SYUTUJIN

昭和18年11月21日の学徒総出陣の答辞

− 出陣学徒代表として壮行式で私が読まされた答辞を巡って −

 

真道 重明

2005/9/20.

ご感想やご意見はこちらへ

 

れもしない1943年(昭和18年)11月20日、母校の農林省水産講習所の出陣学徒約200余名の代表として講堂で開催された「出陣学徒壮行式」で私は奉書紙に墨で毛筆によって書かれた答辞を読みました。

この「いきさつ」を私が何故このホームページに書くことにしたかの経緯を先ず述べようと思います。ツイ先日の2005年9月に、東京海洋大学(東京水産大学・農林省水産講習所の前身校。なお同学は現在は独立大学法人として東京商船大学と統合されています)に未整理の侭保管されていた古文書を整理することになり、大学はその処理を私の母校である東京水産大学の構内にある楽水会(東京水産大学の同窓会)に託しました。数日後同窓会の事務局長から下記の電話がありました。

「古文書の答辞が出て来た。良ければ現物を自宅宛に送る」と同窓会事務局からの電話を受けた時は、半ば驚きながら「人生の節目に当たる記念品ですから是非お送り願います」と回答しました。多数の卒業式の歴代の卒業生代表の答辞などを綴じたものの中から発見されたのだそうです。

何しろ今から指折り数えて60年も前のことです。読み上げた答辞の具体的な内容は、もちろん憶えておりませんし、数日後には軍役に服すため郷里に戻るという公私ともに目の回るような多忙の時でしたから、複写を取ることなど念頭には無く、手元には何も残っては居りませんでした。

1週間後に現物が自宅に届きました。奉書紙で、縦 38 cm、横 85 cm、丁度新聞紙を見開きにしたようなサイズでした。直立不動の姿勢で両手を一杯に拡げて読んだ時の記憶が脳裏に蘇ってきました。農林大臣、所長以下の諸先生、全校学生といった多数の人達の前ですから、私は緊張し他人には分からなかったかも知れませんが、自分では太腿が少しブルブルと顫動して居たのを自覚して居るもう一人の自分がありました。その事は不思議に現在でも憶えています。

毛筆で書かれた原文は縦書き、句読点や改行のないベタ書きで、送り仮名は片仮名、旧漢字、『措ク能ワサル処ナリ』など仮名には濁音は有りません。読み進んで行く内に文章は私が書いた物では無いことがハッキリして来ました。署名は確かに私の書いた字です。しかし、本文は明らかに他人の手により書かれたもの、また最後の日付と「水産講習所出陣学徒代表」の文字はまた別の人の手によるものらしく思われます。

「文章は私が書いた物では無い」というのは、例えば「我等」(= 我ら)、が「生等」になっています。飽くまで憶測ですが、「生等」(せいら)は軍隊の学校で候補生などが「我ら」の意味に文書で使った言葉ではないかと思います。「農林大臣」が「農商大臣」になっていますが、これは書いた人のウッカリ・ミスでしょう。

『想出多キ越中島原頭ノ母校』、私は原頭などの言葉はこの際には先ず使いません。片仮名も使いません。『措ク能ワサル処ナリ』、『ブーゲンビルノ大戦果相継ギ報セラレ』、『学徒出陣ノ勅令公布セラレ』、『男子ノ本懐ニシテ欣喜何者カ之ニ加エン』、『東亜諸民族ノ興廃此処ニ決セラレントス。タマタマ(ここはカタカナ)…』と言った表現は私は使いません。…というより使うのを躊躇する種類の表現です。間違いなく大本営の報道官がラジオなどで発表していた調子の文句で、当時よく聞いた軍部の慣用語が頻出した文章です。

明らかに配属将校か誰かは分かりませんが、職業軍人が起草し、自ら書いたか、誰かに書かせたものです。既に文章は作成され奉書紙の和紙の上に書かれて居た訳で「これに署名して、式場で読め!」という段取りだったように推測されます。事務局の話に拠りますと、卒業式の答辞も、その当時のものは文面の内容が殆ど「決まり文句の定型句」で、恐らく卒業の答辞を書いた奉書紙の和紙に「署名してこれを読め!」という形だったのでは無かろうか?と感じているようです。

半世紀以上も前のこと、然も兵役に服すため入隊を目前に控えてアタフタとしている時のことでもあり、間もなく83歳になる私の記憶は今では定かではありませんが、恐らく上述のような「これに署名して、式場で読め!」式のことでは無かったか?と思います。

答辞の文章の内容は下に掲げましたが、このような長い文章の原案を書いたことは無かったように思います。ただ、読み間違えては大変だと、数回声を出して練習したことは、今も私の記憶には微かに残っています。自分が書いたものなら先ず間違えることはありません。他人が書いたものだったから、間違え無いように、読み返し、読み返し、反復練習したことが記憶に残ったのだろうと思います。

