自分の苦痛、他人の苦痛

林 繁一

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(2004年2月28日)

 

最近国内では北朝鮮の拉致行為に対する強硬論が急速に強まっていることに懸念を覚えます。折りしも日露戦争開戦百年を迎え、それを回顧する報道も見られます。先日もNHKが“その時歴史が動いた"の中で日比谷焼討ち事件を放映していました。それとは別に市立図書館で防衛研修所で国際問題を担当しておられた奥宮正武氏の「私の見た南京事件-日本人としていかに考えるべきか(1997年PHP研究所刊行)」を読みました。あの戦争で苦労された人の歴史感覚にかなりの共感を覚えました。自分が受けた苦痛と他人に与えた苦痛とを客観的に見直すことが問題を解決する唯一の方法であるという実感を僅かな国際交渉を通じて持っております。

北朝鮮政府がやった拉致はどなたもいわれる通り、現代の蛮行です。その被害は日本よりも、韓国に対して一層大きいと聞いています。日本政府が拉致問題を取り上げたのに、犠牲者が多い韓国の政府が取り上げないことに対する不満があの国で強いという報道もあります。もっとも私は最大の被害を受けている国は北朝鮮自身であって、脱北の動きを止めることはできないという事実が示しています。ここに他国民に対して残虐な権力者は自国民に対しても残虐であるという歴史的な法則を見ることができます。同じことは、舞鶴の引揚記念館で紹介されているロシア人に対するシベリアの強制労働にも表れています。わが国でも1944年秋以降勝算のない戦いを続けるために若い人たちに途方もない戦術を強いた歴史があります。

考えてみると1910年以降、半島人という蔑称の下、多くの人たちが強制的に移住させられ、劣悪な労働を強いられました。同じ失敗を中国を始め、いくつかのアジア諸国で犯しました。従軍慰安婦の問題も未だに解決されていません。それに対してこの国が示した誠意は「村山談話」とそれに、正式には国事行為ではないはずの天皇のご発言だけといっても過言ではないようです。ドイツが周辺の国に対して示した誠意とは雲泥の差です。それがたとえば六カ国協議でも中国、韓国が拉致問題を取り上げないという立場に表れていると思われます。国際的な見方は「日本はドイツと違って、周辺に親しい国を持たない」というのです。

この国では総理までもが、「国連は守ってくれない、助けてくれるのは米国だけだ」と公言していることも、国際的な立場の弱さを表しています。国連の事務総長が国会でイラクに対する自衛隊派遣に謝意を表しました。国連予算の1/4を負担している国に対する常識的な発言です。その直後の記者会見で、日本の安全保障常任理事国入りを訊ねられた際には、国際世論を知り尽くしている総長は見通しを語りませんでした。歴史を考えずに刹那的に動く政治家しか生み出せない時代の悲劇ではないでしょうか。

時代は動いています。日中貿易が日米貿易を凌駕し続ける日はないと言い切れるでしょうか?脱走者が続いている北朝鮮がいつまでも存在しつづけられると考えられましょうか? 米国官憲は曽我ひとみさんのご夫君が日本に来た途端に捕えると言っています。広島、長崎の市長さんは昨年の原爆記念日に「戦後ではなく、戦前の始まり」と憂慮を示されました。私たちの国に歴史を踏みしめる政治が行われるよう期待しています。昨3月3日夜のNHK総合テレビ「クローズアップ現代」のフランス外相のインタビューを見て、つくづく考えさせられました。

(完)

 

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異常な国際感覚-日本の支配層

林 繁一

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(2004年4月27日)

ラクの人々を助けに出かけた若い人たちが不幸にも武装集団に拘束されて、強い関心を惹きました。彼らを救いたいと望む我が国とイラクとの市民の声が届き、宗教指導者の努力で解放されました。

彼らの真摯な努力には「日本の誇りだ」と激賞した米国国務長官C.パウエルさんを始め、欧米の世論はきわめて好意的です。驚くことに日本の支配層やその配下のマスコミの言動は非常識という他ありません。僅かの期間ですが、国連機関の仕事や国際会議に携わった私は、これらの人々の非常識な発言によって、この国が再び「幼稚な十二歳」として世界から軽蔑の対象にされなければという不安を覚えます。

敗戦直後にある海軍士官が指摘した多数意見に盲従する国民性は変わってないのでしょう。

まず「あの連中は勝手に行ったのだから、国には責任はない」という前近代的な意見です。自己の利益だけを追い求める上層階級だけでなく、日ごろ政治とか、人権とかを考える余裕も、習慣もない人々が少なくないようです。労働運動も抑圧され、自殺や、脱落、過労が日常化している上に、この風潮を育てることで経営を維持しているマスコミの働きもあります。あれほど民営化に熱心な総理も肥大しすぎた実質的な国営放送については何もしませんね。

4月のある朝TBSは在京の新聞をこの勇敢な5人に対する態度によって、好意的な「朝日」、「東京」、中間的な「毎日」、「日経」、悪意を持つ「読売」、「産経」に分けていました。「産経」系列である「夕刊フジ」は「サマワの人たちは自衛隊が帰国することのないよう強く希望している」と報じています。4月17日に発売された「週刊新潮」、同21日発売の「週間新潮」、「週間文春」の記事はかっての「非国民」という言葉を思い出させます。

国際的に見れば非常識な記事が大量に流される背景には、米国を後ろ盾として自己の欲望を満足させようとするこの国の支配層の意図がありそうです。

たとえば破綻した長銀に8兆円もの税金を注ぎ込み、米国の投資銀行に僅か10億円で売り、その新生銀行が株式に上場して2兆円も儲けたのにその利益には課税しないという現実があります。こういう行為を売国というのですが、その人たちが一般国民に愛国心を求めているのです。

その昔米国の代表的な資源研究者の一人が私の研究室に滞在されました。この方の奥様はチリのお生まれでしたが、当時民主的に選ばれたアジェンデ大統領が米国の支援で軍事的に打倒され、同氏を含む多くの人が亡くなったのを悲しんでおられたことを思い出します。

その逆をやっていれば、サダム・フセイン氏も、オサマ・ビン・ラディン氏も莫大な利益を享受できたことも有名ですね。まさかとは思いたいのですが。いずれにせよ、自分の国の最高権力者が米国大統領の愛玩犬呼ばわりされるのは悲しいことです。

イラクの復興を考えれば、自衛隊ではなく、現地の人々に信頼されている非政府組織を含む人々を援助する方が合理的です。国境なき医師団に比べてイラクでの自衛隊の活動はどの程度なのか、国民に示して欲しい所です。

本年1月29日の衆議院イラク特別委員会で日本国際ボランティアセンター代表理事の熊岡さんは「軍隊と一緒に行動すると襲撃される危険がある」、「NGOは年間1億円弱の費用で8〜10万人に1人日当り10〜20リットル給水している」と述べられたそうです。

これに対して、石破防衛庁長官の説明では、自衛隊は400億円あまりを使ってサマワの人口16万人の一割に当たる1.6万人に1人日当り5リットル給水するとのことです。日ごろ効率を重視する小泉氏の意図はどこにあるでしょうか。

(完)

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国際化と村社会意識

「村社会」意識からの脱却なくして日本の国際化など有り得ない

真道 重明

(2004年5月5日)


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個人主義の育たない日本

から何となく感じてはいたが、日本の社会には未だに「村社会」的な意識が強く残っているような気がしてならない。がんらい、日本人は「村社会」を形成している農耕民族だった。歴史的に他国との交渉が少ないため視野がせまく、閉鎖的だった「島国根性」が一層「村社会意識」の温存に追い打ちを掛けたように思われる。

「村社会」における共同農作業、それを基盤とする「豊作祭り」、村八分等々…。常に団体行動が基礎となっていて、個人行動が許されない社会に人々は生きてきたものと考えられる。

小野沢昭志氏が指摘して居られるように、現在は個性が強く求められる時代になったが、「和」が求められる村社会では個人主義的考え方と生き方が育っていないから個性的なものはなかなか生まれて来ない。村社会的な世間体だとかによって拘束されているから、それに逆らった自分自身の考え(個人主義)を押し通すことなど出来ない。集団を基準としているので、個人の心が求める独特な生き方をすることができない。そのような生き方は「つまはじき」されてしまう。

村社会の日本では、「和」を尊ぶあまり、個人主義的考えや生き方を抑えつけて来たから個性が育つわけがない。村社会には助け合い精神があって、それが日本人の社交上の美徳となっている。しかし、そこには限界がある。個人の意志として、例えそれが独りであっても助けるというところまではいきにくい。常に、隣や近所を気にしている。

また同氏は次のようにも述べている。「助ける」ことは日本人だけに限ったことではない。村の共同作業などを通じて日本人は「助け合い」の精神を身につけて来た。それを日本独特の美徳と思っている人が多い。「助け合い」と云うからには「助ける」のと同時に「助けて貰う」ことを期待している。 Give and take である。

しかし、世界の貧困地帯で、個人の資格でボランティアー活動をやっている人たちの数は圧倒的に欧州と米国人が多い。ところが、今の日本では助け合いどころかお金を払って済まそうとする傾向すら強い。助け合いは美徳かも知れないが、それすら日本では何処に?と疑ってしまう。欧米のボランティアーは Give だけで Take は考えていない。

個性を育てることが今の日本にとって大切だが、個人主義という土壌があって初めてそれが可能だと思う。今でも村社会に生きる人の間からは生まれ難い。(以上は同氏の指摘を私なりに解釈した要旨)。

海外経験を積んだ小野沢昭志氏の上述の論旨を読んで私は同感し、常々何となく感じていることに解答を得た気がした。此処でいう個人主義と利己主義とは全く異なる概念である。これを混同している人々が多いのは残念である。

 

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日本を棄てた人

11年住んだバンコクで私が読んだ英字紙と華字紙の記事の話。前項の論旨と一脈通ずる話…だと私は思うのだが…。30年も前のことなので私の記憶は多少怪しいが、確か東北出身の人と記憶する。或る日本人の医師が長年の居住地の南タイの田舎町で逝去された。

葬儀に参集した人数は町全体を挙げての2000人に達した。その町で行われた葬儀としては新記録であると報じていた。この人が何故日本を離れ、タイ国の田舎に移り住んだのかは詳しくは述べられていなかったが、彼の考え方や行き方は故郷の日本では受け入れられず、「村八分」の情況で飛び出したようだ。故郷の人々からは「とんでもない悪人」と評価されているらしい。

しかし、タイ国の彼が居た田舎では、親切で心の温かい人、金のない患者からは治療費は一切受け取らず、まさに「仏陀の再来」のように民衆から慕われていたという。故郷の悪人は其処では非常な善人だったのである。

問題は、この盛大な葬儀のことを邦字紙は何も伝えていないことだ。どうしてだろう?伝えたのはタイ語の新聞、華字紙、英字紙だけである。もっとも邦字紙は当時のタイ国内ではタプロイド版のものしか発行されて居なかったけれども。それとも、日本の故郷での「悪人説」に気兼ねしたのだろうか?

私が思うに、この人は日本を離れた時の経緯もあり、日本の延長上にある在留日本人社会との接触も嫌ったのではなかろうか?在留日本人社会との付合いも余り無かったので彼のことを殆ど知る人は少なかったのかも知れない。

彼の行動は一種のボランティアーと見ることもできる。日本人を援助するボランティアーは認めるが、外国人を援助するボランティアーには無関心と云うのだろうか?

このような人を日本人は「どう評価するのか」が問題である。地元のタイ国の人は勿論のこと、中国人も欧米人も賞賛を惜しまないのに、同し国籍の日本人は、ただ「黙して語らず」である。國際友好を口にし、一方ではこの有り様である。国際化とかグローバル化など云えた義理ではない…と私は思うのだか?

 

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馘になり掛かった日本人学校の教師

 

バンコクに在った日本人小学校の教師がタイ人の女性と結婚した。その教師の担当クラスの父兄から非難の声が挙がった。「タイ人と結婚するような日本人には自家の子供は預けられない」と言うのがその理由である。私はこのことを聴いて開いた口が塞がらなかった。

非難の声を挙げた人は一人ではない、多数の人々であった。嘘ではない。1970年代に実際に在った話である。私自身がこの目で見、この耳でそれらの人から聞いた。一体これらの人々は何を考えているのだろう?タイ人と結婚することが悪いことなのだろうか?話を大ぴらにすることもできず、大使館も日本人会も問題の取り扱いに手を焼いていた。

「そんな日本人教師は罷免して学校から追い出せ」とも言っていた。国際結婚の場合、育った環境や社会観、風俗習慣の違いなど、その後の生活に障害となる可能性のある要因が無いとは言えない。江戸時代に武士の子息が町人の娘と結婚しようとする場合、似たようなことがあった。家柄が「釣り合わない」、「釣り合わないのは不縁の基」と言うのだろうか?

若しそうなら、問題は全くプライベートなことで、「教師と生徒の父兄」といった関係とは別個の事柄である。「優れた民族の日本人が民族として劣ったタイ人と結婚するなど考えられない」と言うのだろうか?そもそも民族に優劣が在るのだろうか?在るのは種々の理由による経済力の差から来る社会情況や軍事力の差だけである。優劣に差が在るなどという考えは、偶々優位に立ったものの傲慢以外の何者でもない。それに気がつかないのにも「程があろう」と言うものだ。

信じられない人も多いだろうが、重ねて言うが「実際に在ったこと」であり、問題はこのような日本人が今の世の中に未だ沢山居ると言うことだ。こんな有り様では「国際親善」だの「國際友好」など口にする資格はない。

欧米人の場合、結婚して地元の人を妻にしたり、夫にしたりして居る例は、勿論、沢山ある。しかし、彼等は決してこのような人々を蔑視したり、村八分にすることは無い。むしろ鄭重に交際している感すらある。双方の架け橋となる存在だからだ。日本人にもその様な例は幾らもある。しかし、上に挙げたような考えを持つ日本人がマジョリティであるのが日本人社会の実情ではなかろうか?

