JyuuGunKidan

従 軍 奇 談

真道重明

 2002年3月


目 次

1.工兵として応召、その後に航空気象連隊へ配属 (気象隊という特殊部隊)
2.
南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻(肚に据えかねる話)
3.洞窟の中で聞いた玉音放送 (戦況の不利は手に取るように分かっていた)
4.
敵軍だった司令部へ通訳官として転属 (異例中の異例体験)
5.
北から南下して来た中国軍と広東語(北京語の1は広東語の2)
6.私が目撃した銃殺刑と鞭打ちの刑(中国軍が処刑した便衣隊の末路)
7.
日本の軍服を着た中国兵(日本人と中国人は眼では区別不能)
8.
復員船中での異常な事態(コレラで死亡者続出、兵から裁かれる部隊長)
9.マラリアの再発 (軍役を終え帰郷の車中で)

 


 

工兵として応召、その後に航空気象連隊へ配属

(初年兵教育は工兵、気象隊という特殊部隊に転属)

 

1943年(昭和18年)10月、世に言う「学徒総出陣」で学業半ばで翌々月の12月に現役兵として熊本の渡鹿にある西部第22部隊(工兵第六連隊)に入隊、初年兵教育を受けた。蒲柳の質の私が何故「六師団の鬼の棲むような工兵隊に招集されたか?「お前は水産の学校だなー、それなら船のことを知っている筈だ、船舶隊要員。船舶隊の兵科は工兵だ、良し工兵に決定」と言う訳。

ところが六師団の工兵には船舶隊は無い。一旦決まった兵科を変えることは出来ず、仕方なく工兵の架橋中隊となった次第。船舶隊というのは「陸軍の中の海軍、陸戦隊というのは海軍の中の陸軍」と言われていた。陸軍と海軍の縄張り争いがあったとも聞く。当時陸軍の船舶隊は潜水艦(マル輸艇)を持ち、真偽の程は知らないが航空母艦まで持つことまで考えていたと聞く。本当なら無茶な話だ。

初年兵教育では架橋だけで無く、土工・爆破・重材料運搬など工兵としての技術全般の外に「歩兵」の基礎も必須科目だった。娑婆(地方とも言った。軍隊外の社会のこと、塀の外)では大工や土方をして居た人達が多く、「鬼の棲む・・・」は言葉通り。隣にあった野砲連隊などから一目置かれていたが、虚弱な私には全くの場違いだった。

初年兵教育が終わった翌年の晩春、連隊副官から呼ばれ、知識が活かせる航空隊気象連隊への転属を薦められ、即座に諒承。満州(現中国東北部)の新京(現在の吉林省の省都、長春)にある第2気象連隊に転属命令。同じような事情の他の部隊からの一人と私との二人旅、関釜連絡船で門司で乗船、海峡を越え、釜山から汽車で鴨緑江の鉄橋を渡り満州(現在の中国東北部)に向かった。

その時の身分は乙種幹部候補生である。甲種幹部候補生にならなかったのは、初年兵時代に射撃などはトップの成績であったが、架橋中隊であり架橋のための舟艇の錨が元来筋力のない私には重くて持ち上げられない。工兵としては失格も甚だしかった。このときの同期の甲種の連中の多くは後にシベリア抑留で死亡したと聞いた。結果的には乙種だったことが命拾いをしたことになった。

新京に辿り着くまでに四平街で物凄い超常現象のような黄砂に見舞われた。日本語では霾る(つちふる)と読み、黄塵万丈と形容される砂嵐である。その話はつちふるに詳しい。新京の駅にはやっと辿り着いたが、さて目指す部隊が何処にあるか分からない。駅には案内所もなく日本兵の姿も無い。

腹が減っていたので邦人の食堂に入って飯を食いながら尋ねた。教えて貰った場所に行くと「観象台」と書いた大きな表札が掛かっている。満州国政府の気象台らしいと思い、門前の満州国軍の複哨の衛兵らしい者に尋ねたら言葉が通じない。学生時代に習った中国語で尋ねると、敬礼をして紙に略図を書いて教えて呉れた。邦人食堂の親爺は良く知らなかったようで、かなり位置が違っていた。尋ねた観象台の衛兵が同業の気象関係だったので日本軍の気象隊を知っていたので助かった。まさに幸運だった。

ちなみに食堂で食べた飯は白米だったが、お菜は肉も魚も無く、ただトコロテンに削り節を振りかけたものだけで酢醤油をぶっ掛けた物しかなかった。こんな些細なことを未だに憶えているのは何故だろう。兎に角無事に気の荒い関東軍の中にある目的の部隊に着き到着の申告をした。「良く此処が分かったな」と言われた。もう少し私達二人に旅程の指示の仕様もあったと思い、軍隊も好い加減なものだと言う気がした。

気象連隊と言うのは第一連隊が日本領土、第二連隊が満州国、第三が中国、第四が南方(東南アジアや太平洋南部諸島)だったように記憶しているが定かではない。平時であれば気象観測や予報の業務は官庁(明治以来、内務省・文部省・運輸通信省などに所属が変わったらしい)が管轄していた。戦時には気象情報は航空隊の活動と密接に関係するので陸海軍が掌握し、航空機の活動に関連した情報は極秘扱いにされた。飛行機も当時はプロペラ機で今のジェット機に較べ天候に大きく左右されていたから尚のことであった。

気象隊の仕事は陸軍も海軍も仕事に性格上全く同じシステムとマニュアルに沿ったものである。教育は工兵に較べ私には遥かに楽であった。筋肉や体力を使うのでは無く、専ら機器を使う測定や観測であり、海洋観測の経験がある私は、少し聞けば後は大体の見当が付いた。ただモールス信号による送受信のためのトンツーを短期間の特訓で憶えなければならず、朝食時から就寝時まで内務班の中は引っ切りなしに「トツー・トツー」が響き渡っていた。

合調音法 (イを伊藤、ロを路上歩行、ハをハーモニカ、と文章にして覚える方法)ではなく、音像法 (初めから毎分50〜80字の速度の信号を聞き符号音を認識する方法)であった。始めは大変だったが、次第に慣れてくると人間の言葉のように、一連の音の意味が無意識に解るようになるのは不思議である。銃は持っていたが、手にすることは殆ど無かった。

礎訓練が終わった1944年8月、早速第四気象連隊(南京)に転属命令が出た。新京(長春)から天津経由、南京、上海、香港を経て広東省の広州市に移動した。南京には半年ぐらい滞在した。重爆撃機で広州市に行く予定だったが、飛行機の都合がつかず上海から船で香港に向かった。

私達の一つ前の輸送船は台湾の高雄港の「有名な大空襲」に遭遇し大半が沈没した。香港では午後の下船が何らかの都合で午前に変更され慌てた。しかし同日午後に敵の大空襲があり、午後まで船に居たら完全に撃沈されるところであった。午前に下船した数時間後、グラマンが港の船を襲ったのを目撃した。敵弾を受けた輸送船が一瞬にして逆立ちとなり、多くの人が胡麻か蟻のように空中に舞い上がったり、甲板を滑り落ちるのを上陸した九龍の兵舎から目撃した。予定通り午後の下船だったら私は多分死んでいただろう。些細な変更が生死を分けた。

目撃したとき、実は私は兵舎の厠で小便をして居た。突然大きな音と共に屋根を突き破って何かが目の前の小便の流れる溝に落ちて来て黄色い小便の飛沫を上げた。ビックリしたので私の尿意は自動的に即時停止した。敵のグラマン機の空襲が済んだ後でもう一度「何が落ちたのか?」と見に行った。

