china57.htm

1957年の中国水産界の情況と
その後の交流で得た多くの知己

 −中華人民共和国の建国初期(国交未回復時代)の水産業の実態
と社会主義国家への驚き、その後の交流を通じて得た多くの友人−

 真道 重明

2003年3月 改訂稿

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紫禁城の九龍壁:中国に現存する3つの九龍壁のうちのひとつ。高さ約4m、幅30mの壁に9匹の龍が彫られている。これはその1つ。極彩色の瑠璃タイルで作られているが、当時カラーフイルムは普及して居らずモノクロの二眼レフで撮った。1957年10月、真道重明 撮影。

 

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 稿のかなりの部分は中国文として1995年の上海水産大学の校報に「一個日本水産学者的回顧和感想録−.上海水産大学学報第4巻 第2期.p.166-178.に記載されているが、その後、筆者は日本の読者にも何らかの参考になるかも知れないと考え、今回原文を見直し、日本の読者には自明な部分は削除し、その後の発展情況について感じた事柄の幾つかを加筆して、日本文として此処に記載公表した。半世紀前の体験であるが、私の胸中には強烈な印象として焼き付いている。



目 次

1. 起筆に当たって

国交のない国への入国 : 日本公安当局からの監視−学術交流は水産界では両国とも最初の経験
中国に対する日本人の知識の欠如 : 同文同種−相互理解が友好の基礎
漢籍と中国語の学習: 私と西遊記−私の素朴な希望

2. 社会主義国家に対する驚きと強烈な印象:

水産分野での初めての学術交流の経験
反右派闘争運動の最中
身近な驚き : シンセン駅頭−「熱」の一言と置き忘れた写真機−住宅と職場の建物−食堂車での小姑娘−停車駅で見た乞食−車站の柵外での物売り−大字報と下放−小菜館で−金魚と戦乱

3. 訪問した場所と面談した懐かしい人々 :

(毛沢東主席望見)−周恩来総理廖承志
中国漁業協会 : 楊U主任高樹頤副主任
水産部 : 許徳行部長曹正之
中国科学院 :
       武漢の水生生物研究所
       北京の動物研究所
       
青島の海洋生物研究所曽呈奎氏劉瑞玉氏
水産研究所 :
        黄海水産研究所
        南海水産研究所−
費鴻年所長
水産教育機関 :
        北京大学理学部生物系
        
山東大学水産系
       
上海水産学院朱元鼎院長−候朝海氏−駱肇蕘氏 - 王貽観氏−黄文豊氏 - 王尭耕

4. 解放時に海外に出た人々:

陳同白氏−林書顔氏−林紹文

5. 経済放寛政策後の所感 :

現在から振り返って見た1957年当時の社会
当時の社会の雰囲気−日本人は居らず日本料理屋も無い国−宗教の布教活動
1957以降に知り合った人々
       北京
       
海洋研究所李春生氏−楊紀明氏−相健海氏
       
東海水産研究所-趙伝因氏-繆聖賜
       
上海水産大学楽美龍氏と伍漢霖

6. 経済改革後の中国水産の感想 :

上海水産大学での質問
研究情報の問題
経済解放に伴う研究者の立場
研究予算の不足への対応
量と質の問題および利用の比率
生産量と品質の問題−加工や流通面の強化の問題 −先進技術の追及
「以養為主」と種苗放流
東黄海の資源問題と中韓の国交正常化−幹部教育の問題

あとがき

 

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1.起筆に当たって

が研究者を含む中国の水産界の人々と大陸で始めて会ったのは1957年のことである。当時、両国の政府間には第2次大戦後の国交は未だ回復されて居なかった。

しかし、東海や黄海が両国の共通漁場であったため、日本の日中漁業協議会と中国漁業協会との間には既に民間漁業協定が設立されており、その協定条項の中に学術交流に関する規定があり、その最初の具体的な活動として、北海道大学水産学部長を定年で退職された直後の渡辺宗重教授と西海区水産研究所の私の2名が日本の水産研究者としては始めて新中国を数ヶ月に亙って訪問する機会を得た。

訪中の目的は中国各地の視察および全国から集まった水産技術専門家に対し、渡辺教授が淡水養殖技術、私が海洋漁業資源調査方法を上海水産学院(現、大学)で講義することであった。今から46年前の1957年のことである。

その後、中国は新国家建設に邁進するなかで、三年困難期や大躍進運動、文革(文化大革命)と言った紆余曲折した数々の苦難を乗り越えて現在の発展と進歩を遂げていることは、両国の友好を祈念する一人の日本人として、また中国に母国にも似た郷愁を感じている私個人として、心から嬉しい限りである。本文は当時の想い出を中心に、その後の老朋友達との数次に亘る再会の喜びや中国水産業に就いての感想なども加えて、日中国交正常化40周年のこの年に当り、記録に留めて置きたいと思い筆を取った。

国交のない国への入国:

当時、私は未だ若輩の一研究者であったが、訪中専門家に選ばれたのは、長崎にある水産庁所属の西海区水産研究所で東海の魚類資源の研究に従事していたことによる。中華人民共和国の建国以来、私のこの中国訪問は日本政府の公務員としては最初の訪問者となった。

両国に国交が樹立されていなかったので、日本政府には前例がなく、通常の形式での出張命令が出せず、「香港に出張を命ず。なお、シンセンの越境を認める。但し、旅費は支給しない」と言うきわめて異例の文言の命令書を受けることになっている・・・と聞かされていた。

外交関係の文書や手続きは難しいものである。香港の日本領事館で「中華人民共和国に入国を認可する」という許可印をもらって、やっと香港の新界の国境から、渡河して対岸のシンセンの越境が可能、すなわち中華人民共和国に入国できるという次第であった。

しかし、出発直前になって、再検討され「簡易交付」というパスポートには「中華人民共和国に出張を命ず」と書かれて居た。時の農林大臣は第25代の赤城宗典、総理は岸信介(第1次岸内閣)。パスポート発行者は外務大臣の東山愛一郎であった。

日本公安当局からの監視:

今から考えると笑話であるが、帰国後の数個月間は警察公安当局から尾行され監視を受けていた。「一方では大臣名による出張を命じて置きながら、他方では密かに監視する」という不合理に、私は不愉快ではあったが、当時は民間人はもとより政府高官と雖どもこの措置が適用されていたのである。

勿論、日本政府は共産圏という国交のない異なった体制下に在る国に行った当人が洗脳されたのではないかということを恐れたのは理解できるし、また、出張を命じた部署と公安当局とは任務が異なる上、何の連携も無かった。当時は日本政府の対中国不信感は未だきわめて根強よかった時代である。

学術交流は水産界では両国とも最初の経験:

出発時には当時有名な評論家の中島健蔵氏やクルマエビ養殖を世界で始めて成功した日水研究所の藤永元作氏、元満鉄の高碕達之助氏(1962年に廖承志氏との間に両国の友好改善のきっかけを作ったLT貿易の覚書を作った人、水産界の大先輩であり、私の同窓でもあった)ら著名人からの激励会が東京の学士会館で行われるなど、私にとっては勿論、日本の水産業界にとっても画期的なことであったように思う。多数の偉い人々に囲まれて若輩の私は緊張の連続であった。

今でこそ多くの水産関係者の交流は盛んになったが、当時は中国でも建国以来、水産方面での外国人専門家の招請は私達が最初であることを北京に着いてから聞かされた。従って私達2人にとっても、また中国で会った人々にとっても、互いに強烈な印象を受けたことは事実で、当時お会いした人々と後年になって中国・日本・その他の国で再会した時、30〜40数年前のことをよく憶えて居られ、双方手を握り合ったものである。

中国に対する知識の欠如:

同文同種:

現在では「中共」の語は日本人の目には余り触れないが、1940〜1960年代の日本では中華人民共和国という国家名称を「中共」と呼ぶ人が多かったことからも判るように、中国は国名、中共は中国共産党を意味する語であることさえ知らない人が多かった。日本の庶民の大多数は新しい中国についての正しい理解が極めて欠乏していた。

「日本と中国は『同文同種』である」という言葉が日本では過去長年使われていた。私はこの言葉は日本の誤った為政者達によって、政治的に、かつ、意図的に自分達に都合よく勝手に用いられて来たように思う。

古来、文字を持たなかった日本は中国から漢字を導入し現在に至っている。これを指して同文といったのである。漢字を使用することだけに限定して言えばその通りであろう。しかし、言語はウラル・アルタイ語族に属し朝鮮語や蒙古語に近い日本語と、シノ・チベット語族に属しチベット語・ビルマ語・タイ語・ベトナム語などに近い中国語とでは全く異なっている。

後年、国際機関に勤務し、多くの国々の人と仕事を共にしたが、日本語と中国語は極めて近い言語であると思っている人々が世界には極めて多いことを知った。これは日本文に漢字を使用していることから来る勘違いである。

日本と中国とは風俗・習慣や感情表現には共通する面も極めて多いが、同時に相違する面もまた多いと私は思っている。「同文同種」という言葉が与える印象は「同じ生活習慣や考え方を持つもの同士だ」ということだろうが、その裏には「だから何事も容易に理解し合うことができる」という印象を日本人に与えた。その弊害として「日本人の考え方は中国の人々にはとやかく言わなくても理解して貰える」と勘違いする日本人が多かったのではなかろうかと私は思う。共通点を挙げることより、むしろ相違点をこそ挙げて「相違する事実を理解する」ことの方がより大切であると私は思っている。

相互理解が友好の基礎:

真の友好は相手を本当に理解することから始まる。そのためには異なった面を知ることが大切である。相手の立場や考え方を知らずに自分たちの考え方を一方的に押し付けるのは傲慢である。この過ちを日本は犯してきたように私には思われてならない。日本人にも謙虚さや信義感はある。しかし、相手国に対する無理解と知識の欠如が両国の真の友好関係の樹立の妨げになっている。現在でも未だ多くの解決しなければならない問題が多いのではないかと思う。

ご承知のように米国は第二次大戦後に莫大な経費と人力を投入して多くの国に技術援助をした。しかし、援助を受けた多くの国の人々から「Yankee go home!」と反発された。私はその現場を何度も見たが、原因は私には簡単なことのように思われる。米国人は悪意は無いのだが「自国の発想や方法が世界で最善のもの」と過信するあまり、相手国の社会や感情を無視し、しかもそれに気づかない。私の乏しい経験でも国際協力では日本も現在米国と同じ過誤を繰り返していることが多いと思うのは私だけだろうか?

