Earthquake File

Earthquake

東日本大震災の体験録

2011年末まで次々と書き足します。

真道 重明

                       2011/03/11 〜 起筆

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序に換えて

「日本という国が国際戦に敗れて外国に占領され、GHQ の支配下に置かれる」と云う事態と、国土の東半分が「マグニチュード 9.0 と計測される超巨大地震に遭遇」した(これを書いている4月13日にも余震が頻繁にある) ことは、この国の歴史上の故事重要百選に記載されるべき程の何れも有史以来の未曾有の出来事であろう。

幸か不幸か、米寿を超えるまで生き残って居る私はその双方を体験する羽目に見舞われた。自宅のある東京都練馬区は震度5弱、2011/03/11、午后2時46分。(この震度は5強ないし6に再修正されたらしい。なお震央は三陸沖、北日本の最大震度は7.0.)

今年の4月11日以降から5月にかけての日本は寄ると触ると4月の巨大地震とそれに伴う巨大津波の話題になってしまう。Blog を見ると膨大な数の記事が見られる。人により状況や感想は「千差万別」である。この記事もその一つである。

なお、2011年3月11日に東日本を襲ったマグニチュード 9.0 の大地震を気象庁は「東北地方太平洋沖地震」と命名)、マスコミなどの多くは「東北関東大震災」とか「北日本関東大震災」と呼ぶ場合が多いようだが、1923年(大正12年)の「関東大震災」を思い出すので私には紛らわしく感じられる。そこで私は敢えて「東日本大震災」と呼ぶことにしている。

政府は書きかけ中にも公開して居たこのホームページの記事を見たからではあるまいが、約20日後の4月1日になって3月11日の災害の公式名称を私が主張する「東日本大震災と呼ぶことにした」と報じて居た。翌日のNHKは早速この名称を使い始め「我が意を得たり」と云うところだが、更に云えば「東日本超大震災」と云いたい処だ。

巨大地震とそれに伴う恐ろしい大津波、その大津波に破壊された原子力発電所、国難としか云いようがない。大局的に見て問題を少し甘く見ては居ないか? 鳴呼・・・。


MOKUJI2

 


 

目 次

  1. グラッと来た本震 (戦地での艦砲射撃を想起)
  2. 家族や友人の当日の行動 (帰巣本能?)
  3. 国内や国外の友人からの安否確認
  4. 沈着冷静な日本国民?
  5. 大きな余震 (1ヵ月後の大余震)
  6. 過去に経験した地震の記憶
  7. 津波の恐ろしさ (Tsunami は国際学術用語)
  8. Nuclear power station (原発は非常に厄介なものだ)
  9. 事態は未だ終息していない (序章は始まった。終章は何時か?)


 

 

 

 

 

 

 

 

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グラッと来た本震

011年3月11日に東日本を襲ったマグニチュード9の大地震を気象庁は「東北地方太平洋沖地震」と命名)、マスコミなどの多くは「東北関東大震災」とか「北日本関東大震災」と呼ぶ場合が多いようだが、1923年(大正12年)の「関東大震災」を思い出すので私には紛らわしく感じられる。そこで私は敢えて「東日本大震災」と呼ぶことにしている。

それは午後2時46分に突然やって来た。パソコンの作業中。逆さまに立てた団扇を前後に動かして扇ぐような恰好で大型の液晶モニターが激しく揺れ始めた。2秒ぐらいの間に「揺れ」が益々強くなる。「これは何時もとは違い少しヤバイぞー」と思い、とにかくパソコンの電源を正常なステップを踏んで落とそうとするのだが、大型液晶モニターが大揺れに揺れてマウスを思う個所に持って行けない。

3秒後(ぐらいと思うのだが)、椅子から立ち上がって中腰の侭、20年前に特注した目茶苦茶に重くて堅牢なラックの支柱に掴まりかけた瞬間、書棚の上に置いていた「文献ケース」や大型の書籍が音を立てて部屋中に散乱し始めた。ギ・ガタガタと家の軋む音がする。

数秒間、縦揺れと横揺れが続く。「もう一段強い激震が来たら家が崩壊するのではないか?これはひょっとすると大変なことになる」と思った。揺れは次第にゆっくりした横揺れに変わって数十秒続いたように記憶するが、無我夢中でラックの支柱に中腰の姿勢で掴まった侭・・・。揺れの継続時間は本当はよく分からない。ラジオを早速つけた。自宅のある練馬区は震度5弱と報じている。(この震度5弱は数日後再検討の結果、「震度5強」ないし「震度 6」 に改められた由、そう言えばマグニチュード 9.0 も最初は 8.8 だったのが修正された値である。震央は三陸沖、陸上最大地点の震度は7.0)。

少し収まったので二階の他の部屋や階下の様子を見に行きたいのだが、余震が20秒ごとに起る。ラヂオをつけ、取り敢えず頑丈な大型机の金属製の四つ足柱の傍に頭を置いて身体を横たえた。ラヂオが直ぐに警報を伝え、東北地方太平洋沖が震源で東北から関東の広域に亘る測候所始まって以来の最大規模の地震、マグニチュード8.8、(後で9.0に修正再計算された)であること、大型津波の発生の可能性を伝えている。

先日の阪神淡路大地震のマグニチュードが7.3、中国四川省の大地震のマグニチュードが7.8〜8.0 だから、対数表示である今回の8.8は前者を遥かに超える値で、通常の整数で云えば四川省の約60倍となる。勿論、明治以降に気象台が計測を始めて以来の最大値である。大机の足柱の傍に頭を横にした侭天井を見るような姿勢で「これは尋常な事ではない」と案外冷静に思った自分が居た。

部屋の散乱状態もさる事乍ら、階下がどうなっているか確認したいが余震が続けざまに起こるのでその侭の姿勢で暫く収まるのを待った。4〜5分位だっただろうか多少は余震の連続して起こる間隔も一応止まったように思えたので階下に降りてみた。

大型液晶テレビは前向きに倒れ、大型冷蔵庫は位置がずれ、二台ある小型冷蔵庫の上にある冷凍庫は床に落ちて転がっている。観音開きの食器棚は戸が半分開いて中の茶碗や皿類は掻き混ぜたようにゴチャゴチャしている。一人居る家内も満80歳、私同様に此れらを動かす腕力はなく、動かそうにもビクともしない。

電話は通じない。携帯も駄目。途方に暮れていると、親切にも二時間後に常に世話になっている工事屋さん夫妻が車で様子を見に来て呉れた。大助かり、「地獄に佛」とはこのことだ。難無くテレビを立て直し、冷凍庫は元の位置に納まった。二階のパソコンの設置されている部屋はFAXや機器類が床に落ちていたが元に戻して電源を入れたら「異常なく」作動した。パソコン関係機器類は位置がずれて居るだけで問題はなかった。ヤレヤレである。

三台ある大きな書棚は L 字形金具で固定、若しくは「突っ張り棒」で天井の梁と固定されて居たので倒れることはなかったが、中味は引っかき回したようになって居り、書棚の天板の上のファイル整理箱は総て床に落下していた。この十数年来、面倒臭くて積み上げていた「文書類を整理する良い機会だ」と思って少しずつ始めたが、4月に入ったというのに未だ二割も進んでいない。


当日の就寝時に野戦で経験した「艦砲射撃」に襲われたときの様子を思い出していた。気象部隊だったので勤務場所は飛行場が多かった。敵に一番狙われる場所だ。敵の爆撃機の編隊に襲われる時はレーダー(超旧式)で平常20分前ぐらいから来襲が予測できる。しかし艦砲は全くの不意打ちである。最大級の16インチ艦砲弾なら投下爆弾の1トン級の破壊力はある。

分厚いセメントで防御された「飛行場指令棟」でも命中すれば貫通する。4階建てで各階は数ヶの室に別れていたように記憶するが、或る部屋に命中すればその部屋は跡形も残らない。瓦礫のみが残る。隣接した部屋や隣接階がやられると部屋の中が地震と同じ有り様になる。違っているのは数秒間だけ(実際は一瞬だけ)だと言う点、地震特有の「縦横の揺れ」などが無い点、それと白塵が濛濛と部屋の中に立ち籠もると云う点である。

