自伝と ESSAY

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「自伝とESSAY」と題しましたが、私が物心ついて以来、この歳になるまでに身を以て体験した事柄の数々や心に残る想い出などを綴りました。その他にこのホームページに投稿して頂いた方々のエッセイなども載せてあります。

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目 次

私の生涯での最初の記憶 (1歳半の時の風景の記憶)
室戸台風に直撃され校舎崩壊 (小学校5年生の時の体験)
従軍奇談 (停戦後、敵だった軍隊の司令部に勤務した体験)
昨日の敵は?  山中一郎 GHQ英語通訳の体験記 [寄稿]
修羅の巷 (自分が狙撃の標的にされた経験など、軍隊での経験)
西海区水産研究所創設時の経緯 (水産研究を始めた若い日の想い出)
米軍占領下の沖縄訪問 (1951年「琉球に於る水産研究事情調査」の想い出)
1957年の訪中記 (建国後8年目、国交の無い中国の水産)
日韓漁業共同委員会の始動 (1966年日韓国交回復直後の韓国での経験)
苦渋に満ちたSEAFDECの創立 (創立直後に崩壊の危機に直面した真相)
葉山の落日  山中一郎 海軍技術士官の敗戦秘話 [寄稿]
大島廣先生の想い出 (学校では習わなかった世界を教えて頂いた恩師)
垣間見た米軍キャンプと兵隊さんの日米野球 (戦争で負け、野球で勝つ)
現役時代の回顧と感想 (38年に亘る研究所現役時代を振り返って)
上海水産大学92年の歩み (激動社会を克服前進。校慶90年の校史と感想)
東海水産研究所と老朋友 (研究所の歴史・友人・想い出の印譜)
仏印進駐の想い出 ☆ 山本 忠 知られていない戦記 ☆ [寄稿]
母校の戦前の留学生 (出会いと再会、その後の消息)
Acorn と ヤンベさん (中学時代の恩師の想い出)
自分の苦痛、他人の苦痛  林 繁一 これで良いのか日本 [寄稿]
異常な国際感覚-日本の支配層  林 繁一 日本の現状を憂う [寄稿]
国際化と村社会意識 (日本を棄てた人、日本人学校の教師、自己責任論)
急就篇 (戦前の日本に於ける中国語の教育方法)
南海水産研究所と費鴻年の想い出 (想い出す一期一会の人)
林紹文と林書顔の想い出 (想い出す一期一会の人、その2)
CHANGI 号拿捕事件 (ラングーンの最高法廷での想い出)
私とパソコン (歯車計算機からMS WINDOWS XPまで、試行錯誤の連続)
今は昔、8ビットのマイコンと懐かしいDOSの黒い画面 (「私とパソコン」の続編)
鎌田淡紅郎さんの作品 (同級生だった鎌田兄の戦記やエッセイ) [再録]
Magenkrebs (私が胃癌と診断されたカルテを見て動転・狼狽した話)
駱肇蕘先生 (半世紀に亘る私の老朋友) 
東海水産研究所と老朋友 (研究所の歴史・友人・想い出の印譜) 

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室戸台風に直撃され校舎崩壊

(2003年5月 記)

真道重明

阪市立田辺尋常高等小学校の5年生のことでした。・・・と云うことは今から70年近く昔の話です。1934年(昭和9年9月21日)に911.6 hPa (ヘクトパスカル)という猛烈な強さの台風が四国の室戸岬付近に上陸し、淡路島を通って大阪を直撃しました。いわゆる第1室戸台風です。「20世紀に起こった日本の自然大災害」の一つに挙げられています。死者行方不明者3千余人、負傷者1万5千人、住家被害9万棟、とりわけ建物浸水は大阪という大都市を襲ったため20世紀最大の40万棟と推定されています。

ちなみに第2室戸台風と云うのは戦後の1961年(昭和36年9月16日)の台風18号のことで、同じコースをたどったので第2室戸台風とも呼ばれました。実はその前の1950年(昭和25年)の9月3日にも南方洋上から北進してきたジェーン台風(戦後暫くの期間は現在の発生順の号数ではなく、英語の女性の名前が付けられて居ました)は、ここで話す第1室戸台風とほぼ同じコースをたどったのですが、ジェーン台風と台風18号は猛烈なものでしたが、災害の程度や中心気圧などから見て第1室戸台風は戦後の2つに較べると、それらを上回る「超弩級」の台風だったようです。おまけに、戦前は防災施設も不備でしたから大災害を齎しました。気象庁の記録によると死者や行方不明者は戦後の伊勢湾台風には及びませんが、20世紀の台風災害では最大級のものです。

私は間もなく満12歳になろうという年齢、学校は大阪市住吉区にあり、「田辺大根」で有名な田辺町にある歴史のある学校でした。余談ですが私は大根に縁があり、今は東京の練馬区に住んでいますが、此処も「練馬大根」で有名です。更に蛇足を加えると「田辺大根は田辺ライコン」と発音する人が多く、昔は農地だったのでしょうが、その当時はすっかり新興住宅地に変わりつつありました。一方練馬大根の方は「練馬ダイコン、下町江戸訛りではデーコ」と云うのでしょうが、此処もまた現在は宅地ばかり、散在する猫の額ほどの畑も減る一方で、しかもキャベツばかり、大根は陰も形も有りません。閑話休題、話を本題に戻します。

当時の校舎は三棟が「コ」の字型に配置され、私達5年生のクラスと最上級の6年生のクラスは鉄筋コンクリートの建造物、他の二棟は木造二階建ての建造物でした。私の教室は鉄筋建ての二階にあり、窓カラスを通して外の街路の様子は手に取るように良く観察できました。後で知ったのですが、物凄い瞬間的な突風は「瞬間最大風速を計る計器」が秒速 72 m を指した処で止まり、計器そのものが破壊していたそうです。

秒速 72 m だと列車やトラックなども横倒しになる、とても人が立って歩ける情況ではありません。民家の屋根瓦がまるで折鶴を折る色紙の束を扇風機で吹き散らすように、ヒラヒラと上空に巻き上げられる有りさまを私も旧友もただビックリして見ていました。見下ろした街路上には人影は少なかったのですが、たまに落下物を防ぐため「お釜」を鉄兜のように被って走る人を見ました。すっかり被ると眼が見えないので走る方向が定まらず酔っ払いのヨタヨタ歩きのように見え、その人達は必至の思いだった筈ですが、皆は面白がって見ていたのを憶えています。子供には深刻な事態だということが咄嗟には理解できず、目前の有り様を初めのうちは笑いながら見ていたのです。

先生達は教室には居らず、皆が木造二階建ての校舎から生徒を安全な私達の居たコンクリート棟に移すことに大童だったのです。何故先生方が居ないのかも考えず、ただワイワイ外の看板や屋根瓦が空高く舞い上がるのをみていたのです。木造二階建ての校舎の方は、棟と云っても大きく長い建物でした。建物の揺れるのが目撃され、危険が直感されて居たのです。私達も「コ」の字型の中央に挟まれた校庭に面した廊下側に出て、廊下の窓越しに木造校舎の揺れているのを眺めていました。屋根が時々来る突風で少し浮き上がるようになり、時には校舎全体の基礎まで持ち上がらんばかりです。

暫くすると、急に「コ」の字型の中央の棟が大きく基礎から浮き上がったと思うと、大きな音と共に、一瞬にして建物全体が崩壊し「屋根が地面近くを覆ってしまう恰好」になりました。吹き倒されるというより垂直に押し潰されたような恰好です。皆ビックリして声も出ません。一瞬一面の土煙が舞い上がり何も見通せなかったのですが、強風で土煙が吹き飛ばされると潰されたような恰好が見えて来ました。コンクリート棟と向かい合った側にあるもう一つの木造棟は、風向きの関係か崩壊した木造棟より新しく追加建造されたもので、設計も堅牢だったためか知らないが、浮き上がる様子や突風に煽られる感じは見た目には全く無く、その侭その後も生き残りました。不思議と云えば不思議な気がします。

不幸中の幸いは死亡者が一人も出なかったことです。崩壊した校舎の生徒をコンクリート棟に避難誘導した先生達は人数の確認に大変だったようです。「本当に一人でも残っていないか?」、「一人足りないぞ」、再点呼、「矢張り一人不足だ」。「さあ大変だ」と云うので、その生徒のクラス担任だったと思いますが、勇敢な一人の女の先生が再び木造校舎内に駆け込み、ヤット探し出して避難させた僅か数秒後、その校舎の大崩壊が起こったのです。もちろん、これは後で聞いた話ですが、まさに危機一髪の奇跡的な話で、美談として語り継がれました。

その日の何時頃に大混乱の学校内の状態が収まって、私達生徒の下校ができたのかは記憶がハッキリしません。学校から私の自宅までの距離は徒歩で15分位、今でもその道筋はハッキリ憶えています。(70年後の今はスッカリ道端の家屋の様子は変わっているのでしょうが)。可笑しなことに帰校する道筋にある民家の様子などはサッパリ記憶がありません。電柱から切れてぶら下がった電線、飛ばされた看板、吹き飛ばされて裸になった屋根などがあった筈なのに記憶していません。

自宅に被害があった訳でもありません。学校の二階から見た凄まじい光景にも拘わらず、どうしてなのか不思議でなりません。ただ憶えているのは級友の一人が翌日から登校して来ず、家が壊れたと聞き翌々日だったと思いますが、級友数人と一緒に見舞いに行った時のことです。彼の家は学校からかなり外れた遠くに在り、野原の中の大きな二階建ての一軒家だったのです。

野原に差しかかると見慣れた二階建ての家が直ぐ目に入るのですが、そこには二階建てではなく一階建ての家屋しかありません。皆はビックリしました。近寄ってみると二階部分が屋根と共に綺麗に消失しているのです。二階部分はスパッと切り離されて吹き飛ばされていたわけです。壊れ方が何だか理屈に合わないと思ったのを憶えています。彼は元気でしたが「家族に被害が有ったのかどうか」などのことは憶えがありません。

学校の校舎についても同様です。どうしてあの棟だけが倒潰したのか? それも横倒しではなく押し潰されるような恰好で・・・。その後アメリカ大陸のハリケーンや大竜巻の被害などを良く写真やテレビで見ますが、不思議なことが世の中には起こるものです。

この第1室戸台風は大阪を直撃、浸水家屋40万棟と云うのですから。特に「築港」と呼ばれていた大阪港のある地域一帯は高潮による浸水で大被害を受けました。私達の住吉区とは反対側の地域ですが知人数人のお宅を見舞いに母が作った沢山の握り飯を父と二人で大きな風呂敷に包んで持っていったことを憶えています。

 

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私とパソコン

このホームページを見た若い人々から「私の知っている人の中では貴方が最高齢だ。自分自身で操作しているのですか?」と言う掲示板の書き込みサイトの記事に時々出会います。80歳を超えた私は確かに万事が億劫になり、仕事の効率も若い頃に較べて半分位に低下して居ますが、下手の横好きでパソコンの前に毎日座ってストレス解消とボケ防止の「つもり」でやっています。歳には関係ありません。好奇心というか、物好きというか・・・。とにかくパソコンと言う「電気玩具箱」は、或る意味ではトテモ便利なものであることは間違いありませんし、試行錯誤の末に目的を達成すると「ヤッター!」と言う気分になります。

(2003年5月 擱筆、2004年10月改訂)

真道 重明

関連項目 「今は昔、8ビットのマイコンと懐かしい
MS−DOS の黒い画面」(
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めて私が計算機なるものを手にしたのは「タイガーの手回し計算機」と言うものでした。算盤の不得手な私は、「世の中にこのような便利な機械があるのか」と驚きました、1940年ごろの話です。負け戦の戦地から帰国して就職した先での仕事には計算する仕事が多かったのでこの手動の歯車式計算機には大変お世話になりました。

1950年頃にボタンの沢山付いた米国製の「モンロー計算機」という大きくて重たい歯車式計算機を使うようになりました。ご承知の方も沢山居られると思いますが、数値はボタンを押すだけで入力できる点がタイガーに較べて便利でした。間もなくこれは小型で軽量になり、半電動式になり、後では答えが印字できるようになり、とても重宝しました。印字する前の数秒間、機械はガタガタ音を立て、如何にも「今計算中だぞー」という感じがして、やたらと感心したものです。

その後、CASIOの「リレー計算機」というものが1950年代後半に発売され、放射状の沢山の歯がある糸巻きのボビンのようなものがあり、その歯の一部を切り取ることでプログラムを組めるようになっていました。このプログラム作りに熱中しました。カタカタと糸巻きが回転する仕組みでしたが、計算効率は格段に向上しました。当時はまだ函数計算は出来ず、プログラムに停止命令を組み込み、そこで一旦停止させ、対数表などの分厚い数表を見て手動で入力し、ボタンを押して計算を再開する仕組みでした。ご承知の方も多いと思います。

仕事には頻度分布をとる必要が常に付き纏いました。大変面倒な仕事です。パンチ・カードと言うものが流行りだし、駅の切符切りのパンチの様なものでパチパチ穴を切り落とすヤツです。とても便利なものでしたが、そのうちにIBMのカードを使って自動的にコンベヤーの機械仕掛けで頻度が素速く取れるようになりました。今の郵便番号を読み取って仕分ける仕掛けと同じ原理です。ただし、大きな機械でしたので、広い部屋に据え付けられていました。「こんな便利なものができた」と当時は驚きでしたが、今ではコンピュータ(集積回路を組み込んだ電子計算機)が簡単な操作で総て処理してくれます。

この時代に職場ではコボルやフォートランの受講希望者は勉強する機会(講習会参加)が出来たのですが、40歳以下と言う制限があり、部長になりたてだった私は「年齢1歳オーバー」と言うことで機会を失しました。今でも残念です。

今の集積回路が組み込まれたパソコンの初歩的なものを私達コンピュータの素人でも使えるようになった頃、私は海外の途上国への技術援助を目的とするタイ国の首都のバンコクにある国際機関に居りました。当時は未だパソコンという言葉は定着して居らず、マイコン、ミニコンなど色々な名前で呼ばれていました。

勤務を終えて庭に椰子の木が10本生えている自宅に戻り、夕食後に素人の独学でBASIC言語でプログラムを組むことから始めました。時は1980年の始めの頃でした。当時のパソコンは自分でプログラムを組まないと使えない時代で、教えてくれる人は誰も無く、モニターもTVのブラウン管のようなものではなく、電卓の表示窓をやや長めにしたもの。プリンターも「XYプロッター」の超小型のもの。幅の細いロール紙に書き出し、プログラムやデータの保存にも音楽用のカセット・テープを使うシロモノでした。

自分が書いた一連のプログラムをカセット・テープに保存するのに途中でエラーが頻発し、数回やらないと OK にならないのには苦労しました。おまけに、電力は発電所のダイナモの性能が良くないのか、送電線が良くないのか知りませんが、肉眼では気が付きませんが、0.1秒 ぐらいの停電が良くありました。すると一瞬にして保存しようとしたプログラムは蒸発消失してしまいます。これには泣かされました。自分で言うのも変ですが、良く頑張ったものだとツクズク思います。

この時の経験からバックアップを毎回取って置く、作業中でも一つのパラグラフを書けば Overwrite (上書き)する、暇さえあれば書き込みのエラーをチェックするという癖がついてしまい、今のマシンのように安定度が高く、まして滅多にダウンすることが無くなっているのにも拘わらず、この癖は今もなお続いています。バックアップは HD だけで無く、MO にも取らないと気が落ち着きません。

