苦難の連続に見舞われた"SEAFDEC"

(東南アジア漁業開発センター) の設立初期

真道 重明

( 2000年10月 起筆 − 2002年5月 擱筆 )


では本件の内容については、関係の在った諸氏は既に逝去、または憶えていても「沈黙して語らない」と私は思っている。
今の人々が読めば「まさか、そんな馬鹿な」と俄には信じ難い、現地派遣者ならではの「混乱と苦悩に満ちた経験」の秘話を率直に此処で述べた。
30数年を経た現在ではSEAFDECは一応安定した雰囲気と環境の下で運営されているのは喜ばしい限りではあるが、しかし、今も問題がないとは言えない。「この機関の21世紀の在り方を考える」に当たって当時の苦い経験は今でも必ず役立つものと信じている。
1973年から1984年までの11年間を勤務したSEAFDECを離れて、既に30年近くになるが、その後も数年前迄は殆ど毎年公用や私用で現地を訪れ、親しいタイ国の友人達と旧交を温めて来た私にとっては是非とも記録として書き残して置きたいものの一つである。


目 次

未経験のマルチ・プロジェクト 

孤児となったSEAFDEC

Changi号のビルマ海軍による拿捕事件

日本人不要論と Jap Go Home 

Persona Non Grata 

混乱からの脱出 

Roy Jackson Report 

SEAFDECの基本的問題 

おわりに

付 録

  1. 現場から上申された主な意見書のリスト

  2. 東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)の問題と今後の対策について。43 pp. JICA、1949年10月、

  3. Jackson Report が書かれた時点の関係者人名録

  4. JICAによるSEAFDECに関する評価報告書 (2001年)

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未経験のマルチ・プロジェクト

水産分野における国際機関(正確には政府間機構)の「SEAFDEC」の設立は、日本政府にとっても、他の参加国政府にとっても、初めての未経験のプロジェクトであった。余りにも当初は想定出来なかった、予期しない事態が続々と起こった。


 

設立に到る経緯の概略

SEAFDEC設立の端緒はタイ政府が日本に要請した「漁業技術協力に関するバイ(2国間)のプロジェクト案」だったと聞く。しかし、1966年4月に東京で開催された「第1回の東南アジア経済閣僚会議」(MCEDSEA)にタイ政府からSEAFDEC構想が提案され、同会議は出席した各国から参加したいと言う強い意向があったことを踏まえ、地域内各国も共に参加する「漁業技術開発に関するマルチ(多国間)プロジェクト」として取り上げ検討することが決められ、半年後の9 -10月には日本調査団が2ヵ月に亘って派遣された。

この調査団はベトナムを除く上記の6ヶ国の外にインドネシアも調査対象国になって居た。設置の候補地はタイの Paknam、マレーシアのPenang、シンガポールの Changi の3地点が挙げられ、組織名を「東南アジア海洋漁業研究開発センター」(仮称)とする勧告案がこの調査団から日本政府に提出されたと記録されている。

同年末には東京で「東南アジア農業開発会議」が開かれ、SEAFDEC設立検討部会(Study group)が発足、同作業部会は翌年3月にはバンコクで設立基本事項を取り纏め、翌年の1967年4月にマニラで開かれた第2回の東南アジア経済閣僚会議(MCEDSEA)に答申、同会議は関係国の設立合意意志を再度確認の上、設立協定案作成のための作業部会(Working group)を設置、7月にはシンガポールで協定条項・活動基本方針などの原案が纏められ、同年12月から翌年1月に掛けて上記6ヶ国の協定署名に漕ぎ着けた。

翌年(1968年)の3月にはバンコクでSEAFDECの最高意思決定機関である理事会(第1回、SEAFDEC Council Meeting)が開かれ、タイに訓練部局、シンガポールに調査部局の設置と活動計画が決り人事も発令され、SEAFDECが動き始めた。初代の事務局長(Secretary General)は日本留学経験を持つ知日派、タイ水産局のMr.Tuanthai Bamrajarinpai (トアンタイ氏、故人)である。筆者は当時SEAFDECとは形の上では無縁の立場だったが、偶然にも FAO / IPFC の Working party のメンバーだった関係で、1966年から1972年にかけて度々バンコクを訪問し、FAOメンバーの各国の水産局の人達とも話をする機会があったので、上述の諸事情の推移については、ある程度は直接に肌で感じ取っていたいた。

当時私の印象に残った点は、SEAFDECの親母体はMCEDSEA(東南アジア経済閣僚会議)であり、その具体的活動の第1号プロジェクトがSEAFDEC設立であったこと、発議から発足までに僅か2ヵ年と言う短期間に事が運び、チョット眼には、万事ことがスラスラと運び「順風満帆」に見えた、等々である。

しかし無理もないことではあるが、日本を含めて関係諸国の水産分野の人々にとっては「多国間機構を立ち上げ、ましてや運営した経験」などは全く無く、これは援助側に立つ日本でも同じであった。

水産と言う産業分野では東南アジア地域には日本漁船は全くと言ってよい程出漁して居らず、「援助の見返りは何も期待できない」との見方もあり、外務省管轄事項の本件は「地域との友好関係維持のための有力な一環」と位置付けられ、目先の国益問題の対応に追われている水産庁からは、設立時を除くと大蔵に対する予算折衝などでも、外務省國際協力局任せで、水産庁側からの積極的な協力はそれ程得られなかったのが実情であった。


危機管理意識が欠如した設立協定

立協定書はSEAFDECの憲法のような基本文書であるが、国連のFAOや他国の経験を持つ國際協力機関のこの種の文書の内容に較べて、「被援助国の顔を立てる余り組織の管理体制や日本人派遣専門家の立場に関する規定が不明確」だった憾みがあり、協定に基づいて作成された服務規定も同様であった。

日本社会の精神風土の内では通用しても、「社会風土の異なる国々では同じ個々の条文でも、その解釈や取り扱い方は日本の期待通りになるとは限らない。問題が起こってから気が付いた結果論ではあるが、これらの問題に対する考慮が、「余りにも足りなかった」と思わざるを得ない。私は此処で当時苦労した関係者を批判し非難しているのでは決して無い。

何しろ関係者が初めて取り組んだ「万事が未経験の事柄」だったからである。別の言い方をすれば、友好と相互信頼を前提とし「排日反日思想で行動する者など各国のSEAFDEC設立関係者には有り得ない」と頭から考えていたし、信じていたから、もし万一そのような事態が起こった場合にどう対応するかを全く想定して居なかった。「歯止め」が全然無かったのである。現代風に、かつ大袈裟に言えば、FAOなどの多国間プロジェクトの場合と較べて「危機管理システム」がスッポリ欠落して居たと言っても過言ではない。この問題は事態発生下に置かれた派遣専門家の現場での任務遂行上、多大の困惑と苦悩を与えた。今にして思えば30年も前の話であるから「想い出」の一齣になってしまっているが、解り易いように次に具体的事例を挙げて述べよう。

FAOなどは途上国を相手に「多年の苦い経験」から多国間プロジェクトを実施する場合、Project team leader は必ずFAOが派遣する、すなわちリーダーの人事権をFAO自身が握っており、従って責任も背負っている。民間企業の場合、出資して現地会社を設立した場合、社長に現地国籍の人を名目上は立てても、定款には個々の経営上の事案決定権は出資者側にあるように仕組まれて居るか、居ないか、の問題と似ている。

SEAFDECの場合は事務局長・部局長は「所在国(ホスト国)政府の推薦する者」となっており、必ずしも当該国籍の人でなければならない訳ではないが、現実には常に所在国の国籍の人であった。事務局次長と部局次長(Deputy Secretary General、 Deputy Chief of Department、ただし事務局のあるタイでは両者は兼務)は「日本政府の推薦する者」で、これまた、必ずしも日本国籍者でなくても良いことになっているが、現実には常に日本人であった。

この仕組みに問題が無い訳ではないが、一先ず良いとしよう。重要な点は「次長の任務が助言者的存在で、ホスト国人の「局長」が日本人の「局次長」と意見を異にする場合、最終の決定権は現地の局長の採決」に委ねられ、平たく言えば「日本人次長には拒否権が無かった」のである。「話し合って決める」と言うだけでは両者間に信頼関係が損なわれている場合、問題がこじれ対立した時には「助言」は全く意味がなくなる。

各加盟国が参加する事業企画会議(Prigram Committee)や最高意志決定機関である理事会(Council Meeting)の席上で某加盟国代表から「Jap go home」の発言が飛び出したり、事務局長が「日本人専門家不要論」をブチ上げたりするような事態は、日本側は始めから全く予想もして居なかった。「俺に決定権がある」とふんぞり返られては手の施しようは無い。

当時、日本の首相が地域を訪問した際、各国で排日デモが起き、日本の在外公館は慌てたことがメディアで大きく報道された当時の時代背景から見て、地域の中の一部の人には未だ強く排日・反日感情が存在していたし、それを利用して点数を稼ごうとする人物が加盟国の政府内に、ごく少数ではあったとしても、存在して居たのは事実である。発足してようやく歩き出し始めた初期のSEAFDECに「不幸にも、また不運にも」このような人が関与していたのは残念である。

