葉山の落日

山中一郎

昭和52年 (1977)2月

 

ichi.yamanaka@nifty.ne.jp

 

山中一郎 エッセイは他にもあります。下記をクリックして下さい。


「計算機との付合い半世紀」 計算機と電脳機

 「昨日の敵は?」    GHQ英語通訳の体験記


 

目 次

 
1. 浜 名 風
2. 櫻 咲 く ま で
3. 葉 山 の 浜
4.
 乙 女 の 城
5. 落 日
6. 挽 歌
. 敗 残
 
後 記


 


藤茂穂氏著、「海軍技術戦記」は、人にあまり知られていない海軍技術士官の体験を赤裸々に示したものとして、同じ体験を持つ旧海軍技術関係者の間に評判を巻き起こしている。

私は氏とは面識はないが、同じく海軍航空技術の一端を担う初級士官として戦争の末期を海軍で過ごした。そして、女子挺身隊員寮の補導官としてうら若い乙女達を率いつつ技術戦に参加するという特異な体験をした。内藤氏にくらべ、海軍生活も短く、また、氏の入隊当時と比べ戦局は一段と深刻であった。しかしすでに挽回のすべもない極限時の事態のもとに、一同はそれなりに国家のためと信じて疑わず情熱を燃やして任務に励んだ。あるものは研究の結果を直ちに前線で実施に移すべく激戦場に赴き一命を捨てた。当時、一日一日の重みを感じながら我々はそれなりに充実した生活を送っていた。

私は現在水産研究所に勤務している。二百海里問題で日本漁業が日一日と窮地に追い込まれる毎日を見ていると、当時のことが新たな記憶として蘇ってくるのを感じる。

この一文は私の体験である。しかし手元に何の資料もなく、記憶のみによった。戦後三十年の間に忘却も誤認も生じていよう。それで文中に登場する方々は、ある程度仮名を用いたが、それでもその方々の言行に対し、ご迷惑をおかけするようなことがあるかも知れないが、著者の意を察してご寛容、ご訂正を頂ければ幸いである。

                                 昭和52年2月

 

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1. 浜名風

 

  昭和20年1月末、我々第三期海軍技術見習尉官約2千名は、激しい4か月の訓練(第1期実務練習)の課程を終え、静岡県浜名郡新居町の海岸松林の中にあった浜名海兵団の営門を後に新居町駅へと向かった。

   黒いラシャの海軍オーバーの肩には技術科を示すエビ茶の縁とりのある金筋の肩章が輝き、短剣が腰には揺れてはいるが、帽子はカーキ色の第三種軍帽、大きな軍用行李を担いで営門から駅まで約1キロ半の道を隊伍を組んで歩いている姿は、どうみても海軍士官の赴任とは似つかわしくないいでたちであった。これが実は、前年秋に比島レイテ海戦で海上兵力の大部分を既に失い、末期的症状を呈していた帝国海軍の姿を象徴しているものだとは、我々には勿論知る由もなかった。むしろ、激しい辛い訓練を克服し、いよいよ技術戦力として第一線に参加できることを思い、肩の荷の重さを忘れて勇躍していた。

   思えば昨年9月末、大学の卒業式も待たないでこの隊門をくぐって以来、この日をいかに待ちわびていたことか、もとより入隊するからには覚悟の上とはいえ、学生時代に読み、聞いてきた海軍士官の生活とは全く違った苛烈な体験を強いられてきたのであった。

   当時、海軍士官といえば青少年、ことに女学生に取っては胸をときめかすあこがれの対象であった。金モールで型どった抱き茗荷に桜と錨章の入った軍帽、蛇腹で縁どった紺サージの襟に輝く金筋と桜花、純白の手袋と短剣、勿論、我々が海軍を志願したのは軍服のためではない。しかし当時、軍隊に入ることを当然の宿命と取っていた男子学生、ことに理工科系学生に取っては、同じ軍隊に取られるならば、科学技術を伝統的に尊重し、人間性に富んでいると聞かされている海軍を志願するのが多かった。海軍士官の上記の軍服(第一種軍装)は海軍の持つ合理性の一つのシンボルとして映じていたのであった。

   所がこの夢は、入隊と共に無惨にも打ち砕かれた。我々に與えられたのは、陸戦スタイルの第三種軍装というカーキ色の軍服、帽子も戦闘帽型で、桜も錨も抱き茗荷も黄色布、当時の旧制高校の白線帽ならぬ二条の黒線が士官であることを示していた。といってもやはり海軍だけあって、服の色はカーキの中にネービーブルーの色調が入っており、型も背広スタイルで共色のワイシャツに紺灰色のネクタイをつけるという所は、野暮な形の陸軍将校よりはましだといってやせ我慢をしていたのであった。

   それよりも、私に取って困ったのは靴であった。短靴が2足、陸戦用編上靴が1足づつ支給されることになっていた。所が、私は、馬鹿のなんとかやらのでか足で合うのが一足しかなかった。教官は「経理部に注文してやるから暫く待っていろ」という。それはそれでよいとして、時々靴の点検がある。他の者は点検用の靴と履く靴とを使いわけして、履かないでピカピカに磨いた靴を靴箱の前の方に出し、履いた方の靴は奥の方に入れておく。ところが履いた靴はいくら一生懸命に磨いてもどうしても光沢が違ってくる。それで、夜半に点検にやってくる当直教官はこれを目ざとくみつけて、「おい、起きろ、貴様の靴はなんだ、」と来る。勿論弁解は許されない。おきまりの、「足を開け、眼鏡を外せ、目を閉じろ、歯を食いしばれ、」ときて、ポカリである。しかしその内には、私の分隊監事が事情を心得てしまい、「〇〇監事、そいつは馬鹿の大足で靴が一足しかないんだ。大目に見てやれ」と、取りなしてくれるようになった。やがてやっと二足目が手にはいったときには、ホット胸を撫でたものである。

  食についても同様である。前記の内藤氏の著書によれば、我々の二年先輩の第一期見習尉官が訓練をうけた青島特別根拠地隊ではかなりのご馳走があったようだが、我々のは全くひどかった。浜名湖畔はウナギやカキの産地であることを知っていた我々は、毎日とはいかないまでも、たまにはウナギやカキにありつけると信じていたのだが、実際に出るものは朝は大根汁、昼と晩は大根の煮付けでたまにイモの煮付けでもあれば御の字、動物性蛋白といえばダシガラか、時たまシラスが二三匹泳いでいるのがかすかに窺われる程度である。それで毎日の激しい訓練に対し、当時の地方での配給の約二倍の四合五勺という量でも満腹感がなく、時たま配給になるミカンなど皮を残す人はいない。各班(10名)では配食毎にたてから眺めたり、横からすかしてみたりして少しでも過不足のないようにし、しかも配食後クジ引きでこれを交換したりして不満を少しでも和らげようと苦心したものであった。

  最後に住であるが、我々の学生舎と呼ばれる兵舎はバラック建て、ガラス窓の隙間から風は遠慮なく入り、天井もない。舎内は廊下は土間で居住区は板の間、その間に仕切りはない。ワラブトンと毛布数枚、二人に一枚づづの割合で羽根ブトンをかける。総員を24分隊に分け、大学卒は101,103というような奇数番号、高専卒は102,104というような偶数番号で604分隊までが編制され、各分隊は8班で各班毎に食卓兼温習用のテーブルと長椅子がおかれている。就寝時には机を片付け、上記の寝具を棚の上から降ろす、別にハンモックでもないのにのとときの号令は、「総員、吊床おろせ」であった。勿論、暖房は全くない。

  浜名海兵団には技術見習尉官隊の他に少年工作兵や一般兵もいたが、我々の学生舎はその東側半分を占め、一般兵員の兵舎とは中央練兵場で隔離されていた。我々の訓練は浜名海兵団長浦野大佐(後に少将に進級)、教育主任古賀大佐の他、技術少佐二名、兵学校出身の兵科大尉二名、各分隊に技術大尉が分隊監事として日常生活、一般訓練の指導に当たり、監事付の兵科兵曹長がこれを補佐する。また、主計大尉、軍医大尉がそれぞれ庶務、医務を担当していた。ただ、陸戦、短艇その他の軍事実技を直接担当するのは兵科下士官の教員で、彼らは同じ教育隊の中で学生舎の洗面所、厠の清掃管理にあたる水兵(從兵)と共に「定員分隊」という別個の分隊を構成していた。

  この様に我々を直接訓練するのは下士官であるが、我々は見習尉官とはいえ、その階級は候補生の下、予備学生、准士官の上という士官扱いである。従って教育に当たる教員は被教育者である見習尉官(訓練中は学生と呼ばれる)に命令を下すことは出来ない。ただ、訓練中、必要な号令、例えば、「気をつけ」とか、「右向け、右」を言うことは出来るが、「こちらを注目しろ」という命令はくだせない。このようなときには、「こちらを注目する」というような終止形を用い、学生が自発的にこれに応ずると言う形を取った。例えば陸戦訓練の最中、教員が、「〇〇学生のただ今の動作は気迫がたりない」というと、傍らにいて陸戦バンドに軍刀を釣った技術士官の教官が飛んできて、「〇〇、前にでろ」ということになる。今度は本当の命令をだし、例のごとくに「修正」と称する「ビンタ一発」という具合いである。そして課業が終ると、教員の方から、「課業を終ります。」と敬礼をし、我々がこれに対して「御苦労」と答礼をするのであった。


   敬礼序列はさておいて、教練の内容は生易しい物ではなかった。ことに大学卒の奇数分隊員は高専卒の偶数分隊員と三年以上の年齢差がある。同じ様な課業の下では、どうしても若いものが有利である。そこに持ってきて元来技術見習尉官は大学卒は僅か五ヶ月の訓練の後に少尉をすっとばしていきなり中尉に、また高専卒は七ヶ月で少尉になる。ところが同じ海軍にはいるのでも、医学部、、医専出身の軍医は技術と同様であるが、法文科出身者は僅かの者が主計、法務の見習尉官に任用されるだけで、大部分は予備学生として一年間の訓練でようやく少尉になる。もし、陸軍に召集されれば、新兵として二三ヶ月を送り、その後ようやく幹部候補生となり、少尉任官までには一年以上を要する。しかも、軍医、主計などの士官は、兵科士官(将校)ととも二第一線に出ることが多いが、技術士官は比較的これが少ない。それで、技術士官に対しては、「戦場に行く危険の少ない士官」だの、「技術士官が軍人ならばチョウチョウ、トンボも鳥の中」などの陰口が聞こえる。中には、技術見習尉官の志願を「体の良い徴兵忌避」などと極言するものさえ皆無ではない。それで、技術士官である分隊監事達は、兵科将校の教官から、「技術士官はなっていない」といわれるのを避けるためにも、ことさらに厳しい躾教育をしようとした。更に戦局が激しくなると、技術科だからといって後方配置とは限らなくなり、元来、軍令承行権(つまり戦闘指揮権)のない技術士官も前線では必要に応じて陸戦や対空戦を指揮しなければならない事態も生じていた。

  この様に、衣、食、住、すべて劣悪な中で猛訓練が続いた。まだ真っ暗な午前6時にけたたましい起床ラッパ、「総員起こし」の号令一下、二分以内に軍服を着用、毛布をきちんと畳んでワラブトンを整理し、舎前に整列しなければならないのはなによりの苦行であった。毎晩、哀調を帯びて長い余韻を引く巡検ラッパが、鳴り響き、「巡検終わり、明日の課業予定表どうり」のアナウンスがあると。「やれやれ、今日は済んだ」という安堵感と、「明日はちゃんと起きられるだろうか」という不安が錯綜した。あれから30年たった今でも、時として、ラッパがなっても体が動かないで冷汗をかく悪夢にうなされることがある。陸戦のときには金筋の入った士官服にゴボー剣を吊り、小銃を持つという異様な出で立ちで下士官にコツキ回され、砂浜を匍匐前進、突撃の早駈け、「こんな格好、とってもリーベには見せられないな」とお互いに顔を見合わせたりした。終わりの頃ともなると、匍匐前進のまま山林に入り、敵陣に肉薄斬り込みという訓練を、砲術学校教官という予備学生出身の兵科将校に怒鳴られ、ビンタを喰わせられながらやらされた。

  浜名湖上でのカッター訓練も、見た目には快適だが、どうしてやっている者にとっては遊園地のボートとは違う。それでも入隊直後の十月頃はまだよいとして、遠州灘に「浜名風」と我々が呼んだ西の季節風が卓越するようになると、湖は白波が立ち、波頭はオールに当たってしぶきをあげ、冷たい水が服をビショ濡れにする。身体は冷え込んでしまい、繋艇場から隊までの駆け足の最中、ただでさえ栄養失調となっている体は、膀胱の筋肉が弛緩してしまい、一歩走るごとにズボンの裏からなま暖かいもので濡れてくるのをどうすることも出来なかった。

