昨日の敵は?

本稿は私の水産研究所時代の同僚、山中一郎氏のGHQの英語通訳の体験記である。私がホームページで敵だった中国軍司令部で通訳勤務をして居た経験を知り、自分も同じような経験をしたと本稿を投稿して頂いた。私は中国で中国語、山中氏は日本で英語と言葉や環境は全く異なるが、似た経験を持つ私は一気に読み通した。

山中 一郎

1994年

 ichi.yamanaka@nifty.ne.jp

山中一郎 エッセイは他にもあります。下記をクリックして下さい。


「葉山の落日」    海軍技術士官の敗戦秘話

「計算機との付合い半世紀」 計算機と電脳機

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(一)


   日の葉山を後に焼け残りのぼろアパ−トの一室に仮住いしている親元に帰った私は、身分こそまだ「予備役海軍技術中尉」ではあるが、所詮失業敗残兵である。又、父も軍需関係の仕事なので失職同様、焼け出されの無一文という事情では大学の研究室に戻ることも出来ない。その時、丁度新聞に載った「外務省臨時通訳募集、学歴専卒以上、年齢経験不問」の広告を見て、「一つやってみるか、薩英戦争で散々負けたのを目の当たりにした東郷平八郎がすぐさま英国留学を決意したのと比較するのは大げさだけれども米軍と言うものの正体を少し見てやろう」と好奇心も多少混じった気持ちで応募した。幸い、旧制中学はいわゆるミッション・スク−ルで米人に英語の授業を受けてきた私には試験は若干有利ではないかと勝手な解釈もした。勿論かつての帝国海軍士官が敵軍の為に働くと言う抵抗感が皆無ではないが、どうせ日本中が捕虜になったと思えばいい。勿論、何時の日にか米国留学の日でも来ればというほのかな夢もあった。


   試験は外務省の一室で行われた。応募者の面々を見ると、その数は七十人ぐらい、学生あり、老人あり、国民服姿 、衿章跡も生々しい将校軍服姿、背広姿、それがすべて入学試験を受ける学生のように何年か前に使ったのか解らない古い英語の参考書を出して読んだりしている。やがて事務官と試験官が机を担ついできて、受験者の氏名、生年月日、学歴、外国滞在の有無、前職等の記入を求めたが、その試験官を一目見て私は全く再び驚いた。日本人、しかも何と、これは中学校時代の校長ではないか。向こうも私を見て驚いたような顔をしていた。これなら平ちゃらだ。試験と言っても簡単なものだ。一人が二三分で済んでしまう。それも応募者が控えている部屋の一隅で行われるのでよく耳をすましていれば何を言っているのか聞こえる。試験官の方は小声であるが、受験者の方はかなり大声で、半分上がってしまい、「イエス、アイ アム、ノ− アイ シンク」など汗だくになっている。

   合格した者はその場でなにやら紙片を貰って帰る。「どうでした」と順を待つ別の受験者が問いかける。「ヤア−、どうにか、明日から立川です」とそれでも安心した様子だ。見ていると受験者の半分ぐらいは合格して行くらしい。

   いよいよ自分の番だ。米国の大学を出たという元校長のT先生は、私が在学中にそうであったように鼻と目を出来るだけくっつけたような顔をして色々質問する。この先生の発音ならば解らない筈はない。

   「きみはポツダム宣言を知っているか、「Have you ever read about the Potzdam Declare ?」から始まり、「今後の日本に許される産業は何か」、「ポツダム宣言は日本に何を要求しているのか」だの、そのほか私の身上に関することを少し話していると。「All right. Very well.」 と言うわけで何時の間に試験は済んでしまい、隣の事務官から、「では明朝7時半に羽田に行って、この将校に会って下さいと、二三枚の書類をくれた。「外務省終戦連絡中央事務局第4部」と言う名前で「東京地区連合軍の通訳に関する臨時事務を嘱託する」という辞令、これから勤務する部隊と担当将校名を書いた紹介状、それに米軍軍人の階級章の見分けかたのプリントであった。これで自分はアッサリと米軍通訳になってしまったのである。合格を全く期待しなかった試験だったので何だか変な気がした。別に学校の卒業証書が入用なわけでもなし、正式な履歴書を出すのでもなし、只、試験場で記入したカ−ドと数分間の会話、これだけである。

  採用されたからには出勤しなくてはならない。その晩はヘマをやって青い目をした奴に怒鳴られる夢を見たりした。尤も、これは中学校時代から馴れているので平気な筈だがやはり気になる。中学時代の英会話のミス・Dという教師(ミスと言っても50過ぎ)にいつもどやされていた。興奮してどやせばどやすほどこちらには何を言ってるのかサッパリ解らなくなるので平気なわけだ。この時は、クラスにいた二世の生徒が通訳してくれるが、およそ迫力が無い。時々日本語で、「アナタ アタマ オルス」等とくるが、かえって笑いを誘うだけだった。

   さて、翌朝悲壮(?)な覚悟で家を出た。昨日は旧師の特別なお取り計らいで(きっとそうだろう)で合格になったものの、些か有難迷惑な話だ、なに、ボロを出したら辞めればいいさ。始めから予定して無かったのだから。しかしいつまで続くか。その間に多少でも英語が上達すればいいさ。けれども妙なものだな。この間までの敵軍の将校、しかも自分と階級の違わない将校のところに通訳として勤務するなんて。等と色々思ったものの、不思議なことには先日までの敵に無条件降伏して、その下で働くと言う屈辱感は全くと言ってもよい程なく、好奇心と不安の方が多かった。

   大鳥居駅から少し行くと羽田飛行場の入り口があり、MPの屯所がある。ガムをモグモグやっている一人をつかまえて、「ハロ−、イクスキュ−ズ・ミ−」。

   これが通訳開業以来イの一番に使った英語だ。この時自分の鞄の中に英和と和英のコンサイズ辞書(民間では戦争中タバコの巻紙に使った人もあると言うが、私の場合海軍で使っていたため焼失を免れた)が入っていたことは言うまでもない。この言葉も電車の中で相当考えてきた文句だった。案の定、そのMPはギョロリとみて、「ホワット」ときた。これなら筋書きどうり。後は、これも考えてきた通り、"I am an interpreter just adopted yesterday. I want to see this officer." 「私は昨日採用された通訳だ。この将校に会いたい」。

 MPは解ったらしく盛んにペラペラ、、・・・・ウ−ン解らない。唯だ解ったのはヘッドクオ−タ−ズ・ビルディング(本部の建物)それだけ解れば十分だ。できるだけ心臓を強くして、「オ−ル・ライト サンキュ− ヴェリマッチ」とこれで文字どおり第一に関門を突破した。後はまたそこらを歩いてる兵隊を捕らえて、「イクスキュ−ズミ−」と「ホエヤ イズ ザ ヘッドクオ−タ−ス」を繰り返しながら本部の建物を捜し当てるばかりである。しかしいきなり「ホエヤ イズ」をやられたのでは兵隊も面食らったことであろう。この様なときには「メイ アイ アスク ユ−」を入れるべきだったと気がついたのはそれから数時間経ってからだった。

   本部は間もなく見つかった。玄関の上に美麗な飾り文字でHEADQUARTERS Z-th AIR SERVICE AREA COMMANDS (第7航空地区基地隊司令部)と、隊のマ−クの紋章のついた看板が掛けられてある。軍隊の司令部に飾り文字のまるで喫茶店の看板のような物を出すというのが、当時の私にとって奇異な感のしたのはいうまでもない。

 

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(二)

 

  片に書かれたガ−ナ−中尉(銀筋1本の階級章を持つファ−スト・ルテナント)というのはこの部隊の日本人職員、労務者の人事、日本側に発注する工事等の事務を行う ”CIVIL AFFAIR SECTION” と言う係の担当将校であった。ここには慶應大学の学生K君というのがやはり私と同じ試験を2日ばかり前に受けて入っていた。ここで私は、「アイ ベグ ユ−ア パ−ドン イクスキュ−ズ ミ−」を何度も繰り返し、汗だくになりながらとにかく、私の仕事の内容が、大森に建設される高級将校宿舎の設営に関する事務であることを確かめることが出来た。ゲ−トパス発給等の手続きの後、この建物の一隅にある "INTERPRETERS POOL" (通訳控室)に案内された。

そこには前任者が二人ばかりいたが、一人はK学生、一人は中学の教師をしていたという30才過ぎの人で、皆、数日前に同じ様にしてここに着任したばかりだった。聞いてみると試験の問題も皆同じ様なもの、さっきのMPの屯所からここに來るまでの苦心談も、皆身に覚えがあると見えて大笑いだった。ここで始めてここでは昼食は兵食が支給されること、残業早出の時は夕食や朝食も支給されること、菓子やタバコは公然とは配給されないが、個人的なル−トでなら手に入ることも知った。

