椎名林檎と2000年の風景
〜ファム・ファタルの系譜〜
(2000年1月)
 椎名林檎がここまでブレイクするとは誰も予想できなかったろう。アルバムはミリオンセラーとなり、昨年末から今月にかけてほとんどの音楽誌の表紙を飾っている。新曲『罪と罰』『ギプス』も絶好調だ。

 最初に彼女の唄を聴いたのは、2ndシングル『歌舞伎町の女王』だった。僕は真っ先に戸川純を思い出した。情緒不安定でヒステリックな声、巻き舌で変幻自在の歌唱法、過剰なセックスアピール、そして歌詞に漂う昭和国文学的なニオイ。『無罪モラトリアム』を聴いていると、84年に発表された戸川純の『玉姫様』とのシンクロを感じないではいられない(もっとも椎名林檎は戸川純を聴いてはいなかったろうけれど)。

 ここで考えたいのは、戸川純はあくまでマイナーな存在だったのに対して、椎名林檎は何故ポピュラリティを勝ち得たか、ということだ。歌唱力やルックスといった資質の差やメディア戦略の違いを敢えて無視していうと、椎名林檎の唄って、戸川純と同じ位かなりディープでマニアックでエグイもののはず。それが、神田うのがグラビアを飾る『ViVi』とかにも「徹底研究 椎名林檎」なんて特集されてたりする(2000年3月号)。例えば80年代だったら、二谷友里恵と戸川純が同じ女性誌に載るなんてことはありえなかったのだ。

 そんなわけで、椎名林檎がマスに愛され100万枚売れる理由を考えることで、2000年ならではの人間模様が少しでも理解できるかななんて乱暴なことを思いついたわけです。


★メジャー対マイナーの80年代

 80年代という時代は、「おいしい生活」とか「楽しくなければテレビじゃない」といった当時の広告コピーに象徴されるように、明るくてオシャレな消費が無条件に肯定された時代だった。バブル崩壊まで続いた、新人類達の長い長いお祭り騒ぎ。

 しかし一方でその底流には、そんな「軽チャー」に違和感を感じた人々の負のエネルギーがとぐろを巻いていたりもした。戸川純は、そうしたアンチ・メインカルチャーの代表のひとりだった。ステージ上で生理で倒れたり背中に昆虫の羽根をつけて唄ったりオナペット宣言をしたり。それは、AORとか聴いてDCブランド着てカフェバーで戯れるトレンディな明るい人達に対する極端な挑発だった。彼女はネアカな表文化に対する差別化欲求の象徴的存在になっていった。

 ネアカ/ネクラという分類やディズコの服装チェックに代表されるように、80年代の文化は垂直構造であり、メジャー(上層)とマイナー(下層)の区分が明解だった。メジャーを志向するマジョリティはマイナーに関心を示さないので、マイナー文化の受け手のパイは限定されていた。マイナー文化の送り手もマイナー幻想(=マイナーだからこそカッコイイ)にこだわり、メジャーを敵対視する。

 文化の垂直構造のなかでは、人は横目で周囲のファッションを気にしながら自分の服を選ぶ、という差別化原則で行動することになる。戸川純のさまざまな奇行も、ヒットチャートとかディズニーランドとかユーミンといったメインカルチャーに対するアンチ・メジャーという差別化の戦略だったのだ。

 差別化という目的のために、彼女は上野耕路や高橋ユキヒロといったブレーンを常に必要とした。楽曲にしても彼女自身が作詞作曲を手がけたものは実は少ない。つまり、彼女はファム・ファタル(運命の女=悪女)だったけれど、それは目的達成のための手段として選択されたキャラクターだったのだ。それは、ひょっとしたら素の自分自身とのズレがあったのかもしれない。そのために彼女は徐々に自意識を疲弊させていったのではないだろうか。

 マイナー志向層からカルト的な支持を得た戸川純は、CMやテレビドラマといったオーバーグラウンドに登場するようになると、マイナーとしてのアイデンティティを失ってしまい、失速していくことになる。彼女の楽曲のうちいくつかは、本当に素晴らしい作品だった。でもメジャーの世界では、ただの「変わった女の子」としてあっという間に消費されていった。