今回テレビで揺れ始めた時の部屋の中の人達の様子が幾度か放映されたが、皆中腰になって姿勢をやや低め、柱や机の脚に掴まって数秒間ジットして居る様子は何れも良く似ている。戦地の将兵も今回のテレビ局の従業員も似たような状況であり、従って「伸るか反るか?」、「もう一段強く揺れたらお仕舞いだろう。さてどうなるか?」と云った比較的単純な心理状態に居るのかも知れない。

「取り乱す」、「狼狽える」などと言った心境にはない。

 

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friends'memory

家族や友人の当日の行動

 

新宿に勤めて居る息子は電車が不通となり夜通し徒歩で町田市の自宅には「夜明け頃に帰った」と云う。青山に勤めて居る娘はヒッチハイク式の方法で池袋経由で、これまた夜半に帰宅した。

テレビやラヂオでは「職場か指定避難場所に泊まれ、都内の大通りは停電で暗く二次被害が起こる危険がある」と繰り返し警告していた。動物には帰趨本能というものがあるという。この場合は帰巣本能だ。都内の大通りを浅草寺の仲店のような賑わいで真っ暗闇の広い道を群集が黙々と歩いている様は実に異様な状況であったと皆が言う云う。

下記は畏友(日本を良く知り日本語に堪能な人(北京出身)が日本語で書いた記録である。(冒頭に人により状況や感想は「千差万別」・・・とかいたが、これも興味があり考えさせられるものの一つれだと思う)。

Madam J.L. Yang の大震災(3月11日)の体験

初揺れ始めた時、隣の K さんが「やばい、これはやばい」と叫ぶ、「落ち着いてよ」と私が諫めると「そうだね、パニックになるから」。しかし、次第にとんでもない強い揺れが始まった、立って居られない、体が震える、建物が音を立てながら30度(仕切り壁を規準にした私の推定値)以上揺れて、机にあるドライバーやプリンター、モニターなどが床面に転がって、ファイルが散乱して、落ちる。

2分以上続いた。どうなる、建物が壊れる、どのような壊れ方をするのか? これで命が終わりになるの? そのとき、揺れが止まった。(今は余震があると直ぐ眩暈がする) その後、度々余震がある、仕事が続けられない、これからのことを直ぐ考えた。まずは現金を5万円浅草橋の三菱UFJに行き、引き出して、飲料水とチョコレート、パンを買った。もう一度事務所に帰って、メールを確認、業務連絡や娘のメールに返事して居ると、また余震で揺れ始める。早く帰ろうと決めた。時刻は16時52分。

それからどう帰ろうかと思った。、電車は止まっている、タクシーは高い。「近くまでバスで行って、そこからタクシーにする」と決めた、営業部の C さんと雷門手前のバス停まで行って、二時間ほどバスを待った、それからニ時間で9時ごろ北千住についた、足立区役所でトイレを済ませて、タクシーを拾おうとしたが、まったく見込みが無い、風が寒い、交差点まで行ったら、丁度北千住までのバスが目の前にあった、急いでこれに乗った。

更に1時間ぐらいで、北千住に着いた、10時過ぎだ。JR駅のシャッターが降ろされている、駅員が「今晩は電車は運行しません」と知らせを貼るところを見た。駅前には何百人の列がある、確認したら、やっばり皆がタクシーを待っている。この人たちは「馬鹿馬鹿しい」と思った。

タクシーを待てない。寒い、寒い。ホテルに泊まろう、頭を上げたら、「ホテル」のネオンが目に入った、ホテルの玄関口に着いたら、満員の看板が玄関に立っている。図々しくドアーを開けて入った。ホテルの女の子に、「中に入ってそこの椅子をお借りして良いですか」と訊ねると「いいよ」「何時までも良いですか」「何時までも良いですよ、奥にも席があります。」ととてもご親切だ。

それで入ってみたら、奥の食堂に十数名の人が座って、大きな液晶TVを見ている、席がまだ幾つ空いている。急いで近くのSEVEN・ELEVENでおでんとお茶を買って、ホテルに戻った。先ほど買ったものは既にバスの中で食べてしまって居た。

これからは翌朝の話。エクスプレスが開通する11時まで、ホテルのロビーでTVをみたり、眠ったりした。首や腰が痛いので、長く眠れない。朝6時ぐらい、ホテルが親切で朝食を配った、ソーセージ、おにぎり、沢庵、味噌汁、全部無償提供、家の朝食より贅沢。これだけではなく、一晩飲料マシンを無料提供、コーヒー三種類、スープ三種類、お茶三種類、トイレが嫌いから、飲まなかった。

11時20分の一番の電車で八潮についたら、やはりまずはタクシー、しかし、タクシの影もない。交番に聞くと、家まで50キロある、6号線沿いで行ける。でも警察は薦めない、理由は「寒くて、遠い。電車が開通するまで待ってたほうが良い」とアドバイスしてくれた。ただ、何時開通かさっぱり分からない。

家まで歩いてかえる覚悟で6号線に向かって、歩く。タクシーを見たら、兎に角手を上げてみる。運よく二番目のタクシーが止めてくれた。 運転手が道順を知らないと言っていたが、「大丈夫、6号線なら着きます。近くに行ったら、家の高いマンションが見えるから」。高速が封鎖されたため、6号線が大変渋滞、運転手が曲がり道を走った。14時30分自宅に着いた。

運転手さんがこれは「マンション」ではなく、「オクション」だと云う。帰宅中、娘やお父さんからの電話があった。小春日和の閑静な農家の町を通って、庭付きの和風建物、梅、桜など花が咲いている風景を見ながら、頭に11時間も見続けた無残な地震の映像とはどうしても違和感が強くて、別の世に居た気持ちだ。

私は本当に運のよい人間だと思う。降りたとき、余分にチップとして1000円を運転手さんに上げた。道路を渡ってからも運転手さんが後ろから、頭を出して、大きな声で「有り難う」と感謝してくれた。こちらが寧ろ「あり難たかった」のだ。次に乗りたい男性が居たが、運転手が断った、お腹が空いて居たのだろう。

マンションについたら、その日の午後奥さん達の「お喋り会」があるので、3時までまだ少し遣っている仕事をしてから顔を出した。同じ三階の S さんが舞踊会参加のために池袋の何処かで一晩、ホテルのトイレも借りれなかったらしい。

家はなんでもなかった。 ピアノにある40センチほどの人形は安泰だった。裾が広がったからだろう。 小さい人形のほうが転がったが、無事だった。 食器棚の二つの引きだしが地震のために揺れで空になっていた。損害はゼロだった。

夕べ6級の余震の時、家に居たが。 揺れは余り感じなかった。頑丈なマンションらしい。

---END---

 

暫くたった現在では街路の溢れる「帰宅難民」と呼ばれるようだ。

 

T.T.さん(♀、47歳)の場合

 

宿から歩き始めて四ッ谷あたりで人が増え、飯田橋、水道橋、では舗道で人と人とがぶつかり合いそうなぐらい。それでも皆は黙々と人の間を抜けながら誰も文句を言うこともなく進んでいました。ベビーカーを押す若いママや、杖をついて歩く方の廻りでは速度を落とし、スペースを空ける流れが自然とできていました。「誰もが自分の大切なものに向かって一目散に歩いている」と思うと「がんばろう」という勇気がわいてきました。午後5時から歩き始め10時に葛飾区の自宅にヤット着くなり、娘を抱きしめました。(朝日新聞、4月9日夕刊より)。

---END---


此の T.T.さんのケースが平均的な日本人の例かも知れない。「黙々と・・・」、「誰も文句を言うこともなく・・・」は外国人には思議な光景なのかも知れない。外電の多くは日本人の黙って耐えることに驚いている。

 

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Letters&e-mails

国内や国外の友人からの安否
の問い合わせのメールや電話

 

否の問い合わせはが国内からは夜になってから電話によるものが多かった。メールも少しは有った。その中には顔を知らない「メル友」が2通あったが,やはり受け取ると嬉しい。

下記は11日の翌日以降に受け取った海外からのメールの例である。(原文での名前はフルネームであるが、私が privacy を考慮して略名にした。下にその例を掲げた。最初は安否の問い合わせ、次は当方からの All my family members are O.K. の通知に対する返事。

 

ニューヨーク大学出身の東洋美術専攻の友人(♀)

Saturday, 12 March 2011

Dear Dr. Shindo,
Subject: Earthquake and Tsunami

We are very perturbed to hear about the devastating earthquake and tsunami that impacted Northern Honshu. We have friends in Sendai, badly hit.We hope you and yours are fine.
Please contact us via e-mail at:
 (E-mail address was leave out by shindo).

