●突き立つ剣 ――side 士郎 



 鷹が飛んでいた。
 鷹は翼で風を切りつつ、上空から何かを探している。
 その鷹の瞳は、紫水晶で出来ていた。
 紫水晶の瞳が動く。何かを見つけたようだ。
 地を這うように飛ぶ、黒い塊。
 無機質だった視線に、意思の光がともる。
 何かに命じられたかのように、翼の描く軌跡が変わる。
 鷹は、黒い塊の後を追い始めた。



                ◇  ◇  ◇



 左右の茂みから、黒い獣が飛び出してきた。
 獣の口から、白い牙がむきだしになる。肉を引き裂く凶器の群れ。
 獣は、俺の三メートル手前で跳躍する。タイミングはまったく同時。
 考える余裕はない。右に黒鍵を振り下ろす。左は短剣で止める。
 カウンター気味に切りつけた黒鍵が、獣の頭部をえぐった。
 反動が肩まで響く。
 獣の頭蓋骨が砕け、ひしゃげた。圧力に押された眼球が眼窩からこぼれ落ちる。血と脳漿が飛び散り、俺の半身を赤く染める。

 左の短剣は、獣の口にくわえられていた。
 肩口の辺りに衝撃が響く。獣がぶつかってきたのだ。倒れないように足を踏ん張る。
 獣が地面に降りたった。短剣を持った手が引かれる。
 獣はそのまま首を左右に振って、俺の手から短剣をもぎ取ろうとしてきた。
 再投影には時間がかかる。奪われてたまるか。
 腕に力を入れてこらえ、短剣を強引にねじる。
 ゴリゴリと不気味な音がする。獣のアゴからもげた牙が落ちた。
 赤い瞳の中で、憎悪と狂気が燃えている。それでも獣は短剣を離さない。
(――コイツ、自分の意思で行動してないのか!?)
 獣が短剣をくわえたまま、前足をふるう。前足にはナイフのように鋭い爪が生えている。
 ふとももに痛みが走った。だが、爪は俺の体に食い込むことなく弾かれる。出かけ際に強化した布地は、鎧の強度を持っている。
 右手の黒鍵を振るって……動かそうとした右腕が止まった。黒鍵は死体に深く食い込んだままだ。
 抜けない。
 武器はどちらも封じられている。
 ならば、この身を武器として使うまで!
 思考より速く、魔術回路を起動。
 身体強化の魔術は使えない。俺の熟練度では、自分の体を破砕しかねない。
 可能なのは、魔力による身体能力の水増しのみ。それでも人間の限界は超える。
 脚力を増加。下半身を加速。砲弾じみた膝蹴りを、獣の腹に叩き込む。
 衝撃で、獣の体が宙に浮く。
 膝が何かをへし折る感触。獣の口から血の泡がこぼれだす。
 折れた肋骨が、内臓に突き刺さったか?
 それでもまだ、獣は短剣を離さない。
 魔力を走らせ、右手をブーストアップ。黒鍵を強引に振り回す。剣の先から、死体がすっぽぬけて飛んでいく。
 自由になった黒鍵を振りかぶり――突き刺す。
 それでようやく、獣は動かなくなった。死体に足をかけ、黒鍵を引き抜いた。

「ほう。やりますねえ。どうやらシロウ君は、ホントウに剣を使うらしい」
 感心したような声が聞こえる。エルンストはこちらの戦力を測っているらしい。
 普通の魔術師ならば、攻撃魔術を使って戦う。攻撃魔術は威力が大きく、広範囲を薙ぎ払うことができる。そのため使い魔を一度に投入すると、まとめて倒される可能性がある。エルンストはそれを警戒し、獣を小出しに使ったのだろう。
 魔術ならば、一撃放った後、次の攻撃を放つまでの隙が大きい。エルンストはそのタイミングを計っていたに違いない。
 俺が本当に武器を使って戦うかどうか、半信半疑だったようだ。
 今のは、一度に二匹しか襲ってこなかったから、何とかなった。
 このままではダメだ。エルンストの気が変わり、一度に三匹以上の獣に襲われたら、対応できない。
       トレース オン
「――――同調、開始」
 ――――基本骨子、変更
 ――――構成材質、補強
 ――――存在意義、増強
       トレース オフ
「――――全工程、完了」
 強化の魔術を発動させて、刃の『切る力』を高める。本来、俺の魔術は時間がかかる。解析なしでは『切る力』という存在意義を強化できない。
 この二本という例外を除いては。
 黒鍵は投げ方を知るために。短剣は技を読み取るために。これまで数え切れないほど解析を繰り返してきた。いまさら構造を調べ直す必要はない。
 強引に解析の工程をとばし、黒鍵と短剣を強化し終える。
 刀身の輝きが増した。草地に降り注ぐ陽光を、妖光に変えて反射する。