十分程すると、さっきのガ−ナ−中尉が、銀筋2本の大尉の階級章を付けた将校を連れて入ってきた。ガ中尉はまだ年の若い学生らしい将校であったが、今度のは中年で頭は半白の猛烈に太った、しかも微笑をたたえた紳士である。ガ中尉は私をみつけ、「ミスタ−・ヤマナカ」と呼掛けてきた。これで私は一安心した。昨夜の夢のような神経質のやかまし屋ではないらしい。この人の下なら割に楽に働けるのではないかと思った。案の定、ガ中尉は「これがキャプテン・ミ−ンズ。きみは彼のもとで働け」と今度は分かりやすい発音で紹介してくれた。(・・キャプテンは海軍なら大佐だがここは陸軍だから大尉だな・・)ミ−ンズ大尉は優しい顔つきで握手を求めてきた。これで私の、あるいは奴隷のようにガミガミ言われながらこき使われるのではないかと言う不安は薄らぎ、自分がほぼ対等に取り扱われていると言う安心感が出てきた。そこで私は更に心臓を強くして言った。

  "I am glad to see you, Captain."(これは中学時代に習った会話だから何でもない) 続けて、「私の心配なのは、貴官が余り早く話すと理解できないかもしれない。どうかその時は紙に書いて下さい。そうすれば直ちに理解できましょう」(I shall understand you immediately.)と最期の immediately にアクセントを思わず入れてしまったが、ミ−ンズ大尉は微笑したまま、「アイ シ− オ−ケ−」といってくれた。これで次の不安も薄らいだ。すると大尉は、「よろしい。では付いて来い、我々は市中に仕事がある」といって外に出て自分のジ−プに私を招じた。これが私のジ−プなるものに乗った最初である。しかし私はまた不安になった。予備訓練も無しにこの様な、筆談の方が早いと自ら断わっている新米を連れて早速仕事に出かけるなんて、仕方無い。今から騒いでも始まらぬ。後は心臓だけだ頼りと図々しく構えていた。大尉は気を使ってか、自動車を走らせながらユックリと一語一語句切りながら色々のことを尋ねる。(ハハ−ン、この先生、俺がどのくらい英語がわかるか試験しているな。それなら安心だ)。

  「君は英語を学んで何年になるかね」(ナ−ル程、教科書にこんなのあったっけ)。「10年以上です」。「学校では何を勉強したのかね」、「中学で英語、数学、物理、化学、生物学、地理、歴史等々、高等学校でそのほかドイツ語、微積分、力学(そうそう、外人と話すときは遠慮してはいけない。うんと心臓強く少し誇張するくらいでないと損をすると誰かに教わった)−心理学、経済学、哲学、(少しはかじったぞ)。「大学では英語は教えないのか」、「大学では教えない。しかし物理でも数学でも教科書は英語やドイツ語の物が多い。(少しびっくりさせてやれ)。「なるほど、それなら君はサイエンティストか、」、「イエス、キャプテン」、「アイ シ−、ヴェリ− ウェル」(なるほど、結構)。(・・・ハテネ?感心したのかな、それとも俺の英語の力がだいたいどの程度か解ったと言うのかな?)。

 

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(三)

 

  −プは大森駅前の闇市通り(この頃の闇市は道路にじかに新聞紙を広げ、ジュラルミンの石鹸箱や、薬夾製のパイプと泥靴を一緒に売っているような物だった)を通り、焼け残った街の一角の坂を登り、Oホテルのポ−チに横付けとなった。ポ−チと言っても飾り一つなく、羽目板は半分剥がれ、雨漏りの跡も痛々しい荒れたホテルである。玄関にいるボ−イが慌てて中に飛び込んで奥に向かった。私は大尉の後からオフィスにのこのこついて行った。途端に羽目板の破れ穴から青大將が一匹ニョロリと這いだした。大尉は大げさなゼスチャをして、「オ−オ−」 と叫び声を立てた。

  オフィスにいたのはこのホテルの老番頭S氏、さすがに商売柄、鮮やかに、「グッドモ−ニング サ−」(なるほど、こっちの方が年期が入っているらしいや、こりゃ妙な所に来てしまった。開業早々新米なことがバレてしまうな、ヤレヤレ)。大尉もこれはと思ったらしい。「Do you speak English ?」、(ここで黙ってしまってはこっちの商売上がったり、この位の英語はこの番頭解るだろうが、まあいいや)。「貴方は英語がお出来になりますか」。「いや、一向、このホテルは戦前ドイツ人が主として来ていたのでドイツ語なら多少出来るのですが英語の方はサッパリでしてね」。(ウ−ン、一体これはどうしたことになったんだろう。いっそのこと出来ると言ってくれりゃいいのに、出来ないといっても俺ぐらいには出来るのだろうが、しかしこの人が日本語でいうからにはこれを伝えずにゃなるまい)。

「ノ−。余は英語は余り巧みならず。何となれば我らはドイツ人の顧客を持つを常としたればなり」。私が何とかシャベっている間にS氏は落着き払ったもの、「まあ、こちらへ」とサロンに案内する。大尉「彼に告げよ、余は係将校としてこのホテルを上級将校宿舎として改造することについての責任を有す(直訳)」。「この方が、このホテルの改造工事の担当官のミ−ンズ大尉です」。S氏「はい、先日都庁の方が見え、大体の設計案も決まりました、私はこのホテルの番頭のSです。ドウゾヨロシク、ちょっとお待ち下さい。いま、支配人を呼んで来ますから」。(オットット、そう立て続けじゃかなわないよ、第一、ドウゾヨロシクっていうのはなんと言うのだったっけな)

  こんな具合いで自分ながらよく用が足りたものだと思う位であった。途中で「コントラクタ−」と言う言葉がやたらに出て來るがこれが仲々解らない。聞き直すとかえって解らなくなる。これが「請負人」と解るのには数分間かかっただろう。

  この日の最大の要件は暖房用のスティ−ムとボイラ−を至急手配しろとの話しである。 支配人はしきりに、「都庁の方で心配してくれることになっているので、もう今日明日中には返事が來ることになっています」 と弁解する。「よろしい、ではすぐに都庁に電話を掛てどうなっているのか聞け」、「実は・・電話はまだ復旧していないんで・・・」 と頭を掻く支配人。「ウェル(よろしい)ではこれから一緒に都庁に行こう。付いてこい」、「ええっ、これから直にですか」、「ザッツ ライト」、(なる程ね、米軍は仕事が早く、何でも直ぐに片付けなければ気が済まぬと言うのはこのことか、これが日本人なら、「そうか、では一両日返事を待とう」とか、せいぜい「午後にでも行ってみます」とでも言えばよい所だがな)

  それで今度は支配人をも乗せてジ−プは京浜国道を都心に突っ走る。途中で子供達が大勢で固まっては「ハロ−、グッドバイ」と叫んでいる。(この頃の子供はジ−プを見るとやたらに「グッドバイ」と叫んだものだった)。都庁でも四苦八苦、全く冷汗三斗、しかし大尉が気を使ってくれて一語一語明瞭に、難しい単語はスペルまで言ってくれる。しかし英語が聞き取りにくいのは、個々の単語が解らないよりは、文章としての単語の連続(リエ−ゾン)が解り難いのだと言うことをこの大尉は気が付かぬらしい。

「スチ−ムの設備は何時出来るか」、「11月半ばの予定です」、「11月、後60日だな、10月半ばにならぬか」、「どうも仲々ボイラ−が手に入りませんで」と都庁の役人頭を掻く。「11月、そのころは寒いだろう。(南方の太平洋戦線から来た彼らには特別寒いのだろう)。オ− コ−ルド ブルブル」と大尉は大きな体をブルブル震わせて寒がる真似。

「ハ−どうも、通訳さん、ご苦労さんですね、どうも進駐軍さん気が早くってね、でも敗けたんだから仕方無いですね。何とか旨く言ってくれませんか、何しろあっちからも、こっちからもスチ−ムだの、ボイラーだのって探すのが大変なんですよ」、「What does he say ?  なんて云ったんだ」。

「つまり、東京にはかつてボイラ−も相当数有ったのですが、その大部分は貴軍の空襲で破損し役立たないし、また、日本では元来スチ−ムを使用するものは比較的少ないので、そのために急に間に合わないとの事です。しかしこの吏員の言うには、貴官の用には特に最も上等の物を探したい意向なのでそのために若干の時間がかかるとのことです」、(ア−くたびれた。これだけのことを言うと。だが、都庁の役人がこんな事言った訳じゃないが、何しろ、「旨く言ってくれ」というんだから。けれど、俺達には、住む家さえ碌にないのに、進駐軍のスチ−ムのことで頭を痛くするのか。これが敗戦というものか)。

「アイ シ−、ヴェリ ウェル」、(また出たぞ、アイ シ−、ヴェリ ウェル が。するとこれは口癖かな。だが、ヤレヤレだ)。

 

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(四)

 

  フィスに帰ると11時半、そろそろ腹が空いて來る。昼食支給という一体どんな物が出るのか待ち遠しくて仕方無い.K君はアルマイト製の食器を借りてきてくれ、なにか係員とゴチョゴチョ打ち合せしていたが、「じゃ、行きましょう」と案内してくれた。

  格納庫のガランとした建物に「MESSHALL BAT. B(B大隊食堂)と例の飾り文字の看板が懸かっている。中にはいると手に手に食器をブラ下げた兵隊がガヤガヤ話ながら長々と並んでいる。丁度日本の戦時中の雑炊食堂(若い人は知るまいが)の様だ。異様な光景に私は暫し呆然として一人一人の顔を眺めてみた。黒髪、白髪、ブロンド、ノッポ、チビ、デブ、ヒョロ、白人、黒人、まるで日本人そっくりの顔(当り前の話、日系だもの)なるほど、アメリカは各国人種の寄せ集めとはよく言ったものだ。

