豪華客船「にっぽん丸」その3
伊万里・別府クルーズ

10月24日。前回始めての「にっぽん丸」での演奏の仕事を頂いてから
早くも2回目の「にっぽん丸」との再会を果たした。
前回の韓国クルーズが台風14号と一緒で、「半端ではない揺れ」と乗組員の方達が話される様な揺れで、私にとって強烈な「にっぽん丸」デビューだった為、
スタッフの方達との再会はまるで家族との再会の様に愛しく感じられた。
船とは不思議な魅力がある。
リピーターのお客様も多く、「韓国の時は大変でしたね!!」とお話に花が咲く
今回は穏やかな海を船は進んだ。
伊万里。10月26日到着。この日は我々チャマメグループはメインショーという大きなコンサートを夜、予定していた為、私は観光地の窯どころへは行かず、体を作っていた。しかし、好奇心は抑えられない。
船を下り散歩。出会ったのは港の警備のおじちゃん。
パンを頂いたり、船に戻る時はおじちゃんの畑で取ったというお芋さんやお茶をたーくさん頂いてしまった。吉原さん!!!
伊万里の飛び切り暖かな人情と出会えて、私は幸せを感じた。
いつまでも手を振るおじちゃんを何度も振り返りながら船に戻る。
涙がこぼれた。また会いに行くよ!!! 必ず!!!!!
10月27日 大分、別府。朝8時20分。下船許可と共にチャマメグループ、今回はギターアンヘル・ミランダ、福島久雄と共に外に出る。
地元ケーブルテレビCTBメディアの取材を受ける。「川の妖精たち」を演奏。
大分のみなさん。見て頂けましたか?
マネージャーさんが一緒に来ていないので、私はその後、ひとりで
大分のラジオ局へ向かった。FM大分。生放送に出演。
頑張らなくては・・・チャマメがひとりでもおおくの方にその存在を知って頂く為には、頑張らなくてはならない。時には辛いこともある。
「道なき道を行く」

にっぽん丸。4回の演奏会はすべて満員。有り難いことです。
演奏の後ステージに向かって手を振って下さった沢山のみなさん。
また、お会いしたいです!!!!!


豪華客船「にっぽん丸」 その2
美しき神戸の黄昏

  9月9日、にっぽん丸は神戸に着いた。
9月4日からずっと海の上にいた私たちは久しぶりに陸の感触を確かめるべく
上陸した。 そして丁度、仕事で神戸に来ていたチャマメファンクラブ会長と合流し、共に船で演奏を続けていたアンヘル・ミランダと大柴拓と神戸牛を食べに行き、おなかを満足させた。
そして、ラジオ関西に我々は向かった。なかなか東京を出る事のできないチャマメは関西で初のメディアさんから頂いたチャンスに有り難く思いながら、激しく揺れる船で過ごした直後の陸で、陸に上がってもまだ揺れを感じながら、の収録となった。DJ のマチャミ姉、こと藤原正美さんは肝っ玉の大きい姉御タイプで
収録は楽しく盛り上がった。教えて頂いた「サブイボ」鳥肌が立つ!! という意味の言葉も習ったし!! 関西の「めっちゃ」という言葉もスペイン語の「ムーチョ」に似ているし、関西にはとても親しみを感じている私です。(前にもダイアリーに書いたことがあるが私は子供の頃から阪神ファンである。神戸は巨人ファンと半々らしいが・・・・)
もっともっと関西の方達にチャマメの存在 を知って貰いたいなぁ!!!!!
今までテレビや新聞で取り上げられる度に関西のチャマメファンになって頂いた方達から「早く来て欲しい!!」とメールを頂いているが、早く演奏しに行きたいです!!!!! 
午後6時、夕暮れの神戸港をにっぽん丸はゆっくり離れた。
なんという美しさ!!!  六甲山と海の間に神戸の町は少しずつ明かりが灯っていく
今まで、飛行機でも旅に出た。車や電車でも出発した。
しかしこの船のゆっくりと岸を離れていく様はなんとも味わい深いものである。
この町に私が残した思い出が私の心の中の感情と混ざり合い、船が残していく海の波に溶けていく。
胸にせまる想いがあった。
私の心は、かつてヨーロッパから南米大陸を目指して船で移住したチャマメの先駆者たちの心を思っていた。
空は果てしなく広く、海も果てしなく広い。
だんだんと夜になっていく神戸を私はいつまでも見ていた。

         


豪華客船「にっぽん丸」その1
韓国の沖、船上でチャマメ演奏

「横浜から韓国の秀峰 ソラク山」へのクルーズという旅の演奏の依頼を頂いた。韓国の草束の港に向けて、9月4日、台風14号が沖縄のほうから北上している中の出発である。酔い止めを沢山買い込み、お弟子さんからも酔い止めの
差し入れを頂いた。
瀬戸内海に入り、船は穏やかだった。しかし外洋に出た途端台風14号の影響が出始めた。船は激しく揺れた。慣れている乗組員の方たちも「半端じゃない揺れ」
と表現する揺れ方だ。2日目の演奏後、私は頭痛に悩まされ始めた。頭痛はアコーディオンを弾いて肩が張り、職業病である。しかしこの日は食事が喉を通らず、頭痛薬が飲めない・・・。我慢している内に船の揺れはますますひどくなり、
ただ耐えるのみ・・・。となって来た。その翌日はメインショーという大きなコンサートが控えていて、スタッフからは曲目を出す様言われている・・。何度ももどしながらコンサートの構想を考える。苦しい夜だった。
翌日は昼頃、海が荒れていて韓国の草束港に船を泊める許可が出ない。とアナウンスが流れた。根っからのエンターテイナーの気質を持つ私の心は何とか夜のコンサートで気落ちされているお客様を楽しませたい!!!  と思った。
しかしながら現実は昨夜から何も喉を通らず、気分が悪く、ひどい頭痛に襲われ続けていた。昼過ぎからのコンサートのリハーサルの合間、酔い止めの注射をする。朝には何が何でも夜に体調を戻すべくマッサージも受けていた。
通しのリハーサルが始まり、アコーディオンを何とか膝に乗せ弾き始めた途端、 24時間も何も食べていないのに、私のひどい体調はみるみる力が湧いてきた。
不思議な体験だった。こんなにまでチャマメは私に力を与えてくれるのか!!
音楽とは素晴らしいものだ。 心から思った。
夜のコンサート、メインショーはホール満員になった。最後のアンコール曲を弾き終えた時「ブラボー!!」と何人もの方たちの声が跳ね返るように帰ってきた時、私は本当に嬉しかった。9月6日、韓国の沖、揺れる船上で演奏したこの日のコンサートは一生忘れないだろう。
多くのチャマメを楽しんで下さったお客様、そして親切なたくさんのスタッフの方達に心から感謝したい。
                     2005年9月13日


