日本チェコ協会/日本スロバキア協会

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「チェコ・スロバキアを知ろう会」2013年

第1回 吉川潔氏「アトリエ・パネンカ」見学会  
    5月11日(土) 国立市

 同日午後2時JR国立駅に吉川氏のお出迎えを受け、市内を散歩する形で通り抜け、メルヒェンの森に分け入るような通路からアトリエに案内していただきました。内装・外装とも手作りのアトリエの中には、氏制作による妖精たちの人形や各種の資料が展示され、興味深いものでした。その場でギャラリートークがあり、人形制作の材料や方法、人形劇、特にチェコにおけるその歴史と意味、氏のチェコ留学中の思い出が語られ、氏制作のDVD鑑賞などもあり、大いに参考になりました。 いろいろと話がはずみ、最後にはご夫妻の手料理とビールのおもてなしを受けて、ご厚意に感謝しながらお別れしました。当日は残念にも雨で、参加を断念した方もあり、見学者は3人でしたが、十二分に意義のある行事だったと思います。会員の皆さんも機会をみてお訪ねになるよう、お奨めしたいものです。
 (飯島 記)
  アトリエ・パネンカ http://kiyoshi.sakura.ne.jp/panenka/index.html


第2回 山崎博康氏講演会「『和解』と『共存』の模索―チェコとスロバキアの対外関係に思うこと」      5月25日 早稲田奉仕園
講演要旨:
 早稲田奉仕園を会場に『「和解」と「共存」の模索―チェコとスロバキアの対外関係に思うこと』と題して話しました。会場には18名のご参加をいただきましたが、後半は舌足らずに終わってしまったことをお詫びします。当日の話に若干補足した概要をここに載せ、報告とさせていただきます。
 ことし1月、初の直接選挙制で行われたチェコ大統領選で、「ズデーテン・ドイツ人追放問題」が争点化しました。戦後300万人ともいわれるドイツ人がチェコ北部ズデーテン地方から追われた問題がいまなお「過去の亡霊」として疼いていることを如実に示したわけです。これが今回のテーマにした理由です。2月にはネチャス首相(当時、6月政界スキャンダルで辞任)がドイツ南部ミュンヘンを訪れ、バイエルン州議会で演説。この問題を真正面から取り上げ、謝罪の言葉を述べました。年内にはゼマン新大統領のドイツ訪問が予定されています。引き続き注目していきたいと思っています。
 チェコ当局は追放措置そのものを見直し対象にしているわけではありません。連合国の同意を得たもので、没収財産の返還など「原状回復」は認めない姿勢で一貫しています。ただ、追放のやり方に問題を残したという意識があるようです。大統領選に立候補したシュワルツェンベルク外相は、今日の法規範に照らせば人道上問題があったとの認識を示しました。そうした発言をあえてしたのは、欧州連合(EU)の一員として、あくまで「欧州」の価値観に忠実でありたいという姿勢を強調したかったためだと思われます。現在の時点で見れば、「民族浄化」と同じカテゴリーになりかねないからです。
 外相発言は対抗陣営から「裏切り者」という非難を浴び、これが決選投票での勝敗を分けたといわれます。追放の正当性を語るゼマン大統領は、ナチス侵攻を招きチェコスロバキア解体をもたらしたドイツ人は本来なら国家反逆罪で死罪に値するとした上で、追放はむしろ穏便な措置だったと、別の観点から人道的措置を力説する立場です。この点で、対照的なのはネチャス首相の発言でした。ドイツ人全体をナチス加担と断罪したのは「集団的に罪をなすり付けた」ものであったと遺憾の意を表明、歴史解釈をめぐる共同作業などを呼び掛け、共存に向けた未来志向を説いたからです。
 遺憾表明のくだりは、1997年の両国による「和解宣言」の一節を引用したもので、決して初めて打ち出した
公式見解ではありません。しかし、ミュンヘンに拠点を置く引き揚げ者団体は議場で触れた意味を高く評価し、バイエルン州議会議長も「歴史的瞬間」と意義をたたえました。ここからうかがえるのは、繰り返し和解の姿勢を訴える地道な努力が双方を歴史認識の共有に近づけ、共存を確かなものとしていく方策ではないかということです。もちろん、その出発点としてドイツ側が戦争責任、加害責任を明確に認め、和解外交を積み重ねていることがあります。これがEUに安全保障の命運をかけるチェコ側からの和解姿勢をも促し、新段階の善隣外交に発展していく構図に見えます。東アジアの歴史環境を見るにつけ、学ぶべき点が多々あるように感じられます。
 ズデーテン問題はスロバキアの対ハンガリー関係にも影を落としています。追放対象にハンガリー人も含まれていたためで、いまなおハンガリー側はスロバキアに謝罪を求め、ぎくしゃくした両国国関係の一因となっています。しかし、第2次世界大戦の前年にハンガリーがスロバキアに大幅な領土割譲を強いた経緯もあります。この点を含めた歴史和解の努力が必要とスロバキア側は考えているようです。いまのハンガリー指導者は強権支配体制を築きEUの問題児となっているオルバン首相です。振り返って見れば、彼はEU加盟を共通目標とした中欧4カ国協力圏(発足時は3カ国、チェコスロバキア分離後は4カ国。通称ビシェグラード4=V4)の結束を乱した張本人でもあります。チェコとスロバキアのEU加盟に当たって、その前提条件として、ズデーテン地方からの追放を定めたベネシュ大統領令の撤廃を要求したのです。和解の成否は、大マジャール主義を標傍するオルバン政権が大衆迎合の民族主義路線を改め、どこまで現実感覚を取り戻せるかに大きくかかっているように思われます。