そこに一人の太っちょ中尉がやってきてなにやら怒鳴り始めた。「おい、みんな聞け」とでも言ってるのだろう。何やら手を振りながら話している。ガヤガヤに紛れてよく聞き取れない。(ガヤガヤが無くても解らないだろうが)。その中尉は「Two cups of coffee for each ! コ−ヒ−1人2杯づつ」と叫ぶ途端にガヤガヤはドッとした歓声になった。多分、「おい、みんな聞け。食料を積んだ船が入った。今日からコ−ヒ−は2杯づつに増配だ」とでも言ったのだろう。中尉はなおも怒鳴りながら黒板に各中隊の食事順序を書いている。

「1145-1215 Comp. A (A中隊)、1215-1230 Jap. Interpreters」と叫んだ途端ガヤガヤの兵隊がこちらをジロリと色々な色の目で見た。「ウェル、オ−ケ−」。途端にこの長い行列はゾロゾロと動き始めた。セルフサ−ビスのキャフェテリアと言うものを知らない私には異様な感じがした。

  この食器は知っている人もあるだろうが仲々便利に出来ている。フライパンの様なのが二個、ナイフ、フォ−ク、スプ−ン、コップ、これだけが一組になりそれぞれの柄に穴が明いていて、フライパンの一つの柄に通すと片手で持て、しかもひっくり返らぬように出来ている。これを持って兵隊の行列の中に混じって歩くのはなんだか心細いがK君のする通り真似て行く。丁度落語の「田舎本膳」の様である。もしK君がコップをひっくり返したら皆も真似てひっくり返したかも知れない。

  調理器は丁度電気冷蔵庫ほどの大きさでガソリンで調理するようになったのがずらりと並んでいる。白い帽子をかぶり、カ−キ色の作業衣の上に白いエプロンをかけた兵士が給仕をしている。(1月ほどで、これは日本人の労務者に変わった)先ず第一のフライパン)と思ったら実はス−プ皿であった)の中にス−プ一杯(グリ−ンピ−スが入っている、)次の皿に馬鈴薯のマッシュ、ハンバ−ガ−ステ−ク、野菜の煮物など(もう二つ三つ有ったが)、ついでパン2片、最後にコ−ヒ−をなみなみと(2合位も有ろうか)注いでくれる。食卓は特に日本人用と指定されているわけでなく、何処でも明いている席に付けばいいらしい。周囲に色んなのがガヤガヤ言いながらやって來る。テ−ブルの上には大きなカンに砂糖とジャムが山盛りで置き放しである。今でこそ平気だが、終戦直後の我々にとっては正にびっくり仰天気絶せんばかりのご馳走であった。(ヤミ人種は別として)。

夢中になって、しかも恐る恐る食べていると、一人の下士官がやってきて、「ここで喰うのはOKだが、そとに持ちだしては駄目だ」と言った。これは食べ残しと称して銀蝿して食料を持ち出し闇流しするのを防止するためらしい。(あのころの日本人は浅間しかったからな)、(こんなウマいものが喰えるなら、コリャ簡単には止められぬな)。

今日から勤務し出した同輩の新顔も皆同じ考えだったろう。食堂の出口にはまた兵隊が並んでいる。これは食器を洗うためで、ドラムカン位の大きさの桶、これをガソリンで沸かす装置になっていて、熱湯が入っている。これが三つ並んでいる。第一のは石鹸水、第二のはクロ−ル入り、最後のは純水、食器は先にも書いた通り、柄の穴を通して片手で持てるように一組になっているので、これを桶につっこんでブラシでゴシゴシやれば簡単にキレイになる。しかも全部熱湯であるから拭く必要が無い。汚れた布切れで拭くよりはずっと衛生的だと感心した。

オフィスに戻ると黒人の兵隊が白人兵と何やら談笑している。気がひけたが自分の部屋だからと心臓を強くして入って机の上の新聞「スタ−ズ・アンド・ストライプス」を読んでいると、いきなり電話のベルがジリジリ、白い方の伍長が「ハロ−」と応対していたが、いきなり受話器を私の方に突きつけて、「ユ−、ミスタ−・ヤマナカ?」(コリャ偉いことになった、いきなり電話だなんて)もう絶対に尻ごみは出来ない。「イエス・サンキュ−」、電話の向こうでは何かベラベラやっている。それでこちらから、「ジス、イズ、ヤマナカ、スピ−キング、サ−」、また、ベラベラ。しかし大体は解る(様な気がする)。要するに、今日の午後は別な用があって直ちには町には出ないから部屋で本か新聞でも読んでいて待機してくれ、用が有れば呼ぶから」と言った事らしい。

オフィスの周りを歩いてみる。何処を見ても英語の看板ばかり。歩いているのは米兵ばかり。日本語が何処にもない。赤十字のマ−クにDISPENSARYと書いてある。ハハ−ン、病院、いや、病室かなと思って、辞書(今朝出るときに大事に持ってきたもの)を見ると「診療所」と書いてある。(これで一つ単語を覚えた。学校で習ったような気もしないでもないがな)。ところが廊下の隅の物置の壁に剥げかかった「一億決起米英撃滅」と書いたビラが貼りつけてあり、また、「東京海軍航空隊」の墨痕がある。唯一の日本語だ。一月前迄の自分の姿が思い出された。

その日の午後は大した仕事がなかった。新聞を字引と首っ引きで読んだ。他の通訳達は午後も仕事があると言って出かけてしまった。時々暇な兵隊が油を売りにやってきて、下らないことを二つ三つ言っては帰ってしまう。また電話でも来ないかとビクビクしたがべつに来ない。こうなると無性に淋しくなり、まるで外国に行ったみたいに、(事実、半ば米国に行ったも同様なのだから)落ち着かない。折々、外をゴ−ッと大きなブルド−ザやクレ−ンだの妙な機械がが通る。

三時過ぎに中学校の英語教師だったと言う一人の通訳が帰ってきた。「ヤ−、お疲れさんでした」と日本語で話せるのがとても楽な気がする。「全く今日一日で心臓が上達しましたよ。英語の方はどうだか知りませんがね」と言うと、彼も全く同感のように大笑いだった。

 

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(五)

 

  うよりも馴れろとか、始めの二三日で、会話力は徐々に、そして心臓は急速に訓練されて行く。毎朝出勤して、オフィスで、待機していると、黒人の当番兵が「スタ−ズ・アンド・ストライプス」を配達して來る。

赤地に黄星一つの「准將旗」をつけ、運転手(下士官)付の乗用車に乗った司令官(名は忘れた)が玄関に迎える当直将校の敬礼を受けて到着する。(日本陸軍の二等兵が准將か、後は一つづつ星が増えてマッカ−サ−元帥は星5つだ。すると、日本兵は殆ど米国の中將以下の将軍になってしまうな)。他の将校は自分でジ−プを運転している。

  ミ−ンズ大尉は8時過ぎに必ず部屋にやって來るので、大尉のお供をしてジ−プに乗ってホテルに工事の監督や、それに伴う渉外事務の手伝いをする。後は、工事の進捗状況についての日報の起案や、時々やって來る陳情者、(主として飛行場用地として接収された土地内にある商店、工場などの物品持ち出し許可申請など)の応対をやっているだけ。日本人職員が少ない時代なので色々の兵隊が油を売りに來る。たいていが日本の「クモ−ノ−」(着物)、サムライ・スウォ−ド(日本刀)等を手にいれてくれとか、「ゲイシャ・ガ−ル」を案内しろだの下らないことをいって來る。中には、日本人女性(特殊勤務)の手紙を読んでくれと頼まれる。まだ独身時代なので、その中の露骨な内容に思わず読む方の顔が赤くなることもあった。

   時々学生出身の青年将校達が、新聞の記事(主に日本事情)について質問や議論をふっかけて來る。これが仲々汗だくだが、何とかかんとかやっているうちに、少しづづ楽になって來るのが自分でも解る。

しばしば夜業をも買って出た。旧海軍航空隊の兵舎(大部分は倉庫になっている)の小さな一室にキャンバスベッドと毛布(これは米国製)が並んでいる。海兵団でこんな生活には慣れている。夕食、朝食が出るだけましだし、何より新聞や雑誌で英語の勉強ができるし、「総員起こし」がない。捕虜生活の疑似体験かも知れないが自由の身と言う点が大きく違う。

ガ中尉以外の青年将校も時々BOQ(青年士官の宿舎)に私を招いて話相手になってくれた。そして古い雑誌(二三ヶ月前の物)を私にくれた。むしろ私の方から頼んだと言う方がよい。Life , Newsweek, Time 等の週刊誌(太平洋版、マニラ印刷と記されている)が非常に新鮮な感じを與え、4年間の文化空白を埋めるような気がしてむさぼり読んだ。
(戦地でこんな広告や女性の半裸体写真入りの雑誌をわざわざ将兵用に作るとは驚いた)。「日本帝国海軍は既に形骸化した。恐ろしい戦争も終わりに近づいた」という呉軍港爆撃(7月末)の空中写真、「日食の終わり」と題した、マッカサ−がコレヒド−ル要塞に星条旗を掲げる写真などを複雑な気持ちで食い入るように見入った。