アルゼンチン報告、初めてごらんになる方は是非、「アルゼンチン報告1」から、読んで下さいね


アルゼンチン報告8

ついに今回のアルゼンチンツアーでの最終日、ミシオネス州ポサーダスでの
演奏の日がやって来た。
枕もとのオベラで頂いたラベンダーの優しい香りが私をおだやかに
目覚めさせてくれた。
今日は朝一でテレビ出演がある。のんびりしていられない。
と、その時、電話が鳴った、ポサーダスの日本人会会長の堀内さんからで、
娘さんのカローラ・笑さんが通訳のお手伝いをして下さるとの事だ。
ありがたい!!!
とって置いたチョコレート菓子を用意しながら食べて、いつもの事ながら慌ただしく一日が始まった。

テレビ局canal 12では、地元ミュージシャンが気さくに、話しかけてきたり、
局の人はラウリートがこの3月に来たよ!! と話しかけて下さる。
マエストロの面影を感じる、空気が懐かしい。
日本のテレビと違い、(ラジオもそうだった)打ち合わせなしで、
出たところ勝負!! である。まぁ、チャマメが即興的な音楽であるし、
そのノリは慣れている。カローラさんの存在もとても心強かった。
それでも、極力、自分の力で会話したい。と常日頃から思っていたので、
カローラさんに助けてもらいながら、片言で頑張った。
演奏は、ソロで「Granja SanAntonio」 「花が咲いたよ!」
ソロでチャマメを弾くのは、音楽的にかなり無理がある・・。でも、もうアルゼンチンのラジオでかなり鍛えられた。
アルゼンチンの方達はチャマメのリズムをみんな知っているので、アコーディオンソロでも、リズムを感じて聞いて下さるので有り難い。
それにしても・・・。
テレビ局に到着してから生出演の出番まで5分位しかなかった気がする。

この仕事の後、リハーサルがあった。
バンドネオンとギターのヌニェス兄弟(ファン、マルコス)
パーカッションのイチュー・カスティージョ。
バンドネオンの入るチャマメは初体験である。
日本のバンドネオン奏者はこのリズムの難しさにチャマメを敬遠しているようだ。残念である。(難しくはない。慣れ、である)
このミシオネスはブラジルにとても近い。そして、その影響があるのだろう。
彼らの音はかなり野性的で、繊細な音を求めてもなかなか出て来なかった。
それならば、野性味を彼らにリードしてもらい、繊細さは私がリードしよう。と気持ちを切り替えた。
私はこの休み無しの2時間30分のリハーサルでかなりフラフラだった。
この後にラジオが待っていたので、ノンストップで彼らと打ち合わせをし、
すぐに、ラジオA、ラジオTupanban、ラジオパンパを走り抜けた。
どの局も私のアコーディオン演奏を歓喜の声で迎えてくれる。
生放送中に「今朝、テレビで見たよ!!」 と、Martinという方から電話が入ったり。疲れはピークに来ていたが、こんなにまでも、暖かく迎えてくれるチャマメの土地の人々の声は私を奮い立たせてくれた。
夜8時からのコンサートの為に一度、ホテルに戻りわずか30分の睡眠で、
私の気持ちはすっかり、リフレッシュしていた。

コンサート会場は客席から聞こえてくる聴衆のざわめきが聞こえてきて、
地元のチャマメセーロたちの表情は少し堅かった。
チャンゴ・スパシウクは相変わらずの鋭いまなざしで、地元での演奏を前に幾分、テンションが高かった様だ。
ステージに立つと、ここでも「どんなチャマメを聞かせてくれるんだ?!」という顔が待っていた。
300人のホールは一階、二階席、満員。通路に座っている人もいる。
アルゼンチンに着いてから、ほぼ、毎日の緊張の演奏。
しかし演奏にマイナスになる緊張ではない、とても充実した気持ちの緊張感でポサーダスのステージに立てた。感謝したい。
(この日の演奏会の模様は、アルゼンチンの新聞各社が取り上げて下さり、その記事がオフィシャルホームページに日本語訳付きで、掲載してあります。)
この日のコンサートは、私の表現では、まさにロックコンサートだった。
彼らは、ミシオネスのその野性的な音に簡単に私が屈しない事を知ると、いっさい遠慮しなくなった。私にも大和魂を持った大和撫子のプライドがある。
あの迫力の演奏会を、日本のみなさんに届けたい。と心から思う。
お客様はスタンディングオベーションで、喜びを表現して下さった。
決して忘れない。鳴りやまぬ、あの拍手を!!!!!
終演後の楽屋には、メディアの方達でいっぱいになった。
「あーカステジャーノ(アルゼンチンでは、スペイン語をそう言う)!!!もっと頑張らなくては!!!!!!!!!!」

やっと静けさの中に戻り、このコンサートにもいらして下さった、この土地ではとても有名なチャマメ奏者チャロイ・ハラ(彼はバンドネオン奏者です)さんの名を取った「ドン・チャロイ」の店で打ち上げ会。
大仕事をすませた安心感と、充実感、そして、明日には帰国の飛行機に乗らなくてはならない言いようのない寂しさ・・・。

店の外に出るとそこには秋のポサーダスの深い夜があった。
チャマメの土地、リトラール地方、ミシオネス州ポサーダス。
チャマメの生まれた土地で私のチャマメを受け入れられた事の喜びを
心に強く感じ、深夜のポサーダスの空気を深く、吸い込んだ。

1段目 左 コンサート当日の新聞記事 
    右 テレビ局にて、右は通訳してくれた堀内 笑 カローラさん
2段目 ラジオ出演 
3段目 コンサートにてスタンディングオべーションで受け入れて下さった観衆のみなさん(2階は写っていないけど、)


            アルゼンチン報告7

ミシオネス州、オベラから首都ポサーダスへの帰り道、
チャンゴ・スパシウクや私たち、チャマメに心を捧げている者たちの乗る車は夕方から夜の入り口にいた。夜の入り口は美しい。
行きは秋のやさしい光の中、美しい馬が草をはむ姿や、子供が体の半分より大きい魚を肩からさげて歩いている姿が見えたが。
今は、すべてが夜を待っている
どんな土地でも、この時間の景色は何か強い力を持っている。
私は、憧れのリトラール地方のその無言の力をしっかり心にしまい込んだ。
美しく、強く、そしておだやかな瞬間だった。
(帰国して、この景色を曲にした。近く、発表しようと思う。)