棒の先で引き寄せ良く見ると高射砲の薬莢である。勿論金属でかなりの重さである。直ぐ裏の丘の上にある日本軍の高射砲が港内の敵機めがけて零角射撃をした時の弾の薬莢だった。もし運悪く頭を直撃して居たら私は多分イチコロだったろう。

今も在る香港(九龍側)の啓徳(カイタック)飛行場の直ぐ近くであった。現在ではこの旧飛行場の跡地はビル街となり飛行場は少し場所が変わっている。戦後国際機関に11年勤務した私は香港をしばしば訪れ、また中継地として通過する途次も立ち寄ったが、今と違って当時の啓徳飛行場は規模も比較にならないほど小さかった。

香港には数週間滞在。スター・フェリーで対岸の香港島へは何度か訪れた記憶がある。「東洋のモナコ」とか「百万ドルの夜景」などは考えられもしない灯火管制下にあった。石炭が無く薪を焚いて走る汽車で九龍から最終目的地の広東省の広州市に向かった。

州には当時は「白雲」と「天河」という2つの飛行場が在った。白雲は現在「白雲国際空港」の名称で広州市の飛行場として、また中国の重要な民間空港の一つとして存在している。当時は現在よりずっと規模は小さかった。天河は今どうなっているのか分からない。これらは戦中・戦後を通じて歌謡で有名なベンガル湾に散った加藤隼戦闘隊が東南アジアで奮戦する前一時駐屯したと聞かされた飛行場である。この2つの飛行場が私達の勤務地であった。

朝未だ暗い中、宿舎を出て毎日今で言うシャトル・バス(軍用トラック)で飛行場に向かい、分厚いコンクリートで作られた飛行場管理ビルの勤務室で仕事をした。隣りは情報隊が仕事をしていた。ミッドウエイ海戦で主力艦隊を失って以来、既にかなり経っており、次第に追い詰められる戦況にあった時である。それでも私が広州の飛行場勤務の前半期は大編隊は組めないが、未だ多少の戦闘機や足の速い偵察機(新司令部偵察機、「新指偵」と呼ばれた)は維持していた。

制空権では明らかに劣勢に立ち、飛行場は敵の爆撃機の編隊の主な攻撃目標であったから、連日のように空爆に曝された。隣室の情報隊のラジオ・ロケーター(今のレーダーのごく初歩的な探知機、無数の真空管が使われていた)のブラウン管の反応が大きいとオペレーターの報告する叫び声が筒抜けに聞こえてくる。

ブラウン管が示す反応が大きい場合、「未だ遠くに居る大編隊」かも知れないし、「数機の小編隊だが至近距離に迫っている」のかも知れない。そのどちらかであるかの区別は当時の機器では出来なかった。「後10分で敵機上空」と判断されると直ちに仕事をやめ、ジュラルミン製のケースに乱数表などの分厚い本を詰め込み、これを抱えて滑走路から可能な限り遠くに駆け足で退避するのが常であった。

間に合わない場合は運を天に任せてその侭じっと投下爆弾の直撃が逸れるのを祈る外なかった。分厚いコンクリートの建物でも大型爆弾の場合は3階を貫通して地階で破裂し、避難して逃げ込んでいた100名ばかりの兵や現地雇用者が被爆することもまま在った。敵機が去ると直ぐ生存者を点検し、医療措置で助かる可能性のある者と、無い者や死亡者を選別し、前者は病院に運び、後者はトラックで搬出した。

数十人の呻き声、千切れた肢体が散乱する血の海、まさに地獄図絵であるが、阿鼻叫喚図と呼ぶのは平和時の感覚であり、此処は戦場であり、異なった精神と心理状態下にある。生々しい臭いは死臭ではない。乃木希典将軍の「金州城外作」と題する漢詩の最初の二節にある「山川草木転荒涼 十里風腥新戦場の「腥し(ナマグサシ)の臭いである。生きの良いマグロを捌いたときの魚河岸の臭いにややに似ている。その空気に満ちた部屋の中に座って、水を飲み、握り飯をむさぼり食った。

 

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南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻

(肚に据えかねる話)

 

本軍の戦況は日増しに不利になりつつある1945年に入ると、南方戦線から内地に向かうベタ金(将官の肩章や襟章は縞が無く地が一面に黄金色であるため「ベタ金」と俗称されていた)が時々広州の飛行場に給油のための中継地として立ち寄った。彼等は戦況報告と言う名目で内地に向かっていたのだろうが、我々には逃げ帰るとしか映らなかった。

勿論、そんなことを口に出すものは居ない。将官は我々にとっては雲の上の存在である。上官侮辱罪となるから口が裂けても言えない。彼等は決まったように小指を除く4本の指には分厚い金の指輪が見えた。台湾経由の航路の気象条件をパイロットに説明するのが私達の任務である。

小型の戦闘機はエンジンを掛けた侭、搭乗者は将官一人、滑走路脇で説明を聞くパイロットのそばに立って「大丈夫か?、大丈夫か?」と何度も念を押す将官の態度には何か「俺は死にたくない」と言う気持ちが伝わってくる。「これが日本軍の将官か」と唾を吐きたくなる気持ちを抑えながら、「一体部下の将兵は何人戦死しているのか」と内心では言いたかった。明日の爆撃で死ぬかもしれない情況にある私たちに向かって「ここは無難で好い処だ」などと口走る始末。「一体何を考えているのだ」と呆れた。

日本軍の将官が皆そうとは思わない。私が体験した数名は例外中の例外と思いたい。我々の仲間も後で「あのベタ金野郎」などと陰口を叩いていたから、皆彼等に対してはそう思っていたにに違いない。中には指輪だけでなく、ピカピカした腕輪までしたのも居たと言う話を仲間達はして居た。

ろいろなハプニングが起こった。沖縄特攻が盛んになった頃のある日、整備兵の一人が突然単身で小型機に搭乗して飛び立った。「今飛んだのは誰だ」と騒ぎになった。空中勤務の戦闘隊員を点呼したら皆地上に居る。誰が操縦して居るのか?そのうち整備兵の一人が居ない事が分かった。暫くたってその飛行機は戻ってきて主滑走路を少し外れた処で胴着(胴体着陸)し、機体は壊れた。

整備兵の彼は機体や操縦装置は良く知ってる。操縦桿を引けば主翼のフラップ(下翼)が下がり機首が上り機体が上空目掛けて飛び立つことも勿論知っている。ただ、実際の操縦経験が全く無いだけだ。

飛び立つには燃料を補給し、始動車(当時は車で言えばセルモーターでエンジン起動できるものは未だ無かった。始動車というプロペラを回転させる自動車を使ってエンジンを始動させて居た)がないと飛行機は飛べない。少なくも数名の協力が必要な筈だ。この辺りどうなっていたのかは謎である。

私が直接彼に聴いた訳ではないが、「沖縄特攻の話を聞いて居ても立っても居られず沖縄に行く心算だった」と一機壊した彼は言ったそうだ。飛び上がるには上がったが、爆弾も装着していない、油も足りない、航空路の地図も持っていないことに気付き引き返したと言う。離陸は簡単だが着陸は難しい。「良く旋回して飛行場に戻れたものだ」と空勤の連中は驚いていた。

飛行機の数が少なくなって貴重品だったその頃、これを壊した罪は重い。本来なら軍法会議ものだが、「その意気たるや良し」と言うことか、余り重い処罰にはならなかったらしい。

 

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洞窟の中で聞いた玉音放送

(私達には敗戦は寝耳に水ではなかった)

が太平洋戦争に従軍し、兵隊として「撃ち方止め」の命令に繋がった玉音放送をこの耳で聞いたのは広東省広州市郊外の小高い丘にある洞窟の中であった。所属していた部隊は気象隊と言う戦闘をする軍隊とは異なる特別の部隊である。