未だ50歳を少し超える年頃でした。プログラムを組むのに労力と時間の98%以上を費やし、計算は2%以下で終わると言った有り様でした。目的が決まると、先ずテンプレートで計劃の「流れ図」を描き、それを見ながら BASIC言語でプログラムを書き、連日夜半までやる日が続きましたが、好奇心に支えられた試行錯誤の連続で、作図や作表の一区切りが出来ると「ヤッターという達成感」がありました。文字列を扱うワープロは米国や日本で専用機が発売され始める少し前だったと思います。

私は今はもう80歳を超えてしまいましたが、今から考えると私の電脳歴ではこの頃が一番脂が乗っていたように思います。「もう少し若い20歳代か30歳代なら、プログラムを書くとき途中で止めても、次にはその続きを直ぐ書き始められたのでしょうが、そろそろ物忘れする年齢に入りつつあり、区切りのよい所まで仕上げないと、次回にその続きを書くのに最初から読み直して復習しないと思い出せません。区切まで行くのに夜半まで掛かることが良くありました。しかし、好奇心と言うか、興味と言うか、それ先立って自分では少しも苦労とは感じなかったのです。

11年余の勤務を終えて日本に帰国し、早速 NEC の「9800シリーズ」を買い、既成ソフトを使い始めた時、ブラウン管のモニターや記憶装置として5インチのフロッピー・デスクを挿入するドライブが2つ付いていました。何と便利なものができたのかと感動しました。もっともバンコクに居たときも帰国する頃には大学などには似たものが在るにはあったのですが、高くて個人では買える品物ではなかったのです。

40MB の HDD を付けたときも感激しました。また、MS-DOSの黒い画面のシングル・タースクから、WINDOWS 3.1で、MS-DOS上で動作する GUI を見たときは驚きでした。WINDOWS 3.5のマルチ・タースクに変わった時も本当に「すごいなー」と驚嘆しました。元来が電算機の仕組みのことは素人ですから、専ら「使い方」ばかりを試行錯誤の連続で憶えましたが、日進月歩と言うより秒進分歩、インターネットの Web site を見たり、「メール」の遣り取りなど、機能は刻々と進歩し、音楽が聞け、動画あり、DVDの映画あり、今のパソコンは時々刻々と多機能になって来つつありますが、なかなか進歩に追い付けません。

20数年前のその頃に較べると、今は超便利になりましたが、あまりにも色々なことが出来るので迷ってしまいます。人間の欲には際限が無く、処理速度の速いものを使い出すと、その時は感激しますが、直ぐ慣れてそれが当たり前になり、15インチのモニター画面が17インチと広くなると、直後の一時は素晴らしいと思いますが、直ぐに慣れて「当たり前」になってしまい、馬鹿馬鹿しくて以前には戻れません。憶えていたMS-DOSのコマンドも、その時は一生懸命でも、今はアイコンをクリックするだけ、面倒なファイルの管理も実に簡単な操作で出来る時代になったので、DOS コマンドの大半は忘れかけています。

ちなみに、このホームページは無償のFrontPage Express と言うソフトをダウンロードして試行錯誤でページを書き、フリーウェアの FFFTP ソフトをダウンロードしてサーバーにアップロードしています。ごく最近 HomePage Creater と言うソフトを買って使っています。OSは最近 WINDOWS XP をインストールしてあるマシンにしました。白状すると使っている各種ソフトなど本来持ってる多くの機能の2〜3%も使って居るはどうか?です。後何年マシンの前の椅子に座れるか分かりませんが・・・。

 

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関連項目 「今は昔、8ビットのマイコンと懐かしい
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大島廣先生の想い出

(2000年10月 記)

真道 重明

 

出会い

エスペラント語

発表論文は半年は抽出しで温めよ

プリマス海洋生物研究所

一生に一度の外遊と大礼服

やくじゃ−ま節

最後の博物学者

先生の経歴

 


 

出会い:私が大島廣先生に初めてお会いしたのは熊本県の天草の富岡にある九州大学の臨海実験所であり、1946年の夏のことである。私は同実験所に設けられた農林省水産試験場の富岡臨時試験地に勤務することになり同所に赴いた。戦地から復員して兵役を終り、故郷の熊本に戻った2ヵ月後である。天草は同じ熊本県で,食糧難の時代に甘藷は充分にあるといわれた。都会では闇市が繁盛していたし、各家で白米を食べるには配給された玄米を一升瓶の中に入れ、棒で突っ突いて精米しないと食べられない時代であった。

学生時代に買った「動物発生学」と言う本で大島廣先生の名前は知っていたが、お会いするのは初めてだった。棘皮動物が専門で現役時代には九大と東大で講義をして居られた。九州大学の名誉教授、学士院会員、同臨海実験所を1927年に創設された大先生であることは聞いて居た。お会いするまでは謹厳な先生で教え子は食事を共にする時も、決して箸を先に取ることはせず、許可を得ない限り煙草を吸うことは出来ないなどと聞かされていたので、さぞ怖い先生だろうと内心緊張していた。

「君、長崎県の茂木港から此処へ来る船の中で中学生の子が私のことをお爺ちゃんと言うんだよ、君どう思う?」と言う私に対する質問が最初に交わした会話である。如何にも意外だと言わんばかりの顔つきである。私は心の中では定年で退職され還暦を過ぎた先生は、中学生には「お爺ちゃん」と映るのは当然とは思ったが、「子供の眼から見ればそうでしょう」とも言えず返事に窮した。私がどう返事したかは憶えていない。

先生との出会いはこうして始まった。敗戦により社会は混乱している最中であり、先生はご家庭の都合で、九大を退職して名誉教授になられた後、暫くの間自分が開設された臨海実験所に家族から離れて独り疎開て居られた。それから2ヵ年の間、未だ独身の私は同じ実験時の宿舎で起居を共にし、学校では習わない実にいろいろのことを教えて貰った。その時に教わった事柄は、極端な言い方をすれば私のその後の研究者としてのあり方に多大の影響を与えたと思っている。

 

 

エスペラント語敬虔なクリスチャンである先生は朝食前に英語・ドイツ語・エスペラント語で書かれた旧約聖書の同じページを開いて、表現の違いを調べて居られた。毎日一度も欠かすことのない日課である。エスペラントの旧約はこの人工語を創始したザメンホフが自らヘブル語から訳した名著 Malnova Testamento である。聖書はラテン語・ギリシャ語から訳されており、元のヘブライ語から直接訳したものは無かった。これらの話も先生から教わったことである。

長年英国のプリマス海洋生物研究所に留学して居られた先生は英語に堪能で、英国人の論文の英語文法の誤りを直したことがご自慢であった。ある日校正のために送られて来た英文の論文の要約を私に示し「君、この英文が分かるかね」と2枚の紙を見せられた。動物学の論文である。「何とか言っていることは分かるように思います」と答えた。「この英語が分かるようなら君の英語力はたいしたことは無いねー」との返事。「本当に英文法が分かっていたら、この英文は意味不明だよ。各所に文法上の基本的なミスがある」とのこと。これには参った。

英語に強くなりたいならその前にエスペラント語を勉強すればよい。インド・ヨーロッパ語の仕組みが理解できる。ドイツ人が英語が仏語を習う時、先ずエスペラント語を習い、その後に英語か仏語を習えば上達が早く理解も正確になると云う実験結果がある。「習いたければ入門は教えてあげる」と云う口車に乗せられて私は二つ返事で是非お願いしますと返事した。このような訳で私のエスペラント語の勉強が始まった。

途端に私はこの人工語にハマッテしまった。語尾がOなら名詞、Aなら形容詞、Eなら副詞、動詞の語尾が I ならルート、ASなら現在形、ISなら過去形、OSなら未来形(これはすごい、will や shall などいらない)。語頭にMALが付けば反意語など、語彙は一語憶えれば数語を憶えたことになる。「なる程なー」と驚くことばかり。現在完了も過去完了も、さらに未来完了まで簡単に出来る。

辞書を買いたかったが富岡の田舎では買えない。都会の古書店にはあったのだろうが買いに行けない。2ヵ月掛けて先生の辞書をお借りして筆写することにした。紙は当時は「仙花紙」(くず紙をすきかえして作った粗悪な洋紙)しか無い、手元に沢山あったセクション・ペーパーを裁断して エス和−和エスの辞書 VERDA STELO. Mia kara Vortareto de la Lingvo Esperantoと題した一冊と、TABELO de FUNDAMENTAJ VORTOJ と題した一冊、計2冊を筆写した。辞書を筆写したのは私の人生でこの時だけである。この他にも書籍が買えないので先生からお借りした本のサブノート、GRAMATIKO de ESPERANTO 100 ページがある。なお、VERDA STELO は「緑の星」の意味でエスペラントのエンブレムである。この3冊は今でも記念に書棚にある。もうすっかり日に焼けて茶色になっている。

習い始めて3ヵ月に入る頃から日誌を付け始め添削を受けた。私が夢中になっているので、先生は喜ばれ励ましの意味もあったのだろう。blua ol indigo 「藍よりも青し」とのお褒めを頂いた。荀子の句「青は藍より出でて藍より青し」で、弟子が先生よりすぐれることの譬えである。とんでもないと恐縮した。しかし、このエスペラントと言う人工語は面白かった。後年、1957年に中華人民共和国を訪れる機会があったが、西洋医学の病院でエスペラントで書かれた医学専門誌が中国で発行されているのを知って驚いた。また、その後、イタリアのローマをしばしば訪れたが、英語の分からない町の人とイタリヤ語を知らない私がエスペラント語で話が多少出来たので嬉しくなった経験がある。

エスペラントを作ったのは眼科医で語学の天才、ザメンホフ (L..L.Zamenhof、 1859-1917) というポーランド人であることはご承知の人も多いと思う。彼の著書を通じてホマラニスモ(人類主義)と言う思想を知った、私はその思想の信奉者である。彼がエスペラントを作ったのはこの思想を世界の人々に伝えるための手段であったことも知った。

言語が異なり、お互いに意思の疎通の無いことが異民族間の争いになっている情況を、子供心にポーランドの社会で見た体験が動機と云われている。「先ず、お互いを知り合い理解し合うこと」から始めよう。これが世界平和の出発点だと考えてのことである。

 

発表論文は半年は抽出しで温めよ:先生の教えの一つである。学術論文の原稿を書き上げたら、直ぐに活字にしたがるが、我慢して「半年は机の抽出しに仕舞い込み、半年経ってから取り出してもう一度読み返し、良ければ送れ、半年経つと必ず何かある。書き上げた時点では頭が興奮していて客観的な判断が出来ない。半年経てば冷静になって原稿を見ることが出来る」と言うのである。その言葉には先生の面目躍如たるものがあり、先生が仕事をして居られた当時の諸先輩の論文に対する考え方は、磨き上げた芸術作品のようなものであったと考えられる。

先生は「科学論文の書き方」という本を初めて出版された人では無いかと私は思っている。この手の本は今では分野別に沢山出ているが、先生の本は実に手を取り足を取るように、タイプライターの打ち方、練習方法、校正記号の解説、ページのレイアウト、図やグラフの挿入、註や脚註、それらを理解するための「印刷工程」の説明、例えば活字の種類、ゲラ刷りの仕組み、紙型、アート紙、ケント紙、製本・装丁、凸版、石版(リトグラフ)、グラビアなどの説明にまで及んでいた。

日本動物学会の創始者である箕作佳吉か「動物学提要」の著者飯島魁の何れかは忘れたが、これらの大先輩が米国留学中に書いた論文が留学先の大学の教室の壁に額縁に収められて飾ってあり、「科学論文はこのように書くものである」と説明書きされていたのを見て先生は感動された。これが動機となって「論文の書き方」を書いたとのことである。

胸に何時も「赤鉛筆」を挿して居られ、ゲラ刷りだけでなく、新聞紙であろうと、パンフレット・弟子からの手紙やハガキに到るまで、とにかく字の書いてあるものは、読みながら誤字・脱字に赤を入れるのが癖であった。カニの三宅貞祥氏、クモヒトデの村上子郎氏など錚々たるお弟子さんは「これには参った」とのこと。今は総て故人となられたが、先生に出した手紙は真っ赤になって校正されて、返事と共に同封してあったそうである。

DUDENという図解辞典のあることも教わった。その中の印刷に関するページを基に、印刷工程、ページの割り付け、ページ面の部分名称、扉、中扉、柱などと言った述語の和名や英名など、詳しく教えて貰った。此れらの知識は後年、学術誌の編集委員をした時や国際機関で技術文書のエディターをやらされたとき、大変役立った。数年後、長崎に移ってから先ず最初に丸善の支店で買い求めたのは THE ENGLISH DUDONであった。

21世紀に入った現在では、万事が多忙になり書いた論文を半年も寝かせるなど、笑う人もあろう。また、技術論文を「芸術作品」のように磨き上げる人も少ない。印刷工程も大きく様変わりした。インターネットの普及で紙を使わない形の論文も出て来た。しかし、「古き良き時代」では無いが、先生の時代が羨ましい気もする。

 

プリマス海洋生物研究所英国のプリマス(Plymouth)にある海洋生物研究所は20世紀初頭には世界の臨海生物研究のメッカであった。卒論を書くために私がその研究所から出版されている学術誌の Rebour (レブーア)と言う人の書いた数編の論文を繰り返し繰り返し読んだことを先生に話した時のことである。「私はそこに長く居たんだよ」と云われた。「あ−、レブーア女史か、良く知っている。初老に近い品のよい人で、そう言えば毎日々々、水彩の絵の具でカニのゾエアの画を描いていたのを憶えている」とのこと。私はまだ駆け出しで初めて書いた論文、筆者が女性であることも知らなかった。戦時中の敵国でもあり、もちろん手紙も書いていない。ただ、印刷された紙面を繰り返し繰り返し読んだだけである。その人をご存じとは!「世の中は狭いなー」と驚いた。

それ以来、昼食や夕食時にプリマスに居たときの逸話を良く聞かされた。世界中から多くの学者の来訪があったとのこと。その中にボグベンという数学者が居て「アイアム ボグベン」とだけ云って、如何にも俺の名を知らない奴は居まいと胸を張っている生意気な人が居たとのこと。戦時中流行って私も買った「百万人の数学 上・下」(今野 武雄 外[訳]) の著者である。先生に「その人だろう」と尋ねると「そうかも知れない。とかく威張っていた態度を憶えている」とのこと。

来訪者があると研究室に案内する職員が「注意」と小声で言う場合は来訪者は数学か物理を専攻していることを示す暗号だったらしい。同業の生物学者だと気が楽だが、数学か物理の学者だとウッカリしたことを答えると理屈を言われるので緊張した・・・という話である。何だか分かるような気がする。現在の生物・物理・化学などの諸学会は学際研究の伸展でかつて言われていた中間領域の分野の事情が一変しているが、それでも分かるような気がしないでもない。

 

一生に一度の外遊と大礼服 明治から昭和初期にかけての大学教授や政府の研究所などに勤めていた人々の中で優秀な人は奏任官から勅任官に進み、また、少なくも在任期間中に一度は欧米に官費で一ヵ年間は「視察」のための外遊が出来た。勿論、飛行機ではなく船である。当時の当時の人々に取っては一生の一大事であったことは想像に難くない。

先生からは当時の人々の洋行の逸話をいろいろ伺った。教室では聞けない裏話である。支度金や旅費を節約して帰国すれば、余った金で家が一軒新築できたそうであり、そのために外遊中の食費を安くあげようとしてレストランには行かず、パンやビスケットと牛乳ばかり食べていた人も多かったそうだ。ミミッチイ話ではあるが、微笑ましい話でもある。「へー、あの大先生が、そうだったんだ」と嬉しくなる。