   毎日の冷たい水での甲板掃除に手足は凍傷で赤色から暗紫色に崩れ、訓練中に受けた毛筋ほどのかすり傷でも化膿せずには済まなかった。バンソウコウや包帯をしていないものの方が少ない位であった。外から帰舎してもタバコの火以外の火気のない屋内では入浴と就寝以外に体を暖める手段はなかった。「俺はこの頃男性の機能を喪失したようだ」と一人が言うと、「そう言われれば俺もそうだ」「俺もだ」
と顔を見合わせるのであった。

   ただ、私に取って唯一の救いは、海軍名物の駆足訓練がそれほどの苦痛でなかったことであった。海兵団から新居町、これから現在の国道一号線を通って舞阪まで往復十数キロを分隊毎に一団となっての競走も、浦高時代に2キロを7分23秒で走り、60キロの競歩で全校600人中で12位を取っていた私に取ってはそれほど苦しくはなく、いつも紐で一人ぐらいを引っ張って走った。学生時代の私は痩せていて、海軍の試験の時も胸囲はギリギリだったので、検査に当たった軍医感は巻尺を乳の上と下とで斜めに、しかも多少緩みを持たせ、「よし、合格」といってくれたのであった。しかし、よくもこんな訓練を我ながら落伍しないで頑張ったものである。予備学生の訓練に耐えかねて規律を犯し、官職を剥奪され、士官服をジョンビラの水兵服に着替えされられ、昨日までの部下であった下士官にコツかれ、今までの同僚のいる分隊を引き回されるという辱めを受けた例のあることを教官から聞かされていた。見習尉官の場合は降等でなく免官であるが、この場合、確実に改めて星一つの二等兵としての徴集は間違いない。ここは士官のプライドにかけ、何とか歯を食いしばっても頑張らなければならなかった。「貴様らがヘマをやると、沈まんでも良い艦が沈む。落ちんでも良い飛行機が落ちる。それも一機でなく、全艦隊のがだぞ」という兵科将校の気合いも、一概に嫁いびりのような技術官いじめとばかりは言えないものがあった。

  しかしながら、やはり不幸にも脱落者が何人か出た。これは病気で入室中にあった学科試験に不正行為があったという理由のように聞いている。後一週間で訓練終了というある日曜日、久しぶりに外出が許され帰隊した後、今まで確かにあった某学生のハンモックナンバーと氏名を記した名札がなくなっている。よくみると、衣類入れのチェストや、靴箱の名前も抹消されている。そのままこの学生は分隊名簿から抹殺され、二度と彼の名を出すものはいなかった。彼がどの様な姿で退団し、その後どうなったのか知らない。

   浜名海兵団での訓練は、この様な術科のみでなく学科もあった。海軍諸礼則、軍制一般、航海学、運用学、砲術、水雷術、等理論的なものはむしろ学生に取って理解し易く、兵科教官を困らせるような質問も出た。航空兵器、砲熕兵器、電波兵器、等等それぞれ海軍技術研究所、航空技術廠等の技術士官の講義はむしろ興味があった。性病予防心得などという軍医官の講義もあり、「次室士官心得」という生活に直結したものもあった。

   この中で特に印象に残ったことがある。入団後間もなくの分隊監事訓育で、菊田監事は、「よいか、軍人としては上命悦服は根本的な心得だ、だが、技術官はそれだけでは不十分だ。だが、今の貴様らにこれを言うとかえって混乱をする。貴様らがもう少し海軍精神を体得したところで卒業前に教える」といった。このこと場は我々の脳裏からはなれなかった。それで卒業直前にある学生がこれに就いて質問をした。

  「技術士官は上からの命令、ことに用兵側からの命令が技術的に無理であることを知ったときには、これを拒否するのでなく、何としてでもこれを説明して撤回させる義務がある」といって、かつて用兵側の要求に屈して無理な設計をして転覆、或は破損して多くの犠牲者を出したいわゆる友鶴事件などの話をした。監事は舞鶴工廠造船部の勤務であった。

  ともあれ、苦しい4ヶ月は終った。今後も苦しいことはあろう。しかし今後は、本来の技術第一線での苦労であると思えば希望も湧く。昨日、我々は新しい配置の内命を受けた。「横須賀鎮守府付きを命ず。海軍航空技術廠支廠長の命を受け服務すべし。望んでいた配置である。今朝は恙なく卒業式を終え、新居町駅に集合した我々は、新任地に向かうべく、上下二本の特別列車に乗車し、お互いに、「頑張ろう、頑張ろう、」と、帽子を振りつつ、東へ、西へと別れていった。

 

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2. 櫻咲くまで

 

  海軍航空技術廠支廠は横浜市磯子区(現、金沢区)釜利谷町にあり、北門は金沢文庫駅前、南門は金沢八景駅前にあり、約一平方キロの広大な敷地を有していた。現在は東急工場、横浜市立大学などがある。これは昭和16年、追浜の空技廠兵器部などが独立拡大したもので、本廠で機体、原動機などを扱っているのに対し、主として搭載兵器類の研究、実験試作を担当していた。支廠長は竹中少将、職員約一千名、工員約一万名という大陣容であった。尚、我々の着任後間もなく、音響、電波部門を新設の第二技術廠に移し、第一海軍技術廠支廠(一技支廠)と改称された。

   私がこの空技支廠に初めて関係を持ったのは、実は入隊前の昭和19年の晩春であった。世は決戦段階に入り既に法文科学生は既に徴集猶予を中止され続々と戦場に赴き、私の弟も東大経済学部在学のまま陸軍に入隊、幹部候補生として中支保定の予備士官学校で訓練中であった。残った理工科学生も動員体制が取られ、私も海軍技術学生(委託学生)として軍籍に編入され、卒業実験はこの空技支廠で行う形で計器部に配属され、時折本郷の大学には顔を出したが、軍事教練は免除された。そして支廠の北二キロの富岡にある工員宿舎の一棟を学生舎とし、技術学生(大学生)、技術生徒(高専生)数十名が起居し、先輩の技術士官の指導のもとに各研究室に配属されて研究実験に従事し、工員の生活をも体験する一方、入隊後の予備訓練として軍事知識、初級士官心得などに就いての教育を受けた。また、同じく勤労動員で入廠した山梨県の中学生の指揮をもやらされた。 海軍工作庁に働く工員には、二等工員、一等工員、職手、工手、工長の5階級があり、職手以上は役付きのいわば下士官格、工長は部内限り判任官待遇のいわば准士官格であった。我々の身分は、学生は工長、生徒は職手とそれぞれ同格と言うことになった。

   計器部庁舎の裏手には小山があった。勿論一般には立入禁止であったが、計器実測用の小屋があり、我々は実験にこと寄せて時々登った。ここからは横須賀軍港や、横須賀航空隊の一部が良く見え、戦艦山城、空母瑞鶴、雲龍を始め、巡洋艦、駆逐艦数隻が並び、双眼鏡でみると空母甲板上には零戦が並んで兵員がキビキビと訓練を実施し、いかにも頼もしげに見えた。横空にも零戦、銀河などが並んでいた。

   計器部長は大佐相当の文官浅田技師、後に延谷少将に変わった。研究主任の北村中佐は海機校から海大専科学生として東北帝大理学部で物理学を専攻した学究肌、そのほか物理出身の技術士官の多いのに驚いた。実習学生の指導官
井村技術大尉は北大物理、片山技術大尉は東大物理、私の配属された班長の村田技術大尉は東北大物理、私の直接の上司の青木技術大尉は私の先輩の東大地球物理、計器部配属の実習学生9名の中の5名が物理系であった。

    実習学生時代の数カ月は、戦線がトラックの大空襲の後、中部太平洋へと押し付けられる時代で、海軍最後の大反撃を策している頃であった。サイパンの南東方面、スラバヤの南西方面艦隊所属の実施部隊から、飛行隊員が飛んできては、戦訓を色々持ってきては対策を要求して行く。何か返事を濁らせようものならいきなりダンビラを振り上げて、「一体貴様らは何のための研究をしているんだ」と怒鳴りつけることもあった。また、テニアンからわざわざ飛んできて、「出撃するのにコンパスの豆電灯が足りない、サイパンの南東方面航空廠にもない。すぐに20個ばかりなんとかしろ」等という注文をつけるのを目の当たりにみて我々は前線の近さと戦局の重大性をひしひしと感じたのである。

   ここで私が担当を命じられたのは、「天測航法の簡易化」というのであった。実施部隊で特殊な訓練を余り必要とせずに主要な星の名前を覚え、計算をなるべく簡単にする航法計算機を考案することであった。学生時代に天文学にも興味を持っていた私には打ってつけのテーマであった。私は青木技術大尉と共に、天文文学の権威、野尻抱影氏を訪れて意見を聞いたり、当時、有楽町の毎日新聞社にあったプラネタリウムを訪れて特別実演を頼み、星座の印象を捉えることを試みたりした。

   戦後間もなく、野尻氏の著書を書店で立ち読みしたら、「私は戦時中、この非常時に星の名前などといわれもした、しかし皮肉なことに、その頃、海軍航空研究所から航空兵教育のために星の名前を考えてくれとの相談を受けていたわけであった」と書いてあったのを覚えている。

   とんでもない無茶な実験もやった。ある計算図表を考案した私はこれを上司に提出した。「計算は貴様達のような物理学者が研究室の中でするのじゃないぞ。兵隊が、5千米の上空で頭がおかしくなったところでやるんだぞ」といわれた私は、それならばと一計を案じ、動員された中学生数名を2グループにわけ、一方には少し酒を飲ませて駆け足をやらせ、多少頭にきたところで計算をさせて、シラフのグループと比較することによって、誤算がどの様に起こるかを検討することを試みた、さすがにこれには学校側の付添い教員から苦情が出たが、私は、「余り勝手な無茶をするな」とお叱りを受けただけであった。

   私はまた、撃墜された米軍飛行機登載計器の説明書の翻訳調査という重大な仕事も手伝わせられた。これにより、日米の技術の違いをいやと言うほど知らされた。一口に言えば、日本の計器は、技術陣に物理出身者が多いためか、非常に精致ではあるが、米軍の物は比較的簡単で、その代わり設計工作に細心の注意がしてあり、一本のビスネジでカバーから主な部品が全て留められるようにしてあったり、一つのダイアルの調節で全部こと足りるように工夫が凝らしてあり、握りの形なども手の形に合うような注意が払われていた。また、各種計器の心臓ともいうべきベローやブルドン管に用いる燐青銅の冶金で日本は米国に後れを取り、これがどうしても追い付けないネックになっていることを知ったのである。

   此の実習中にサイパン戦があり、少し前に南東空廠に赴任したばかりの市橋技術中尉が戦死し、また飛行実験中に酒井技術大尉が殉職、その海軍葬が廠内で行われた。これらを目の当たり見た我々に取って、実習中の数カ月は、むしろ浜名海兵団の4ヶ月以上に海軍を身に沁みて感じ、実戦参加の技術士官としての責務を感じさせたものである。入隊のために退廠するときに支廠長が、「諸君が数カ月の後、士官として再びここに帰ってくるのを、海軍は一日千秋の重いで待っている」といったのに応ずべく、我々は衛兵の「捧げ銃」の敬礼に得意げに浜名海兵団でしこまれた海軍式45度挙手の答礼で応えつつ、空技支廠の門を4ヶ月ぶりでくぐった。

   しかしながらここで我々を待っていた処遇は、この様な張り切りと期待とは全くうらはらであった。宿舎に当てられたのは支廠裏の山間の富ヶ谷工員宿舎の一棟である。勿論、士官棟は一般工員等から出来るだけ離し、食堂も仕切ると云う配慮はしてあったが、昨年までのように士官宿舎を始めから用意してあるのと大違い、実習学生時代と同じようなバラック二階建てで、8帖間に5人位づつ、火工、光学、計器等各部毎に班を作り、各部先任見習尉官が班長となり、補佐官(技術大尉)が退庁から翌朝の出勤までの日常生活を管理する。寝具は藁布団と毛布だけ、机も椅子もなく、行李を机代用にしなければならない所は浜団よりもまだ悪かった。

   真っ暗な午前5時の総員起こし、体操などの行事も同じ、ただ、ここでは毛布のたたみ方が少々悪くても、整列がおそくてもビンタを喰うことはなくなっているし、食缶を担ぐ必要もなく、ちゃんと盛りつけをしてある点がやはり大きな違いであった。食事が済むと各部毎に隊伍を組んで出勤する。これには、「士官が隊伍とはおかしい」という意見もあったが、「実習士官はまだ訓練中だから構わない」というのが指導官の意見であった。宿舎正門の出入りには当直警戒員(つまり番兵 )が銃ならぬ竹槍で「捧げ銃」をして我々を送迎した。

