【W杯予選ドローの思い出】〜パリのストと伝説の男〜
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来る12月7日、東京フォーラムで2002年W杯の予選のドロー(組み分け抽選)が行われる。
開催国の日本と韓国、そして前回優勝のフランス以外の国は足掛け2年がかりで長い予選を戦うことになるが、欧州などではこの組み合わせで運不運が大きく分かれることになる。同じ予選グループに強豪国が集まると、「死のグループ」等と言われるようになる。前回はイングランドとイタリアが入ったところがそうだった。最後にアウェーの地イタリアで、凄絶な試合の末引き分けに持ち込みグループ1位通過を獲得したイングランドは、文字通り満身創痍で母国に帰国した際、「イングランドの誇り」として国中の賞賛を浴びた。一方イタリアは、その後のプレーオフでロシアとの死闘を制し、最後にかろうじて本選出場の切符を手にした。今回も世界中で様々なドラマが繰り広げられることになるだろう。
ところで私にとって前回大会では、予選ドローそのものの方がドラマチックであった。95年12月、舞台はパリ。
当時ゼネストの真っ最中だったパリは将に大混乱の極致で、事前にはドロー会場の変更も検討されていた。組合側がドローに会わせてストを行ったのは間違いない。我々日本のW杯招致委員会事務局(当時)は、世界のサッカー関係者とジャーナリストが集まるドローを、翌年の開催地決定までの活動の重要な機会と捉え、記者会見等を企画した。無論韓国も同様な目的で来ていた。日本開催した場合の情報システムをプレス用に説明するため、(素人のくせに!)私も渡仏していた。既にその年の9月末にFIFAに提出した開催提案書で言及していた内容を、(機会音痴の私が!)実際にパソコンを使ってデモンストレーションしたのだが、欧州の記者の反応は概ね好評であったと記憶している。
場所は、翌日ドローを行うルーブル美術館の地下街。ゼネストのお陰でパリの交通状況はまったくマヒし、徒歩15分のところまで行くのにタクシーで1時間かかるという有り様だった。幸い会場の隣にホテルが取れたため、作業自体は滞りなく終えることができた。ドラマはその直後、パリを離れる際起こったのである。
役目が終了後、混乱を極めていた花の都に「長居は無用」とて、翌日のドローも見学することなく、とにかくその日のうちにロンドンまでたどり着き、翌日ロンドンから帰国しようとした。すると同じくその日のうちにロンドンまで行きたいので、同乗させてくれとある人物から頼まれた。その人とは誰あろう、1966年のW杯イングランド大会で優勝したイングランド代表の中心選手として活躍した元マンチェスターUの「サー・ボビー・チャールトン」だったのである。ボビーはアフリカでサッカーの啓蒙普及活動をしており、日本がそれをサポートしアフリカの支持を得るという意図で日本の招致活動に協力してくれていた。
通常であればパリの中心からド・ゴール空港まで45分位であろうか。ゼネストの最中なのでパリを出るまで3時間で、空港まで30分。まあ安全を見てチェックインの4時間前にホテルを出た。ところが状況のひどさは予想を越え、結局5時間以上もかかってしまった!随分色々なことを話したはずだが、彼の言葉で今も覚えているのはたったひとつだけ。「負けるかもしれないが、フェア・プレーを貫け!」であった。
恐らく飛行便も遅れているだろうという期待も空しく、息せき切ってカウンターにたどり着くと、「予約した飛行機は15分遅れで今出ました。」しかも最終便。「万事、窮す。」と思って天を仰ぐと、受け付け嬢は見かねたのか、「国内便もチェックしましょう」と言う。聞けばBritish
midlandという小さな英国国内飛行会社がパリ−ロンドン便を数便運行しており、その最終便は席に余裕はある。が、既にチェックインが終わり15分後に飛び立つという。そこで、軽装の私と違い大きなトランクを抱えてあとから追いついてきたチャールトン氏を指差し、「控えい!このお方は誰あろう、彼のボビー・チャールトン卿である。彼はどうしても今日中にロンドンに着かなければならない。今からその飛行機に乗るので止めておくように!」と指示。(私ャあ、黄門様の格さんか!)相手も了解し、「止めておくから、とにかく早く飛行機に行け!」何とかロンドン行きの最終便に乗り込んだのであった。私にとっては子どものころ「ダイヤモンド・サッカー」というTV番組等で良く語られていたあの伝説の男、「チャールトン」その人と二人きりで5時間も過ごす、・u毆)・u「箸いΔ里鰐瓦・修譴箸盡宗覆Δ弔帖砲世辰燭里・・△譴・蕕發・・鎌だ年もの月日が流れようとしている。
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