ある日、一人で部屋にいると、黒人兵がやってきて新聞の記事を指さす。見るとボクシングで優勝した選手の事だ。彼は、「こいつは俺と同じカラ−ド(黒人だ)」と誇らしげにいう。(・・・一見仲良くやっているようでも、やはり人種差別が何処かに潜んでいるな・・・・)と感じ取られる。(そういえば、食堂の一角には「Officers' Only (将校用)と記してあるテ−ブルがあるが、たった一人の黒人将校はいつも皆からすこし離れていて座っているような気がする、軍医部の女性将校は皆と平気で一緒にいるのに・・・)。

またポケット版の色々の書籍、(小説あり、科学読物あり、歴史あり、ちゃんと「合衆国陸軍出版」と書いてあるので将兵の陣中慰問と教養用に作った物だろう。我々通訳仲間はGI文庫と呼んでいた)を惜しげもなくくれた。(帰国が近い彼らには邪魔なものだろうが我々には何よりも貴重な情報源だ。遠慮なく貰っておこう)。ところがその中に、「歩兵操典」らしい物まであるには些かびっくりした。またある朝、「おい、こんな記事があるぞ」と見せた新聞に「我こそは本物、もう一人の天皇が出現」と「熊沢天皇」の記事が載っている。南北朝のことを簡単に話すと、さすがは若い学徒将校は合点が早い。

「つまり、アメリカの南北戦争や英国のバラ戦争(15世紀の英国での王統をめぐる戦争)と同じことか」。その内こっちも段々大胆になって若い将校達とかなりシリアスな話題に触れることもあった。「日本軍を貴官はどう思ったか」、「とても勇敢なのには驚嘆した。だけど、彼らは命令に従うことのみを教えられ、その意味を理解できない。だから一旦指揮官を失うと全く自分の判断で行動できず自暴自棄になって自殺的行為を平気でする。我々アメリカ軍は、兵でも「もし自分が指揮官だったら」と言うことを絶えず考えるように訓練されていた。(ウ−ン、若干偏っていないでもないが確か図星の点もある・・・)」など。

しかし大部分の青年将校は学徒出身らしく、真面目で、私が同じ学生出身元海軍士官であることを知っても威張りまくると言うことは殆どなかった。むしろ戦争が済んだので早く復員したい。また日本の青年と話をするのがむしろ楽しいという気持ちもあることが良く解った。彼らの話ではここの将校の大部分は民間人で会社の幹部やその他かなり指導的地位の人らしい。ミ大尉も元来は教師だとのこと。(・・・ウ−ン、高等官や大学教授をを赤紙一枚で二等兵として引っ張った国とさすがに違うな・・・)。

ただ、忘れられないのは3月10日の東京大空襲を報じた記事に、「日本軍は東京下町の一般市民の家屋を飛行機工場の下請けとし、各家庭は裁縫用ミシンや洗濯機の代わりに小型旋盤等の工作機械を備えて昼夜作業することを命じた。既に日本の各都市は住宅地帯も軍需工場化した。今後これに対する空襲は激化されるのは当然である」と論じている。(ショックだ。勝てば官軍、随分勝手なへ理屈だ)。

週に2回ぐらい映画上映が格納庫で行われた。勿論会話は殆ど理解はできなかったが、イングリド・バ−クマンの「To whom the bell rings ?(誰が為に鐘は鳴る)」が印象に残っている。沖縄戦の記録、殊にカミカゼの突入場面などは刺激が強すぎて眼を閉じたくなることもあったが、無理に平静を保って見続けた。兵士達も隣に一見して元日本海軍士官とわかる私が座っているのを知っても全く無頓着だった。(俺は経験がないが外地の占領地の日本軍と現地人との間でこんな事が有り得ただろうかな? やはり「戦争が済んだ」と言う解放感の為かな?)。

基地内生活をしてみて、朝のラッパによる一斉起床、点呼整列などという軍隊特有の団体行動が見あたらない。ぶらぶら歩きだし、勤務時間外かも知れないが兵舎内で寝そべっているものもいる。夜にはウィスキ−をあおりながらポ−カ−で札束を賭けている兵さえ見かけた。「私が軍隊に居たときは、いつもラッパで飛び起き、2分以内に整列しなければならなかったし、いつも駆け足で行動しなければならなかった。アメリカ軍はそんな規則はないのかね」と下士官の一人に聞いた。

「それはここが戦地で、しかもここは戦闘部隊でなく基地の整備や補給担当の基地隊だし、もう作戦行動が終っているからさ。俺達だって訓練部隊ではうるさい規律があったさ」、なるほど、数カ月の後(進駐軍を辞める直前)に新兵らしいのが到着し、下士官に小突かれてオイッチ・ニの訓練をしているのを見かけた。

いつの間にか将兵の間で面白い歌が流行だした。「モシモシ・アノネ・アノネ・アノネ・モシモシ・アノネ・ア−ソ−デスカ」、メロディ−は「London bridge is falling down. My fair lady.( ロンドン橋落ちる、落ちる、さあ大変だ)」である。これは基地内だけでなく日本人社会にもたちまち流行って行った。

 

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(六)

 

 一月ばかりたったある金曜日の朝、ミ−ンズ大尉はにこにこ顔で、「我々のジュプチ・コマンダ−(副司令官)ペテス大佐が、幕僚と明日ハコネに行きたいと言っている。案内して貰えないかね。(クッド・ユ−・プリ−ズ)、(仲々丁寧な頼み方だ、コリャ面白いことになりそうだ)、「ウィズ、プレジャ、(喜んで)、そして、貴官も?」、「ザッツ、ライト」、この頃はもう心臓にかなり毛が生えているので一寸の事には驚かぬ。(強羅に父の友人が経営しているホテルがある。いざとなったらなんとかしよう)。

翌日は土曜日、今日はホテル行きの仕事もない。K君が羨ましがっていた。今日はジ−プは三台仕立て、いつもミ−ンズ大尉と乗車するのだが、今日は先頭の車にペテス大佐と私、後の二台に大尉始め、少佐、中佐というエライ人ばかり四人、それが皆、車の後ろにはビ−ル箱にレ−ションの食糧、果ては小型の冷蔵庫まで積み込んで堂々と出発する。

  横浜郵船ビルの第八軍司令部前で大佐一行は旅行許可を取るのに少し待たされた。当時、静岡県は第六軍占領地、京浜地区は第八軍であったため、管外旅行には司令官アイケルバ−ガ−中將の許可が必要だったのだそうだ。

待つこと暫し、再びジ−プ三台の単縦陣が出発、東海道を西へ西へと下り、茅ヶ崎、平塚といずれも同じ焼けトタンの街々を通り抜け、小田原からいよいよ箱根路に入った時であった。大佐はいきなり手を横に出して、「ハルト(止まれ)」 と命じた。「ゲット、アウト(下車)」皆ぞろぞろ降りると、「Give up water ! (水を捨てろ)」、(はてね、エンジンの水を抜けと言うのかしら、妙な号令だ)と思っていたら、連中はいきなり道に並び、ズボンのボタンを外して一斉にジャ−と放水を始めた。(ウ−ン、コリャ学校で習わなかった英語だ)。

湯本まで行ったところ、予定していたホテルは他の部隊の客で満員で断わられ、強羅も駄目、冷たい雨も降って來る。さすがの大佐の一行も折角張り切ってここまで来たものの困り切ってしまって、「ミスタ−・ヤマナカ、君の努力と好意を高く評価する。止むを得ぬ。東京に引き返す」、(ここで引っ込んでしまっては男が廃るし、日本人の名誉にも関わる。いくら敗戦国民だからとは云いながらやっぱり信用されて案内を勤めているからには)、「カヌル(大佐)、もう遅いし、折角ここまで来たのだし、途中の塔の沢にも旅館が沢山有った筈です。そこで駄目なら東京に帰ることにしたらどうです」。「よろしい、君を信用しよう(ウィ−、トラスト、ユ−)、(さあ、いよいよ一大事だ)。

 そこでジ−プの一隊は今度はいま来た道を逆に走り出す。「ト−ノサワ迄どの位あるか」、「一寸地図を見せて下さい、レット、ミ−、シ−、約3マイル」、「ウェル、時速15マイルで12分だね、オ−ケ−、レッツゴ−」。そこで大佐は時計と自動車のメ−タ−をにらみながら運転を続ける。(なるほど科学的だな)。塔の沢に入ると天の助けか一人の日本人巡査が歩いている。早速呼び止めて事情を話すと、「それならこの橋の向こうに先日改修したばかりでまだ営業していない日本式旅館が一軒あります。そこに頼んで上げましょう」と車に乗り込んで来た。これでやっと安心、玄関で話すと、「進駐軍さんなら承知しないわけに行きません。だがね、通訳さん、まだ食事も出来ませんし、夜具も日本人向きのしか有りませんがいいですか?」。

