GENKOU1 (File名)

hanako

部隊の局名は「ハナコ」だった

−軍隊で憶えたモールス信号−

(2003年8月 記)

真道 重明

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軍奇談(←ここをクリック)に書いたように、気象隊だった私は無線交信に使う、いわゆるモールス信号というものを習った。長音の「ツー」と短音の「ト」(トンとも言う)の組み合わせで「いろは」や「ABC」ないし「数字」をコード化して音声で表すものである。教育隊で一通り習った「単なる付け焼き刃」では無く、教育を終わって実戦の勤務に着く頃には皆が熟練していた。と言うのも、これが出来ないと任務を果たせず全く仕事にならないからである。

60年の歳月を経た今でも、幾つかの信号音を聞くと、無意識にその意味が分かる。例えば「 −・・・ ・−・ −−−− 」と聞けば、私の部隊局名(NHKのラジオの東京局が「J O A K」というのに相当するもの)であることが分かる。もっとも、現在、HAM (アマチュア無線)局でもこの私の部隊が使っていたコールサインを局名として発信している処は多分ないだろうが…。ちなみに「−・・・」は「は」、「・−・」は「な」、「−−−−」は「こ」である。従って上述の発受信の局名は「はなこ」となる訳である。この他に「放送局名」、「全局受信せよ」、「送信終了」など、幾つかの信号音は今でも無意識に分かる。

無意識にその意味が分かると言ったのは、「 ツートトト・トツート・ツーツーツー 」や「ハーモニカ・ナロータ・コートーコーギョー」(ハーモニカ、習うた、高等工業)など信号を学習する時に憶えた「音像」や「イロハの語呂合わせ句」などを全く意識することなく、一連の音を耳にするだけで、「自分の部隊局名」であることなどが直ぐさま直感的に頭で理解すると言うことである。

言い換えれば一語毎に「 ツートトト 」や「ハーモニカ」などの形に連想しながら翻訳して後に理解するのではなく、一連の音が何の意味かを即時に「脳が理解する」のである。これらの音を仮名に訳せば「はなこ」である。「はなこ」は私達の部隊の局名であったから、毎日嫌と言うほど耳にする音である。私は数式や五線譜に書かれたものが一種の言葉であるのと同じで、「モールス信号も一種の言葉なのだ」と、遅ればせながらこの歳になって思い当たった。

日本人のことを、「ジャパニーズ(英語)」、「リーベンレン(北京語)」、「サップンニン(上海語)」、「ヤップンヤン(広東語)」、「コン・ジープン(タイ語)」と何語であっても、この音を耳にすると、習い始めならともかく、音声の会話の場合、日常多少は使い慣れるところまでに経験を積めば、それが何語であるか?、その綴りや文字はどう書くか?、などを意識する人は居ない。無意識に脳はその言葉の持つ概念を理解する。モールス信号も同じである。

喋り言葉には人により「喋り癖」があるように、キーを叩くにも癖がある。数千キロ遠く離れた処から発信している人がどんな顔をしている人かは分からないが、1〜2ヵ月も交信していると、「今日は A さんがキーを叩いているなー」と分かる。聞き慣れると玄関に近づく足音で誰だと分かるようなものである。キーを左に押すか右に押すかで、長音と短音を区別して出すことができ指の動きも僅かで済む仕組みの便利なキーの機械もあったが、「ト・ツー」が余りにも正確過ぎて個性がなく、丁度「喋るロボット」の人工の声のようで人間味が無かった。

1999年2月1日午前0時、新しいシステム「全世界的な海上遭難・安全通信システム (GMDSS:Global Maritime Distress and Safety System) の導入により、日本からモールス信号を使用した無線電信は無くなった。ただし、アマチュア無線局 (HAM) だけがモールスによる無線電信を行っている時代となった。だが災害時などで HAM は大いに活躍しているし、磁気嵐などに強く、遠距離からの電波を受けられるこの方法は現在も未だ健在である。

話が本題から逸れてしまったが、問題は「はなこ」という名前である。太郎と花子の「はなこ」である。他の部隊の局名は後で述べるように日本の古語から採ったものが多い。柔弱を戒めた軍隊が何故女性の名前を付けたのか?今もって分からない。漢字で「花子」と書けば、中国の俗語では辞書には無いが「銭を使い果たしてスッテンテンになった人」や銭が無いから「物乞い」や「乞食」を意味する。「花」には花卉の他に「銭や時間を使う、浪費する」という意味がある。

これは余談だが敵の通信は双方血眼になって聞いていたから、本文の気象情報は乱数表で暗号化してあるにしても、呼び出しのコールサインは生文だから、これを傍受した中国の人や軍隊で日本語の分かる人が居たら「日本の乞食が何か発信しているぞ」と手を打って笑ったかもしれない。

軍隊で何時も受信していた局名で今でも憶えているのは「とよはた」と「ありなれ」である。「とよはた」は日本本土の局、「ありなれ」は朝鮮半島の局であった。「とよはた」は天智天皇御製の玉葉集 秀歌選に「わたつ海のとよはた雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそ」を始め、幾つかの歌に出てくる。

広辞苑を調べてみると「とよはた雲」の「トヨ」は美称、 「旗のようになびいている美しい雲」の意とあるから、気象隊には相応しい名前である。「ありなれ」を広辞苑で見ると「ありなれ‐がわ【阿利那礼河】、鴨緑江の古名。近時、新羅の国都慶州付近の北川、古名閼川 (アリナル)とする説が有力」とある。私は軍歌で憶えたこの言葉は鴨緑江を意味していたように思う。小学館の国語大辞典によると、「アリナレがわ(ナレは「川」の意の朝鮮 nai の古形 nari から)。鴨緑江(おうりょっこう)の古名か。〔書紀‐神功摂政前〕」とある。何れにせよ朝鮮半島の気象情報を担当していた局であり、「アリナレ」の局名は妥当と言うか変ではない。

「とよはた」のコールサインは中央気象放送局で、陸海軍共通で日本軍の支配地域内にある総ての観測地点からの気象情報を纏めて定時に発信していた。戦時中は気象情報は軍の管制下にあった。私達はこれに基づいて天気図を毎日数回描いていた。私達の「はなこ」さん部隊の担当区域だった中国南部の情報も、もちろん「とよはた」に含まれていた。それにしても「花子」の名前は軟弱を戒め、万事威厳さを誇示しようとした軍隊にとっては、単なる符号で意味など無いと言えばそれ迄だが、「はなこ」を「花子」と思うのは日本人なら当たり前だろう。兵隊さんは、どう言うわけかこの名前に「何だかホットする」気持ちと同時に「チョット変だ」という気がして居た。

 

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言葉の不思議 

真道 重明

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(2003年10月 記)

 

めに言ことばありき…は新約聖書、ヨハネによる福音書、第一章一節の冒頭に出てくる句で、「神の言葉による天地創造」を説いている。旧約聖書の創世記の天地創造の第一日を指している。この「始めに言葉ありき」の有名な誰もが知る聖句を仮借して、語学教育を云々しては「始めに言葉ありき」、音楽を云々しては「始めにリズムありき」、などと言われたりするが、聖句の深淵な意味は別として、人間の持つ「言葉(logos)」という意志疏通手段は実に不可思議なものであると思う。私がそう感じた幾つかを述べて見たい。

 

CONTENTS

独り言を喋り始める人間 (独りで2ヵ月隔離されると鏡と対話し始める話)

5年間言葉を聞かなかった人 (意味は理解できるが喋り出せなくなる現象)

日本語の会話とは気付かない時 (暫く聞いて居て、「これは日本語だ」と気付く話)

言葉と言語、認識と思考 (「言葉」と「物事の認識・思考・理解」ということ)

 

 

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独り言を喋り始める人間

  独りで2ヵ月隔離されると鏡と対話し始める話

 

「独り言」とは相手が居ないのに一人でものを無意識に言うことである。何かしながら「ブツブツ」言っている。一種の癖であろう。良く聞くと彼がやっている仕事の手順を喋っている。「紙を置いて」と言いながら紙を置き、「その上の真ん中に…」と言いながら何かを置いている。手順を確認して居るのだから間違わないという効果が有るのかも知れない。そうなら結構な癖であるが、聞く方は何だか可笑しい。

電車の最前車両で運転手を扉越しに見ていた時、彼がレバーを引きながら何か喚いている。一瞬私は「この人は常に一人で何か喚いている、気が変なのじゃないか?」と思った。暫くして「信号青、良し」と聞こえた。規則に従って発声によって動作を確認しているのだということが分かった。これは意識的なもので「独り言」ではない。私が無知だっただけである。

普通の人は余り「独り言」は口にしない。しかし、特殊な環境に置かれると先ず皆殆どの人が「独り言」を喋り始めるそうだ。戦前の文藝春秋だったか何だったか雑誌名は忘れたが、以下の話にその現象が書かれている。

戦前サハリンの北緯50度以南は日本領で樺太と呼ばれていた。1938年、女優の岡田嘉子が越境してソ連に亡命した事件を知る人は多い。旧ソ連との国境は境界線を挟んで森林に覆われていたらしい。監視と森林の為の林務官の駐在所が境界線に添って設置されていたという。林務官はただ一人数ヶ月の交代制で任務に就く場合が多かったそうである。

話をする相手の人間はいない。犬に向かって言葉をかけても言葉では返って来ない。殆どの人は2ヵ月もすると鏡の前に立って「おい、元気か?」などと独り言で鏡に映った自分に向かって問い掛けるそうだ。そして「元気だよ。お前も元気か?」などと相手の相槌まで言いながら一人芝居のように話し始めるという。

集団社会の中に生活する人類は孤独に耐え兼ね話し相手を、例え模擬の相手であっても、求めなければ気が済まないのだろうか?これは鏡に映るもう一人の自分に対しての架空の対話(ダイアローグ)であろう。英和辞書で「独り言」を引くと「自分に対して喋ること」とあるが、「なる程」と思うと同時に「何かチョット違う」ような気もする。

衣食住と同様に「言葉」と言うものは「人間の生活とは切っても切れない」ものなのであろう。日本の敗戦を知らずグアム島から1972年に帰還した横井庄一さんなどは島での生活の最後の期間は全く一人だったと聞くが、横井さんも上記の林務官のように「独り言」を喋って居たのだろうか?

 

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5年間言葉を聞かなかった人

 

−意味は理解できるが喋り出せなくなる現象−

 

これは軍隊経験を書き綴った人の文章にあった「ある経験談」である。特殊任務を帯びたその人の部下が今の外蒙古に5年間潜入して、その間一度も日本語を聞いたり喋ったりする機会が無かった人の話である。

任務を終え報告に戻ったその人は失語症のようになって、こちらの話す日本語の意味は完全に理解しているにも拘わらず、日本語の会話が出来なかったそうである。蒙古語はペラペラである。日本語が喋り出せないので当人もどかしかったに違いない。

数日後、彼が永らく入らなかった日本式の風呂に浸かっていた時、ある瞬間に突然日本語が喋り出せるようになり、風呂から飛び出して大声で「喋れるぞ」と怒鳴ったというのである。その時以来彼は全く普通のように喋り出した。周りの人は驚くと共に、何故そのような現象が起こったのか不思議がったそうである。

実はこれに似た話は良くある。ビルマ戦線で軍から離れ、敗戦後にタイ国に入り現地の人と結婚し、かなりの期間に亘り日本語を全く聞くことも無く、喋ることも無かった数人の人達の話である。追跡調査をして居所を突き止めた日本の新聞記者がいろいろ尋ねても、「日本語の意味は理解するが喋れない」そうである。日本人であることが周囲にバレルのを怖れて、故意に「喋れない振り」をしているのではない。何回か記者が面接しているうちに、少しづつ片言の日本語を喋り始めたそうだ。

前の話ではある時点から一挙に流暢に話し始めたが、この例では少しずつ片言を想い出して喋り出したと言う。共通しているのは此方が喋る日本語は完全に理解している点である。

次は私の親しい台湾の友人の奥さんの話である。彼女は子供の時大阪で育ち日本語を喋っていたそうである。しかし、その後は日本語を聞いたり話したりする機会は全く無かったと言う。彼女は私の日本語を完璧に理解していたが、返事はミンナン語(福建省南部の方言、台湾の人の8割はこの言葉が日常語)であり、彼が彼女の返事を私に通訳してくれる。彼女が完璧に理解している証拠に、私のやや込み入った内容の早口の日本語の質問に対し、直ぐさまミンナン語で返事する。一方方向の通訳での会話である。

彼も不思議がって「家内はあれぼど日本語が何でも聞き取れるのに、どうして喋れないのかサッパリ分からん。不思議でしょうが無い」と言っていた。二人の子供さんが出て来て「先生好」(年上に対する「今日は」ぐらいの意味の挨拶、北京語。戦後北京語は台湾の標準語となった)と言う。彼女はかなり北京語は出来るようだった。公共の場所や学校では北京語である。ミンナン語ほどではないが北京語に接する機会は多いからだろう。彼が不思議がる奥さんの場合は特殊な例で、日本語の理解力は極めて高いのだが、言語として「喋る機会が殆ど無い環境に居る」ので、訓練が全然なく、したがって喋れないのだろう。

グアム島のジャングルの中に居た日本兵の横井庄一さんの話は誰でも知っている。彼は最後は一人になって日本語を聞いたり話したりする機会は無かった筈だ。にも拘わらず発見され帰国した時、直ぐさま日本語の兵隊言葉で喋り始めた。このケースは上述の話とは多少異なる。彼は一人で居るときも常に日本語でものを考えていたに違いない。彼の頭の中には日本語しか無かった。蒙古から戻った人も、タイに居た人も、それらの現地語で生活していた。頭の中の日本語は蒙古語やタイ語に置き換えられ、片隅に追い遣られていたのだろう。だから、片隅にある日本語を引き出すには片言で少しづつ想い出す時間が必要だったように思う。横井さんの頭には終始日本語しかなかった。だから直ぐ日本語が出て来たのだと思う。

人間の脳の言語中枢は一体どんな仕組みになっているのだろう?

