ぶと、激動する世の大きな渦中の流れにの中にあって、国の如何を問わず各個人は戦後日本で流行った言葉の「風の中にそよぐ芦」にしか過ぎないのだろうか?

 

高雄での夜半の再会

 

その後、台湾で水産学校の教師を勤め、私が上記の、1968年に高雄を訪問した際、同市の水産高校で教職に従事していたので、何処かで私の来訪を知り、母校で同期の郭欽敬君の招宴後、ホテルで寝に就こうとした時、突然電話があり、「袁幹です」とのこと。驚きつつも「是非合いたい。遅くても問題ない。直ぐいらっしゃい」と返事し、ホテルの私の部屋に案内してそこで再会した。全く予期していなかった私は夢かと驚きつつも、互いの無事と再会を喜び合った。

大陸に妻子を残したまま長い年月が経ち、遂に台湾で再婚の決意を固めたこと、兄は共産党に入り重慶大学にそのまま居ることなどをそのとき知った。越中島の話、深川の下宿のおばさんや上野の桜のことなど、夜遅くまで話は尽きなかった。がんらい彼は文学の素養があり、生真面目であった。酒もタバコも嗜まず、上野の桜見物もノートを持って行き、作った漢詩を書き留めるといった風であった。台湾産の魚のミン南語の名前と大陸での呼称名と日本語の和名の対照表を彼は作っており、参考にしてくれと持参して呉れた。

「世の中の大きな変遷を体験し厭世的になった訳ではないが、この頃は各地の童謡の収集と研究を趣味にしている」とのことであった。その後、上記のような経歴から「左翼の疑いを掛けられ、緑島(思想犯を島流し的に収容した島)に監禁された」という風説を聞き、数奇な運命の彼との連絡は意識的に控えた。大陸の訪問した経験者の私と会ったことが罪状の一つである可能性を考慮し、そのとき以来、私は彼とは二度と逢ってはいない。と言うことは卒業以降、彼と会ったのは唯の二回である。しかし彼については次項で述べる後日談がある。

 

大陸の故郷を訪問

 

それは1989年のことで、私が中国政府の邀請で上海の東海水産研究所を度々訪れたが、前から良く知っていた趙伝因副所長から「半月前に貴方を良く知っているという袁幹先生が台湾から当所を訪れ、真道先生かみえたら宜しくとのことでした」と聞かされた時である。驚いた。

写真を見ると紛れもなく彼である。彼はすでに台湾に戻った後であったが、台湾では一時疑われたことが事実であったとしても、名誉を回復し、水産教育の世界では人々に知られるようになり、元気に活躍していることを知り、私は嬉しかった。

中華人民共和国が開放政策に転じてから、台湾から大陸の親戚を訪れることは容易となり、「二度と大陸の土を踏むことはあるまい」と半ば諦めていた彼も、上海を始め故郷の南京を訪れることができたと知り、真に彼の心情を察すると感無量である。

 

あ と が き

 

袁幹さんのような体験を持つ人は他にも沢山あろう。しかし、彼は私にとっては親友の一人であり、激動の中国に在って苦難の環境を乗り越え、彼の道を持ち前の生真面目さで歩き続けたと信じる。

私の脳裏にある彼は何時も詰め襟服をキチンとした服装で貴公子然とした処のある人だった。東京での学生時代、南京での出会い、高雄での深夜の会話、等々…。私にとっては忘れがたい人の一人である。

上品な身なりの彼の母堂はその後どうなったのだろうか?また南京に在った彼の生家は今はどうなったのだろうか?現在では知る由もない。

今はただ亡き彼の冥福を祈るのみである。

 

MrYuanGan

本稿の中国語の抄訳文

 

真道重明

2008/05/24

台湾の友人、水産出版社社長の社長である「頼 春福」さんからのメールで本稿の抄訳を「台湾水産・電子報」に掲載した旨の通知があった。頼春福さんは両岸(大陸と台湾)との水産に関する学術交流に尽力している人である。日本の水産技術関連の書籍の紹介にも熱心に努力されて居る。

下記のURLをクリックすると表示される。

http://207.5.46.222/scpnews/view2.aspid=2832

 

水産出版社は http://www.taiwan-fisheries.com.tw/ である。

このTOPページから私の Blog に入ることも出来る。

 

袁幹さんのことも、彼が大陸を訪れたことを私に知らせて呉れた上海の中国水産科学研究院の前副所長であった趙伝因(因の字は正しくは「さんずいが附く)さんも今では何れも他界された。私にとって両氏ともこの世での一期一会の感を深くする。

なお、袁幹の名前は中国の Web site では「袁澣」と【三点水、即ち、さんずい】を付したものが多い。代表的な著書としては、浮游生物学、台北市南山堂 1986年、及び海洋生物資源学 (編著)、台北市 中国文化学院 海洋研究所 (海洋文庫叢書) 1968年などがある。(真道 記、2008)。

 

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Yangyu

楊 U 会 長

 

国交未回復時代の1955年、日中民間漁業協定の締結に尽力された中国漁業協会の初代会長「楊Uさん」との1957年に於ける北京での一期一会の面会記。現在では日本で知る人は少なくなった。

2005/06/24

真道 重明

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はじめに

楊U氏の略歴

北京での出会い

予期しない後日談

中国文


はじめに

はじめに

 

Uさん(1918−1995)は1954年に中国漁業協会の初代主任(会長)に就任、日本と中国の国交が未回復の時代、日中漁業協議会との間に1955年5月に締結された「日中民間漁業協定」の中国側の代表者であり、日本の漁業界、とりわけ東シナ海で操業していた以西底曳網の業界(日本遠洋底曳網漁業協会)とは縁の深い人である。

しかし、中国漁業協会の第二代会長の肖鵬氏以降(現在は第六代)の同協会の歴代会長は日本でも良く知られているが、楊U初代会長については半世紀も前のことでもあり、日本側の関係者も同氏を知る人の多くが逝去されて居るため、現在では同氏を知る人は少ない。

私は縁あって同協定締結後の2年目に当たる1957年に同協会の招きに依って協定の学術交流の合意事項に則り、訪中し四ヵ月近く滞在、中国各地の視察と上海水産学院(現大学)での講義を行ったので、楊U会長とは北京で親しくお目に掛かった。中華人民共和国は建国後8年目であり、日本との国交は未回復の時代であった。水産技術分野の交流としては両国何れも初めての経験であった。

当時日中両国は相互に国情が分からず、事務的にもいろいろな困難に直面したが、訪問が成功裏に行われたのは楊U会長の英断による所が大きい。此処に同氏の略歴・印象および「お世話になった数々の想い出」、その他を思い起こし、さらにその後同氏のご息女との奇遇などの挿話と共に、同氏のことを記録して置きたい気持ちもあり、この一文を綴った。

 

楊U氏の略歴

楊U氏の略歴

 

以下は《楊U同志生平》(楊U同志の一生)と題する1995年12月20日に”楊U同氏治喪弁公室”(楊U同志葬儀事務所)によって書かれた同氏の履歴の抄訳である。

優秀な党員、戦士であり、わが国の農墾分野での指導者の一人で、農墾部副部長だった楊U(よういく、ヤンユウ)同志は1995年12月17日零時15分に北京で逝去、享年77歳。

楊U同志は1918年に河北省深州市で出生。1934年に河北省立保定師範学校で勉学中に共産主義思想の影響を受け、進歩活動に参加。1938年に毅然として革命運動に身を投じ、党の指導する「民族革命戦争戦地総動員委員会」その他に入り、同年8月に入党。翌年には深県戦地工作団の団長、その他の要職を歴任、抜群の貢献があった。(中略)。

1949年1月から1969年3月の間、中共中央政策研究室組長、中央農村工作部処長、弁公室主任兼機関党委書記、中国漁業協会会長、国務院七弁財経組長、農林弁公室副主任、党委委員などを歴任した。彼は忠実に党の政策を執行し、実際の調査研究に深く携わり、一連の農村経済の方針・政策の制定に参与し、わが国の農村経済の発展に重大な貢献をした。(中略)。

彼はわが国を代表して、中国と日本、中国と韓国などの両国に関する漁業問題の国家間の交渉に参加し、わが国の領海主権の維持に基づき、双方の対等の相互利益の原則を確立し、多数回に亘る協議を経て、海上における漁撈交渉の今後の協議の在り方の原則的な基礎を定めた。

文化大革命の期間に、楊U同志は林彪や四人組の残酷な迫害を受け、心身や健康を大きく損なった。彼は逆境に処しても真理を堅持し、実際の状況から正しい対処の方法を掴み、頑強に闘い、党員として正しく立派であった。

四人組が粉砕された後、楊U同志は再び元の指導的職場に戻り、農林部に社隊企業局を組織し、社会の新局面に貢献した。(中略)。とりわけ農墾経済理論研究の仕事を非常に重視し、全国の農村経済の改革と発展の新路線の探求を加速させた。(中略)。

指導的職場から退いた後も、彼はそれ迄のように終始農墾経済理論の研究に関心を持ち、親しく自ら農墾経済学術研討会を主宰し、農墾経済理論の研究の興隆に携わり、農墾企業の改革と発展に抜きん出た貢献をした。

楊U同志は長年に亘る革命の実践の中に在って、一貫して党に忠誠を尽くし、社会主義の仕事に忠誠を尽くした。彼は胸中が率直で、公明正大であり、「こつこつ」と仕事に勤め、苦労や恨み言も意に介さず、自らには厳しく、人には寛大で、名利に淡白、民衆に繋がり、同志に気を配り、部下を可愛がり、人柄は真面目、私心無く公務に尽くし、努力家で飾らず、態度は民主的、温和で親しみやすく、子女の教育を厳しく求め、(中略)多くの人々から尊敬され敬愛された。

楊U同志の逝去は私達にとっては一人の「好い党員、好い指導者」を失ったことになる。我々は悲痛を力に変え(中略)社会主義の現代化の早期実現に、ひいては最終目的である共産主義の実現に努力し奮闘しよう!

楊U同志は永久不滅である! 

