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disappearance of categories



20世紀の初頭から、未来派とダダを始め、 芸術家たちは芸術における従来のカテゴリーを廃止し続けてきた。日本のメディア・アートを代表する山口勝弘は、ヨーロッパやアメリカへの旅行、そしてとり わけ建築家フレデリック・キースラーとの出会いによって、 60年代初めから、「不定形性」(もしくは「不確定性」)の重要性を強調している。これは、日本でも外国でも戦後の芸術の特徴となった性質である。 1967 年、山口は『不定形美術ろん』というタイトルのもとに、このことについて書いた評論をまとめた。

この著作は建築や造 形芸術、音楽だけでなく、地球上のさまざまに異なった文化をも関連づけており、マルセル・デュシャンやジョン・ケージの考え方と近いものである。山口に とって「不定形性」とは、解釈の選択を複数提示することである。そのような選択肢をまったく提示しない場合や、ほんの少ししか提示しない場合よりも、複数 の方がずっと豊かになるはずである。また、選択肢を提示し、提案するのであって、押しつけるのではない。

山口は、現代、そし て未来における芸術とは、自分の好奇心を満足させるための手段でしかないと告白している。このような探求心は、芸術という同じ言葉のもとで、あらゆる活動 に関わる。つまり、建築について考察するのと同じように、性的関係について考察するのもおもしろいし、サイバネティックについて考えるのと同じように、料 理について考えるのも興味深い。コンピュータと通信衛星の登場以来、何よりも必要なのは、ボキャブラリーを検討し直すこと、殊に芸術の形態とカテゴリーに 使われるボキャブリーを見直すことである。かつての区別はすでに価値を失っているからである。

Frederick Kiesler:  Endless  House


John Cage : Fontana Mix


Yamaguchi Katsuhiro : Dragon Stream

「アンフォルメ ル」、「アクション・ペインティング」や「具体」(美術協会)の運動は、石の建築にさらに三重の扉をつけるような硬直した性質に対して、現代人の中に芽生 えた疑問から生まれたものである。閉じて止まった形は死を意味する。動きや開放の可能性を残すことによって、生命を与えなければならない。そして、芸術家 自身もこの自由を得なければならない。もはや限定的な呼称によって作られた牢獄に閉じこもっているときではない。一人の芸術家がすべてを使う可能性を持つ べきであり、同時に彫刻家であり画家であり庭師であっても良いのだ。作品形態の自由は、観客との関係も変えていく。芸術家はまず、作品に対する「責任を忘 れる」べきである。責任とは、完成した形のことである。あまりにも完成してしまうと、形は新鮮さを失う。

同じことが、咳をこ らえておとなしく座っていることを聴衆に強いる「真面目な」音楽についても言える。音楽も、他の芸術と同じように、束縛の外へ出なければならない。観客 は、今やソファーに埋まって受動的に音楽を聴いているわけにはいかないからだ。ジョン・ケージやその仲間、弟子たちの作品を聴くときには、耳を突き出し て、自分で、そして自分のために作品を発見し、再構成しなければならない。ケージにとって、作曲することと演奏すること、そして聴くことは、三つの異なっ た行為である。不確定性という性質は、三つの行為のそれぞれに特有の努力を要求する。

18世紀以来のヨー ロッパ音楽は、「専制君主的」な作曲システムを発展させるために努力してきた。このシステムは、作曲家や指揮者の指一本、目一つに従う軍隊のように機能す る。たとえばベートーヴェンのシンフォニーの場合、あるフレーズは数分間に何十回も繰り返され、観客は、初めてその曲を聴く場合でも、最初の方を聴いただ けで、後の展開が見えてしまう。他に展開のしようがないと感じさせられるからである。しかしケージのような人たちによって、この状況は変わることになる。 ケージは突然に新しい考え方を私たちに開いてみせた。響きや高さや強度や長さといった音響的要素を決定するパラメータ、つまり局部的時間(点的に発せられ る音の長さ)と、その結果としての全体的な時間(ひとつの曲全体、もしくはコンサート全体)は、両方とも不確定的な性格を持つことのできるものである。そ のため、しばしば演奏家の裁量に任されることが多くなり、演奏家も同時に、時には恐ろしいほどの自由を見出すこととなった。「不確定的」な音楽は、予知す ることが不可能である。不定型な音楽は、控えめでありたいのだ。なぜなら内容がどうなるのか、誰にもわからないからである。つまり 作曲家は、自分のことを観客の一人だと思っている。それは責任の放棄ではなく、謙虚さという教訓なのである。