All the best!
                                         M.K in Thailand


16 March 2011

Dear Dr. Shindo,

 We are much relieved to hear that you and your family are O.K. We also received an email from our friends in Sendai (in Miyaki prefecture that was hard  hit) and they are O.K. as well, but finding it difficult to buy any  food of good quality and drinking water. But at least they managed to  live through the tsunami experience and that is the first step!

They  are 100 miles away from the nuclear explosions.

 Here in Thailand we are contributing to the collection to send Thai  assistance to the tsunami victims. If you know of other ways we can  help, please let us know.
 Many, many people around the world are praying for the speedy recovery  of the people of Japan. You are not alone!

Take care!

                                         M.K in Thailand


 

SEAFDECの調査部局長(MFRD ChiefOB (♂)からのメール

1st. mail  11 Mar. 2011

Dear Dr Shindo

How are you?

I hope you are well.

Japan has featured in the news, and I do hope you and your family are not affected.

Please let me know.

Best wishes.

                               HK K in Singapore.


2nd. mail 19 Mar 2011

Dear Dr Shindo

I feel so happy to hear your news. It was such a severe earthquake that we are updated throughout the day of the rescue work.

I hear from the news this morning that the nuclear power station most affected may come under control soon, and I hope that this will be so by tomorrow.

As I have lost my old address book, I am unable to contact my colleagues in SEAFDEC.

Should you contact them please let them know that I am thinking of them and their families.

Please keep in touch.

With best wishes.

                               HK K in Singapore.


3rd mail .23 Mar 2011

Thank you. Many of us admire the "50 heroes".

There could be a thousand of them by now.

I do hope these numbers will be kept low.

Best wishes.

                                    HK K in Singapore.


上記 M.A. のメールの You are not alone! は励ましの言葉だろう。「私達はあなた方と常に共にある」という言葉も良く最後に添えられている。これは「見捨てはしない」という気持ちを言外に云っているのだと思う。

"50 heroes" (50人の英雄):米紙ニューヨーク・タイムズ電子版が15日、「無名の作業員が50人残っている」とする記事を東京発で載せ,米ABCテレビも「福島の英雄50人:自発的に危険を冒して残った原発作業員」と報道し、オバマ米大統領は17日の声明で「日本の作業員らの英雄的な努力」と讃え、世界的な話となった。

日本のメデアは此れらの外電については触れているが、この「50人の話」には全く触れていない。4月3日の朝の民放を聴いてその訳を知った。実際は特定の50人ではなく約200人弱の作業員が交代しながら事に当たった。驚いたことに彼等には食事として「オニギリ一個」しか与えられていなかったらしい。線量計も数が足らず各人に与えられては居なかったと云うから、会社は避難を恐れて故意に黙していたと疑われても仕方がなかろう。

また、上記 HK Kのメールに「原子力発電所の処置が間も無く終わることを期待する」とあるが、未だに処理の道筋が見えない(4月1日現在)。

 

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TintyakuReisei

沈着冷静な日本国民?

 

 

花岡 信昭氏が《日本人の倫理観を見た》と題して、[頂門の一針、2211号、2011・3・15(火)]に下記の文章を記述されて居る。

悲惨な巨大地震だが、略奪やトラブルがまったくといっていいほど、見られないことが救いだ。ほかの多くの国ではこんなことはない。東北特有の人間関係、地域コミュニティーが残っているということか。人生最大の苦難にじっと耐え、ともに被災してきた人たちを思いやる言動がテレビで次々に出てくる。役所に居丈高に要求するのではなく、この事態をともに乗り切ろうとする気持ちが伝わってくる。

韓国紙も日本人の倫理観の高さを伝えている。
※「中央日報」11/03/14

<東日本大地震>「日本はある」…惨事でも配慮忘れぬ文化に世界が驚いた。
(1)待避所の譲歩 うどん10食、50人が「お先にどうぞ」
(2)人のせいにしない 恨んだり抗議する姿はテレビで見られず
(3)災害で手を取り合う 議員ら政争中断、作業服着て現場へ
(4)落ち着き冷静 日本全域で略奪報告1件もない
(5)他人をまず考える 「自分が泣けばもっと大きな被害者に迷惑
かかる」

マグニチュード9.0の大地震と10メートルを越える津波が東日本を襲った後の11日午後6時、秋田県秋田市のグランティア秋田ホテル。停電で暗黒に変わったホテルのロビーでは奇異な場面が演出された。ホテル側が、「電気が来るまで宿泊客を受け入れられない」と案内すると、すぐにロビーに集まっていた宿泊予約客50人余りが静かに列を作り始めた。誰も何も言わないのに老弱者らを前に入れた。暗黒の中に一筋の列ができた。順番を争う姿は一切なかった。

しばらくしてホテル側が、「停電で夕食を提供できない」として緊急用にうどん10皿を持ってきた時だ。うどんに向かって駆け寄るどころか、誰もが他の客の空腹を心配して後に後にうどんを回す“譲歩のリレー”が続いた。被害が最も大きかった宮城県・岩手県をはじめ、日本全域で人のない商店で略奪行為があったというニュースはまだ1件もない。

集落の大部分が消え、火災で黒く燃えた森の跡だけが残っている。津波で陸地に打ち上げられた船舶は船尾を空に向け逆さまに地面に打ち込まれている。今回の地震で最大被害地域のここでは、“行方不明者1万人”といううわさまで出回る。しかし大声や怨みの声は聞こえない。避難所に集まった100人余りの住民らは日本のメディアとのインタビューでも低い声で、「早く復旧するよう願うだけ」としながら“明日”を話す。

誰のせいにもしない。足りない水と毛布を分け合ってお互いを慰める感動的な場面が電波に乗っている。日本赤十字社組織推進部の白田課長は13日、「個人と企業から寄付と救護物資が殺到している」と話した。政府に向かっていつも吠えていた野党議員らも作業服に着替え国を救うために裸足で出てきた。危機の際に手を取り合う共同体意識は日本社会の底力だ。

○韓国で災害報道をする時に犠牲者を取材するのは普通だ。

遺体が安置された葬儀室と病院の姿が時々刻々と現れる。しかし日本の大地震報道で日本メディアは違った。津波で家屋と車両が押し流される場面がテレビにしばしば映るが、どのチャンネルでも津波に巻きこまれる人の姿は見られない。

“死んだ人もこの世に残る”という日本人特有の死生観のためだが、泣き叫んだりしくしく泣く姿もなかなか画面で見るのは難しい。テレビ朝日のある関係者は、「災害予防のための目的の他には一般市民に大きな衝撃を与える場面は最大限控えるというのが災害報道の暗黙的ルール」と話した。

11日に地震が発生した後、津波警報が解除された13日明け方まで、すべてのテレビ番組の司会者はヘルメットをかぶっていた。このように地震の規模や被害の規模とは異なり、日本は恐ろしいほどに冷静で落ち着いていた。理由があった。例えば東京副都心の新宿に位置した四谷交差点にある消防署。12階建ての建物の10階の外壁には目立つ線が引かれている。この線は地上から高さ30メートルを知らせる表示だ。

そのそばには、「この高さは1993年の北海道南西部地震で奥尻島を襲った津波の高さ」という説明がついている。津波というものはいつでも自分に起こりうる問題だということを認識させ、普段の準備が必須ということを知らせるためだ。