 

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日本語の会話とは気付かない時

☆ 聞いて居て数秒後にハット「これは日本語だ」と気付く現象

 

あなたは以下のような経験をお持ちでは無かろうか?始めて私がそのことを経験したのは1957年に訪中した時である。上海大廈(戦前はブロードウエイ・マンションと呼ばれ、ガーデン・ブリッジと呼ばれた外白渡橋の北側、蘇州河と黄浦江の合流点に今も存在している。1957年当時、このホテルは今とは違い上海では第一級のホテルだった。今でも老上海(古き懐かしき時代の上海)の老舗ではあるが…)のエレベーターの中であった。

当時は訪中する日本人は友好商社の人か、労組関係の人達、ないし国家が招待した人々(我々も中国漁業協会の招きで講義に行っていた)だけで、一般の日本人の観光客などは無く、日本人に遇う機会は極めて希であった。同行の渡辺宗重先生(北海道大学水産学部長)と私の二人は12階の各自の部屋に戻ろうと電梯(エレベーター)に乗りこんだ。ドヤドヤと数名の宿泊客が同じ箱に入ってきて何やら大声で喋っている。

昇る途中でフット気が付くと大声で喋っているのは何と日本語ではないか。「失礼ですが、日本の方ですか?」と私は愚問を発した。皆が流暢な少し関西訛りの日本語であるから日本人に決まっている。渡辺宗重先生も「オヤッ」とした顔でその人達を見た。話し声を聞いていた先生も何処の国の人だろうと思っていて日本語だとは気付かなかったそうだ。

私達二人はテッキリその人達が日本人であるとは夢にも思っては居なかった。それというのも、中国に入ってから1ヵ月間は日本人には一人も遇っていないのだから。奇遇と言うのも変だが、日本人と分かってからはそんな感じだった。

大声で喋っている声は此方の耳に物理的には入っている。日本語ではないと頭から決め込んでいる私達二人には彼等の話の内容を聞こうとする意志は始めから全く無い。その声は言葉ではなく雑音にしか過ぎない。これが日本国内だったら、特に聞く意志は無くても会話の断片ぐらいは耳に入り、宿泊客か、商用で来た人達か位のことは何となく意識するだろうけれども。

「耳にすれども聞えず、眼にすれども見えず」と言った具合である。そこで私は考えた。此方に興味も関心も無く、聞く意欲が全く無ければ、母国語の日本語でもそれと分からないのだ。

これと同じ経験はその後色々な所、色々な局面で何度も体験した。そしてそれは常に国外である。耳に入る言葉が私の多少は理解できる英語や中国語などの場合でも同じである。ある時は中華料理屋の隣りのテーブルが大いに盛り上がっていて、声高に喋っているし、時々大声で笑う声が響き渡っている。2〜3分して中の一人が「それ、それ」と言う声に気付いた。彼等は日本人で日本語を喋っていたのだ。

その料理屋はバンコクの繁華街のヤワラ地区に在ったが、在留邦人や、まして日本の観光客などは全然来ない店である。客は中国系の華僑ばかりで、中国の方言の潮州語か客家語か何かを喋っているものとばかり、その時私は思い込んでいたのだろう。

此方に聞く意欲が無ければ、相手の言っていることは雑音にしか過ぎない。逆に「先方の言うことをどうしても理解する必要がある」と言う情況下では、理解しようという強い執念?があり、神経を集中している。同じ音声でも「それが言葉であると認識し、その意味を理解しようと努力するから不完全でもその意味を理解できる訳だ」と私は思う。

生れはポルトガル、国籍はフランス、職場の言葉は英語という人とFAOのコンサルタントとして3ヵ月仕事を共にした。彼はドイツ語・スペイン語・イタリヤ語も話すマルチリンガルな人である。或る時、マドラスのホテルで食事をしながらその人に以上に述べた私の経験を話し、同じような体験の有無を尋ねた。彼曰く「ある。ある。良くありますよ。南インドのホテルで白人が数名ガヤガヤ喋っている。暫くしてフット気が付くと、「何と私の母国語と言っても良いポルトガル語」だと気が付いて驚いた。今想い出しても変な気持ちです。まさかポルトガル人がこんなインドの田舎町に居るとは思わなかったからでしょう。その時のことは特に印象に残っています」との返事だった。

聞こうとする意志が無ければ「言葉」も単なる雑音である。

 

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言葉 と 言語、認識と思考 

− 「言葉」と「物事の認識・思考・理解」ということ −

 

音声にして出す言語、手話、数式、音符、モールス信号、これら総ては「言語」であると私は思っている。声に出す「ことば」はその最たるものである。沖縄の方言では標準語を「ヤマトグチ」と言い、英語では言語を「language」と言うが、多分「舌」という言葉に関係がありそうだ。エスペラントでは舌は「lango」、言語は「lingvo」と言うので、これらは皆お互いに関係が在りそうだ…と私は勝手に推測していた。念の為に分厚い英英辞書(ウェブスター)を 引いてみると language の語源はラテン語の tongue 「舌」に由来するとある。声にして出す言語が人の発声機関である「口」や「舌」と密に関連しているからだろう。

「言語」を広辞苑で調べてみると、『 音声または文字を手段として、人の思想・感情・意志を表現・伝達し、また理解する行為。また、その記号体系。ことば 』とある。同じく広辞苑で「言葉」を引いてみると、見出し語にこの漢字は無く、『 ことば【言葉・詞・辞】、意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの。語。言語 』とある。

だから「言語」、「ことば(仮名)、言葉(漢字)」と仮名交じり漢字の日本語で表記すると同じ意味に使われる場合があることが分かり、これでは両者を区別するのに混乱を来たし、私が此処で云わんとすることが難しくなる。

そこで『 始めに「ことば」ありき 』と言う句(この句はエスペラントを習った時やその後英会話を習うために参加した聖書の輪読会で憶えた)を思いだし、広辞苑で「ロゴス、 logos 」を引いてみると、『 ことば、ギリシャ語 logos 』 とあり、『本来は人々の話す「ことば」の意であったが、(1) 意味・論理・説明・理由・理論・思想。(2) 言語。理性。(3) 実体化されて世界を支配する理法。(4) キリスト教では「神の言」すなわち「子なる神」(三位一体の第二位)、Logos 』とあり、(4)は頭文字が大文字の固有名詞である。これらは「言語」より、さらに広義(上位)の概念を指すものであるようだ。

仮名と漢語を交えた日本語で表記すると、「ことば」・「言葉」・「言語」などと書かざるを得ないので、表現法に拙劣な能力しか持たない私には旨く言えないが、「言語」を language 、「言葉」を logos と「書き分ければ良い」のではないか?と(専門家には一笑に付され、無視されるかも知れないが)、私の素人考えではそう思っている。と言うのは言語学者の文に「言葉は道具である。言葉は言語の下位にあり云々」とあり、逆の位置付けをしている人もある。恐らく言葉と言う語を単に意志疏通手段と定義しての話であろう。

人は言語によって「思っていること、考えていること」を他人に伝える。それらの「言語」が人の口から発する音声によるものであろうと、文字・手話・数式・楽譜・モールス信号であろうと皆同じである。相手はそれを受け取って言ったり書いたりした人の「思っていること、考えていること」を理解する。もちろん、いろいろな原因によって理解できないこともあるが…。

我々が「物事を考える」、「理解する」ということと「言葉」や「言語」とは密接に関係しているらしい。それが理論的なものであろうと情緒的なものであろうと同じである。心理言語学者の書いたものに『日本語や英語など、いわゆる「言語」は「言葉と思考」の道具と考えられている 』とあり、ある人は『言葉と思考は、本質的には緊密に結びついている』と言っている。これらの文章では「言語」と「言葉」は区別されて言葉は言語の上位に置かれている。

私達が英語の作文を学んでいるとき、先生から「日本語で考えてそれを英語に訳すな!始めから英語で考えよ!」と良く諭された。慣れない外国語の作文や会話もある水準に達すれば、自然とそうなって来る。母国語を喋っている時、例えば日本人が日本語を喋っている時、だれも俺は今「日本語を喋っている」などと考える人は居ない。外国語も慣れてくれば同じで、俺は今「○○語を喋っている」などと思う人は居ない。

実際に喋っているのは日本語であり、また英語であっても、言語は意識せず、「何を伝えたいか」の内容を意識している。この「内容」が「言葉」であって、この時に声として発しているものは、特に意識はしていなくても、日本語なり英語なりと言う「言語」であると私は理解している。「明日また会いたい」と言うとき、その思っている内容が「言葉」であって、それを他人に伝達する手段が「言語」というものである…と私は思っている。

他の例を挙げると、五線紙の音符を見ているとき、頭に浮かんで来るメロディやリズムが「内容」、すなわち「言葉」であって、五線紙は「言語」である。作曲者が頭に浮かんで来たものが「言葉」であって、それを他人に伝える手段が五線譜であり、これが「言語」である。

5年間聞くことも喋る機会も無かった人が相手の言うことは理解しているのに喋ることが出来ないという話も、「言葉」は分かっているのに「言語」に変換出来ないと言う現象だと思う。フット気が付くとそれは日本語だったと言う話は、此方に聞こうとする意志が無ければ「言葉」も「言語」も単なる雑音にしか過ぎない例で、「言語」に気が付いた途端に「言葉」を解する例であると思う。

この私の考えは間違っているのだろうか?ご教示願いたい。

 

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Palilanguege

パーリ語のお経 

− タイ国で憶えた南伝仏教パーリ語のお経 −

真道 重明

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(2003年10月 記)

承知の通りタイ国はミャンマーやスリランカと共に大の仏教国である。それらは中国を経て東に伝わった東方仏教(大乗仏教、マハーヤーナ)ではなく、釈迦の説いたより本来の姿に近い原始仏教を色濃く伝承する南方仏教(小乗仏教、ヒーナヤーナ)である。また大乗(優れた乗り物)や小乗(劣った乗り物)という言い方は「大乗の側から言い出した差別語だ」というので、今では南方仏教とか上座部から派生した諸派仏教と呼んでいる…程度の話は、良くは理解できないが、私がタイ国に仕事で赴任する前から聞いたことはあった。

家に仏壇はあるが、仏壇の扉は閉じた侭でお寺でのお説教も聞いたことない不心得者である私が、このような話をするのは僭越の極みであろうが、言葉を通じての好奇心は大いに持って居た。古代インド語を介してタイ語と日本語との間に仏教用語に由来する「奈落」・「夜叉」・「阿闍梨」、その他多くの単語に共通点があることを知ったからである。

それらのタイ語の単語はインドの古代語である格調の高い梵語(サンスクリット語)より、同じ古代語でも庶民の言語である「パーリ(Paali)語というもの借用語が主であることも知った。私が一時その作品にハマッタことのある作家の坂口安吾が東洋大学印度哲学科で哲学宗教書、梵語、パーリ語を勉強したと言うことを読んで、パーリ語と言う言語があり仏教と関係があるらしいことは知っていた。余談だが、安吾という人はそれらを猛勉強して聖人になるつもりだったと言うから物凄い人である。

国際機関での仕事が忙しく、私のタイ語そのものは正式に学習する時間が無かった。そのことは残念だったが、10年余も居て毎日耳にしていたから新聞は読めなくても、簡単な内容の電話を掛けたり、日常の会話ぐらいは何とか喋れる程度である。

普通の人は男の場合「私」のことを「ポム」という。お坊さんは「ポム」とは言わず「アッタマー」という僧侶独特の言葉を使う。「私は…」と言うところを「拙僧は…」というようなものだが、「私は…」とは決して言わない。友人や教え子が短期間僧籍に入る風習があり、お寺には時々行ったし、南方仏教と東方仏教の違いには興味があったので、私のいい加減なタイ語で友人やお坊さんと問答したこともあった。

10年余も居ると、葬儀だけで無く、家屋の新築祝いや船の進水式などには必ずお坊さんを少なくも10名以上は招いてお経を上げて貰う。そのような機会は数知れずあったから、お坊さんの唱える幾つかの言葉はツイ憶えてしまった。

それらの言葉はタイ語では無くパーリ語である。日本で般若心経の「摩訶般若波羅蜜多、マカ・ハンニャ・ハラミッタ」や大悲心陀羅尼の「ナムカ・ラタンノー・トラヤーヤー」と同じように、聞いている普通の日本人には意味は何のことだか分からない。タイ国でも同じで、短期間でも僧籍に入って修行した人は別として、普通のタイ人にはパーリ語の文句は分からないようだ。

しかし、タイ人なら誰でも知っているから「唱える」ことは出来る。その意味が分からない方が返って「有り難みが多い」のかも知れない。呪文と同じである。

私が憶えた文句で今も記憶しているのを少し紹介する。お経を読む前に必ず3回繰り返して唱えるもので、「ナモー タッサ」から始まる。節回しを表現できないのが残念である。日本のお坊さんの読経の節回しに似ている。

ナモー・タッサ・バガヴァトー・アラハトー・サンマー・サンブッダッサー
Namo Tassa Bhagavato Arahato Sammaa Sambuddhassa.