最も重要な任務は気象観測結果の受発信と気象予報で、天気図を描き予報結果を航空戦闘隊に報告することであった。平時であれば気象台が行っている仕事と殆ど同じであるが、航空作戦に不可欠な気象情報は重要で敵味方共に戦時下では極秘事項であり、軍隊自身が行っていた。

気象情報の送受信の仕事の中枢はモールス信号による「放送局」と言えば大袈裟だが、数台の受信機と発信器、及び大きなアンテナが設置されているだけのもので、局を敵の爆撃から破壊されるのを防御するため、丘の中腹を掘り抜いた洞窟の奥に設置されていた。常時10名ばかりの当直者が一日数交代でその勤務に当たっていた。

1945年(昭和20年)8月15日(水曜日正午、日本時間)の昭和天皇による「終戦の詔書」、いわゆる「玉音放送」を、たまたま当直中だった私は聞くことが出来た。当時としてはかなり高性能の受信機ではあったが、内地からのJOAKの電波はその時は雑音が多く、神主の祝詞のような声の詔勅は意味が良く把握できなかった。しかし、続くアナウンサーの解説の声は当時のマイクに合うプロの発声法で、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、此処に矛を収める」と言う内容であることが明瞭に聞き取れた。

矛を収めると言うのは「撃ち方止め」、「戦闘行為の停止」である。この時「頭が真っ白になっただろう」と後で尋ねる人々が多かったが、実際は案外冷静で「とうとうその時が来たか」と思った。それと言うのも外国の情報を自由に受信できる立場に我々はあったし、また任務上日本軍の展開している全地域の気象情報の発信地点が、この1年、特にこの半年間には日増しに縮小されて来たことを知っていた。すなわち北はアリューシャンから南は南太平洋や東南アジアまでの日本軍の活動地域がどんどん狭くなり、追い詰められた戦況にあることを毎日の仕事を通じ身をもって感じていたからである。

軍隊の情報伝達は徹底した上意下達システムで、海軍の主力がミッドウェイで失われていることすら、兵、下士官は勿論、尉官将校でも知らない者が多く、真偽の程は分からない侭、ただ漠然と噂で感じる程度である。分かっているのは悪名高い「大本営発表」だけで、それも前線の兵士には伝わらないことも多い。不利な戦局の情報を兵に伝えれば「たちまち士気に影響」し戦争など出来る筈はない。全体の戦局が不利に向かっているのを任務を通じて実感できる者は極めて特殊な者だけであった。気象隊はこの特殊な者の一つであった。

街に出ると民衆の我々を見る目つきがこの数日間で一変しているのを感じ、私は街頭で買った華字紙を貪るように読んだ。そこには「勝利」の大きな活字が踊っていた。文章の調子が今までのデマ宣伝とは異なり真実感があった。この様な経緯から私だけでなく部隊の多くの者は「遂に来るべき時が来た」と受け止める心の準備は出来ていた。

私達の部隊の多くの者は恐らく「華南や本土での地上決戦は間近いだろう」と感じていた。残っていた数機が沖縄特攻に飛び立つのを送ったのもツイ先日である。沖縄が危ないことも皆が知っていた。観測情報が途絶えたと言うことは活動が麻痺状態か、部隊が壊滅したかである。次は北からの中国軍と上陸してくる南からの連合軍に挟み撃ちとなるか、もしくは、日本の派遣軍を無視して、直接日本本土の九州か関東平野の海岸で対決することになるだろうと内心では思っていた。

放送を聞き終わると直ぐに洞窟を出て集会所に行った。丁度昼飯時で皆は食事を終わりかけていた。「日本がバンザイした」と言うと「馬鹿言え」と言う皆の言葉が返ってきた。「今俺は下番して来た処だ。JOAKを聞いた」、「それは敵のデマ電波だ」と言う少数の者も居たが、多くは「そうか」と思ったたのだろう、ただ押し黙っていた。私が遅い昼食を食べ終わるか終わらない内に、突如部隊長の緊急全員集合の指示があり、華南派遣軍の司令部からの命令としての「撃ち方止め」が伝えられた。

その時を振返ると皆は冷静で、内心ホットした気持ちだったように思う。「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」の戦陣訓は措くとしても、飛行場のピスト勤務では毎日が連続空爆に曝され一つ間違えば生死を分ける状況下にあったから、「ホットした」と言うのは「これで死なずに日本に帰られる」と言うような楽観的安堵感ではなく、毎朝目を覚ますと「今日も未だ生きている」とツクズク思う何とも言えない心理状態から取り敢えず暫くは脱却出来ることへの安堵である。

数日か数週間か、それとも数ヶ月かは分からないが、とにかく今日死ぬことは先ず無いと言う聊やかな心理で「ホット」したのだ。「弱兵の言」かも知れないが、多くの人が体験記で同様のことを語っている。

それから数日間は命令により部隊の文書類や分厚い乱数表(暗号書)などの焼却に大童であったが、眼前に敵軍が居るわけではない。もっとも便衣隊(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱をした中国人のグループ)などは街に入って来ているらしいと聞いたが、日本軍の兵士に反抗するものは居なかったのだろう、姿も見なかった。

便衣隊を見たのはかなり後になってからで、後で触れるが、破落戸(ごろつき)の集団で「治安を害し、民衆を迫害した」として中国正規軍から処刑されるものが多かった。一般市民も日本軍兵士に刃向かうものは居らず、平穏な日々が数週間は続いた。

部隊の在った丘の上から下の街路を見下すと、数台のトラックに機関銃・水・食糧を満載して多くの兵士が街を脱出して行くのが数日間続いて見えた。申し合わせたように白衣の従軍看護婦が数名乗っていた。「撃ち方止め」に納得せず、抗戦を続ける兵士達である。

日本兵の人数比からみると、それらはごく僅かな一部の兵であったとは思うが、歓声を上げて出て行く光景は私の脳裏に焼き付いた侭今でも残っている。あの人達はその後どうなったのだろうか?後から聞いた噂では殆どが山賊と化して次第に社会から抹殺されたと言うことだが、恐らくそうなった可能性は高いのではないか。

玉音放送から多分10日目ぐらいであったと思うが、午前10時ごろ従卒に白旗を持たせた中国軍(国民党軍)の将校の軍使が徒歩で部隊を訪れてきた。前以て上から「鄭重に対応せよ」との連絡があり、部隊長室で対談が始まった。言葉が通じないので漢字による筆談である。私は偶々そこに居合わせて居た。

貴名?、所属如何?、毛筆による日本の学校で習った漢文による遣り取りである。通じない言葉も多く、なかなか捗らない。やっと昼前になって将校は我吃飯后・馬上再来と書いた。部隊長は「了解」と答えを書いて握手を交わし、午前の話し合いは終わり、彼は部屋を出て丘を下って去った。

部隊長は衛兵に「軍使が午後また来る。騎馬で来るから馬に注意せよ。徒歩で来るものは入れるな」と指示した。これはまずいと私は思い、「彼は飯を食ったら、またすぐに来ると言ったのです。馬上 (ma 3 shang 4)は「直ちに、すぐに」の意味で、必ずしも騎馬で来るとは限りません」と思わず言ってしまった。

「何だ。お前は支那語が解るのか?」、私は「しまった、バレたか」と思ったが後の祭り。「ハイ、少々は・・・」と答えざるを得なかった。実は私は中国語を多少解することをひた隠しに隠していた。通訳係りにでもなったら、敗戦の状況下で、「双方からの板挟みになってどんなトラブルに巻き込まれてしまうかも知れず、こき使われた揚げ句、結局は碌な結末にはならない」と思っていたからである。