日本人が「村社会」から未だ脱出できないでいる証拠である…と私は思う。

 

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5名のイラク援助ボランティアー自己責任論

 

2004年4月、戦乱のイラクに赴いた5名の日本人が居た。その中の2名は組織には属していないプロのジャーナリストやカメラマンであったが、3名は素人の若いボランティアーで、なかの一人はイラクの子供(Street children)を助ける目的で赴いた女性、他の二人の男性は劣化ウラン弾の実態を調べるなどの目的を持った人々であった。

これらの人々のうち先ず3人、次いで2人がそれぞれイラクで何者かに拉致され、日本国内は大騒動になった。テレビや新聞で連日報道されたから、皆良く憶えて居られる事件である。

問題はこれらの人々がイラクの宗教指導者の努力で解放され日本に無事帰国してからの日本社会の反応である。このホームページに寄稿された林繁一氏も指摘して居られるように、彼らの真摯な努力には「日本の誇りだ」と激賞した米国国務長官の C.パウエル さんを始め、欧米の世論は彼等の行動にきわめて好意的であった。

コリン・パウエル米国務長官は彼らの行動を励まし、「誰もリスクをとろうとしなければ、決して前に進むことはできない」と言っている。フランスの ル・モンドの記事も彼らを賞賛している。

「驚くことに日本の支配層やその配下の一部のマスコミの言動は非常識という他ありません」と国連機関に勤務経験のある林氏は述べて居られるが、私も全く同感である。多数意見に盲従する国民性は変わってない。これこそ「村社会」的な心理から日本が未だ脱却できないでいる一つの明らかな証拠だと私は改めて思った。

彼等を「無責任な者」呼ばわりをして、これでもかとばかりに彼等をバッシングする一部の日本人。彼等は「非国民」であると言う言葉まで飛び出すに至っては開いた口が塞がらない。

「非国民」と言う言葉を久し振りで聴いた。まるで敗戦前の大政翼賛会ではないか。時代錯誤もここに「極まれり」で、世界の趨勢を理解できず、それについてゆけないばかりか、1世紀前の時代の社会感覚(それも誤った部分)に胡座をかいて居座り続けている人でないと想い出せない言葉である。

戦闘地帯に一般人が出向く事は危険で無謀な事であるかもしれない。しかし、彼等は観光で行った訳でもなく「真実を知りたい」、「人道支援をしたい」の一心だったと私は信じている。彼等のしたことが何故「不謹慎」な、「無責任な」行為だと言えるのだろうか?「若気の至り」だったかもしれないが、「若気の至り」が世の中を改革する原動力になった例は世界の歴史では枚挙に暇がない。

とりわけ私は「自己責任の問題である」という形での批判や論説には何か大きな「間違い」と言うか「思い込みの違い」と言うか、そんなものがあると直感的に思った。テレビで親族に方々が謝罪して居られたが、一体「誰に対して」、また「どのような理由で」謝罪しなければならないのか私には良く分からない。

不用意な軽装備をして冬山に登って遭難し無事救出されて、多くの救助隊の救出の「ご苦労とご努力にお詫びする」のなら分かる。それとこれとは動機も事情も全く異なるのではないか?当事者の方々もテレビでお詫びの言葉を言って頭を下げて居られた。それは現地の事情を充分把握しない侭の行動に対してであって、動機についてのお詫びではなかったと私は解釈している。

現地の事情を充分把握しない侭の行動に対してと言うのであれば、その後の現地の情況の推移から見て自衛隊も同じではないだろうか?何はともあれ、この事件は日本社会の精神風土と欧米や世界の他の国のそれとが如何に食い違っているかを我々に見せつけた事件だったように思われて仕方がない。

 

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急  就  篇

私が習った時代の中国語の学習方法

 

真道重明  (2004/05/26)

 

『急就篇』と題する書物には二つある。漢の時代に史遊によって編集された漢字を学習するための書物に付けられた題名で、その方面や書道に関心のある人は皆知っている本だそうだ。
今一つは日本で1904年(日露戦争が始まった明示34年)に出版されたB6版120ページ程の小冊子で、宮沢大八氏にる中国語会話の教科書の書名である。戊辰戦争で西郷隆盛との交渉で江戸を火の海から救った「勝海舟」伯爵の題辞が冒頭にある。小冊子とは言え戦前・戦中は勿論、戦後の初期まで、長期に亘って中国語会話の優れた入門書として一世を風靡し、多くの著名人の回想に『急就篇』の名前が出て来る程の名著である。ここで取り上げるのはこの書物である。

から半世紀以上前の1930年代後半から1940年代前半にかけて私はNHKラジオ講座や東京外國語学校( 東京外語大学)専修科で北京官話を習った。当時中国語を習う人は少なかった。私が80歳を超えた現在、日本では中国語の学習ブームでテレビ番組は勿論のこと、学校も沢山在る。大きく時代が変わったことを痛感する。この頃、時々テレビ番組を見て教授方法が昔と違って進歩し、理論的で理解し易く大きく異なっていることを強く感じる。

当時の日本人の外国語の勉強と言えば、英独仏の言葉であったから、何故「中国語なんかを習う気になったのか?」と良く人から訊ねられた。笑われるかもしれないが、その訳は単純である。小学生の頃に縁日の夜店で孫悟空が活躍する「西遊記」を子供の読み物にした本を買い求め、読み進む中に牛魔王や羅刹女などの話にスッカリ魅了され、是非漢語の原文を読みたいと思っていた。中学生になったときラジオに中国語講座があることを知り勉強を始めた。受験競争に明け暮れる年頃である。「何ともの好きな」と笑われた。

上京して水産の学校に入り水産養殖を専攻したが、淡水養殖が中心の当時、世界最大の淡水面積を持つ中国大陸は仕事のやり甲斐のある地域であると知り、そこで仕事をするのなら言葉を学習しなければならない。このような打算もあって折角ラジオで少し噛ったと言う経緯もあったから、東京外語に夜間の専修科があることを知って直ぐ応募した。昼は本職の水産の勉強、夜は中国語会話の生活を始めた。後日談になるが呉承恩の「西遊記」の定本は1957年に上海で入手することが出来、中学生の夢は実現した。

戦前の中国語教育は英語・独逸語・仏蘭西語などの先進国の文化を吸収することに主眼を置いた、従って「会話などどうでも良いから、ひたすら解読力を着ける」ことに重点を絞ったものである。中国語の場合は異なり「日常生活における実際の役に立つ」ことが主眼に置かれていた。従って会話力の上達に重点が置かれていた。音声による対話が出来なければ実際の用には立たないから発音の訓練は非常に大事である。東京外語でのやり方は、徹底した「丸暗記」方式で、最初の半年間は来る日も来る日も声調(四声)の練習に明け暮れた。

その日に習ったところは翌日一人一人立たされて暗唱させる。四声の間違いは徹底的に直させる。アクセント(重念)の置き方も同様。その厳しい訓練に参って入学時60余名の学生数は半年経たぬ間に20名に減ってしまった。

文法も構文論もない訳では無かったが先ず「無きに等し」かった。ただ一途に「丸暗記」である。「なんと幼稚な」と思われるかもしれないが、言葉は理屈が理解できたからと言って喋れるものではない。日常生活での実用を重んずる限りは、会話の際発音した言葉が相手に通じなければ全く意味は無い。幼児が母国語を憶えるときは、四六時中「ひたすら両親の口まね」をする。理屈などはどうでも良い。「丸暗記」を馬鹿にして揶揄する人が居たとして、その「当の本人が片言も喋れない」と言うのは笑止千万な話だ。

この「丸暗記」方式の教育法の教科書の典型的かつ模範的な例が「急就篇」だと思う。「単語」、「問答之上」、「問答之中」、「問答之下」、「散語」と言う構成になっており、「単語」の部は 一、二、三の数詞から始まり、一個、両個、三個 … 尓、我、他、誰、と続く。この単語の部で四声を嫌と言うほど叩き込まれる。首を横に振ったり、顎を杓ったり、まるで首の体操をしながら大声を出す。全員が一斉にやるのは壮観である。他のフランス語や独逸語のクラスが休講で暇になると皆中国語の教室の光景を見に来てクスクス笑う。

四声の声調の練習は2、3ヵ月やらされ、この時点で単純な訓練に愛想を尽かし、クラスの人数は半分に減ってしまった。私は中学時代からラジオ講座でやっていたからさほど苦には思わなかったが、有気音、無気音の区別の訓練は苦しかった。出来なければ出来るまで何度もやらされる。「来了麼?、来了」(来ましたか、来ました)などと言う問答を習い始めたのは数ヶ月経ってからである。朱先生からは外語学院出版、宮越健太郎著、「満支官話教程」という「尓有麼?、我没有」(貴方は持って居ますか?、私は持っていません)から始まる教科書でこれも丸暗記方式で習った。

私が思うにこの丸暗記方式は実はかなりの忍耐を要するもので、容易ではない。僅か120ページの冊子とは云え、その中にある膨大な数の文章を頭の奥底に叩き込むと云う「丸暗記方式」は相当な苦労である。齢八十を過ぎた今でもその幾つかを時々想い出す。…と言うことは骨身に染みている証拠である。しかも後々これが大いに役立った。記載されている句が実に実際の会話に役立つものばかりで、何千何万とある会話の句の中から厳選されたものばかりであるためであろう。そればかりではない、各句の排列にも非常な配慮が為されている。

「急就篇」が一世紀近く中国語の会話の教科書として使われてきたのはその為であろう。最近のテレビで中国語講座を聴くと、非常に論理的で解り易い。その時は理解できるだろうが、本当に言葉が身に着くかどうか?はやはり丸暗記的苦労を(苦労と思うかどうかは別として)何処かでしているか否か?に掛かっているように思われてならない。苦労無しでスイスイ憶えた物は、この意味の苦労が無い限り、やがてその内忘れてスイスイ身から離れ去るのではなかろうか?

中国語会話の勉強には今でもこの「急就篇」に限ると私は云っているのではない。言葉は時代の社会情勢の変化や環境の変化に応じて時々刻々と変貌している。中華人民共和国が成立して8年後の1957年に訪中した時、「貴方の挨拶の言葉は丁寧すぎる。お爺さんと話しているみたい」と良く言われた。また、「今どき使わないそんな言葉を良くご存じですね」と感心された時もある。今も昔も同じだが教科書の言葉は丁寧語である。「貴方の奥さん」は今では「愛人」と云いますとの若い人の助言。しかし、それは初対面の時、親しくなると年配の人は「我的老婆児説…」(俺の婆さんが云うのには…)などと使っている。何のことはない東京の下町の言葉そっくりでは無いか。

それはともかく、新語も実に多い。これからは当然新しい教科書で勉強すべきである。戦前日本に長く留学して日本語に長けた人が「最近の日本人の言葉はカタカナ語ばかりでサッパリ分からん」と云う。お互い様である。

 

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NikkanMeeting

日韓漁業共同委員会の始動

 (1966年日韓国交回復直後の韓国での経験)

真道重明  (2004/06/04)

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1965年6月22日、(昭和40年)に日韓基本条約が締結され両国の国交が戦後ようやく回復し、その年の12月には早くも日韓漁業協定が締結され、東京で署名が行われた。丁度赤坂溜池の旧地に新しい三会堂の建物が出来た年である。
漁業協定の締結に伴い、翌1966年5月から7月に掛けソウルで日韓漁業共同委員会,第1回会議が開催され、以降は毎年場所を東京とソウルで交互に開かれ、私は第5回会議まで随員として毎回参加した。66年は初回でもあり予期に反し難航して2ヵ月も掛かったが、ソウルの他に釜山、第3回の68年には仁川、慶州、浦江、第5回の70年には済州島なども訪問した。
外交パスポートを持っての国際会議の政府随員としての立場は私にとっては初体験であった。当時の会議の立役者は日本側は片柳真吉氏、韓国側は池鉄根氏であった。私も今では傘寿を超え、元来不精者で日誌も付けて居らず、記憶も怪しくなっては居るが、ここでは会議の内容ではなく、会議を巡る当時の韓国の印象やいろいろな経験を、単に随員の一人に過ぎない私が、「こぼれ話」風に、薄れ掛かっている記憶を想い起こしながら述べてみた。
なお、この協定は1999年(平成11年)1月にソウルで「漁業に関する日本国と大韓民国との間の協定)、すなわち「新日韓漁業協定」の批准書が交換され、新協定となって現在に及んでいることはご承知の通りである。


日韓目次

☆ まえがき
 ホテルに仮住居していた大使館
 PROTOCOL(外交儀礼・儀典)と言葉の問題
 舗道脇の露天商が喋り出した日本語
 政府主催の本格的なキーセン(妓生)Party
 桔梗打令(トラジ・タリョン)と漢江水打令(ハンガンス・タリョン)
 「てにをは」の字句に悩む議事録のProofreading
 第1回会談は予想外に長引き旅費不足で難渋
 温突(オンドル)のある旧友宅での徹夜の歓談
 科学小委員会の発足
☆ 海浜の砂に埋もれていた「快鷹丸殉難碑」、その他 
 同級生「朴謙会」との済州島での再会
 大滝英夫氏から頂いたコメント


まえがき

 

1966年と云えば日本は高度経済成長期の最中で、一方、大韓民国は日本の植民地支配から脱却し本来の独立国となったとは言え、1950年6月から1953年7月にかけての朝鮮半島全域を巻き込んだ、北朝鮮との戦い、いわゆる朝鮮戦争に苦しみ、経済復興は第2次世界大戦に敗れた日本に較べ遅々としていた時代である。

朝鮮戦争による特需は第2次世界大戦後の経済復興の第一歩となったのだから、韓国の人々から見れば、米ソ対立という世界の大きな流れの中で民族二分と云う悲運下に置かれ、どうしょうも無かった訳だろうし、「日本の経済の急速な発展に較べ、韓国経済の遅れ」は無念であったろう。日本人である我々も世界の大きな動向の波の幸運な側に立ったが、一方韓国は偶々不運な立場に立った訳で、何だか申し訳ない気持ちになるのは私だけではあるまい。

しかし、苦境の中でビル建設に急な足場を畚を担いで営々と働く人々をソウルの郊外で見て、何れそのうちに「この国は発展する」と直感的に思った。1966年当時の韓国の国家総予算は年々成長する日本の国家予算の1ヵ年の増加分に該当するなどと言われたが、21世紀に入った今では新進工業国の仲間入りをする時代となった。

以下ここで述べることは、冒頭で述べたとおり日韓漁業共同委員会が発足し、東京とソウルで毎年交互に開催された会議の初回(第1回はソウル)から5ヵ年間、政府代表団の随員として出席参加し、第3回と第5回の都合3回訪韓した当時のソウルや韓国内各地の当時の情況を薄れ行く記憶を想い出しながら、エピソード風に綴ったものである。

ハングルを喋る人々の国「韓国」の地に足を踏み入れたのは此れが最初である。私は兵役に服したとき朝鮮半島を列車で通ったが、ただ通過しただけであった。私がこの時感じたのは一衣帯水の隣国であると云われる中国と韓国を較べると、韓国の社会の雰囲気が如何に日本と似た国であるかと云う点である。

中国の社会からは文字や古典文化、その他の多くのものを受け取ったから、共通する物を日本は沢山持って居る。私は若い頃から中国語を習い、その後は知己も多く居る中国は多少は分かった心算で居るが、その社会の民俗は日本と著しく異なる面もある。韓国は中国と違いその民俗は更に日本との共通点が多いように思われてならない。

 

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ホテルに仮住居していた大使館

本の敗戦後20年経った1965年6月、漸く日本国と大韓民国との国交が回復した。半年後の同年12月には早くも日韓漁業協定が締結され東京で署名式が行われた。そのまた半年後の1966年5月には同協定に基づく実務協議、すなわち「日韓漁業共同委員会、第1回会議が韓国のソウルで始まった。敗戦で連合軍の占領下にあった日本漁業はマックアーサー・ラインや李承晩ラインなどの制約を受けた受難時代が続いたが、目と鼻の先にある隣国の大韓民国との関係水域の漁業問題はここに正常な軌道を歩む道が開けたことになる。

1951年のサンフランシスコ講和条約により日本は独立国として沖縄を除く国家主権を取り戻した訳だが、丁度それから15年目、今(2004年)を去ること40年弱のことである。

国交回復の調印後未だ1年しか経たない時のこと。ソウルの日本大使館はパンドホテル(半島ホテル)に仮住居していた。この名前のホテルはWebで調べても今では存在しない。改築されて現在「Hotel Lotte 」と呼ばれているのが「それではないか?」と思われるがハッキリしない。 観光案内を見ると、Hotel Lotte はソウル市街の中心、明洞に位置する韓国を代表するデラックスホテルとある。私達第1回会議の日本政府代表団が宿泊したのも恐らく「この前身だったホテル」であったように思われる。とにかく、当時ソウルにある大きなホテルと云えば、この「半島ホテル」と「朝鮮ホテル」の二つぐらいのものであったと記憶する。もっとも建設中の物は多少はあったが…。

開設された日本大使館はこのホテルのフロアーを2階借り切って窓から日の丸の国旗を街路側に突き出すような恰好で掲げられていた。入り口には赤絨緞が敷かれた廊下があり、治外法権の在外公館であるから、ホテル内とは言え厳重な柵と門衛で守られていた。(ちなみに、現在の日本大使館は外務省のリストに依れば鍾路区中学洞にある)。

日本は1946年から始まった「戦後の高度経済成長期」の最中であったが、韓国は日本の植民地支配を脱して独立国となったとは云え、 1950年6月 - 1953年7月のいわゆる朝鮮戦争の痛手もあり、前述のように当時の韓国の国家予算は日本のそれの年成長差分に等しいなどと云われていた。新進工業国としての地位を確固のものにした現在と較べると今昔の感に堪えない。

 

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PROTOCOL(外交儀礼・儀典)と言葉の問題

 

Protocol (プロトコル)と云う言葉がある。今ではコンピューター‐システムで、データ通信を行うために定められた規約(例えば http , ftp など)を想い出す人が多いだろうが、辞書を引くと「外交儀礼・儀典、条約原案・条約議定書・補足協約・協定付随書などとある。そう言えば大使館には大使の執務室の手前に「儀典」と書いた部署の部屋が在り、「儀典」の文字の下に「Protocol」と英語で書かれた名札がぶら下がって居た。調べてみるとこの両者の用語には関係があるらしい。