意味は「悟りを開いた人(阿羅漢、五百羅漢の羅漢)である正しく覚った人、かの釈迦牟尼仏を、私は礼拝します」という挨拶であるらしい。だから読経が始まる真っ先に唱える。したがって私は何回も嫌と言うほど聞いたので憶えてしまった。  Buddham

次は三行の句で、どの行も最初の一語が異なるだけで後の二語は同じなので憶えやすい。これも嫌と言うほど聞いたので今でも憶えている。

ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、
Buddham Saranam Gacchaami.

ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、
Dhammam Saranam Gacchaami.

サンガン・サラナン・ガッチャーミ.
Sangham Saranam Gacchaami.

意味は、最初の行が「私は悟りを開いた人(仏陀)に帰依(心の拠り所と)します」。中の行は「私は法(真実の教え、真理)に帰依(心の拠り所と)します」。最後の行は「私は僧(僧団、サンガ = 僧伽。 または、共に歩む人)に帰依(心の拠り所と)します」と言うことらしい。「仏法僧 三帰依」の唱和である。

何度も聞く中にブッダ(仏陀)・ダンマ(達磨)・サンガ(僧伽)などの言葉が出てくるので、仏・法・僧では無いか?と何となく思った。やはりそうだった。現在では、世界仏教者の集いでは、先ず最初にパーリ語のこの句を集まった各国の僧侶や人々が唱和するそうである。

 


 

花田重信氏から、このページの後者の句を閲覧され、パーリ語に興味を持たれてその読経の音声をお調べになり下記を頂いた。Windows Media Player が読める設定でお聞き下さい。花田氏に御礼申し上げます(2009/05/22)。下記をクリックして下さい。

 

此処をクリック

 


  

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難 得 糊 塗

− 黄浦公園で友人から貰った拓本の文字 −

 

真道 重明

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(2003年10月 記)

 

1957年、上海水産学院(.大学)での講義のため3ヵ月近く滞在した上海大廈(戦前名称:ブロードウェイ・マンション)の正面玄関を出て左に向くと、街路を挟んでロシア(.ソ連)公使館が在る。そこが蘇州河に架かり黄浦江に沿った外灘(戦前名称:バンド)の方向に渡る有名な「外白渡橋(戦前名称:ガーデン・ブリッジ)」の北詰めである。その橋の袂(南詰め)に在るのが「黄浦公園(戦前名称:パブリック・ガーデン)」である。

黄浦公園は日本人の観光スポットにはなっては居ないが、老上海 ( Old Shanghai ) 時代の逸話が多い場所の一つである。上海にはその後1983年以降度々訪れたが、橋は近年架け替えられ、公園も最近では1957年の頃より綺麗に整備されて居る。

1989年に訪れたとき、32年前に上海大廈から近いその公園に良く散歩に行ったことを想い出して懐かしくなり、その後どうなっているのか見たくて、休日の午後、買い物帰りに、東海水産研究所の D.R.氏と一緒に立ち寄ってみた。

D.R.氏は「面白いものがあるから貴方にあげましょう」と言って椅子から立ち上がった。暫くして戻り私に一枚の紙を差し出した。見ると四個の文字を書いた拓本である。白抜きの文字は達筆過ぎたが、とにかく「難得糊塗」と読めた。これが私がこの言葉に接した最初である。「この意味が分かりますか?」と私に問うた。

彼はチョットお茶目な所があってニヤニヤ笑っている。難得(nan2 de2)は「容易に達成できない」とか「貴重である」と言う意味である。糊塗(he2 tu1)は日本語の「胡麻化してしまう、曖昧にして取り繕う」の意味ではなく、中国語では「物わかりが悪い、間抜け、阿呆」などの意で「糊塗虫」は「間抜け野郎」の罵声である(普通は「塗」の字の「土」は無いが、拓本の字には土が在った。どちらでも良いらしい)。

「阿呆に成り切るのは難しい」と言うことになる。「馬鹿になるのは容易ではない」と言うことでしょうと答えると、彼は「対」(その通り)と言ったが、これでは何のことだか分からない。私の頭の中では「大賢は愚なるが如し」、「大賢は大愚に似たり」などの句が駆け回ったが、シックリ来ない。何かの故事成語だろうと思ったが、私の語学力ではこれ以上はこのような古典の難しい句は問答できない。

宿舎に帰って日本育ちで日本で教育を受け、日本語は日本人並みに堪能な某氏に拓本を見せて意味を問うた。「あー此れか」と某氏は言い「私の日本語の能力では説明出来ない」、「中国人は皆知っている言葉だが、私も私なりに私の頭では理解しているが、旨く中国語や日本語で言い表せない」という答である。また「私の理解が正しいか間違っているのかも分からない。皆自己流に解釈して、座右の銘にしている人も多い」とも言う。茶目な D.R.氏は私に大変な物を呉れたものだ。

以下はその後10数年経った今になって調べたこの四字の話である。

17世紀末から18世紀の中頃にかけて清朝時代の文人、鄭板橋が自作の詩につけた表題がこの「難得糊塗」という四字なのだそうだ。この頃、揚州で、伝統や慣習にとらわれず、自由な作詞や書画の活動を行った文人が、鄭板橋と言う人を含めて8人居り、「揚州八怪」と呼ばれて居たそうである。鄭板橋の詩は次のようなものである。

信手墨痕塵外境     秋蘭春竹有星光

無明鏡裏観何物     写得誰図百載蔵

この詩には下記のような「添え書き」があるらしい。

聡明難
糊塗難
由聡明転入糊塗更難
放一着、退一歩
当下心安
非図後来福報也

意味は「賢くなることは難しい、阿呆になるのも難しい、賢いのが阿呆になるのは一層難しい。一歩進んだり退いたり、心静かに先のことを欲張らず、夢想しないで生きて行け」。

また次のような解釈(読み方)もあるようだ。「賢そうに見せかけることは容易じゃない。愚か者のように見せかけるのも難しい。賢い人が愚かに振る舞うのはことさら難しい。一回を譲り、一歩を下がれば、心は安ぐ。幸福になろうなどと考えることも無い」。前項とほぼ同じ意味だと思う。

Web site (網站)で「難得糊塗」引くと、大陸(簡体字)・台湾(繁体字)・日本語のサイトにヒットするものが「出てくるは、出てくるは…一杯ある」。よほどこの句を問題にしている人達(論文・逸話・旅行談など)が多いのに驚いた。中には著書の表題、商品の商標(少し捩って滑稽化・風刺化してある)などなど。特にビックリしたのはポップス(ポピュラー音楽)の題名にしたものが幾つか有る。歌詞に広東語特有の方言文字があるので香港のものかも知れない。

ポップスでは阿波踊りの「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とか、ドリス・デイ(Doris Day)のヒット曲の題名 「ケ・セラ・セラ」 (スペイン語、Que Sera,Sera)と何処か似ている感じがする。

私はこの四字を見て何となく陶淵明の「帰去来辞」(さぁー、さぁー、こんな宮仕えは止めて故郷に帰ろう)の詩や「聊斎志異」を書いた清の蒲松齢の経歴から来る心境と通ずるものが有るような気がしてならなかった。(蒲松齢は優れた才能を持ちながら、立身出世を夢見て科挙の試験に何度も挑戦したが、遂に一度も合格せず、心機一転して後世に残るこの怪奇小説集を書いた)。

「難得糊塗」は老若男女を問わず、中国では人口に膾炙した句であるらしい。興味のある方は一度 ウエブ・サイトで「難得糊塗」とタイプして検索してご覧になると良い。簡体字と繁体字を表示するためのフォントを Download して置くことをお忘れなく。

 

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母校の戦前の留学生

---その人達との出会いと再会、その後の消息---

(2003/11/29)

真道 重明

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母校の農林省水産講習所に在学中、私が出会った留学生の人々の中、特に印象に残り後年再会した人々、在学中は知らなかったがそれらの人々の母国で同窓であることを知り以後親交を深めた先輩の人達の話を述べる。

これらの話の一部は同窓会誌(1995年11月)に発表したが、紙面の制約上言い足りなかった人や内容を大幅に追加して増補した。母国を離れて異国に留学することはその人に取っては人生の大きな経験である。それらの人々が「留学経験をどのように感じ、どのように評価しているか?」は、私個人に取っては非常に関心のある事であった。現在では留学生の数は飛躍的に増大しているが、此処に述べる人達の時期は戦前ないし戦中であり、日本社会の情況は現在とは大きく異なっていた。


目 次

1.はじめに
2.先輩の人達
   (2.1) 黄 文豊 (母国に帰国後、水産界の先達として活躍)
   (2.2) 
王 貽観 (愛情溢れる大人、残念にも紅衛兵には苦しめられた)
   (2.3) 
Kosol Suriwong (門前仲町をこよなく愛されたタイ国の王族)
3.
同期の人達
   (3.1) 
鄭 泰永 (釜山の水産大学の学長を勤めた文学青年)
   (3.2) 
Chrtchai Amatayakul (水産局長を勤めたタイの華族。愛称ブンちゃん)
   (3.3) 
白 爽 (正義漢、上海で消息を知る。北鮮の元山水産大学教授)
   (3.4) 朴 謙会 (済州島の水産試験場長を勤め、ソウルで逝去)
   (3.5) 郭 欽敬 (台湾の水産界で活躍した柔道の強い快男児。)
4. 
後輩の人達
   (4.1) 
袁 幹 (時代の波に翻弄され、最後に名誉を回復した好漢)
   (4.2) 
陳 国相 (尊父は京劇研究家、下宿探しに苦しんだ経験 )
   (4.3) 郭 佛 (郭沫若 中国科学院 初代院長の子息)
5. 
あとがき

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1.はじめに

 

職期間中の最後の10数年間を海外の国際機関へ出向していた私は、30余年勤めた水産研究所を定年で退職した後も、中国や東南アジアを毎年訪問していることもあって、先輩や同期生ないし後輩にあたる戦前や戦時中の母校の留学生だった人々や、当時の日本の植民地から来て、現在は本来の母国の国籍に戻った人々と海外で懐かしい再会をしたり、その後の消息を知る機会がかなりあった。

もちろん、私以外にも同じような体験をされた同窓は無数に居られると思う。私はその中の単なる一人にしか過ぎないが、同窓諸氏から「私の同期生にこんな名前の人がいたが、今どうしているか知っていますか?」と聞かれることもよくある。「その人は元気でこんな仕事で活躍されていますよ」と答えて喜ばれたり、「既に逝去されたが、生前は日本から帰国後は母国でこのような活躍をされたそうです」と答えたことも多い。

私は帰国して退職した後、母校で講師を勤めたこともあり、母校に顔を出す機会が多かったことや、海外で知り合った知人達から部下が留学するので「宜しく頼む」といった私的な依頼や、海外で教えた人達が留学のため来日する人も多く、できる限り世話をしてきたので、現在の留学生の諸事情を知る機会も多い。ときには心の中で、ツイ、昔の戦前の異なった社会環境の下にあった留学生諸氏と対比したくなる。