    支廠での課業内容も大きな期待はずれであった。青島で訓練を受けた先輩は、着任時には既に任官しているはずであったが、今年は任官までにまだ1月ある。それはよいとして、ここで先ずやらされたのはハンマーの持ち方、ヤスリの掛け方等を毎日毎日朝から晩までやらされたことである。指導官のI技術大尉は、「このハンマーやヤスリを諸子が浜名海兵団でもった銃やオールと思って海軍精神を体得せよ」
という。これには実習士官の間に不満が猛然と起こった。「意見があれば順序を経て上申せよ。容れられるか否かは別問題だ」と初級士官心得で学んだばかりの我々は、早速ガンルームで協議して意見具申をした。「浜団での訓練はそれなりの意義がある。しかしハンマーの振り方に精神教育的な意味を持たせるのは謝れる精神主義に過ぎない。現在の戦局からみて、我々に必要な訓練は別にあるのではないか」
「生意気なことを云うな。貴様達はまだ一人前ではない。本来なら、貴様達はここで、海兵や、機関学校出の候補生達と一緒に二三ヶ月空母に乗り組み、横空整備隊で暫く鍛えられてようやく一人前の口がきけるのだ。大体貴様らの先輩の技術大尉連中だって、たった一年のガンルームから士官室に収まりかえってしまっている。なっちょらん」

   工業高専卒業後、当時の制度で造兵少尉候補生として数カ月の訓練を砲術学校で受け、更に、少尉、中尉をへて、その間、海上勤務、実施部隊勤務、の後、工場で鍛えられた彼からすれば、我々がいかにも甘っちょろくみえたのもやむを得まい。しかも空技支廠は、昨年我々が実習を送った時代とは大きく変わっていた。計器部各科の研究室は逗子、葉山地区の遊休別荘を徴用してここに疎開し、支廠の裏山には大きな洞窟が蟻の巣のように掘られて発電工場始め実験装置試作用の精密工場もこの中に移転しつつあった。だからこの金沢では工場実習しか出来ない。工場でしこたましこんでやれと補佐官が思うのも無理からぬことである。しかし一方、研究室側からは、「昨年から仕事をして手馴れている新士官を早くよこせ」という要求が出ていたのであろうか、結果としては、工場でのこの様な基本実習は一二週間で終り、葉山地区の各研究室を回っての実習に移った。

   富ヶ谷生活については、「明るい時間」の思い出が全くない。暗い中に起床、出勤、1830の退廠で暗くなるまで帰らないからである。帰舎すると夕食もそこそこに先を争うように横須賀に繰り出す。行き先は云わずと知れた水交社である。横須賀駅からまっすぐに行って突き当たると鎮守府、その向いがそうである。ここでは、まだビール、日本酒、一品料理等があり、浜団での栄養失調と、猛訓練での疲れを一度に取り戻そうとするのであった。しかし、横須賀の町を歩くのは敬礼が面倒である。下士官や兵は服の形ですぐ解る。士官はどうせ我々より下はないのだからこちらから先に敬礼すれば間違いはない。しかし中尉任官後は多少ややこしい。第三種軍装の中尉が第一種軍装の少尉と大尉に挟まれるのだから。しかし不思議なもので、多少薄暗くても、アルコールが入っていても、先方からくる士官の襟の金筋と桜章の数、古ぼけさを瞬時に見抜く異常な神経が発達してきた。

   ところが水交社通いの度が過ぎて、1830の退廠時刻を待ちきれずにエスケープするもの迄現れた。士官の場合、時間中に外出するのにいちいち公用章は必要ない。衛兵の敬礼する前を堂々と出られる。しかしこの様な手合いが余り多くなると水交社の隣りの鎮守府の目につく。とうとう鎮守府副官名で各所轄長に、「新任の実習配置見習尉官の勤務時間中に水交社に出入するもの多し。厳重注意されたし」という通達が出され、お灸を据えられる羽目になった。

   此の間、忘れられぬのは2月17日の横須賀に対する初空襲である。この日、いつものように登庁中に、「敵小型機接近中、戦闘員配置に就け」の号令が響きわたった。まだ配置を持たぬ我々は最寄りの洞窟に待避するのみであるが、上空にはまだ何も見えない。ちょっと用を足そうと壕から出た途端グーツと前方から戦闘機が突っ込んできた。急遽壕に戻る。その時遅く彼の時早くバババと夕立がトタンを叩くような音が聞こえて、目の目の建物の屋根や壁にボロボロと穴があき、私が一瞬前まで立っていたところの地面にパッパツと砂煙が立ち、樹の幹からは白い煙が上がった。逃げ遅れた工員がアツと叫んで手をあげたままバタリと倒れ、二三度手足を動かしたまま動かなくなり、あたりに鮮血が流れ出した。「畜生、やりやがったな」とじたんだ踏んで悔しがり、夢中で飛び出そうとする仲間の工員を他の者が押さえつける。周囲の山の砲台は一斉にダダダダと響きを立て、弾道を示す白煙が上空の一点に吸い込まれて行く。遂に米軍の一機がパツと日を吹いて黒煙を上げると、一斉にワーッと喚声が上がった。

   この日の空襲は約二時間半、支廠解説以来始めての空襲で、死傷者数名の痛ましい初記録であったが、本廠、横須賀工廠、軍港艦船などは直接の攻撃目標となり、工場、人員の被害ももっと多かったようである。

   この後間もなく、硫黄島の激戦が始まった。この様な中で、3月1日の早朝、見習尉官の中の大学卒業者全員に対し、「海軍技術中尉に任ず」という任官通知が伝達された。それっと一斉にかねてから用意してあった桜花章を襟章に取り付ける作業、外套の肩章の大きな桜もである。多少面はゆい気もするが肩で風を切るようにして登庁する。昨夜まで同階級であった高専卒の見習尉官は少尉任官まで後2ヶ月あり、二つも差ができてしまったので多少羨ましそうである。士官次室にはいると、昨日までこちらから先に敬礼していた昨年任官の技術少尉が、「おめでとうございます」と今度は向こうから敬礼する。「おめでとうございます。山中中尉」という工員達。「やあ、おめでとう」と上官たち。「今日は、貴様たちがネービー生活で最上の日さ」としたり顔で云う古顔の佐官連。とにかく我々は、第34期技術士官として、第三種軍装第一装に手袋を付けて支廠長に伺候のため本部庁舎に向かった。

 

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3. 葉山の浜

 

   苛烈な戦局下ではあるが、私達はようやく一人前の技術士官になった。しかし職務は依然として横須賀鎮守府付、第一技術廠支廠長承命服務の第二期実務練習生(すなわち実習士官)であることには変わりはない。しかし配置の上では今までのような実習配置でなく、実際の研究室、または工場に配属された。そして研究室配置の者は、原則として昨年実習学生として勤務した原配置に戻った。未任官の高専卒見習尉官も新任中尉に混じて配属され、我々は富ヶ谷宿舎の団体生活から解放され、葉山、逗子地区に適宜下宿を見つけて住むこととなった。

   私は昨年来の戦友阪大理学部物理出身の高瀬技術中尉と共に昨年と同じ航法計器担当の第三科に配属された。昨年はいなかった二年現役の黒田見習尉官(台南工専)、山脇見習尉官(京都工専)も一緒であった。主任は第二科(空盒計器)と兼務で昨年と同じ村田技術大尉が少佐に進級して就任しており、研究班長は昨年の私の上司の青木技術大尉、その下に相川技手設計班は新藤技術大尉(日大、電)、正田技術大尉(久留米工専)、上杉技手という顔見知り、工員達も皆顔なじみで一同大歓迎してくれた。

    しかし変わっていたのは戦局である。我々が配置に付いて間もない3月月10日には東京が大空襲を受け江東一帯が全滅し、硫黄島は既に失陥、毎日正午にはB29が定期便のように一機づつ東京湾上を偵察にくるようになった。 金沢の裏山に登ってみても、かつてみた山城も、雲龍も、瑞鶴も見当たらず、僅かに駆逐艦、海防艦が数隻見当たる程度で、かつての横須賀軍港とはまるで別な観を呈していた。

   テーマも大きく変わっていた、潜水艦搭載用攻撃機「青嵐」、長距離爆撃機(4発)の「連山」、「深山」、更に大型の6発「富嶽」などは既に研究が中止され、ジェット戦闘機「秋水」、ジェット特攻機「橘花」などに最後の努力が傾けられていた。私の第三科で担当することになったテーマは、「機体鋼板化に伴う羅針儀対策」及び「簡易自差修正」であった。

   前者は早く云うと、軽合金の原材料のボーキサイドの外地からの輸送が既に止まったので、ブリキ板で代用する。するとその磁性のために羅針儀の狂うのを何とかしろと云うのである。後者の「自差」と言うのは、機体に各部分にある磁気のために、コンパスには若干の狂いがある。これを自差といい、これを修正するためには、機体を360度回転して8方位でこれを測定し、誤差の成分を計算して別の人工磁場を加えてこれを打ち消す。此の操作を、機体をいちいち回さないで、例えば洞窟の中で簡単に出来る方法を考えよと云うのである。どうみても特攻戦術にしか使えない。早く云えば末期症状にあるあがきのような研究課題である。

   勿論、私が昨年手掛けた天測航法の容易化だの、長距離偵察用の機位指示器だとか航跡自画器等はとっくの昔に研究の中止を命じられていた。

   班長の青木技術大尉は、前にも述べたように、東大理学部地球物理出身、学生時代、既に岩石残留磁気に関する研究で学会に注目され、その実験技術は教授も舌を巻くほどの俊才であった。それで此の班長の下、前者の研究は実験物理、ことに応用電磁学に詳しい高瀬技術中尉、後者は地球物理の私がいいだろうということになり、二人が協力しながら分担し、更に、電気出身の黒田、山脇両見習尉官(5月に技術少尉に任官)が、実験を補佐すると云う体制を組み、これに腕利きの工手にラジオ屋、時計屋等の前歴を持つ器用な工員数名、数値計算、グラフ作成などには高女卒の女子挺身隊員数名が配置された。この様な人材に配置に付いての海軍の考えはさすがに合理的であった。

   といっても技術中尉という仕事は、決して実験に没頭できるものではない。云うなれば走り使いである。毎朝の朝礼後と、午後の休みの二回には交代で号令を掛けて海軍体操をやらせる。その上に内務士官の当番に当たると腕章を巻いて舎内外の清掃、警戒、電力火気の保安、衛生、防火防空用具の点検、物資不足により工員の官品盗用の防止等のため忙しく走り回らねばならない。本来は、内務士官勤務中は本来の配置から外れるのであるが、分室ではそんな事は行っていられない。それで、午後6時半に工員が退廠してから防空暗幕を引いた室内でやっと仕事に取り掛かり深夜まで計算機を回すのはむしろ普通であった。

、  しかし一方、この様な仕事に当てられる分室は前にも述べたように別荘を改装したものだけに、役所、工場といった堅苦しさがなく、居住性は快適であった。それで、下宿を探すより、むしろ分室の職員当直室、つまり別荘本来の居室に泊り込むものもあった。当時、四日に一度は当直があり、警報下では隔日なのだから、どうせ独身の初級士官に取ってはその方がよいと思うのも当然だった。沖縄戦が始まって間もなく、横須賀水交社で浜団同分隊のクラス会が開かれ、近辺在勤者約10名が集まった。横須賀工廠造船部勤務の者からは、かつて幻の大空母「信濃」を作った大船台で、今やSS(特潜「海竜」、「回天」)の多量生産が行われていること、大船の燃料廠勤務の者からは、松根油の緊急採取が急がれていること、施設部の者からは、三浦半島全体をラバウルの様な洞窟とすること等を聞かされた。更に驚いたのは、海軍気象部勤務でGF(連合艦隊)指令部付となっている者から、昨年我々の計器部から気象部に転出した福山技術大尉(京大理学部地球物理)が大和の第二艦隊司令部付として沖縄近海で戦死したことを知らされた。

   「大和もやられた」と彼は短く、呟くように行って口を閉じてしまった。勿論、このようなことは、外部では一言も言えないことであった。この様な情報から、我々は一つの運命を直感した。それは、国の運命であると共に、自己の運命でもあった。此の二つを分けて考えることは出来なかった。我々は、国の運命を自分の目でみることは出来ないと思った。その前に自分の運命を迎えるであろう。しかしこれを現実なものとしてはどうしてもピンと来なかった。我々の毎日の昼食は、堀の内の葉山館という旅館でとっていた。ここは、計器部男子工員宿舎として徴用され、同時に次室士官の食堂になっていた。ここで地区内7個の分室に別れているクラスメートが毎日顔を合わせた。この他、毎週一度は一色の御用邸の近くの本部分室(高橋別荘)で全士官の会食があった。これらの分室には、「海軍葉山延谷分室」という看板が掛けられ、部外者の立ち入りを厳禁していた。