IT用語解説には「プロトコルというのは、ネットワークを構成する機器が相互に通信を行うための仕様のことを指す。インターネットがいくつもの階層からなるプロトコルの集合体であることは、ある程度の利用者ならみんな知ってる。もともとプロトコルは「外交儀礼、典礼、儀典」という意味だった。外交によって作られたさまざまな取り決めである「儀礼手続・条約・議定書など」のことをプロトコルと呼んだ。それが本来の意味で、やがて通信工学のIT用語に転化した」のだそうだ。

相互に慣習も文化も言語も異なる国同士が交際する「外交」では「ある国の常識が別の国で通用することを期待するのは無理である。そこで典礼の意義が出て来る。「決まり切った儀式を粛々と進めて行くことが「最大の礼をつくしている」ことになる。外国の要人が来日すると、毎度毎度同じような手続きで歓迎式典が開かれる。なんであんな仰々しいことを毎度するのか、と思っていた人がいるかもしれない。しかし、大事なのは、外交儀礼をキチンと守ることで、国と国との交渉における摩擦が減少できるという「約束・決まり」になっている限りでは十分な意味をもつものである…。この解説を読んで私は「なる程」と思った。

二国間の政府の公式協議の場に出席するのは私にとっては無論初体験である。日韓両国語で書かれた「行事次第プログラム」を見ると、実に様々な厳めしい項目が並んでいる。議長・副議長の選出、双方出席者および通訳官の紹介、議長の開会宣言などは分かるが、此処迄が公開(新聞記者などが議場に入れる意味)で、その後は非公開である。ドヤドヤと入って来た新聞記者やパチパチ写真を撮っていたカメラマンなどは総て議場の扉の外に追い出されてしまった。

さて、これからが問題である。会議での使用語を何語にするか?である。日本語と韓国語を公用語とすることは当然であるが、会議進行用語を韓国語にすると日本側出席者は理解できないので通訳官が介在せざるを得ず、協議時間が2陪かかり極めて非能率である。日本語にしょうと日本側から発議することは、先方の面子に係わり絶対出来ない。合意されないのは分かり切っているのに「一層のこと英語にするか?」の案迄出る。言うまでもなく相互平等主義が大原則である。

暫く応酬があった後、韓国側から議事進行を能率的にするため、我々は日本語を多少は解するので「会議の進行を能率的にするため会議での使用語を日本語としては如何でしょうか?」の提案があり、日本側は「異議ありません」と答えた。私の記憶では此処迄に20分以上の時間を費やしている。私が出席した第1回委員会から第5回までは毎回決まり切った手順で、のこの言葉を何にするかの応酬があったが、「前回同様…云々」だった。しかし、なにしろ初回である第1回のこの場面はかなり緊張した雰囲気にあった。

韓国側委員は「日本語を多少は解する」ではなくきわめて日本語は堪能であった。韓国側の通訳官は飾りにしか過ぎず、会議が非公開となる開会式の時も、韓国側の通訳官の翻訳した日本語を韓国側委員が訂正する場面もしばしばであった。会議の使用語を日本語としたこのシステムは当初は韓国側に非常に有利であった。それというのも、話の応酬の最中に委員の仲間同士の打ち合わせの私語が常にあるが、日本人同士の私語は筒抜けに相手は分かるのに反し、韓国人同士の私語はハングルの分からない日本人側には殆ど分からない。顔付きを見ても始まらない。これには参った。

しかし、5年後の第5回ともなると、韓国側委員には若手が増え、日本語を母国語同様に操れる年配の人々に較べて、若手の人々は「日本語を的確に把握できない時もあるのが問題です」とのことであった。それらの人々も今では多くが故人となったり、韓国政府の研究機関の要職を経て既に OB となってしまっている。

日本側代表団でハングルの出来る人は誰も居なかった。私個人は研究所に居て韓国の漁業関係の文献を読めれば良いとは常々思っていたので、入門書や日韓辞書の数冊は持って居たが、勉強不足でなかなか上達しなかった。戦前の日本では隣国の言葉であるにも係わらずハングルを教える学校は絶無であった。唯一の例外は天理大学でハングルの講座が在ったと聞いて居る。かつて諺文(オンモン)と呼ばれたハングル文字の表音構成は非常に合理的、かつ単純であることに驚いた。第3回会議の際ソウルで買い求めたその年に出版された金素雲の「精解・韓日辞典」だけは未だ私の書棚にある。

金素雲の名前は中学時代に岩波文庫版の金素雲訳・編の「朝鮮詩集」を愛読したことがあり憶えていた。何故そのような本を愛読したのか理由は忘れてしまっている。この辞典はハングルで書かれているが、 日本の利用者のための「おぼえがき」と凡例はハングルと日本語の双方で書かれて居る。また付録の最初の綱目に日本語で書かれた数章からなる「韓国語概説」がかなりの紙面を費やして詳しく述べられている。流石に詩人・作家であり日本語に精通した人だけあって、良い辞書だと思う。

中国語を習った私にとって、漢字の韓国音は日本音と中国の北方音の中間のような気がしたが、素人の私の判断でもかなり呉音系統の発音が多いようだ。中国北方音とは陸続きだから影響は受け易かった筈と考えられるが、海上交通による長江(揚子江)以南の中国南方との接触があったのかも知れない。ハングル文字の読み方は数時間の学習で会得できるが、正しい発音はそうはゆかない。何度発音しても、その都度「違う」と云われて参った。

興味は大いにあるがとうとうものにはならなかった。ハングル文字に誇りを持つ韓国の人々は漢字の韓国音もハングル文字で表記する場合が多いようだ。日本の音読みを仮名で表記する場合と同様、同音異義が多く人名などは漢字でどう書くのか分からない。第1回会議の際買い求めた新聞の小説などは人名だけは括弧で包んで漢字が表記されて居たのを憶えている。ハングルの会話は今では殆ど忘れたが、幾つかの常套句は未だに憶えている。

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舗道脇の露天商が喋り出した日本語

 

では日本人観光客で大賑わいのソウルであるが、当時は市内に日本食堂は在るには在ったが少なかった。国交回復から未だ1年が経つか経たないかと云う時である。

味噌汁と焼き海苔やお新香を出すホテルが近くにあると云うので、偶には泊まっていたパンドホテル(半島ホテル)から徒歩でそのホテルに行って和食の朝食を食べた。その道筋の舗道脇に蓆を拡げて年老いた露天商が櫛や小物を売っていた。立ち止まって面白半分に冷やかしていた。

私達の喋る日本語に聞き耳を立てて黙っていたその年老いた露天商は、突然、まさに突然目を上げて私達に向かい「お客さんは日本から来た人ですか?」と流暢な日本語で問い掛けた。目が懐かしさに潤んでいるように私には思えた。「そうだ」と答えると「私はこの20年の間に日本語を一度も喋っていません。久し振りで聴きました」とのこと。

よほどかつて喋っていた言葉を聴き感無量の様子にこちらも内心感激した。皆も親しみを憶えたのだろう。何を買ったかは忘れたが、それぞれ一つ二つ買い求めた。その様子から見て商売上手の甘言紛いの嘘をついているのではないことは態度で明らかである。第一、未だ訪問者数が少ない日本人がこんな路傍の店に立ち寄る訳が無い。

目を潤まして昔喋った日本語を懐かしく話したこの話とは無関係だが、この街路では別の事件があった。或る日この日本の朝食を出すホテルへの道を数名で歩いていた。…と、誰かが「ヤラレタ」と叫んだ。胸ポケットに差してあった万年筆が消えている。「アレッ、俺もだ」と他の一人が言った。掏摸である。すれ違ってぶつかった人は居ない。まさに名人芸である。江戸から東京になった当時にはこのような名人が居たと聞く。ヒッタクリの強奪ではない。本人の全く気付かないうちに掏る特殊芸術である。その日以後は誰も上着には万年筆は挿さなかった。

両国の政府は立場上いろいろな問題を背中に背負っているのは当然であるが、韓国の一般大衆が日本国や日本人をどう思っているかを知りたかった。しかし経験すればするほどこの問題は複雑で難しいことを強く感ずる。「恨」の一字で云えることではない。両国の民俗は余りにも似ている。同じ一人の心の中にも相反する、「恨」と「親」が同居していると感じるのは私だけだろうか?

サッカーのワールドカップの日韓共同開催以来、両国民衆レベルでの交流は一挙に親密になった感があるのは喜ばしい。過去の歴史を知らない若い人達が「冬のソナタ」の俳優に入れ揚げているのも結構。キムチがスーパーに溢れているのも結構。40年前には予想も出来なかったことが両国の民衆の中に生まれつつある。

 

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政府主催の本格的なキーセン(妓生)Party

 

一国の政府が主催する公式宴会を日本語では何と言うのか知らない。政府主催晩餐会などと新聞には書いてある。英語では Dinner、Supper、Party などとは言わず Banquet と言うらしい。儀典の重要なプログラムの一つである。私は1957年の中国の国慶節祝賀宴に周恩来首相の招待で参加した経験が一度ある。きわめて格式張ったものであった。現在の中国の場合、このような席には女性のコンパニオンは居ない。総て男性である。女性のコンパニオンが居る宴席としてはソウルでのこの機会が私にとっては始めての経験であった。

「官妓」という言葉がある。広辞苑によると「高麗王朝以後の朝鮮で、医薬・裁縫・歌舞・妓楽をもって宮廷に仕えた女をいう。妓生(キーセン)」とある。平安末期から室町初期まで存在したと言われる白拍子(シラビョウシ)と似た貴人の宴席に侍る格式の高い女性だったようだ。李朝時代は官制の妓生庁があったと聞く。

極上の民族衣装を羽織った妓生の歌舞音曲は見事であった。戦前私が小学生の頃と記憶するが、崔承喜(チェ・スンヒ)」という民俗舞踊家が居り当時世界一と称され、甲子園球場(だったと思うが)を埋め尽くしたというニュースは憶えていたが、太鼓と笛だけの伴奏で踊る舞踊は大評判であった。私は朝鮮半島の芸能は全くの素人であったが、今回の宴席でその実態の一部を垣間見た思いであった。宮廷音楽ではない民謡ではあるが打令(ターリョン)特に漢江水打令は私の胸に残った。

その後日本人観光客が多数押し寄せる用になり、彼等の言う「キーセン・パーティ」とは全く異なる雰囲気である。残念なことにそれは第1回会議の話で、第2回、第3回と回を重ねていくうちに服装は日本と同じ洋装が多くなり、見た目も日本と同じになってしまった。

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桔梗打令と漢江水打令

 

アリランは韓国民謡として日本人なら昔から誰でも知っている。初の訪韓の際、地方によっていろいろなバラエティがあることは聞いて居たが、引き続く数次の会議の時に訪れた各地でその実態に触れた。繰り返しの囃子詞の部分が「アリアリラン、スリスリラン、アラリガ・ナンネ、 … 」などと言うのもある。「アリラン峠」という現実の場所がある訳ではなく、空想の世界であろう。その峠を超えた彼方には幸福の世界が在ると云う。

『山のあなたの空遠く,「幸い」住むと人のいう。… 』は明治初期に生まれた上田敏の「山のあなた」と題する詩の名訳(原詩はドイツの Ueber den Bergen、 Carl Busse )は誰でも知っているが、何か共通するものを感じる。中国の桃源郷(陶淵明の「桃花源記」に由来する)や香格里拉(Shangrila、シャングリラ、俗世間から隔離された秘境)のように、中国を始め東アジアは勿論、理想郷の思想は世界中にあるようだ。アリラン峠の彼方もその一つだと思われる。

歌詞は兎も角として、アリランのメロディは実に馴染みやすく心に染み入る。韓国や北朝鮮には何故だか三拍子の民謡が多い。ワルツでは無いが踊り易い点、また日本の民謡の多くに見られる短調風の物悲しさではなく、何処か明るい感じがする。

トラジ・タリョンと言う民謡がある。トラジと言うのは桔梗のことらしい。私がこの歌に出会ったのは軍役の初年兵の時であった。同じ小隊に朝鮮半島出身の二名の兵が居た。休憩時間に良く教官の命令で余興をやらされた。順番が彼等に廻ってきたとき二人は立ち上がって歌いながら踊り出した。これが私がトラジを知った最初である。大喝采で二人は大いに面目を施した。

内務班に戻ってもその余韻は消えず、内務班の初年兵仲間の多くがその歌詞の意味を聞き、ハングルは分からないのにその音を片仮名で書き写し、憶えようとした。桔梗は日本では花を愛でるが、その根は漢方薬になるそうで、娘たちが奥山に登って薬草取りに興じるさまを歌ったものだという。忙しい初年兵訓練の余暇を利用してである。トラジ、トラジ、ペクトラジ、シムシムサンチョネ・ペクトラジ、ハン・ドゥ・プリマン・ケオド、テバグニロ・パンシンマン・テヌナ。その内に内務班長までが「俺にも教えろ」と言う。勇猛で鳴らした大日本帝国陸軍で「鬼の棲むような」と云われた六師団の工兵隊での出来事である。

祖国を奪って植民地とした宗主国の日本の軍隊の幹部候補生を目指して入隊した彼らがどの様な心境で居たのか、今にして思えば複雑な気持ちになる問題だが、当時、我々初年兵にとってはただ無我夢中で厳しい訓練の毎日を過ごしていた。彼等もその中の運命共同体の仲間だった。

それにしても今思えば「音楽に国境は無い」と云うことを立証する出来事であると痛感する。そのメロディと踊りは私達日本人にも何か心に訴える美しいものがあったのであろう。そうでなければ、あの多忙で苦しい初年兵訓練の中でハングルの歌詞までメモして憶えようとする兵が多数いた事実の説明が着かない。

民族衣装の妓生の歌舞音曲このトラジと共に第1回漁業共同委員会の宴席で知った数多くの民謡のなかで、理由は分からないが何故か頭に残るのが漢江水打令(ハンガンス・タリョン)である。漢江という河川は中国の湖北省にも漢水の別称として存在し三国志にも出て来る。ここで言うのは、もちろんこれは朝鮮半島に在る大河(太白山脈中の五台山に源を発し、春川江や臨津江などの支流を合せて京畿湾に注ぐ、漢水とも言う。広辞苑)を指し、ソウルの中心を横切るように流れる漢江(ハンガン)のことである。ちなみに現在の日本では「漢江」と言えば韓国のハンガンを、また「漢水」と言えば中国の湖北省の han4 shui3 (ハンシュイ)を専ら指すようだ。

漢江水打令を好きになった私は、その後各地での宴席で度々聞いたし、済州島では同級生だった朴謙会君の招宴の際に特に所望したりした。後年タイ国のバンコクの韓国料理屋で所望したら直ぐ歌い出した。そのチマ・チョゴリを着た女性は大阪の生野(私の中学の在ったところ)で生まれたとのこと。そこの女将は李王家の遠戚に当たる人で東京育ちと聞いて驚いた。

韓国民謡の庶民による唱歌法や音楽ないし踊りの芸能にパンソリという言葉が現在良く云々されるが、当時は全くパンソリと云う言葉は聞かなかった。韓国でも一般の人が口にするようになったのは此処20ないし30年来のことらしい。今の人気歌手「天童よしみ」が訪韓してパンソリの師匠に入門したルポをテレビで見たが、なかなか見応えを感じた。

 

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「てにをは」の字句に悩む議事録のProofreading

 

同じウラル・アルタイ語族の日本語とハングルとは非常に共通点が多い。東海区水産研究所に居た時、トルコの大学教授が客員研究員として居たが「日本語はトルコ語と語順が同じだから憶えやすい」、例えば「机の上にリンゴがあります」という日本語の語順はウラル語に属するトルコ語も全く同じだとのこと。ましてアルタイ語族の蒙古語・朝鮮語(ハングル)はさらに似ている。

余談だが蒙古語学会がウランバートルで開催された時、世界各国から集まった蒙古語学者が研究発表をしたが、蒙古人を除くと「日本から出席した研究者だけが蒙古語による発表をした」との話を聞いたことがある。専門家の会議だから彼等は蒙古語の読み書きには優れていたのだろうが、会話となるとそうは行かなかったのだろう。語学に造詣が深いことと会話力とは必ずしも一致しない。しかし、この逸話は日本語と近縁関係にある一つの例であろう。まして地理的にも歴史的にも密接な関係にあるハングルが日本語と似ているのは当然である。

