日本チェコ協会/日本スロバキア協会 新刊案内

「露語からチェコ語へ -ロシア語学習者のためのチェコ語入門- 文法編」
電子版序文

はじめに

 日本のスラヴ語教育を考えた場合、一番環境が整っているのがロシア語教育でしょう。日本のロシア語教育は長い伝統を持ち、専門教育でも第二外国語の一般教養でも、それに従事する専門家の数は多く、学習の機会も大学や民間の講座などで保障されています。
 語学の勉強はある意味では終わりのないもので、母語でない限り一生かかってもマスター出来ないのかもしれません。しかし一つの言語に限定すると、そこでは当たり前だと思っていた現象が、他の言語を知ることで、実際にはその言語に特有のものであったりすることがよくあります。このような点からも他の言語を知ることは、元の言語をより深く知るための手掛かりにもなるでしょう。

 一言にスラヴ語と言っても、この語族に属する言語は20前後ありますが、それらは大きく東スラヴ、西スラヴ、南スラヴ語に分類されます。それぞれの代表的な言語は、順にロシア語とウクライナ語、チェコ語とポーランド語、セルビア語とクロアチア語などですが、それらの言語では歴史的背景、方言に対する標準語の安定性、本格的な国語辞書の編纂や文学の発達などの言語的成熟度は様々です。最近では三谷氏の著作などによって、スラヴ語全体に対する語学的な関心も高まって来ています。
 その中で西スラヴ語に属するチェコ語は、独自の文化と歴史を持った非常に魅力的な言語です。ヨーロッパと接し西欧文明の中にあったチェコは、東方のロシアとは全く異なる道を歩みました。またチェコは近世に独立を失い、チェコ語の書き言葉の伝統が途切れた時期もありましたが、「チェコ語の復活なくしてチェコ民族の復活はない」をスローガンに、チェコ語とチェコ民族の復興運動を起こして成功し、これは消滅の危機にあった他のスラヴ諸語のモデルになりました。

 本書「ロシア語学習者のためのチェコ語入門」は、ロシア語の初級文法を一通り学習した人が、チェコ語に興味を持って手を伸ばそうとした際に、これまでに習ったロシア語の知識を元に、チェコ語を学習するための手引き書です。
 チェコ語はかなり難しい言語で、これを文字と発音の始めから教えると相当な量の解説が必要になり、途中で息切れしそうです。また文法変化も多様なため、従来のチェコ語の教科書はいくつかの品詞の変化を組み合わせて解説し、例えば4課では男性名詞硬変化と動詞現在変化Ⅰ型と前置詞naを、5課では女性硬変化と現在変化Ⅱ型と前置詞doの学習といった構成を取り、各課の終わりにそこで習った文法の練習問題が付くのが普通です。
 しかしロシア語の初級文法を一通り学習し、ロシア語の発音や名詞の格変化、形容詞と名詞の文法的一致、動詞の人称変化、前置詞の格支配などが、どのようなものかをおおむね知っている人には、ロシア語文法の知識からチェコ語を類推することで、学習がはるかに効率的に進むことは明らかです。本書は、これまでの文法書の各課を一つずつ進めて、知識を積み上げて行く方法よりずっと早く、チェコ語文法の全体を見渡せるようになることを目標に書かれたものです。
 ただその際重要なのは、ロシア語とチェコ語の相違を明確にすることで、同じ用語を使っても両者がかなり異なることはよくあります。例えばロシア語の名詞の格変化には、硬変化と軟変化がありますが、ロシア語では男性と女性の硬変化の語尾を覚えて、それに硬母音と軟母音の対応を当てはめれば、自動的に男性と女性の軟変化語尾が得られます。一方チェコ語にも名詞に「硬変化」と「軟変化」がありますが、歴史的な音変化のため硬・軟母音の対立が弱まり、軟変化全体が一つの変化パターンに変わっていて、性の区別は一部の格形で生じる、副次的なものになりました。
 しかしこれをロシア語のイメージで考えて、硬・軟母音の対立を設定してもうまくいきません。それではと軟変化を性で分けて個別に示すと、その変化形はあまりに多く複雑になって、とても覚えきれません。これまでのチェコ語の教科書は、すべてこの形でした。
 本書では同じ文法事項や語形変化でも、ロシア語とチェコ語では、どこがどのように違うのか、またなぜそうなったのかを、出来る限り歴史的変化を基に解説し、品詞ごとに章立てしています。そのため各章ごとに練習問題を立てるのが難しく、別途「講読編」を作る予定ですが、しばらく時間がかかりそうなので「文法編」を独立してまとめました。

 私事ですが、もう何十年も前にプラハの「夏の学校」に参加して以来、ずっとチェコ語と関わって来て、その中で生じた疑問のいくつかは、自分なりに調べてきました。一方三十年以上前になりますが、最初の赴任校福井大学の付属図書館の書架で、偶然シローコヴァの「チェコ語」(А. Г. Широкова, Чешский язык, Москва, 1961)を見つけ、何気なくコピーを取りましたが、目を通すこともなくそのまま放置してありました。
 今回このような形式の文法書を書くにあたって、いろいろ資料を探しシローコヴァの新版の「チェコ語」(1990)も見ましたが、私のこれまでの疑問を払拭してくれたのは、実はシローコヴァの旧版(1961)の方でした。シローコヴァ(1918-2003)は著名なロシアのチェコ語学者で、数多くのチェコ語の研究書や教科書を書きましたが、1961年当時にすでにチェコ語の歴史文法や方言学を確実に押さえて、これだけ詳しい解説書を書いていたことに、己の無学を恥じると共に、いささかショックを受けました。
 本書はシローコヴァの旧・新版の「チェコ語」を基に、三谷恵子氏や石川達夫氏などの著作も参照してまとめたものです。ただシローコヴァの旧版は今から半世紀以上前のものですので、その後のチェコ語の変化も含めて、カレル・フィアラ氏に全体をチェックしていただきました。
 なお本書は、ロシア語には依らず、英・独・仏語などからチェコ語の学習を進めている方にも、これまで習った知識の整理という面で、役立つことを期待しています。


2018年3月1日 浦井康男(urai1045@aol.com)

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