漢籍と中国語の学習

私と西遊記:

話は私ことになるが、私は子供の頃、西遊記を子供向けに日本語に簡訳した「孫悟空」と題する小冊子を読み、子供心に「こんな面白い話が有るのか」と思い、将来、呉承恩の原文を読みたいと思った。因みに、この夢は1957年に実現し上海で上下二冊の定本を手に入れることが出来た。いまでも自宅の書棚にある。

また、家には数冊の漢籍が有り、元曲の梧桐雨などを、意味は良く分からないまま読んでいた。学校で学ぶ「子曰・・・」で始まる四書五経の類は難解だったが、家で読む元曲など中国の古典戯曲類や聊斎志異などは、まだ子供で本当の意味は分からない所が多かったにも拘わらず、面白くて何回も再読し私を夢の世界に誘った。「聊斎痴」という言葉が有るそうだが私はこの歳になった今その一人である。

日本人にとって外国語である中国語の、しかもその古典を読むと言うことは欧米人がラテン語を読むのと同じで大変なことであるが、漢字の羅列である中国の古文を日本語に読み換える世界にも希な「カエリテンなどを付記して語順を転倒させる独特の文法解析翻訳法」が昔から発達しており、中学校で学んだ漢文は総てこの方法によるものである。(それなら現代の白話(会話)文にこの解析技法が応用できるかというと、不可能では無いにしても、何とも吹き出しそうな奇怪な日本語になってしまう)。

私の素朴な希望:

生物学が好きだった私は現在の東京水産大学の前身校に進み、生物学を基礎とする養殖科に入った。水産養殖業の発展潜力があるのは中国であると感じ、中国古典からの空想的ロマンではなく、それまでとは異なった現実の問題として「中国で養殖業の発展に従事したい」と考え、当時、日本では中国語を学ぶ人は少なかったが、昼は水産、夜は東京外国語学校(現東京外国語大学)の夜間部に開設されていた支那語専修科で北京官話を学んだ。

李士豪著《中国漁業史》や後述する林書顔氏の小黄魚(キグチ)の論文、その他を読んだ記憶がある。「中国で養殖業の発展に・・・」という私の素朴、単純かつ幼稚な考えも、日本が中国との交戦を繰り返すという愚行と共に崩れ去り、修得した中国語も役に立たないまま年月が経過した。この学校には今でこそ数十名の中国留学生が居るが、当時は私の先輩に当る人として後年中国でお世話になった王貽観、黄文豊などの各氏が、後輩には、故郭沫若科学院長の息子さんなども在学して居た。このようなわけで、私が1957年に日本政府公務員(研究官)として始めて中国に行くことが決った時は、学術交流という公務の責任感と共に心が踊った。

 

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2  社会主義国家に対する驚きと強烈な印象

 

2.1 水産分野での初めての学術交流の経験

の分野は知らないが、水産分野での両国の学術交流は互いに始めての経験であり、そのため双方の印象も強かったことは既に述べたが、社会主義国家とはどんな組織になっているのかをこの眼で確かめたいという気持ちを私は胸に一杯持っていた。

私は理科系の学校ではあったが教養課程では経済原論を習った。それはマルクス経済学を基盤とするものであった。ソ連を仮想敵国とし、反共を国是としていた戦前の日本政府の下で、この様な講義が行われていたことを話しても、多くの人々は信じないかも知れないが、今でも当時のノートを私は持っている。政治活動をしない限り、理論は理論として別次元の問題と当局は思っていたのだろうか。

理科系の私達は、深い理解はなかったとはいっても、唯物史観やマルクス経済学が共産主義の基礎にあることぐらいは知っていたから、中国に対する私の関心は更に強かった。さらに、私は1922年の生まれであり、中国共産党が結成された1921年と時期とほぼ同じくするという気持ちもあった。この旅行は、大唐西域記の唐三蔵の心境には比すべくも無いが、極端に言うと私にはそれに近いものがあった。

2.2 反右派闘争運動

私の初回の訪問は1957年の晩夏から初冬に掛けてである。「百花斉放、百家争鳴」の後、反右派闘争が始まって進行中であった。もっとも、それが歴史的にどのような意味を持ち、何が行われているのかは到着直後の、しかも理科系出身の私にはよく解らなかった。中国の社会主義の総路線が決定し公表されたのはその翌年の1958年であるが、基本的な体制や政策は大体固まってきた時代であった。

多忙な毎日の暇を見て新聞は良く目を通したが、理解できないことも多かった。産児制限の必要性が力説されていたこと、また「紅」と「専」のどちらを重視し優先すべきか?」という論争が紙面を賑わしていたのを憶えている。私は「紅・専」の問題は両者とも重要な問題であるが、本来は次元の異なる問題で「どちらを優先するか?という設問そのものに問題があるのではないか?」という疑問はあったが、議論百出、その活発な論戦には驚いた。

なぜなら、私は「中国の人々は議論を余り好まず、互いに角を突き合わすことは避ける」と聞かされていたからである。このことを訊ねると「昔はそうでしたが今は違います。論議することの大切さを知りました。ただ毎日が会議、また会議の連続で、仕事をする暇がありません。これには困惑します」という返事だった。

「日本でも同じですよ。我々はそれを〈会議倒れ〉といっています。議論も大切、仕事も大事、管理者は苦労しますね」と答えた。事実、日本で私なども一日に数回の会議があることも多く、皆はどうして会議を少なくするかに苦慮していたからである。しかし、この様な問題は暫く置くとして、もっと身近に在ってこの眼で見た驚きや感想を述べよう。

2.3 身近な驚き

シンセン駅頭:

第一歩を印したのは深セン車站(駅)であった。車站には開放軍の兵士が銃を持って立ち、紅旗が林立し中国に入ったのだということを実感した。香港とは一変して空気が透明だと思った。「昔は一寒村にしか過ぎなかったこの深センは、今では外国との唯一の門戸としてこんなに立派になった」と言う車站長の話。車站は決して大きくはなかったが、小奇麗に清掃されていて、二階は外賓用の食堂があった。此処が今の近代ビルの立ち並ぶ大深セン市になろうとはその時は夢想だにできなかった。当時はシンセンに渡る鉄橋を徒歩で歩いた。今は香港から広州までは飛行機で一飛びである。昔は一寒村にしか過ぎなかった深セン駅長さんは、もし生きていれば現状を見て何と言うだろうか。

「熱」の一言と置き忘れた写真機:

深センの駅から汽車で広州市は眼と鼻の先である。広州市では中国漁業協会の王知徳氏が北京からわざわざ出迎えに来ておられた。同氏は山東省の益都(青州)の人で、娘さんは北京で産まれたので燕燕と名付けたという(燕は北京の古称)。この王知徳氏とはその後、講義のため、上海に向うまで終始お世話になったが、質朴で大変親切で誠実な人柄であった。

初対面の言葉は顔面に笑みを浮かべた王氏の「熱」(re,4声、暑い)のただ一言であった。戦地で敗戦を迎え軍命で中国軍司令部で通訳官をしていた経験もあり、多少、中国語は話せると思っていた私は、この一言が理解できず狼狽した。「広州は気温が高い所です。私も広州は初めてですが暑いので驚きました」とでも少し長い句を言ってくれれば意味の見当は付いたのであろうが、一音節の一字「熱」だけだった。王氏は解り易いように親切にわざと短い言葉を選んで話しかけられたのだろうが、復員後全く喋る機会が無かった私の中国語は役に立たないのではないかと少し不安になった。この瞬間の気持ちは今でも私の記憶に鮮明である。

広い中山記念堂の公園や博物館(旧鎮海楼)など市内各地を案内され、塵一つ無いのに驚いた。煙草を吸っていても、余りに奇麗に清掃されているので、投げ捨てる気になれない。私は吸殻を自分のポケットに入れた。また、迂濶にもカメラを長椅子の上に忘れて30分後に気が付いた。一巡してその場所に戻るとカメラはそのままである。「泥棒がいないと言うのは嘘です。やはり気を付けてください」と言われたが、他の国なら奇跡に近い。戦前の小盗児市場と言う話を聞かされていた私は心の中で変化にウーンと唸った。

住宅と職場の建物:

水産関係の職場で先ず訪問したのは広州の南海漁業公司である。現在と違って当時は長堤にあった。色々説明を聴いたが、今も記憶している会話の一つは「なぜ公司の建物より職員の住居が立派なのですか?」という私の質問に対する答えであった。日本とは全く逆であり、日本では職場の建物には経費を掛けるが、個人の住宅は「兎小屋」と欧米人が皮肉るように、今でもそうだが当時はとても貧弱であった。「個人生活の基盤である住宅を良くすれば、それだけ労働意欲も増大すると思います。職場には仕事に必要な設備があれば良いのではないでしょうか」という返事である。これには感銘した。当時の日本は仕事の効率を上げるために、職場の環境をできるだけ良くしようとしていた。そのため個人の私的生活を犠牲にしていた。この点はその後日本が経済成長を遂げた今、水準は変わっても本質的な考え方は余り変わってはいない。

食堂車での小姑娘:

広州から武漢に向う列車は軟席車であったが、日本人にとっては素晴らしいものであった。その後、日本では広軌の新幹線が出来たが、日本は100年前に国家の近代化を計画した時、狭軌を欧米から導入したため、どうしても車の幅が狭く、狭い空間の客席に慣れていた私には驚きであった。もっとも、この列車は武漢の長江大橋が完成すれば、越南(ヴェトナム)からベルリンまでを繋ぐ世界最長の鉄路となることを予定して準備されたものと聞いた。列車設備も高水準だったのかも知れない。入国直後のこの列車のなかで幾つかの忘れられない光景に遭遇した。

ある時、食堂車のなかで一人の小姑娘(娘さん)が独り食事を始めようとしていた。見たところ田舎から出てきた旅慣れない様子であった。菜単子(メニュー)を見ても何を食べて良いのか決め兼ねているように見受けられたが、運ばれてきたものを一口食べて「我吃不来」と言っているのが聞き取れた。「食べ慣れないので・・・」ということである。さて、どうなるのか私は内心失礼とは思いながら、横目で成行きを見ていた。服務員は「多分この方が良いでしょう」と、いとも簡単に言って、早速別の皿を持ってきて「口に合わなかったら遠慮無く言ってください」と言い残して去った。私は驚いた。若し日本だったら一口でも手を付けたら必ず代金を請求される。文句を言えば「知らないものを注文する方が悪い」と口論になる。なんと親切な対応だろうと感激した。

それと言うのも私が北京官話を習っていたとき「童嫂不欺,言無二価」(子供や女の子を騙さない。言い値はいつも同じだ)という商店の店先にある対聯の句を思い出していたからである。私は中国は変わったと思った。

停車駅で見た乞食:

どこの車站だったかは忘れたが、武漢の近くの小さな車站であった。停車時間が長いので、ホームに出て散歩や体操している人もある。なにげ無しに見ると車站の構内を隔てる柵の所に旅客が群がっている。柵の外にはさらに多くの町の人々が集まっている。よく見ると一人の中年の女性の乞食が中央に居る。人々はがやがや口々に喋っている。何を言っているのかは解らなかったが、恐らく「どうしたのか? どこから来たのか?」と話しかけている様子である。同時に皆の眼は珍しいものを見ている感じである。新中国には乞食は居ないと言う話は聴いていたが、この光景を見て話は本当だと思った。

乞食が珍しいと言うのは、逆に言えば希にしか居ないということである。王氏は「乞食は居ますよ。できるだけ厚生させるように国家は努力はして居るので、昔に較べてその人数が減少したのは事実です」という。当時日本では中国訪問から帰った人の言として「中国には蝿と乞食が居なくなった」と言う話が流布し、その真否が論争に迄なっていた。解放前と比較して「状況には雲泥の差が有る」ことを帰国したその人は強調したかったので多少誇張した表現で発言したのだろう。大きく社会が変化している事実をこの車站で私自身の眼で確かめることができた。

しかし、同時にこの世の中に完全と言うことはないのだから、日本での中国における乞食の有無論争は或る意味では馬鹿げていると思った。後日中国でも上海を中心に乞食の存在に就いての論争が有ったと聞く。

車站の柵外での物売り:

停車時間の長い大きな車站に着くと、日本では長くても数分で発車するのとは対照的に、少なくも10分間乃至それ以上の時間的余裕がある。旅客は悠々とホームを散歩し、また構内で買物している。ある駅で、駅の構内と構外を区切る柵の外に果物などを売る多くの人々が居て、群がる旅客に売り付けようとしていた。私も車から降りて見に行ったが、誰も価格を値切らない。売値を値切る交渉は世界共通である。またその交渉を楽しんでいる場合も多い。

例外は日本で値切る交渉もその幅は極く少ない。価格が殆ど平均しているからである。多くの人が日用品は売値で買ってしまう。香港などでは、交渉の上手な人は半額以下で買う場合も多い。しかし、駅で見た様子では誰もが日本と同じように、売り手の言う価格で買い、値切らないのには驚いた。多くの日本人は「中国人は買物を値切る交渉がとても上手だ」と教えられていたので、私は何故、彼等が値切らないのか不可解であった。新中国では総てが公定価格となって「値切る」という習慣が無くなってしまったのだろうか?