國際技術協力と言うものは、技術者や経費を供与する側は当然受ける側から感謝され、厚意と誠意を以て答えてくれると思うのは早計、かつ幼稚である。確かに「建て前の上でも、うわべの公式な話」でも受ける側は供与国側への感謝と厚意ある対応の形となっている。しかし、裏では先進国同士の間には途上国への供与合戦があり、受ける側が供与側より威張っている、換言すれば、先進国間に供与プロジェクトの取り合いと言う競合の存在を見抜き、「お前の国に花を持たせてやった」と言う受益者側が供与側に「恩を売る」という奇妙な関係もこの世界には珍しくない。

供与金の不正着服なども、戦争難民救済の浄財が途中で消える事件と同様、世界の至る所で起こる。信義と誠意ばかりで動くものではない。国際問題では常に細心の注意を以て「歯止め」を掛けて置かなければならない。共通の規範と「言わずもがな」の以心伝心で事が運ぶ国内とは基本的に違う。この点の考慮は、日本はSEAFDECの場合、余りにも甘すぎた。

 

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SEAFDECの発足と同時に問題噴出

 

1967年末から'68年始めにかけて参加国が加盟の調印がなされ、此処にSEAFDECは成立したことは既に述べたが、先行した2名の日本人スタッフに加え数名の要員がバンコクに派遣され、開設準備作業と並行して実際の活動が市内のホテルの一隅に間借りして始められたのは翌1968年の7月である。1970年には各国からの第1期訓練生がバンコク市内の Yannawa 魚市場構内の2階にある大広間で教育訓練を開始した。これらの詳しい年表記録は省略する。

私が初代事務局次長の急遽辞任の後を受けて、その後任としてSEAFDECに赴任したのは1973年の3月である。実質的な訓練活動が開始されて約2年後である。ホスト国タイの初代事務局長も交代していた。庁舎や埠頭も完工したパクナム(Paknam、チャオピヤ河の河口、バンコク市内から40 kmにある)の地に移っていた。事務局長は訓練部局 (Traning Department)の部局長を兼務しており、私も同部局次長を兼務していた。事務局と部局とは同じ場所にあり、執務室も同じであった。住居はバンコク市内に在ったから毎日車で40 km の半舗装と舗装のない凸凹道を1時間半から2時間かけて通った。チャオピヤ河に架かる橋の数も増え、本舗装されて40分で通える現在とは雲泥の差である。局長は週2〜3回程度パクナムに数時間顔を出す程度、私は毎日出勤していた。

着任して1ヵ月も経たない頃、部局の訓練活動運営の裏面にはただならぬ事態が生じていたことを知って愕然とした。各国から来ている訓練生(Trainee)は宿舎を陰ではPaknam prison (パクナム刑務所)と呼び、与えられる食事も口に合わず、かつ不充分、母国から送られて来るお金も預かり置く措置が取られ「本人には手渡されない」などの実態が続いていたのである。

ある日の訓練生の朝食にパンだけで卵などの副食が無いことに抗議したら、「一二度の食事に副食が無くても死にはしない」との返事に訓練生の怒りが再度爆発し、これにはそれ迄沈黙していたタイ訓練生も各国の訓練生と同調、タイ水産局に事情を訴えた。これらタイ訓練生は事務局長(兼・部局長)から取り調べを受け譴責を受けた。彼等は秘かに私の部屋に来て事情を訴え、日本人職員の力で事態の改善を訴えて来たので、ことの経緯を知った訳である。

訓練生は日曜日の外出時にそれぞれ母国の大使館経由で母国の理事(水産局長)に直訴の手紙を出していた。また、局長は初代次長に対し「次長職に不適任のため、その職を解任する」という辞令が出されていたことも知った。私は次長引き継ぎでは何も聞いていない。寝耳に水である。前次長は「何の根拠と権限でそんな辞令が出されるのか、馬鹿も休み休み言え」と完全無視をされたのだろうと思う。この経緯は東京には伝わっていなかった。

私が着任してからも訓練生の母国への直訴は陰で行われていたが、そのような事態が裏に在ることを私が知ったのは、着任早々で私自身が右も左も分からず、他の表面的、かつ公式的な仕事に振り回されていたので、暫く経ってからである。このことは現地の日本大使館のSEAFDEC担当者も、また我々日本人スタッフの派遣母体である海外技術協力団体(OTCA、JICAの前身機関、その後間もなく今の國際協力事業団のJICAと改名された)の現地事務所も知らなかった。


 

日本大使館の指示に反抗する事務局長

 

SEAFDECの事務局(と訓練部局)が混乱状態にあった1973年10月バンコク市内で軍部と学生運動家集団との間に大規模な衝突事件が勃発し、数百を超える多数の学生や巻き添えの市民に犠牲者が出て、在留日本人も1名死亡した。戒厳令は出されなかったが、警察から Curfew (夜間外出禁止令)が出され、各国のメディアはクーデターとして大々的に報じていた。

日本大使館とOTCA(JICAの前身)から「緊急事態以外は自宅から外出しないように、なお、SEAFDEC派遣者全員に至急連絡して伝達せよ」との指示の電話があり、私は指示された措置を取り、SEAFDEC事務局には出勤を控える旨通知した。FAOもUNESCOなども自宅待機の措置が取られていた。

SEAFDECの事務局長だけが「何故欠勤するのか?無断欠勤者は戒告処分にする。市内混乱は大したものではない。それを理由に欠勤した者はすべて上司命令違反と見做す」と私にその日の夜に言い返して来た。「FAOやUNESCOなどの国際機関の出先は自ら職員の自宅待機を指示している。何故同じ国際機関であるSEAFDECだけが異なる見解に立つのか理解し難い。日本人派遣者は日本大使館の指示に従う義務がある点を理解すべきだ」と抗議した。

彼は「日本大使館に抗議に赴く」と言っていたが、結局は行かなかった。遣り取りの経緯は大使館とOTCAには伝えたが、この例のように事務局長の考え方や態度・発想は常軌を逸していた・・・と言うよりも何事に付け「意識的に事を構える」としか思えなかった。

私としては言い難いことだが、率直に言って、大使館やOTCAも万事について「言い争いは避け、穏便に済ませよう」と言うのではなく、事態が此処まで来ている以上、もっと積極的な打開策に努力して貰いたかった。


國際機関に対する加盟国の不理解

 

タイ国に派遣されて来ている各国の訓練生(その大半は母国水産局の若い技術職員)の「食事が不充分、母国からの送金も本人には手渡されない」のは無茶な話であり、訓練生宿舎を刑務所と呼ぶのは無理からぬことである。風習や社会環境の異なる異国での生活を考慮して、給付金は現地国タイの訓練生よりやや多く支給される取り決めになっていた。これに対し事務局長や一部のタイの職員はタイ訓練生と差をつけるのは「タイ訓練生が可哀想だ。此処はタイ国だ。郷に入れば郷に従うべきだ」と言うことらしい。

この主張は分からぬではないが、取り決めがなされている以上、それに従って運営されるべきである。この「此処はタイ国だ。国際的取り決めはそれはそれとして、先ずタイ国の慣習と規則に従うべきだ」と言う考えは、いろいろな局面で何度も聞いた。
日本人職員と意見が合わないと、最後には局長自身が地面を指さして「此処はタイ国だ」と我々にも大声を出した。

日本人職員が作成したCurriculumSyllabusの部内研討会で局長が「こうした方が良いのでは?」と提案として言うのなら話は分かる。提案ではなく、いきなり指示命令なのである。

「舶用機関の講義を船の機関室で行え。その方が現物を前にして効率的に理解が出来る」などの発言は命令口調である。エンジン担当の日本人専門家は呆れて「貴方は機関室に入った経験があるのか?多人数が入れる空間は無い」と言うと「訓練生はエンジンルームの上段から機関を見て講義を聴けばよい」との答え。「騒音で隣りの人に話すのも耳元で大声でないと聞き取れない機関室の騒音環境を知っての発言か?」と言い返す。これはほんの一例である。万事この調子だった。

私は此処でこんな話をクドクドと言う心算は無い。要は「此処はタイだ」の言葉に現れているように、総てタイ国のやり方で運営したいと言う考え方である。タイの学校に留学しているのならその校則に従うべきであろう。しかし、SEAFDECはタイの教育訓練機関ではない。國際機関なのである。

此処で断っておきたいのは、タイ職員やタイ水産局の人々が総てこのように考えていたのでは決して無い。むしろ逆であって、「あれではSEAFDECは潰れる」と心配して居たがただ黙している。不幸にもきわめて少数の反日家である人が、その地位に居たことである。しかも、それを排除できない仕組みの不備に起因する。

シンガポールの調査部局(MFRD)はタイの訓練部局とは全く違った雰囲気にあった。技術指導に派遣されて来た日本人の立場には敬意を払い、技術的問題は総て任せていた。問題が無かった訳では無い。同部局職員は総て政府の原産局職員と兼務であって、日本で言う「SEAFDECへ出向」している形であり、MFRDは原産局の出先部署の一つと言った感じであった。