ポサーダスのホテルに戻り、すぐにミシオネス文化庁のフリアさんのお宅でのアサードのパーティーに呼ばれた。
タクシーに乗ると私の曲が、かかっている。ん・・ハテ????
私はそれがラジオの放送である事に気づくのに時間が掛かった。
同乗していたチャンゴたちはラジオに耳を傾ける。何とも照れくさい・・・。逃げ出したい気持ちの私をよそに、フリアさん宅に着くまでずっと私の曲が流れていた。
フリアさん宅には何と、ヨットがある。休日には、川に出る。という・・。
海の様な大河、パラナ川、ウルグアイ川にかこまれている土地である。
すごいな!!!!!
また、ここの国の人は、アサードパーティーでお肉を焼いたり、切ったりするのは、男の人の役目らしい。
フリアさんのご主人は立ちっぱなしで、働いている。
かつて、パリでやはり、ラウル・バルボーサ氏が立ちっぱなしで肉を見る係をしていた事を思い出した。男が台所に立つなんて!! といった日本の古い考え方
では、お客様をお呼びしたパーティーでそのお宅の御主人が立ちっぱなしで、
料理係なんて、考えられないな・・・。肉を焼くことは男の仕事なんだなぁ。だいたい、量が違うから、腕力も必要なんだろう。お肉の国。アルゼンチン!!!!  

この夜は、若い、天才チャマメ奏者がふたりやって来た。
翌日、コンサートで一緒に演奏をする事になる、バンドネオンとギターの
ニュニェス兄弟。大物になるだろうと期待されている奏者だ。
彼らは現地の踊るチャマメを聞かせてくれた。この時期はみんなが踊りに行く
チャマメのフェスティバルが無い時期だったので、彼らの演奏で私は、
文化庁のホセとチャマメを踊り、チャマメが本来あった姿を経験した。
アサードパーティーとチャマメ。そこは、底抜けに楽しく、笑い声の絶えない
空間である。チャマメのリズムが心地良い。

つづく


アルゼンチン報告6

5月5日、1時間は何とか眠れた。
まだ太陽の昇らぬブエノスアイレス、住み慣れたホテルをチェックアウトして
空港へコロさんと向かう。タクシーを降りるとき、またまた「タンゴか?」
と聞かれる。もうこのセリフには慣れてしまった。
飛行機から見下ろすブエノスアイレス。まだ目覚めぬ街。ここに着いてから
起きた数々の出来事。アルゼンチン聴衆の私を歓迎してくれる熱狂的な声が
まだ耳にこだましている。「ありがとう!! ブエノスアイレスの人たち!!」
心からそう思って、街の明かりを見ていた。

約1時間30分のフライトで、ついに私はチャマメの生まれたリトラール地方上空にいた。大河が朝の光を受け、ゆるやかに、おだやかに流れている。
何らかの感傷的な感情に心が乱れもせず、私はその大河と大自然に
大きく抱かれた気持ちがした。それは、とてつもなく大きい。
なんと心地よい感情か!!!
ポサーダス空港には、ミシオネス文化庁のフリアさんが迎えに来てくれていた。その優しくてしっかりしている目は高校時代の友達に少し似ている。
空港から外に出て、私は深呼吸してみた。「あー、緑のにおいがする」
フリアさんはしっかり頷いてニッコリ笑った。
ここは、時間の流れ方がブエノスとは違う。
ホテルの部屋に着くとまもなく、ロビーでメディアのインタビューが始まっているから、アコーディオンを持って早く来なさい。と電話が鳴った。ここはチャンゴ・スパシウクの生まれ故郷である。まぁ、のんびり行くか・・。とほとんどノーメークで呑気にロビーへ行くと、記者会見さながらの40人位の、メディアの人たちが一斉に私に目を向けた・・・。テレビカメラも生中継しているラジオの人もいる。どの記者もかなり興奮気味である。
あまりのその情熱に、チャマメの土地のおだやかさにすっかりくつろいだ気持ちだった私は一気に目が覚めた。言葉がまだ流暢でないので、気持ちを伝えるには、演奏しかない。私はキローメートロ11を弾いた。その場の空気が変わった。そうでなくとも熱いハートの人たちだったが、そこに生まれた空気感は、決して忘れる事はできない素晴らしい瞬間だった。チャマメの土地の人々が、チャマメの土地で私の演奏を認めてくれた瞬間だった。ブエノスにも、リトラール出身の人たちが沢山いらしたが、やはり、その土地でのその空気を吸っての演奏、私の心を鳴らしてくれるアコーディオンの音。すべてが夢のようだった。
この後、チャンゴ・スパシウクやフリアさん、そして大学の先生ですごく明るくて無邪気なマリアさんたちと車でこのミシオネスに住む日本人会の方達とお会いする為にオベラへ向かった。
交差点で売っている「チパ」というパンを時々買って食べ。(このパン、もちもちしていて、とてもおいしい) 道沿いのお店では、マテ茶の為のお湯のサービスの無料自動販売機もある。
やっと訪れる事ができたリトラールのすべてを見逃すまい!! と、私はジッーと車窓から食い入る様に景色を見ていた。
不思議な事は、ここを訪れる前にチャマメトラディショナルの曲から感じていた景色がそこにあった事だ。音楽と土地は必ずつながっている。
田舎なので、時が流れても大きな変化はなく、チャマメの先駆者たちがいた風景とあまり変わっていないだろう。思った。こうして車で移動しマテを飲み、チパを食べ、チャマメを弾き。彼らの姿が見えたような気がした。
偉大なる先駆者たちがこんなにも身近に感じられる事の幸せを感じた。