楊U同志葬儀事務所 (1995年12月20日)

 

解 説

真道重明

以上は楊U会長の履歴を弔辞の形で述べたものである。私達日本の水産人から見れば、楊U氏は国交未回復時代に締結された日中民間漁業協定の中国側代表の功労者としてだけ記憶されているが、上を見ると楊U氏は広く農墾分野で活躍された実践家であり理論家であると共に研究者であったことが分かる。

弔辞文には普通良く讃辞が羅列されるが、楊U氏の人柄に関する讃辞はいわゆる形式的な美辞麗句では無く、私は短期間の接触しかなかったが、直感的印象から見て「率直、公明正大、態度は民主的、温和で親しみ易い」等々はその通りであると感じた。

後述する楊U氏のご息女の話や最近の2004年12月に出版された中国漁業協会の《中国漁業協会五十周年(1945−2004)》の冊子の記述、とりわけ塗逢俊の「我所知道的早期”中国漁業協会”」(私の知っている初期の中国漁業協会)の記述内容も加えて述べれば、初代中国漁業会会長の職に付いたのは周恩来総理の指名があった模様で、その人柄や能力が嘱望されて居たことが分かる。日中の国交が回復された1972年9月以前には中国漁業会の仕事には外交関係の問題が絡んでいたので、周恩来総理や寥承志氏(中日友好協会会長)から大変重要視されて居たようである。

漁業だけではなく、文革まで日本に関係ある国務に数多く参加した。例えば、日本からの各種の代表団との会見、日本工業展覧会などなどにも関係していたとのことである。

少年時代から成績優秀で、青年時代になると既に各種の責任者に任ぜられ、職場では頭脳明晰の名を馳せていたという。晩年になってからも若い人に負けないぐらい記憶力を保持していたと言う。

壮年期に入ってから不幸にも「訳が分らない文化大革命が起きて、仕事の凡てが混乱した」とご息女は語っている。清廉潔白な人柄のため、文革が始まってからも仕事をしばらく続けて、一時は国務院からの知識青年の上訪管理小組の組長を勤めて居たという。

文化大革命の時、それまで農村に行った青年達が集団で上京して、大きな問題になっていた時など、上京した多くの青年が北京市内で問題を例えば、天安門広場に座り込み、中南海を囲むなどの行動を引き起こさないように、精一杯青年達を説得し、効果を挙げたそうである。これは文革の後期に発生した大規模な「知識青年上山下郷運動」より以前の話である。それらのことが有って間もなく、仕事から外される羽目になったと言う。

文化大革命が開始された後、いわゆる下放により数年間仕事から外されると言う苦難の時期を迎えた。一方、その間に日中国交が回復され、それ迄の民間協定に変わって1975年12月には政府間の漁業協定が結ばれ、民間協定は役柄を変えて存続する、など大きく諸情勢は変化した。

楊U氏はいわゆる江青らの四人組の崩壊後、再び農業部の社隊企業局を組織するなどの指導的立場に復帰したが、中国漁業協会からは離れ同協会長は第二代目の肖鵬氏に引き継がれた。難しい仕事を自らに担って、病気になったことも度々であったと言う。農墾分野の仕事は楊U氏の本来の仕事であり、経済開放後もこの方面の研究に尽くされたようである。

このような事情から、初代の中国漁業協会長だった楊U氏のことは、既に半世紀も過去の出来事でもあり、日本では知る人も殆ど無くなったが、国交も樹立されて居ない時代に、日中間の初めての漁業協定を結ぶことに尽力した人として決して忘れてはならない人だと私は思っている。

1955年4月15日に北京で調印された日中民間漁業協定の正式名は「日本国の日中漁業協議会と中華人民共和国の中国漁業協会との黄海・東海の漁業に関する協定」である。日本側は七田末吉団長、村山佐太郎、山崎喜之助副団長、中国側は楊U団長、高樹頤副団長。もっとも調印に持ち込む迄には、高崎達之助氏と廖承志氏など大物の根回し、国会議員だった田口長二郎氏などの訪中折衝など、資源研究者だった私なども多くの苦労話を聞かされていた。

 

 

北京での出会い

北京での出会い

 

私が楊Uさんに出会ったのは政府の水産部(水産省)の所在地、北京市西郊二里溝に在った中国漁業協会、日中民間漁業協定が締結された2年後の1957年の9月下旬から10月上旬に掛けてである。同協定の「学術交流」の取り決めに基づき、その初めてのケースとして北海道大学水産学部長を定年退職直後の渡辺宗重先生と私の二人が中国水産事情の視察をかねて講義に赴いたときである。

当時、私は農林省水産庁に所属する西海区水産研究所(在長崎市)の遠洋資源部の生物第1科長(東海黄海の底魚資源研究を担当するポスト)の職にある34歳の若輩であった。派遣母体は日中漁業協議会であったが、私は現役の国家公務員研究職にあったから、農林大臣による出張命令であった。

香港までプロペラ機で飛び、日本の領事館でパスポートに「深センの国境通過を認める」旨の省名印を押して貰った。国交未回復の時代だったので中華人民共和国の国名をパスポートに記載することが出来ず、取り敢えず香港迄の出張の形を取り、香港で国境通過の許可を取ると言う形式を取らざるを得なかった。日本の国家公務員としでは初めての中国訪問であり、この一事を見ても両国政府としては万事が初体験であった。

広東省の広州市には北京からわざわざ中国漁業協会員の王智徳さんが出迎えに来て居られ、広州市を始め汽車で武漢市など沿線各地の水産施設の視察の案内を受け、数日後に北京に着いた。先ず表敬訪問をしたのが二里溝にある招聘母体の中国漁業協会であった。

応接室に入ると若い白皙の人が暖かい笑顔で「請座!請座!休息一下児罷!」(どうぞお座りになってチョットお休み下さい)と言う。これが楊U会長その人であった。この最初の一言は多少中国語を解する私の脳裏に、何故だか今も残っている。その時の楊U会長の「仕草と言い、物腰と言い、威張ったところの無い、とても親しみ易い人だ」というのが初対面における第一の直感的な私の印象であった。写真を撮るときは肩を組んでまるで永年の旧友と逢った時のような恰好だった。

若いと思ったのは、後で分かったことだが、未だ若輩の私より僅かに4歳の年上で未だ40歳前の年齢であった。それでいて会長職にあり周りから信頼・敬愛されていて、仕事の問題に対する決断が速く、テキパキと処理する様子が良く感じ取られた。

私が特に楊U会長に感謝するのは、北京到着直後に私達が直面した難題である。それは我々二人の技術専門家の旅費の処理に関する問題であった。何しろ日本の日中漁業協議会としては技術専門家を派遣するのは初めての経験であり、中国側も水産分野で資本主義国家から専門家を招くのは初めての経験であった。

当時、中国とソ連や東欧の共産圏諸国との間の技術者の相互交換派遣は活発に行われていたようだが、そのシステムは一切の経費は相互対等主義により、専門家の招聘を邀請した国がその専門家の生活費や日常生活上の小遣い、その他の一切の必要経費を負担する慣習になっている。逆に専門家を派遣する場合は派遣先の国が一切を負担する。

講義をすることへの謝礼や技術移転の際の専門家に対する報酬などと言う考え方は、当時は中国を始めソ連や東欧の共産圏には無かった。

私が農林大臣から受けた出張命令には「…但し旅費は支給せず」という但し書きがある。資本主義国の慣行として「当然、旅費その他は派遣を邀請した側が支出するもの」との前提に立っている。おまけに我々は日中漁業協議会から支度金を含む旅費を、事後に精算すると言う約束で「前渡金」の形でかなりの金額を借りている。中国側から支出されないとなるとこの借金を返済出来ない。それも「半端な額ではない、さて、どうするか?」で困惑してしまった。

早速、電報で日中漁業協議に善処方を要請した。東京からの中国漁業協会に対する返電は「宜しくお取り計らい願いたい」と言うものであった。今から考えると笑い話ではあるが、「宜しく…云々」は「どういう意味か?」と訊かれ返事に困った。電報の遣り取りでは埒が明かない。東京では中国側のシステムを理解できないで居る訳である。

協定文の中には「専門家の交流」は謳われては居るが、その経費の処理方法などは何も規定されていない。双方の事務方の話し合いは仲々決着しない。何しろ双方初めての経験であり、システムの違いを理解するのが中国側も日本側も難しかったようだ。中国側も国内規定に反する措置は採れない。

膠着状態を打破したのは楊U会長の英断であった。それは「謝礼金という形では支出できないが、相当額を礼品の形で処理する」と言うものであった。すなわち、pay in money では無く pay in kind とする…と言うものであった。中国には数10万円、数百万円の翡翠やミンクの毛皮などがある。日中漁業協議も、我々も此れに合意して、漸く胸を撫で下ろした。楊U会長は「専門家個人に迷惑を掛けることは断じて出来ない。規定により金額による支出は出来ないが、実質的には同じ結果となる。特別の措置ではあるが、これで合意できないか?と言う提案である。日中漁業協議会と私達はこれに合意して問題は解決した。

楊U会長は多忙な中の時間を遣り繰りして、高樹頤さん(副会長)や王雲祥さん(後に楊U会長代行)と共に政府の水産部長の許徳行氏、日本駐在大使に擬せられて居た趙安博氏、中日友好協会長の廖承志氏などを紹介して貰い、国慶節への参加、中国科学院動物楼の視察、その他多くの便宜を図って頂いた。

私達は訪中の主目的である上海水産学院における講義のため間もなく北京を離れることになった。従って楊U会長との付き合いはごく短期間であった。この一度だけで楊U会長とは二度と再び会うことは無かった。まさに「一期一会」と言う言葉通りであったが、私は多くのことを学んだ。

我々水産人にとっては、楊U会長は戦後初めて日本と中国との漁業に関する協定を結んだ、すなわち1955年に日本側の日中漁業協議会代表団団長の七田末吉氏と中国側の中国漁業協会代表団団長として調印署名した人として歴史に記録され皆が記憶されるべき人である。中国漁業協会の第二代目会長の肖鵬氏以降の歴代中国側会長は記憶する人も多いが、初代の楊U会長を知る人は半世紀を過ぎた今では少なくなった。

 

後日談

 

予期しない後日談

 

30数年後の一昨年(1991年)、良く訪れる上海の東海水産研究所で講義していた際、偶々北京の農業部から来ていた人と知り合い、楊U氏の安否を尋ねたところ、「楊U氏は退職して北京にあり、まだ元気で居られる」とのことであった。その4年後に残念にも逝去されたことになる。

今年(2005年)になって、中国の或る女性から一通の電子メールを受け取った。「楊Uの名前を日本語のサイトで検索して居たら貴男のホームページを探し当て、文章を拝読しました。楊Uは私の父です。父は既に他界しましたが、日本に父のことを憶えて居る方が居られることを知り、驚きと共に懐かしく思いました」との内容である。流暢で綺麗な日本語である。

全く予期しないことだったので、私もこのメールを読み、途端に半世紀前にお会いした楊U会長のことを走馬燈を見るように想い出し、このメールに驚くと共に、懐かしさが胸中に込み上げて来た。早速返信を書き、楊U会長のそのご息女に「若し来日の機会があるなら、もしくは日本の首都圏に在住なら、是非お会いしたい」旨を伝えた。