一足遅れて1973年7月に発足したフィリピンのパナイ島にある養殖部局(AQD)では日本人職員は「Guest」(お客さん)と呼ばれ、語感から言ってRegular memberではなく、Temporary staff の印象であった。「養殖池の稚仔数を毎日マルコス大統領に打電せよ」などと言う技術的には馬鹿げたことが行われ、開設初期に派遣されていた日本人専門家は呆れ困惑していた。「何故、毎日の稚仔数を打電報告するのか?」の問いに「理屈ではない。Executive Order (大統領の行政命令)だ」と言う。このExcutive Orderという言葉は「ことある毎に引き合いに出た」と日本人職員はこぼしていた。

上に述べたことはすべて私がこの眼で観たりこの耳で聞いたことである。共通することは「加盟各国の水産分野の人達も何しろ始めての経験であり、『國際機関とは何か?、その運営はどうあるべきか?』の理解がきわめて曖昧であった」と言わざるを得ない点である。
設立協定に謳われている事項も国際機関の組織としては良く言えば「ユニーク」、悪く言えば「極めて特異」なものであり、日本人職員の立場一つ取り上げても、3部局それぞれ三様で、統一した組織体としての態をなして居なかった。

 

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孤児となったSEAFDEC

 

東南アジア経済閣僚会議の消滅

 

述のようにSEAFDECは日本も参加する「東南アジア経済閣僚会議」(MCEDSEA)の決定に拠って生まれた。すなわち同会議は、言わば「SEAFDECの生みの親」である。SEAFDEC理事会は会議の内容を毎回報告書として親許であるこの閣僚会議に送って批准を受け、問題が在れば指示を要請していた。

ところが、この「東南アジア経済閣僚会議」(MCEDSEA)は1974年の11月にマニラで開催された第9回会議以降は、終結宣言も無い侭、自然消滅の形で、その後は一度も開かれていない。私の認識や記憶に誤りが無ければ、この時点で生みの親を失い「SEAFDECは孤児」となった。恐らく「SEAFDECは一応歩き出したのだから、閣僚会議が開かれなくなった場合でも、面倒を見ることもあるまい」と言うことだったのだろう。

「一応歩き出したのだから」と言うことだったかも知れないが、その内情は上述のように組織が崩壊に繋がり兼ねない問題が山積していたのである。今更言っても愚痴になるが、もしこの「東南アジア経済閣僚会議」(MCEDSEA)が存続して居れば、閣僚レベルのこの会議からの助言が事態改善の機会になった可能性はある。同会議の実質的消滅は、その機会を失わせたとも言え無くはない。

今ではASEANの強化により、SEAFDECとASEANとの関係は義理の親のような関係にあるのだろうか?私の在任期間中はSEAFDECはASEANの水産部会には開会式には毎回招待されたが、討議にはオブザーバーとしても参加は許されなかった。顔ぶれはSEAFDEC理事会と殆ど同じで、討議内容は筒抜けであったが・・・。


 

議案を決定する能力のない理事会

 

記のように孤児となったSEAFDECは無援の独立した組織体として、毎年開催されるこの組織体の最高意思決定機関である「SEAFDEC理事会」の決定を受けて事務局長や各部局長の責任で、事務局や各部局が運営されることになった。

理事会は各国の「SEAFDEC理事」によって構成されている。日本と南ベトナムは水産(漁業)局の次長、他は水産(漁業)局長(シンガポールには水産局は無く、原産局長)が理事であった。日本と南ベトナムが次長でとなっていたのは、両局とも局長は水産畑の出身ではない行政職であり、討議内容が水産技術問題であり、水産畑出身の次長が理事を勤めるのが適当と言う理由からである。

私が在任期間を通して常に感じたことは、重要な議題については「私は本件については可否の意思表示をここで発言する立場にない。母国に持ち帰って所管大臣と協議し後刻通知する」という発言が多かった点である。予算が伴ったり国益が競合する問題は総てこうであった。会期中時間は有ったから、素人の私でも「電話で訓令を仰いで対応すればよいではないか?」と思ったが、そうも行かない。理事会はこの意味では非効率であり、決定能力に欠けていたと言わざるを得ない。

 

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Changi号のビルマ海軍による拿捕事件

 (日本人船長以下訓練生を含む全乗組員の2ヵ月に亘る拘束)

 

 

事件の概要

 

1974年4月8日、シンガポールの調査部局の調査船 Changi 号が調査航海中に領海侵犯とスパイ活動の容疑でビルマ(現在のミャンマー)海軍によって拿捕される事件が発生した。世に言う「チャンギ号拿捕事件」である。日本人の船長以下、多国籍の訓練生を含む全乗組員32名は、当時東洋一を誇る?ヤンゴン(ラングーン)郊外のインセン刑務所に約2ヵ月に亘り拘束された。

この事件の詳細とシンガポール部局や同国政府内の事情については、当時の同部局次長だった水戸敏氏が20数年後(1994年7月)になって書かれたこの時のシンガポール側の詳しい追憶記事の冊子があるので、詳細は省略する。

私が「SEAFDEC事務局長代行」としてRangoonに赴き、ビルマ最高裁判所へ出席、救出活動に入ったのは1ヵ月後の5月9日である。何故1ヵ月も遅れたのか?。それには國際機関としての機能が麻痺状態にあり、次項で述べるような組織体としての危機対応が出来なかった背景がある。

SEAFDECの Changi 号の拿捕事件の処理と好対照となる出来事が、実は時を同じくして発生していた。それはマレーシアのペナンを基地とするFAOの調査船 Cape Saint Marie 号の事件である。同号は同じくビルマ海軍に拿捕されて居たのである。同船は長らく英国の香港政庁水産局の調査船として働き、その後マレーシアに移りペナン港で調査に従事しており、私は香港政庁水産局長のWilliam CHANG (陳礼宜氏)とは以前から親交が在り、その船のことは良く知っていた。

拿捕の報告がFAO本部に通報されるや否や、ローマのFAO本部は事件処理担当の幹部職員を現地に飛行機で急行させ、ビルマ政府と折衝し、僅か1週間後には保釈に漕ぎ着けている。Changi 号とは大違いである。

 

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事件の対応に手間取った真相

 

調査船 Cape Saint Marie 号に関するFAOの同じビルマ政府への対応と較べてSEAFDECの Changi 号の対応は雲泥の差がある。もっとも、Cape Saint Marie 号は Changi 号に較べ小型であり、調査装備もソナーなどは無かったし、国連機関の所属だったため、スパイ船としての容疑も軽度であったかも知れない。また、 Changi 号の船籍はビルマに大使館を持たないシンガポール(マレーシアに大使館事務を委託していた)であったこと、など、事情の違いはあった。(国際機関は国連機関であろうと船籍を持つことは出来ない)。しかし、決定的な違いは対応の拙さであり、遅れである。

本来なら拿捕事件発生の第1報が入った直後、SEAFDEC理事会の議長国(その時はマレーシアであった)の理事とSEAFDEC事務局長は直ぐさまビルマに飛んで行くべきであろう。タイの事務局長は任期満了でタイ政府は後任の発令が遅れて、事務局長は不在であった。不在の場合は協定では事務局次長が代行することに決められていたのである。私は夜半に入った第1報を聴いた直後、日本大使館とOTCA事務所に連絡、翌朝にはマラリア予防薬、その他必要と思われる物品を購入し出発準備をしていた。

しかし、任期の切れたタイの前事務局長が「自分が行く」と言い出し、理議会議長国のマレーシア理事に打電していた。マレーシア理事の回答は「事務局長不在である時は事務局次長が代行することになっている。日本人次長の私が行くよう指示する」旨の内容だった。これを聴いた前事務局長は回答を不服としてマレーシア理事と協議するためクアラルンプールへ向かった。その後の詳細は略すが、この様な解釈問題で時間を費やして居たのである。

シンガポールの調査部局では自分達の船のことでもあり、業を煮やして部局長と日本人次長の水戸氏が現地に向かっており、私は数日遅れてラングーンで合流した。その後の経緯は略すが、問題解決に最も寄与したのは駐ビルマ日本大使館である。理事会議長国の理事は結局一度もビルマの法廷に顔を出さなかった。

Changi 号の乗り組み32名は、2ヵ月後に死亡や栄養失調者もなく、シンガポール国籍の大学出の女子調査員が精神的苦痛から精神障害を受け、帰国後カウンセリングを受けていた以外は全員が無事帰還できたのは不幸中の幸いであった。

駐ビルマのタイ大使館員から聴いた話では、インセン刑務所にはこの時約120名の台湾の高雄籍の底引き網漁民が長期間投獄されており、十数名の栄養不足による死者が出ていたという。台湾はビルマと国交がなく受刑者を救う道は無かった。