経済開放政策後、市場経済に移行してからは特に事情を知らない外国観光客は「掛け値を吹っ掛けられるのでご用心」と言う実態があるが、これとは次元の異なる問題である。

大字報と下放:

反右派運動が進行中であり、大学の構内には大字報が沢山張り出されていた。昼食後、散歩しながらこれを読むのが私の日課になり、同時に色々なことを知った。印象に残った若干の話題を挙げると:

(a) 教師に対する授業方法の批判で、「某老師(先生)は昨年と今年の講義録の内容が全く同じで、進歩の跡がない、教えるという使命に対する努力に欠ける」とある。老師もうかうかしては居られない。私も教鞭を取った経験が有るので、基本的なことは1年で変わることはないから、あまりこれを強調するのは老師に対して酷に過ぎるという気もした。

(b) 党員候補の生活態度に対する批判がかなりの数あった。なかには単なる嫉妬と思われるものもあったが、党員になるのは大変なことだということを知った。(c) 山東大学の水産系と合併する話が有ったらしく、その可否に就いて賛否両論が戦わされていた。その背景にどのような経緯が有ったのかは知らないが、推敲を重ねた文章には名文が多いのに感心した。

小菜館で:

何処だったか忘れたが、昼食のため小菜館に案内された時のことである。一人の男が隅の小卓子で静かに、しかし時々独語しながら蚶を肴に酒を飲んでいた。こんなことを今まで記憶しているのは、日本と同様に蚶に熱湯を注いで、半熟の肉を酢醤油で食べる習慣が中国に有ることを知ったからではない。

昼間は仕事をする時間であり、花花公子(金持ちのどら息子)ではないが昼間から酒を飲むのは結婚式など特別の場合を除いて「怠け者、不謹慎」と日本では思われていた(違反者は沢山居たが)。案内してくれた人も彼を見る眼は決して好意的ではなかった。

確かにその男は賞賛すべき行為をしていたとは私も思わない。しかし、私は胸中に何故か一種の安堵感を抱いた。「此中有真意・欲弁已忘言」で終る陶淵明(陶潜)の「飲酒」と題する五言古詩を思い出していた。恐らく「新中国は万事が厳格で庶民は気晴らしも出来ない」という多少悪意を持った日本国内での宣伝に影響された先入観が私にあったからかもしれない。

金魚と戦乱:

金魚は日本でも盛んに飼育されているが、元来は中国の伝統的鑑賞魚である。大都市の公園では一般の人々に展示している所が多いが、北京の中山公園ではかなり大きな規模で展示していた。「中国で飼育が始められたのは浙江省で、年代は唐末五代」と説明してあった。日本には無い珍しいものも多く、同行の渡辺教授は淡水魚の専家であったから、上海では数種をホルマリン標本として日本の東京水産大学と北海道大学に寄贈のために持ち帰った。

私が胸を打たれたのは、日本軍が侵攻して来た時に、この多種多様の伝統的な多くの品種を如何にして守り保存するかの問題であったと言う。玉で作った美術品等と違い、生きている魚だから水も必要であり餌も与えなければならない。北方では冬期は水温調節もしなければならない。これを大きな甕に入れて、目立たない遠距離の辺鄙な地方に分散させるのには非常な苦労をしたそうである。これは公園で展示している担当者から聞いた話である。日本人である私にとっては胸を締め付けられる思いであった。

南京の公園を参観していたとき、金魚の展示と共に金魚を描けば当時中国では最も有名な画家と言われ、金魚の絵が郵便切手にもなった凌盧氏が作品の金魚の絵を展示即売していた。私の叔父が日本美術院に属し日本画を描いていることを話したら、同氏は叔父の黎明という筆名を知って居られ歓談した。その後文通が叔父との間にあった。私の部屋には同氏の描いた4尾の珍珠鱗遊泳図が今もある。

 

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3  訪問した場所と面談した懐かしい人々

 

州から出発して各地を巡り帰国のため再び広州に戻るまでの四ヶ月の間に多くの人と出会った。仏典に「一期一会」という言葉が有る。人との出会いは、場合によっては、若しそれが数分間であっても、その人にとっては計り知れない大きな影響を生涯に亙って受けるという。人との「出会い」が如何に大切であるかを教えた言葉であると私は理解している。私がお会いした人々やその時の印象を以下に述べたい。

3.1 毛主席・周総理・廖承志氏

毛沢東主席と周恩来総理

国家の最高の地位にあるこれらの人々と私が面談したわけではない。好運にも中国滞在中に国慶節があり、祝賀行進を外賓席で見ることが出来た。50メートルほど離れた所から毛主席を見ることが出来た。小学生が行進してくると主席は大きな声で「童子們万歳」と三度激励した声は耳底に残っている。

当時、人民大会堂はまだ建設されて居らずその夕方、北京飯店での祝賀の宴に招かれ、周総理を始め彭徳懐元帥外名士を間近に見てその謦咳に接した。光栄にも周総理は私達の卓子にも来られ茅台酒で乾杯を共にした。謙虚で温顔の中にも威厳があり、恐らく私の生涯で会った最高の人ではなかろうか。卓子は100以上在り、その総てを巡って乾杯されたから、総理はあの強い白酒を少なくも100杯は飲んだ計算になる。信じられないことである。キット何か変戯法(トリック)があったのだろう。それにしても見事である。

昨年(1991年)秋、上海で周恩来という題名の映画が上映されていたのでお願いして切符を入手して映画館に走った。観客の中には目に涙を浮かべている人もあり、それを見た私もツイつられて感慨が一入込み上げてきた。

廖承志氏:

北京滞在中お会いした高官の一人はアジア・アフリカ和平委員会の廖承志氏である。特に私達と会いたいとのことで同委員会に挨拶に赴いた。小柄で柔和な人で、勿論初対面であった。通訳付で挨拶が終ると茶菓が出た。「堅苦しい挨拶はこれぐらいにして通訳者無しで気楽に話しましょう」という流暢な日本語が同氏の口から出たので驚いた。

私達の専門分野の話を聴かれた後、「日本は科学論文を日本語で書ける。中国はまだ母国語で科学論文を書くには多くの解決を要する問題がある。速くその水準に達したいと願っている。貴方はどう思うか?」という質問が有った。若輩の私は生意気にも「中国は既に左から右に書く方式でしかも「横書き」を採用している。日本では数学だけが早く横書きを採用したが、他の自然科学分野では横書きの採用はかなり遅れた。この点を考えても貴国の学術論文の記述方法は急速に発展するのではないかと思う。

ただし、中国は外国の技術用語を総て漢字に翻訳しなければ気が済まないような風潮が有るように思うが、世界中の技術用語は発展に伴って急速に増えているから、漢字表記の統一には時間が掛かる。欧美人は同じローマ字を使用していることもあって、英文の中に仏文や独文の述語を違和感が無く、その侭の原語で混在させている。

日本人は元来字を持たず、漢字も中国から借用したが、そのためか否かは知らないが、他国語をそのまま翻訳しないで平気で取り込む。特に学術論文の場合にはその方が誤解による混乱も少なく効率的である。総てを漢字表記にする必要はないのではないか?」と答えた。同氏は一々頷いておられたが、このようなことは同氏は百も承知であっただろう。「釈迦に説法」という言葉通り、後で考えると汗顔の至りである。予定時間を超過して2時間近く会話をしたように思う。東京の後楽にある友好会館には廖承志氏の胸像があり、これを見る度毎にこの時のことが想い出される。

3.2 中国漁業協会

中国漁業協会は我々2名を招待した単位である。広州まで出迎えに見えた王知徳氏のことは既に述べた。協会主任は楊U、副主任は高樹頤、この外に王雲祥、趙安博の諸氏に大変お世話になった。

楊U主任

北京に着いて最初に表敬の挨拶をした楊U中国漁業協会主任は小柄で白皙の何処かに童顔を残した、しかし戦士を思わせるような活発な人であった。両国の国際慣習の違いから「訪中経費の処理方法に就いての考え方の違い」という面倒な問題に我々両名は直面したが、楊U主任の思い切った決断によって解決した。

中国も日本も始めての経験だったのでお互いに慣習が解らなかったのである。我々はホットして胸を撫で下ろした。楊主任の決断は有難かった。30数年後の一昨年(1991年)、上海の東海水産研究所で偶然北京から来た農業部の人に聴いた話では、楊U氏は北京にあり、まだ元気で居るとのことであった。

高樹頤 副主任

高樹頤氏は何時も人民帽を被って「ヤァヤァ」と声を掛けて手を振る気さくな人であった。北京の各地を王雲祥氏と共に案内して頂いた。3ヵ月後に我々両名が上海水産学院を去るとき、わざわざ北京から送別に来て頂いて恐縮した。

 

当時の会った中国漁業協会の人々には、旅大市(当時は旅順と大連は合併して旅大と呼ばれていた)では田禾分会主任、鄭芳斎、周瑞之、青島では候連三、王栄亭などの名前や写真が私の記録に見える。

3.3 水産部

許徳行部長: (徳行の「行」の字は正しくは「玉偏に行が旁」である)

当時の中国の中央政府の組織では水産は独立した一つの部(日本の省)で、北京の西郊二里溝にあった。許徳行氏はその部長で日本語で言えば水産大臣に当る。日本では大臣などの高官には殆ど言葉を交わす機会はない。今回私は日本を出るとき、公務員となって始めて大臣室に入り、物々しい雰囲気の中で軍人のように直立浮動の姿勢で中国出張の挨拶をした。しかし、許徳行部長と会ったときは日本とは全く対照的な空気で、茶菓を運ぶ小使いさんと部長とは同輩と話すときのような態度で会話をしている。物々しい雰囲気が全くないのには驚いた。

後年、1989年に出版された中国漁業経済の書物に同氏の題字が開巻第1頁に掲げてあるのを見て懐かしく思った。経済を専攻されたと聴いていたが、長寿を全うされ最近逝去されたと聞いた。

曹正之氏:

北京でお会いした直後に上海水産学院の副院長になることになっていた曹正之氏は何時も顔に笑みを湛えた小柄の人で大変親切にして頂いた。后年の1987年、東海水産研究所に滞在中、水産大学の駱肇蕘教授と共に宿舎の機械学院外賓接待室に来訪され、再会を喜び往時を語る楽しい一夕を過ごした。曹正之氏は高齢にも拘らず北京でのことを良く憶えて居られた。

話がたまたま江南の唐詩に及び、私が杜牧の詩「清明」が大好きだと言うと、駱肇蕘氏は「千里鴬啼緑映紅・・・・」で始まる同じ杜牧の「江南春」を挙げられた。曹正之氏は直ぐ筆を取って両首を書き、その下に「・・・・談起江南風光時,真道重明先生与駱肇蕘教授共同憶誦這両首唐詩.曹正之 記録」と記された。この一片の紙を私は今も大切に持っている。翌年の1998年に訪れたときも上海市内の盆栽園などを親切に案内して頂いた。