一般に答辞や宣誓文は、先生や先輩に添削して貰ったり、示唆や指導を受けることはあったにせよ、元来、本人が感ずる処を書くものだと思います。しかし、そうではなく、若し、上記のような慣行になっていたとしたら、「一体何故そんなことになっていたのか?」という疑問を私は感ぜざるを得ません。学園祭や演芸会の挨拶ではないのですから。

以下にこの時読み上げた答辞の内容と、「何故そんなことになって居たのか?」という私の憶測、即ち、軍部が、極端に言えば、国民の生殺与奪権を持ち、国家の命運を独断で左右して居た当時の日本の状況がその根底にあり、それが「このような事態を招くに到った」のだろう…ということを述べました。この私の憶測の可否は読者にお任せします。異論・反論を給れば幸甚です。

 

(明治神宮外苑競技場の壮行会、1943/10/21.)

この有名な写真は私達の壮行会の一ヵ月前に外苑で開催された大集会。首都圏の高等学校・高等専門学校・大学の文科系の学生が全部徴用された。
その一ヵ月後には追い打ちを掛けるように理科系の我々も徴用されることになり、学内の壮行式に臨み兵役に就いた。


(原文は縦書き、句読点や改行のないベタ書き)

 

答 辞

 

本日思出多越中島原頭母校ニシ入隊戦線

生等カクモ厳粛ニシテ盛大ナル壮行式挙行セラレ

臣閣下並所長先生ヨリ懇切ナル御告示及御訓示フシ且

在学生代表ヨリ熱烈ナル壮行ラル生等光栄之ノナ

衷心ヨリ感激措ワサルナリ時恰ブーゲンビル大戦果相

セラレ一億国民真欣快ヘサルナリト敵米英

ナル敗戦ニモセス厖大ナル物資生産力トヲミトシ執拗

悽愴熾烈ナル戦局愈々重大タリ大日本

帝国及東亜諸民族興廃此セラレントスタマタマ学徒出陣勅令

公布セラレ生等勇躍軍務スル光栄男子本懐ニシテ

欣喜何物エン生等多年鍛ヘタル不撓不屈

産魂ニシ敵膺徴粉骨砕身大君下醜御楯トシテ

クシ一死以て悠久大義キントス在学生諸兄尚母校

リテ戦場マスト学問技術テモ敵米英圧倒スルノ

決意生等イテ出陣スル日迄学術研鑽水産報

基礎勉学鍛錬精進セラレン今勇躍出陣セン

トスルニ重大時局下リテ今日迄修学にイソシム

ヒシ御皇恩又生等今日迄御指導下サレシ所長先生並

先生及先輩同輩方々感謝スルトツテ御期待

      ニ欣然死地ニツカム

          茲生等決意答辞トス

              昭和十八年十一月二十日

                       水産講習所出陣学徒代表

                               真道 重明


 

当時を追憶して今私が考えたこと

 

21世紀の今の日本だったら話は別ですが、当時は「これは俺の書いたものではない」などと読むのを拒否することなど思いもしなかった訳です。もし、万一変なことを言ったらそれこそ一大事です。私は学生当時は「反戦思想者」でも何でもありません。小学校以来、当時の愛国教育を受けて来たごく普通の学生です。戦後、「風にそよぐ芦」という言葉が流行りましたが、戦時中の私は「芦」の一つだと思う時もありました。

何しろ無我夢中の緊張の連続でした。この壮行会の式典が終わって直ぐ、出陣学徒全員は銃を肩に駆け足で皇居前広場に行き万歳三唱という多忙さでした。講堂では配属将校を除く水講の諸先生方は下を向き、養殖科長だった堀重蔵先生ほか数名の先生は目に涙を浮かべておられました。

1931年の満州事変勃発から日中戦争、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言っていました)へと突入し14年も続いていた日本軍の戦争も敗戦という終末を迎える日が近付いていたのです。答辞の中に「ブーゲンビル大戦果相次セラレ一億国民真欣快ヘサル所…」とありますが、今から思えば、その時点では既に日本海軍はミッドウエイ海戦で主力艦隊を失なっていたのです。

そんなことも一般人は誰もは知りませんでした。しかし、多くの日本人は「どうも戦争の旗色は次第に悪くなりつつある」という直感的な気持ちはかなりの人々が感じていたと思います。公衆の前では口にこそ出しませんが、胸中では何となくそうだったと思います。口に出したら「非国民」扱いにされ、下手すれば私服憲兵に拘束されるのがオチです。戦況に関しては一億国民皆「ツンボサジキ」の置かれていました。

国は軍部の徹底的な情報管理下に置かれ、政党は無く大政翼賛会だけ、国会は機能麻痺状態、政府の各省庁は軍部の独裁の前にはただ従属するのみだったのです。国民の厭戦の雰囲気が発生することを極度に警戒した軍部は、教育面でも各学校に配属将校を配置し、軍国教育を強化して居ました。