早速その翌日、私に対し「中国空軍第四方面軍司令部へ通訳として転属を命ず」と言う命令が出た。今まで敵だった軍隊の司令部で通訳の仕事をせよと言う訳である。

負けた日本軍の将兵はずたずたに破壊された粤漢鉄路(エツ漢鉄道、広東省の広州から湖北省の武漢三鎮で知られた漢口に到る鉄道、粤は広東と広西一帯を指す古い地名)の修路に狩り出され、かっての苦力(クーリー、インド・中国の下層労働者の呼称)のように働かされると言う噂が蔓延していた。先行き我々はどうなるか誰にも解らない。成り行きに任せる外は無い。転属命令は諒承するもしないもない。上官による軍の命令である。

 

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敵軍だった司令部へ通訳官として転属

(佐官待遇で迎えて呉れた中国軍)

州市に居た航空に関係していた情報隊などに属する日本兵の中から私を含め5名が選ばれた。本来転属とは同じ指揮系統下に在る者の転勤である。指揮系統の異なる、ましてや今迄敵軍だった処への転属命令は恐らく前例のない異例の措置だとは思ったが、理屈を言っている場合ではない。碌な指示も無いまま急遽中国空軍司令部に赴いた。

司令部には門衛の中国兵が居たが、前以て指示が在ったのだろう。門は直ぐ通してくれた。奥から現れた中国軍の上級将校に対し、正面玄関の前に整列して、申告(仁義を切ると言うか、とにかく挨拶)しなければならない。一体どう言ったらよいのか、中国の軍隊用語など誰も分からない。日本軍の転属の場合と同じ意味なら良かろう。「我們5個人奉日軍命令出差・・・・・・現在到達這裏了」と我が方の5人の中の年配者が言ったように記憶する。一人一人姓名を北京語で告げ、「礼」と叫んで我らは挙手礼をした。

これを聞いた空軍の上級将校は挙手礼を返し、笑顔で肯いていたから意志は通じたのであろう。「労駕、労駕」(ご苦労さん)と言い、皆に部屋を用意してあるから、チョット休みなさいと付け加えた。ここの様に書くと何でもないようだが、此方は丸腰、相手は拳銃を腰に付けている。我々は心理的には極度に緊張して居た。とにかく今迄は敵軍だった司令部である。一体どのような生活環境に置かれるのか?厠所(トイレ)の脇の小部屋にでも押し込まれるのだろうか?言葉はどの位通じるのだろうか?

我々の目付きや顔色で先方も我々の緊張を察したのであろう。最後の「休息一下」(チョット休め)の一言に温情を感じ、先行きの局面を悪く悪く考えた場合の悪夢のような状況には多分陥らないだろうとの期待感を持った。

我々に与えられた部屋は寝室と詰め所で、他の司令部の人達と同じ、食事も同じ、ただ食べるのは中国軍の将校の食堂ではなく詰め所の部屋に兵が運んで来てくれた。我々にはこの方が楽だったし、先方も我々が居たのでは、多少言葉が分かるから用心したのかも知れない。今迄の日常生活と違うのは風呂が無かったことである。朝の起床時と夕刻の2回、いわゆる全身の冷水摩擦を実に念入りに行っていた。私達もそれに倣った。感心したのは洗面器3 - 4杯の水で事を済ませる。風呂よりはズット少量の水で済み、身体は清潔に保たれていた。

中国に風呂が無い訳ではない。北京の精華園浴池などは数千年の歴史がある浴場だと聞いたことがあるし、多くの街で浴池(銭湯)と書いた看板は見かけたが、どうも日本人は世界で一番風呂好き。しかも40度近い熱湯に入るのは日本人だけだろうと私は勝手に思っている。野戦ではそうは風呂に入れない。この点中国軍は風呂に入る機会が無いことをそれ程苦にはしていない。その代わり少量の水で身体を清める方法は実に巧みである。

後年、私は浙江省の田舎の県の招待所(政府関係者の宿泊施設)で2週間ばかり生活する経験を数度したが、この時私には特別に大きな魔法瓶に4杯の熱湯を用意してくれた。他の人々は1-2杯で済ませていた。湯上がり後にタオルで濡れた身体の水滴を拭き取るのでは無く、実に入念に摩擦する。環境の差による生活の知恵であろう。このことを私は中国軍から修得していたので、風呂の無いのは苦にはならなかった。

閑話休題、話を戻す。司令部の家屋はスペイン様式に似た建物で広い中庭を取り巻くように沢山の大きな部屋が配置されていた。我々の部屋や詰め所はその一隅に在った。我々5名のうち2名は中国で生れ育った経歴を持ち、北京語は良くできた。3名は学校で習ったが実践経験は無かった。ただし一人は上海の東亜同文書院に在学中応召されたので上海方言もかなり出来た。私などが最も実力が無かった。

寝ても覚めても中国語ばかり、日本人同士でも無意識に中国語で喋ることが多くなった。夢の中でも喋っていた。不思議と夢の中ではスラスラと行く。目が覚めた途端に苦難の連続である。今から考えると、この時が一番言葉が身に付き上達したように思う。中国軍は北京語を話していたが、出身地の訛りがあって最初の内は聴き取り難い人も多かった。しかし次第に何とはなく聞き取れるようになった。

司令部での私達の将兵としての階級であるが、これがまた意外であった。彼らから見れば私達は敵軍だった者達である。せいぜい臨時雇用の要員として処遇されれば良い方だと思っていた。「貴方たちは停戦になった今では敵では無い。中国軍司令部で勤務する以上、臨時措置として日本軍での地位と同等の立場で処遇する」と告げられた。

当時の中国軍(国民党軍)では陸海空三軍の内で空軍だけは1ランク高い。名称は違うが、例えば空軍の少尉は陸海軍では少佐に該当する。空軍ではより高度な知識や技術が必要なためと考えられていたためであろう。事実空軍将校の殆どは少なくもある程度の初歩的な英会話位は出来る人達であった。従ってポツダム少尉の私は中国陸軍の階級では少佐に当たる訳である。これは、しかし形式上のことで、私達は階級章を付ける訳でもなく軍帽の徽章も日本軍の侭である。靴も日本陸軍航空隊の短長靴を履いていた。腕に「中国空軍司令部」と書いた腕章を着けているだけであった。

訳の仕事の内容は千差万別、まさに「何でもあり」だった。日本軍キャンプや在留邦人収容所などに関する中国軍との折衝、収容所内部で良く日本人同士の発砲事件が在った。中国軍の治安要員と共に直ぐ出向いて調査や解決の交渉に立ち会った。また中国軍人がマラリアなどに罹患した場合、日本軍の軍医が技術・薬品など遥かに勝っていたから治療の要請があると、出掛けていって立ち会うことになる。

時々はその日の仕事が終わると一緒に出向いた中国軍高級将校が司令部に戻る前に寄り道して彼女に会うのに付き合わされる。「花姑娘(娼妓)か?」と聞くと「いや、友人の小姐(お嬢さん)だ」と言ってニヤニヤ笑っている。ある時など3〜4人車に乗りこんで来て姦しい。「俺には米人の友人が5名居る」などと言って彼女らの気を引こうとする。彼女らは明らかに高級娼婦である。彼も人の子である。

日本軍の収容キャンプの食糧買い出しの世話などは最も楽だった。日本が負けるまでは日本語で通じた市場も日本が負けたとなった途端に通じなくなる。日本語の理解できる市場の商人の姿を見掛けることが少なくなったし、理解してもわざと分からない振りをする商人も居た。