上述した民謡トラジの囃子詞の中に良い桔梗を見付けて「チョッター」、(あったぞう!、良かった・旨く遣った!)と言う感嘆語があるが、今どきの日本語の「ヤッター」に該当するようだ。なんだか語感も似ている。

委員会で話し合った内容を日韓両国語で議事録として記録するのに双方から数名の「校正係、いわゆる Proofreading 」を出して案文を作成する作業がある。韓国文は日本側委員には分からないから専ら日本大使館の通訳官に任せてある。問題はこの案文を委員会に掛けて批准する時である。日本文については韓国側委員はかなりの日本語の知識があるから、助詞の「てにをは」はこれで良いのか?、「を」では無くて「に」とした方が宜しいのでは?などと異議が出る。2時間の会議の記録が批准されるのに4時間掛かることもあった。言葉が近くて便利だとは言っても此れには参った。

国家間の条約文など、読みようによって違った意味に受け取られるのは後々問題を残す。慎重の上にも慎重を期すべきであることは良く分かる。日米加漁業条約などの場合、この点はどうなっていたのだろう?と関与した友人に聞いてみた。英文の場合多少は日本側委員も理解できるから疑問が出ることもある。友人曰く「いや、やはり大変だった。しかし、「英語ではこの言い回しの方が誤解が少ない」と先方の通訳官に云われ、日本側通訳官も肯くと、「そんなものかなぁー」で済んだらしい。双方の代表委員はよほど疑問を感じない限り口は挟まなかったようだ。

知り過ぎれば知り過ぎるほど、ことは面倒になることがある。これはその典型例かも知れない。ちなみに日本の外務省には一等から三等までの通訳官と通訳官補、また一等から三等までの翻訳官と翻訳官補とが管制上あるらしい。しかし在外公館でのそれらの官職名を持つ人は極めて少ないそうだ。多くに場合参事官や書記官などが代行しているようだ。上では便宜上「通訳官」と言ったが、本当の官職名か否かは知らない。蛇足だが、中国語では「通訳」という語は無く「翻訳」と云う。従って日本語の「通訳官」は「翻訳官」ということになる。これらの韓国の官制は知らない。

 

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第1回会談は予想外に長引き旅費不足で難渋

 

ソウルで開かれた第1回共同委員会は1ヵ月もしないで妥結し合意に達すると予想されていた。従って5月上旬に東京を発った我々は6月に入る頃には帰国出来るものと踏んでいた。しかし初回であるということもあり、そんな甘いものではなかった。実際には1ヶ月半以上掛かってヤット合意に達した。資源問題や科学調査の問題を担当した我々随員は訪韓の機会を利用して、韓国の調査機関の現場を見るため釜山に立ち寄ったため、帰国したのは7月上旬になってしまった。

一番困ったのは旅費が足らなくなったことである。東京に打電したら「送金手続きに数週間かかるから日本大使館に借りよ」との返事。大使館に申し出たら「開設後間もなくのことでもあり、諸事多端でそんな金は無い」と断られる始末。「後数日で妥結するかも…」と思いつつ何時まで経ってもハッキリしない。とうとう各自の個室を解約して皆の持ち金を計算し、ツインベッドの2人の相部屋に切り替えて節約を計った。元々偉い数名の人は個室でも他は相部屋で良かった訳で、第3回、第4回はそうなった。しかしこの第1回は全員アミダ籖で二人部屋になった。

第1回会談で取り上げられた議題は多岐に亘る基本的な問題ばかりであったし、各議題に関する応酬はもちろん重要な意味を持って居た。それはそれとして、最後に両国の話し合いが妥結する大きな要因は「日本がアサクサノリを幾ら買い付けるか?」と云う現実的な商売上の駆け引きに掛かっていた。現在では両国間の水産物貿易は莫大な額であるが、当時は現在とは事情が全く異なっていた。当時の韓国にとってはこのことは極めて重大なことだった。

この種の会談は双方の国益の衝突であり、それを巡る駆け引きであるとも言えるが、私達のような資源問題に重点を置き、それに関心のあるものにとっては、「話し合いの土俵が違うのではないか?」と云う気持ちが内心には在った。しかし、そんなことを一随員が思っても、所詮はどうしようも無かった。理詰めの議論と商売上の駆け引きが同居していると云う違和感のことである。

上述の議事録の文面の表現を巡る合意に多大の時間を費やしたこともあり、海苔の買い付け量の問題もあり、予期以上に長引いた会期ではあったが、旅費不足の苦悩は別として、何事に付けても初体験の私にとっては長期の滞在は韓国の実情により多く触れる機会が多かった訳で勉強になった。

海苔の問題は我々の与かり知らぬ両国の代表の上層部で行われていたから、その間我々は待機時間である。その余暇?を利用して韓国の水産庁などを数次訪れる機会があった。ある時庁内で急に警報が鳴った。職員は皆机から離れて鉄兜を被り銃を取って廊下に整列し、外に駆け出していった。呆気に取られた私達数名は兵役時代の「非常呼集」、「敵襲」の訓練を想い出していた。聞けば週一度はこの訓練があるという。

この2年後の1968年には北朝鮮武装工作員による青瓦台(大統領府)襲撃事件が、また、最近映画で大評判になった実尾島(シルミド)事件なども同年の1968年に発生していることを考えると、韓国の省庁がこのような危機管理体制下にあるのも肯ける話で、当時呆気に取られていた私達が平和ボケしていた訳だ。このような韓国社会の現実を偶々見ることが出来たのも会期延長があったからである。

 

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温突(オンドル)のある旧友宅での徹夜の歓談

 

長引いた第1回会談がヤット妥結した後、私達随員のうち資源問題に関係する専門技術者の2名(猪野俊研1課長と私)は研究所や水産大学のある釜山は是非みて置きたいので、なけなしの旅費を工面して数日同地を訪れた。

研究機関は植民地時代の昭和初期に朝鮮総督府水産試験場が設立されているが、独立後は1949年に通商工業省配下の中央水産試験場が設けられ、1963年に「水産振興院」と改名、1966年には漁業管理部門配下となり、1996年に海事水産省の配下に置かれ現在に至っている。私達が訪問した時は「水産振興院」と名前が変わった3年後だったことになる。

会議にも出席して何度も顔を合わせ、その後研究面でも活躍した資源の朴炳夏(パーク・ピョンハ)さん達が快く迎えて呉れた。着いたその日の夕食には振興院の人々が一席設けて歓迎して呉れた。今あるかどうかは知らないが「喬木荘」という名前の料理屋であった。どう言う訳だか分からないが、店の名前だけは40年近く経った今でも鮮明に憶えている。ソウルでは経験しない生の韓国の一面と云った雰囲気が漂っていた。垣間見ただけだが、それらがよほど印象深かったのだと思う。

「喬木荘」では宴席の準備が調うまでは別室で暇潰しに「花札」で興じるのが習慣のようだ。漢字では「花闘」と書く。ファトゥ。日本の花札に非常に近似している。後で調べてみたら李氏朝鮮末期(19世紀末)に日本から伝わったものらしい。1960年代頃までは政府当局による撲滅運動が展開され、取り締まりも厳しかったらしいが、現在では韓国で最も盛んに行われる大衆的な室内遊戯だそうだ。私が見た頃は取締が緩められ「花闘」が復活しつつあった時であろう。私は日本の花札は見て知ってはいるが、手にしたことは無いし、ルールも全く知らないので仲間には入らなかった。

ソウルの宴会のような公式のものではなく仲間同士の「飲み会」のムードで容姿もチマ・チョゴリの衣装も美しい妓生(キーセン)の接客対応が実に旨い。リンゴの皮を剥いて芯を抉り出して客に持たせ、そこに焼酎を満たす。丸いから膳に置くと倒れるので持ちっぱなしである。一種の馬上杯である。ツイツイ飲んでしまう。酒を呑んだところを一度も見たことの無いクリスチャンの猪野俊さんもこの時ばかりはかなり酔ったので驚いた。後で冷やかしたら「俺だって呑めば飲めるんだよ」とのこと。

翌朝市場の魚屋を見に行った。店に「海鞘、ほや」が在った。韓国でも海鞘を食べるのだと視線が海鞘に釘付けになった瞬間、店の人が海鞘を隠そうとする。恐らく「こんな変な恰好のものを韓国人は喰うのか?と思われるのが恥ずかしかった」のだろうと思った。「チョット待って、チョット待って」と云いながら、「それは日本は高価な珍重される海産物ですよ」といったら、売り手の老婦人は日本語が分かるらしく、ニヤニヤ笑ってもとの板の上に戻した。日本の或る地方の海岸の町の魚屋では「イルカ」や「イソギンチャク」などについて同じような経験をしたことがある。

知らなかったための誤解から来る「恥ずかしさ」と云う心情は日本と韓国では共通しているらしい。中国の市場などで「アメフラシ、海兎」、「沙蚕の類」など実に多種多様なものを並べていたが売り手は平然としている。タイ国でもそうである。日本や韓国と異なり、多民族社会では市場で売っているものの名前も食べ方(調理法)も知らないものが沢山ある。「あれは他民族の食物だろう」位に思って詮索も何もしない。この点でも日本と韓国は似ている。

振興院の友人の歓迎会の翌日、釜山水産大学の学長の鄭泰永君の自宅に招かれた。同君は私と水産講習所(東京水産大学の前身校、東京海洋大学)の同級生である。卒業後始めて鄭泰永君と逢ったのは1964年10月に彼が東京オリンピック見物を兼ねて旧友に逢いに来た年で、上京の途次立ち寄ると事前に連絡があったから、長崎の西海区水研にいた同級の木部崎修君と私の二人が博多駅まで迎えに行った。長崎までの車中談義は尽きなかった。拙宅に1、2泊して木部崎君と共に研究所や長崎の市内見物に案内し、それから彼は東京に発った。社会情勢は両国とも大きく変わりつつあった。その翌年の1965年6月には日韓の国交が回復した。

釜山水産大学は戦時中に設立された「釜山水産専門学校」が敗戦後山口県の下関に引き上げ、「第2水産講習所」(下関水産大学校)となったとき、釜山に残った施設や職員が母体となって出来た学校である。確か彼がその学長になった直後であったように記憶する。上記のようにオリンピックを見るのと母校訪問のため彼が来日した時、拙宅に泊まったこともあり、その返礼の気持ちも在ったのだろう。釜山には日本の植民地時代の畳のある日本式家屋も当時は未だかなり残存していたようだが、私は生まれて初めて話には聞いて居た温突(オンドル)のある彼の自宅(民家)に泊まった。今風に云えば「床暖房装置」で合理的かつ快適なものであると言う。残念なことに夏だったから暖房の効果は体験できなかった。

「鄭、学長とは偉くなったなあー」といったら「苦労が一つ増えただけだよ」といってから、学生時代の思い出、その後の日本の様子についての立て続けの質問、話は尽きなかった。「今夜は俺の家に泊まれ、一杯飲みながら話はまだまだある」という言葉に甘えた。夫人がお酌しながら、しげしげと私の顔を見て、彼と韓国語で喋っている。「私の顔に何か変な処でもあるの?」と訊ねると、鄭君が笑いながら説明してくれた。

「彼女は生まれて初めて、間近にツクズクと日本人の顔を見ることが出来たのだ。ただ日本人が韓国人と同じ顔をしているのに驚いているんだよ」と云う話である。「日本人は鬼の様だと教えられていたのに、この人は韓国人と少しも変わらないねー」といってビックリしてるんだよ…」という彼の言葉に私の方もビックリすると共に、日本が朝鮮半島を植民地にして以来、「鬼のように残忍で怖い倭奴(ウェイ・ノム、日本人に対する蔑称、恐らく巡査か憲兵を指したのだろう)が来るぞ!」といえば泣く児も黙ったという話は嘘ではなかったのだと思った。

戦後20年目のことである。昔は沢山いた日本人は殆ど敗戦で日本本土に引き揚げて、この当時はきわめて少なかった時代で、大邱(テグ)の田舎出身の夫人は日本人を間近に良く見たことがなかったのであろう。嘘のような話だと思う人があるかも知れないが、夫人の顔付きから彼女は本当に驚いていた。その鄭君も数年前逝去し今では故人となった。

 

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科学小委員会の発足

 

1968年のソウルでの第3回共同委員会で日韓双方の研究者の熱望していた科学小委員会の設置が決り、その第1回の会合が始まった。国家間の交渉事は双方の国益の調整である。外交と言うものはそう云うものであろう。しかし、国益と言っても目先の経済的利益も国益なら、一方では長期的な展望と言う視座に立ったものもある。資源問題などは目先のことは問題にしていない。目先の国益はどうであれ、先ずその前に実態がどうであるかを調査することが求められる。そのためには資源の存在する共通の海域を共同で調査しなければならない。

交渉事の「駆け引きで手の内を見せるのは不利だ」と言った問題や考慮とは別次元の事柄である。「駆け引きでは、何処で双方の納得できる合意点、換言すれば「落とし処」を見付けるか?という精神状態とは基本的に「土俵」が異なる。双方が協力して共通の方法、同じ基準での情報を求める方法を作らねばならない。そこには疑心暗鬼は有り得ない。或る意味では協調精神が強く求められる。

科学小委員会の設置は私の感想としては非常に有益なものであった。元来最初から存在して然るべきものではあったが、それまでのどちらかと言えば「ギスギス」した駆け引きの共同委員会の雰囲気が大きく変わった。双方の科学小委員会のメンバー同士は「同じ部屋でチームを組んで仕事をして居る」ような精神状態が生まれたからである。それは親に当たる共同委員会にも心理的な影響を与えたと思っている。

 

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海浜の砂に埋もれていた「快鷹丸殉難碑」、その他

 

砂浜に埋もれていた快鷹丸の殉難碑:「海鷹丸」と言うのは私の母校である農林省水産講習所が1901年(明治34年)に当時最も必要とされた遠洋漁業奨励のため実習用に建造した初代練習船である。140トン弱のスクーナー型の機帆船であった。朝鮮海峡や小笠原諸島、金華山沖の捕鯨試験調査、千島、オホーツク海、小笠原、マリアナ群島や沖縄のサバ巾着網等の試験調査に活躍したと記録されている。まさに日本の遠洋漁業調査や実習の先駆的な役割を果たした。

しかし、進水後僅か6年目の1907年(明治40年)7月、現在の韓国の浦項(ポハン)市の海岸「迎日(ヨンイル)湾」で台風に遭遇して難破、教官を含む数名の犠牲者を出す悲惨な事故が発生、その時の経緯は母校の悲痛な故事として詳しく伝承され、「逢いはせなんだかよ、館山沖でよ、二本マストのよ、快鷹丸そかよー、ゴーヘー(Go-ahead) 々… 」の快鷹丸殉難歌の歌詞と共に「スタンバイ」と称する応援歌的なパフォーマンスの訓練が時代を超えて受け継がれた。我々も入学して先ず先輩から半苦行的な筋肉強化体操にも似たこの訓練を受けた。学生寮の集会室には快鷹丸の写真が額に入れて飾られていた。

第3回共同委員会の際には仁川、慶州などを視察したが、慶州に近い浦項(ポハン)市の漁港や海岸を訪れた。この時図らずも案内の人から「半世紀前に日本の漁業練習船が迎日湾で遭難した碑の遺跡がある」と言ってその場所に案内された。迎日湾と聞いて私は恐らく「海鷹丸」のことではないか?と思った。碑石は海浜の砂の中に半ば埋もれた恰好で横たわっていた。詳しく話を聞きたかったが、ソウルに戻る時間が切迫していたので果たせなかった。ソウルに戻って直ぐ母校の楽水会(同窓会)の仕事をして居られた大坪という軍事教練の先生宛てその事を書き送ったことを憶えている。

校史を見るとこの碑は1926年(大正15年)11月に同級生らの発起で浦項市迎日湾九万洞に建てられ、牧朴真氏(大日本水産会々長)が碑詞を書いたとある。なお、この碑は1971年(昭和46年)末に浦項市文化財保存委員長の朴一天氏が、在日韓国人の韓永出氏と共に尽力され、同地に再建立された。その後、数年前には道路拡張工事のため、建立位置は浦項市の協力を得、楽水会の事業として道路の海側に移転されたそうである。現在では同窓による「快鷹丸遭難記念碑参詣旅行」等も行われている。