第3回 飯島周日本チェコ協会会長講演会「作家ヴァーツラフ・ハヴェルの初期の作品について」
    6月22日  早稲田奉仕園 

第4回 長與進早稲田大学教授 講演と墓参「チェコスロバキア軍団と日本」  
    7月20日  カトリック府中墓地・納骨堂

 数年前、シュトス大使が日本に着任された頃、日本のビジネスについて話を聴かせてほしいと云うことで大使館にお伺いしたことがあります。その時大使室に建国の父としてシュチェファーニクの写真が飾られてあったのが印象的で、それ以来スロバキア オリジンでフランス国籍を有する彼に大きな興味を抱くようになりました。  
 「チェコ‐スロバキアを知ろう会」も今回の長與先生の講義で3回目になりました。私はあまり細部にこだわらずに講義の核心、アウトラインを理解し、その中で特に印象に残った部分を自分なりに掘り下げてみるようにしています。    
 シュチェファーニクがフランスの将軍およびチェコスロバキア国民会議のメンバーとして来日し、大正天皇に謁見したと云うのは驚きでした。来日目的は日本のシベリア出兵を督促するとのことでしたので、早速大学受験時熟読した「日本史」(井上光貞・学生社)の頁を開いたら次のような文章がありました。
  「・・・・日本はチェコスロバキア兵を救出すると云う名目で73000人もの大兵をおくり、アメリカ撤退後も長く占領を続け・・・」
 これからみると当時の日本にとっては彼の督促はその時の国策にかなうもので、天皇の謁見も納得がいくような気がしました。先生のお話として、第一次大戦は日本の近代史の中で欧米に比較してあまり大きく扱われていないとのことでした。 日本社会に及ぼす影響が比較的致命的でなかったことによるのでしょうか。  
 本当は、第一次大戦のオリジンとその戦後処理(ナショナリズム 民族自決、Nation Stateの誕生)を理解することは現在の日本の状況を考えるうえで十分参考になると思いますが。
 第一次大戦を契機にチェコスロバキアとして独立した国が第二次大戦の悲惨な経過を経て、戦後再度統一されたチェコスロバキアとしてスタートしたにも関わらず、共産主義政権の崩壊を機に2つに分かれた現象をナショナリズムと国民性の違いで説明できるのでしょうか。先生のお話で「シュチェファーニクの死は事故死だ」と現在のスロバキアでいうのにはよほどの勇気がいると云う背景に興味を持ちました。チェコとスロバキアのナショナリズムを国家の成立のプロセスと関連づけてお話を聴く機会があれば幸いです。  
 今回の講義のメインテーマである4人の兵士の日本における墓地の由来を勉強することによってその背景に ある様々な社会の出来事を知ることが出来て良かったと思います。どうもありがとうございました。
  (武居 記)