日本軍と親しい経歴があると戦勝国である中国軍から「漢奸」(敵に通じる者。裏切者。売国奴)の疑いを掛けられることを怖れてのことである。銭を持っていても買い物すら儘ならない。負け戦はしたくないものだとツクズク思った。拳銃は所持していなかったが「中国軍司令部」と書いた腕章を私は付けていたので、市場商人の私個人に対する態度は買い出しの日本兵とは全く違っていた。「安くしてやれ」と北京語で言うと、広東語で「系、系」(ハイ ・ハイ、広東語では偶然にも日本語の「はい」はハイと発音する。漢字は「系」と書く)と笑顔で答えて呉れる。

中国軍から外出許可を取ってキャンプから食糧買い出しに来た日本の兵士は銭が無いから安価な豆腐の「おから」を良く買った。肥猪菜(豚が肥える餌)と書いてあった。豚は何匹飼っているか?と聞かれ、日本兵は十匹と答え苦笑していた。売り手は日本の兵隊が食うことを察していて半ば揶揄しているのだ。半ばと言うのは彼等広東人も「おから」は良く食べていたのだから。

負けた日本軍兵士ではあっても市場商人にとっては顧客である。支払いの銭を渡すと「多謝(トウチェ、有難う。広東語)と言う。この辺は大らかで、日本仔(ヤップンチャイ、日本人を呼ぶ侮蔑語。広東語)と言う言葉を日本兵に投げつける者は居なかった。

此処で日本軍の居たキャンプのことを少し述べたい。ハッキリ言って捕虜収容所である訳だが、実態は半ば軟禁状態と言った方が適切で、自己防衛に必要な銃器などは未だ当時の日本軍は所持していた。ジュネーブ協定に基づく戦争国際法ではどうなっているのか知らないが、日本軍は未だかなりの戦闘能力を保持しているにも拘わらず、天皇の命令に依って戦闘行為を停止したのであって、軍規も統率が良く取れていた。

雲南省から南下して来た中国軍は装備・被服・食糧など凡ゆる面で日本軍に較べ見劣りしていた。聯合国側に居たから戦勝国となった訳で、そのことは中国軍幹部も充分承知していた。

対処を一つ間違えば、恭順を示している日本軍が停戦命令を無視して暴発し抗戦に出る可能性は充分にあった。このような状況下に在ったため、取り敢えず日本軍にはある程度の自衛権とキャンプの生活にはかなりの自治権を中国軍は認めて居たのだと思う。

通訳勤務で一番緊張する仕事は日本軍の持っていた武器や被服などの「引き渡し」、中国軍側からいえば「接収」の交渉に立ち会う時である。日本軍の倉庫には南支派遣軍は停戦時にまだ3年ぐらいは戦える軍需物資を温存していた。

ジュネーブ協定の「戦争国際法」など私は知る由も無いが、日本側の高級将校もあまり良くは知らない。交渉は兵舎で行われることもあり、龍涎閣などと言う料理屋に席を設けて行われる場合も度々あった。まるで商談のような雰囲気の場合もあり、双方が激高して喧嘩のようになることもあった。

今でも印象に残っていることが2つある。一つは通訳のコツである。発言通りに訳すと喧嘩になると思ったときは適当に和らげた表現にすること、30秒の発言を訳すには1分掛けることである。しかし、前者は基本的な点を和らげて仕舞うと後で辻褄が合わなくなる。意味が理解されればよいと簡単に訳すと「お前、翻訳に手抜きをしたな」と勘繰られる。長く喋ると「良くやって呉れる」と感謝される。

話が旨く合意できず、双方が言い張り激昂して来ると、通訳の私に向かって食って掛かる。日本側もそうだし中国側もそうなる。「チョット待ってくれ」、「私が云っているのでは無い。この人がそう言っているのだ」と発言者を指差す。双方とも解っているのだが、また話が縺れるとこれが繰り返される。こちらも頭が混乱して中国軍将校に日本語で、日本軍将校に中国語で説明し、相手がポカンとして居るのを見て気が付くと言う場面もしばしばあった。

もう一つは、通貨の極端なインフレである。3〜4人の一回の食事代を支払うのに一抱えする大きな鞄に一杯の紙幣が必要となる。紙幣の価値が限りなく零に近づく。しかし、1枚の紙幣の紙の材料代で止まり、零にはならない訳である。数千万円でもピン札なら20銭ぐらいにはなることを知った。

中国軍将校は拳銃を持ち、日本側は丸腰である。いくら話が噛み合わず殴り合い寸前のようなムードになっても、中国側が拳銃に手を掛けることは全く無かった。もし逆だったらシンガポールの山下奉文とパーシバルの「イエスかノーか?」と問答無用式の場面も在ったのではないか?「負けているくせに何を云うか」と言う短気な日本人も居たのではないか?と思う瞬間も在った。戦勝国側に立つ寛容さもあろうが、また無駄なトラブルを避けて事を運ぼうとする策略だったとも考えられるが、冷静でカッとならない点には感心し、大人(たいじん)の国だと思った。

 

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北から南下して来た中国軍と広東語

(北京語の1は広東語の2)

 

前項で市場での買い物の話が出たので思い出した逸話を述べよう。広大な中国には多くの方言がある。知ったか振りをして専門家に怒られそうだが、私の乏しい知識でも、特に長江(揚子江)以南は代表的な言葉だけでも、福建省南部のミンナン語(台湾人の多くもこの言葉を話す)・潮州(汕頭語)・広東語(香港人もこの言葉を話す)などがある。漢字で書けば同じ語句でも発音が全く違う。戦前の中国では北京人と広東人は英語で話し合うことが普通だったそうである。

私が60年前に東京外語の専修科で習ったのは北京官話で、広東語は数回の概要説明を受講しただけである。後は現地の広州で耳から憶えた片言だけ。ミンナン語や潮州語は度々耳にする経験はあったが何のことだかサッパリ分からない。

中国軍司令部で勤務中、面白かったのは数詞である。日本敗戦後に広州に入ってきた中国軍の多くは雲南省から南下してきた軍隊で中国北方の各省出身者が多かった。彼等は軍隊内では北京語を使う。北京語の1、2、3、・・・はご承知のように、イー・アル・サン、・・・である。広東語では、ヤッ、イー、サン、・・・である。問題はイーで、北京語では1を意味するが、広東語では2を意味する。厳密には広東語のイーは低く平らな声調であるが、実際の現場の会話ではそんなことはどうでも良い。少し訛っていようがいまいが、「通じるかどうか」である。

南下してきた兵隊が広州の店で「一つ呉れ」と「イーゴ」と言うと、店では二つと思って2個出す。「おい、一つだ」と「イーゴ」を繰り返す。店では「はい。2個」と言って出した二つを指差す。「解らんヤツだな」と言い争いになる。この言い争いの場面にはしばしば出会ったのでよく憶えている。北京語で2個の場合は「両個、リャンゴ」と言うし、広東語でも「リョンコ」と言うので、何となく分かる。1個の場合に揉めるのである。

中華人民共和国が1949年末に成立してからは、普通話(プートンホワ、ずる、言葉、すなわち共通語、北京語を基準に各方言を話す人々にも発音し易くした標準語)が普及したから英語で話す必要は無くなった。しかし、その前に日中戦争や引き続く内乱により他省の兵隊が各地を大移動したことも大きく言葉を統一するのに役だったのではないかと思っている。

 

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私が目撃した銃殺刑と鞭打ちの刑

(中国軍により処刑された便衣隊の末路)

本軍が戦闘を停止した時点では中国軍正規部隊はまだ雲南省から南下して広州に向かっている最中で、広州市には正規軍は居らず無政府状態であった。警察は機能せず、真っ先に乗りこんで来たのは、いわゆる、「便衣隊」(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱を行った中国人のグループ)である。便衣隊にはさまざまあって、中国軍の指示統制下に在る本物から、戦乱のどさくさに紛れて火事場泥棒的な「ごろつき」集団も多かった。

