わたしのこと

にーはお。私のホームページを見てくださって、有り難うございます。私は、王 霄峰(ワン シャオフォン)と申します。 私は、いま、日本で胡弓の演奏活動を生業としていますが、これは別になりたくてなったわけではなく・・そのお話をしましょう。

子供の頃なりたかったこと 
 私の父は、中国東方歌舞団の二胡奏者です。その関係で、私は六歳の頃から二胡を習わされていました。正直言って、その頃の私は、二胡よりもピアノやヴァイオリン、いえそれよりもっぱらなりたかったのは映画俳優でした。一度見た映画や芝居は絶対忘れない記憶力を持っていましたので、親戚や父、母の同僚が集まるときに自分の得意な芝居を見せるのが何よりの楽しみでした。
でも、そんな私の楽しみが真面目な両親の反対に遭い、嫌々ながらも自分の体よりも大きい胡弓を持つことになりました。でも、やはり好きじゃないものは長く続かなくて、両親が家にいるときはちゃんと練習していたものの、ちょっとでも目が離れると、遊びに行ってしまうのでした。

中学入学のこと 
小学校を卒業する時、クラスの友達は自分の成績で狙った中学校へ進学できましたが、私は勉強もできなかったので、行くところがなかったのです。諦めていた時期に、近所にある有名な中学校の音楽の先生が我が家を訪れて、二胡演奏のできる生徒さんを探していると言ってくれたので、その中学校へ入学することになりました。入学してみると、皆さん自分の成績で入ってきていたので、私が皆さんの勉強についていくのは不可能に近い状態でした。その代わりといっていいのかわからないですが、誰にもできないことで私にできることがありました。胡弓の演奏をすることです。・・・というわけで、ますます勉強しなくなり、もっぱら遊びと二胡の毎日、いや、正確にいうと遊びの毎日でしたね・・なんでこんな話になったっけ?

あ、そうだ、わたしはどうして二胡奏者になったのかでしたね。

音楽コンクール  中学校三年生の時、北京市青少年音楽コンクールが行われました。私は、北京市東城区の代表として参加しました。楽屋に行くと、いろんな楽器を抱えている人がいました。みんな自分より上手そうにみえて、怖かったのを覚えています。自分の出番はまだかまだかとそわそわ待っていました。とうとう自分の出番になりました。二胡を持つ手に汗いっぱいで、しかもかすかに震えていたのをいまでも鮮明に覚えています。演奏がどう始まって、どう終わったかは、はっきり覚えていないぐらいあがりましたね。一週間後の発表で、自分が優勝したのを知って、なんだ、思ったより悪くないじゃないと感じました。それがきっかけで少しばかり自分に自信がつきました。高校進学 中学校を卒業するとき、成績も良くなければ、二胡奏者としても若すぎたため、行く高校が無くて困りました。中国の高校では、夏休み明けの秋に新学期が始まります。夏休みの間に自分の高校を決めておかないと中卒のままで社会に出ることになります。私自身は勉強が嫌いでしたので、特に悲しくはなかったのですが、困ったのは両親でしたね。父は二胡奏者で、母は北京医科大学の教授を務めているような知識人です。息子が中卒ではいけないと思ってくれて、暑い暑い北京の夏に父が私のためにいろんな高校へ言って、先生に頭を下げて、何とかして私の行く学校を確保してくれました。その高校は、北京では成績の悪さで有名なくらい勉強しない生徒さんでいっぱいでした。入学してびっくりしたのは、今までの中学では、私が一番勉強のできない子でしたのに、この新しい学校では、私の成績がまあまあの方だったことです。廊下で煙草を吸う人もいれば、自転車を乗る人もいましたね。授業中は、先生の声が聞こえたことがないほど、みんながおしゃべりに夢中で本当にうるさい。そんなところで、勉強はおろか、真面目なこと何もできなかったです。中学校まで頑張ってやった胡弓もいつの間にかやらなくなって、家の隅に埃をかぶって寝ていましたね。

日本へ・・・
二年生の時、私の母が医学用コンピュータを勉強するために日本へ来ました。日本に滞在している間に、日本の社会のことや、教育関係のことをみて、私を日本に来させれば、或いは真面目な青年になれるかもしれないと考えたのです。一時帰国するときに、母がそのことを父に相談して、私を日本へ来させようと決めたのです。当時の私は日本へ行って勉強しようなどは考えてなく、日本の電気製品や、車、洋服、あとは雪に覆われている富士山の姿を自分の目で確かめてみたかっただけでした。ただそれだけの理由で日本にやってきました。
成田に降り立った時、すべてが私にとって新鮮で興奮しました。日本人の歩く速度、私に分からない言葉、中国人と違う表情、非常に混む電車のことなど・・・自分の思い描いていた日本のイメージとはだいぶ違って、自分がどうすればいいか分からなくなりました。中国語のほかに日常的に使われている言葉としての日本語の存在も不思議でしたね。それからは、留学生としての生活が始まります。そのへんは、ほかの人より苦労していると思っていないので省略しますね。

そして二胡の演奏を・・・ 
その頃も、二胡の演奏をしようとは考えていなかったです。来日して三年目の春、千葉大学に入学することができました。ある日パーティに出席したら、一人の留学生が二胡の演奏をしていました。身に覚えのあるものでしたので、一番前に座って聴いていました。その演奏後,みんなに拍手を受けた彼女を見て、このくらいの演奏だったら、自分の方もできるかもしれないと思い、二胡を借りて、コンクールの時に演奏した「空山鳥語」を弾きました。演奏が終わってみんながびっくりして、「王君、二胡弾けるの?」ときかれて、「いや、小さいときに習ったことがある」と答えました。そのときやっぱり小さいときから習ってきたことは、忘れられないものだなと思いましたね。大学にも入学したことだし、少しずつ練習すれば、もっと上手に弾けるようになるかもしれないと思い、国にいる両親ににこを送ってくれるように頼みました。それからしばらくしたある大雪の日に、学会のために来日した母の背中から二胡を手に取ったとき、とても懐かしい感じがしましたね。
自分の楽器があれば、時々練習もできて、少しずつ技術を蘇らせて、演奏する機会を増やしているうちに、胡弓がみんなに好かれていることに気がつきました。自分も練習するほどにその面白みが分かって、だんだんのめり込んでいくわけですね。そして今、二胡を演奏することや、それを教えることで生計を立てていけるほどになりました。