戦争を境にして日本の国内事情も一変したので、戦前・戦中と戦後とでは、留学生自身も、彼らを取り巻く環境にも雲泥の差があるという点は、なにも母校に限ったことではない。最近では留学生の人数が戦前の数十倍に増えてるが、単に数が増えたという表面的な事柄だけではなく、社会環境や心理的な面で大きく様変わりした。

学生時代に親しくしていた留学生の人達と戦後に海外で再会し、喜びを分かち合いながら昔語りをしている中で、私がハッと気か付いたのは、『留学中、専攻分野はもちろん、日本社会の長所や短所、その他いろいろなことを体験して大変勉強になったが、「日本にいたときは何となく怖かった」という気持ちが常に心のどこかにあった』という打ち明けた本音を、一人ではなくかなりの人々から聞かされたことである。

昔も今も留学生の中には学習よりも日本の生活をエンジョイするために来たとしか思われない人々もいるが、上記の言葉は真剣に勉強に来た真面目な人達で、知日派であると同時に親日派ともいうべき人々からのものである。そのとき想い出すのは、「戦前の日本は留学生を受け入れ、それらの人々を反日の指導者として育成する結果になっていることに政府は気付かず、むしろ恩恵を施していると錯覚していた」という皮肉な言葉である。

昼は水産を勉強し夜は東京外語大の専修科で中国語を習っていた私は、言葉の勉強のためもあって北京から来た2学年下の留学生の陳國相君と下宿を二人で共にしていたが、下宿探しでは「留学生と一緒だ」というと、100回に99回は、先ず咄嗟に断られた。夏の熱い中を3ヵ月掛けて今の江東区一体を駆け回った。

ヤットのことで見つけた深川の三好町の下宿でも、当時「特高」と呼ばれていた特別高等警察が月に二度は私を含めて必ず行動調査に来たことである。被疑者扱いの訊問ではなかったが、雑談のような会話で様子を見に来ていたのだ。彼がカメラを買ったと口走ったときには、本署まで呼び出されて「何時、何処で何を撮ったか」を根掘り葉掘り聞かれたと彼はボヤいていた。留学生は総てスパイ容疑者だったのである。

もっとも、戦後国家公務員として1957年に国交未回復の中華人民共和国へ視察と講義に数ヵ月赴いた時も、帰国後に公安当局から「多分洗脳されたかどうかをチェックする」ためだったのだろうが、大臣命令の公務出張だったにも拘わらず半年間は尾行された位だから、まして上記は戦時中のことでもあり、当時の日本社会にとっては、そのような監視は「当たり前のこと」だと私も周りの人々も思っていた。当時、私は愚かにも「彼の立場に立って考える」という思慮はあまりなかった。しかし、彼にとっては枚挙に暇がないほど体験した留学中のこの種の経験は決して愉快なことではなかったに相違ない。

紹興酒で有名な浙江省の紹興で生れ「阿Q正伝」の名作で誰でもが知る中国の文豪、魯迅は1902年に日本に留学したが、彼の日本の関連する多くの著作からも戦前の日本へ留学した人々の心情が如実に表現されている。なお、戦前の留学生は中国からの人が過半を占めていた。私は何もここで日本の本当の国際化とか異文化間の摩擦問題、ないし明治以降の日本人の歴史認識、蔑視問題などを論ずる気持ちは無いし、また本文の目的でもない。ただ、私なりに外国籍、または戦後に母国が独立して今は外国籍となった同窓生について、体験したこと感じたことを述べようと思う。

ただ、断っておきたいのは上述の「留学生を受け入れ、これを反日の指導者に追い込んだ」というのは学校に問題があったのではなく、当時の日本社会、それを指導した軍部や政府に問題があったのであって、留学生本人が学校や恩師に感謝していた人が多く居たことは上記の魯迅の著作にも滲み出ている。

同窓というものは日本人学生と留学生とを問わず、たとえ、それが数ヵ年という短期間であったにせよ、多感な青春期に机を並べ、一緒に笑ったり泣いたり、ときには喧嘩し合った生活を共有する時期を持ったという絆は、各人の持つ思想や信念の如何を問わず、精神の別の次元で心の内面に大きな影響を与え、反戦論者が旧友と一杯飲んで共に軍歌を合唱するのに似て、「苦楽を共にした懐かしさ」は一生頭から拭い去れない。これは洋の東西を問わず同じである。留学生の場合、この感情は卒業後に逢ったそれらの人々との出会いを通じて、多くの場合、むしろ一層増幅されているように私は感じている。

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2.先輩の人達

 

2.1 黄 文豊  ホワン・ウエンフォン (故人、昭和5年、講習所32回卒)

(名の文豊の豊の字は正しくは「さんずい」偏がある)。

が始めて会ったのは今から38年前の1957年10月初旬、沈陽(旧満州の長春)の駅頭である。冒頭でも触れたように、視察と講義のため中華人民共和国を始めて訪れた際である。ホームに下り立って握手を交わした。私は借り着の厚い中国式の綿服姿、黄先輩はメガネを掛け背広姿だったので出迎えた人々や新聞記者が黄さんを日本人、私を中国人と取り間違えて、大笑いとなった。まだ日本人の訪問者は極めて少ない時代である。「水産の漁撈32回です」というのが最初の言葉であった。今は大学となり、同窓間でも「講習所の32回です」というところだが、当時は水産の学校は少なく、同窓間では単に「水産」といえば講習所のことだったから、憶えていた口癖が出たのだろう。

中背でどちらかと言えば痩身、きわめて闊達な人柄で、講義をする上海水産学院(現、大学)で私の講義の世話をして頂く手筈になっており、上海までの視察や講義が終わる12月まで一緒だった。話をするときは口より手足や体を振り回す大げさなジェスチャーが忘れられない。当時、すでに中国の水産技術者としては名が通っていたが、後年、同氏の大げさなジェスチャーを想い出し「黄さんは口より体で話をする」と私が云った途端、皆が笑いながら手を叩いて「その通り、その通り、黄先生は話に夢中になると口より手足が動いた。」と皆が云う。同氏のこの癖は仲間内でも有名だったようだ。

後年は福建省の水産局長を長く勤められ、退職後も局の顧問として活躍された。私がタイのバンコクでSEAFDECの本部次長をしていたとき、福建省東南アジア視察団長として来訪、再会を喜び各地を案内した。SEAFDECやタイ政府の招宴で約30年ぶりで数回食事を共にした。70歳台の後半という歳にも拘わらず矍鑠として、往年の上海での私との出会いをよく記憶しておられ、その旺盛な研究意欲には感心した。

タイ政府水産局の招宴の卓上にアワビ料理が出た。黄さんは日本語で「福建語ではアワビは「パオ・ヒー」と言い高価な海珍品です」と云う言葉を私はタイ語に訳してタイ政府水産局に伝えた。福建語と言うのは正確には「ミンナン語(福建南部方言)で台湾でも多くの人が使っている。サバヒー・ライヒーなど「魚」の字は「ヒー」と発音する。パオ・ヒーの漢字は鮑魚である。

タイ政府水産局の人々は笑いを我慢していたが、耐えきれず誰かが爆笑した。タイ語で「ヒー」は女性の局部である。「パオ」は火葬で「焼く」の意味である。パオ・ヒーは従って「女性の局部の丸焼き」の意味となる。またこれを黄さんら中国の人々に伝えたら、今度は中国人一行の爆笑となった。

その後も中国の水産関係の諸出版物で同氏が全国の水産技術の会議の議長を勤めるなど、大いに活躍されていることは知っていたが、「是非、福建省にも来てください」とう約束も果たせぬまま、数年前に逝去されたことを上海で知った。

 

2.2 王 貽観  ワン・イークァン (故人、昭和12年、講習所39回養殖科卒業?詳細不明)

戦前の日本水産学会誌に、恐らく始めての外国人の論文投稿者はこの人である[王貽観、日本水産学会誌、6 (4) p.175-178, 1937 (11) ]。「瀬戸内海に於けるマダヒのStockに関する一二の知見」と題した論文を発表した王貽観氏は、単に同窓としてだけではなく、母校の恩師であり初代の同学会会長でもあった故田内森三郎先生の薫陶を受けた人で私にとっては兄弟子に当たる。同氏は田内先生からは特に愛され、同先生宅にもよく訪れ、家族の方々も王氏をよく知っておられた。帰国後同氏の写真を先生宅に持参したら、「よく家に遊びに来た王さんだ」と家族の皆さんからとても懐かしがられ、喜ばれたことを憶えている。

始めての出会いは1957年の9月末で北京の水産部(水産省)である。勤務先の上海水産学院から出迎えのためわざわざ来られた。大きな体躯に温厚な笑みを湛えた大人といった風貌の人で、上海での講義の際には大変お世話になった。母校や日本の現状をいろいろと聞かれ、母校での留学当時を懐かしんでおられた。

同氏の父君は清朝時代の遺臣で高官として福建省に赴任しておられ、同氏は福建省で生まれたので筆名を「ミン生」(ミンは門構えの中に虫と書く。福建省の古称、「ミン生」は福建生れの意)としたと聞いた。家柄から分かるように古典には造詣が深かった。私が呉承恩の西遊記の原典を探していると聞いて、ある日「弼馬温を知っていますか?」と私に訊ねられ、「孫悟空の天界での職名でしょう。悟空は何も知らず職に就いたと喜んだが、天界の仲間から厩番のことだと言われて怒り暴れ出したのでしょう」と答え、「大閙天宮」(悟空、天帝の世界を大いに騒がす)の話でしょうと云ったら、翌々日に私の机上に呉承恩の西遊記の原書(定本、上下2冊)が置かれてあった。王氏は町中を2日間探し回って私のために買って来られ、痛く恐縮したことを憶えている。

私が訪問した当時は反右派闘争が開始され始めた直後で、その後、中国社会は大躍進運動から文化大革命へと極左的傾向が強化され紅衛兵が跋扈し、全国の技術教育は停止状態となり、同大学も上海から厦門(アモイ)に下放を命じられ、中国が開放政策に転換するまで、大変な時代を迎えることになったが、同氏は封建時代の象徴ともいうべき清朝の遺臣の高官の子であるというだけで、苦難の時期を迎えられたのではないかと私は心配であった。後年になって文革時代のことを根掘り葉掘り訊ねるのは、相手の人々に苦しかったときのことを想い出させる気がして、多少は遠慮したが、「王貽観先生は苦労されたのでは…」と訊ねると、「故人になられたが、狂気の時代だったので王教授には気の毒であった」と某氏から聞いた。没年などは知らない。日本を愛した同氏の冥福を祈るのみであり、惜しまれてならない。

王貽観さんのことに就いては後日談がある。1996年(平成8年)に突然電話が掛かって来て、中国語で「私は王貽観の弟です。兄が生前大層お世話になったことを知っております。お元気ですか?」と言う内容であった。「何処から電話をお掛けになっているのですか?」と訊ねると、日本の長崎県の豪斯登堡、荷蘭城からです」とのこと。余りにも突然でシドロモドロの中国語で私の住所を知らせ、手紙するように頼んだ。豪斯登堡はハウス・テンポスだと言うことは察しが着いたし、荷蘭はオランダのことであるから間違いは無い。

間もなく手紙が来た。弟さんは北京の中央ラジオ局所属の民族音楽院のチーフを勤められて居り、何処で探したのか私の東京の電話番号を知って居られた。ハウス・テンポスで公演があり来日したと言う。その後数回手紙の往復があった。留学中に妹尾次郎先生(私も海洋生物観測法を教えて貰った恩師)と親交が在り、王貽観さんとのツーショットの写真なども同封されて居た。

早速、妹尾先生に連絡し、軽井沢からご返事を頂き、北京に送った。弟さんは数回公演のために来日されたらしい。ハウス・テンポスが最後の来日であった。その妹尾次郎先生も先年逝去された。弟さんは定年で引退され、その後の連絡は途絶えた侭である。

 

2.2 Kosol Suriwong  コーソン・スリオン (故人、昭和18年、講習所10回専攻科製造卒)

私より1学年上の製造科に選科生として居られたように記憶するが最近の同窓会名簿では10回専攻科となっている。本科製造科43回生(昭和16年)に当たる]。タイ国から来日した水産留学生としては最も初期の人に属する。タイ国の現チャクリ王朝のモムチャオ(王の孫の官位で王位継承権を持つ人の称号、継承権16位)の王族で、タイでは英語表記の際は“Prince Kosol”、タイに駐在する日本人は「スリオン殿下」と姓の方で呼んでいた。

学生時代には私とは科が異なるので、数回話し合った程度であったが、門前仲町で遊ぶ方も仲々のものだったと聞く。日本人の同級生仲間での綽名は「タクワン殿下」。何故タクワンなのか?沢庵和尚の沢庵に由来するのか否かは知らない。皆から好かれ愛称の感があったようである。