大礼服の話も面白い。大礼服と言うのは重大な公けの儀式に着用した礼服のことで、高等官・判任官、また高等官については親任官・勅任官・奏任官の別があり、武官(軍人)は別の服があった。位階勲等が重んじられていた時代で、大礼服は服装がそれに応じて区別があった時代の話である。1946年に廃止され、級別も現在は人事院規則で廃止されてる。勲章制度だけは未だトカゲの尻尾のように残ってはいるが。

仁丹の商標にあるあの服である。ナポレオンがアルプス越えで被っているような帽子を被る。ギンギラギンの服で、仕立てるのは非常に高価であったそうだ。夏服と冬服があり、夏服が安い。大学の古手の教授は勅任官の辞令が下った時なのであろう。先輩が仕立てて持っていたものを皆借り着して写真を撮ったそうだ。その気持ち解らぬでもない。

先生は「まるで子供だね」と行って居られた。先生の大礼服の写真は疎開先でもあり、見る機会Iは無かった。

 

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やくじゃーま節「やくじゃ−ま節」と言うのは琉球の八重山群島の民謡である。西表(いりおもて)島の方言名で「やくじゃーま」というのはシオマネキ(蟹の種類)を指すらしい。シオマネキという蟹は片方の鋏が大きくて、干潟でこの鋏をリズムを取って上下に振る仕草が如何にも潮を招くように見える。

九州大学では戦前「南西諸島の生物調査」を組織的に行っており、先生も参加されていたらしい。南西諸島とは九州と台湾とを結ぶ1300キロの間に連なる200余の島々で、屋久島や種子島、トカラ列島、奄美大島、沖縄島、石垣島、西表島、与那国島などを指すことはご存じの通り。数次に亘る調査旅行で先生はこの民謡の存在を知り、その歌詞が実に海浜の潮間帯のさまざまな動物の生態を活写しているのに驚嘆された。

物語は蝦や蟹などが集まって結婚式の席を設けるために活躍するさまを述べている。先生の話によると、例えばテッポウエビは「雑巾がけ」で部屋の清掃を担当する。テッポウエビは穴から出て来ては海底の砂をブルトーザーのように押し出す様子が丁度「雑巾がけ」で廊下を掃除しているように見える。シオマネキは鋏を上下に振るさまが三味線(三線、さんしん)弾きのようである…等々。

先生はこの民謡のメロディを採譜され、歌詞と共に当時の動物学雑誌?に紹介されたそうである。世界にも類を見ない面白く、また滑稽な踊りを伴うものらしい。その話をされる先生は眼を輝かされていた。この民謡の歌詞はもちろん琉球方言であり、掃除係を「桟敷人数、さーじきにんじゅ」、子孫繁栄のため子供を産みたいと言うのを「児をなさばやー」などまるで能の「謡、うたい」のような昔の言葉が出てくる。

私も非常に興味をそそられた。最近になってこの民謡について詳しいことが知人の努力で分かってきたので、その後に私が知り得たことは稿を改めて書きたいと思っている。

 

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最後の博物学者先生はいわゆる「博物学者、Naturalist」という人々の最後の一人であったように私には思われる。先生はもちろん動物学者であり、貴族院規則により定められた帝国学士院会員であったから、動物学者としては最高位に居られた。戦後50年経った今では動植物学は細分化され、「アフリカ・ライオンは 40 kg の獲物を咥えて秒速 ○○ km で走行する体力を持つ」などの話は余り無い。英国のロイヤル・アカデミーではないが、Natural history は好奇心の赴く侭、色々な知見が記載された。また、このような知識は博物学者の大きな話題であった。

先生もこのような話の宝庫であったような気がする。広辞苑によると、博物学とは「動植物や鉱物・地質などの自然物の記載や分類などを行なった総合的な学問分野。これから独立して生物学・植物学などが生れる前の呼称。明治期に natural history の訳語に用いられたが、中国でも本草学として古くから発達。博物誌。自然誌。自然史。」とある。先生は博物学者の名残を持つ学者の一人ではなかったか・・・と言う気がしてならない。

晩年のお住まいは東京の麹町一番町であった。20年以上のご無沙汰をお詫びするためにお宅を訪ねた。頭は未だしっかりして居られ、「今はロシア語の勉強を始めているが、昨日単語を5個憶えたのに今日は3個しか頭に残っていない」と言って笑って居られたことを思い出す。まさに生涯が勉強の連続であった。先生がお亡くなりになってから既に数十年が経つ。

 

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先生の経歴

 

以下に記載した大島廣先生の略歴は友人、西海区水研、石垣支所の小菅丈治氏からの教示で、波部忠重氏が「ちりぼたん」1981、12巻3号、74-75 に記載された大島廣の項の抄訳である。

  • Hiroshi Ohshima (1885-1971)。

  • 1885年11月5日、野村茂次郎の次男として出生。父は師範学校の理科の先生であった。

  • 第一高等学校から東京帝国大学理科大学動物学科へ進む。明治42年7月卒業。大学で研究を続けナマコ類の専門となり46新種を発表。

  • 大正3年(1914)第五高等学校(熊本)教授。大正8年に欧米留学、大正11年2月帰国。九州帝国大学農学部動物学教授。12年に東京帝国大学から理学博士号を授与。

  • 昭和3年から7年まで東京帝国大学教授を併任。

  • 昭和4年、熊本県苓北町富岡に天草臨海実験所を創設、退官まで所長を勤める。

  • 昭和20年12月、学士院会員に推挙される。現役在職中に会員に推挙される人は非常に少なく、きわめて異例のことであった。

  • 昭和21年9月、定年退職。昭和23年九州大学名誉教授。

  • 在職中は動物発生学、系統学、生態学を担当。また八重山群島にしばしば出張し、サンゴ礁の生物を調査。英語に非常に堪能であるばかりでなくエスペラント語にも通じ、両語で書いた論文多数。

  • 動物学会の外国語誌動物学彙報の編集に従事。

  • 退職後は天草臨海実験所で研究を続けた後、近江八幡に移り、さらに子息の勤務地の京都・盛岡・東京と転居。

  • 敬虔なキリスト教徒。昭和46年(1971)3月6日、東京都千代田区一番町で永眠。

 

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垣間見た米軍キャンプと兵隊の日米野球

(2003年5月 記)

真道 重明

 

音放送で「撃ち方止め」となった直後、私はそれ迄敵軍だった中国空軍第四方面軍司令部に日本軍からの命令で通訳官として勤務していた。その経緯は従軍奇談」(此処をクリックする)にやや詳しく書いた。ここで言う中国軍とは蒋介石総統が率いる国民党軍のことである。今の解放軍(紅軍)はこの国民党軍と戦って勝利を収めたが、それはこの時から数えて5年後の話である。

中国軍の司令部に居たから私の立場は日本軍では無かった。仕事の関係で時々は米軍のキャンプを訪れることもあった。また、負けた日本軍はハッキリ言うと「戦争捕虜」だったが、言わば「軟禁状態」で、時々は米軍の兵士と野球の試合をしたりした。これはその時の追憶の記録である。

場所は中国の広東省の省都の広州市の白雲飛行場である。マニラから進駐してきた米兵も、米軍のかまぼこ型兵舎を見たのも私にとっては初めての経験であった。戦いは終わっていたから緊迫した空気は無かった。米軍が何の任務で進駐してきたのかは分からないが、同じ聯合国の友軍である中国軍と飛行場警備に当たっていた。

戦闘体制下ではないので、のんびりしたムードで米軍は毎日を過ごしていた。私は中国軍司令部の一員であり、日本軍の将兵では無いという変な立場にあった訳である。日本軍と中国軍との間に立つ通訳官(中国語では翻訳官と言う)であったが、たまには中国軍で英語が出来ない将兵のために米軍と中国軍の間の通訳もやった。こう言うと私が如何にも英語が出来そうに見えるかもしれないが、今でも大したことは無いが、当時の私の英語の会話能力は全くの日常会話、それも初歩的な言葉の程度であった。しかし、少しは喋れたため、仕事上時々は米軍のキャンプに行く機会があった訳である。

軍隊は世界中同じで、一旦、戦闘体制に入ると厳しい軍律の下、上官には絶対服従である。日本軍は戦闘体制下で無くても階級の上下関係はきわめてハッキリしていた。例えば休日の外出先で上官に出会った際は直ぐさま敬礼しなければならない。敬礼が遅れたり欠礼したりすれば大変である。

この点、米軍は大変違っていた。兵舎の周りに野草が生い茂っているのを将校が休日に草刈りをしていた。それを数名の米軍の兵隊が眺めて「オイ、もっと頑張れ!」、「あっちの草も茂っている。サボルナヨー」などと平気でからかっている。からかわれた将校も「OK」などとからかわれたことを何とも思っていない。日本軍では考えられない雰囲気である。これを見たとき私は驚いた。中国軍や垣間見た米軍を見て、「軍隊も国が変われば違うものだなー」と心底思ったものである。

ある日、米軍の将校が私が日本軍から来た者であることを知って「日本兵は野球を知ってるか?」と問い掛けてきた。「野球は日本人なら誰でも知っている」と答えると、「試合をしよう」と言う。早速日本軍のキャンプにそのことを伝えたら、皆、「此れは面白い。やろうぜ、やろうぜ」と言うことになった。

分厚い布製の手作りのグラブやミットを作ってキャッチボールなどをやっていたから、何とかなると皆思った。当時、日本の将兵はキャンプにじっとしていた訳ではない。中国軍からの指示でいろいろな作業をさせられていた。米軍と試合をするとなれば使役作業は当然お休みである。中国軍も文句は言わないだろうと言う判断もあった。

米軍は革製の本物のグラブやミットを持っていた。もちろんバットも本物である。第1回戦は日本のぼろ勝ちであった。米軍は「むき」になるかと思ったら、大喜びである。第2回戦からは本物のグラブやミットを貸してくれ、終わったらチョコレート・バー、チューインガム、コーラのようなものまで「勝った賞金だ」と呉れて、「毎週ベースボールの試合をやろう」と言う。よほど退屈していたのかも?

それを中国軍の将兵は羨ましそうに観戦していた。中国では野球はあまりやらないのでルールも知らないようであった。まるで米軍と日本軍が友軍になったような感じである。言葉は通じないが、スポーツに言葉はいらない。ルールさえ知っていてプレイが出来ればよい。「ドンマイ・ドンマイ」などと日本兵が叫ぶのは結構通じた様子だった。

 

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現役時代の回顧と感想

−38年に亘る現役時代を振り返って想うこと−

真道 重明

(2003年5月 記)


 

東京都中央区の「月島」に在った東海区水産研究所(戦前は農林省中央水産試験場と称した、現在は横浜に移転して中央水産研究所と改名されている。隅田川を挟んで世界最大の魚市場である築地市場の対岸に位置していた)の同窓会誌「月島」に現役退職後10余年目の1992年4月に編集子からの依頼で「今にして想うこと」と題して投稿した一文の記述をもとに、前回は紙面の制約上、割愛したエピソードや想い出などを追補し、全面的に書き改めた。


内 容

「嘱託を命ず、日給60円を給す」から始まった研究生活
原爆の焼け野が原で聞いたアンジェラスの鐘音
魚市場での魚体調査
黒井村での勉強会
データに恵まれた底魚資源調査
英国の LOWESTOFT 研究所の職員が驚く調査体制
西海区水研から東海区水研へ
SEAFDECでの海外勤務
現役を退いてから省みる資源調査の問題
  
東海・黄海の底魚資源調査
  
東南アジアの海面漁業資源調査
資源研究はどう見られて来たのだろうか?

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嘱託を命ず、日給60円を給す」から始まった研究生活

 

「農林省水産試験場富岡試験地の嘱託を命ず」、「日給60円を給す」という辞令を熊本県天草郡富岡の九州大学臨海実験場内に新しく設置された農林省水産試験場に属する一つの試験地で受け取ったのが1946年(昭和21年)9月23日。所属は月島の水産試験場本場の花岡研究室の島津分室、実は1個月前の8月には既に試験地には居を移していたが、事務手続きの関係で公式の発令は1個月遅れた。これが私の水研生活の始まりであり、以来調査研究の一筋道を歩み、1980年(昭和55年)7月17日に東海区水研で農林省を退職したのが辞令上での国家公務員(研究職)生活の最後であった。

もっとも、農林省を退職した時点の私は、政府命令により長期派遣者として海外の國際機関に勤務中であったため、国家公務員に準ずる取り扱いを受け、その立場は1984年(昭和59年)7月にSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)を辞任して母国に帰るまで続いたから、実質的には「38年間」に亘って国家公務員をして居たことになる。

母校の農林省水産講習所( 東京水産大学)では、養殖を専攻し、ガザミの幼生を卵から稚蟹期までの室内飼育に成功したりしたこともあって、今でいう種苗放流や栽培漁業の方向に進みたかったが、GHQの示唆もあり、世を挙げて「資源研究を開始せよ」という時代であり、本科を出て専攻科に進んでいた私は、田内先生から本科には無い特別講義、今でいう資源理論のハシリのような「水産物理学」と題する講義を受けていたこともあり、漁業資源調査に仕事の方向を転換する羽目になった。

農林省水産試験場の拡張改組に伴って富岡分場は長崎臨時試験地に移転し、これが現在の「西海区水産研究所」の母体となった。

 

原爆の焼け野が原で聞いたアンジェラスの鐘音

 

長崎臨時試験地に転居したのは1948年(昭和23年)7月であった。官舎の在った長崎市西郷(その後「西町」さらに「三芳町」と改名)は爆心地に近い処である。原爆投下から2年後の浦上一帯はまだ一面の焼け野が原であった。写真やテレビ画面に良く出てくる山里小学校が目の前に見える位置に在った。毎日数回鳴るローマンカトリックの聖堂の鐘楼からのアンジェラスの鐘の音は半世紀後の今でも耳の奥にハッキリと蘇ってくる。

新築の官舎は石垣の上に建てられセメント瓦葺きであった。焼け野が原にある家は殆どが仮小屋で瓦など無かったから、官舎は一際目立ち「西町御殿」と噂されて居た。50年後の現在から見れば災害時の応急の「仮設住宅」に毛の生えた程度の建物で、挌土もしない地面にいきなり煉瓦を並べて古い材木を削り直した柱が建てられ雨樋も無かったが、当時は御殿だった。

この御殿は築後3年と経たない中に脆弱な地盤のため傾きだし、雨戸の建て付けは歪み、座敷は傾斜してビー玉のような転がり易い物体は常に四隅の決まった一角に集まる現象が観察されたが、誰一人それを不満に想うものは居なかった。住居のことより食糧配給切符のことで頭は一杯であった。

 

魚市場での魚体調査

 

新設の同研究所で私は東海・黄海の底魚資源調査を始めた。体長組成のデータを取るため、寒い冬に朝5時に起き、市電の始発前のため、自宅から40分歩いて魚市場に辿り着き。一番揚げの船団の漁獲物を測定、これで終わる日は良いが、続いて午後の二番揚げの魚に立ち向かう日では、仕事が終わるのは夕刻の6時過ぎ、月を仰いで家を出、月を仰いで家路につき、14時間以上魚市場の魚と氷の中で長靴姿で闘った。