日本人は粘り強く一貫した災害対処教育を幼稚園の時から受ける。机の横のフックにはいつも災害に備えて頭にかぶる防災ずきんがかけられている。地震が発生すれば「防災ずきん着用→机の下に待避→運動場に待避→秩序確保」まで目を閉じてもできるほどだ。

徹底した災害予防教育は小学校入学後に初めての授業で習う「迷惑をかけるな」という日本固有の精神価値とともに、大型災害に落ち着いて対応するようにする秘訣だ。ここには自身に訪れた境遇を宿命として受け入れる日本人の特性も作用する。災害にあった日本人が泣き叫ぶことがほとんどないのも、「自分がそうした行動をすれば自分よりも大きな被害にあった人たちに迷惑になる」という極度の配慮精神のためだ。災害現場で見た日本の姿。それは「日本はある」だった。
※「東亜日報」11/03/14

号泣も、買い占めも、略奪もなく…日本大地震、市民は冷静だった。大地震が日本列島を直撃した11日午後2時46分、東京都世田谷区のある大型ディスカウントショップ。カートを使って平穏にショッピングを楽しんでいた在日韓国人の李某氏(44)は、建物が崩れるかと思うほどのひどい揺れが起き、反射的に頭をかばって姿勢を低くした。カートがあちこち転げまわり、陳列台の商品が下に落ちた。数百人の買い物客は、青ざめた表情だった。「異国の地でこのように死ぬのか」と頭の中が真っ白になったが、しばらくして揺れが落ち着いた。

買い物客や店員は急いで建物の外に出た。李氏も、カートを残して非常口から外にた。落ち着きを取り戻し、李氏は思った。「これが日本が先進国ということか」。大地震が襲っても、誰一人大声を出したり泣きわめいたりしなかった。「地震の騒音」けだった。驚くことは、ディスカウントショップの商品を持ち出す人が一人もいなかったという点だ。

買い物客は皆、買い物かごの商品を元の場所に戻し、建物を出た。大地震や大火事が発生すれば、犯罪や略奪、無秩序が横行するという話は少なくとも日本では「遠い国の話」だった。12日午前、このディスカウントショップが開店したが、買い物客が普段より2倍程増えただけで、買い占めや割り込みをする人は見当たらなかった。

近くの大手デパートの食料品売り場も事情は同じだった。普段より多くの人が訪れたため混雑したが、山のように食料品を買い込む人は見られなかった。客はむしろ普段より静かで、店員はいつものように親切だった。東京の公共交通機関の象徴である地下鉄での様子も、沈着そのものだった。大地震が襲った11日午後、地下鉄が運転を見合わせたため帰宅できない人が集まったが、緊急状況を理解して協力した。

「交通機関で帰宅することはできないので、運転が再開されるまで安全な会社の建物にいてください」という当局の放送案内や会社内のアナウンスに従って、多くの人がオフィスで待機した。家が近い人は歩いて帰宅した。地下鉄は夜遅く再開されたが、停電のため、車内は真っ暗だった。NHK放送の映像に映った乗客は、真っ暗な電車の中で静かに目をとじて待っていた。いら立ったり、抗議をする人はいなかった。当局は、オフィスで冷静に待機した市民が帰宅できるように未明まで地下鉄の運行を延長した。

早くも落ち着きを取り戻した東京の休日は、見た目には平和だった。多くの市民は自宅でテレビを見て、政府とメディアが提供する情報に耳を傾けた。
※ 「中央日報」11/03/14.

【社説】大災難より強い日本人

全世界が日本の大地震に2度の衝撃を受けている。 まずマグニチュード9.0の超強力地震がもたらした残酷な被害だ。 巨大な津波で約2000人が死亡し、1万人以上が行方不明となった。宮城県のある村は住民の半分が行方不明になったという。

原発も心配だ。 日本政府は福島原発周辺の住民21万人を疎開させ、海水で原子炉を冷却する非常措置に入った。不純物の混入で原子炉を事実上廃棄する劇薬処方だ。 日本列島が連日、地震、津波、原発危機に呻吟しているのだ。

もっと驚くのは不思議なほど冷静な日本人だ。 死の恐怖の中でも動揺しない。 避難要員に従って次々と被害現場を抜け出し、小学生も教師の引率で列を乱さず安全な場所に移動した。

地下鉄・バスの運行が中断すると、会社員は会社から支給された緊急救護物品をかついだまま静かに家に帰った。 みんな走ることもなく3−4時間ほど歩いた。 翌日はいつも通り会社に出勤した。想像を超越した大災難と日本人の沈着な対応に全世界が衝撃を受けている。

私たちは大規模な自然災害が過ぎた後に発生する数多くの無秩序と混乱を目撃してきた。 昨年22万人が犠牲になったハイチ地震がその代表例だ。 「地震よりも無法天地の略奪と暴力がもっと怖い」という声が出てきたほどだ。ハイチが開発途上国だからというわけではない。 05年にハリケーン「カトリーナ」が襲った米国のニューオーリンズでも暴力と腐敗が相次いだ。

こうした記憶のため、日本人の冷静さがよりいっそう引き立って見えるのかもしれない。 惨状を前に泣き叫ぶ日本人はほとんど見られない。 地震の混乱に紛れて強盗や殺人事件が起きたという話も聞こえてこない。テレビの画面は、列に並んで救護食品を受け取ったり、売店の前で静かに待った後、必要な分だけ購入していく風景ばかりだ。

ただ地震が頻発する日本の地理的特殊性だけでは、こうした現象をすべて説明することはできない。 徹底した耐震設計と速い警報システムが被害を減らしたのは事実だ。徹底した事前教育と避難訓練も間違いなく力になっている。 一つの国の真面目も大事件を迎えてこそ表れる。 それがまさに国民性だ。 全身が凍りつくような恐怖の前で、日本人は落ち着いた国民性を遺憾なく発揮している。

1995年の阪神・淡路大地震当時、意外にも20%ほど円高が進んだ。 日本の国民性を誤って判断した海外投資家は痛い目にあった。 最近の円高も国際金融市場が災難の前で団結する独特の国民性を看破したためだ。

日本人は沈着な対処で阪神・淡路大地震を乗り越えて自ら立ち上がった。今回の大地震の傷もいつか治癒されるものと信じる。 むしろ私たちは日本を見て、韓国社会の自画像を頭に浮かべる。災難現場でテレビカメラが向けられれば、表情を変えて激しく泣き叫ぶことはなかったか。 天災地変のため飛行機が少し延着しただけで、一斉に大声で文句を言うことはなかったか。

すべての責任を無条件に政府のせいにして大騒ぎしたことはなかったか。隣国の痛みは考えず、韓国に生じる反射利益を計算したことはなかったか…。

私たちは自らに厳しく問う必要がある。 また災難と危機の際、韓国社会の節制できない思考と対応方式を見直す契機にしなければならない。私たちは依然として日本から学ぶべきことが多く、先進国へと進む道のりも遠い。★★花岡信昭メールマガジン905号【2011・3・15】★★


頂門の一針の同号には古森 義久氏が下記の文を書いて居られる。

天災への日本人の身の処し方

東日本大震災の惨禍はますます規模が広がっています。というよりも損害の激しさが判明しているというほうが正確でしょう。

こうした天災へのわが日本国民の対応のしかたがアメリカのメディアから驚きに近い賞賛の評価を得ていることはすでに書きました。その際に16年前の阪神淡路大震災でも日本人の冷静な対応へのアメリカ側のいぶかり、驚き、礼賛などがあったことをちらりと触れました。

ところが産経新聞3月14日朝刊一面のコラム「産経抄」が私のその点での体験についてちらりと書いていることに気づきました。当時も阪神の被災者の方々が未曾有の大災害に対し、取り乱さず、粛々と、処していたことがアメリカのジャーナリストたちの関心をしっかりととらえたのでした。

その点を当時、ワシントンにいた私がCNNのニュース番組に招かれ、質問されたのです。私に質問を浴びせてきたのはジュディ・ウッドロフという女性記者でした。いままた日本人のその特性がアメリカで話題となりました。ただし今回の大震災では一部には商店からの盗みなどという行為も起きてはいるようです。でもそれはあくまで例外的な少数ケースでしょう。