私と調査部局長のMr.Chen Foo-yan(曽富仁)の2名は刑務所に面会に行き、正面ゲートの写真を撮った廉で私服警官に捕らえられ、30分か40分ぐらいだったろうか、刑務所長室に軟禁された。「撮影禁止の高札無しに拘束するのは無茶だ」と抗議すると「高札はある」と言う。ビルマ文字で書かれた掲示板はあったようだが、外国人に読めるわけは無い。面会は許されず、差し入れ品は本人達に届いたかどうかは分からないが、一応受理してくれたが、唐辛子は規則により没収された。刑務所内での恐るべき待遇、最高裁判所でのスパイ容疑の被告となった法廷での様子、その他多くのエピソードはあるが此処では省く。


 

事件の教訓

 

この事件から私が私なりに得た感じと教訓を述べる。

  1. 加盟国の一部の人は「事程左様に」設立協定の認識と協定を遵守する意識が甘く、法治と言うより恣意的解釈で事柄や問題に対応している実態にあったこと。

  2. SEAFDECの船舶職員や各国の訓練生の生命を非常事態の危機から守ることより、自己の立場を巡ってのSEAFDEC内部の論争に狂奔していたと言わざるを得ない行動があったこと。

  3. この事件に関し関係国の政府間でどのような対応策についての遣り取りがあったか、私の立場では知り得べくも無いが、日本政府、取り分け駐ビルマ日本大使館の援助が大きかった。次いで駐ビルマタイ国大使館であった。拘束された中には一人の女性職員(浮遊生物調査担当)が居り、独房に入れられていたが、女性ならではの差し入れ品目などに関し日本大使館員の奥さんなどから多くの協力を頂いた。Changi 号はシンガポール籍であるが、同国はビルマとの外交事務をマレーシアに委託していたから表面には出られなかった。当のマレーシアはタイと同様にビルマとは国境を接しており、複雑な国家間の関係にあったことは推測できるが、私個人の印象では、本件に関しては、それほど積極的に動いては呉れなかったように思う。

  4. SEAFDECと言う組織体の中で、直接関係のない部局は座視し静観するだけで、共同体であると言う意識の下に「団結して事に当たる」と言うムードはあまり感じられなかった。時と場合によっては「東南アジアに在る諸国の自分達だけで自主的に運営すべきだ」と言い、一方、経済的な、または技術的な負担が必要な時は「日本の協力が不可欠だ」と言う「依存体質」は今も変わっては居ない。日本は協力を惜しむべきではないが、同時に各国も団結して自助努力をすべきである。これらの諸問題は本文の最後の項で愚見を述べることにするが、その原因はSEAFDECの基本的な仕組み如何と日本の果たすべき役割如何に係わると私は思っている。

 

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日本人不要論と Jap Go Home

 

以上に述べてきた諸問題に対し我々はことある毎に詳細を文書で、また口頭でも大使館の担当官やOTCA(現JICA)に報告し、指示を仰いで来た。残念なことではあるが、率直に言って仲々重い腰は上がらず、毎回決まって「穏便に、対立を避けるよう」と言う反応であった。

無頼漢を相手にした「韓信の股くぐり」では無い。「辱められても忍耐せよ」の故事とは局面が異なる。対立を避けるため、理不尽な譴責命令を甘受し、訓練生のもっともな不満に対し「視て見ない振りをせよ」と言うのか、組織が「崩壊寸前の崖淵にある」のを分かってもらえないのか」、と興奮した発言が飛び交った。また、Paknamの庁舎の視察には庁舎完工式典以後は一度も来て貰えなかった。大使館やOTCA事務所は多忙であったし、このようなトラブルに直面するのは前例がなかったので、対応に乗り出すべきか否かについて決し兼ね、取り敢えず静観を余儀なくされていたのかも知れない。

我々自身が対応すべき問題であるから、切羽詰まった私は一切の責任を負う決心をし、連名の辞表を出すことに決めた。事ある毎に我々が「侮辱を受けて迄、協力する」ことはどうしても納得し難いと言う思いがあった。


派遣専門家のJICAに提出した「辞職連判状」

 

い詰めた我々日本人派遣専門家は連日会合を開き、取るべき態度を議論し、遂に失職を覚悟で「連名の辞表」をだすことに決めた。私はそれを取り纏め、OTCA事務所を通じ、本部に提出することに決定し、私が提出のためOTCA事務所に持参した。この行動は大袈裟過ぎると思われるかも知れない。しかし、多くの専門家はOTCAの派遣者としての職を得て、今の勤務に着いている。それらの人達には生活が掛かっている。成り行きによっては「東京では事情が理解されず、罷免による失職」もありうる。

ちょうどその時OTCAはJICAと言う新しい組織に変わり、名称が変更されるときであった。東京から来たOTCAの若い職員は我々にその事を伝え、「今回のSEAFDECの派遣者の辞表提出の動きに本部は困惑している。事と次第によっては懲戒免職もありうる」との発言があった。彼は事態の真相を何も知らなかったが、これを聞かされた当方の人々は苦しかったに相違ない。辞表を出す議論は一種悲壮感の中で行われた。

結局、連名の辞表は現地OTCAの事務所長が「預かり置く」と言うことになった。そうこうしている内に事務局長の暴走はますます激化し、遂に三部局合同の事業計画会議(Program Commitee)で事務局長は日本の代表(外務省の課長)を含む各国代表の前で「日本人不要論」を、某国の代表からは「日本人は母国に帰れ」と言う暴言が飛び出す事態に迄エスカレートしていた。


日本人不要論を打ち上げる事務局長

 

務局長は日本の代表や各国の代表の居る公式の場で日本人職員の不要論を打ち上げた。その論旨は次のようなものであった。

1.事務局長としての自分の指示に従わない者が多い。
2.専門知識が水準に達していない。
3.英語力が不十分で訓練生は講義内容を理解できない。

私はその場に列席する立場には無かったから、これらの話は後で聴いたことであり、正確かどうかは分からない。この発言に対し各国代表は呆然としたと聞く。私の前任者の初代日本人事務局次長に不適格の烙印を押し解任命令を出した時と2年後の事務局長の考えは全く変わっていない。

【蛇足】 英語会話力の問題はある程度は認めざるを得ない。訓練生の中には英語を母国では家庭での常用語としているものもあった。しかし、語学力不足のため教育の任務が遂行できない情況にあったとは決して思われない。目的は技術移転であり語学教育の場ではない。訓練生は講義の内容が分からない場合は、技術上の問題であれ、言葉上の問題であれ、何度も聞き返し、誠意を以て答えていたから、日本人職員との意志疏通は常に万全とは言えないまでも、異常なく正常に行われていたし、訓練生は日本人職員を先生として尊敬していたと私は信じている。

言葉の問題は重要ではあるが、語学力ではやや劣ると見られる某講師の講義や実習指導が受講者にとっては「一番理解しやすい」として評価される場合も、しばしばある。問題は誠意と信頼である。これは我田引水論ではなく、FAOなどでも日本人の場合ではないが同じ情況を私は数回体験している。


Jap Go Homeを怒号する某国代表

 

柄に問題がると噂されていた某国の代表は、会議前に酒を飲んでいたようだが、突然興奮して Jap go home と大声で喚き出した。列席していた各国代表や各部局長や部局次長は何故怒鳴り出したのか理由が分からず呆れていた。Program Commiteeだったので私も列席していた。

どうも、この代表は怒鳴り出す直前の日本代表の発言を誤解し、「日本は某国の肩を持ち、俺の国をないがしろにしている」ということだったらしい。日本の代表である外務省の課長は某国の発言の真意を単に確かめただけであることは皆分かっていた。各国代表が「今の彼の発言は不適切だ。記録から削除すべきだ」ということになり、本人は怒ってその場を退席した。

私は小型のテープ・レコーダーに録音していたので、雑音はあったが、彼の怒号はハッキリ記録され後で何度も聞き直した。公式の会議でこの様な事態が起こること自身、SEAFDECの混乱の一面を露呈していた。

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Persona Non Grata

 

交用語に Persona Non Grata (好ましくない人物、ラテン語)がある。上に縷々述べて来たSEAFDECの混乱と異常な状態を外務本省の課長自らが身をもって体験したのはこれが始めてであった。


外務省の課長は実態を眼にして憤慨

 

項で述べたSEAFDEC事務局長の発言や会議での異常なハプニングを目前にした外務省の課長は、日本人職員の連名辞表提出に到る経緯について私らが同課長に説明した内容が「SEAFDECで起こっている事態の真相が私達の説明通りである」ことを悟り、驚き、かつ、事務局長の独断、越権、日本人専門家に対する侮辱とも取れるこれらの発言に激しく憤慨すると共に発言問題を重視し、「日本人職員の引き上げを考慮せざるを得ない」と判断、事務局長の発言に関する「非公開形式の会議(Closed door meeting )の開催を提案し諒承された。


非公開会議で事務局長を戒告処分

 

の非公開会議の内容は各国代表者だけの会議で、私達の立場では知る由はないが、事務局長の発言は不適当であり、「事務局長は反省を要す」と言う戒告がなされたもののようである。Persona Non Grataと言う言葉はスパイ活動を行った外交官を母国に強制退去させる場合などに良く使われるきわめて強い意思表示であると思われるが、この秘密会ではこの言葉が飛び交ったとの噂であった。