漁船員、仲買人、手鉤を持った沖仲仕などが雑踏を極める魚市場の一角で10数時間の魚体測定という労働も今では人生の最も懐かしい思い出の一つとなっている。あの頃は誰もが若く気鋭の精神には満ちていたが、乱獲を防止する水産資源の研究というもの自身が日本中皆が初めて立ち向かう分野であった。私もケンブリッジ大学出版社の許可を得て「ラッセル(E. B. Russell)の乱獲の問題」などの冊子を和訳して出版し各研究所に配布するなど、皆が暗中模索と言う状況下で、お互いに勉強し合いながら仕事に取り組んでいた時代である。

 

黒井村での勉強会

 

山口県の黒井村のお寺を数日借り切り、笠原晃さんらの肝煎りで全国の水産研究所から資源研究の有志が集まって勉強会が開かれたのもその頃である。集まったメンバーの多くはその後資源研究で活躍した人々が多い。講師も若く「推計学」の理論が主であった。

夕食後の余暇に数名が集まって「Fish stock と Fish population とはどう違うか?」に就いての議論が始まった。一夕を費やしても決着が着かず、翌日の朝飯前に続きの論争をした時もあった。問題の内容の理解や経験が不充分な人々の間で「述語の定義論争」をするのだから、議論は堂々巡りに終始し、後から考えると時間の無駄なようにも思われるが、口角泡を飛ばして皆真面目で一所懸命の論議をして居たのである。その情景は今でもハッキリと懐かしさと共に脳裏に残っている。

今はどうだか知らないが、当時の黒井村(山口県豊浦郡豊浦町)の海岸は日本海一流の「白砂青松」の見本のような美しい白浜で、きめの細かい真っ白い砂を今でも忘れることが出来ない。しかし、当時は他の地方の人達が訪れることなど先ずない片田舎の村である。此処に20名近くの見知らぬ面々が集まったのだから、夕食後数名で田舎の田圃道を散歩しながら「口笛」を吹いたりすると、村の人は変な人達が集まってる「何かの合図をして居るのだろう?」と怪しげに我々を眺めていたのを憶えている。このユニークな勉強会は私の知る限り後にも先にもこれ一回である。

この集まりの面々は笠原昊さん、林知夫さん、内山均さん、最首光三さん、大滝英夫さん、などの名前を憶えている。

この勉強会の肝煎り役だった笠原さんは水産庁の研究課から米国のワシントン大学に教授として移り、さらにローマに在る国連機関のFAOに転勤された。私がFAOの仕事で3個月ローマに滞在中、同氏は家族をワシントンの大学に残した侭、先ず単身でローマに赴任されており、私と約1個月ローマの同氏の新居で暮らした。縁は異なものである。

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データに恵まれた底魚資源調査

 

手探り状態で始まった資源調査だったが、これには解析に使うデータが不可欠である。上記の魚市場での測定作業も生物学的なパラメータを得るためである。この他に漁獲量や努力量と言った漁業活動の諸データも極めて重要であった。我々が非常に有り難かったのは福岡の漁業調整事務所で山本忠さんを中心に詳しい漁場別統計が取られ始めていたことである。

東海・黄海で操業する「二艘機船底曳網網漁業」の資源調査は我が国では最も早く一応の軌道に乗ったように想う。その原因は敗戦後の食糧難を乗りきるため、手っ取り早く動物蛋白源食料の生産を増やすにはこの漁業の再構築が政府の重点施策となり、関連する生物資源調査や漁獲統計収集の体制強化に力点が置かれたことによる。

我々の担当した生物資源調査と並行して、上述の漁業調整事務所の開始した統計調査は我々の資源調査の解析に多大の有益、かつ詳細な漁獲に関するデータを私達に提供した。他の水産研究所に先駆けて資源の解析ができる段階に迄、言い換えれば軌道に乗せる水準に迄逸早く進み得た最大の理由は此処に在った。

 

英国の LOWESTOFT 研究所の職員が驚く調査体制

 

調査を始めて数年後、英国の北海に面した底魚資源研究では名の通った LOWESTOFT 研究所から二名の研究者が我々の研究所を来訪した。我々の底魚調査体制の視察である。我々の説明を聴き取り、実態を知り「眼を丸くして驚いた」時の表情は今もって忘れられない。

当時の我々の仲間は英語解読力は多少あったが、会話力は皆カラキシ駄目だった。しかし、専門の述語は分かる。技術的な論議は結構できた。彼等が眼を丸くして驚いたのは「彼等が英本国で実施している調査研究と同じ考え方、同じ手法で私達が問題に対処している点、さらに幾つかの面では英国以上に良いデータを使って仕事を進めている点」であった。遠く離れた日本の研究所でそのようなことが行われているとは彼等は夢想だにして居なかったのだろう。

ハル・グリムスビー・アバディーンなどの地名や E. S. RUSSELL の論文や著書の話をすると「私達は RUSSELL の講義を聴いた教え子です」と言い途端に親近感を感じたらしい。とても嬉しそうな顔ををして「貴方たちはイギリス英語を話すのが嬉しい」などと言う。私達はアメリカ英語とイギリス英語の違い処か、思うことの半分も話せないたどたどしい英語である。兎も角、彼等には非常な好印象と驚きを与えたのは事実で、我々も悪い気はしなかった。未だベバートン・ホルトのモデルなど分からない時代の話である。

 

西海区水研から東海区水研へ

 

23年間勤めた西海区から東海区の企画連絡室に移ったのは1971年(昭和46年)である。技術連絡室(技連室)が企画連絡室(企連室)と名前が替わり、山川健重さんが室長を半年勤めた後を継いだ。「企連室の役目や権限は?一体何をする部署か?」と所内は議論が沸騰している最中であったし、長崎時代に「東海区は伏魔殿だ」などと暴言を吐いていた手前、敵地に乗り込んだような気持ちが無いでもなかったが、矢継ぎ早に汚染問題対応のプロジェクトが飛び込んできて、研究所の新規予算の過半を占める時代に所の仕事内容は大きく変わりつつあった。

複数の部が連係して事に当らざるを得なくなり、企画はいざ知らず、連絡に当る役目に右往左往している内に、「企連室は何のために在るのか?」と言った悠長な論議をする暇は無く、室そのものの存在も何となく自然認知されるようになって了った。

企連室の勤務は足掛け3年で、緊急命令により海外の国際機関に飛び出して了った。緊急と言うのは国際機関の前任者が急遽帰国する事態となり、適当な後任者の派遣に迫られたのである。もっとも、1年後には再び数理統計部に一時舞い戻ったが、再び国外に飛び出した。従って、東海区で勤務したのは前後4−5年に過ぎず、月島会の仲間に入れて戴いているのは恐縮の限りであるが、この間に東海区水研も所長が矢継ぎ早に3人次々と交替し、養殖研究所や水産工学研究所の発足準備期という激動の時期でもあった。

 

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SEAFDECでの海外勤務

 

国際機関と上で言ったのは、タイ国に本部のある SEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)のことである。私はその時丁度FAOの東南アジアのトロール作業部会のメンバーを数年勤めていたので「東南アジアのことは多少知っている」だろうと言うことで「行け」と言われたのだろうと自分では思っている。

此処では調査研究・授業・管理業務など全てが公用語として決められている「英語」で仕事が進められる。特に総務・会計などの仕事の用語は私には未経験、技術の専門分野の話なら曲がりなりにも何とかなるが、為替損益・減価償却など日本語でも簿記の経験のない事まで関与しなければならない。これは大変な事になったと思った。

一番困るのは現地購入の見積請求・支払い伝票の署名である。総てタイ語である。IN BOX (未決箱)に堆く積まれた伝票は信用するしかない。皆盲目判的署名をするしかない。服務規定の矛盾である。

この機関は創立直後から存続に係わる大問題を抱えていた。先に赴任してから「1年後には再び日本に一時舞い戻った」と言ったが、日本人職員は一時総引き上げをして日本人不在という異常事態となった。その詳しい経緯は別途このホームページで詳述したので、此処では述べない。

仕切り直して再派遣となった1976年(昭和51年)夏から本当の軌道に乗った。その後任務を終えて帰国する1984年(昭和59年)迄にこの機関の基盤は一応固まったし、個人的にはタイ国だけでなく多くの東南アジア各国の知己を得、今でも数名とはメール交換している。

ただし、SEAFDEC在任中、公務を離れた日常生活では中国語と同じ語属のタイ語の生活だったが、習得は多少心得のあった中国語のおかげで外国人が難渋する「声調」(トーン)などはすぐ把めたから問題は余り無かった。実は私は東京外国語学校(現、東京外語大)で中国語を習っていた。次長職と言う管理以外に、専門の資源の仕事をする時間をできるだけ多く持つ事に努力した。今から考えると、「夢中でアット言う間に海外での11年が経過して了った」と言うのが実感である。

 

現役を退いてから省みる資源調査の問題

 

農林省水産試験場に就職した1946年(昭和21年)から水産研究所時代を経て1984年(昭和59年)にSEAFDECを離れる迄の40年弱の期間、技術分野での仕事の大半は発展途上国も含め魚類資源の調査研究であった。

 

東海・黄海の底魚資源調査 それ迄は漁業者の経験を通じた直感でしか推測できなかったキグチ・シログチ・タチウオ・クログチ・コウライエビ、その他多くの重要魚種の分布・回遊・年齢組成・資源密度・生物学的諸パラメータなどは、次々と具体的な数字で把握できるようになった。

しかし、漁獲の最適水準を求めることは、中国を始めとする周辺国や地域の漁獲の量や漁場のデータが分からないため、算定することは不可能であった。これは当時では最大の問題点であった。唯一の例外は資源の大半を日本が漁獲していたレンコダイである。だが、レンコダイは集中して狙われたため、著しい資源枯渇状態に追い込まれ、その後は重要魚種とは言えなくなってしまった。

周辺国や地域の漁獲の量や漁場のデータの欠落は資源調査では致命的である。国際漁場の調査には国際的調査体制の確立が条件となるのは言うまでもない。21世紀に入った現在、事態はこれに向かって徐々に進んでいるようだが、また、環境問題が俄に重要な要因として浮かび上がって来ているのだが、率直に言って研究者の立場から言えば国際共同調査体制はまだまだ「歯痒い」段階にあると言わざるを得ない。

 

東南アジアの海面漁業資源調査 各国の地先が地理的に見ても複雑に交錯している東南アジアの海面漁業資源の調査についても東海・黄海と同じことが言える。この30年来、総論的には「国際的な協力調査体制の確立が重要だ」と言われ続けながら、21世紀に入った現在でも「見るべき具体的な動き」は殆ど無いように思われる。

FAOの「南シナ海計劃」とSEAFDEC(東南アジア漁業開発センター)のTDとが1970年代にほぼ時を同じくして調査活動を開始したが、FAOのプロジェクトは10年余で終結し、SEAFDECはその後マレーシアのクアラ・トレンガヌーに資源調査専門の出先を設立し現在に至っている。各国も独自で、また世界の色々な国際協力機関と連係して調査活動を行っている。しかし、その多くは調査対象地域や期間が限定され断片的なものが多い。

そう言えば漁場別統計が整備され分析に耐え得るデータが得られる水域は、世界広しと言えども「北大西洋の一部」、「北太平洋の一部」および「地中海水域」位で、世界の他の水域は分析に耐え得るデータは未だ得られる体制にはなって居ないと言わざるを得ないのでは無かろうか?東海・黄海然り、東南アジア海域然りである。

 

資源研究はどう見られて来たのだろうか?

 

がんらい、資源学は水産業、特に捕獲漁業の生産の合理化のために生まれたものである。従って漁業という生産活動を離れてその存在意義はない筈であり、また、視点を変えれば漁業政策論の基礎的な一っの分野とも言えるのかも知れない。「そんなことは分かり切っている、今更、何を言いたいのだ」と言う人もあろうが、外部の漁業界の人々は「資源研究者」のやっていたことを一体どう見ていたのだろうか。

行政、漁撈研究、また、特に生産に直接携わっていた人々は、「漁業と言う多岐に亘る「人間の行っている生産活動」の中から資源研究者は「自分の仕事の領域を勝手に規定し、そこだけを切り取って自分達の土俵を造り、そのなかで面倒臭い理屈をこね回している連中で、我々の仕事とは今一つ歯車が合わない」と内心では思っていた時代が我が国では長く続いたし、外国、とりわけ途上国では今でもそう思っている人々は多いように思う。

捕獲業者がいなければ漁業は産業として成立しないが、この生産を担う個人やとりわけ企業は目先の利潤追求に血眼である。個々の資源が乱獲に陥ると言うことと、企業の収支が伴わないと言うこととは必ずしも一致しないけれども、「乱獲がいずれ企業の破局を招くかも知れない」と危惧し乍らも、新漁場を血眼で探し、漁具・漁法の能率化、経営の合理化で生き残りの血路を開くことに専念し、個々の資源を食い潰すことは知りつつも、単位生産が低下し資源が枯渇するのを計算に入れて収支均衡が破れるまでにあと何年持つかを勘案して企業戦略を策定するのは、かつては企業の常識であった。

歌の文句ではないが、「判っちゃいるけど止められない」的性格はどうしようもないと思われる時代が長く続いた。これは日本だけに限った問題ではない。ただ欧米では資源を食い潰すことは「悪」であると言う宗教的とも言える気持ちが研究者の中にはあるように私は思った時もあったが、私は今もってこのことは釈然とはしない。

一方、東南アジア諸国を始め、発展途上国ではFAOなどの働きかけもあって、当局の資源保護に関する意識はあるが、生産体制がまだ弱い条件の下で生ずる乱獲問題に対して、管理を実施する処までには手が届かず、法規はあっても実際のところはただ放置されているのが一般的な実情である。また、保護規制を厳格に実施すれば当局は直ちに貧困な漁民をどうやって食わせるかと言う難問に突き当ることも頭の痛い問題で、これまた資源研究は産業と結び付いてはいない。

世界が近い将来の人口爆発と食糧難の大問題に人類は今なお回答が出せないのと同様に水産資源の研究がどうしたら水産業に寄与し得るのかまだ暗中模索の状態であると思う。当らぬと言われる天気予報でも気圧配置が第一要因であることが判ってから今の水準になるまでに2世紀を要した。まして相手が天気のような物理現象ではなく複雑な生物群集であるから、現在の段階はまだ特殊論で体系化された一般論ではない。産業に貢献するための応用科学ではあるが、まだその基礎理論を手掛けている段階であろう。

資源理論も調査も若い人達によって益々推進されつつあるが、生産の仕組みや生産に携わっている人々の行動様式に対する認識に欠けていたように思われてならない。これは大企業に限らない。途上国の小規模漁業でも同じである。これらの諸要因を組み込んだ形の理論がもっと展開されるならば、換言すれば理科系の漁業資源理論と社会経済系の資源管理論とが融合した体系ができれば、本当に生産に役立つ資源管理が実現するのではないか。

昔、ラッセルは水産資源学を”HUMAN BIOLOGY”の一つの分野として位置付けた。私が若い頃、彼の論文を読んでいた当時は訳が判らなかったが、捕る人間のことが判らずに魚の方だけを見ていて判る筈はない。今にして思えば、彼の目はその奥では「人間の側がどうなるのか?」にも注がれていたのではないか?彼の言葉は真に卓見であると思わずには居られない。

 

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修羅の巷 

(2003年5月 記)

真道 重明

自分が狙撃された時の銃声

死の恐怖感

血腥いということ

負傷による死直前の痛覚

 


 