「ジャパニ−ズ・スタイル・ル−ム、オ−ケ−、食糧はたっぷり持ってきた、ビ−フやバタ−があればステ−キ位できないか」、「その位なら」、「ウェル・ドント、マインド」、「では、どうぞ」、「オ−ケ−」、連中、そのまま上がろうとする。「ジャスト ア モメント、プリ−ズ プット オフ ユア シュ−ズ」、「オ−、オ−ケ−」と、靴を脱いだのはよいが、今度は靴下まで脱いでしまう。「ジャスト ア モメント、靴下は脱ぐには及びません」、部屋に通される。女中も勝手が解らず、まごまごしながらも、先ずは型通り座布団と火鉢が入った。皆大はしゃぎ。

  「ヴェリ、グッド」 の連発。「イチロウ、(名前で呼ばれて一寸びっくり、これは親愛を示すものとはとっさには気が付かなかった)。早速用がある、水を通すのは何処か聞いてくれ」、(水を通す? to pass water , ハハ−ン、さっきと同じ事だ、要はトイレだな)、「ここには洋式のお手洗いはありますか」、「アノ−、洋式のはありませんが水洗にはなっています」、そこで一人を案内する。「トイレットはジャパニ−ズ、スタイルで、形が違うことを承知して下さい」、「オ−ケ−、ドント、マインド」(ヤレヤレ)。

部屋に帰ると何たること、皆、床の間に座布団を並べてベンチのようにして並んで腰を降ろしている。「レッツゴ−」、今度は、ビ−ル一ダ−ス入りの箱を持って来て、カンズメを開けて大騒ぎを始めた。出来上がったステ−キを持ってきた仲居さんがやってきて目を丸くしている。「このウェイトレスは、ビ−ルは飲まないのか」、彼女はただ黙って首を小さく横に振った。

「一体彼女はどうしたのか、我々米人が大勢来たので気まずい思いをしたのか」、「いや、彼女が我々を歓迎しているのは確かだ。しかし、この様な事態には慣れていないし、また、日本の女性は感情を仲々顔に出さない。ヤング・レディ−のサイコロジ−はデリケ−トだ。ことに外国人のヤング・レディ−の心理を理解するのは、クワイト・ディフィカルトである」(だいたい旅館の仲居さんはお客と一緒に酒を飲んではいけない事を説明するのを忘れていた)。

「オ−、イエ−ス、オ−、イエ−ス、しかし外国の女性には限らない、俺は結婚して20年以上にもなるが、自分のワイフの心理が解らなくなるときがある。特に飲んだときには」。他の将校連中もどっと笑い出した。女中「あのー、この方達お風呂に入られるのでしょうか?」、「大佐、ここは日本でも有名なホット・スプリングです。バスに入られますか」、「よし、レッツゴ−」。

勿論他に宿泊客がいないので平気なものだ。浴槽は30人ぐらい入れる大きな物で、タイル張りの壁画で囲まれている。「プ−ル、プ−ル」と大喜び、いきなり裸になってドブン、途端に顔をしかめて、「ウッ、ウッ、ウッ」、(そうそう、外人は日本人よりもぬる湯好きと聞いていた。それでびっくりしたんだな)。それでも少しすると慣れてしまって今度は大喜びでボチャボチャジャブジャブ、動物園のオットセイかカワウソのように、泳ぎ回りはね回っている。洋式の一人用のバスタブと違った広い浴場が気に入ったらしい。

入浴して部屋に帰ると、またもやビ−ルやウィスキ−で一騒ぎ、女中がまた出てきて、「あのー、床を取りましたが、あの方達に合うような大きいのが無いので足の方に座布団を足して敷布を掛けて置きましたが構いませんか」。「大丈夫ですよ。さっきからご覧になっている様に、無邪気な気の置けない方達ですからね」、「ほんとにそうですね、あたし、進駐軍の将校さんなんてとても恐いと思ってたんですもの」。

そのうち連中はだんだんと布団に潜り込んでいびきをかきだした。外人と同宿で夜を明かしたのは初めての経験である。朝早く、例の女中に頼んで、食事は自分達で用意するから火鉢と湯だけを持ってきてくれと頼んで部屋に帰ると、連中は漸く目を覚まして起き出したところ。
 「グッド・モ−ニング、カヌル、昨夜は良い夜をお持ちになりましたか」(凄いイビキだったがな)。「ヴェリ、グッド、イチロウ」。「朝食はどうされますか。大佐」、「ドント・マインド、朝食は非常にシンプルだ。ホット・ウォ−タ−だけ持って来させてくれ」。「既に手配ずみです。大佐」。「オ−ケ−・ヴェリ・ウェル」(この大佐もやっぱりヴェリ・ウェルが得意らしい)。

朝食は缶詰のハムエッグス、クラッカ−、ミルクコ−ヒ−、果物ジュ−ス、全部軍用缶詰だ。「では出発しよう」、旅館の番頭がやたらにペコペコする。大佐は残った缶詰(まだ口を切っていない)の入ったボ−ル箱を片手に持ち、わざとこぼすように傾けて階段を降りた。そして残った物を番頭に渡しながら、「いいかね、これは食べ残しだ。捨ててくれ。米軍の食糧を一般日本人が手に入れてはいけないんだ。それから俺達が部屋に缶詰など置き忘れたりしてたら、それも捨ててくれ」と言って、シガレットの箱を取り出して封を切り、一本火を着け、「まずい、ノ−・グッド、このタバコも捨ててくれ」と番頭に渡す。(ハハ−ン、仲々しゃれた謎を掛けたな)。

「サンキュ−・ヴェリマッチ」、「ノ−、ナット、プレゼント、ナット、プレゼント、捨ててくれ。ウェル、レッツゴ−」。喜んで捨て物を受け取った旅館の一同が見送る中をジ−プの一隊は、昨日の道を再び登って仙石原から芦ノ湖畔、湖尻へと向かう。日本人のハイカ−はまだいない、(男はまだ戦闘帽、女はモンペじゃアベックもさまにならぬ)戦前さしも誇った自動車道路も日本軍が本土決戦に備え戦車を通したのか散々に荒れ放題である。道に所々アスファルトが残っている程度だ。バウンバウンとジ−プが跳ね上がる。こんな所に買出しに來る人もいないので通るのはジ−プばかり。遊覧船もまだ動いていない。

これから熱海へ向かおうとして箱根峠にさしかかると関所(昔の日本のではありません、ここが、関東地方第8軍と中部地方第6軍との境界)があり、MPが立っている。第8軍の方は東京あたりと同じくチュ−インガムをモゴモゴさせて別に敬礼もしないが、第6軍の地域にはいると厳しく銃剣で武装しており、通行証を査証してサッと捧げ銃の敬礼をした。(米兵は上官に敬礼もしない等と云うが、軍団によって軍規が違うのかな)。一行は熱海に出て熱海ホテル(現在の水葉亭)で中食をとり帰京した。

 

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(七)

 

11月にも入ると、ホテルの改修工事は着々と進んで行った。蛇の出没したポ−チの羽目板も見違えるようになったし、薄暗かった台所には電気冷蔵庫が数台置かれ、すべてピカピカのジュラルミン張り白ペンキで、まばゆいくらいに明るい清潔なものになった。只仲々はかどらず、大尉やホテルの幹部を悩ますのがスチ−ムパイプとボイラ−である。請負業者に毎日催促するが一向にらちが開かない。ついに温厚な大尉もいい加減腹を立て、「私と一緒に来給え。街を歩いて焼け跡にあるビルディングを探し、その中に手ごろなスチ−ムパイプがあったらそれが使えるかどうか見よう。使えるなら早速特別調達の手続きを取るから」。

「はい、そうして頂けるなら、・・・しかし日本では戦争中スチ−ムは外して供出してしまったのが多いのですが・・・」、「ウェル。しかし私は今日、街を少し見てきたが、ここから余り遠くないスク−ルビルディング近くの焼け跡でスチ−ムパイプが数十本とボイラ−があるのを見たぞ」、「はあ、それには気が付きませんで」、「ウェル、レッツゴ−」。

ジ−プを飛ばすこと5分もしないうちに蒲田の工業地帯の焼け跡の一画に着いた。なるほど、半分錆びたパイプが数十本転がっていて、またボイラ−もある。その半分ぐらいは使えるとのこと。また、ボイラ−も修理すれば何とか使えそうだと請負技術者が話すと、「よし、じゃ、明日これをホテルに運ぼう、そうしたら修理は君の方でするね」、「持って來れば何とかしますが、・・・どうして運びますか?」、「ドント・マインド、君はこのボイラ−の付属のパイプを明日の十時までに外して置け、ユ−、キャン、ドゥ−、ジス、ジョブ、キャンチュ−(出来るだろうね)」、「はい、その位は」、「ウェル、オ−ケ−、メイク、グッド、ジョブ (しっかりやれよ)」。

請負業者をそこに残して我々はオフィスに引き揚げた。車中大尉は例のニコニコ顔で、「明日は面白い勉強をさせて上げよう」、翌日、大尉を例の如くやってきて、「レッツゴ−」、「オ−ル・ライト、キャプテン」、見るとジ−プの後ろに起重機を牽引させている。(ハハ−ン、なるほど、これは面白い見学だ)。