訓練部局に戻った事務局長は我々には何も喋らなかったが、自己の保身の打開策に狂奔していたようである。バンコクの魚市場がある水産基地のYannawa地区から国会議員に立候補、一票も獲得できなかったので物笑いになったという話をタイ水産局職員から聞かされた。彼も嫌気がさしたのか、日本人職員の引き揚げに前後して、事務局長の交代後は政府職員には戻ったが、水産局には戻らず、またSEAFDEC問題には触れなかった。その後は国連機関の職員として母国を離れ、退職してからは米国に在住している。

 

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混乱からの脱出

 

乱状態が潜在していたSEAFDECに赴任してから僅か1ヵ年半後、混乱に次ぐ混乱がエスカレートし、日本人派遣専門家は総引き揚げと言う異常事態になった。その原因は反日的な事務局長の余りにも身勝手な行動によることは現地タイの水産局の職員やSEAFDECのタイ人職員の殆どの人々には良く分かっていた。

分かっていても口に出して言えなかった。事務局長を陰で支えてきた反日家のタイ水産局長が昇進のため水産局から離れたこと、事務局長の失脚とで「それまで押さえとなって来た重し」が無くなったので情況は大きく変わった。タイ水産局は「何とかしてSEAFDECを崩壊から守り、復興させなければならない」と言う気運が表面化した。


日本人派遣専門家の引き揚げ

 

務局次長の私を含む日本人派遣専門家は総引き揚げと言う異常な事態となった。私が赴任して1年半後のことである。引き上げは3回に分けて行われた。日本政府としてはSEAFDECと言う機関を崩壊させる意図は無く、一度に全員が引き上げると言った強行策は取らず、態勢を立て直す方策を模索していたと私は理解している。

私はその第一陣として1974年9月5日付けの「SEAFDEC事務局次長、訓練部局次長の職を解く」の辞令を受け帰国した。訓練部局の活動が停止するなどの混乱を避けるため、後事をタイ職員に引き継ぎ、第二陣、第三陣と引き揚げた。

私がSEAFDECを離れることを知ったタイ職員幹部数名は秘かに目立たない食堂で私のためにささやかな送別の宴を開いて呉れ「事務局長の理不尽な暴挙により苦痛を与えたことを詫び、SEAFDECの再建に努力して呉れ、友諠は忘れない」と言われた。「秘かに」と言うのは未だ事務局長は在任中であり、バレた時の報復を怖れたのである。私は嬉しかった。

帰国した私は1ヵ月間は農林省経済局国際協力課に籍を置き、在任中の経緯を説明する文書の作成を命じられ、これに専念、文書は外務省とJICAに送られ、JICAから数10部が内部資料として複写された。この文書の項目は本稿の付録にある。

その後辞令により元の水産庁の研究所に里帰りした。私の場合は良いとしても、帰国して失職する可能性のある人達の身の振り方について立場上責任を感じ、個人的に奔走した。


タイのスタッフやタイ水産局職員の本音

 

練部局や事務局のタイ人職員、およびタイ水産局の人々はこの事態をどう見ていたかについて私の理解を述べよう。基本的には一口で言ってきわめて友好的であった。問題の事務局長は就任する前は水産局の海洋漁業研究所に居たから、かれのやり口は皆良く知っていた。既述のように分かっていても口に出して言えなかった。何故か?

それには事務局長を陰で支えてきた反日家で遣り手の水産局長の存在がある。冒頭でも触れたように、当時、少数とは言え反日思想を持つ人々はかなり居たし、それを背景に出世を企む人も居た。悲劇の始まりは、運悪くこれらの権力を持つ人達がたまたま「SEAFDECの設立に関与して居た」ことにあり、起こった事態を阻止する「歯止め」の条項が設立協定に欠落していたからである。訓練部局や事務局のタイ人職員、およびタイ水産局の人々はこの権力に抗することは、睨まれて自己の身の安全が脅かされることを怖れたからである。

しかし、事態は日本人職員の引き揚げという緊迫した局面を迎え、事務局長はFAO勤務を終え帰国した前海洋漁業研究所長だった Dr. Deb Menasveta (テブ・メナスベ氏)が新しく任ぜられた。また、水産局長も転出し、雰囲気は大きく転換しつつあった。このテブ氏は誠実な人柄で、初代事務局長のトアンタイ氏と共に私がIPFCの作業部会委員時代から良く知る友人であった。

タイ水産局は「何とかしてSEAFDECの事務局と訓練部局を崩壊の危機から守り、復興させなければならない」と言う気運が一気に表面化した。日本人職員の引き揚げという異常な局面を迎えるに到った「非は前事務局長にあり、日本人職員には無い」という認識ではタイ水産局の幹部やSEAFDECタイ人職員の大多数が一致していたと私は思っている。

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日本人派遣専門家の復帰による再出発

 

が事務局次長を辞任した1974年9月5日から再度同職に赴任を命ぜられた197673日までの約1年10ヵ月間、SEAFDECの事務局と訓練部局には次長は欠員として空白状態であった。SEAFDEC側の人事記録では、この間の次長職は離職ではなく「一時休職」として扱われていた。

この間、2度に亘って、SEAFDEC側はテブ事務局長がトアンタイ初代事務局長を伴って来日し、外務省とSEAFDEC日本理事(水産庁次長)およびJICA本部を訪れ、SEAFDEC事務局と訓練部局を「崩壊の危機から救うために不可欠の措置」として、私の現職への復帰と日本人職員の再派遣を懇望している。余談ではあるが、知日派のトアンタイ初代事務局長は在任中に作った訓練部局職員の服務規定が次代の事務局長によって「不適当」として一方的に破棄し、勝手に書き直した。トアンタイ氏は水産局で非常に人望があった人で、後任の事務局長とは意見が強く対立していた。

1976年7月私の再派遣の辞令が出され、引き揚げた日本人職員の再派遣も行われた。此処に「開設ご間もなく起こったSEAFDEC事務局と訓練部局の混乱状態は終結し、仕切り直しをしての再出発が始まった。発足してから8年後、私が初回に赴任してから3年後のことである。

テブ事務局長(Dr. Deb)は温厚な人柄でSEAFDEC加盟各国の水産局の人々からの信頼も高かった。私はFAOのIPFCの東南アジア底曳網漁業作業部会の一員として仕事を始めた時以来、また同作業部会の活動結果の総括文書の作成を依頼され、ローマのFAO本部で仕事をして居た時にも親しく協力して呉れた親友である。

我々は先ず事務局事項としては機構上の問題点の洗い出し、混乱していた事務局の仕事と訓練部局の仕事の整理、SEAFDEC News Letterの発行、東南アジア地域の水産統計書の作成準備、また、訓練部局に関しては機構の点検と改善、調査研究業務の強化、訓練のための教科書の作成、調査研究報告の出版など、多くの問題を協議し実施に移された。

何一つ進まなかった混乱期の時の雰囲気とは打って変わって、物事は次々と提案され、提案事項は実施される空気に変わった。タイ水産局やカセサート大学(国立農業大学)・チュラロンコーン大学(国立総合大学)などとの関係も緊密化した。FAOとの共同セミナーなども度々行われるようになった。とりわけタイの海洋漁業研究所(Marine Lab )との Mini computer による共同研究が増え、個人的な話になるが私は連日夜半まで Computer program を書いたりした。

訓練生待遇問題も改善され、宿舎での食事もタイ食(唐辛子などの香辛料が多い)・フィリピン食(香辛料が少ない)・回教徒食(獣肉類は回教徒が儀式に従って屠殺した鶏や羊など)3種が出されるようになった。食事など大した問題では無いように思われるかも知れないが、訓練生の宿舎生活のムードは母国を離れて留学している者にとっては精神的に大きな問題であり、教育に影響していた。

その後1984年迄の8年間に亘り私は次長として在職した。その間、日本人職員は最多時は13名、JICA派遣者の事務補佐としてJICA職員、事務局の任務である「南シナ海漁業統計年報」作成のための日本人専任職員などが増えた。なお、英文編集専任の英米人(女性)職員なども確保し、一応は国際機関として必要な各種の業務報告書、研究報告、技術啓蒙冊子などの出版物の編集や発行も一歩一歩形が整ってきた。

任期の最後の2〜3年間は出来るものから業務責任者をタイ人に移行させ、小型まき網実習船の船長は訓練生を卒業した後も部局に残って仕事をして居た優秀なタイ人を当てるなどはその一例である。漁船では船長以上に重要で高度の技術を要する漁労長などの日本人職員はこれら船長職のアドバイザーとして常に付き添い、タイ人の「船長兼漁労長」として彼自身で独立運営が出来る体制に漸次移していった。

若いタイ職員の水準向上のため日本留学も始められた。現在はどうだか知らないが、当時は國からの要請が優先され、国際機関からの留学要請は後回しになり説明に苦労した。

バンコク市内から 40 km 離れた事務局と部局は体制が整い始めるのに伴って各国からの訪問者も増え始め、市内各所との連絡事項も多くなり、万事に付け不便であった。これを解決するため連絡事務所(Liaison Office)をバンコク市内に設け、その利用で事態は大いに改善されることになった。

