●幕間・追憶――side 凛
「そういえば、そのツボは大事なものなのか?」
ガラスの修復を練習する手を止めて、士郎が変なことを聞いてきた。
わたしはツボをみがく手を止めて、逆に聞き返す。
「なんで、そう思うの?」
「いや、壊れても捨ててないってことは、それだけ大事なものだったのかと思って」
「壊れたツボに価値なんてないわよ。これは……」
ああ、そうか。このツボはあの時の――。
◇ ◇ ◇
その日、自室で魔術書を読んでいたわたしの耳に、何か気になる声が聞こえた。
耳をすませてみる。
どうやら妹が泣いているらしい。
部屋を出て、屋敷の中をうろつく。
妹が泣いている声は、屋敷の奥の方からする。
お父さまの書斎だ。
書斎へ行き、ドアを開ける。
書斎の中。赤い上着と白いスカートを身につけた妹が、床にぺたんと座り込んでいた。
わたしと同じ黒髪。頭の両脇からは、髪留めでようやくまとめた髪の毛が、申し訳程度にちょこんと突き出している。わたしのツインテールを真似ようとしているらしいが、髪の毛が短すぎるのだ。
扉に背を向けて泣いているため、妹はわたしに気がついていない。
「どうしたのよ?」
わたしが声をかけて、ようやく妹はこちらに気がついた。
顔だけ振り向いて、涙で濡れた青い瞳をわたしに向けてくる。
「ぐす……ひっく……お父さまの……ツボを……」
妹はしゃくりあげながら言葉に詰まっている。泣き止むのを待っていると、時間がかかりそうなので正面へ回り込むことにした。
妹は白いスカートの上に、二つに割れたツボを抱え込んでいた。見事なまでに真っ二つだ。
「あちゃあ。これ、お父さまのお気に入りよね」
ついでにいうと、値段もかなりのものだったはずだ。
妹は悲しげにツボを見下ろし、頭を動かしてコクンと頷いた。
普段はくるくると動く瞳が、今は暗く沈んで涙を浮かべている。
わたしを見かけると嬉しそうに笑みを浮かべる唇も、今は悲しげに閉じられたままだ。
妹には、泣き止んで笑って欲しい。
「ひっく……お父さま、怒る?」
「そりゃあ、ね」
片側の髪をかきあげながら、反射的に聞かれたことに返事をする。
妹の目から透明な涙が、どんどん零れ落ちる。
しまった。
今の返事は、さすがにそっけなさすぎた。
とりあえず、ハンカチを取り出して妹の涙を拭う。
妹はわたしが涙を拭う間、じっとしていた。
ハンカチをしまい、妹の顔を見つめる。ようやく泣き止んだようだ。
しかし、彼女は何故ここにいるのだろう?
妹は、お父さまの書斎へ入ることは禁じられているはずだ。
なるべく声が優しくなるように意識しながら、問いかける。
「そういえば。なんで、お父さまの書斎にいるの?」
「お姉ちゃんみたいに……」
妹はそこまで言って黙り込んでしまった。
小さな肩を力なく落とし、うつむいて割れたツボを見つめる。
「わたしみたいに、どうしたの?」
「……魔術を使えたら、お姉ちゃん達と一緒にいられるかと思って。ここなら、何かいいものが見つかるかと思って。それでさがしているうちに……」
なるほど。そういうことか。
魔術の修練をするのは、わたしとお父さまの二人だけだ。
その間、妹は部屋で一人きり。さびしくないわけがない。
妹は魔術師になる教育を受けていない。だが、同じ家に暮らしている以上、魔術のことを隠しきれるものでもない。
自分が魔術を使えるようになれば、三人一緒に魔術の勉強ができるかもしれない。
妹はそう思ったんだろう。
妹の前に座り、小さな頭を両手で抱える。じわりと胸元に染みてくる妹の体温があたたかい。
「ごめんね。一人にして」
しばらくそのまま妹の頭をなでる。
やわらかい髪の手触りが心地いい。
そうしているうちに、妹も落ち着いたらしい。
気がつくと、妹の手はこっそり伸びて、わたしの髪留めのリボンを狙っていた。
わたしに気がつかれないように、そうっとリボンを外そうとしている。
妹はわたしの長い髪と、髪留めのリボンがうらやましくて仕方がないらしい。
わたしの髪留めに手を伸ばすのは、もはや妹の悪癖と言っていい。
それだけではなく、隙あらばわたしの髪留めを、自分が身に着けようとする。
「こら。これはダメだって、言ったでしょう。アンタはそのプラスチック製の髪留めで我慢してなさい」
「お姉ちゃん、ケチー」
いうに事欠いて、ケチとはなにか。ケチとは!
女の魔術師にとって、髪と髪留めは最後の切り札なのに!