同窓の栗原氏の「水産雑学コラム」(KURISANのホームページ) の中に海鷹丸殉難の経緯やその後の碑石の再建などが写真や地図と共に詳しく述べられている。

http://www.kurisan.jp/koramu/kaiyomaru.htm

同氏のホームページ「水産雑学コラム」は他に水産や魚に関する話題が沢山あり、実に面白い。是非一読をお勧めしたい。 http://www.kurisan.jp/

 

仏國寺(プルグックサ)の復旧:韓国では日本の京都に擬せられる慶州の仏國寺は今では日本高校生の韓国修学旅行では見逃せない観光スポットとして、その建造物の素晴らしさをっているが、1960年代には現在のような恰好ではなく、補修復旧工事の最中であった。見事な石の階段や均整の取れた多くの建物を見ると往時の素晴らしい姿を憶できる何かを感じ取れた。

最近の写真を見ると、当時私達が素晴らしいと予測した復元時の有り様を遥かに超えるものがある。寺院建築には日本や中国、またタイ国やカンボジア、さらにはインドネシアなどにも素晴らしいものがあるが、それぞれ国柄を表して興味がある。…と言っても私が見たのは子供の時に何度も見た四天王寺や法隆寺、中国では専ら蘇州の寒山寺や浙江省台州の諸寺、タイ国のバンコクのワット・プラケオやチェンマイのワット・ドイステープ、ミャンマーの首都ヤンゴンのシュエダゴォン・パゴダぐらいのものであとは写真でしか知らない。

それらのうち、かなりのものは植民地支配や戦禍、政府の財政不足などで長年放置されて居た。第二次世界大戦後は国の観光政策もあって復旧作業が進められている。仏國寺などはその典型的な好例であろう。

 

数年で小型化した仁川の大きなチョウセンハマグリ:1966年に私は知人の案内で仁川(インチョン)を訪れた。坂の多い長崎か尾道のような街である。目の粗い赤い網目袋に入れたチョウセンハマグリの土産物を売る店が沢山あった。10 cm を超える大物ばかりで驚いたものである。1968年に再度訪れたときは土産物の店はやはり多かったが、貝はかなり小さくなっていた。1970年には5 cm 以下のものばかりで、かつての大物は見当たらなかった。僅か4、5年の間に乱獲で小型化してしまった。

その大部分は日本への輸出か、日本人が買い占めたのでは無かろうか?元来、日本のハマグリは生産が激減し、絶滅寸前状態にある。昔はチョウセンハマグリの単価は著しく安価であった。しかし、その後は日本での生産も在来種のハマグリはチョウセンハマグリに取って替られ、「ハマグリ」と言えばチョウセンハマグリ(碁石ハマグリ)を指すようになったように思う。アット云う間に小型化した仁川のハマグリは今はどうなっているのだろうか?

 

 

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同級生「朴謙会」との済州島での再会

 

朴謙会(パーク・チュンヘ)君は水産講習所での同期生である。1970年の第5回共同委員会のとき韓国側は済州島(チェジュド)視察の日程を組んでくれた。予定の飛行機の都合が悪くなり、急遽空軍の輸送機で飛ぶことになった。ソウルを発つ前日、私と韓国側は池鉄根さんが共同委員会の第1回から5年連続出場者と言うので細やかなパーティを祝ってもらったことを憶えている。済州島に向かう機内で済州島水産試験場の場長は「私の同級生ということだそうです」と聞かされた。「はて!誰だろう?」と私は首を傾げた。

飛行機が着陸すると、20名ばかりの人達が我々を出迎えに飛行場の誘導路の近くまで来てくれた。その中に背の高い人が一人居る。「アッ、朴謙会君だ」と一目で分かった。彼は漁撈科で私とは専攻は異なっていたが、同期生で寮生活も共にした人である。私の処に走りよって来て抱き合って再会を喜んだ。

彼にとっては私は卒業後20数年目にして始めて逢った同期生ではないかと思う。飛行場に降り立つと一目で互いに分かった。涙を流さんばかりに握手して再会を喜んだ。二人は興奮していたので夢中だったが、周りの日韓双方の人達は一瞬シーンとしてから拍手が聞こえてきた。感激の場面と映ったのだろう。チョット恥ずかしかった。東京を出発する前には彼に逢うことは全く予想してなかったので、なにも土産を用意していなかったが、自分が使うつもりで東京で買って胸に刺していた新品のパーカーの万年筆を手渡し、無事を互いに喜んだ。

「無事を喜ぶ」と言うのは陳腐な言い方と思われるかも知れない。しかし朴君の場合は第二次世界大戦と引き続く朝鮮戦争の大混乱が在ったし、私の場合は第二次世界大戦で戦死して居たかも知れない。21世紀の今の若い人には「無事を喜ぶ心境」は頭では理解しても、肌を以てその心境が分かるかどうか…。

翌日の夜、公務の余暇を割いて彼は私的な歓迎宴を料亭で開いてくれた。学生時代の館山実習での和船の八丁櫓訓練のエピソード、漁撈科の各友人は今はどうしているか、母校はその後どうなっているか?など等々、矢継ぎ早の質問、話は尽きなかった。当時、済州島は治安情況が余り良くはなかったので、そのための規制が厳しく、夜は料亭などは10時で閉めなければならない規則だった。そのことを心配すると「紹介を忘れたが、そこに居る人は警察署長だ。今夜は国際親善の特別許可、特別許可」と笑いながら夜の深けるのも忘れ、視察団一同のホテルに戻ったのは12時を過ぎていた。

私が「ギックリ腰」でコルセットを着けていることを知り漢方の「黄土」が効くぞと教えて呉れた。彼自身は踊らなかったが、妓生に「この人は漢江水打令が好きだ。歌って、歌って」と命令?して居た。國、立場は違っても青春時代を共にした同級生はそれらを超えた何かがある。

科学小委員会の韓国側の若手スタッフには彼の教え子も居た。「朴先生に習ったが、どうも講義内容が古くて…」と云う声も後で聞いた。無理もない話だ。母校で習った後、帰国してから後の母校や同窓との連絡は全く途絶えていたから、その後の日本の水産研究の方向がどう変って来たか?など知る由もなかった情況に置かれていたのだから。

同君は漁撈科の同期生の山本和平君と親しく、10数年前に、多分彼の定年退職後だと思うが、ソウルの住居から一度来日して長崎を訪れ、同地で山本君と逢い長崎の楽水(同窓会)有志で非公式な歓迎会を開いたと山本君から知らせがあった。同期生の同窓会では毎年彼には案内状は出していたが、最近では歳の所為もあり「体調が悪く出席できないのが残念。ご盛会を祈る」との連絡が多くなって居た。その後数年して彼の逝去の知らせが山本君からあった。

一見、朴訥、生真面目とも見える同君とこの世で再び会う機会は無くなった。彼の逝去を知らせてくれた山本君も今年(2004年)の4月に長崎から東京新宿での我々同期生の同窓会に出席する切符を買いに行く車中で亡くなった。只管合掌而已矣。

 

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大滝英夫氏から頂いたコメント

 

大滝英夫氏は西海区水産研究所で共に仕事をした畏友である。ハングルを学習し今では韓国の水産文献等の翻訳をしておられる。同氏から以下のコメントを頂いたので付記し、謝意表したい。

1.戦後の韓国の水産研究機構の名称と所管官庁の変遷。

1949年4月   商工部 中央水産試験場
1555年3月   海務庁 中央水産試験場
1961年10月  農林部 中央水産試験場
1963年12月  農林部 国立水産振興院と改称
1966年3月   水産庁 国立水産振興院

1996年に「水産庁」は海洋関係部門と一緒になって「海洋水産部」となり、さらに、水産振興院は2003年2月に「国立水産科学院」と名称が変更されて居る。

2.通訳官についての韓国語の呼び方。

東亜新国語辞典(東亜出版社)によると、通訳官は「トンヨックコァン」、トンビョン (通弁)、トンサ (通事)、トンオ (通語)、などと呼ばれているそうである。


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OKINAWA

米軍占領下の沖縄訪問 

(1951年「琉球に於る水産研究事情調査」の想い出)

 

真道重明  (2004/06/20)

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 プロローグ
 「沖縄」と「琉球」
 沖縄政庁と米軍司令部 
 沖縄県水産試験場と琉球水産研究所 
 沖縄本島各地と宮古島の視察
 「たんちゃめー、谷茶前」と「ばすぃぬとぅるぶし、鷲の鳥節」 
 エピローグ 


プロローグ  

「琉球に於る水産研究事情調査のため1ケ月間出張を命ず」と言う漁政部漁政課長名の辞令を1951年(昭和26年)11月に受けた。私が勤務していた農林省水産試験場長崎分場が西海区水産研究所と改名された翌年である。辞令を受けたのは同水研初代所長の伊藤たけし氏と私の2名で、伊藤所長の「鞄持ち」として若輩の私が付いて行くことになったわけである。

伊藤所長は西海区水研に赴任する前は農林省水産局の研究科長をして居られ、研究行政には本局内は勿論、研究関係では幅広い人脈を持って居られた。東大農学部の海洋研究室の海藻研究で活躍された新崎盛敏教授(東京沖縄県人会会長)、米軍統治下にあった「琉球政庁」の水産担当官の森田さん(戦前農林省水産局に居られた宮古島出身の人、名前は失念)などを良く知って居られた。新崎盛敏先生とは出発前には私もお会いして日本敗戦後の沖縄についていろいろ話を伺った。

ご承知のように当時の旧沖縄県は米軍の占領下にあり、琉球政庁の行政下にあった。此れは日本ではなく外国である。この年の9月に日本はサンフランシスコ講和条約が締結されてGHQ(連合国最高司令官(SCAP)の総司令部と、アメリカ大平洋陸軍(のちの極東軍)司令官の総司令部を兼ねた二重の機能を持つ司令部)による占領状態は終わりを告げ独立国の地位を回復している。ちなみに、沖縄の本土復帰は1972年であり、この時より20年も後のことである。

沖縄への渡航には当然パスポートが必要であった。これが私がパスポートなるものを所持した最初の経験であった。黒い羊皮紙のカバーの大型のもので、現在の胸ポケットに入れられる小型のものではなく、何やら厳めしさが在った。この昔ながらのパスポートは今でも記念品として書棚の下の引き出しの奥に大切に保存してある。なお、渡航の真の目的は「琉球の水産研究所(戦前の沖縄県水産試験場)の再建のための適地の選定や仕事の内容の策定」に関する助言であった。

沖縄訪問は私にとっては生まれて初めてではない。学生時代に海軍の一斉海洋観測が実施された時、アルバイト賃稼ぎに海軍の徴用した民間船(大洋漁業の南氷洋捕鯨船団に属するキャッチャーボート)に乗船し那覇港にはで数回入港し、那覇や首里の街を訪れたことがある。その時沖縄に関する知識を多少勉強し、「うちなーぐち」(沖縄方言)を少しは憶え、沖縄料理を食べ、名前は忘れたが「冬瓜の密餞」の菓子を買い込んだりした。

それだけではなく、熊本の六師団の工兵隊に初年兵として入隊したとき崎間や山之端(ヤマンハ)その他数名の同年兵が居り、特に崎間君とは仲がよくいろいろな沖縄の話を聞かされた。かれは一高・東大を出た秀才であった。方言による民謡なども教えて呉れた人である。「さかぬやぁーぬ・いなぐ」(酒の屋 = 飲み屋の・女)と言うもは今でも憶えている。それやこれやで私は沖縄に興味を持っていた。(彼とは後に再会の機会があり自宅に呼ばれてグルクマー「鯵や鯖に似た東南アジアに多い魚」をご馳走になったりした)。

U P

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「沖縄」と「琉球」

 

「沖縄」と「琉球」という二つの呼び方がある。日本語は本土方言と琉球方言の二つに大別されるということだが、本土方言(沖縄の人が言う「やまとぐち」)が日本の標準語になっているが、「うちなーぐち」は母音が「あいうえお」の5個ではなく「あいう」の3個であり、「え」が「い」に、「お」が「う」になる。米は「くみ」、心は「くくる」、「おきなわ」は「うちなー」と言うようになる。H 音が F 音となり、那覇は「ナファ」、木の葉が「クヌファ」となるらしい。「琉球方言は日本語の姉妹語であって方言ではない」と言う説も在るぐらい本土方言とは違っている。しかし、レッキとした日本語であり、にほんごのルーツの感がある。一方「琉球」という呼び名は千年以上前から中国がこの地を指した言葉であるという。

「いらっしゃい」の「メンソーレ」は、「参(まえ)り候(そうら)え」が変化した言葉だといわれているように、奈良時代のころに分岐した日本語だという。ちなみに、物の本によると古代日本語の母音数は8個もあったそうで、その後上述のように本土方言は「あいうえお」の5個、沖縄方言は「あいう」の3個になったのだそうだ。

私の郷里は熊本なので九州の言葉は多少分かる。時化の前に多い南風を「はえんかぜ」と呼ぶが、沖縄の南風原が「はえばる、フェーバル」であり、原は九州では島原を「しまばる」、西南戦争の田原坂は「たばるざか」である。近い所為もあろうが他の本土方言より近似点が多いようだ。例によって素人の横好きで言葉の話になってしまった。本題に戻す。

現在なら大村にある長崎飛行場から那覇へ一飛びだが、当時は埋め立て造成の大村飛行所は未だ無く、確か針生に米軍と自衛隊専用滑走路が在るだけだったし、蒸気機関車が引っ張る列車で長崎本線、鳥栖駅で鹿児島本線に乗り換え終点の鹿児島に一泊、黒潮丸に乗って船中で一泊、翌日那覇に付いた。自宅を出る前の晩ラジオで聞いた小泉八雲の怪談にある「耳なし芳一」の朗読を聞いたらソクソクした悪寒を感じ、風邪を引いたような気がした。微熱を押し切って出発したが、船中で発熱した。

那覇の旅館に着いたら40度近い熱である。医者に診てもらったら肺炎だと言う。第一歩から躓き伊藤所長の知人の紹介で「ペニシリン」という当時まだ日本本土ではあまり普及して居なかった抗生物質を呑んだら四日間でケロリと直った。沖縄では米軍からの横流しの新薬が容易に入手出来たことが幸いした。しかし伊藤さんには沖縄到着の初日から迷惑を掛けてしまった。

熱で寝床に横たわっていた時、突然三線(サンシン、蛇皮線)や太鼓の音が聞こえてきた。親切にして呉れた女中さんが二階の私の部屋に飛び込んで来て、階下の広場を見下し「モウテン・モウテン」と叫んで興奮している。何事が起こったのか訊ねたら「踊りの練習ですよ。明日が本番」と言う。モウテンは「舞うとる、舞っている」という意味だろうかなどと勝手に想像した。スンダ・ガメランに似た琉球独特の旋律を聞き、ここは沖縄だと実感しながら、「カツ丼」を一粒残らず食べた。「お客さん、それだけ食欲があれば明日は治るよ」とからかわれたが本当に治ってしまった。踊る姿を見たかったが、病床の中でなので我慢した。

U P

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沖縄政庁と米軍司令部

 

仕事を始めるに先立ち沖縄政庁の森田さんに一般情況を聞き取り、取り敢えず先ず米軍の水産行政を担当する部署に挨拶に行った。数名の軍人が居る部屋に案内された。担当主任の将校は奥に座っていたが、机上に脚を投げ出した侭、パーカーの万年筆を見せびらかすように弄んだ侭の対応。横柄な態度が癪に触ったが、負けたのだから我慢我慢。下手な英語での会話ではあったが、かれは漁業のことは何も知らないように思われた。印象に残っているのは美人の黒人の下士官で、黒い顔肌に真っ赤な口紅が似合って艶めかしい。彼女はシリアから転属して数日前に着任したと言っていた。

占領下にある以上、仁義を切って挨拶に行かなければならないが、この調子では森田さんも苦労が多いだろうと察した。事ある毎に米軍にお百度を踏まなければならない。森田さん曰く、戦後は大多数の漁民が一握りの資本家の魚問屋に借金をして漁需物資の入手も漁獲物の販売も魚問屋任せで漁業に従事している。経済的にはスッカリ問屋に首を押さえられ、自分で漁獲物を販売することも出来ないで生計を立てるのにどうしょうも無い。