 新たな獣が正面から飛びかかってきた。
 体をひねってかわし、不十分な体勢から牽制の一撃を放つ。
 黒鍵は敵の勢いに負けて――はじかれない?
 手ごたえがない。
 空振りか!?
 あわてて振り向いた俺の足元を、何かが転がり抜ける。
 獣の首だ。
 獣の胴体は、大岩を頭の代わりにしていた。首の切断面を大岩に押し付けて、血を吹きながら、前に進もうと足をばたつかせている。
 だがそれも数秒のこと。胴体はくたりと力尽きた。
「……それは、強化の魔術ですか? とんでもない切れ味ですね……」
 エルンストの声には、あぜんとした響きが混じっている。
 同感だ。
 コレを自分の膝に叩きつけた日には、タダではすまないだろう。
「それに引き換え、こちらはどうも思わしくない。ホムンクルスの製法を利用して、そこらの犬を使い魔に仕立て上げたまでは良かったのですが……ちょっと動きが鈍いですね」
 その言葉につられて、足元の死体をみた。
 どす黒く変色した肌には、まったく毛が生えていない。
 捻じ曲がった背中は、蚤の拡大写真を思わせる。
 短い前足には、恐竜めいた爪が生えている。
 顔は……犬と言うより、百歳を超える老人のようだ。
 神ならぬ身が、人に似せた生き物を作ろうとする禁断の技術。信心などカケラも持っていない俺でも、これは命への冒涜だと感じる。
 こちらにとって幸いなのは、この獣たちの体型が歪すぎることだ。前足が極端に短いこの体では、犬だった頃の力は発揮できないだろう。
 四本足の獣は人間とは比較にならない速度で動く。すばやい加速と、瞬間的な方向転換は、四本の足があってこそ可能になる。この体型のせいで、間違いなく敏捷性は大幅に落ちている。
「ちょっと殺すのは惜しくなってきました。約束通り、勧誘を試みるべきでしたか」
「勧誘だと?」
「ええ。そういう約束で、貴方の家の結界を無効化してもらったんですよ。
 ふむ。いまさらですが、ダメ元で聞いてみますか。どうです? 今からでも私の仲間になる気はありませんか?」
「こんな化け物をけしかけておいて、なに言ってやがる……!」
「あ、やっぱりダメですよね。ハハハ。まあ、これで義理は果たしました。いや、ホントウに仲間になると返されたら、どうしようかと思いましたよ」
「どこにいる! 隠れてないで出て来い!」
「攻撃魔術しか能がない連中と一緒にしないで下さい。我々アインツベルンは錬金術師の一族です。つまり、『作る者』ですよ? 戦うのは私たちではなく、道具の役割です」
 『作る者』? どこかで聞いたような?
 ああ、そうか。遠坂が俺のことをそんな風に言っていた。

 再び、指を鳴らす音が響く。
 周辺の茂みを警戒するが、動きはない。
 どこからくる?
 右の茂みからも、左の茂みからも、何もでてこない。
 疑問に思って口を開こうとしたところで、足元に小さな泥が落ちた。
 反射的に、見上げる。
 左肩に衝撃。
 大岩の上から、襲ってきた!?
 体が前につんのめる。
 地面に左膝を突き、転びそうになるのをこらえる。
 地に降り立った何かが、ノド元を狙ってくる。反射的に右にかわす。
「ぐあっ!?」
 焼けた鉄を押し付けられたような灼熱感。
 獣が左肩に食いついている。
 このままでは、肩の肉が食いちぎられる――!
 夢中で黒鍵を振るう。ずぶり、と鈍い音がした。左肩が自由になる。
 獣の死を確認する余裕は無い。一飛びで大岩から離れて、近くの木を背にする。木の太さは、俺の胴体ほど。これなら背後を突かれる心配はない。
 肩から気が遠くなるような痛みが走る。
 解析魔術で、傷の具合を確かめた。
 皮と肉は裂けているが、幸い筋肉の筋は切れていない。
 もっとも、長くは持たないだろう。左肩から流れる血が、じわじわとシャツを濡らしていく。右上半身は敵の返り血で、左上半身は自分の血で真っ赤になっているだろう。
 このまま血を流すのはマズイ。
 だが、止血をする暇はない。

