広瀬一朗氏のコラム   第22回 (静岡新聞 1月26日掲載)
【スポーツの公共性】〜新たな「社会」を創出〜
  

  「スポーツは公共的なものである」ということを、大抵の方は一度は耳にしているだろう。例えば小笠山にできるスタジアム「エコパ」の建築費は、税金で賄われる。何故それがまかり通るのか。どうして県議会で問題にならないのか。それはスポーツが公共的な存在だ、という認識が一般的だからであろう。
 しかし、「スポーツは公共的である。だから素晴らしい。」などと言う人がいたら、その人の見識は疑われよう。逆である。スポーツは素晴らしい。その素晴らしさによって公共的であると「認められる」のである。「公共的である」とは「高い」、「重い」、「遠い」等と違い、何かもともと自然にある状態を表す形容詞ではない。公共的とは「公共的である」と"認定された"ものに与えられる称号である。ではそれを認めるのは誰か。「市民」である。「市民」とは誰か。決して生物としての人間そのものではない。「社会」を構成する役割を担った人である。では社会とは何か。・・・とこの問いは延々と続けることができる。(この連続した問いが「哲学」するという行為なのだろうが。) 
 キリがないので、ここでの結論。社会とは「各自が異質で独立している人達」を基本にした集団である。異質な者の集団であれば、そこにはルール(規則)とモラル(倫理)が必要となる。
この点で「社会」に対置すべき概念は「共同体」である。それは人間の「同質性」を基本にした集団である。その集団に属するメンバーは、基本的に同じ価値観を持ち、同じ行動様式をもつことが求められる。時として「共同体」の原理はその集団内において、「法律というルール」に優先する。それが法的には違反したものであっても、「正義というモラル」に反した行為であっても、その共同体を守るためには何事も(不良債権の隠蔽工作をすることさえも)厭わない。いや、むしろ率先してそういった違反行為に荷担しないと、その共同体のメンバーとはみなされないのだ。
 無論、これはどこか遠い外国の話ではない。私達の住んでいるこの国では、最高峰と呼ばれる大学を出て、エリートと思われてきた人達によって構成されるエリート集団においてすら、ごく普通に見られる行動様式であったのだ。それはまた決して希なケースでもない。私達の周りを見回せば、同じようなケースは至る所に見出すことができるはずだ。つまり、極限すれば日本には社会が存在せず、共同体のみが存在する。それがこの国の実態だと言いきってもそれほど的外れではなかろう。
 社会が存在しないのに、自立した市民が存在するはずがない。市民が存在しないところで、いったい誰が「公共性」を判断するのであろうか。それが「スポーツの公共性」に対する私の基本的な疑問である。
 やれやれ。ぼやき漫才の人生幸朗師匠のようになってしまった。(責任者、出て来んかい!)ぼやいてばかりでも仕方がない。問題があるならそれを解決すべき課題とし、その緒を探せば決して見つからないはずがない。私は基本的に楽観主義者でもある。
 昨年連載の第2回目で、岡田元代表監督(と言われるのを彼は最近嫌っている。「今はコンサドーレ札幌の監督です!」)と、ラグビーの平尾監督との対談を取り上げた。その時に、「スポーツで社会を変える可能性」という大胆不敵(あるいは傲慢不遜)なたくらみについて言及した。ここでそれを訂正したい。「スポーツで、(日本には現在存在しない)社会を作り上げる可能性」である。(私の傲慢さは、どうも重症な亢進性のもののようだ。)
その実現のためには2つの方策を考えている。一つは「スポーツを真の公共的な存在にする」ことにより、「公共性」という概念を再確認し、人々の前にそれを分かりやすい形で具体的に提示する。その論議の過程で、同時に自分の意見を積極的に表明する「市民」を育て、結果として「社会」を創出する方法。具体的には「何故スポーツが公共的なのか」(つまりスポーツは社会に対して「いかに有用なのか?」)を徹底的に議論する。その議論にできるだけ多くの人を参加させる。議論では徹底的に異質性を容認し、多様性を確保する。その上で異質な意見を集積して、一つの共同認識(コンセンサス)を作り上げる。そのプロセスで異質性が容認される集団(=社会)を育成するのである。 
 この議論におけるルールはただ一つ。「スポーツを"私"しないこと。」「私はスポーツに長年こんなに貢献してきました。」とか、「俺のほうがうまい(強い)。」という点は、この議論ではまったく省みられることはない。(つまり体育会のノリは否定される。)スポーツを愛する者であれば、全ての人に同等の発言が許される。「スポーツは競技連盟のものである」などと考えるようでは、スポーツに公共性は認められない。(同様に、政治は政治家のものではない。)「私する」とは、公共性の否定に他ならないからだ。
 一部の専門化達から不満は出るだろう。困難であるには違いない。だが一度は試してみる価値はある。トライする価値があるかどうかの尺度は、これもシンプル。「それがスポーツにとってプラスかどうか?」だけである。(組織にとってどうか、は二の次。)プラスだと思われればやる。簡単な話である。  第2は、教育だ。この点を次回に述べよう。

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