公設市場を作って漁民を助けたいが、米軍が統制経済は自由主義経済に反するから「駄目」と恐ろしく単純明快、かつ幼稚な理屈で反対。米軍への説明に苦慮しているとの話であった。私達の出張の任務である科学調査や試験研究とは直接な関係は無い問題だが、この公設市場はその後開設が許可されて、不合理な事態は大幅に改善されたと聞く。

米軍は沖縄に上陸した時点で、ご承知のように、沖縄を日本本土から切り離し沖縄は米国の管轄下に置かれた。1952年4月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効、日本は独立したが沖縄は引き続き米軍の施政権下に置かれた。1950年(昭和25年)、軍政府から琉球列島米国民政府(US CAR)が設立された。

それに先立つ前年の9月に奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島で、知事及び民政議員の選挙が行われ群島政府が設立されて居る。米国政府は1952年(昭和27年)、「琉球政府」(別称:琉球政庁)を成立させ、米国政府の指示命令に従う立場となった。

当時、那覇の街には広い敷地の青空市場があり、いろいろな本土の商品、台湾や米国の商品を売っていた。現在の「國際通り」あたりだったのかも知れない。勿論、街には現在見られるようなビル群は未だ無かった。通貨は「ドル」だったような気がするが良く想い出せない。青空市場の一角には「琉舞」(琉球舞踊)や琉球芝居の小屋、ハブとマングースの決闘の見せ物小屋などがあったのを憶えている。

通貨であるが、その後調べてみると、戦後1946年頃まで通貨が無くバーター経済(物々交換)で、その後何回かの通貨の改正を経て、1948年に「B型軍票」が使用され始め、1958年からは「リュウドル」(琉ドル)に切り替わり、これが1972年の返還まで使用されたとあるから、当時私達は「B型軍票」を使ったのだろう。この軍票を「Bドル」ないしただ「ドル」と称していたのだろうと思うが記憶がハッキリし無い。

U P

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沖縄県水産試験場と琉球水産研究所

 

第2次世界大戦前には沖縄県水産試験場があった。現在の沖縄県庁の公式WEBサイトを見ると、業務報告書の詳細な内容の判明しているのは1926年(昭和元年)からであるが、公式記録では設立は1921年(大正10年)で、名称は「沖縄県立水産試験場」となっている。私の生れた年の丁度1年前である。1928年(昭和3年)には「沖縄県水産試験場」に改称された。1945年(昭和19年)第二次世界大戦の大空襲で機能停止とあり、1948年(昭和23年)に沖縄水産試験場として再出発と記録されている。

私が学生の頃「浴用海綿」の養殖技術で米国のフロリダのキーウエストの事例を習い「日本では沖縄水試が試験をやっている」と聞いたが、1926年の報告書にも「海綿養殖試験」が記載されていた。WEBサイトではその後、1929年迄の報告書の記載は在るが、その後は資料が逸散したのか、飛んで1937年(昭和12年)の昭和12年度沖縄県水産試験場事業報告書だけが記載されて居り、次に詳細が記載されているのは1956年(昭和31年)で昭和31年度琉球水産研究所事業報告書となっている。公式記録では1950年(昭和25年)に「琉球水産研究所」に改称…と記載されている。従って私達が訪問したのはその一年後と言うことになる。

この間の資料は逸散したのかWEBサイトに記載を準備中なのかは分からないが、戦争の激化と敗戦、戦後の混乱期に当たる。沖縄県立水産試験場は他府県の水試と同様に敗戦時まで、業務の戦時中の制約は在ったにせよ活動を続けていたが上記のように1945年(昭和19年)の大空襲で活動を停止した。処で琉球水産研究所事業報告書は1970年(昭和45年)まで続き、その翌年の1971年(昭和46年)には昭和46年度沖縄県水産試験場事業報告書と「沖縄県水試」の名称に戻っている。沖縄が本土復帰を果たしたのはそのまた翌年の1972年(昭和47年)で、以降はその形で現在に至っている。

WEBサイトには「沖縄県水産試験場は戦後数年間那覇市泊北岸にあって、研究・指導業務が行われてきた。しかし、急速な都市化により、環境が悪化し、円滑な業務が困難となった。幸い昭和47年、48年の2ヵ年にわたって、総工費7800万円(国庫補助1/2)で本館314坪、漁具倉庫40坪を糸満の埋め立て地に新築することが出来た。昭和49年に落成式を挙行した。云々」の記事がある。

私達が訪れたのは1951年(昭和26年)であり、上述の資料空白期の最中に当たることになる。前項の「沖縄県水産試験場は戦後数年間那覇市泊北岸にあって、研究・指導業務が行われてきた」というのは、「間違い」とは云えないにしても、戦争終了後の数ヵ年は殆ど業務は停頓状態に近いものであった。水産の技術的調査研究機関の再建を意図した琉球政庁としては旧水試を「琉球水産研究所」と改称していた。

日本本土では戦後研究機関の組織が改革され、東京中央区月島に在った農林省(中央)水産試験場と各地に在るその分場は、いわゆる8個の「海区水産研究所」に分かれ、戦前には殆ど個人的に開始されていた資源保護調査やそのメカニズム解明の研究が組織的に開始される情勢に在ったが、沖縄ではこれらの動きは停滞していた。

私達も長崎の西海区水産研究所に居てそれらの新しい調査分野を開始したばかりではあったが、ラッセルの「Overfishing Problem」などを訳していた私はそれらの新しい仕事の紹介と考え方、本土での情況などを一年前に発足した琉球水産研究所の職員の方々に数日に亘って講義の形で説明した。

 

U P

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沖縄本島各地と宮古島の視察

 

水産の調査研究機関の適地調査については「沖縄本島の何処かに設置する」と考えられていたのは当然であったが、海岸に面する地区は至る所で漁業が行われて居り、本土と異なり漁港整備計画は明治・大正・昭和の敗戦以前は一度も行われることがなかった。従って私達の調査した時点では漁港情報は、勿論のこと、極めて不足して居た。漁港整備が行われ始めたのはその後かなり後になってからで、本島ばかりでなく無数の離島の漁港の整備も始められたようである。私達は那覇市、糸満市、本部町、中城(なかぐすく)村などが主に視察対象に選ばれ、それらの現地を見て廻った。

中城湾は旧日本海軍の重要な泊地の一つで連合艦隊の集結地として有名であり、海軍関係の人は良く知っていた。中城(なかぐすく)の名前が示すとおり琉球王朝成立以前の14世紀ごろの「ぐすく時代」から沖縄本島の東海岸の重要地区であったとのことである。中城村は遺跡の外には私の記憶には印象があまり無いが、今では空港も在り隔世の感がある。

糸満市は漁業基地としては歴史的に有名であり、ここで生まれた「集団の素潜りの漁夫が魚群を網に追い込む「追込網漁法」は戦前から戦後にかけて東南アジアなどの珊瑚礁漁場で行われる漁法としては格段に効率が高いことでその勇名を馳せていることは私が学生の頃にも講義でも習って居た。糸満には明治中期に水産の学校が建てられ、その後幾つかの土地を移転したが、再び元の糸満市に戻り、沖縄水産高校となった。甲子園で勇名を馳せ一躍全国に知られたあの学校である。

糸満の伝統的な漁業はその西海岸に発達した珊瑚礁を漁場とするアンブシ(建干網)漁と呼ばれる沿岸漁業であったが、鱶釣りや鳥賊釣り、トビウオ刺し網といった沖合漁業へと発展した。1884年(明治17)にミーカガン(水中眼鏡)が考案されてからは、潜水を主体とするパンタタカーやアギヤーと称される追込網漁業へと発達した…といわれる。

獲れた魚は、消費地である那覇市などに運ばれ、カミアキネー(頭上運搬による商い)で売り捌かれた。組織的な漁業経営であるアギヤー(追込網)からは、多くのイチマンアンマー(糸満婦人)らがワタクサー(私財)を蓄積することができたと云う。魚を獲るのは夫、販売は妻であるが、漁獲物を漁夫(夫)から買う場合、夫婦関係は考慮されず、一家族の生計の会計は夫婦は互いに独立した財産を所有していた。現在はこれらの伝統的慣習がどうなっているのか知らないが、この伝統は沖縄でも糸満独特のものであると当時は聞かされた。

アギヤー(追込網)の発展は、近海の漁場の枯渇を招き、沖縄本島周辺から宮古・八重山へ、そして本土へと漁場を求めて展開した。また、第一次大戦後には南洋諸島・フィリピン・シンガポールへと多くの人々が出稼ぎに出かけたことは水産関係者は良く聞かされて学校の授業でも習った憶えがある。

離島の漁業の様子も見ておく必要があるので、宮古島の平良市を訪れた。沖縄の中でもカツオ漁の最も盛んな処である。那覇港からの連絡船は往路も帰路も乗客は満員で船内は熱気でムンムンしていたのを憶えている。往路の乗客の中に数名の琉大?の研究者が篭に毒蛇の「ハブ」をかなりの尾数入れたものを甲板に置いて居た。或る無人島に「一匹のハブも棲息していない不思議な島がある」のだそうで、そこの生物相や環境を調べており、その島にバブを放して「ハブの種群が生存できるのか?死滅してしまうのか?」を調べるのだと言う。

船客は殆どが沖縄の人達であるから、ハブには慣れているかと思ったら皆戦々恐々として篭を見守っている。確かに簡単な作りの篭でチョット触れれば蓋が外れて毒蛇が飛び出しそうだ。調査員は平気な顔をしている。仕事の目的が魚類資源にも共通する部分がありそうなので話をしているうちに友達になった。ハブは漢字では「波布・飯匙倩」と書き、沖縄・奄美には数種類が居ること、大きいのは全長 2 m にも達する、猛毒であること、捕獲方法、さすが専門家だけあって面白い話を沢山聞かされた。

私も気になっていたので「あの篭で大丈夫ですか?」と訊ねたら、笑って「年中これでやっています。まだ事故は一度もありません」との答えだった。

平良市は今でこそ観光地として立派なホテルも幾つかあるようだが、50年以上前の当時には、宴会などが出来る大きな旅館は、確か「日の丸旅館」だか「日の丸屋」だかと言う名前の旅館が一つあった切りだったと記憶している。漁業関係者の方々に大歓迎を受け、早速その夜旅館で歓迎会を開いてくれた。正月や「座開き」に唄われる格調の高い「鷲の鳥」(次項参照)から始まって、盛り上がるとテンポの速い唄が次々と出る。踊るのは沖縄風の髪型をした踊り子だけでは無く、招待者も招待された我々も踊らなければならない。沖縄の慣例なのだ。伊藤所長が踊ったのを見たのは、後にも先にも、これが最初であり、また最後でもあった。

翌日からはカツオ漁の人達から早朝に珊瑚礁の環礁内で獲った小魚を活け間に入れ、環礁をでて沖の漁場にでる漁の段取りなどを詳しく聞き取った。食事には下駄の歯のような大きな切身を大きな鉢に山盛りに入れて出された。二切れか三切れで腹一杯になった。

数日の滞在だったが、町中を散歩していて、宮古上布を織っている老婦人に出会った。道から直ぐに見える部屋であった。いらくさ科の苧麻(ちょま;方言では「ブー」で作る宮古上布は非常に高価な布であることは聞いて居たが、矍鑠としている老婦人は一日に20 cm 位しか織れないので着物一着分を織り上げるのには数ヶ月掛かると歯の抜けた顔で笑って答えていたのを想い出す。

U P

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「たんちゃめー、谷茶前」と「ばすぃぬとぅるぶし、鷲の鳥節」

 

沖縄は「唄と踊りの島」と言われる。学生時代に海軍の一斉海洋調査で数回訪れた際は上陸時間も短く、食べることに追われていたから、上陸して「ぼたもち」を食べるのが至福の精神状態で唄や踊りの土地など考える余裕は無かった。今回の1ヶ月の出張は沖縄島や宮古島で「唄と踊り」を満喫とまでは行かないが、多々肌を以て感じるものがあった。

沖縄の「唄と踊り」は、私の理解では単に楽しむだけではなく、教養でもあり、儀礼でもあると思う。今回と言ったが半世紀も前のことである。最近はどうなっているかは知らない。その当時の人は宴席で、唄の一節を謡い、舞の一差しも出来ないのは「一人前の沖縄人としては恥である」と度々聞かされた。教養の一つであったようだ。

客として招かれた際、その家の主人は玄関を出て客を迎え、道をこちらに向かってくる客が眼に入ると「まろうどの来訪を喜ぶ踊り」を舞った。客もそれに応じて舞うと言う習慣があった。短いものであり楽しむというよりは一種の挨拶儀礼である。私はこの話を数名の人から聞いた。その踊りの様子を「こんな調子です」と真似てもらった。「これは凄い」とその時の光景を憶えている。まさに「有朋自遠方来、不亦楽也」の気持ちそのものでは無いか。この風習は今ではどうなっているのだろうか?

夜になると方々の家から三線を練習している音が聞こえてきた。唄と踊りは生活に密着していた。最近は沖縄の民謡は本土では大流行して居るが、当時は沖縄戦線から本土に帰還した兵隊によって《マタハーリヌ ツィンダラカヌシャマヨ》で知られる「安里屋(アサドヤ)ゆんた」などの替え歌が流行していた程度である。

沖縄民謡は八重山群島の方に行くに従い数も多く優れたものが多いと当時聞いたが、私の胸に今でも残っているのは「谷茶前」と「鷲の鳥」である。

谷茶前節(たんちゃめー)節の谷茶は本島北部、恩納村にある漁村の地名、現在は美しいリゾート海岸である。琉球王朝時代には賑わった漁港だったそうだが、漁業は寂れている由。男は櫂を持ち女は魚篭を以て踊る軽快なリズムの唄。興味を持ったのは漁村や魚の方言名である。多少間違っているかも知れないが…、歌詞は数番あるが、2番までは次の通り。

一番目

谷茶前(たんちゃめー)ぬ 浜に
スルルーぐ
がゆ(寄)てちゅんどーヘイ
スルルーぐ
がゆ(寄)てちゅんどーヘイ

タンチャ マシマシ (囃し)
アン(姉)ぐ ソイソイ (囃し)
 で
アン(姉)ぐやくしく(約束) (囃し)

二番目

スルルーぐや あらん
やまと
(大和)ミジュンど やんでぃんどーヘイ
やまと
(大和)ミジュンど やんでぃんどーヘイ

(囃し)の3段は同じ文句のリフレイン。

谷茶前の「前」は江戸前の前と同じで、谷茶の海岸の前の海。一段目の歌詞の意味は「谷茶前(たんちゃめー)の浜にキビナゴの魚群が押し寄せて来るぞー」、二段目は「キビナゴじゃない、イワシだそうだぞー」。スルルーは「キビナゴ」、大和ミジュンは「ウルメイワシやマイワシの汎称」だという。魚見櫓からの通報で魚群の来たことを知らされたのだろう。キビナゴと思ったら、さらに値の張るイワシらしいと浜は興奮に沸き返り、男は櫂を手にして出漁準備、女は漁獲物を入れる魚篭を持って待ち構える様子を活写して居る。(囃し)の意味は定かではない。

後年、台湾の陳金城さんが長崎の西海区水産研究所に来訪した時、同氏はこの唄を実に良く知っており、言葉の意味にも詳しかったのに驚いた。台湾の人から見ると琉球民謡は外国である日本の唄と言うより、台湾北部の近隣地区の歌謡と云った感覚だとのことであった。

「鷲ぬ(=の)鳥、ばすぃぬとぅる」は八重山地区の民謡で、宴会の始めに謡う「坐開き」、「幕開き」や正月の祝い歌として謡われ、スローテンポの荘重な感じのものである。踊りも足の爪先を正面に向けた「すりあし」で、日本の能や中国の京劇の足運びと似ている。この歌に限らず琉球芝居での足運びもこれと同様である。

宴席では「鷲の鳥」に限らず、荘重な唄に始まり、挨拶があって畏まっている。そして宴が酣になると次第にテンポの速い唄となり、最後は賑々しく皆が立って舞う、と言うのが正式のプログラムであるらしい。この最初に謡われるものは、本土の能の三番叟のような性格のものと思えばよい。