Jackson Pollock: Action Painting


Shiraga Kazuo: Mud Painting


John Cage: Variations II
中谷芙二子の霧の彫 刻や、山本圭吾の火や水のイベント、そして吉田稔郎の泡の彫刻などが、その最も良い例である。風や火や水によって形を変える彫刻というと、イヴ・クライン の焼いた絵やオットー・ピーネやジャクリーヌ・モニエの浮遊する彫刻を思い浮べることもできるが、中谷や山本は堅固な要素を何ひとつ使わない。作品は完全 に動きに任されるのである。

同じことが、原則的 に二度と同じように見ることができないキネティックアートや光による作品にも言える。 動く作品は、与えられた時間の中でさまざまな様相を見せてくれる。そのような作品は時に光の発散と屈折による遊戯を取り入れていて、その形態的側面のある 部分は予期できない。形の定まらない彫刻の最たるものは、液体や気体を使ったもので、特にそれが動いている時であろう。ヨーロッパの庭園の噴水や、日本庭 園の滝などの伝統を引き継いだ芸術家たちは、科学的装置を使って、変形し続ける物を発生させる。その作品は、予期できない形をじっと見つめていることがで きるような性質のものである。このような芸術は、コントロールではなく、逆に観客に作者と同じ自由を与えようとするものである。観客は自由に動き回り、作 品との自由な関係を持つことができる。ひとつの方向から見なければならないということもない。



Yamamoto Keigo: Hi no event


Nakaya Fujiko: Fog Sculpture

不確定性による自 由の要求は、寺山修司の舞台にも見られる。寺山の場合、不確定性はイメージそれ自体にはさほど関わっていない。イメージはある場合には口実にすぎず、日本 文化の受け入れがたい側面を告発しするために寺山が好んで用いた奇妙な象徴にすぎない。寺山の舞台における不確定性は、むしろ演劇を社会のモデルとする考 え方にあり、ケージと一致するものだ:ケージは自らの作曲を社会のモデルだとしていた。中心に指揮者がいるわけでもなく、自分が書いた楽譜通りに演奏する ことを強制する作者がいるわけでもない。寺山の舞台では、役者は自由 だ。ドラマティックなシチュエーションを作るのは人間である。

また、寺山の作品 は、山口勝弘の場合と同じように、「イマジネーションを挑発する仕掛け」であり、内容を50%しか見せない。残りは観客自身が想像し、構成するというわけ である。ビデオアーティストの中島興は、これを「過程作品(Work in progress)」という言葉を使って表している。開いた形態を持ち、現在にも未来にも繋がっているという意味であ る。中島の《My Life》という作品は、百年かけて作り続けるものとして構想された(つまり、長さも不確定的だということだ)。したがって、作者が死んでも関係なく続く ことになっていた。同じように、寺山の映画も成長し続ける一本の木の一部として作られた。幹、枝、すべてが、作者がいようがいまいが、生きて伸び続ける。 それは共存し、必要不可欠な宇宙の根本的要素のメタファーであり、それぞれが結び合っている。




Terayama Shuji: Shinpan


Nakajima Ko: My Life

中谷芙二子も自然現 象に注意を払っている。中谷は自然現象に動きを与え、それを観察するが、一度動き始めると、もう自分の手を加えない。独りでに動いていくにまかせ、作品と 環境との偶然の相互作用は、瞑想の元となるものである。悪天候などもあり、結果は、完全には予測不可能である。

そのような作品にお いては、ケージが言及する鈴木大拙の「妨害なき相互浸透」という概念を見ることができるだろう。作品を閉じて完結したものとするよりは、さまざまな芸術分 野への解放を目指し、常に揺らしておきたい、拡散させたい、と望んでいるようである。もはやたったひとつの中心はなく、そのかわりに複数の可動的で多 機能 の中心が生まれている。これは、デジタルの一般化と呼応する。今後、作品が「完成」したと言った場合、それは、ネットワークの中の動きに応じて常に柔軟に 姿を変えることができるということを意味する 。


クリストフ・シャル ル

Nakaya Fujiko: Kites