「そういうことをいうのは、この口か? この口かー?」
「おねえひゃん、いらひ。いらいー」
妹のほっぺたを両手で掴んで、むにむにとひっぱる。
たっぷりと柔らかいほっぺたの感触を楽しんでから、解放してあげた。
「どめすてき・ばいおれたす、はんたい……」
「ドメスティック・バイオレンスのこと? アンタ、それ意味わかってる? どこで憶えて来るんだか」
妹は頬を両手でさすりながら、口を尖らせて文句を言っている。
とりあえず、機嫌は直ったようだ。後は――。
「このツボをどうするか、よね」
「どうしよう……」
「ああ、もう泣かないの。お姉ちゃんにまかせなさい!」
◇ ◇ ◇
……しまった。
ツボが割れてから、かなりの時間が経過していた。
正直、わたしの腕では修復魔術が成功するかどうか、微妙なライン。
それでも強引に修復魔術を使った結果、思いっきり失敗してしまった。
ツボにはわたしの魔力が、これでもかというほど浸透している。
これではお父さまでも、修復は無理だろう。
「お姉ちゃん……」
妹が、また泣きそうになっている。
禁止された書斎への立ち入り。
真っ二つになったお気に入りのツボ。
妹の前での魔術行使。
いくら物静かなお父さまでも、これは激怒してもおかしくない。
だが、こうなれば、しかたがない。
ツボに関して誤魔化すのは、あきらめよう。
「貴方は部屋に戻りなさい。ツボのことは気にしなくていいから」
ツボを抱えて立ち上がる。
この時間なら、お父さまは庭の手入れをしているはずだ。
書斎から出て、玄関へ向かう。
「え? お姉ちゃん。どうするの?」
「いいから。部屋に戻りなさい」
ついて来ようとする妹を制止し、庭へ出てお父さまを捜す。
お父さまは裏庭で、芝生の手入れをしていた。
「お父さま」
「なんだ? 凛」
お父さまが振り返る。背が高くて、彫りの深い顔立ち。
この人はいつも仏頂面で、冗談の一つも口にしない。
でも、この人は不器用なりに、私と妹を気にかけてくれている。
「申し訳ありません。お父さまの大事なツボを壊してしまいました」
抱えたツボを、お父さまからよく見えるように差し出す。
それを見ても、あの人は騒ぐでもなく、静かに問い返してきた。
「ふむ。修復魔術は使わなかったのか?」
「しばらく壊したことに気がつきませんでした。こっそり直そうと思ったのですが、未熟ゆえ失敗してしまいました」
叱責を覚悟して目を閉じる。
しばらく待ったが、何も反応がない。
不審に思って目を開けると、お父さまはわたしの後ろの方を眺めていた。
まさか、と思って振り返る。
あわてて、物陰に隠れる小柄な人影。
あの子……部屋にいなさいって言ったのに。
「凛」
「は、はいっ」
後ろに気を取られていたわたしに、お父さまの声がかかる。
あわてて前を向くと、「さて、どうしたものか」と言いたげにアゴをなでる姿が見えた。
お父さまに真相を問い詰められるか?
冷や汗がわたしの背中を伝う。
「凛。魔術師であるならば、自分の限界を把握しろ。おのれの限界を超える魔術は、自分自身を破滅させる。そのツボは、この失敗の教訓として工房に置いておけ」
お父さまの口から出たのは、いつもの魔術指導の言葉のみ。
物陰で見ていた妹に気がついても、何も言わない。
何かに気がついているのか、いないのか。その表情からは読み取れない。
ツボを壊した理由も、修復に失敗した理由も、妹が物陰から見ていた理由も。
何一つ、問い詰めて来ること無く、「下がりなさい」とわたしに手で合図する。
そして、お父さまはわたしに背を向けて、庭の手入れに戻った。
わたしもその広い背中に無言で一礼し、屋敷へ戻る。
「お、お姉ちゃん。ど、どうだった?」
玄関をくぐると、恐る恐るといった感じで妹が尋ねてきた。
あわてて戻ったのだろう、微妙に息が乱れている。
「あんたはー! こっそり見てたわね! 部屋に戻ってなさいって、言ったでしょう!」
ツボを床に置き、妹の左右のこめかみに、それぞれこぶしをあてる。
そのまま、こぶしをぐりぐり回して、妹のこめかみにねじ込んだ。
「お姉ちゃん、いたい。いたいってばー!」
「人がせっかく庇ってやったのに! アンタがお父さまに見つかったら、意味ないでしょうがー! 反省しなさいっ!」
「ごめんなさい! ごめんなさーい!」
「よろしい」
うめぼしの刑から解放すると、妹はこめかみを押さえて、床にへたり込んだ。
「うー」と唸りながら、下から恨めしげにこちらを見つめてくる。
それを無視して、ツボを抱えながら声をかけた。
「夕食までちょっと時間があるし。一緒に遊ぼうか」
言ってから、ちょっと照れくさくなって横を向く。
ちらりと横目で妹の顔を盗み見た。
妹は目を大きく開いて、数度まばたきをしている。
妹にとって、わたしの言葉はかなり予想外だったらしい。
きょとんとしていたのも、つかの間のこと。
雲に隠れていたお日さまが出てくるように、じわじわと晴れ晴れとした顔に変わる。
「うん! えへへー。お姉ちゃんが遊んでくれるのって、久しぶり」
そんなに久しぶりだったかなと思いつつ、妹の手を取って――。
◇ ◇ ◇
「――遠坂? おーい。遠坂」
気がつくと、士郎がわたしの目の前で、手をパタパタと振っていた。
「なによ?」
「いや……。話している途中でボーっとして黙り込むし。どうしたのかと思って」
「ちょっと昔を思い出していたのよ……。少しはデリカシーを身につけなさい」
「なんでさ?」
いまさら戻らないものを、懐かしんでもしかたがない。
しかたがないが、たまにはそういう心の贅肉に魅せられることもある。
そういう時に、無遠慮な振る舞いをするのはどうかと思う。
「士郎には、まだまだ矯正が必要ね」
「矯正って……」
とりあえず、この不快感をなだめるために、今日の昼食は豪勢なものを要求するとしよう。「後で新都へ行きましょう」と士郎に声をかけて、わたしはツボを持って父の書斎へ向かった。
これは、あそこに戻すべきだろう。
今はここにいない、あの二人のために。
◇ ◇ ◇