3.4 中国科学院

武漢の水生生物研究所:

中国科学院の人々には武漢の水生生物研究所、北京の動物研究所(生物部、動物楼)、青島の海洋生物研究所(現在の海洋研究所)などで多くの人とお会いした。1957年に北京に向う途中に立ち寄った水生生物研究所では、伍献文所長は北京出張中で湖泊調査を担当している淡水藻類専攻で副所長の尭欽止氏に研究所の仕事について話を伺った。当時の日本には淡水生物学分野には幾つかの研究所はあるが、このように大規模で集中的な研究施設は無いので、新中国の陸水生物の研究発展に掛ける意欲の強いのに同行した渡辺教授も驚いておられた。

1986年に科学院からの招待で海洋研究所の日本人以上に日本語の巧みな李春生氏と共に各地を歴訪したとき、30年ぶりに再度此処を訪れ既往を懐かしんだ。尭欽止氏はかなりの高齢だと思うが健在で、淡水藻類学会の会長を勤められているとごく最近客員教授として東京に来ていた人から聞いた。

北京の動物研究所:

北京市郊外の科学院のビルが建ち並んでいる一角に動物楼があった。副所長の劉矯頼、名前は前から聞いていた魚類の張春霖、甲殻類の沈嘉瑞その他の諸氏に会った。科学院のビルが林立しているのに圧倒されたと言うのが第一印象であった。動物楼も大きな建物で標本の一部は解放前の静生物研究所から移されたものであると言うことであった。此処を訪れた日本人は京都大学の宮地伝三郎氏、ミチューリン学会の徳田氏に次いで我々が3番目とのことであった。両氏は日本の動物学界の泰斗であり、理学分野でも中国との交流が当時未だ極めて不充分であったかを知った。動物楼の各氏とも学術交流の促進を強く希望して居られたのを記憶している。

青島の海洋生物研究所

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1957年当時の中国科学院海洋生物研究所

真道重明 撮影 OCT.1957

 

青島に在る海洋生物研究所(、海洋研究所)では多くの研究者に会った。当時は未だ本格的な庁舎は建築されて居らず、各棟に各組が分散していた。魚類の成慶泰、甲殻類の劉瑞玉、海藻類の曽呈奎、貝類の李潔民、サバ資源の張孝威の各氏と魚類研究室の前で撮影した写真が有る。

私の専門の分野の仕事では、当時、黄海で多獲されていたマサバの漁獲量が急減したのでその原因解明に全力を挙げていた。これに関連して色々な質問を受け討論したことを憶えている。サバやイワシなど浮魚類は日本の経験でも海域によっては急激な大変動が観察され、魚種交替が起こる実例を述べ、その原因は捕労過度より海象変動に起因するという学説が有力であること、および最近私達の研究所で東海のサバには二種類あり、体の斑紋では区別が困難な場合が有り、背鰭の担鰭骨の数で明確に分離されることが明らかになったことなどを紹介した記憶が有る。

基礎研究だけでなく、水産養殖などの応用科学研究も盛んに行われ、「基礎科学研究と雖ども興味の赴くままに盲目的に研究するのではなく、必ず生産性の向上に貢献することを念頭に置くべきである」という趣旨が研究所の紹介文にあったのが強く印象に残っている。

ずっと後の1986年に再度訪問したときには、南海路に移転し研究分野も拡大して、名称も生物の名が削除され「海洋研究所」に変わっていた。更に翌年訪問したときには循環水槽の独立ビルが完成しており、新しい大総合ビルの設計図が完成し、その起工式が行われていた。その後更に高層ビルが増築され今昔の感に耐えない。

曽呈奎氏

海帯養殖で著名な曽呈奎氏の名は会う前から専門は違うが文献で知っていた。長崎の西海区水産研究所に或る日漂着した海藻の苗が持ち込まれた。漁民の話では時々見掛けると言う。確かに海帯(コンブ)であることが判明したが、日本では北方の北海道でしか採集できない筈で話題になったことがあった。その時中国が海帯養殖に力を入れているということを聞いていたので、少し文献を調べた経験があったので曽呈奎氏の名を知っていたのである。

1987年に上海の東海水産研究所滞在中に青島を訪問した際、名誉院長であったが、笑みを浮かべて高齢にもかかわらず歓迎宴に出てこられ、30数年前に多くの蛍光灯を設置した実験工場のような室内での海帯養殖研究の状況を我々に説明された時の室内の光景を懐かしく私は思い浮かべた。

劉瑞玉氏

私も未だ若輩であったが、1957年の写真を見ると劉瑞玉氏は新進気鋭の研究者の顔として写っている。専門分野が私とは異なるので立ち入った仕事の話をした記憶はない。しかし、后年私がタイ国のバンコクに本部が在る東南亜漁業開発センター(SEAFDEC、国際機関)に在勤中、中国の東南亜海水養殖視察団の団長として各国を歴訪中、奇しくも再会、同センターの施設を案内し昼食を共にし、東南亜における水産業の一般状況などを説明し再会を喜び合った。

その後2週間経って馬来西亜(マレーシア)の首都クアラルンプールでSEAFDECの定例会議があり、同氏ら一行も同地に滞在中だったので、夕刻に私は旅館を訪問し再度会うことが出来た。当時、東南亜各国は対蝦養殖の勃興期の直後で、特にタイ国は蝦養殖に力を入れていたが、同国水産局の担当者は劉団長の中国における試験段階の中国対蝦養殖の単位生産量の水準が高いのには驚いていた。

1986年に劉瑞玉氏は海洋研究所の所長を勤めて居られたが、私は招かれて再び同研究所を訪問し、中国各地の海洋や水産の研究所を歴訪する機会を得た。この機会は約30数年という歳月を隔てた2つの時代の中国の水産業と水産研究に就いての対比が出来、私は得る所が非常に多かった。2002年11月に上海水産大学の建学90周年祝賀に招かれ、晩餐会で数年ぶりに再会した。

実は戦後の訪中に関しては1957年の初回訪中後、私は内心強く訪中の機会を望んでいたが、中国も大躍進運動や文化大革命などで激動の中にあり、私も東京の東海区水産研究所(現、中央水産研究所)に転勤、その後上記の国際機関に11年間も勤務をして、日本から離れていたので機会を失っていたのである。

但し、1983年に無錫でFAOの淡水養殖の国際会議があり、東南亜漁業開発中心の代表団五名の代表として同会議に参加したことが唯一の例外である。しかし、この時は私の業務上の立場もあり、個人的に、上海で一日と言う短時間で上海水産大学や東海研究所の旧友と、また、広州で南海水産研究所の費鴻年氏の顔を見たに過ぎず、青島を訪れることは出来なかった。

中国科学院海洋生物研究所は1986年に同所の劉瑞玉所長の要請で訪れた時には海洋研究所と改名されて居り、場所も青島の南海路に移転し、研究棟のビルも増築され、その後数次訪れる度に面目を一新している。写真は現在(2004年)の様子である。

 

3.5 水産研究所

1957年に訪問した海洋漁業関係の水産研究所は青島の黄海水産研究所と広州の南海水産研究所の2ヶ所である。後年、今でもよく訪れる東海水産研究所は、当時は未だ上海水産学院から分離独立してはいなかった。南海水産研究所は当時は未だ広東省政府に所属していたのかも知れないが記憶は明確ではない。中央政府に移管された後、1986年以降再び数次訪れる機会を得た。

一方、黄海水産研究所は解放前から在る歴史の古い研究所であり、その存在は日本を発つ前から知っていた。コンクリート三階建ての庁舎は当時の木造建ての長崎の我々の研究所の庁舎より遥かに立派で、内部の施設も劣る所はなかった。王従人氏が当時の副所長であった。一年前の1956年に同氏は来日し長崎や福岡でお会いしたことが有り、既に面識が有ったので再会を喜んだ。

劉卓女士の外、日本語に堪能な人が数人も勤務していたのには驚いた。1986年以降この研究所には2度訪れる機会を得た。移転拡張計画が進んでいるのを聞いて嬉しく思ったが、翌年訪れたときには一部は既に基本建設が出来上がっていた。

費鴻年所長:

南海水産研究所の費鴻年氏には1957年には北京到着以来、上海での講義や学会での講演その他で大変お世話になり、また滞在期間を通じて同氏と王貽観、黄文豊の両氏と私の4名は席を同じくして良く議論を闘わした。日本に留学された経験が有り、日本の事情も良く知って居られた。

既述のように、1983年FAO無錫国際会議の帰路、短時間ではあったが広州に立ち寄り20数年ぶりに再会の機会を得た。私がバンコクに帰任したら謄写版刷りの近著が送られてきた。高齢にも拘らず研究一筋に励んで居られるのには頭の下がる想いであった。

1986年再度訪問した時は少し体が弱って人に助けられて椅子に座られたが、頭は非常に確っかりして、最近の学説の紹介やその応用としての網目規制に就いて今筆を進めていると言った話や、往時の上海での想い出などを語り合った。これがお会いした最後となった。この時の会話は通訳無しの日本語で行われ、費鴻年氏の流暢な日本語に驚いた。往時上海では常に中国の研究者数人と一緒だったので、一言も日本語を同氏の口から聞いたことはなかったように記憶している。

私は同研究所には数回訪れたが、1989年世界銀行の漁業発展に関する借款問題のFAO/World Bank 合同「広東省調査団」に参加して同所を訪れた際は、高齢の体調を考慮してお会いするのを遠慮し、その後、暫くして訃報に接した。生涯研究に邁進された費鴻年氏は中国の水産研究の大きな推進者の一人だったと思う。

3.6 水産教育機関

水産の教育機関として1957年当時に訪問したのは現在も中国での水産教育の二大学府である山東大学水産系上海水産学院の2ヶ所であった。これらの学校のうち、山東大学は私達が訪問した2年後に大学の主体は斉南に移り、海洋・水産部門は青島に残って山東海洋学院と改名されたことを知った。私達両名が訪問したときには既述のように上海の水産学院との合併の話が出ているとのことであった。また、上海水産学院も後年になって聞いた話だが、文革中に厦門に疎開し、開放後再び上海の軍工路に戻ったが、図書の多くが未だ厦門に残したままであると聞いた。両校とも激動する歴史の中で多くの紆余曲折があったように思う。山東海洋学院は現在(2003年)は中国海洋大学と改名され、その中に水産学院がある。

1957年当時、これら両校は図書の充実に大きな努力が払われていたように思う。また人件費に較べ研究費や図書購入費が多いのには驚いた。歴史的な条件や環境の諸条件が異なって居たとは言え、我々日本の状況では当時は予算の半分が人件費に費やされているのに較べ羨ましく思ったことを憶えている。当時日本で出版された多くの水産関係の技術書は殆ど完備され、しかも、同じもの数冊が書棚に列んでいた。また、研究所や大学では外国の技術情報や文献の翻訳を任務とする役職が情報室や図書室の中にあることも羨ましく思った。日本では当時も現在も研究所や大学にはこのような役職は存在しない。

大学関係でお会いした人は沢山あった。山東大学水産系の張定民と閔菊初の両氏は青島で海洋所や黄水所の人々と共に常に行動を共にしたのでよく憶えている。張定民氏はその後、事故で亡くなられたと聞いたのは最近になってからである。