阪神大震災が起こったとき、米国に滞在していた。故郷、神戸の炎上を映し出すテレビ画面を、ただ惚(ほう)けたように見つめていた記憶がある。CNNテレビに、小紙ワシントン総局の古森義久記者が招かれ、キャスターの質問に答えていた。

▼「なぜ、日本人はこれほどの惨事のなかで、暴動も略奪もなく、冷静沈着に行動できるのですか」。古森記者がどのように説明したのか、忘れてしまった。小欄なら、「日本人だから」としか、答えようがない。

▼マグニチュード9・0という世界最大級の東日本大震災に見舞われた日本に、世界の耳目が再び集まっている。ある中国紙は、「多くの中国人が、地震発生後の日本人の秩序ある行動に敬服している」と伝えたという。

▼一方で、福島第1原発の爆発には、一様に衝撃を受けたもようだ。各国のメディアは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や米スリーマイル島原発事故を引き 合いに出して、報じている。東京電力は、廃炉も覚悟の上で、海水を満たす非常手段に踏み切った。世界最高水準の日本の原子力技術が、事故による放射能漏れ を最小限に抑える面でも、発揮されることを期待したい。

▼ただ政府の対応ははなはだ心もとない。爆発の事実を発表したのは、2時間以上たってからだった。退避指示の範囲を徐々に広げるのは、かえって周辺住民 の不安を募らせるばかりだ。12日朝の菅直人首相の現地視察が、現場の作業を遅らせた原因のひとつとすれば、何をか言わんや、である。

▼有史以来、地球上で起きた大地震の2割が、日本列島を襲ったといわれる。日本人は過酷な宿命を受け入れつつも、立ち向かってきた。その真価が試されている。
2011.03.15 Tuesday name : kajikablog


なお同氏は頂門の一針、2210号  11・3・14(月)に《大震災でも日本国民は秩序や礼節を保つ》として下記の文を記載して居られる。

こんな混乱でも惨状でも日本人は冷静や礼節を失わない。略奪や暴動などツユほども気配がない。アメリカ側でそんな賞賛の言葉が出てきました。

〔ワシントン=古森義久〕東日本大震災に対し米国のメディアでは12日、日本国民が大惨状に直面しながらも平静を失わず、相互に助け合うという状況への前向きな評価の論評が目立った。同時に米側専門家たちの日本の建築面での地震対策への礼賛も報道された。

被災者となった日本の人びとの態度についてはCNNテレビが12日夜、米側のアンカーのウルフ・ブリッツアー記者と仙台地区にいるキュン・ラー記者とのやりとりで詳しく報じた。ブリッツアー記者の「被災者は商店を略奪したり、暴動を起こしたりという暴力行為には走らないのか」という質問に対し、ラー記者は「住民たちは冷静で自助努力と他者との調和を保ちながらけ礼儀をも守っている」と報告した。とくに略奪について同記者は「そんな動きはショックを受るほど皆無で、正直な志向が顕著だ」と述べた。

こうした質問は米国では2005年8月にハリケーン「カトリーナ」がルイジアナ州を襲った際、住民しの多くが避難したニューオルリーンズ市で残った人たちの一部が商店街から軒並みに略奪た実例などがあるため、提起されたといえる。

CNNでは東京のいるイギリスのエコノミスト誌のケネス・カキー記者の「日本の被災者の間では社会的調和の保持が目立った」という言葉も報じた。米国大手紙ウォールストリート・ジャーナルも12日付の東京発の記事で「東京都民はストイックな冷静さを保っていた」と報道した。一方、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト両紙は同日付でそれぞれ日本の耐震、免震の建築技術の優秀さが東京など都市部のビル崩壊などを防いだという趣旨の記事を掲載した。

両記事地はカリフォルニア大学のジャック・メール教授の「日本が阪神大震災以後、進めてきた震地の揺れを吸収する建築技術が今回、ビル倒壊を防いだ」という評価や「オーストラリアの震学た結センターのケビン・マキュー所長の「日本は建築面で破壊的な大地震に長年、備えてき果、いまでは世界でも最高の地震に強い建造物を構築した」という論評を載せた。

ツイ先年のアメリカのハリケーンによる被害の報道が連日されて居たが、一部では商店の略奪も行われているとのニュースは記憶に新しい。何もアメリカに限らず災害後の混乱に乗じて暴動やデモが発生する国は多い。

しかし、今度の巨大地震に就いての各国からの記事とコメントが早速その翌日、翌々日には入電して居るが。その殆どが「日本人は沈着かつ冷静で、日本社会の落着きに驚き賞賛している。以下にその数例を掲げる。私もそれらの主旨には同意したい。だが後述するように昔から日本社会はそうだったのだろうか?

なかには「日本の国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」。3.11東日本大震災での被災者の行動を見ると、日本人のDNAは今でも健在だなあと誇りに思う。(スウェーデンの学者、江戸中期の1775(安永4)年に来日したツュンベリーの記述。平井 修一、頂門の一針 2240号  11・4・23(土)より)・・・と云った日本人DNA論まである。

以下にこの巨大地震の翌日や翌々日の外国の速報を掲げた。

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中国、日本人の冷静さを絶賛 「マナー世界一」の声も (2011/0.3/.12)

地震の影響で列車が運休し、JR新橋駅の構内で階段に座り込む通勤客ら=11日午後6時39分。

地震多発国で東日本大震災への関心が高い中国では12日、非常事態にもかかわらず日本人は「冷静で礼儀正しい」と絶賛する声がインターネットの書き込みなどに相次いでいる。短文投稿サイト「ツイッター」の中国版「微博」では、ビルの中で足止めされた通勤客が階段で、通行の妨げにならないよう両脇に座り、中央に通路を確保している写真が11日夜、投稿された。

「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。

この「つぶやき」は7万回以上も転載。「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。(共同)

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英紙が1面で日の丸に「がんばれ、東北」。 (2011/0.3/.13)

1面トップで日本に応援メッセージを送った13日付の英紙インディペンデント・オン・サンデー(共同)

13日付の英紙インディペンデント・オン・サンデーは1面トップで日の丸の赤い円の中に「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と日本語で大見出しを掲げ、東日本大震災の被災地に応援メッセージを送った。

脇見出しで同じ意味の英語を記し、「死者は少なくとも1700人、経済は大打撃、原発では爆発。だが日本は津波の被害から立ち上がろうと闘っている」と報じた。

ほかの各紙もほとんどが2日連続して1面トップで震災を報道。津波被害や救助の様子などの大きな写真付きで「消えた町」(メール・オン・サンデー)「死者1万人の恐れ」(オブザーバー)などと伝えた。(共同)

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怒号もけんかもない 「強い国」と越(ベトナム)メディア」 (2011/0.3/.13)

「怒鳴り合いもけんかもない」「本当に強い国だけがこうした対応ができる」。ベトナムのメディアは、東日本大震災での日本人の冷静な対応ぶりを、在日ベトナム人らが驚き称賛する声を伝えた。

「防災訓練を受けていても怖いはずなのに、誰もパニックに陥る人はいない。自分の仕事に集中し、連絡を取り合っていた」。日本で働くある女性はインターネット新聞に「われわれが学ぶべき多くのことが分かった」と語った。

ある留学生は、長い列をつくってバスや公衆電話を我慢強く待つ光景などを挙げ「皆が冷静に秩序だって行動していた」と称賛。別の留学生は、教師が子どもたちを誘導する姿など、行政当局者から民間人までの素早い対応ぶりに驚いたという。

さらに「こうした強さゆえに、日本人は世界で最も厳しい条件の国土で生き抜き、米国に並ぶ経済レベルを達成できたのだ」とたたえる声も伝えられた。(共同)

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「日本には人間の連帯が今も存在している」 タス通信東京支局長 2011/0.3/.13 )

ロシアの独立系紙ノーバヤ・ガゼータ(電子版)は13日までに、東日本大震災の甚大な被害にもかかわらず日本人が社会的秩序を失わず、互いに助け合う姿を「日本には最も困難な試練に立ち向かうことを可能にする『人間の連帯』が今も存在している」と称賛するゴロブニン・タス通信東京支局長の記事を掲載した。