私がコーソンさん(タイでは「さん」などと呼ぶのはおそれ多く「殿下」と云うべきだろうが)と良く知り合ったのは1966年のFAOのトロール作業部会の第1次会議がタイのバンコクにあるRAPA/FAO(FAOアジア極東事務所)で開かれてから後、特に1973年にSEAFDECに派遣されてからで、通算16年の期間であった。農業協同組合省の水産局の配下にある加工技術研究所長であったが、公式行事では同省では大臣より右翼の「第1位最右翼の席順」だった。身分意識の強いタイ社会としては、高い身分にも拘わらずきわめて庶民的な人柄で、別け隔てのない気さくな処から職員からは非常に親しまれていた。

第1夫人は日本人の女傑で日本語学校を経営して居られた。第2夫人はタイ人で、日本大使館主催のパーティには第1夫人を同伴、タイ国政府の行事にはタイ人の夫人を同伴して居られたらしい。モムチャオ(王の孫の官位で王位継承権を持つ)と呼ばれることは上に述べたが、コーソンさんの顔付きはラーマ五世か六世か忘れたが、その肖像画とそっくりであった。ちなみにプミポン現国王はラーマ九世である。

母校に近い「辰巳の羽織り芸者」で有名な門前仲町の花街のことには詳しく、どの道を曲がると何という店が在って・・・と、当時の仲町の地図は掌を指すように憶えて居られ、懐かしがって何度も話を聞かされた。宴会で酒が入ると「色が真っ黒けでヨゥー、眼が光るヨゥー」と私と肩を組んで母校の蛮歌を唄い、「この文句が好きだよー」とのたまう。日本式のカツ丼が大好きで、数度ピヤタイ路の拙宅に来訪、自ら鍋や包丁を取って料理し、「次回はうな丼だ」と張りきっておられたが、これは果たせぬままになってしまった。

1993年にバンコクを訪問したとき、久し振りで逢いたいと思ったが、晩年の彼の面倒を見ていた私の知人であるタイの友人から「体調が悪く寝たきりなので逢わない方がよい」といわれ遠慮した。その後暫くして逝去された由。退職後に夫人を亡くし気落ちされ、最近は人にもあまり会われないようだとは聞いていたが、こよなく日本留学時代の東京の門前仲町と隅田川の花火を愛したコーソンさんには遂に遇わずじまいになってしまった。

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3.同期の人達

 

3.1 鄭 泰永  チヨン テユン (故人、昭和19年、講習所47回養殖卒)

養殖45回として入学した鄭泰永君は韓国テグ(大邸)の出身と記憶している。病気で2年遅れて卒業したので、名簿には47回となっている。当時はもちろん日本人の立場で留学生ではない。私の記憶に間違いがなければ黒川という日本姓を無理やり押しつけられていたようだが、クラスではだれもその日本姓を呼ばず、鄭(テイ)君で通っていた。本人もそれを喜んでいたと思う。姓名やそれに係わる本貫(族譜)を命より大事にする民族性を持つ人々に、世界にも例のない「創氏改名という日本語の氏名に改めることを強制する」という馬鹿げた政策をなぜ取ったのか、無知という外はない。

海軍が赤道までの太平洋海洋一斉観測を民間のキャッチャーボートを使って実施するというので、その作業員アルバイトの募集があり、クラスの3/2が応募した。彼も応募し「アポロンの下、トリトンの音を聴く、鳴呼、南の海」と喜び勇んでいた。彼は文学青年のような面があり、またロマンが好きでよくこのような言葉を口ずさんでいたのに、彼だけが海軍からの採用通知が来なかった。春休みなどで故郷に帰る際、東海道線の車中で特高の検問に引っ掛かることも多かったようである。

当時、朝鮮半島から来る学生の多くはそういう経験があったようである。服装の何処にも他の日本人学生と変わりが無いのに、どうしてだろう?「俺の何処かに見た目で変わった所があるか?自分では分からん」と漏らしたのを私は今でも憶えている。無論、特高がどうして見分けるのか誰にも分からなかった。しかし、このこと以外は、私の知る限り、一切そのような話を口にはしなかった。今思えば内心ではどう思っていただろうか。

一年生の終り頃だった、彼と飲みに出た。黒船橋の袂、門前仲町寄りに「春香・チュン・ヒャン」と云う小さな店に入った。店名は春香伝から取ったものに違いない。「水オイ・キムチ」が美味いと云う。今でこそ日本では大流行のキムチであるが、戦前にはキムチを知っている人は少なかった。今でも水キムチ(ムルキムチ)は日本では余り知られていない。オイは胡瓜である。

どうして私がそんな知識を持っていたかと云うと、岩波文庫の金素雲の朝鮮民謡選や金達寿(作家)の本を時々読んでいたからで、私自身も何故そんな本を中学時代に買って読んでいたのか分からないが、そんな話の遣り取りから鄭君は「飲みに行こう」と言い出した。読んではいたが実際のキムチを食べたのはこの時が最初である。客は今で言う「在日」の人ばかりだったのだろうが、その時には彼と私だけで、他に客は居なかった。今思うとこんな店が仲町に在ったのが不思議な気もする。

卒業後始めて鄭泰永君と逢ったのは1964年10月に彼が東京オリンピック見物を兼ねて旧友に逢いに来た年で、上京の途次立ち寄ると事前に連絡があったから、長崎の西海区水研にいた同級の(故)木部崎君と私の二人が博多駅まで迎えに行った。長崎までの車中談義は尽きなかった。拙宅に1、2泊して木部崎君と共に研究所や長崎の市内見物に案内し、それから彼は東京に発った。社会情勢は両国とも大きく変わりつつあった。その翌年の1965年6月には日韓の国交が回復した。

第2回目に彼と会ったのは、国交回復の翌年の1966年7月初旬のプサン(釜山)であった。私が日韓漁業共同委員会の第1回会議に日本政府随員として訪韓し、2週間程度を予想していたソウルでの会議が仲々折り合いが付かず、会期を1ヵ月延長してヤット決着、その帰途に釜山にあった政府の水産振興院と釜山水産大学に立ち寄ったときである。同大学は戦時中にできた釜山水産専門学校が下関に引き上げ、第2水産講習所(今の下関水産大学校)となったとき、釜山に残った施設や職員が母体となってできた学校である。彼が確かその学長になった直後であったように記憶する。

「鄭、偉くなったなあー」といったら「苦労が一つ増えただけだよ」といってから、学生時代の思い出、その後の日本の様子についての立て続けの質問、話は尽きなかった。「今夜は俺の家に泊まれ、一杯飲みながら話はまだまだある」という言葉に甘えて、近代風ではあるが、オンドルのある部屋に私は生まれて始めて泊まった。夫人がお酌しながら、しげしげと私の顔を見て、彼と何か喋っている。「私の顔に何か問題があるの?」と訊ねると、鄭君が笑いながら説明してくれた。「彼女は始めて間近でツクズク日本人の顔を見て驚いているんだよ」と云う話である。

「日本人は鬼の様だと教えられていたのに、この人は韓国人と少しも変わらないねー」といってビックリしてるんだよ…」という彼の言葉に私の方もビックリすると共に「そうか、聞いて居た話は本当だったんだ」と考え込んでしまった。戦後20年目のことである。昔は沢山いた日本人は殆ど敗戦で日本本土に引き揚げて、この当時はきわめて少なかった時代で、夫人は日本人を間近に良く見たことがなかったのである。日本が朝鮮半島を植民地にして、「鬼のように残忍で怖い倭奴(ウェイ・ノム、日本人に対する蔑称、恐らく巡査か憲兵を指したのだろう)が来るぞ!」といえば泣く児も黙ったという話は嘘ではなかったのだとつくづく思った。

日韓漁業共同委員会では情況や立場もあり、私語としても閔妃事件、日韓併合問題、万歳(マンセー)事件などの歴史的過去の話は、双方共に意識的に避けていた。外交というものは難しいものである。日韓漁業共同委員会はその後、東京とソウルで毎年開かれ、私は第5回会議まで連続参加したので、1年置きに釜山を訪れ彼に会う機会に恵まれた。

同級生の滋賀県の醒ヶ井養鱒場長を長年勤めた鎌田淡紅郎(カマタ・トキオ)君は彼と親交が深く、手紙の遣り取りばかりでなく釜山の彼の家を訪れ泊まったりして居る。同級生と云うものは、例え民族は違っても同じ同級として、同じ人間としての絆で結ばれて居ることを強く感じる。筆無精の私は最近では手紙も出さずじまいで打ち過ぎていたが、先年彼が逝去したことを鎌田君からの便りで知った。

それで想い出したが、戦後彼と私が遇う以前にソウルでFAO?の水産会議が開かれたことがあったらしい。この時は前後余り時間が経って居らず、国交も無く日本人は出席して居なかったようだ。鄭君は次項で述べるタイ国の留学生のチャチャイ君が出席しており、「卒業後初めて会った同級生はブンちゃん(チャチャイ君を指す同級生間での愛称)だ」と言ったことである。後年ブンちゃんにこの話をすると「想い出した。日本語で話をしたよ」と笑って答えた。

 

3.2 Chrtchai Amatayakul 、チヤチャイ・アマタヤクン、(昭和17年、講習所47回養殖選科卒)

タイ国から来たチャチャイ君は同級の養殖科だった。当時の名はBoonvichtra(ブーンヴィッチ)で、皆は「ブンちゃん」の愛称で呼んでいた。アマタヤクン(タイ語では語尾の tra はサイレント、また、語尾の「l」は発音時には「n」に変わる)は姓であり、その一族は昔は現チャクリ王朝と並立する地方豪族の一つであった。したがって、現王朝が成立したときに他の幾つかの大豪族は別格の待遇を受け、日本でいえば前田・伊達・細川といった大大名のような立場にあった。実態としては戦前の公家の近衛・鷹司など、ないし、それ以上の家柄だったようである。国王に自ら直接電話して話ができる立場の人は極めて少ないが、彼はその一人である。

なぜ学生時代の名前のブーンヴィッチがチャチャイと変わったかというと、戦時中ピプン・ソンクラム首相の下、タイでは「男子には勇壮な名前をつけよ」というお触れが出た。ソンクラムという首相の姓も「戦う」という意味である。首相は姓まで変えてしまっていた。ブーンヴィッチというのは普通は女性に多く付ける名前らしく、そのため「勇敢」を意味するチャチャイに改名したわけである。このように改名した人は外にも知人に沢山いたそうである。

学生時代の私は、もちろん彼がそんな家柄だとは露程も知らなかったが、裕福な家庭に育ったことは察しが着いた。何かしら私と気が合って、週に1回はその週の講義ノートを持って新宿の国際学友会館に居た彼の所を訪れ、講義で分からないところを説明していた。2年間日本語学校に通って言葉を習っていたとはいえ、華僑など漢字圏の人ではない純粋のタイ族である彼にとって、漢字の修得は容易ではなく、したがって日本での専門分野の講義の理解は大変だと分かったからである。

甲殻類の久保伊津男先生が「タイにはどんなエビがいますか?」と問われ「道路に横たわったときは車が通れないほど大きなのがいます」と答え、先生が驚いたこともある。よく聞くとエビではなくヘビのことだったので大笑いになったことを憶えている。戦時中で甘いものが不足していたが、彼の部屋には故郷の自分の農園から送ってきたマンゴー・ドリアン・バナナといった甘い干し果物が何時もあって、下司な私はそれに釣られて新宿通いをしていた節も無きにしもあらずだったが。

講習所から九大に移られ後年には東水大の学長を勤められた冨山哲夫先生に可愛がられ、彼は講習所を卒業後は九大に進学、日本の敗戦後は直ちに帰国したかったが叶わず、暫くGHQの天然資源局に職を得て、日本に残留していたと後で彼から聞いた。そのとき私は戦地におり、まだ日本本土に復員していなかった。

チャチャイ君は母国に帰った後、タイ政府の水産局に就職、永年に亘って淡水漁業部長を勤め、最後は局長となり退職、今は国立大学教授選考委員会委員をやっている。卒業後、視察で数回日本にやって来て、2回目は長崎で逢い、西海区水研や大村の真珠研の分所などを案内した。彼は「韓国のソウルで先年に国際会議があり、同級の鄭泰永君と久し振りで会った。懐かしく再会を喜び合い同窓には国境は無いことを実感した。話は越中島と銀座のことばかり、お互い日本語で話した」ということも聞かされた。