 茂みの影から黒い獣が躍り出る。今度は一度に四匹――!
 二匹の敵は俺の正面から跳躍する構えをみせる。残りの二匹は左右に散った。
 四匹同時に対応はできない。せめて、二匹だけでも止める!
 先程と同じパターンで剣を走らせる。右は攻撃。左は防御。万全の体制を持って繰り出した剣は――――空を切った!?
 飛びかかろうとする動きはフェイントだった。二匹の獣は、俺のはるか手前の地面に着地している。
 空振りした俺に、あからさまな隙が生まれる。
 別の二匹に、それをつかれた。
 地を這うような動き。左右から、蛇のように足首を狙ってくる。
「ぐ、がっ!」
 足首がちぎれた!?
 違う。痛みが、そう錯覚させただけだ!
 黒鍵を振り落とす。右に一閃。左に一閃。
 草地に血がしぶく。首を失った死体が倒れた。
 だが、足首が自由になっていない。食い込んだ牙が抜けていない。怨念じみた牙を引き剥がす暇などない。正面の獣が跳躍している。
 獣たちと眼があった。殺意を込めた赤い瞳が、残像を引きながら空中を疾走している。
 唾液にぬらぬらと濡れた牙が迫る。
 狙いは――俺の喉笛か!
 両腕に激痛が走る。
 食いつかれる寸前、俺は両手を顔の前で交差させていた。
 こんなものはガードとは言えない。だが、喉笛を食い破られてはお終いだ。
 喉笛を狙ったはずの獣は、そのまま俺の腕に食いついていた。こいつらは応用が利かない。野生の勘も、意思もない。エルンストに操られるままに動いている。
 魔術回路をフル回転。
 濁流のように、腕に魔力を流す。腕の組織が過剰な魔力に悲鳴をあげる。
 腕の筋肉が膨れ上がり、かりそめの金剛力が獣の牙を押し返す。
 右腕を頭上にかかげた。獣が腕にぶらさがる。
 左腕にも獣が食いついたままだ。
 ――かまうものか!
 食いついた獣ごと、左腕を突きあげた。
 短剣が獣の腹をえぐり、内臓をぶちまける。
 右腕が軽くなった。中身の無い獣の死体を食いつかせたまま、黒鍵を振るう。

「――くたばれ!!」

 左腕の獣を両断。



 体に食いついている死体を引き剥がし、ようやく全身が自由になった。解析魔術を走らせて、全身をチェックする。
 腕はまだ使える。足は……走るのは無理だろう。
 充分だ。
 立っていられるなら、文句はない。
 はあ、はあと荒い息がする。獣のそれではない。自分の呼吸音だ。流れる血と傷口が、急速に体力を奪っている。魔力も、いつまで持つか……。
 不意にその場にそぐわない音がした。拍手だ。
 むろん、エルンストがしているのだろう。頭に血が上りそうになる。
 ふざけたヤツだ。
「いやいや。頑張りますねえ。予想以上ですよ」
「こんな、ところで、死んでたまる、か」
 荒い息を繰り返しながら、返事をする。喋っている間は、エルンストの獣は襲ってこない。なるべく時間を稼いで、呼吸を整えないと。
「頑張ったところで無駄ですけどね。私のしもべはまだまだいますよ。それに引き換え、貴方は既に傷だらけです。こんな場所では助けも入らないでしょう。
 もう少し、絶望した顔になってもいいと思いますよ?」
 ふざけるな。
 助けがこない? それが、どうした。
 生きている限り、あがきつづけてやる!