ゴロブニン支局長は、震災を「第2次大戦直後の困難にも匹敵する」大災害だとしつつ、「重要なのは、ほかの国ならこうした状況下で簡単に起こり得る混乱や暴力、略奪などの報道がいまだに一件もないことだ」と指摘。

震災当日の11日、公共交通が止まってサラリーマンが帰宅の足を奪われた東京でも「人々は互いに助け合っていた。レストランや商店はペットボトル入りの飲料水を無料で提供し、トイレを開放した」と驚きをもって伝えた。(共同)

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日本人社会は災害に直面しても「沈着冷静にそれに耐え、混乱に乗じて略奪・暴動などは起こらず、これは奇跡に近い」と云うが、本当だろうか?平安時代などの「絵巻物」などを見ると、飢饉や戦乱で家を失い、「泣き叫ぶもの」、「略奪を擅にするもの」などが如実に描かれている。

上記の世界の各国が賞賛して居るのは確かに私も事実だと思うが、近代の日本人が感情を表現する際、「出来るだけ他人に直接に示すことを避け、黙して耐えることが多い」と云われるが、そのためだろうか?「地や床を叩いて慟哭する」と云った状況を私は偶々外国で数回この目で見たが、日本では見たことがない。一人隠れて泣いても人前では見せないようだ。

それとも平安朝以前は「絵巻物」にあるように「他人が見ていようと居まい」と構わずに態度で示していたのが、その後、教育?によって「冷静沈着を装い、黙して語らない」ため外国人から一層強い驚きの目を持ってみられるのか?

今回、某氏は「我々は大和心、大和魂、さらには武士道の誇るべき伝統、DNAがある。自信と希望をもって大地震の難局に臨もう」と云っている。私には「大和魂による励ましであることは分かる」が私には大和魂とDNA論は考えたことがないので良く分からない。

しかし大災害直後の各国の反応は冷静な日本を讃える言葉に満ちている。そして私も彼等がそう思う事は良く分かる。何故そうなのか?

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本震から一ヶ月経った今では、外電の多くは「日本人の冷静さ」よりも、「日本政府・原発会社の情報公開に具体的な証拠が欠如している」と云った非難が多くなっている。また、「問題を甘く見ているのではないか」と云う指摘も増えている(4月22日)。

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Yosin

1ヵ月後に来た大余震

本項を始めから読みたい人は此処をクリック

記の「艦砲射撃」を書いている最中( 2011年4月7日深夜)に「宮城県沖で大きな余震があった」とラヂオやテレビが報じた。11時32分、マグニチュード7.4,震度6強、約1分半ぐらいの間継続、津波警報発令、一部地方には避難勧告発令、(但し、約一時間半後には警報勧告ともに解除)。3月11日の本震に次ぐ強い揺れで東京の自宅二階のモニターの揺れも約20日前の本震と同程度で大きかった。

気象庁の話では、「本震が大きければ大きいだけ余震の規模も大きく、発生頻度も多い」と云う。気象庁では「数日以内にマグニチュード7級程度の強い余震の発生する確立は7割」と云っていたがその通りとなった。

実は本震後の大余震としては三番目なのだそうである。第2回・第3回の第余震は本震に引き続いて発生し、一般の人は本震のショックと津波情報対応で混乱し、本震との区別が付かなかったのだそうだ。

地震のエネルギーを示すマグニチュードでは3位だそうだが、震度に関しては余震中最も大きく中国四川省並みであったという。それにも係わらず死者2名、負傷者2百名以下というのは日本家屋の耐震力が著しく強くできているからだろうか?それとも3・11の本震で壊れるものは壊れ、それに耐え残ったものだけだったためだろうか?。北日本各新幹線も脱線はなかったという。

この4月7日の大余震では宮城では棚からものが床に落ちたそうだが、東京では、少なくも自宅ではものは落下しなかった。しかしモニターなどは大きく揺れ、その状況は本震と変わらないように感じた。今後何時までこの様な大余震が続くのだろうか?

【今此処を書いている最中にパソコンのモニターが揺れ始めた。ラヂオは宮城、マグニチュードは4.8と報じている。この程度の小余震は今朝も在った。「余震慣れ」と地震でもないのに「地震が起こったような錯覚の眩暈現象」が多くの人々の胸中に併存して居る】。(4月11日、午后1時58分)。

上記を書いてパソコンの電源を落とし階下に降りた。テレビを着けた途端「緊急地震速報」の警報が聞こえ、2秒後に揺れ出したのには驚いた。「たいした揺れではなかった」とは云うものの、テレビは大揺れ、冷蔵庫が滑り落ちるか否か心配した。午后5時を挟んで2回。何れも震度4.0以上、(最大6.0弱)、宮城沖。

3月11日以降、震度4以上の余震は100回を超えるという。繰り返すが、今後何時までこの様な大余震が続くのだろうか?2〜3年という学者もあり、また10年ぐらいは余震は続くという学者もある・・・と云った具合だ(4月15日NHKテレビ)。

余震もそうだが、私が今回驚いたものの一つに地震に関するマグネチュ−ドや震度と云った単位が国によってバラバラだと云うこと、従って相互比較が面倒だと云うことである。此れは次に触れる原発に関する場合にもあるのだが、「世界共通単位で表示」とは行かないようだ。それにはそれなりの理由があるのだろうが・・・。

マスコミの多く(特にテレビ各局)が報ずる「政府見解」やテレビなどの「特集番組」などは多くの場合内容が難しすぎるように思われることが多い。官房長官の見解表明を聞いて居ると「電力会社の技術者達の発言を追認して「政府見解」と称しているように思えてならない。官房長官も技術者ではないから「左様然らば良きに計らえ」と言う外はあるまい。

NHKを含む各局のテレビやラヂオの「特集解説番組」に招かれた学者や技術者も時としては解り易いが、多くの場合専門用語や学重要語が次々飛び出して一般人には分からないことが多い。聞き手は学校の教室で地学を習っている学生ではないのだ。

聞き手の避難所暮らしの人々、家庭主婦、農家や漁民の知りたいことは一先ず脇に置いて、「20センチ上がった」の、「下がった」のと模型図の中の或る箱の水位をしきりに喋って居る東京電力の技術者。発言者の云っていることと視聴者の知りたいこととは噛み合って居ない。何だか「ちぐはぐ」な感じがする。

 

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Kakonojisinnkioku

過去に経験した地震の記憶

 

私は生まれた翌年の1923年(大正12年)の「関東大震災」と小学生の頃に1〜2回、中学生の時1回、東京に進学している時に1回、夫々に地震に遭遇した記憶が残っている。何れも今回に較べると震度4.0程度だったらしく、大したものではなかった。

二階の窓から近所の家と家の二階の 1m 程度の間隔が揺れのため互いに付きそうになったり、大きく離れそうになったりして居たのと電柱間の送電線が「束になって一斉に大揺れに振れている」のを小学生だった私は憶えている。中学校時代朝礼中に校庭の表面が波打ち、「地震だ、地震だ」と皆が一斉に叫んだことが記憶に残っている。何れも大阪市内だった。

進学した東京の校舎は堅牢な作りで、敗戦直後マック・アーサ親衛隊のキャンプとなった建物だった。或る日、授業中に起こった小地震後、教室の壁に小さな亀裂が走ったのを目撃した。「今の地震であの亀裂が出来たぞー」と云ったが、誰も信じない。これを証明するのに私は躍起になったが、中々難しい。「新鮮な亀裂にはゴミが詰まっていない。拡大鏡で良く見ろ」と主張するのだが誰もニヤニヤして一向に反応がない。私一人が躍起になて居た。

私は生まれた翌年の1923年(大正12年)の「関東大震災」の時は父親の仕事の都合で一家は京都市内に住んでいた。私は生まれて未だ一年経たず。私は寝ていた時、枕元にあった箪笥の上に置かれていた目覚まし時計が揺れで落下したらしい。幸運にも私の顔には当たらなかった。この話は母親からその後何回も何回も聞かされた。この関東の地震は震源が関東だったが、遠く離れた京都でもこの程度の揺れがあったようだ。