自分が狙撃された時の銃声

象隊という特殊な「非戦闘部隊」に居た私達は、携帯する武器と言えば「自己防衛と自決用」の拳銃だけだった。(騎兵銃を支給された記憶はあるが、携行した覚えはない。しかし、工兵隊で初年兵教育を受けた私の場合、38式や99式の歩兵銃、軽機関銃などの操作には慣れ、賞を貰ったこともあったのだが…)。気象隊に転属してからは直接戦闘に参加することはなく、従って白兵戦などの体験は無かったけれども、勤務場所の飛行場と言う所は敵の空軍にとっては常に最大の攻撃目標だったから、爆撃や機銃掃射による戦死者や戦傷者が続出する血腥い修羅場であることには変わりは無かった。

その私は2回ほど「私を標的に狙撃された経験がある。集団同士の撃ち合いではない。その第1回目は黄昏時に一人で歩いている私を狙い撃ちされた時、第二回目は夜間に自動車で走行中に小銃で撃たれた時である。

「敵の撃つ鉄砲の銃声が「バーン」と聞こえるときは自分の方を狙ってはいない。自分の方向を狙って撃たれた場合は「パチッ」という大きな音が聞こえる」と聞かされていたが、これは本当である。もっとも、弾丸は音より早いから命中していれば音を聞く前にやられている。逸れた弾丸の場合「パチッ」という大きな音が聞こえたら、自分の方向を狙った至近弾である。

第1回目は黄昏時に滑走路の手前 500 m ぐらいの草原を一人で滑走路の方向に歩いている時であった。何の用事があってそんな時刻に一人で歩いていたのかは記憶にない。部隊に帰る時であったことは憶えている。

背後から発射された大きな「パチッ」という銃声を一発耳にした。反射的に私は草叢に伏せた。再度もう一・二発銃声を聞いた。一条の青色の曳光弾が伏せた私の頭上を通りすぎた。間違いなく私を標的に狙撃していると直感した。広い草原に他には私以外誰も居ない。少し薄暗くなっていたので曳光弾は着弾位置を確認したかったのだろう。

ヒヤリとした私は咄嗟に伏せたまま微動せず、その侭の姿勢でその場にじっとして居た。曳光弾が数発の中に一発在ったということは小銃ではなく機銃である。敵か味方か、誰が撃ったのかも分からない。恐怖感より「誰が何故撃ったのか?」とそんなことを考えていた。その当時は毎朝決まって夜が明ける頃に敵のゲリラ部隊が飛行場に発砲し、飛行場を警備する味方の歩兵部隊が応戦していた。決められた日課のようなもので、その時以外に地上から発射された銃声を聞くことは殆ど無かった。敵の飛行機の機銃の音は常にあったが。

10分間ぐらいだったろうか?それっきり銃声は無く当りは静寂そのものであった。起き上がって私はその侭滑走路の傍の草叢の中を滑走路に沿って歩き出し部隊に戻った。走ってその地点から早く離れればよいものを何故か普通に歩いて帰った。走るとまた撃たれると思ったのかも知れない。ただこれだけの話である。銃声は確かに「バーン」ではなく、明らかに「パシッ」と聞こえたことを憶えている。

第二回目は「撃ち方止め」の玉音放送があった後、敵だった中国軍の司令部に通訳官として勤務していた時である。この時は夜間で中国軍の高級将校と運転手の三人が車に乗って司令部の宿舎に帰る途中であった。車はジープではなく上等のセダンであった。

広州市の市街の十字路に差しかかったとき、車目掛けて2秒か3秒間隔で斜め後ろから数回撃たれた。この時も「パシッ」という銃声だった。一発は私の座席の前の背もたれに突き刺さっていた。

運転手も私達も窓から大声で「司令部・司令部」(スウ・リン・プウ)と叫んだ。撃ったのは街を警護している警邏隊であることは分かっていた。明るい昼間なら車の前に立ててある中国空軍司令部の旗が見えるのだか、暗い夜間、おまけに夜間外出禁止だったから不審車と思われて撃たれても仕方がない。

威嚇射撃でもしてからなら分かるが、いきなり狙撃してくるのは乱暴である。数センチ右か左にずれて居れば私か彼かの背骨を貫通して居ただろう。「パーン」とか「バーン」という銃声は良く聞いたが、この至近弾の「バシッ」という音は怖い。

 

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死の恐怖感

 

空中勤務時の戦闘機のパイロットなどは上空では実に勇敢な戦士であるが、丸腰状態で地上に居る時は普通の人…、と言うよりも、むしろ地上勤務の兵隊よりも臆病である。地上勤務の兵隊は敵機の機銃掃射などは日常経験して慣れているが、空勤のパイロットはそのような地上の経験が一般には少ないから、ピット(給油などのための待機所)に居るとき敵機の機銃掃射の不意打ちに会うと、腰を低くし頭を抱えて逃げ惑う。華々しい空中戦のパイロットには申し訳ないが、この光景は何度も目撃した。

ところがピットの傍に固定された高射機関銃(92式重機関銃など幾つかのタイプがあった。低空で来襲して来る敵機を撃墜するためのもの)がある場合、これに取り付く機会がたまたまあってハンドルを両手で握った途端、それまで逃げ惑っていた臆病なパイロットの精神状態は瞬時に一変して雨霰と降り注ぐ敵の掃射弾の土煙をものともせず、敢然として敵機に立ち向かっているのである。空中戦で敵機を撃墜する時の精神状態に戻るのであろう。

その時の彼には死の恐怖感など微塵も無いように見える。丸腰で逃げ惑う時は無我夢中である。本能的に死から逃れようとする。無意識であっても潜在する死の恐怖感がそうさせるのだろうか?一体「死の恐怖感」とは何だろうか?宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で対峙したとき、殺すか殺されるかの瀬戸際に「死の恐怖感」は両者に在ったのだろうか?NHKの大河ドラマ「武蔵」では、両者ともそれは恰も無かったように私には思えた。「剣の道だけに心は集中していた」かのように描かれていたと思う。

私にはその体験は無いが、塹壕で敵と対峙して「突撃に!、進め!」の号令の直前である。初体験の兵は飛来する敵の銃声を聞くと「小便を垂れ流し、脱糞する者も居る…」と言うよりも、むしろ「それが普通なのだ」と良く聞かされた。また、「数回そのような経験するとその現象は無くなる」とも聞かされた。死ぬかもしれないと言う恐怖がそのような失禁現象を惹起させるのだろうか?数回経験すると「敵弾にはそう簡単に当たるものではない」ことを知って恐怖心が少なくなり失禁現象などは無くなるのだろうか?

敵を倒すと言う目的意識に精神が集中すると、恐怖心は裏に隠れてしまうのだろうか?敵愾心が昂揚すると恐怖心は消えるのだろうか?それとも武器を手にすると敵愾心が昂揚するのだろうか?「気合いが足りない」と怒鳴られて、敵愾心を昂揚させるための肉体的訓練とマインド・コントロールによって人間の心を一種の「狂気」状態へ導入することを「組織的に」実施するのが、日本に限らず、軍隊と言うものの戦闘教育なのかも知れない。

「恐怖感の最たるものは死の恐怖感であり、死の恐怖感を正しく理解しない限り、人の行為は全て矛盾である」と仏陀の前世を述べたジャータカ物語りにあるそうだが、凡人の私には疑問が続出して「正しく理解する」ことは出来ない。第一宗教的な説話と、此処で言っている事とは問題の次元が異なる。

恐怖感にはいろいろある。病気、強盗、テロリズム、子供の時の「お化け」など、何れも「怖い」、「恐ろしい」ものである。何れも何処かで死の恐怖と繋がっているように私は思う。一方、「驚愕」と言う言葉がある。非常に驚きショックを受けることを指す。恐怖と驚愕は別個のものである。

しかし場合によっては両者が関連し繋がっていると思えることもある。余談ではあるが、その体験を述べよう。次項に書いた「血腥いということ」と題した話の後日談である。

戦地の飛行場の中央管理ビルをマニラから飛来した米軍の爆撃機の3トン?爆弾が三階と二階を貫通して、一階で爆発し夥しい数の被爆者の残した血痕や断片死体を片付け、死臭を洗い流し、やっと一息付いた数日後、3階がどうなっているかを同僚二人で見回りに行った。もちろん被害調査の責任者たちは被爆直後に点検した筈である。

大型爆弾が貫通した場所以外は、ただ見ただけでは、幾つかある部屋の建物や器材は異常は何も無かった。フト天井に近い壁の一隅に眼をやったとき、ドキッとした。人の「親指」が一本壁から生えていると言うか、1m に近い厚いセメントの壁の中に人が居て、親指だけを室内に突き出しているように見える。

私が指差すと、他の一人も私同様に一瞬「ビクッ」として息を飲んだ。この心理を驚愕とか「怖い」と言うのだろう。一階の被爆死体の断片は貫通した穴を通って二階や三階にも飛び散っていた。それらは既に取り除かれ、洗浄されている。見たところ普段の有り様と変わりない。この親指だけが見落とされていたのだ。「たかが指一本見て…と言う人があるかも知れないが、これを見たときの驚きと恐怖に近い気持ちを未だに忘れることは出来ない。

戦闘中は気が張っていて無我夢中。肢体の破片が散乱していても「怖い」とは思わない。戦闘が終わって精神状態が落ち着いたとき、指一本を見て「ドッキリ」するのは、情況のギャップが大きいからだろう。

 

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血腥いということ

 

乃木 希典 将軍の「山川草木轉荒涼」で始まる「金州城」と題する漢詩の七言絶句の承句に「十里風腥新戦場」とある「腥」は日本語では「腥し、ナマグサシ」と読む。これは独特の「におい」であり、いわゆる臭い死臭では無い。

戦死者や戦傷者を身近に体験する戦場では、この「におい」は誰もが知っている。私が今でも忘れられないのは広州市の白雲飛行場の分厚いベトン (フランス語らしいが英語のセメントのこと。軍隊ではベトンと呼んでいた。日本語ではコンクリートとも言う)で頑丈な壁や天井が作られていた中央管理ビルを敵の3トン?爆弾が三階と二階を貫通して、一階で爆発したときの一階中央に在った大部屋の情況である。

要塞のようなこの建物はチョットした防空壕などより安全に思えた。飛行場の雑役に傭われていた80名に近い男女併せた現地雇用の人夫を始め、逃げ遅れた兵士がこの部屋に退避していた。爆弾はそこで爆発した。私達は隣のラジオ・ロケーター室の情報から大編隊の敵機来襲を事前に察知、大きなサイレン音と同時に「暗号書を入れたジュラルミンの箱」と共に駆け足で「転けつ転びつ」飛行場から離れた林に退避した数分後にそれは起こった。

このラジオ・ロケーターというのは今のレーダーの元祖のような機器、電波表定機と正式には言ったらしいが、皆はラジオ・ロケーターと言っていた。大きなブラウン管に来襲する敵機編隊の波形映像が観察できる。現在は盗聴発見器をラジオ・ロケーターと呼んでいるようだが目的は異なる。数分間の爆撃が終り敵機が去った後、直ちにこの建物に再び駆け戻った。恐らく10分ぐらい経った後だと思う。

部屋に一歩足を踏み入れた途端、阿鼻叫喚の生き地獄の光景が待っていた。部屋の一隅に三角形の死体の山があった。中には未だ生きていて呻き声を立てるものも居る。折り重なった死体、バラバラになった手足。死体を背にしてカッと眼を見開いて座禅を組んだような姿勢で前を見ている人、生きているのか即死しているのか判別できない。

腰の前にある片足の断片を見て「ビョウイン・ビョウイン・アシナイ」と日本語で叫ぶ姑娘が居た。断片の足を見て自分の足と思い込み、「アシナイ」と言っている。しっかりしているようなので近づいて良く見ると彼女の足の上に他人の千切れた足がかぶさっているらしい。手を貸して引き出すと無傷で立ち上がった。折り重なった人の壁が防壁となって奇跡的に助かったのだ。

部屋には「腥い(なまぐさい)臭気」が充満している。その「におい」は分かるのだが、臭い[クサイ]とは思わない。臭い[ニオイ]がどうのこうのなど言っている場合ではない。助かる可能性のある者と無い者とを急いで選別し、前者は早速駆け付けた野戦病院の軍用トラックに収容し、野戦病院に送らなければならない。大忙しである。一通りの対応作業を終えてフト気が付くと俄に空腹を憶えた。

箱に腰掛けて病院のトラックが運んでくれた握り飯を貪り食った。未だ処理しきれない後回しにされた死体を眺めながら、腥い「におい」の立ち込める部屋の中での食事である。「せめて下半身の無い死体などの見えない一歩屋外に出て食事をすれば良いものを…」などと考えるのは正常な心理だろうが、そんなことは全く考えもしない。平常の感覚とはズレた狂気の精神状態の世界に居るのだろう。

内地(日本本土のこと)で空襲を受けた人々も同じ環境下を体験されたと思う。平常の世界から一瞬にして阿鼻叫喚の世界に転ずるのだから、そのギャップは戦場以上だったに相違ない。しかし、殺戮・被殺戮が日常生活である戦地の軍隊では「狂気の精神状態に身を置く」訓練?を受けている。狂気でなければ戦闘など出来る筈はない。この「狂気」は慈悲心や冷酷などと言う問題では無い。敵を斃すか斃されるかの日々を送った戦国時代の武士は「正常心」と「狂気」との狭間に居たと思われるが、どう対応していたのだろうか?

これに似た経験は数多くあったが、この時の情景が最も強く記憶に残ってる。どうして一面に散乱せず、死体が部屋の一隅に高い三角錐のような団塊になって居たのだろう?