同行はテクニシャン(技術兵)2名。現場に着くと大尉はさっさと飛び降りてこの二名にどんどん指示を与える。(ここでは通訳の必要ない。高見の見物)。ところが、ボイラ−のパイプは殆ど外れているが一二本残っている。業者はきっと昨日人夫を呼んでさせたのだが時間が遅くて残したのだろう。「大尉、コントラクタ−は仕事を残してますが」、「ドント、マインド、我々は彼らを待つ必要はない。やってしまおう」と何やら指図すると、技術兵は心得たもの、ト−チランプで錆びたボルトをいとも簡単に焼き切ってしまった。そしてワイヤ−をボイラ−に巻き付けたかと思うと起重機の腕を降ろし、軽々とボイラ−を持ち上げトラックに積んでしまった。所要時間は5分にも足らぬ位であった。

「大尉、驚きました。ワンダフル」、「イエス、簡単な仕事だ、丁度母親がベビ−を運ぶようなものだ。面白いだろう」、そこに請負い業者の一行がオ−ト三輪でガタガタと駆けつけた。「仕事はすんだよ、ついでだからこのスチ−ムパイプを積んで君の工場に届けよう。修理して塗替えてくれ」、「はい、どうも、こんなに早いとは思いませんでした」、「ウェル、レッツゴ−」。

  ホテルに着くと思いの他に早くボイラ−が到着してしまったので皆大慌て、何しろチェ−ンブロックの手配でてんやわんやしている所だったので、・・・。かくして問題のスチ−ム工事も何とか出来上がった。
  クリスマスも近ずき、羽田のクォンセント・ハウス(蒲鉾型プレハブハウス)の仮宿舎から上級将校達がホテルに移る日が迫ってきた。それで、メ−ドが必要だと言うので支配人に命じて新聞広告で募集することにした。

忽にして集まった履歴書約400通、採用予定者10名に対し40倍の競争である。選考当日の朝、出勤の途中で立ち寄ってみると、(ちょいと様子を見たくなったので、)早朝と云うのに、玄関の前は延々長蛇の列、皆、焼け残りの、あるいは疎開して有った、(友達から借りてきたのも有ろう)取っときの着物やドレスを今日を晴れと着飾ってケンを競っている。私も今日は襟章無しの軍服の代わりに借り物の背広だ。大尉に報告すると、「君は今日は馬鹿に仕事に熱心じゃないか」と言われた。独身の学生士官ガ−ナ−中尉は、「俺が試験官になる」と張り切っていたが、惜しくも今日の試験官はミ−ンズ大尉の他は、司令部のC中佐、O少佐と言う箱根にお供をした上級将校ばかりだった。

ジ−プで乗り付けると玄関前はまさに百花撩乱で車の入る余地もない。ポ−チに悠然と降りて一寸威張ったような格好をして(虎の威を借りる狐とはこのことか)中に入る。悪い気はしない。入学試験の試験官はこんな気持ちかなと思ったりする。

  ホテルの支配人と暫時打ち合せ、第一次選考はホテル側に任せ、午後二時までに迄に50名を残す。ナイスルッキングの他、グレ−スネス(優雅)と健康に注意するとのこと。その後で面談を行い、更に軍医部の健康診断と数日の試用で本採用を決めると言うのだから仲々の厳選だ。(俺達の試験よりもよほど大変だ)。

応募者控所を一寸覗くと、受験者が二三人寄ってきて心配そうに、「あのー、通訳さん、会話のテストはあるんですか」、「なあに、心配ないでしょ。もし会話が要るなら私がここに來る必要ないでしょうからね」、「そうでしょうか、でも心配ですわ」等と色々様子を聞きに來るのを適当にあしらっておいて一旦オフィスに引き揚げる。皆知っていると見えて、若い士官、下士官や日本人職員達が、「今日は仲々すばらしい仕事じゃないですか」等と半ば冷やかすように、半ば羨むように云う。

「いや、飛んでもない。大仕事ですよ」(ダガ、ちょいと鼻の下が長くなるかな)。一時半頃再びホテルに着くと一次選考がほぼ終わって合格発表の準備中である。一旦散った受験者はまた心配そうにゾロゾロ集まってきた。「次の番号の方だけ中にお入り下さい。それ以外の方はお気の毒ですがお帰り下さい」と支配人が掲示すると、喜悲交々、入学試験の発表と同じ光景が展開された。次がいよいよ問題の面接、試験室に当てられたサロンの大型丸テ−ブルを囲んで正面にC中佐、その両側にO少佐とミ大尉、更にその両側が支配人のK氏と私、私の仕事は通訳の他は受験者のカ−ドと履歴書の照合だけで、勿論選考には参画しない。

「では5番の方」と支配人が呼ぶと、空色のドレスを着た20才ぐらいの娘が入ってきて、丁寧な、しかし勝手が違ってまごついた様なお辞儀をする。「プリ−ズ、シット、ダウン」すかさず、(すかしては商売にならぬ)「お掛けなさい」、「クッド、アイ、ハブ、ユア、ネ−ム?(お名前は)」、(コリャ仲々丁寧な聞き方だ、やはり、若い女性に対してのマナ−か)「マチダ・ミチコです」、(よろしい、履歴書ともカ−ドとも一致している。本人に間違いない)、「貴女のファ−ザ−、マ−ザ−は健在ですか」、(家庭の状況を聞くのだな)、「はい」、「貴女のお住まいは何処ですか、ここ迄來るのにどの位かかりますか」、「世田谷です。電車で40分ぐらい」、途端に中佐は私に尋ねた。

「彼女の言は正しいか、その書類(履歴書のことらしい)の記述と合っているか?」、「イエス、シ−、イズ、ライト、サ−」、「オ−ル・ライト、ここに働いたとき、一月に一度位はパ−ティ−の為に夜遅くなるかも知れないが、9時過ぎまで勤務して帰っても家族はこれを認めてくれますか」(仲々紳士的な質問だ)。「はい、正当な理由があれば構わないと思います」。だいたいこの位が基本的な質問でこの他、人によっては学校のこと、その他二三の質問があり、一人5分ぐらいであった。終わりの頃は中佐も覚えてしまって、「オカケナサイ、オナマエハ、オトシハ」と日本語で質問していた。

  ホテルの改修工事がようやく完了して佐官将校達が引き移った頃、大尉は、「ミスタ−・ヤマナカ、私のためによく働いてくれた。この仕事も済んだし、実は近々帰国することになった。一緒に土産を買いに行ってくれないか」、「承知しました。お別れするのは私としては残念ですが、貴官やご家族はさぞお喜びでしょう。お供します」と街に出て、オビ、キモノ、ブロンズブッダ(青銅仏像)、ジャパン・ラッカ−ワ−ク(漆器)等を探した。

その帰途、大森駅前で、前方からくる紺色の雨着をつけて、戦闘帽をかぶった元海軍士官と一目で解る若い男性にあった、何の気なしに顔を見ると海軍時代に同じ場所に勤務した戦友のNである。ハッと思うと向こうも気が付いたらしくさっと手を挙げたが、ジ−プはそのまま一瞬のうちに通り過ぎてしまった。あいつ、こんな所にいたのか、または出てきたのかと思ってその日はそれで済んだが、一二週間たった日曜日の午後、休みなので街にでたところまたもや大森駅前の闇市(この頃はかなり復興して露天街にまで進化していた)でまたもや彼に出合った。

「おい、貴様こんなとこにいたにか」、「うん、貴様こそいつジ−プに乗る身分になったんだ。俺は驚いたぞ。所で何処に住んでるんだ。俺はこの近くだ。遊びに来い」と彼は、海軍士官の肩書の入ったままの名刺の裏に地図を書いてくれた。その晩、彼を訪ねたところ、応対に出たのは、彼だけでなく、真っ白い衿の付いた黒いドレスを着た彼の妹であった。そういえば、彼は妹がいると言っていたことを思いだした。その数週間後のこと、母が私に云った。「お前、珍しくもポマ−ドなんか買ったりして、いったいどんな風の吹き廻しなんだい」


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(八)

 

  大尉の帰国頃から米軍の占領体制が整備してきた為か、基地隊の雰囲気に微妙な変化が見られた。進駐直後は民間出身将校が多く、前線から来てやっと終戦だと言う解放感と、日本人に対しむしろ「勇敢な昨日の敵は今日の友」と言うある程度の敬意さえ持っていたのが、次第に始めから「占領軍・征服者」と言う意識を持っている新参者が多くなり、職場の空気が一変した。

  ペテス大佐以下Oホテルの佐官将校始め、将兵が順次帰国交代し、いままで将兵のやっていた作業が次第に日本人作業員、労務者に代わった。私もホテルが完成したため、基地内の下級将校宿舎係に回された。(・・・何だ、アメリカ軍だって、先ず上級将校宿舎、下級士官や下士官兵は後回し、日本軍と五十歩百歩じゃないか、ここの准將だってどっかの高級住宅の焼け残ったのを宿舎にしてショファ−(運転手)付セダンで通っている・・)

ここでの私の仕事は尉官級将校宿舎の設営及び出来上がった部屋の毎日の清掃等についての事務が主で、後は時々用務で外出する将兵の通訳に付いて行くこと、等の雑用手伝いであった。