今迄に私が経験した地震は上述のように今回に較べると大したものではない。だが、「地震・雷・火事・親爺」という常套句のなかでは最上位にある通り、小さな地震であっても心理的なショックは大きいのだろう、多くの人が良く憶えているようだ。

 

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TUNAMI

Tsunami の恐ろしさ

 

津波(Tsunami)は半世紀以上前の私が学生時代から海洋学では世界共通の学術用語だった。今回此れが再確認され一般用語にもなったように思う。外国からの見舞いや励ましの文に earthquake and tsunami と書かれ、私の持つ古い Oxford English Dictionary などにある津波を earthquake seawater wave などと記載したものは無かった。

今回の被災者や行方不明者の80 % は津波によるものらしい。今度の三陸海岸を襲った津波は 10m を超える(ビルの4階を超える)凄まじいものだった報じられ、陸前高田市などは標高が1m 近く低くなり、市の3分の1は海面下となったようだ。まさに日本沈没である。幸にして私達の東京は津波からは免れた。

中国浙江省にある銭塘江の海嘯(潮津波)は有名だ。私は銭塘江には二回訪れたが海嘯は見ていない。海嘯とTsunami (津波)とは全く別個の現象で、前者は潮の干満によるものだが後者は地震に起因する。

チリ地震の津波は地球を一周して日本を襲ったし、先年のインドネシアの地震による津波はタイ国やスリランカ、アフリカ大陸まで被害を及ぼした。リアス式海岸の岩手や宮城を襲った津波は10mを超える巨大な津波だったと伝えられ、引き潮の巨大なエネルギーは大型貨物トラックや二階建て家屋などを呑み込んで海に連れ去り瓦礫の山となった。福島原発が襲われた津波の高さは、なんと1.4m、陸前高田は1.8mと云う過去に記録の例がない値だという。

私には津波に襲われた跡地を見た経験はない。しかし一面に拡がる瓦礫の山は、私が経験した第1次の室戸台風の時や長崎の諫早水害の場合と全く変わらないようだ。あの特有な臭気も、台風や鉄砲水の時と変わらないように思う。

異なるのは前者が局地だけに留まるのに対し、今回の被害は極めて広大で「行けども、行けども、瓦礫の山が続いて居る」という点だろう。第1次の室戸台風の時は小学生だった。跡地の整理に狩り出された。牛馬が掘り出されたのには驚いた。諫早水害は30歳の頃であるが駆け付けた現場の瓦礫の山から無数の毒蛇のマムシの束が出て来たのにはビックリした。

最も重要な遺体は、その数が未だに不明である。警察に通報したものだけでも1万人に近く、通報するにも一家一族押し流されて報告できなかった人々もあるだろう。また遺体が発見されても個人を特定するには長年月が掛かるだろう。大正時代の関東大震災の時や先年の阪神・淡路大震災と同様に合同の慰霊措置を執るしかあるまい。痛ましいことである。

テレビが云うには一ヶ月後の某地点での調査では、標高30mの湾奥の山の木の枝に漁船のロープや網の切れ端が引っ掛かっていたのが発見されたそうだ。20mを上回る海水が「壁のように見える」海水の波が多く観察されている。四階建ての病院の屋上に避難している人々が津波に浚われている。その高さは25mぐらいはあっただろう。何れも前代未聞の記録である。

###(続く)

 

 

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Nnuclear power station

 

Nuclear power station は
非常な厄介ものだと知る

 

Nuclear power station (原子力発電所)と云うものがこれほど厄介で、未だ人類の技術では充分コントロールが出来ないものだとは知らなかった。薄氷を踏みながら・・・と云うか、高い山の崖縁を危機一髪、一つ誤れば生命を失う危険に曝される・・・と云うか。

人類が「火」を使い始めた頃の状況を想い浮かべた。何万年か何百万年前からか知らないが、食物を軟らかく煮炊きしたり、焼き畑農業や金属工具や武器を作ったり「火」は非常に便利であると同時に一つ間違えば「大火傷」をしたり、「火災を起こし住居を喪失する」・・・などの危害を体験し、何十万年かの試行錯誤を歴て「火の採取方法や取り扱い管理」を習得してきたのだろう。今回の事件で「原発」は人類が安全に制御可能な手中に入るのか?それともエネルギー源としては「危険なものとして放棄せざるを得ない」ことになるのか?

東電や官房長官の発言をテレビやラヂオで見聞きすると、次々と専門用語が出て来てサッパリ分からない。単位も「マイクロ・シーベルト」、「ミニ・シーベルト」、「ベクレル」・・・等々。単位の意味もさる事乍ら、それらの桁数もマイクロ・ミニ・ギガ・・・など、数百万、数千万など見当も付かない数値だ。此方も高齢で半分は呆け掛かってはいるとは云うものの、原発の設計の構図の各部分の名称が次々と増え、色々な放射能危険度単位の説明と換算率など、理解に追いつけない。

何だか茶碗が小さいからバケツに移し換えてみたり、海に流出するのを防ぐため鋸屑と新聞紙の屑を何とか言う溶液と混ぜて注入したり・・・と子供の「ママゴト遊び」のような気さえする。水ガラスに凝固液を混ぜて注入したら「止まった」と今日報じていた(4月6日)。「こちらに絆創膏を貼ればこちらは治まるが、今度はあちらが腫れて来る」のと似たような、モグラ叩き的な有り様だ。

「見通し」というか「計画性がない」というか、目先の状況をただ取り敢えず目先の不具合をただ収拾し抑えるだけのように見える。原発の危機管理については、今の人類は未だ極めて初歩的段階にあるのではなかろうか?

次節で述べるように某女史も「未熟な人類が原子力などを手に入れたのは、時期が早かったと思います」と云っている。首相は地震発生翌日の12日午前、陸上自衛隊のヘリコプターで現地を上空から視察。東電福島第一原発も訪れたが、現場の作業を遅らせる一因になったとの批判が出ている。

総理は「第2回目としてヘリコプターからではなく、現地を地上から視察に行くつもりだったが、受け入れ態勢が整わず断念した」と報じられた(14日)。一方、供給電力の6割以上を原子力発電で占めるフランスの大統領はその真意は兎も角、直ぐさま地球の裏側から31日には日本に飛んで来て調査している。日本の為政者は活力が弱いように思うのは私だけだろうか?


浅学を自負する私だから「原発の仕組みはこんなに厄介なものか」と云うことを私は今回思い知らされた。厄介もさる事乍ら放射能による被害から可能な限り身を守ることに徹するなら原発は完全に取り止めるべきだ。しかし「そうも行くまい」という気もする。

ドイツや中国は原発開発計画を今回の日本の事故を見て一切凍結し日本を見守っているらしい。しかし私は鹿児島の桜島の歴史を思い出す。これは噴火という天災だが、住民の農作物などは全滅して「二度と島には戻らない」とその時は思うが、何時の間にか再び住民が戻ってくるようだ。「科学不信の碑」まである。

須藤 文弘氏が2011年5月26日の頂門の一針 2272号に「学者芸人たちの罪過」と題して一文を述べられている。引用する。

-----(引用開始)-----

5月21日の朝日新聞朝刊に載ったオピニオン・政治時評2011はとても興味深い貴重な対談であった。宇野重規東大教授と飯田哲也氏(NPO法人・環境エネルギー政策研究所所長)の対談である。

国土の破壊、国民の消滅につながるような「手に負えない危険物」を取り扱う事の大事と危機感が欠如した学者の罪は決して許されるものではない。

(中略)

菅総理は確かに愚物の最たるものである。しかし、菅総理レベルの問題をはるかに超えた事態の展開であることは確かである。菅総理の愚行に帰着させるべきではない。

学者は真実を語るべきである。もし語れる真実を持っているならば、であるが。アメリカの研究結果の追試が主たる仕事であったならば、恐らく、語るべき真実すら持っていないのが「原子力村の学者ゴッコ」の学者もどきたちの真の姿ではないのか。

-----(引用終り)-----

###(続く)

 

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Atogaki

事態は未だ一応の終息には到っていない。序章が始まったばかりだ!