   実験は順調に進んだ。庭にドラムカンをつなぎあわせて機体の模型を造り、工員にこれをガンガン叩かせて誘導磁場を発生させた。これと同様の磁場をコイルで発生させるにはどの位のアンペアターンが必要かと計算をしたりした。工員達は優れた腕を持っていて、巧みに実験装置を考案したり、工作をしてくれたりした。実際の読み取りは二人の技術少尉がやってくれた。私は数値計算の手順を女子挺身隊員に説明し、時間を見ては地磁気学や球面三角法の講義をした。彼女達は理解しようと熱心に努力をしていた。毎夕、工員達が退廠すると、我々は、後輩として入廠してきた実習学生をも加え、青木班長を中心に、その日のデータを持ち寄って議論を闘わせた。このときばかりは、大学の研究室での空気を思い出させるものがあった。

   生け垣を一つ隔てた塚本別荘にある第二科では、東大物理出身の片山技術大尉を中心に、東大機械の大村技術大尉、それにガンルーム仲間の吉川技術中尉(東大造兵)、島村技術中尉(北大機械)等が、シリンダーの温度と圧力を計る圧温計の改良に懸命の努力を続けていた。現用の物は、一二年前に制式化し量産に入り、第一線機に取り付けられていたが、どうも具合いが悪いらしく、前線基地から絶えず苦情が出ていた。先ず、この計器を簡単にテストできる試験装置を考案し、工員が巧みにこれを作り上げた。その間にも、沖縄船は益々激化して行った。鹿屋に本部をもつ第五航空艦隊は特攻機を含む全兵力を九州に展開していた。

   「計器の針が異常な振動をする。それも一機や二機ではない。殆ど全部だ。これでは使い物にならん。何とかしろ」前線から整備士官が飛んでくる、第二科の全員は数日間、殆ど徹夜に近い実験を重ねた。トライアル・アンド・エラーの繰り返しであった。ようやく、計器の中のバネの一つの取り付け角度を少し変えることによって、この振動をピタリと止めることに成功した。全員、真っ赤な目で乾杯をした。

  この間に、我々は第二期実務練習の期間を終え、正式に「第一技術廠副部員に補す」という本配置となった。正に、「訓練即実戦」であった。暫くしたある日、研究主任の北村中佐からの呼び出しがあった。「実は、江田島の兵学校に航海術教官として転出して貰いたいのだが、」 「航海術でありますか」、「といっても教えるのは海洋学や気象学、その外に力学のような普通学も担当して貰うだろう。一二週間の中に発令されると思う。どうだね」 勿論私は、「上命悦服します」と答えないわけには行かなかった。このことを直接の上官である青木班長に話すと。「余りよい話しじゃないな。苦労するし、つまらない。しかし仕方がないさ。それまでせいぜい今の実験を進めてくれ」という。

   私自身も一つの悩みがあった。現在の任務は、学生時代に学んだ地球物理学よりは、その応用であり、工学的な研究である。勿論、海軍で私をこの様な配置にしたには、気象測器を卒論に取ったことと関係があるのかも知れない。大学のクラスメイトで測地学を専攻したものは、航海計器をやらされている。海軍はさすがに科学技術を重視するだけあって、我々を上手に使っているし、私は現在の仕事に一命を投げ打てると思っている。しかし、気象学、海洋学を兵学校で教育するのは、より直接に専攻課目を生かすことになる。一方、兵学校における任務は文官教授ではない。分隊監事付として、かつて浜団で受けた訓練を、より本格的に、海軍の心髄と自他共に許しているエリート生徒に施さなくてはならない。軍事学担当の兵学校出身教官、普通科担当の予備学生出身教官達の猛者連中の間で自分は勤まるであろうか。

   私は自らを叱責した。「貴様、娑婆気が全然抜けていないぞ。さっき、上命悦服といったばかりじゃないか。前線実施部隊にいる仲間の事を考えろ。兵学校で自分を鍛え直せ」。

   私は自分を説得し、兵学校赴任の覚悟を定めた。そして、マスコミ等では神聖化され、神秘化されている海軍兵学校の実情を知るべく、種々のデータを集め始めた。士官次室の中は、送別会の手筈を整え始めた。ところが発令予定日の直前になって、私はまたもや北村中佐に呼び出された。「兵学校の件は中止となった。中尉でなく、分隊監事の大尉でなくては駄目だそうだ。光学部にいる東大物理出身の者に行って貰うことにした。貴官は今までどうり、村田少佐、青木大尉の下で働け」私は正直な所、ヤレヤレという気と折角のところ残念だという気持ちが半々であった。

 

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4. 乙女の城

 

   兵学校への転出が中止となり、私は再び羅針儀の自差のテーマに取り組みだした。所が又もや呼び出され、今度は、「葉山地区女子寮補導官」を命じられた。これには全く意外であった。24才の独身青年士官が十七八才から二十一二才という妙齢女性の面倒を見ようというのだから。それにしても兵学校生徒と、女子挺身隊とでは随分と方向転換をしたものだ。

   葉山地区計器部各分室に勤務する女子工員は地元居住者の他は、千葉県御宿実科女学校在学中の勤労学徒隊員約30名が女性教員に引率されて配属されているほか、静岡県袋井市、及び秋田県秋田市各高等女学校卒業直後の挺身隊員が各約10名、計約50名が葉山町堀之内の郵便局に近い細川護立候の別荘を改装し、それを寮として使用していた。舎監は業務主任の若林中佐であるが、同中佐は一月に一度か二度しか寮に姿を見せない。庶務的事項は男子寮と兼務の大橋工長(准士官格)が副舎監として担当するが彼もまた男子寮に居住している。 それで女子寮に常時起居する男性は補導官ただ一名、しかも職員以外の男性出入厳禁という大奥か女護が島である。ここで私は彼女達の日常生活の指導、保安警戒、健康管理、海軍精神の函養等という大役を仰せつかることになった。この別荘が女子寮であることが洩れては色々都合が悪いので、正門には「第四延谷分室」という看板を掛け、門は閉鎖して中が見えないようにし、脇の通用門だけを使用していた。

  業務主任は、「女子集団の取扱はデリケートだ。特に気を付けるのは、特定の個人に対し、他と違った態度を見せないことだ。寮長や教員を通じて接触することだ。医務部に行き、軍医から注意事項を聞いておけ、貴官はこの役にはまだ若過ぎると云う意見もあるが、村田技術少佐は貴官を適任だと強く押していた。貴官なら間違いなかろう」 最後の一言は何の事かちょっと気になったが、私は下宿を引き払って寮に荷物を運ばせた。最近支給になったばかりの紺色の第一種軍装に身を固め、私は、退庁直後の1900、前補導官の大村技術大尉と共に、まだ薄明るい晩春の夕刻の寮の門をくぐり、玄関前にモンペ姿で整列して私を待っている50名のうら若い女性達の前に立って着任の挨拶をした。「海軍技術中尉、山中一郎、命により本日より当女子寮補導官として諸子と生活を共にすることとなった。現在の時局に付いて特に云う必要はない。私は、諸子と共に毎日職場の朝礼で唱和している「厳として礼あり、粛として和あり」をモットーとしてやって行きたい。お互いに健康に注意し、仲良く頑張ろう。ではこれで終る。解散」。

   列の右翼先頭に立っていた寮長は、「礼」と号令を掛けて私に敬礼をする。答礼が終ると彼女は、「別れ」と号令を掛け、寮生達は玄関に入って行った。

 ☆註、職場での朝礼唱和は、「我が工場はZ旗の戦場にして大和魂の道場なり。故に我らが日常には厳として礼あり、粛として和あり。御稜威の下、我らが赤誠を凝らして一発轟沈の弾丸となし、万里征戦の翼となさん」。

    私は村川寮長に案内され、廊下伝いに奥にある補導官室に入った。ここは八畳間の事務室兼居室で机、椅子、電気スタンド、折り畳みベッド、ロッカー、衣類箱、書棚、ラジオ、書類箱などが置かれていた。その隣は教員室であったが、付添いの富士川教諭はここに寝起きしないで生徒達と同室していた。あとは各部屋に8人から10人位が毛布を敷いて泊まっていた。華族の別荘だけあって玄関の衝立も、部屋の額の絵も、なんだか由緒ありそうなものであった。母屋の水洗便所は職員専用であり、築山や芝生のある庭の一隅に母屋と接して寮生用の厠が特設されていた。

    村川寮長は横須賀に自宅があるが、寮に居住している職手(下士官格)で年輩は私と同じか少し上、落ち着いて思慮深いもの静かな若奥様という感じのする女性で、寮生を良く取りまとめていた。鈴木副寮長は秋田高女卒の挺身隊員で20才、良く気が付く秋田美人タイプでこの二人は私の両腕として協力してくれた。ただ、御宿学徒隊の付添い富士川教諭は、やはり私と同年であるが、、彼女だけは当然ながら学徒の身を案ずる余り、ややもすると私のやり方(というよりも海軍のやり方かも知れないが)に批判的であったった。彼女はふたこと目には、「補導官、兵隊と学徒とを同じになさらないで下さるようにお願いします」というのであった。

   私よりも教員としてのキャリアが長い彼女にしてみれば、張り切る一方の独身士官の私が、物理、数学と云うような専門課目の訓育だけならばともかく、生徒の日常生活の指導責任まで持つというのはスンナリしないのも無理からぬこと、きっと漱石の「坊っちゃん」の様に見えたことであろう。挺身隊員は身分は既に徴用工として軍属であり、直接海軍の管轄にあるが、学徒隊はそうではない、いわば客分である。彼女の言い分ももっともな点もあった。それはそれとして、やはり私の指示には従って貰わなくてはならなかった。

   寮の日常日課はやはり、「総員起こし」から始まる。ただしラッパの代わりにベルである。けれども私は彼女らが着替えている部屋に入って気合いを入れるわけには行かない。髪をとかし、洗面をし、、お化粧までしてくるとなるとどうしても舎前整列まで15分以上もかかる。浜団で2分半の総員起こしに鍛えられていた私はいささか気抜けがした。体操をするにしても、「上半身ハダカになれ」というわけにも行かず、また、夜の巡検にしても、部屋の中に入って一人一人の寝顔を見ることも遠慮しなければならず、寮長を代わりに回らせるだけで私は廊下で待っている。何だか勝手が違ってとまどった。

  しかし女護島でやはり私は責任者である。「出勤、寮舎離れ」のベルが鳴ると、私は玄関前に立ち、行先の分室毎に別れて整列し、隊伍を組んで出て行く寮生の敬礼に答える。夕刻、自転車で帰寮する私が玄関を一歩はいると、当直寮生が「気を付け」の号令をかける。立っているものは不動の姿勢、寝そべっているものは正座して目礼をする。私は挙手の敬礼で答え、「かかれ」といって室内にはいる。当直寮生が、「補導官、お食事を持って参りました」といって入ってくる。週に一二度は、「補導官、入浴の準備ができました、」
と告げにくる。もっとも、「補導官、御背中を流させて頂きます」と迄は云わなかった。

  食事の世話のみでなく、洗濯までしてくれる。浜団入団以来、初めての厚遇である。同じ時期に男子寮の補導官になった松浦技術中尉が羨やましがっていた。
   夕食が済むと寮長が日誌を点検のために持ってくる。その他副寮長、付添い教員などと打ち合せもある。教員からはひっきりなしに要望、ことに生徒に対する物資特配等の要請がくる。これに対し業務主任と相談したり、時には物資部に交渉にいかねばならなかった。

   厚遇と同時に責任もある。夜間非常の時は彼女達を安全に避難させねばならない。したがって、私は勤務分室の当直配備からは外されている。三日にあげず発令される警報とともに私はすぐに身支度をして待機し、残業中でも自転車を飛ばして帰寮することになっていた。

  毎日悩ませられるのがノミである。いつのまにかノミが大発生し、ただでさえ空襲警報で睡眠不足がちの寮生、(補導官室も例外ではない)の眠りを妨げ、作業の能率を低下させる。寮生達が作っているガリ版新聞に、「補導官、Bよりノミに悩まされ」
「警報が解除になってノミをとり」などという句が現れた。大掃除をして毛布を日に当てれば良いのだが、この唱和20年という年は異常に梅雨が長い、気象史上に特筆すべき年であり、なかなかその機会がない。ノミトリ粉の支給を医務部に交渉したがらちが開かない。ある士官から東京芝の水交社の売店で賣っていることを聞いた私は、わざわざ上京して、ポケットマネーで数個買い求めて寮生に配給した。勿論、正規の購入手続きを取っていたのでは間に合わない。それにしても、逗子から東京までの二等(グリーン車)電車賃をまで入れると、随分と高価なノミトリ粉になったものだった。

  志気の維持のためにも気を使わなくてはならなかった。寮長、副寮長達は色々計画を立ててくれたり、前任者時代からも実施されていたお茶の会もあったし、コーラスの練習もあった。幸いに邸内にピアノがある。本部に勤務している女子理事生(事務員)に上手な人がいたので、毎週一回づつ指導させた。曲目は「夏は来ぬ」とか「春のうららの墨田川」だの女学生好みの物が演じられていて、特に戦意高揚の軍歌をやると云うわけではない。まして「女子にも竹槍訓練をやらせろ」等と野暮なことを云う上官は私の関係しているところではいなかった。