ちなみに沖縄の主要なメロディ楽器の三線(三味線、蛇皮線)は撥を使わず水牛の角製の円筒型指差しを使った「爪弾き」である。後年奄美を訪れた際、奄美島歌の三線はギターのピック式のものを使うことを知った。本土の鹿児島以東は、いわゆる日本三味線で大きな柘植か上等は象牙の撥を使い、楽器の形態も猫か犬の皮を張ったものである。

奄美は沖縄と同じ蛇皮であり、奄美島歌の旋律は沖縄島などとはやや異なるようだが、言葉も沖縄に近いものが多いように民俗学に素人である私にも感じられた。

 

U P

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エピローグ

 

琉球に於る水産研究事情調査のため1ケ月間出張を命ず」と言う辞令を受けて西海区水産研究所の伊藤所長の鞄持ちで沖縄を訪問したのは、冒頭で述べたように1951年(昭和26年)末であった。今から半世紀以上前のことである。米軍統治下の琉球政庁の沖縄は國際法規上は外国であった。沖縄県として日本に復帰したのは訪問後さらに20年後の1972年である。

出張の真の目的である沖縄に「日本の敗戦で無に帰した状況下にあった水産研究機関を再建するための助言」と云っても、本土復帰を前提とした県の「水産試験場」を再建することを明確に意識したものではなかった。琉球政庁下に置かれる筈の「琉球水産研究所」と言われるものの設立を当面の対象とした形であった。これは1955年(昭和25年)に設立されている。

今になって考えると、琉球政庁下に置かれた「琉球水産研究所」の存在は、米軍支配下と言う異常事態の下での過渡的存在で、戦前から在った「沖縄県立水産試験場」の一時の過渡的な名称と位置づけられている。しかし、訪問当時はこの点は明確ではなかった。もちろん、沖縄の本土復帰は沖縄の人々は云うまでもなく日本国としての念願であった。ただ復帰が予想外に遅れたことは否めない。

我々の助言が何れほどのお役に立ったのかの評価も私には分からない。琉球政庁の人々も農林省の担当者もそれなりの「期待する将来像のシナリオ」はいろいろ頭には在ったのだろうが、本土復帰という政治上の大問題の前には霞んでいた。霞ヶ関の漁政部漁政課としては沖縄の漁業や漁業行政の実態を把握したかったのだろう。

現在では県としては「沖縄県水産試験場」と、國としては石垣島に西海区水産研究所(本所は長崎)の「石垣支所」が在る。半世紀以上経った今では漁業環境も、生物学的環境も、また海洋学的環境も当時とは認識が大きく変り、時代の変化を痛感する。

私が以上述べたことは主として半世紀前の追憶であり、業務報告ではない。沖縄の言葉や唄と踊りの話が多く「沖縄に行って唄と踊りばかりに気を取られて仕事をサボっていた」訳ではない。だが、率直に言って仕事の細々したことは忘れても、沖縄の海・珊瑚礁・唄と踊りは忘れることなく印象に残っている。

琉球王朝以来、各国と交易した沖縄の人達は本土とは違う何ものかを文化として持って居る。当時の那覇の繁華街を散歩していると、多くの外国人、特に台湾の人々を多く見掛けた。その何人かは中国語(台湾のミンナン語では無く北京語)が出来るので友人となり、喫茶店でコカコーラを良く一緒に飲んだ。本土にも勿論あったが飲んだのは那覇が最初であった。国際的な感覚を強く感じた。

後年、私は東南アジアに11年勤務したが、各国から日本に留学した連中に聞くと、沖縄の地は日本本土と違い「生活の違和感が無い。東南アジアの国々に居る感じがする」と数名の人から聞いた。亜熱帯という地理的条件が近いこともあろうが、それをこえた平和で、コセコセしない沖縄の人々の生活感と言うか雰囲気がそうさせるのだという気がしてならなかった。

U P

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Magenkrebs

 

職場の集団検診の結果を記した私のカルテを偶然にも見ることとなり、「胃癌」と書かれてい
るのを知り「再診」の通告。不覚にも私は気が途端に動転狼狽し「俺もこれ迄か」と思った話。

 

真道重明 

(2005/03/30)

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Magenkrebs とはドイツ語で「胃癌」のことである。長崎の研究所に勤務している時で私が35歳位の働き盛りの時であった。職員の健康管理のため毎年一度の集団検診があり、どう言う訳かその年に限って一月経っても病院から検診結果の報告がない。庶務課は「何故か?」とその病院に問い合わせた。病院は報告するのを単にど忘れしていたので、慌てて「今すぐ書類を持参する。遅れて申し訳ない」とのこと。余程慌てたのだろう、結果報告用の書類では無く、本来は院外には公開しない「カルテ」そのものを急いでコピーしたものを掛りが自転車で持参して来た。病院の手違いであるが、名誉?のため病院名は伏せる。

研究所の庶務は勿論そんなことは分かるは筈はないから、その「カルテ」のコピーをそのまま各人に配った。丁度昼食直前であったと記憶する。医学の専門用語はドイツ語で走り書きしてあり変だと皆思った。問題は私のカルテである。その数行目に赤丸が付けてあり、Magen書いてあるのが眼に入った。一応学校ではドイツ語を習っていたので「マーゲン」が胃袋を意味することは知っていた。次の krebs 英語の crab (蟹)に当るのでは無いかと咄嗟に思った。蟹の赤い鉗脚(カンキャク、挟みの爪)の様子が丁度「癌の腫瘍」の色や膨らみに似ていることから、癌の腫瘍を意味する…と云った話を以前に聞いた気がする。もっとも「癌」のことは英語では cancer であるが、語源的には crab と関係があるらしい。さらに遡ればサンスクリットの Karkata に由来するらしい。これは大島廣先生からエスペラントを習ったときに聞いた話であることを思い出した。Noah Webster の An American Dictionary of the English Language を引いてみると確かにその事が述べられている。勿論これは後になって調べたことだが…。

「もし、そうなら…」、「Magenkrebs」は「胃癌」では無いか?「まさか?」とは思いながらも、直ぐさま図書室で独和辞書を調べた。 矢っ張り予感的中、「胃癌」と出て居る。一瞬愕然となった。もう一人同じ記載の人があった。それには「?」が付いていた。私の場合は疑問符無しの断定である。集団検診の小さなX線の映像だけでカルテに胃癌などと軽々しく断定し記載出来るものだろうか?それとも小さな映像だけでも「明確にそれと分かる特徴」が出て居るのだろうか?同僚の知人が2ヶ月前に胃癌と診断され、即日入院、4ヵ月後に死亡した話を聞いたばかりだ。30歳や40歳の年齢では癌細胞の進行が非常に早いらしいとその同僚は驚いていた。

カルテには「要再診」のスタンプが押してあった。昼飯は食べたか食べなかったかは憶えていない。内心の動揺は努めて隠し誰にも告げなかったが、その内無暗に「喉が渇く」のを憶えた。仕事が終わって帰宅するまで10回以上コップの水を飲んだような気がする。無性に「喉が渇いた」。周章狼狽している自分と、その自分を第三者的に観察しているもう一人の自分が存在しているのを覚えた。生まれて始めての経験である。「事と次第によっては半年以内の命かも知れない」と自分に言い聞かせている私と、「この人間は狼狽して心の中が真っ白になっている」状態にあると冷静に見ているもう一人の自分が居た。

それ迄の私の人生で「死に直面しそうになった」ことは数度在った。学生時代に海軍の御用で太平洋赤道以北の海洋一斉観測調査にアルバイト費稼ぎで応募し、台風のど真ん中に巻き込まれ、甲板の予備燃料のドラム缶も総て流され、船長は「沈没の可能性ありと」判断し、全員に救命ジャケットの着用を命じ、万一の場合の覚悟を告げられたことが在った。採水器に噛みつく大きなサメがウヨウヨして居た。また、戦地では当たり前のことだが常に死と向き合っていた。被弾して即死するか、敵弾が逸れるかは確率のサイコロのようなものである。しかし、人間というものは勝手なもので、冷静に理性では確率的に判断して「死ぬ可能性が高い」時でも、「俺だけは例外で運良く助かる」と云う気持ちが何処かに在るものだ。だれも自分が死ぬだろうと思いたくはない。理では死でも情では活である。これは「死の恐怖感に苛まれるとか臆病者と誹られる」と云う問題では無い。「死から逃れたい」と云う気持ちは本能的なものであろう。

話を「カルテ」に戻そう。この際、その病院の検診医に電話するか面会して説明を求めることは全く考えなかった。自分が所見に「癌」と書いた以上本人はそう言い切った手前、責任があるから「そうと断定するのは不用意だった。少し速まった」と前言を翻すかどうか?だが、私にとってはそんなことはどうでも良い。本当に胃癌であるのかどうかが問題である。当時は現在と違い癌は先ず手の施しようが無く、治療薬も少なく「癌と仲良く付き合う法」などと云う考えも無かった時代である。

家に帰り九州大学医学部の第2内科に居る親しい知人に電話した。「すぐ来い」と云う返事、早速、翌日博多に向かった。知人宅に一泊して九大病院を訪ねた。野球のアンパイアーが胸の前に付けるプロテクターのような形の分厚い鉛の板を仕込んだ前掛けを付けた知人の先輩の医者によりレントゲン画面を見詰めながら胃カメラを操作して沢山の写真を取られた。後で聞いたのだが、放射線の障害から医師を守るため普通はこの方法は取らないのだそうだ。しかし、現在は知らないが、当時ではこれが最も的確な操作が出来る方法だったらしい。

2週間後に結果が分かると云う。その医師はレントゲンの画面を見ているのだから、胃袋の状態の大体の様子は見て取ったのだろうが、胃カメラの画像が最も的確な判断材料となるので、それ迄は「一見した処では大きな問題は無さそうな印象です」と云った調子の「いい加減なコメント」は絶対云わなかった。死刑の宣告は2週間後に延びた。そして家に戻って一日千秋の思いでその日を待った。

60枚ぐらいの胃壁内部のカメラの映像が引き伸ばして並べられていた。「全く何の異常も認められません」と云うのが数名の専門医のカメラの映像を見ての合議の結論であった。「良かったですねー」とのこと。この20日間、私は「俎上の鯉」というか、万一ということも考えて心境が一変していた。滅多に無いケチな父親の私が子供を連れて街の食堂に行き「何でも食べたい物を注文せよ」、「腹一杯食え」などと口走っていた。まるで仏様になっていた。娘はビフテキでもない、エビフライでもない、「釜揚げ饂飩と云う物を食べたことが一度もないから、それを食べたい」と云ったのを今でも憶えている。

このことがあってから半年後のことである。市内の百貨店で偶然にも、集団検診をした病院の担当医にバッタリ出会った。先方は私など見忘れている。突然私の胸にムラムラと怒気が込み上げてきた。「誤診をしたのはこの野郎だ」後ろから追いかけて行って思いっ切り殴りつけたい衝動に駆られた。もちろん殴りはしなかったが、何故「喧嘩下手で同時に喧嘩嫌い」の私が突然こんな心境になったのか未だに分からない。このような心境を経験したのは80余年の人生のうち、この時一回限りである。心とは不思議なものである。

 

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廖承志

 

 

 

 

 

 

 

 

廖承志氏との学術用語談義

− 日中友好協会初代会長の廖承志さんとの討論 −

 

真道重明 

2005/10/02

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承志(1908年〜1983年)さんは私が北京滞在中お会いした高官の一人である。同氏と出会ったことはこの Homepage の「自伝とESSAY」の中の「1957年の訪中記」で少し触れたが、半世紀前に同氏と交わした会話の内容「中国の学術用語を巡る問題」は現在の中国では大きく変化して居る。今回はそれらの点を含め、今少し詳しく当時を回想しながら、現時点に立って感ずる処を述べたい。

廖承志さんはアジア・アフリカ和平委員会の中国代表、日中友好協会の初代会長であった。私に会いたいとのことで、早速出向いた。時は1957年9月末、場所は北京の同氏の事務室である。私の専門分野に於ける研究の現状の話を聴かれた後、「日本は科学論文を日本語で書ける。中国はまだ母国語で科学論文を書くには多くの解決を要する問題がある。速くその水準に達したいと願っている。貴方は科学者としてこの問題をどう思うか?」という質問が有った。

  1. 「中国はまだ母国語で科学論文を書くには多くの問題がある」とのご意見であるが、明治時代の日本は同じ問題に直面していた。当時の日本語で書かれた科学論文を見ると「縦書き」であり、その時代の筆者の苦労が良く分かる。しかし、経験を重ねるに従い次第に学術用語も統一され、科学論文は「横書き」となった。多くの学者が経験を重ねていくにつれ、内容もより適切に表現できるようになった。中国の場合も同様の経過を辿るものと思う。

  2. 台湾の私の友人に「論文は英語や日本語では書けるが、自分達の会話語であるミンナン語(福建省南部方言)では、どうしても書けない」という人が居た。学術用語が無いためである。学術用語が無ければ論文を書くのは極めて困難で、一行書くのに用語解説をしていたのでは面倒くさくて書く気にならない。

  3. 開放後の中国では総てが「横書き」となった。これは自然科学者にとっては実に有り難いことである。日本では新聞・雑誌・小説など「縦書き」が多い。数式や万国共通の単位など、「縦書き」の場合は非常に書き難い。「横書き」に統一したことは中国語の自然科学関係の論文を書くに当たって大いに利する処があると思う。また、コンマやコロン・セミコロンなどの使い方、書籍のタイトルは《… 》の括弧で包むなどの規定は非常に良い取り決めだと思う。

  4. 中国は外国の技術用語を総て漢字に翻訳しなければ気が済まないような風潮が有るように思うが、世界中の科学技術用語は科学の発展に伴って日進月歩、急速に増えているから、それらを総て漢字で表記しようとすれば、用語の統一には莫大な労力と時間が掛かる。欧米人は同じローマ字を使用していることもあって、英文の中に仏文や独文の述語を違和感が無く、その侭の原語で混在させている。総てを漢字に訳する必要は無いと思う。

  5. 日本は元来「文字」を持たず、漢字も中国から借用したが、そのためか否かは知らないが、他国語をそのまま翻訳しないで平気で取り込む。特に学術論文の場合にはその方が誤解による混乱も少なく効率的であるように思う。各専門分野ごとに「用語統一委員会」のようなものを設けて検討することも有効だと思う。日本では各学会でこのような努力をしている。

私の論旨は大体以上のようなものであった。私より14歳も年上の廖承志さんは34歳の若造の私の話に一々頷いて居られた。

中国語は原則として、一つのものに対して一つの漢字が在り、新しいものが発見されたり、作られたりすると、それを表す新しい漢字を作らなければならない。

例えば化学元素の名前などはその典型例である。アルミニューム(Al)は金偏に呂を旁とした文字が新しく作られている。カリウム(K)は金偏に甲を旁とした文字、酸素(O)は「気がまえ=气」に羊という文字である。日本では片仮名や漢字熟語で表しているのに対し、中国語では新しい概念であるため新字をわざわざ作成している。

私が中国語を習い始めた頃、中国にはそれ迄無かった外来語で原音を表記した語は、モーターが「馬達」、家具のソファーが「沙発」など数語しか憶えていない。他の殆どは中国語の漢字に訳されて居た。ネクタイは「領帯」、ネクタイ・ピンは「領帯別針」、サンドイッチは「三昧子、三明治」、サンドイッチ・マンは「身前身后挂着広告牌串街宣伝的人」と言った具合である。

日本では平気でネクタイやサンドイッチなどと仮名で音を写して使用して来た。漢字は表意文字であるから、面倒くさい話になる。中国でも表音の記号(注音字母)が開発されたが現在では辞書にはあっても実態としては殆ど使われていない。

ところが、改革開放とそれに伴う高度経済成長とで、外国との接触が急増したため、多数の外来語が押し寄せて来た。とりわけ、IT時代になってパソコンや携帯電話によるインターネットや電子メールが普及した現在(携帯電話の普及率は3億人、パソコンは1億人余と言われる)では、音写語の漢字は巷に氾濫して居る。

ITは信息技術、ISDNは一線通、アイコンは図標、アウトプットは輸出、アクセス数は訪問数、スキャンは掃描、スクリプトは脚本、セクターは扇区、ソートは排序、…と仲々面白く、成る程と感心する訳が多い。20年前にコカ・コーラを「可口可楽」、カラオケを「卞拉OK」とあるのを見て感心したが、現在ではその比ではない。音写漢字で看板も書籍も充ち満ちている。

