広瀬一朗氏のコラム   第21回 (静岡新聞 1月19日掲載)
【W杯のオン・デマンド配信】〜「見たい時」超える価値〜
  

 スポーツは予め予測ができず、同じものが二度とできない。しかも、眼前で行われた行為は明快なルールのもとで行われる「人間の肉体活動」だから、起きた行為(プレー)が何か(どういう意味か)ということに関して理解が容易だ。これがスポーツの現実感(リアリティ)の成立とその共有を可能にしている。つまり「今」という「時間」と、「ここ」という「空間」を実感し、その感覚を他者と共有できるのが、スポーツという貴重な存在なのだ。従って、時間と空間の共有から離れれば興味はその分減ずることになる。
 「どちらが勝ったのか」という結果を知っている、いないにかかわらず、録画された番組を見ると興奮度は低くなるのは、これら(「今」と「ここ」)が欠けているからだ。スポーツによって得られる感動とは、その現場で観戦することによって「時間」と「空間」を共有することが、最高の価値なのである。実況生中継のTV放送観戦は、空間を擬似的に(みせかけとして)共有しながら、時間を共有することができるのでそれに続く。これは言わば、「臨場性に基づく価値」の体系とでも言うべきものであり、これを崩したらスポーツの基本的な価値を損ない、ビジネス自体も成立しなくなる。(往年の名場面をビデオで見る場合、「その時」という時間感覚を記憶とともにに楽しんでいるはずだ。)スポーツ観戦の楽しみは、あくまでその場にいる人たちのものが最高なのである。
 たとえば、ワールドカップの決勝は、世界で20億人以上の人がテレビを通じて見た。一方、パリのスタッド・フランスで観戦したのは約8万人であった。そこで20億人対8万人は、数で比べると2500対1なので、20億人の人を中心にものを考えるべきかと言えばそうはならない。数の問題と質(意味)の問題は明確に区別さるべきであろう。スタッド・フランスの8万人は人数としては少ないが、意味としては価値の中心に位置しているのである。その場の8万人が熱狂せずに、TV観戦している人達が熱狂できるわけがない。この価値の中心(=8万人)をおろそかにすると、スポーツの価値体系そのものの崩壊を招きかねないのである。
 FIFAもこの点には気づいているいるようだ。例えば昨年末に発表された公式マスコットに、そういう配慮が伺える。ご存知のように名前はアトモで、アトモスフェア(atomosphere 雰囲気)に由来する。サッカーにはアトモスフェア(雰囲気)が大事で、その大事なものを伝えるため地球外からやって来る架空の生き物である。2002年大会ではなぜ、ことさら「雰囲気」を重要視しているのか。
 日本サッカー協会には耳の痛いところだろうが、2002年の大会は「自国のチームが決勝トーナメントに進む可能性の低い国で開催される、初めての大会」という認識がFIFAにはある。従って、本来W杯は大会が進めば進むほど「雰囲気」が高まるのに、今回はその高まりが望めない危険がある、と見ている節があるのだ。
 そんな「現場の雰囲気」を重要視するFIFAだが、一方で2002年の新たな試みとして、現場に臨めない多くの人達にとって便利な「ビデオ・オン・デマンド(VOD)」というサービスを検討しているようだ。
 VODというのはケーブルTVなどが行っているサービスで、同じ番組を時間をずらして何度も放送するものだ。そのため視聴者側は、自分の都合のいい(オン・デマンドな)時刻を選んで番組を楽しむことができるわけだ。アジアで行われるW杯のゲームは、時差のおかげで欧州や南米では深夜や早朝にあたるのだが、このサービスが行われれば、サッカーの最大の市場であるこの両地域のファンは、自分の好きな時間にゲームの最初から観戦できることになる。例えば早朝5時からの試合を、6時に起床しても最初から見ることができるのである。成る程ファンにとっては、便利なサービスではないか。
 ところが現実には、6時から見始めたファンは前半を見終わった時点で、既にゲームが終了したことを認識しているわけだから、それ以降も興奮は同様に持続するのだろうか?
即断はできないが、興味の持ち方が途中で変質してしまうだろう。
 何度も強調するようだが、スポーツの最大の価値が「今」という「時間」と「ここ」という「場所」に由来する現実感とその共有感であるとするなら、その価値を減殺するような愚行は犯すべきではない。飽くまで「今」と「ここ」という現実を、そうではない非現実からまもるべきではないだろうか。どれほどVODが便利なサービスであろうとも、この原則を曲げて、現実と非現実の区別を曖昧にするようなサービスは提供すべきではない。
 では、どうするか。飽くまで私案ではあるが、ゲームが終了するまでは、VODのサービスをスタートしない、というルールを設定するのはどうであろう。仮に、ゲームが終了した直後から30分おきに放送が始まるサービスがあるとする。早朝5時だと早すぎて起床できない人は、7時から、あるいはそれ以降30分おきにゲームの最初から見ることができる。しかもゲームが終了していることは了解済みだ。「それでは物足りない」という人は早起きすれば良い。「それでも、やはり物足りない」という人は、会場に来れば良い。単純なことではないか。
 価値あるものを得ようとすれば、相応の努力が必要なはずだ。逆に、努力や工夫もなく得られるものに人は価値を見出すだろうか。安易な妥協で利便性を追求することが、結果として「スポーツ」を安易で価値の低いものに貶める危険性があるのではないだろうか。
 無論、「安易なものにしない」ということは、スポーツを一部の特権者たちやスポーツ関係者に独占させておいて良いということを意味しない。障害者も含め、スポーツが万人に開かれたものでなければならないという点、今更論を待たない。何故なら、それこそがスポーツを「公共的」なものにしている最も基本的な根拠だからだ。スポーツが公共的でなくてもいい、というのならその限りではない。
 

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