  ガンルームに手品の上手なのがいた。ある夜、彼を招いて寮生のの前で実演して貰った。彼女達は大喜びで、早速彼に、「海軍奇術中尉」という愛称を奉った。

   補導官の面倒な仕事の一つに通信検閲がある。先任補導官である私は、同時に男子寮工員の通信の検閲官を兼ねていた。部内発信は予め郵便局に届けてある検閲官の検印がないと発信できない。要塞地区である葉山では、一般に投函したものでも憲兵隊の検閲官の検閲がある。軍機に関するものは勿論、余り物資不足などの辛さを赤裸々に訴えたものがあると、いちいち赤鉛筆でチェックして発信者に差し戻さなくてはならない。しかし部内の検閲が済めば、憲兵隊の検閲を受けるよりはかえって有利なのであるが、この事情を知ってか知らないでか、寮生はよく補導官の目を盗んで投函しようとするものがあった。時には付添い教員が学校に連絡のために出かけるのに托そうとするものもあった。この様なのは厳重に警告しなければならなかった。

   もう時効になっているから公表しても良いであろうが、「今度着任した新補導官の山中中尉は、軍人と云うよりも先生タイプのとても良い人です」等と書いてある。「こいつ、検閲官にわざわざ見せようとこんなことを書いている」と思ったが、特に重要な人事機密でもないと思ってそのままにしておいた。

   病人の続出にも頭を悩ませた。技術廠の様な工作庁は実施部隊と比べ給与は一段と悪い。主食には高梁が混じり、(民間でもそうだったから文句も言えないが、)副食は野菜に小魚が申し訳程度、味噌汁にはハコベが混じている。寮生達は故郷に比べて食糧の悪化をかこち、栄養不良を呈し、それに激務による過労、睡眠不足が重なれば体調の良いはずがない。毎日数名の欠勤残寮者がでた。

   本庁舎から離れた疎開地の分室には医務官がなく、ときたま、年輩の衛生兵曹長が巡回してきた。「補導官はお若いから気が付かれんでしょうがここの寮生には生理不順になっとるのがかなりいます。栄養失調と過労がありますからな。防空壕作業の割当は考慮してやらんといかんです。と注意された私は、早速正副寮長と付添い教員を呼んで事情を話し、作業員割当案の検討を命じた。彼女らは、独身男性からこんなことを云われたので始め赤い顔をしてテレていたが、やがて悦んで協力してくれた。

   ある日、研究室から帰寮するとなんだか騒々しい。事情をきくと、寮生が二人39度以上の高熱をだしたという。脈はときくと平常であるという。私には、浜団時代の衛生講話できいたチフスの症状がピンと来たので、すぐに医務部に電話したが明朝追浜の海軍共済病院で受診せよと云う。といってこんな患者を車もないのに葉山から逗子、金沢八景を経由して追浜まで連れては行けぬ。私は意を決して近所の開業医に片っ端から電話を掛け、診察をしてくれるところをみつけ、自転車にリヤカーを曳かせ、寮長を付き添わせて真っ暗な道を医院に向かった。

   診断は流感であり、我々はホツとした。医師は投薬してくれたが海軍で薬品の補充を考えてくれという。もっともな話なので私は前任者とも相談し、業務主任に、「葉山地区寮生の救急医療のため、地区内の適当な開業医を嘱託医とする」という意見を具申した。これは取り上げられ、所要な手続きが取られることになったが、幸か不幸か終戦までに再びこの恩典を利用した寮生はいなかった。

   ある日、副舎監大橋工長がやってきた。「山中補導官、この寮に病人の絶えん訳を考えたんですがね、地方の人の話によると、この別荘はもと無縁仏の墓地で、細川家では毎年供養をやっとったそうです。昨年海軍がきてからそれをしないんで祟りじゃないかと思うんですがね、一つ坊さんを呼んで法要をやったらどんなものでしょうね」。

   私はびっくりして工長の顔をまじまじと見た。彼は大真面目である。「補導官、業務主任に相談して頂きたいと存じます」私は早速このことを業務主任若林中佐に相談した。ところが中佐は、「それも良かろう。寮生のの修養講話と云うことにして坊さんを呼んでお経の一つでもあげて貰え。後は夕食でも差し上げろ。御布施は講演料か何かで払うことにしよう。と、二つ返事で承知してくれたのには、むしろ私の方が驚いてしまった。とまれ、私は近くの寺の住職にこのことを話すと、住職は、「結構です。海軍のご依頼ならお国のため、悦んでお引受けします」とこれも二つ返事。私は副舎監に細部の手配を指示し、ある日の夕刻に法要を営むこととした。

   当夕、副舎監、寮生一同参列し、一室に祭壇が設けられ、読経の声が葉山を流れた、その後で法話があった。私が法話に期待し、前もって住職に頼んで置いたのは、当時の殺伐苛烈な日々にあって、少しでも静かな思索の時を持ち、自己を取り戻すことを努めることであっただ、住職は海軍の依頼と云うので気を回し過ぎたのか、やたらに威勢の良い一億粉骨皇国必勝論を振り回して云ったのには若干当て外れの気がした。しかし副舎監は、「これで病人がなくなりますよ」と上機嫌だった。しかしその効果のほどは明瞭でなかった。

   こんなこともあった。ある夜、点呼をしてみるとどうも寮生が人員をごまかしているらしいように思われる。もう一度点呼を取り直すと一人が不明である。同室の班長に聞いても他の寮生に聞いても口を濁してはっきりと答えない。「無断外泊だ」とピンときた。更にといつめるとやはりそうである。配置先にも無断でどうやって切符を手にいれたのか静岡県袋井の自宅にいき、明朝早く帰る予定だという。ところが、運悪く静岡県に空襲警報が発令中である。挺身隊員は身分は海軍軍属の徴用工、帰省は空襲による実家の罹災、親の危篤に近い重病などいくつかの場合に限って許され、無断外泊はご法度である。万一、帰れないときは、場合によっては戦時逃亡罪が成立することも予想される。勿論、配置先や、私の責任も問われる。

   「お前達はとんでもないことをした。重大な軍規の違反だ」と私は怒鳴りながら、はてどうしたものかと一瞬戸惑った。これが男子工員ならば文句なしに総員一発食わせるところである。しかし、妙齢の女性にそんなことをしたら、後で手が付けられなくなる結果にならないだろうか。といってもこれは放置できる問題ではない。無言の重苦しい時間が数十秒も流れたであろうか、富士川教諭は、「さあ、大変なことになったわね。どうなるかしら」と生徒らと無言のまま目と目で話し合っている。

   やがて、村川寮長が列から一歩進みでた。「補導官、申し訳ありません。実は私は知っていました。許可を願いでなかったのは私の責任です。私をどんなご処置にでもお願いします」、私はますます困惑した。「よし、病人以外舎前整列。右向け、右。駆け足、進め」と私は寮生の先頭に立ち、御用邸前まで駆け足の往復をした。

   「今日の所、これで終る。外出者が帰寮したら寮長は直ちに補導官に報告せよ。明日の作業がある。早く寝ろ。解散」、心配していた一夜が開けて朝早く、当人は帰ってきた。聞いてみるとやはり空襲のため列車が遅れ、ようやく自宅にたどり着いたものの、一時間もいないで夜行に乗り、今朝早く大船から逗子に着いたのだという。それでも何とか無断欠勤にならなかったのは何よりであった。

   私のこのときの処置に付いては批判があった。翌日に疲れを残す駆け足よりも、女性だからといって手心をくわえずビンタか平手打ちを食わすべきだったというのである。しかし、ともかくも事件は大きくならず、私は、当人とその班の者に一日の罰直作業を命ずることでこの事件を落着させた。食糧難に絶えかねて補給のために死にものぐるいのやっとの思いでの帰省だったというのだから今から考えても胸の痛くなる気の毒な話であった。

 

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 5. 落 日

 

   研究室の仕事も一段と急迫を告げてきた。既に沖縄戦は激烈を極めており、前線(九州の五航艦)からはひっきりなしに「どこそこの計器が悪い、なんとかしろ」という切実な叫びが伝えられる。一方、中央の航空本部からは、資材、人員を考えない緊急対策という無理難題が飛び込んでくる。班長、先任部員達の苦慮の色が益々濃くなって繧ュる。我々初級士官はその度に走り廻され、飛び廻される。空襲警報の間を縫っての深夜までの対策会議、緊急作業、工員達の残業、時には徹夜作業命令、・・・・、こんな中で一番熱心に文句一つ云わないで黙々と仕事をしているのは女子挺身隊員や女子学徒隊員であった。彼女等は何も疑わず、ただ命じられたままに懸命にタイガー計算機を廻し、算盤をはじき、データのプロットをかいていた。

   食糧問題も深刻化してきた。前に述べたように、一技廠は横須賀鎮守府管下でも給与が悪いと云う評判であった。主食の量だけはなんとか確保されているものの、野菜や魚の量も質もどんどん低下していく。工員の志気にはこれが直ちに影響してくる。ことに農漁村近くの出身の女子寮生に対する影響が心配となった。

   葉山地区緊急食糧対策委員会が設けられ、男女両寮補導官もこれに加わった。「士官食に付いては考えない。俺達は水交社にいくという手もある。まず、工員達の事を考えろ。と第一回の会合で委員長の村田技術少佐は明言した。

   短期間で促成できるカボチャ、不断草、二十日大根などを分室の庭で栽培すること、研究室の電力を利用して製塩を行うことなどが計画され実施された。私は分室の樹木に止まっているカタツムリを捕らえて、サザエならざるカタツムリのツボ焼きを試みたり、ヘビのツケヤキを試食したりした。寮生新聞に、「山中中尉,自らの体を実験台として新食糧の開発に挺身」等と書かれた。

   これらの作業には、やはり女子寮生が活躍した。彼女達は正規の業務の時間の一部をさいてバケツをかつぎ,海岸まで海水汲みに行った。

   食糧対策は大事だ。しかしこの為、肝心な作業努力を割いたり、研究用の電力を消費するのは本末転倒、軍規便覧の源だ」と反対したのは、先に我々に対し、「ハンマーやヤスリで海軍精神を体得せよ」
といったI技術大尉であった。

   大豆の特配を受け、これを蒸して庭のヤツデの葉と共にサーモスタットに入れて数日おくと立派な納豆になることを発見したのは青木技術大尉である。「これは大成功だ」と、一同大喜び、各分室で使用可能なサーモスタットをフル活用して納豆の量産が開始された。

   ドイツは既に崩壊した。先日、苦心の結果、圧温計の震動を止めることに成功した吉川技術中尉は、これを前線で実施するために航空艦隊司令部付となり、研究室より前線へと出動して行った。私の担当の自差修正法の実験の助手をしてくれたまだ紅顔の山脇、黒田両技術少尉も南九州の基地に赴任のため葉山を離れた。

   さらに、第二科、第三科の総主任である村田技術少佐も連合艦隊司令部付の技術参謀格で、計器整備対策指導のため、私の相棒の高瀬技術中尉と共に前線に向かった。他の分室においても、同様に入れ替わり立ち代わり研究室から前線へと転出が行われた。ある者は、一二週間で用務を終え分室に戻ったが、あるものはそのまま終戦まで留まった。士官のみならず、若干の工員も整備員として行を共にした。これは計器部のみでなく他の部でも同様であった。

   我が計器部では幸いにして例がなかったが、浜団の同期生の中で、前線で銃爆撃にあったり、またはテスト飛行中に敵襲を受け戦死した者もあるという情報があった。「奇術中尉」というあだ名で女子寮生の間に人気のあった島村技術中尉も、本土決戦用の切札第三航空艦隊の本拠のある木更津の第二航空廠へと転勤して行った。

   研究室は次第に手不足となった。私は高瀬技術中尉の担当である鋼板化対策をも担当しなければならなくなった。只でさえ前線派遣で人員が不足してくるのに前述のように食糧対策の作業員配置もあり、また、空襲警報の旅に防空配置となって作業はストップする。只、好運にも、横須賀地区は防備が堅いためか、呉、佐世保などが大空襲を受けた後でも、最後までB29による大規模な空襲はなく、また、金沢の本庁舎などが艦載機空襲を受けたときも、葉山地区はときに銃撃のトバッチリがある程度で、最後まで無傷と云っても良い有様であった。

   私は毎日朝礼が終るや、寸暇を惜しむようにして庭においてあるトタン筒に取り組んだ。直径と長さの比を種々に変えた場合の磁場変化。機体の地磁気に対する方向との関係、相似律が成り立つかどうか、機体のどの部分をどの程度まで鋼板化できるか、・・・・実験を繰り返し、実験式を組み立てる。一方では、地磁気場内での鉄板内の誘導磁気の撹乱_計算との比較など、現在のようにコンピュータだの電卓だのない時代、米国には電動モーター計算機があるということは聞いているが、我々は挺身隊員のソロバンとガリガリチンの手回し計算機のみが頼りである。