私は1973年からバンコク郊外の「SEAFDEC、東南アジア漁業開発センター」に11年余の期間勤務し、彼はタイ政府の水産局にいたから、仕事上でも関係が深く、今から考えると同級生としては日本人を措いて、タイ人の彼とが最も長い付き合いのような気がするぐらいである。今でも短期ではあるが毎年同国を訪問する機会があるので、その都度彼の家を訪問している。学生時代はもちろん、こんな因縁になろうとはバンコク赴任を命ぜられる迄は夢想だにしていなかった。

彼の家は上述のような家柄であり、多少彼について色々なことを知っているのはこのような経緯があったからである。最近では事前通告なしにバンコクで電話を掛け、タイ語で「チャチャイさん居ますか?」というと「私です」というタイ語の返事の後、チョット間を置いて私と感付き「おい、チンロー、まだ生きてるよ。いつ来た」と日本語で返事が返ってくる。チンローというのは私の姓のシンドーの訛りで、彼の日本語は相当のものだが、私を呼ぶ場合だけは彼の覚束ない日本語の頃からの私を呼ぶ癖が定着したままで、私はチンローなのであり、「真道さん」は「シンドーさん」では無く「チンロータン」だったのである。

外国人や裕福なタイ人の住むスクムビット路21番街の彼の家は広い敷地内に数軒の建物があり、一生独身を通している彼はその一つに一人で住んでいる敬虔な仏教徒である。10数年前までは各棟に叔母さんや身近な親族が居たが、今ではその殆どが故人となった由。広い客室にある飾り棚には日本の装飾品や魚に関係のある日本土産の飾り物が置かれ、奥にある大きな書棚には私たちが学生時代の古いノートや教科書が宝物のようにきちんと並べられている。タイ語や英語で書かれた多くの書き込みがあるのだろう。

奥の間は寝室で豪華な紫檀を彫刻した寝台と枕や三角柱のタイ式の肘掛け、天井から吊り下げられた蚊帳、まるで王様の寝所である。

話は変わるが漢字圏以外の国から来た留学生は、帰国後、その後の学術の進歩を知るには殆ど欧米語の書籍や雑誌に依っている。沢山の漢字を憶えてこれを読み書きすることは日本文学などを専攻する人達を除くと、日本の言葉はかなり流暢に喋れても、専門書などを解読するまでの語学力を持つものは、例外はあるだろうが、一般に少なくも10数年以上滞日した人に限られるように思う。

したがって、その後の母校がどうなっているのか、学習した分野がどう発展しているのか、などを日本語の文献や雑誌で知ることは非常に困難である。欧米の学校では卒業生のフォローアップのため Newsletter などまで出している所も多いが、日本の場合、これは大きな問題である。彼の場合は帰国後に米国にも留学している。私の知る範囲でも日本留学後に欧米に再留学した人が沢山いる。その動機の一つはこの点にある。

話が逸れたが、元に戻そう。昔は日本にもあった慣習だというが、チャチャイ君は幼い頃、高い家柄の場合は特に多かったというが、女の子に見立てて育てられた。「男の子は神が妬むので夭折する」と信じられ、神を騙すために女子の服を着せられ、女子の歌や踊りを習ったという。彼はタイの古典舞踊や音楽に造詣が深く、自分でも中国の「二胡」に似たシーソーと呼ぶタイ式の胡弓を手放さず、小湊の実験所にまで持って行き、海を眺めながら窓辺で弾いていたこともある。故郷を懐かしんでいたのだろう。

「タイ国の唄を教えろ」と言ったら「スマイー」と云う当時の流行歌を教えて呉れた。後で分かったことだが、この「スマイー」はタイ語ではなく、中国から入ってきた歌であった。「司馬懿」のことである。中国音ではスマイーである。三国の魏の名将の司馬仲達の別名、蜀漢の諸葛亮(孔明)と戦った人の伝記の歌で歌詞は潮州語であった。このメロディーは後年になっても、テレビの時計のコマーシャルに使われている。

タイ水産局創立何10周年かの記念行事が行われたとき、「淡水魚の保護をテーマとする劇」のシナリオを自分で書き、その中の舞踊や音楽は彼自身が振り付けをした。地元のテレビでも放映された。彼自身は画面には出なかったが、普段仕事でよく知っている連中が芝居をし、踊っているのを見た。如何にもタイらしい出来事だった。

1995年7月に会ったとき、「もう最後となるかもしれないから、東京に来年の秋に行きたい」とのこと。退職後にも2回来日しているが、同級生でまた歓迎会をやろう、是非来い」と言い残してきた。果たして彼は来日し、銀座で数名の同級生と歓迎会をした。水産講習所と九州大学で教えを受けた富山哲夫先生に会いたかったが高齢で体調不良だったため、千疋屋の葡萄(巨峰)を見舞いに送りたいと言うので世話をした。富山哲夫先生はその翌年91歳で亡くなられた。

「ブンちゃん」の名で同級生に親しまれ、銀座の和菓子屋をこよなく愛した彼が昨年(2002年)に逝去したことをツイ最近知った。クリスマス・カードが昨年は来なかったので、どうしているか手紙を出そうと思っていた処だった。敬虔な仏教徒だった彼もこの世を去ってしまった。

 

3.3 白 爽 、ペク チョル、(昭和17年、講習所47回漁撈卒)

同期で漁撈科の白爽君とは上海の大学で、わずか2日違いですれ違い、再会して顔を見た訳ではないので、記述を躊躇したが、殆ど同君の卒業後の消息を知る人はいないと思うので、一言、付け加えておきたい。

上記の鄭泰永君と同じく朝鮮族の彼は漁撈科にいた。白村という仮の日本名があったが、皆は白(ハク)君と呼んでいた。2年生のときだと記憶しているが、夏休みを自治寮に残って無聊を託っていた彼と私は、ある日の夕刻に散歩に出た。校門を出て何時もは左に向かい黒船橋の方向に行くのだが、そのときは右に折れて始めてまだ通ったことのない夕暮れの道を涼みがてら真っ直ぐ歩いた。寂しい草っ原の夜道を辿って行く中に、全く突如という感じで明るい繁華街に出た。街家のたたずまいが変である。それが須崎の遊廓であることを彼も私も知らなかったが、それとなく分かった途端、彼の態度と口調が一変した。

「ここは社会悪を象徴している場所だ。文明国に有ってはならない恥ずべき処だ」と興奮し憤懣やるかたない様子に私は驚いた。正義感の強い糞真面目な処があるとは聞いていたが、科も違い普段はあまり話したことがなかった彼の面目をまざまざと見た思いがしたことを鮮明に憶えている。

「2日違いですれ違った」といったが、1957年に上海の水産学院に講義のため私が到着した翌日、「朝鮮人民共和国のウォンサン(元山)にある水産大学の白爽先生が当校に視察で来訪、3日前に帰国されました」とのこと。「真道氏は日本では同期で良く知っている。逢いたいが旅程を守らなければならないので残念です。同氏が見えたら宜しくお伝え下さいとの伝言でした」という同大学の学務課の人の言葉に驚いた。北朝鮮が建国されて後、彼は直ちに共産党に入党、党ではかなりの地位にあり、同大学で教鞭を執っているとのことであった。写真を見たら間違いなく彼であった。

中国滞在中は忙しく手紙をする暇はなく、日本に帰国してから「北鮮宛の手紙は郵便局では受理を拒否はしないが、直接便ではなく、中国を経由する。間違いなく先方に着くかどうかの保証はない」と郵便局でいわれた。筆無精の私はその侭になってしまった。同窓名簿では「生死不明者」の欄に名前が載せられている。

 

3.4 朴 謙会 、パーク・チュンヘ、(昭和17年、講習所47回漁撈卒)

上記の鄭泰永君と同じく朝鮮半島から上京し漁撈科に入学した同期生である。確か私が日韓漁業共同委員会の第3回会議に出席した1968年のことだった。ソウルでの会議が終わった後、済州島(チェジュドー)への視察旅行が組まれていおり、軍用輸送機で同島に向かった。当時、彼は済州島の水産試験場長をしており、我々が訪問することは事前に知らせてあったので飛行場まで関係者と共に出迎えに来てくれていた。

彼にとっては私は卒業後20数年目にして始めて逢った同期生ではないかと思う。飛行場に降り立つと一目で互いに分かった。涙を流さんばかりに握手して再会を喜んだ。二人は興奮していたので夢中だったが、周りの日韓双方の人達は一瞬シーンとしてから拍手が聞こえてきた。感激の場面と映ったのだろう。チョット恥ずかしかった。東京を出発する前には彼に逢うことは全く予想してなかったので、なにも土産を用意していなかったが、自分が使うつもりで東京で買って持っていたパーカーの万年筆を記念に送ったことを憶えている。

翌日の夜、公務の余暇を割いて彼が私的な歓迎宴を料亭で開いてくれた。学生時代の話、漁撈科の友人はどうしているか、学校はどうなっているかなど話は尽きなかった。当時、済州島は規制が厳しく、夜は料亭などは10時で閉めなければならない規則だったので心配すると「紹介を忘れたが、そこに居る人は警察署長だ。国際親善の特別許可、特別許可」と笑いながら夜の深けるのも忘れた。

同君は漁撈同期の山本和平君と親しく、十数年前に、多分彼の定年退職後だと思うが、一度来日して長崎を訪れ、同地で山本君と逢い長崎の楽水(同窓会)有志で非公式な歓迎会を開いたと山本君から聞いている。同期の同窓会では毎年案内は出していたが、最近では「体調が悪く出席できないのが残念。ご盛会を祈る」との連絡が多くなって居たが、その後逝去の知らせがあった。

 

3.5 郭 欽敬 、グェ・キンゲェン(台湾発音)(昭和17年、講習所47回漁撈卒)

台湾から上京し、漁撈科に入学した同期生、柔道の高段者で偉丈夫の郭(カク)君は成績・人柄共に漁撈科クラス内でも光った存在であった。台湾の漁業界でも功績のある有名人、殆ど毎回私達の45期の同窓会には出席、令夫人同伴で出席した時もある。今は会社を息子に譲っていると聞いた。日本人より日本人らしく見える彼はよく来日しており、ご承知の方も多いと思う。

卒業後に私が初めて彼に会ったのは1968年10月、豪州で開催されたIPFC/FAOの第13回総会に日本国代表として出席した帰路、台湾政府の要請、日本政府の出張命令という形で台湾に立ち寄ったときである。

高雄に彼がいるというので同市に着いたとき、公務の余暇を見て前触れなしに彼の会社(会社の高雄支社?)を訪問した。茶目っ気を出して私は丁寧な少し改まった中国語で「貴殿は私をご記憶ですか?」と訊ねた。彼は不審げにしげしげと私を見て、首を傾げ「我不認識呀」(存じ上げません)との答え。

「同期養殖の真道だよ、お久しぶり」と日本語でいったら「アッ、どうも何処かで見たことのある顔だと思った。外省人かと思ったよ。想い出した、想い出した。ビックリさせるなよ。おい、晩飯を食いに行こう、今晩は暇だろう。何でまた高雄に来たんだ?」と、途端に学生時代に戻った気がした。

[台湾では人口で約8割の人が日常は福建南方の方言(ミンナン語)が使われるが、中華民国となった戦後は公式の場では国語、すなわち、大陸の普通語(北京語を基礎とする共通語)と殆ど同じ言葉が使われる。外省人は戦後に大陸から渡来した人を指す]。

大きな料理屋で客一人に一人の美女を侍らせた大歓待を受け恐縮した。美女は階下の広間のガラス越しに「顔見せ」して居るのを客の各自が指名するのである。日本の戦前にあった遊郭の格子の向こうの花魁を選ぶシステムと同じ趣向である。このようなシステムは後年にバンコクのマッサージ屋(ホーン・アブナーム)にもあり、この指名システムは珍しい趣向では無かったが、私は最初の体験で何だか恥ずかしいと云うか、照れくさいと云うか、少しドギマギしたことを憶えている。

熱海や湯河原で良く開かれていた私達の同窓会の席上、彼は「来年(1996年)は台北でやろうよ」と提案、「会場や遊覧は一切世話するよ」とのこと。全員が無理なら有志だけでも…」ということになった。台湾の漁業界では有名なまき網の会社を経営し、大いに活躍した彼も息子さんに代を譲り、楽隠居だと聞いて居たが先年訃報があった。快男児とも言うべき人だった。

 

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4.後輩の人々

 

戦争が熾烈化して来た1941年(昭和16年)頃に知り合った私より下級の留学生には、中国からの陳国相、袁澣、郭佛、ビルマからのタ・ドン・ウなどの人が居る。私は1942年に本科を卒業、引き続き専攻科に進み、母校を離れたのは1943年の「昭和18年学徒総出陣」のときで、専攻科に居たため私が全校の出陣学徒を代表して講堂で「出陣の辞」を述べた。したがって、その後のこれらの人々が母校でどうなったかは知らなかった。陳国相に該当する人やタ・ドン・ウの名は楽水名簿にはない。