★マイナーが脱マイナー化する90年代

 91年を境に、日本はずいぶんと変わった。バブル崩壊と情報化の進行は、垂直構造のヒエラルキーを一気に瓦解させた。その結果、何がカッコよくて何がカッコわるいか分からない、上も下もないという水平構造になり、ベクトルの多様化が起こる。そこではメジャーとマイナーの明解な区分も序列もなく、あらゆるものが同列になる。つまり一流企業のサラリーマンもベンチャーも美容師も店員もカフェのマスターも等価に魅力的、というアナキーな様相を呈するのだ。

 こうなるとメジャー対マイナーという構図が成立しにくくなる。アーチストにとっても受け手にとっても、マイナーであることは「たまたま今はポピュラーではない」という状態に過ぎなくなり、マイナー幻想を抱く余地は無くなっていく。その結果、メジャー/マイナーでスクリーニングするという受け手のモノサシが外れ、かつてならマイナーと呼ばれたものを支持する層のパイが広がる。また送り手もマイナーであることにこだわらなくなるために、売れることに抵抗が無くなる。実際、椎名林檎は「アングラ志向は全く無い」というようなことをキッパリと言っているし、ドラゴン・アッシュの降谷健志も同様の発言をしている。

 こうして、マイナーの脱マイナー化が起こる。椎名林檎のブレイクは、こうした枠組の変化を背景として実現した。マスに愛されるファム・ファタルの誕生。


★本能志向の2000年

 世の中が水平構造になると、序列も無く互いの関わりも希薄な小グループがタコツボのように無数に存在することになる。これは「なにをしても大して変わらない」状況とも言えるが、逆に「なにをやってもいい」という奇妙な開放感をも与えることになった。自分の仲間以外の人目は気にならなくなり、人に迷惑さえかけなければ何をしたってオッケー。こうなると、周囲の様子をうかがうよりも「自分にとって気持ちいいかどうか」という快不快原則が幅をきかせるようになる。自意識にさいなまれてウジウジ悩むよりも、自分のやりたいことをやった方が勝ち、と考える人が飛躍的に増加したのだ。

 この快不快原則はバブル崩壊直後から登場したが、当初は自粛ムードもあって「ありのままの自然体の自分が気持ちいい」的なリラックスした自然体志向としてあらわれた。しかしそのうちに、自然体を作為的に演じるという鼻持ちならない自称自然体が大量発生してこのモデルは陳腐化。かわって近年台頭しているのが、自分のエゴに忠実な本能志向だ。意味など求めず、とことん自分の欲望に忠実になる(なりたい)人が増えている。

 そこで椎名林檎だ。彼女はその欲望をまるで伊勢湾台風のように暴走させ、生の感情をまるで絶好調時の松坂ばりにズバズバ投げ込んでくる。彼女にかかれば「終わらない日常」は「めくるめく劇場」になり、恋愛は戦争に変わる。感情を剥き出しにした言葉と声。「いま」「ここ」という言葉が歌詞に多用される be here now な姿勢。

 自分自身の本能を溢れさせる彼女は天然の真性ファム・ファタルなのであり、だからこそ快不快原則の時代の追い風を全身に受け、ポピュラリティを獲得することが出来たのだ。どうせならもっと自分の本能を開放したい、リアルに生きたい、そう感じている全ての人は、彼女に自分自身を投影させるだろう。

                           *

 80年代は、よく出来た作り笑顔の世界だった。バブル崩壊を境に、その世界はほころび始め、そして今、世界の本当の表情が見えてくる。


80年代 90年代〜2000年代
時代環境 <垂直構造>
メジャーはメジャー
マイナーはマイナー
<水平構造>
メジャーもマイナーも
ゴッチャゴチャ
生き方 上昇志向VSマイナー志向 なにをやってもオッケー
エゴイズム
時代の
ファム
ファタル
戸川純 椎名林檎
創作姿勢 アンチ・メジャー 本能/欲望を全開
ポジション カルト・アイドル マス・アイドル


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