例によって私の話は逸れてしまったようだ。言いたかったのは「血腥い」と言う「におい」の問題である。この「におい」は独特のもので悪臭ではない。飛び込み自殺で汽車に轢かれて身体が両断された状態を見た時のこと、ガタンと急停車したので車窓を開けてみると、私の車両の真下に、寒い冬だったので未だ湯気が立っている下半身が横たわっていた。その時の「におい」と同じである。

外科医などは恐らく日常体験しているのかも知れない。もっとも消毒薬の「におい」に掻き消されているかも知れない。尋ねたことが無いので何とも言えないが…。この「におい」と多少似たものは魚河岸でマグロやカジキなど、いわゆる大物を捌くときの「におい」である。「生(なま)くさい」とは文字通りである。マグロの土手など寿司屋で食べる時はこのにおいは全く無い。どうなっているのだろうか。

話を戻すと、被爆後の部屋の清掃である。毎日、薬品を混ぜた水でセメントの壁や床を洗うのだが、血液や筋肉の断片の蛋白質や脂肪などが多いのでとても簡単には落とせない。この時点では「におい」は変わっていて何とも言えないイヤな臭気である。完全に無くなるのには2週間以上も掛かるのが常であった。

 

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負傷による死直前の痛覚

NHKのラジオの深夜便で信州のある病院の看護婦がB29の爆撃を受け、爆弾の破片で大きな怪我を負った時の思い出を本人が語っていたのを聞いたが、気丈なその人の率直な体験談は私の戦地での体験と重なり、その後は夜明けまで私は眠れず、戦地での体験が次々と想い出された。

彼女は大きな負傷を自分がしていることを知らず、いろいろ他の負傷者の手当てに奔走し、人から指摘されて「手を背中に廻すと大怪我から来る出血で掌が真っ赤になっていることが分かった」、またそれ迄は「何の痛みも感じなかった」と言うのである。多量の出血にも拘わらず、貧血による失神状態にもならず生き延びた人である。

人は奇跡と云うかも知れないが、日露戦争のときの話に白兵戦の最中「敵弾にもぎ取られた左手に腕時計があったことに気付き、途中で取って返し、地上に転んでいる左手から時計を取り外してポケットに収めて、再び突撃に参加した」という手記を読んだことがある。日常生活で突然に負傷して手をもぎ取られた場合、苦痛に呻き、無くなった手を見て気の弱い人は失神することもあろう。「時計などどうでも良い筈だ」と思う人もあるだろう。

上記の兵は「軍律に従い、敵を倒す突撃」に精神が集中し、昂揚しており、「負傷による苦痛」などは殆ど感じなかったのだろう。実はこのようなことは良くある現象だということを戦地で私は何度か経験した。

飛行場が敵機に不意打ちされ、投下された爆弾や機銃掃射に見舞われ、各所に配置された防空壕に退避した時、負傷者も多数壕に運び込まれて来る。軍医が傷の情況を判別して助かる可能性がある者と可能性が無い者を調べ、在る者には応急の止血処置をし、失神しないように10秒間隔で顔を叩いて励ましの声をかけ「眠るな」と耳元で叫ぶ。助かる見込みの無い者には本人が「水を飲みたい」と言えば水筒の水を与え、「煙草を吸いたい」と言えば周りのものが煙草を与える。

火をつけて渡された煙草を吸い込んだら、爆弾の破片で胸元の軍服の敗れた所から煙が吐き出てくる者も居た。肺臓が飛び出して気管支もやられているのだ。それでも苦痛に呻くことは無く、顔は笑みを浮かべている。中には「誰と誰は大丈夫か?」と戦友の名前を呼び意識は極めて正常な会話をする者も多い。

まさに修羅場である。もちろん苦痛に顔を顰めて呻く者もある。しかし、上記のように顔の表情から見て苦痛を感じていないと思われる者もかなり多く居る。駄目だと分かっていても「大丈夫だ。少し痛くても我慢しろ」と励ますと「痛くはない」とハッキリ返事する者も居る。表情や声から判断して我慢してそう言っているのではないことが分かる。

苦痛に呻吟する者は処置によって助かる人に多いように私は感じた。出血によって脱水状態になるのか、「水を欲しがる」人が多いが与えると10分以内に事切れる場合が多い。また、何故に煙草を欲しがるのか私には分からないが案外多いのである。

医学的にはどうなっているのだろうか?神の愛か、仏の慈悲によって最後の苦痛が取り払われるように思えてならない。

 

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Acorn と ヤンベさん

− 中学時代の恩師 −

真道 重明

2004年1月

寿を超えた今でも心に残る中学の恩師は英語の田中文一先生と理科の山家鉄五郎先生である。学校は大阪府立生野中学(現、高校)。入学したのは1935年(昭和10年)4月、私が13歳の時である。田中先生の愛称(ニックネーム)は「Acorn」、山家先生は「ヤンベさん」だった。

愛称は先輩から継承されたもので、その由来は発音に極めて厳格な田中先生が、ある日の授業で Acorn の一語だけの発音練習のみに終始した逸話から、山家(ヤンベ)先生の場合は山家を「山家さん」と呼ぶのは普通のことで愛称でも何でもないように思われるかも知れないが、大阪弁の場合、豆を「お豆さん」、芋を「お芋さん」と言うような感覚で、「さん」は一種の愛称的なムードを持つケースがあるのである。教練の教官に「小芋さん」と言う愛称で呼ばれた先生もあった。

冒頭から話が逸れるが、この先生は上海事変の勃発で急遽応召され、全校挙げて旗を振って送ったが、不幸にも上海に到着してから数日を経ずして戦死され、その報告を知り全校一同驚き呆然となった。軍人にしては非常な常識家で、後に書く ヒックマン 先生の英語発音教科には良く教室に来て生徒と共に勉強して居られた。本当に心優しい人であった。

田中先生: Acorn こと田中文一先生は私が入学して一年生のB組に配属された時のクラス担任で、東京高等師範学校出身の英語教師だった。始めての授業の時、先生は「田中文一」の氏名を黒板に縦書きし、中央に縦線を書き、「この四つの漢字は何れも左右対称となる。これは良い事だ」と説明された。私も他の級友も皆が呆気に取られたことを憶えている。

「お前達、風呂に入った時は臍を中心に「の」の字を書くように下腹を揉め。すると屁が出る。これは一番の健康法だ」といった英語とは無関係の話が突然出て来て、私の記憶では「面白い先生だ」という印象が強く残っている。

さて Acorn 「団栗、ドングリ」のことだが、ローマ字の A と E の結合文字で示される発音などについては詳しい説明があり、発声練習も厳しかった。「H」を「エッチ」などと発音すると酷く叱られた。「エイチ」だ、名前の英一と同じと憶えたら良い」と言われた。Map 地図を「マップ」と発音するとまた叱られた。「ミャップ」である。今でも「マップ」と言うのを聞くと「ミャップ」が本当だと気になる。辞書を引けば発音記号は英語も米語も明らかに「ミャップ」で「マップ」という発音は無い。

日本では「防災マップ」、「観光マップ」と言い「ミャップ」とは言わない。「マップは日本語化した言葉だ」と割り切ってはいるが、「マップ」と発音すると叱られた記憶が脳裏に焼き付いているので、やはり本当は「ミャップ」だと思いたくなる。

明治以来、日本の英語教育の方針は欧米の文化吸収を主目標にしていたから、発音などはどうでも良いとは言わないまでも、解読力が中心であったし「会話」などどうでも良かった。この点は敗戦後大いに反省されることとなったが、生野中学の英語教育方針は優れていた。生の英語に触れさせるため、わざわざ「ヒックマン先生」を招いて朗読の練習が教課に組み込まれていた。

発音に関する厳格さは私が後に中国語やタイ語に接する機会に遭遇した際に大いに助けになった。とりわけ Acorn の愛称の由来が示すように、田中先生の発音の厳格さには感謝している。忘れられない恩師の一人である。

山家先生:ヤンベ先生は理科の教官で秋田の出身、東北のズーズー弁丸だしだった。小柄で当時頭は少し禿げて居られたように記憶している。非常に活動的で園芸もこの先生から習った。「梨」と「茄子」の発音が同じ「ナス」で、生徒は若気の至りで先生の東北弁をからかったものだ。生物学の好きだった私は理科同好会に入り、特に愛称「ヤンベさん」とは接触が多かった。

遠出をしての植物採集旅行、鳩の剥製標本の作成など想い出は尽きない。実に「気さく」な人柄で皆から愛され、諸先生の仲間内でも一目置かれていたように思う。「サクラソウ」の種類の学名(ラテン名)に「プリムラ・オプコニカ」、「プリムラ・マラコイデス」などの名前を挙げられ今でも記憶に残っている。先日(2004年1月)NHKのラジオ深夜便で園芸に詳しい人の話のなかで久し振りに「プリムラ・オプコニカ」の名前が出て来た。途端に先生を想い出した。大声で話されるズーズー弁には愛敬があった。

後年、国家公務員(研究職)として1957年に国交のない中国に公務員の第1号として北海道大学の水産学部長だった渡辺宗重先生と四ヶ月に亘り二人で講義に訪れたが、上海のホテル内での雑談に山家先生のことを話したら、「アァー、山家先生をご存じでしたか」と驚かれた。私は30歳過ぎの若造、今は故人となられた渡辺先生は当時60歳過ぎの大先輩、「相馬盆踊り歌」で名高い福島県相馬市の人である。

山家先生がその方面では名前の通った大先生であることを知って私も驚いた。先生の生物学に掛ける情熱が私がその後動物学に進む動機の一つになったように思われてならない。私にとっては忘れ得ない恩師の一人である。

 

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鎌田淡紅郎さんの作品 

 

−同級生だった鎌田兄の戦記小説やエッセイ−

 

真道 重明

2004年12月

 

鎌田 淡紅郎 (カマタ・トキオ)兄は私達の母校(農林省水産講習所)の同級生である。卒業後、直ちに兵役に服しフィリピン戦線で生死の境を辛うじて生き延び生還した人である。滋賀県醒ヶ井養鱒場を皮切りに滋賀県水産試験場で活躍された。ニジマス・アマゴ・ビワマスなどの養殖技術の専門家である。先日、図らずも同兄の訃報に接した。享年83歳。
文学青年だった同兄は試験・研究だけでなく、滋賀県の市民文芸誌に小説や随筆・論評を数多く投稿され、その作品は入選や数回は特選に選ばれている。此処に同兄のご冥福を祈り、鎮魂の気持ちで発表作品の一部を紹介した。

 


ゴンタ  軍医のミス  母のべそ  生涯の悔恨  

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ゴンタ

鎌田 淡紅郎 (カマタ・トキオ)

平成15年

 

私はこの三月に入ってから、介護保険の介護度1に認定され、施設でデイケアサービスを受けている。私のケア目的は、背中が痛くて胸部の圧迫骨折と診断されたからである。入院して痛みは和らいだ。しかし腰に痛みが残っているためリハビリを受けて順調に推移したため、それに引き続く治療として施設のリハビリの理学療法に移った。このデイケアサービスは朝九時から夕方五時頃の送迎が有難い。それに同病の人たちとの交流も生活に彩りを添えているような気がしている。

デイケアに通ってから、二回目のことであった。そろそろ帰る時間に近い午後四時ごろ、全体をリードしている介護指導員の人が、帰る前の体操の指導を始めた。この体操が終わると、それぞれのバスや車で自宅まで送る仕組みになっている。

その体操の最中に、指導員の人が傍のテレビを指さして、「これは他所のデイケアの体操です。みんな暫くご覧下さい」と言って手を止めた。その時である。後の方から「体操をやれ」「体操をやれ」と、野太い怒鳴り声がした。傍の男の人がたしなめていたが、同じ言葉を繰り返した。もう終わりの時間で、早く帰りたい気持が強くなったのであろうか。

指導員の女性もちょっととまどいの様子をみせたが、男の抗議は続いた。私はどこにでもゴンタはいるものだと思い、その男の横顔を見た。眉は太く、鼻もがっちりして、立派な顔立ちの人だ。デイサービスに通う前ならかなりの迫力であったに違いない。

指導員の人は馴れているのか落着いた態度で体操を終わらせた。
 次のデイケアの日は、その男と同じテーブルに配置された。前に横顔を見たように男っぽい立派な顔立ちで迫力さえ感じた。

昼食の時になって、一人一人に膳が配られた。その人が同じテーブルでは一番早かった。早速その人はソーメン入りの椀の清汁〔すましじる〕を飲もうとして椀に左手をかけて持ち上げようとしたが、とたんに椀から汁をこぼして、ソーメンが膳の中に流れ出していた。早速傍に寄り添っていた介護の人が、ズボンを拭いてあげて、改めて汁を飲ませていた。男は照れくさそうにして介護の人のなすままにしていた。右手には指全体を使って握るフォークがあり、これも介護の人の手を借りて、大根や人参を差して口に運んでいた。これでは他の人の手を借りなくては食事はできそうもない。

そんな様子をそれとなく眺めている時、汁椀を持とうとした左手の親指と人差し指は第一関節から先がないことに気付いた。先が丸くなっている。それでは汁椀を持ち上げることは難しい。それを片手で持ち上げようとしたため椀を傾けてしまったようだ。
 その手の具合をつぶさに見てしまった私は、見てはいけないものを見たような気がして、視線を移したが、その男の視線は私の移しかけた視線をとらえたようだった。私も気まずい思いであった。この男のゴンタの元を見てしまったのだ。

何歳ぐらいの時の障害であろうか。いずれにしても、二本の指の障害は、どんな仕事であれ、技術のいる仕事であれば致命的といってよい。全身を動かす労働でも、この障害はやはり大変なものであろう。この人の若い時からの仕事ぶり、生活ぶりを想像してみると、私などの想像を越えるものがあったに違いないことだけはおおよそ理解できる気がした。
 男っぽい気性で、人の同情や助けを借りたくなかったら、自分を強く見せるしか仕方がなかったのだろう。ゴンタの元はここにあった。

そこまで私の思いが広がると、私にはいとおしさのような気持が湧いてきて、次にデイケアで一緒になった時は、将棋の申込みをして、相手になってみようかという気になった。ゴンタはどこの土地にも、どこの職場でも見かける。中には最も弱い立場にいるはずの病院に入院している患者の中にも見られる。

私が生涯の中で、最も強く印象に残っているゴンタは、第二次大戦が終わったフィリッピンの捕虜収容所の中の一人であった。この人は外の人が労働に狩り出されても、一人だけ幕舎に残って寝台に腰を下ろして、作業に出る人を見送っていた。夕方、作業の人が帰ってくると、その人の周囲には何人かの人が寄って支給された煙草やくすねてきた缶詰をネタにした賭博を仕切っていた。その背中には見事な大蛇の刺青がのぞいていた。

( 文芸誌選者の評 )

デイケア・サービスで出会った、ある「ゴンタ」の仕草と彼の心の中に隠された人間としての寂しさを、作者は優しくそして細やかに見つめている。「次に一緒になったときには将棋の相手になってみようか」というあたりに、書き手の暖かな人柄が伝わってくる。

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軍医のミス

平成14年

鎌田 淡紅郎 (カマタ・トキオ)

 

久米軍医見習士官は、こんな苦しみを覚えたのが、始めてであった。とても堪えられないと思った。自分の預かっている傷病兵の安楽死を命令されたのだ。

その日もいつものように朝早く三人の負傷兵の手当をした。日が上ると、いつロッキードやグラマン戦闘機の襲撃があるかわからない。手当といっても、傷口をリバノール液をつけたガーゼでふいて、包帯をかえるぐらいしかできない。その包帯も何度も下の沢の水で水洗いするだけであるから、色も変わってよれよれになっている。

見習士官ではまだ一人前の軍医とはいえないが、部隊に配属されたただ一人の医師である。患者は軍医の幕舎のすぐ側で、三枚の天幕を結び合わせて収容されている。床には枯草を敷いてあるだけで、その上に横になっている。陸軍でいう仮包帯所にすぎない。

戦争が終る年の五月下旬、フィリッピンの一番北にあって、一番大きい島ルソン島の北部山岳地帯のことである。首都マニラから中部の平原地帯を通って北に進むと、急に山岳地帯につきあたる。つづら折の急な道を千メートルほど登ると、そこに夏の首都バギオがある。

そこには、フィリッピン作戦の全体を指揮する第十四方面軍司令部があった。そして野戦病院もあって、前線からの負傷兵を受け入れて治療をしていた。四月中旬になって、バギオは米軍によって攻略され、野戦病院は司令部と共に撤退して、傷病兵を受け入れる機能を失った。前線の部隊にとって負傷兵は久米軍医が預かった患者のような扱いしかできなくなっていたのだ。

軍医が自分の幕舎にもどると部隊長の伝令がきて、すぐ来るようにと命令が伝えられた。はて診察か薬か、といぶかりながら幕舎をでた。部隊長から呼びだしをうけるのは珍しいことである。

部隊長は、天幕を敷いただけの上にあぐらで座ったまま命令を伝えた。「兵団司令部からの命令はもう伝えられてるはずだが、明日日が暮れたら、ボンドック道三十キロの地点まで撤退することになった。足をやられてる者の移動は、どう考えても無理だ。残しておけば結果ははっきりしている。かわいそうだが、薬で楽にしてやってくれ」

軍医は一瞬とまどった。予測してきたこととは違うし、部隊長の口調も、命令というより頼むというようにも受けとれる。胸がつまる思いになりながらも外に適切な手段は思いつかない。しかし、軍隊では命令に正面から抵抗できない。