テブ事務局長就任以降の事務局および訓練部局の運営に関する詳細は本文の趣旨ではないので割愛するが、SEAFDEC全体の抱える基本的な幾つかの問題点の総てが順調に改善されて行ったとは私は思っては居ない。最後に私の在任期間中を通じて感じた問題点を述べるのに先立ち、21世紀に入った現在の人々にはあまり知られていないのではないかと思われる FAOの水産局長 OB のRoy Jackson Report について次項で一言触れて置きたい。

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Roy Jackson Report

 

SEAFDECの在り方に関する基本問題は設立以来、理事会でも議題として取り上げられず、外部の第三者による公平な助言を求めることが問題解決の示唆と端緒となることを我々は期待した。


新事務局長によるSEAFDEC改革の努力

 

も常々事務局が「SEAFDECが一つの統一された国際機関としての格好を付けるための形式的な飾り物」に過ぎず、権限を持たない「一部局に寄生する存在に疑問を持っていた。SEAFDECの活動が活発化し、その存在が外部の世界から認められ、接触が増えれば増える程、この点がますます問題視されることを痛感していた。

テブ事務局長から相談を受けた時、実は私も同じことを痛感していたので、賛意を表し事務局長と共にその具体策の協議に入った。SEAFDEC内に「SEAFDECの組織体制を検討するための研究班」を設ける案を理事会に提示することにし、本案は第9回理事会と第10回の理事会で討議され承認され、実施に入った。USAIDからはこのために約 4.9 万ドルの援助が受けられることになった。

研究班長には前FAO水産局長で既に退職した米人の Roy I Jackson 、メンバーには英人の Mr. Gordon C, Eddie、(UK White Fish Authority, 次長)、なお、FAOの国際法担当官の Mr. Jean Carroiz (スイス人?と記憶。後、FAO水産局長、故人)、若干の事務補助者で構成された。国益代弁の疑いを避けるため故意にSEAFDEC加盟国の人々は避けた。

研究班は3部局を廻って部局長や部局職員から事情を聴き取り、バンコクの我々は前後通算約2ヵ月に亘り詳細な意見を説明した。その結果は、REPORT of the INTERNATIONAL MANAGEMENT STUDY GROUP to the COUNCIL of the Southeast Asian Fisheries Development Center と題して、xii + 161ページに及ぶA4変形版の1979年9月付けの冊子に纏められ、マレーシアのクアラルンプールで同年12月に開催された第11回理事会に提出された。この冊子の配布は性格上、各国理事と関係者の私達に限定されて居り、一般には公開されてはいない。


理事会で無視された改革案

 

Jackson Report と俗称されていた「研究班」の作成したこの報告書の内容は我々現場の者から見ると決して突飛、かつ過激な者では無く、その助言の殆どは事務局長や事務局次長の私などが常日頃感じて居た問題を明確に取り上げで居た。

第9回、第10回の理事会でその活動、すなわち「SEAFDECの組織体制について「研究班」を設け、第三者により実施することが全会一致で承認されて居たにも拘わらず、いざ、第11回理事会に提出して見ると、Agenda から外され本件に関する Agendum は完全に無視されてしまった。本件の議題に入った際は説明するため Jackson 氏は議場の開催されたホテルに待機して居たのである。

また何故この議題が取り上げられないかの討議も説明も議長からは無かった。「討議に値しない内容」という複数の理事の声が噂として流れていた。実施を決めておいていざとなると無視し、理由も述べず一言の説明も聞こうとしない。扱いは Jackson 氏 に対しても余りにも非礼である。温和な事務局長は内心では煮えくり返っていただろうが、冷静を装っていた。理事会の指示を受けて業務に携わるのが事務局長の立場である。

Jackson 氏は事態をどう受け止めたかは知らない。パーティの開かれている最中、別室で我々に報告書作成の協力を謝し、「これにメゲず努力を続けることを期待する」と言い残してホテルを去った。失望感だけが我々に残った。

私が思うに報告にはかなり具体的なことが細かく指摘されて居り、これらの各論は、何処にでもある「総論賛成、各論反対」と言うことで無視されてしまったとも言える。また当時はASEANがようやく軌道に乗り始めた頃で、21世紀に入った現在とは違い、東南アジア諸国は地域の大同団結より、未だ各国の利益の域内競争が遥かに強かった情況にあった。また、自分達の國に経済的、労力的負担の掛かる案は遠ざけられ、先進国からの援助獲得ばかりに眼が向いていた時でもあった。

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SEAFDECの基本的問題

 

に感じていたことの一つは、SEAFDECを外部の第三者に説明するとき、部局名称と活動内容が一致していない点であり、必ず「何故誤解を招く名前にしているのか?」と聞き返された。具体的に言うと、フィリピンのAQD (Aquaculture Department、養殖部局)を除き、タイのTD(Training Department、訓練部局)は水産業全般の教育訓練を行なっている訳ではなく、海面漁業に関する訓練を行っていたし、海面漁業に関する調査研究も行っていた。当然、Marine Fisheries Department 「海面漁業部局」とすべきである。シンガポールのMFRD (Marine Fisheries Research Department、調査部局)は水産物加工の教育訓練を行っていたから当然、Seafood Processing Department 「水産物加工部局」などとすべきであろう。

名前を聞いただけの人はTDは水産業全般の教育訓練を、MFRDは水産業全般の調査を担当していると思うのはむしろ自然である。この不適切な名前の経緯にはそれなりのホスト国のエゴの対立と言う歴史がある。また「名前など些細な問題だ」と言う人もあろうが、SEAFDECを知らない第三者はそこまでの説明を聴いた時点で「どうして実態に即した名前にしないのか?と直感的に「SEAFDECの仕組みや理事会の意思決定の在り方」に疑惑を持つ。私は何回となくこの質問に出会った。些細な問題ではなく、部局名一つを取り上げてもSEAFDECの抱える問題が現れていると私は考えている。

SEAFDEC設立当初、日本政府はこのプロジェクトを10年位で終結する予定であったと思われる。設立協定 (Agreement Establishing the Southeast Asian Fisheries Development Center)のArticle 17は次のようになっている。TERM OF VALIDITY, This Agreement shall remain in force for ten years and thereafter until all the Members agree to terminate it. 10年を節目と考えていたことが分かる。終結と言う意味は消滅ではなくて、自立させ加盟現地国に渡すことを日本が想定していたことは、当時の日本側の非公式な内部論議から見て間違いない。

10年目に当る理事会は東京で開催されたが、私はその理事会に出席していた。もし、日本政府がそう考えていたのなら設立協定の「終結に関する項」に慎重であるべきであった。上述のように協定では単に終結は「全加盟国が終結について一致で合意した場合」と定められて居り、言い換えれば、「一つの国でも解散に反対すれば、自動的に機関は存続される」ことになっている。二国間・多国間を問わず、世界のこの種の協定としてはユニークと言えば聞こえは良いが、きわめて異例の取り決めである。普通は10年毎に見直すなどとなっている。この条項を批准した以上SEAFDECは永久機関となったのと同然である。良い悪いの問題ではなく、若しそうだったのなら協定を批准する時、もう少し慎重に考えるべきであった。

また、事務局は当初の合意では各部局が回り持ちで担当することになっていた。理事会の議長を務める國を回り持ちするのに似ている。もし事務局がSEAFDECと言う組織を統轄する存在であるならば、部局とは独立した立場になければならない。結局実際にはこの合意は無視されてしまい、現在まで事務局長は訓練部局長と兼務である。元来設立時には事務局はSEAFDECが一つの統一体であることを示す単なる「装飾的存在」と考えられていた節がある。装飾的存在でなく実質的な機能を持つものであれば、数年間隔での回り持ち案など、そもそも出て来る筈はない。

以上述べたのはほんの一例であって、冒頭で設立の経緯を簡単に触れたが、SEAFDECをごく短期間に設立に迄漕ぎ着けたのは良いが、拙速に過ぎた憾み無しとしない。私は当時事に当たった人々を批判して居るのでは決して無い。私が良く知る人々であり、初めて経験する多国間プロジェクトの立案だったから無理もなかったと思っている。しかし、いざ蓋を空けた途端、いきなり混乱の連続に直面することになったのである。

30数年を経過した現在、部局数も、加盟国も増え、設立当時とは東南アジアの国際環境も、水産業自身もそれを取り巻く漁業資源環境も大きく変化している。私の11年間の在任はSEAFDECの歴史の初期の3分の1の期間であり、此処で述べた混乱期の苦悩はそのまた初期の2〜3年間である。それだけの僅かな経験を踏まえただけとは言え、21世紀に入った現状を見て問題なしとは思えない。以下に思い付く点について愚見を述べる。


二国間プロジェクトを数個束ねた今の仕組みの矛盾

 

SEAFDECのTD(訓練部局)はタイ国と日本との、MFRD(調査部局)はシンガポールと日本との、また、AQD(養殖部局)はフィリピンと日本との、それぞれ二国間プロジェクト的な3つ(現在ではその後マレーシアにMFRDMD(Marine Fisheries Resource Development and Manegement Department、海洋水産資源開発管理部局)が1つ増えて4つ)のものをSEAFDECと言う名の下に一つに括って統一体らしい形の国際機関(政府間機構)として存在している。