ご息女も「是非逢いたい」とのことで、楊U氏の孫娘に当たる子供さんと一緒にお会いした。両人とも日本の大学の留学経験を持ち、故人の楊U氏の想い出咄など懐かしい話その他に楽しい一時を過ごした。楊U氏の令閨は北京でなおご健在だそうである。

 

談ではあるが、水産分野での日中間の官民を問わず組織的な単位での学術交流(専門家の派遣や受け入れなど)は、1957年の上記の私達のケースが最初であったが、その後、中国は3年困難期・大躍進運動に引き続く文化大革命運動などで混乱が続いたため、中断の已む無きに至り、再開されたのは経済改革後の1980年代中期以降である。

 

参考文献

中国漁業協会五十周年(1945−2004)。2004年12月、《中国漁業協会五十周年(1945−2004)》編纂組編輯。大型版冊子、65 pp.(中国文)。

この冊子の冒頭に歴代の中国漁業協会会長の顔写真がある。初代の楊U会長の写真だけはモノクロであり時代を物語っている。同様に重要な会議の出席者の集合写真も初期の数枚はモノクロである。

それらの中には廖承志、王雲祥、肖鵬、その他私がかつて言葉を交わした人々の顔が見える。日本代表団の中には同様に、七田末吉、江口次作、徳島喜太郎(民間協定時)、鎮西迪雄(政府間協定締結後)など、お会いして話し合った諸氏の顔があり、特に民間協定が全般問題をカバーしていた時の江口さんや徳島さんとは良く議論したので懐かしく想った。

後半部分は歴代会長の往時の回顧談や編集者のインタビューなどが詳しく記載され、中国側の漁業に関する歴史認識が良く分かる。

ChineseYangYu

上述の記事を主体にして台湾の

水産出版社で編集した文章(中文)

 

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《漁業人物》 中國漁業協會首任會長楊U / 真道重明 / 2009年10月1日

編按:中國漁業協會創建於1954年,是大陸重要民間社會團體。中國漁業協會首任會長,楊U先生(1918年生,河北省深州市人),於1995年12月17日逝世於北京。這篇文章是日本漁業耆宿真道重明,在2005年6月24日發表在其部落格(博客)的文字。由於中日兩國文化的差異,譯事不易,本報特請香港魚類學家莊棣華先生翻譯,以饗讀者。

                           楔子

1954年,楊U先生(1918-1995)於甫創立之中國漁業協會擔首任會長,由於當時中日間邦交尚未恢復,因此隨後擔任兩國漁業協會於1955年5月所簽訂的「日中民間漁業協定」之中方代表,可以這麼説,他和日本漁業界,特別是以東海之西進行曳網為主的日本遠洋底曳網漁業協會的淵縁頗深。

對日本而言,自第二任(蕭鵬先生)以降(目前是第六任)的歴任中國漁業協會會長可説大多相當熟知,但首任會長楊U在職時期距今己達半世紀以上,與其相關或認識的日方人士大多已不在人世,因之現今漁界知道他的人非常稀少。

本人有縁在協定締結後第二年的1957年,應該會邀請往訪中國進行學術交流,逗留近四個月間,除訪問各地外,並在上海水産學院(現已更名「上海海洋大學」)授課。與楊U會長則是在北京會面,當時人民政府建政才第八年,中日邦交仍未恢復。水産技術領域上的交流,對於兩國都是首次的經驗。

由於對彼此國情欠缺了解,期間面對了許多事務上的困難,然而在訪問成功的背後,很大程度地有ョ楊U會長的英明果斷。因此,回想起這段經歴、彼此印象與「蒙受關照的美好回憶」等種種思緒牽址下,加上後來與其女兒巧遇等插曲,遂有「將這位先生的點滴回憶記録下來」的心情,促成了這篇短文。

楊U先生的簡歴

以下是由1995年12月20日「楊U同志治喪弁公室」(楊U同志治喪事務所)撰寫的《楊U同志生平》(楊U同志的一生)為題的楊U先生的履歴的複譯。

優秀的黨員、戰士,是我國的農墾領域的領導人之一,本為農墾部副部長的楊U同志,在1995年12月17日零點15分逝世於北京,享年77歳。

楊U同志,1918年出生於河北省深州市。1934年就讀於河北省立保定師範學校,勤學中受共産主義思想的影響,參加了進歩活動,並在1938年毅然投入革命運動,加入黨指導的「民族革命戰爭戰地總動員委員會」及其他組織,同年8月入黨。翌年歴任深縣戰地工作團團長,及其他要職,有傑出的貢獻。(中略)。

1949年1月開始至1969年3月之間,歴任中共中央政策研究室組長,中央農村工作部處長,弁公室主任兼機關黨委書記,中國漁業協會會長,國務院七辯財經組長,農林弁公室副主任,黨委委員等。他忠實地執行黨的政策,深刻地進行實際調査研究,參與一連串的農村經濟的方針•政策的制定,對我國的農村經濟的發展做出重大的貢獻。(中略)。

他曾代表我國,參加有關中國和日本,中國和韓國等的兩國的漁業問題,及國與國間的談判,以維持我國的領海主權為基礎,確立雙方對等互相利益的原則,經過持續多次的協議,制定了在海上漁撈談判的今後的協定的原則性基礎。

文化大革命期間,楊U同志接受林彪和四人組殘酷的迫害,他身心和健康均受嚴重損害。然其雖處逆境卻仍能堅持真理,從實際的情況抓住正確應對的方法,頑強奮戰,作為黨員是非常端正優秀。

四人組粉碎了之後,楊U同志再次返回原來的指導工作崗位,於農林部組織社隊企業局,在社會的新局面做出了貢獻。(中略)。特別重視農墾經濟理論研究的工作,加速了全國農村經濟改革和發展新路線的探求。(中略)。

從指導的工作崗位退了之後,他仍如舊持續關心對農墾經濟理論的研究,親自主持農墾經濟學術研討會,盡心農墾經濟理論的研究,對農墾企業的改革和發展有突出的貢獻。

楊U同志,在經年的革命實踐中,保持對黨竭盡忠誠,對社會主義工作竭盡了忠誠。他心胸直率,公明正大,辛勤工作,無怨勞苦,對己嚴,對人ェ,淡泊名利,心繋人民,關心同志,愛護部下,人格認真,大公無私,努力不飾,態度民主,和謁可親,子女教育嚴格,(中略) 受許多人所尊敬及敬愛。

楊U同志的逝世,對我們來説,是失去了一個「好的黨員,好的領導人」。我們把悲痛化為力量 (中略) 為社會主義的現代化的早期實現,作為最終目標的共産主義的實現而努力奮鬥!

楊U同志永遠不朽! 楊U同志治喪弁公室 (1995年12月20日)

 

解説

 

                           真道重明

以上是以訃文形式所撰述的楊U會長生平。雖然從日本水産人眼光來看,楊U先生只被紀録為在邦交尚未恢復的時代,簽訂兩國民間漁業協定的中方代表,但從上文可見,楊U先生是一位在農墾領域裡活躍過的實踐家、理論家,同時也是研究員。

訃文通常羅列讚辭,而有關楊先生人品的用字,卻沒有所謂徒具形式的美麗辭句。雖然與之只有過短暫的接觸,但在我直覺印象上,「率直、光明正大、態度民主、穏和且容易親近」等詞均非常之貼切。

如果將後面所述(筆者與楊先生的女兒之對話),和最近在2004年12月中國漁業協會出版的《中國漁業協會五十周年(1945-2004)》的冊子上所記述 -- 特別是塗逢俊的「我所知道的早期"中國漁業協會"」的内容也一并敍述的話,就可了解到,他之所以被任命為首任中國漁業會會長,除了衆人矚目的品コ和能力,背後還有著周恩來總理的指命與期望,因為在恢復邦交的1972年9月以前,中國漁業協會的任何工作,都與外交脱不了關係,因此故周恩來總理和廖承志先生(中日友好協會會長)都非常重視。

不僅是漁業,到文化大革命為止,他參與了許多與日本相關的國務。譬如,來自日本各代表團的會談以及日本工業展覽會等都和他有關。

據説,他從少年時期開始就成績優秀,青年時代被任命各類負責人,在工作崗位上,他頭腦的清晰是極為有名的。即使到了晩年,記憶力還是不遜於年輕人。

據其女憶述,進入壯年後,由於「發生了至今令人匪夷所思的文化大革命,所有工作也混亂了」。因為人格廉潔清白,在文革開始之後,仍能短暫持續工作,曾擔任國務院知識青年上訪管理小組組長的工作。

文革期間,來自各地的青年們集體進京,成為很大問題,當時進京的青年們四散市區内高談國是,為防演變至包圍中南海等行動,他在天安門廣場盡力説服青年們,並取得了效果。這是文革後期所發生的大規模「知識青年上山下郷運動」之前的故事。據説在那之後不久,他就被迫卸任。

文革時的下放,使他面臨了下崗數年的艱苦時期。別一方面,日中恢復邦交,1975年12月締結的政府間漁業協定取代了民間協定,民間協會改變形式而續存等,形勢起了大變化。

直至江青等四人組崩潰後終於再次復職,指導農業部社隊企業局等單位的工作,但此時己離開中國漁業協會,會長由第二任的蕭鵬先生承繼。據説由於他自動請纓負擔許多工作之故,健康欠佳。農墾領域工作原是其本業,在經濟開放之後也仍盡力於這方面的研究。

楊U先生身為首任中國漁業協會的會長的事,迄今已半個世紀,在日本知情者中,幾乎都已不在人世,但在邦交還沒建立的時期,一個為締結首次日中漁業協定而盡心盡力的人,我想是絶對不應被遺忘的。

1955年4月15日,於北京簽訂的日中民間漁業協定,其正式名稱為「日本國日中漁業協議會與中華人民共和國中國漁業協會−關於黄海、東海漁業的協定」。日本方面有七田末吉團長、村山佐太郎、山崎喜之助副團長,中國方面有楊U團長,高樹頤副團長。簽訂之前由高崎達之助先生和廖承志先生等政要進行多次協商,國會議員田口長二郎先生的訪華交渉等,作為研究資源者的我,也聽到了不少艱苦故事。

在北京的相遇

我和楊U先生相遇,是日中民間漁業協定簽訂兩年後的1957年的9月下旬到10月上旬,在政府水産部所在地,北京市西郊二里溝的中國漁業協會。當時依據協定中的「學術交流」約定首次實施,我與剛退休北海道大學水産學院院長的渡邊宗重教授二人,到中國考察水産情況及講課。