                ◇  ◇  ◇



 もたれかかった木に、俺のシャツが張りついた。
 シャツはすでに真っ赤に染まっている。ズボンも似たようなものだ。
 致命傷こそ避けているが、首から下に無事な箇所はない。
 痛みで呼吸がままならない。
 ずるり、と何かが滑る音がする。
 何のことはない、俺の背中が木をこすった音だ。足から力が抜けて、地面に尻もちをついてしまった。
 立ち上がろうにも、手に力が入らない。足ががくがくと震えて、止まらない。
 何度も何度もかまれた足首は、肉が裂けてズタズタになっている。これまで立っていられたのが不思議なくらいだ。すだれのように垂れた皮と肉の隙間から、何か白いものがのぞいている。
 ここまで来て、剣を落としていないのは奇跡だ。いや、違う。指がガチガチに硬直して、剣が手から離れないだけか。
 ぼんやりと周りを見回す。血と臓物にまみれた獣の死体が、十体以上転がっている。鼻は麻痺しているが、この辺り一帯はすごい臭いがしているだろう。
「……驚きました。ここまで粘るとは」
 どこからか、また声がする。俺に返事をする余裕はない。
 喉からは、かすれたような呼吸音しか出てこない。
「まったく。呆れたものです。さっさと楽になってしまえばいいものを。あきらめが悪いのは、エミヤの伝統ですか?」
 エミヤの伝統……?
 ああ、親父のことを知っているのか。家であった時は『うわさでしか知らない』と言っていたが、嘘だったんだな。
 相手の言いたいことが伝わるのに、時間がかかる。
 視界が、明るくなったり、暗くなったりする。まるで、切れかけの蛍光灯。
 もうすぐ意識を失うんだな、他人事のようにそう思う。
「思えば、クダラナイ男でした。この世界から争いをなくすことが願いだなどと、子供のようなことを言っていた」
 なにを言っているんだ、コイツは? 親父の話ならもっと聞いてみたいが、耳鳴りがしてよく聞こえない。
「理想? ふん。そう言えば聞こえはいいが、しょせんタダの妄想です。現実になるわけがない」
 ……うるさい。
 俺や切嗣の理想が、妄想だと? そんなことはわかっている。わざわざ言われるまでもない。
 人間にできることなんて、たかが知れている。すべてを救うなんて無理だ。そんなこと、本当はわかっている。
 耳鳴りがひどくなる。殴られたみたいに、頭がガンガンする。
「そんな妄想を求めて戦うなど、愚かとしか言いようがない」
 エルンストのいらいらした声がする。
 だが、俺の方がもっといらいらする。
 理想を求めることが愚かだと? それも、身に染みて知っている。誰かの手伝いをして、得たものはなかった。返ってくるのは上っ面だけの感謝の言葉。
 何も変わらない。誰も救われてない。ただ、俺が利用される時間が増えるだけ。それでもかまわない、そう思ってやってきた。
 それなのに、こいつの言葉は何故かカンにさわる。
「そんな愚かな妄想を持つ、薄汚い暗殺者ごときを拾ってやったのに! あの男はアインツベルンの恩を忘れて、裏切ったのです! ええ、実に腹立たしい!」
「……黙れ」
 エルンストは、カラスのようにわめいている。
 切嗣が暗殺者だったことなんて、もうとっくに知っている。いまさら、繰り返される必要はない。
 人を殺せば、それは紛れもない悪。罪を背負って、心が重くなる。理想を語れなくなる。切嗣自身がそう言った。
 それでも不愉快だ。今すぐコイツの口を止めたい。
「野良犬は野良犬らしく、道具としてしつけるべきだった! ああ、そうです。一族に迎えようなどと考えたのが間違っていたのです! 妄想を口にする愚かな道具には、それにふさわしい処遇があった! クダラナイ妄想など取り上げて、われわれに忠実な道具にしたて上げるべきでした!」
「黙れっ!!」
 道具だと!? 切嗣が!? ふざけるな――!!
 地面に膝をついて、体を起こす。
 剣を地面に突き刺して、崩れ落ちそうになる体を支える。
 『正義の味方』。それが妄想であることも、愚かであることも、やがて道を誤ってしまうことも、みんな知っている。理想には決してたどり着けないことぐらい、わかっている。
 それでも……切嗣の理想を、美しいと感じたんだ。
 それが、空っぽになった俺の心を支えてきた。
 焼け野原で俺を抱き上げた切嗣のように笑えたら、それはどんなに幸せだろうと思った。
 自分も誰かを救って、そんな風に笑いたいと、切嗣に憧れた。
 救えなかった人たちの代わりに、誰かを救うのだと、切嗣の背中を追った。
 他人を利用することしか頭にない人間が。
 理想を追う尊さを全く理解していない人間が。
 理想を追い続けることの困難さも知らない人間が。
 切嗣を――
「――馬鹿にするなっ!!」
 ぎりぎりと歯を鳴らす。
 コイツは……許さない!