広州市内に入ってきていきなり橋の袂に立て札を立て「渡橋税」を徴集する。四つ辻で「通行税」を取る。竹竿の天秤棒で野菜を市場に運んでいる農民で銭のない者からは野菜の「南瓜を3箇置いて行け」と命じる・・・と言った具合である。武器を持っているから逆らえない。日本兵に対しては丸腰で居るにも拘わらず、むしろ避けるように何もしない。戦勝に一時喜んだ市民もこれには困惑して居た。

中国の正規軍が未だ到着しない間の無政府状態は私がこの眼で見た限りは略奪や暴行と言った事態はそれ程起こらなかった。もっとも私が知らないところでは何があったかは分からない。在留邦人などが暴行や略奪を受けたと言う噂は聞いたが、その現場を私が眼にしたことは無かった。ただし、ごろつき的な便衣隊の眼に余る行動はしばしばこの眼で見た。

中国正規軍が入ってきてからは、民衆の告訴があったのであろう。これらの「ごろつき的便衣隊」の一斉捜索が行われ、数名が拘束され軍法会議で銃殺刑が宣告されたことを司令部で聞いた。「明日処刑される。見に行かないか?」と誘われた。

野原に数本の身長よりやや高い杭が立てられ、黒い便衣の被告が目隠しをされて後ろ手を縛られ、十字架ではなくただ一本の杭に括り付けられていた。覚悟を決めているのか泣き叫ぶ様子など全く無かった。我々は200 m ぐらい離れた位置で中国軍司令部の同僚?達と眺めていた。見せしめの意図もあったのだろう、民衆多数も遠巻きに眺めていた。投石する者も居たが遠くて届かない。

14名ばかりの中国軍の兵士が6〜7名の処刑者の前20 m ばかりの位置に「立ち撃ち」の構えで立っていた。「撃て」の命令一下、銃声が轟いた途端、処刑者は崩れ落ちると言うよりも、杭に括った紐が切れたのか、一斉に棒が倒れるように地面に横倒しになった。杭だけがその侭残って居た。総ては呆気なく終わった。

鞭打ちの刑罰:日本軍には外出時の帰営時間に遅れるなど規則に違反した者には営倉や重営倉などの処罰規定があったが、「鞭打ちの刑」と言うのは無かった。鞭打ち刑は日本の江戸時代以前にはあったし、世界各国に今でも数多く存在する。人権を守る国際救援機構(Amnesty International)などではこの身体刑に強く反対しているのはご承知の通り。また、先年シンガポールの法廷で麻薬密売の罪で告発された米人の事件で、鞭打ち刑が言い渡され、「野蛮だ」と米国は反対したが同政府は無視し実行されたニュースは世界を駆け巡った。

今はどうだか知らないが、英国の小学校の教室の背後の壁にはお尻を叩くための鞭がもっともらしく懸けてあったと聞くし、タイ国の田舎の民家には淡水エイのギザギザのある尻尾の鞭が飾ってあるのを見た。言うことを聞かない子供は親が「これで叩くぞ」という脅しである。実際に使われるところは見たことは無いと友人は笑っていた。

話を本題に戻す。私は二階の部屋の窓から処刑現場を見下ろして居た。一枚の筵が拡げられ受刑者の兵は上半身裸で俯きに横たわるように命じられた。傍らには回数を数える役目の兵、鞭を持って叩く役目の兵が横たわった兵の足元に立った。

始まると、勘定係が大声でゆっくりと回数を叫ぶ。立て続けに叩くのではなく時間間隔はかなり充分に間合いを取って行われる。叩かれる側の受刑者は一回毎にこれ亦大声で「ああー」と叫ぶ。苦痛に耐えきれず呻くようでもあり、逆に芝居か一種の儀式のようでもある。時間が無かったので私は最後まで見届けることは出来ず、窓辺から立ち去ったが、私以外に数名の司令部の将兵が見て居たが、その他には誰も見る者は居なかったように記憶している。

 

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日本の軍服を着た中国兵

(日本人と中国人とは外見での区別は全く不可能)

 

くの日本人のなかには中国(韓国)人の写真や映像を見て「この手の顔つきは確かに中国(韓国)人だ」と言う人達が居る。これはその人が勝手にイメージを作り上げて居るのであって、私は中国(韓国)人と日本人を風貌から判別することは出来ないと常々思っていた。

子供の頃、親戚の夫妻が当時日本の植民地だった朝鮮に旅行し、半ば冗談で記念として朝鮮の民族衣装を着て撮った写真が1枚自宅のアルバムに貼ってあった。夫妻を知らない他人に「誰かこの人を知っているか?」と尋ねると、勿論「知らない」と言う。「誰誰だ」と説明すると「その夫妻は揃って半島人(朝鮮人のことを指す)に似た顔つきだなー」と言う。写真を見る迄にそんなことを言う人は一人も居なかった。子供心に「馬子にも衣装」の一種だと思った。

日本の敗戦により雲南省などから広東省の広州にやって来た時の中国軍兵士の服装は継ぎ剥ぎだらけ、中には軍靴の無い者も居たらしい。補給も侭ならぬ長途の徒歩行軍であり無理もない。日本軍の倉庫に未だ数年は戦える武器弾薬・被服など充分の備蓄があり、私達司令部での通訳勤務要員が立ち会った引き渡し交渉で余分な新品の大量の被服は中国軍に渡された。中国軍の兵士は早速この新品の日本兵の軍装に着替えた。此処からが問題である。

戦闘を停止した日本軍のキャンプと移動して来た中国軍のキャンプとは、場所によっては簡単な柵を隔てて区切られている処も多かった。双方の出入り口には弾を込めた銃を持つ衛兵が立っている。日本軍の出入り口にも治安維持と自衛用の弾丸を装填した99式歩兵銃を持つ複哨が立っている。

一夜にして日本軍のキャンプが幾つも増えた感じである。日本の軍服に着替えた中国軍の兵士は日本軍兵士とそっくりである。ただ異なる点は軍帽に付けた徽章だけ。これは小さいから遠目には分からない。言葉が通じないから柵を隔てて身振り手振りで話し合う光景は余り無かったが、用件があって柵を出てすれ違う場面はある。夜間は尚更区別が付かない。兵士同士が争うような事態は全くといってよい程なかったが、どちらだか区別できないのは双方とも困惑する。

話し合いの末、色違いの腕章を着けて識別することになった。私が中国軍の兵士に尋ねたところでは、「話せば直ぐ分かるが、ただ見ただけではさっぱり区別できない」と言う。

北方の中国人は背が高く、南方の人は背が低く短気で、日本人により似ているとよく言われる。私もそんな気がしないでも無い。しかし、北方人にもせが低い人もあり、南方人にも背が高く短気で無い人もある。最近のDNA鑑定ではいざ知らず、個人を識別することは先ず絶対に不可能であることをまざまざと知らされた。

 

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復員船中での異常な事態

 (コレラで死亡者続出、兵により裁かれる部隊長)

 

々が母国の日本へ帰還のため戦地の広州を離れたのは1946年の4月、乗船のため黄埔(蒋介石軍の黄埔軍官学校のあった地)の港まで徒歩で移動し、3000名を収容したリバティ型の復員船に乗り、母国日本に帰還が叶ったのは5月初旬。しかし、懐かい日本の山河を目前にして居るにも拘わらず、コレラ検疫のため久里浜港の沖に約1ヵ月も留め置かれた。ようやく連合軍の上陸許可が出て復員式を済ませ、郷里の熊本に辿りついいたのは翌月の6月であった。