オベラでは、移住された日本人の方達とお会いした。アルゼンチンに来てから
ほとんど日本人の方とお会いしていない。ブエノスでも7人位の方とお会いしただけだ。必死にスペイン語を聞き取ろう、話そうとする日々の中、日本語で話せる空間はなんともおだやかだ。みんな良い方達で、この時も来ていたテレビ局のインタビューにスラスラ通訳して下さった小川さん。
ブエノスアイレスでは、まったく落ち着きのなかったチャンゴもミシオネスに着いてから、とても落ち着いている。彼は私より年下で普段の彼の行動は弟みたいだ(彼は私をCHICA 少女だと思っている様だが・・・笑・・・)
ここでも演奏し、アルゼンチン文化と日本文化の融合チャマメ「花が咲いたよ!」を聞いて下さった年配のバンドネオン奏者の方に、「あなたは只の奏者じゃない。芸術家だ」と言われ有り難く思った。どこへ言っても感じるのは、やはり、コピーをしているだけでは、「へぇー、珍しいね。」で終わってしまうという事だ。何でもコピーから始まるが、その殻を破って成長しなくてはいけないのだ。
この後、この街の日本人移住者の草分け的存在の帰山さんが私に会いたい。と言って下さっている。との事でお宅へ伺った。
93才になられて、まだまだお若い徳太郎さん。奥様、利子さんも信じられない位に若々しい。今は息子さんがバリバリ経営されているが、大きな茶畑、そして、工場を持っておられる。
窓からは溢れんばかりの美しい緑の庭が見える。きっとここに住んでいたら
心が美しくなるに違いない。と思った。私のチャマメ演奏を本当に嬉しそうに聞いて下さった。そして、私は心を込めて、「ふるさと」を弾いた。
帰りがけに、お庭にあるラベンダーの花を沢山摘んで私に下さった時のあの奥様の顔が忘れられない。

右上 ブエノスアイレスからポサーダスへ向かう  
左上 オベラにて帰山さんと
下  帰山さんに頂いたラベンダーと利子さんの著書「原生林に賭けた生涯」
     発行(株)智書房


アルゼンチン報告5

5月4日 ブエノスアイレス 「Culb del vino」はとても美しい中庭のある
お店である。(この中庭の噴水の前でアルゼンチンの一番大きな新聞のクラリンの
日曜版についてくるVivaの撮影がコンサート前にあった。取材は前日のラジオ本番前でこの取材はとても、楽しかった)
この店は近い過去に日本の若手の売れっ子のタンゴ奏者も演奏しに来た。とお店のオーナーの方が言っていた。
アルゼンチン人の耳は、怖い。いくら日本で有名でも、有名でなくても、彼らはその演奏を公平に評価する。私にはとてもありがたい。
彼らは、心のある演奏をよく知っている。
つくづく考えた。何かのブームに乗って私が恵まれた環境にいて、アルゼンチンで演奏会をしていたら、私の音は高慢なものになっていたかもしれない。
商業的な宣伝資金に恵まれていたら、アルゼンチン人の反感を買ったかもしれない。人々はそういった事を感じる力が強いものだ。
力んでしまう何か、を持たず。純粋な心で演奏できたから、私はとてもラッキーだった。これは、運命なのだろう。(最近、よく「運命」という言葉を感じる。
自分がこうしたくても、なかなかそう行かないのが現実だ。でも、考えもしなかった嬉しい事がやってくる事もある)
コンサートは、暖かい空気に包まれていた。肩に力は入っていない。
いつも、自然体がモットーだ。チャカレーラでは、自然と手拍子がわき起こる。
マリア・バは素晴らしい大合唱になった。(この日はアルゼンチンのミュージシャンが会場にたくさん聞きにいらしていた)
チャンゴ・スパシウクとのドゥオ2曲は彼の曲「PUNANDY」と「KILOMETRO 11」特に「KILOMETRO 11」は打ち合わせなしの即興である。
この日は私自身、集中力が高くて、その会話はなかなか刺激的だった。ともかく彼の音は骨太だ。(ラウル・バルボーサ氏もすごい迫力だが、かなり違うタイプだ。)
コンサートはアンコールを求めて下さるお客さまの声にこのまま終わらせる事ができるかしら・・。と思うほどだった。
コンサート終了後、アルゼンチンのTV制作会社の方が楽屋にいらして、
ドキュメンタリーを作りたい。という。何の事か分からずキョトンとしていたが、
「YUKIの人生はおもしろい。YUKIのドキュメンタリーを作りたい。」と言っている。と聞いて、びっくりした。
チャマメのノリの明るさで、「じゃ、狙うはオスカーだね!!!!」 と。
「Gracias !! Amelia !! Gracias!! Argentina!!!」
心の中にコンサートを楽しんで下さったアルゼンチンの人たちの熱さ、と優しさと、私の音楽を聞いて高く評価してくれたアルゼンチンのミュージシャンたちに感謝しつつ、無事、ブエノスアイレスでの仕事が終わった。
翌日は、朝4時起きで、チャマメの土地、リトラール地方ミシオネスへ向かう。
1時間位は眠れるかなぁ・・・・。

左 Club del vino ステージ 
  この日のミュージシャンは ギター セバスチャン・ビジャルバ
  マルコス・ビジャルバ   パーカッション チャチュー・グゥニェス
右  コリエンテス出身のチャマメ奏者達 マテオ・ビジャルバさんは
   「今度、アルゼンチンに来たら、一緒にやりたい」と言って下さった。 


アルゼンチン報告4

ブエノスアイレスでの2回目のコンサートは「Club del vino」
この演奏会の日は朝8時からRadio Nacional での生放送をスタートに同じラジオ局で計3本のラジオ生出演があった。
実はこの日の前日(5/3)にも、RadioNacionalで夜、生放送に出演した。
DJのミゲルさん(Miguel Angel Gutierrezさん)は、あのコスキン音楽祭(アルゼンチンで最大の音楽祭) の総合司会者で大変有名な方、そして番組も有名な番組だったらしい。(何しろ、その番組がどういうものか分からず出演している状態だった、アリエル・ラミレスさん・・アルフォンシーナと海の作者・・も出演している番組。だという。あのスタジオにあったビアノで演奏したのかなぁ・・・)
ミゲルさんは、私のチャマメを嬉しくってしょうがない。といった表情で聞いて下さった。(大地の響き、はもうかなりスタッフの中でも有名だった)