 眼の奥で火花が飛び散った。
 体の中から、鉄を打って、剣を作る音がする。
 ああ。そうか。自然と理解できる。納得した。
 遠坂は俺の魔術を、剣を作る工場のようだと言った。
 魔術だけではない。俺の体が剣を作っている。この身それ自体が、剣製に特化した存在なのだ。

 ――だから、この体は剣で出来ている

 心臓の送り出す血は溶けた鉄。怒りに膨れ上がる心は炎。
 この足も、この腕も、全身が剣で出来ている。
 剣なら、大地に深く突き刺せば倒れない。
 風に吹かれても、雨に打たれても、決して自分からは倒れない。
 赤いさびとなって、大地に崩れ落ちるまで、ずっと立ち続けられる。
 噛み裂かれた足で立ち上がった。
 足はもう震えない。当然だ。
 この足は、大地に突き立つ鋼の剣。

「ふん? なんですか、その反抗的な眼は? ああ、まったくエミヤという連中はとことん手に負えませんね。あの狂犬のかわりに、罰を与えてやっているというのに。
 やはり、しつけなど生ぬるい。さっさと死になさい!」
 指が鳴った。
 茂みが揺れて、獣が現れる。
 数は、九匹。これですべてなのだろう。
 獣は牙をむき出して、だらだらとよだれをたらす。やっと殺せる、赤い瞳がそう語っている。殺戮本能だけは残っているのか。
 怒りに任せて立ち上がったものの、体力は残り少ない。
 剣は振るえて、あと数回といったところだろう。
 それでも、あきらめない。
 こいつらを――倒す! エルンストに思い知らせる!
 獣たちは俺の正面に回る。姿をじっくり見せつけて、俺を怯えさせようとするエルンストの意向だろう。
 自然と足が下がる。怯えからではない。隙を無くすためだ。背中が木にぶつかった。下がるのはここまでだ。
 瞬間、一つの思い付きが脳裏にひらめく。この位置関係なら?
 ……無理か。それを実行すれば、隙が生まれる。相手の注意がそれないとダメだ。
「食い殺せ!」
 エルンストの怒声がする。獣たちの筋肉がたわむ。いっせいに飛びかかってくるつもりだろう。
 それにあわせて、カウンターの一撃を叩き込もうとして――

 ――世界が、暗くなった。
 空気を震わせて、何かがうなるような音が、あたり一面に響き渡る。
 獣も、俺も、驚いて動きが止まる。
 うなる音は空中からする。
 上を見る。日の光をさえぎるように、黒い雲が浮いていた。
 よく見れば、雲ではない。途方もない数の虫の塊。うなる音は、こいつらの羽音。無数の羽音が重なり合って、すさまじい音量になっているのだ。
 蜂の群れ。恐らくはミツバチ。
 しかも――少なく見積もっても数百匹。
「なっ―!?」
 エルンストが狼狽と驚愕の混じった声をあげた。これは、アイツの仕業じゃないということか?
 蜂の雲が、四方に弾けた。
 思わず身を硬くする。これだけの数に刺されて、無事ですむとは思えない。
「ぎゃああああ!?」
 悲鳴を上げたのは、エルンストだった。周囲から、ガサガサと茂みを割って走る音がする。エルンストが蜂に追われて、あわてて逃げているのだろう。位置をごまかす魔術を解除するのも忘れているらしい。
 獣たちも、苦しげに身をよじっている。眼を、舌を、全身を刺されている。
 ミツバチの針は、何度も刺せるようにはできていない。これがミツバチなら、彼らの攻撃はすぐに終わるだろう。
 蜂は一匹も俺に襲いかかってこない。理由はどうでもいい。これは紛れもない好機。
 獣たちが混乱している間に、勝負を決める。いちかばちか。コレに賭ける!
 短剣を捨てて、両手で黒鍵を握った。
 魔術回路を音速で展開。全身に魔力を送り込む。過負荷に耐えかねて、傷口から血が吹き出る。
 流血など気にするな。必要なのは瞬間的な超人芸。
 背後の木に斬りつける。幹の太さは俺の胴体ほどある。
 反動で、腕の骨が逝ってしまいそうな手ごたえ。
 「お――おおおぉっ!!」
 渾身の力で振りぬく。
 勢いを止められず、横に倒れた。
 上半身を起こす。祈るように、木の幹を見る。
 ――駄目か!?
 秒にも満たない沈黙の後、幹を一周する切り口が現れた。
 メキメキと頭上の枝をなぎ払いながら、木は正面へ倒れていく。
 獣たちが頭上を仰ぐ。遅い。
 地響と共に、埃が舞い上がった。
 衝撃が過ぎ去った後には、木の下敷となった数匹の獣。
 逃れたのは……五匹。
 膝立ちになり、黒鍵を投げつける。
 黒鍵が一匹の獣を貫いた。
 まず、ひとつ!
 短剣を拾い、投げつける。
 ふたつ!
 攻撃を受けて、こちらが危険だと認識したか。獣たちは、憎悪にまみれた眼を俺に向けてくる。エルンストの制御が無くなったらしい。自分の意思を取り戻している。
 蜂たちは、死に瀕している。俺を助けるものは無い。
 上等だ。
 ここからは、お互いの生き残りを賭けた生存競争!
 ポケットから、残りの黒鍵をすべて取り出す。
 セット
「告げる――――!」