第5回 石川達夫専修大学教授講演会 プラハのバロックー受難と復活のドラマ
    9月14日 早稲田奉仕園

 チェコ語を習い始めた時からずっと今まで、何かあるとすぐに開くのが 大学書林「チェコ語初級」である。中身がぎっしり、練習問題もたっぷりで、値段は少々高めだが、何年も楽しめ、相当役立っている。 著者の石川先生は私にとって、文法の神様の如き存在。
 今回、その先生が、講演されるというので大変楽しみにしていた。  
 テーマは文法ではなく、美術「チェコのバロック」。お話はビーラー・ホラの戦いの後から始まった。  
 ビーラー・ホラの戦いで、200年続いたチェコのプロテスタントは敗北、衰退、カトリックによるバロックの時代となった。ローマカトリックは 人心を掴むために(もともと偶像崇拝は禁じていたのに)やたらドラマチックな彫像を沢山つくった。ということで、それらの彫刻や彫像のスライドを沢山見ながら、時代背景や特徴についてのお話を伺った。以前私がチェコに行った際、プラハやトロヤ城で写真を撮った沢山のユニークな彫像類は、バロックのものだったんだと、恥ずかしながら、この時初めて知った次第である。  
 分かりやすく楽しい講演は、あっと言う間に終わってしまった。最後の方は、まだま だ映像もお話もご準備いただいていたようなのに、時間がなく、残念であった。チェコのバロック芸術の彫刻家の多くは、外国人か外国出身、またはその子どもである と石川先生はおっしゃっていたように思うが、この辺りのことをもっとお聴きしたかった…。  
 この後ほぼ全員がサイゼリアに移動、楽しい時を過ごした。ここでも、もっと先生のお話を伺いたかったが、いろいろ話をしたい人が多く、あまりお話できずに残念だった人もいたようである。  
 というわけで、ぜひ、来年、今回のお話の続き を、また チェコ語文法(特に2格7格 の用法)にまつわるお 話なども していただけら、と切に希望いたします。       
 (高橋 記)

第6回 小川里枝氏講演会 若き日のミュシャとその作品に見るミュシャ芸術の萌芽-『知られざるミュシャ』展より
    10月12日 早稲田奉仕園
講師より:
 今秋、チェコ・モラヴィア在住の医師が、3代にわたって築いたミュシャ・コレクションを紹介する「知られざるミュシャ展」が横浜で開催されます。この展覧会にカタログ翻訳者として参加させていただき、ミュシャの作品コレクターであるズデニェク・チマル(トシーマル)氏という人について知ることができました。氏は、ミュシャの主要な作品を手に入れる一方で、初期作品やいままで知られていなかった作品を積極的に手に入れ、またその作品について自ら調査・研究しており、それがチマル・コレクションの特色のひとつとなっています。
 この特色を反映させた日本での展覧会には、ミュシャの主要なグラフィック作品や油彩・素描・写真とともにミュシャがポスターで成功をおさめる以前に製作した作品も数多く出品されています。そして、この展覧会の監修者であり、ブルノのモラヴィアン・ギャラリーのキュレーターであるマルタ・シルヴェストロヴァー氏は、展覧会カタログにおいて、ミュシャをアール・ヌーヴォーの寵児としてとらえるだけではなく、スラヴ民族の歴史と運命に深い思いを抱くナショナリストであり、貧しい人に心を寄せ、平和への道を願うヒューマニストとしてとらえ、人間およびアーティストとしてのミュシャの全体像を伝える論文を執筆されました。
 そこで、ミュシャの知られざる一面を伝えたく 1.ミュシャのパリで製作された、サラ・ベルナールのポスターをはじめとするミュシャの表現の斬新さはフランスで喝采を持って受け入れられたが、そこにはミュシャのスラヴ的・チェコ的資質も反映されている。 2.挿絵本の傑作といわれる「主の祈り」は、ミュシャの後半生の製作へのターニング・ポイントとなった作品であるが、ミュシャの若き日の出会いも、その製作の意図や造形に影響を与えていると指摘されている。 という二点に的を絞り、ミュシャ自身の言葉や同時代の資料、図版を示しながら、お話いたしました。
 2012年には、プラハで《スラヴ叙事詩》が公開されはじめ、ますますミュシャ作品の全体像への関心が高まっています。ご出席いただいた方の作品鑑賞の一助となったなら幸甚です。ありがとうございました。