そして、5/4、朝8時からの生放送は日本向けの短波放送、前日のオーケストラが入れそうなスタジオと違い、アルゼンチンの旗が置いてある、落ち着いたスタジオ。そして、久々の日本語。
心がとても穏やかだった。高木一臣さん、佐藤アイデさん、マルセロさん(Marcelo Carballalさん)  「ずいぶんいろいろな演奏家がこの番組に来られたけれど、今日は本当に感動した。今までで一番良かった」と言って下さった。私の心を感じて下さる方たちで嬉しかった。(この番組では 花が咲いたよ!とMerceditasを演奏しました。)
この番組の後、高木さんとカフェに行き、私は今回のアルゼンチンの旅の中でもかなり精神的に成長できるお話を伺えた。
今70代の高木さんがアルゼンチンにいらしたのは26才の時で、その当時、彼はスペイン語がまだ話せず、その時は友人もいなく、寂しい気持ちでカフェにいたら、
カフェの店主が高木さんに「おい、あの人を知っているか?」と聞いたという、高木さんはそのボロボロの服でスニーカーをはいた男の人を見て、「知らない」と答えると、店主は「あれはカミニートの作者のフィリベルトだよ」と・・・。
敬意を表したくて、高木さんは片言で話しかけると、フィリベルトさんは大変に喜んで、「家に来なさい、ご飯をごちそうしよう!!」 高木さんは実際、ごはんをごちそうになったという、もうひとつ、これまたタンゴの巨匠、トロイロさんとカフェで知り合った高木さん。「おまえの誕生日に自分の楽団を連れておまえの家に演奏しに行ってやる」と、実際、トロイロさんは楽団を連れていらした。という。
私はこの話を聞いてカフェで、大泣きをした。
アルゼンチン音楽を生んだ先駆者たちは、ヨーロッパから船でアルゼンチンに渡って来て、ままならぬ生活の中から、寂しさと果てしない孤独を感じていたのだ。
だからこそ。寂しい気持ちの人の心が分かるのだ。 つらい日々をあのエネルギーのある音楽で撥ね返して行ったのだ。これはすべてのアルゼンチン音楽の根底に流れている。と思った。
私は、かつて、アルゼンチン音楽を学びにパリに行かなくてはならなかった。この孤独についてはオフィシャルHPのエッセイにも書いてきたが、当然、パリにはチャマメは無い。夢中になっているチャマメについて話す友達もいなかった。私は純粋に激しくチャマメを想っていたので、私の心はパリでしばらく、孤独に閉ざしていた。私はあの孤独。を思い出した。
パリに行かなくてはならなかったあの時の自分の運命をありがたく思った。唯一の知り合いだったとがしさんが手とり足とり、で世話してくれず、ほったらかしにしてくれた事を心から感謝したい。と思った。
アルゼンチン音楽を生んだ先駆者たちの気持ちが少し分かるような気がした。
はじめからアルゼンチンにチャマメを学ぶために向かっていたら、この先駆者たちの気持ちを理解する事はできなかったかもしれない。
チャマメはタンゴより明るい音楽だ。でも、根底には、深い悲しみがある。
大切なのはセンティミエントだ。そして明るさには、悲しみを撥ね返す強さがある。大切な事に気づかせて下さった高木さんに感謝したい。

上 ミゲルさん 下 左からマルセーロさん 高木さん 佐藤さん
Radio Nacional にて


アルゼンチン報告3

「Radio Nacional」(アルゼンチンの国営放送)が、YUKIが到着する3週間前に
一日に、6回か7回「La resonancia de la tierra」( 大地の響き)
を誰が演奏しているかを伏せて、放送したら、
アルゼンチン全国から大反響が来た。 一体、誰が演奏しているのか?? ラウル・バルボーサかそれともチャンゴ・スパシウクか?それ以外の奏者は考えられない。と。」
チャンゴの事務所社長で今回お世話して下さったアメリアさんが、
アルゼンチン2日目、雑誌Semanalioの取材を済ませ、この記事の撮影の為
タクシーで移動中に、ぽつりとそう言った。
同行中のマネージャーもびっくり。初耳であった。
私のCDにぞっこん惚れ込んで下さったアメリアさんや事務所広報のコロさんは
このラジオ以外にも、音楽関係者に私のCDを、名前を伏せて聞いて貰っては、必ず驚きの声が帰ってきた。と目を輝かせた。こんな現実が、ただチャマメを弾く珍しい日本人というだけでなく、多くのメディアが来て下さった理由だったようだ。
この雑誌は、ちょうど今ころアルゼンチンで発売になっている。観光スポットの白い教会の前での撮影、恥ずかしかったなぁ・・・・。
ちょうど日本のゴールデンウィークなのに、日本人はいなかったけど。
日本にとってアルゼンチンは遠い国かもしれません。
本当に暖かい人が多く、魅力的な国なんですが。
この取材の後、ブエノスアイレスでのコンサートでのパーカッション奏者、
チャチューの家でリハーサル。
変わった打楽器に私が興味を示すと夢中になってその奏法を教えてくれるチャチュー、温厚で物静かなギターのセバスチャン・ビジャルバ、ちょっとはにかみ屋で心が開いてくると優しい、弟のマルコス、素晴らしい音楽友達と出会えました。
みんなチャンゴ・スパシウクのバックミュージシャンで、心の暖かい、まさにチャマメセーロ(チャマメ奏者)たち 。
リハーサルの合間には、マテ茶とエンパナーダ。まさに、アルゼンチンです。
リハーサルには、ビジャルバ兄弟のお父さん、ロベルトさん(チャマメの土地、リトラール地方のチャコの出身)もいらしていて、Kilometro11やメルセディータスを聞いて、ニコニコして、「YUKIのアコーディオン演奏はアルゼンチン人と変わらないよ!!!! YUKIのCDは一日中、かけている、家の近所じゃYUKIは有名だよ!!」と、
後から聞いた事なのですが、この兄弟には長男ガブリエルさん、(彼もギター奏者だった)という方がいて、大事故で亡くなったという・・・、次男セバスチャンも一時は意識不明だった。と聞いて、心が痛んだ・・・。
この家族は団結心の強い家族で、私を心から愛してくれた。
セバスチャンの妻、ダニエラも、Club del vinoにはビジャルバお母さん、マイテさんも、家族全員が来てくれて、別れ際には全員がメッセージを書いて下さり、お母さんは手紙も下さった、そこには、大切にしていたらしいガブリエルさんがチャンゴとステージで写っている写真、そして、「YUKIのCDを聞いて心の底から感動した。そこに入っている曲はガブリエルを思い出させてくれるからだ。・・・・・」
と書かれてあった。
私の音楽が、このような心のきれいな方たちの心に響いてくれる事が嬉しい。
そしてまた、彼らと会える日が待ち遠しい。