恐らく、敗戦の混乱に紛れて記録が逸散したか、手続き無しに突然姿を消して帰国し、記録から抹殺されたのか、いずれにせよ社会は敗戦と云う異常な事態だったから、どうしようもなかったものと思われる。これらの人々の中、ビルマからのタ・ドン・ウ氏を除き、中国の陳国相、袁澣、郭佛の3氏は戦後の生存が確認できた。特に袁澣さんには偶然に、しかも台湾の高雄で逢うことができた。

4.1 袁 幹 、ユエン・ガン (昭和19年、講習所46回製造科卒)2001年楽水会名簿による。

(東京水産大学百年史の資料編では姓名は「袁雅郷」となっている)。

確か一級下の製造科に在籍、卒業または途中から退学して「東大の理学部で生物学を専攻した」と後から聞いて居る。南京の人、筆名は「雅郷」。父は上海で毛皮の貿易商を営んでいたそうだ。兄は重慶大学の教授。私は当時中国語を学んでいたので彼と親しくしており、休暇で彼が一時帰国する途次、当時大阪にあった私の家に泊まったりした。土産に母が乾椎茸を送ったのを喜んでいた。

「幹」の字は「澣」とも書く。楽水名簿では嘗て「袁昌賢」という名前で記載されていたが此れも同氏の別名である。(魚文化録、台湾の水産出版社、2001年版参照)。激動した中国では姓は同じでも雅号や筆名の外に名を変えるケースは多く、大陸でも台湾でも尊敬されて国父と呼ばれる「孫文」が孫逸仙や孫中山とも呼ばれることはご承知の通りである。彼は先年亡くなっており、最近の名簿には逝去者のため出て居ない。

兵役で私が気象部隊として南京に一時駐屯して居た。南京に移動した直後、休暇で外出して市内見物に戦友数名と出掛けた。突然背後から走ってきて「真道さん」と呼ぶものが居る。振り向くと彼だった。「ヤァー、袁さん」と奇遇に驚いた。「是非家に来てくれ。母も貴方の話は知っている」とのこと。戦友と別れて一人彼の家に導かれた。

彼の家は大きな塀に囲まれて居り、粗末な一の門を潜り、普通の二の門を潜ると立派な構えの三の門があり、それを潜った。広大な面積の塀の囲いの中は総て一族の居所で、彼の家はその中心に在った訳である。上品な身なりの老婦人が現れ、彼のお母さんだと分かった。「息子が留学中は大変お世話になったと聞いております。貴方のお母さんから頂いた乾香磨i干し椎茸)は大変味がよく珍味でした」との挨拶。長江(揚子江)を超えると呉音系になるが、南京は漢音系の言葉で何とか理解でき、私も嬉しくなり2時間ばかりお邪魔して、大変ご馳走になった。

帰途彼は街で出会った処まで送ってくれた。その直後、市内巡邏をしている2人の銃を持った憲兵が私を見付け、氏名所属を尋問された。そこは日本兵や日本居留民の「立ち入り禁止の危険地帯」だったのである。「数日前に満州の新京から天津経由で南京に移動してきたばかりだ、行動範囲の指示は受けていない」と言ったら「即刻向こう側の道筋に移れ」と言われ、それ以上は追求され無かった。位は下級でも憲兵は苦手だ。

戦時中、汪兆銘の率いる親日政府の水産局長の職にあったが、同政府は瓦解し抗日を掲げる国民党に敗れた。彼は南京から徒歩で重慶まで行き蒋介石総統に直訴した。大変な苦労であったろうと思われる。結局、彼の釈明が受け入れられ、国民党と共に妻子と離れ離れの侭、単身で台湾に渡った。

その後、台湾で水産学校の教師を勤め、私が上記の、1968年に高雄を訪問した際、同市の水産高校で教職に従事していたので、何処かで私の来訪を知り、上述の同期の郭君の招宴後、ホテルで寝に就こうとした時、突然電話がありホテルの部屋で再会した。全く予期していなかった私は夢かと驚きつつも、互いの無事と再会を喜び合った。

大陸に妻子を残したまま長い年月が経ち、遂に台湾で再婚の決意を固めたこと、兄は共産党に入り重慶大学にそのまま居ることなどをそのとき知った。越中島の話、深川の下宿のおばさんや上野の桜のことなど、夜遅くまで話は尽きなかった。がんらい彼は文学の素養があり、生真面目であった。酒もタバコも嗜まず、上野の桜見物もノートを持って行き、作った漢詩を書き留めるといった風であった。

「世の中の大きな変遷を体験し厭世的になった訳ではないが、この頃は各地の童謡の収集と研究を趣味にしている」とのことであった。その後、上記のような経歴から「左翼の疑いを掛けられ、緑島(思想犯を島流し的に収容した島)に監禁されたという風説を聞き、数奇な運命の彼との連絡は意識的に控えた。大陸の訪問した経験者の私と会ったことが罪状の一つである可能性を考慮し、そのとき以来、私は彼と逢ってはいないが後日談がある。

それは1989年のことで、私が中国政府の邀請で上海の東海水産研究所を度々訪れたが、前から良く知っていた趙伝因副所長から「半月前に貴方を良く知っているという袁澣先生が台湾から当所を訪れ、真道先生かみえたら宜しくとのことでした」と聞かされたときである。

彼はすでに台湾に戻った後であったが、台湾では名誉を回復し、元気にしていることを知り、嬉しかった。中華人民共和国が開放政策に転じてから、台湾から大陸の親戚を訪れることは容易となり、二度と大陸の土を踏むことはあるまいと半ば諦めていた彼も、故郷の南京を訪れることができたと知り感無量である。

 

4.2 陳 国相 、チェン・グオシャン (昭和19年、講習所47回製造科卒)

1〜2級下の製造科に在籍した彼は北京の人である。冒頭で私が下宿を共にしたといったのはこの陳国相君のことである。彼によると父君は高名な京劇の研究家で、かれも明笛や二胡(やや大型の胡弓)を弾くのが好きで、いろいろ私もその方面の知識を彼から得た。上述のように、卒業後に彼とは逢っていないし、1957年に北京で彼のことを訊ねたが居所も分からず、生死も不明のまま打ち過ぎた。同窓会名簿にも彼の名前は無い。

しかし、1983年に北京で発行された[中国漁業簡史]の未完成の日本語訳(簡史といっても20万字の大冊)の推敲と補填をしているとき、偶然にも彼の名前を発見した。該書中に彼の論文の内容が引用されており、内容は日本が青島を租借地とした1914年から1942年までの華北において日本人の行った漁業活動を統計数字を挙げながら詳しく解説したものであった。驚くと同時に彼が無事に日本から帰国していることを知った。

引用文であり残念にも原典の書名や出版年は記載されていなかったが、驚いたというのは、内容から察して膨大な資料を収集して、纏め挙げた労作だということ、また、当時の事情から察して、中華人民共和国の建国後に出版されたものに違いなく、少なくともそれまでは健在であったことである。その後、国内は紆余曲折の激動期を何度も迎えたので、その後、彼がどうなったのかは、中国から出版された多くの水産関係の書籍や雑誌にも彼の名前は見当たらないので、今もって不明のままである。

4.3 郭 佛、グオ フー (昭和20年、講習所47回製造科卒)

養殖科の本科を出て専攻科に入った頃だと思うが、新入の留学生として紹介された郭君は選科生か、何科だったか記憶が定かでなかったが、調べた結果47回製造科であることが明白になった。「父は大陸におり郭沫若といいます」と聞いて驚いた。東京外大で中国語を習っていたときの先生の友人でもあったので、郭沫若の名前を知っていた私は、「あの高名な知識人の郭沫若さんか?」と聞くと「そうです」という返事。その後、中華人民共和国が建国されてからは初代の中国科学院の院長を永年勤め、中国第一の知識人と謳われた(故)郭沫若院長の息子さんだったのである。

その当時は佛という名前の字も後記の福生という名前も私の記憶ではハッキリせず、ただ、fu という発音が名前にあったように記憶していた。[佛という字は「ほとけ」の意味では fo と発音するが、fu と云う音もある。福生の福の字は fu と発音する]。後になって上海で再び知人にこのことを訊ねたら郭福生という人に間違いないことが分かり、「中年以上の水産研究者の人々は皆彼のことを知っており、遼寧省で水産研究に携わっている人」であることが分かった。

狂気にも似た文化大革命時代に、信じられないようなことだが、教育や研究活動は停止状態となり、科学院長であった郭沫若氏も「インテリだ」との理由で自己批判を強制され、(もちろん、今では名誉は回復されている。ちなみに夫人は千葉出身の日本人である)苦難の時期があった。郭福生さんにも色々なことがあったのであろう。文献などで同氏の名を見ることはない。確か大連近郊に住み1995年の時点では存命で健在と聞いた。

同窓会(楽水)名簿を見ると、講習所47回の製造科に住所不明として記載されている郭佛という人で、ここでは見出しに楽水名簿にある名を出したが、上海や北京で聞いた名は「福生」で「佛」ではない。上述のように、佛と福とは中国語では同音同声であり、宗教を基本的には否定する共産主義の下では「佛」の字を嫌って同音の「福」とし、生を加えて「福生」と改名した可能性が高い。上記の袁君の場合もそうであるが、中国人の場合このような例は多い。袁君の場合は本人に会っているから間違いはないが、この郭佛君の場合、一抹の疑点は残るが、中国で聞いた「東京の水産大学での勉学経験がある」という話の内容、勉学時期や姓が一致するなどのことから判断して、同一人物であることは先ず間違いはない。

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5.あとがき

 

以上、駄文を連ねたが、この他にもタイ国の水産局長を勤め、さらに農業組合省の次官になった Preeda Karnnasut (46養)、水産局の調査研究部長を経て、全国冷蔵庫協会長に移り、その後は漁業会社を設立し、その社長を勤めているSanan Ruamragsa (48漁)などの諸氏とは学生時代から知り合い、卒業後もタイ国で度々会ってよく知っているが、同期の諸氏や同窓の方々はよくご存じだと思うので割愛した。

楽水名簿を見れば分かるように戦前の留学生の大半は中国からの人達であった。戦争も中期を過ぎてからは大東亜共栄圏などという言葉が使われ出し、東南アジアの国々の人々が多少増えたが、現在に較べると1割にも満たない。中国は今でも圧倒的に多いが、戦前は少数だったこともあってか、互いの結び付きは強かった。

東京にいた中国の留学生は「学芸」という同人雑誌まで出し、これが母体となって後に母国で「中国水産」という名前の雑誌となったという逸話もある。今は名前を言ってもお互いに知らないことが多い。余りにも人数が多く、また、昔のように日本社会からの保身のための情報交換を通じて結びつくといった環境が日本から無くなったからでもあろう。構内に校舎と並んで国際交流会館などもでき、留学生の心理状態も、環境も全く変わってしまった。同窓生という意識も日本人学生を含め、良い悪いの問題ではなく、様変わりしつつあるように思う。

最後に、読者の方々から、私の記事と違い「その件はこのように記憶している」といったことも多いのではないかと思う。ご指摘を戴ければ幸いである。なお、採り上げた話は母校に厚意を持つ人の話ばかりを選んだのであって、中には不愉快な目に遭ったり、嫌な思いをした場合も有ったのではないか?という人もあろうが、少なくも、私が逢った人に関する限り、幸にもそのような経験はない。また、もし、そのような人々が在ったとしても、先方から逢う機会を避けたであろう。冒頭で述べたとおり、私は私の記憶する経験や私なりに感じたことを率直に述べたつもりである。

( 完 )

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日本に来た最初の

水産留学生?