當年我只是個34歳的年輕人,任職農林省水産廳轄下的西海區水産研究所(位於長崎市)的遠洋資源部生物科一科科長,該科專司東海、黄海底棲魚類資源研究。委派我的雖是日中漁業協議會,但由於我是現任國家公務員研究職,因此是農林大臣發的出差命令。

先搭螺旋階飛機飛到香港,日本領事館在護照蓋上「認可通過深川國境」為旨的省名章。由於當時邦交尚未恢復,護照上還不能記載中華人民共和國的國名,因此不得不先採取去香港出差,然後在香港再取得進出國境許可的方式。這是日本國家公務員首次的中國訪問,對兩國政府來説,這裡所有事情都是首次的體驗。

在廣東省的廣州市,看到中國漁業協會員王智コ先生特地從北京前來迎接,並開始搭乘火車從廣州到武漢市等沿途嚮導,參觀考察各地的水産設施,數日抵達北京。首先禮貌性的拜訪了位於二里溝的邀請單位−中國漁業協會。

接待室,一位皮膚白皙且笑容滿面的年輕人説:「請座!請座!請休息一下兒罷!」原來這就是楊U會長本人!最初見面的這句話,不知為何,在知一點中文的腦海裏仍然留存迄今。「言行舉止無架子,容易親近的人」就是初次見面時楊U會長給我的直覺印象。拍照片的時候婁著肩膀,簡直像是與多年的好友再次相見。

後來才明白,當時的他比我僅長4年,仍未滿40歳。這樣子擔任會長,並能受到衆人的信ョ和敬愛,對工作所遇問題的解決果斷快速,此點讓我深刻感受到。

特別要對楊U會長表示感謝之處,是在到達北京後,我們面臨難題之時。那是有關我們兩位技術專家旅費的處理問題。無論如何,這是日中漁業協會首次派遣技術專家的經驗,在中國水産領域來説,從資本主義國家請來專家,也屬首次。

當時中國和蘇聯以及東歐的共産主義國家間,技術人員的互相交換派遣,頗為活躍,不過這體系根據互相對等主義,有著「由發專家招聘的國家,負責承擔專家的生活費或日常生活上的零用以及一切的必要經費」的慣例。反過來,在派遣專家的情況,則受派遣的國家會承擔一切。

對授課者給予謝禮,以及技術傳授時給予專家報酬等的想法,在當時以中國為首,蘇聯或東歐的共産主義陣營裡是不存在的。

我從農林大臣那裡接受到的出差命令有「…但不支付旅費」的但書。這是站在以資本主義國家的慣例「當然地,旅費之外的一切,由邀請方支付」的前提。再且我們由日中漁業協會包含有準備金的旅費,以事後結算的預付金形式,借了相當的金額。但是如果中國方面付不了的話,那麼這貸款就還不了了。而且這絶非是「少數目」的金額,「咬!,該怎麽辨?」真被困惑了。

隨即以電報向日中漁業協議請求妥善處理的對策。東京對中國漁業協會的回電竟然是:「敬請關照處理」。現在想起來,雖屬笑話,被人問到「敬請關照 … 等等」到底是什麼意思志?而不知如何回答。光是用電報是不會有結果的。顯然,東京一直都不理解中方的系統。

協定文中有記「專家的交流」,但這經費的處理方法等則什麼都沒規定。雙方的事務方面的協商很難終結。這全因是雙方首次的經驗,去理解系統的差異似乎對中方和日方都非容易。中方也不能採用違反國内規定的措施。

打破僵局的是楊U會長的英明決斷,那就是「雖不能以籌謝金形式支付, 但能以同等價値禮品的形式來處理」。亦即並非「pay in money」而是「pay in kind」 …。中國方面提供數10萬日元、數百萬日元價値的翡翠和貂皮等。日中漁業協議以及我們都同意這方案,總算能放下心了。楊U會長的提案是「雖不能給專家個人添麻煩。由於規定不能以金額來支付,但實質上會有相同的結果。可能是特別的措施,不過可否同意這個?」。日中漁業協會和我們都同意,而問題也解決了。

楊U會長在百忙中安排時間,介紹了高樹頤先生(副會長)和王雲祥先生(後來成為楊U會長的代理)還有政府的水産部長的許コ衍先生,擔任駐日本大使的趙安博先生,中日友好協會長廖承志先生等,並給安排了參加國慶節,參觀中國科學院動物樓,以及其他很多的方便。

訪華的主要目的是在上海水産學院授課,因此我們不久就離開了北京。因此跟楊U會長的交往是非常短暫的。就那麼這一次,再沒有與楊U會長重會。遠超過「一期一會(一生一次)」這句話的字面意義,我學習到了很多的事情。

對我們水産人來説,身為戰後第一次締結有關日本和中國間漁業的協定,即1955年與日方的日中漁業協會代表團團長七田末吉先生,楊U會長作為中方的中國漁業協會代表團團長而簽字,這都該被記入歴史中。印象中,回憶中國漁業協會的第二任會長蕭鵬先生以後的歴代中方會長的人有很多,不過,在過了半世紀的今天,知道第一任是楊U會長的人就真的少了。

後記

 料想不到的日後談

30幾年後,前年(1991年)在赴上海的東海水産研究所講課之際,剛巧與從北京農業部來的人相識,尋問了楊U先生的安況,聞説「楊U先生退休在北京,精神還挺好」。4年之後,卻很遺憾地得知其已仙逝了。

今年(2005年)從中國的某位女性那兒,收到了一封電郵。内容是「在日文網站檢索楊U的名字搜尋到貴方的網頁,拜讀了文章。楊U是我的父親,雖作古已久,可是得知日本還有記得家父的人,感覺既驚訝又懷念。」。是流暢且漂亮的日語。

這完全是料想不到的事,讀了這個郵件後,刹時間,半世紀前相識的楊U會長的事,一幕幕的過往影如駆馬燈般的憶起,驚訝之餘,懷念之情翻滾上湧。立刻寫了回信,向楊U會長的女兒表達「來日若有日本行的機會,或者住在日本的首都圈内的話,懇請能與相會」的心意。

楊女亦回信「非常希望能相見」,因此與楊先生的孫輩們一起相會。兩人均有日本的大學的留學經驗,談及故人楊U先生的懷舊回憶話題等等,度過了快樂的時刻。據説楊U先生的妻子在北京還健在。

雖屬齊東野語,但在水産領域裡,不論日本或中國,或官方或民間,以組織單位進行學術交流(專家的派遣和接納等),1957年的我們算是首宗案例,但此後因為中國發生連年動盪,大躍進運動、文革等混亂局面而不得不中止,再開始的時候,倏忽已是經濟改革後的1980年代中期後了。

參考文獻

中國漁業協會五十周年(1945〜2004)。2004年12月,《中國漁業協會五十周年(1945〜2004)》編輯組。65 pp.(中文)。

這個冊子,開始有中國漁業協會歴任會長的正面半身照片。而第一任楊U會長的照片為K白的,説明著年代。同樣地,出席初期數張重要會議的出席者的合影照片,也是K白的。

在照片裡面,可以看見廖承志,王雲祥,蕭鵬,還有其他幾位我以前曾交談過的人們。在日本代表團裡,同樣地和七田末吉,江口次作,コ島喜太郎(當時民間協定參與者),鎮西迪雄(政府間協定締結之後)等見過,並曾和他們有過討論過的幾位先生,特別想起當時民間協定在全面解決所有問題的時候,曾經與江口先生和コ島先生等經常進行議論的情形,仍感覺懷念。

冊子後半部分為歴代會長的回顧和協會的大事紀,翔實記録了中方的漁業歴史。

 

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雲鷹丸と山田五十鈴

雲鷹丸と山田五十鈴

− 明女優の山田五十鈴のロケが雲鷹丸の甲板上であった。こんな美人が世の中に居るのか?と我を忘れて見取れて居たのは良かったが、終わって学生寮に帰る途中、左かかとで路上にあった釘の出た古板を踏抜いた。薔薇には棘がある?と言うことか? −

2005/10/16

真道 重明

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では80歳代の後半、殆ど90歳に近いだろうが、山田五十鈴と言えば平成12年に文化勲章を受章した映画や舞台切っての大女優である。越中島に在った母校の岸壁に繋留されていた雲鷹丸(米国式遠洋捕鯨船バーク型帆船)の甲板上で「映画のロケがある、山田五十鈴が来るらしい」という噂が突然学内に流れた。私が母校に入学した1939年かその翌年か?である。指折り数えると65年〜67年も以前のことであり、季節が何時頃だったのか、何時頃だったのかも、記憶が明確でない。

この噂で学内は騒然となった。私達のクラスは植物学概論の講義が始まろうとして居たが、軽妙洒脱の明講義で鳴らした恩田経介先生が「そわそわして、どうせ講義は頭に入らんだろう。特別休講とする。見に行け!」とのこと。一同は岸壁に突進した、人集りの山であった。母校としては、このようなことは空前の出来事であったようだ。

私は映画のロケーションの現場を見たのはこの時が生まれて二度目である。一度目は大阪の天王寺公園で小学生の頃。七・八名のちょんまげ姿の俳優が大刀を持って大立ち回りをするシーンであった。物凄いスローモーションでまるでスペース・シャトルの宇宙遊泳のようであり、緩やかな「舞い」を舞っているようで、これには子供心に吃驚した。あれを早回しすれば早業のチャンバラになるのだろうか?そして二度目がこの山田五十鈴である。この時は今見る普通の映画撮影であった。

シーンは僅か数齣で、前後の準備と事後片付けの時間を除くと、演技時間は各齣の計で1時間足らず、実質の撮影時間はもっと少なかったように思う。脇役の水夫に扮した数人が船のロープを背後で片づけている。漁撈科の上級生の誰かが「その所作は間違っている。帆船のロープは非常に大切に扱うもので、このように扱う方がよい」と監督に話した。映画監督はその助言に非常に感謝してお礼の言葉を述べていたのを記憶している。

そんなことより私が感動したのは「こんな綺麗な人間がこの世の中に存在すること」だった。五十鈴の伝記年表から勘定すると、彼女は22歳頃となる。あまりの美しさに「呆気にとられて」というか、「我を忘れて」というか、オーラと言うのだろうか、まるで後光がさしているように思った。大袈裟な…と思われるかも知れないが、本当に私にはそう思われた。映画やブロマイドではなく活きて動いている実物は驚きそのものだった。

監督の指図の侭に、海を見詰めたり、横を向いたり、一つ一つのシーン毎の齣を摂るだけの話であり、その意味では面白くも可笑しくもない。齣と齣の合間の待ち時間には数名の助手が日傘を彼女に差し掛けていたように思う。話はこれだけである。