配属将校制度は1925(大正14)年の「陸軍現役将校学校配属令」によってスタートしたと記録されています。もともと第一次大戦後の世界的な軍縮の波を受けて常備軍二個師団の削減を余儀なくされた陸軍省が、余剰となる職業軍人の失業救済政策として、これを現役のままで中等学校以上の男子校に教練教師として送り込んだことに由来するものらしいのです。こうした経緯を持つにも拘わらず、戦争末期になると、学生・生徒の「思想善導」という使命を与えられるようになり、配属将校は、常にわれわれを「貴様」と呼び、「欣然として死地に付け」という教育をして居ました。

配属将校の権限は学長・校長と同格で絶大なるものがあったようです。今、Web上には当時の配属将校の実態に関する記事がかなりあります。以上の事情を考えると、当時の軍部は学校の学生や生徒の状況を細心に監視し、卒業式などの訓辞や答辞などの内容にまで介入して居た可能性が在ったと思わざるを得ません。文部省・農林省も、従って校長や学長も、これに口を差し挟むことは出来なかったほど当時の軍部の権力は強かったからでしょう。

今回強く思うのは、母校の当時の所長以下、諸先生方は「口には出せなかったが、非常に苦労され、死地に赴く「教え子」を想うと、さぞ無念たのだろうなぁー」ということです。今になって思うと母校側には何の落ち度も無かった。「署名して、これを読ませよ!」と配属将校など軍の代弁者が言い出せば、文部大臣も農林大臣も、絶対的権力と武力を持つ軍部の指図には、ただ、黙して従わざるを得なかったのだと思います。

これが私の答辞問題の推測です。誰でも過去を美化し「古き良き時代」などと言います。個人も組織体も過去の歴史の「嫌な記憶や恰好悪いこと」は口にしたくありません。しかし、その何れも歴史は歴史です。ご意見が有れば大いに異論・反論を戴きたいと想います。

 

ホームに戻る

 

ご感想やご意見はこちらへ

 


農商大臣は存在した

農商大臣は存在した

 

上記の「答辞」の中に「農商大臣」という言葉があります。私は『「農林大臣」が「農商大臣」になっていますが、これは書いた人のウッカリ・ミスでしょう』とコメントしましたが、これは誤りでしたので、訂正いたします。この「答辞」の日付の1943年(昭和18年)の11月20日には農商務省が存在して居たことが数名の閲覧者の方々から知らせがありました。ご指摘下さった方々に厚く御礼申し上げます。

がんらい、農商務省は、1881年に設立され、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機関でした。この省が管轄する部門は、主に農業・林業・商工業といった諸産業でした。1925年の第1次加藤高明内閣の際に農林省(現:農林水産省)と商工省(現:経済産業省)に分割されたのです。所が1943年11月に戦時体制強化のために農商務省に再び再統合されたのです。敗戦直後の1945年の8月に再び農林省と商工省に分割された…と言うのが正しい経緯です。

本文を書いたとき数名の先輩にお尋ねしたのですが、「明治時代の太政官布告ではあるまいし、農商務省などと言う古めかしい省がある訳は無い。勘違いだ」との返事でした。それらの先輩の方達は当時すべて戦地に居られ、軍部独裁下の政府機構にどのような変革が在ったかの情報はご存じなかったのでしょう。

詳しく調べもせずに「ウッカリ・ミス」などと書いて了いました。改めてご指摘下さった方々に感謝いたします。  (2005/09/28)。

 

畏友の山中一郎氏から下記の連絡がありました。同氏は神宮競技場の出陣式に参加されたそうです。 (2005/10/23)。

神宮競技場の出陣式に参加した思いでは忘れられません。もっとも直ちに入営する文科系学生と違い、若干の余裕のある理工科生として銃を持たず徒手でした。

もっとも印象深かったのは東条首相兼陸相が特別なファンファーレを音楽学校生(現芸大)に演奏させていかにも英雄気取りでいたのに対し、海軍大臣の海軍将官礼式の吹奏曲は良いとして、次の文部大臣は『気をつけ』の陸軍ラッパただ一声。いくら文官だからと言って親任官の閣僚の間に差が感じられたか,参列者の間に思わずくすくす笑いと,『陸軍省文部局長!』というささやきが聞こえました。

このような学園情勢では貴殿が経験されたような『出陣学徒の答辞代作』は程度の差はあっても他校でもあったのではないかと推察されます。

次は『農商大臣』という名前ですが,昭和18年に農林,商工の2省が改編され軍需省と農商省になりました。明治の『農商務省』ではありません。終戦まもなく廃止され原状にもどりました。私が『農林統計書』を探しているとき1冊だけ『農商統計,昭和18年軍資秘』と書かれた書物を見ました。