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講座1

マゾヒズムとは何か(なぜマゾヒズムは病んでいるのか)   講座2

私がSMに興味を持っていた初期の頃、ある女性に巡り会いました。 彼女は私にマズヒズムとは何かを身をもって私に示してくれました。私が縛れば、 「ずっとこうして縛ってほしかったの」言いつつ嬉し泣きし、熱い蝋を垂らせば、 「あなたが望んだことだから、耐えなければならないのね」と言いな がら、 蝋の熱さが喜びを伴って全身を駆けめぐって、そのまま大きな声を上げていきました。

 これを見て私は驚くと同時に、マゾヒズムは精神的なものであると改めて 気づかされました。 縛られた拘束感や垂らした蝋の熱さは、マゾヒズムに縁のない人には単なる避けるべき熱さや、 どうされるか分からない不安な束縛にしかすぎません。 それらがどうして心地よいもの、喜びをもたらすものになるのでしょう。

実は、縛られた拘束感や熱さは、受け取り方次第でどうにも感じ取られるのです。 さらに言えば、すべての感覚の刺激は人がどう受け取るかによってすべての意味が変わってくるのです。

マゾヒズムは人の自立と大きく関わっています。自立できない人の生きる道は他人の存在の中に自分を もぐり込ませることです。この場合の「自立できない」は小児の場合と異なります。 小児は生後しばらくは母親と一体化しており、自分という独立した概念自体が未だはっきりしていません。 しだい に母親とは異なった存在であることを自覚していくのですが、完全に他の存 在であることに納得し、 受容するまでには幾多の困難が待ちかまえています。 一旦、完全に他の存在であることに気づいた人間がそれを受容できずに逃れようとしても、 自意識ができあがっているので、もはや小児の状態に戻る ことはできません。

自分を他者に投影するのは、他人の存在に自分をもぐり込ませる一つの方法です。 幼い頃、大冒険家や芸能界のスターに自分を重ね合わせて、あたかも自分が彼らであるように振る舞うのは、 そうなりたいという願望がなせる わざなのですが、しかし、これは一方的な行為であり、 大冒険家やスター本人は預かり知らぬことです。したがってこれでいつまでも満足できるわけではありません。 直接スターや大冒険家に会おうとする人も出てくるでしょうが、度が過ぎればストーカー的行為となり、 社会的に排除されます。

したがって他人との直接関係の中で、その人の存在に自分を受け入れてもらうには、 支配・服従の関係に入るしか手段はありません。マズヒズムは自らの意志で服従の道を選ぶのです。

エーリッヒ・フロムはその著作「愛するということ」の中で次のように述 べています。 「共棲的結合の生物学的な形は、妊娠している母親と胎児の関係に見られる。 胎児は母親の一部であり、必要な物はすべて母親から受け取る。いっぽう母親は胎児に栄養をあたえ、 保護するが、同時に彼女自身の人生は胎児によって拡大する。」「(心理的な)共棲的結合の受動的な形は 服従の関係である。臨床用語を使えばマゾヒズムである。 マゾヒスティックな人は、堪えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、彼に指示し、命令し、 保護してくれる人物の一部になりきろうとする。」

 「(心理的な)共棲的 結合の能動的な形は支配である。マゾヒズムに対応する心理学用語を用いれば、 サディズムである。サディスティックな人は、孤立感や閉塞感から逃れるために、 他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を 取りこむことによって、自分自身をふくらます。」「成熟した愛は、 共棲的結合とはおよそ対照的に、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。 愛によって、人は孤立感・孤独感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。」

こうみていくと、マゾヒズムが健全な心の状態かと問われれば、自立ができていない以上、 病んでいるとしか言いようがありません。

 あなたはマゾヒズムが自立と深く関わっているなどどと、大層なことを考えなくてもと思うかもしれませんが、 真に心の空虚さを感じている人は何とかしてこれを埋めようとするものです。その手段が例えどんなものであろうと、 空虚さを埋めてくれるものならば、大歓迎なのです。この空虚さは単なる寂しさとは違います。寂しさとは、 自立した個人が他の個人との接触を欠いた状態です。 自立していない個人にとってはもっと内面にまで入って支え てくれる心理的な接触を強く求めているのです。

実は私たちの周囲には自立できていない成人は一杯いるのです。本人には無関係の小学生をナイフで刺し殺したり、小学生を9年間も監禁したり、ふ られた女性をつけ回してアパートに火をつけたりするストーカー的行為は最 近の新聞紙面を騒がしていますが、もっと軽度な犯罪行為は世間に山とある のではないでしょうか。彼らは未熟な心理的な要求をそのまま外部に投影し 、自分の内面で処理できないくすぶる不満を社会や他人にぶつけています。 何ら本質的な解決にはならないと分かってはいても、そうせざるを得ない心 理的な状況にあるのです。これらは一方的な非共棲的なサディスティックな 行為と言えましょう。 一方、マゾヒスティックな行為は反社会的ではないので、社会的を騒がせることはほとんどありません。 しかし、服従を求める傾向は密かに進行しています。これらは社会的立場もあって女性に多く、 前述のサディスティックな行為が男性に多いのと対照的です。

あなたがM女性と付き合っている内に、彼女たちの心理的な要求の強さに驚くことがあるでしょう。 それは彼女たちが心の空虚さを埋めようと必死だからです。 あなたが単に性的なものだけで満足しようとすれば、それがあなたに重荷となり、途中でたじろぎ、 お付き合いを止めようとするかもしれません。しかし、それは却って彼女たちを傷つける行為なのです。 それなら最初からお付き合いしない方がいいと、私は思います。

マゾヒズムと取り組むことは、人間存在の一面に自分が関わることで、始めた以上最後までという 覚悟が大切なのではないでしょうか。

もっともすべてのM女性がそういった面をはっきり表面に出しているわけではないでしょうが、典型的にはそういうことだと思います。


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