上 雑誌 Semanario の撮影風景  
下 手前左からチャチュー、ギター左マルコス 右セバスチャン・ビジャルバ
       


アルゼンチン報告 2

まず、衝撃的だった、Feria de los Mataderosの演奏の話からアルゼンチン報告を
書き始めたが、この演奏の2日前の4/30に私はついに、夢のアルゼンチンに着いていた。カナダ、トロントで乗り換え、チリで再び、荷物を出し、また飛行機に乗る、といった2回の乗り換えをしての旅だったが、飛行機が南米大陸の上に来た時、私は興奮気味であった。6年の長い月日をかけてやっと、訪れる事ができるのだ!!
カリブの上を飛行している時は明るいパーカッションの響きが聞こえてきたような気がしたし、チリの上空もケーナやチャランゴを感じ、その山々を食い入るように見ていた。これが、私がおもしろい!!と感じる音楽たちが生まれた南米の大地なのだ!!!
アルゼンチン上空に差し掛かった時、私は、不思議と興奮が納まっていた、
何よりも、アンデスを見た後だったので、その大地が只々どこまでも真っ平らな事にショックを受けていた。起伏のない土地からチャマメは感じられない・・・。
待てよ・・、リトラールはここより遙か北だ。と心の中でつぶやいていた。

それに、私の心は不安に押しつぶされそうだった。
はじめはチャマメの生まれた、リトラールに行き、大地を感じ、現地のチャマメを聞き、現地のミュージシャンと交流を持ちたい。という目的の旅だったはずだ。
それが、師匠ラウル・バルボーサ氏にYUKIはチャンゴ・スパシウクにアルゼンチンを案内してもらいなさい。と言われ。チャンゴに連絡を取ったら、ともかくYUKIのCDを聞きたい。と、そして、送り、旅の目的も話し、アサード(お肉)のパーティーあたりで1回位、度胸試しに弾かして貰えれば嬉しい!! といった希望がいつの間にか、チャンゴ・スパシウクの事務所社長が私のCDを大変評価して下さり、ブエノスの高級ライブハウスでのコンサートやガウチョ文化の野外ステージ演奏、
ミシオネスでのコンサート、メディアの取材などが用意されていた。
まだ日本で知られていないチャマメ。やっとこさで歩いているチャマメの私たちには日本でさえそうなのに、他国で宣伝する資金など全くない。どうなってしまうのか、不安だらけだった。

ブエノスアイレスの空港でチャンゴの事務所の社長アメリアさんたちが迎えに来てくれていた。アメリアさんは昔からの知り合いのような気がした。チャマメに関わっている人は似たタイプが多いのか!?
ブエノスアイレスはパリに似ていた。
だからからか、ここにも初めて来た気がしなかった。
ホテルで少し休み、タクシーでアメリアさんと音楽のあるレストランへ向かう。
アントニオ・タラーゴ・ロスさんのバックドラマーの方が病気で手術をされ励ましとその日集まった資金を送る。というライブがある。という。タクシーに乗ると
またまたチャマメの話になり、驚かれながら、陽気な運転手さんは「チャマメは楽しくて良い。おれはタンゴよりチャマメのほうが好きだ。」と大喜びだった。
さて、店に着いた。日本を出る前から、興奮と不安で眠れない日が続き飛行機でもほとんど眠れなかった私は、ひどい体調だった。せっかく出されたエンパナ−ダは一口も食べられない。頭はグラグラ、なかなか人が集まって来ない店の中でただ耐えている感じだった。アメリアさんはなかなかみんな集まって来ないので
帰ろうか。と言ったが、何か楽しそうな事が始まりそうな予感を感じて、ジッーとしていた。着いて2、3時間して、やっと人々が集まってきた。
訳がわからず見ていると、演奏が始まった。チャマメである。みんなチャマメ奏者だ!!!! 私はみるみる元気になった。あんなひどい体調が治ってしまうほど
チャマメは生き生きしている!!!!!!
アメリアさんにこの日のライブを教えてくれた、Aldy・Balestra(アルディ・バレストラ)氏や、中には81年に日本に民音タンゴシリーズで初来日したラウル・バルボーサ氏と一緒に演奏したマテオ・ビジャルバ氏もいた。
みんな素晴らしい!!! ああ!! アルゼンチンにいるんだ!! と感じて、幸せだった。

マテオさんは日本からチャマメを弾く人が来た事を演奏のMCで言い始めた、その途中で後ろのほうの席の人が「日本人は、タンゴもサンバもパラグアイも南米音楽をやる日本人はみんなコピーしてるだけじゃないか!!!!」の野次が飛んだ。
私は、南米音楽をやる日本人演奏家がそうであるのかは分からない。しかしその言葉はそうありたくない。と常日頃から考えている私の大和魂に火をつけた。
「何か弾いてみろよ!!!」の声に、あまり緊張もせずアコーディオンを持った。
耳にはまだ、「COPIA !!!」の罵声がこびりついている。
「アルゼンチン文化であるチャマメと日本文化の融合を目指し作った」と話し
「花が咲いたよ!」を演奏すると、ソロだったが、
みんなはチャマメのリズムで手拍子を始めた。この曲が終わると、野次を飛ばした人たちも「ああ、こいつはコピーじゃない」と理解してくれていた。
その日沢山いたチャマメギター奏者たちにお願いして、「メルセディータス」を弾く。(Aldyさんと演奏した。) もう会場は大変な歓迎の温かい拍手に包まれていた。席に戻ったものの、アンコールの声に再び「グランハ・サンアントニオ」を弾いた。帰りがけには多くの人が声をかけてくれて、アルゼンチン初日、本当に私のチャマメは認めてもらえるのか・・・と不安だった気持ちに力強い勇気がみなぎって来ていた。その日集まったチャマメのミュージシャンたちは(みんなプロです)コリエンテス出身の人たちで、一緒に演奏したAldyさんのギターの入り方やニュアンスの気持ちの良い事と言ったら!!!! これがチャマメの好きな所!!!!
この日、唯一いたアコーディオン奏者のNestorさんもさすがのノリでの演奏。「好きだなぁ!!!あらためて、チャマメ!!!!」彼と話せなかったのが、残念・・。

でも、この夜のおかげで私はこの翌日からやって来る、恐ろしく激しいスケジュールを乗り切れたのかもしれません。おまけに翌日、マテオ・ビジャルバさんからアメリアさんに「YUKIの演奏がとても気に入った。と是非一緒に演奏したい。」と電話があった。との事。
アントニオ・タラーゴ・ロスさんからも彼のお嬢さんのIrupe Tarrago Ros さんのCDを送って頂いた。
ああ!!!!!! アルゼンチン。わくわくの日々。まだまだ、お話は続きます。        