広州を離れて黄埔までの移動、黄埔での乗船、航海中の復員船の中での異常な雰囲気、久里浜での復員完結、召集解除。故郷へ辿り着くまでの車中の出来事、などなど、僅か2ヵ月足らずの間に実に思いもよらぬいろいろな事が起こった。

通訳官として約7ヵ月勤務した中国軍司令部に留め置かれることも無く、原隊に戻ることが出来、原隊も全員が待ちに待った復員船で母国日本へ帰ることが確実になった時はまるで「これは夢ではなく真実のことだ」と皆心に言い聞かせた。客観的に言えば「戦争俘虜本国送還」である。背中に大きくPOWと書かれた衣服を羽織っていたものも軍服に着替えていた。多くの兵はPOWの意味も知らずに,中には「恰好いい」と思って着ていたものもあったが、 Prisoner Of War (捕虜)の略号である。

日本軍キャンプは捕虜収容所であるが、だれもその様な言葉を口にはしなかった。敗戦を終戦というのと同じだ。このPOWと書かれた衣服を着ている者も居たし、着ていないものもいた。中国軍は全員に着せようとしたが数が足りなかったのか、「着たいものは着ろ」と言ったのか、その辺は隊を離れて司令部に居た私には分からない。

広州から黄埔までの移動する時は、勿論日本軍は銃などは持たず、銃を持つ中国軍の少数の護衛兵が同行していた。恐らく中国軍はいわゆる「北伐」すなわち、当時日本軍が八路軍と呼んでいた北方の共産党軍と戦うため続々と北上を始めており、中国は内戦に突入しつつあったから、日本軍は早く処理したかったのではないか?大部隊の日本軍捕虜などに構っては居られない。それどころではなかったのではないかとも思われる。

徒歩で隊伍を組んで移動する日本軍を見に沿道には中国の民衆が居た。多くのものはただ黙って眺めていたが、中には「チャンコロ」と罵声を移動部隊に浴びせるものも居た。日本人が中国人を罵る時に「チャンコロ」と言うので、「チャンコロ」は「馬鹿野郎や間抜け野郎」と言った只の罵声と思っていたのだろう。これを聞いた日本兵は半ば呆れて「おい、チャンコロが俺達にチャンコロと言っている。何だこりゃー」と一斉に笑い出す。私達を罵った中国人は「罵られて笑う」とはどう言う訳だろうと理解できないで呆気に取られている。本来、チャンコロは「清国人」の中国音が日本で訛ったものだと言う説が多く、元来蔑称ではないとも言われるが、実際には中国人を指す蔑称として使われて来た。

は強いとツクズク感じた。広州から黄埔まではそれ程の距離ではない。徒歩移動部隊はその間に中国軍による所持品検査に3回引っ掛かった。移動部隊の中には従軍看護婦も居た。1回検査がある毎に毛布や石鹸・衣類など日用品の余分なものは没収されてドンドン減って行く。背嚢は小さいので大型のリュックを背負っていた。男はそれだけだが、従軍看護婦は背負子のような台枠の付いたものを背中に負い男の3倍の量の物資を抱え込んでいた。

それだけでは無い、持ちきれない者は傍に居る兵に代わりに持って呉れと頼む。鼻の下の長い兵の内には引き受ける奴も居る。中国軍の検査係も看護婦が微笑むと何も没収しないで談笑している。男は何か渡して中国兵からタバコなどを受け取っている。女は生活能力があると今更ながら思い知った。黄埔に着いたときには所持品の量の差は歴然としていた。

検査係の中国兵は一つでも多く没収しようとしたが、此方が「これは生活必需品だ」と抗議すると、中国軍の上官は「給他們用」(彼等に使用させよ、すなわち没収するな)と係の兵に命じる場面がよくあった。戦争国際法での捕虜対応の規定がどうなっているかは知らないが、この言葉は胸に残り、感謝している。

埔には3日〜4日ばかり居て復員船への乗船を待ったが、部隊内にコレラ患者が発生した。コレラの発生は南方では珍しいことではなく当時フィリピンなどには年中あったが、香港や広東省でも営外の一般社会では頻繁に見られた。日本軍では加熱しない食事などは絶対無かったし、外出しても「生まもの」の水・氷・アイスクリームなどを口にすることは厳禁されて居たので、軍に罹患者が出るなどの話は聞いたことも無かった。

しかし、黄埔での生活環境では衛生管理が不完全と言うより、空腹に耐え兼ねて「生もの」の食材を盗み食いすることが、コレラ患者発生の原因だった。1〜2名のコレラ罹患者が確認されるや否や、軍医から緊急の厳しい指示があって、各隊の責任将校から全員に厳重な通告がなされた。

食糧貯蔵所の側を通りかかった私は全く偶然にも、先程注意を呼びかけた当の大尉その本人が生の馬鈴薯を噛っているところを見掛けた。周りには誰も居なかった。将校・下士官・兵総て食事は同じものを同じ場所で食べる。彼もよほど腹を空かしていたのだろう。

昼過ぎに症状が出て翌朝死亡した。私は彼の名誉のため目撃したことは黙っていたが、内心ではその天罰?覿面さには驚いた。各人の健康状態は左程悪いとは見受けられなかったが、栄養状態は食料不足のため多少悪かったのは事実である。それにしても彼の命は母国帰還を目前にして実に呆気ない結末を迎えた。

コレラ蔓延で事態が急激に悪化したのは復員船が久里浜沖に到着してからである。それ迄の罹患死亡者は三千人中に僅か十名足らずであった。航海中の船中では鉄扉の食糧庫は施錠されていたから問題は無かった。海水で顔を洗ったり歯を磨いても良かった。

危機は久里浜沖に着いてからである。コレラ患者の人数が爆発的に増えた。軍医からの「絶対に海水で歯を磨くな」という警告を無視する者が増えたのである。飲料用の真水は最小限に抑えられていたし、陸からの給水も無かったので、歯磨きに使うだけの余裕は無い。海水は自由に使えたが手足や身体を拭くだけにしか使えず、「歯は絶対に磨くな」の警告が出されていた。顔を洗えず歯も磨けないことは野戦では常にある。皆経験済みである。

母国の山河を目の前に見て気が緩んだのだろうか?航海中に海水で歯を磨いて何でもなかったのに何故久里浜での洗顔・うがい・歯磨きが禁止されるのか?多分大したことは無い、大丈夫だと思ったのだろう。
コレラ菌は海水には強く、菌は増えないまでも死なない。南方から引き上げて来る船の殆どはコレラ患者が居り、当時の久里浜の海はコレラ菌で充満していたのである。私達の船も患者数は僅か数日の間に一挙に百名を超え、ますます増え続けた。患者は発症後の僅か半日で死亡するという緊急事態となった。

コレラはよほど悪性の菌でも普通は罹患者は2日ぐらいは生きている。半日で死亡するのは栄養状態が悪く、身体の抵抗力が無かったからだと言われている。蚕棚のようになった処に荷物と共に一人一畳足らずの生活空間である。大佐だった部隊長も同じ環境である。患者と枕を並べて寝るのは実に不気味であった。

患者数が多く、隔離室を設けることはギュウギュウ詰の復員船では不可能であった。2〜3回トイレに行き、後は脱水症状で横になったきり歩く力もなくなる。軍医や衛生兵が面倒を見るには人数が多すぎる。12時間以内にはその患者はほぼ確実に死亡する。内地から来た船員が患者の死体と荷物を運びにやって来る物音に夜半目が覚めることも多かった。患者が私の位置から一人置いた隣りだったりすると、その不気味さは尚更である。