中国語に大革命が起こっている感じである。半世紀前に廖承志さんと話した問題の幾つかは、技術や社会経済の変化に連れて大きく様変わりしている。


 

対面であった廖承志さんとお会いした際、通訳付での公式挨拶が終ると茶菓が出た。「堅苦しい挨拶はこれぐらいにして通訳者無しで気楽に話しましょう」という流暢な日本語が同氏の口から出たのには驚いた。まるで日本人の喋る日本語だ。日本通の廖承志さんの名前は知っていたが、どのような経歴の人かは詳しくは知らなかった。

その後調べて分かったことは、同氏が東京生まれの東京育ち、折にふれ、江戸っ子の人情、諧謔、気風を感じさせる人だったと言う某氏の回顧談を読んで「成る程」と思った。だがその一方で、中国共産党中央政治局員というれっきとした革命家の肩書きを持つ人でもあった。六回も捕らえられ、六回も牢獄につながれた革命の闘士でもあった。

廖承志氏の略歴

広東省恵陽県の人。父は国民党左派の要人,廖仲ガイ,母は何香凝。別名は何柳華。1919年嶺南大学に入学,1925年国民党に入党。父の暗殺後日本に留学し早稲田大学に入学。1928年共産党に入党し,1928〜1932年の間、渡欧しドイツ・オランダ・ベルギーの中国人海員の赤化工作を担当。1932年帰国後,中華全国総工会宣伝部部長。長征に参加して延安に至り,中共出版局局長・「解放」編集長・党広東省委員会委員となる。1937年より香港において華僑を組織し抗日戦争を戦う。1946〜1949年の間、中共南方局委員・中共宣伝部副部長・新華社社長などを歴任。解放後は中共中央統一戦線工作部副部長・華僑事務委員会副主任・中日友好協会会長などに就き,中共中央委員・第5期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた。1954年と1957年に来日。また1955年国際貿易促進委員会委員となって以来,日中貿易交渉で活躍した。1964年、LT(廖承志・高碕達之助)連絡事務所を設置した。文化大革命中批判され失脚したが復活。1972年の日中国交回復に尽力した,1983年6月10日,病気により北京で逝去。

(中国網2002年9月22日より抄訳)

 

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KronumaTomiyama

黒沼勝造先生

富山哲夫先生

 

真道重明 

2006/07/01

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黒沼勝造先生(1908−1992)と富山哲夫先生(1906−1996)とは共に東京水産大学の第4代(1965−1966)と第5代(1966−1973)の学長を務められた。とりわけ富山先生は敗戦後の学生運動が烈しかった時代だったので学長職では大変苦労された。
黒沼先生は私が学生時代(戦前)には、自由研究員的存在で、良く京都大学に移られる前の魚類学の松原喜代松先生の部屋で度々お目に掛かったが、授業は受けていない。しかし、退職されて後、外地の国際会議などで顔を良く合わせた。
一方、富山先生とは私達は戦前の学生時代に講義を受け、その後間もなく先生が九大に移る時、養殖科本科を卒業し専攻科に進んだ私は先生の研究室を居室として与えられ、因縁浅からぬものがあった。また、退職された後、外地での国際会議では、しばしば両氏にはお会いした。また、後年両先生のご自宅には数度訪問している。

私とは卒業後の専攻分野は違っていたが、同窓として、また恩師として、後年に海外でのお付き合いの印象が強い。

 

黒沼 勝造 先生

 

私が農林省水産講習所の養殖科に在学中、黒沼さんから授業は受けていないので、黒沼さんは「恩師」と云う訳では無く、養殖科の先輩と云った関係であった。本科生時代、魚類学の松原喜代松先生のお部屋(研究室)に時々出入りする顔の小さい小柄な人が居た。隣接した小部屋で魚の画を描いたり、魚の骨を沢山並べて沈思黙考して居る人が居る。

私達との会話は殆ど無い。「あの人は一体誰だろう?」敢えて詮索することもなく、その必要も無かったから、その侭で打ち過ぎたが、この人が黒沼さんであり、同氏を知った最初の出会いだった。黒沼さんの卒業年次は松原先生(養31)の2年後輩(養33)で二人は同窓かつ魚類学を目指す旧知の仲だったことを後で知った。

敗戦後の1950年頃、8海区水産研究所の発足当時、黒沼さんが初代の淡水区水産研究所長となられたことや、そこを辞めて農林省水産講習所の後身である東京水産大学に助教授として移られ、1964年に魚類学研究室の発足に参加され、1966年に大学の学長に就任されたことは聞いていたが、専攻分野の異なる私との接触は殆ど無かった。

研究者としての世界でその一筋道だけを歩んで居られた黒沼さんは、淡水区水産研究所長や大学の学長と云った職とは肌が合わず、第4代学長(1965年9月−1966年9月)も、1ヵ年で辞して居られる。淡水区水産研究所長時代に220匹のアフリカ種、ティラピア・モザンビカを輸入したのは黒沼さんである。米国のミシガン大学の大学院でも学ばれ、英語は話し言葉も書き言葉も得意であったと聞く。

専攻分野の異なる私が黒沼さんと親しくなり、話を交わすようになったのは、殆ど1970年以降に海外で開催されたFAOやICLARM(イクラム、現在は WorldFish Center と改名してマニラからマレーシアのペナンに本部を移転している民間の水産技術協力団体)などの国際会議の場であり、私が海外の國際機関から帰国してからは数度お宅に伺ったこともあった。

独自の社会価値観を持って居られ、専門の魚類系統分類学のことになると細かい問題にも他人の説の批判が多かったためか、周りから良く思われなかった節もあったようだ。だが、仕事を離れるとまるで子供のように無邪気な一面を見せる人だったように私には感じられた。

初めて言葉を交わしたのは、確かマニラでの FAO の「南シナ海計画」の会議だったように記憶する。その日の夕刻は公的行事予定の無い自由時間であり、7〜8名の知り合い有志の非公式パーティを持った。インドネシアとフィリピンの人が多かったようだった。少し酔いも回った頃(モスレムの連中は酒は飲まない筈だが?、インドネシアにはかなりクリスチャンも居る)、黒沼さんは突然ポケットからハーモニカを取り出してナポリ民謡のサンタ・ルチアを吹き出した。

吹き終わると今度は続けてその歌を歌い出した。皆が良く知るイタリア語の歌詞♪スル・マーレ・ルチカ …♪ では無くエスペラント語の ♪スラ・マール・ブリーラス … ♪である。エスペラント語を私は多少噛っていたので、直ぐ合唱した(エスペラント語を学習した人なら、この歌のエスペラント語訳 Sankta Lucio 此処をクリック)は名訳であり、入門書などにも掲げられているから、皆知っている)。

歌い終わると黒沼さんは英語で私に「お前エスペラント語を喋れるのか?」との質問。私はエスペラント語で「はい、少しは」と返事した。イタリア語は片言だけで役に立ちませんが…と付け加えた。黒沼さんは今度は日本語で「僕は少しエス語をやったが、正直言って忘れた。ただ、この歌だけは2番目まで憶えている」とのこと。

この会話が黒沼さんと私との会話が急に増える切っ掛けとなった。話題の大半は東南アジア各国で出版された魚類の annotated checklist (産出される魚類の目録)に余りにも間違いが多いと云う問題に関することであった。一つ一つ文献名・著者名を挙げて指摘された。私もそれには同感であったから、話はお互いに良く噛み合ったし、水産資源を論ずる際の基礎的問題ではあるが、解決するのは容易なことではなかった。指摘は容易でも、そのためにはどうすればよいか?は、とりわけ研究者の少ない地域では大変である。

科学的に「種、Species」がハッキリしないままでは第一歩から躓く。さらに、資源学のような応用科学では、仮令、「種」が分かっても、統計を取る際には調査員が種を識別する能力(知識)が必要である。現実問題としては「気が遠くなる」ほど厄介な問題であり、莫大な予算と教育が必要となる。晩年の黒沼さんはこのことが常に頭にあったようだ。

海外勤務を終えて帰国してからも数回ご自宅を訪問した。広い敷地の中に数戸の平屋建ての家が散在し、これが僕の家、あれが家内の家、向こうが娘の家、と云った風になっていた。丁度、東南アジアに良くある「バンガロー式ホテル」のようだった。相当変わっている。

黒沼さんの家は2室か3室、中央の広い部屋には天井から沢山の紐がつり下げられ、その先にマレーシアの凧、オーストラリアのブーメラン、タイの木彫りの魚など、所狭しとぶら下がっている。海外土産の展示である。この奇抜な展示方式にも驚いた。

私の知人で模型飛行機や紙飛行機の大好き人間が居て、天井から沢山の紐を吊り下げ、その先に自作の飛行機をぶら下げていた。これは元来空中を飛ぶものだから、分からぬでもない。この展示方式を見たのは黒沼さんと彼の二人だけである。

或いは私の無知で、このような展示方式がモダン・アートなどには有るのかも知れない。埃を払うのは大変だろうと余計な心配をした。今は亡き黒沼さんはリクライニング・チェアを一杯に倒して、仰向けに寝そべり、天井から吊り下げた無数のオブジェ?を一つ一つ眺めて既往の想い出に耽っておられたのかも知れない。

 

富山 哲夫 先生

 

学生時代に富山先生からは、工場からの汚染物質排出の削減方法とその再利用、養殖稚魚の餌料飼育を阻害する不明要因など、当時としては最先端の問題の講義を受けた。私達の目からは最先端の問題に精力的に取り組む先生はとても新鮮で、立ち居振る舞いや服装もダンディに映った。

九大と兼務だった先生は私達が本科を卒業する1年前の1941年の4月に九大専属として母校を去って九大に転勤された。先生が学長として再び母校に戻られたのは戦後の学制改革により母校が東京水産大学と改称されて居た1966年で、1973年までの7ヵ年間学長職を勤められた。時恰も敗戦後の学生運動が烈しかった時代だったので学長としては大変苦労されたと聞く。私は此の頃は國際機関勤務で海外に居た。

話を学生時代に戻そう。私はクラスの中でただ一人、専攻科(養殖専攻)に進学して居た。富山先生の居室は先生が九大に移籍後も「空き部屋」として、化学薬品類の戸棚も薬品と共にその侭残っていた。

空き部屋としておくのは勿体ないと云うこともあってか、私にその部屋を使うことを許された。当時の専攻科の学生が部屋を持つことは無かったが、私は幸運にも許された。部屋の中には先生が考案された野外に持ち運べる「小型化学分析装置」(化学実験台を野外の現場でも使えるように小型携帯用にしたもの)一式も残っていた。

専攻科で私は稲葉伝三郎先生の御指導の下、今で言う「栽培漁業技術」の「はしり」のような勉強をしていたが、稲葉先生と同じ並びの部屋を使わせて貰った訳で、専攻分野は違うが後年、特に海外で富山先生と度々会話する機会に恵まれたが、同先生の部屋を使わせて貰っていたことは、偶然とは云え「ご縁があった」と云う気がしてならない。

戦後、軍役から復員して最初の勤務地は九大農学部所属に天草臨海実験所だったし、その後、長崎にある西海区水産研究所に勤務していた時には仕事の関係で箱崎にある九大の農学部には度々訪れた。しかし、専攻分野の異なる私は当時九大に居られた富山先生とは顔を合わせていない。

占領下時代、熊本県の宇土半島先端の三角港で、事態を誤解した米兵から殴られている老人を助けようと、英語で説明したら、相手はごろつき同然の兵隊、碌に聞きもせず先生にまで殴りかかり、鼓膜が破れる羽目に会われた…などの武勇伝?は聞いていた。「君子危うきに近寄らずだね」と後で笑っておられたとか。

先生と親しく話をするようになったのは、1970年代中期以降で、その殆どが海外の國際会議や講義にバンコクなどに来訪された時である。4〜5人で臨時同窓会を開き、お招きしたりした。同級生に姓がブンビッチ(後でチャチャイと改名)、名がアマタヤクル君というタイ国留学生が居た。母校卒業後、九大に再入学、二つの学校で富山先生から教えを受けた。

彼(チャチャイ・アマタヤクル君はタイの豪族アマタヤクン家の一族で帰国してから水産局に勤めアティポディ(局長)を勤めた。富山先生を尊敬し、タイ国の養殖場が工場排水の汚染により、次々破壊されて行くので、先生を長期に招いて対策の助言をお願いしたりしていた。私は当時バンコクに本部のある東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)に居たが、水産局長室に先生のための大きな机を置き、自分は脇の机に座っていた。

彼は帰国の直前、一時 GHQ に勤め、帰国後数回来日したが、何時も富山先生宅を表敬訪問して居た。最後は1995年頃だったと思うが、先生は病床に居られ、見舞いに行くのを遠慮し、見舞い品として葡萄の「巨峰」を送りたいと云うので手伝ったことを憶えている。

先生の自宅は先生の好みで螺旋階段が屋外にあり、これを登って二階に行く設計になっていた。来客時は別として、食事は家族が日割り交代で受け持ち、先生もかなりの高齢にも拘わらず、当番日には家族の食事を作っておられた。

今では先生も既に他界され、彼(チャチャイ)も数年前に故人となった。私にとって今では「想い出」として胸中にあるだけとなって了った。

 

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SANKTALUTIO

ナポリ民謡 サンタ・ルチア

(エスペラント訳詞 サンクタ・ルチオ)

サンタ・ルチアはイタリアのナポリ民謡として誰もが知っている。伝統的に唱い継がれてきた歌詞にはいろいろあるらしい。下記は最も普遍的に謳われるもの。
サンタ (
Santa) はラテン語の「聖なる」を意味する Sanctus (サンクトゥス)から来ている。エスペラント語では Sankta (サンクタ、戦前のレニングラードがサンクト・ペテルスブルグとなったが、あのサンクトも同類同根だろう。英語ではセントピータース・バーグか?)、なお、ルチア Lutia はエス語の名詞語尾 "o" で Lutio となる。

なお、下表の左側のエスペラント文字の変音記号は省略した。

 

Sankta Lucio  (エスペラント語)

Napola Popolkanto

Santa Lucia (イタリア語)

サンタ・ルチア (ナポリ民謡)

Sur la mar' brilas stel' de argento,
Dolce favoras ondoj kaj vento ;
Dancas la barko kiel folio ;
Sankta Lucio,
 Sankta Lucio !
Dancas la barko kiel folio ;
Sankta Lucio,
  Sankta Lucio !

Bone ni fartas en la barketo
Pro la dolcega, kara venteto ;
Venu do, preta nun estas cio;
Sankta Lucio,
  Sankta Lucio !
Venu do, preta nun estas cio ;
Sankta Lucio,
  Sankta Lucio !

(以下略す)

Sul mare luccica l'astro d'argento.
Placida e l'onda; prospero e il vento.
Venite all'agile Barchetta mia !
Santa Lucia,
   Santa Lucia.
Venite all'agile Barchetta mia !
Santa Lucia,
  Santa Lucia.

Con questo zeffiro cosi soave,
oh! com'e bello star sulla nave !
Su passaggieri venite via !
Santa Lucia,
   Santa Lucia.
Su passaggieri venite via !
Santa Lucia,
  Santa Lucia.

(以下略す)

 

エスペラント語の歌詞の発音は原語のイタリヤ語と良く似ている。(ほんの片言のイタリア語しか喋れない私が言うのも烏滸がましい限りだが)。エスペラント語入門書の多くにはこの歌が紹介されている。習っているとき、教えて頂いた大島廣先生と良く合唱した。

エスペラント語の歌詞の最初の2行だけを見ても、英語を知っている人なら、mar marine 「海」、brilas brilliant (光り輝く)の短縮形である brilas (すばらしい)と同綴り「輝く」、argento はその侭英語の「銀白」、dolce は英語音楽用語の sweetly and gently、(音楽用語の大半はイタリア語に由来する)「甘い」、(もっともイタリア料理の流行っている今の日本では、パンナコッタなどのケーキ類は「ドルチェ」その侭で通用する)、favoras favrite 「好む」、vento ventilation (通風)から考えて「風」と言った具合で何となく見当が付く場合が多いし、エス語を習った人なら連想して記憶しているから忘れない。独・仏語を知っている人の場合も同断、エス語はラテン語を単純化したような感じなので同根の言葉が多い。

 

 

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