今の若い人に話すと、山田五十鈴という人を知らない者も居る。知っている人は「あの大女優が母校でロケなんて嘘だろう、先輩(私のこと)とうとう呆けが始まったんじゃないか?」などと冗談交じりに一蹴される始末。こんなことは母校の70年史や100年史などの公式文書には記録されていないから、そう言われても反論する証拠が無い。当時の在校生約300名〜350名の記憶に頼るしかない。そこでもの好きと言われるかも知れないが、同級生の本荘鉄夫さん(岐阜県水産試験場名誉場長)に電話した。

「あー、憶えている。憶えている。何年だったかはハッキリしないが、恩田先生の講義だったと君が言うのであれば恐らく一年生の時(1939年)だろう。相手役は早川雪舟だったと思う」とのこと。私は五十鈴のことばかりで相手役が早川雪舟(ハリウッドで俳優となり、戦後「戦場に架ける橋」で日本人に良く知られるようになった。世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気を獲得するほどの世界的な男優)でそこに競演していたことはコロット忘れている。

本荘さんは加えて「あんな妖艶な美女を見たことがないので吃驚した。此方が若い20代ということもあったのだろうが…、君が後光が差していたように見えたと言うが、実は俺もそう思った。」と云う。皆同じことを感じて居たのだろう。卒業後60年以上経つ付き合いの中で、この時のことを話題にしたのはこの電話の会話だけである。

話をロケに戻そう。ロケが終わって皆が引き揚げるとき、私は構内の学生寮に向かって歩いていた。構内の路上に錆びた釘が上に向かって突き出ていたのを踏みつけてしまった。いわゆる「踏抜き」という奴である。あまり見慣れないものを見たせいか、「綺麗な薔薇には棘が在る」と云う言葉を想い出していた。二三日片足を引き摺っていた。

先日調べてみたら山田五十鈴の夥しい出演映画のタイトルの目録の記録にはこの映画は記載されていない。恐らく何らかの理由で「没」になったのだろう。未だ太平洋戦争は勃発しては居なかったが、軍部の検閲は厳しかった。そのせいか否かは分からない。現在では「私達に取っては日中戦争最中の非常時と云われた中の僅か数年間という短いささやかな束の間の青春時代」の想い出の一つになってしまった。

 

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Furusato

私のふるさと

記憶の中にしか存在しない私の郷里

2006/04/19

真道 重明

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この頃は歳のせいか時々「ふるさと、郷里・故郷」と云うことを考えることがある。誰もが「故郷」と云えば、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」 の歌を想い出すようだが、そのような田舎を郷里に持つ日本人は、明治や大正の時代は兎も角、今ではそんなに多くはないのでは無かろうか?

「自分が生れた土地。自分が嘗て住んだことのある土地」などと辞書にはあるが、私の場合、生まれた土地は当時の慣習で母が京都から実家の熊本に戻って出産したので、乳児の私にとっては全く記憶にない。自分が嘗て住んだことのある土地は、23年住んだ勤務地の長崎が、「物理学的時間」としては一番長いが、懐かしい想い出は沢山あるものの「ふるさと」と云うにはもう一つピンと来ない。

自分に子供としての「物心がついて、鬼ごっこや隠れん坊をして遊んだ時に住んで居た土地」と云うのが、私には「故郷」と云う言葉の定義に最もピッタリする。人によっては、幼少期に親の職業柄2-3年置きに次々と転勤し、何処か?と問われても一概に言えない場合もあろうが…。

「田舎に故郷を持たぬ人、哀れ」と某詩人は詠った。この詩人の気持ちは分かるが、その詩人の云う「哀れ」な人は沢山いる。都会で生まれた人はそうだ。私の場合、生まれた処は町で兎を追うほどの田舎ではないし、幼年期を過ごした大阪は大都会である。

私に最もピッタリする「故郷」は大阪市の住吉区(今の東住吉区)の田辺に在る山坂神社一帯である。大都会の大阪ではあったが、この付近一帯は大阪市の中心部ではなく、南郊の「通勤者の居住区」、私が育つ一昔前は「田辺大根」で有名な田畑の耕作地帯であった。1920年代の後半期であり、今流に云えばベッドタウン的な側面を備えていた新興地でもあった。

大阪の中学を経て東京に進学し、兵役。戦地から復員して就職後、30数年ぶりにこの地を垣間見る機会があった。仕事の関係で僅か数時間の余暇を利用してこの一帯を駆け巡った。驚いたことに神社と町の大通りの地理を除くと町の景観は大きく一変していた。神社にしても「探偵ごっこ」を良くした鬱蒼とした木立は疎らな林、祭礼時に屋台で犇めき合った広大な境内の広場は半分ぐらいに縮小されている。

中学入学時に新しい制帽を被って喜々として歩いた公園の桜並木は数本を残すのみ。美しかった公園の噴水やブランコや遊戯施設も無くなり、錆び付いた水道の蛇口がポツリと一つ残る侘びしい空間となっている。一体どうなったのだろう?。戦争の空爆後その侭放置されたのか?町全体が縮んで了ったようだ。しかし、よく考えてみると幼児期の目線で見た神社や公園の広さと大人になった目線での広さや街路の長さは感覚に大きな差があることを思い知らされただけで、別に町が縮んだ訳ではないらしい。

更に70数年後の現在、Web 上でこの地一帯を調べてみた。30数年ぶりに訪れて驚いた以上に一層様変わりして居る。何もかも変わっている。私の幼年時代のこの地は最早この世には存在しないとツクズク思った。それは私達老人の胸中に記憶として残っているだけだ。

思うに、幼年期のこの地一帯は大阪のベッドタウンとしての新興地で、大阪市も住吉区も公園や桜並木などを新設したり植樹したりして居住環境の整備して居たのであろう。公園の施設も新しく綺麗だった。阪和電鉄も開通し市内中心部への交通も便利になった時期である。「♪ 昭和、昭和、昭和の子供だ!僕たちは!♪」という歌が流行っていた。

インターネットというものは(いい加減な内容も多いが、情報は百科事典が遠く及ばない情報を得られる点では非常に有り難い。この地域に関連するサイトを覗いてみると私が知らなかった多くの事柄が記載されている。その最たるものは上述の「山坂神社」である。田辺宿弥が祖先の天穂日命を祀ったのが始まりであり 素盞鳴命、猿田彦命ほかが合祀されている。周辺から山坂遺跡が発掘されてることからこの山坂神社が前方後円墳であるという説もあるとのこと。

祖母が良く参詣していた「法楽寺」も近くにあったが、ここも大阪市の中では有名な処だそうである。法楽寺は真言宗泉涌寺派大本山だそうで、本尊は不動明王。本堂には併せて右脇陣に、釈迦牟尼佛・如意輪観世音菩薩・地蔵菩薩を、右脇陣には十一面観世音菩薩を本地とする大聖歓喜天を奉安。現在では近畿三十六不動尊霊場第三番ならびに大阪十三佛霊場会第一番、役行者霊蹟札所として一筋の信仰に支えられ、八百年の法灯を守り続けている処だそうである。

祖母と共に「鳩に豆をやったお寺」としか思って居なかったが、80歳を過ぎてこんなことを知りビックリした。幼稚園・小学校を通じてこのような由緒ある神社や仏閣だと云うことは一度も聞いた記憶はない。毎日遊びに行った只の氏神や上の近くの普通のお寺としか思って居なかった。学校の先生も当時は知らなかったのかも知れないし、たとい知っていても進学のための国漢英数ばかり、郷土史などの課目はなかった。

私が大阪市立田辺尋常小学校に入学した1929年(昭和4年)に阪和鉄道(JR阪和線)が天王寺から府中まで開通し、始発駅の次の駅として「南田辺」駅が自宅の近くに出来た。その次は「臨南寺」駅(現長居駅)であった。2年後には天王寺駅と南田辺駅の中間に「美章園」駅が出来、中学に通うには此処で下車した。新興住宅地としてこの辺一帯は交通手段も急激に発展中だった。

80歳を超えた今になって調べてそのような状況に在ったことを認識したが、子供の頃は何も考えなかった。臨南寺にも良く蜻蛉釣りに行ったが一面の畑の中にポツリと在る小さなお寺としか思って居なかった。今では臨南寺東洋文化研究所のある学術的にも名刹であり、寺の佇まいも一変している。

私が軍隊に入隊した1943年(昭和18年)に大阪市は22区制となり、住吉区は阿倍野区・住吉区・東住吉区に3分された。総てが様変わりしてしまった。一面の田ん圃や畑、蜻蛉釣りをした野井戸の多い野原、オタマジャクシを掬った小川、蛍の飛び舞う池の畔など、すべては消え失せた。

書き尽くせない想い出一杯の私の「ふるさと」は只私の脳裏に記憶として存在するだけになった。当時を話し合える級友も多くがこの世から去った。鳴呼…。

 

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Kibesaki

木部崎修君との交友記

 

熱血漢で苦労人だった彼も今は現世に居ない。

クラスの兄貴分だった彼。想い出す侭の交友録。

 

2006/02/19

真道 重明

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最初に  同級時代  軍役時代 在職時代   OB時代 P.S. 