− 上海水産大学の前身校を設立した人 −

真道 重明

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(2003年12月)

海水産大学は歴史も古く、9学部が在り、2002年の在学する学生総数は11,000名余と規模も大きく、数多い中国の水産教育機関の中では最高学府の一つである。2002年の校慶90年(創立90周年記念)の祝賀に参加した際に本格的に編纂された同大学の「校史」が配布された。これを読み進めて行く中に、『同学の前身校である江蘇省立水産学校は上海市の浦東地区の郊外の宝山県呉淞鎮砲台湾の北側に在ったから俗称を呉淞水産学校、またの名を略して「呉淞水産」と言ったと言う。1912年(大正元年)に開設、初代の校長は日本の農林省水産講習所で学んだ「張繆(繆の字は正しくは糸偏では無く金偏)」と言う人であった』という記事を発見した。

年代から考えても水産講習所のごく初期の卒業者であることは間違いなく、恐らく中国から日本に来た「水産留学生」としては最初の人である可能性が高いと私は思った。(学校開設は1912年(大正元年)とあるから、張氏が31歳前後の時と推測され、留学のため来日した年は少なくもその 5 - 6 年前か、ないしそれ以前(1907年か、それ以前)、張氏の年齢は26歳前後かそれより若い時と考えられる。

張氏は日本で学んだ知識に照らし、学制は先ず当初は漁撈科・製造科を設け、1921に養殖科が追加されている。さらに1923年には航海専科、1925年には遠洋漁業科が追加されている。外国語科目としては英語と日本語があった。

張校長は1925年に過労のため病没、享年は未だ若く44歳であったと言う。彼を引き継いだ第2代目の校長が「候朝海」と言う人で専攻は漁撈学。この人は1957年には未だ健在で、筆者は1957年の訪中時に上海水産学院でお眼に掛かり親しく面談した経験がある。この人も日本留学の経験があると本人から聞いたが、日本の学校名は知らない。「校史」にも日本で学んだとは記しているが、学校名の記載はない。同氏は私に「日暮忠氏(水産講習所の養殖の大先輩。明治29年伝習所第9回卒業、以来同校の教授、昭和6〜7年同所の所長)、また、天気予報で有名な気象台の藤原咲平氏(1884〜1950、東京帝国大学を卒業、中央気象台長となり、「お天気博士」と呼ばれた)の両氏とは特に面識があり、親しかったと語っている。[日暮忠氏に関しては「大学百年史」に基づく。楽水会事務局長の熊谷純氏のご教示による]。私も百年史を所持していたので調べたら日暮忠氏は第5代所長とある。

当時の日本の水産に関する高等教育機関は、@ 現在の東京海洋大学(水産伝習所・水産講習所・東京水産大学を前身校とする)、A 現在の北海道大学水産学部(札幌農学校水産学科・函館水産高等学校・函館水産専門学校を前身校とする)、B 現在の東京大学農学部水産学科の三者が、19世紀末から20世紀初頭の前後10年ぐらいの間に次々と開設され、昭和初期迄はこれらの3校以外には水産の高等教育機関は無かった。

1889年 (明治 22年) 水産伝習所開設。
1898年 (明治 31年) 水産講習所開設。
1907年 (明治 40年) 札幌農学校に水産学科が設置。
1908年 (明治 41年) 東京帝国大学の農学部に水産学第一講座を開設。

張氏は上述の「上海水産大学の校史」には明確に「日本の農林省水産講習所で学んだ」と記載されているが、候氏は恐らく上記の何れかの学校に留学して居た可能性が高い。なお張氏は年代と同氏の年齢から考えて水産講習所への入学は同校の第1期生から、恐らく第10期生までの間の何れかであったろう。最近の同窓会の名簿の最古参の生存者は1926年(大正15年 = 昭和元年)に入学した人から記載されており、上記のようにその1年前に張氏は病没しているので、当然その名は最近の名簿には記載されていない。かれこれ100年も前の話である。

東京水産大学と東京商船大学は2003年に統合され、東京海洋大学と改名されたが、東京水産大学時代に上海水産大学とは「姉妹校」の関係を結んで居るが。これら両校はその前身校の時代からこのような関係があったことを今回上海水産大学の「校史」を通して始めて知った。なお、この張氏は外国から日本へ来た最初の水産留学生ではないかと思われる。

このページをご覧になった方で、昔の留学生の件、とりわけ誰が最初か?などに関し何かご存じの方が在れば是非お知らせくださると幸甚に存じます。

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その後に判明した知見

の後、東京水産大学百年史の資料編を調べている中に上述の「張繆(繆の字は正しくは糸偏では無く金偏)」は農林省水産講習所、本科、第13回製造科(1910年、明治43年)卒業であることが卒業者氏名リストに明記されていることが判明した。

同氏による中国の江蘇省立水産学校の創立は1912年(大正元年)であるから、初代校長の張氏は日本の水産講習所を卒業して帰国した翌々年に同校の創立に携わったことになる。

なお、同資料によると、第11回製造科卒業者(1908年、明治41年)に「陣非」、「曹文淵」の2名の氏名が在り、第13回(1910年、明治43年)には漁撈科に「王文泰」、製造科には上記の張氏の次に「孫英」の氏名がある。同資料にはこれ以前には中国人ないし外国人と思われる姓名は存在しない。

これから考えると水産講習所に関する限り、最初の留学生は、(国籍は姓名からの憶測ではあるが)、中国人の陣非、曹文淵の両氏で卒業は1908年と言うことになる。札幌農学校の水産学科はこの前年の1907年に、また東京帝国大学農学部水産学第一講座はこの年(1908年)に開講されているが、卒業は学業を終えた数年後となるから、陣、曹の両氏が最初の留学生(台湾、朝鮮半島を含む)と考えて良い可能性は高い。もっとも、台湾、朝鮮半島からだったとすれば国籍は日本の植民地だったから外国人ではないと云う理屈もあるが、私は国際法には素人であり、この種の問題には触れないで置く。

張氏を除き、他の人々に関する詳しい情報が無いので、一世紀前のことでもあり、現在私が言えることはここ迄である。

真道重明 2004/08/01.

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魚博物學と魚文化録の紹介

2002年1月

真道 重明

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博物学》とその改訂版である《魚文化録》は水産出版社(台湾)から出された冊子である。前者は「魚の社会科学」の副題の下に1995年2月に李思忠(中国科学院、動物研究所、北京)と伍漢霖(上海水産大学教授)の序文と共に出版された(262頁)。これは現在では絶版となっている。その改訂増補版(301頁)である後者は2001年9月に同じ出版社から出されている。

私は同出版社の社長の頼春福氏とは2000年5月に神田神保町の三省堂でお会いし、その時以降既知の人であり、また、上記の中国に於ける魚類学の泰斗である北京の李思忠教授とは約半世紀前の1957年に北京でお会いして以来の知人、なお今上天皇とは魚類学で親しい上海水産大学の伍漢霖教授も良く知っている経緯があるので、大いに関心を掻き立てられ夢中で本文を読み進めた。

私事で恐縮ではあるが、多数の旧友の名前や写真が記載されて居り懐かしさが込み上げてきた。また改訂増補版の蔡甫氏の代序にはインターネットやメールで知り合った日本人としては唯一私のことに触れられて居り、同氏とは面談経験こそ無いが楽しくなった。

私事はさて置き、本書は同出版社から上梓されたの他の科学的な技術関係の書籍とは内容が異なり、中国(台湾・香港を含む)の魚類学の秦以來歴代の魚類に関する科学技術の著作、故事成語、俚諺、甲骨文字以来の「魚」の字の変遷、著者の履歴・逸話、その他、水産に関するいろいろな事柄が写真や図、文献目録と共に記載されている異色の書である。日本語に訳せば1000頁を超えるであろう。

本書は同出版社から出されている書籍と同様に、両岸(大陸と台湾)問題など政治とは全く無縁の専門分野の立場から編集されており、中国本土の事柄が網羅されている。趣味の書としても大いに面白い。社長であり本書の編者でもある頼春福氏は水産を専攻した水産の専門家でもある。中国文ではあるが、ここに紹介する所以である。

なお、以下に原典の紹介文や代序を参考までに載せた。中国文であるため、中国繁体字コードの表示環の無い場合、日本語ワープロには無い2〜3の文字が「文字化け」しているかも知れないが99%は表示され読むには先ず差し支えはない。

水産出版社: http://www.taiwan-fisheries.com.tw/index1.html

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魚 博 物 學

魚的社會科學

編著:ョ春福

監修:李思忠

1995年2月 初版

《魚博物學》 内容包括考古篇、考魚篇、人物誌篇及書目。考古篇收集了中國自先秦以來歴代有關魚類的科技著作、趣聞佚事、讓人們對魚類的認識産生濃厚興趣。文章中也對中國近代魚類學基礎研究貢獻出畢生精力的老一輩魚類學家進行生動活発和實事求是的有趣介紹、揄チ了人們對他們的了解、尊敬和緬懷。 本書也詳盡蒐集自1930年以來中國魚類學研究的全部著作目録。

 


 

魚文化録

編著:ョ春福、莊棣華、張詠青

出版者:水産出版社

社長:ョ春福

2001年9月 初版

地址:台灣206基隆市七堵區永富路120號
電子信箱:
scp@taiwan-fisheries.com.tw  電話:+886-(0)2-2456 6505
傳真:+886-(0)2-2456 5815

 

魚文化録 代序 (關於編者)

和文訳、魚文化録の序文に代えて (編集者3名に関する紹介)

  蔡 甫

  這是 《魚博物學:魚的社會科學》一書的搨版。

ョ春福,自一九六七年水産学校畢業以來,始終從事漁業文化的工作,所觸及的層面十分ェ廣。多年來,廁身所謂「高層建築」的高档行業,迄今仍不能出脱。他努力蒐集一切有關魚的信息,關心魚和人間的關係與事務。秉持對文化的堅持與傲慢,他始終不改其志。雖然在西暦2000年冬,心臟主動脈剥離,從鬼門關回來,使他體會生命的脆弱,思索未來,更有別一層次的人生體會。

他讀書、買書、賣書;編書、印書、又贈書;他擁有實體書架,也擁有虚擬書庫,以其戰後出生的這一世代尚能縱網路者,幾希!他還記得,日本漁業耆宿真道重明博士還是在因特網上認識的。這位八十多歳的老人,認識或交往過的中國漁界名士包括:陳同白、林紹文、林書顏、袁幹等,近幾年來都已相繼謝世。而這位老先生仍馳騁因特網上,發伊妹児,令人欽羨。

張詠青,一位眼科專科醫師,業餘興趣研究台灣的淡水魚類,繁忙醫務之外的餘暇,幾乎都投注在魚的身上。從野外調査、採捕、到室内飼養觀察,都是親力親為,不假手他人。對於相關文獻的蒐集整理也是不遺餘力。其間所付出的精力與時間,極為驚人。他曾於釣魚人雜誌上發表過幾篇有關淡水魚的介紹文章,水産出版社也以其攝影作品,出版了兩本(2000、2001年)台灣淡水魚寫真月刊。張醫師因買書而認識ョ春福,其間的觸媒,還是本書的前身《魚博物學》。藉著對魚類的共同興趣,兩人從商業行為逐漸變成無話不談的好友,應該算是一種文化力量的展延。

莊棣華,出生於日本,八歳才到香港定居。 他從小對動物進化、生態與地理分布産生濃厚興趣,尤其是對魚類,早在小學六年級已開始著手調?香港淡水魚類的分布,逢不用上課的日子,便帶著各種紀録与捕捉魚類的工具,到各大小溪流進行研究和採集。 一九八三年,單身一人前往北京讀書,才開始學習國語(普通話;北京話)。 在京的日子,他經常節衣縮食,踏自行車去?遍舊書店,盡心盡力蒐集有關魚類書籍及文獻。一九八六年到上海水産大學拜訪魚類學家伍漢霖教授,並得到伍教授的賞識,在教授的悉心指導下對魚類分類學進行深造,同時也完成了他首部淡水魚類的研究報告《香港淡水魚類的再調?》( 其後整?報告加上生態環境資料,在香港大學自然史學會刊物上出版,即:Chong, D.H. and D. Dudgeon, 1992, Hong Kong Stream FishesAn annotated checklist with remarks on conservation status, Memoirs of the Hong Kong Natural History Society. ),不但對現存野生固有及外來淡水魚類種數、分類及地理分布問題作出了總結,將過往一直未弄清楚的局面劃上休止符,並且奠定了香港在淡水魚類方面的研究基礎。

除了在魚類學的知識外,他從小亦喜愛繪畫,這可是他成為一名生態攝影師的主要導火線。 在野外研究魚類很多時候需要做生態的瞬間記憶,他深知繪畫再不足以應付研究工作,因此在高中時期已開始學習各類攝影的技術,尤其在微距攝影和照明等方面下了苦功。 現在,他運用與野外生物相處的豐富經驗,已經為不同種類的魚、生態環境以及有關動植物留下無數重要記録。 此外,由於他能操流利的日語及国語,對促進香港、中國大陸、台灣及日本之間的魚類學的研究交流作出了不少貢献。

編者們把有關魚的文化薈萃於此書,使讀者認識:所謂的魚,絶非只是一種食品而已。魚的文化在數千年人類文明的歴史長河中,逐漸匯聚、凝結而成。不但提供了糧食,也在文化領域中留下了不可忽略的章節。個人以為,傳媒或將更迭,而魚文化卻會永遠傳承下去!只要有這批懷有??勁、醉心於魚的人在,魚的文化和自然界的魚類一様,永遠是生機?然的。

希望這本有關魚的文化的論述,能為我國水産事業的持續發展,發揮一定的作用。

−(序文より)−

 

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