上海水産学院(、大学)は私達が講義をする場所になっていたので2ヶ月余に亙って滞在したから、多くの方々と知り合った。 なお、水産ではないが我々は北京滞在中、北京大学の理学部の生物系の見学を希望していた。国慶節の直後で多くの外国からの訪問者が多かったようだが数日後に実現した。先ず、この印象から話をしょう。

北京大学理学部生物系:

此処は以前は市内にあったが解放後に西郊の官庁街を通り抜けた新開地に近い由緒有る建築物や仏塔などのある所に移り学内の庭園は素晴らしかった。いかにも学府に相応しい、樹木有り池に掛けた石橋有りと言った清閑な場所である。狭い日本から来た我々には羨ましい限りであった。

脊椎動物専攻で、動物学会長の李汝祺、神経生理の劉次元の諸氏の説明と案内を受けた。立派な標本室の整備中であったが、仕事の重点は実験生理学で、魚や人類を対象にしたバヴロフ流派の実験が盛んに行われていた。

上海水産学院

朱元鼎院長:

朱元鼎氏の名前は鯉科魚類の研究に関する著作で前から聞き及んでいた。解放前は上海の聖約瀚(聖ヨハネ)大学の教授をしておられた。「如何にも研究に徹した謹厳な先生」というのがお会いした時の第一印象であった。私達が上海の水産学院(現、大学)に到着した時は魚類研究室長の職にあり、暇が在れば私達を標本室に良く案内され親切な説明を聞いた。

私達が滞在中に辞令が出て院長に就任された。当時は板腮類の分類に没頭しておられ、滞在中に挙行された同学の創学記念祭では記念講話として「珍しいサメ類の話」と題して全校の学生に鯨鯊のことを解り易い言葉で話されたのを憶えている。

私室を訪問した際の写真が残っているが、横に寝台が有り、机上は魚類関係の文献が高く積まれ、背後の書棚も文献類で溢れるばかり、その端に熱水瓶があるだけで、他の人に較べ実に質素な「研究こそ我が人生」と言った感じの生活をしておられた。1983年FAOの無錫の会議の帰路、20数年振りに立ち寄った際はまだご存命で学校の構内付属宿舎に起居して居られたが、高齢のため、会うのは遠慮した。その後逝去されたことを聞き哀惜の念に耐えない。

その後、東海水産研究所に滞在していた時、学内には同氏の記念展示室が一年間特設されており、私も故人の偉業を偲んだ。息女が同大学の庶務課に居られることを知り哀悼の意を述べる機会を得たのは私に取ってせめてもの幸せであった。

候朝海氏:

捕労科の主任教授を勤められていた候朝海氏は、旧蜈蚣(ウースン)水産学校(正式名称は江蘇省水産専門学校)の第二代目の校長を勤められた人で、来日した経験もあると言うことだった。日本の印象をお訪ねしたところ、中央気象台の藤原咲平、水産講習所の日暮忠などの両氏とは特に親しかったとのことで私は驚いてしまった。

この藤原咲平、日暮忠の2人は私より一世代前の大先輩、その分野での泰斗であり、私などは名前を知っていただけである。日本に行った時のことを懐かしく思って居られ、親切にして頂いたが、かなり前に故人となられたと聞く。遺影となった元気な頃の写真や頂いた絵葉書は今も私の書棚にある。

無錫の人で話は無錫方言まるだしであったため、学生の中には私に向って「候朝海先生の話は無錫方言で私には意味が時々解らない」といってクスクス笑う人もあったことを思い出す。上海と無錫とは近いのに言葉は福建や広東ほどではないが、日本で言う呉音系統の言葉で、かなり普通語(標準語)とは異なり、同じ呉音系統の上海語とも異なることを知ったのもこの時である。

王貽観氏:

既に故人になられた大柄で柔和な笑みを常に湛えておられた王貽観教授は忘れ難い人の一人である。1957年には上述の費鴻年氏と共に北京まで来て居られ、そこで始めてお会いした。同氏は東京水産大学の前身である農林省水産講習所に留学され、黄文豊氏と共に私にとっては母校の大先輩である。日本の水産学会の生みの親であり、本年(1992年)生誕100年記念集会が行われた田内森三郎先生に才能を認められ、『北海道及び樺太に於けるタラバガニの Stock に関する一二の知見』および『瀬戸内海に於けるマダヒのStockに関する一二の知見』と題する日本水産学会誌 5(5) p.291−294.1937と同誌 6(4) p.175−178、1937(11)に発表された論文は、同誌が発刊されて以来、始めての外国人による投稿論文ではないかと思う。

当時上海の学院で撮影した数葉の写真を持帰り、田内森三郎先生の家族に見せたところ「よく家に遊びに来た王さんだ、お元気で何より」と目を潤ませんばかりに写真に見入って、家族の人々に喜んで頂いた。厳父は清朝の遺臣で福建で生まれたということで、私の記憶に誤りがなければ筆名には福建を意味する「ミン」の一字が付いていたように思う。文化大革命の時には清朝の遺臣という家系もあって、苦労されたのではないかと思わざるを得ない。母校を私と同じくすることもあって万事親切にして頂いた。悠然とした風貌を回想し、今はただご冥福を祈るばかりである。

その後同氏の令弟から手紙があり、写真が添えられていた。北京に住み民族音楽院の院長を定年退職したとのこと。突然の手紙に驚くと共に往時を追憶する書簡を数回交換した。

黄文豊氏: (文豊の「豊」の字は正しくは「さんずい」偏に豊である)。

福建省水産局長やその顧問を勤められた黄文豊氏も上述のように私の大先輩である。手や体を振り大きな身振りと大声で活発に話をする同氏の姿は今も忘れられない。大学での私の講義には分野を共にする王貽観と黄文豊の母校の両先輩が通訳の労を取ってくださり恐縮した。小さなことに拘らない行動力の旺盛な人であった。

後年、私がバンコクのSEAFDECに勤務中、福建省の東南亜漁業視察団長としてタイ国に来られ再会を喜び合った。各所を案内し日本人、タイ人幹部職員を紹介して食事を共にした。もうかなりのお歳であったが、極めて元気でその活発な喋り方は変わらなかった。沿岸各省の中で私は福建省だけは訪問する機会が無かったので、「是非一度来なさい」と誘われたが、これが最後で再会出来ないまま、その後逝去されたことを知り哀惜の念に耐えない。

王尭耕氏:

現在、上海水産大学の捕労部門の長老的立場にある王尭耕氏は当時は若い新進気鋭の一人であった。私の講義に関して常に色々な世話をして下さった。印象に残っているのは講義の中間休暇を利用しての蘇州見学に同行された時、帰路の車中でのソ連や東欧と欧米での水産資源学の対比論議である。日本の資源学は欧米の流れを汲むものであり、ソ連のミコヤン工業大学の教授Baranovの底魚資源の数理模型に端を発するものである。しかし、この学説は欧米[欧美]各国では評価されたが、ソ連ではニコルスキーなどの人々が先頭に立って生物学理論を多く取り入れた説が有力であっり、Baranovの理論は自国内では劣勢に立っていた。

なお、冒頭で私は我々が人民共和国建設後に水産分野では中国としては始めて海外から招いた技術専門家であると言ったが、これは正確ではない。我々両名に先立ち、上記のニコルスキー氏が北京で資源学に就いて数日程度の話をしたそうである。その時の教材は英国人人RUSSEL氏の《OVERFISHING PROBLEM》、即ち『捕労過度問題』と題する冊子であったと聞く。奇しくも私は1952年に英国ケンブリッジ大学の許可を受けてこの冊子を日本語に翻訳して出版していた。王尭耕氏との車中での話に両者共夢中になり、一瞬のうちに上海車站に着いたような気がした。その後、度々上海を訪問する都度、毎回同氏とは会っているが、私が撮影した往時の写真を見ると若かった同氏も私と同様に頭髪に白いものが増えた。

駱肇蕘氏:

戦前、日本の京都帝国大学で農芸化学を専攻された駱肇蕘教授は、当時同行の渡辺氏の講義の方と関係が深かったので、私と専攻分野の話をした記憶は無かったが、色々中国に関する話を聞いた。ゆっくり話される流暢な日本語は数10年前の日本の大学の先生が話す口調で、大先輩の恩師に会っているような感じであった。四川省の人で後には上海水産大学の副校長も勤められた。

現役は退かれたが、今も大学教員の宿舎に居られ、1986年以降は上海を訪れる都度、まだ矍鑠とした元気なお顔に接している。曹正之氏と上海の機械学院の宿舎で交歓の夕を過ごしたことは既に述べた。昨年(1991年)も時々私の学内の宿舎を訪ねてこられ、京劇の好きな私に昆曲を始め中国の戯劇の歴史に就いて、また日本語の漢字の発音と中国の方言や古代発音などの関連など興味のある話を伺った。

2002年11月の上海水産大学の創立90周年の際には、私が京劇を好きだと言うので、「貴妃酔酒」や「霸王別妃」などのDVDを頂いた。また、私が丁度10月末で傘寿になるのをご存じで、誕生日パーティを学長その他の方々と共に開いて頂いた上、私に対する祝いの自作の詩を自筆で書いた掛け軸を頂いた。恐縮の限りであった。駱肇蕘先生は90歳を超える高齢にも拘わらず矍鑠として居られる。

 

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4  解放時に海外に出た人々

華人民共和国が建国される前に中国で水産の研究に携わり、解放時には国外に出た数人に私は海外でお会いした。その多くは上述の中国の国内でお会いした研究者の多くの人々と解放前には机を列べて共に仕事をしていた人々であり、お互いにその後の安否を気遣って居られたに相違ない。事実、国内に居る人も国外に出た人も、会った時には昔の旧友の話が出た。その人達と会った時の印象を述べよう。

陳同白氏:

后年、張震東、楊金森編集の1983年に出版された《中国漁業簡史》を読んでいる中に「1935年に浙江省水産試験場が設置され、場長の陳同白以下、陳椿寿、王貽観、林書顔の各氏が仕事に従事し云々・・・・」の記事を見た。1968年私はAustraliaで開催されたFAOの亜州太平洋漁業理事会第13回会議に日本代表として出席、その帰路に台湾省の要請で同省の漁業統計の改善に就いて意見を求められ、台湾各地を訪れた。陳同白氏に会ったのはこの時が最初であり、また最後であった。当時、同氏は農業復興委員会の水産部会長をして居られた。農復会は連合国の援助予算を持ち、政府の水産局以上の力をその当時は持っていたようである。

その頃は台湾では大陸を訪問した人は中国人、外国人を問わず台湾省は省内に入れない規則になっていたようだが、私は政府招待のために例外であった。また、当時は台湾で大陸の話をすることは当然色々な障害が有った。しかし、広州市の中山大学出身の同氏は私が中国本土を訪問したことを知って居られ、多くの旧友の名を挙げて安否を問われた。私が「その人は元気でやって居られますよ」と答えると、「那很好、那很好」(それは好かった)と懐かしそうな顔をして暫時天井を見て居られた姿は忘れられない。既に故人となられ、後任の傑壮狄氏も今は退職されたが、傑氏と私は西海区水産研究所に同氏が訪問された時代から旧知の間柄で、昨年東京で40年ぶりに会った。時々北京に行くとの話で、時代の変化を痛感した。

林書顔氏:

林書顔氏の名前は冒頭で述べたように、私は学生時代から同氏のキグチ[小黄魚]の論文を通じて知っていた。上記の台湾訪問の際、FAOに関係のあった同氏は偶然にも台湾に滞在中で、高雄市郊外の蝦養殖場建設予定地を視察した時に面会した。陳同白氏と同様、本土の旧友の消息を知りたがって居られた。「この台湾という所は大変に中国の中では変わった独特の習慣があります。例えば菜館では箸は紙の袋に入れてあり、一本の木の棒を客が手で二本に割って箸として使用することなどは本土では見たことがありません」との話を聞いて、私は「それは日本の習慣の影響ですよ」と答えたら、「あー、貴方は日本人でしたね。一つ疑問が解決しました」との返事。国際機関に勤務し共に仕事をする時は皆が同じ仲間で、一々相手の国籍などを考えて会話することは、特殊な場合を除き、一般には先ず無い。同氏との会話は英語だったような気がするがハッキリ憶えてはいない。

林書顔氏は「この習慣は木材資源の無駄遣いにはなりませんか?」また海岸に打ち上げられた多くのビニールの袋を指して「私はこれが嫌いです。将来にはきっと環境汚染問題を引き起こします」とも言われた。同氏の話のとおり、箸もビニール袋も現在日本では資源の無駄遣い問題や産業廃棄物の環境問題として大きな話題になっている。同氏は20余年前に既にこのことを予言し指摘しておられた。FAO職員としてその後ニューヨークで亡くなられたことを私はバンコク在勤中に聞いた。ローマのFAO本部から「蝦養殖専家、林博士死去」の電報がバンコクに届いた。林書顔氏も次ぎに述べる林紹文氏も同姓であり書顔氏は海水蝦、紹文氏は淡水蝦だったので、どちらの林氏か解らず、皆が混乱したことを憶えている。

林書顔に関する詳しい説明は此処をクリックして下さい

林紹文氏:

青島にある黄海水産研究所の所長を1947年1月から1949年4月まで勤めたが、革命時に海外に出た。

福建の樟州(樟の字は正しくは「木偏では無くさんずい偏」である)の人、林紹文氏と始めて会ったのは1966年、私がFAOのバンコクに在るRAPA[アジア太平洋地域事務所]で開催された印度太平洋漁業理事会(IPFC)の「南シナ海トロール漁業作業チームの委員として第一回会議に出席したときである。林紹文氏は同事務所の水産担当官として勤務して居た。燕京大学を卒業後、米国に留学、解放前には厦門大学や山東大学の生物系の教授を歴任、大戦終結直後は上海の中央水産試験所の主任所長を勤められたと聞く。中華人民共和国の建国直前にマレーシアに行き、FAO技術専家として淡水産の大型の手長蝦(オニテナガエビ)の人工養殖に世界で初めて成功。その後タイ国のFAOのバンコク事務所に転勤された。

温厚で柔和な人柄は東南亜の各国の水産技術者の尊敬を集めて居た人である。始めてお会いした時、私が 1957年に中国を訪問した時のことを話すと非常に喜んで居られた。その後、私は隔年毎に同作業チームの会議に数次出席したが、何時も国際機関の中での仕事に就いて親切な指導を受けた。1973年、図らずも私も同じ盤谷に在る東南亜漁業開発中心に勤務することになったが、私の住所と林氏の住んで居た公寓は距離が歩いて数分であり、度々、その自宅を訪問した。夫人は湖北省の人で仲々活発な人柄であった。「最近の若い中国人は尺牘(日本の候文に当たる書簡文体)が書けない。白話文で信書を書いているのが残念だ」といった話を良く聞かされた。

私は「日本でも同じですよ。日本では候文という信書に使う独特の古い文体がありますが、現在では一部の文学者以外は殆ど正しく書ける人は居ません。また教育も白話文と同じ口語文です。時代がそうなったのです」と返事したのを憶えている。林紹文氏は黙って笑って居られた。

私の記憶に残る強烈な印象はSEAFDEC(東南亜漁業開発中心)が1973年に開催した東南アジア漁業技術会議の閉幕式典での同氏の講演で、各国の科学者に対し「先進国や国際機関に対し万事を依存する心を棄て、自力での科学技術発展に努力せよ」という趣旨であった。満場の拍手が起った。これは各国の人々から尊敬と信頼を得ていた同氏にして始めて言える言葉であり、常人が言えば反発はあっても拍手では迎えられなかったであろう。その後、FAOを退職して台湾に暫く滞在。その後家族のいる米国に移られた。

先年、上海を訪れた際、同氏は30年振りに母国の土を踏む機会を得、若い頃仕事をした上海や山東ほか各地を訪問されたと聞き、同氏の胸中は感無量であったに違い無いと察した。1990年、夫人からの訃報に接した。享年84歳であった。私に取って忘れ得ない人の一人である。

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5  経済放寛政策後の所感

 

1983年に無錫での国際会議に出席したのが、放寛政策に転換した後の中国を訪問した最初の経験であることは既に述べた。その後1986年以降、殆ど毎年中国を訪問している。国家が経済に就いて基本的政策の大転換を行った後の中国の状況を外国人の一人である私がどう感じているかに就いて最後に触れておきたい。

5.1 現在から振り返って見た1957年当時の社会

当時の社会の雰囲気:

私に大きな驚きと刺激を与えた反右派闘争運動当時の中国は万事が活発で、皆が祖国の建設に邁進しているように私には思われる。これは私がこの眼で見、この肌をもって実感したことである。当時は未だ人民公社も出現して居なかった時代である。後日、多くの著書や論説で経済解放政策前の中国の政策の批判や誤りが発表されているが、その多くはその後の3年困難期などの天候異変による凶作から来る不幸な食糧不足問題に引き続く、大躍進運動、文化大革命などの左傾的偏向に由来したものであると思う。1957年当時は試行錯誤を繰返しながらも、皆は将来の社会主義国家の建設に向って希望に燃えながら努力していたように思う。

勿論、大鍋飯や鉄椀飯の弊害も聞かなかったし、統一的、指令的体制に問題があるとも聞かなかった。順風万帆とは言えないにしても、新国家建設に努力し、自信に満ちているように私には思われた。

日本人は居らず日本料理屋も無い国:
4ヶ月の滞在中、会った日本人は水産関係では大洋漁業会社の副経理の伊東猪六氏一人だけである。日本料理屋は勿論一軒もなかった。私はそれほど日本料理を食べたいと私は思わなかったが、ただ一度旅大市で刺身と味噌汁の料理方法を知っている調理人が居て、わざわざ我々が日本人であると言うことで特別に調理して貰ったのが唯一の機会である。昨年、上海で「加拉OK」の看板が一昨年に較べて激増しているのに驚いたが、30数年前には夢想だに出来ないことであった。

宗教の布教活動:

中国では社会主義の理念から考えて宗教活動を抑圧していると聞いていた。確かに宗教には無関心で否定的な見解を述べる人が多かったのは事実であったが、信仰心の無い私は別として、同行の渡辺教授は仏教寺院の参観が大好きで、沢山の寺院の参観に私も同伴した。有名な寺院は文化財であり、民族遺産として政府は補修していた。

弾圧していると言う感じは無かったが、礼拝する信者はあまり見掛けなかった。布教活動も禁止されては居なかった。上海で夜に市街の道を歩いていると或人が私を含む通行人に小冊子や紙片を渡していた。読んでみると基督教、ローマン・カトリックの布教宣伝文であった。宗教に対する弾圧はあったとしても過酷ではなかったように思う。

文革中は弾圧が有ったか否か私は知る由も無いが、最近になって訪れた幾つかの寺院、特に舟山の普陀山などは農民の男女や中学生が多く参観や参詣していた。老人は熱心に礼拝し、学生は博物館の見学のような雰囲気である。日本と良く似ている。1957年当時は主に南洋華僑が探親旅行で祖国を訪問した人々が参詣人の中心であったのに較べると全く空気が異っている。

5.2 1957以降に知り合った人々

既に述べた通り1957年の中国訪問以後、1983年の無錫のFAO/NICA国際会議出席を別とすれば、本当の意味で再度訪問できたのは10年に及ぶ国際機関の勤務を終り帰国した後、1986年に科学院の招きで再び中国各地を歴訪した時である。以後、殆ど毎年訪中して旧友に加え多くの新しい友人も出来たし、水産に関する経済改革の様子もこの眼で見て、昔と較べて感じる所も多々有り、感激を新たにすることも多かった。

北京:

北京には1983年以後、科学院招聘、OFCF漁業視察団、FAO/世界銀行調査団などで数次訪れた。訪問目的による私の立場の違いによって、各所で多くの人々に会った。水産司の司長の・大奴氏との会話は特に印象に残っている。話題の中心は私の東南アジア滞在中に感じた同地域における経験と水産教育の問題点であったが、経済改革の進行している中で行政を担当している同氏は非常に率直、かつ柔軟な発想を持っておられるように感じた。同氏が要望しておられた上記の問題点はその後、上海の遠洋漁業培訓中心の招きでの私の講義で少しはお役に立ったかも知れない。

科学院海洋研究所

青島にある海洋研究所の古い友人に就いては既に述べた。此処では1957年の海洋生物研究所時代以来、1986年に当時所長をして居られ泰国の盤谷や馬来西亜でもお会いした旧友の劉瑞玉氏の世話で青島を再訪問し、此処を手始めに全国各地を歴訪した際、同行して通訳をして下さった帯魚分類の専門家の李春生氏のことを述べたい。同氏とはその後色々なことで常に文通があるが、信書の終りには日本の詩の和歌(短歌)の一句が添えられていることが多く、その日本語の造詣の深さには驚かされる。私は日本人であっても文学的な才能が無く他人の詩歌を読むことはあっても自分で作ることはとても出来ない。同氏は油絵も得意で元来芸術的な才能も兼せ持つ人のように見受けられる。外国語で詩歌を作ることは基本的なその言語の鋭い語感がなければ不可能なことだと思う。

「李春生先生は日本人以上に日本語ができますね!」と言ったら、「貴方は日本人と言うより探親帰国した南洋華人(親戚訪問で里帰りした東南アジアからの華僑)のように見えます」と言う答えが返ってきた。話は逸れるがバンコクに勤務中、多くの人が私を日本の国籍を持つ中国人と信じている人が多かった。今でも毎年訪問しているが、今でもそう思っている人が多い。始めのうちは説明していたが、面倒くさくなって止めた。元来、日本人種と言うものはなく、アイヌ原住民、中国、蒙古、南洋の諸人種から混成されたもので、島国のため融合が進み同質社会を形成し、これを日本民族と言っているただけの話である。

東海水産研究所

上海水産学院から分離独立した東海水産研究所にはその後多くの新しい知人が出来た。現役を退かれた趙伝因氏の要請で資源室に数次訪れた。室長は丁仁福氏であった。鄭元甲・陳衛忠・蜜崇道などの諸氏である。上海に行った際は同所には毎回必ず顔を出している。日本語の巧みな繆聖賜氏も現役を退かれたが、現在も常に研究所と関係があり良くお世話になっている。日本の事情にも良く通じて居られ先日は東京でお会いした。上海の水産界と日本との諸関係については同氏の貢献は大きいものが有ると思っている。