  Oホテルに移った佐官が用いていたクオンセント・ハウスだけでは足りないので、旧日本航空隊士官室を改造するのだが、アメリカさんは日本式の引戸が気に入らぬらしく、全部蝶番式に換えろ、また木材部分は全部ペンキで塗り立てろと言う、しかもその色合いや部屋の模様が一人一人注文が違う。どうせ長いこと居るわけでもないし我慢すれば、と思うがしかたない。日本人作業員にそのまま伝えるしかない。

驚いたのはトイレ(米軍ではラトリ−ンと呼んでいた。「かわや」に当たる)だ。水洗工事には手間が掛かる。それで穴の開いた白ペンキ塗りの木製腰掛けを作り、短く切ったドラム缶に重油を入れたのを下に置き、毎朝小型トラックで搬出焼却する。この作業も日本人労務者の受持ちだ(こんな所に重油を使うなんて、こっちは戦艦大和が片道給油で出撃したというのに)。部屋の暖房用にも重油スト−ブ(これも軍用特別製)が据えられた。

  私のオフィスも本部庁舎の一室から、旧海軍航空隊士官室の隅の従兵長室に移された。(オフィスと言っても古い机と椅子だけだ)。電気工等の特殊技能作業員以外の雑役者は、何とか組とかいう請負業者から回され、戦災失業者、(考えてみれば自分もそうだが)戦災孤児ありで規律が全くない。葉山時代の挺身隊や学徒隊は勿論、工員隊とも天地の違いだ。

  ミ大尉に代わった私の直属将校R中尉は、気移りが激しく、また帰国の順番が遅れている欲求不満もあるらしく,その部下の下士官兵だけでなく、同じ基地隊の他の部隊の将兵間でも短気な癇癪持ちとして煙たがられていた。(・・何処にもある話だ・・・)。

  部屋のいわばル−ムボ−イとして割り当てられた十数名の少年労務者達(12−15才ぐらい)に私が英語を教えているのを見るときは彼は馬鹿に機嫌がいいが、何か気に入らぬとビンタこそ取らぬがやたらに日本人作業員や労務者を怒鳴りつけ、私にも「お前の監督が悪い」と噛み付いて来る。(・・・採用の夜の夢が今ごろになって正夢となった・・・)。

しばしば彼の部下の下士官や兵が注進に来る。「ハリ−(R中尉のファ−スト・ネ−ム)が来るぞ。みんな忙しそうにさせろ(キ−プ、ゼム、ビジ−)」といって、中尉の見えるところでは、「ガラス窓を拭かせろ。廊下にマップをかけろ。ハバ・ハバ(急げ)」、そして、中尉が立ち去ると、「ザッツ・オ−ケ−、ヒ−ズ、ゴ−ン (大丈夫、いっちゃったぞ)」と私の部屋で寝そべって、新聞の漫画を見たり、時には「一寸、ディクショナリ−を貸してくれ」と時間潰しのクロスワ−ド・パズルのスペリングを確かめたりしている。時には紙製のチェスを持ってきて私に教えてくれる。(・・軍人は要領を本分とすべし、とは日米共通の事らしいな・・)。

少年達は余程眼を光らせていないと室内掃除の時にチョコレ−トやキャンデ−、クッキ−等をちょろまかす機会を虎視たんたんと窺っている。見とがめると、「これは屑篭に入っていたんだからいいんだ。ヨロク(余録)だ」と言いはる。将校の中には先日のペ大佐のように故意にこのような好意を示す人があることは解るが、ついには、床の上に落ちている万年筆や時計まで、「これは捨てたのだからヨロクだ」と勝手な理屈を付けて仲々返そうとしない。これは、一度落ちている時計をその部屋の将校に届けたら、「これはダラ−・ウォッチ、使い捨てだ」と言われたのが発端となったらしい。時計の使い捨てなんて当時の日本では考えられないことだったから。

「困ったな。このままでは今に問題になる」と思っても、今の私には米軍将兵と日本人作業員労務者との意志の疎通を図ったり作業日報を作ったりすることのみが任務で、海軍時代のような監督官でも補導官でもない。(・・・もっと大がかりな横流し物資が闇市に並んでいる昨今、彼らに今更「敗戦国とはいえ泥棒をしてプライドを失うな」等の理屈は通る筈もないし、いわんや海軍の内務士官ぶっての「修正(いわゆるビンタ)」等は「なんだ、負けた癖に上官づらするな」と反感を買うだけだ。

・・・ だけど、考えてみれば、ヨロクを狙うこの少年達と、米軍給食や古週刊誌やGI文庫を喜んでいる自分、さらに極端に云えば、ゲ−トの前で毎晩MPに追い立てられながらウロチョロしている女性と根本的にどう違うのだろう ・・・ 彼女の中にもこの間まで日の丸鉢巻をしてた者もいように・・・)と強い姿勢に出る自信は無くしていた。

私はR中尉や部屋の主の将校達に、「貴重品を眼に見える所に残さないように注意してくれ」と頼むだけであり、また、少年達には、わざと中尉や下士官に見えるように、「MP(ここは大声)に捕まって(手錠を掛ける真似)何処かの島で重労働にされるぞ」と気合いを入れるだけだった。(これこそ虎の威を借りる狐、一番下等なやり方だということは承知の上のこと)。

ただ、面白いなと思った事もある。それは少年達がいつの間にか英語の単語を彼等なりに覚えるやり方である。リンゴを「アポ」、水を「ワラ」等、なまじっかスペリングに頼る「アップル」「ウォ−タ−」等より正確だ。将校が「ウォッシュ、ウォッシュ」と衣類を出すと、彼らは「ゴシ、ゴシ、オ−ケ−」と洗濯の真似をする。それで完全に通じる。(・・・ウ−ン、海軍では下士官や兵は風呂の手桶を「オスタップ」と言っていた。ウォッシュ・タブの事なのだが、確かにウォッシュ、ウォッシュはゴシゴシに近く聞こえる。・・・)。

将校のジ−プ(ボンネットに書かれた番号がO−と言う字で始まる)はゲ−トでMPは敬礼するだけでフリ−パスだが、下士官以下の場合はいちいち外出証を、時には積荷をチェックする。(それでも物資横流しがあることは周知の通りだ)。

日本人職員の増加で通訳員の相対的地位は当然のことながら低下し、始めは下士官や兵など我々に一目置いて、「サ−」を付けるものまでいたのだが、何時の間にか、我々を「ミスタ−」付けで呼ぶ人が減って、「ヘ−イ」と姓だけの呼びすての人が多くなり、時には「シャラップ(黙れ)」と怒鳴るものさえ現れた。箱根で高級将校にファ−スト・ネ−ムで呼ばれたような空気は全く失われていた。(当然だ。初めの仕事相手に立派な人が多く、厚遇され過ぎたので、それで私はかえって自分達の置かれてる立場を見失って甘えてしまったのに過ぎない。元来は捕虜と同じでも仕方ないのだ・・・)。

  その内GHQの指令だとの事で米兵食の給与も打ち切られ(・・・恥ずかしい話だがこれが一番の痛手だ。これでは兵士の間で「チョコレ−トとコンビ−フ缶1ダ−スでOK]とささやかれているゲ−ト周囲の女性をとやかくいう資格がない・・・)。また、青年将校相手に気楽に雑談を交わすような空気ではなくなり、英語の勉強にも余り役立たなくなった。丁度そのころ、大学の恩師から水産研究所就職の話が持ち出され、辞める潮時と思った。昭和21年3月末、町には「カム、カム、エブリボディ」と英会話放送が「証城寺の狸囃し」の曲に乗って流れる頃であった。

  ただ、ここで入手した書籍、雑誌等は正式就職までの間にアルバイトで入った出版社で貴重な文献資料として大いに役だった。ところがこの出版社は折角発行した雑誌の創刊号に日米の煙草を並べた絵を表紙にしたところ、GHQから、「日本の民間人が米国煙草を入手できない筈、この図柄は許可しない」といちゃもんをつけられ、それが原因でついに二−三ヶ月で潰れてしまった。後からみれば、葉山の数カ月と全く対称的ではあるがこれも貴重な体験であったし、後年の米国留学実現や国連勤務には役立った事は疑いない。

 

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付 記

 

ペテス大佐は二三年後、再来日し、帝国ホテルで再会した。「箱根に行ってあの時のリョカンを探したが見つからなかった」というのだが、残念ながら私もその旅館の名前を忘れてしまっていた。

1957年7月、私の初渡米の時、サンフランシスコ空港でミ−ンズ大尉をちらりと見かけた。後を追ったが先方は気付かず、そのままゲ−トに入ってしまい、ついに確かめられなかった。

大森駅で会った戦友の妹の事だが、彼女はその翌年以来、現在までずっと私と一緒に生活している。兄の方は昭和59年に亡くなったが。

本文は昭和24-26年、日本海区水産研究所の文芸誌「いさり火」に連載したものを補足し、平成6年に全文を書き改めた。

                               1996年

                               山中 一郎

 

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NEKOjyanai

『それ、ネコじゃない』

日本語のイントネーション問題

 

2008年1月18日

真道 重明

 