全体を統括し組織体としての機構上では上位にある筈の事務局は、設立当初部局をホストする国の間で定期的に「交代で回り持ち」する予定であった。言い換えれば固定的基盤を持つ各部局が上位にあり、事務局は部局に寄生する「片手間の連絡業務を担当する存在」と考えられていた節がある。次長としての日本側の派遣の辞令にも部局次長が先に書かれ、事務局次長は兼務として後に書かれて居たことからも上記の思想を窺うことができる。

しかし、外部の人々は当然のことながら Secretariat (事務局)はSEAFDEC全体を管理するものと理解し、タイ国の訓練部局の「実際には付属的存在である事務局」に対し,他部局の問題を Secretary-General (事務局長)に申し入れてくるのが普通であった。連絡係に過ぎない事務局長や Deputy Secretary-General (事務局次長)は該部局に単に取り次ぐことしか出来なかった。他部局の活動や人事、その他の詳細実態は事務局ではきわめて不充分にしか掌握できなかった。明確な事務局の任務や権限が不透明であったから無理もない。

また、事務局を部局間で「回り持ち」する当初の合意は現実には実行されず、タイ国に固定された侭で今日に至っている。もっとも現在では事務局は部局を離れて独立した場所に事務所を構えるようになったし、機能も改善されて来ているように思うが、人事面の兼務は変わっていない。

設立当初の混乱期はこの問題どころでは無かったが、混乱を脱出して正常化し、SEAFDECの活動が前進し拡大するにつけ、事務局長や事務局次長の任務は兼務では済まされないように大きくなって来ている。1975年のテブ事務局長時代以降、現場で働く者としては私の在任中はこの点が大きな問題であり、ハッキリ言って機構上の基本的な矛盾であった。Jackson Report でもこの点は繰り返し指摘している。私も本稿で重複を厭わず繰り返し述べた通りである。

この問題は各部局のホスト国職員や日本人職員の位置付けなどが異なっていることとも関係している。重複を厭わず繰り返し述べると、フィリピンではホスト国職員が正職員であり、政府水産局とは独立した存在であり、日本人職員は Gust と呼ばれ、お客さんである。タイ国では水産局出身者が多かったが、一応政府職員を離れた形である。日本人職員は Instructor (教官)と呼ばれた。シンガポールでは職員は殆ど原産局と兼務で一時出向者であった。職員の給与水準も国により異なった。これらは、少なくも私の在任中はそうであった。

それぞれのホスト国が自国に在る部局の特異性を主張したのでは統一管理は出来ない。統一管理が出来なければSEAFDECは纏まった機関としての存在とは云えないのではないか?Jackson Report が理事会で完全に無視をされた背景にも当時のホスト国の姿勢が関係していると思っている。

 

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日本国内での対応の問題 

 

本国内でのSEAFDEC対応部署は、SEAFDEC理事を勤める水産庁(次長)、専門家派遣母体の国際協力事業団(JICA)の国際機関業務室、および外務省の国際機構課であった(担当の室や課の名前は時代によって変更がある。上記は1982年当時)。

要請文書の宛先は内容によって異なったが、業務打ち合わせで一時帰国する場合、1週間の短時間にこの3ヶ所で同じことを繰り返し説明するのは大変であった。3者間の情報連係は必ずしも万全では無かったからである。

JICAが担当する二国間プロジェクトと異なり、SEAFDECの日本人派遣専門家の置かれた地位は、政府(外務省、水産庁)の指導・管理、JICAの諸規定に沿った管理の外に、派遣先のSEAFDECの服務規定に従って、その指揮命令下にあった。言わば三重の支配下に置かれていた。3者の見解に相違が起こることは常にあって調整に苦労した。

矛盾の典型例はJICAに対する定期的な各個人からの業務活動報告の提出である。SEAFDECの服務規定ではFAOなどと同じように外部に仕事の内容や問題点、得られた成果などを発表する時は関係上司の許可が必要で、勝手に漏らすことは許されていない。初期の混乱期にはこの問題を巡って事務局長との間がギクシャクした。「忠ならんと欲すれば孝ならず」ではないが、双方の信頼関係が良ければ妥協でことは解決できるが、本来、「妥協」の問題では無い。制度・規約の問題である。

JICAの国際機関業務室は当時は派遣に関する事務的業務を担当し、国際機関に対する諸問題の対応は外務省が主導していた。現在はどうだか知らないが、当時は両者間に「シックリしない気持ちが無かったとは言えない」との印象を私が感じたのは、思い過ごしだったのだろうか?

「SEAFDECはどう在るべきか?、現状に改善すべき点があるとすれば何か?」を検討する会議が初期の或る時から暫くの間設置されていた。しかし、この研討会は東南アジアの漁業の実態、捕獲魚種、漁具の実態などの勉強会的な内容で、機構問題に迄踏み込んだ論議は無かったと聞く。数回開催されたと聞いたが形式的なこの会議のその後は聞かない。

 

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SEAFDEC活動目標の明確化

 

項で触れるJICAの評価チーム文書にも明記されているSEAFDECの設立の背景には「1960年代後半、東南アジア諸国で食糧供給の増大及び栄養水準の改善、特に動物蛋白質の供給増大が云々」と説明されており「そのための地域の漁業活動を促進する」ことが設立の動機となったと説明されている。この抽象的大義名分論は誰にも異論はない。

しかし、漁業活動は食料供給だけでは無く、途上国では外貨獲得も大きな使命であり、国によってはむしろこの点を重視していた。各国の養殖業を含む漁業全般の政策とSEAFDECの活動目的を分析し検討するなどの仕事は行われてこなかった。

SEAFDECの各部局の活動計画の策定に当たっては、加盟国の水産担当部署(水産局)との緊密な討議が必要であることは当然である。しかし、個人的レベルではこれが茶飲み話的に行われても組織的には行われてはいなかった。、そう言っては角が立つが、Program Commitee は、部局の発想であり、中には部局長の恣意的なものもあった。国益代表会議のような一面を持つ理事会は、SEAFDECの機構の改善のためのチェックと言うよりも、どう考えれば自国に有利かの方が優先した。

各部局の活動計画の策定は部局のホスト国のメリットを反映し、必ずしも地域全体を考慮に入れたものにはならなかった。


第3者によるチェック機構の必要性

 

でも自分達の仕事上の問題点や成果が挙がらない失敗例を公表する筈はない。SEAFDECに限らず、世界中どのプロジェクトも News Letter などで存在意義と成功例だけを取り上げ、自画自賛式に広報し宣伝する。私自身もかなりの期間そのことに携わってきた。勿論、広報活動は必要なことである。

しかし、Ombudsman ではなく、公表する必要は無いが、内部資料として Outsider (第3者)による「目標設定に誤りは無いか?、成果は本当の処挙がっているのか?、現状に改善すべき点があるとすれば何か?」などについて、機関のチェックをして貰い、反省資料として参考にすることを考えるべきだと私は思う。

既述のように Insider を完全に排除して前後約半年の期日を費やして作成された160ページにおよぶ詳細な Jackson Report は理事会によって無視されたのは残念である。前2回の理事会に於いてこのEvaluation の実施を承認して置きながら、内容を見て無視し、しかも無視した理由も説明されなかった。複数の國の理事の「検討に値しない」と言う「せりふ」は私達の視点とは全く異次元の視点に立っているとしか思えない。

近年、2001年の3月下旬から4月上旬にかけて実施された「東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)に対するJICAの協力」と題する10ページ弱のSEAFDECに関する評価チームの結果がJICAのホームページにPDFファイルで公表されている。私の知る限り、SEAFDECに関するこの種の評価文書は初めてのものである。

時代が変わりつつあることを感じるのと共に、30年前も今も同じ諸問題が指摘されていることを知り、非常に興味深く読んだ。この文書に対する愚見は次項で述べた。

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今後の21世紀のSEAFDECの在り方

 

私はSEAFDECを離れて既に20年弱になる。離れた後も数年前までは殆ど毎年少なくも一回は公用や私用でバンコクを訪れ、SEAFDECやRAPA/FAO、水産局などの旧友と会い旧交を温めて来た。しかしSEAFDECとは個人的、かつ、私的接触であり活動内容や問題点などを突っ込んで話した訳ではない。
現在の情況に疎い私が以下の諸問題を云々するのは烏滸がましい限りであるが、設立以前から傍観者として見守ってきたし、その後の紆余曲折の10年を超える期間をSEAFDECに勤務した経験を持つ者であることに免じて、多くの誤解や思い違いもあろうが、感想を述べることをお許し願いたい。

  1. SEAFDECの組織を崩壊させてはならない日本は現在ODA予算の不足など問題はあろうが、盛り立てる努力に勤めるべきで、短兵急に手を引くことにより機能低下や崩壊の方向に向かうようなことは絶対に避けなければならない。「もう此処迄成長したのだから、そろそろ自分達で自立せよ」と言って協力援助の手を引いた途端に形骸化したり、消滅した例は世界に枚挙に暇がないほど沢山ある。ましてや、世界に例がないほどの数十年に亘る援助をして来たことが水泡に帰してしまうことを恐れる。