趙伝因

趙伝因(正しくは糸偏に因)氏は中国の水産発展に多くの意見を持って居られ、論客と言う感じであるが、穏やかな人柄であり私が1957年に訪中したことを良く知って居られた。私の講義を聴きたかったが公務出張中で参加できなかった由。1987年に上海の魯迅記念公園でお会いしたのが最初である。その後の付合いは長い。東海に面した沿海の鹹水増養殖の発展に意欲を強くもって居られ、浙江省の三門湾や遼寧、山東の視察にも同行され、多くの意見交換をした。私の好きな唐詩にも造詣が深く、頂いた分厚い《唐詩鑑賞辞典》は何時も自宅の私の部屋の書棚にある。残念にも数年前に故人となられた。

繆聖賜

情報室に席のあった繆聖賜氏は上海水産学院の卒業で、関西訛りの日本語がとても堪能な人である。広東省出身だそうだが上海は長い。日中民間漁業協定の海難相互援助活動では現場通訳で功績が多かった。ご家庭に招待されて刺身などご馳走になったことも数回ある。公務で日本にも度々来訪、東京でもお会いしている。上海を訪れる際は何時も飛行場に送迎に来られ友諠には大いに感謝している。

上海水産大学

30数年前に講義をした上海水産学院は大学と名称が変わり、文革時には厦門に移るなど多くの苦労が有ったと聞くが、やはり、その昔に2ヶ月以上に亙って滞在した時の強い印象もあって、私に取っては懐かしい場所である。正面玄関の門などは昔のままであるし、構内は校舎が新築されたりして変わってはいるが、各所に昔日の面影が残っている。既述の前院長の駱肇蕘始め、漁労の王尭耕教授など、皆現役は退いて居られるが、今も学校の活動には参加して居られ、嬉しく思った。新しく知り合った人も多い。

楽美龍

寧波の人、楽美龍校長(日本の学長に当たる)は人に接するとき常に笑みを顔面に湛えている人である。私が日本の前水産庁次長の恩田幸男氏に私が「上海に行く」と言ったら同氏は「大学の楽校長に宜しく。以前に楽氏が國際行政担当だった頃、日中の政府間の漁業会議で楽氏と大論争をしたが、決して好んで激論したわけではない。個人的には尊敬していると伝えてください」と言うことであった。上海でこの伝言を話すと楽園校長は「破顔一笑して、私も同じ気持ちです。その時はお互いに夫々の立場があって論争したが、今は恩田氏が日本栽培漁業協会の理事長として中国との技術協力に尽くして居られ、尊敬しまた感謝していると伝えてください」と言う返事であった。双方の人柄が偲ばれ強く印象に残っている。
同氏は校長の任期を終えて後、現在は同大学内のキャンパスにある北京の中央政府直属の遠洋漁業培訓中心(遠洋漁業訓練センター)の責任者として活躍して居られ、中国水産教育の代表者の一人である。

伍漢霖

現在、中国の魚類分類学者の代表者の一人である伍漢霖教授は広州の人、日本の魚類学者との親交も深く、今上天皇とも親しい。また台湾の研究者とも交友が深い。私の色々な問い合わせにも詳しく親切な回答を寄せられることに感謝している。
仕事の鬼とも言うべき研究に極めて熱心な人と感心している。来日経験も多く知っている人も多いのではないかと思う。分厚い大型版の《拉漢世界魚類名典》(拉はラテン語、学名の意)は日本でも多くの人が重用している。

 

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6 経済改革後の中国水産の感想

 

上海水産大学での質問:

1983年、無錫で開催されたFAOのNICA会議出席後、泰国の盤谷に帰任する帰路、上海に立ち寄った際、水産大学で私は以下述べる質問をした。今から10年近く前のことである。「26数年前の1957年に貴国を訪問の時の水産業の実態と発展計画から見て、私の憶測では1950-1957の間の総生産の上昇率から単純に推定しても、少なくも8百万噸程度には増大して居て良さそうであるが、現実には現在は5百万噸左右と聞いた。私の予測を下回った主要な原因は何処にあるとお考えですか?」と問うた。直ぐ返ってきた答えは「文革の10年余を差し引いて空白期と思って下さい」。なるほど、そのように考えれば5-6百万噸になる。

勿論、生産の長期増加予測を私がこんな単純な外挿法で計算するのは稚戯に類した話であり、多くの要因が関与する。事実、文革期にも生産は停止せず僅かながら上昇を示しているが、その前後には停滞や低下などの紆余曲折があった訳で問題は単純ではないが、10余年を空白と計算すれば、不思議にも生産値の大体の見当は当っている。同校はこの期間は厦門に強制疎開をさせられその活動は空白に近かったと聞いた。如何に文革が大きな影響を与えたかに改めて知らされた思いであった。

研究情報の問題:

研究者の立場から見て私が中国に関し日頃感じていることの一つは、統計・研究の情報の配布組織と情報共有組織の問題である。資源研究等では極めて大切な統計情報を研究者に対して供給することや情報の共有と有効利用の組織が不完全であると言う点である。

現在では改善されたかも知れないが、「他の海区の統計書は同じ政府機関である統計編纂作成単位が出版しそこから購入する」と言う。研究所や大学に購入する予算がなければ入手できない訳である。政府機関ではない民営会社などが政府出版物を必要に応じて購入するのは解るが、同じ政府機関内であれば政府所属の研究者が必要とする統計研究情報は統計編纂作成単位が必要な範囲には無償で配布の責任を持つのが良いのではなかろうか?政府内部の独立採算制度は解るが、是非必要なものは特例措置を取るのが効率的ではなかろうか?

さらに重要なことは各種情報の共有組織の確立であろう。日本でも数10年前には、研究者も行政担当者も自分の持つ情報を「私有」と言うより「私蔵」し、担当部署が変わっても後任者に手渡さず、自分で持っていた。行政担当者の場合は「先任者の任期内に起った問題は私は知らないし、責任も持てない。」と言う言い方で後任者は個人的な責任を回避すると言う弊害があった。その後、政府機関としては、しかし、部署交替で責任を回避することは悪質な該部署の怠慢であるという世論に押され、改善策が採られるようになった。

研究者の場合は事情は行政担当者とは異り、他の研究者との研究成果の競合意識から、本人だけが持っている文献や情報は他人には余り見せようとしない、即ち私有知的財産としたいという気持ちになることが多い。現在では多くの研究が個人の水準で行われる時代ではなくプロジェクト・チームの形態を採るようになって来たので、情報の私有は許されなくなり、「誰もがかなり自由に同僚の持つ情報を見る、即ち共有する機運が生まれてきた。一方、農林水産省のなかの「農林水産技術会議」では全国の中央政府の水産研究所や県庁の水産試験場の全研究者に毎年1回研究進捗状況の報告を義務付け、これを編集して内部資料として配布する制度を30数年前に作った。これは非常に研究の進展に役だった。

私はバンコクで多年日本に留学したフランス人の女性水産学者から「何故日本の研究者は同分野の仕事をしている他の研究者の仕事の内容を、まだ印刷公表していない前から良く知っているのか?」と質問されたことが有る。彼女は上述の制度を知らなかったのでその制度を説明すると「どうして日本のことを良く知っているのか?」と聞くので「私は日本人だ」といったら、「どうりで・・・」と驚いていた。フランスではこの制度はない」とのことであった。

中国でも何らかの方法で研究情報の共有組織を検討すべきではなかろうか?特殊な専門的内容であり、一般社会に公開することに問題が有れば、関係者だけに内部資料として配布すれば良いのである。商品経済思想が進むと研究成果が商品と看做される場合もある。会社などに付属する民間研究機関では企業秘密として扱われることも多いが、政府機関、大学では中央政府が組織的、計画的に研究者のためにもっと助成すべきではなかろうか。当時の私の中国側に対する助言である。

6.3 経済解放に伴う研究者の立場:

研究分野にはその時の社会の需要や政策によって、日の当る研究分野と日の当らない研究分野とができる。自然科学の研究には基礎と応用の2分野があることは言うまでもないが、基礎研究は勿論、応用研究でもその分野によっては、その時点における社会経済条件によって優遇されない分野が出てくる。

日が当ると言うのは、例えば日本では50年前には捕獲漁業技術の分野は関連産業が活発に発展中で捕労会社も利益が多く、新技術開発の需要も多かったから、研究者に対する予算も多かった。彼等は自分の専門領域の研究を謳歌していた。その後、資源の破壊によって問題が生じ、漁撈会社の収益が低下し、一方、海水養殖が盛んになると、日の当る分野は捕労技術から養殖技術に移った。今は養殖技術者は社会の人気者になっている。研究者を育成するには多大の時間・労力・経費を要し、簡単に他の分野に転身することは出来ない。

中国は現在経済解放政策による経済改革が深まるのに伴って、社会が要求する専門技術にも大きな変化が起って居るように思う。誰もが日の当る分野の仕事に就きたがるのは人情と言うものであろうが、研究者によってはそうは行かないから日陰に置かれた研究者は意欲を喪失する。また、若い研究者は日の当る分野ばかりを皆が指向することになれば、研究体系全体が跛行する。近視眼的な視野に立たず、中・長期計画を考えるのは政府の責任である。私は予算不足と言う現実を承知の上で、敢えて老婆心ながらこの点を心配していると助言した。

6.4 研究予算の不足への対応:

また、研究活動は元来、軍隊と同じく経済的には消耗活動である。応用研究分野などでは、場合によっては実験段階で生ずる生産物を販売して収益を得ることが出来る。しかし、これは飽くまで副産物であり、生産が目的ではない。予算不足の状況下ではやむを得ないが、この収益を研究予算に短絡的に組み込む場合は細心の注意が必要である。

日本は敗戦後、予算の不足から地方政府の下にある研究機関に対して地方政府はこの方法を採った。結果は完全に大失敗であった。研究者は「収益の拡大に狂奔し、本来の任務である研究を忘れてしまう」と言う苦い経験がある。研究者が収益に狂奔しても所詮は『素人の商法』であり、経験の多い会社や商人とは競争できないし、全体としては大きな損失であった。これも中国側に対する助言である。

6.5 量と質の問題および利用の比率:

生産量と品質の問題:

生産量の拡大や生産性を高めることは経済の基本的な問題である。生産量が重要な指標であることに間違いはない。しかし、「量」即ち重量と言う指数を重視し過ぎたのではないかと私は思っている。水域の中に1億噸の有用資源が「生物学的に」存在していたとしても、それを捕獲して利用することが出来なければ「経済的には無に等しい」のと同じで、生産現場で10万噸の魚の生産が有っても、其の内、人間の利用できるものが6万噸であれば、生産は6万噸と言った方がむしろ意味がある。

歩留りの率、商品価値、付加価値、販売価格など各種の諸指標も、「重量」と同様に重要である。生産が目的ではなく生産物を利用することが目的である。こんなことは議論するまでもなく読者の方々には解り切ったことであろうが、敢えてこの点に触れたのは、多くの会話や記述が量だけを云々して、従来では利用度を示す諸指標にあまり触れていないからである。「品質を重視せよ」の語句は今盛んに叫ばれているが、全く賛成であり同感である。

加工や流通面の強化の問題:

先年、私は世界銀行の借款に関連した仕事で広東省の主要な海洋漁業基地を1ヶ月以上かけて考察した。私の任務は資源であったが、門外漢ながら加工や流通に関してもその方面の専門家と行動を共にした時の経験から、加工や流通面の、所謂「后勤」の側面が弱体である印象を受けた。恐らく従来は生産の第一線(前線)の量の向上に主な目的を絞りすぎたために、増産の努力が生産現場の重量増大に意識が集中し過ぎ、水産業という産業全体の均衡が取れた発展にならなかったのではないかと思われた。これらの問題点に就いては広東省の担当者の人々は充分な認識を持っていた。問題は今後旨くやるか否かに係っている。