「はい、分かりました。その時は誰か将校一人立ってほしいと思うのですが」、ちょっと考えて「私は、手の負傷で治療にきている中村少尉がよいと思うのですが」、「よかろう」、軍医は敬礼をして部隊長のもとを去った。人の命を救う、人の命を産みだす、それが自分の生きる道だと、熊本医大産婦人科講師になったのだ。それが軍医になると、戦場では薬を使って安楽死させる任務が与えられるようになる。そんな悪魔のようなことはとても堪えられない。でも、命令となれば……。

いくら考えても、気持の整理ができないまま、少尉のところに向かった。少尉は右手の親指と人差し指を残して、第二関節から指をとばしてしまう負傷をしているため、第二線の陣地に配備されているから近い。毎日治療にきているから気心も知っている。やりきれない気持をぶっつけられる頼もしい相手という気持にもなっていた。

戦場にいて、銃や軍刀も全く使えない身体になっているのに泣きごとをきいたことがない。そんな豪気なところに、自分にない強さを感じていたため、部隊長のところでとっさに頭に浮かんだのであった。

負傷した時のことは治療の合間の雑談で聞いていた。少尉は元船舶工兵で、米軍がリンガエン湾上作戦をおこなった時、その湾にある北サンフェルナンド港にいて、爆弾の破片創を負ったのであった。リンガエン湾は、緒戦で日本軍が上陸した地であった。応急手当の後、トラックでバギオの野戦病院に送られた。病院が撤退する時、治ったわけではないが退院させられて、この部隊に配属になった。負傷して四か月以上もたっているのに、まだ傷にはウジが湧いて軍医の世話になっているのだ。

手術した時は麻酔なしで、不覚にも気を失ったというが、不覚にもという言葉に少尉らしさがみえる。昔の武士が『不覚をとった』と自らを責めている趣があった。丘を一つ越えて、少尉のいる陣地近くまでいくと、砲撃の音がひびいてきた。土煙が上って数秒たつと爆発音がする。一度に三発で、少し間をおいてまた三発と休みなく撃っている。味方陣地からの発射音は全くない。迫撃砲のようだ。米軍の総攻撃が迫っているようだ。

軍医が部隊長の命令のことを話すと、少し間をおいて、立会人となることを承知した。外に方法はないと考えたのであろう。「で、いつ」、「今日の夕方。日が落ちる少し前と思っています」、「分かりました。誰が考えてもそういうことになるでしょう」、あっさり承知してもらった安心感から、軍医は少し口が軽くなった。

「部隊長には、久しぶりにお会いしたためか、かなりやつれているようでした」、「そりゃあそうでしょう。精神的に限界にきているのでしよう。緒戦のリンガエン湾では二十日足らずで、子飼いの部下九割も失ってしまったのですから。その後もナギリアン道に移って、我われのような寄せ集めの兵隊を与えられ、頭数はそろえたが、そこでも散ざん叩かれたときいています。五か月も第一線におかれたら、責任者は頭がおかしくなっても不思議ではないでしょう。それに我われと同じように甘藷と野草しか食べてませんから」。

「つい余計なことを言ってしまいました」、少尉と別れた時は、日が高くなっていた。丘を越えようとした時、南の方からロッキードの鋭い金属音が耳をついた。三機だ。木の繁みの中に身をひそめて、その動きを目で追っていると、道路を二度旋回した後、急降下して爆撃をはじめた。二十一キロ地点の兵団司令部の谷間のようだ。ロッキードが去ると、何事もなかったように、周りの山並は静まりかえった。

爆撃の合間には、赤トンボと呼んでいる日本の練習機と同じような鈍い音で、観測機がとんでくることがある。日本軍がひそんでいる陣地に「落下傘ニュース」や宣伝ビラを撤いていく。投降勧告ビラもあった。始めのころは、上の方から謀略だから拾ってはいけない、と命令までだされたが、いまではその命令もなくなった。兵士たちは目の前の戦況しかみえないから、情報に飢えて自分たちの運命と考え合わせながらよく読んだ。中にはポケットにしまいこむ者もいた。

戦場ではデマが多い。敗勢にある時は、希望的観測や空想から生まれる。「これから東海岸にでて、そこに迎えにくる潜水艦で日本に帰る」、ガダルカナル島の撤退作戦で、ここの病院に送られてきた傷病兵から生まれた妄想のようだ。「いまに日本軍の総反攻作戦があって、ルソン島逆上陸作戦がある。その時は、内陸と海岸からの挟撃作戦で米軍をやっつける」

下級将校でも、デマ話は変わりなかった。軍医も同じような思いでいたが、いまは目の前に重い命令があって、あれこれ考えたり、迷っている余地はない。さて薬は何を使うか、手持ちの薬を頭に浮かべながら考えた。薬も、いまになっては極端に少ない。負傷兵の手術も麻酔抜きだ。この島で最も患者の多いマラリヤや赤痢の薬も全くなくなった。

やはりモルヒネにするかと決心した。極量はどのくらいであったか、注射なら三十ミリのはずだが。それも健康状態によって随分違うことがある。負傷して横になっているだけだし、食物も甘藷と野草だけで、栄養状態も極端に悪い。少し減らしてもよいだろう。

それに、この薬は少し残しておいた方がよいだろう。部隊長が負傷した時の痛みどめ。そればかりではない。自分も使わなければいけないところに追い込まれるかもしれない。あれこれ考えると、迷路に入ってしまう。何よりも、人の命を助ける医師が、自らの手で人の命を奪ってよいものだろうか。悶々としながら、日が落ちてくるころには腹を決めた。

ここの戦場では、それも医師の任務になっているのだ。薬の投与量は二十ミリに決めた。負傷兵は三人。一人は大腿部貫通銃創だが、骨に異状はないようだ。傷は少しずつ快方に向っている。他には踵に小銃弾をうけ、骨も傷んでいるのが一人と、足の甲を砲弾の破片で削りとられたのが一人である。見た目には、元気そうにしているが、痛みはひどく、側を通るだけで「痛い、痛い」を連発する。地面の振動が傷にひびくような気がするのだろう。

日がすっかり傾いて、谷間には夕暮れの色が濃くなってきた。少尉もやっときて軍医は薬の錠剤を手にした。患者たちは、こんな時刻になぜ来たのだろうといった表情で見つめた。しかも将校までついている。「痛み止めだ」と一言いって、一人に二十ミリずつ手渡した。薬を渡すだけなら、衛生兵でよいのにと思ったのか、やはり怪訝な表情である。それに痛み止めの薬はほとんど貰ったことがない。それでも軍医の否も応もない態度に安心したのか、三人とも薬を口にした。

翌朝早く、少尉の来るのを待って、患者の幕舎をのぞきに行った。一瞬どきっとしたが、すぐ事情はのみこめた。三人とも目をぱっちり開いて、痛い方の足を横に投げだすようにし、上半身を起こしていた。大腿部負傷の高島一等がにっこりほほ笑んで言った。
「お陰さまで、夕ベは痛みがなくて、よく眠れました。本当にありがとうございます」
「おう、それはよかったな」。

とまどいながら、軍医も笑みを返した。少尉の顔をみると、ちょっと目くばせをしている。この善後策を相談したいのであろう。二人は軍医の幕舎にもどった。「薬の量が足りなかったようですね」、「どうしましょう、私にはもうできそうもありません」、「やはりもうできませんね。部隊長には、中村に確認してもらったと報告して下さい」、少尉の決断は早かった。軍医の気持ちを察して、自分の責任のようにして、事を処理しようとしているのだ。軍医は、少尉に救われたような気持になった。

しかし、命令違反ということで軍法会議にかけられ、処分ということにならないだろうか。そんな心配はずっと残っていく。撤退のどさくさの中で、部隊長の頭から負傷兵のことは抜けてしまってくれるとよいが。それだけに、少尉の度胸と決断は頼りになった。太い眉、カ強い目付き、ひきしまった口元。その顔つきは、いかにも男っぽい。女性的面持ちで、学究肌といわれてきた軍医にとって救いの神になったのだ。

撤退する時は、できるだけの食料を残してやって下さいと頼んで、少尉は三人のところに行った。「後続の部隊がくるから、その時まで頑張るんだ。決して命を粗末にするな。いいか」、そのように激励して去っていった。残される三人の気持を察して、撤退が近いことをにおわせたようだ。

この後も、軍医は残された者の運命について、どうなるのかという思いにとりつかれた。自分が手がけてきた患者なのだ。そしてそのことは、これからの自分の身の上にも予測されることでもある。

『自死』が、残置負傷兵の多くがとる道だ。戦闘の始めのころは、手榴弾の自爆が多かった。信管を抜いて、胸に抱いているだけでよい。その間、六、七秒のことで簡単で確実だが、今では手榴弾は使い果して、持ってる者はいない。では小銃か。銃口をのどに当てて、足の親指で引き金をひくという方法もきいている。

もう一つの道は投降だ。西欧では、十分戦ったら、投降は決して恥辱ではないと聞いているが、日本軍は違う。強い心理的鎖にしばられている。軍人精神からは遠い教育をうけてきた自分でも、そのくびきの強さから逃れられないでいる。

『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱を受けず」の上、「常に郷党家門の面目を思う」と、二重にしばりをかけられている。その上、いつ、どこで、どんな状況の時、と想像してみても、至難のことに思われる。手を上げて出ても、銃を構えて気が高ぶっている敵兵が、すんなりと受け入れてくれるだろうか。

何よりも、これまで一緒にいる戦友を裏切ることになる。裏切り。これは堪えられないことだ。誰でも卑怯者にはなりたくない。投降はやはり大きい賭博だ。軍医はそのことを確かめるような気持で、前に拾ってポケットに入れておいた「落下傘ニュース」と宣伝ビラを取り出した。

これは、三月ごろにいたバギオから西海岸に下るナギリアン道の陣地でよく撒かれた。ここでも時どき撒かれるが、回数は減っている。兵士たちは先を争うように拾った。ニュースは新聞形式で、発行は米軍マニラ司令部となっている。首都マニラは、既に米軍の手に落ちていることを示している。

第一号は三月十三日付で、一面の見出しで「B29連続猛爆-東京・名古屋」とある。嘘ではあるまい。欧州ではドイツ軍が追いつめられて、敗戦の近いことも出ている。第四号では、「比島作戦・残存目本軍を撃滅へ」として、日本軍はもう敗残兵扱いだ。そうしてみると、私たちの命運は終末が間近に迫っていることになる。この陣地にきてからのニュースには、「ひどい医療手当-傷病兵に自決命令」として、私たちのことまで書かれている。ルソン島では、どこの戦場でも同じことのようだ。

単独のビラには「米軍のもとに来たら、生命は保障する。負傷した者は病院に入れて、十分手当をする。食事は満腹できるだけ与える」と、繰り返し強調している。その上、投降する時の心得まで、具体的に指示している。日本軍兵士の誇りを傷つけないように、言葉使いにも心くばりが見えるのは、心憎いほどだ。では日本軍はどうであったか。軍医が陸軍病院で研修をうけていた時、中国の戦線から後送されてきた患者が、捕虜はまとめて処分したと、その実状を話していた。中には斬殺の写真を隠し持っている者も知っている。

では撤退を明日に控えて傷病兵はどうするか。軍医には確信のある道は見えてこなかった。そして、辿りついた道は、次のようにしか考えられない、と思いなおした。「これまでは、軍律でがんじがらめにされて進むも退くも、自分の意志ではなかった。どの道を行くにしても、全く自由に自分で決める余地が与えられたのだ」。

その日の夕方近くになって、少尉のところから二十本ばかりの甘藷と塩少しが届いた。少尉らしい思いやりだ。日の落ちるのを待って、軍医は五人の衛生兵を指揮して部隊本部の後に続いて移動を始めた。ボンドック道は、バギオと山岳地帯の中央にある町ボンドックを結ぶ幹線道路だ。米国の植民地であっただけに、舗装された立派な道路だが、そこから側にそれると、獣道のような踏み固めた道しかない。

その道路は至るところ破壊されていた。工兵隊が爆破したのだ。谷間にかかると、道は消えて深く谷問に落ちこんでいる。薄明りの中での歩行は一歩誤ると谷底にころげ落ちそうだ。
 衛生兵たちは、薬品の入った行李をかついでいる者もいる。崩れた崖に手をかけながら、横ずさりにゆっくり進んだ。

道路の破壊は、米軍の戦車と車輌の進撃を阻むのが目的だ。しかし、そのことを裏返していえば、日本軍には、もはや戦車や車輌はおろか、荷車さえもないことを示している。斬込隊に出された兵士の話では、道路上で響くキタビラの音は、戦車ではなくて、ブルトーザーの音だったということである。シャベルとツルハシの手仕事からは、想像できない早さで復旧して当然だ。

道が平地になっているところに出ると、側の権木の繁みや草むらの中から、よく訴えるような声で呼びかけられる。「水を下さい。少しでよいから飲ませて下さい」、マラリヤか赤痢で落伍した兵士だ。ズボンを下ろしている者は、たいてい赤痢だ。軍医は脇目に見ながら、身を切るような思いで、通りすぎるしかなかった。

その上、あの臭が流れてくる。屍臭だがもう馴れてしまった。先にこの道を行った部隊の落伍兵であろう。まさに「草むす屍」である。軍医はこんな時に、戦争の惨めさが最も強く身にしみた。こんな中で撤退するこの部隊こそ、敗残兵だ。日本の新聞は中国戦線の報道で、よくこの言葉を使った。米軍のニュースでは、この言葉をさけている。軍医には、そんなことにも、戦争に向かう日本軍と米軍の姿勢に、大きな違いのあるのを感じた。

この後、部隊は三十キロ地点から三十九キロ地点と、戦いを続けながら撤退した。五十六キロ地点で幹線道路を放棄し、アグノ渓谷をへて、大きな山に入った。プログ山である。次第に戦線を縮少しながら、七月下旬になった。終戦を迎えたのはこの山であった。
 最初に戦争が終わったことを知ったのは、やはり米軍のビラであった。中には、「将校は白旗をかかげ、部下を引率して米軍に投降せよ」とあった。振り返ってみると、連日、迫撃砲の射撃をうけていたのだが、その日からはピタッと止んだ。定期便のように、頭上を通っていたにぶい草色の輸送機も、まったく見えなくなった。

九月上旬、部隊と一緒に軍医も米軍に投降した。これまで命をかけて対峙していた米軍の兵士たちは、銃を構えることもなく、思い思いの姿勢で迎えたのは、軍医の目に奇妙に映った。威圧したり威張るような空気は全くなかった。野球の試合が終わって、相手チームと向き合うような雰囲気なのだ。

これまで辿ってきた道を逆に進んで、ボンドック道五十六キロの地点に上った。米軍の警戒兵は、数十人の日本兵に一人の割合で呑気そうに銃を下げて一緒に歩いた。その軍服は、戦塵にまみれたふうもなく、こざっぱりしていたのは軍医には不思議にみえた。

道路上には既にトラックが待っており、すぐ南下した。途中の破壊された道は、どこが破壊されたか気付かないほど復旧していた。五か月もかけて、戦いながら撤退した道は、二時間ほどでバギオに着いて、仮収容所に入れられた。この道は、日本軍の司令部の予測では、行軍させられるはずであった。そこから、更にトラック、無蓋貨車、またトラックと乗りついで、夕方にはマニラ南方の収容所についた。