 

最初に

最初に

部崎 修 きべさき・おさむ、1917〜1989 (大正6年〜平成元年)、享年73歳は私の農林省水産講習所の養殖科の同級生である。同級と云っても彼はクラスの最年長、私は四修の若僧、歳は5歳も離れていた。学術論文関係や職歴まどの公式記録は別として、彼に関する記事は同窓(誌).などに同窓の佐野 蘊(おさむ) 氏が「楽水の人々抄」で略歴を、また、同誌に同級生だった本荘鉄夫君が追悼文を載せている以外、極めて少ない。書き残して置きたいと常々思いつつ過ごしたが、追悼の気持ちを含め、ようやく此処に記したく筆を執った。

木部崎君と私は学校は違っていたが、同じ大阪の中学校を出て居り、若い頃には農林省の水産研究所では同じ西海区水研に居たこともあり、学生時代から互いに家を訪問し合い、一・二泊したりした仲だった。東京に出てから、私は学生寮や下宿生活だったが、同君の家はご尊父が向島の大手ビール会社の技術責任者だったので、時々訪ねてはご馳走になったりした。

彼の生家は代々大阪の中心である堂島のお寺で、ご尊父はお寺の住職を継がず、僧侶とは縁遠いビール醸造の技術者となりドイツ留学の経験者であったと聞く。同君の兄は太平洋戦争で戦死したとのことだった。

同君の語るところでは、若い小中学生時代は実家ではなく、親戚の家に預けられ、親戚だから全くの他人とは云えないが、厳しい家庭でいろいろと躾けられたそうである。夜は仲々寝付けず、心臓の鼓動で悩んだという。二重心音というもので、ドキドキでは無く、ドゥドゥ・キィキィと心音が聞こえたとのこと。預けられた家では決まって夜の団欒時に紅茶が振る舞われる習慣があり、それが就寝を妨げる原因だと云うことが、数年経ってから判明し、それ以来紅茶を飲むことは止めたと云っていた。

その後も生涯を通じて紅茶は飲まなかった。彼の死因は心臓疾患であるが、生涯を通じ心臓には気を遣って居た。緑茶や珈琲は大丈夫だが紅茶は成人してからも飲むと心臓に違和感を覚えると云っていた。

実家では無く、半ば他人の家庭で幼少時を過ごした経験は、幼な心にもかなり辛いことも多かったのでは無かろうか?そこを離れ長ずるに及んで、社会人になって後、皆から「苦労人」、「人の面倒見が良い」などと評された遠因は、この幼少時代の環境と苦労により「人間社会の機微を会得していた」ことに在ったのでは無いかと私は思っている。

例えば、「人に忠告する場合、タイミングが重要だ、無闇矢鱈に問題を指摘しても、受け入れられないか恨みを買うだけだ」、「年長者だからといって威張るな。自慢するのは未だ愛嬌があるが、威張るのは百害有って一利無しだ」など5歳も若い私にとっては親父の説教か修身の先生のようだった。

同級のQ君は「彼は世渡り上手だ」と評していたが、私はそうは思わない。損得利害を考えず、寧ろ我が道を歩んだ人だった。理不尽で苦しい局面に遭遇しても決して「恨みごと」を口にしなかった。唯ひたすら無言で耐えていたように思う。泣き言を聞いたことがない。その人柄は凡人の私などの足元にも及ばなかった。

彼の享年は73歳、私は今年84歳、彼より10年以上長く生きている。しかし、彼は私の胸中では何時も兄貴である。彼の死は突然だった。今時に73歳は如何にも早く逝って了った。私はその時 FAO と世界銀行の共同ミッションに参加しローマに居り4ヶ月日本を留守にして居た。彼が生きていたら、あれも話したい、これも話したい、彼はどう言うだろうか?聴きたいことは山程在る。

彼の生前、二人だけの宿直室やお互いの家の二人共寝の部屋で、「徹夜して語り明かし論じ合った機会」は、彼に先立たれて、もう二度と得られなくなった。

 

在学時代

同級時代

 

彼の家は向島に在り、尊父は向島のビール工場の技術者だったと上に書いたが、所謂「アサヒビール」である。戦前は吾妻橋工場と呼ばれた(現在のアサヒビール本社ビル)。ドイツに留学し、その後も度々ドイツを訪問して居たらしく、ヒトラー・ユーゲント(ヒトラー青年団)身に付けた短剣などが土産品として家にあったのを覚えている。フィリピンに清涼飲料会社を設立するため活躍し、80歳を超えて当時9時間も掛かった特級「ツバメ」で大阪東京間を行き来するなど有名な技術者だったようだ。

日本におけるビール発祥の地の一つは大阪吹田市の「吹田村醸造所」(1891年)と記録されているが、彼が小中学生の頃預けられた親戚の家は吹田に在り、彼の出身中学に極めて近い。彼からは何も聴かなかったが、可能性は充分あるような気がする。ツイ余談になったが、話を戻す。

学生時代私がよく訪問した向島の家には、何時も僅かに半濁したビールの瓶が階段の下に山と積まれていた。味も風味も全く異常は無いのだが、出荷時の検査で撥ねられる。社員には只で払い下げられたらしい。良く飲まされた。

クラシック・ギターを私が習っており、アルゼンチン・タンゴも好きだったから、蓄音機(多分手回しだった)で幾つかの名曲を聴いた。その中に ”DIMELO AL OIDO” (耳に囁け)という曲があり、とても印象に残っている。

NHKのラジオ深夜便では毎月アルゼンチン・タンゴの時間があるが、この数年この曲は聴いたことがない。OIDO とはスペイン語で耳のことらしいが、「オイード」の発音は大阪弁の「おいど=お尻」と似ている。「尻に囁け」とは変な曲名だと大笑いした。

向島の家の近くに永井荷風の「墨東綺談」で有名な「玉の井」(戦後は「鳩の街」と呼ばれ映画や小説で名を馳せた迷宮のように道が入り込んだ歓楽街、ハッキリ言えば私娼窟が在った。ビールの後「俺は場所は近くで見当は付くが未だ行ったことはない。社会見学に行ってみようか?」と云う。これも勉強だ」と早速同意した。

確かに近かった。多くの小説や映画の題材になるだけあって、実に一種独特の世界である。彼も私も制服姿である。「おい、帽子を脇に挟んで隠せ」と彼は云う。学校は深川の越中島にあり、近くには辰巳芸者(羽織芸者)で有名な門前仲町の花街があったから、「待合い茶屋」などの歓楽街は知っては居たが、それとは全々異なる空気が漂っていた。

当時、向島には待合い茶屋などのある花街もあった。道を歩くと芸者姿の若い女性が箱をぶら下げて小走りに行く。仲には洋装もあった「彼女らは何者だ?」と聞くと「ダンス芸者だよ」との彼の返事。彼はそのような世事には長けていた。勿論遊び人という意味ではない。

「お前、『今半』と云う言葉を知ってるか?」、「知らん」と答えると「浅草などの映画館で『今からの入場料金は半額だという意味だよ」と教えられた。当時は普通3本建てで、途中で自由に出入りできたが、一日の最後の上映時間では1本が終わる頃から入場料は半額になったらしい。「今から半額」を縮めて「今半」と称したらしい。いろいろ教えられた。

彼は私より少なくも5年以上早く東京に移り、スッカリ東京弁になっていたが、子供の時「おっちゃん、ペロペロ一銭でぇー」など子供の使う言葉は勿論良く憶えていた。ペロペロというのは子供向けの駄菓子屋で売っている赤や青の毒々しい色に染めた「蕨餅」のことである。今もあるかどうか?は知らない。こんな話をすると切りがなかった。

 

軍役時代

軍役時代

 

戦時特例法で正規より半年早く本科を卒業した彼を含む同級生の多くは1942年(昭和17年)に応召された。私はクラスでは唯一例外で専攻科に進むことになって居たのでその侭学校に残った。彼ともう一人のM.H.君は卒業後直ちに水産局に就職した身分で陸軍に召集されたことになって居る。

真道の私事だが、クラスでは唯一例外として専攻科に進んだのは、書きかけの研究を続けたい気持ちが強かったからだが、学校側も、真道が兵役が済んで帰還してきたら、1944年(昭和19年)に海軍に強制接収されて居た横浜の金沢実習場(貝類養殖)の代替地として千葉県の五井を考えていたので、当人が納得すれば其処に行かせることを科内で考えて居たそうである。

だから、専攻科進学の希望は直ぐ受け入れられたのかも知れない。しかし、この学校側の思惑は、日本の敗戦で当面はどうにもならない事態になって了って居る・・・と云う話を復員後の後になって聞かされた。

木部崎君は陸軍予備士官学校を経て船舶工兵となり、敗戦時には陸軍中尉で召集解除となり、水産局に戻った。

本科卒業後、未だ入隊前、彼は大阪の実家に戻ってそこに居り、私は夏休みで大阪の家にっていた。心斎橋のビルにある名の通ったレストランで彼を招いて、二人だけの送別の宴を張った。

宴と云えば聞こえは良いが、メニューは北海道産のやや鮮度落ちしたホッケのムニエル、酒類は無かった。数年前までは立派なレストランであったが、食糧事情は緊迫していた。唯テーブルだけは左右にナイフとフォークがセットになって並び、最後には大豆を焦がしたサッカリンで甘みを付けた偽珈琲も出た。

♪「赤い灯、青い灯、道頓堀の・・・」、♪「テナモンヤ、なーいか・ないか・・・」で賑わっていた大阪の道頓堀・心斎橋・千日前などの繁華街も戦時色でスッカリ雰囲気は変わっていた。

この時何を話したのかサッパリ記憶にはない。赤紙が来ただけで召集されても兵科が何であるかも決まっていない。「頑張って来いよ」、「生きて帰れよ」、など心にも無い月並みの言葉だけは一切無かったのは確かだ。

総じて召集から召集解除迄の経緯は誰からも・・・というのは、殆どの友人からだが、詳しい話を聴いた覚えはない。誰も話したくなかったのだろう。ぼつぼつ話が出はじめたのは、50歳を超えた年齢になってからの同窓会などの席上だ。

彼は甲種合格で、上記のように陸軍予備士官学校を経て船舶工兵として軍役に服し、外地には出ず九州南端の枕崎で陸軍中尉として敗戦を迎えた。ちなみに彼の奥さんの伊和子さんは枕崎の人である。

話は逸れるが、枕崎の方言は他県の人には分かり難い鹿児島弁の中でも一際変わっていて、東北のズーズー弁のような訛りがある。戦後聞いた話だが、伊和子さんを訪ねてきた伊和子さんの母と伊和子さんとの二人だけの会話は彼には全く理解できず、「俺は言葉が通じない外国人と結婚したような気がする」と云っていた。

彼の上官だった某少将は将校を集めて軍隊での出世方法を訓示し、「兵や下士は自己の昇進の道具だ。昇進のためには兵や下士の生死を無視すること、これが軍隊での昇進の極意だ」と云ったという。正義漢で熱血漢だった彼は「何というヤツだと内心呆れ返った」と感想を漏らしていた。

話は戻るが、彼が何故「船舶兵」だったのか?は母校の専攻科に進んだ為に1ヶ年半遅れて応召された私の場合と似ている。戦前の日本軍には空軍と云うものは無かった。陸軍と海軍だけである。夫々に航空隊を持って居た。周知の通り陸軍と海軍とはソリが合わなかった。

船舶兵と云う陸軍の兵科も「陸軍の持つ海上戦闘隊」である。海軍には「陸戦隊」と云う「海軍が陸上で戦闘をする部隊」があった。船舶隊は航空母艦まで持つことを考えていたと云うから驚きである。縦割り組織の矛盾を抱えた侭、陸軍と海軍間には戦略の齟齬も多かったようだ。こんなことで戦争に勝てる訳はない。

徴兵検査に合格すると兵科が決められる。陸軍の場合、履歴を見て水産を勉強したのなら海やら船には詳しいだろう。工兵に属する船舶隊要員だ」と実態も調べること無く「工兵科配属」にされて了う。彼の場合、偶々所属師団の中の工兵の兵科の中に船舶隊があった。私の場合、熊本の六師団の工兵の兵科には船舶隊が無かった。そこで架橋中隊に配属された。