 上の左 Aldyさんとのドゥオ  右 マテオ・ビジャルバさん
  下の左 チャンゴ事務所 の左、広報のコロさん 右、社長 アメリアさん


アルゼンチン報告 1

アルゼンチン!!! 大変に、大きな意味のある旅、になった。    

滞在中は、1時間から3時間しか睡眠時間の取れないハードなスケジュールだったが。アルゼンチンの人たちとの感動的な毎日は、私にパワーを与え続けてくれた。

チャマメの土地「リトラール地方」を訪ねる前のブエノスアイレス、
1000人もの(実際2000人近くいたらしい)アルゼンチンの聴衆が集まってくれた「Feria de los Mataderos」
ここはブエノスアイレスの方だけでなくリトラールや地方出身者の方たちが
集まっていた。
ブエノスに着いたときから「日本人がチャマメを弾くのか?タンゴなら分かるけど、チャマメなんて難しいものを、本当に弾くのか!??」
と空港でもタクシーの中でも、私のアコーディオンを見て話が出ると、驚きの声が帰って来る。
この日の聴衆も新聞やラジオでこのコンサートの私の存在を知って、好奇心いっぱいの目が待っていた。

この日は野外コンサート、風で遠くの木々が揺れ、空を見上げると高い所に鳥が2羽
飛んでいるのが見えた。鳥たちはすぐに去らずにそこからこちらを見ているようだった。旅に出る直前「心は我々と一緒にアルゼンチンに行ってくれ」と便りをくれたマエストロ・バルボサ夫妻。私は演奏しながら、来てくれたんだ!! と思わず笑顔で空を仰いだ事をハッキリ覚えている。

聴衆は演奏を始めるとすぐに私のチャマメを受け入れてくれた。
信じられなかった事は、私のオリジナルチャマメを大変に喜んで下さった事だ。
トラディショナル中心のプログラムにすべきか、と悩んだ気持ちはすぐ吹き飛んだ。
演奏にテンションをかけると自然に湧きおこるお客様の歓声!! (人間の湧きおこる素直な感情の声があんなにすごいものだとは!!!!2000人近くもいたからなのかしら)
まだまだ日本では考えられない事。みんな、当たり前の事だけど、チャマメの魅力を知り尽くしている。
この日の前日、初めて会い音を出したアルゼンチンのミュージシャンたち(ギターのセバスチャン・ビジャルバ、マルコス・ビジャルバ、パーカッションのチャチュ・ルイス・ギニャス)と私と聴衆は完全にひとつになっていた。
演奏後ステージから降りた私に聴衆は信じられないほどの熱い祝福をくれた。なかなか控え室に戻れないほどの熱狂で、今回お世話をして下さったアルゼンチンのチヤンゴの事務所のスタッフや応援に来てくれたメルセデス・ソーサさんの実の妹さんオルガさんたちのガードでやっと控え室に帰れる、という状態。
(サインして差し上げられなかった皆さん、ごめんなさい・・・)
控え室にはひとりの大泣きしているおばぁちゃまがいらして
「この方はイサコ・アビトボルさんの実の妹さんのELSAさんです」
と紹介して頂いた。
彼女は「感動した」と涙で震える声で私を強く抱きしめてくれた。
(イサコ・アビトボルさんはチャマメの先駆者で、大変に有名な方です)
この日はイサコさんの曲を1曲も演奏しなかったのに・・・・。

決して、忘れない。
このチャマメを生んだ先駆者たちへの尊敬とその精神を!!!!
日本人の私。でも、この音楽に対する純粋な想いはアルゼンチン人に伝わり。
心がひとつになれたなんて!!! 音楽とは何て素晴らしいものなのでしょうか!!!
もう亡きイサコさんの心の声が妹さんを通して聞こえて来た気がした。
チャマメの精神にまたひとつ、近づく事ができたような気がします。

    
Feria de los Mataderos

   
          イサコ・アビトボルさんの妹さんELSAさん   

               続く


ザッツ・エンターティメント

どうも、私は映画に夢中になる時期が定期的にやってくるようだ。
一時、年に映画館で50本は見ていた時期があった。
今は、テレビで放送している映画を見まくっている。つい何週間か前には、ヒッチコック。
今はアカデミー賞を取った映画を放送しているので、見られる限り見ている。
大半は昔見た映画だが、かなり違った印象で見るものも多い。
子供の頃、両親に連れられて行った映画「サウンド・オブ・ミュージック」は子供の映画。と思いこんでいて、大人になってから、いささか馬鹿にしていたが・・・、大変に感動してしまった。
子供の時に映画館で見て以来、今回、真面目に見て、その昔の、子供の時の感覚を思い出している自分に気づいた。 どこの映画館かは分からないが、映画館で感じた空気まで、思い出していた。
今から10年程前、ザルツブルクに旅行した時、モーッアルトへの想いで胸がいっぱいで、そこがサウンド・オブ・ミュージックの舞台であった事をすっかり忘れていたが、町並みも懐かしかった。
ミュージカルを書きたかった時期があった事は前にも書いたが、私はMGMのミュージカル映画が好きだ。
「雨に唄えば」や「バンド・ワゴン」等は脳天気に明るい。徹底的に明るい。
ドラマの中で急に歌い出す不自然さはこれらのバックステージものには、無い。
マルクス兄弟。これにもはまった。まだ知らない方は是非とも見て欲しい。
私はチャップリンよりマルクス兄弟が好きだ。
「笑い」は人間の感情の中で一番だ。と真面目に思っている。
もちろん、悲しい程の美しいメロディーも好きだ。
でも、「笑い」は人間を救う。
今日、テレビでやっていた「フィシャー・キング」のテリーギリアム監督はモンティーパイソン出身。
モンティーパイソンにも夢中になったなぁ。
これらに夢中になって得た「エンターティメント」の本質。
お客さまを楽しませたいっ!!!!!
アコーディオン奏者、チャマメ奏者の私は、音楽家でありながら、エンターティナーでありたい。と常日頃から思っている次第であります。

                                 2004 2/9


有名人

どうも、我々は「有名人」に弱い所がある。

有名人とは何だろう・・・。
テレビに出ている人は「有名人」らしい・・・。
それだけ、目につく所にいて、知られているからだ。

昔、ある人が「牧田さん。チャマメを日本に広めたいなら、まず、有名になる事ですよ!!! 」
と言っていた。
彼が「ピアソラブーム」に乗って、テレビに出まくり、一気に「有名人」になった直後だった。

ブランドのバッグにしても、
有名ならば、それが素晴らしいもののように感じてしまう、人間の錯覚。
悲しいかな、それはすべてのクリエイティブな物にあるような気がする。

昨日、テレビで何の脚本もなく、有名人が旅をする番組を見た。
ただ、ただ目的もなく、その土地を歩いて、出会った人と話す内容である。
そこでは、有名人も知られていない、ただの人だったりする。
みんな、みんな、ただの人。有名も無名もない。

「この方は大変、有名な方で!!!」と紹介されるただの人。
ああ。人間の錯覚はこわい。
しっかり「見る目」を鍛えなくちゃ・・・・・。
そして、己を磨かなくちゃ!!!!!!!!

