【公式マスコット発表】〜開催地の国柄反映せず〜
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ついに(待ちに待った?)2002年W杯の公式マスコット・マークが12月1日に発表された。
公式マークは既に発表されていたのでは?と思う方もおられようが、それは「公式エンブレム」である。(紛らわしいと言えば紛らわしいが。)マスコットには、「お守り」とか「幸運をもたらす人」という意味があるそうな。従ってエンブレム(紋章)と違って、人(もしくは擬人化されたもの)のデザイン・マークである。ちなみに招致活動の時は、日の丸とサッカーボールを組み会わせたダルマ型のマークを使用したが、あれはエンブレムだ。
さて発表されたマスコット・マークだが、単体のものではなく複数のマスコットの組み合わせとなっているので、何となく「長野五輪のスノーレッツ」を連想させる。こういうのが最近の流行であろうか。デザイン自体には好き嫌いがあり、人それぞれであろうが、今回のマスコットには従来とは明らかに違った特徴がある。
第一に、開催地の文化的な背景がまったく反映されていないこと。
ここでW杯のマスコットの歴史をちょっとだけ振り返ってみよう。82年のスペイン大会は、バレンシア・オレンジを象った「ナランヒート」。86年はメキシコの唐辛子がソンブレロをかぶった「ピケ」。90年はデザインの国イタリアらしく、国旗の3色をまとったグラフィックな体にボールの頭がのった「チャオ!」。94年はいかにも米国のアニメ・キャラクターらしいデザインの犬、「ストライカー君」。そして昨年はフランスを象徴するニワトリの「フーティクス」と、お国柄が反映されたものだった。(近々発表される県の「W杯友の会」のシンボルマークも、静岡とサッカーを象徴したものになっている。請うご期待!)
ところが今回は日本とも韓国とも全く関係がなく、コンピューター技術を駆使して架空の生き物を作り出した。「アトモ」と呼ばれる地球外の生き物で、サッカーの感動、興奮などを醸し出すアトモスフィア(雰囲気)にちなんでいる。青と紫の若いアトモが地球にやってきてそれぞれが日韓両国に降り立ち、さまざまな冒険を繰り広げるという物語仕立てになっており、その冒険譚は本大会まで展開するそうだ。科学の時代、サイバーの時代にふさわしい独特のキャラクターで、21世紀の主役となる"サイバー世代"の10〜20歳代の青少年達には好感を持たれるだろう、と評価する向きもある。韓国からは「ポケモン」に似ている、という極めて当を得た指摘があるらしい。従ってポケモンに似ているから売れる、という判断にも理はあることになる。ポケモンが好きかどうか、は世代によって確かに分かれるところではあるだろう。
共同通信によれば、「当初は大会のエンブレムは一つで、マスコットは日本と韓国が別個のものを作るとの合意が国際サッカー連盟(FIFA)を交えた三者間で成立していたが、韓国がその後、マスコットも同じものにしたいと要望。妥協点を探る困難な作業の中で、複数のキャラクターを作る構想が実現した。空想の世界の小さな生き物は、日韓のバランスをとるという意味でも都合がよかった。」ようだ。
二番目の大きな変化は、発表会場では説明されず、またその後誰も指摘していないが、ビジネス的には(つまり私が関わる分野としては)更に重要だと思われる。従来のマスコットは、公式スポンサーを主とした利用者として想定しており、商品のパッケージに利用したり、雑誌や新聞等の印刷広告用に利用しやすいものであった。ところが今回の「アトモ」は、明らかにTV放送用素材としてデザインされている。一方、商品のパッケージのような印刷物にあのような透明感を出すのは、技術上非常に困難だ。
前著「メディア・スポーツ」で、放送権料の高騰は、近々スポーツビジネスの構造を変えるだろうと述べたが、早くもそれがここに現れている。2002年の大会からW杯(FIFA)にとってナンバー1のスポンサーは、TV放送局になってしまい、公式スポンサーの地位が相対的に下がるという事態が発生している。(五輪では既にそれが定着しており、従ってサマランチ会長は大会直前の晩餐会で、スポンサーその他の何をおいても真っ先に放送局への謝辞を口にする。)スポーツに対してTV放送局の発言力が高まることは望ましいのか。新たな問題は起こらないのだろうか。この点に関して、来年早々にまとめてお話することになるだろう。キーワードは「スポーツの公共性」である。
今更「変化自体がいけない」等という、青臭い議論をしようというのではない。(ただ、その変化が急激すぎる懸念はある。)我々の社会が変化の真っ只中にある以上、もしスポーツにのみ変化が起きないならば、それはスポーツが没社会的であることの証左にしか過ぎない。問題は、「スポーツに起こっている変化」が来るべき21世紀の社会にとってどういう意味を持つのか、その変化は我々の目指す社会に相応しいのかどうかという判断なのではないだろうか。スポーツが今後どうなるのかは、今や私たちの未来へのビジョンに関する選択と不可分なのである。
我々の次の世代に対して、2002年までにアトモ達はどんなストーリーを提供してくれるのだろうか。それを楽しむ子供達は、どんな表情をしているのだろうか。
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