第7回 増田幸弘氏講演会 プラハとブラチスラヴァに暮らして
    11月9日 早稲田奉仕園

第8回 村上健太氏講演会 チェコ児童文学の歩み
    3月9日 早稲田奉仕園
レポート 佐藤雪野

 講師の村上先生の細やかでご誠実なお人柄もあって、非常に雰囲気のよい講演会でした。チェコの児童文学を時代順にわかりやすく説明していただけ、理解を深めることができました。この場を借りて、再度村上先生に感謝申し上げると同時に、ご参加になれなかった方にも、ご講演の内容を少しでもお伝えできればと存じます。最初に先生とチェコとのかかわり、現在の駐日チェコ共和国大使館でのお仕事について自己紹介がありました。その後、講演の本論で、日本におけるチェコ児童文学の紹介の説明後、「チェコ児童文学の歩み」に関して4つの時代区分に沿って解説がなされました。

<日本でのチェコ児童文学の紹介>  日本でチェコの児童文学が紹介されたのは、戦前、英文学者の中野好夫氏により、カレル・チャペックの作品(『長い長いお医者さんの話』)が英語から重訳されたことに始まります。戦後になると、直接チェコ語から日本語への翻訳が始まりますが、その第一世代に当たるのが、千野栄一氏、井出弘子氏、栗栖継氏です。日本で知られているチェコの児童文学作家としては、前述のカレル・チャペックとその兄ヨゼフの他にトゥルンカがいます。

<チェコ児童文学の第1期:第一次世界大戦まで>  さて、チェコ児童文学の第1期ですが、そもそもチェコの子供の本の始まりは、18世紀末のハプスブルク家の支配下の時代にさかのぼります。マリア=テレジアの新しい学校令により、教科書が必要になり、子供のための本も作られました。当時の本は、教訓的で余り面白いものではありませんでした。その後、世界の名作が翻訳されました。19世紀半ばになると、口承文芸への関心が高まり、エルベンやニェムツォヴァーが昔話を紹介しました。その後、19世紀後半から創作作品も生まれ、代表作にはカラフィアートの『ほたるっこ』があります。イラーセクによる歴史物語『チェコの古代伝説』も発表されました。当時から子供のための詩も創作され、スラーデク、ライス、コジーシェクといった詩人が輩出されました。

<チェコ児童文学の第2期:第二次世界大戦まで>  第2期の始まりは、1918年のチェコスロヴァキアの独立で、創作童話が盛んになります。代表的作家に前述のチャペック兄弟のほか、バス、ポラーチェック、ラダ、セコラがいます。一般の作家が子供のための作品を書くこともあり、日常生活の中のファンタジーを描いた作品も生まれました。ジェハーク、マイエロヴァーなど、リアリズム的作品も生まれました。当時の社会主義的内容を含んだ作品は、現在は敬遠されていますが、将来再評価されるのではないかというのが村上先生のご意見でした。

<チェコ児童文学の第3期:社会主義期>  社会主義時代初期の1950年代は、歴史的には暗い時代でしたが、児童書専門出版社ができるというよいこともありました。当時の画家には、トゥルンカ、ズマトリーコヴァー、ミレル、ヤネチェク、作家にはジーハ、ペチシカ、フルビーンなどがいます。  1968年の「プラハの春」は、一般文学史上では大事件でしたが、児童文学にはそれほど大きな影響はありませんでした。しかし、作品内容を見ると、社会主義初期の優等生的主人公から、逸脱した主人公を経て、「プラハの春」後、再び優等生的主人公が登場し、内容的に当り障りのないものが生まれます。70年代後半からはまた複雑な内容になります。

<チェコ児童文学の第4期:資本主義期>  体制転換以後は、表現の自由が認められたものの、逆に低俗な出版物も増え、児童文学作家、出版社にとっては困難な時代になりました。しかし、社会主義時代からの作家が児童文学を牽引し、名作の再版や児童文学賞など振興活動も行われ、今後が期待されます。

<おすすめ作品>  講演後の質問に答えられて、村上先生のおすすめは、第一共和国期の作品で、具体的にはバスEduard Bassの『クラプズバ家の十一人Klapzubova jednáctka』、ランゲルFrantišek Langerの『白い鍵の少年団 Bratrstvo bílého klíče』だそうです。機会を見つけて読んでみたいと思います。

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