実にいい加減な兵科の振り分け配属の処理法だ。水産の学校と云っても養殖科や食品の加工科は船のことは余り・・・と云うより殆ど習わない。適材適所どころの話ではない。履歴書の最初の1行をチラット見ただけで配属先が決められる。

 

在職時代

在職時代

 

私は未だ中国の戦地に居たが、彼は国内に居たから敗戦後間も無く召集を解除され、そして自動的に水産庁に復帰した筈である。公式記録は見て居ないが、1945年末か翌年1946年の始め頃のことである。私はと云えば、同年(1946)の晩春に戦地から日本本土に帰還、久里浜で召集解除、復員して大阪に居た両親の疎開先(郷里の熊本)に戻ってホットした処だった。

2ヶ月ほど休養した後、今後の身の振り方を決めるため上京して母校を訪ねた。大阪の心斎橋で彼と別れて以後、彼と再会したのはこの時である。なお、越中島の母校の建物は占領軍に接収され、マッカーサーの親衛騎兵隊が居り、母校は隣りの高等商船学校の一角に仮住まいして居た。

本科養殖科の卒業時の担任だった稲葉伝三郎先生の計らいで彼と先生と私は3人の面談の機会を持ち、仮住まいの水産局を訪れたりした。夏の最中で、3人揃って「かき氷」を食べたことを覚えている。これが当時のご馳走だった。その時にどの様な話をしたか殆ど覚えていない。銀座通りを闊歩する米兵の姿は印象的だった。

千葉の幕張に居た同級のY.I.君と連絡が付き、同君の家を訪れ同級生3人で直ぐ地先の海岸でアサリを捕りに行き、腹一杯アサリを食べた。この辺りの景観は今では一変して居るが、当時は目の前の浜ではアサリが多く、アッと云う間にバケツ一杯捕れた。山のように積まれた貝を「旨い、旨い」を連呼し乍ら食べたことを先日のように想い出す。.

詳しくは知らないが、水産庁に復帰した彼は、最初は漁船保険課の仕事などを遣らされたらしい。許認可の権限を持つこれらの仕事では、床柱を背にして上座に一人座り、頭の禿掛かった年配の業者等が、畏まって「お流れ頂戴」と平蹲ばる宴席が多く、若い彼にとっては「嫌で堪らなかった」らしい。

遂に、水産庁長官(塩見知之助)に申し出て、水産研究所に転勤を願ったと彼から聞いた。塩見さんは彼の採用試験官の一人だったので、彼の顔を覚えており、彼の願いは聞き届けられ、農林省水産試験場の兵庫県の日本海に面する香住町にある「香住分場」に勤務するようになった。

私は同年(1946)の夏、上述のように就職のため上京し母校を訪ねた際、専攻科時代の恩師でもあり当時、農林省水産試験場の場長でもあった田内森三郎先生の斡旋で、同じ職場に就職した。勤務先は九州大学の天草臨海実験場内に設けられた同水試「天草分場」である。従って今から思うと、場所は異なるが、同じ試験場と云う職場に殆ど同時に就職したことになる。

1948年、8水研構想に沿い、私は天草分場から長崎市の丸尾町の県水試構内敷地内に移り、1950年4月、官庁名称変更により西海区水産研究所と改められ、同年末、私は遠洋資源部生物第1課長を命ぜられた。上記の香住分場に勤務していた彼の処も、新潟に本所が在る日本海区水産研究所の香住分場に名称が変わって居たが、私が生物第1課長となったのと同時に日本海区の香住から西海区の長崎に転勤し、同じ西海区の遠洋資源部の生物第2課長と云うことになった。

彼のために予定されていた社宅は私の社宅の斜め後だったが、転居の家財道具の梱包は到着後未だ開かれない侭の状態、私の家に招いて取り敢えず夕食を共にした。奥さんの伊和子さんと会ったはもこの時が初めてであった。仲々の美人だったが寡黙で気が強そうな印象を受けた。

奇しくも同じ職場で共に科長として仕事をする形になった訳だが、その後約10年目の1960年には共に水産学会賞を受賞、同年末にはこれまた共に学位を同じ京都大学から受けている。まさに奇縁と云うべきだろうと思う。

今から思うと、この10年の期間が二人とも研究に打ち込み、油の乗り切った時だった。朝は4時ごろ起きて二人は始発電車で魚市場に赴き魚体測定に従事した。二人とも計算や論文書きに無我夢中だった。想い出しても懐かしい期間だった。

二人の仕事上の立場に転機が訪れたのはその後の3年目、1963年のことである。彼は東京月島の東海区水研資源部担に移り、水産庁調査研究部の研課兼務。日米加・日ソなどに従事することとなった。私はと云うと1971年まで西海区水研に留まり、同年半ばに東海区水研に企連室に移った。だから、共に長崎で暮らしたのは13年間ということになる。

その後、彼は1967年に遠洋水産研究所の底魚海獣資源部長、1970年に同所所長、1973年に西海区水研所長、1975年に東海区水研所長、などの重職を経て、日本の水産研究に大きな足跡を残して農水省を退職した。

一方、私は・・・というと、西海区に残って本務の調査研究の仕事の他に、5ヶ年に及ぶ「日韓漁業交渉」の委員として漁業協定の締結、年次会談参加、FAO/IPFC の底魚作業部会メンバー、IPFC 13回総会(ブリスベーン)の日本代表、台湾出張などを勤め、1971年に23年間に亘る西海区を離れて東京の月島にある東海区水研に転出、同所企連室長の山川健重さんが淡水区水研の所長に転出された後任としての職についた。

企連室長と云えば各部の仕事の企画・連絡・調整を担当し所長を補佐する、言わば先任部長のような立場だったが、先輩格の月島育ちの部長も多い。その仲を他所から来た私が取り持つのだ。気苦労の多い難儀な仕事であり、私の性分には合わなかった。

本を糺せば同じ農林省の中央水産試験場同士なのだが・・・。東海区水研は全国に8つ在る水研の中でも、元々農林省水産試験場の本場だったせいもあり、格段に規模が大きく、職員の気位も高く、西の果ての長崎から来た私がことを仕切るのは容易ではなかった。

時恰も環境問題が叫ばれ始め、大都市の住民排水対策のプロジェクトばかり、霞ヶ関の本庁に日参していた。面白くも何ともない。悶々とした日々を癒して呉れるのは FAO の仕事が続いていたので、海外出張でローマに行っている時ぐらいだった。

そんな或る日、突然に水産庁次長の M氏から呼び出され、日本が肩入れして先年創設されたタイ国のバンコクに本部のある政府間機構(國際機関)の SEAFDEC次長の猪野峻氏(水産庁研究一課長を経て広島の南西海区水研所長から SEAFDEC に出向中)が急に辞意を表明され困っている。 FAO の仕事柄から現地事情に詳しい私に「他に適当な人が居ない。急遽、後任として云ってくれないか?」とのこと。

渡りに船とばかり、二つ返事で快諾した。今の侭だと何れ何処かの水研所長に赴任命令が出る可能性が在ったが、当時の所長は労働組合対策の盾となって職員を懐柔し、上からの指示に従わせるよう研究所を仕切るのが主任務、・・・と云うよりその事が仕事の総てで、管理職特訓(所長の部下懐柔策セミナー?)を度々受けた憶えがある。私はそんな立場である所長職には絶対なりたくは無かった。

上層部から見れば「困った役立たず」と思われるのが「落ち」だ。こんな心境に在ったから、上記の次長からの話は「渡りに船」だった。

誤解がないように断っておくが、所長職がこのような立場に置かれていたのはこの当時の数ヵ年間であり、政府対「全農林」労組の衝突が激化の頂点にあった一時的現象である。学園紛争時に苦難した学長と同じだ。

話が私事に逸れたが、私が海外の SEAFDEC に赴任し、その在任中に木部崎君は幾つかの水産研究所の所長を歴任した後、農水省を定年退職して居た。私が11年間も海外に居たこともあって、ゆっくり彼と話し合える機会は少なかった。彼との友交中で最も会話の少ない期間であった。

それでも年に2、3回は打ち合わせのため1週間程度の一時帰国があり、多忙な中で言葉を交わす機会は無くは無かった。彼が東海区の所長時代先輩格のOBの旧上司から、「旧友の仲だ。例の話は宜しく頼む」とその人に取って都合の良い処理を依頼され、彼は言下に「駄目だ」と一言で電話を切った。後でその人は「情も義理もない素っ気ない返事をされた」とぼやいていたそうだが、彼は信念を曲げず一言の下に話を蹴った。

偶々一時帰国の多忙中に水研を訪れ、丁度、所長室に居合わせた私は「相変わらずだなぁー」と感じたことが印象に残っている。彼にそのような「冷たい」と云う感情を持った人は居ただろうが、彼は意に介さなかった。

筋の通らない話には一徹に NO と拒否したが、同輩や後輩の面倒は「身を挺して・・・」と云えば大袈裟かも知れないが、実によく見た。自己の心情に従って一徹を貫く姿は周りからは「熱血漢」、「情に厚い人」と映った。

 

OB時代

OB時代

 

彼は農水省退職後、間も無く退職後の第二の人生として、1977年に全国漁業組合連合会(全漁連)の特別嘱託として数年間勤務した。そして1981年に下関に在る水産大学校の学校長となり、5年後の1985年(昭和60年)まで勤めた。これが彼の公職の最後であった。

全漁連の特別嘱託の数年間は研究畑育ちの彼としては「場違い」の職場だった。後から全漁連の人達から聞いた話では、多くの人が彼のことを知らず「見慣れない人がやって来た」位に思っていたらしい。黙々として彼は与えられた仕事をして居た。

その後彼が請われて水産大学校の校長に移動した際、「あの片隅の机でだた黙々と座っていた人は、そんなに偉い?人だったのか」と首を傾げた者が多かった・・・という話を聞いた。如何にも彼の面目躍如たる話である。彼は決して威張ったり自分を売り込むようなことはしなかった。

私は彼より数年遅い1980年(昭和55年)に農水省を退職したが、SEAFDEC の次長職は政府間協定により継続、身柄は政府を離れてJICA 派遣となり、1984年に SEAFDEC 次長の任期終了に伴い退職して日本に帰国し,退職後の第二の人生を始めた。海外漁業協力財団 (OFCF) から専門家として邀請され1987年まで、主に新しく始めた海外から研修生を招くための組織の策定やその教科書作りに従事した。