平時であれば陸上の隔離伝染病棟に収容されるのだろうが、沖には十数隻の引き揚げ船や復員船が犇めき、何れも二千名から三千名の乗船者が乗っている。占領軍の指示か日本政府の規則か知らないが、ワクチン注射と毎日の検便がある。全員の検便結果が陰性にならないと上陸は許可されない。後で聞いた話だがワクチンは栄養失調者には無意味で抗体が出来ないらしい。

船から日本の民家や人々が歩く姿を毎日見ていながら、三千人近い全員が陰性になる日をただ待つだけの日々を船の中で約1ヵ月過ごした。一体何名がコレラで死亡したか分からないが、死体を陸に運ぶボートが毎日数回は船と陸との間を往復していたから、かなり多くの人数だったことは想像に難くない。母国を目の前に死んだ人達はさぞ無念だったろうと思うと胸が痛くなる。

士官と兵ばかりで将校が一人も乗船していない船が1隻ポツンと離れて沖に停泊していた。もう久里浜沖に4ヵ月も留め置かれ上陸許可が出ないと言う。南方からの復員船である。将校全員は航海中に海に投げ込まれたと言う。コレラ騒ぎではない。占領軍は事態の異常さを重視し、取り調べが続いていると言う。この噂は毎日陸と連絡している舟艇の乗組員から聞かされた。

私達には「何があったのか?」の見当は直ぐ付いた。その船の場合ほど過激ではなかったが、似たようなことが航海中の私達の船でも起こっていたからである。

黄埔を出航して数日目、大佐だった部隊長の行李(部隊長だけはどう言う理由か知らないが行李を所持していた)の中味が私物であり、しかも、金製品や象牙の麻雀牌であることが分かった。これが切っ掛けとなって騒動が持ち上がった。

召集解除で軍役を離れるまで一応の軍律は守られて来たとも言えるが、これは集団行動を維持するための最小限の規律であって、上官侮辱罪などの考えは何処かに吹っ飛んでしまっていた。第一、全員が階級章を付けていないのである。良く「勝手なことをして部下を苛めた上官は白兵戦で背後に居る部下から撃たれた」と言う話があるが、将校・下士官を問わず威張って兵に勝手な私用の仕事を強制させたり、理由なく部下を苛めて憂さ晴らしをするような人間はこの世の何処にでも居るものである。「何時か腹一杯殴ってやろう」と内心では肚に据えかねている兵は沢山いた。

下克上と言うか、人民裁判というか、部隊長の木製の箱である「行李を水葬礼にしろ」、「俺達に毎日褌を洗わせた某中尉は俺達に謝れ」などと言い出す兵が続出し始めた。結局、東大法科出身の兵が裁判長となって船内(人民)法廷が開かれることとなり、大佐や中佐などが7〜8名が雛壇(被告席)に座らされる羽目となった。「帽子を取れ」、「頭の下げ方が足らん」などの兵の怒号の中で、土下座して謝罪の言葉を言わされた。告発文や判決文はなかなか堂に入ったものであった。

例の行李は甲板上の大勢の環視の中、数名の兵によって儀式めいた仕草により海中に放り込まれた。勿論、部隊長はそれを見守る位置に立たされていた。将校全員が海に投げ込まれたと言う上記の場合より遥かに温和な経緯ではあったが、集団の感情が激昂すると何が起こるか分からない恐ろしさを感じた。

 

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マラリアの再発

(召集解除で軍役を終り帰郷する車中での出来事)

 

1ヵ月経って遂に待ちに待った上陸許可が出た。上陸した岸壁から宿舎になった兵舎までは、各自の荷物と共にトラックで移動した。トラックが街角で急カーブを切った時、高く満載された荷物の上に乗った将兵が数名路上に振り落とされた。かなりの高さからの転落である。幸い誰も一つのかすり傷も負わず、「けろっ」としてその車にかけ登った。道端で眺めていた町の人々は驚き「流石は兵隊さんだ」と驚いていた。私もその一人だったから良く憶えている。

宿舎ではクレゾール臭のぷんぷんする生ぬるい風呂に入れられた。風呂というより隊列を組んで向こう側までお湯の中をゆっくりと横断するように歩かされた。石鹸で洗う暇などない。終わると一人3分間ぐらいの間隔で次々とバリカンによる散髪が待っていた。

船中で配られた数葉のハガキを家に出していた私の場合、本籍地の役場から、ハガキで「一家は出征した時の住居から郷里に疎開し、その役場の近くに居る。連絡して置いた」との返事。宿舎では家からの手紙が届けられて居り、「皆無事、帰宅を待っている」との返事を受け取っていた。中には連絡が付かず、やきもきしている気の毒な人々も居た。

久里浜の宿舎には3〜4日居て、形ばかりの復員式と軍歴の書類作りが行われた。3ヵ月だか6ヵ月だか忘れたが、国鉄(当時は進駐軍の管理下にありRTOと呼ばれていた)の汽車の乗車賃は免除される証明書が全員に渡され、当座の費用としての「涙金」が出た。

宿舎から久里浜駅までの道には多くの屋台が軒を連ね、煙草・おでん・飴玉・ラムネなどを売っていた。その風景はこの歳になっても未だにハッキリ憶えている。米国の煙草を買おうとしたら「これば煙草じゃない。シガレットと言うんだ」と売るおばさんに教えられた。「洋モク」という言葉はずっと後になって知った。受け取った涙金は見る見る内に減っていった。

船中での人民裁判の「しこり」はまだ残っていた。私達が駅に着いたとき、数名の南瓜のような顔をした人が駅舎の隅に座っていた。彼らは昨夜兵からリンチを受け南瓜の顔は殴られてボコボコになっていたのである。酷い話だが宿舎の責任者も事態を制御することは出来なかったようだ。

何処でどう乗り換えたかは記憶は今では定かではないが、とにかく私は東海道線に乗り郷里の熊本に向かった。旅客の8割は普通の人々で、将兵は2割ぐらい乗っていたように記憶する。列車は総て超満員で、窓ガラスが無い処も多くベニヤ板で塞いであった。駅弁を買ったら海藻麺を塩辛い醤油で煮たものが入っていた。腰掛ける座席も無く、立った侭喰った。

静岡を過ぎた頃、私の体調が変になった。マラリヤだと自分ではハッキリ分かっていた。顔が赤くなり42度ぐらいの発熱である。広州に居た将兵は殆どが罹患の経験を持っている。熱帯に近い広東省は3日熱・4日熱・その混合型など数あるマラリア症状の中でも性が悪い。軍隊では塩酸キニーネや硫酸キニーネの錠剤は定期的に飲まされていた。

マラリアの発熱は体温が非常に高いが脳に来ることは無い。40度以上の発熱状態中でも将兵は馬に乗って行軍できる。2〜3時間で発熱が引くと、恐ろしい寒気がして後、けろっと治る。キニーネの錠剤を指示通り数日服用すると、次回の発熱は倍々と間隔が伸びる。私の場合は次回の発熱は3年後の筈であった。

「間の悪いときに出たな」とは思ったが、こればかりはどうしようも無い。錠剤は病歴のあるものは沢山用意されていて配給して貰っていたので、直ぐ服用し車内に立った侭我慢していた。旅客の一人が私の顔が赤いのに気付き、手を私の額に当て42度の高温に驚き直ぐ3人が座席を譲って呉れ、「横になりなさい」と言ってくれた。「座らせて貰うだけで良いのです。マラリアですから」と答え、座らせて貰った。皆の親切は嬉しかったが、マラリアを知らない人は「こんな高熱はただ事ではない。死ぬのではないか?」と心配したようだ。

郷里の家に着いたのは1946年6月下旬である。

(23 Nov. 1990 記)

( 完 )

 

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