先進技術の追及:

先進技術の追及は何事に限らず重要であることは言うまでもない。しかし、私が東南アジアで経験したように、国内国外の先進技術の導入に熱心な余り、その前に解決すべき重要な問題が看過されていることが有るかどうかを充分に、また慎重に点検して置く必要が有るように思う。例えば、タイ国の蝦養殖はこの10年間に工場化形態に到達する所まで進歩しているが、これは高度の技術を競争して導入し、経済の効益や公益を実現するには「高度の水準の技術」が最も役に立つと過信した結果である。自動車が氾濫する社会にも多くの自転車「自行車」が共存して多く利用されているように、広大な天然水域の天然生産力を利用した粗放式養殖の方が収支を考えると遥かに有利な収益性を確保できることが有る点を見逃している。

古代の《養魚経》以来、淡水養魚に就いては伝統的な優れた発想と技術を持つ中国である。外国の養魚先進技術が必ずしも常に最善ではないことを慎重に検討すべきである。或る国の先進技術はそれが発展した国の国土や社会経済条件を基盤に展開されたものであり、それらの条件が異る場所では、必ずしも経済的に最も優れているとは言えない場合がある。特に一次産業ではそうである。

6.6 「以養為主」と種苗放流:

水産養殖業を主な漁業発展の目標とする「以養為主」の方針が1980年代の前半に明確に打ち出されたが、古い昔から淡水養殖生産では広大な淡水面積を持つ中国は世界で首位を占めてきたし、最近の海水養殖技術の進歩は一層それに拍車を掛けているから、生産量は急昇しており実践の面でもこの方針が正しいことを証明しているし、立地条件や伝統的技術から見て理論的にも正しいものと思う。

日本の淡水養殖は淡水面積が小さいこともあって水産総生産の2%にも満たない。近代の日本の養殖業は動物蛋白の供給が目的ではなく、高級魚の生産を指向し、多量の動物蛋白を餌料として消費するから、人民に対する食糧供給の問題とは逆行している。換言すればより美味しいものを食べたいと言う欲望を満たすことで販売競争に優位に立ち利潤追及を目標を置いて発展してきたとも言える。従って日本の技術は創匯漁業(外貨獲得漁業)の観点からは意味が有っても、蛋白供給の観点からは、日本の技術はその侭の形では役にあまり立たない。

当然のことであるが中国の経済条件や立地条件を考えて役立つところだけを吸収すべきで、この点は充分考慮しなければならない。資本主義の下での市場経済では生産者は利潤追及が至上目標となる傾向が有り、消費者の利益を無視した方向に進む危険が多い。日本の技術の発展と展開にはこの影響を受けている場合があるから注意しなければならない。

具体例を挙げれば、養魚に際して疾病による死亡率を少なくするために過去には多量の抗生物質を使用したことが有った。その養殖魚を沢山食べた人はその抗生物質に対する耐性ができ、病気になった時、医者はその抗生物質を「患者に使用しても効果がない」と言う医療上の問題が生じた。養殖業者は公衆衛生上のこの問題を既に知っていたにも拘らず、利潤追及のためには大衆に被害を与えている事情に眼を閉じて居たのである。その後、世論に押され規制されるようになった。

このような技術上の諸問題は最近の遺伝子工学を含むバイテク(Biotechnology)を駆使すれば、従来以上に色々なことが可能になる。例えば、「外観が良くて若年層の嗜好に合い、購買意欲を誘う」が実はこれは栄養学的にはむしろ劣化しているといった蔬菜類も最近問題になっている。利潤追及のみに走り大衆の被害は無視する方向へ技術が進む危険性は常に存在する。新技術と言ってもその導入には常に慎重な検討が必要である。

一方、種苗放流の問題は中国にとって、淡水と海水を問わず非常に重要な要素を持っているように思う。本質的には資源を人工的に育成することを目的としているから食糧供給にも直結する。しかし、日本で「栽培漁業」と称している種苗放流は年々進歩しては居るけれども、これによって天然の資源の生産力に取って変わる時代が今後50年以内に来るとは実際には考えていない。中国の方が遥かにこの問題には大きな期待を掛けているように思われる。これは両国の捕獲漁業の置かれている立場や地理的条件の差異から来ているように思っている。中国の期待は今後の努力如何に依存するのかも知れない。

もう一つの問題は外国種の移植である。成長が速く病害にも強い種類を移植することは、勿論、好ましいことである。しかし、日本ではこの問題に非常に慎重である。その原因は過去に外国産の品種が意識的に移植され(または偶然に入り込み結果的には移植され)、これらが生態系を崩壊させ、大きな被害を惹起した苦い経験が度々有ったからである。北美大陸から来たワタリザリガニは稲田の土手に穴を穿ち農民に大恐慌を来したし、台湾や朝鮮から入れた雷魚は他の淡水の伝統種を食べ尽くし、駆除に苦労した。

今でも中国や朝鮮半島のケツギョ[桂花魚]は美味で養殖したいが、獰猛な肉食性のために他の伝統的な淡水魚を圧倒して食べ尽くすことを恐れて、研究機関や水族館では厳重な管理を行い、野外への脱出逃亡を防いでいる。この点の考慮は中国でも研究者によって勿論検討されているとは思うが、日本が経験したような問題が起らないことを望む。大胆に試行することは良いことだが、同時に慎重さも必要である。

東黄海の資源問題と中韓の国交正常化;

東海黄海の資源、特に底魚資源は周知のように捕労過度によって極めて悪化した状況にある。これを改善するには国際的な科学的調査と研究や対策が国際共通の形で行われる必要が有る。不幸にして今までは日中と日韓と言う2国間協定で問題に対応してきたので、正常な形ではなかった。協定の交渉も自国の利益と言う考えが強く双方の背後にあって、本当の世界の他の幾つかの場合に較べ科学論議は弱体であった。

本年(1992)8月の中国と韓国の国交正常化の合意は、この問題についても極めて意義深いものである。この海域で捕獲漁業を営む3国の代表が一堂に会する可能性の基盤が出来たわけである。思えば私達が日本で東海黄海の資源研究を始めた1948年から起算すると半世紀を経過して後、始めてこの条件が生まれたことになる。

もっとも、3ヶ国の政府代表が漁業問題を一堂に会することが可能になったとしても、直ぐに資源問題が解決するとは思えないが、出来るだけ速く公式の3国共同資源調査委員会を発足させるべきであろう。私は日本と韓国との間に外交関係が樹立された直後、両国の政府間漁業協定を締結するための会議に出席した経験が有る。以後5回に亙って連続主席したが、今から振り返ってみると、委員会発足後2年後には「科学小委員会」が組織され、本委員会とは別個に詳しい資料交換や討議が行われるようになった。本委員会は率直に言って国際政治的な、換言すれば国益に基づく「駆引き」が行われる場であるが、年々、科学小委員会の意見具申が本委員会に反映するようになった。これは世界のこの種の会議の一般的傾向であり、北太平洋漁業条約でも経緯は似ている。科学委員会が問題の本質的解決に最も貢献する。速くその実現を望むものである。

幹部教育での問題:

私が東南亜漁業開発中心(国際機関)で東南アジア各国の水産局幹部の教育訓練に従事した経験から感じたことの一つに水産幹部教育の問題がある。多くの国の大学の水産系の教育では幹部は最初から幹部候補で、工員は最初から工員である。従って、例えば船舶職員に就いて言えば、幹部教育には綱の結び方、漁網の修理の方法などは教えない。また、それ等を実地に訓練する設備も無く、ただ掛図を見せて概要の説明を一度するだけである。これではとても頭には記憶としてその知識は残らない。その背景には「工員の仕事だから幹部にはあまり重要ではない。幹部は全体を見て指揮することが大事なことだ」と言う考え方が有る。しかし、「あまり重要ではない」と言うのは誤りであって、工員の担当する仕事に熟達する必要はないけれども、自分で体験しその仕事の内容を充分知っていなければならない。

これらの幹部の人々を再教育するに際して、徹底的に下級漁船員の作業そのものを実際に訓練をした。何故ならば、船上で幹部である高級船員が漁労作業を指揮するのに際して、漁網の修理にどれだけの時間と労力を必要とするかを知らなければ、生産現場である洋上で適切な指揮を取ることは出来ず、せっかく魚群を発見しても投網の機を失ってしまうからである。これは単に一例であって多くの面で同様な問題があった。

例えば、調査研究では標本採集は学生に任せて教授は監督もしない。研究室で計器が壊れると修理担当者に任せ、修理が終るまで何もしない。まだ経験の少ない未熟な学生は常に正しい操作基準に沿って標本を採集しているとは限らないし、壊れた計器の修理が完全か否か、零点修正も行われたか否かまで配慮し点検しなければ調査研究のための正確な数値は得られない。これを行わないと多額の経費を消費して得られた大切な資料の信頼度は保証できない。

このような状況は現在年々改善されつつあるが、高級幹部や教授が工員や下級職員の仕事をするのは「権威を失う、自分の担当ではない」という気持ちは未だ完全には解消していない。私の友人が計器の修理をしていたら「老師が修理などのような下級の仕事をしてはいけません」と苦情を言われて驚いたと言う話もある。中国ではこのような問題点は充分に理解されているとは思うが、老婆心から敢えて触れた。

 

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あとがき (中国文の結語の和訳)

 

文は思い付くまま、問題を特定せずに書き流したものである。「追憶」有り、「感想」有り、「意見」ありと言った具合で、内容に統一性はない。一人の日本人が(私はあまり日本人らしくない日本人と良く海外で外国人から言われるけれども)水産研究に従事している一日本人として「35年前の想い出と共に、中国の水産業に就いて、今どのように見ているか、今何を感じているか」を書いた。この小文が中国の老朋友們(古からの友達)に何らかの参考になれば幸である。

勿論、記述内容には多くの記憶違いや誤解も多いものと思われる。しかし、私としては率直に感想や意見を書いたつもりである。「好言令色鮮矣仁」ではないが、率直な意見交換がなければ真の相互理解は出来ないと思うからである。

1957年に中国を訪問して後、経済解放路線が打ち出され再び色々な実態が私達にかなり解るようになるまでの30年に近い期間に就いては、我々が知り得た中国漁業の実態や状況に関する知識は極めて限られた極く僅かなものであった。率直に言って、百分比で表示した総生産量と断片的な幾つかの地区に関する生産量の増減比率程度に過ぎなかった。

いずれの国家も情報を無制限に公開することは、勿論、出来ることではないけれども、逆に情報がまた余りにも少ないと、技術協力や商談の相手国の人々は「実情が解らないことから来る不安感」のために、国際協力項目でも国際貿易や合弁企業でも、考慮検討の対象から外されて何事も成立しない。仮令、問題に不正確な情報であっても情報が存在している方が存在しない場合より良い。その正確な点を考慮に入れた条件の下で検討が可能である場合も多い。

全く情報がなければ「実態不明につき検討が不能である。従って本件は考慮の対象から除外する」といった結論になれば問題は何一つ解決せず話は少しも進展しない。このような例は私は海外で枚挙に暇がないほど見てきた。経済改革によって相互に情報の疎通が飛躍的に進展して来た現在の状況を、私は極めて好ましく思っている。真の相互理解が可能となる基盤が出来つつあるからである。冒頭でも述べたようにこれが真の友好と相互の協力の基礎になると私は堅く信じている。

(中国語の旧稿は1994年11月28日に上梓) 真道重明 記。

 

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