   洞窟内の簡易自差修正は、一通りの実験が終了し、羅針儀の上に、取り外しができるような人工磁場発生用の調節可能な可変永久磁石を取り付け、これと自差修正用の磁棒との組合せで、前記の可変磁場を二三回付けたり外したり繰り返し操作することにより、機体を一方向に固定したままで自差の修正を行い得る所までこぎつけた。

   現在の戦局では、それほどの長距離飛行は必要なくなっている。私は青木技術大尉と共に研究報告書の作成を開始した。これが完成し、研究主任、計器部長、支廠長などの所見として、「本方法は極めて有効にして直ちに採用、実戦に応用すべき物と認む」という副申が中央に提出されれば、今度は私に対しこれを実施に移すために前線に出動の命令が下るであろう。しかし、鋼板化対策も緊急課題として最後まで残っているからこの担当を命ぜられることも有り得る。どうなるか解らない。しかし当時の心情としては、同僚戦友がどんどん前線に出て行くのに研究室に残っているということにたまらない焦燥感を覚えた。危険はもとより覚悟の上、少しでも第一線に近いところで早く働きたいというのが偽らない気持ちであった。

   既に再三の空襲で東京の主要部分は焦土となっていた。私は青木班長夫人からの連絡で、同夫人の実家の近くの原宿にある私の自宅が5月27日に罹災したことを知った。夫人の話では表参道にはかなりの焼死体があると云う。家族のことは気になったがすぐに行くことはできない。どうせ罹災してしまっているなら行ってみてもしかたない。助かっていれば何とか連絡があるだろうから次の休暇、(当時、日曜は隔週の半舷上陸)まで待てばよいという諦めがあった。その内、「全員無事」という吉報がもたらされた。

   その直後、上京の帰りに品川駅で横須賀線電車を待っていると、一人の陸戦バンドに軍刀を吊った兵科中尉がツカツカとやってきた。型どおりの敬礼交換が済むと彼は私の襟章の海老茶色をジツと見つめて、「貴様、技術だな、話がある、ちょっと来い」という。わたしは「こりゃ、殴られるな」と直感した。兵科将校、ことに予備学生出身士官と技術士官とはややもすると折り合いが悪い。同じ学生出身でも法文科出身の彼らから見れば、自分達は戦場で死と対決して戦っているのに、一足飛びに中尉となった技術士官は後方でロクな兵器も作れない、それで俺達が苦戦を強いられている。と見るのも仕方ない。彼らは技術士官に故意に欠礼したり、それをとがめると逆に殴り付けてくるというような事件が良くあった。

   私が彼に誘われてホームの一隅に行くと、「おい、良く聞いて来れ、今の俺達は、技術屋が頑張ってくれないと手も足も出ないのだ。一昨日も、大洗空にグラマンがロケット爆弾を打ち込んで行きやがった。早く、これをやっつけるものを作ってくれ、おや、電車が来たようだ、じゃ、頼んだぞ」。私は事の意外な成行きにびっくりしながらも、電車の中で今の中尉の云ったことを噛みしめた。

   鋼板化対策の研究も、工員、挺身隊員などの献身的協力によって次第に目鼻が付いてきた。軟鉄板を機内の羅針儀の周りに置いて乱れがちな磁力線を吸収させる事によって、自差のうち誘導磁気による部分(DE成分)を減少させ、永久磁場成分(BC成分)は、先に研究した簡易自差修正のような補助人工磁場を加えると云うことによって目的を達成できるめどが付いてきた。私は二三の工員を連れて群馬県小泉の中島飛行機工場に出張し、実物の零戦や銀河の機体にブリキ板を張って実験を行った。まだいくつか解決すべき問題もあるが、8月末か、遅くても9月中には一応実験を完了し、報告書を作成できる目安が付いてきた。

   ある日の夕刻、青木班長と私はいつものように、その日にやった実験の結果を検討していた。データを仔細に点検していた班長が突然口を開いた。「この計算は誰がやったのか」、「班長ご存じのとおり、佐藤、水戸両挺身隊員です」、「山中中尉は彼女達に高次楷差を用いた内挿計算の教育をしたのか」、「いや、そこまでは教えていません」、「これを見ろ」。出されたデータを見ると、なるほど等間隔時系列の観測値相互間の差、更にその差(二次楷差)、三次楷差等を求めて、その関係を求めて途中の値を計算し、カーブを滑らかにすることを工夫してある。これは本格的な数値計算の手法である。

   「これは驚いた。俺は今まで、女子と云うのはいわば単能機械で、単純なルーチンを飽きることなく続けることだけが特技だと思っていたが、この様な独創的な才能もあるのだ。今の日本では女子に対する理科教育が殆ど行われていないが、訓練さえすれば、日本にも素晴らしい女性科学者が出るんだろう。今まで全く惜しいことをしたものだ」と青木技術大尉は云った。私は、彼女らの書いた美しい筆跡の数字の列とグラフの曲線を、そして一心に計算機を廻し続ける彼女らのモンペ姿を思い浮かべてすがすがしいものを感じた。

   既に、全ての実験の完成目途は本年末とし、昭和21年2月までに戦力化のめどの付かぬ研究実験は総て中止」という方針が打ち出されていた。元来は、実験装置の工作や、考案兵器の試作などを任務とする工場も、決戦用爆弾の信管の生産にはいる体制が取られた。沖縄戦は最終段階に入ってきた。勿論我々初級士官には正式には何も知らされないが、断片的にはいる秘密情報をつないでみると、海上兵力は既に全滅と云っても良く、航空兵力も、第三、第五の両航空艦隊のみで、これも特攻機を主力としなければならない。各地海岸には水上特攻戦隊が配置されているという。赤トンボの練習航空隊も第十航空艦隊として戦列に加わった。

   ある日、御宿学徒隊の教員の一人が、陸軍中尉の将校姿で寮を訪れた。彼は藤沢に司令部を持つ第140師団揮下の一中隊長として茅ヶ崎に駐屯することになったので教え子達の慰問にきたのだという。彼の話により、私は、陸軍では南九州と相模湾を米軍の上陸予定地と想定し、藤沢から平塚にかけて防禦陣地を構築しているのだという事を知った。

   三浦半島でも至るところに洞窟を掘る作業が行われ、竹槍を持った特別陸戦隊員が配置されていた。葉山地区にある各分室も、やがてこの別荘生活から再び一転して地下洞ヲ窟内に再移転する計画であるという。政府は「国民義勇戦闘隊」を組織した。街にも「戦」と記した白布を胸に付けた女性戦闘隊員の姿が見受けられるようになった。廠内でも、文官の技手は海軍予備技術兵曹長に、幹部工員は予備技術下士官にそれぞれ任用され、陸軍への召集による人員減を防止する一方で、そのまま臨戦体制に移行する準備が進行していた。男子工員の一部は洞窟工事に作業員として駆り出され、、激しい作業の上、爆発事故で殉職するものまで出るに至った。

   更に私は業務主任から驚くべき事を聞いた。いよいよとなったら、在学中の学徒隊は直ちに解散し、挺身隊員には、いざという場合に備えて青酸カリの配給をも考えているというのである。たとえ東京が占領されても三浦半島では一年ぐらいは自給できる食糧を確保してあるというのであるが、私は、いよいよ我々の運命が、サイパン、比島、沖縄などと同じ道を辿るものである事を知った。この美しい湘南の地も修羅場となるのであろうか、しかしどうも実感は湧かない。一体、自分達の運命の日は、いつ、どうゆう形で訪れるのであろうか、爆弾の雨か、艦砲射撃か、或は上陸してきた陸兵との対決か、洞窟に追い詰められ、降伏を拒否しての自決か、しかし、どうもこれが近い将来に来るべき自分の姿であるという感が湧かない。むしろ、それよりも現在目前にある任務に努力を集中することによって他を「雑念」として払いのけようとした。それから先はその時の事、ただ、毎日無我夢中でやるほかはなかった。

   時々、「軍極秘」の赤い表紙にはさまれて回覧される通達にも容易ならざるものがあった。「鹿児島湾沿岸にて海軍士官の軍服を着用し歩く男あり、挙動不審なるを持って取り調べたる所、潜水艦よりゴムボートにて上陸潜入せる日系米軍人なること判明せり。他の地区にても厳戒されたし」。

   「ポツダム宣言により志気動揺のおそれあるも、海軍の方針は些かも動揺せず不動なるを以て部内各位は冷静に任務に励進するよう指導されたし」。後者に付いて私は、「何かある」と感じた。しかし、それが何かを十分に理解することはできなかった。勿論、中央で終戦を巡って陸海軍が激しい議論をしていることなど知る由もなかった。

   広島に原爆(当時の発表は新型爆弾と云った。)投下のあった晩、松浦技術中尉が興奮した面もちで私の所にやって来た。「おい、あれは原子爆弾だぞ、俺の分室で短波(民間ではこれを聴くことは厳禁であった。)を聴いていたら、「アトミック・ボンブ・ヒロシマ」と何度も云ってぞ」、「・・・・・・」、「敗けだ。日本の技術の敗けだ。俺たち、もう技術士官だなんて面はしていられない。もう、斬り死にしかないぞ」。

   この話はたちまち次室士官、否、全技術士官の議論を巻き起こした。しかし一様にショックであった。原子兵器の可能性に就いては前から話題にはなっていたが、「いくらアメリカでも今の戦争には間に合うまい」というのが多数意見であったからである。しかし、「もう敗けだ」という意見と、「まだまだ」という意見は対立のままであった。それから二三日して、南九州に出張していた工員二名がヘトヘトになって帰廠した。「広島は全滅です。汽車も通らず、七里も歩きました。地獄です。もう戦争はできません」。

   青木班長と私は、彼らに他言を禁じ、こっそりと別室に呼んで色々事情を聴いた。そして事態が想像以上であることを知って暗然となった。

   さらに事態を悪化させたのはソ連の参戦である。工員達の志気低下は覆うべくもなかった。作業中も手を休め、ひそひそと心配そうに語り合っているものが多くなった。この様な中で、挺身隊員のみが依然黙々として計算機を廻し、方眼紙に美しいカーブを描いていた。

 

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6. 挽 歌

 

   8月15日、水曜日は朝から快晴の真夏らしい暑い日であった。ラジオによって正午に玉音放送のある事を知った私は直ちに全寮生に伝達した。

    私の頭の中で疑問が湧いた。一体なんの目的だろう。二つの可能性がある。一つは和平の実現である。この数日間の新聞記事を見ると、政府は、「今や最悪の事態にあることを直視し、国体護持を最後の一線として努力しつつある」というなんだか歯切れの悪い表現をしている。先日の海軍大臣通達も、「海軍は不動であるので冷静に任務に当たれ」とあり、「本土決戦に備えますます必勝の信念を堅くし、」などという激励調は見られない。すると既に秘かに和平工作が進められ、何か奇跡的な有利な条件ができたのか、まさか、無条件降伏とも考えられない。或は第二の場合として、いよいよ本土決戦に備えよと云う天皇ご自身の勅命か、しかし、いくら何でも天皇ご自身が玉砕命令を出すと云うのも不合理なような感じがする。・・・総て正午になればいっさいが判明する。

   勿論、昨夜半の東京では、「日本の一番長い日」の劇的な事件があったとは知らなかった。

   登庁すると、本部からの指令により、ラジオ受信機を第一分室(本部分室)に備え、葉山地区職員工員全員に放送を聴かせるようにするため、電気専門の士官及び工員が作業員として呼び集められた。各分室でも受信機の調整整備のため、研究室はラジオ屋のようになった。誰も仕事に手が付かない。

   「総員1150第一分室に集合せよ。当直員は所在分室に於て放送を聴け」との指令が入る。

   早めの昼食を終え、私は第三種軍装第一装に白手袋、帯剣姿で学徒隊員、挺身隊員を引率して一色の御用邸の近くの第一分室に向かった。海岸からほんの数百米の所に駆逐艦が二隻、静かに航行していた。ここ暫く姿をみせなかった零戦が数機、低空の編隊を組んで三浦半島上空を哨戒していた。

   放送は良く聞き取れなかった。しかし、とにかく、予想の第二の場合、つまり奮起玉砕ではないことだけは良く解った。若林中佐は、「よく理解できなかったが、とにかく非常に重大な事態だ問い事だけは確かだ。皆、一同冷静沈着に事に当たるように」とだけ訓示して解散した。

   我々は、真夏の海岸通りを分室に戻った。誰も一口も物を云わない。「敗戦、降伏」という今までは口に出すことさえはばかった言葉が頭に浮かんでくる。今でも口に出したくはない。夏の日差しはジリジリと暑く、セミの声がやたらとうるさかった。私と一緒に歩いていた平田技術少尉が、「戦争は終ったようですね、」と、短く呟いた。