今から考えると、同じ母校を出て、同じ調査研究分野で永年を共にした彼と私が、異なる世界に進むようになったのは、上述の私が SEAFDEC と云う海外の國際機関に行くことを決断した時からである。

二人の業務の環境は、業務管理、調査研究、生活環境、その他色々な面で全く異なった形となった。このポストはその後の後任者の多くが2〜3年の任期を終えると、交代して帰国し、日本国内に敷かれた道に戻るケースが多いが、私は元々「のめり込む」癖を持ち、遂に11年の期間 SEAFDEC に踏み留まった。

彼に言わせると「お前はロマンチストだ」、「俺には真似出来ない、羨ましい気もする」と私につくずく云って居た。言い換えれば「夢を追い続けて居る」と云う意味である。裏返せば「現実の桎梏を無視して幻想に生きている」と云うことかも知れない。

彼は「情熱家」、もっと云えば「激情家」の一面も持って居た。生まれた大阪から東京に移り、未だ母校に入る前、当時大流行して居た「東京音頭を躍る催し」を見ていたらツイ釣り込まれ、人に肩を叩かれるまで前後不覚になって躍り続けたと云う。「あのときの心理を法悦境というのだろうか?」と度々訊かれた。踊りは幼稚園や小学校の遊技ぐらいしか経験の無い私は答えようは無かった。

後輩に威張ることは微塵も無く、上を見て出世を考えることも全く無かった。逆に常にしたの人達を見て、時には強い言葉で助言をして居た。しかも人情の機微を辨えて、助言する場合の「時と場所」を考慮するのには、私は何時も感心させられた。

彼が最後の公職を離れて葉山町長柄の家に居た1989年(平成元年)3月19日、早朝、庭の草取りをした後、入浴して居る最中、突然の心臓発作で倒れ急死した。冒頭にも触れたが、中学生時代から二重心音の持ち主だったが、最期は心臓の異常だった。

数年前から横浜の病院に通い、ペース・メーカーを体内に装着する予定だったが、予定期間の最終日を一週間ばかり過ぎていたそうである。元気な毎日だったので余り手術予定日を気にしていなかったのだろう。享年73歳というのは、それにしても早い。ただ残念としか云いようが無い。

残念と云うのはそればかりでは無い。私はその5日前に日本を離れ、FAO World Bank の中国広東省の漁業開発借款問題の共同調査団の Mission member の一員として5月迄中国とローマに居り日本を留守にしたばかりであった。家内が葉山のお宅に飛んで行き、21日の葬儀まで未亡人の伊和子さんと共に弔問客の世話をした。だから私は彼の位牌に接したのは5月に帰国してからである。

その後数回、葉山のご遺族には会いに行った。OFCF を辞めた後、私は中国政府・タイ国政府・FAOJICAOFCF などの邀請で、殆ど毎年数回は日本を離れていた。生憎、彼の「死に顔」には逢えなかった。

母校では同級生として、卒業してからは数10年に亘り同じ職場で過ごし、その中でも10数年は同じ場所で仕事をした彼とは最早言葉を交わすことは出来なくなって了った。今私は80歳代の半ばに差し掛かっている。彼の人生より10年と少し多く馬齢を加えているが、私の胸中には、学生時代の5歳年上の兄貴分だった彼が焼き着いている。今後も永遠にそうである。

KibesakiHoi

補遺:この記事へは同君を知る多くの反響のメールが寄せられた。その多くは「自分も木部崎さんからは親身になってお世話を頂いた」と云う感謝の言葉である。同君の人柄が偲ばれる。中には「熱血漢」、「激情家」等と呼んで居る人もあった。

また、H.O.さんからは長文のメールを頂き、その中で多くの同君との触れ合いの挿話が語られて居た。「人の面倒見の良さ」や国際協定の会議の席上、顔を真っ赤にして相手国に対し反論した逸話など激情家としての一面も語られて居た。「本当に人間味のある方でした」とそのメールの文章は締めくくられて居た。

私は触れなかったが、彼は「釣り」が好きだった。私は左程釣りに興味はなかったのでツイ書きそびれた。一般に短気な人は釣り好きだと云う説がある。その事を彼に話すと「それは正しい、俺は自分でも短気な人間だと自ら思う」と云う返事。私も自分は短気だと思っているが、釣りに興味は余りない。それを云うと「お前は他人から見ると短気とは思われない。気長な人間だ」と云う。誰も自分のことは自分では分からないようだ。

 

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不正変更の監視

MYANMMER1

ミャンマーの混乱で

蘇った往時の記憶

2007/09/28

真道 重明

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「長年に亘り軍部独裁に喘いでいたミャンマー (ビルマ)の民衆は僧侶の決起により庶民を巻き込む大騒動となった」と一昨日から世界中の各メデアは大見出しで伝えている。
私は SEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)の事務局長代理中にSEAFDEC調査部局所属の調査船 Changi号がビルマ海軍により拿捕されると云う大事件が発生、同船乗組員と船を取り戻すべく、急遽ヤンゴン(ラングーン)に赴いた当時のことを想い出した。
私も拘束された東洋一?を誇るインセン刑務所にアウンサン・スー・チー女史も「自宅軟禁状態から同刑務所に移された」との未確認情報もあり、日本人カメラマンが狙撃により死亡した(確認)とも伝えられる。往時を想い出すことしきりの昨日今日である。

 

Changi号の拿捕は1974年4月8日に起こったから、今を去る30数年前の事件である。今回の事件は日本のテレビのニュースで毎回ヤンゴン市内の後継が放映されて居る。逃げ惑うデモ隊や民衆を弾圧する軍は威嚇だけでなく民衆をめがけて発砲している。既に数名の死者が出ていると報じている。政治への関与を禁じられている僧侶までが堪りかねて立ち上がったと云うので10満を超える大デモになったと云う。

咄嗟に私が連想したのはタイ国の首都バンコクでの学生のデモ隊と軍部との衝突事件である。Changi号拿捕事件発生の前年1973年のこと、数百名の学生が死亡したと云われるが、日本大使館の外出禁止勧告を無視した平和呆け日本人観光客が野次馬根性で紛争地区に赴き、流れ弾に当たって死亡した。死亡した学生数は一説では二千名に達するとも云われている。今回のヤンゴンの場合も実際の死亡者数は9名で鼻くその数倍だろうとの報道もある。

今回ヤンゴンで死亡した日本人カメラマンの長井健司さんは野次馬ではない。命を張っての仕事、至近距離からの狙撃の可能性が高いと云われて居る。同氏は1903年にはイラクのバグダッドから生きた記事を送稿し、1905年にはヨルダンのアンマンから同時多発テロ現場を飛び回っり、またパレスチナ・アフガニスタンなど紛争と戦争の現場に危険覚悟で飛び込んだ。 それでメディア界は彼を「戦場のジャーナリスト」と呼ばれて居たベテラン記者だった人だという。何とも痛ましい話である。

テレビの映像を見る限り、ミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(ラングーン)市内の民衆の服装が30数年前とは異なり、シャツとズボンの様式の人が多い点である。30数年前には市内の多くの人達は男女とも伝統のロンジーとか言う巻スカートのような布を腰に捲いていた。腰の辺りで折り畳み、それをキュッと締め付けて内側に挟み込むようにして着ている。暫く歩くと緩んで来るので立ち止まり、締め直す。走ったりすると100 m も走らないうちに緩むので締め直すために立ち止まる。何回も何回もこれを繰り返す。面倒で仕方がないと思うが、何故紐かベルトで固定しないのだろう。不思議だと思ったものだった。

私がミャンマー(ビルマ)を訪れたのは後にも先にも此れ一回である。その時垣間見たヤンゴン市内の状況は本文末尾の「CHANGI号拿捕事件(1)」に書いた。事が事だけに観光ではなく、私達の行動はミャンマー(ビルマ)政府の監視下にあった可能性が強く、私とシンガポールの調査部局の部局長と副部局長の3名はヤンゴン郊外の高級ホテルに殆ど「閉じこもり状態」だった。連日、ホテルと最高法廷との間を車で往復し車窓から眺めた市内の景色、週に1〜2度のインセン刑務所への差し入れ、差し入れ品を購入するための闇市駆け巡りの外出、シェダゴン・パゴダなどの見物は任務待機の空き時間が出来たときのほんの二日程度にしか過ぎなかった。

日本人に会ったのは大使館員を覗くとわずか2名、一人は日本から派遣されていた工学の専門家、他の一人は観光を名目に「拿捕された台湾の高雄基地の漁船を救出する目的で単身入国して居た人だけである。庶民と話したのは差し入れの食品を買った華僑系の料理屋の親爺(北京語は何とか通じた)、言葉が殆ど通じない闇市の商人(多少の英語と身振り手振り)だけ。

極めて異常な条件下の限られた期間の滞在だったが、ミャンマー(ビルマ)と云う国の社会は東南アジアの諸国と比べ、1962年の軍事クーデター以来軍事独裁政権の環境下にあるためか、1984年に私が体験した当時も極めて庶民生活には制約が多い雰囲気にあると私には感じられた。闇市の品数も極めて少なかった。生産される工業品は「アルミ製のプレスした匙ぐらいだ」と聞いた。工場経営など経済を担っていた華僑の大半を追放してしまったらしい。それ以後は殆どの商品は国境を接するタイ国からの密輸品だと云う。闇市ではタイ文字が氾濫していたのを想い出す。

今回の騒動は何度も起こって居たらしいが、僧侶が立ち上がったと云うのは画期的で、庶民が賛同して10万人のデモに一気にふくれあがり、多年蓄積されていた不満が爆発したのだろう。今回も従来通り軍部の制圧で短期間に鎮圧されるのだろうか? それとも一部の人が分析するように「今度の抗議デモは長引く」のだろうか?

30数年前、極端な情報管制を敷いていた政府の下で、人口の9割を占める「素朴な何も知らない農民」は現世を諦め「食うや食わずのなけなしの収入で仏像に貼るための金箔を求め、来世の幸福を求めて祈っていた」と云う。陽光を受けて焼け付くような大理石を敷き詰めた僧院のシェダゴン・パゴダでその様な善男善女を見た。彼等が本当の現世の幸福を何時掴み取れるのだろうか?

日本大使館が雇用していた公用車運転手やタイ国大使館が傭っていた美人のシャン族の女性通訳は英国のケンブリッジやオックスフォード出身で流暢な英語を喋っていたが、高い教養を持つ者は殆ど普通の就職が出来ず、雑用の仕事にしか就けなかったようだ。彼や彼女達は今どうしているのだろうか?もう80歳に近いだろう。ニュースを見て思うこと「しきり」である。

 

CHANGI号拿捕事件(1)   CHANGI号拿捕事件(2)   

 

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