私と同様に言葉に興味を持つ畏友の I.Y. 氏から下記のメールを貰った。
(以下に付けのあるものはその後受信した追加のもの)

 

日本語に存在する誤解についてさらに色々探してみました。

A

(子供が絵を描いているのを脇で見ている親)

    『それ、ネコじゃない』

解釈1:それはネコじゃないよ、どう見てもイヌだ。

解釈2:ネコだね、よく描けたね。

意味は正反対、発音のイントネーションによらねば区別できない。文章内に現れると外国語への翻訳は一苦労する。

 

B

『明日は雨だと思うか』の問いに対し::

回答1:そうは思わない。

回答2:そんなことないと思う。

回答1.は"I don't think so." 回答2は "I think it isn't so."。 ただし、実際の英語では回答2は普通現れない。屁理屈をつければ、回答1と回答2では伝える情報は同一ではないのだが・・・。この当たり私にも自信がありません。

 

C (Jan.16.2008)

『朝青龍さん.お帰りなさい』   

解釈1:ようこそ日本に   (朝青龍好きのファンの解釈、真道 記)  

解釈2:さっさとモンゴルに (朝青龍嫌いの場合の解釈、真道 記)

 

 

此処では先ず第一に A に就いて考える。

 

言語学には素人である私が云々するのは烏滸がましいとは思うが、元来、言葉(言語)は発声する音声によって意思を他人と相互に連絡する伝達手段として発達してきた。尤も電信のモールス(トンツー)、楽譜、数式など、更に広義には「身振り手振り」なども言葉と考えられるが・・・。

ものの本によると、世界の「言語」の数は5,000とも6,000とも云われているらしいが、現在使われている「文字」の数はその100分の1にも満たないそうだ。また、現在使用されている文字を、起源を共通にする系統別に分類すると、さらにその10分の1ぐらいの数のグループに整理されるらしい。言語の数の1,000分の1程度になると言う。

人類が言語を獲得したのは画期的な事件だが、更に言語を記述する為の文字も発明したことも画期的なことだ。ちなみに、世界中に存在する此れらの諸言語および諸文字はアシアの諸国に密集しているそうだ。漢字・平仮名・片仮名・ローマ字、またそれらを併用することで表記される日本語もその一つだ。

我々は日常、他人との会話やテレビ・ラジオなどに依って音声による日本語に接し、新聞紙・書籍・看板・電算機のモニター画面などによって文字で書かれた日本語に四六時中接して居る。句(センテンス)全体のリズム(抑揚)を表すイントネーションは発言者の感情や態度を表わし、また、話の中のどの部分(単語)が、発言者にとって、最も重要かを示す。更に肯定か疑問か、それとも命令か、などもイントネーションで表す。

だからイントネーションは外国語同様に、日本語に於いても極めて重要な役割を果たしている。単語レベルでの日本語の高低アクセントは中国語の声調ほどではないが、矢張り「ハシ、橋・箸・端・嘴」などを区別する役割を果たしている。

話は逸れるが、中国語では、単語レベルの四声(高低アクセント・パターン)は単語を特定するのに決定的な役割を果たすことは皆が良く知る処だが、中国語でも「句の中の何処に重点があるか?、即ち強弱イントネーションは重要である。戦前、中国語を東京外語で習ったが、高名な「包象寅」先生が校閲された有名な当時から最近まで中国語学習の定番である《急就篇》が教材の一つだった。包先生は「句の中の重念(力を入れて強く発音すること)はどの字か?」と毎句、毎句、良く問われたものだ。重念を何処に置くかで伝える意思が変わると云う訳だ。中国語のイントネーションを会話では重視して居られた。

 

 

以上は言葉の音声の場合であって、文字に書く場合にはイントネーションは表示されない・・・と云うより「表示する手段が無い。五線譜に書かれたメロデイを普通の文字で正確に表現することは先ず不可能といって良いのと同じだ。

英語の教科書でイントネーションを五線譜で表現したものを見たことがあるが、英語に堪能な人は「なる程なー」と思っても、初心者は仲々理解しがたい。単語に関する声調(シノ・チベット語族の高低アクセント・パターン、中国語の四声やタイ語の五声など)の入門書に楽譜や図形グラフで説明してあるのを良く見掛けるが、矢張り難解である。

先生の「生の声」を聴くか、音声をデジタル信号化した「デジタル・ボイス・レコーダー(IC レコーダー)を聴くのなら問題ないが、後者については一般には其処までは未だ普及して居ないのが現状だろう。

さて、文字で書かれた句の場合、読み手によって誤解したり、異なる意味に解釈され、「どうも変だ」、「良く分からん」と云うことが起こる。一般に「その言葉が発せられた時の局面、また前後の言葉の遣り取り(経緯)などが書かれて居る場合は、多少イントネーションが変でも発言者の意味する処は容易に理解できることが多い。

イントネーションが表示されない小説や絵本の中の文字を読む場合、どのようなイントネーションを思い浮かべるか?・・・に依って変に思ったり誤解したりする問題が起こる。 I.Y. 氏の指摘もその例だと思う。

『それ、ネコじゃない』と云うとき、この句の末尾の「ない」を(中国語の単語のアクセント・パタ−ン第4声のように下げると、「猫ではない」と断定して居る。更に強く発音すれば一層強い断定となる。・・・私はそう感じる。

しかし、若し、句全体を平坦に、または、句の末尾を「上(うえ)揚がり」に発音すれば「猫かも知れない」(疑問)、「どう見ても猫だねー、上手に描いたねー」(激励)、また、状況によっては「まさに猫そのものだ」(断定)、など色々な場合が考えられる・・・私のセンスではそう思われる。上述のように、その前の会話なり説明なりの記述があれば、その何れかを特定できるかも知れないが、この短い一句だけを切り取って云々するのは難しい。

I.Y. 氏からのメールに触発されて「イントネーション」に就いて愚文を書いたが、調べている内に、イントネーションと高低アクセントを混同して居る人も多いと感じた。イントネーションは文字では記述が難しいこともあり、方言などでは同じ言葉でも微妙に異なったり、意味が正反対の逆転現象もある。私にとっては面白い好奇心の対象だが、また、この問題は「何も日本語だけに限ったこと」では無いように思う言葉の専門家のご意見を聞きたいものである。

 

 

B に就いて

無い知恵を絞って勉強中。

 

 

C に就いて

 

1月16日(I.Y. 氏からのメールを受け取った10日ばかり後、朝日新聞のコラムに以下の記事が出て居た。

「朝青龍さんお帰りなさい」 (内舘牧子) モンゴルへ

「朝青龍さんお帰りなさい」 (朝青龍 ファン) 両国へ

脚本家、作家、横綱審議委員会委員である内舘牧子さんは「横綱としての品格の無い朝青龍・・・」として朝青龍批判の急先鋒であることは万人の知る処。「お帰りなさい。朝青龍」と題する著書もある。

話は此処での本題からは逸れるが、私には内舘さんの意見には異論がある。一口で言うと Dolgorsüren Dagvadorj (朝青龍の本名)はモンゴル人であり、相撲はスポーツの格闘技の一つと内心では思っているのではないか? 「品格」と云う言葉は広辞苑によると「品位」、「気品」の意とあるが、極めて抽象的な概念である。

彼にモンゴル人としての「品格」を云々出来ても、そのような日本人の一般的な精神構造にまで踏み込んだ問題の教育もしないで、これを「あげつらう」のは、外国人を受け入れた以上、カルチャー・ギャップは当然のことながら存在するのだから、その対応に慎重を期すべきだ。

「心・技・体」などと尤もらしい美辞麗句を云々するのなら、夫れなりの教育をしたのか?と云いたくなる。幕末か明治初期に大相撲を見た欧米人の誰かが、「選手が観客の見守る土俵上で試合前に四股を踏むのを見て、warming up だと思い「何と観客を無視した習慣だ」と批判した話を何処かで読んだことを思い出した。この話と同じではないか?

余計なことを口走って了ったが、話を本題のイントネーションに戻そう。「お帰りなさい」と文字で書いたのを読む場合、イントネーションは表示できない。これが音声であり、発言時の顔付き迄分かる場合なら両者の違いは一目瞭然だろうが、文字だけだと発音の調子や顔付きは読者のイメージに依る他は無い。だから面白い現象が起こる。

「彼女は柳眉を逆立てて・・・」とか、「彼女は嬉しそうに微笑んで・・・」などの前書きがあれば別だが・・・。小説などの読者は誰しもその読者なりに「登場人物の発言のイントネーションや顔付きまでイメージしながら読み進めているのだから、イントネーションや顔付きの分かる映画や舞台と違って、其処が亦、読者の年齢や経験により、自由度があって面白い。

 

 

蛇足 変な日本語

 

貴殿は泥棒に入られましたか?

 

解釈1:(戸締まりを忘れたので) 貴殿は泥棒に入られ(何か盗まれた)のですか?

解釈2:貴殿ともあろう人が(悪いと知りつつも)盗みに入ったのですか?

 

普通は1の解釈の場合であろう。2の場合は尊敬語の「られる」場合である。解釈1と解釈2とでは全く逆の意味になる。1も2もイントネーションは同じ。

 

 

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