その時のことである。荒れた原っぱに下ろされた。すぐに米軍の作業服をきた二人の日本人に迎えられた。終戦前の先輩捕虜らしい。ズボンにはPWとペンキで書いてある。近くには深い穴が掘ってあり、持ち物や、身につけている衣服は、総てその中に棄てるよう指示された。この先輩は、米さん米さんと言って、すべて米軍からの指示だということを強調していた。

間もなく、草色の作業服、毛布などが、雑然と運びこまれた。軍医が作業服を着ていると、横の方から突然声をかけられた。「久米軍医殿ではありませんか」、顔を見たが、見覚えがあるような、ないような。誰か分からなかった。「足の負傷でお世話になりました。高島一等兵です」。

そう言われても半信半疑だった。軍医の頭の中では、あの負傷兵は鬼籍に入っている。過去の人として頭の中では整理されている。軍医の怪訝そうな顔を見て、また言った。「このキャンプで通訳をしております。送られてきた名簿に、軍医殿の名前があったので来ました」。

通訳ときいて、やっと思いだした。そういえば、高島は軍隊の前は、外務省に勤務していたのだった。「生き残ってこられて何よりでした」、そう言って、大形のチョコレートニ枚手渡した。「何か困ったことがあったら、相談にきて下さい。向こうの丘の上にあるキャンプの事務室にいます」。

夕日に向かって去っていく後ろ姿には、大腿部貫通のあとは全くみえない、軽やかな足どりであった。

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母のべそ

平成13年

 鎌田 淡紅郎 (カマタ・トキオ)

 

手元に母からの手紙一通が残っている。いまとなっては、ただ一つの形見のように思われて、棄てきれないでいる。受け取ったのは、私が秋田の北部第十七部隊にいた時であるから、もう五十七年も前のことになった。その手紙のひと言が、折にふれてもの哀しく思い出されてくる。

「船が出る時、敏夫さんがいないので甲板に出て探した。すると、手すりにもたれて、遠くの山並みを眺めている姿を見付けた。声をかけると、くぐもった声でとぎれとぎれに、早く兵隊に行きたい、そうすれば淡紅郎さんにも会えるから、と言った。」

淡紅郎は長男で、敏夫は六人兄弟の一番下で、小学校二年生であった。この年では、見知らぬ異境の地に移住しなければいけない詳しい事情などわかるはずはない。ただ無性に心細く哀しかったに違いない。昭和十八年夏のことであった。

私は北海道に新設された北部軍教育隊で、下士官になるための教育を受けていた。一家がそろって満州(中国東北)に移住したことを知ったのは、教育が終わって原隊に帰った時のことである。軍隊で外出が許された時、翼を休めに行く家庭が突然奪われてしまって、事情は理解できても、父に怒りを覚えた。

父は私が進学して東京に出るのと前後して、満州(中国東北)の新京(長春)の中学校に単身で赴任した。進学に伴う家計費の負担を、外地勤務手当で補うことが主な動機になっていたことは、私にも推察できた。百円足らずの月給では、地元の学校ならともかく、東京では後に続く四人の子どもをかかえて家計がもたない。その上、三年後にはすぐ下の弟の進学もひかえていた。

それに、折角苦労して得た高等教員の免許も、てづるがなくて生かされないのも、新京に新設された建国大学でなら実現できるかも知れないという期待もあったようだ。四年間単身で暮らして、いくら催促しても動こうとしない母にしびれをきらし、夏休みを利用して転居させたようだ。

そんな中での家計のやりくりは、苦労が多いはずであったが、母はそんな素振りはみせたことがなかった。私の学費の仕送りもきちんとしていた。だが後になってあれこれ振り返ってみると、叔母なんかに借金していたようであった。

ある時は、国鉄工機部の購買部で、炭が安く手に入るということで、六キロはなれた叔母の家に出かけた。十五キロの炭一俵荷って、夕方家に着いた時は台所の上り口にへたりこんでいた。小太りだが、小柄な母にそんな力があったのかと、子供心に不思議な思いをしたことがあった。そうかと思うと、神経質で小言の多い父から解放されたようなところも見えた。

ある時夕食を早めに済ませて、子どもたちに留守をさせ映画をみに行ったこともあった。帰りには罪滅ぼしのように、みんなに鯛焼きを一個ずつ買ってきて、自分も一緒にほおばっていたこともあった。そんな楽天的な母でも、生まれ育った秋田を離れることには、不安とも哀しいともいえるやりきれなさがあったに違いない。叔母にはどうしても満州に行きたくないと洩らしていたようだ。

私への手紙には、敏夫の口を借りて、自分のやりきれなさに堪えて、べそをかいていることをうち明けたと読めてくる。そんな母の思いにひたっていると、同じ港から満州にわたった農業開拓移民のことに思いは広がってくる。

昭和十三年には、分村計画として国の移民政策が進めらられた。日本の零細農家は、満州に行けば広い土地が与えられるという宣伝で、開拓農民として送りこまれた。その数は百五十万人をこえた。まさに民族の大移動である。その上、少年開拓義勇軍として、十四歳以上の少年が八万人以上も送りこまれた。この方は関東軍参謀長の通達で行われているから、単なる農業政策によるものでないことがうかがえる。

こうして生まれた農業移民の戦後は、残留孤児の問題につながってくる。ロシア軍の攻撃の中での逃亡は、悲惨とも残酷ともいえるが、言葉で表現しきれないものであった。

更に、満州に住んできた中国人にすれば、自分たちの土地を銃剣で奪われたのであるから、これも言葉で言いつくせない苦難があったに違いない。首都とされていた新京に住んで、逃避行もなく恵まれていた母も、日本の土をふむことはできなかった。私の進学は、母の涙の上で成り立ったのだという思いにさせられる。そして、その涙は開拓農民たちの民族の大移動の涙にもつながってくる。

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生涯の悔恨

平成11年

 鎌田 淡紅郎 (カマタ・トキオ)

 

毎年八月に入ると、テレビで東北四大祭として、弘前市のねぶたが放映される。巨大な人形ねぶたには、独特の筆さばきの大きい目と太い眉の影武者が目をひく。太鼓や鉦に合わせて、掛声と共に踊り歩く浴衣姿の男女の様子は、祭の華麗さを盛りあげている。

私は、若いころ弘前市にごく近い秋田市に住んでいたが、このねぶた祭に心をひかれながら、どうしても出かけることができなかった。今でも、深い負目から出かけられないでいる。

小野上等兵は弘前の出身であった。学徒動員の同年兵で、ルソン島では、文字どおり素肌を接し合ってねた、もっとも近い戦友であった。

太平洋戦争が終わる年の八月のある日、私は小さな洞で横になっていた。頭上の台地では、一晩中続いた迫撃砲の砲撃が、明け方になってぴたっと止んだ。うつらうつらしていたが、入口で人の気配に気がついた。かすかに差し込んでくる朝の光を背にして、小野が立っていた。右手に小銃を支え、左手で腹をおさえてうずくまるようにしている。一晩中歩哨に出ていたが、腹がしくしく痛んできたので、早く交代してきたという。私はともかく横になるように言った。転げまわるような激しい痛みではないようだ。

すっかり明るくなってから、私はお粥を煮た。この後は手に入りそうもないなけなしの米であった。飯ごうの蓋と中蓋に分けたが、小野は残さずおいしそうに食べた。東北の人らしく何時も口数は少ないが、この時も食べ終っても何も言わない。痛みは治ったようだ。

私はこれから芋探しに行くから、昼は残りのお粥を食べるように言いのこして、少し離れている他の仲間の天幕に出かけた。小野の歩哨交代を報告しておかなければいけない。

ルソン島の戦は、この年の一月リンガエン湾の地上戦が始って、もう半年以上たっていた。この間、追われ追われて移動を繰りかえし、やっと辿りついたのが北部山岳地帯中央のアキ山であった。

移動の時、小野はすべての装具を失ない、やっと小銃だけをもって、仲間に追いついた。亜熱帯であっても、標高千メートルを超える山は、夜になると寒い。二人は、ちょうど山の斜面に大木が倒れて、岩盤の山に覆いかぶさっている所が格好の洞になっているのを見つけた。ここなら、もう雨期に入っているが雨の心配はない。岩盤の上に一枚の天幕をしき、毛の落ちた毛布一枚に尻を付き合わせてねた。同年兵のよしみであった。

芋探しから戻り、夕食の粥を煮るため、飯ごうを手にして岩の下におりてはっとした。枯葉の上に血の混った粘液の便が散っている。アミーバ赤痢だ。移動する時、道端で赤くなった尻を出して倒れているのは多く見てきたが、仲間では初めての患者だ。

その日の夕方も、小野は中蓋一杯のお粥を食べた。だが夜になると何度も毛布から抜け出して、岩の端から尻を突きだしていた。その音から、私は下痢が続いているのを知った。

 私は、一枚の毛布で肌を合わせながら、尻のあたりがむずむずする気味の悪さを感じていた。学生の時、生物実験でのぞいた顕微鏡の下で、身をくねらせながらゆっくり動きまわるアミーバの様子が、頭からはなれなかった。小野の尻から、身をくねらせながら私の尻に移っているような感じだ。

二・三日は、便に立つとズボンを上げ下げしていたが、その後は抜ぎすててしまった。そして、口にするお粥の量も次第に減った。夜中に骨張った小野の足にふれると、生きている人間のものとは思えないほど冷たかった。二人はもう裸足の兵士になっているため、その冷たさにはこちらも引き込まれていくようであった。こうして十日ほど過ぎた。

その日は、夕方お粥を二口か三口食べただけで、あとは手をつけようとしなっかた。その日から光が失われていた。明朝目をさましたら、毛布の中で死体と一緒にねているのではないかと思い、私は木の上の方に移った。何を言っても慰めにもならないと自分に言いきかせながら、黙ってそこからでた。

翌朝やはり小野は息が絶えていた。同じ木の上の方にいた小杉一等兵は、夜中に何度も私の名前を呼んでいるのをきいたという。何を言い残したかったのであろうか。

遺体は、近くに穴を掘って埋めた。雨と涙でぐしゃぐしゃになりながら、もし生きて帰ることができたら、必ず迎えにくるからと誓いながら土をかけた。

迫撃砲の射撃がぴたっと止まったのは、死から二・三日後のことであった。

ねぶたには、精霊送りの要素もある。私は戦友のいまわの一言もきけず、誓いも果していない。武者人形の目、太鼓の響、それは私の罪の意識をかきたてる。でも、それは一生持ち続けなければいけないのであろう。

( 文芸誌選者の評 )

「ねぶた」の祭に出かけられないという、筆者の引きずっている重いものが伝わる。戦友のいまわの時、傍らに居なかったことを今も悔やみ続ける魂の存在することに、読むものは救いを感じる。

(完)

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RakuZaoYao

駱 肇蕘 (1913-2011) 先 生

− 半世紀に亘る中国の老朋友 −

 

真道 重明

2004年12月

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駱肇蕘先生は半世紀に亘る私の老朋友である。初めてお会いしたとき名前をどう読むのか分からなかった。「駱」は駱駝の駱であるから日本語の音では「ラク」であるのは分かる。しかし、「肇蕘」は日本では滅多にお目に掛からない字なので分からない。調べたら「チョウ・ジョウ」と読む。駱肇蕘の中国音は「luo4 zhao4 yao2 、声調を無視し、さらに発音表示は不正確にはなるが、敢えて日本のカタカナで書けば「ルオ・ツアオ・ヤオ」である。

初めて私がお会いしたのは、1957年、上海水産学院(現、上海水産大学)、1957年の10月から12月に掛けて。日中民間漁業協定の学術交流の規定に基づき、中国漁業協会の招きで訪中し、同学院で講義をした時である。

1913年(大正2年)12月2日生れ、四川省万県市の人。私より9歳の年上で、当年(2005年)で94歳の高齢にもにも係わらず現在も矍鑠として居られる。1934年に江蘇省水産職業学校の製造科を卒業後、日本に留学。1938年に東京の第一高等学校を卒業、1940年に京都帝国大学農林化学科に学んだ。

華東水産管理局企業処副処長、上海水産学院教授、同校水産加工系副主任、同校の副院長、国家科学技術委員会水産組成員などを歴任。その間に中国水産学会第2回会議理事、第3回会議顧問、第1−3回会議の水産加工専業委員会主任委員、中国食品科学技術学会の第1−2回会議理事を勤めた。また、1956年から1964年の間には太平洋西部漁業研究委員会の専門家に任命されている。

1950−1970年代に塩干魚の油焼け防止の研究、イカ加工の雨天防腐法の研究、魚醤油の発酵技術の改良など水産物の鮮度保持や加工の品質改良などに功績が多い。1980年代には淡水魚の鮮度保持やすり身加工其の他に功績を挙げた。

著書に水産加工工芸(技術)学、1961。中国淡水魚類養殖学(編纂)、1961。中国大百科全書・農業・水産巻の副主編者、1989。「辞海」(編集委員と水産分野の主編集者。1989。 (以上経歴に関しては《中国農業百科全書、水産巻 上》を参考にした)。

言わば「中国の水産加工分野の技術専門家としては元老格の人」である。初対面の印象は、正確で流暢な日本語とその喋り方から「日本の私達の先生」を連想した。勿論、初対面の時は先生の経歴などは知らなかった。しかし、4〜5年間の短期留学生の多くが「学生語」を話すのと異なり、戦前の一高・京大というエリート・コースと言うこともあろうが、本家の「中国では忘却されてしまっている漢字の発音が日本語の音読みの中に生き残っている」などの言葉から察して、「母国の中国語および日本語に関する造詣が深かった」ことも先生の正確な日本語の原因かも知れない。

先生は食品加工、私は水産資源と専門分野は異なったが、1957年以来の付き合いと言うことで、上海市に行く機会がある毎に、私の宿舎に会いに来られ、また私の方から面談に伺った。唐詩や京劇が好きな私には色々な教示を頂き、京劇の DVD などを頂き、宿舎で映写しながら説明を聞いた。

90歳を超えた今も矍鑠としておられるが、私にとっては忘れることの出来ない老朋友と言うよりも先生と言うべき人である。


肇蕘さんは1913年12月2日に四川省万県(現在の重慶市万州区)で出生。1931年から1934年に掛け浙江省立水産職業学校制造科、1935年から1938年に亘り日本の東京に在る第一高等学校理科、1940年に日本の京都帝国大学農学部農林化学科に在籍。

太平洋戦争勃発前夕に中国に帰国。1952年から1956年まで上海水産学院副教授兼加工系化学教研室主任、1966年から1979年まで文化大革命で学院は厦門(アモイ)校区に下放、1983年に上海に戻り、教授、校党委員会委員長、副院長。1984年から1993年々の間、食品科学と工芸学研究室主任。1988年退職。多くの生年教授の育成を計り中国水産加工業の重要な開拓者の一人である。

2011年12月26日午前、上海華東医院で逝世、享年99歳。遺体は献体されたと云う。「上海海洋大学の「駱肇蕘先生死去」とのメールを昨日受信。享年99歳。これで私が国交未回復時代の1957年に水産資源調査法で上海水産学院で講義した際にお会いした人は私と同年の科学院院士の劉瑞玉さん(前所長)一人だけが未だ生存、他の諸氏は総て他界されました。些か寂しい気持となった。

中国のサイト(中国語・簡体字)では詳しい情報や数葉の写真が記述されている、下記をクリック。

http://baike.baidu.com/view/2342710.htm

http://blog.sina.com.cn/s/blog_627736e10102dy2u.html

 

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