   研究室に帰っても誰も仕事をしない。否、仕事自体が無くなってしまったのである。全くの虚脱状態だ。誰も、今後何があるかは知らない。予想も付かぬ。私は一心に一般常識的な判断をしようと努力した。

   「まだ講和条約はできていない。休戦協定ができたということも云っていなかった。すると、まだ、戦争状態は続いている。空襲の可能性もある。むしろ、気の緩みのある時に大規模な攻撃のある可能性もある。

   私は第一次大戦の終ったときも、ドイツ軍の降伏申し出から停戦までの十数日間、西部戦線で激戦が続いていたことを読んだ事があるからである。

   この様な虚脱状態になっても、毎日の日課は条件反射的に繰り返され、「作業止め、体操用意」の号令がかかる。私は整列した工員に、「まだ、戦争は完全に終ったのではないぞ、停戦協定はまだ出来てはいない。この間にもし敵が上陸してくるなら我が軍はこれを撃退する。最後まで気を緩めるな」と訓示した。

   その日の午後は何もすることなく終ってしまった。しかし考えれば考えるほど、次第に、「敗戦」という今まで想像もしなかった事の実感が迫ってくる。「俺達はもう奴隷だ」としょんぼりする工員を、「何を云うんだ。これから頑張ってやり直さなくてはならないんじゃないか」と励ますものの、やはり自信はなかった。

   帰寮すると、寮生たちも皆呆然としている。こんな時こそ、補導官はしっかりとしていなくてはならない。女性の中の只一人の男性として、学徒、挺身隊員の中の士官として。 私は早速総員集合を掛けた。何を話すべきか、私の頭の中には色々の考えがグルグルと回った。・・・三国干渉、臥薪嘗胆、赤穂開城、大石良雄・・・・「今更云うまでもない。みんな、私と一緒に良く頑張ってくれたのに、遂に目的は達せられなかった。勝利の日はついに来なかった。

   ・・・・(鳴咽が始まった。)・・・・・泣くなとは云わない。思いきり泣こう。そして涙の中から、これからの日本を造り直すことを考えよう。ただ一つ云っておきたい。我々の仕事はまだ終っていないのだ。皆に帰郷命令が出るまでは、遅くとも数日中だと思うが、それまでは、今まで以上に仲良く団結し、さすがは海軍の挺身隊、学徒であったと言われるようにしよう。それが、私からの最後の命令だ。みんな、残された日を頑張って、勝手な行動を取らないで欲しい」 一同は涙ながらにうなずいて、不動の姿勢を取り、「はい」と答えた。

   私は部屋に入り、眼を閉じた。何とも言えぬ疲労感が襲ってくる。途端に、こんな空気を吹き飛ばすように、表が騒々しくなった。出てみると、最近藤沢航空隊から計器整備研修のため派遣された小野技術少尉である。彼は陸戦用の軍刀をぶら下げて、私の部屋にはいると、いきなり白刃を抜いて畳に突き立て、一枚の紙片を私に示した。どうみても酒に酔っている。寮生は泣くのを忘れて心配そうに遠くからこれを眺めている。

   「山中中尉。これに付いてのお考えを承りたい」見ると厚木の第302航空隊の過激派の書いた、「降伏拒否、徹底抗戦」のアジビラである。「山中中尉は悔しくはありませんか」「それは同じ。しかしご聖断で、軽挙盲動するなとの御言葉ではないか。ともかくも、今の俺には、ここにいる寮生を、全員無事に帰すことが任務なのだ。酔いが醒めたらまた来い」。

   彼は始めわめいていたが、段々醒めてくると、多少バツが悪くなったのか、少し話し込んで帰って行った。

   私は、偉らそうな事を言って彼を帰したものの、自信はなかった。一体、新日本の建設、文化国家の建設と言っても、私達はこれに如何に貢献できるのであろうか。我々の学んできた科学知識は、今後軍事目的でなく、その本来の目的である平和目的のためにこそ活用されなくてはならないし、それを期待されるであろう。しかし、敗戦日本にこの様ヤなことが許されるであろうか。また、許されるとしても、国の危急に対処するためとは言え、軍に身を投じた我々に、その様な役割が與えられるであろうか。確かに、洞窟の中で敵弾に身を挺すると言う事態は、一応考えなくてもよくなった。しかし、自分たちの前途の運命は一体何であろうか。私はぞろぞろと米軍兵士の銃剣の林の中を引き立てられて行く捕虜となった自分達の姿を想像し、思わず苦笑したりした。思いは千々に乱れるのみであった。死期を逸した口惜しさも若干はあった。

   敗戦の眠れぬ夜が開けた。私は沈む心を引き立てて、いつものように総員起こしをかけ、体操をやった。「冷静に職務に当たれ」といっても、職務の内容は昨日までとは全く似てもつかないものである。書類がどんどん運び出され、庭で火にかけられた。命令書、通達類、設計図、兵器の使用説明書等がみる見る灰になる。工員の中には見境がなくなって士官の私物書籍まで焼いてしまうものまで出てきた。挺身隊員の苦心の計算結果は、いかにも若い女性の仕事らしく、水色の美しいリボンで綴られ、花の絵が表紙に描かれていた。男子工員が無造作にこれを掴んで炎の中に投じた。彼女らが思わずハンケチを目頭に当てるのを私は見逃さなかった。あまり焼き過ぎてしまったので、後で連合軍から研究経過報告の提出を命じられ困惑したとの事である。私も残務整理部に呼び出され、報告書の英訳を手伝わされた。

   寮の作業も防空壕の埋め立てなどになった。物資が不足しているというのに、よくも集めたと思うほどに化粧品の空き瓶が出てきたので私は女性の執念に驚いた。

   ともかく、余り熱の入らない作業であった。このとき、サイレンが鳴り響き、スピーカーが叫んだ。「横須賀鎮守府、警戒警報、敵一機、三浦半島上空に侵入」、「おや、まだ警報があったのか」、「こうなると、警報が懐かしいや、」等と工員たちが言っているうちに、もの凄い勢いであちこちの防空砲台が一斉に火を吹き出した。いつもはバラバラと申し訳程度に応戦していたのに、こんなにまでも沢山の高角砲や機銃陣地があったのかと驚くほどであった。バラバラと弾丸の破片が落ちてくる。みんな思わず、埋めかけの防空壕に逃げ込んだ。これが最後の戦闘であった。

   その日の夕刻、御宿高女学徒隊の動員解除が発令され、乗車証が交付された。挺身隊の方は後数日かかるという。付添教員は、こうなったら一刻でも早く、米軍の来ないうちに生徒を帰すと云う。慌ただしく支度をし、形ばかりの解散会をし、非常食の特配をうけた彼女らは、8月17日朝帰って行った。私は教師と共に、彼女らを引率し、逗子駅から両国駅まで行った。大きな荷物をかつぎ、葉山から逗子駅まで歩む彼女らは痛々しかったが、帰宅の嬉しさか、案外元気であった。教師は、「さあ、頑張りなさい。家に帰れるのよ」と励ましていた。両国駅で、私は駅員に頼み、全員を無事乗車させることに成功した。彼女らは汽車の窓から手を振り、「補導官、さよなら」といって去って行った。

   私は東京駅で下車し、二重橋前に出た。大勢の男女が玉砂利の上で土下座して泣いているのを目撃した。そして、駅の広場の掲示板に張られた号外により、再び陸海軍人に対し、「鞏固なる団結と出処進退の厳正」を求めた勅語が出されたことを知った。手帳に写していると、「また軍人に勅語だとさ」、「血の気の多いやつは軽挙盲動するからな。と私に聞こえよがしに話し合っているものもいた。

   所が帰寮して驚いた。残留寮生が大騒ぎしている。中にはオイオイ大声を上げて泣いているものもある。聞いてみると、何でも今日横浜に米軍が数十万人も上陸し、婦女子に暴行の限りを尽くし、横須賀方面に向かってくるのだという。中には、「補導官、早く青酸カリを配給して下さい」等と口走っているものまでいる始末である。私は関東震災の時の鮮人暴動のデマを思いだした。

   「馬鹿なことを云うな、デマだ。落ち着いてよく聞け。もし、米軍が50万人も横浜に上陸したんだったら、私がこのとおり無事に帰って来るわけがないじゃないか。私はこの通りちゃんと足が二本ある。第一、50万人の兵隊を運ぶにどのくらい船がいるんだ。一隻千名を運ぶ輸送船で500隻、空襲で破壊された横浜港にそれだけの船が一度に入モ閨A半日で揚陸できると思うか」と段々説明すると、彼女らもようやく納得し、落ち着きを取り戻した。

   彼女らは、寮を元の別荘に復元する作業を始めた。庭の除草、大掃除、障子の張り替え等。畳を剥すともの凄いノミの大群がピョンピョンと飛び跳ねた。しかしこの様な家庭的作業は彼女らにはむしろ楽しそうで、明るさが次第に取り戻されて行った。

   とうとう挺身隊にも解散命令がでた。彼女らは、自分たちの手で造ったカボチャ、不断草等を料理し、解散の宴を張ることを計画した。私は副舎監に非常食糧、乾パン、缶詰などの放出を指示し、僅かではあるが日本酒をも用意させた。寮の暗幕は既に撤去され、煌々と電灯が輝いた一室で、私は、最後の訓辞と云うよりは挨拶をした。

   「私の着任以来、僅か4ヶ月であったが、本当に御苦労さまであった。自分のような若いもの、一般地方ならまだ若造に過ぎない私によく協力してくれた。これもいわば前世からの縁であろう。心からお礼を云う。また、今まで、任務の上とはいえ、みんなには、多くの苦労をかけ、不自由を強いたことであろう。これに就いては全くお詫びの言葉もない。皆は、いよいよ故郷に帰り、やがて、家庭を造り、次代の日本民族を産み、育てて行く務めがある。健康に注意して欲しい。私の今後はどうなるか解らないが、出来るだけ頑張るつもりだ。

   乾杯が行われた。寮生は始めじっと無言で目を伏せていた。しかし、やはり故郷に帰れる喜びは隠せないか、次第に陽気を取り戻して来た。私は軍服の上着を脱ぎ捨てた。「歌でも歌おうや」。

   私は始めて、上官と部下というよりは、むしろ、教師と生徒というような心の通いあった気持ちとなり、彼女らと共に歌い合い、語り合った。

  翌日、彼女らは次々と寮門を去って行った。「補導官、御世話になりました。「山中中尉、どうか御元気にお過ごしください」、「一度是非秋田においで下さい」、「袋井にもおいで下さい」。

   私は一人一人に挙手の礼を返し、握手して見送った。最後に、村川寮長が、もう一度室内を軽く掃除して、私に静かな礼をして立ち去って行った。

   私の仕事はまだまだ沢山残っていた。諸機材の整理、工作施設の撤去など、張合いはないが多忙な仕事が次々と現れた。私は、門の前にい合わせた葉山国民学校生の少年に口をかけた。「君達、日本は、これからどうなると思うかね」、彼はきっぱりとした口調で答えた。「立ち直ります。僕らが立ち直らせます」、しかしながら、女子寮補導官としての私の任務は終った。私は今や、「気を付け、」の号令で迎えてくれる人もない、ガランとした寮、否、細川家別荘の一室で万感溢れる思いでベッドに身を横たえ、一人庭にすだく虫の音を聞くともなく聞きつつ眠れぬ夏の夜を過ごした。

   机の上には、立ち去った彼女らのうちの誰が残してくれたのか、小瓶に差した一輪の花が香りを漂わせていた。

 

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7. 敗 残



   女子寮生が帰郷した後の分室は男子ばかりの殺風景なものとなってしまった。結構忙しいのは忙しいのだがさっぱり張合いもないし、真面目にやる気も起こらない。毎日、金沢八景の本庁舎に士官が一人づつ連絡に出かけるのだが、もたらされる情報や指令は全く混乱して支離滅裂である。

   「8月末迄に各分室は原状に復し、海軍使用の痕跡がないようにし、米軍に捜索されても原所有者に迷惑がかからぬよう留意せよ」と云ったって、近所の住民は、その中で何をしていたかはよく知らなくても、海軍が使用していたぐらいの事は皆知っている。「諸機材は完全な状態にしてリストを造れ」というかと思うと、舌の根も乾かぬうちに、「緊急処分せよ」といってくる。そのうちに連絡に出た士官の一人が呆れた顔をして憤慨して帰ってきた。「全くけしからん話だ。横鎮のお偉いやつはトラックいっぱいいろんな物資を積んでずらかりやがった。