 ……体が、動かない。
 ここは人の来ない森の奥だ。誰かの助けも期待できない。せっかく敵を倒したのに、自分の命が助からなくては意味がない。
 血を止めよう、そう思っても、指一本動かせない。
 意識が朦朧とする。
 眠ってしまいそうになる。眠れば二度と起きられなくなるだろう。
 視界が暗くなる。
 これ以上は持たないな、そう思う。
 帰るのは……無理か。

 ――大丈夫です

 声が聞こえた気がした。人の気配はない。幻聴まで聞こえるようになったらしい。
 チクリ、と腕に小さな痛みが走った。何かと思って目をやると、羽音を立てて、数匹の蜂が飛び立つところだった。
(――いまさら、蜂に刺されるとは)
 苦笑したくなるが、顔の筋肉が動かない。
 気のせいか、痛みが遠ざかって、体が楽になった気がする。
 痛みも、感じなくなったのだろうか。いよいよ、ダメなのかもしれない。

 ――大丈夫。魔術薬を打ちました。それにもうすぐ、姉さんが来てくれます

 魔術薬? もしかして、さっきの蜂の針のことか?
 それに、姉さんって誰のことだ?
 ああ、それ以前に、これは誰の声だっけ?
 どことなく遠坂に似ている気がするけど、別人だよ……な。
 泥沼に引きずり込まれるように、急速に意識が沈んでいく。

 ――だから、安心して休んでください

 ごめん……。君を知っている……はず、なんだけど……名前が……。
 唇はかすかにしか動かない。声がでない。
 嬉しいような、悲しいような気配がする。何故かすまないと思う。
 そこで、限界。まぶたが閉じて――



                ◇  ◇  ◇



 川の中から水音を立てて、エルンストは立ち上がった。白いスーツはずぶ濡れになっている。
 誰か判らなくなる程、顔が腫れ上がっている。蜂に刺された跡だ。
「おのれ……おのれ……皆殺しにしてくれる……」
 エルンストの口から、ひっきりなしに呪詛の言葉が漏れる。
 川から上がることも忘れ、呪いの言葉を吐くエルンストに、冷徹な声がかけられた。
「皆殺しとは、穏やかではないな」
 エルンストは、ぎょっとして正面を見る。
 いつの間にか、河原には神父服を着た長身の男が立っていた。
「言峰……!」
「それで首尾はどうだったのかね?」
 憎悪に満ちた視線を、言峰綺礼は受け流した。
 結果など聞くまでもない。エルンストのこの姿を見れば想像がつくはずだ。それをあえて尋ねるのが、言峰綺礼という男である。
「どうだったかだと!? ふざけるな! エミヤシロウの周りにいる使い魔は任せろなどと言っておいて! なんですか、あの蜂どもは!?」
「少なくとも、衛宮の周りにはいなかったな。蜂に後をつけられていたのは、君の方ではないかね? 自分の失点を私のせいにされても困る」
「くそっ! やはりマキリか!」
「正直、あの妖怪がこの件に介入してくるとは思えないのだが」
「では、他の何だと言うのです!」
「わからんな。計算外の要素があったようだ。
 ……そうそう、計算外といえば、衛宮士郎を殺そうとしたのは頂けない。そちらできっかけさえ作ってもらえば、後は私があの二人を対立させてみせると言ったはずだが?」
 言峰の追求に、エルンストは渋い顔をする。