  2. 来目標としてはSEAFDECは東南アジア各国の人々自身の手で自立して運営されるべきであるSEAFDECは永久機関であっても、援助国と言う立場から言えば加盟(構成)国の一員としてエンドレスな援助の立場にあるのは不合理であり、世界に例はない。しかし、自立して運営ができる確かな見通しが立った時を見極める迄は援助を続けるべきである。私の諸般の経験と実態から見て、直感的には「今その時が来た」とは到底思えない。今暫くは自立するという目標に向かってソフト・ランディングするための機構の見直しと、経済的・技術的な面で日本(もしあれば、その他のスポンサー国)の援助が必要であると私は思っている。

  3. 務局は部局から独立させるべきであるその理由は縷々述べたので繰り返さない。この際、地理的な所在地は従来通りであっても、事務局長は言うまでもなく加盟国からの互選でなければならない。訓練部局長と兼務である形では事務局長はタイ国政府の推薦者となり、SEAFDECは結果的にはタイ国の主導的組織となり各国の合意は難しい。
    歴史的には事務局の地理的位置はタイ国に固定されて来たが、場所と建物、その他事務局の存在に係わる負担を「何故タイ国だけが背負わなければならないのか?」と言う発言が度々タイ国側から出された経緯がある。地理的位置はタイ国にあっても共同で負担すべきである。

  4. 本人職員の立場の問題次長職を含むJICA派遣の日本人の立場は現行制度では既述のように三重支配を受け、きわめて微妙である。SEAFDECの非日本人上級管理者は、「技術指導者である日本人専門家に対し、敬意を払い、信頼関係がある」との前提の下、「食い違いが起これば話し合って妥協点を見出し解決する」と言うのは元来変な話である。日本人が非日本人の上司の指揮下にあることは機構上明白である。

  5. 務委託事項:欧米社会の政府や会社の管理体制と日本のそれが異なるように、FAOなどではその職に居るものや私などが数次経験したFAOやWorld Bankから Mission member として依頼された場合でも、任務や業務内容に関する Terms of reference (業務委託事項)が詳細に記述された文書に基づく契約がなされる。上司やMission leader は助言はしても業務上の指示は殆どしない。日本社会は日本式の、また、SEAFDECでは各部局はホスト国の管理についての風土(慣習、雰囲気)がある。私は日本人職員は次長職を含め、SEAFDECと言う組織体の一員として、その中に組み込まれた形は不適当と考える。事務局長と対等ないし上位に立つ助言者的立場にあるのが本来の形ではなかろうか?抜本的な設立協定の見直しを考えるべきであろう。

  6. 盟国としての日本の立場 日本は唯一の援助国として参加している。他の諸国は被援助国である。SEAFDECが東南アジア諸国の人々によって自立的に運営されることが可能になる迄、どのような形が好ましいか?、抜本的な改革が必要である。またそれに向かってどのような援助の手順を踏めばよいのか?を計画的に進める方策を一刻も早く研究することが望ましい。ニーズに即した大学から、また、JICAからの短期の技術指導者の派遣の強化、若い現地人職員の日本の大学留学の受け入れ、JICAによる研修者の受け入れなどを強化することは効果的ではなかろうか?なお、大学などは現地人上級職員を客員として招くことも一案であろう。

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おわりに

文の前半に述べた混乱の実態では、敢えて具体的な人名を挙げることは意識的に避けた。30年も前に済んだことを此処で掘り起こして批判中傷することが執筆の目的ではないからである。

私が手元にある在任中の数冊のメモや Jackson Report などを読み返し、当時の記憶を思い出して綴ったが、記憶違いや勘違いがあることを恐れている。読まれた方で気付かれた方は大いに指摘してご教示給れば幸甚である。

敢えて問題点ばかりに重点を置いて述べたが、SEAFDECが当時も東南アジアの水産業に貢献し現地から評価され感謝されたことも沢山ある。10年以上も係わり、多くの知己を得、今傘寿を越える歳になっても個人的にはメールを交換し旧交を温め、郷愁にも似た気持ちを持っている私としては、辛いこともあったが、愛着あるSEAFDECの前進を願っている。

( 完 )

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【 付 録 】

 

現場から上申された主な意見書のリスト

 

  1. 1971/02/16、野村政恒、SEAFDEC訓練部局の活動と問題点。13 pp.

  2. 1973/05/13、真道重明、SEAFDECの現状と問題点、及び今後の対策。8 pp.

  3. 1973/06/25、真道重明、同上続報。11 pp.

  4. 1973/12/07、真道重明、SEAFDECの現状と問題点、及び今後のあり方について。 26 pp.

  5. 1974/03/18、真道重明、問題に対する吾々の理解と現状認識。 11 pp.

  6. 1974/03/30、真道重明、進退伺いと異常事態についての吾々の認識。 6 pp.

  7. 1974/05/26、真道重明、SEAFDEC改組に関する建議。10 pp.


 

東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)

の問題と今後の対策について

( JICA、1949年10月、43 pp. SEAFDEC事務局次長 真道重明)

  1. まえがき
  2. 訓練部局における混乱の実態
  3. 事務局の事態と理事会
  4. 養殖部局(省略)
  5. 訓練部局における内紛の経緯
  6. 問題の所在についての分析
  7. 今後の対応策

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Jackson Report が書かれた時点の関係者人名録

(同リポートにある多数の人々の中、重要な人だけを掲げた)

September 1979

SEAFDEC

Secretariat (Bangkok)

Dr. Deb Menasveta : Secretary-General
Dr. Shigeaki Shindo : Deputy Secretary-General
Mr. Suvat Sansrisombat : Adeministrative Secretary

Training Department (Bangkok)

Dr. Deb Menasveta : Chief
Dr. Shigeaki Shindo : Deputy Chief
Mr. Pookpan Varasarin : Head, General Affairs Division
Mr. Tuanthai Bamrajarinpai : Advisor

Marine Fisheries Research Department (Singapore)

Mr. Hooi Kok Kuang : Chief

Aquaculture Department

Dean Domiciano K. Villaluz : Chif
Mr. Noboru Hoshino : Deputy Chif
Dr. G. F. Miravite : Executive Director

SEAFDEC Council Members

Tengku Dato' Ubaidillah bin Abdul Kadir : Malaysia
Dr. Felix Gonzales ; Phillipines
Dr.Siew Tach Woh : Singapore
Commander Swarng Cherenphol : Thailand
Mr. Takayuki Kimura : Alternate Council Director of Japan
(Director, Multilateral Cooperation Division, Ministry of Foreign Affairs)

Government Officials

Thailamd

H. E. Prida Karnasut : Minister of Agricultuer and Cooperatives
H. E. Dr. Arporna Sribbibhadh : Deputy Minister, ibid.
Mr. Sommai Surakul : Secretary to the Minister.
Commander Swarng Cherenphol : Director-General, Department of Fisheries.

Philipines

Mr. J. A. Aquenza : Assistant Minister, Ministry of Natural Resources.
Mr. Felix R. Gonzales : Director of Fisheries.
Mrs. Elizabeth Samson : Executive Director, Fisheries Industry Development Council

Malysia

Tengku Dato' Ubaidillah bin Abdul Kadir : Director-General of Fisheries
Mr. Wan Awan bin Wan Yaacob ; Deputy Director-General of Fisheries.

Singapore

Dr. Siew Teck Woh : Director, Promary Production, Ministry of National Development.
Dr. Chen Foo Yan : Head, Changi Fisheries Complex.

Japan

Mr. Takayuki Kimura : Director, Multilateral Cooperation Division, Economic Cooperation Breau, Ministry of Foreign Affairs.
Mr. Naoiro Oshida : Multilateral Cooperation Division, Economic Cooperation Breau, Ministry of Foreign Affairs.
Mr. Takashi Hisamune : Vice-President, JICA
Mr. Motohiko Murakami : Head, Office for SEAFDEC Assignment, JICA.
Mr. Michio Maita : Head, Office for Overseas Fishery Cooperation, Oceanic Fishery Department, Fishery Agency. Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries.
Mr. Eiichi Furukawa : Councellor, Embassy of Japan, Bangkok.

Non Member Countries

Mr. J. M. Riddell-Swan : Deputy Director of Agriculture and Fisheries. HONG KONG.
Admiral Iman Sardjono : Director General of Fisheries. INDONESIA.
Mr. Philip M. Roedel : Chief Fisheries Adviser. USAID.

 

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JICAによるSEAFDECに関する評価報告書

 

その後最近(2001年)になって JICA(國際技術協力機構)が18日間に亘って実施したSEAFDECに関する調査報告書が同機構によりWEB上に公開されている。これはRoy Jackson Report のような純粋な第三者による評価ではないが、この種の公開された日本の報告書としては最初のものである。参考として掲げて置く。(PDFファイル形式)。なお、このページは現在はJICAのホームページからは削除されて居る。

JICA Evaluation re SEAFDEC