   しかし、葉山分室では幸いなことは、まだ全くそんな空気は出ていない。主任の村田技術少佐も、成瀬技術中尉もまだ鹿屋から帰還していない。我々は青木班長と相談の上、使用可能な実験器具類は、東大などに寄付することとした。といっても輸送手段がない。地震研究所、地球物理教室などから、職員や学生が数名リュックを担いでやってきた。テスター、測定用顕微鏡、メガー、スライダックス等々を片っ端から詰め込みながら、「なんだ、さすが海軍だ。俺達が欲しくても手に入らないで困ったものがこんなにあるなんて」、「こんなにありながら、とうとう勝てる研究が出来なかったのか」等と云っている。我々は青木技術大尉考案の、「海軍納豆」を昼食に出した。よほど美味だったとみえ、海軍食器に山盛りにしたのをムシャムシャと頬ばって板。実は私自身、倉庫の中にこんなに沢山の実験器具、しかも新品があるとは知らなかった。一分室だけでこれだけだから、全分室、一技廠全部、更に海軍の全研究機関ではどの位あるのだろう。

   上杉技手は、「こんなに沢山のものを有効に用いられなかったなんて本当に申し訳ありませんね」と神妙にしていた。

   書棚、ロッカー、机等の什器類で元の所有者のものでないものは地方民間に払い下げた。実験台は漁連の調理台になった。士官用のロッカーが近くの商店の奥の方に並んでいるのを見るようになった。

   実験用機材のうちの消耗品、真空管、抵抗器、バリコン、計器手入れ用工具などで、大学の人の持ちきれなかったものは工員に分配した。工員の多くはラジオ屋、時計屋などから徴用されている。彼らの原業復帰に役立つであろうと考えたからである。

   配分の作業中、純情な新藤技術大尉がいきなり怒鳴り声を挙げ、工員を殴りつけた。「なんだ、貴様らは、我れ勝ちにとまるで嬉しそうではないか、貴様らは戦争に負けたのが嬉しいのか。ここにあるものはな、・・・気を付け、・・・天皇陛下のものなんだぞ、海軍のものなんだぞ、それを、貴様らの今までの苦労に、敗戦でなにもしてやれない、おそらくは、退職金だってろくに出せないだろう海軍が、少しでも報いたいと思って下さったのだということが解らないのか。俺たち士官はな、ごみ一つだって、手をつけてはいないんだぞ。鎮守府のお偉いやつはどうだか知らんが、少なくともこの第三科では、青木班長始め、誰も何も手を着けていないんだぞ。少しは考えろ」。

   竹田、相川両技手が間に入って宥めた。そして彼らは工員に、「士官達の事も考えようではないか」と提案した。しかし、私は、自分のために、特に何か持って帰ろう等という気は余り起こらなかったが、時計一個、計算尺一本、製図器一組、書籍数冊、電気部品若干のみを貰い受けた。後日、帰宅してから、近所の人々が、 
「海軍士官さんたちは食料品だの、衣類など、山ほど持って帰ったんですってね」と、ねたましそうに云うのを複雑な気持ちで聞いていた。私が持って帰ったのは、上記の外に、いつも使っていた毛布数枚、乾パンと米が二三升程度だけであった。私の両親は、「それでいいのだ。士官はそれでなくてはならない。」といって、持ち帰った物資の少ないのを残念がる様子はなかった。第一、それ以上のものは持ちきれない。

   女子に次いで、男子工員も解散することとなり、近々、連合軍との交渉に軍使がフィリッピンに飛ぶと云うことが伝えられた。片付いた分室、沢田別荘の二階大広間で、解散会をやった。皮肉なもので、終戦後、食事はかえってよくなった。缶詰が開かれ、日本酒が並べられた。

   私は、既に細川別荘から撤退して、再び同僚と下宿に戻っていた。もはや、三浦半島上空に日の丸を着けた飛行機は飛ばず、米軍機が低空を編隊で哨戒していたが、警報も、高角砲も鳴らなかった。新聞で、米軍第一陣が8月28日に横須賀地区に上陸すると云うことが伝えられた。地区の女性の中には再び他所に逃げたものもあるという。軍服を着用しない事という通達があった。

   我々は、金沢八景の計器部本庁舎に集結した。ここは分室よりもまだ乱雑であり、残留工員がしきりに物品の後かたづけ作業をしている。校内には沢山の乗用車、トラックが並べられて引渡しを待っている。後二三日で横空も本廠も接収されるという。壁に貼ってある、「我が工場はZ旗の戦場にして・・・・」の朝礼唱和の文句が急に妙な空しい感を與えた。作業の中止、再開を命ずるスピーカーも、勇ましいラッパがなくなり、ただ、「作業始め、」というだけ、それも気抜けが甚だしい。

   業務主任若林中佐が、一同の前に座ったまま、訓辞でもなく、挨拶でもなく、独り言のように口を開いた。「何たる惨めなことだ。敗戦と云うよりも、亡国だよ。このざまは、やはり間違っていたんだ。日本の政治が、満州事変以来、力ずくでやってきた陸軍を抑えられなかった政治が悪かったんだ。海軍は始めからこの戦争には反対だったんだ。米英のどれか一つならまだしも、両方を相手にするなんて無謀も甚だし過ぎる。国力が違い過ぎるんだ。しかし、始まってしまったのだからしかたないと思ってやったんだ。昨年のマリアナ、遅くともレイテで止めるべきだった。それにしても、それから入ってきた今の次室士官諸君は気の毒だな、諸君が入ったときには、もう海軍はなかったのだから、諸君の見たり、経験したりしたのは海軍の抜け殻だったのだ。・・・だから諸君たちはまさか戦争責任は問われまい。これから諸君の頭と腕で頑張り、いつか米英を見返してやってくれ、・・・・・」

    中少尉は9月15日付で予備役編入と云うことになり、それまでの俸給の清算と、退職金概算として合計約3000円の額面の先渡し小切手を受け取った。但し支払いは3ヶ月先、もし、その間に官庁に就職するならば支払われないという。しかし我々は米軍命令で、これが只の不渡り小切手という紙片になろうとは夢にも思わなかった。

   その数日後、私は襟章を外した三種軍装を着て、既に米兵のジープが我がもの顔で通る葉山行幸道路を行李を積んだリヤカーを曳いて逗子駅まであるいていた。行李の中には、支給されて以来一度も着たことのなかった真っ白な第二種軍装始め各種の軍服、短剣も入っていた。海岸でみると近くの海には見慣れぬ形の米国巡洋艦が艦尾に星条旗を翻して游弋していた。

   私は、今日のラジオで聴いたミズーリ艦上での降伏調印式の後での米国一高官の言として述べられた言葉の中にあった、「原子爆弾を自由に造り得た自由な国民の勝利」という一言を深く考え込みながら残暑の道を歩いた。

   数十分後、私は今や一人の復員軍人、あるいは街に抛り出された失業者として、また、家を焼かれた戦災者として、焼け野原となった東京の一隅の知人の家の一室に仮住いをしている家族、弟はまだ中支に、妹はまだ学童疎開先にいる、・・・・のもとに敗残の姿で帰るべく、逗子駅のホームに立っていた。


  ・・・・・・

    あの日から30年以上が流れた。当時の青木班長は現在青木製作所社長として、震動計、電子顕微鏡などの分野で活躍しておられる他、士官、同期の戦友の多くは、あるいは大学教授として、或は官民の研究機関、または生産の第一線で目ざましい活躍をしている。我々があの日に持っていた技術報国の志は、形こそ異なれ、見事に果たしたといっても良い。しかも平和目的という、より高い形でである。

   それよりも、あの日、「日本を必ず立ち直らせます」と言い切っていた少年はいまどうしているであろうか。

  あの日、別れていった学徒、挺身隊員とは、その後、再開の機会を未だに得ていない。帰郷したかの序らにはどんな生活が待っていたのであろうか、おそらく、間もなく結婚し、夫や子供達と平和な生活を送っていることであろう。大正末期から昭和の始め生まれの彼女らは、今では、孫の成長を楽しみに生きている人もかなりあるのではなかろうか。彼女らにとって、葉山の月日の生活は、如何なる思い出をとどめているのであろうか。思い出すのも忌まわしい暗い時代の日々の中で、辛い生活を強い、戦いに駆り立てた、呪うべき権力の末端の一員として私を記憶しているのであろうか、もし、そうならば、私は一言もこれに対して弁解の言を持たない。或は、当時、それなりの情熱と努力を傾け、共に生き、共に戦った一人の若者としてみてくれているのか、・・・それは余りにも思い過ごしであろうか、或は、平和の30年のうちに、すべては風化し、忘却の彼方に埋没してしまったのか、それならばそれでも良い。否、一番良いのかも知れない。

  私は時折、西湘国道から三崎に車を駆ることがある。そして、かつての私の戦場であった逗子、葉山をとおる毎に、当時のモンペ姿の彼女らと共に戦いの日々を過ごした当時の事を、そして、うら若き彼女らの面影を思い出し、その幸福をひそかに祈っているのである。

 

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後 記

 

  この一文は読者を対象とした読ませるものとしたものでなく、私自身のために造った30年前の私自身の再現に他ならない。この原稿を読み聴かせたところ、大学生である私の娘が云った。

   「お父さんも気の毒ね、もうどうせ駄目だと解っているような時に、海軍士官だなんて煽てられて、真面目に夢中で働かせられたんですもの。それにしたって、勉強の途中で戦地に行かされた叔父さん(私の弟、学徒出陣組)に比べれば、卒業まで待って貰って、女の子を使って研究までできたなんて恵まれていたんじゃない」。

   彼女は続けた。「しかし、この中には戦争に対する批判がないじゃない。ただ思い出に浸っているだけしょ。お父さんたちが、当時、死にものぐるいでやったことは認めるわ。お父さんたちの青春の、忘れられない密度の高い生活の思い出だったことは事実だと思う。しかし、それだけでは何もならない。単なる回顧と感傷では、何の建設的意味を持たず、かえって、軍国主義を復活しようとする勢力に利用される恐れさえあるのじゃないかしら」。

   確かに、若いものとしてこの様な見方は当然かも知れない。最初の文については、その通り、あの時代は、日本の全ての人に各々の戦いがあった。私は、その一つの形を体験したに過ぎない。

   後者について云えば、一般論として、多くの同様の戦記手記物にいい得ることであろう。これについては、「戦艦大和の最後」の著者、吉田 満氏が、その後書で同様な批判に答えている。吉田氏のような深刻な生死の限界をくぐった体験とは比べものにはならないであろうが、氏と同年代のものとして私は氏の見解に共鳴を覚えるので、ここで詳しく述べることを避ける。

   戦争は否定されるべきであることは勿論である。そのためには、軍事技術もやはり否定されなければならない。確かに日本海軍は科学技術を重視した。「日本海軍こそは、我が官民組織の中で、もっとも技術を重視していた。終戦後の官庁組織の中で、いまだかつての海軍のように科学技術を重視し、技術者を優遇したものはない。また、首脳者の科学技術的素養を見るに、かつ手の海軍に比肩するものはない。・・・・・しかし、国内的には優等生であった日本海軍も、国際的には落第であった。(福井静雄氏)

   そうかも知れない。しかし、優等生でも軍事技術自体は悪である。このことは、日本の科学技術者全部が身をもって感じ取った教訓である。しかし、過去の姿がそうあろうと、私達の青春の一時がこの中にあったことは厳然たる事実である。当時の情勢下に於て、一途にひたむきな努力をしていたという事は決して無意味であったとは私は考えない。寧ろ批判を口実に単なる逃避をしていたものがあれば、そのことこそ批判さるべきであるという自負を私は持っている。軍自身に対する倫理的否定とは別である。当時の技術者の多くが、戦後の日本の科学技術水準を世界的に高めたこと自身が、この解答であろう。

   彼女の気が付かないことが一つある。これは経験者でないと解らず、また、経験者ならピンと来ることであるが、海軍は決していわゆる軍国主義のコチコチではなかったという事である。もっとも我々が経験したような、末期の形骸化した海軍では、特攻部隊に見られるようなかなりなファナティックな様相を呈していたが、それでも、技術分野では、海軍本来の合理性重視の姿が残っていた。

   もし私に小説を書く才能があれば、文中に、軍国主義、精神主義の塊のような人物を悪玉として登場させ、その非人間性などを浮き彫りにして問題点を提起できたであろう。しかし、私の周囲に、この様な人物は殆ど存在しなかった。

   口はばったくいえば、過ぐる戦いで、海軍は悲劇の最大主人公であった。営々として力を養い、自分の実力の程を知るが故に、開戦に強く反対しつつも、国民に対しては無敵を誇示しなくてはならなかった矛盾、自ら戦いの幕を開ける役を持たされ、蓄積した全てを一度に消耗し尽くし、ついに悲運の幕を閉じる。その葬送の一幕に、「その他大勢」の群衆の端っくれとしても登場した一人として、なんかの感懐を持つのは当然であろう。

   昭和52年の今、私は水産研究所に於て、再び海と関係のある仕事に取り組み30年になる。200海里問題で、日本の漁業が日に日に窮地に追いやられ、業界からの切実な叫び、中央からの強い緊急的要請の中で日夜苦闘する研究生活の中に、当時の思い出がまざまざと浮かんでくる。

   私にこの一文の筆を執るモチーフを與えたのは、この現在の雰囲気に他ならない。

                           (昭和52年2月)

                            清水市にて

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