 確かに衛宮士郎を殺そうとしたのは、協定違反だった。言峰からエルンストに持ちかけられた取引は、鞘を捜すことに協力する代わりに、衛宮士郎をアインツベルンに勧誘すること。
 その後は、言峰があの手この手で、衛宮士郎と遠坂凛を対立させるはずだった。陰謀があったことを証明することはできても、無かったことを証明するのは誰にもできない。
 裏の世界を渡り、詐術と裏切りに手馴れた代行者の言峰にとって、それは容易いことだ。長期的に見れば、アインツベルンにとってもそれが得だということはわかる。
 だが、エルンストは個人的な手柄が欲しかった。アインツベルンは閉鎖的な一族だ。渉外役のエルンストの地位は、その役割の重要性にも関わらず不当に低い。
 エルンストは、この降ってわいたチャンスを逃したくなかった。鞘を回収し、衛宮士郎を殺す。それが自分にとってベストだという計算が働いた。
「ふん。もうそんなことはどうでもいいです。エミヤシロウは聖杯を壊そうとしている。これは絶対に見過ごせません。腰の重いお館様も、これを聞けば考えを改めるでしょう。
 ――城から戦闘型ホムンクルスを連れて来て、エミヤもトオサカも、そしてマキリも皆殺しにしてやります」
 腹立たしげに水を蹴りながら、エルンストは川から上がる。
 もう言峰に用は無い。上から命じられたのは、衛宮と遠坂が組んだという噂が事実かどうか調査すること。それはもう済んだ。
 あとは冬の城に連絡すればことは済む。衛宮と遠坂を組ませたまま放置するのは、危険であると上に知らしめるだけでいい。修行中の魔術師など、アインツベルンの戦闘型ホムンクルスの前では、ひとたまりもない。
「――それは困るな。あの二人には、もっとあがいてもらわなければ、面白くない」
 ――何を、と言いかけて、声がでないことにエルンストは気がついた。
 言峰を振り返ろうとして、視界が傾く。視界の傾きは止まらない。
(――何故、天と地が逆さまになるのです?)
 それがエルンストの最後の思考だった。

 エルンストの首は、不思議そうな顔をしたまま地面に落ちた。
 首をなくした胴体は、血を噴きながら川の中に倒れこむ。
 言峰の手には、いつの間にか、血の滴る黒鍵が握られていた。
 死体には目もくれず、言峰は森の奥を見据える。
「衛宮士郎は聖杯を求めないか……。そうなると、二人を争わせるのは難しくなってくるな」
 言峰は忌々しげに目を閉じる。
 しばらく熟考した後、薄い笑みを浮かべた。
「……まあ、良かろう。お前たちが聖杯にふさわしくないのであれば、私がアレを使うだけのこと。そのために必要な戦力を得るアテもある」
 衛宮士郎と遠坂凛が組み、英霊を二体行使するならば、こちらも二体の英霊を持てばいい。そのために必要な手段も、魔力の調達も問題ない。
 聖杯戦争に参加するだけの力量があり、騙まし討ちできそうな魔術師ならば、心当たりがある。
 地下室の子供たちも、使い捨てるつもりで搾り取れば、充分な魔力を得られるだろう。
「衛宮。凛。きたる日には、私の娯楽に付き合ってもらうぞ」
 魔術で死体を始末し、言峰は森から立ち去って行った。



                ◇  ◇  ◇



            《魔力による身体能力の向上》
原作では、士郎が魔力で視力を水増ししたり、イリヤの城から飛び降りる際に足を強くしています。強化の魔術との違いは、持続時間や向上する能力の差でしょうか。とりあえず原作設定の流用だから、その辺は適当。
現段階で士郎がまっとうな身体強化の魔術を使えないのは、このSSの設定上の都合からくるマイナス面です。
『普通の魔術は全体から行使する』と『士郎の魔術は細部から作用する』のアレ。体に強化をかけようとして、身体組織を破砕する可能性があるので、現段階では凛から使用を禁止されていることにしています。


          《誰かさんはどの程度魔術を使えるか?》
原作の中で凛から魔術の腕前を駄目出しされている誰かさん。自分でも魔術は一つしか使えないと言っていました。
でも、士郎の腕が吹っ飛ぶシーンを、ライダーの視覚を借りて見ているし、影の巨人は使い魔の一種。使い魔関連の魔術は、それなりに使えるだろうと判断して書いています。
え、念話? ……演出です。