2004  2/1


音楽と競争

テレビであるピアノ音楽コンクールのドキュメンタリーを見た。
番組を見てから2、3日過ぎて、ますます、出場した若きピアニストたちの目が気になりだした。
音楽と純粋に向かい合っている目ではない。彼らの目は競争に苦しんでいる目だった。
演奏中でなく、テレビカメラに見せた目が番組として多かったせいかもしれない・・・。
私はここ2、3日あの目を時々思い出し、いやな気持ちになっている。
競争の泥沼の中で、音楽の表現を武器に戦う意味を、私は教えて欲しい。
審査員の中村紘子さんがおっしゃっていた。多くの観客の前で自分をさらけ出し、魂を磨いてゆく、という意味で、若い奏者は一日で変わってしまう事がある。と。
確かに、一日中、楽器と向かい合って練習しているより1回の演奏会は、はるかに多くを学べる。
でも、競争はあまり、良いことと思えない。
しかし、無名のピアニストは多くの観客を呼ぶ事は出来ないだろう・・・・。演奏家は観客に育てられる。
いつも思う・・・。コンクールでなく、どうしてフェスティバルにできないのか。と。スリルがないと、ダメなのだろうか・・・・
ただひとり、16才で本選に残った高校生が救いだった。、まだ若く、コンクールの年齢制限という意味で追い込まれた苦しい気持ちがない彼女には、こわいもの知らずの明るさがあった。16才にして、すでに挫折も知り、苦しい時代があり、そこから抜け出たばかりの明るさは羨ましい程の天真爛漫さがあった。
大人になっていく道にはまだまだつらい事があるだろう・・・、
でも、ずっといい目をしていて欲しい。と思った。
コンクール入賞の肩書きはクラシックの世界では、活動していく上で必要な事らしい、という事は聞いたことがあるが、「今」のその奏者自身。なのに、少し、おかしいな・・・・。肩書きがないと注目されないなんて。

私は、去年、違った意味での音楽の競争社会に放り込まれた。
初めての世界に悩んだ時期はあったが、
もうかなり長い音楽の道で苦しんだ経験は私をかろうじて、支えてくれている。
良い音楽を作り続けていきたい。

2004 1/19


ワールドミュージック

チャマメが、2003年2月、CD「風がたどった道」として、世に出る事ができた。
ジャンルは当然、「ワールド・ミュージック」
ラジオで川村結花さんとお話したが、音楽にジャンル分けはして欲しくないのが本音だ。
しかし仕方ない事だ。
ラジオで私の曲を聴かれた方がJ-POPコーナーに行かれたらしく、あるCDショップではJ-POPに置いてある所もあるらしい。そして、クラシックのコーナーにあるショップもあるらしい。
J-POPの売り場は若者でいつもにぎわっているが、ワールドミュージックは比較的静かな気がする・・。
ワールドミュージック。私は、これから新しく音楽を作っていく上でも、一番可能性のあるジャンルだと思う。世界にはその国の分。アクの強い音楽がある。それらは、とても面白い。
その国の人の様にそれを演奏できなくても、真摯にその魂を学び、自分の中にある音と融合させて新しい物を作っていくこの知的な作業はたまらなく楽しいはずだ。
私は、アルゼンチンに夢中になり、その知的作業を今楽しんでいる。
キングレコードから出てる、ワールドミュージック大全集。欲しいけど、貯金しないとなぁ。
サンタさんにお願いしようかなぁ。

                 11/15 2003


ベートーヴェン第九交響曲、

12月が近づくと、ベートーヴェン第九交響曲のコンサートが増える。
日本人の行事みたいになっているこのクラシックコンサートに、
どうも世に中の流れに反したくなる傾向のある困った性格の私は「またかぁ」とつぶやきつつ、この交響曲のすごさに気づかないまま、時が流れていた。(母が若い頃、この合唱をした事があり、つきあっていた恋人ー現在の父にドイツ語を習ったという事で、私は子供の頃から訳も分からず、歌っていたが・・・)

私は、子供の頃から、クラシック音楽の好きな両親に連れられ、クラシックコンサートによく行った。
そして、ウィーンフィルに夢中になった。
当時、NHKーFMで、ウィーン国立歌劇場の日本公演を生放送したり、カール・べーム指揮ウィーンフィルはテレビとラジオでよく聞いた。
そして、感受性鋭き、中学生の私は、ウィーンフィルの虜になったのだ。そこには何の敷居の高さも気取りもない。純粋な想いだけだった。
ウィーンフィルは個性的な集団である。そして、音色も他のオケと違った楽器を使っているので音が違う。
この音に夢中になった。ヴィーナーオーボエの音に夢中になり、やがて、ヮルター・レーマイヤーというオーボエ奏者に恋心を抱いたりもした。
若い頃、アイドルに夢中になるように、私は下敷きにウィーンフィルの写真が入っている変な子だった。
(太陽に吠えろ!の刑事役でワルター・レーマイヤーが夢に出てきた話は友人の中で有名である)
そして、ウィーンフィルの演奏する曲はなんでも聴きまくった。
日本公演、ベートーヴェンの交響曲はウィーンフィルから教わった。
しかし、この合唱付き、の9番。はわたしの中で遠かった。

そして、時が流れ、パリ留学中、カラヤン生誕100年。という事でレコード屋の「fnac」で大きく宣伝していた、65Fのこの「第九交響曲」。
アパートの部屋でCDウォークマンで聞いた、第九。その底力に圧倒された。
しばらくアコーディオンを弾いても、何か虚しさを感じてしまい、練習をすぐ中止してしまった。

まさにすり減るほど聞き、私はチャマメを感じた。
マエストロ・バルボサに、興奮してこの話をした事がある。

ウィーンフィルとクラシックとチャマメ。しっかりつながっている。
チャマメとウィーンのつながり、また今度お話しますね。

前にcobaさんとこの私の少女時代の話をしていて、彼は、私が子供時代にウィーンフィルに夢中になった事を
とっても驚いていたけど、私はこんな過去を持つ日本じや、変わったアコーディオン奏者。

まぁ、みなさん、末永く、よろしくお願い致しますね。

11月  2003年