 

地震とそれに伴う津波による「天災被害」、取り分け大津波に襲われて正常な機能を失った「人災と云うべき原発事故」については、当初は少なくも事態は数週間ないし一ヶ月ぐらいで一応の終息を迎えるだろうと一般には思われていたようだ。

スリーマイル島事件を経験した米国は解決に10年掛かった。ソ連のチェルノブイリ事故はロシア共和国になった今も未だ問題の後始末は終わっていない。福島の原発も序章が始まったばかりだ。原発だけではない、日本社会の色々な面で生じた災害は未だその総てが判明した訳ではない。未だ始まったばかりだ。

3月11日から1ヶ月経った4月11日になってマスコミ各紙は「この1ヵ月の事態の一応の推移」の纏めを書き初めて居る。「未だ全体像は不明」と皆が口を揃えている。そして只「頑張れ!頑張れ!」と繰り返し云って居る。頑張れと云うからには目標があるはずだ。その肝心の目標がハッキリしない侭だ。「復旧(元の姿になる)に頑張れ」と云うのだろう。「復興に頑張る」と云っても同じようなものだ。過去の問題点は修正の努力は当然なされるだろうから。そんな抽象的な「かけ声」で対応しても余り意味はないと私は思う。

東京都知事は「天罰だ」と発言して、非難を浴び発言を取り消したそうだが、私はこの際に私なりの考えで「天罰」と云いたい。余りにも便利さを追究するばかりで電力の需要は増加の一途を辿り、人類は環境問題を惹き起こし、温暖化に苦しみ原発の危ない道を辿っている。

数10年来の畏友 T.S. 女史も「あまりにも便利な生活を享受して本当に天罰なのでしょう。 未熟な人類が原子力などを手に入れたのは、時期が早かったと思います。 これから魚介類への放射能汚染や、壊滅した漁業基地の復興と水産界は難問が一杯です」とメールにあった。

ビックリしたのは昨日(4月13日)の各紙に今回の福島第1原発の事故は[国際原子力事象評価尺度(INES)では、1986年のチェルノブイリ原発事故の最悪の「レベル7」(深刻な事故と云うべき水準)と同様]と認定したことだ。

少し呆け掛かっている私だが、此の「レベル7」は一体「誰がどう言う立場で」認定したのだろう?また、この値は具体的には何を意味しして居るのだろう?今日のテレビではロシアの某専門家の発言として「レベル7というのは変ではないか? せいぜい5程度だろう」と云っている。外国のメデイアの多くが似た見解を述べている。しかし他の学者からの多くの反論もある。この場合に問題点の論議はこの専門分野に精通していないと我々一般人には理解できない。


地震とそれに伴う「未曾有の大津波」、及びその大津波に襲われて正常な機能を失った人災の「原発事故」は数多くのことを日本人だけでなく世界の人類に教えて呉れた・・・と云うより現在進行形で「教えつつある」と云うべきである。

「想定外」、「抜本的な見直し」と云った言葉が連日のように語られる。原発問題では政党の権力争いが優先して居るような感じがしてならない。言い換えれば問題は科学理論である二も拘わらず、科学理論が理解されず「甘く見すぎている」気がしてしょうがない。

頂門の一針、 2271号  11・5・25(水)に石岡 荘十氏の投稿がある。引用する。

-----//引用開始//----

産みの親が検証・反省しない不思議

石岡 荘十

大震災は天災であり、人びとは誰を恨むこともできず天を仰ぐしかない。しかし原発事故について被災者は、東電をうらみ、国のエネルギー政策を批判する。しかし、一国のエネルギー政策の責任は国が負うべきものだから、なにか不都合があったときには、まず国がその責めを負わなければならない。補償金は「まず東電が払え、足りなければそのときは国が面倒を見る」というのは、順序が逆だろう。

遡れば、わが国の原子力発電の原点は、1954年3月、当時改進党にいた中曽根康弘氏らが原子力研究開発予算を国会に提出したことにはじまる。このときの予算学は2億3500万円。ウラン235にちなんだ語呂合わせだったといわれる(ウィキ)。ふざけた話だ。翌年12月、原子力基本法が成立。時の総理は鳩山一郎(自民)だった。

福島原発1号炉が営業運転開始を開始したのが1971年3月26日、丁度40年前のことだった。以降数十年、原発の安全管理・監督についても、政権が東電の後押しをして「安全神話」を作り上げ、日本は原発大国を目指してきた。つまり、自民党こそが最近の数年を除けば、原発の産みの親であり、育ての親でもある。

それだけでなく最近では、吉井秀勝衆議院議員(共産党)が、2006年から2010年4月にかけて3度にわたって、福島第一原発を含む43基の津波対策の不備を指摘。冷却水喪失による炉心溶融の危険性を警告したのに対して、安倍総理は「我が国において、非常用ディーゼル発電機のトラブルにより原子炉が停止した事例はない」「多重防護でメルトダウンというようなことを起こさせない、このための様々な仕組みをつくっている」(2006年12月)と答弁している。

2010年4月には政権をもぎ取った民主党の直嶋正行経産大臣(鳩山内閣)までが「多重防護でメルトダウンというようなことを起こさせない」と啖呵をきっている。安倍、直嶋両氏のコメントを聞きたいものだ。

原発の推進は国策であり、国が必要な法の整備を行い、安全基準を作り、安全性を管理監督してきたのもまた国である。つまり国はメシの献立から箸の上げ下げまで口を出してきた。電力会社に地域独占を許す見返りに、自民党は毎年多額の政治献金を吸い上げ、官僚数十人が天下って、政・官・業べったりの構図が出来上がっていった。

この間、政権を担当してきたのはいうまでもなく、自民党であり、それをいいことに気がついてみれば、電力会社の社長の年俸は7千万円というやりたい放題、べらぼうな経営を許してきたのだった。東電は補償金捻出のため1兆円を超える資産を処分すると報じられている。それは当然として、エネルギー政策の鬼っ子を生み育ててきた当時の政権政党が、遡ってどこで間違ったのか、いまだに党としてのエネルギー政策の検証もせず、反省の素振りも見せないのは不思議なことである。解せない。

4/23の衆院の震災復興特別委員会で党首が事故後のちまちました対応を、鬼の首でもとったように攻め立てている。現政権にしてみれば、出来の悪い、金遣いの荒いどら息子がしでかした不始末の尻拭いの仕方が悪いとを叱られているようなものだ。「あんたに言われたくない」という心境だろう。

不信任案を出すなら、党として総括をまず明らかにすべきだ。いずれ、総選挙になれば、原発をどうするかが大きな争点になるだろう。知らぬ顔の半兵衛で逃げ切ることは出来まい。

独裁国家ではないわが国では「甘い安全基準」を作り、運用してきた政権を選択してきたのは、ほかならぬ時の有権者である。その意味で、税金であれ電気料であれ、全国民が応分の負担をするのが議会制民主主義の筋というものだろう。

福島原発1号炉はGEの設計である。非常用電源であるディーゼル発電機はタービン建屋の中にある。原子炉とワンパッケージで設計されていたものをそのまま採用したところに間違いがあったといわれる。

津波のリスクを甘く見た設計だった。アメリカには津波はないからだ。津波のリスクが高い日本仕様に設計を変更して「ディーゼルを山の上にもっていっていれば事故は防げたはずだ」と専門家(豊田正敏元東電副社長はいう(5/22TV朝日「フロントライン」)。

一般の国民にそこまで求めるのは無理だが、日本の原子力専門家は何をしていたのか、また政権政党の総括と同時に、当時のマスメディアに責任はないのか。メディアが総括をしたという話しも聞かない。

地元被災者に対しては、いま言うに忍びないが、安全神話を信じ込ませるために注ぎ込まれた交付金や税金は7000億円に上るといわれる。問題となっている原発が廃炉となった場合、現地自治体はこの恩恵を受けることが出来なくなるだろう。地元農・水産が復活しても立ち行かないのではないかといまから心配である。

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(一年間書き足してゆく)

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